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青森の古社と言えばの猿賀神社。夏には池一面に花開く蓮の花が楽しめます。県道117号沿いに巨大な白鳥居が建っており、そこから神社までまっすぐ参道が通っています。参道沿いには猿賀山を山号に取る寺院が2つあり、どちらも津軽では珍しい天台宗寺院です。いづれも山門が豪勢で、そこに納められた仁王像・四天王像も見ごたえが有ります。今回紹介するのはその内の1つ、神宮寺です。寺号が示す通り、もともとは猿賀神社の別当をつとめていました。さらに遡ると猿賀十二坊の1つで東光院と称していたようです。県内の他の大霊場と違わず、猿賀の地ももともとは神仏習合の霊場であり、神宮寺はその時の歴史を今に伝えているのです。2025.9.21猿賀山 長命院 神宮寺紅白のカラーリングが目を惹く山門が境内の入口です。・・・何でしょうかこの大わらじは!よく真言宗の古刹で山門に懸けてあるイメージがあります。実際に福島県会津地方のころり三観音の巡礼では、ほとんどの札所がそうなっていました。今回は最初に由緒を見てしまいましょう。猿賀山 長命院 神宮寺天台宗 通称「猿賀の仁王サマ」の名で知られているのがこの神宮寺。寺の前身は東光院であったが、神仏分離後の明治26年(1893年)に「神宮寺」と名を改めて現在に及んでいる。前身の東光院は猿賀十二坊の1つであったが、現在残っている寺院は蓮乗院とこの神宮寺の2つだけ。しかも両院は猿賀神社参道沿いに向かい合って建っている。 寺門の仁王金剛力士は高さ2.5mに、朱塗りの木彫りでその豪気な表情はいかにも仏法を守る門番にふさわしい風格を持っている(昭和48年、町文化財第二号に指定)。天保年間(1830~1843年)弘前鍛冶町の秋田家安五郎の作で往時の神宮寺のものを現在地に移したといわれる。以前は仁王山門の入り口に大きなワラジが掛けられていたが、現在は取り除かれ、金剛力士にあやかって口でかんで投げつけた紙のツブテも仁王を腐食させるおそれがあるとして今では禁止されている。 津軽二代信枚の元和9年(1623年)以来、十五石の知行を受けてきたが、明治に入り神仏分離によって一時荒廃、昭和2年(1927年)に先代の柏城道忍和尚が復興に努力し、間口8m、奥行き24mの霊拝堂を建立、正面に釈迦如来・高祖天台大師・宗祖仁教大師を安置し、両側に檀徒の仏壇を並べた本堂式霊拝堂を完成させた。 さらに29年には現住職の池田道勝氏(善明和尚)は増築を図り既設の本壇と向かい合わせに白壁作りの拝壇を構築、本尊釈迦如来の両側に高さ2m余の薄紫色の布をまとった舞楽天女を配し白亜殿と呼んでいる。この増築によって霊拝堂は奥行きが46mに拡張され、荘厳華麗な極楽浄土のたたずまいとなった。 本尊霊には大日如来をはじめ千手観音・文殊・普賢菩薩など十二支の守り本尊が安置されている。往時百石の知行を与えられて隆盛を極めた猿賀神社別当職長命院神宮寺も明治の神仏分離によって数多くの仏像や財産を四散して廃寺となったが、名を継いだ現在の神宮寺には、名残として猿賀神社にかけられた「深沙大王」の額、津軽為信から寄進された梵鐘の一部(猿賀山御宝前寄進、大施奥州津軽惣領主藤原朝臣右京大夫為信と刻まれている)それに津軽九代家親から寄進された大般若経などが保存されており、神仏混交から分離に至る仏教興亡の歴史を物語っているようだ。つがるのお寺さん 上巻 200.201ページ より引用これだけでは前身の神宮寺の由緒が良く分からないので、こちらの由緒も見てみましょう。 猿賀山 長命院 神宮寺は青森県平川市猿賀石林に境内を構えている天台宗の寺院です。神宮寺の創建は不詳ですが古くから猿賀神社の別当となっていた為、猿賀神社と同じ様な由緒を持っています。 伝承によると延暦年間(781~805年)坂上田村麻呂が東夷東征の際、古くから祭られていた上毛野君田道命に戦勝祈願したところ見事念願成就、感謝の意と桓武天皇の勅令により堂宇を造営し深沙大権現を安置したのが始まりと伝えられます。 猿賀神社は神仏交合し別当だった神宮寺は国家守護の祈願寺、天台密教の拠点として寺運も隆盛し、治承2年(1178年)には奥州平泉の藤原秀衛が庇護し社領5千石を安堵されました。歴代領主にも庇護され北畠顕家、安部師季、安部教季がそれぞれ堂宇の修復や寺領の安堵が行われました。 天正14年(1586年)当時の領主 津軽初代為信が再興し祈願所としましたが、南部家との対立もあり猿賀神社十二坊が破却、神宮寺の僧侶を追放し天台宗から曹洞宗に改宗させられ、別当も最勝院が務めるようになります。 弘前藩(藩庁:弘前城)津軽二代信枚は津軽家の安泰を図る為、幕府の重鎮である天海大僧正に師事した事で再び天台宗に改宗し津軽天台四山(報恩寺・薬王院・神宮寺・袋宮寺)を定め、更に弘前城築城に際に四神相応の思想から東方に位置する青龍の守護神として猿賀神社が位置づけられた事から、四山である神宮寺が元和6年(1619年)に再度猿賀神社の別当に復権し寺領100石を安堵されます。 明治時代初頭に発令された神仏分離令により猿賀神社となり、支院の中で寺院として残された東光院と蓮乗院のうち東光院が神宮寺の名跡を継ぎ現在に至っています。 青森県歴史観光案内所 / 神宮寺 より引用古くから猿賀神社と共にあった古刹のようで、当地を納めた歴代の実力者から庇護を受けていた様ですね。津軽氏が津軽一統を成し遂げる前は南部家とのつながりが強かったようで、一統後、為信によって真っ先に住職が追放されております。曹洞宗に改修された期間もあったようですが、天台宗推しの津軽二代信枚によってもとの天台宗へと戻されています。神仏分離によって大打撃を受けながらも、塔頭に寺籍が遷されて今日まで存続しているようです。山門をくぐると、横長の御堂が間口を開いています。こちらが神宮寺の本堂となります。入口には山寺号が刻まれた扁額が懸かっています。本堂手前の祠は地蔵堂でした。懸かっている掛軸などから、祀られているのは延命地蔵尊だと思われます。津軽では相当に根強く信仰されていますよね。本堂隣にも入口がありました。今回はここからお参りしたいと思います。風除室の扉を開けるとあらビックリ、そこには8体の仏像が並んでいました。これはおそらく生まれ年守り本尊でしょう。津軽では一代様とも呼ばれ、こちらも根強い信仰がみられます。僕は丑年の生まれなので、丑寅守り本尊の虚空蔵菩薩が守り本尊に該当します。そして気になる仏像も見つけました。頭に宝珠をのせ、その脇には双角、顔は完全に鬼ですね。一体何の仏像なのかと首をかしげていると、近くに木札が立ててあります。そこには元三大師と書かれていました。角大師としても有名な十八代天台座主 良源のことです。この姿で疫病神を追いはらったという伝説があり、よくお札の方は見ますが、このように鬼の様な姿の像になっているのは初めて見ました。こちらの入口からは位牌堂に行けるんですが、ここにも両側に祭壇が置かれてあります。こっちは白壁に天女風の菩薩が刻まれ、中央には釈迦如来が座していました。近くで見てみましょう。丸い光背を背負い、どっしりと蓮華に座しているのは本当に荘厳です。両脇の菩薩は美しい音色を奏で、釈迦の来迎を祝います。反対には阿弥陀如来が座します。両側には双龍!上には天女とかなり豪華な祭壇ですね!いよいよ本堂の方を見てみましょう。祭壇中央には本尊の不動明王。その脇には2体の童子、更に外側には仁王像が控えます。中央の不動明王の前には沢山の御幣と神鏡。まさに神仏習合といった風情です。右側にはなんとオシラ様。奥には何かが納められた厨子が見えますねぇ。猿賀神社関連の寺院にはいづれもオシラ様が置かれており、民間からの崇敬も篤かったものと思われます。それにしても冠に錦の着物とは、かなり豪華に着飾っていますね。そして一番驚いたのが陽炎の神格化である摩利支天が祀られていることです。摩利支天が信仰されたのは、一説には中世にまで遡れるそうで、民間に広まったのは江戸時代中期。結構古い信仰ですよね。津軽の寺院で摩利支天を祀っているのは初めて見ましたが、いかにも羅刹といった風情の多面多臂の姿は、古来大陸で生まれた頃の姿を思わせ、非常にエモいです。斜めから。津軽の天台宗寺院において、当寺院は中核的な存在です。かつて岩木山 百沢寺も天台宗の時があったと言われ、津軽の地でももともとは天台宗、特に本山派修験の台頭があったのではと思われます。猿賀の地の古い信仰の在り方を今でも残す寺院でした。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年10月31日
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煙の様に濃い霧が山形の峰々を覆い隠していました。三連休の中日だというのに、どこもかしこもこんな感じです。幽遠な・森厳なという表現がピッタリな景色が眼前に広がっています。後ろに見える山の頂には、行基菩薩が開創したと伝わる古刹、若松寺が境内を構えているんです。2025.9.13最上三十三観音霊場一番札所:鈴立山 若松寺狭い山道を車で登っていきます。山上の境内までは車道が通っているので、車で参拝出来ちゃいます。駐車場も広く、車でも安心。登り口の所にはかつての参道が門を開いており、山伏の方はこちらから入山できます。駐車場に車を停めて境内に進むと、まず見えてくるのが地蔵堂です。堂内は錦の垂れ幕などで装飾されているんですが、両側に面白い絵馬が懸かっていますよね。近くで見てみるとおっぱいの形をしていました。おそらく安産祈願や子供の健やかな成長を祈るための物ではないでしょうか。おまけにこんな銅像も置かれています。お乳さまと呼ばれているようですよ。奥の方に進むと、若松寺の本坊が見えてきました。札所となっているのは、この堂宇から更に上の方にある観音堂です。観音堂には如法堂とあります。ここは祈願所にもなっているらしく、堂内中央には金剛界大日如来が祀られています。本坊で御朱印を書き入れしてもらい、次は札所の観音堂を目指します。道中立派な聖観音の銅像を見ることができました。少々道をそれたところに鐘楼堂が置かれています。麓の集落にも楽々音色が届きそうなほどに大きな撞鐘です。霧がなければ集落を一望できたでしょうね。再び参道に戻ります。道の脇には地蔵尊の石仏がまとめて置かれてありました。反対側には鎮守の社か、福満稲荷社が鎮座していました。そしていよいよ見えてきました、観音堂です。霧煙る杉林を背景に、創建から千有余年を経た大古刹が腰を下ろしていました。観音堂には同じ意味の”圓通閣”と刻まれた扁額が懸かっていました。それではご由緒です。鈴立山 若松寺天台宗開山:行基菩薩中興:慈覚大師(円仁)本尊:若松観音(聖観音)行基菩薩自ら一刀三礼の則で刻んだ等身大の聖観世音を本尊とする 鈴立山 若松寺の由来は、今を去る事1300年前、和銅元年(708年)に元明天皇の勅命によって東国巡錫の途にあった行基菩薩が、鈴の音に導かれ登山し、山上に光り輝く三十三観音像を感得したことから開山したという。 御本尊は行基菩薩が自ら刻んだ等身大の聖観世音。しかし、行基菩薩が他見を禁じられたため水久の秘仏となっている。 開山後150年、平安時代には、弘法大師空海や慈覚大師円仁の登山により、同山は一大仏教霊地に発展した。また、鎌倉期には、当時山形の政治・文化の中心を担った藤原真網一族が熱心な信者となり、弘長3年(1263年)に二世安楽を願って、今日最高傑作とされる金銅聖観音像懸仏を奉納した。さらに、江戸初期には山形の大名・最上義光が寺領230万を寄進し、徳川三代将軍家光がそれを安堵した。本堂は東北では数少ない五間五面単層入母屋造の御堂 観音堂は、昭和38年(1963年)に重要文化財に指定。お堂は、ブナ材を主とした五間五面単層入母屋造の御堂で、東北地方の数少ない密教本堂の遺跡例とされる。堂内の内陣には、金銅聖観音像懸仏と板絵著色神馬図の重要文化財2点を安置する。 若松寺の境内には、室町期の香り漂う重厚な観音堂を中心に、祈願所・元三大師堂・地蔵堂・鐘楼堂などの堂宇が点在する。同寺は、どの季節に参詣に訪れても、神秘的な雰囲気包まれている。まさに、1300年来の祈願・回向の総道場の威厳に満ち、最上三十三観音霊場の一番札所にふさわしい霊場である。 行基は、朝廷の禁を破り民衆に仏教の教えを説き、困窮者のために様々な慈善事業を行った名僧。その御作とされる御本尊・三十三観音像の御利益は、良縁成就,心願成就で大いに崇敬を集める。やまがた出羽百観音 札所めぐり 山形札所めぐり編集室著 16.17ページ より引用行基開創の古刹 若松寺は、元は立山寺の山頂付近にあり、円仁によってこの地に移されたという説もありますが、真相はどうなんでしょう。宝珠山 立石寺も、若松寺も天台宗の古刹であり、そういった点では繋がりがありますよね。それぞれ交流があっても不思議ではありません。そういう交流の中から生まれたエピソードなんではないでしょうか。文化財についての説明書きも併せて見てみましょう。若松寺の文化財国指定重要文化財若松寺観音堂昭和三十八年七月一日指定桁行五間、梁間五間、一重・入母屋造、銅板葺 寺の草創については明らかでないが、寺伝によれば、行基によって開基され、のちに島愛大師によって山頂から現在地に移された。 現在の堂の建立時期は、様式手法からみて、室町時代末と考えられる。のち、慶長16年(1611年)山形城主最上義光によって大修理が行われた。その後も小規模な修理が行われたが、昭和41年から43年にかけて全面解体修理が行われた。 室町時代末の建築様式や技法を知る貴重な文化財である。国指定重要文化財板絵著色神馬図昭和四十三年四月二十五日指定 横板五板をはぎ合せて奉納額に仕立て、黒烏帽子に白の着衣の舎人が神馬を牽いている図を着色して描いた絵馬である。 左上に筆者 郷目右京進貞繁奉納の銘が墨書されてある。 永禄6年(1563年)に、寒河江の大江氏の家臣である貞繁が亡くなった妻のために奉納したものである。神馬の躍動する筆力からの非凡な才を知ることができる。(163.0㎝、横182.5㎝)国指定重要文化財金銅聖観音像懸仏昭和25年8月29日指定 懸仏は、円板の中央に仏像を取り付けて寺院又は神社の壁に懸け置くもので、御正体ともいわれる。 この懸仏は、直径76㎝の銅製円板形の中央に聖観音の全像を取り付けたもので、光背は頭光・身光を備えている。 弘長3年(1263年)に成生荘の藤原真綱らが奉納した。山形県指定有形文化納札及び巡礼札(十枚)昭和30年8月1日指定 室町後期の延徳4年(1492年)から永禄6年(1563年)にわたって若松寺に納められた。いずれも木製で長さ64㎝、幅10.6㎝を最大とし、長さ40㎝、幅9㎝を最小とする。文字は、陰刻し札の上部に種子(観音)もしくは日輪・月輪を、その下に納札の事由を記す。十枚中七枚は西国三十三観音巡礼を果して納めたものである。中世の庶民の宗教生活を物語る資料である。天童市指定有形文化財:木造行基菩薩坐像昭和59年3月19日指定天童市指定有形文化財:木造文殊菩薩坐像昭和59年3月19日指定天童市指定有形文化財:木造不動明王立像昭和59年3月19日指定天童市指定有形文化財:木造狛犬(一対)昭和59年3月19日指定昭和61年3月1日 天童市教育委員会これら文化財は公式サイトにてご覧になれます。説明書きから懸仏の写真を抜き出してみました。13世紀にこれほどまでに完成度の高い懸仏が作られていたとは・・・。最初は神社の御神体である神鏡に仏の姿を刻み込んで”御正体”と呼んでいましたが、それが後に懸仏へと発展しました。観音堂の脇には元三大師堂が置かれています。堂内には十三仏?と共に豪華な厨子が置かれており、おそらくその中に角大師の尊像が収められているんではないでしょうか。観音堂の右脇から更に上へと登っていけるんですが、この道沿いに幾つもの小祠が置かれています。これは最上三十三観音霊場の写し霊場なんです。この道の奥には何があるんでしょうか、行ってみます。道の突き当りには弁財天堂が置かれていました。これは若松寺の奥之院と呼ばれており、何かしらの由緒があるものと思われます(詳細不明)。斜めから。若松寺に限らず、山形県は非常に山岳寺院が多い地域だと思いました。なんせ山形県だけで百名山があるくらい山が多い土地なんですから、それも当然でしょうか。峰々には修験僧が入り込み、庵寺を建て、それが後に山岳寺院に発展していった・・・というストーリーが考えられますよねぇ。雨霧に濡れた観音堂を眺めつつ、かつて峰々を伝い歩いたいにしえの修験僧達の姿を思い浮かべていました。御詠歌かかるよに うまれあふみわかまつや おいにもたのめ とこゑひとこゑ本尊:若松観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・若松寺 JAKUSHOJI以上です。
2025年10月30日
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夏の日差しが三陸の海岸を彩る頃、気仙沼唐桑半島の付け根に鎮座する早馬神社に参拝してきました。名前からして競馬好きが願掛けで訪れていそうな神社ですが、特に馬と関連した社ではないようです。境内には風鈴が幾つも吊るしてあり、うだるような暑さをやわらげてくれました。早馬神社(はやまじんじゃ)奥の林にある境内めがけて、真っすぐに参道が伸びています。この、山の麓に社殿があって、少し手前に鳥居がある、という構図はいかにも山岳信仰と関連がありそうな感じがしませんか?参道の突き当り、二之鳥居の近くには草原駆ける野馬の大絵馬が飾ってあります。石段を登りますと、参道を風鈴が飾り、夏真っ盛りという風情が感じられます。チリリンチリンと涼し気な音が頭上を飛び交うだけでなんだか嬉しくなってきてしまいます手水も覗いてみましょうか。いやはやなんとも、水に色とりどりの花々が浮かぶのは風情があっていいですねぇほんとの意味で花があります。社殿に到着。近くには夏詣での幟旗が立っています。最近知ったんですが、夏詣でとは全国的に行われている取り組みらしいんですよ。各県の各神社ごとに対応が異なるんですが、限定の御朱印が発行されたり、記念品がついて来たりします。ここ早馬神社でも、御朱印には夏詣での判が捺されていました。夏詣での詳細については、下記のリンクからどうぞ!・新しい日本の風習 夏詣ご由緒です。早馬神社御祭神:倉稲魂命例祭日:9月19日神幸船祭:10月第一日曜日由緒 建保5年(1217年)、鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の宮司であった梶原専光坊僧正景實(かじわらかげざね・梶原景時公の兄)は、正治元年(1199年)の源頼朝公の死亡、これを追うかのような梶原景時一族の没落、又、和田・畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷千島を目指して下り、その途中の当町石浜に辿りつきそこを切り開き住む。 居宅の脇に一廟を建て、源頼朝公(鎌倉幕府初代将軍)、梶原景時公(源頼朝公第一の家臣)、梶原景李公(景時公の子)の御影を安置し、一族の冥福を祈り菩提を弔う為、梶原神社を崇め奉る。 建保7年(1219年)一族の梶原三郎兵衛尉景茂の子である第二代大和守景水は景實僧正の後を慕いこの地に至り景實の猶子となる。景水は神職となり、早馬大権現別当として早馬山頂に社殿(奥宮)を建立する。山号は早馬山、寺号を漢曼寺と称す。 正慶元年(1332年)、第五代大和守慶永の時、紀州熊野本宮より本地佛 阿弥陀薬師観音を勧請し社殿を新たに建立。以後、奥宮・里宮合わせ数度の建て替えが行われる。 本山派修験 良厳院累世 社務を掌り現宮司で三十三代目となる。 仙台藩時代には伊達家の祈祷師として仕え九曜紋を授かる。 明治、神仏分離令により早馬大権現より現社号に改め現在に至る。例祭・神幸祭には、神輿渡御、船祭り、献膳祭、打囃子、稚児行列が執り行われる。・奥宮:早馬山頂(漁火パーク徒步15分)・兼務社:八雲神社(越路 天王山頂)・境内社:不動尊神社、金刀比羅神社、天照皇大神、若木神社、祖霊社鎌倉御家人 梶原景時公の兄である梶原景實によって開創された神社みたいです。その後梶原景水によって早馬山山頂に奥宮が築かれるんですが、これが何と仏閣(別当)の形で建立されたものだそうで、当初は早馬山を山号に取り、漢曼寺という寺号を用いていた様です。14世紀には熊野本宮社より本地仏が勧請されたとあり、非常に栄えた霊場なんではないでしょうか。因みに熊野大社と所縁がある事からも分かる通り、本山派修験の勢力も入ってきており、神仏分離まで早馬大権現を主祭神としていたようです。ちょっと引っかかるのが、この”早馬(はやま)”という名前です。隣の山形県には、かつて湯殿山のかわりに出羽三山に数えられていた葉山という修験の山があります。別当は寒河江の慈恩寺でしたが16世紀に別当職を降りたため、葉山の霊場は急速に衰退したようです。現在は往時の姿と比べると見る影もありませんが、東北ではたまに葉山神社と号する社があったり、境内の小祠として祀られる例もいくつか見てきました。と言う事で、早馬神社も葉山神社と関係があった霊場なんではと思っているんですが、そうした記述はみられません。非常に気になります。早馬神社は阿弥陀薬師観音?という謎の仏尊を本地としています。これはもしかすると阿弥陀・薬師・観音と言うふうに三尊を奉斎していたということかもしれないんですが、詳細は不明。もしそうなら熊野三山の本地と対応しており、熊野修験の影響が強かった可能性があります。扁額の方は早馬大権現となっていますねぇ。修験時代の方が長いため、こちらの方が本来の名称なんでしょうがねぇ。代わりに社殿内には社号額があります。非常に面白い書体です。境内社も見てみましょう。拝殿左手に建つこの社殿は不動尊神社、不動明王を祀る社です。明らかに神仏混淆の時の名残りでしょうねぇ、これは!不動尊神社の裏手には、ひっそりともう1社建っています。扁額には祖霊社とあります。地域の英霊を祀っているんでしょう。少々高いところに他の末社があります階段を登り切った所には金刀比羅神社が鎮座していました。こちらも権現姿の神像があったりと何かと修験と関りの深い宗旨ですよね。祭神は大物主神・崇徳天皇の2柱です。その隣には天照皇大神社があります。祭神は天照大神。もう1つ、石の小祠として若木神社が鎮座しています。祭神は若木大神です。この神格は神道の何の神格に該当するのかは不明なんですが、疱瘡守護・病気平癒などの神徳があてがわれているので、牛頭天王とか、なんかそんな感じの神格なのかもしれません(ふんわり)。ぼちぼち駐車場に戻っていると、立派な馬の像を見つけました。神馬像かと思って近づいてみると、撫で牛ならぬ撫で馬と書かれています。神社名にのっとったものでしょうねぇ!斜めから。夏詣で中の参拝ということで、随所に夏を感じられる飾りがしてあって、凉をとることができました。三陸地域には、こうしたもともと修験の霊場だった神社がいくつかあるんですが、それは三陸の入り組んだ海岸線、風光明媚な松林などが織りなす独特の雰囲気が、修験僧の心を引いたからではないでしょうか。僕自身この土地には心を奪われており、これからも定期的に訪れたいところなんです。絶景に絶景が重なった東北の海岸線は、今も昔も人々の心を惹きつけます。ひと段落が付いたところで、ふと道路の方を眺めてみると、遠くに形の整った小山が2座あります。右は天王山、左は早馬山です。この早馬山の山頂には、今でも奥宮があるらしいので、これから行ってみたいと思います。里宮から車で十数分、漁火パークに車を停め、遥かにそびえる早馬山を臨みます。ここからの景色は最高で、天気が良ければ遥か向こうの金華山まで見渡せるほどです。この写真にもうっすらと島影が写っていますよ!山道を進んでいると鳥居発見。どんどん山に入っていきます。道は段々と草に被われてきますが、良く管理されており、藪漕ぎしなければいけないところはありませんでした。おっ、着きました、奥宮です。社の両側に行燈と樹が植えられており、由緒ある神社といった風情です。扁額は金縁の豪華なもの。社が再建される以前に使われていたであろう仏塔もありました。まだまだ奥まで行けそうです。この先にあるのは山頂でしょう。草をかき分け進んでいくと展望台に到着。ここが早馬山の山頂です。中央には方位針。こうした造詣はかなり好みです。良く晴れた夕暮れなので、かなり遠くまで見渡せました。遠くにはなだらかな山容の氷上山。陸前高田のシンボルです。明日は陸前高田からスタートして、最後は北上して八戸まで戻ろうと思います。300kmを越える道行を想像すると少しげんなりしますが、この絶景が見られたならば不満もありません。夏の三陸は最高、それだけが真理です今回貰った御朱印です。武将印:梶原景時公早馬神社の御朱印(直書き)公式サイトへのリンクです。・早馬神社以上です。
2025年10月29日
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良く晴れた日、夏真っ盛りの三陸地方を巡礼。奥州・三陸・岩手三十三観音霊場の各札所を詣でることができました。強い日差しにうだりつつも、陽光が照りかえって輝く三陸の海は美しく、見ているだけで心躍りますリアス海岸の入江沿いに広がる大船渡の街に着いたのは午後2時頃、気仙沼や陸前高田を巡り、へとへとになりながら北上、中心地を抜けて北側の入江突端、蛸ノ浦という漁港に辿りつきました。名前の通り、蛸が足を伸ばしたかのように海岸線は複雑です。漁港の近くには今回の札所の別当 大善院の末裔の方の御宅があり、そこで御朱印をいただけます。別当宅からも蛸ノ浦漁港が良く見え、寝起きの度に大善院が尾崎神社の方を向いて拝んでいる姿を妄想していました。2025.7.13奥州三十三観音霊場二十八番札所:尾崎神社 大善院(蛸浦観音堂)漁港に停車してフラフラと鳥居の方に歩いていきます。石鳥居の先にはじゃりけんどの参道が伸びており、その先に境内が広がっています。参道は大杉と行燈によって飾られており、雰囲気ばっちり!入母屋の社殿が見えてきましたね。これが尾崎神社 里宮の拝殿です。昭和39年の建立で、山頂の奥宮と対になっています。深い山の頂にあった尾崎神社、参拝者の便をはかり建立されたのが現在の拝殿。元の社は奥宮として存続することになります。拝殿の壁面に御由緒が載っていました。※由緒は岩手県神社庁のもの。内容は殆ど同じです。尾崎神社祭神:稲倉魂神、海津見神※元は式内社理訓許段明神を祀るという配祀神:須佐之男神、照摩神(?)、琴平神(金刀比羅大神) 創立は人皇五十代桓武天皇の御宇 延暦2年(783年)。 神名帳に曰く、気仙郡三座、理訓許段神社・登奈孝志神社・衣太手神社、五十五代文徳帝が仁寿2年(852年)8月辛丑陸奥国衣多家、神理訓許段神並に授従五位下。人皇百七代後水尾天皇の御代、寛永2年(1625年)類焼に罹り古文書・宝物悉く焼失。 養和元年(1181年)鎮守府将軍 藤原秀衡が二百石を社領とす。その後天正(1573年)の変に至るまで葛西氏これを附すという。 当社は元気仙総鎮守にして旧藩祖先正宗公より以降代々巡国の時社参あり、別て尊崇他に比なし。延暦2年(783年)に創建された古社で、延喜式神名帳にも記載があるようです(比定社となっています)。由緒書きの類が寛永2年(1625年)の火災の際に焼失しており、詳しい由緒は不明みたいですね。奥州藤原氏・葛西氏・伊達氏の庇護を受け、現在まで存続してきました。別当は山伏 大善院。神仏習合時代の様子を今に伝えます。この神社ではアイヌの祭具”イナウ”が社宝として現存しているみたいです。先の東北大震災の時にも失われず、犠牲者供養の時に初の御開帳を果たしました。下の記事に写真が載っています。・1200年前から伝わるアイヌの秘宝 犠牲者供養で初の開帳【岩手・大船渡発】尾崎神社は理訓許段神社(りくこたじんじゃ)の比定社なんですが、この”理訓許段”というのはアイヌ語で解釈すると”高いところにある集落”となるみたいです。それ故かアイヌと結びつけられている節があります。ここ以外にも東北の地名はアイヌ語で解釈できるものが多いとされますが、その信憑性は必ずしも高いわけではありません(津軽の内真部のようにそうとしか思えないものもありますが・・・)。少々気になったのは1200年を経てなお、イナウの削られた樹皮の細い部分が切れずに残っていることです。木製品の一番もろい部分がそれほど長く壊れずにいれるでしょうか。また、たとえ本物のイナウであったとしても、それが作られたのはいつなのかという問題があります。由緒書きにある通り寛永2年(1625年)の火災により、宝物は全焼しております。それを考えるとイナウが奉納されたのは「理訓許段=アイヌ語由来地名」という解釈が生まれた、おそらく明治期~昭和初期ころなんではないでしょうか。”りくこたの神”は蝦夷・アイヌの古い神格というこのイメージにあわせて近代に奉納されたものなんではと、個人的には思っています。もう1つ気になるのが、たとえ火災を免れ、1200年前のイナウが残っていたとして、はたしてその頃アイヌという民族は成立していたんでしょうか、さらにイナウを使用していたんでしょうか。現在のアイヌがイナウを使用しているからといって、アイヌ成立のその時からイナウを使用していたという保証はないですよね。これらの理由から、1200年前のイナウというのには否定的にならざるを得ません。もしかすると木幣の可能性もあるんですよね。アイヌに限らず山伏たちは木製の幣を使用する場合もありました。青森県弘前市の 鷹揚山 不動寺、東通村の桑原村観音堂には紙ではなく木で作られた幣が現存しており、実際に拝観する事も可能です。ただ、アイヌの方が実際にイナウだと認めている事、保管箱に稲穂(イナフか)と書かれている事などから、本物のイナウなんではと思います。扁額です。樹々に囲まれた静かな境内に鎮座する尾崎神社でした。次は奥州三十三観音霊場の札所、蛸浦観音堂を見てみましょう。尾崎神社の社殿を正面にした時、右側に宝形造の観音堂が置かれています。これが札所の蛸浦観音堂(大善院とも言うのか?)です。ご由緒です。尾崎神社 大善院(蛸浦観音堂)修験宗本尊:蛸浦観音(千手観音) 入り組んだ海岸線が美しい三陸海岸の大船渡湾の東岸、尾崎岬の北側に二十八番札所大善院、別名蛸浦観音堂がある。JR大船渡線の終点盛駅から県道を7kmほど行ったところにバス停「下蛸ノ浦」があり、そこから約100m先の一段高い所に別当 崎山家がある。 崎山家は大善院の末裔で、開創以来代々世襲。ご詠歌に「花をさきやまの」とあり、観音様と別当家との間に深い縁を感じさせるがその関連は何も伝えられてはいない。 観音堂は崎山家から歩いて5.6分、尾崎山の北麓の海に面したところにあり、尾崎神社の拝殿と同じ境内に立っている。 波打ち際の鳥居をくぐって25段の石段を上ったところに前庭があり、正面が尾崎神社の拝殿、そしてその右前に観音堂がある。 三間(5.4m)四面に三尺(90cm)の濡れ縁をめぐらした御堂の内部は、内陣と外陣に仕切られている。建立の年代は明らかではないが、修験僧の祈祷が行われた面影が残っている。 御本尊千手観世音菩薩は、像高60cmの立像で、蓮台に立ち、厨子に納められて安置されている。多少の損傷と金箔の剥離が見られ、かなり古いものと考えられるが、作者も年代も明らかではない。ただ「小向の佐々木家が奉納したもの」とだけ伝えられている。 観音堂の由緒についてもあまり知られていないが、仙台藩の儒者田辺希文の封内風土記や相原友直の気仙風土草、気仙沼補陀寺八世智膏和尚らの札所再興巡礼の時の記録といった文献を総合すると次のようになる。 名取老女旭が奥州に三十三所の札所を設定する旅の途中、この山に祀られた尾崎神社の霊気を感得し、二十八番札所を設けたのであろう。 昔は神仏習合だったため、大善院は尾崎神社と観音堂を併せて護持してきたと考えられる。 ・・・。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 124~127ページ より引用正面には古めかしい鰐口が懸かっています。一応堂内に入って拝めるようですので、内部も見てみましょう。祭壇中央の厨子に本尊:蛸浦観音、それを囲うように仏像・神像がいろいろと置かれています。最も気になるのが本尊の前に立つこの木像。おそらく仏像というよりは神像だと思うんですが・・・。特徴的な形の頭部ですが、これはおそらく角髪(みずら)ではないでしょうか?そうなると聖徳太子像か?とも思ったんですが、手の形が合いません。いろいろと考えた結果、天照皇大神の権現型 雨宝童子像ではないかという結論に至りました。観音堂となりの神明堂が物置となっており、そこから移されたんではないでしょうか、知らんけど。そして本尊:蛸浦観音です。細かいところに錆が目立ちますが、光背は今でも燦然と輝いていました。いつ頃に造られたものなんでしょうかねぇ?斜めから。大善院が置かれた経緯も気になります。神社と仏堂が並び立つ配置は、奥州三十三観音霊場では少なくありません。多くの場合寺院の鎮守として置かれていますが、一部は本地垂迹の関係にあるものも。個人的には尾崎神社もこの例に倣ったものでは無いかと思っています。つまり理訓許段明神の本地仏として蛸浦観音(千手観音)が置かれたのではないかと言う事です。まぁ、根拠は特にないんですがね。そうだったら面白いな程度の話です。普通に神社の別当仏堂として置かれたとみるのが妥当でしょうか?いろいろと謎の多い霊場でした。次は尾崎神社の奥宮を見てみましょう。奥宮を目指して観音堂を出ると、右側に幾つもの石仏を見つけました。合掌印が多いですねぇ。白衣観音にも見えます。石仏の隣には先ほど出てきた神明堂。今は物置になっています。ではでは奥宮に行ってみましょう。奥宮までの参道には赤鳥居が建っています。奥の赤崎神社脇を縫うように道が続いています。少し登ると小さな祠が置かれていました。祭神不明で、垂れ幕に書かれた波に九曜の紋が何の神格を表しているのかが気になります。奥宮参道には注連縄が懸かっています。2本の棒に注連縄が結ばれるのは鳥居の原型とも言われていますが、なんだかそれに似ていますねぇ。参道は完全に山道ですが、そこまで険しい道ではありません。おそらく尾根に出ましたね。角度は緩く非常に登りやすいですよ。またもや祠です。中は空ですが、以前は何かしら祀られていたんでしょうね。祠を過ぎると遠くからガサゴソと茂みが動いたような音がたまに聞こえてきます。この異音は奥宮に着くまで続きました。低山だと侮っており熊対策は特にしていなかったため、非常に怖かったんですが、最後に音の正体を知る事が出来ました。奥宮鳥居直前のこの辺りで、草むらからタヌキ程度の大きさの動物が飛び出してきました。走り去る姿を眺めてみると、足先に蹄が付いています。ただ小鹿ではなく、おそらくそのまま成体です。・・・キョンです、キョンがいたんです。しかも1匹ではありません。数匹の群れを成していました。ついに東北の北の方まで進出してきたんですね・・・。外来種がはびこっています。無事奥宮に到着です。新しめの鳥居が建ちます。鳥居脇には狛犬も。阿形!吽形!奥宮から眺める海も本当にきれいだったんですが、そこまで見晴らしが良いわけではありません。境内には神輿舎?と・・・なぜか鐘楼があります。遠慮なく撞いてきました。そして奥宮社殿です。衾は破れていますが、社殿自体は割と新しい建物です。鐘楼付きの奥宮は、なんとも神仏習合思想や修験との関りを感じさせて非常に面白い尾崎神社がどの様な歴史を歩んできたのかが伝わって来ます。キョンに悩まされながらも無事下山できました。車に乗り込む前に振り返ってみると、尾崎山が海に張り出して堂々と立っております。修験と混ざり合った、古い信仰の姿を残す稀有な霊場がそこにはありました。御詠歌ときわかぬ 波にも花を崎山の 大慈大悲の 誓いとぞ見るときはかね なみにもはなをさきやまの だいじだいひの ちかいとぞみる本尊:蛸浦観音(千手観音) सहस्रभुज今回貰った御朱印です。御崎神社の御朱印蛸浦観音堂の御朱印以上です。
2025年10月26日
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今回紹介する札所は面白い山号を担いでいます。巌鬼山とは岩木山の峰の1つと同じ名前です。もしや巌木山 西方寺 観音院の後裔か?とも思ったんですが、調べてみると関係は無いみたいです。当寺院は津軽では珍しい天台宗寺院と言う事で、その由緒も気になりますよねぇ。そして今は本殿しか残っていない弘前東照宮の別当として知られている寺院でもあります。津軽八十八霊場六十番札所:巌鬼山 叡平寺 薬王院住宅街の一角に山門が置かれています。この山門の横に気になる標柱を見つけました。山門右手の標柱にはなんと赤倉山大権現と刻まれています。西方寺とは関係ありませんでしたが、赤倉山信仰で有名な巌鬼山とは関連があるみたいです。岩木山の峰の1つ巌木山は、近代興った赤倉山信仰の根本霊地として有名です。鬼神にも似た山神風の姿をした赤倉山大権現を奉斎するこの信仰は、津軽各地に広まり、赤倉山を山号に取る寺院や赤倉山神社として各地に勢力を伸ばしました。この寺院もその1つだった可能性があります。境内には2つの祠。右は地蔵尊、左は稲荷大神を祀ります。その隣には歴代住職の供養碑?が置かれています。境内の奥には本堂。左手前には松前十三代徳広の供養塔が置かれていますが、これは没地がここ薬王院であったことに由来します。この様に木彫装飾も素晴らしいです。御堂前の聖観音は青空によく映えます。山号額です巌の山冠が偏に移動しており、面白い字になっていますね。ご由緒です。巌鬼山 叡平寺 薬王院天台宗 比叡山延暦寺末寺開山:本祐法印開基:津軽二代信枚公本尊:薬師如来 巌鬼山 叡平寺 薬王院は寛永元年(1624年)津軽二代信枚公の創立した天台宗の寺院である。元和元年(1617年)4月、東照大権現 徳川家康が没するや信枚はその翌年に弘前城の天守閣のそばに祠を建立して家康公の霊をまつりこれを舘神としたが、寛永元年城外の東方の地の茂森町に移し、新たに東照大権現社堂(現在の弘前東照宮)を造営した。同時に別当寺院として薬王院を建てたのである。そして大阿闍梨本祐法印を開山に迎え寺領200石を与え、社僧の千手院・成就院・寿福院・教王院・延命院・観教院の6坊を建立、15石づつを与え、信枚は上野寛永寺の天海僧正に師事してその教えをうけ天台宗を信仰していたので、薬王院もはじめは上野寛永寺の末寺であった。しかしのちにこの寺は取りこわされ再建の上、京都(※滋賀か?)延暦寺の末寺となった。 薬王院の記録によれば、承応3年(1654年)津軽三代信義が再興し、のちに元禄9年(1696年)津軽四代信政が修復しており、また天保5年(1834年)には九代寧親社殿堂宇を再建、薬王院に自分の木像を寄進するなど歴代におよんで保護を加えている。 薬王院五世怒覚法印は学識が高く、藩主信政が深く帰依したといい、また十三世覚範法印と寧親も密接な関係があったので寧親がその木像に書状をそえて寄付したというこの木像、薬王院が取りこわされたさい新寺町報恩寺におあずけとなった。 しかし明治3年(1870年)の神仏仕分けによって寺禄が廃され、薬王院の建物はいったん取りこわされてしまったが、明治10年(1877年)に再興した。 寧親の書状は次の通り・・・「当家開きてより以来代々に至り始めて侍従任じ10万石高直しこれあり候事先祖に対し規模与え申し子々孫々まで威光蒙るの段きつきようは*方儀丹誠ぬきんでて武運を祈り候の故に候。これによって此段宮殿***我肖像を安置致しにつき其方の像も我像の前に侍座申しつける也。三月 右京大夫 薬王院え」 これでみると覚範という僧はよほどの御気に入りであったと思われる。また津軽氏は代々曹洞宗であったが、信政は天台宗を信仰したのでその代に新寺町報恩寺・猿賀の神宮寺や熊野宮の袋宮寺など、いわゆる「天台四山」をつくり天台宗の寺院とし構築されたのであります。薬王院二十七世道隆境内説明書き より引用津軽二代信枚公によって建立された寺院だったんですね。開創当時は弘前東照宮と共に6つの僧坊を持つなど、境内も大分広かったようです。この説明書きにも赤倉山信仰との関連は記載されていません。非常に気になるんですが!というか巌鬼山 西方寺 観音院は天台宗寺院だったなんて話を聞いたことがありますが、津軽二代信枚公がかつての名刹の名を転用して、東照宮の別当として再建したなんて捉え方もできそうです。本当の所は良く分からないんですが、そうであって欲しいところ。因みに日光東照宮の別当 日光山 輪王寺も天台宗。それになぞらえて当寺院が建立されたのは言うまでもないでしょう。堂内天井には迫力の龍神画!この作風、弘法寺のアート展で見た事があるような・・・。堂内中央には本尊の薬師如来像が鎮座しています。光背に刻まれた種子が面白いです。斜めからも見てみましょう。かなり大きな座像であることが分かります。左隣は護摩壇のようになっており、正面には不動明王が控えます。なぜかこけしもお供に。堂内の襖絵もなかなかに趣あります。獅子四面図。最後にもう一度本尊。近くで見ると黒漆が塗られた木像の様に見えますがどうなんでしょうか。朗らかな表情と荘厳な光背とのコントラストが素晴らしいです!斜めから。巌木山の山号を持つ弘前茂森の寺院薬王院。津軽の天台宗の中でも中心的な寺院であり、津弘前城の舘神 東照権現社の別当として創建されました。今でも東照宮と薬王院は共に近く、当時の境内の雰囲気が見えてくるようでもあります。東照宮の方は最近までは拝殿などもあったらしいんですが、土地の運用ミスで売却されてしまったようです。弘前市が買い戻すも、拝殿は救えず、今は本殿がポツンと残るだけです。朱塗りの本殿は岩木山神社や奥照神社のようで、非常に津軽らしい社殿といえるでしょう。時の流れを実感できる、そんな霊場です。御詠歌ひにつきに やくしかんのんねんずれば げんぜあんのん ごしょうごくらく本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु以前貰った御朱印です。以上です。
2025年10月24日
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信州善光寺、日本最古の仏像を祀るとする一大古刹です。開創からゆうに千数百年、それだけ長い時を経ると災害から戦災まで様々な苦難を迎えるものです。善光寺が鎮座するのは長野市。近くには往古よりの古戦場 川中島があります。川中島と言うと長尾景虎と武田晴信が激突した川中島の戦いが有名ですが、今回紹介する札所は、その際に信濃国から甲斐国に戦火を逃れるため、武田晴信が遷して成立した寺院です。甲斐百八霊場一番札所:定額山 浄智院 善光寺山梨県の山側を走る県道6号。甲府市の東から韮崎市までを結ぶ主要道路です。ここを走っているとふと左側に特徴的な造形の大伽藍が見えてきます。これが甲斐善光寺、山門から堂宇の形まで再現されており(似てはいますが完全に同じではない)、善光寺へのかなりの崇敬が感じられます。市街地にこのような立派な山門がどんと建っているのは、なかなかに壮観です。信州善光寺と同じく、山門には山号額が懸かります。山門をくぐると、甲府の山々と共に巨大な御堂が見えています。御堂まで伸びる参道脇にはお土産屋があり、そこでは山梨名物 信玄餅を味わうことができますよ!御堂の前まで来ました。信州善光寺と同じで御堂の前には巨大な香炉が置いてあります。ここからの風景も本当にそっくりです。まずは周辺の堂宇から見ていきましょう。香炉の側には地蔵堂が鎮座。御堂の周辺には地蔵尊の石仏が幾つも置いてあります。またその隣には庭園があり、奥の方には小祠なども見えます。清水を湛えた庭園故、おそらく何かしらの水神を祀っているものと思われます。庭園の松はキレイに整えられ、不思議な趣が感じられるので気がほぐれます。庭園内には松尾芭蕉月影碑?が置かれています。これ、公式サイトなどにも記述がなく、詳細は分かりません。信州善光寺の方には芭蕉も訪れているようなので、それに因んだものでしょうか。その時詠んだ句というものが本当に良く、↓に載せたいと思います。月影や 四門四宗も 只一つ松尾芭蕉庭園の横には阿弥陀如来?の大きな銅像が置かれています。何かしらの供養塔でしょうか。次は御堂の右側を見てみましょう。こちらには鎮守か末社か、王子稲荷社があります。側の幟に荼枳尼天とあることから、おそらく神仏分離前は荼枳尼天堂だった可能性もあります。祠はこんな感じ。小さくとも秀逸な建築です。素の側には鐘楼堂が置かれています。この鐘楼堂の銅鐘は”善光寺銅鐘”と呼ばれ、山梨県指定有形文化財に指定されています。もとは信州善光寺にて実際に使われていたもので、治承3年(1179年)・文永4年(1267年)など火災の度に修復されてきたようです。鐘楼堂の近くには宝物庫?があり、中には阿弥陀如来像が収められているみたいです。説明書きを見てみましょう。重要文化財木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側)・木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫左側)明治39年9月6日指定 保存庫内の左右に対置された二組六躰の阿弥陀三尊像は、いずれも内刳のある桧材寄木造りの漆箔像で、作風から両者に多少の相違はあるが、淨土思想が興隆にむかう藤原中・末期の造顕と推定される。 これらは甲斐の国主浅野長政が甲府在城中(1593~1600年)この寺の本堂荘厳のため、右側は元宮地村(現韮崎市)大仏堂・左側は元千塚村(現甲府市)光増寺から動坐したもので、法量は両中尊とも約1.4m、脇侍はそれぞれ右方1.54m・左方1.04m前後である。 藤原末~鎌倉初期の願成寺(韮崎市)阿弥陀三尊像とともに、かっての甲斐源氏の信仰を思わせる名作といえる。昭和56年3月1日山梨県教育委員会 甲府市教育委員会何という古仏でしょうか!説明書きを読んだとき目を丸くしてしまいました。2組の内1組は、現在宝物館にてご覧になれます(公式サイトでもご覧になれます)。いよいよ本堂です。この特徴的な御堂、当に善光寺。撞木造という構造らしいです。信州のものと比べるといささか小振りですが、それでも県内1.2を争う大堂に変わりありません。余りにも素晴らしい外観なので何枚でも撮ってしまいます。正面からの眺めが特に好きですねぇ赤みがかったカラーリングも武田氏っぽくて良いですねぇ!現在の本堂(金堂)は山門と共に寛政8年(1796年)に再建されたもの。信玄公が建立した金堂・山門は宝暦4年(1754年)の火災にて焼失してしまいました。本堂の3つある蟇股には、それぞれ龍がのたくっています。これは中央。左側、口を大きく開き、噛みついてきそうな迫力があります。右側、カッと目を開き睨みつけています。何れも迫力が半端ないですよ。それではご由緒です。定額山 浄智院 善光寺浄土宗開山:定額山善光寺大本願三十七世 鏡空上人開基:甲斐武田十六代晴信本尊:善光寺如来 当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558年)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長3年(1598年)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。 江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。また、重要文化財5件・県指定文化財4件、市指定文化財8件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物館等で公開しております。甲斐善光寺 / 甲斐善光寺の歴史 より引用甲斐武田十六代晴信公が信州善光寺から寺宝共々奉遷して成立した浄土宗の名刹でした。信州善光寺本尊がそのまま本尊になっていたんですが、武田氏滅亡後は諸大名のもとを転々としながらも、最終的には信州善光寺へと戻されています。本尊を失った甲斐善光寺では、代わりに御前仏を本尊として、現在も存続しているようです。この御前仏も相当な古仏。造像はなんと建久6年(1195年)、尾張の僧定尊により建立されました。一光三尊の形式であり、かつ等身大の大像ということで、かなり見ごたえが有るんではないでしょうか。直近の御開帳は令和4年。・・・見て見たかったですよ、これは一応公式サイトの方で姿だけは拝めるようです。金堂は信州善光寺のものを模しているんですが、暗闇の中を歩き錠前を探すという構造も再現されています。後から知ったんですが、この暗闇の道は”心”の字の形になっているそうで、どうりでグネグネと入り組んでいるわけです。かすかな明かりさえない暗闇で、錠前を掴みガチャガチャと鳴らせた時の快感は得も言われません。信州善光寺と異なる点もあります。甲斐善光寺には堂内天井に鳴き龍があるのです。立つ位置も示してあるので、参拝時は是非お試しください。公式サイトで天井画を見ることも出来ますよそれ以外にも、堂内・宝物館にて信州善光寺由来の文化財を多数見ることができるので、そちらの方もお楽しみください斜めから。斜めから。斜めから。余りに素晴らしいお堂だったので、様々な角度から何枚も撮ってしまいました。甲斐に再現された古刹 善光寺は、信州のものと比べると参道に賑わいはありませんが、境内・堂宇・文化財は引けを取りません。それら貴重な文化財を眺めるとき、善光寺とはいったいどれほどの人々から崇敬されているのか、そんな思いが心に浮かぶのです。御詠歌?本尊:善光寺如来 अमिताभ आर्यावलोकितेश्वर महास्थामप्राप्त今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・甲斐善光寺以上です。
2025年10月23日
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金木町川倉のすぐ北、大沢内という小さな部落があります。18世紀に開墾されて生まれたこの村には、津軽八十八霊場の最後の札所であり、始まりの地でもある観音堂が置かれているんです。津軽八十八霊場八十八番札所①:大沢内観音堂大溜池沿いの国道339号から脇道にそれて集落の方に向かっていくと、坂道の途中に古めかしい小堂が置かれています。これが今回紹介する札所の大沢内観音堂です。観音堂とは言いますが、御堂に懸かる扁額には弘法大師と刻まれています。もしかすると弘法大師堂だった期間もあるのかもしれません。堂内はこんな感じ。正面の祭壇にはいろいろと祀ってありますが、まずは由緒を見てみましょう。・・・と行きたいところですが由緒は不明です。1965年発刊の中里町誌には少なくとも記載はありません。ネット上の断片的な情報を繋ぎ合わせると次のように言えるかもしれません。参考にしたサイトWIKI油川 / 青森四国八十八ヶ所霊場ニッポンの霊場 / 津軽八十八ヶ所霊場大沢内観音堂無宗派(善光寺津軽教?)開山・開基:不明本尊:不明 中里町大沢内地区にある観音堂。開山・開創ともに不明で、いつ頃建立されたのかもわかりませんが、津軽八十八霊場を開創した田中チヨはこの庵主の母であったようです。津軽八十八霊場の開創は大正時代末~昭和初期とのことなので、1920~1940年頃には既にこの地に境内を構えていた可能性があります。 サイトによっては、無宗派ではなく善光寺津軽教という宗派だと記載しているものもあります。これはおそらく講中のようなもので、この辺りの住民が集団で善光寺に参拝していたことを表しているんではないでしょうか。御朱印を見てみても印の中央には善光寺とあり、さらに堂内には善光寺本尊の御前仏と同じ形式の一光三尊形式の阿弥陀三尊像が置かれているなど、なにかと善光寺との関りが伺えます。堂内右手に置かれている卒塔婆には、”善光寺講中各家先祖代々”と書かれてあり、この説を後押ししている様にも思えますが、実際のところ確かなことは分かりません。 他にも生まれ年守り本尊やオシラ様、四国八十八霊場の写し霊場など、幅広い信仰の形体を見せるのも面白いです。このような多様さは修験の僧坊などによく見られる特徴だと個人的には思います。堂内のオシラ様は、かつては津軽一円で幅広く祀られていたもので、各家毎にオシラ様を持っていたとも伝わります。オシラ様と深く関わるのはイタコであり、大沢内のすぐ南にはイタコの霊場 川倉賽の河原があり、何らかの関連はありそうです。 札所本尊となっているのは、祭壇中央に置かれた聖観音。像容から阿弥陀如来の脇侍像だったのではないかと思います。札所本尊になっていると言う事は何かしらの謂れがあるんだと思うんですが、それを知る術はありません。 平成初期に出された津軽八十八霊場のガイドブックには既に記載されておらず、代わりにやすらぎ観音堂が八十八番札所となっています。そのことからも大沢内観音堂は初期の八十八番札所だったものと思われます。田中チヨ尼を慕い集まった八十八霊場の巡礼者は、この大沢内観音堂から出発し、津軽一円の札所をまわった後、再びこの観音堂に戻り来て結願を迎える・・・という情景が浮かんできます。堂内はこんな感じです。垂れ幕の奥に様々な仏像が祀られていますねぇ!左側にはオシラ様と共にご婦人のポートレイトが置かれています。おそらくこの方が田中チヨ尼なのではないでしょうか。祭壇の中央には、1つの光背の中に阿弥陀三尊が収まった一光三尊という形式の像が収められています。これは善光寺本尊の御前仏の形式として有名です。その隣には聖観音・聖観音座像・白衣観音?の像がそれぞれ祀ってあります。写真左の聖観音像が札所本尊となります。祭壇上部には生まれ年守り本尊が置かれています。右上から左に・・・・子:千手観音・丑寅:虚空蔵菩薩・卯:文殊菩薩・辰巳:普賢菩薩・午:勢至菩薩・未申:大日如来・酉:不動明王・戌亥:阿弥陀如来の順で置かれています。津軽では生まれ年守り本尊は一代様と呼ばれ、自分の干支の年に守り年本尊へと詣でる風習が根強く残っています。御堂の裏手には四国八十八ヶ所霊場の写し霊場が広がっています。この様に風化してしまっているものもあれば・・・いまだに素晴らしい像容のものもあります。斜めから。いろいろと謎に包まれた観音堂でしたが、おそらく津軽八十八霊場始まりの地ということにして紹介したいと思います。小庵ではありますが、中に祀られている仏像群は本当に面白いものが多く、近代に当地ではどのような信仰があったのかを如実に表していると思います。札所の1つとして、是非ご参拝ください御詠歌しなのなる みひかりあまねくみちのくに くどくをわかつ つきかげのさと札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर 今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・八十八番札所②:やすらぎ観音堂 五所川原の街内にある小さな観音堂
2025年10月22日
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古い町割りのそのままに、多くの曹洞宗寺院がひしめき合う禅輪街。赤門の奥の通りのそのまた奥に今回の札所が境内を構えています。津軽八十八霊場五十五番札所:白花山 常源寺寺と寺の間に山門が建っています。門の先には白壁が印象的な御堂が見えていますね。奥に進むと津軽三十三観音霊場の写しの石仏が置かれていました。ここは二十四番に対応しているみたいです。横長の本堂。青い空を背景にして、雲の様に白いお堂がひっそりと建っています。ご由緒です。白花山 常源寺曹洞宗 長福山耕春院(現在の耕春山宗徳寺)末寺開基:和徳讃岐守 または 津軽初代為信 とも本尊:釈迦三尊 石坂洋次郎氏の小説にたびたび登場する常源寺坂はこの寺の横を通る坂。市民に古くから親しまれている呼び名だ。 白花山 常源寺といい、藩政時代は三十一石二斗の寺領を与えられていた。耕春院(今の宗徳寺)の末寺で、以前は恵林寺と天津院がわき寺として門内にあった。 永禄6年(1563年)三ッ目内村、金竜寺の末寺として和徳村に勧請、金竜寺没落後、堀越の耕春院に属し、慶長16年(1611年)に茂森三十三ヵ寺に加わった。 開基には2説ある。和徳城主和徳讃岐守が祖先をまつるために建てたという説と、藩祖為信の実父武田紀伊守守信が永禄4年(1561年)に、南部桜庭の戦いで戦死しているが、その菩提を弔うために建てたという説。 明治43年から4年間の年月を費やし、東北でも例を見ない櫓作りの壮厳な大伽藍造り、また、昭和11年には豪華な位牌堂を建立したが、13年に火災に遭い、代々伝わる紀伊守画像などともに焼失してしまった。 藩士の墓にまじり、津軽塗の始祖池田源兵衛の墓がある。池田家は、代々漆器を業としていた。 津軽四代信政は、工業振興を図る藩政を行い、源兵衛は信政お抱えの塗師として三十俵二人扶持の緑で召し抱えられていた。塗師頭となった源兵衛は、貞享2年(1685年)、藩命により青海波の創始者として有名な、江戸の青海太郎左衛門に入門したが、翌3年、江戸神田鷹匠町で死亡した。40歲前後だったという。 津軽塗の始祖と仰がれるようになったのは、赤、青、黄の色漆を塗り、それをと石でみがいたところ、きれいな模様が現れた。それを唐塗と称し、後世津軽塗として伝わることになったもの。 源兵衛の子源太郎は、父の遺言に従い、23歳のとき青海家に入門、10年間の修業を終えて帰国、父が始めた唐塗を広めるとともに、青海波という技法を津軽に伝えた。だが、現在その墓は訪れる人もなく、無縁仏としてひっそりしている。つがるのお寺さん 上巻 6.7ページ より引用津軽初代為信が自身の父を供養するために建立したのか、それとも和徳讃岐守が先祖供養の為に建立したのか・・・。どちらなのか非常に気になりますね。ただ火災によって紀伊守(武田守信、為信の父)画像が焼失していることから、前者が正しいのかもしれません。真相は不明。そして盛雲院に続いて、こちらももともとは大鰐金竜寺の末寺だったようです。禅輪街の寺院の中にもまだまだ末寺だった寺がありそうです。本当に大きな寺院だったんですねぇ。山号額は金縁の豪華なもの。斜めから。由緒の真偽が本当に気になる寺院でした。やはり古刹はどうしても歴史が長いせいか由緒が不明になっている所も少なくありません。今回の札所もそんな古刹の1つでした。うーん、気になる・・・!御詠歌のりをきき まよいのゆめのさめぬれば はなやまこそは じょうどなるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十六番札所:貴峰山 月峰院 火災逃れし十一面観音像
2025年10月21日
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甲斐市の北方には昇仙峡という日本でも有数の景勝地が広がっています。神秘的な滝、仙人が住まうかのような尖峰など、名前の通りの風景が楽しめます。昇仙峡において有名なのが弥三郎岳。周囲の峰々と共に羅漢寺山とも呼ばれますが、それはかつて境内に羅漢寺と言う修験寺があったことに由来します。そして今回見ていくのはその羅漢寺。かつての境内とは異なる所にありますが、今でも羅漢寺山の麓にあるのです。甲斐百八霊場六十四番札所:天台山 羅漢寺昇仙峡を貫く県道7号から少々外れたところに羅漢寺はあります。土産物屋 一休を横目に坂を下っていくと、大岩をぶち抜いたかのようなトンネルが見えてきます。ここを道なりに進んでいくと羅漢寺に到着です。因みに先ほどの一休が羅漢寺の朱印所となっています。狭い道路沿いに吊り橋が懸かっており、その先が羅漢寺境内です。吊り橋手前の道沿いに若干の駐車スペースがあるので、一応そこにも停められそうです。吊り橋の下の渓流は勢いすさまじく、まさに阿修羅の流れといったところでしょうか。橋を渡り切ると古めかしい石段が続いています。道の脇には聖観音の石像が置かれていますが、羅漢寺の本尊も聖観音、何か関連がありそうです。程なく本堂も見えてきました。というか本堂の右側には墓地もあり、観光寺院としてではなく、普通にこの辺りの寺院として機能しているみたいですね。山号の天台山から檀家を持てない祈祷寺を連想しがちですが、実は羅漢寺は曹洞宗です。紅葉に囲まれて、中くらいの御堂が建っています。これが羅漢寺本堂です。境内の説明書きを見てみましょう。天台山 羅漢寺曹洞宗 妙亀山廣巌院末寺開山:有金僧都(12世紀後半~13世紀前半?) または 俊屋桂彦和尚(1521~1528年) とも開基:源頼朝?本尊:阿弥陀如来羅漢寺縁起 当寺は、開基800余年を経ており、かつて羅漢寺山の中腹にあり、花崗岩に数多くの末よる雄大な渓谷美のなか、北山筋の高野山と称され、往時は数多くの末寺を持つ真言宗の名利でした。 羅漢峰と呼ばれる峰々は頂上に天狗与三郎現権を祀り原始的山岳信仰と仏教の密教的要素が混じりあった修験道の世界として有名になっていったと思われる。 羅漢寺山を三岳と号し、一の岳に阿弥陀、二の岳に釈迦、三の岳に薬師をまつる少堂を建て、山全体が修行の場であったと伝えられている。 昇仙峡という神秘的な立地にある羅漢寺は、その拠点となる修験道場であり、 いくつかの堂の跡は現在も残っていたが慶安4年(1651年)の火災で焼失し、現在の地に移ったと言われている。旧寺院跡は現在の地より北西1kmほど山間に進んだ急峻な谷間に位置し、本堂も庫裏も立派な建物であったことが跡からも推測できます。 人里隔てた深山幽僻は、中国の仙嶺天台山に似ていることから天台山羅漢寺を山号として現在に至った。開創はつまびらかではないが、古い位牌(1200年頃)に「権大納言征夷大将軍清和源頼朝入道神儀」とあり、開基としています。 「甲斐国社記・寺記」によれば、創建年代は不明ですが、開祖は天台座主有金僧都、大永年中(1520年頃)に俊屋桂彦和尚が中興開山として曹洞宗に改めたとしています。 当寺は山中で田園が無い事から、武田信玄より托鉢することを許されて印鑑の頭陀枡を与えられ、人々も羅漢頭陀と称して施す者が多くあり、特別の檀徒を持たず多くの人の信仰と土地の住民に支えられて来た。現在は、羅漢寺檀家による手厚い信仰により、羅漢寺及び五百羅漢像の保存が成されている。 当寺に安置されている五百羅漢は、日本最古の木造の羅漢像ですべて一本造りで、当初は彩色が施されており、弘法大師(775~835年)の作と伝えられています。羅漢寺の隆盛時には、三ヶ所に安置されていましたが、火災や台風の出水、老朽により、現在は154体が羅漢堂に奉安されている。 この説明書きによると、開創は12世紀後半~13世紀前半で、開基が源頼朝となっています。開山は頼朝の孫である天台座主有金僧都・・・。これに関しては真偽の別が付けられませんが、五百羅漢像の銘文から15世紀前半頃には仏閣として成立していた可能性があります。更に山岳信仰としては、それ以前に既に成立していた可能性も有るみたいです。詳しくは甲斐市のサイトをご覧ください。・甲斐市 / 旧羅漢寺の遺構説明書きには、かつての羅漢寺山山中の様子が載っています。左端に2つの御堂から成る羅漢寺を確認できますねぇ!その右側には複数の峰々があり、右上に弥三郎岳があります。こうしてみると本当に大きな霊場だったんですねぇ。扁額です。力強い文字で山号が刻まれています。本堂斜め向かいに置かれた近代的な造りの御堂は羅漢堂。この中に本尊である阿弥陀如来と羅漢像が収められています。堂内はこんな感じです。中央、本尊の阿弥陀如来は寄木造で大きさは70cm程。銘文には応永30年(1423年)とあり、少なくとも600年を経た古仏であることが分かります。羅漢像も同様、応永31年(1424年)銘があり、どちらも大変古く貴重なことから同じく県の有形文化財です。斜めから。かつては甲斐金峰山に関連した修験道場として開創された羅漢寺ですが、17世紀ごろの災害などにより寺勢は衰弱。真言宗の道場も曹洞宗寺院に変化し存続します。かつての霊場の名残りとして、室町時代に作物された阿弥陀如来・羅漢像が現存し、当地の歴史を示す重要な遺物となっています。昇仙峡の景色を楽しみつつ、こちらにも是非足をお運びください!御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ今回貰った御朱印です。以上です。
2025年10月21日
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東北地方で山岳寺院というと、山形県の山寺こと宝珠山 立石寺が最も有名なんではないでしょうか。小振りの山の中に様々な堂宇・僧坊が立ち並び、一大霊場を形作ります。そんな寺院は2つと無い、そう思っていた時期が僕にもありました。今回紹介する無夷山 箟峯寺は、箟岳山の山頂に根本堂宇となる観音堂をいただき、それを中心に十数の僧坊が今でも立ち並んでいるという正真正銘の山岳寺院です。涌谷町の北東に奥州を代表するような仏法世界が広がります。2025.8.7奥州三十三観音霊場九番札所:無夷山 箟峯寺 観音堂山頂付近の駐車場に車を停め、遥かに伸びる石段を見上げます。ここが箟岳山の信仰の中心地、奥に観音堂が控えています。参道から少々外れたところに小さな御堂が建っています。内部には恐らく薬師如来と思われる仏像が収められていました。薬壺を持つ手はしっかりしていますが、印を結んでいる方の手は傾いてしまっています。左右に並ぶ小像は数からしておそらく十二神将でしょう。薬師如来の眷属として有名です。再び参道に戻ると、枝葉に隠れて見えずらいですが山門が有るようです。それもかなり大きく立派な門です。参道左脇に小祠が置かれています。祭神は不明ながらも、祠内に白い狐の置物が置かれているため、稲荷大神に類する何らかの神格が祀られていることでしょう。山門手前を右に曲がれば当山の鎮守 白山大権現(菊理媛神)を祀る社が置かれています。当霊場開創時に加賀の白山比咩神社から勧請され、本尊の箟岳観音(十一面観音)の垂迹とされています。白山信仰と天台密教とが結びつき、作物の神として崇敬を受けているそうです。この社の例祭、白山祭は宮城県無形民俗文化財に指定されており、面白い点としては僧侶によって祭祀が行われるという点があります。これはモロに神仏習合の形を残しており、古式を留めたまま数百年続いたというのは全国的にも珍しいそうです。正月25日の稚児による流鏑馬が祭祀の中心であり、12本の矢によってその年の天候と豊作具合が占われます。5年前のものですが、白山祭の動画を見つけましたので載せたいと思います。・YouTube / North-East Japan VideoStories / 涌谷町箟峯寺/御弓神事「無形民俗文化財」-箟岳・白山祭- 2020/01/26白山社の隣には古めかしい石碑が残っています。碑面には”古跡箟ノ宮権現”と刻まれていますね。権現という表記には、当山が如何に神仏習合の様相を呈していたかが表れているかのようです。隣にもう1つ小さな石碑が置かれています。この石碑は坂上田村麿にまつわる箟岳山の山名由来譚を伝えるものです。近くの説明書きを引用してみます。箟宮碑 坂上田村麻呂将軍東征のおり、この地に鏑矢を突き刺し「東夷再び蜂起せずんば枝葉を生ぜよ」と祈念したところ、不思議にも根・葉を生じたので、ここを箟藪という。箟は矢竹の意味で、箟岳の地名はこれから出た。石碑右下隅に「無夷山ト號ス」と刻まれており、蝦夷との戦いに勝利したことを表している。確かに碑面にはその通り刻まれています。当地の歴史に関連する石碑でした。それでは山門に戻りましょう。近くで見ると本当に大きく感じます。天保13年(1842年)に焼失した後、その20年後に再建され現在に至ります。この山門に納められた仁王像はとても個性的で、なんとしかめっ面をしていません。そのため”微笑み仁王”とも称されているとか・・・。仁王像:阿形!仁王像:吽形!宮城県伊具郡丸森の法橋雲竜安高の作となるこの仁王像は、火災の翌年・天保14年に奉納されました。数百年の時を経た仏像となります。山門を抜けると杉の巨木と霧とに包まれた、巨大な御堂が姿を現しました。これが名にし負う無夷山 箟峯寺の観音堂です。山中にこのような規模の御堂が置かれているのは、なんとも面白く趣がありますね。霧がかった境内も相まって、山岳寺院の何たるかを存分に味わうことができましたよぉ!観音堂は宮城県指定有形文化財に指定されています。ご由緒です。無夷山 箟峯寺天台宗開山:大伴駿河麻呂本尊:箟岳観音(十一面観音) JR石巻線涌谷駅の北東約6kmに位置する算岳山は標高236m。山というより仙台平野の真ん中にこんもり盛り上がった丘といった印象。四方に展望が開けているため、乱世の時代には戦略的要地として領有をめぐる争奪戦が繰り広げられていたという。 この崑岳山の頂上に第九番札所の箟峯寺箟岳観音が鎮座する。松島町大仰寺の富山観音、石巻市梅渓寺の牧山観音とともに奥州三観音とされる。古来よりこの三観音を3年続けて詣でると必ず望みが叶えられるといわれ、巡拝する人が増え続けている。 箟岳山は信仰の山で、その中にある観音堂、白山社、山王堂、そして祭祀を司る衆徒十六坊を総称して箟峯寺という。 箟峯寺へは涌谷駅から車で15分ほどで門前に着く。95段の石段を上ったところに山門、その右手に白山社があり、さらに20段上るとそこが頂上で観音堂の前庭。樹齢900年を超える老杉が奏でる静寂、まさに千年の歴史の重みがそこにある。 箟峯寺は宝亀元年(770年)開創の古刹で、大伴駿河麻呂の奥州平定の折、加賀の国より白山権現を勧請し、光仁・垣武・平城三帝の奥州鎮護勅願所とされたことに始まる。一度は平定された奥州の蝦夷が延暦20年(801年)に再び蜂起、討伐を命じられた坂上田村麻呂は連戦連勝し、この白山権現の社前で勝ちどきを上げたという。大同2年(807年)に坂上田村麻呂は敵味方の戦死者を葬って一宇を建立し、京都清水寺より十一面観世音菩薩を御本尊として勧請し、箟岳観音とした。 次いで嘉祥2年(849年)に慈覚大師が奥州巡錫の折に立ち寄り、堂宇を増築し、弟子の尊常を住持させ、無夷山箟峯寺尊常住院と改めて天台宗の寺となった。その後勅願寺として栄え、殺生禁断、女人禁制の浄地として結界を定めた。 南北朝時代に最も栄え、明治維新前までは衆徒二十四坊の自治組織で運営される別世界で、いかなる罪人でも大門から一歩足を踏み入れれば、藩の役人も捕らえることができなかった。 御本尊の十一面観世音菩薩は、高さ一尺一寸(36cm)の閻浮壇金立像で33年に一度開帳される秘仏。平成20年が御開帳の年であり多くの人出があった。次回は西暦2041年に行われる。 堂塔はしばしば火災によって焼失し、現在の観音堂は嘉永4年(1851年)に再建されたもので、八間(14.4m)四面に欄干のある濡れ縁をめぐらせた、奥州札所の中でも最も規模の大きな御堂である。外陣正面には「奥州鎮護」と刻した縦1.7m、横1mの巨大な扁額が掲げられ、堂内には独特の風格と尊厳が漂っている。 筧峯寺では年間を通じてさまざまな祭事が行われるが、圧巻は白山社の正月行事「やぶさめ」。一年の作況を占って放たれる矢に人々は一喜一憂、宮城県民俗無形文化財に指定されている。また、7月第二土曜日には、火の祭典として崑岳山採燈大護摩供養が催され除災招福諸願成就が祈願される。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 48~51ページ より引用堂内中央には大きな厨子があり、その中に本尊の十一面観音像が収められているものと思われます。御前立は十一面観音の木像で、ガイドブックとは異なりますがこちらも随分と古そうです。左右に脇侍として毘沙門天と不動明王が配されるのは、おそらく何らかの曼荼羅に則してのことでしょう。真言宗寺院では見た事がありますが、天台宗寺院でこの配置を見たのはここが初めてです。観音堂の側には天台宗と言えばの”一隅を照らす”の石碑。観音堂の背後には面白そうな石碑や堂宇が置かれています。まずは側面の鐘楼堂から。嘉永・明治と数度再建されており、現在の堂も最近建てられたものだとか。吊るしてある梵鐘も令和になってから鋳造したものだそうです。以前使用していた梵鐘は”寛文の鐘”と呼ばれており、350年もの間親しまれた名鐘です。現在は境内の御堂に保管されています。鐘楼堂の隣には山王堂。嘉祥年中(848~851年)に慈覚大師によって勧請されたとの謂れを持ちます。祀るのは比叡山に居わす山王権現。天台宗総本山 比叡山 延暦寺の鎮守です。それに倣って天台宗の寺院では鎮守堂に山王権現を祀る例が多いです。またその隣には地蔵堂。寛保3年(1743年)の建立です。堂内には宝珠地蔵と呼ばれるタイプの地蔵尊像が置かれていました。このタイプの地蔵尊は錫杖は持たず、両手で受け止めるように宝珠のみを持物としています。観音堂裏手に向かいますと、古めかしい石碑が2基建っています。右は南無阿弥陀仏の名号碑で、正徳年間(1711~1716年)の建立。中央は義啓の顕彰碑。天保13年(1842年)、炎に包まれる観音堂から本尊を運び出した人物です。左は堅者法印雄淳大和尚の供養碑です。奥州三十三観音霊場八番札所とも縁深い零羊崎神社にも同じ碑が建っているそうです。石碑の近く、宝形造のこの御堂には寛文の鐘が収められています。内部にはこの様にどっしりとした鐘が吊るしてあります。寛文の鐘は涌谷伊達二代宗重公が奉納する予定だったんですが、奉納前の寛文11年(1671年)3月に江戸藩邸にて惨殺されてしまいます。代わりに息子の涌谷伊達三代宗元公が、供養の意味も込めて奉納しました。寛文の鐘の近くには、天台宗を興した中国隋の僧、天台大師の石像が置かれています。少々境内の奥に進むと、坂上田村麻呂の千回忌を期して建立された石碑が建っています。文化7年(1810年)の建立で、零羊崎神社にも同じ碑が有るようです。境内最奥には杉の巨木が繁ります。太郎から四郎まで4本の巨木が並んでおり、写真のものは四郎杉です。健康の鐘と呼ばれる小さな鐘の脇には太郎杉が立っています。ここからは丁度麓を見渡すことが出来るんですが、今時期だと枝葉で見えないかもしれません。なにか説明書きもありましたよ。「おくのほそ道」展望台 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も、また旅人なり」の名文で始まる。 「おくのほそ道」の筆者、松尾芭蕉が「松島の月まず心にかかりて」と愛弟子曽良を供に連れ江戸を旅立ったのは芭蕉48歳の元禄2年(1689年)旧3月27日でした。 仙台から塩釜、松島、石巻を経て平泉を通り岩出山から鳴子を過ぎて、山形県の尾花沢のコースを歩いています。ここ箟岳山はその塩釜、松島から鳴子まで芭蕉の師弟のたどった道を望まれる絶景の地です。 さらに、ここは源義経が牛若丸と名乗っていた幼時、京都鞍馬山から平泉に逃れて来たとき通った北上川の土手と、頼朝の追手をのがれて出羽国(山形)から古川附近を通って平泉まで弁慶を供にして歩いたコースも一望できます。菅原薫昭和53年5月吉日 涌谷町涌谷町観光協会 建立これがその眺望です。木々に加えて雨霧が濃く、うっすらとしか見えません。ただ見えずとも、歴史の大道はそこにあるのです。かの源義経が歩いたその道が。いかがでしたでしょうか、かなり規模の大きな霊場でしたね。東北にひしめく天台宗の古刹の一角なれば、参拝時の感動も一入、とても楽しめました。予定では16年後の2041年に御開帳が有るようですが、そちらも逃さず見たいところ。その時までこの趣味を楽しみ続けたいもんです。御詠歌智恵の矢に 射る箟竹の節込めて 大慈大悲の 月も弓張ちえのやに いるののたけのふしこめて だいじだいひの つきもゆみはり本尊:箟岳観音(十一面観音) एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年10月20日
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宮城県との県境、岩手県南部の花泉町。ここには奥州三十三観音霊場の札所が幾つかまとまって置かれています。今回紹介する新山観音堂もその1つ。町はずれの林の中にひっそりと鎮座する様は、なんとも趣深く美しいもんです。林へと伸びるくさ原の道を踏みしめます。2025.8.6奥州三十三観音霊場十九番札所:新山観音堂林の手前まで来ると行燈が建っています。ここが境内への入口です。林に入るとまもなく御堂が見えてきました。林の中に建つは新山観音堂。大きさは神社によくある摂社の祠くらいでしょうか。一間半四面の堂に宝形屋根がかぶさっただけの簡素な造りですが、そのご由緒はかなり面白いです。ご由緒です。新山観音堂無宗派本尊:十一面観音 十九番札所も十八番と同様、寺名のない在家別当の観音堂である。JR東北本線花泉駅から北へ約3kmに位置し、道路脇の「十九番札所新山観音堂入口」と書かれた標柱から田んぼ道を300mほど歩いた所に別当の熊谷さん宅があり、さらに山道を100m登ると、樹林の中に観音堂が見えてくる。文政年間(1818~1829年)に熊谷家二代目が建立した御堂は、一間半(2.7m)四面に三尺(90cm)の濡れ縁をめぐらした堂々たるもの。昭和63年に萱葺き屋根をトタン葺きに改造した。 御本尊の十一面観世音菩薩は像高21cm、総高36cmの一木造りの立像で江戸時代後期の作。左手には華瓶を持ち、右手は親指と人差し指を捻って垂れ下げている。温厚な顔立ちに身も心も洗われるようだ。金箔の光背と蓮台は後に補作されたもの。草創の縁起については記録がなく、よく分からないが、藩政時代は羽黒派修験法印によって祭祀が行われていた。 この観音堂には、宝暦11年(1761年)に三十番札所気仙沼補陀寺の智膏和尚らが現行の札所を定める際に納めた順礼札がある。縦59.9cm、横20.7cmの黒漆木板で、札所番と御詠歌が金泥で刻字してあり、一関市の指定文化財だ。地元では「お新山さま」 の愛称で呼ばれているこの観音堂、氏神様の神社がない土地柄のせいか、鎮守のお社的存在として崇敬されている。お祭りは11月15日に行われる。 別当の熊谷さんは住まいを仙台市に移したため、普段は不在である。連絡があれば土・日曜は出来るだけ現地に行くようにしているとのこと。御朱印は観音堂に置かれている。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 88~91ページ より引用観音堂の周囲は広場の様になっており、その端には幾つか石碑が置かれています。碑面には三日月供養塔や庚申と刻まれていました。御堂は動物除けで簡単に閉ざされていますが、開けて堂内に入ることは可能です。堂内中央には丸窓の祭壇が構えられ、おそらくその奥に本尊が収められているものと思われます。何故か隅の方にこけしが置かれていますが、なにか関係があるんでしょうか?御堂の外の説明書きには巡礼札の写真が載っています。装飾は少なくシンプルな外観ですが、札面に書かれた金泥文字はなんとも麗しい書でした。下に説明書きを載せます。一関市指定無形文化財奥州三十三所観音霊場札所納札附:古文書「奥州順礼記」1冊所有者:個人所有昭和61年3月28日指定 奥州三十三所観音霊場は、西国三十三所にならい奥州(宮城、福島、岩手)に33ヶ所の札所を定め巡礼する霊場で、その始まりは保安年間(1123年頃)とされています。 その後盛衰を経て、宝暦11年(1761年)気仙沼・補陀寺の智膏和尚により再興されました。そのうち花泉町内には、十七番 / 老松 / 観音堂・十一面観音(大祥寺)、十八番 /老松 / 六角堂・如意輪観音、十九番 / 金沢 / 新山観音堂・十一面観音、二十番 / 花泉 / 觀音堂・千手観音(德寿院)の4ヶ所があります。 再興当時に各礼所に収められたそれぞれの順礼札は、現在その多くが失われてしまい、県内でもわずかに2枚が現存するのみですが、そのうちの1枚が十九番札所である新山観音堂に納められたこの納札です。 納札は縦59.9cm、横20.7cm、厚さ0.9cmで、杉材の薄板で表裏両面に黒漆を塗り表面上部に陰刻金泥塗りで札番「十九番」と御詠歌が記されています。裏面にも銘文がありますが、磨耗により判読できません。 また、「奥州巡礼記」は、安永9年(1780年)に書き写された写本で、札所再興から2年後の宝暦13年(1763年)に作成されたものです。雨晴庵左笠の名があり、一番紹楽寺から始まり三十三番天台寺までの各札所について記されているほか、霊場創設に関わる「名取の老女」伝説が記されています。 この納札と奥州巡礼記は、奥州三十三所観音霊場が存在し、各札所に納札のあったことを裏づけるものであり、当時の信仰を知る上で貴重な資料です。平成22年2月 一関市教育委員会斜めから。小さな御堂に歴史をこれでもかと詰め込んだ、そんな札所でした。開創年代は不明ですが、由緒にある通り修験僧などにひっそりと祀られてきた、そんな霊場なんだと思います。奥州三十三観音霊場には、このような魅力的な札所が溢れているんです御詠歌法の火も とく金沢のあらかねは 大慈の山に あけくれの声のりのひも とくかなさはのあらかねは だいじのやまに あけくれのこえ本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。
2025年10月19日
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禅輪街三十三ヶ寺の内、赤門の先の通りに境内を構えるのが今回紹介する金龍山 盛雲院。金龍山というと浅草の浅草寺を連想してしまいますが、特に関連は無いそうです。この山号は大鰐にあった金竜寺に因んだもので、盛雲院のかつての本寺だったようです。創建は13世紀と古く、沢山の末寺を抱える寺院だったようですが、18世紀には無住の状態となり荒廃します。それに伴い、盛雲院も本寺を宗徳寺へと変えています。さて、盛雲院は弘前東方の乳井を本拠地とする乳井氏と関りの深い寺院だそうです。乳井というとかつて毘沙門堂として名を馳せた乳井神社が鎮座している所。一説によると、本寺院は別当である福王寺玄蕃による創建という説もあり、何とも歴史の古い古刹でしょうか。毘沙門堂本尊が運び込まれたなんて話もあり、非常に興味をそそる寺院であります。津軽八十八霊場五十四番札所:金龍山 盛雲院禅輪街の細路地が彼岸の参拝者で埋め尽くされる中、山梨出張前の弘前遠征にて参拝。御堂の脇に山門がありますが、こちらは寺務所用でしょう。御堂の前は駐車場となっています。数台は停められそうです。近代的な建材を用いた立派な本堂です。現在の本堂は昭和51年から数年がかりで建て替えられたものだそうです。先代は老朽化にて、先々代は火災(明治37年・1904年)にて役目を終えています。ご由緒です。金龍山 盛雲院曹洞宗 長福山耕春院(現在の耕春山宗徳寺)末寺開山:性山善種和尚開基:乳井美作夫婦 または 福王寺玄蕃本尊:釈迦三尊・・・。 盛雲院は元亀年間(1570~1573年)に乳井氏がいまの弘前市乳井地区に創建したとされている。本寺は大鰐町三ツ目内にあった金竜寺で、金竜寺が無くなったあと、もとの耕春院の末寺になったと伝えられている。開山は性山善種和尚で、開基は乳井美作とその夫人だ。しかし、美作が寛文2年(1662年)、夫人が正保2年(1645年)に亡くなっているので、実際には乳井美作の祖父にあたる福王寺玄蕃の創建とも考えられている。 福王寺玄蕃は、乳井毘沙門堂(現在の乳井神社)の別当の嘉承山福王寺の修験で、猿賀山深沙大権現(現在の猿賀神社)の別当も兼ねていた。単に修験僧だっただけでなく、文武両道にすぐれていたため勢力をたくわえ、やがて乳井と猿賀を領地として権力をふるった。当時の人たちが地名と寺号をとって「乳井福王寺」と呼んだという。 そのころ、大光寺城には滝本播磨守重行がおり、福王寺といつも領地争いを起こしていた。天正2年(1574年)3月、福王寺が猿賀に出向いた際、滝本は腹心の後藤五郎左衛門にその帰途を待ち伏せさせて福王寺をやみ討ちし、領地乳井、猿賀を奪い取った。 福王寺玄蕃の子の大隅は、まだ若年だったので城を追い出された。大隅は父の敵を討とうとしたが、滝本の勢力が強大だっただけに、為信に事情を訴えて大浦に身を寄せた。そして天正3年の大光寺攻めの時、大隅は大浦勢の先陣として奮戦、ついに滝本を南部に落ちのびさせた。このあと為信は、大隅に父玄善の旧領地をつがせるとともに、大光寺城の守備を任せた。 のちに大隅の子美作が、父のあとを継いでいる。美作は津軽二代藩主信枚の長女を嫁にもらったため、津軽姓を名乗ることを許され、家老としても重きをなした。こうした関係があって、盛雲院が乳井地区からいまの茂森禅林街に移る際「出来れば移りたくない」と多少ダダをこねたという。つがるのお寺さん 上巻 30.31ページ より引用津軽初代為信の津軽一統に助力した乳井大隈夫婦によって創建された寺院だったんですねぇ。個人的には福王寺(乳井)玄蕃による創建を推したいですが、そこんとこどうなんでしょう。乳井玄蕃、なかなかの人物ですねぇ現在の乳井神社と猿賀神社の別当を務めて、平賀から乳井までの広大な範囲に勢力を誇っていたとは・・・。大名の身でありながら修験僧でもあるという玄蕃は、沙門大名とも称されたみたいですよ。乳井神社の別当 福王寺の宗旨は不明ですが、猿賀神社の方は天台宗が盛んな所と言う事で、玄蕃は本山派の修験だったんではないでしょうか、知らんけど。さらに元の本寺の金竜寺についてですが、なんと後裔の寺院が現存しているみたいです。青森市の金龍寺という曹洞宗寺院がそうで、公式サイトもあるのでご由緒と共にリンクを載せておきます。金龍寺について 当山は開創が1291年・正応4年(鎌倉時代)大鰐(おおわに・大阿弥(おおあみ))三ッ目内村に創建。 時を隔てて格式高い寺院となり、1563年・永禄6年、1570年・元亀元年と次々に末寺を増やすが、無住時代が続き1725年・享保10年、寺が荒廃し1880年・明治13年大鰐三ッ目内村に、正雲庵(しょうもあん)として再建、1894年・明治27年金龍寺と改め再興。 1953年・昭和27年、再度、曹洞宗寺院として金龍寺の称号を認可。(大鰐町史より抜粋) 平成17年、曹洞宗宗務庁、青森県知事、青森市法務局の認可を得、青森市仏教会の仲間入りと課し、青森市大字大別内字葛野305に移転し、さらに平成31年1月31日に青森市松原1丁目16-29に移転、曹洞宗宗務庁、青森県知事、青森市法務局の認可を得て檀信徒の為布教活動中。八甲田山 金龍寺 / 金龍寺について より引用津軽禅輪街三十三ヶ寺それぞれに、津軽三十三観音霊場の写し霊場石仏が置かれています。盛雲院は二十七番にあたるようです。院号額はこの通り、盛雲禅院。札所本尊はそのまま本尊の釈迦如来です。また、寺務所の方に乳井神社(毘沙門堂)ゆかりの仏像が現存するのかどうか尋ねてみたんですが、現在は失われているとのこと。代わりに位牌堂内の祠に縮小版の像が祀ってあるんだとか。これが乳井毘沙門堂の本尊・・・の縮小版です。像容は力強く、かなりの迫力です。この毘沙門天像が現存していれば、重要文化財の指定は必至でしょうねぇ・・・。とは言え、どのような像容だったのか分かっただけでもありがたいというもの。毘沙門堂の、中世以前からの長い歴史に思いを馳せました。斜めから。津軽には珍しい中世遺構を擁する乳井神社。それと所縁の寺院でした。本寺院だけでなく、禅輪街にはこうした古い由緒を持つ寺院がひしめいています。いつかはそれらもまとめてみたいと思っていますが、まだまだ先になりそうです。盛雲院のように、もとは弘前から遠く離れたところにあった名刹たちを集めて作ったのが長勝寺構こと禅輪街です。なんともまわりがいのある名所でしょうか御詠歌はるははな なつまたすずしぜんりんに だいひのみこえ きくぞうれしき本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十五番札所:白花山 常源寺 弘前東方和徳に縁ある寺院
2025年10月19日
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陸奥国と常陸国の境、国道118号の脇に一之宮 八槻都々古別神社が鎮座しています。この国道118号は陸奥と常陸とを結ぶ主要な道路であり、古来よりこの道を通じて人や物が行き交いました。八槻都々古別神社が鎮座する地域は”近津”と呼ばれていますが、これは当社が以前近津大明神と称していたことに由来するといいます。以前は茨城県北部の方まで近津の領域に含まれていた様で、それを示すかのように茨城県大子町には近津神社が鎮座しており、八槻・馬場の都々古別2社と共に近津三社に数えられます。近津三社の鎮座する地域はいずれも陸奥国の根源地であり(常陸国から分かれる形で成立)、北方鎮撫の意味が込められているとか、いないとか・・・。2024.10.20八槻都々古別神社棚倉町に鎮座する都々古別2社の内の1つ、八槻都々古別神社。杉並木に囲まれた境内は、いにしえの昔からそのまま時間が停まったかのようです。境内の入口には大きな石鳥居と、国幣中社と刻まれた社号標が建っております。かたわれの馬場都都古和氣神社と同じ社格ですねぇ!境内の地図もありましたよ。鳥居をくぐるとまず右手に社務所、午後4時には閉まりますので余裕をもってご参拝ください。そのまま進むと随神門と瑞垣によって囲まれた社殿が見えてきました。当に神域という風情があって良いですねぇ。雰囲気は岩木山神社に似ています。参道脇には二又の杉が並び立ちます。雰囲気からして夫婦杉などと呼ばれているんではないでしょうか。御神木の1つです。参道脇の狛犬はかなり迫力があります。大きく開いた口から覗かせる鋭い牙が特徴的です。狛犬:阿!狛犬:吽!まさに守り手という風情です。手水舎、現役です。随神門は赤を基調としたカラーリングで、日光東照宮の随神門を髣髴とさせます。門には奥州一宮の扁額が懸かります。当社以外にも馬場都都古和氣神社、玉川村の都々古別神社などに同様の扁額が懸かっていました。一体どの社が本当の一之宮なんでしょうか。一之宮巡拝の資料には玉川村のものではなく、石都々古別神社が載っていますが・・・。陸奥国一之宮は謎が多いです。随神門と言えばの随神像。ここのものは随分と仏頂面です。右大臣!左大臣!暗闇の中、この顔がぬっと出てきたら絶叫必至でしょう。門の裏側には再び狛犬です。参道に置かれた物よりも古そうです。阿形!吽形!ほんとに厳めしい見た目をしていますねぇ。そんでもって拝殿です。馬場都都古和氣神社と構造は一緒ですが、こちらの方が新しそうですよね。菊の紋が捺されているのも同様です。ご由緒も見てみましょう。神社参拝時に貰えるパンフレットには面白い記述が載っています。八槻都々古别神社祭神:味報高彦根命、日本武尊 八槻都々古別神社は、馬場都都古和気神社、茨城県大子町下野宮の近津神社とともに、近津三社と呼ばれていました。 奥州一宮「八槻都々古別神社」は、町の南部(大字八槻字大宮)に位置しています。祭神は、味耜高彦根命と日本武尊で、古くから農耕神としてあがめられてきましたが、源義家が奥州征伐の時に千勝(近津)大明神と改称したことから、武神としての性格が加わったものと考えられます。 近世の神社境内には、本殿・拝殿・長床・観音堂・仁王堂・神門・稲荷宮・寅卯宮・寅卯宮拝殿・うす石宮・駒石権現・阿弥陀堂・愛宕社・富士社・やつき権現等がありました。 明治初期の神仏分離によって社内の仏教色は取り払われ、仏堂・仏具・仏像等は見られなくなりましたが、それまでは神仏両道の信仰をもっていました。 八槻別当は熊野先達(修験者、信仰者が修行、参詣のために山に入るときの先導者)で、 熊野御師と密接な関係にあり、熊野三山奉行乗々院 若王寺(廃絶・現在はかつての鎮守 若王子神社が残るのみ)の支配を受けました。八槻別当の檀那(寺を経済的に支持する固定的な信者)は、白川結城氏とその配下をはじめ、農民層にまで及んでいました。また八槻別当は、白川本領の惚年行事職にあり、その後近世を通じて若王寺配下の年行事職を務め、白川から依上保(現在の茨城県大子町)に至る広い範囲の修験を統轄しました。八溝の修験も大善院配下となり、八槻別当の管理した近津神社の神領は、主に南郷(近津以南)一円だったと考えられます。八槻都々古别神社の歴史 八槻都々古別神社は、日本武尊が八溝山の”東夷”の大将を討った際、守護として示現(神仏がその不思議な力を示し現わすこと)した三神(天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が、建鉾山(現在の表郷村大字三森)に隠れた時に放った箭の着いた所を箭津幾とし、都々古別神社を創建したのが始まりといわれています。また、日本武尊が八目鳴鏑で夷族を射たおした時、その矢の落ちた所を矢着と称し、都々古別神社を創建したともいわれています。神亀3年(726年)には、矢着を八槻の字名に改めたともいわれています。 当時、八槻都々古別神社の別当は大善院で、15世紀の頃には依上保を含む白川家中(白川領内)、また一時は菊多庄(現在のいわき市南域)に及ぶ範囲の熊野参詣先達職を掌握して絶大な勢力を誇り、白川結城氏の代替わりごとに神人等の支配権を安堵されていました。少なくとも南郷一円の在地領主が八根神人として組織され、八槻別当の宗教的権威を媒介に白川結城氏の在地領主支配が強化された様子が伺がわれます。文明19年(1487年)、聖護院の僧道興が東北行脚の途中、八槻家に宿泊しているのも、八槻別当の勢威を示すものにほかなりません。 16世紀に入ると、常陸太田城主佐竹氏の勢力が久慈川沿いに北上し、永正7年(1510年)依上保が白川領から佐竹領に移り、永禄3年(1560年)には八槻より南の南郷の大部分が佐竹氏に奪われ、天正3年(1575年)ついに白川領全土が佐竹氏の占領下に入りました。しかし、この激動以降も八槻別当は佐竹氏から神主職と神領を安堵されました。八槻都々古别神社の民俗 八槻都々古別神社では、毎年旧暦の1月6日に御田植祭が、また以前は旧暦の11月1日から5日まで行われていましたが、現在は新暦の12月の第二の金・土・日曜日の3日間にわたり霜月大祭が行われます。 御田植祭は、宮司の指示で舞人の方々が稲作の過程を順を追って模擬的に演じていきます。舞人は”巫女舞”を除いて全て楽人の方々で、鳥帽子・狩衣・白足袋姿となり、坐っている時には笏を持ち、舞う時のみそれぞれの採物をとります。巫女舞は、中学生から高校生低学年程度の女子2人によって行われ、千早・緋袴・白足袋姿となります。天狐は、木製の狐面をつけ金襴の半てん・白股引・白足袋姿となり舞います。 この祭りは、平成16年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。 霜月大祭は、八槻様・八槻市とも呼ばれ、かつては岩瀬郡や西白河郡からも参詣者が集まる大きな祭りでした。神社の鳥居の前から参道(現在の国道118号線)の両側に多くの屋台が立ち並び、小屋掛けもされたりしてにぎわったといいます。この祭りに来る人は、 わらのットッコに種もみを入れてきて神社に供え、代わりに他の人が供えていった種もみの入ったツトッコを持って帰るという習慣がありました。かつては近津(千勝)大明神と呼ばれたみたいですねぇ。千勝というと、茨城県の雨引山に千勝神社と言う猿田彦大神を祀る神社が鎮座しています。千勝と称する神社では、このように猿田彦大神を祀る例が多い様ですが、都々古別神社に関してはこれとは別に味報高彦根命を祀っているんです。今では近津三社とまとめられている神社たちですが、これらとは別の”ちかつ”神社の系統があるのは確かでしょう。早くから神仏混淆し、明治の神仏分離まで当地の修験を統括する立場だったようです。社僧を努めていたのは聖務密山 持宝院 如意輪寺で、現在もすぐ西側に境内を構えており、伽藍も相当に大きいです。当霊場の往時の繁栄ぶりが伺えます。神主兼別当職としては八槻家が務めていた様です。神社南方に旧家屋が残っており、茅葺屋根の古めかしい建物みたいです(実際に見てはいませんが)。では、別当の八槻家についても見てみましょう。別当八槻家八槻家の由緒 八槻家は、代々八槻都々古別神社の宮司を務める由緒ある家系で、八槻家の祖先は南北朝時代(1300年代)から、熊野参詣の先達職を務めた修験者でもありました。 それを裏付けるものとして、天福2年(1234年)鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている「木面十一面観音立像」、県の重要文化財に指定されている八槻家文書の中に応永3年(1370年)室町時代の文書「御檀那名寄事」があります。 また、文明19年(1487年)室町時代、修験道を統轄した京都聖護院の僧”道興”が東北行脚の際、八槻家に旅宿し次のような短冊を残しています。あつさ** つきの里の桜かり 花にひかれて をくる春かな この短冊は「聖護院道典短冊」と呼ばれ、県の重要文化財に指定されています。その他にも「銅製釣灯篭」・「古面」・「大般若経六百巻」など貴重な文化財を所蔵しています。もう南北朝の時代には熊野先達としての役に就いていたとは、相当歴史の長い旧家と言えるんではないでしょうか。説明書き内の十一面観音像はこちらから確認できます。説明も引用してみましょう。木造十一面観音菩薩立像 八槻都々古別神社に伝来する、天福二年(1234年)作の仏像です。 両腕を欠損しており、部分的な着色も見られます。頭部から台座まで一本の材からつくられた一木造りが特徴です。台座の裏側には墨により造立に関する経緯が記されています。それによると、この像は八溝山の観音堂で三百日にも及ぶ参籠修行を行なった僧、成弁によってつくられたもので、その姿は大和(現在の奈良県)の長谷寺本尊に倣ったとされています。長谷寺は真言宗豊山派の総本山とされる寺院です。塙町 / 八溝山周辺地域の文化財 より引用おそらく八溝山の観音堂とは八溝山 日輪寺のことだと思われます。元は日輪寺・月輪寺からなる霊場で、どちらも本尊は十一面観音でした。これらの十一面観音は、八溝山に鎮座する大国主神と事代主神(恵比須様・少名彦神とも同一視)を模して造られたと言われており、本像は相当な古仏故にそれらとも関連がありそうですよね。もしかしたら失われた月輪寺の本尊だったりして・・・。瑞垣を抜けて神社の側面へと出ました。ここからは拝殿と本殿が良く見えます。拝殿同様、本殿も相当に立派です。本殿単立でも相当な荘厳さでしょうね現在の本殿は正徳元年(1711年)に焼失したものを、享保年間(1716~1736年)に再建したものだそうです。県指定重要文化財に指定されています。拝殿右手のエリアは池を中心とした庭園の様になっています。池の中央には浮嶋、なんとも雅な風景でしょうか。池の奥の方には末社の社が建っています。右から・・・・北野神社:菅原道真公・熊野神社:熊野三所大権現・皇朝工祖神社:聖徳太子?となっています。末社の反対側にはなぜか石灯籠が並んで建っております。かつての裏参道でしょうか?でもこれ以上は道がないんですよね・・・詳細不明。斜めから。ご由緒をまとめ、記事を書くにつれて、段々と八槻都々古別神社へのイメージが変わってきました。想像していたよりもずっと八溝山の信仰と関りが深かったみたいです。神仏混淆の度合いも高く、さすがは修験が統括した神社といったところでしょうか。近津三社の一角ということで、八溝山山麓の広い地域と連動し、1つの大きな信仰形態を成していたことは確かでしょう。残る茨城の近津神社の記事にて、その信仰の姿をまとめたいですねぇ!今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年10月17日
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長野県・山梨県の各施設を巡り、縄文御朱印を収集していきます。各施設毎に1~3種類の御朱印が用意されており、中央に土偶・土器のニックネームと御影、右に札所印、左に施設印が付きます。字体に個性があり、なかなか面白いです2025.10.13山梨県 釈迦堂遺跡博物館にて、この札所巡りの存在を知りました。これからその他の施設もまわり、どのような雰囲気なのかを掴みたいです。三十三番土偶札所巡り山梨県:山梨県立考古博物館紹介サイト・山梨県 / 山梨県立考古博物館一番土偶:いっちゃん出土遺跡:製作年代:二番土偶:のんさん出土遺跡:製作年代:山梨県:春日居郷土館紹介サイト・笛吹市 / 笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館三番土偶:みさかっぱ出土遺跡:製作年代:四番土偶:やっほー出土遺跡:製作年代:山梨県:釈迦堂遺跡博物館公式サイト・釈迦堂遺跡博物館 公式サイト四番土偶:しゃかちゃん出土遺跡:釈迦堂遺跡製作年代:縄文時代中期六番土偶:しゃっこちゃん出土遺跡:釈迦堂遺跡製作年代:縄文時代中期七番土偶:出産土偶出土遺跡:釈迦堂遺跡製作年代:縄文時代中期山梨県:南アルプス市ふるさと文化伝承館紹介サイト・南アルプス市 / ふるさと文化伝承館八番土偶:子宝の女神ラヴィ出土遺跡:製作年代:九番土器:人体文様付有孔鍔付土器出土遺跡:製作年代:山梨県:韮崎市民族資料館紹介サイト・韮崎市 / 韮崎市民族資料館十番土偶:ミスいしのつぼ出土遺跡:製作年代:十一番土偶:縄文の仮面小町ウーラ出土遺跡:製作年代:山梨県:韮崎市ふるさと偉人資料館紹介サイト・韮崎市民交流センター NICORI / フロアガイド十二番土器片:坂井遺跡の顔面把手出土遺跡:製作年代:山梨県:北杜市考古資料館紹介サイト・北杜市 / 北杜市考古資料館十三番土偶:ちびーなす出土遺跡:製作年代:十四番土偶:石堂地母神出土遺跡:製作年代:山梨県:史跡 梅之木遺跡ガイダンス施設紹介サイト・北杜市埋蔵文化財 情報WEB / 史跡梅之木遺跡十五番土器:遍照精霊土器出土遺跡:製作年代:長野県:市立岡谷美術考古館公式サイト・市立岡谷美術考古館十六番土偶:壺を持つ妊婦土偶出土遺跡:製作年代:十七番土偶:超小型土偶出土遺跡:製作年代:長野県:諏訪市博物館公式サイト・諏訪市博物館十八番土偶:大御堂遺跡 土偶出土遺跡:製作年代:十九番土偶:荒神山遺跡 土偶出土遺跡:製作年代:二十番土偶:穴場遺跡 土偶出土遺跡:製作年代:長野県:茅野市尖石縄文考古館公式サイト・茅野市尖石縄文考古館二十一番土偶:国宝 縄文のビーナス出土遺跡:製作年代:二十二番土偶:国宝 仮面の女神出土遺跡:製作年代:二十三番土偶:おやゆび姫出土遺跡:製作年代:長野県:川上村文化センター紹介サイト・川上村 / 川上村文化センター二十四番土器:仮面装飾香炉型土器出土遺跡:製作年代:二十五番土器片:大深山遺跡出土顔面把手出土遺跡:製作年代:長野県:長和町原始・古代ロマン体験館紹介サイト?二十六番土偶:明神原の土偶出土遺跡:製作年代:二十七番土器:中道の香炉形土器出土遺跡:製作年代:長野県:井戸尻考古館公式サイト・井戸尻考古館二十八番土偶:始祖女神像出土遺跡:製作年代:二十九番土偶:巳を戴く神子出土遺跡:製作年代:長野県:八ヶ岳美術館公式サイト・八ヶ岳美術館三十番土偶:恩膳 さんころん出土遺跡:製作年代:三十一番土器:前尾根 火の女神フゥーちゃん出土遺跡:製作年代:山梨県:甲府市藤村記念館紹介サイト・甲府市 / 旧睦沢学校校舎(藤村記念館)三十二番土器:後呂遺跡の人面装飾付深鉢形土器出土遺跡:製作年代:長野県:星ヶ塔ミュージアム矢の根や公式サイト・しもすわ今昔館おいでや / 星ヶ塔ミュージアム矢の根や三十三番土器:殿村遺跡 人体文付壺出土遺跡:製作年代:以上です。
2025年10月14日
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長野県と山梨県にまたがる中部高地。八ヶ岳や富士山などの天を衝くような巨大な峰々が屹立するなか、山の中腹や麓では良質な黒曜石が産出していました。この地の縄文人たちは、この優れた黒曜石を収集・加工し、周辺の村々との交易に利用したと言います。優れた黒曜石の産地という背景を利用して、この地の縄文文化は他に類を見ないような造詣の土器を次々に生み出しました。現在この黒曜石の産出を中心とした縄文文化は、”星降る中部高地の縄文世界”として日本遺産に登録されています。出土した土器などの内、特に優れたものや独自性のあるものは重要文化財や国宝に指定されており、この地の縄文文化を象徴するイコンとなっています。博物館や情報館をめぐって、この縄文文化に触れようというのが、三十三番土偶札所巡りの目的です。長野県では8ヶ所、山梨県では9ヶ所の施設を巡り、専用の縄文御朱印を集めていきます。御朱印帳も用意されており、デザインも可愛らしく非常に好みでした。本来の巡礼とは異なりますが、優れた古代の文化・信仰に触れるという意味では、本当に巡礼のようでもあります。これを結願した時、中部地方の縄文文化についてかなり詳しくなれることは、言うまでも無いでしょう。東北の縄文文化とどのように異なるのか、相似点はあるのかなど、比較してみたいです。公式サイトへのリンクです。・星降る中部高地の縄文世界 -数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-見学した札所の位置と札所記事は下のリンクからご確認ください!・星降る中部高地の縄文世界 三十三番土偶札所巡り 見学の記録以上です。
2025年10月13日
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かつて躑躅ヶ崎館の門前街として栄えた、甲府駅北側のエリアに広がる七福神めぐりです。珍しく札所に旅館が入っているなど、霊場というよりは観光色の強い札所めぐりでした。周囲に有名な温泉もあり、札所をめぐった後、名湯で疲れを癒すという最高の贅沢を味わうことも出来そうですそれぞれの札所が近いこともあり、甲府駅から徒歩でまわったとしても、観光含め一日あれば十分まわりきれると思われます。細い路地の奥にあったり、一方通行の通りに面していたりと、車では逆にまわりづらかったです。駐車場探しも大変でした。巡礼に際して、各札所で専用の台紙が販売されており、それに判を押してもらうという方法が推奨されています。しかし別に御朱印の方もちゃんと用意されており、全ての札所で頂くことが出来ました。好みの方法で巡ると良いのではないでしょうか。結願すると限定の御守りが貰えます。結願は自己申告制ですので、最後の札所で忘れずに言うようにしましょう。札所めぐり日:2025.10.13紹介サイトへのリンクです。・甲府市 / 観光情報 / 甲府山の手七福神めぐり甲府山の手七福神めぐり恵比寿様:御崎神社札所記事未大黒天:福田山 塩澤寺他の巡礼:甲斐百八霊場六十三番札所札所記事未毘沙門天:真如山 華光院 太子堂札所記事未弁財天:妙清山 清運寺札所記事未福禄寿:法性山 玄法院札所記事未寿老人:青龍山 行蔵院札所記事未布袋尊:旅館 弘法湯札所記事未以上です。
2025年10月13日
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奥州街道の終点である青森市油川。歴史と文化の大道、その終点には津軽地方の寺院の中でも相当の古刹と言われている浄満寺が境内を構えています。浪岡北畠氏の家人 奥瀬氏の菩提寺と言われていますが、津軽氏の浪岡侵攻の前哨戦として、奥瀬氏が滅ぼされると共に衰退。後に再興されますが、詳しい由緒などは灰燼に帰してしまいました。開山・開基もそれ故に不明、謎の多い寺院です。津軽八十八霊場二十番札所:金台山 紫雲院 浄満寺油川の国道280号沿いは浄満寺含め3ヶ寺が立ち並び、いわゆる寺町のような風情があります。古い町割のままなのか、町内の道路は少々狭く複雑ですが、それもなんだかアジがあって良い気がします。浄満寺の入口も県道280号沿いにありますが、少々看板が見えにくいので通りすぎないように注意しましょう。境内に進むと、まず見えてくるのがこの山門。紅白のカラーリングが美しいです。この山門の奥には広い駐車場があるので、車でも安心。山門の右側には地蔵堂があります。宝形造の御堂です。内部には石地蔵。この様に沢山の石地蔵が立ち並ぶのは、津軽地方の中でも北側の寺院に多い特徴です。こうした地蔵信仰の根源地は、金木町の賽の河原だと思われますが・・・詳細不明。広い駐車場の先には大きな本堂が建っています。コンクリ造の新しいお堂ですが、背負う歴史はかなり古いものです。ご由緒です。金台山 紫雲院 浄満寺浄土宗本尊:阿弥陀三尊 外ヶ浜における最も古い寺として知られている。それだけに開基はいつなのか、縁起については不明な部分も多い。言い伝えによると青森市の古(小)三内にあったのを、油川城主の奥瀬氏が油川へ寺を移し、菩提寺としてまつったといわれている。だが、その奥瀬氏も津軽家に滅ぼされてしまい、浄満寺もいったんはさびれた。 そこへ関東の僧岌雲がこの地を訪れ再興。慶長13年(1608年)には、福島県三春生まれの良波和尚も訪れ、荒廃のひどいのにびっくり、寺を再建し元和5年(1619年)に完成させている。 再建した時から数えても350年以上も過ぎており、また奥瀬氏の時代や古三内にあった時からみると、相当の年代を経ているとみられている。 奥瀬氏は奥瀬豊前、利九郎、善九郎の三代、150年にわたって善政をしいたといわれているが、南部藩に属していることから津軽為信の津軽統一の際攻撃を受け、何度か撃退したものの、 最後には力尽きて田名部に落ちのびたとも言う。したがって津軽家にとってみれば、いわば敵の寺。このため浄満寺再興の時も奥瀬氏にからむものは、ヤミからヤミに捨てられたか、隠されたか、以来はっきりしないわけ。 本堂は元和5年に建てられたものだけに、350年の年輪を刻んだ黒光りする柱や欄間などは見事。また本堂には、円空上人の作といわれる釈迦牟尼如来座像がある。この像は木彫りで高さは44cmほど、青森市文化財に指定されている立派な仏像だ。 現在の住職の長尾光逸さんは、初代の良波和尚から数えて第三十八世。2000近い檀家をかかえて、忙しい毎日。檀家も油川を中心に大釈迦、戸門あたりから新城、それに東郡蓬田村までと広い範囲にわたっている。檀家の広がり状態にも、歴史の重みと由緒を感じさせるところ。 国道280号線の青森市役所油川支所の向かい側を50mほど入ったところにあるが、境内は静か。境内の裏手には油川城主奥瀬一族の墓や、安政・天明年間の餓死者をまつった千人塚、 青森開港の祖・森山弥七郎の墓碑などもあるが、これが国道のすぐそばかと思うほどひっそりとして、いっとき心をなごませてくれる。 寺の入り口には楼門があり、 350貫の鐘がつられている。つがるのお寺さん 下巻 4.5ページ より引用もとは三内の方にあったんですね。油川から見ると南の方でしょうか。三内というと縄文文化のメッカです。浄満寺が建立された時には、どのような文化を持った人たちが住んでいたんでしょうか。その人たちとの関りは?誰が開基となったのか?・・・非常に気になります。個人的な妄想としては南部方の勢力か、当地に土着していた国人勢力が開基だと思うんですが、それを確かめる術はありません堂内はかなり広く、その中央に張り出す形で祭壇が設けられています。壁面には阿弥陀如来の来迎図。幾躰もの菩薩を引き連れ、紫雲に乗って天上より降臨!本尊は阿弥陀三尊。堂内右手には札所本尊の三十三観音像が並んでいます。群像の中心には聖観音。新旧2躰そろい踏みです。堂内左手の金色の祭壇には釈迦三尊が祀られています。三尊の内、中央の釈迦如来像はなんと円空仏!何となくニッコリとほほ笑んでいる様に見えます。全体的に丸みを帯びた可愛らしいフォルムで、何ともおもしろい仏像です大きさからして、ここへの逗留期間はそこまで長くないかもしれません。この後、外ヶ浜を北上して、北海道に渡ったんではないでしょうか。まだまだ旅の途中の作と言う事ですね。斜めから。油川の古刹浄満寺でした。詳しい由緒は不明ながら、奥瀬氏の菩提寺と言われている事、円空仏がある事などを考えると、当時から相当の古刹として知られていた可能性がありますよね。現在の大伽藍を見ると、そんな思いが更に強くなります。何にせよ、松前街道の起点に置かれたステキな寺院を参拝することができ、良かったです。御詠歌のちのよを ただひとすぢにじょうまんじ あみだにょらいの ひろきめぐみを札所本尊:三十三観音像 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・二十一番札所:東方山 東福寺 福館城主が納めた延命地蔵尊とかっぱの物語
2025年10月12日
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宮城県名取市、市街地から西に数kmの所には熊野三社で有名な高舘山が屹立しています。山の麓には国道4号まで伸びる県道39号、道沿いに多数の神社仏閣がひしめきます。今熊野神社を過ぎて少し上った所、田んぼ脇の脇道にそれ、さらに進んでいくと藤原実方公の墓と書かれた看板が見えてきます。藤原実方公の墓小さな木製の橋が参道の起点となっています。橋の名前は実方橋、今は無き歌聖を偲ぶ名です。橋を渡ると説明書きが貼ってあります。気になるものを見てみましょう。中将実方朝臣について 中古三十六歌仙の1人藤原実方朝臣は、曾祖父に摂政関白忠平、祖父は小一条左大臣師尹、御堂関白道長とは、又従兄弟の間柄である。実父侍従定時は早く亡くなったため、叔父権大納言済時の養子となり、生母は左大臣源雅信の娘といわれて藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれ、美貌と風流とを兼ね備えた貴公子である。 実方は天延3年(975年)侍従に任ぜられ、9年後には左近少将に、更に7年を経て一条天皇の正暦2年(991年)には右近少将、同じく5年には左近衛中将に任ぜられたのである。特に、和歌に関してはすぐれた才能があり、円融・花山両院の寵を一身にあつめていた。 ある年の春、殿上人がそろって東山に花見に出かけたところ、俄か雨に降られ大騒ぎになったが、ひとり実方朝臣は少しもあわてず木の下に身を寄せて桜がり 雨は降りきぬ同じくは ぬるとも花の 蔭にかくれむと詠じ、降り来る雨に漏れて装束をしぼった。この事は当時大変な評判となり皆口々に実方の風流心をほめたたえ、翌日、大納言済信から主上にも奏上したところ、藤原行成これを批判して「歌は面白し、実方はをこなり」と云ったという。”をこ”とは馬鹿ということである。 後日、これを伝え聞いた実方は、殿上に於いて行成と出合いがしらに、行成の冠を取り庭へ投げ捨て立ち去った。この一件をご覧になった一条天皇は、「行成は召仕うべき者」と思召されて蔵人頭に補せられ、実方には「歌枕見てまゐれ」と言って陸奥守に任ぜられたのである。 中古三十六歌仙の1人、源氏物語の主人公、光源氏のモデルと言われる左近衛中将藤原実方朝臣は、こうして長徳元年(995年)9月27日、多くの人たちに別れを惜しまれ、華やかな日々を過ごした京の都を後にし、陸奥の国司として赴任して来られたのである。 陸奥守として下向の後、その事情を知った陸奥の武士たちに尊敬され、その待遇は従前の国司と異って昼夜の別なく奉仕されたとある。また5月の節句に、あやめふく風習がなかったところ、実方は「さみだれの頃など、あやめによりてこそ、今すこし見るにも聞くにも、心すむことなれば、はや葺け」と命じたので早速軒端にふいた。この風習は今に残っている。 こうして、みちのくにあること足かけ4年「歌枕見て参れ」との勅命により各地の名所旧跡をも訪ね歩いた。任期も間近にし、京の都の人たちから帰りを待たれる頃、実方は出羽国千歳山阿古耶の松を訪ねての帰り道、名取郡笠島道祖神の前を、馬に乗りながら過ぎようとすると、土地の人がこれを諫めて曰く「この神は効験無双の霊神、賞罰明らかなり、下馬して再拝して過ぎ給え」と言ったが、実方は「下品の女神にや、下馬に及ばず」と無視して過ぎようとすると馬が暴れて倒れ、落馬がもとで実方もまた病の身となり土地の人々の手当てを受けたが、その甲斐もなくみちのくの 阿古耶の松をたずね得て 身は朽ち人と なるぞ悲しきの痛恨の一首を残して、長徳4年(998年)11月13日、帰らぬ人となったと伝えられている(源平盛衰記)。 実方が辺境に死してのち189年、文治2年(1186年)の秋、西行法師がこの墓に詣で、霜枯のすすきを眺め朽ちもせぬ 其の名ばかりを留めおきて 枯野のすゝき かたみにぞ見ると歌った。また、元禄2年(1689年)5月俳人松尾芭蕉が奥の細道をたずねた折、雨で道が悪く実方の墓へ参ることが出来ず、植松の地より笠島は いずこ五月の ぬかり道と一句を手向けている。 現在、中将実方朝臣の墓のそばに、西行法師の歌碑があり、参道入口には芭蕉の句碑がある。また、仙台の歌人松洞馬年の句碑が「かたみのすゝき」のかたわらに建っている。 明治41年(1908年)5月、愛島村及び有志の浄財により墓所の周辺を整え、実方の顕彰碑を建て盛大に910年祭を行なった。後に昭和17年(1942年)12月20日、愛島村教育会主催により藤原実方卿の945年墓前祭が行われた。 また、没後千年にあたる平成10年には、名取市主催により「藤原実方千年祭」と銘打ち、10月25日に墓前献詠会等の催事が盛大に行われた。 以後、毎年短歌を全国から募集し、10月第3日曜日に墓前献詠会を実施している(令和元年度で終了しました)。僕はこの”歌枕見てまゐれ”というフレーズがお気に入りで、何とも教養があふれている優れた罵倒文句でしょうかそれに比べて行成の方はというと、単純に”歌は面白いけど実方はバカでしょ”と何のひねりもない事を宣うばかり・・・。実方との差は歴然だと思うんですが。参道を進むと、辻の所に芭蕉関係の石碑が建っていました。結局芭蕉は実方の墓を見ることなく、陸奥の旅をつづけたようです。その悔恨は歌にも表れています。芭蕉の石碑の裏にはこれまた違う歌碑が置いてあります。こちらは”草鞋塚の碑”と呼ばれており、先ほどの説明書きに出てきた仙台の歌人 松洞馬年の句が刻んであります。本来ならこの石碑の脇にかたみのすすきが繁っているはずなんですが、一年草の悲しい定めか、この時は枯れてなくなっていました。夏から秋かけては繁茂した姿を見れるはずです。笠島は あすの草鞋の ぬき処松洞馬年参道は竹林の中に伸びています。東北も下に行けばこのような風流な竹林が見れるんですが、北東北では笹竹の林しか見れません。林に踏み入り、程なくして石碑が立ち並ぶ広場に到着します。まずは一番手前の石碑から。明治40年(1907年)11月に建立されたこちらの石碑には、西行法師の歌が刻まれています。死して後、ここが実方の墓だという言い伝えだけが残る、寂しいすすきのはらを眺めて詠んだものです。ありありと情景が浮かんできますね朽ちもせぬ そのなばかりとどめおきて 枯野のすすき かたみにぞ見ゆ西行木枠に囲まれた中に幣が建ててあります。最初はこれが実方公の墓だと思っていたんですが、墓標は隣の長細い石碑の方らしいです。幣の側には積み石。実方公の冥福を祈ります。墓の側には説明書きがありました(入口のものと内容が被るので割愛)。そしてこの墓にまつわる歌も幾つか載っています。とこもふち 淵も瀬ならぬなみだ河 袖のわたりは あらじとぞ思ふ清少納言実方の 長櫃通る 夏野かな与謝蕪村我はただ 旅涼しかれと 祈るなり正岡子規歌の投稿ポストと共に置かれているのは実方顕彰の歌碑。実方公が取り立てられる契機となったあの歌が万葉仮名で刻まれています。実方の墓を後にし、竹林を少々遡ると脇道が伸びています。左の道の先には小さな社殿がポツンと建っていました。こちらがその社殿。小振りで簡素な造りの社殿ですが、周囲の風景も相まってか、妙な風格が感じられますねぇ!社殿に懸かる扁額には佐具叡神社とあります。名取市の延喜式内社として名高い佐具叡神社ですが、こちらはその元宮・跡地です。本宮はというと、現在は佐倍乃神社の境内社として存続しているようです。式内社ではありますが、祭神は幾つもの説がありますが結局のところは不明。いろいろと謎の多い神社みたいですね。説明書きに神社の来歴が書かれていました。・・・。 平安時代の初期に編纂された法制書「延喜式」巻9・10の神名帳に記載された神社を式内社という。陸奥国には100社あり、古代の名取郡には2社あって、この神社はその内の1つであり、実方の墓の北側丘陸上に位置する。 文政元年(1818年)この地に移築され、その後明治30年頃、佐倍乃神社へ合祀された。地元の方々によって現在の地に復元されている。もともとの鎮座地は別にあるみたいですね。先ほどの分かれ道の、右側の道を登っていくと磐境もありますよ。木の根元、柵で囲われた石積が磐境です。磐座と同じく神格が降臨する聖なる場所として、信仰の根源地となっているようです。苔むした岩が、往古の信仰を今に伝えます。実方公を落馬せしめた笠島道祖神、現在は猿田彦大神と天鈿女神を祀る佐倍乃神社として名取の地に鎮座していますが、往古にはもっと違う塞の神に比定される神格が祀られていた可能性も有るのではないでしょうか。神の怒りをかった実方公は亡くなり、落馬したこの地に墓標が建てられ幾星霜、遠い昔に生きた貴人は、今では寂しい竹林で眠りますが、数百年経った今でも参拝の足が完全に途絶えることはありません。歌聖を偲んで結びとします。以上です。
2025年10月12日
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埼玉県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:埼玉県の仏堂と寺社8世紀715~723年秩父市:笹戸山 長泉院9世紀9世紀前半?秩父市:竜河山 大淵寺秩父市:石龍山 橋立堂11世紀11世紀後期~12世紀前半?秩父市:万松山 円融寺 岩井堂14世紀1319年秩父市:瑞龍山 法雲寺以上です。
2025年10月12日
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埼玉県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク埼玉県神社庁埼玉県神社一覧wiki 府県社 / 埼玉県の旧県社wiki 郷社 / 埼玉県の旧郷社wiki 村社 / 埼玉県の旧村社wiki 無各社 / 埼玉県の旧無各社埼玉県の神社の旧社格官国幣社諸社県社秩父市:三峯神社 秩父市:三峯神社 山犬に 引かれていただく三峯の 遠吠えに混じる 法の御声が村社秩父市:琴平神社秩父市:竃三柱神社 / 和田神社無格社護国神社社格不明以上です。
2025年10月12日
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道祖神、よく道端の小さな石碑にて祀られている神格です。塞の神とも呼ばれ、邪なものの侵入を防ぐ目的で置かれていることが多いと思われます。夫婦型のものや地蔵型のものも見られ、その姿は様々です。それ故か、”道”や”航行”に関する神格と同一視されることも・・・。今回紹介する神社は、そんな塞の神(と同一視される神格)を祀る歴史ある神社です。佐倍乃神社集落の中を走る細道に、赤い鳥居が建っています。大きく立派な扁額には正一位道祖神社と刻まれていました。道祖神を祀る祠や石碑は数在れど、これほど大きな社の主祭神になっている例は少ないんではないでしょうか。鳥居の奥には随神門。まるで寺院の山門の様にも見えます。正面には右大臣・左大臣が置かれ、反対側は神楽殿となっています。変わった造りですよね。参道の脇には古くなった筆を供養するための筆塚や・・・子安観音の石仏などがありました。随神門の先を見てみると、大きな社殿が置かれていました。あれが道祖神社、現在は佐倍乃神社(さえのじんじゃ)と呼ばれているようです。杉の木林を背にして、程よく色あせた木材を纏った社殿が鎮座しています。・・・まずは境内の末社から見ていきましょう。境内の左側、一番手前には神楽殿が置かれています。中には荘厳な神輿が置かれています。奥には古い年季の入ったものも。1つとばして隣には切妻造の祠が置かれています。大黒天や恵比寿様の像が置かれていますが、祭神は不明・・・。そんでその隣、こちらの小祠は坂上田村麿を祀る田村神社です。境内の右側には社務所があり、ここで御朱印や御守りの購入が可能です。では先ほど飛ばした祠を見てみましょう。この祠は延喜式内社:佐具叡神社の論社、佐具叡神社です。もともとは現在地から北方にある竹林の中に鎮座していたといいます。祭神は様々な説があり、結局何を祀っているのかは分かりません。ですが都の歌人 藤原実方公を祟り殺したとする伝説が伝わっているため、名のある神格が祀られていたのは確かでしょう。扁額もありますね。はい、拝殿です。装飾は控えめ、カラーはシック、地方の古社の風格を存分に備えた外観です。建立されてから大分時が経っているんではないでしょうか。扁額には金字で神格が刻まれています。気になるご由緒も見てみましょう。佐倍乃神社(笠島道祖神社)由緒祭神:猿田彦大神、天鈿女神 佐倍乃神社は、元禄2年(1689年)5月俳聖 松尾芭蕉の「奥の細道」行脚の時、「笠島は いずこ五月の ぬかり道」とよんだ句にある名取市愛島笠島に鎮座している神社で、旧社号を笠島道祖神と称していました。 祭神は猿田彦大神と天鈿女命で、景行天皇40年(110年・皇紀換算の西暦・信憑性は薄い)の日本武尊御東征の時から毎年4月20日を祭日としています。 慶長7年(1602年)野火に遭い、社殿及び古来の宝物・文書等一切焼失しましたが、後柏原天皇の時大永2年(1522年)10月23日本殿造営されました。 文禄元年(1592年)2月15日伊達十七代政宗公社殿の修繕、又元禄13年(1700年)10月19日伊達二十代綱村公拝殿を修造し祭田二貫文を寄進するなど、歴代の藩主公厚く尊崇されました。 祭神の猿田彦大神は、天孫降臨の際、道を開きご案内した事から道の神と、又御夫婦の神である天鈿女命と共に人間生活の道を守るところから縁結び・夫婦和合の神と祀られており、例祭日には宮城県無形文化財に指定されている出雲流「道祖神神楽」が奉納されます。 尚平安時代の長徳4年、陸奥守に任ぜられた藤原実方朝臣が、赴任途中当社の前を通過した途端落馬し、一命を落とした事は歴史的に有名であり、その墳墓は当社より北方約700mの塩手字北野にあります。日本武尊によって勧請された古社のようです。近代になってからの動きは宮城県神社庁のサイトに載っています。下に載せますね。・・・。 明治の初め道祖神社の社号を現社号の村社佐倍乃神社に改めた。明治41年11月郷社列格、同43年3月供進社に指定された。これより先佐具叡神社外10社を合祀した。・・・。宮城県神社庁 / 佐倍乃神社 より引用式内社の佐具叡神社が合祀されたのは割と最近だったんですね。こちらについては藤原実方公の墓所と共に別記事で紹介したいと思います。斜めから。上古の頃に勧請されたと伝わる道祖神祀る古神社。東北の神社の中でも異彩を放っています。猿田彦大神・天鈿女神の夫婦を祀るこの神社は、実質夫婦型道祖神の様に、夫婦のあらゆる難儀や人生を切り開くといった神徳が期待されているようです。なんとも面白い信仰か、陸奥の古社ここにありです。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年10月09日
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文字通り刺すようなキツイ日差し、それを浴びつつ名古屋の街なかを歩きます。熱田神宮参拝後に徒歩で散策、最終目的地の桜天神社を目指し進んでいると、道の向こう側に立派な社殿を持つ神社が建っていました。近づいてみると社号標には春日神社。そして境内には、総本社の春日大社に似た社殿がどっしりと構えていました。春日神社高層ビルに囲まれ、境内はとてもこじんまりとしています。境内の大半を占めているのがこの紅白の社殿。大須観音の堂宇と似たカラーリングです。やはり西国にほど近い尾張国ともなると、都の大神社の様な社殿を持つ、そういった神社が増えてくるみたいです。諏訪大社に参拝した今では、どことなく構造は諏訪大社の社殿にも似ているような気がします。それではご由緒です。春日神社祭神:武甕槌神、経津主神、天児屋根神、比賣神例祭:10月19日由緒(字がすすけて読めないためwikiより引用)創建 神護景雲年間(767年~770年)に大和国奈良の春日大社が創建された際、常陸国の鹿島神宮から神霊を遷座する折、尾張国山田庄の当地に仮泊した。天暦2年(948年)、郡司の藤原某がこのことに因んで武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の春日四柱大神を奉祀したのが春日神社の起源である。中世・近世 文亀年間(1501年~1504年)、小林城主の牧長清が前津村の氏神として社殿を造営するなどした。この際、春日大社の猿沢池に倣って社殿の西側に大池を造営したが、この池はいつしか消滅した。なお、牧長清は小林村の氏神として三輪神社を祀っており、富士浅間神社を再興している。 その後、代々の尾州藩主の崇敬を受け、二代藩主の徳川光友の母が乳の病に悩まされた際には、春日神社の神木を祀って平癒されたことで、お産の守神として崇敬を集めた。九代藩主の徳川宗睦からは石灯籠、釣灯籠、鈴などの寄進を受けた。 正徳2年(1712年)、享保3年(1718年)、元文5年(1740年)、宝暦8年(1758年)、天保2年(1831年)には社殿の修復を行った記録がある。江戸時代にはまず醍醐院が春日神社の別当を務め、その後泰昌寺が明治維新まで別当を務めている。wikipedia / 春日神社(名古屋市中区) より引用春日大社の創始に当たって、鹿島神宮の御神霊を運んだそうですが、なんと鹿に乗せ運んだみたいです。この鹿、途中で亡くなってしまった様で、何頭か乗り継いでやっと大和国まで到着したようですよ。鹿が亡くなった所にはこれまた神社(鹿見塚神社など)が建てられており、当時としても大変な分霊式だったんではないでしょうか。斜めから。総本社の縮小版とも言える社殿は、それでもかなりの荘厳さです。遥かな昔に、実際に白鹿がここに泊まったかは不明ですが、それでもかなり古い歴史を持つ春日神社だと言えるんではないでしょうか。白鹿の様に少々境内で休憩し、先を急ぎました。以上です。
2025年10月06日
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1年程前、福島県に出張した折、茨城県の式内社を幾つか巡りました。冬の澄んだ空気の中、雲1つない快晴を喜びつつ、太平洋沿岸を走ります。この日はまず大洗磯前神社に参拝し、それから福島県のいわき市目指してひたすら北上しました。那珂川の河口に架かる橋を越え、しばらく細道を進むと樹叢に包まれた酒列磯前神社に到着です。酒列磯前神社境内への入口は駐車場から少し遡ったところ。この真っ白な鳥居をくぐって参拝します。鳥居から社殿までは、うねる様に枝を伸ばす木々に被われており、かなり落ち着いた雰囲気が漂っています。この樹叢、実は県指定天然記念物になっているんです。説明書きです。茨城県指定天然記念物酒列磯前神社 酒列磯前神社の創建は斉衡3年(856年)であり、元禄15年(1702年)に現在地に遷宮された。 酒列磯前神社の境内林は、海洋による温暖な気候によって生育が促された暖帯性樹叢の1つと位置づけられる。参道両側には、樹齢300年をこえるヤブツバキやタブノキの古木が点在し、さらにオオバイボタ・スダジイ・ヒサカキなどの常緑広葉樹が生育している。また、本殿脇から背後に広がる境内林は、スダジイ・タブノキなどの高木層と、ユズリハ・モチノキ・ヤブツバキ・シロダモなどの亜高木層~低木層で構成されている。 このような規模で保存されている例は希であり、この地域における本来の自然植生の姿をとどめた自然林として、学術的にも貴重であるといえる。指定日:平成17年11月25日設置者:ひたちなか市教育委員会二之鳥居の前まで来ると、裏参道の鳥居も見えます。こちらは神明鳥居のようですね。鳥居の先には磯前漁港が望めます。手水は大きく現役。このすぐ奥に駐車場がありますよ。載せ忘れましたが、この脇に小祠が2つあり、右が磯合稲荷神社、左が女化稲荷神社です。女化稲荷神社は龍ヶ崎市の女化神社を分霊したものではないでしょうか。二之鳥居です。ここをくぐると直ぐに社殿が見えてきます。この日は年越大祓の日で、鳥居に茅の輪が取り付けてありました。手順に従ってぐるぐると鳥居をくぐります。そんで二之鳥居の側に置かれた狛犬はイイ表情してるんです。こちらは迫力ありますが・・・。こちらはチラリと脇を見ていて、なんだか可愛らしいですよね鳥居の脇には他にもこのような古めかしい石碑などが置かれています。碑面には”是与里(これより)みたらし道”と刻まれており、近くに御手洗、つまり手水舎があることを示しています。そして末社5社。右から・・・水神社:水波能売神富士神社:木花咲耶姫神事比羅神社:大物主神天満宮:菅原道真公稲荷神社:倉稲魂神となっています。末社群の隣には水戸九代斉昭公が腰掛けたとされる板石が置かれていました。更にこんなものも。この石は幸運の亀石と呼ばれていますが、宝くじの高額当選者によって奉納されたようです。参道の反対側には神馬舎が置かれており、中にはロバっぽい白馬像が収められていました。神馬舎の隣には奉納品などが飾られています。茨城県内の名だたる銘酒の他、神輿なども飾られておりますよ。いよいよ社殿を見ていきます。まずは拝殿から。大洗磯前神社の拝殿と同じ形ですが、カラーリングは暗めでシックです。加えて彩色が少ない分、垂木の先端などにキレイな金の装飾がなされ、拝殿のカラーリングとのコントラストが素晴らしいです木彫装飾の方は、大洗同様秀逸です。懸魚には葡萄を食む鼠、蟇股には雲を纏う龍が彫られており、どちらも細かいところまで表現されていました。ご由緒も見てみましょう。酒列磯前神社主祭神:少彦名神配祀神:大国主神 平安時代に編纂された歴史書である「文徳天皇実録」によれば斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗の海岸に御祭神大名持命・少彦名命が御降臨になり、塩焼きの1人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり(現代意訳:私は大名持、少彦名命である。日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた。)。」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が現在のひたちなか市磯崎町に創建され、また同時期に現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が創建されました。 少彦名命が酒列磯前神社の主祭神に、大名持命は大洗磯前神社の主祭神としてお祀りされるに至りました。 御創建の由緒からもわかるように酒列磯前神社と大洗磯前神社は二社で一つの兄弟神社となっております。 御創建の翌年の天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に、明治18年4月には国幣中社に大洗磯前神社と共に列されました。 また、昭和38年に奈良の平城宮跡の発掘調査が行われたとき、多量の木簡が出土した中に「常陸国那珂郡酒烈埼所生若海菜」と記された墨書文字が発見されました。これは今から約1300年前の昔、酒列磯前神社に奉納したこの地方のわかめを天平文化の栄えた奈良の平城宮まで頒納されていたのであり、また遠いその昔より、酒列磯前神社の御神威が顕著であり、著名なお社として全国的な尊崇を集めていたことを物語っています。酒列磯前神社 / ご由緒 より引用国造りも半ばという所で常世に帰ってしまった少彦名神、そして国譲りの後常世に下った大国主神の2柱の神格・・・。彼らが再び帰ってきた!・・・という開創譚で始まる磯前2社。那珂川を挟んで両岸に鎮座する大洗と酒列の2社で1つの信仰です。それにしてもどうして当地でこのような形態の信仰が発生したのか・・・なにか要因はあるんでしょうか?その謎を解くカギの一つに”延喜式”があります。磯前神社2社は延喜式内社なんですが、そこに記載された神名はどちらも”薬師菩薩明神”という薬神の尊称が充てられています。今でも各地の薬師・久須志神社で祀られることからも分かる通り、大国主神・少彦名神は薬神としての側面もイメージされていたようです。この様な薬神2柱を併せて祀るということは、何かしら疫病を防ぎたいという思いがあったのかもしれません。そして2社が創建された年というのは全国的にも天然痘が猛威を振るっていたらしく、これを防ぎたいという思いがあったんではないでしょうか。更に河口を挟む様に祀るという形式は、霞ヶ浦に対する鹿島・香取両神宮の配置に似ているような気がします。人と物を運ぶうえで河川が重要視されていた時代、入り口となる河口部に神格を祀り、邪なものが入ってこないようにとの思いがあったのは確かでしょう。拝殿の後方、本殿の左側には酒列鎮霊社が置かれています。これは所謂祖霊社で、この地域出身の英霊を祀っています。本殿は小振りですが、拝殿同様精巧な造りをしています。斜めから。磯前2社が一、酒列磯前神社でした。初見の時は酒列を”しゅれつ”と読んでいましたが、後に”さかつら”であることを知りました。酒列というのは少彦名神の降臨した所と伝わる”さかつら岩”から来ているようです。周囲の他の岩礁と異なる向きに列を成している岩なんだとか。酒は”逆(さか)”、列は”連(つら)”を表したものでしょう。そのため、”さかつら”を現代の表記に従えば逆連となるんではないか・・・なんてことを考えながら、次の目的地を目指しました。今回貰った御朱印です。通常の御朱印年越大祓の御朱印公式サイトへのリンクです。・酒列磯前神社以上です。
2025年10月06日
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青森市街から遠く東へ、夏泊半島の根元辺りに平内の町が広がります。町には幾筋かの川が流れ、それが河口で合流して陸奥湾へと注いでいます。川のせせらぎと林を抜ける涼風に心躍らせ、夏泊半島を周遊すれば、日々の苦痛も少しは癒えるというもの。青森県でも1.2を争う景勝地です。そんな景勝地の玄関口となる平内には、数ヶ所の寺院があります。今回紹介する寺院もその1つで、しかも曹洞宗の大本山 諸嶽山 總持寺の直末です。津軽八十八霊場二十一番札所:東方山 東福寺町のメイン通りから一本路地に入ると、細い道路が網目の様に走っています。冬になれば通ることが出来るのか、非常に心配なところですが、東福寺は細路地の奥まった所に境内を構えています。入口には六地蔵。道祖神っぽいのも幾つかありますね。鐘楼です。豪華な装飾が施された新しめの堂宇です。境内には鎮守の社として開運稲荷神社が置かれています。もう1つ、本堂前には三宝荒神を祀る小祠もあります。ちなみにこの三宝荒神の御朱印もあるんですが、青森県の中で三宝荒神の御朱印を扱っているのは、この東福寺だけだと思います。祠の横には説明が書かれています。三宝荒神 約450年前(元亀元年頃・1570年頃)、東岳より小湊に移転され鎮護の神として祀られる。火と竃の神ともいわれ、火難・盗難・水難・疫病の厄災消除や身体健全・家内安全・交通安全・商売繁盛などの功徳を持つ。 御開帳は、縁日の28日です。仏法僧の三宝を守護する神格として創造された神格です。蔵王権現などと同様に日本で発祥した神格であり、インドの古い神格の様に多面多臂の姿をしているのは、仏教の明王部などの姿を反映した結果でしょう。その成り立ちからも仏教と深く関わる神格と言えます。説明書きの他にも、三宝荒神の真言まで書かれていました。ほぅ、こんな真言なんですねぇそんで本堂です。優美に伸びる屋根の頂端がなんとも言えず美しいですね!大きく左右に枝葉を伸ばした老松が御堂を飾ります。装飾もこの様にしっかりとした造りです。ご由緒です。東方山 東福寺曹洞宗 諸嶽山總持寺末寺開山:陽山演碩大和尚本尊:釈迦三尊 城主のお姫さまに恋をしたカッパの伝説で有名な寺である。天正11年(1583年)、平内にあった福館城主 七戸修理隼人の一人娘が、行方不明になった。四方八方、手を尽くして捜しても、どうしても見つからない。そこで七戸修理は、氏神である雷電宮に願をかけ、21日間、必死で祈り続けたという。いよいよ満願の日、付近を流れる汐立川(今の雷電川)が、煮えたぎり始めると、一匹のカッパが、修理の前に現れて「姫の美しさに恋をして、川の中に引き込んでしまいました。今後は人を川の中に引き込むようなことはしませんから、どうかお許し下さい」と泣いて謝ったという。七戸修理は、姫の死を悲しみながらも今となっては、カッパを殺すより姫のめい福を祈ることが大切―――と延命地蔵尊を東福寺に寄贈、毎年7月23日から3日間、盛大な祭礼を催して、菩提を弔った。この時にカッパが書いた謝罪証文が残されたといわれている。 縁起によると東福寺の開基は、今から400年前、天正2年(1574年)のこと。東岳にあった大日坊という修験道場が廃寺となった時に分かれて、平内町に造られた寺である。 開祖は陽山演碩大和尚。遠く神奈川県の鶴見にあった曹洞宗大本山総持寺から、布教のためにやってきたらしい。 本尊は釈迦如来像で、青森港が開かれ、一番寺として常光寺が造営された際に常光寺の天芸和尚が、寄贈したものだと伝えられている。 最近になって、南部九戸の乱で非業の死を遂げた”鬼の孫六”堤弾正の墓が発見され、青森市横内の常福院にある堤弾正の墓との関係が話題になっている。この寺の堤弾正の墓を守ってきた山口家の過去帳によると堤弾正の父・滝口定房が弾正が生まれる前に養子を迎え入れており、その子に山口三郎左衛門定行と名乗らせて小湊に派遣していることが記載されている。 おそらくは、常福院の墓から分骨されたものらしいが、詳しいことはわかっていない。 寺の名物和尚は、慈善事業が飯より好きだったという二十六世栄山和尚。ダルマの絵が得意で、県内各地を回ってダルマの絵を売り歩き、生活に困っている人に施したという。 本尊は釈迦如来像。寺宝としては、このほかに延命地蔵尊像、十六羅漢、狩野惟信作の十六羅漢絵巻などがある。つがるのお寺さん 下巻 124.125ページ より引用南部氏の一支族、七戸南部氏と縁深い寺院のようです。大日坊という僧坊?が前身のようですが、名前からして真言宗の寺院だったんではないでしょうか。そしておそらく、先ほどの三宝荒神もその僧坊に祀られていたものだと思われます・・・知らんけど。ご由緒にはかっぱが出てきますね。七戸修理隼人の娘に惚れ、川に引きずり込んでしまいます。水に引けば人は死んでしまうと分かっていながら・・・。愛憎の物語です。その姫の供養の為に納められたのが延命地蔵尊、たしか堂内にそれらしいものがあった気がするんですが・・・詳細は不明です。本尊で無いにしても、面白い由緒を持つ仏像です。斜めから。平内の主要曹洞宗寺院、東福寺でした。この寺と関連のある七戸南部氏ですが、南部氏がそもそも諸流が多すぎて、七戸を名乗っていても他の系統の南部氏出身であることが少なくありません。しかも家系の正当性はそこまで確かなものでは無いらしく、この七戸修理隼人がいったいどこの血筋なのか分かりません。これは更に七戸の寺院を調べて明らかにしていきたいと思います。御詠歌かしこくも のこしてまいることのはわ まごころこめて よをおくるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि今回貰った御朱印です。津軽唯一の三宝荒神の御朱印以上です。次の記事・二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺 青森市街に立ち続ける古寺
2025年10月04日
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テレビ山梨が開局10周年の記念事業として、県内の109の寺院を札所として選定し、昭和55年(1980年)に開創した霊場です。札所となっている寺院は宗派問わず選ばれており、真言宗・浄土宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗・時宗など幅広い宗派の寺院が揃っています。それ故か札所本尊は必ずしも観音・如来に統一されているわけではなく、かなりバラエティーに富んでいます。基本は本尊がそのまま札所本尊になっているようですが、どうなんでしょう。更に五十番札所は何故か2つあり、その理由が気になるところ・・・。御詠歌も見つけられなかったんですが、存在するのかは不明です。御朱印はというと、必ずしも巡礼の御朱印が用意されているという訳ではないようです。これだけの札所があると寺院ごとの対応はまちまちで、直書きしてくれるところもあれば、書置きのところ、そもそも取り扱っていないところもあります。御朱印総揃えでの結願は難しいでしょう。山梨県全域に札所が置かれていますが、時間を懸ければ順打ちもできそうです。山間部にある札所も幾つか見られるので、なるべく温かい内にまわるのが良いのではないでしょうか。古刹から最近創建された寺院までいろいろとありますので、結願する頃には山梨の歴史にかなり詳しくなれると思います。打ち始め:2025.9.28参拝した札所の御朱印と位置は下のリンクからご確認ください!・甲斐百八霊場 御朱印の記録札所記事をまとめたページはこちらです。・甲斐百八霊場 札所記事一覧以上です。
2025年10月04日
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一番札所:定額山 浄智院 善光寺・一番札所:定額山 浄智院 善光寺 甲斐国甲府に移された信濃国の大古刹三番札所:松本山 大蔵経寺八番札所:高橋山 放光寺九番札所:乾徳山 恵林寺・九番札所:乾徳山 恵林禅寺 禅の世界を表す晴信公菩提寺三十五番札所:妙亀山 廣厳院・三十五番札所:妙亀山 廣厳院 甲斐曹洞宗の大寺、廣厳院三十七番札所:護国山 国分寺六十番札所:瑞巌山 圓光院六十三番札所:福田山 塩澤寺六十四番札所:天台山 羅漢寺・六十四番札所:天台山 羅漢寺 山岳信仰と修験の地に建つ古寺七十七番札所:鳳凰山 願成寺以上です。
2025年10月04日
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霊場の開創が昭和55年と最近ですが、札所の方に聞いたところ、現在まわっている方は少ないそうです。それに加えて札所の数も非常に多いため、当然対応は札所によってまちまちです。直書きしてくれる札所もあれば書置きスタイルの札所もありました。そして百八霊場の御朱印は取り扱っていないとする札所もチラホラ・・・必ずしも御朱印総揃えで結願出来る巡礼ではないようです。ですが札所には山梨の名だたる古刹がひしめいているので、歴史好きには非常に楽しめる巡礼なんではないでしょうか。2025.10.4まだ数ヵ所まわっただけです。これからの巡礼を通して、霊場の雰囲気を掴んでいきたいと思います。出張に結願出来るといいんですが、さて・・・。発願:2025.9.28甲斐百八霊場一番札所:定額山 浄智院 善光寺御詠歌?本尊:善光寺如来 अमिताभ आर्यावलोकितेश्वर महास्थामप्राप्त札所記事・一番札所:定額山 浄智院 善光寺 甲斐国甲府に移された信濃国の大古刹二番札所:岩泉山 寂静院 光福寺他の巡礼:甲斐国三十三観音霊場二十一・二十二番札所御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未三番札所:松本山 大蔵経寺他の巡礼:甲斐石和温泉七福神霊場 寿老人御詠歌?本尊:不動明王 अचलनाथ札所記事未四番札所:龍石山 永昌院御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未五番札所:金峰山 洞雲寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未六番札所:妙高山 普門寺御詠歌?本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु札所記事未七番札所:徳和山 吉祥寺他の巡礼:甲州東郡七福神霊場七番札所御詠歌?本尊:毘沙門天 वैश्रवण札所記事未八番札所:高橋山 放光寺他の巡礼:甲州東郡七福神霊場五番札所御詠歌?本尊:大日如来 महावैरोच札所記事未九番札所:乾徳山 恵林禅寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・九番札所:乾徳山 恵林禅寺 禅の世界を表す晴信公菩提寺十番札所:天竜山 慈雲寺御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十一番札所:裂石山 雲峰寺他の巡礼:甲斐国三十三観音霊場十六番札所御詠歌?本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十二番札所:塩山 向嶽寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未十三番札所:神竜山 雲光寺御詠歌?本尊:地蔵尊 क्षितिघर्भ札所記事未十四番札所:海涌山 清白寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未十五番札所:休息山 立正寺御詠歌?本尊:十界曼荼羅札所記事未十六番札所:等々力山 万福寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未十七番札所:菱溪山 三光寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未十八番札所:柏尾山 大善寺他の巡礼:甲州東郡七福神霊場一番札所御詠歌?本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु札所記事未十九番札所:天童山 景徳院御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未二十番札所:天目山 栖雲寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未二十一番札所:安寧山 保福寺御詠歌?本尊:地蔵尊 क्षितिघर्भ札所記事未二十二番札所:水上山 花井寺御詠歌?本尊:弥勒菩薩 मैत्रेय札所記事未二十三番札所:徳厳山 福泉寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未二十四番札所:岩殿山 真蔵院他の巡礼:甲斐国三十三観音霊場三十番札所御詠歌?本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未二十五番札所:大儀山 長生寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未二十六番札所:大幡山 広教寺御詠歌?本尊:地蔵尊 क्षितिघर्भ札所記事未二十七番札所:金鼇山 宝鏡寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未二十八番札所:引接山 西方寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未二十九番札所:水上山 月江寺御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事未三十番札所:吉積山 大蓮院 西念寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未三十一番札所:医王山 承天寺御詠歌?本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु札所記事未三十二番札所:蓮華山 妙法寺御詠歌?本尊:大曼荼羅札所記事未三十三番札所:霊鷲山 常在寺御詠歌?本尊:大曼荼羅札所記事未三十四番札所:竜玉山 称願寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未三十五番札所:妙亀山 廣厳院御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・三十五番札所:妙亀山 廣厳院 甲斐曹洞宗の大寺、廣厳院三十六番札所:塩田山 超願寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事未三十七番札所:護国山 国分寺御詠歌?本尊:薬師如来 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2025年10月04日
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白河の街から国道289号にのってひたすら東に向かいます。かつて福島出張の時には、この道を毎日走り職場へと向かっていました。もう30分も走ったかと思う頃、右側に形の整った小振りの山が見えてきます。日本武尊の伝承が残る陸奥の聖地に到着です。都々古和気神社(三森)夕日を背にして里と山地との淡いに屹立するは建鉾山。字の通り山頂に鉾を突き立て神を奉斎したとする伝承があり、実際に周辺からは神鏡や勾玉を模した石造道具類や、坏・陶器・鉄剣など祭祀に用いたとされるものが幾つも出土しています。そんな建鉾山の麓には1基の鳥居が建っています。福島県や茨城県北部で見られる独特の注連縄や立派な行燈が鳥居を飾り、これより先は神域であるという事を実感させます。石柱も見てみましょう。柱には”国幣中社奥院都都古和氣神社”とありますね。その通り、この建鉾山は棚倉町に鎮座する馬場都都和氣神社・八槻都々古別神社の2社いずれもが草創の地として崇めている場所なんです。特に山頂の磐座があるところは、本来人の立ち入りを許していない祭祀の中心地だったと言います。今ではこの鳥居から十数分で山頂までアクセスできてしまいますがね・・・。杉の木立が左右に分かれ、まるで森が割れたかのようになっています。自然が作りだした参道を進んでみましょう。ノシノシと鼻息荒く登っていくと、道の脇には折れた石仏。子供を抱えていることから子安観音だと思われます。うーん、これは神仏混淆の痕跡というよりは、子供の成長や安産を願った素朴な民間信仰の風情が感じられます。道も折り返しというところで水盤が置いてあり、その先に社が見えてきました。参道脇には石の小祠と石碑。碑面にはざっと”十二代景行天皇の王子 日本武尊が立ち寄った聖地”という風な内容が刻まれています。・・・ということは石の小祠も日本武尊を祀るものかもしれませんよね、知らんけど。その上には更に小祠。祭神は不明です。山の中腹に社があります。切妻屋根の横長な社、デザインはかなりシンプルです。この社も都々古和気神社で、他の都々古和気神社と共に延喜式名神大社:都都古和氣神社の論社となっています。信仰の根源地に境内を構えているため、祭祀と深く関わっていたんではないでしょうか。ご由緒です。村社 都々古和気神社御祭神・味耜高彦根命大国主神の御子で殖産興業の指導をもって、一生父命の大業をたすけられた関東地の大神。・日本武尊(相殿神) 延喜式内社、白河郡7社の1つにして、人皇十二代景行天皇御宇第三子の皇子、日本武尊が東夷御征伐のためにおいでなられた。この時、この都々古山に、味耜高彦根命を勧請され東夷平定の御誓いをたてられ、鉾を建て御親祭なされたのがはじまりで、この古事に因み都々古山山頂に梵天を奉葬する神事が行われている。 建鉾山あるいは、高野峯山の名をもってよばれている小山は、一際目立つ三角錐状の形をもち、周囲から特異な山容を望見することができ、古代における山岳信仰の対象としての特徴をよく見えている。 棚倉町馬場都々古和気神社の原鎮座地としての伝承がある古代祭祀の遺跡としての建鉾山山頂には高さ1.4mの建鉢石があり、この岩の下部は巨大な母岩が続き、更に山腹までのびた典型的な神奈備山の山容をなして、神が降臨するにふさわしい盤座・石神である。神が降り給う岩座の前に、くさぐさの供物をささげ祭祀をおこなった神道祭祀の遺跡であり、古代の聖地をそのまま現在の神社の神域となっている。祭祀遺跡のど真ん中に境内を構える古社でした。社殿は控えめですが、その由緒は相当な昔に立ち返る事が出来るほどに古いものです。おまけに現在開催されているかは不明ですが、梵天を奉斎する祭りが行われているというのは本当に興味深いんです。建鉾山から南東に数kmの所に八溝山というこれまた日本武尊と関りのある信仰の山があるんですが、こちらでも梵天祭という祭が行われているんです。こちらの行事には茨城の友人が今年参加しており、以前は神輿を揚げていたようなんですが、過疎化と高齢化の波によって現在は神輿無しで行っているようです。明らかに両者には関連が見られるんですが、詳細は分かりませんでした。更に建鉾山祭祀遺跡については↓のリンクから詳細をご覧になれます。ページ最下部にもいろいろと独り言を書いているので、興味のある方はそちらも見てみてください。・福島県における石製模造品の様相 ー建鉾山祭祀遺跡出土遺物を中心にー 佐久間正明 2020.11.21拝殿に対して本殿は本格的な神社建築となります。男神を表す上向きの千木が猛々しいです。拝殿斜めから。拝殿の左奥辺りから頂上に登っていけます。この石碑の脇に伸びる山道が登山道です。途中こうした岩場が見られ夏などは藪漕ぎになるかもしれませんが、基本は数百mの低山ですので、そこまでキツイというわけではありません。ただ熊には注意です。山頂に到着です。標高を示す看板が石祠に立て掛けてあり、その奥には磐座もありました。何よりも見て欲しいのが頂上からの眺望です。白河の街は遥か先ですが、麓の田園地帯が一望できるんです。この標高でこれほどまでに見通しの効く山もそうそう無いのではないでしょうか。引きでもう一枚。夕暮れに登ったのが正解でした!夕日に照らされ金色に輝く稲穂が風に揺れています都々古和気神社の祭神の味耜高彦根神は農耕神とされますが、それを祀る山が農地のすぐ端にあるというのは、何やら当地の人々の豊作を願う強い思いが感じられて、非常にエモかったですそしてこれが磐座です。誰かが運んだでもなく、自然と頂上にこんな岩があったら、神聖なものと思うのも不思議な事ではないでしょう。いかがだったでしょうか、奥州の南端に残る上古の祭祀遺跡、建鉾山でした。縄文の世が長く続いた東北であっても、こうした農耕文化の流入と密接にかかわる祭祀遺跡が残っているのは面白いですねぇ。南から入ってくる上方の勢力と、在地の縄文系の人々とのせめぎあいは数世紀続くことになりますが、ここもそうした歴史の一幕を伝える名跡といえるでしょうか。神聖な山の頂には、今も磐座と石祠が並び立っていました。以上です。追加情報コーナー2020.11.21福島県における石製模造品の様相 ー建鉾山祭祀遺跡出土遺物を中心にー佐久間正明・・・。IV 建鉾山祭祀遺跡 建鉢山祭祀遺跡を抜きにして古墳時代の祭祀を語ることはできない。こうした認識は決して言い過ぎではないものの、その重要性に比して実証的な研究は停滞してきた感が否めない。(1)白河市周辺における4世紀末~5世紀初頭の動向 建鉢山祭祀遺跡の出現期あるいは先行する時期、阿武隈川本流域では、装飾の施された刀子形が出土した坊主(子)山遺跡がある。舟田境遺跡は5世紀第一四半期と考えられ、立地からは水に関する祭祀の可能性がある。また舟田中道遺跡からも同時期の住居跡が確認されている。 建鉾山祭祀遺跡に隣接する三森遺跡では、5世紀中葉を中心とする方形区画、及び集落の内容が明らかにされている。久慈川流域では小規模な円墳群の一基と考えられる塚原古墳から、東北地方では最も初期に位置付けられる剣形石製模造品が出土している。 建鉾山祭祀遺跡の周辺では、その出現以前に遡ると考えられ石製模造品が見られる。そのため、建飾山で祭祀が行われる素地が既にあり、大規模な祭祀が執行されたことが窺える。(2)過去の調査と概要 建鉾山祭祀遺跡は福島県白河市表郷に所在する。建鉾山は武鉢山・高野峯山・尊登山などの別称・古称があり、円錐状の形状を呈している。遺跡の北面では東流する阿武隈川の支流・社川が沖積面を形成し、山頂とは比高差約100mを測る。山頂には建鉾石とよばれる立岩があり、遺跡は山の北側の緩斜面にある。なお建鉾山の東方400~500mには、古墳時代の首長居館と考えられる方形区画が確認された三森遺跡がある。 この建鉾山祭祀遺跡及び三森遺跡については、首藤保之助氏による遠物採集の記録が残され、その年代は1937年にさかのぼる。さらに1939年には國學院大學の大場磐雄氏により調査が行われている。 その後、1957年と1959年に國學院大學の亀井正道氏により本格的な調査が行われた。その際、建鉾山祭祀遺跡は「高木地区」、三森遺跡は「三森地区」と呼称されている(亀井1966)。 建鉾山の東側約300mにある三森遺跡の面的な調査が実施され、ほぼ同時期の5世紀に営まれた遺跡の内容が明らかにされた。その成果は、建鉾山祭祀遺跡を考える上で、示唆に富むものであった。大型方形区画(一辺46.5m)・長方形区画(24×18m)・長方形の二重柱列区画(短軸20m)が発見され、一辺が13mを測る大型の竪穴住居跡も2棟検出された。出土遺物には韓式土器、羽口など特徴的な遺物も多数含まれる。遮蔽施設による「祭祀の場」、方形区画の「居館」、工房跡の「生産遺構」が確認された点は重要である。地域の中核ともいえる首長居館が隣接することは、建鉾山祭祀遺跡の成立に、この居館の首長が重要な役割を担っていたことを暗示する。(3)多角的な視点で捉える建鉾山 建鉾山祭祀遺跡には3つの関係が読み取れる。特徴的な刀子形・幹部列点類型の分布から、建鉾山祭祀遺跡、天王坂古墳・雷電山遺跡に強い結び付きが読み取れ、【阿武隈川流域を中心とする紐帯】が指摘できる。阿武隈川流域で確認される方形突出部二孔類型、方形突出部二孔突起類型の刀子形は、毛野西部に系譜を辿ることが可能であり、【上毛野からの影響】が考えられる。現在のところ石製模造品の中に、畿内との直接的な関連を示すものは見出せないが、 祭祀遺跡成立の背景に 【大和政権の意図】があり上毛野の首長がその導入に主導的役割を担ったと解釈される。 東国に見られる首長層と祭祀遺跡との関係は、建鉾山祭祀遺跡に代表されるように、祭祀遺跡が在地の一首長により成立したのではなく、複数の首長層との関係の上に成立したという構図を復元することが可能であった。 遺跡を微視的な見地から見た場合は【地域の中心地】という性格が見える。神南備形の建鉾山は下野・常陸からの両ルートに臨む要衝にあり、首長居館の可能性のある方形区画も隣接して存在する。こうした状況からは、祭祀遺跡が地域において最も求心力が働く「特別な場」という性格が必然性を持って浮かび上がる。 列鳥的な巨視的な見地からは、建鉾山が陸奥への【玄関口】にあたり、その扉は上野と阿武隈川流域、そして仙台平野を繋ぐものであることは議論の余地がない。それはまさに後の東山道のルートにあたる。5世紀における毛野から仙台平野への古東山道ルートには渡来系文物が色濃く残り、重要な位置を占めたとの指摘は多い(亀田 2003)。建鉾山はまさしくこのルート上に位置する。(4)建鉾山祭祀遺跡の展開過程 建鉾山祭祀遺跡の展開を考える時、祭祀を行った地域首長層の動態から、大きく4つの時期に分けられる。先ず【建鉢山成立直前の段階】では、写実性の高い刀子形の特徴から坊主子山遺跡と日ドヶ塚(常陸鏡塚)古墳の関連が窺えるものの、点としての結び付きが想定されるのみである。そのため、積極的な交流は次の段階を待たなければならない。なお、建鉾山での祭祀は突如として出現すると捉えられる場合が少なくないが、遺跡の周辺では、建鉾山祭祀成立以前に石製模造品が導入され、建鉾山で大規模な祭祀が行われる素地が既にあったことを指摘できる。 【5世紀前葉~前半】に建鉾山で石製模造品を使用する祭祀が始まる。祭祀の導入を主導したのは群馬県の首長層であり、そこには石製模造品製作工人の派遣なども想定される。建鉾山に拠点的な祭祀が出現したのは、いくつかの要因が重なったことによる。1つはその秀麗な山容にある。祭祀の場を選定するに際し、建鉾山が偶然選ばれたのではなく、大和における祭祀の拠点であった三輪山を思わせる神南備形の山容が選ばれた。地理的な見地からは、建鋅山が栃木県・茨城県からの両ルートに臨む要衝に位置する点が重視されたであろう。こうした地域の視点とは異なる列島的な見地からは、建鉾山が東北地方と関東地方の玄関口にあたり、その扉は群馬県と阿武隈川流域、そして仙台平野を繋ぐものである点が重視される。そのルートは当時の大和政権が重視した内陸の交通路であった。 そして、東北地方南部の各地へ石製模造品が導入される際、群馬県の首長による働きかけを受けた三森の首長が実質的な役割を担った可能性が高い。さらに、健鉾山祭祀遺跡形成の中心となった三森遺跡が、東北地方南部における石製模造品の拠点の1つとなり、そこから周辺の首長に、情報発信・製品移動・工人派遣などを行った可能性もある。 また、三森遺跡では鍛冶関連遺物や銅地金なども確認され、先進技術・新来の文物が三森遺跡を経由して東北地方南部の各地へもたらされた可能性が高い。 【5世紀中葉~後半】にかけて、群馬県の首長との関係性は継続するものの、それ以上に地域における首長との関係性が強く見られるようになる。初期の人物埴輪が樹立された天王壇古墳に葬られた首長や、短甲形、盾形等の石製模造品を多量に出土した雷竜山遺跡で祭祀を行った首長との関係性が見られるなど、地域における上位階層の首長との繋がりが顕著に認められるようになる。建鉾山祭祀遺跡の成立を主導した群馬県の首長層との繋がりは維持しながらも、阿武隈川流域の首長層との紐帯を強め、阿武隈川流域から栃木県中央部における中核的な位置付けとなる。 三森遺跡が、東北地方南部における石製模造品の拠点的な情報発信の地であったことに変わりはない。 【5世紀後葉~6世紀初頭】、石造模造品の意義が相対的に低下するという変化に歩調を合わせるように、群馬県や阿武隈川流域との関連が希薄になる。そして、それまでにあまり見られなかった、茨城県や太平洋沿岸部との関係性が見られるようになる。ただ、それらは前代のように地域を代表するような古墳に埋葬される首長ではなく、相対的に下位に位置付けられる首長層との結び付きと考えられる。 このように、時間の進展とともに、繋がりを持つ地域も「内陸部(群馬県ー阿武隈川流域)→内陸部(阿武隈川流城一栃木県)→沿岸部・茨城県」と変化し、関連する首長層の階層も相対的に低いものとなる。建鉾山祭祀遺跡は、 5世紀代を通して拠点的な祭祀という重要性は変わらないものの、その様相は一貫したものではなく、時間の推移とともに変化する姿を読み取ることができる。 こうした建鉾山祭祀遺跡の変遷は、地域内部の動きを示すに留まらず、先進地たる群馬県、あるいは畿内における政権中枢の動きに連動している可能性が高い。建鉾山祭祀遺跡の遺物と遺構に内包される情報は、石製模造品を用いる祭祀が列島各地に展開する動向を敏感に示すものと言える。 関東地方の首長は、畿内を凌駕するほど数多くの石製模造品を製作し、独白とも言える展開をみせる。そうした中、 東日本における1つの核になった場所が建鉾山であり、その精神的イデオロギーを支えた祭祀遺物たる石製模造品も重要な役割を果たした。その際、主導的な役割を担ったのは毛野の有力首長であり、その下で在地の首長が必要な**を進めていた。5世紀、畿内から毛野そして東北地方へと至る古東山道ルートが重要視される歴史的背景の中で、必然性を持って成立した遺跡なのである。・・・。なんと大和王権の影響を受けて成立した遺跡だったようです。日本武尊の伝承が残るのも頷けますね。更に祭祀の導入を担ったのは上野国の首長だとか。毛野が分かれて成立した国ですが、ここは古来より馬産の地として有名であり、それを主導する渡来系の人々が多く住んでいたとされます。それを示す”多胡碑”は現存しています。同じく毛野から分かれた下野国にも日本三古碑の1つ、”笠石”があります。現在は笠石神社の御神体となっていますが、その碑面の文字は現代では再現できないほどの美文字であり、使用漢字・年号からも在地の人間と言うよりは渡来系の職人の手になるものとされています。こうした渡来系の住人が数多く住む土地と接していることや、東北に至る要衝の地であることが下敷となり、こうした上方の文化が流入したんですねなんとも面白いことです。時代と共に祭祀の様態は変化しているようですが、この遺跡が東北地方への文化の発信地として長らく機能していたようです。・・・そういえば日本三古碑は、いずれもこのような渡来文化が色濃く残る土地にありますよね。多賀城碑の宮城もそうでしょう。本当に面白く最後まで読ませてもらいました以上です。
2025年10月02日
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