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みなさん古墳というと上方や坂東など、古くから朝廷の支配が及んでいた地域に存在するというイメージはありませんか?僕もそう思っていて、それならば北東北には古墳なんてないだろうという風に思っていたんですが、なんとこの北の地にも古墳と呼ばれる遺跡が存在していました。律令国家に組み込まれていない頃、7世紀~10世紀の北東北・北海道に存在する”古墳”は”末期古墳”と呼ばれ、被葬者は蝦夷と呼ばれた者たちです。その内、おいらせ町の阿光坊古墳群という史跡では、小規模な古墳が100数基も出土しています。古墳どうしは密集しているものもあれば、単立で置かれているものもあり、まちまちです。そのほとんどが周濠(周囲を掘り下げ、堀状にしたもの)を伴う典型的な末期古墳で、一部周濠が見られないものもあるそうです。阿光坊古墳群と一口に言っても、幾つかの遺跡によって構成される複合的な遺跡であり、それぞれの遺跡から面白い出土品が確認されています。遺跡の出土品や解説などはおいらせ阿光坊古墳館(※日休み)にてご覧になれます。これらは7世紀~9世紀と連続的に造営されたもので、中世以前の東北の姿を現す貴重な遺跡であることから、国指定史跡になっています。阿光坊古墳群暖かい日差しと心地の良い涼風が吹く5月の末、おいらせの阿光坊古墳群を訪れました。去年は古墳館のみを見学したんですが、今回は史跡の方も見に行きました。古墳館からは国道45号を西に数分とかなり近く、展示物を見てすぐに、それらがどのような場所に埋まっていたのかを見ることができ、個人的にはかなり興奮しました。かねてより興味のある蝦夷達に関連する史跡ということもあってか、草原を進む足取りはかなり軽かったです・・・それでは見ていきましょう。阿光坊古墳群に置かれている”末期古墳”とはどのようなものかというと、↓の様な土饅頭がそれです。直径でいうと4m前後位でしょうか、土が山状に盛られ、その周囲が掘り下げてあります。この掘り下げ部分は周濠と呼ばれ、末期古墳には典型的なものだそう。近くにある説明書きを読んでみましょう。古墳のつくりとおまつり 土を盛り上げて円形の墳丘を作り、その周囲を取り囲むように直径約5~10mほどの溝(周溝)が掘られています。 中央には地中に長方形の部屋(主体部)がつくられ、遺体を納めたあと木で蓋をし、土を盛り上げました。この部屋の中には、身に着けていた首飾りやブレスレットなどの装身具のほか、刀や矢といった武器が納められました。人骨は出土していませんが、首飾りや刀の取っ手の向きから、頭を南東方向に向けていたと考えられます。 南東方向の溝から、供え物が集中して出土してます。供え物は溝の底ではなく、ある程度埋まった様子を伺わせる状態で出土するので、古墳が作られてから一定期間をおいて供えられているとみられます。現在行われる一周忌のような風習があったのでしょうか。平成29年10月 おいらせ町教育委員会副葬品は装身具と武具、とあります。後から見ていきますが、装身具に関しては勾玉などの他に錫・ガラス玉で作られたものも出土しているようです。勾玉も含めこれらの原材料を現地で採取するのは難しく、他の地域から輸入していたみたいです。特に錫とガラスは大陸産のものが使われていたそうで、かなり広い交易圏がこのころ既に存在していたんでしょうね。縄文の頃からこうした交易は盛んで、それの延長といったところでしょうか。大陸との交易ルートというと、おそらく北側からの道を使っていたんではないでしょうか。中世以降も山丹貿易と呼ばれた樺太を経由する貿易ルートは、大陸からの品を日本にもたらしていました。それがまさかこの頃(またはそれ以前)から行われているとは本当に驚きです。次にすぐ隣の天神山遺跡を見てみましょう。こちらも同じように末期古墳が数基見られます。阿光坊古墳群のものをはじめ、この様に盛り上がっているものは幾つかしかありませんが、形が残っていないものもあり、それらを含めると先ほどの100数基(それ以上とも言われる)という数にのぼります。説明書きです。天神山遺跡 先に見つかった阿光坊遺跡の南側に隣接した地域である天神山遺跡にも、当然古墳があるだろうと、昭和63年(1988年)の調査当初から推測されていました。 このことを確かめるため、平成11年(1999年)から発掘調査が行われ、その結果、現在までに39基の古墳が見つかっています。 最大50cm程の高まりが観察されるものもありますが、ほとんどのものは地表からは見分けられません。しかし地下には周溝・主体部・遺物が良好な状態で保存されているのです。 なお、平成23年(2011年)に行われた電気探査で、新たに18基の古墳が眠っている可能性が指摘されており、さらに未発見の古墳が多数あるものと思われます。平成29年10月 おいらせ町教育委員会この天神山遺跡の”T5号墳”からは完品に近い蕨手刀が出土しており、阿光坊古墳館にて実物を見ることができます。説明書きがありました、読んでみましょう。天神山3号墳・5号墳 この地域は平成16年(2004年)・17年(2005年)に発掘調査された。天神山3~6号墳の4基が見つかり、全体が調査された3号墳と5号墳を強調表示した。 天神山3号墳は、周溝の内側の直径が約5mの円墳であり、中央には長方形の穴が掘られていた。出土遺物には勾玉5点・切小玉1点・管玉1点・ガラス玉76点・小玉1点・刀子(ナイフ)1点・釧(腕輪)1点が出土した。 天神山5号墳は、周溝の内側の直径が約7mの円墳であり、中央には長方形で深さ0.5mの穴が掘られていた。蕨手刀が周溝の中から出土している。平成24年8月 おいらせ町教育委員会同じ天神山の古墳でも、大きさには結構差があるみたいです。大きい方の5号墳からは蕨手刀が副葬されており、身分の高い人物だったのかもしれません。下に5号墳から出土した蕨手刀の写真を載せます。天神山遺跡から舗装道を進むと、更に違う遺跡が広がっています。着きました、十三山遺跡です。こちらにも先ほどの2つの遺跡同様、小墳が幾つも作られていた様です。写真は”J10号墳”のもの。こちらも説明書きが近くに建っているので見てみましょう。十三森(2)遺跡 周辺には、高さが0.2から1m、直径が6から10mほどの古墳が60基見られます。発掘調査が行われたのは3基だけで、多くが築遺当時に近い姿を現在に伝えています。 J10号墳は数少ない発掘が行なわれたもので、溝の内側が10m、外側が13mの円墳で、南東側には溝のように掘り残された通路があります。出土遺物には9世紀末に史跡五所川原須恵器窯跡で焼かれた長頸瓶があり、築造時期を探る手掛かりとなりました。そのほか耳皿や「十」と墨書のある土師器坏、砥石などがあります。 最も古い7世紀前半の古墳から、新しいJ10号墳の9世紀末まで、ほぼ3世紀にわたって作られたことがわかりました。平成29年10月 おいらせ町教育委員会こんなところにも五所川原産の須恵器が伝わっているんですね。津軽に広がる平安頃の遺跡からも、この五所川原産の須恵器が出土しているところがあり、当時から交易品として有名だったことが読み取れます。つまり五所川原には焼き物の技術を持った人々が居住していたんでしょう。かれらはどこから来たんでしょうねぇ?約60基の古墳があるとのことですが、そのほとんどは手つかずで、周囲には(よく手入れされた)原野が広がっています。十三山遺跡から入り口の方に戻っていると、堀跡の様なくぼみがあります。こちらも道路状遺構という遺跡みたいです。この辺りからこの古墳群にアクセスしていたんでしょうか。ここを歩く蝦夷達の姿を思わず想像してしまいます。説明書きです。道路状遺構 東西200mの範囲で古代人の踏み分け道が見つかっている。古墳群への葬送やお参りにつかったものでしょう。古墳群周辺には、同時期に存在した集落跡が点在していてそれぞれへつながっているとおもわれます。 この沢沿いのほか、尾根上にも見つかっていて、複数の通路があった様子が伺えます。 10世紀前半に降下した火山灰を踏みつけて人々が歩いた様子がみられるので、往来があったことは確実で、その頃まで古墳が作られた可能性があります。この説明書きのなかに火山灰とありますが、これは915年に発生した十和田火山(現在の十和田湖)噴火によるものです。この噴火によって奥入瀬川沿岸の集落は大打撃を受けており、放棄されたところも多かったとか。阿光坊古墳群がある当地も同じような境遇だったみたいですが、それでも噴火後に人が来ていたということは、かなり重要な葬送・祭礼の場として見られていたんではないでしょうか。次に阿光坊古墳館の展示品を見ていきましょう。この様に勾玉などの装身具の他に刀剣なども出土しています。そんでこれが先ほど見たT5号墳から出土した蕨手刀です。錆びていながらも、当時の優れた造詣が見て取れる逸品となっています展示品の一画には蕨手刀を現在の技術で復元したものも飾られています。蕨手刀がどの様な姿だったのかということが良く分かりますねぇ。この独特な形状は馬上からの撃剣に適したものだったとか。騎馬戦術が蝦夷の基本戦術だったんでしょうか。こちらも復元品の1つです。根岸遺跡の出土品の中には小札もあったようで、そこから復元されたのがこの鎧です。軽量かつ頑丈そうな鎧で、これも乗馬している時に適したもののように見えます。多様な出土品を見てきましたが、これらは全て現地生産されていたわけではなく、様々な場所から運ばれてきたものを加工して作成していたようです。こちらの地図では材料ごとの原産地が示されています。錫製品やガラス玉に関しては大陸からもたらされており、広い交易圏が広がっていたようです。出土品と文化の交わり 阿光坊古墳群や周辺の集落遺跡からは、この地域でつくられたものではないもの、つまり交易でもたらされたと考えられるものが出土しています。 まず挙げられるのが、鉄製品です。製鉄は、9世紀後半以降、津軽地方で行われていますが、それ以前のものはよそからもたらされたものと考えられます。鉄製品の中でも、刀類は高い技術と多くの鉄素材を必要とする特に貴重なものであったことでしょう。 また、錫製品やガラス玉、勾玉などの装身具も在地では製作できないものでした。錫製品は大陸からもたらされた可能性があり、またガラス玉については、海外から輸入されたガラス素材を用いてつくられていたものです。 そのほか、須恵器は東海地方や、北陸地方でつくられたものがもたらされています。 阿光坊古墳群がつくられ始めたころは、律令国家側に対し、朝貢と下賜という関係で物品の交換が行われました。そうした姿を出土遺物が表しています。この辺りでは津軽地域が製鉄の先進地帯だったようですね。このブログでも以前、津軽の製鉄遺跡をあつかったことがありますので、興味があるかたはコチラからどうぞ。ここは津軽三十三観音霊場の札所にもなっており、かつ安東氏とも関りの深い場所となっています。古墳群の出土品を見てきましたが、集落遺跡ではどのようなものが見つかっているんでしょうか?古墳群では実用品でもある刀剣や鎧なども出土していますが、そうした実用品は集落遺跡ではなかなか出土しないそう(ないわけではない)。集落が一瞬で放棄されたのか、緩慢に放棄されていったのかなどの違いも、こうした出土品の違いを生じさせているんではないでしょうか。例えば土砂崩れなどで放棄された集落では被災者などの実用品が出土しますが、徐々に人が離れて行った結果放棄された集落では実用品が持ち出され出土しない・・・とかの違いが考えられますよねぇ?その辺は良く分からないんですが、まずは説明書きを眺めてみましょう。 古墳群から出土する遺物は、死後ばかりでなく、生前にも価値が高かったものと推定され、竪穴建物を廃絶する際に捨ててしまう性質のものではなく、集落遺跡からの出土はまれです。しかし、理由は不明ですが、末期古墳と同じもの、あるいは関係が類推されるものが出土することがあります。 根岸遺跡7号竪穴建物跡(古墳群から4.5km東)からは、蕨手刀の柄が出土しています。また、挂甲小札が137枚出土しています。岩手県盛岡市の上田蝦夷森古墳群から衝角付冑が出土していることから、古墳群と結びつけられる可能性があります。 ふくべ(3)遺跡24号竪穴建物跡(古墳群から1km西)からは鉄斧・鉄鏃・土玉が、27号竪穴建物跡からは環状錫製品と轡の一部が見つかりました。また、ガラス玉が出土した建物もあります。中野平遺跡(古墳群から3km東)でも轡の一部が出土した例があります。 これらから、古墳に葬られた人々は、周辺の集落に住んでいたと考えられます。次に古墳群の被葬者について見ていきましょう。古墳群からは人骨の出土は無いそうですので、出土品から推測していかなければならないでしょう。被葬者の推測 阿光坊古墳群の被葬者は、どんな人だったのでしょうか。実のところ、自らのことを記した記録は皆無であり、言語・宗教・風俗など、この地に暮らした人々を書き表したものは全く知られていません。 一方、朝廷が記した史書のなかで、北東北や北海道の人々は蝦夷と呼ばれ、中央とは異なる言語を話し、五穀を持たない狩猟民であり、体や顔が変わっているとされています。髭が蝦(エビ)のようだという解釈であるようですが、実態を示しているのか定かではありません。 発掘調査でわかっていることは、ピアスやブレスレットをし、勾玉やガラス玉のネックレスをしていることと、絹や麻の服を着ていたらしいこと。刀や矢を持っていること。では、服の色は、形は・・・。大変難しい問題です。 日本列島北部には、多くの古代遺跡があり、さまざまな出来事があったろうことが大地に刻まれています。しかし、わからないことが多いのも事実です。蝦夷たちがどのような言語を話していたいたのか、どこにルーツをもつ人々だったのかという点についてはかなり興味があります。現状いくらばかりかの記述が残っているだけで、大部分は謎に包まれています。それ故か歴史好きを引き寄せてやまないテーマなんですが、いつか分かる日が来るんでしょうか・・・。そして次も蝦夷達に関する記述です。よくよく朝廷の文書には”津刈”や”都母”、”飽田”といった地名が出てくるんですが、それらが現在のどこなのかというのは長らく研究されてきました。ここではその内都母の所在地について言及しています。都母村 8世紀末から9世紀の歴史を記した「日本後記」弘仁2年(811年)7月辛酉(29日)条には、”邑良志閇(おらしべ)村”、”弐薩体(にさたい)村”、”幣伊(へい)村”といった岩手・秋田県北地域と推定される地名とともに、”都母(つも)村”が登場します。 この”都母村”の場所は、発音が類似することから、七戸町の坪地区周辺が有力視されてきました。 しかし近年、7世紀から9世紀にかけての集落の集中と阿光坊古墳群の存在から、奥入瀬川下流左岸地域が、その有力な候補地として考えられるようになってきました。 ”都母村”がどこであるのかを実証するのは極めて困難なことですが、弘仁2年当時、この地域に多くの集落が存在したことは事実です。”都母村”も阿光坊古墳群と周辺集落のような、地域のリーダーの墓を中心とした集落郡であったのではないかと推測されます。「日本後記」弘仁2年(811年)7月辛酉(29日)条 現代語訳 出羽の国が、「邑良志閇村の帰順した俘囚である吉弥候部都留岐(きみこべのつるぎ)が『自分たちは弐(爾)薩体村の蝦夷の伊加子(いかこ)らと以前より対立関係にあります。今、伊加子どもは兵力を整えて都母村におり、幣伊村の夷を誘って我らに攻撃をかけようとしています。どうか兵糧を支給していただき、先にこちらから襲撃をかけたいと思います。』と申請してまいりました。私どもが考えるに、賊をもって賊を討つことはすぐれた戦略です。そこで米100石を支給し、彼らを励ましたいと思います。」と奏上してきた。それでこれを許可した。出羽や陸奥国北部では蝦夷達が活発に活動していたんですねぇ。阿倍比羅夫の北方遠征にも、出羽の蝦夷を討つために津刈蝦夷が助けを求めてきたことなどが伝わっており、蝦夷といっても全てが朝廷と完全に敵対していたわけでは無いということが読み取れます。現に陸奥国以外でも、朝廷に従順な蝦夷は”熟蝦夷(にぎえみし)”と呼ばれ、国造に任じられてその地を統括したりしていました。この観点からすると、津刈蝦夷は熟蝦夷の様に見えますが、個人的には津軽為信の様な”表裏の仁”、つまり面従腹背のような政策をとっていたのではないかと思っています。このような”津軽の性”がこのころから形成されていたとするなら面白いこと限りありません。次に阿光坊古墳群やその周辺の遺跡が運営されていた当時の情勢を見てみましょう。律令国家と蝦夷 阿光坊古墳群がつくられ始めた飛鳥時代以前は、地方支配の方法として、国造制という制度があり、各地の有力者が国造となり始めていました。大化の改新によって国造が治めたクニが解体して、郡の前身である評(こおり)が置かれました。しかし、そうしたことが行われたのは新潟県の北部から宮城県南部をおおよそ結んだ線より南であり、それより北は蝦夷の地と中央からは呼ばれました。支配領域が北上し、新たに支配した地域には城柵がつくられ、郡が設置されていきます。9世紀初めには、岩手県盛岡市の志波城まで北上します。太平洋側では、それより北には古代に城柵も郡も設置されず、最後まで蝦夷の地であったと考えられます。 阿光坊古墳群はその地に所在し、蝦夷とはどのような人々であったかを考えるうえで欠くことができない遺跡と言えます。広大な範囲を持つ陸奥国の内、その北方である津軽や糠部のあたりはながらく蝦夷の地だったみたいですね。平安時代後半になってやっとこれらの地域にも中央の勢力が進出してきます。少々話がそれるんですが、中世の津軽と現在の津軽とでは大きく範囲が違うようなんです。新編弘前市史 通史編1(古代・中世)の48~77ページの記述を見てみると、中世の津軽は津軽半島南部・黒石・田舎館・平川などの地域に相当するようで、現在の中里や小泊、外が浜地域などは含まれないみたいなんです。これらの地域は渡嶋の比定地にもなっており、蝦夷と縁深い地域だったことが伺えます。ではでは、ここからは蝦夷達の暮らしや文化についての展示を見ていきたいと思います。まずは住居から。古代集落の建物 阿光坊古墳群がつくられた時代の住まいは、竪穴建物と呼ばれます。土を四角く掘って、柱を4本から6本埋めて立て、その柱の上に横木(梁・桁)を渡し、垂木を支えたものだったと考えられます。垂木がそのまま地面まで延びる写真のような伏せ屋の場合や、外壁があって屋根がある家も想定されます。 火事にあった建物の観察から、茅葺屋根だったことがわかります。垂木や梁・桁にはコナラの木が良く使われています。 この建物の最大の特長は、カマドがあることです。煮炊きはもちろん、暖をとることにも使われたでしょう。カマドには煙突があり、地下を横に数十cmから1m進んで地上に出ます。カマドの周りは台所だったのでしょう。煮炊きの土器や、食器が出土します。 入口は、カマドの反対側だったことが多く、階段のような施設が見つかることがあります。建物の中央は土間で、それを挟んで板や丸太を並べた部屋があり、そこで寝起きをしていたと思われます。 こうした建物の跡は、しばしば埋まりきらずに、現在もくぼみとして残っていて、おいらせ町では100個以上見つかっています。おいらせ町東下谷地ー下谷地(1)遺跡 6号竪穴建物跡縄文の名残りが見られる竪穴住居に住んでいたんですね。この竪穴住居は蝦夷達だけの特長ではなく、建材の変遷を繰り返しつつ鎌倉時代の初めころまで見られる長期間親しまれた住居の構造です。特に平安時代などでは住居と言うよりは工房など、一定の機能を持った建物として造営されたみたいです。更に生業についても見てみましょう。蝦夷の生業と生活 おいらせ町内の発掘調査を通して、蝦夷の生活についてある程度推測できることは、農業と漁業、そして狩猟が行われていたということです。 中野平遺跡では、平安時代の畑跡が見つかりました。畑跡の土を分析したところ、ウリやソバの花粉と、コメの茎のガラス成分も見つかりました。また、集落からは炭化した米も見つかっていて、平安時代には農業を行っていたことが明らかとなっています。集落がつくられ始めた7世紀代の建物跡にはすでにカマドがあり、出土する土器の中には湯釜と甑の組み合わせがみられ、穀物を蒸して食べていたことは容易に想定でき、集落の出現と同時に農業も行われていたと考えられます。 また、下谷地(1)遺跡からは漁網の錘や、貝殻が見つかっていて、漁業が行われていたことがわかります。また、中野平遺跡からは、焼けた鹿の骨がカマド付近から出土し、狩猟も行われていたことを知ることができます。完全な狩猟採集民というわけではなく、規模は不明ながら農業も営んでいたんですね。蝦夷と言えば狩を生業とする山の民というイメージがありましたが、どうやらそれは蝦夷の一側面でしかないようです。農業をするとなれば自然と河川の近くに住まざるを得ないので、蝦夷達の集落が川に近いのは水資源を得るためという側面もありそうです。当然漁撈のためという線もありますが・・・。様々な生産活動を行い、この厳しい北の地を生き抜いていたんですねぇ次も生業についてですが、こちらの記述は特に面白かったです。蝦夷の生業と生活蝦夷による馬の生産 阿光坊古墳群からは、馬の動きを制御する鉄製の轡が5点出土しています。また、同じく出土している鎌は、馬のエサを刈り取るために使用した可能性があります。 集落遺跡の根岸遺跡やふくべ(3)遺跡の建物跡から馬の歯が出土していて、古代のおいらせ町には、馬がいたことがわかっています。 多くの末期古墳からも轡が出土し、さらには、馬の墓が見つかっている青森県八戸市の丹後平古墳群もあり、末期古墳をつくった人々は馬産とかかわりが深いと考えられています。 この辺りは、馬が好んで食べるササやススキなどが生育しやすい黒ボク土とよばれる土壌が発達していて、牧草が豊富な地域です。また、降雪量が少ないことも放牧に適していたのでしょう。 こうしたことから、阿光坊古墳群をつくった人々は馬産を行っていただろうと考えられます。なんとなんとこの当時から馬の生産が行われていたんですねぇ!駿馬で名高い南部馬の歴史は上古の頃にまで遡れるのです・・・。更に更に生業についてです。住・食・職ときてお次は衣についてです。蝦夷の生業と生活蝦夷による糸や布の生産 古墳群から2点、集落遺跡から100点、紡錘車という、糸紡ぎの道具が出土していることから、糸づくりが行われていたことは確かです。一方、出土した布は絹だけであり、布自体がもたらされたのか、養蚕技術があったのかはわかっていません。 中野平遺跡から、イラクサ科の植物の外皮を削る「苧引き金(おひきがね)」状の金属製品が出土しています。このことから、イラクサ科の植物は糸として利用されていたと考えられます。 古墳時代後期には、「高機」、「地機」といった機織り機がもたらされたといわれています。当地では機織り機自体の出土はありませんが、その技術は、紡錘車とともに伝わったと考えてよいでしょう。 イラクサ科の植物には、イラクサ(アイコ)やアカソ、カラムシなどがあります。また、クズやフジ、オヒョウなど、繊維がとれる草や木が知られています。こうしたものを布にして、寒さをしのいでいたと想像されます。オヒョウというと、アイヌの衣類であるアットゥシにも用いられている樹種です。蝦夷の人々が衣類としてこのオヒョウの繊維を用いていたかは不明ですが、もしそうだとすれば、蝦夷とアイヌの両者に生活文化のつながりがあるように見えます。最後に県内とその周辺の古代~中世遺跡の分布を見てみましょう。古墳群とその後の話 阿光坊古墳群で一番新しい古墳は、J10号墳で、9世紀終わりごろにつくられたものです。そのころまでは、青森県では太平洋側に多く末期古墳がつくられています。 延喜15年(915年)、十和田火山が噴火以降、太平洋側ではほとんどつくられなくなり、津軽地方にたくさんつくられ始めます。 J10号墳では円形の埋葬部が見つかっていますが、同様に円形の土坑がともなう例が県内で9例見つかっていて、なかには焼骨や炭が出土したものがあります。 末期古墳には火葬墓を取り入れたものも出現し、10世紀中ごろの、中朝国境の白頭山の噴火以降につくられた東北町鳥口平(2)遺跡1号墳のような例もあります。 阿光坊古墳群には、この白頭山の噴火以降に人が歩いた跡が見つかっています。阿光坊古墳群も10世紀まで続いているのでしょうか。末期古墳は十和田火山の噴火以降、南部から姿を消し、津軽で作られ始める・・・。噴火の影響によって住む場所を失った人々が津軽に流れたんでしょうか?気になりますねぇ。噴火の影響は奥入瀬川流域や岩手県北部、秋田県北東部などに及んでいますが、津軽にはどのような被害が有ったんでしょうか。この古墳生成の移動を見ると、津軽方面の被害はそれほど大きくなかったものと思われますが・・・どうなんでしょう。もう一つ面白いのが、南部と津軽の遺跡の分布です。南部では河川・湖沿いに集中していますが、津軽の方では平地と山の境に集中している様に見えます。これは気候の違いによる異なる生活スタイルのためなのか、それとも違う要因があるのか・・・とても面白いです。いかがでしたでしょうか?北辺の地の古墳は非常にユニークで、中央の文化とは違う世界を見せてくれました。当地に暮らした蝦夷たち。かれらの生活の一端をここでこうして見ることができる。それはとても心躍る体験ですよね。都で延喜式が著されている頃、陸奥の奥地では自然の生活を続けていた蝦夷たちの世界が存在したのです。そこから考えると、青森県に延喜式内社がないのもうなずけます。だってここはまだ蝦夷たちの土地だったんですから・・・!日本神話とは異なる信仰があったのかもしれません。なんとも歴史ロマンあふれるスポットでしたね以上です。
2025年07月31日
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八戸市立図書館からゆりの木通りを挟んで向かいには、高台の上に広い境内を構える石田山 光龍寺が鎮座しています。南部の古刹 法光寺の八戸宿寺として再興された寺院であり、その為か八戸南部氏との関りも深いようです。その光龍寺のある高台の東の麓に、ひっそりと禅寺が置かれており、風情ある参道の先に歴史の風雪に耐えて来た勇壮な御堂を見ることができます。八戸御城下三十三観音霊場九番札所:臥龍山 禅源寺この禅寺は山号を臥龍山、寺号を禅源寺と号し、八戸御城下三十三観音霊場の九番札所として知られています。ゆりの木通りから脇道に折れ、少々奥まで進むと↓の寺門が置かれ、境内に進むことができました。全体的に素朴な装飾で、いかにも禅宗といった風情を感じます。参道にそって植え込みがされていて、境内の奥へと誘うかのようです。冬枯れした境内を見ていると、つい数ヶ月前はこんなに寒かったのに、今はなんて・・・とも思うわけです。四季折々の景色を見られるというのは、やはりエモーショナルな気持ちにさせてくれていいもんです。門をくぐってすぐの所には小祠が1つ置かれています。内部には優し気な表情を湛えた子安観音の石仏が置かれています。地域のおかあさま方から崇敬されていたものと思われます。参道を進むと本堂が見えてきました。白黒で統一されたシックな御堂ですね。屋根の所々には九曜星の装飾が見られます。本堂の手前には6つの修行を司る地蔵たちがいます。笠をかぶっており、まるで有名な昔話に出てくる地蔵のように見えますねぇ本堂の装飾です。懸魚は欠けていますが、それ以外は良好に残されています。扁額です。禅源禅寺、禅宗ゆえの表記となっています。ご由緒です。臥龍山 禅源寺臨済宗妙心寺派 正法山妙心寺末寺開山:妙心寺四世 禅源日峯和尚本尊:釈迦三尊 南宗寺の坂を下ると、その途中に、また、寺の屋根が見えてくる。左手に門があり、その傍らに、八戸市文化財指定(昭和48年1月24日)の敷石供養碑が立っている。これは瓦鏡和尚が敷石事業を行った記念碑で、八戸市文化財の指定を受けている。やや風化しているが、「南無地蔵大菩薩敷石供養塔」と刻まれているのが読みとれる。また、その文字の隣には、「世の中は曲り曲りし泥ぬかり、真直にゆけ敷石の上」という瓦鏡和尚の和歌も刻まれている。この瓦鏡和尚とは、天保12年(1842年)、湿原地帯の鳥屋部町から当寺まで、敷石事業を行った名久井法光寺二十五世の和尚のことである。 その記念碑からコンクリート敷の参道を30mほど歩き、古びた山門をくぐると本堂がそびえている。当寺は住職不在の時代が長く、明治に入ってから、南宗寺の先代住職、田口豊洲和尚が兼務し、昭和38年、現在の本堂を新築した。この時、對泉院再建の物語で知られる中村松太郎氏が棟梁として建築された品格高い寺院である。 宗派は、南宗寺と同じ山城国(京都)妙心寺の末寺で、古くから八戸とのかかわりが深かったことは確かである。 根城南部時代の正長元年(1428年)7月17日、妙心寺四世禅源日峯和尚が開山し(『新撰陸奥国誌』)、現在の根城城観音堂跡に鎮守堂を建立、聖観音を安置した。しかし、根城南部家遠野国替えにより、いったん廃寺となり、一切の記録が紛失してしまった。その後、南部二十七代藩主利直公が桂林和尚を中興開山としてつかわし、再び沢里村へ建立した(『八戸藩史料』)。この時、寺領五十石も寄進しており、領内十ヶ寺のひとつにも数えられ、八戸藩内では、相当大きかったことがうかがえる。そして、延宝7年(1679年)、現在地に移り、享保19年(1734年)、山号を中国の霊山「臥龍山」から倣い、寺号を開山者禅源和尚から倣って命名した(『 領内寺院来由全』)。また、寛政5年(1793年)3月13日には、火災により全てを失っている(『八戸藩日記』)。 簡素で薄暗い中央須彌壇には、本尊の木彫釈迦如来座像。その右側に、新しく作った厨子の中に観音像が納められている。六角の蓮華座を入れて高さ6~7寸の小さな木彫十一面観音立像である。享保年間禅源寺と命名してから奉納されたと伝えられるが定かではない。全体的に粗削りで、素人の作った御作仏のようであるが、顔だけは、卵形の端麗な面相で、慈悲深さと気品を持ち併せており、立派である。口のまわりには、くっきり髭を墨書きしており、男らしさを感じさせる。スッと背筋を伸ばした姿勢の良い姿で、鉄製の宝冠は、少し動かすとカチカチ音がする。 しかし、欠損している部分が多く、宝冠が欠け、冠帯も折れ曲がり、両肩が削れている。腹部に当てがわれている右腕は、手の部分が欠損している。左腕には折れた跡があり、その破損した持ち物だけを張りつけている。持ち物もはっきりしないが水瓶のようである。左右の腰からは天衣が垂れているが、裳にしては、あまりしなやかさを感じさせない作りである。 観音像の隣には、6尺ほどの寺宝の三体仏が書かれた棟札があり、中央に本尊名、右に十一面観音、左に八大龍王が記されている。これは、昭和の大新築の際納めた棟札で、この観音像を含めた三体の仏像は、当寺の寺宝といえよう。史料の少ない源寺であるが、歴史の古さを感じさせる寺院である。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 48~52ページ より引用根城南部氏の時代まで遡ることの出来る古刹でした。臨済宗の寺院としては、総本山の直末寺となっており、格式も高い寺院と言えるでしょうか。由緒に出てくる根城城観音堂跡とは、現在根城隅ノ観音堂が置かれている所であり、もともとこの辺りは根城を構成する郭の1つである沢里館があったところでもあります。根城南部氏が遠野に移封されるまでは、禅源寺もこの郭内に鎮座していました。他にも善応寺という寺院の跡が見つかっているそうですが、こちらは現在まで存続していないようです。斜めから。古刹の喩えがここまで相応しい寺院もそうそうないでしょう。無住の期間が長くとも、数百年歴史の荒波を乗り越えてきた寺院は、今でも八戸の地にどっしりと根を張っているのです。御詠歌ちちははの めぐみもふかきぜんげんじ だいひの誓い あらたなりけり現代新御詠歌爛漫の 花の色にぞつつまれて 禅源大悲の 古きみ仏札所本尊:十一面観音 एकदशमुख以上です。次の記事・十番札所:石田山 光龍寺 観音堂 八戸南部氏数代の菩提弔う名刹
2025年07月28日
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本日南郷サマージャズフェスティバル2025を見てきました。初めて見に行ったんですが、かなり込み合っていて熱量の物凄いイベントだなと思いました。本日は御日柄も良く、途中小雨がぱらつくことはありましたが、無事に最後までズブ濡れにならずに見ることが出来たんです。前売り券まで買っていたんですが、本日開催ということをすっかり忘れていて、第1部の途中から観覧しました。不勉強なせいで参加者アーティストの殆どが初見だったんですが、なんというか音楽の偉大な力のおかげで終始魅了されっぱなしでした・・・第2部はRuike Shinpei 5 piece band、第3部はKeiko Lee、第4部は熱帯Jazz楽団という面々。それぞれが異なるスタイルだと感じましたが、やっぱり楽器の構成なども大きいんでしょうねぇ。Ruike Shinpei 5 piece bandではテクニカルな演奏溢れるインストの曲を存分に、Keiko Leeではハスキーな美声と熟達した演奏をたっぷりと、熱帯Jazz楽団ではパッション溢れるラテンの世界にずっぷりと浸り、なんというか、もう最高としか言いようがありませんでした。当然の様に売店ではビールやワイン、屋台料理等が用意されており、ドライバーでなければお酒と料理を楽しみながら素晴らしい演奏に浸ることができるという・・・。もう聞いているだけでうれしい気分になりそうな感じですよね!青森県の南の端でまさかこんなにも恐ろしく素晴らしいイベントが開催されていようとは・・・。最高の夜を過ごすことができて、最高です。最高
2025年07月26日
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二番札所:廣澤寺からそれほど離れていない距離に、三番札所の心月院があります。その隣には四番札所の長流寺。これら三寺院は全て新井田の對泉院の末寺となっております。對泉院といえば曹洞宗寺院としては八戸の中でも有名なところであり、周囲にも曹洞宗寺院がいろいろと見られます。これら寺院が並び立つのはいつ見ても風情があって好ましいですねぇ。八戸御城下三十三観音霊場三番札所:松峯山 心月院ここの駐車場はかなり広く、よほどのことがない限りは駐車場所に迷うことは無いでしょう。駐車場から本堂に向かって歩いていくと、聖観音の石仏が置かれてあり、参拝者を迎えます。本堂です。大きく立派な御堂には、随所に素晴らしい木彫彫刻が見られ、そちらも見どころの1つとなっています。横に広い大堂の奥には、様々な仏像が納められていました。こちらが木彫装飾。懸魚?の部分の天女が素晴らしいですねぇ!扁額です。金縁・金字の豪華なものです。それでは御由緒です。松峯山 心月院曹洞宗 貴福山對泉院末寺開山:林南儀道和尚本尊:釈迦三尊札所本尊:聖観音、三十三観音・・・。 通称「新寺」として親しまれ、新井田対泉院の末寺。草創は林南儀道和尚(『新撰陸奥国誌』)。林南和尚が広沢寺を開山した後に造立したと伝えられ、寛文7年(1667年)の開創とされている(『八戸藩史料』)。従って広沢寺の弟分ともいえる。土地は(八戸南部氏)初代藩主直房公から拝領しており、對泉院の宿寺の役割を果たしてきた。 明治5年(1872年)に宿寺制度が廃止され、對泉院新宿寺という呼び名から心月庵と改名された。佐々木恭岑上人が巡礼した際は心月庵と称していたのである。大正15年(1926年)、心月院と改め、今日に至っている。 本堂には「仮本堂」の札が掛けられており、新設する予定があったが、昭和40年(1965年)、先々代・先代の住職が相次いで亡くなったため、そのままになっている。そして、心月院も、たびたび火災によって、大切な仏像・寺宝を焼失している。天和元年(1681年)12月(『八戸藩日記』)、明治24年(1891年)などの火災で、本堂の観音も焼失したのではなかろうか。 現在、本堂中央に本尊釈迦如来像。右側には、立派な三十三体の観音像が安置されている。その中央の厨子の中へ、三尺ほどの聖観音像が納められているが、ふだんは厨子の扉が閉ざされており、年に1度、11月13日が御開帳の法要日と定められている。この観音像は明治24年以降のもので、佐々木恭岑上人はこの観音像に御詠歌をあげたようである。その後、明治37年(1904年)3月19日、石橋甚兵衛他来迎寺観音講中の人たちが打った巡礼札も残っている。 この観音像の姿は、左手に蓮華(開蓮)を持ち、右手は上品印で、舟形光背。半眼のやさしい面立ちの金色木彫立像である。この観音像に見つめられると何か心洗われる思いがする。話によると、この観音を夢に見たという人たちが遠くからやって来るという。 それだけ現在でも観音信仰の盛んなお寺である。佐々木恭岑上人も「ゑんありて」と詠んでいるのは、夢に見たからではなかろうか・・・・・・。 毎月7日・18日・26日には菊川広氏を中心とする観音講中の大和講の人たちが集まって御詠歌の練習に励んでいる。 三十三体の観音像は、昭和3年(1928年)に一心講(大和講の前身)の人たちが寄進したもので、その時は、三十三本の旗を立て、八戸町内を巡り歩いた後、当寺へ安置したという。それはもう盛大な行列だったと語り伝えられている。 このように、心月院は、八戸市内でも屈指の観音信仰の盛んな寺院といえよう。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 20~23ページ より引用もとは對泉院の末寺というよりは宿寺だったんですねぇ。それが宿寺制の廃止に伴って庵寺へ、後に寺院へと昇格し、現在の形になったようです。参拝時に三十三観音の方は見ることが出来たんですが、聖観音の方は厨子含めて見当たりませんでした。現在拝観可能かは不明です。外見は三十三観音像と似ており、もしかしたらその中に混じっているのかも・・・知らんけど。斜めから。立派な佇まいの寺院でしたが、それもそのはず。もともとは對泉院の宿寺だったのです。土地も八戸南部初代直房公からの寄進を受けており、對泉院は藩主肝いりの寺院だったことが分かります。札所本尊は聖観音となっていますが、現在は拝観できるか分からないので、納札などが収められている三十三観音の方も札所本尊と記載しています。参拝時は聖観音が混ざっていないか、まじまじと見つめて探してみてください。御詠歌ゑんありて はるばるここに拝すれば 大悲のひかり あらたなりけり現代新御詠歌煩悩の 心も消えむ心月院 聖観音の 見目やさしさに札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर、三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩以上です。次の記事・四番札所:自淵山 長流寺 類家對泉院三末寺が一、長流寺
2025年07月26日
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広大な三陸地域の内、岩手県中央の宮古から宮城県中央の松島までの範囲に置かれた観音霊場をまわる巡礼です。霊場の開創自体は平成3年(1991年)と最近で、早くも平成10年(1998年)には札所の再編がなされているなど、あまり活発な巡礼は行われていなかったのかもしれません。三陸地域の巡礼と言うことで、先の東北大震災の折に被災した札所が多く、現在では札所として活動していないところも多いです。特に宮城県の札所は、みちのく巡礼という震災後に開創された別の巡礼に取り込まれている所がほとんどで、三陸三十三観音霊場の札所としては活動していない寺院が多かったです。逆に岩手県の札所では今でも札所として活動している所が多く、御朱印も直書きでいただくことが出来ました。この様に、地域によって対応が大きく異なるのが特徴です。札所の中には奥州三十三観音霊場や岩手三十三観音霊場の札所になっている所もあり、歴史ある古刹を巡ることになります。加えてほとんどの札所が海岸部に置かれているため、三陸の浜の絶景を見つつまわる事が出来るんです。出来れば夏にポップソングをかけながら、車でゆっくりと回りたいところですねぇ2025年現在、御朱印総揃えでの結願は難しいため、単に札所を回るだけにとどめておくと、ストレスなく巡礼できると思われます。全札所の御朱印と位置は下のリンクからご確認ください。・三陸三十三観音霊場 御朱印の記録札所記事をまとめたページはこちらです。・三陸三十三観音霊場 札所記事一覧以上です。
2025年07月26日
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1991年に開創された観音霊場で、岩手県・宮城県2県にまたがる広大な範囲を巡礼することになります。札所のほとんどが海岸部にあり、爽やかな夏のポップソングをかけながら車で巡るのが面白いと思います。とはいえ、東北大震災の影響もあってか、札所として活動していない寺院も見られます。加えて、当巡礼の札所の内、震災以降に編纂された宮城県の巡礼:みちのく巡礼の札所にもなっている所は、そちらの朱印のみ取り扱っているなどの事情もあり、御朱印総揃えでの結願は難しそうです。※十九番札所:亀谷山 地福寺に関しては、住職に直接確認したところ「うちは御朱印もやってなければ札所でもない」とおっしゃっていましたので、本当にこの巡礼は活動できなくなっているんだなと実感しました。そして何故か岩手県の札所だけは、宮城の北の札所とは異なり、今でも御朱印を書いてくれるところが多かったです。ということで2025年現在、ストレスなく巡礼するなら御朱印総揃えを諦めるのが得策だと思われます。僕も一部の札所の御朱印は諦め、貰える所のみ貰ってこの巡礼を終えたいと思います。打ち始め:2025.3.1三陸三十三観音霊場一番札所:白華峰 円通院 大悲亭御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未巡礼の御朱印なし二番札所:瑞雲峰 天麟院御詠歌?札所本尊:五郎八観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未巡礼の御朱印なし三番札所:富春山 大仰禅寺 富山観音堂他の巡礼:奥州三十三観音霊場七番札所御詠歌?本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未巡礼の御朱印なし四番札所:東渓山 観音寺御詠歌?札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未五番札所:無為山 功岳寺御詠歌?札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未六番札所:如意輪山 願成寺御詠歌?札所本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未七番札所:桂林山 禅昌寺御詠歌?札所本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未八番札所:大良山 観音寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未九番札所:柳津山 宝性院御詠歌?札所本尊:子安観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十番札所:遮那山 長谷寺他の巡礼:奥州三十三観音霊場二十四番札所御詠歌?本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未巡礼の御朱印なし十一番札所:松林山 大雄寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未十二番札所:歌建山 津龍院御詠歌?札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十三番札所:安養山 浄勝寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未十四番札所:海岸山 観音寺他の巡礼:東北三十六不動尊霊場二十五番札所御詠歌?札所本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未十五番札所:東瀧山 華光院 浄念寺 観音堂御詠歌?本尊:子安観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十六番札所:遠浦山 松岩寺御詠歌?札所本尊:平和観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未巡礼の御朱印なし十七番札所:誓亀山 光明寺御詠歌?札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十八番札所:医王山 長命寺御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十九番札所:亀谷山 地福寺御詠歌?札所本尊:百合菊観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未巡礼の御朱印なし二十番札所:厭離山 欣求院 浄土寺 観音堂他の巡礼:気仙三十三観音霊場三十三番札所御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十一番札所:功徳山 清浄院 荘厳寺御詠歌?札所本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未二十二番札所:長谷山 観音寺 観音堂他の巡礼:岩手三十三観音霊場二十番札所、気仙三十三観音霊場七番札所、気仙三観音 矢作観音御詠歌?本尊:矢作観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十三番札所:愛宕山 地福禅寺御詠歌?札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未巡礼の御朱印なし二十四番札所:大船山 本増寺御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十五番札所:青龍山 華蔵寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未二十六番札所:龍福山 長谷寺 観音堂他の巡礼:岩手三十三観音霊場十番札所、気仙三十三観音霊場二十二番札所、気仙三観音 猪川観音御詠歌?本尊:猪川観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十七番札所:巌秀山 正寿院御詠歌?札所本尊:不明札所記事未二十八番札所:釜石山 正福寺御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十九番札所:見生山 大念寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未三十番札所:虎龍山 吉祥寺御詠歌?札所本尊:不明札所記事未三十一番札所:開運山 瑞然寺御詠歌?札所本尊:開運報徳観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十二番札所:玉王山 長根寺他の巡礼:東北三十六不動尊霊場二十番札所、岩手三十三観音霊場八番札所御詠歌?札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未三十三番札所:宮古山 常安寺御詠歌?札所本尊:如意輪観音ふくめた三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事未番外札所:松島青龍山 瑞巌円福禅寺御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・番外札所:松島青龍山 瑞巌円福禅寺 伊達に庇護されし松島浦の大霊場巡礼の御朱印なし以上です。
2025年07月26日
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青森市には著名な寺院が4つあり、それらを総称して青森四ヶ寺と呼んでいます。今回紹介する寺院はその内4番目の寺。周辺地域の中でも並外れて大きな堂宇を持つ、青森を代表する日蓮宗寺院です。青森の空襲に際しても、当山は焼失を免れ、現在の繁栄の礎を築いてきました。2025.4.26廣布山 蓮華寺四ヶ寺が立ち並ぶ寺町通りから少々脇道に逸れると、境内の入口が開かれています。かなり大きい御堂と、その前に立つ立派な松がなんとも風情あり。境内に入ると、鎮守を祀ったものか社が1社鎮座していました。公式サイトにて確認してみると、最上稲荷堂という堂宇だそうです。この堂宇で祀っているのは最上位経王大菩薩・三十番神です。扁額です。稲荷大明神は知っていますが、三十番神とは一体何でしょうか?この三十番神について、玉連山 真成寺の公式サイトを見てみましょう。このサイトの記述によると・・・三十番神様とは 日本には八百万(やおよろず)の神々がおられます。その神々をお祀りする神社仏閣も沢山ありますが、その日本の神々様の中でも、代表格である30体の神様を、1ヶ月30日を毎日ご当番(日番)に当てる様に選出されたのが三十番神様なのです。いわゆる神仏習合の信仰です。 その歴史は、法華経を布教された最澄(さいちよう)(伝教大師(でんぎようだいし))が比叡山に祀られたのが、日本で最初と伝えられており、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになりました。 因みに31日は、法華経守護の※【五番の善神】が御当番に当てられています。31日の【五番の善神】は後付で尊崇される様になりました。 明治5年(1872年)太陽暦が採用されると、従来の大陰暦を一年の季節に合わせた旧暦(1ヶ月は29日または、30日)には無かった31日が生まれました。それに伴い、旧来の三十番神に空白の31日の日番を担う一神を加える必要性の問題が出てまいりました。そこで過去長い歴史の中で法華経守護の誓願を立て、篤き信仰を寄せられた【五番の善神】が31日の日番の善神として勧請されるようになりました。※【五番の善神(ごばんのぜんじん)】とは… “二聖(にしよう)、二天(にてん)、鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゆうらせつによ)”を指します。 日蓮聖人の『日女御前御返事』というお手紙には「陀羅尼品と申すは、二聖、二天、十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王(やくおう)と勇施(ゆぜ)となり。二天と申すは毘沙門(びしやもん)と持国天(じこくてん)となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼人也、四天下の一切の鬼神の母なり、又十羅刹女の母あり鬼子母神是也」と述べられています。と、記されています。このサイトにて、各日に対応する神格が記載されているんですが、どの神格も総本宮や一之宮クラスの神社で祀られる神格でした。そして面白いのが最後の五番善神です。これまで日蓮宗寺院に参拝すると必ずと言ってよい程、鬼子母神が祀られていましたが、それには↑の様な理由があったんですね!31日目の守護として、母親と子供の守り手として、今でも広く信仰されている神格です。因みに最上稲荷堂の狛犬の台座には、↓のような彫り物がしてあるんですが、これについては調べても分かりませんでした。何か犬の絵が発掘されたんでしょうか?更に境内の奥に進みます。駐車場の向い辺りには、日蓮上人の巨大像が鎮座しています。大迫力!その隣には子安観音。こちらも巨大且つ精巧な美像でした。観音像の隣には多宝塔・・・ではなく、永代供養塔が建っています。この隣には更に開山 日持上人を祀る石碑などが置かれていました。ではいよいよ本堂です。白壁に赤の柱が映える大堂ですねぇ!ご由緒を見てみましょう。ここのご由緒はかなり面白いです。廣布山 蓮華寺日蓮宗開山:蓮華阿闍梨日持上人本尊:十界曼荼羅<由緒・沿革> 蓮華寺は旧寺町にある、青森駅寄りから数えて四番目になる『日蓮宗』のお寺です。 一夜にして多くの命が犠牲になり、一面焼け野原になった昭和20年(1945年)の【青森空襲】でも当山は焼け残り、終戦後約3年間市役所も間借りした、青森市民にとっては忘れられない一番なじみの深いお寺です。 お寺の開基は、鎌倉時代の高僧「日蓮大聖人」の弟子の一人であった「蓮華阿闍梨日持上人」。上人は恩師の十三回忌を済ませた後、海外布教を目指し北海道に渡るために、当時の青森「合浦外ヶ浜」村に立ち寄ったが、あいにく風波が激しく船を出せず、留まること数ヶ月に及び、ここに1つの草庵を結びました。これが後の蓮華寺であり、時に永仁2年(1294年)、今から数えて約730年前のことでした。 日持上人は伝説的な人物で、後に北海道から樺太を経て中国内地まで布教につとめた方です。樺太を経て沿海州、満州内地にまで足を延ばしました。このため青森県・北海道・中国の各地には数々の遺跡が残っています。また、魚の「ホッケ」は【法華】にちなんで上人が名付けられ、アイヌ語で内地の人という意味の「シャモ」も【沙門日持】の名から上人が付けられたいわれています。日持上人が布教の旅に出たのは45歳の時であり、700年も前に海外布教を試みたのは正しく偉業といわざるを得ません。それだけ師僧の日蓮大聖人のご指導が大きなものであったといえます。 日持上人が居住していた草庵は「法華堂」と称し、国内最北の道場として受け継がれてきました。その後、約370年を経た江戸時代の寛文4年(1664年)に京都府にあります大本山『妙顕寺』より下向した日通上人が、津軽藩主から『廣布山蓮華寺』としての開山を許可され、ここに現在の廣布山蓮華寺の礎が築かれました。もちろん、寺号⦅蓮華寺⦆は蓮華阿闍梨の名より、山号⦅廣布山⦆は広宣流布の布教により名付けられたものであります。こうして廣布山蓮華寺は、青森開港と共に現在の場所に移り発展を続けたのでした。 現在の本堂は、昭和2年(1929年)に第二十六世日濤上人が当時とすれば全く異色の鉄筋コンクリートで建立しました。寺院は木製が主流であったため、多方面からかなり反対がありました。しかし、第二十六世日涛上人が“百年の計”であるとして周囲の反対を押し切り、予定通り工事に着手しました。 こうして、間口[幅]十三間(約24m)・奥行十六間(約29m)、372畳の総工費28万円[現在価格約5億円]を要し完成させたのでした。結局この英断が青森空襲を免れ、戦後の青森市政の中心となる市役所となったのは、改めて法華経のお力の有難さといえるでしょう。 その後当山の本堂は、何度かの修復を繰り返しながらも現在に至り、まもなく建立百周年を迎えます。 ご本尊は十界の大曼陀羅、寺宝としては【徳川光圀(水戸黄門)】の使用した⦅法華堂の茶釜⦆や【津軽藩】から拝領した⦅紅葉時計⦆などがあります。⦅法華堂の茶釜⦆は青森市指定有形文化財です。 また、青森市で起きた遭難、事故死など変死体の供養のために建てられた「みちのおく観世音菩薩」も安置されています。寺院パンフレット より引用初めてこのご由緒を見た時、大陸まで北方ルートで布教を行うような人物がいたということにかなり驚きました。伝説的な人物と言われている通り、信憑性があるかどうかと言われれば答えに困ってしまうかもしれません。しかし、物語的な面白さと国内最北の道場というブランドは、かなりの強みだと思います。伝説抜きにして考えてみると、寛文4年に大本山 妙顕寺から下向してきた日通上人が開山・開基だと思われます。また、寺宝も面白いものがありますねぇ!まずは法華堂の茶釜から見てみましょう。有形文化財 法華堂茶釜 指定物件は、元禄後期に作製されたものと推定され、胴部の「法華堂」という文字は、中国の儒学者朱舜水【しゅしゅんすい】の書とされている。 この茶釜は、水戸光圀の愛用していたものを水戸藩儒学者藤田東湖が拝領し、蓮華寺第二十六世住職角田堯現が東湖のもとで学び、帰郷の際に賜ってきたものといわれている。 朱舜水は明朝復興に失敗し、万次2年(1659年)日本へ亡命帰化した人で、徳川光圀に迎えられ、水戸学の発達に貢献している。青森市 / 市指定文化財 / 有形文化財 法華堂茶釜 より引用本当に水戸光圀公が使用していたものが、巡り巡って当寺院に流れ付いたようです。↑のリンクからその姿を拝むことができます。紅葉時計に関しては、調べてもどのような時計なのか出てきませんでした。寺宝になっているという事は、相当に芸術的な時計であるとは思うんですが・・・。津軽藩から授けられた品ということで、一度は拝んでみたいもんです。堂内には小型のネブタが飾られており、カエルと共に1人の僧が歌舞いています。これは蓮華寺に伝わる伝説をモチーフにしたものです。これがその伝説。蓮華寺の蛙合戦 天保13年(1842年)6月、蓮華寺の境内にはたくさんの蛙が集まって鳴きたてている。その声は町中に響きわたる程で、それをわざわざ見物にやってくる人もたくさんいた。 まず番神堂の池からひと一倍大きな蛙がのっそり上がってきて、まるで宣戦布告するかのように、高らかに鳴いた。一方、山門の外の蓮池からも、これまたひときわ図体の大きな蛙が一匹這い出て境内までのこのこ歩き、敵方大将蛙と十分な間合いを取り、やおらにらみ合い、どすの効いた太い声で一声上げた。この一声を合図に、両方の池から次から次へと、ぞろぞろぞろぞろ、おびただしい数の兵隊蛙が出てきて、互いに負けてはならずと盛んに鳴きたてはじめた。緒戦は鳴き合いであったが、次第に両軍の戦意は高まり、ついに、激しいつかみ合いや壮絶なかみ合いへと戦況は展開した。そのうちにリタイヤした兵隊蛙、また奮戦力闘の末、討ち死にする兵隊蛙も少なからず出てきた。二匹の大将蛙は一声大きく鳴いてここでいったん休戦の宣言をした。このような大合戦は一週間ほど続いたが、やがて境内は何事もなかったように元の静けさを取り戻した。 連華寺は青森市本町に位置する日蓮宗のお寺である。この話はかつての鍛冶町(現在の橋本一丁目あたり)で米や塩を商っていた京屋の記録とされる「柏原筆記」などをもとに「青森市沿革史」に収録され、現在に伝えられているものです。この伝説にある通り、当時は境内の周辺に池が幾つもあったようです。今でも本堂の裏手の方に龍神の祠が鎮座する池があり、こちらも伝説の舞台なんではないでしょうか。更に更に、この龍神にも面白い話が伝わっています。蓮華寺の寺報を開いてみます。龍神様と七面様 昔より、『龍神様』は我々に不可欠な水をつかさどり、更に大地に潤いをもたらす豊穣の神として信仰されてきました。そして、そのお姿は水の象徴であります川がヘビのように曲がりくねっていく、いわゆる蛇行から『龍』を想像し、そして神格化したものと考えられています。 そして、当山にお祀りされています『龍神様』も昭和20年7月の青森空襲の時に、そのお力を現わしました。 それは、空襲の数日前から当山の庭の池の水が突然あふれ出すという不思議な現象を起こしたのです。これは、何かの前兆ではないかと思っていた矢先、青森市はアメリカ軍から空襲に襲われ、市内は一面焼け野原となってしまったのでした。 当然、蓮華寺もいくつかの焼夷弾が当り、火の手が上がる状態でしたが、当時の第二十七世住職・角田堯承上人初め数名で、その延焼を防ぐ為に、このあふれ出た池の水を汲んでは掛け汲んでは掛けて、ついに鎮火させ蓮華寺を火災から救ったのでした。 この奇跡は、当山の『龍神様』の多大なるお力によるものだとして、その後、池には『龍神様』のお堂とお姿をお祀りし、毎年ご法楽をして、今日に至っているのです。 しかし、こういう素晴らしいお力を持つ『龍神様』もそのお力が偉大過ぎる為に、粗末に扱ったり、また大切にお祀りしなかったりしますと、容赦なく大雨・大洪水などをもたらし、自然を破壊してしまうという怖い面も備えています。ですから、我々は『龍神様』を大切にお祀りし、そのお力を戴いていかなければいけません。 また、同じく日蓮宗の守護神の『七面大天女』(身延山の鬼門を抑えてお山を護る神)も「龍神様』の化身といわれ、日蓮大聖人のお弟子【日朗上人】が初めて登られた永仁5年(1297年)9月19日をもって七面山開創の日としています。この龍神の池は、一声かけると参拝させてくれます。以前蓮華寺を訪れた時には実際に見させて貰いました。興味がある方は、是非お寺の方に尋ねてみてください。龍神と七面様の大祭も開かれているようです。参加は出来ませんでしたが、今年は5月19日に開催されたようですよ。詳しい日程は公式サイト等に掲載されているかもしれません。そんでこちらが本堂内陣です。かなり広い堂内の中央に荘厳な仏法曼荼羅が広がっておりました。その荘厳さはまさに天界を写したかのよう・・・。ここまでの規模の本堂を持つ寺院はそうそう無いでしょうね。堂内中央にあるのが十界曼荼羅の一部です。日蓮宗の宗旨に明るくないので解説は出来ないんですが、これは法華経の一部を再現したものなんです。中央にあるのが”お題目(南無妙法蓮華経)”で、その左右に釈迦如来と多宝如来とが座しています。そしてその周囲には、釈迦の説法を聴きに来た菩薩や諸神などが並べられています(この辺はあやふやです)。この諸神の中には天照皇大神や応神天皇(八幡大神)なども見られ、本地垂迹らしき考えも読み取れますよね。十界曼荼羅の配置については、本堂入り口に図が張ってありますので、そちらでご確認ください。堂内右手も見てみます。こちらには妙見菩薩と鬼子母神が祀られていました。対して堂内左手には大黒天と共に、先ほどの三十番神の考えを創生したとする日像上人が祀られています。左の上人は判別できませんでした。斜めから。おそらく当地でも指折りの古刹、蓮華寺を参拝出来ました。これまであまり日蓮宗の寺院とは縁がなく、その宗旨を調べることもなかったんですが、いざ茨城の友人と一緒に行ってみると、違う角度から楽しむことが出来、興味もかなり湧いて来たんです。茨城の友人は私よりも宗派に対する理解が深く、日蓮宗に関しては自分の名入りで御主題帳を付けてもらっています。これがなかなかに羨ましく、一時始めようかとも思ったんですが、どうしても持ち歩く朱印帳の数が増えて煩わしくなりそうだったので断念。これまで通り御朱印帳に書き入れてもらうことにしました。このように煩悩まみれな訳ですが、神社仏閣めぐりはいろいろな伝説や歴史などに触れられるため、いつまでもやめられません。今回も面白い伝説を見ることができ、満足です以前貰った御首題です。今回貰った御首題です。公式サイトへのリンクです。・青森の日蓮宗 廣布山蓮華寺以上です。
2025年07月24日
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青森の南西、入内集落から更に山の方に進みます。舗装道も途切れ、道は段々とオフロードへと切り替わっていきます。こんな山奥に本当に神社が有るんでしょうか?神社の前に熊を先に見つけてしまいそうで、だんだんと不安になってきましたが、道の脇に鳥居を見つけました。この鳥居は滝へと続く鳥居なんですが、この鳥居から神社へは数分で到着。やっとこさ山奥の謎に包まれた神社に到着です。2024.8.4石神神社長い山道の突き当りに境内が広がっていました。境内には小祠が幾つかあり、先にそちらを紹介したいと思います。境内入り口に鎮座しているこちらは、大地主八代龍神大神を祀る祠です。この地の鎮守として八代龍王を祀っているんでしょうか。先ほどの祠から少々離れたところに清水が湧いております。その脇にも小祠が置かれ、祭神は薬師様だそうです。おそらく薬師如来と言うよりは、少名彦神だと思われます。それでは石神神社の方も見ていきましょう。神明鳥居がいくつも並んでおり、その先に社殿が鎮座しています。参道脇には境内の地図が置かれていました。思っていたよりもずっと境内は広いようです。周辺の山中に様々な神格が祀られていることが分かりますね。神社名から推察されるように、この神格たちの御神体は自然岩です。この様な自然岩を神格として祀るというのは、修験にも通ずるものがあり、非常に興味深いです。今回は気力がもたず、石神神社だけ参拝しましたが、いつかはこれらも廻ってみたいです。ここは本当に本当に山奥ですので、熊とのエンカウントには細心の注意を払わなければなりません。ご由緒書きもありました。入内の石神神社 藩政時代、「石神様」としてその霊験が広く喧伝された。日月輪の自然石から湧き出る清水が難病や眼病治癒に効果があったという。大祭の陰暦6月16日前後は、参詣する人が後を断つことがなかった。杉の大樹はそのことを物語っている。 草創年月は不詳であるが、霊泉の発見者は、眼病を煩っていた小館村(現青森市)の弥十郎という人であると伝えられている。明治初年、神仏混淆禁止のとき、神社の形体が未整*の理由から信仰を禁止させられた。 しかし、霊泉を求める人が多く祈祷所を願い出たが、明治5年(1872年)、県庁から「愚民を惑わす妖言」として不許可になった。その後、自然石の破壊も試みられたという。明治38年(1905年)、三上東満によって再開発され、以後、小野林之助・成田嘉七に継承され聖地として整えられた。祭神は天照皇大神・月夜見大神・大山祇大神、例祭日は陰暦の4月・6月・9月の16日である。日輪・月輪を司る2柱の神格と、諸山を統べる神格を祭神としている神社です。眼病に効く霊泉ともども崇敬は相当のものだったようですが、純然たる神社とは言い難く、そのためか明治期の神仏分離の際には大打撃を受けたようです。県庁からも酷い言われようですが、後に再び隆盛して現在に至ります。因みに山中に祀られる神格は津軽と関わりのあるものが多いのも面白いです。先ほどの地図で見てみると、十和田大神・大星大神・御志羅様・岩木大神などを見つけることができます。十和田神社や大星神社、岩木山神社などの神格を一挙に拝める、神社版の写し霊場といったところでしょうか。面白いですねそれでは先に進みましょう。置くに行くほど鳥居が古くなっていっているように見えました。参道はそれなりに長く、苔に注意しながら登ります。登っていくと山の中腹?斜面の開けた所に社殿が鎮座していました。造りはシンプルですが、山中にこの規模の社殿が有るとは・・・驚きです。扁額には石神大神とあります。社殿内はこんな感じです。中央・右・左それぞれに幣が置かれ、先ほどの神格たちが祀られているんだと思われます。そして面白いことに、この社殿には本殿がありません。その代わり拝殿裏手には、奇妙な形の自然岩が置かれています。奇岩を眺めてみます。岩の一部が浸食によって丸く削れています。向かって右が天照皇大神、左が月読大神として祀られているようです。なぜこの二か所だけがキレイに削れているんでしょうか?なんとも不思議な御神体です。更に先へと道が続いていましたが、またの機会にしたいと思います。続いて御鈴滝の方を見ていきます。こちらも入り口には鳥居が建っていました。さらにスズメバチも盛んに飛んでおり、注意が必要です。鳥居をくぐってすぐ脇には、小堂が置かれており内部には石仏が置かれていました。そのすぐ隣にも小祠です。祭神は不明。小祠の隣には文殊菩薩の石仏です。この時点で大分神仏混淆の要素が見られますね。参道を行くと分かれ道に突き当たります。右に行くと婦人に縁ある神格とされる淡島明神や、月待の1柱二十三夜神が祀られているようです。左には御鈴の滝へ通じています。今回は右の道から先に参拝しました。5分くらい山路を進むと淡島明神に到着です。こちらも漏れなく自然岩が御神体です。こうした巨岩・奇岩は分かりやすい祈りの対象として、人間の力の外にある自然の示現として、様々な場所で御神体となっています。更に先には二十三夜大神が鎮座しているんでしょうが、今回は深入りしません。ここまでにして、次は御鈴の滝に進みましょう。着きました、御鈴の滝です。断崖から幾筋かの水が零れ落ち、荘厳な滝へと変じています。近くには國常立神と書かれた石柱が建っており、滝の手前の巨岩を神体としているのか、滝自体が神体となっているのかは不明ですが、信仰の場であることに変わりはありません。真夏の参拝にも関わらず、この滝の周囲は涼やかで、ここに至るまでの苦難は全て報われました。青森の山中、当に秘境の地に鎮座する巨岩信仰の霊場は、今も変わらず崇敬を集めていました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月23日
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碁盤の目の様に走る小道が、黒石の街を割ると共に、他の町とを繋いでいます。そのため複雑で入り組んだ道が多い黒石ですが、今回紹介する神社もそんな小道の脇に鳥居を構え、境内へと誘っています。駐車場はおそらく無く、どこか駐車できる場所を探さなくてはいけません。まぁ、この辺りには神社仏閣が密集しているので、どこかに駐車して徒で散策するのも非常に趣が有って楽しめますよ2024.11.10黒市神明宮街なかに在りますが、境内は広く、緑も目立ちます。この様に鳥居も社号標も豪勢で、地域の中心的な神社といった風情です。うん、参道も良いですねぇ!道に沿って杉の木立が生えています。それでいて境内はキレイに管理されているんです。何とも参拝しやすい、いい雰囲気の境内です。手水も良いですね。花があるだけで何となく涼やかな気持ちになりますよ。拝殿が見えてきました。横に大きく伸びた向拝が特徴的な社殿です。ご由緒を見てみましょう。陸奧國津軽黒石鎮座 黒石神明宮主祭神:天照大御神相殿神:松尾大神、住吉大神、牛頭天王、天神【由緒沿革】 起源不明なるも文禄年間(1592~1595年)410年前、第百七代後陽成天皇時代、現地にすでに小祠があったと伝えられている。天保年間(1644~1651年)360年前、三代将軍徳川家光の時代に御国三十三観音の二十六番目黒石札所もここにあった。 天和2壬戌年(1682年)9月16日、323年前、黒石藩主津軽信秀公願主になり、「武運長久・子孫繁栄・領内安穏の為」家老 発田茂太夫・城代 澤井直右衛門を遣わし、奉行・町年寄・棟梁等を督励して本殿・神楽殿を建設し、藩主の御祈願所とし、永代御神楽を勤めさせた。 宝永3丙戌年(1706年)5月吉辰日、299年前、黒石領主津軽信敏公の精舎神明宮を造立した棟札が神明宮に残されている。 寛延4年(1751年)津軽三十三ヶ所順礼によれば、二十六番黒石とあり、堂一間四面西むき、前に一間に二間の拝殿あり、住吉大明神の堂・牛頭天王の堂、二間に三間の神楽殿・神明宮・天神の堂・松尾大明神の堂あり、この所を上(かみ)の坂という。 明治2年(1869年)5月14日黒石前町の大火により焼失し、現在の建物は明治12巳卯年(1879年)10月30日、126年前に氏子浄財にて本殿・幣殿・拝殿・冠木門・玉垣・石垣を新築する。【主要神事】・1月1日:歳旦祭・2月1日~:開運厄除・2月3日:節分祭・4月29日:祈年祭・5月第四日曜日:植樹祭・6月30日:夏越大祓・7月15日:宵宮祭・7月16日:例祭・旧9月16日:神明宮天岩戸祭・11月23日:新嘗祭・12月13日:松尾祭・12月28日:年越大祓・12月31日:大晦日祭、焼納祭黒石神明宮いろいろと調べてみましたが、特に旧社格などは分かりませんでした。社号標にも社格の彫り込みが無いところを見ると、元は無各社だったのかもしれません。最初から神明宮だったのかも不明で、元は神仏混淆色の強い霊場だった可能性も有るのではないでしょうか。津軽三十三観音霊場の二十六番札所の観音像も元はここに鎮座していましたし、その線は強いと思います、知らんけど。次に扁額です。金字の豪華な額でした。本殿は神明造。The 神明宮という風情です。斜めから。黒石津軽氏の祈願所であった神明宮に参詣できました。街なかに在りながら境内は静かで涼やか、雰囲気も良かったです。心を鎮めてリラックスしたくば、参詣するのも良いでしょう。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月21日
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先月の秋田遠征の際に、大館から尾去沢の方に抜けようと山道を走っていました。周りは緑あふれる景色で、民家なども有りません。特に見る所もないだろうと、次の目的地の事だけを考えていると、少々遠くの林、道沿いの所に木造の大堂が姿を現しました。一般的な観音堂と比べても大柄で、行燈などと見比べてみるとその大きさが分かると思います。現在は神社となっていますが、その名前からして元々は大日堂、または真言宗の寺院だったことは明白です。それでは見ていきましょう。2025.6.15別所大日神社道路脇から境内を眺めてみます。杉林を背に大きな御堂が建っており、雰囲気は抜群。多少スケジュールが狂ってもこれを見逃すのはもったいないと思い、しっかりと参拝しました。御堂左手前に鳥居があり、こちらから参拝出来ます。鳥居の脇には小堂がたっており、中にはいかんとも表現できない木像?が収められていました。近くで見てみます。中央の赤い木の杖の様なものを、荒縄でぐるぐる巻きにしています。形はオシラ様に似てなくも無いですよね?この木像は”赤鬼様”と呼ばれており、塞之神の様なものだそうです。現在の赤鬼様は、平成24年4月4日の低気圧に際して、倒壊してしまったものの代わりとして造られたものです。赤鬼様の詳細は不明なんですが、かなり威圧感のある呪術的な?見た目をしています。そのことから悪疫退散を担う地域の守り神、つまり塞之神であることは確かでしょう。なまはげを模している様に見えなくもないですが・・・。境内の説明書きです。別所大日堂 別所大日堂は神亀5年(728年)僧の行基が自ら一木三体の阿弥陀如来を刻し、本のものを八幡平大日堂へ、下のものを独鈷大日堂へ、中のものを別所のご本尊として納め創建したものであると伝えられている。その後、享保13年(1728年)別所70戸、中岱村(今の三哲神社下宮付近)4戸をはじめ、十二所、沢尻、葛原、猿間、浦山、軽井沢、平内、大滝、独鈷から寄付が集まり改築された。広範囲に信仰する人が多かったことが明らかである。 また、明治34年(1901年)に再改築している。ご祭神は天照大御神とされており、例祭は旧3月18日となっている。境内には、赤鬼様(人形道祖神)が祀られ、部落の入り口から災いなどが入り込まないように守護神として長い間住民を守ってきた。また、三本マッカの杉(三頭木)の巨木(推定樹齢400年、樹高20m)が聳え立っている。その後、台風により内1本の幹が倒木したが、これに若木を接いだものが未来へ向かって今も力強く育っている。【関連事項】八幡平大日霊貴神社(通称:小豆沢の大日堂)は養老2年(718年)行基により再建、その時楽人を招いて祝賀の舞楽が奏された(これが今に伝わる大日堂舞楽である)。例祭は旧1月8日、独鈷大日堂は神亀2年(725年)行基により再建、大日如来が安置された。例祭は旧5月28日。令和3年10月 十二所再発見探訪隊付近にある他の元大日堂と同じく、こちらも行基菩薩による開創と言われています。青森県の南や秋田県の北部には行基開創の伝説を持つ寺院が幾つかありますが、これは何故なんでしょうか。当地まで行基が赴いたとは考えにくく、更に大量の寺院を建立しているのも不自然です。このことに対する解の1つとして、行基集団説が挙げられます。糠部三十三観音霊場のガイドブックに書かれていた説なんですが、行基をかたる僧の集団がいて、彼らが当時の奥州・羽州に分散。それぞれが寺院を建立したという説です。布教のために治水なども請け負って、その地域に浸透していったんでしょうか?また、面白いことに行基開創の伝説をもつ寺院は、もともと天台宗または真言宗であることが多いんです。このことから、行基をかたっていたのは修験僧達だと思われます。東北へ最初に入ってきたのは天台や真言などの平安仏教勢力が主で、これらは後に鎌倉仏教である曹洞宗寺院などへ姿を変えているところが多いです。この様な変遷をたどった寺院の多くは、曹洞宗でありながらも本尊が釈迦如来ではなく、聖観音や十一面観音、大日如来などになっています。この好例が恐山 菩提寺で、現在は曹洞宗ながらも、あくまでも本尊は延命地蔵尊です。境内に釈迦堂(本堂)もありますが、それよりも本尊を納めた地蔵堂の方が荘厳な造りをしています。東北地方における主要宗派の変遷は、いつか特集記事にまとめたいと思っていますが、いつものことながらいつになるかは分かりませんので、気長にお待ちください。二之鳥居は両部鳥居です。両部鳥居も神仏習合の痕跡らしいですので、当神社にはピッタリです。本堂が見えてきました。苔むした石段が支える大堂をご覧ください。これを見ているだけで酒が進みます。本堂左手には小堂が置かれています。内部には石仏が収められています。どちらも勢至観世音菩薩(勢至菩薩か?)と書かれた木札が添えられています。更に奥にも小堂。中には小祠・石仏が収められていました(判別不明)。本堂の裏手に来てみました。奥の方に祠が見えますが、そこに至る道は見つけられませんでした。というか手前には水垢離場の様な水場がありますねぇ。こちらの方が気になってしまいます。別所大日神社と称していますが、神社で言う本殿の様なものはついていません。完全に仏堂の時の姿のままでした。次に本堂右手です。立派な白馬の神馬像が置かれている神馬舎。その隣には唐松神社の祠が鎮座しています。御神体は女神の石像です。唐松神社の祭神は神功皇后ですので、それを表したものでしょう。更に境内には天神宮の石碑も。では本堂も見ていきましょう。まずは扁額です。かなり掠れていますが、大日社と読めます。堂内はこんな感じです。神鏡に御幣、神社の体をしています。祭神は天照皇大神と説明書きには書かれていましたが、幣は3つ・・・。おそらく他にも祀られているんではないでしょうか。例えば荒魂とか豊受大神とか・・・知らんけど。奥には厨子などは無く、寺院時代の本尊は置かれていないんではないでしょうか。境内には沢山の絵馬が奉納されています。こちらは勇壮な白馬の絵馬。重厚感ある雄々しい牛の絵馬。牛や馬など家畜の絵馬、などなど様々ありました。斜めから。今回の秋田遠征ではこの大日神社しか廻れませんでしたが、有名な鹿角の大日靈貴神社や、もう1つの大日神社も周りたくなってきました。次回の遠征ではぜひこれらも廻りたいところ。神社になってしまったとしても、行基開創の伝説を有する古刹がこうして現存しているなら御の字です。山中にひっそりと建つ大日神社は、今でも東北の古の歴史を語る生き証人として大館の地に鎮座していました。以上です。
2025年07月21日
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今年3月未明、福島出張を利用しての北関東巡礼の道中、以前より気になっていた神社の近くを通ったので参拝してみました。正直下調べもしていなかったし、よくある神社だろうと高をくくっていたこともあり、後にすさまじい衝撃を受けるとは露も知らず、参拝を迎えました。笠石神社神社の駐車場に着くと何やら催し物の準備をしています。宮司さんに尋ねると、どうやら明日例祭があるんだとか。つくづく運の無さを痛感してしまいましたが、参拝出来ただけでも良しとします。一度宮司さんと別れて、神社の参拝を済ませました。境内には幾つか歌碑が置かれています。国造の 碑文を読めば那須の国の 早くひらけし 太古思ほゆ邦夫社務所近くにもありました。埋れて 飛鳥の御代の国造碑 今こそ国の宝と 仰ぎ奉る十八代宮司 伊藤弘恵飛鳥より 那須国造の守り神 わが子五人の 幸のみ祈る妻 美子先ほどの石碑に続き、こちらも夫婦で詠んだ詩が刻まれていました。この杜に 生まれて神の国造を 護り仕えて 九十歳 永久に伝えん 笠石さま十七代宮司 伊藤國男笠石に 嫁ぎきて七十年 今ここに人生を終る あゝ感無量妻 マサここからは再び宮司さんと合流。境内の説明を受けながら、御神体へと向かいます。鳥居の手前には”日本考古学発祥の地”という碑が建っていますが、これは笠石神社の祭神と関わるものです。後で詳しく述べますが、笠石神社の御神体の石碑は7世紀の那須国造である韋提(いで)の功績を称えるために建立されました。では韋提の墓はどこにあるのか、当時この辺りを納めていた水戸光圀公は、その候補地である侍塚古墳を被葬者に敬意を払いつつ掘り返し、学術的に調査したのです。これが日本で初めての学術的発掘と言われており、それに因んで日本考古学発祥の地とされているのです。そんでもってこの石碑の文字も、徳川家の末裔の方の揮毫となっており、非常におもしろいです。鳥居をくぐって左手には稲荷の社が置かれています。その後ろにも小祠が幾つか置かれていますが、詳細は不明です。稲荷社の反対側に拝殿?が置かれています。拝観しやすいようにか、本殿と拝殿とはずらして置かれていますねぇ。拝殿内はこんな感じです。御供え物が幾つか置かれていました。それではいよいよ本殿に進みます。本殿は他の社殿よりも一段高いところに置かれていますが、この一段高い土盛は以前からこうだったとされています。この土盛、韋提の被葬地(侍塚古墳の被葬者は韋提よりも数世紀前の人物)ともされているようですが・・・真実は如何に。本殿です。この中に那須国造碑が置かれています。独特な笠の様な造りをしている石碑であるため、笠石と呼ばれているとか。神社名の由来になっていることは確かです。那須国造碑は御神体であるため、当然撮影はNGです。写真や拓本なら社務所で販売しているんですがね。境内の説明書きの中にも写真を見つけたので載せたいと思います。国宝 那須国造碑昭和二十七年十一月二十二日指定総高:148cm石材:花崗岩 この碑は、西暦700年頃に、那須国造であった那須直韋提(なすのあたい いで)の遺徳をたたえるため、その息子と思われる意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された碑です。文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石さま」として親まれています。 碑には、8行に各19字ずつの計152字が刻まれており、その書体には中国の六朝時代の書風が感じられます。また、碑文冒頭には「永昌」という唐の則天武后の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に大陸や半島から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。 この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。長い間倒れ埋もれていたこの碑を、磐城の僧(円順)が発見し、小口村梅平(現那珂川町)の名主、大金重貞に話し、それが、徳川光圀へ伝えられました。そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄4年(1691年)碑堂を建て碑を安置しました。これが、現在の笠石神社となっています。 なお、多賀城碑(宮城県)・多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。大田原市教育委員会 続けて由緒(笠石神社社務所発行)も見てしまいましょう。笠石神社御祭神:那須国造 那須直韋提御神体:那須国造碑(日本三古碑)※明治44年、戦後は昭和27年国宝指定。初めは書跡、昭和60年より古文書で国宝那須国造碑碑文永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壱那須直韋提評督被賜歲次康子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尔仰惟殞公広氏尊胤国家棟梁一世之中重被弐照一命之期連見再甦砕骨挑髓豈報前恩是以曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子不改其語銘夏堯心澄神照乾六月童子意香助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固書き下し文永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原の大宮の那須国造、追大壱那須直韋提、評督を賜る。歳は康子に次る年、正月二壬子の日、辰節に殄す。故に意斯麻呂等、碑銘を立て偲ぶと尔云う。仰ぎ惟いみるに殞公は、広氏の尊胤、国家の棟梁なり。一世の中、重ねて弐照せられ、一命の期、連ねて再甦せらる。骨を砕き髄を挑ぐとも、豈前恩に報いむや。是を以て曾子の家、嬌子有ること无く、仲尼の門、罵る者有ること无し。孝を行うの子、其の語を改めず。夏の堯の心を銘じて、神を澄まし乾を照らさむ。六月の童子、意香しくして、坤を助けむ。徒を作すこと之れ大にして、言を合わせ字に喩かにす。故に翼無くして長く飛び、根无くして更に固からむ。大意永昌元年(持統3年・689)4月、持統天皇の治世において那須国造を務めた追大壱(官人の位階)那須直韋提が評督(ひょうとく)を賜わった。その後、康子年(庚子のこと。文武4年・700年)正月2日に亡くなった。そこで、意斯麻呂たちが韋提を偲んで、銘文を刻む。思い返せば、亡き韋提公は、有勢な氏族の末裔であり、国家を支えた人物であった。一生の内に国造と評督(または、追大壱の位階と評督)を授けられるという二度の栄誉にあずかり、生涯を終えてもその業績は子孫に引き継がれた。粉骨砕身の努力をしてでも、韋提公の恩に報いなければならない。孝行の家門におごった者はなく、孔子の門弟に罵る者はない。孝で知られる尭(中国の伝説上の皇帝)の心を銘じ、心を澄まして父を顕彰しよう。孝の心ある子は、母を助ける。建碑のために多くの者が集い、言葉を紡いで碑文を刻む。我々の功績は、翼はなくとも広く知れ渡り、根はなくとも強固なものになるだろう、と。那須国造碑の形状・碑文の書風 碑は那珂川流域産とされる花崗岩を用い、上に行くほど細くなる四角柱の形状で、同材で作られた冠石をかぶせられている。この形状のため、江戸時代の記録に「笠石」の名称が用いられている。現在の台座は江戸時代の碑堂建立の際に作られたものであるが、大金家文書によれば、碑堂建立の際に元々あった台座を土壇(現在碑堂が建っている土壇か)に埋めたとみられる記述がある。 書風は六朝風、中でも北魏の書風に近い楷書体とされるが、やや唐代の影響も見られるという。その書風の古さのため早くから注目され、書道史上重要な三つの石碑「日本三古碑」の一つに数えられる(他は多胡碑・多賀城碑)。祭神の略歴 那須直韋提は、那須国造・那須評督を務めた人物である。国造とはヤマト王権の地方官で、地方の有力豪族が任命されたものである。また、評督とは、大化改新によって大化2年(646年)以降大宝元年(701年)まで、新たな行政区画として設定された評(大宝元年以降は郡)の長官である。那須国造であった那須直韋提は、持統3年(689年)に評督の職を賜わっているが、この時国造の任を解かれたのか、または兼任であったのかは定かでない。しかし、大化改新以降のいつの時点かで那須国や下毛野国造などの国造のクニは解体され、全国の国造たちは評の官人(後には郡司)等の新たな地方官の役職を得て生き残っていくこととなる。 韋提は、文武4年(700年)正月2日に死去し、韋提を偲んだ意斯麻呂らによって那須国造碑が建立された。意斯麻呂は、かつては韋提の副官とも見られていたが、碑文の内容からすれば韋提の息子と考えられる。碑文には、韋提の業績を讃え、那須氏一族の団結を謳う文章が、中国の古典を引用しながら刻まれる。江戸時代における那須国造碑の整備 那須国造碑は、江戸時代の湯津上村でも付近の人には知られていた石碑だったようであるが、あるきっかけで村外の人にも知られるようになる。延宝4年(1676年)、那須郡武茂郷小口村の大金重貞は、湯津上村から来た圓順という旅僧から湯津上村にある那須国造碑の話を聞き、息子と共に碑へ六度通って碑身の苔を摺りおとし、碑文を自身の著作『那須記』に書き込んだ。後に徳川光圀が武茂郷馬頭村(近世には水戸藩領)を訪れた際、『那須記』を通して那須国造碑の事を知り、碑の整備を重貞に命じる。こうして、那須国造碑の保存・顕彰が開始される。 那須国造碑の整備には、水戸藩の佐々介三郎宗淳(「水戸黄門」の助さんのモデル)が大金重貞と光圀との連絡調整をし、元禄4年(1691年)のうちには那須国造碑を安置する碑堂が完成したようである。こうして碑堂が建立された後も、江戸時代を通じて修理費用の負担をするなど水戸藩からの援助は続いた。なお、那須国造碑に刻まれている碑主の墓を求めて上侍塚古墳や下侍塚古墳の発掘調査が介三郎らによって行われたことも有名である。この発掘調査は日本初の学術的発掘で「日本考古学発祥の地」とも言われています。笠石神社縁起 宮司 伊藤克夫 著 より引用田村麻呂の時代から更に100年程遡った時代に生きた那須国造 韋提。彼が蝦夷系の豪族だったのか、中央から移動してきた和人の末裔かは不明ですが、実際に坂東の地、それも那須に生きていたことは確かです。新羅の帰化人を登用して当地を富ませたと書かれています。説明書きにもある通り、大陸の文化を取り入れ、当地の文化水準を高めた偉人です。この時代の人名が分かる他、大陸風の賛辞、書体など、見所は様々です。”郡”以前の地域区分である”評”が用いられているなど、造碑当時の習慣などが分かるのも面白いですね。因みに社務所の方には笠石神社代々の宮司が列挙されています。こちらも見ておきましょう。系譜一代:伊藤和宗守祐胤 天正17年(1589年)12月*日二代:伊藤主計祐憲 慶長16年(1611年)4月6日三代:伊藤織部祐信 寛永3年(1626年)11月7日四代:伊藤伊織貞信 正保元年(1644年)2月12日五代:伊藤民部祐観 寛文8年(1667年)8月20日六代:大宝院法師道観 延宝2年(1674年)9月17日七代:大宝院法師道学 享保3年(1718年)8月20日八代:大宝院法師道哲 元文元年(1736年)1月6日九代:大宝院法師玄澄 延享2年(1745年)6月12日十代:大宝院法師洪嶽 明和元年(1764年)1月2*日十一代:泉蔵院法師玄海 寛政8年(1796年)5月2*日十二代:泉蔵院法師観良 文政3年(1820年)12月7日十三代:泉蔵院法師信良 明治5年(1872年)11月2*日十四代:伊藤憲之助 明治36年(1903年)3月*日十五代:伊藤眞榮 大正7年(1918年)2月2*日十六代:伊藤為二 昭和24年(1949年)8月*日十七代:伊藤國男 平成4年(1992年)5月1日十八代:伊藤弘恵 平成17年(2005年)1月3日十九代:伊藤克夫初代宮司から現在の宮司まで脈々と受け継がれてきたことが分かります。面白い点が六代~十三代は僧名が続いていることです。恐らく宮司として、というよりは別当として、当神社の管理を司っていたんだと思われます。この様に様々な偶然が重なり現存する笠石。それを祀るは笠石神社、那須国湯津上に鎮座する古社は、往古の当地の姿や習俗を今に伝えます。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月19日
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弘前城の西側に今でも昔の風景を留めた様な寺院がございます。鶴亀門で有名な誓願寺です。津軽の浄土宗の惣録と並び立つ格式の寺院であります。そうした大きな寺院であれば、末寺が多いのも自然なことですが、今回紹介する寺院も末寺の1つとなっています。更に誓願寺の隣に境内を構えており、かなり至近です。これらが並び立つことによって、趣ある風景が生まれるんですね。津軽八十八霊場五十八番札所:無一山 専求院またもや桜の季節、本寺と共に参拝してきました。このお寺は見開きの御朱印もあるようで、茨城の友人はそちらをもらっていました。僕はそれが有るとは知らず、帰りしな友人に見せられてビックリ貰わなかったことを酷く後悔しております。そんな専求院は、誓願寺参道の左手に寺門を構えています。塀を乗り越え、境内から飛び出す様に生えた桜の巨木が見事ですよ!風情の塊のような寺院なんです。門の隣には観音堂が置かれており、内部には位牌もあることから、永代供養のための堂宇でもありそうです。堂内には美麗な聖観音と共に三十三観音の絵図が収められていました。一瞬こちらが札所本尊かとも思ったんですが、あくまでも札所本尊は本尊の阿弥陀如来だそうです。因みにこの聖観音像は円仁作との伝説を持っているようです。次に本堂です。大きさも中程度、装飾も最低限。当に塔頭といった風情があります。ご由緒です。無一山 専求院浄土宗 光明山無量院誓願寺末寺開山:念夢和尚開基:光明山無量院誓願寺二世 無角和尚本尊:阿弥陀三尊 専求院は浄土宗・誓願寺の末寺だった。従って誓願寺と地続きになっており、有名な重要文化財・誓願寺山門のすぐ手前を左に入ると同院だ。この寺の入り口に大飛閣というお堂があって、観音様とえんま大王を安置している。ここのえんま様と“脱衣婆”は、高さ1mほどの木像だが、 特に”脱衣婆”は口が大きく割れ、いかにも人を取って食べそうな姿をしている。俗に「塩辛ばさま」と呼ばれ、昔の子供たちには怖がられたという。 えんま様と『脱衣婆”は、近所で織物業をやっていた福島文吉さんが、明治20年(1887年)7月に寄進したものだが、面白いエピソードがある。文吉さんは碁が好きで、当時の住職・哲静師のところに遊びにきては石を並べていたが、哲静師には歯が立たない。えんま様と”脱衣婆”を寄進しても住職は手をゆるめてくれない。怒った文吉さんは「それならば・・・」と寄進した二体を家に持って帰ってしまった。ところがその夜、文吉さんの家は、終夜、震動し眠れなかった。怖くなった文吉さんは早速、専求院に戻し、安置させたという。 専求院は誓願寺の寺務を務めていた念夢和尚が、文禄年間(1592~1596年)に同寺二世・無角和尚の助力を得て小庵を開いたのが創建といわれる。また寺伝によると、念夢和尚は藩祖為信から木造新田地方の布教と開拓の内命を受け、寛永6年(1629年)、広須山 長福寺も開いた人といわれる。 専求院には天明、天保の大飢饉で死んだ人たちの無縁仏の墓がある。無縁仏の墓地は、以前、城西団地内の弘工グラウンドの所にあったが、39年、団地造成にあたって現住職の村井竜山師の好意で同院に移したものだ。 大飢饉は津軽藩内にも多くの餓死者を出し、岩木河原にも多くの死体が流れ着いた。樋ノ口部落の船頭・弥次衛門が見かねて河原に埋葬、この姿を見て藩士や部落民も死体を集めて手厚く弔ったという。安政4年(1857年)、4月8日、ここに5つの墓石を建立して供養。この供養を樋ノ口部落のお年寄りたちが引き受け、明治の初めごろから上新町のご詠歌グルーブ・新講会も加わり、無縁墓地を守ってきた。 51年は同院に移転してから十三回忌、お盆には新講会のお年寄りらが集まって盛大な供養が行われた。つがるのお寺さん 上巻 132.133ページ より引用それでは堂内も見ていきます。まずは堂内左手に置かれた子安地蔵尊。安らかな表情もさることながら、左右に刻まれた龍の装飾などもリアルですねぇ。いったいどんな由緒を持っているんでしょうか、気になります。公式サイトを見てみたところ、この地蔵尊は檀家の方の先祖が寄進したものだそう。この地蔵尊には背負子が付いており、これを背負いながら各地を巡礼していた強者が居たものと思われます。本堂右手には先述の閻魔像と奪衣婆像が置かれています。所々塗が剥がれ、歴史の重みが感じられますが、なんと言ってもこの大きさは目を見張るものがあります。閻魔像に関しては大人の座高と同じくらいの高さに感じました。表情も活き活きとしており、非常に見ごたえのある像でしたそして本尊です。通例通り三尊形式で祀られていました。この像は由緒などが不明なんですが、不思議な魅力のある像でした。背後の金ピカのスクリーンが神々しさを強化しているんでしょうか。本尊手前の天井もすんごいですよ。単に家門が並べられているわけではなく、それらが花で飾られているんです。ここまで美しい天井画もそうそう無いでしょう。斜めから。弘前の街中にあるため、アクセスもしやすく、且つ面白いというすばらしい寺院でした。ここを参拝する時は、本寺の誓願寺も一緒に参拝するとエモーショナルな気持ちになれるのでお勧めです。弘前の浄土宗寺院が一、専求院でした。御詠歌よろずよの ねがひをここにおさめおく むいちざんの せんぐいん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・【公式】専求院以上です。次の記事・五十九番札所:津軽山 革秀寺 蓮咲き乱れる藩祖菩提寺
2025年07月17日
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東京出張の前日を利用して、江戸三十三観音霊場の巡礼を行いました。朝9時くらいに東京駅に到着し、そこから東→北→西と周辺の札所を巡ります。最初は五番札所:新高野山 大安楽寺、そして徒歩で人形町に向かい三番札所:大観音寺を目指しました。江戸三十三観音霊場三番札所:大観音寺東京メトロ人形町駅を過ぎた頃、路地裏を歩いていると”観音様←”と書かれた看板がふと目に入りました。これに従って路地を進むと、無事大観音寺に到着。ビルとビルの狭間に押し込められたかの様に境内を構えています。参道入り口には古めかしい行燈が置かれているんですが、不思議と近代化された東京に馴染んでいました。手水は荼吉尼天堂の前に置かれています。参拝前に手を清めました。境内はこんな感じです。奥に本堂、それを囲むように諸堂が置かれています。まずはその諸堂から見ていきましょう。本堂の向い辺りには本願地蔵尊という石地蔵が祀られています。千羽鶴の数や、目を見張るばかり。なんとも崇敬が篤いことでしょうか。詳しい由緒は不明ですが、昔から江戸の方々から信仰されていたことは想像に難くありません。本堂の右手前には韋駄天が祀られています。火除けや仏堂守護の神徳が有るとされるため、よく境内や社務所等に置かれているのを見かけます。その隣には馬頭観音。激しい憤怒の表情がイイですねぇ!では本堂を見ていきましょう。新しめの御堂の中に精巧なつくりの聖観音が収められています。この聖観音像は本尊の御前立であり、その奥の厨子に本尊が収められています。本尊は何と頭だけの鉄製聖観音。この聖観音は毎月11・17日に御開帳されますので、比較的姿を見やすいのが良いですね。本尊の鉄製聖観音はこちらの動画から拝むことができました。・You Tube / 仏像チャンネル / 大観音寺の鉄造菩薩頭ご由緒と被るので、↓の説明書きは省略です。ご由緒です。大観音寺聖観音宗 金龍山浅草寺末寺本尊:聖観音・・・。 このお寺の寺号は、タイトルの振り仮名のとおり、正式には「おおがんのんじ」とのことだが、このあたりでは「大観音」として親しまれている。谷崎潤一郎の小説『幼少時代』やその他の書物でも、通称「大観音」として紹介されていることが多い。 大観音寺は聖観音宗のお寺で、宗派の名で察しがつくようにご本尊が聖観世音菩薩である。聖観音宗というのはあまり聞き慣れない宗派の名前であるが、『仏教宗派辞典』(東京堂 平成2年)によると、古来伝えられてきた観音信仰を宣揚し、昭和25年(1950年)に従来所属していた天台宗から浅草寺を総本山として別立した。支院二十四か寺、末寺一寺、僧50人というこぢんまりとした宗派である。・・・。 このお寺の歴史は鎌倉時代にさかのぼる。源頼朝が鎌倉幕府を創設したとき、その妻北条政子が京都の清水観音に帰依していたことから、鎌倉の地に「新清水寺」を創建し、鉄造の聖観音をご本尊として祀った。ところが正嘉2年(1258年)正月17日、寿福寺や若宮などとともに火災にあって堂塔伽藍がことごとく焼け落ちてしまった。そのときご本尊は、寺僧の手によって難を井戸に避けられたのである。この井戸はくろがねの井戸といわれ、鎌倉十井の一つとして現在にいたっている。 この井戸の西向かいの地に鉄観音堂が再建されて、里人の尊崇を受けて栄えていた。だが鶴ヶ岡八幡宮小別当の所有であったため、明治のはじめに襲った神仏分離の命によって、この観音堂は廃仏毀釈をまともに受け、観世音菩薩像は由比ヶ浜に捨てられそうになったのである。そのとき、東京人形町の住人であった石田可村と山本卯助の2人が、船で東京御船蔵前に遷し、明治9年(1876年)に今の人形町の地に勧進してお祀りしたと伝えられている。・・・。 大観音寺の堂内の正面には、1.68mという鉄造の観音さまの頭部が安置されている。ご本尊は都指定重文である。頭部だけでもこれだけ大きい観音さまであるから、全体像なら8mもの高さの大観音さまであったのだろう。大観音寺という寺名はこの観音さまの大きさから採ったものと考えがちで、私もそう思っていたが、そうではないそうだ。 お寺の方によると、関東大震災までは青銅製の丈六の観音像がご本尊で、大観音寺の寺名はその丈六の観音さまに由来しているとのことである。また、丈六観音は大震災で崩壊してしまい、その用材で現在の「お前立」銅造観音立像が鋳造されたそうである。ご本尊は月に一度のご開帳だが、「お前立」の観音さまは毎日お詣りすることができる。・・・。江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 32~36ページ より引用かつての本尊、丈六の観音像を基にして作られた御前立の聖観音。護摩の祭壇の前に静かに屹立していました。観音霊場の札所に相応しく、本尊を聖観音とする寺院でした。本尊も面白い来歴を持っており、巡り巡ってこの寺院に辿りついたと考えれば、何だか不思議な哀愁も感じられます。今回は数日ズレで本尊を拝むことは出来ませんでしたが、いつかは直に見てみたいですねぇ御詠歌くろがねの かたきちかいにみ仏は 花咲くがごと ちまたにぞ立つ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月15日
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金木を出て中里へ、そこからまた十三湖方面へ、とつとつと道なりに進んでいきます。尾別集落の中程のカーブを抜けた脇のところに神社が建っています。今回の札所は、この神社裏手の山の頂に鎮座しているんです。津軽三十三観音霊場十四番札所:尾別神明宮 弘誓寺観音堂山を背にして神社が境内を構えています。社号標には村社とあり、尾別集落の鎮守であることが分かりますね。尾別神明宮は周辺の他の札所と同じく、もとは飛龍宮と呼ばれた神仏混淆の霊場でした。鳥居の手前には今年の干支の絵馬が収められていました。こうした干支絵馬が収められていると言う事は、今でも地域からの崇敬は篤いものと思われます。鳥居の先、すぐと社殿が建っています。拝殿です。入母屋屋根の社殿に飾りが取り付けてあります。神社は無人ですが、拝殿の扉を開けるとお守りなどが置いてあり、自分でお金を納めることでいただくことができます。ご由緒です。解脱山 弘誓寺天台宗開山:海野戒淳(圓海)本尊:釈迦如来観音堂本尊:千手観音 前身である観音山 解脱院の創建は不詳ですが江戸時代以前に尾別川の滝近くに存在したとされ、慶安元年(1648年)に土地の産土神として現在地に境内を移しています。宝暦4年(1754年)に津軽三十三観音霊場第十四番札所に選定され信仰を広げました。 江戸時代末期に飛龍大権現を勧請して飛龍宮に改称しましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、本尊は弘前市にある最勝院に移され観音堂は廃堂、明治6年(1873年)に神明宮に改称しました。 明治34年(1901年)に海野戒淳(後の圓海)が全国の観音像を3300体描こうと行脚し当地を訪れた際、荒廃した観音堂を憂い再興の為に境内に33体の地蔵を安置、さらに最勝院から再び当地に本尊を勧請し中村邸に安置しました。 海野戒淳は日露戦争に召集されましたが、住民達は志を引き継ぎ明治43年(1910年)にようやく観音堂が再建されています。 昭和19年(1944年)に圓海(海野戒淳)は再び当地に戻り弘誓教会を創建、昭和28年(1953年)にようやく寺院として認められ解脱山 弘誓寺に改称しています。青森県歴史観光案内所 / 弘誓寺観音堂 より引用当霊場の始まりは観音山 解脱院という寺院(おそらく庵寺)でした。熊野那智の瀧に祀られる飛龍権現が合祀され、飛龍宮と呼ばれた時代もありましたが、明治の廃仏毀釈によって廃絶。本尊など仏教に関連する物は除かれ、神明宮として新たにスタートします。この時開創された神明宮が今日まで続いているんでしょうね。扁額です。美しい字だ・・・。斜めから。ここから見ると本堂はかなり小振りです。もしかして仏閣を社殿に改装しただけなのでは?なんて思ってしまいます。観音山 解脱院の後裔として、神明宮開創後に解脱山 弘誓寺が開山されていますが、それの本堂などはどこにいったんでしょうか?神明宮の拝殿として使われていたりして・・・。神明宮の後ろには小高い丘があり、この山頂に弘誓寺の観音堂が置かれています。中腹には三十三観音の写し霊場が広がっており、そちらも併せてお参りしたいところ。中腹の三十三観音霊場です。参道に対して直角に伸びているため、一周して再び観音堂参拝・・・という流れが良いでしょう。そして今回の馬頭観音です。階段を登り切ると、松原の中に小さな観音堂が鎮座していました。こちらが弘誓寺観音堂となります。無人ですが中に入って拝むことができます。観音堂の外壁には由緒書きが張られているんですが、早速見てみましょうか。尾別観音堂(再興)由来 昔、この地方を東日流と言い安東が支配した頃、ここは乙辺地城***です。西国に三十三ヶ所の観音霊場があるのに因み、津軽にも三十三ヶ所**観音霊場の制定の声があって、宝暦4年(1754年)に組織されて尾別***十四番の札所になりました。当時の観音堂は現在の神明宮の右側に****の丸柱が建つ西向のお堂であったと伝えられて居りました。 明治5年(1872年)、政令によって廃仏毀釈のより、神仏混淆の分離として津軽の観音堂の中、第一番久渡寺、第十番深浦圓覚寺、第三十三番弘前山観普門院を残して他は全部廃堂されてしまいました。しかし民衆の心に浸*された観音信仰は絶ち難く、各番所の神社を巡拝して観音堂を巡礼した事にして来ました。 明治32年(1899年)海野戒淳(のち圓海と改名)が出生国山梨県を出て、観世音菩薩の功徳を広めるために全国行脚の時、尾別に来て造酒業の中村**家に宿泊して観音様の功徳を説いて居りましたので才吉翁は感銘して津軽十四番観音堂があった事を語ると、戒淳は観音堂の再興を発願された。当時尾別に50戸しか戸数がないので西北津軽地方の各部落を順錫して再興の資金集めをしました。やがて資金の調整が出来たので観音堂を建てる事になりました。その土地現在の観音堂のある所、国有林地のため管領の内潟***署、元乙辺地城の土地を内潟村長葛西興吉郎氏は数名の連署を以って払下げを願い出て許可されてから観音堂を建てました。 乙辺地城の下回り切り堀の跡に、西国三十三ヶ所の観音像を石に彫り、原石を岩木山裾十腰内から運び*主に分けて石工弘前市前田常吉が戒淳が画を絵画いたのを彫った。観音石像の裏に観音堂再興に寄附した方々の名前が彫られて居ります。完成したのは明治34年(1901年)です。・・・。以前の観音堂は現在地ではなく神明宮の右辺りに建っていたんですねぇ。それを城跡に再建したのが現在の観音堂・・・。堂内です。巡礼用品は整っております。堂内にはこんな扁額も。家畜の安穏を願った方が奉納したものでしょう。動きが非常にいきいきとしており、お気に入りです。斜めから。先ほど解脱山 弘誓寺の本堂はどこかと書いたんですが、他の方の記事を見ると観音堂の裏手辺りに寺の跡地があるみたいなんです。完全に見逃していましたが、現存していることに驚きです。この観音堂や前身の寺院ゆかりの品々は中里町博物館で拝観できるようです。いつかこちらも見てみたいです。由緒など不明な点が多い霊場でしたが、古くから仏教勢力が進出していたのは確かでしょう。それが観音霊場の札所となって今日まで伝わっているんではないでしょうか。林の中の観音堂は、自身の歴史については多くを語りません。御詠歌萬代を 祈り祈りて今ここに 千手の誓い 頼もしのみや本尊:千手観音 सहस्रभुज以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十五番札所:大山津見神社 薄市観音堂 小高い山の観音堂
2025年07月14日
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中里の主要な村の1つである薄市に鎮座する札所です。村の北端の山間部に境内を構えており、駐車場などは無いので、参拝時は車の大きさなどご注意ください。津軽三十三観音霊場十五番札所:大山津見神社 薄市観音堂境内の入口は麓の鳥居。この鳥居は令和になってから建立されたもので、非常にピカピカです。ここは珍しく神社の社号標ではなく、観音堂の社号標を掲げています。十五番薄市観音堂と堂々刻まれた石柱には、明治の廃仏毀釈などを乗り越えてきた強かさが表れています。参道の突き当りにあるこちらの小祠は参拝堂です。当観音堂は小高い山の上に鎮座しているため、足腰に自信のない方はここで拝むことができます。つまり遥拝所です。参拝堂の脇に参道が続きます。つづら折りの坂の先には、まず大山津見神社が鎮座し、さらにその上に観音堂が置かれています。道はそこまで長くはないので、身構える必要はありません。これが大山津見神社です。名前からして大山祇神を祀っているのは間違いないでしょう。ここももとは飛龍宮と呼ばれましたが、明治の廃仏毀釈の末、現在の形に落ち着いています。参道を更に行きます。大山津見神社の奥の方に見えるのが観音堂です。神社の脇から参拝することも出来ますが、今回は外回りの道を行きます。外回りの道には三十三観音の写し霊場が置かれているんです。観音堂も間近という所で、今回の馬頭観音を見つけることができました。観音堂です。明治に廃堂となるも、昭和になって再建されています。その為外見はかなり新しめ。歴史のある事に変わりはありませんがね。ご由緒です。薄市観音堂本尊:千手観音 薄市観音堂は青森県北津軽郡中泊町薄市薄市山に境内を構えている御堂です。 薄市観音堂の創建は元禄元年(1688年)薄市山山頂に千手観音を安置したのが始まりと伝えられています(ただし、貞享4年:1687年に編纂された検地水帳に記載されている事から、これ以前から存在していた可能性が高いとされます)。 寛延4年(1751年)の記録には既に津軽三十三観音霊場十五番札所になっていた事が記されています。その後、参拝が容易で災害に安全な現在地に移され、寛政年間(1789~1801年)には飛竜大権現が勧請された事で神仏混合し、飛竜宮と称されるようになりました。 明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により仏式が廃され、明治6年(1873年)に大山津見神を祭神とする大山津見神社(山神宮)に改称しています。廃仏希釈の風潮が静まると十五番札所として再興され昭和45年(1970年)に観音堂が再建されています。 境内には数多くの鳥居や三十三観音の石仏など往時の札所巡りの雰囲気が残されていますが、観音堂は新建材(サイディング)で建てられています。青森県歴史観光案内所 / 薄市観音堂 より引用観音堂の脇には石仏が置かれています。右は三十三観音の写し霊場の終着点です。観音堂が鎮座する山からの眺望。遠くに見えるのは屏風山の方でしょうか、だだっぴろい津軽平野の田園風景を独り占めにできました。堂内はこんな感じです。参拝用具はバッチリ揃っているので心・配・御・無・用(竹中直人風)!斜めから。薄市の観音堂、お楽しみいただけたでしょうか。由緒なども不明なところが多いですが、それでも数百年信仰されている霊場です。境内の様子からも修験味が感じられ、当地でどのような信仰があったのかを感じさせる、まさにその土地の観音堂と言った札所でした(?)。御詠歌萬々と 眺めもあかぬ十三の海 千年をここに 松風の音本尊:千手観音 सहस्रभुज以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十六番札所:今泉神明宮 今泉観音堂 山の頂に鎮座する神明宮と境内の観音堂
2025年07月11日
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福島空港至近の村、玉川村に鎮座する都々古別神社です。福島県内(中通り南部)にはこの他にも5社くらい都々古別神社があるんですが、その中でも馬場都都古和氣神社・八槻都都古別神社・石都々古和気神社に加えて当社が、延喜式内社 都都古和氣神社の論社とされています。この都都古和氣神社は陸奥国一之宮とされているので、これら4社の都々古別神社はいづれも陸奥国一之宮の額を掲げているんです。いったいどこが本当の一之宮なんでしょうか?都々古別神社玉川村から県道42号を東にひた進むと、左側に都々古別神社と刻まれた額がかかった石鳥居が見えてきます。道路を挟んでこの鳥居の正面に広い空き地があるので、車でも安心。鳥居の先には駆け上ってくださいと言わんばかりの急坂が伸びています。鳥居の手前、参道の左側には手水が置かれており、今でも清水が細く流れて出ていました。鳥居をくぐると参道が伸びています。この参道手前の大黒天像ですが、福島県中通りでは道祖神感覚で置かれているのが気になりました。道の四つ辻や道端、あるいは集落の出入り口などに置かれており、道祖神=大黒天といった風情です。少なくとも津軽では見られないことなので、特に気になりました。そして狛犬も変わったデザインをしています。阿形?吽形?両方口を閉じているような気がしますが・・・。坂を登り切ると拝殿がデーンと鎮座しています。ご由緒です。都々古別神社 祭神は、阿遅鋤高日子根命、大己貴命、八幡大明神。 縁起書によれば、天智天皇の御代(662~672年)に藤原鎌足がこの地にきて当社を創建し、箇子別大明神と名付けて石亀の里の総鎮守社とし、また自分の名前の鎌の字と鎮守社の筒の字を併せて、筒鎌邑と称したと記されている。 住時は奥州一の大社を誇り、48の末社を持ち、氏子85ヵ村を挙げての大祭を行ったといわれている。 天正18年(1590年)、大寺城の没落に伴って衰え、氏子も現在の須釜地区に限られるにいたった。玉川村史 615.616ページ より引用祭神は他の都々古別神社と同じく阿遅鋤高日子根命です。いつの頃合祀されたのか、父神である大已貴神と八幡宮の祭神の八幡大明神も祀られています。由緒から察するに奥州石川氏の庶流 大寺氏との関りが深く、篤く崇敬されていたんではないでしょうか。奥州仕置によって大寺氏は解役、伊達氏の家臣となります。大寺氏の衰微により当社も後援者を失い、崇敬も衰えていきます。それでも現在は郷社として存続しており、さすが古社といった風格です。先ほど言った通り、神社名の扁額と共に陸奥國一之宮の額が懸かっていました。本殿は結構大きく、瑞垣で囲われています。本殿の右側は広場の様になっており、その隅の方に末社の祠が幾つか建っていました。広場から右の方に向かうと、御輿社の手前に御神木が居わします。見上げるほどに巨大で太く力強く、なんとも神々しい。そんで御輿社です。内部には御輿が収められており、神社の祭りなどで使われます。御輿社の脇にはなぜか阿夫利山と富士山の信仰の社が置かれています。斜めから。陸奥一之宮である都々古別神社の論社の1つ、玉川の都々古別神社でした。かつては宮中の実力者によって創建され、地域の有力者の後援を受けて発展した勢いのある神社でした。近世に近付くにつれ、その勢いは衰えましたが、それでも古社の風格をいまでも感じられます。地域開拓の神格、阿遅鋤高日子根命への崇敬は失われていないのです。今回貰った御朱印です。※拝殿手前に御朱印あり。無人ですので料金はセルフ。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー神域
2025年07月11日
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八戸にある神社と言うと、櫛引八幡宮や蕪島神社など有名どころがいろいろ挙げられます。この神社たちは八戸南部氏との関りも強く、非常に篤く崇敬されていました。現在に至るまで参拝者は引きも切らず、県内外様々な土地から訪れます。今回紹介する神社は、前述の神社と並び立つ程の名社でもあり、また古社でもあります。一説には県内最古社とも言われており、由緒も面白いです。また、八戸の夏祭り 三社大祭の一翼を担う神社でもあり、当に地域の信仰の中心と言える、そんな神社です。法霊山 龗神社八戸城跡から徒歩数分、本八戸駅のすぐ近くに鎮座しているのは法霊山 龗神社。寺院のように山号らしきものがくっついているのは、その創建伝説に起因します。鳥居をくぐると、短い参道の先に拝殿が見えています。参道右手の建物には神輿だったか、三社大祭の山車だったかが収められています。手水舎です。龍の口から水が湧き出ます。手水舎の反対側には、特徴的な樹勢の木が生えています。参道左手の奥には神楽殿があり、5月第二土曜日・三社大祭の時などには法霊神楽と呼ばれる舞が執り行われます。僕も昨年5月に神楽を見に行きました。東北一般に言えることかもしれないんですが、神楽というと決まって権現頭が伴います。法霊神楽も例に違わず、カッカッカッとリズムよく一斉に歯を打ち鳴らすのは壮観です。この権現頭を使った舞以外にも、鶏舞という飾り帽子を被り鈴を持った童女が舞う神楽などもあり、それぞれの舞の違いや特徴を見比べながら見学できました。鶏舞は特に動きが大きく、かなり疲れそうですが、見ている分にはかなり縁起が良さそうに見えました。神楽殿の向いには八大龍神の石碑が置かれています。いよいよ拝殿です。横に広い社で、屋根は入母屋です。背後にはスギ林がひろがり、街中に在りながら厳かな雰囲気を放っていました。気になるご由緒を見てみましょう。法霊山龗神社祭神:高龗神・法霊大明神龗神社の歴史起源のご説明に関して 当神社の起源は諸説あり、現在記録上判明しているものは約900年前あたりからで、それ以前の創建年代などがはっきりと記録されたものが残っておりません。 それ以前に関しましては事実を確認する方法がないため、当神社としましては、通常平安後期ごろから判明している限りで説明させて頂くこととしております。 しかしながら、近年郷土史家はじめ研究者の方々の調査等によりおおよそ類推されるもの、または記録として文章化されていないものの伝承として伝わっている由緒などが伝えられておりますので、ここではその部分を含めた法霊山龗神社の歴史を述べるもので御座います。歴史・御由緒 1 ~ 神社の起源 当神社がある地域はその昔八戸村柏崎と呼ばれておりました。この柏崎という地区は、現在の八戸市中心街・内丸地区・柏崎地区などを含む八戸市の中心地域一体を指すそうです。 稲作を始め、集落という集合体の単位が見られ始めたころ、自然崇拝や産土信仰が各地で起こり始めた頃、柏崎地区の産土神としてこの地域の人々に祀られるようになりました。 これが法霊山龗神社のはじまりと言われます。 その後大和朝廷の蝦夷征討により中央の文化が伝わってくるとともに、地域の産土信仰が神道の体裁を取り始めます。 これは類推するに約1,200年程度前の出来事と考えられておりますので、柏崎村の産土信仰が誕生したのはこれより以前という事になりますが、はっきりした年代を示すものは存在しておりません。歴史・御由緒 2 ~ 農業発展と堤の守護神の合祀 稲作は日本人の食生活の中心を担ってきましたが、当然ながらその稲作技術は時代とともに技術発展を遂げ、畿内や四国近隣では、古くは飛鳥時代頃より溜池や堤などをつくり、農業用水の確保を行うようになりました。 北東北の地でも稲作は行われていましたが、寒冷な気候に弱い稲作はなかなか発展せず、堤などが築かれるようになったのは平安中期頃だそうです。 八戸地方でもその頃から堤が多数築かれるようになり、柏崎地域には柏崎堤が造られました。その堤を産土神に御守り頂く為の社が築かれ、この社は「三崎社」という神社となって祀られていくようになったそうです。 この三崎社は堤のほとりに鎮座していたそうで、現在の内丸3丁目から柏崎方面に存在していたようです。 また、名前の「三崎」とは、3つの崎を守護するという意味で、柏崎堤の他、八太郎崎(現在の河原木方面)、京ヶ崎(現在の八戸中心商店街一体)の守護として三崎社と称しました。歴史・御由緒 3 ~ 修験者「法霊」の御霊を合祀 鎌倉時代初期、八戸は日照り続きで農作物に深刻な被害が出ていました。この頃、今の神奈川県小田原市で生まれ、和歌山県熊野や京都の寺院門跡などで修業を積んだ「法霊」という高い徳を持った霊験あらたかな山伏修験者が、様々な土地で教えを説きながら東北方面へ北上しました。そして先祖代々の地と伝え聞いていた八戸に辿り着きます。 八戸に入った法霊は、不作に疲弊する人々に乞われて雨乞い祈祷を執り行い、寝食を忘れ三日三晩に及ぶ祈祷を斎行したものの、その甲斐むなしく雨を降らせることが出来ませんでした。 人々の落胆ぶりに心を痛めた法霊は、その身を生贄に三崎社内の池に身投げし、その功を得ようとしたところ、その池から龍に化身した法霊がたちまち天に登り、にわかに暗雲立ち込め、恵の雨を降らせたという伝説が伝わっています。この御神徳に感謝し、法霊の御霊を「法霊明神」として三崎社に合祀、社号を「法霊社」と改め、主祭神の一柱としました。 以上の経緯から法霊の御霊はこの地で祀られる事となった訳ですが、法霊明神は分祀分霊を正式に行っていない為、世界で唯一当社にのみ祀られる神として鎮座する事となりました。歴史・御由緒 4 ~ 南部藩誕生から八戸藩へ 江戸時代になり、盛岡城を政庁とする南部藩が誕生しました。 南部藩は現在の岩手県から青森県の太平洋側一帯の地域を与えられ、各地に支城などが築かれていきました。 八戸にも現在の三八城公園に八戸城が築かれ、同場所に鎮座していた法霊社はその館神となります。 その後、南部藩は盛岡藩8万石と八戸藩2万石へ分割され、 これに伴い法霊社は八戸藩の藩神の地位となり、八戸総鎮守として大名家によって二の丸北側に遷座されました。歴史・御由緒 5 ~ 神仏分離令以降から現在へ 明治に入ると神仏分離令が発令され、法霊社も高龗神を主祭神として法霊山龗神社と改称され、廃仏毀釈の難を逃れて現在に至ります。特に山間部でもない平坦な都市部に位置する神社にも関わらず、法霊山と山号を冠しているのはその為です。 現在は神社神道の一社として鎮座しておりますが、世情と共に性質や解釈も広義となり、今では農耕の守護の性格は薄れ、産業の豊作の意を込めて産業商売の神、法霊の徳が人々を繋いだ事から人身縁故の神など、八戸の総鎮守として地域の人々にお祀り頂いております。陸奥國八戸御領内総鎮守 法霊山龗神社 / 歴史 より引用稲作の始まりの頃、当地域の産土神として信仰が形成され、そこに修験僧 法霊への信仰が合わさって現在の形になったようです。前者も後者も雨乞いという特性が共通しており、説明書きにもある通り稲作が如何に重要視されていたかがよく分かります。そしてこちらの説明書きも見てみましょう。おがみ神社 悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において三十一歳の若さで自害したといわれている。 短くも華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。 世にいう「判官びいき」であろう。 ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれる。 元久年間(1205年)義経夫人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ヶ崎に葬り、法霊(ほうりょう)大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、八戸の義経伝説の記録『類家稲荷大明神縁起』が所蔵されている。公益社団法人 八戸観光コンベンション協会龗神社も漏れなく義経北行伝説の舞台となっているんですが、それだけではなく、類家稲荷大明神縁起という八戸の義経北行伝説の種本を所蔵しているんです。これがもととなり、八戸周辺に義経ゆかりの地が幾つも出来たんですね。また、この説明書きの中では法霊大明神の正体は義経の正妻の姫君だとしています。その姫君が切腹したのが龗神社の鳥居が建っている所とも言われているようです。これらの由緒を読んだ時に思ったこととしては、元から雨乞いに関する神格が祀られており、その神格は法霊と呼ばれていたんではないんでしょうか。名は分かっていても、実際にそれがどの様な神格かは分からず、それを補うように修験僧 法霊や↑の姫君の話が付け足されていったんだと思っています。法霊の正体が幾つもあるのは、そのような神格の不明瞭さがあったからなんではないでしょうか、知らんけど。更に明治の神仏分離の際に龗神社と改称している所を見るに、開創から近代まで修験的な特徴が強い霊場だったんではないでしょうか。祀っているのも元修験僧とされる法霊ですし、同じ修験の方たちの崇敬を集めていても不思議ではありません。こうした修験的特徴を持つことから、神仏混淆の要素が強く、それ故に神社名に山号が入っているんでしょう。次に扁額です。斜めから。市の中心街に鎮座する雨乞いの社、法霊山 龗神社でした。県内最古社と言われるだけの由緒と歴史を持っていましたが、やはり一番気になるのは一番最初にどのような神格が祀られていたのかということです。農耕神・雨乞いの神というのは分かるんですが、いかんせん神名となると判然としません。現在は高龗神と法霊大明神が祀られていますが、前者は雨乞いの神=貴船神社=高龗神、後者は創建伝説より祭神の1柱に加えられたんです。祭神の1柱に加えられたということは、違う神格がもともと主祭神として祀られていたということ・・・。うーん、知りたい、知りたい・・・。以前貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・陸奥國八戸御領内総鎮守 法霊山龗神社以上です。
2025年07月09日
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秋田県能代市、ねぶたに似た”ねぶながし”という祭で有名なところです。西の海辺には風の松原という広大な松林が広がり、人々の詩人心を刺激して一首詠みたくなるような気持にさせると言います。風の松原の北端に今回紹介する札所がひっそり鎮座しています。2025.6.15秋田三十三観音霊場二十五番札所:湯殿山 龍泉寺風の松原の北端は小高い丘になっており、能代の北の町を見渡すことができます。この丘の上には公園などが整備され、人々の憩いの場にもなっているみたいです。丘の西方には景林神社という明治期の地域の偉人を祀った神社があり、その北側に龍泉寺は境内を構えています。こちらは裏参道の様なものですが、表参道の方には駐車場がないそうなので、こちらからの参拝をおすすめします。とは言え、せっかくなので今回は表参道から参拝してみます。長い参道の先には既に御堂が見えています。階段を登り切ると六地蔵がお出迎え。御堂の左手です。こちらには開山:密雲院慈海上人と中興開山:龍印上人の石碑?が置かれています。密雲院慈海上人は密雲海上人とも呼ばれ、明治期の修験僧です。神仏分離によって廃絶しかけた当霊場を、秋田市の寺院と合併することで救い、今の世まで法燈を繋いだのです。本堂です。外見はよくある中規模の御堂という感じなんですが、内部には湯殿山と関連するすんばらしい仏像群で溢れています。扁額は面白いことに海亀の甲羅です。秋田三十三観音霊場巡礼中にもう一か所これと同じ扁額を懸けているところを参拝しました。秋田ではメジャーなんでしょうか。では気になるご由緒を見てみましょう。湯殿山 龍泉寺真言宗智山派開山:玉鳳(前身鳳凰庵開山)、密雲海上人(当寺開山)本尊:御沢仏(大日如来を始めとする湯殿山に祀られし諸神諸仏) 明治時代に独立した比較的新しい密教寺院ですが、その歴史は古く、仏教が日本に伝来して間もない頃(6世紀中頃)にまで遡るといわれます。 当時この地に布教にやってきた玉鳳という僧が庵を構え、鳳凰庵と名付けて終の住処としました。玉鳳の弟子により受け継がれた庵は、養老2年(718年)には名僧として崇敬されていた行基も逗留したと言われ、その後室町時代には縁あって湯殿山の傘下に入り湯殿山能代出張所とされました。 明治時代の廃仏毀釈の流れを受け一時は神社へと転じますが、修験僧・密雲海の尽力により、秋田市上新城にあった高倉山 観音院 龍泉寺と合併する形で『湯殿山 龍泉寺』と号し独立します。上新城の龍泉寺もまた、行基と所縁のある古刹でした。 歴史の長さ故に多くの寺宝があり、薬師如来像など3つの秋田県指定文化財を所蔵しています。パンフレット 秋田三十三観音めぐり 49.50ページ より引用6世紀中ごろに、玉鳳という僧が開いた鳳凰庵を前身とする寺院です。鳳凰庵の本尊は薬師如来(重文の1つ)とされており、天台的な要素が見られますが、室町時代には本格的に湯殿山の傘下となり、真言系の修験道場になったものと思われます。時代は下り明治初年頃、廃仏希釈の中で修験の祈祷所であった当寺は、還俗するか真言宗の寺院となるかを迫られます。信仰の場を守るために密雲海上人は思案を重ね、秋田市の大平山のお膝元に鎮座していた古刹:高倉山 観音院 龍泉寺の寺格を当寺に移し、寺院として存続。現在当寺に置かれている重要文化財の舞楽面と円空仏はこの時に運び込まれました。そして能代市の寺院:鳳来山 能代寺(現在の萬松山 鳳来院?)からは大日如来を遷して本尊としました。秋田市やその周辺には太平山を霊場と仰ぐ寺院や修験の霊場が多くあったようで、それらから諸神諸仏の像が移され、現在の御沢仏を形作ったとされます。龍泉寺の公式サイトでは、秋田市の寺院 高倉山 観音院 龍泉寺のご由緒も載っていました。高倉山 観音院 龍泉寺(廃寺) 高倉山 観音院 龍泉寺の由緒もまた古く、養老年間舎人(とねり)親王の御弟で阿彦三位浮房卿、行基菩薩の御跡を訪ねて諸国を行脚し漸く秋田市上新城石名坂で菩薩にめぐり会い、これを記念して館を作り出家せしと云う。今に残る阿彦の館跡、阿彦の池跡、黒染の桜跡は、その時代より伝わりし跡なり。 その後延暦21年(802年)慈覚大師もこの地に至れしと云う。ここに禁裏(きんり)御守護の高倉宰相永福卿という人あり、御代官として御下向のみぎり、阿彦三位の御徳を感じ御自身高楽の翁(おきな)、嫗(おうな)の両面を奉納せしと。現在の秋田県指定重要文化財『翁面』これなり。この翁面は羽鳥沼の生面として秋田の昔話に語られている。 この縁と高倉宰相の御依命により高倉山 観音院 宰相寺と三院称号せしころ、佐竹公御国替えみぎり、佐竹義宜公より寺号は龍泉寺と賜り、以後高倉山観音院龍泉寺と称せり。 その後円空大師が行基菩薩の遺跡を尋ねて当寺に入り、大いに仏徳を感じ、十一面観音菩薩を刻みて収めたり。秋田県指定重要文化財の一つこれなり。堂内に入ると、正面の暗がりの中に例の御沢仏が鎮座していました。祭壇中央最上部に本尊の大日如来が鎮座しています。これは湯殿山の山頂に大日如来が祀られているのを表しており、その手前には守護するように神鏡や厨子が置かれています。この厨子の中には龍神の御神体としてカキの殻が収められているそうです。この龍神は明治時代にカミサマ(ごみそ)と呼ばれていたおばあ様が後生大事に拝んでいたものだとのことです。これらの他にも本尊を取り囲むように様々な神仏が置かれています。この配置というのも、湯殿山のどこに祀られているのかというのを反映しているらしく、神仏分離以前、湯殿山の信仰の形がどのようだったかを表す良い資料と言えます。次に堂内右手を見てみます。こちらには重要文化財に指定されている3点の仏像・面が置かれています。右から見てみましょう。コチラは秋田県重要文化財で”二の舞咲面(にのまいわらいめん)”と呼ばれる舞楽面です。右が翁面、左が媼面で、どちらも鎌倉時代の作とされています。もとは秋田市の高倉山 観音院 龍泉寺に高倉宰相永福卿が奉納したものでした。この舞楽面の内、媼面の方には生面という伝説が伝わっています。龍泉寺の公式YouTubeチャンネルにてお話を楽しむことができます。・You Tube / 湯殿山龍泉寺 / 羽鳥沼の生面 はとぬまのいきめん 秋田の怖い話祝い事や神事に使われる舞楽面ですが、確かにおどろおどろしい見た目ではあります。その為か妖怪の正体とされてしまったんですね。ただ面白いことに、媼面の側面には縦に伸びる一筋の刀傷が残っているのです・・・。肝が冷えたところで、次に進みたいと思います。こちらも秋田県重要文化財の1つ、円空仏:十一面観音勢至菩薩です。御主人に確認したところ、勢至菩薩と十一面観音が融合したものでは無いとのこと。文書などの表記揺れの1つかと思われ、特に意味は無いでしょう。これも秋田市の龍泉寺に置かれていたものです。そんで御主人の受け売りなんですが、円空仏は宿賃の代わりの様なもので、円空が泊まったところに宿の御礼として納めていったそうな。滞在期間中に彫れるだけのものを作るため、像の大きさ=滞在期間の長さ なんだとか。つまりこの像の大きさ(192cm)からして、秋田市への滞在もかなり長かったんではないでしょうか。大平山に登り、修験のように峻嶮な山道を歩いていたかもしれません。秋田三十三観音霊場の札所本尊はコチラです。※ご由緒・札所本尊ともに高倉山 観音院 龍泉寺のものを受け継いでいるようです。そして最後が金銅薬師如来立像です。こちらも秋田県重要文化財に指定されています。鎌倉時代作の金銅仏で、重量はかなりのものだと思われます。鳳凰庵時代の本尊と言われていますが、定かではありません。表面が黒みがかっているのは錆ばかりではなく、漆を塗ったためだと言います。戦時中の金属供出を避けるために、表面に漆を塗って木像に見せかけたそうですよ。優し気な表情と、衣服のしなやかさなどが素晴らしい金銅仏でした。それでは堂内左手を見てみましょう。こちらはかつてカミサマ(ごみそ)と呼ばれていたおばあ様が崇敬していた龍神とのことです。詳しい話は忘れてしまったんですが、イタコのように神懸りになって、人々の相談を受けていたとか・・・。御神体は龍神の掛軸でしょうか。この龍神の御朱印もやってるみたいですよ。見開きでカラーの豪華な御朱印でした。次にこちら、位牌の両側に2つの木像が並んでいます。初めて見た時は、右は関羽かとも思ったんですが、どうやらまったく違うみたいです。これらの木像は即身仏に至る過程を表しているそうです。左の方が即身仏になる前の姿で、しっかりと剃髪して頬も膨らんでいます。右はというと即身仏に至る時の姿で、神と髭は伸び、頬もこけて顔が細くなっていますね。即身仏になるために桶の中で断食していると、当然身なりを整えることは出来ません。同じ人間でも入定前後でこんなにも違った相貌になってしまうのです。即身仏の信仰を伝える貴重な木像でした。斜めから。御堂の中に湯殿山をまるまる納め祀った形の面白い寺院でした。遥か仏教伝来の時代に霊場の基盤が造られたとされており、そこに出羽三山の信仰が流入し、現在につながっています。由緒などを見ていると、青森県の大鰐にある阿闍羅山 専稱院と来歴が似ているなと思いました。古来からの霊山を祀る修験・山岳信仰の霊場が、近代になって他の寺院から寺格を遷して独立するという流れが本当に似ています。修験道は明治の神仏分離の際に排斥の対象となったため、それに関連した寺院などは、かなり厳しい荒波を越えて現在に至っていると思います。修験道は神仏混淆が主であり、平地の仏教とはまた違った様相で、人々を魅了し続けます。御沢仏のように神仏織り交ぜた形で現存しているのは更に面白いですし、こうした寺院はいつまでも残っていって欲しいです。出羽三山の内、湯殿山の信仰をありありと感じられる霊場、龍泉寺でした御詠歌墨染の 桜も実入る高倉の 阿彦の池に 月澄るなり札所本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。秋田三十三観音霊場秋田三十三観音霊場(秋田杉の台紙)鳳凰庵本尊:薬師如来本尊:大日如来公式サイトへのリンクです。・龍泉寺以上です。
2025年07月08日
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熱田神宮から国道22号に沿って北上します。熱い日差しが降り注ぐ中、朦朧としながら歩き、しばらくすると路地裏に鳥居が見えます。ここから境内に入って行けそうです。熱田神宮の境外摂社の1柱、高座結御子神社を見ていきます。2024.8.17高座結御子神社よほど古文とか歴史とかに親しみが無いと、初見で神社名をすらりと読むことは出来ないのではないでしょうか。僕も由緒書きを見て初めて読むことができました。”たかくらむすびみこじんじゃ”に向かいましょう。参道を進むと左手に、鳥居が幾つも連なった神社が見えます。高座結御子神社の境内社、高座稲荷社です。太閤秀吉とも関りの深い稲荷神社と伝わります。赤鳥居の参道を抜けます。この蛇行した参道も何とも趣深くて良し!拝殿です。稲荷神社らしく紅白のカラーリングの拝殿は、中規模ながらも存在感タップリです。説明書きです。末社 稲荷社(太閤出世稲荷)御祭神:宇迦之御魂神 宇迦(ウカ)は食(ウケ)と同じ意で食物の意味。五穀・食物を司る神様です。多くの稲荷神社のご祭神となっています。祭典日・稲荷社祭:初午の日午前10時・高座稲荷講社春季大祭:旧初午の日午後1時・高座稲荷講社秋季大祭:11月8日午後1時御神徳 当社は太閤秀吉公が幼き頃、母に手をひかれお参りされたとの言い伝えから、「太閤出世稲荷」と称され、古くから立身出世、商売繁盛のお稲荷さまとして篤い信仰をうけ、ご神威にあやかろうとする方々のお参りが絶えません。 特に春と秋に執り行われる高座稲荷講社大祭には、境内は終日賑いを呈します。高座稲荷講社 当社へ格別の崇敬の念を寄せられる方々によって、昭和25年(1950年)「高座稲荷講社」が組織され、神徳の宣揚と社運の隆昌とを図るため活動しています。 ご崇敬の誠を表す、朱鳥居の奉納・俺の奉納・高座稲荷講社への入講等のご希望がございましたら、社務所までお申し出下さい。扁額も金字・金縁で立派です。更に参道を進みます。直角に曲がった参道の角の所に、御神井と書かれた額がさがった覆いがあります。奥には祠もあり、どうやら井戸にまつわる神格を祀っているようです。御井社と呼ばれる末社であり、子供の癇を鎮めるという伝承を持ちます。通称”井戸のぞき”とよばれ、遠方近在幅広く参拝者が訪れるそうな。御井社の向い辺りに手水が置かれています。現役です。手水の裏は樹叢になっており、その中に御神木が根付いています。御神木の脇には歌碑が置かれており、これは尾張浜主の歌碑と呼ばれています。翁とて 詫びやは居らむ草も木も 栄ゆる時に 出でて舞ひてむ尾張濱主説明書きです。尾張浜主の歌碑 浜主は熱田宮の伶人で承和12年(845年)正月8日、仁明天皇の御前で、113歳の老齢を以って、自作の「和風長寿楽」を見事に舞い、大極殿に居並ぶ人々を驚嘆させた、当代に於ける舞楽の大家であった。先に進みます。参道に沿って2つの祠が置かれています。神木に近いところに鎮座するこちらは新宮社。祭神は素戔嗚命です。拝殿に近い方のこちらは鉾取社。祭神は鉾取神です。この鉾取神は良く分からない神格で、息長帯姫命・武内宿禰命の2柱を合わせ祀ったものとも言われています。名前からして神社名に合わせており、明神的な神格であるのかもしれません(鉾取社に祀られている → 鉾取(明)神)。拝殿です。左右に広く伸びた独特の形をしています。現在の社殿は昭和38年(1963年)に再建されたもので、以前の社殿は昭和20年(1945年)大戦によって焼失しました。再建された社殿は、以前の社殿を模したものと言うことで、古めかしい造りを保っています。ご由緒書きです。高座結御子神社祭神:高倉下命 高倉下命は、天孫降臨の折に天磐船に乗って天下った饒速日命の御子で、豊かな穀物の貯蔵を司る神様ともいわれる。鎮座は本宮の熱田神宮とほぼ同時期で1900年の歴史を持つ。過去の造営には、織田信長や蜂須賀家政等の地元大名の協力が残されている。 現在の社殿は昭和38年5月に竣工した。 例祭は6月1日で、子供を健やかに育ててくださる神さまとして信仰が篤く「子育ての神」と称され、多くの方々が子供を伴って参拝する。この日御井社の井戸を覗かせると「虫封じ」になるという特殊な信仰が伝承され、俗に「高座の井戸のぞき」として有名である。境内には左記の4末社が鎮座する。・鉾取社:鉾取神・新宮社:素戔嗚命・御井社:御井神・稲荷社:宇迦之御魂神祭神の高倉下命は尾張国造の祖神とも言われているようで、そういった意味では熱田神宮との関りも深いでしょう。1900年の歴史を持つと書かれていますが、これはおそらく皇紀に倣ったもので、熱田神宮の創建とほぼ同時期というのであればおそらく、当神社の創建は7世紀頃となるでしょうか。それでも千年以上の歴史を持つ神社に変わりはありません。当然延喜式神名帳にも記載されており、名神大社となっています。斜めから。尾張と関係の深い神格を祀っていますが、先達のブログなどを見ていると、かつての祭神は息長帯姫命や応神天皇だったりしていたようで、祭神の変遷があったものと思われます。この神社に限らず、時代と共に祀られる神格が変わるのはよくある事でしょうが、ここまで歴史の長い神社だと、どのような変遷があったのかも知りたいところ。祭神の高倉下命についても、熊野入りする神武天皇に布都御魂剣を運んだとする神格です。熊野から尾張まではそれなりに距離がありますが、尾張の祖神として仰がれるのは熊野から尾張への人の移動があったからなんですかね?その辺良く分かりませんが、津軽にも高倉下命を祀る高倉神社が置かれるなど、奇妙なつながりは有りそうです。いずれにせよ、名古屋の古社を無事参拝出来ました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月06日
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それでは熱田神宮の境内諸社について見ていきましょう。今回は主に境内末社、施設について見ていきたいと思います。中心社殿や境内摂社についてはこちらの記事からどうぞ!2024.8.17熱田神宮 ②境内諸社今回もスタートは一之鳥居から。まずは表参道の右側から、次に左側を見ていきましょう。表参道の直ぐ脇に楠御前社が鎮座しています。祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神の2柱の神格です。ここの御神体は祠名にある通り楠で、垣根で覆われています。境内の説明書きです。楠御前社祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神 安産や縁結び並びに病気平癒の神様として、俗に「子安神」、「お楠さま」と称されている。 江戸時代中期の熱田社問答雑録に「社の神也、古楠樹を主とす」とあり、社殿がなく瑞垣の内に楠の神木が祀られている。楠御前社の裏通りには開かずの門と称される古門、清雪門がひっそりと建っています。左右には信長塀の様な土壁が続いていました。境内の説明書きです。清雪門 本宮の北門と伝えられ俗に不開門(あかずのもん)といって堅く閉ざされている。天智天皇7年(668年)故あって皇居に留まられた神剣が朱鳥元年(686年)再び当神宮に納められた折、二度と御動座なきよう門を閉ざしたという故事による。再び表参道の方に戻り、楠御前社の北方に進むと、徹社(とおすのやしろ)が鎮座しています。この社の祭神は天照大神和魂で、熱田神宮の主祭神と関係があるんですが、何故か末社になっています。更に北に進むと祠が6つ並んでいます。それ故に六末社と呼ばれ、日本武尊・尾張国造に関連する人々が祀られています。祠の名前と祭神はそれぞれ・・・乙子社(おとごしゃ):弟彦連(尾張の出身?で、美濃まで日本武尊を案内した)姉子神社(あねごじんしゃ):宮簀媛命今彦神社(いまひこじんしゃ):建稲種命水向神社(みかじんじゃ):弟橘媛命(日本武尊の東国遠征に付き従っていた姫君。相模から千葉に渡る時、時化を鎮めるため持衰として入水した)素盞嗚神社(すさのおじんじゃ):素戔嗚命日長神社(ひながじんじゃ):日長命(宮簀媛命の兄とされる。建稲種命?)と、なっています。神楽殿の手前、信長塀の前には参道の左右に高倉造の社が建っているんですが、これらが何とも面白いんです!こちらは参道右手、東八百萬社です。祭神は東国坐八百萬神(とうごくにますやおよろずのかみ)で、これは何と熱田神宮の東に座す全ての神々の事だそう。いったい何柱の神格が祀られている事やら・・・面白いです。津軽出身の方はここから岩木山神社を拝むことができます(笑)左側も同じような感じです。祠名は西八百萬社で、祭神は西国坐八百萬神(さいごくにますやおよろずのかみ)です。まるで出雲のような感じの社でした。ここからは参道左手のエリアを見ていきます。参道左手は食事処や草薙館という刀剣の展示室など、いろいろな機能の施設が置かれています。特に草薙館の周辺はくさなぎ広場と呼ばれ、食事処や自販機、土産屋が立ち並び、休憩に持って来いの場所になっています。そしてその広場の端の方に、なぜか遮光器土偶が置かれていました。これは眼鏡之碑と呼ばれる石碑だそうです。由緒は分かりませんが、遮光器土偶を使うなら”サングラス之碑”となりそうですが・・・(難癖)。その隣には松御前之碑が置かれておりました。以前は同県新城市に置かれていたそうで、そこから2021年6月21日に移設が始まり、現在に至ります。松御前は平安時代後期の熱田神宮宮司 尾張員職の娘だったためか、里帰りという形で移築が決まったみたいです。くさなぎ広場からこれらの石碑に向かうには、こちらの石橋を渡ります。この橋は二十五丁橋と呼ばれる石橋で、板石が二十五枚並んでいる所からその名が付けられました。この石橋には西行法師が腰を掛けたという話が伝わっており、その際「この涼しい境内の神社に、だれが熱田と名を付けたのか」と言ったそうなんです。言い回しがなんとも歌人らしくいとあはれなり。丁度小腹がすいたので、ここで休憩しました。名古屋と言えばきしめん?でしょうか。一度食べて見たかったのです。上方に近い故、味付けも上品なのかと思いきや、津軽の濃い口に通ずるものがあり、非常においしかったです暑い日にいただく冷やしたきしめんは何ともよろしい。次は草薙館。写真は撮れないのでアレなんですが、ここには姉川の戦いで有名な大太刀 太郎太刀・次郎太刀を始め、重文レベルの刀剣が何振も収められています。見るだけではなく、体験ブースでは実際に大太刀を持つこともでき、その重量感に圧倒されます。真柄の親子は改めて超人的な筋力を持っていたことが実感できました。くさなぎ広場から西に行くと、菅原道真公を祀る菅原社が鎮座しています。どこの県にいっても道真公に対する学生の信仰はかなり篤いですねぇ。最後に熱田神宮社殿東にある清水社を見てみましょう。祭神は水波能売神で、水神として知られています。通称”お清水さま”として知られており、その名の通り祠の後方には水が湧きだす水場の様なところがありました。水場はこんな感じです。奥の方からこんこんと清水が湧き出しています。近くで見てみましょう。なんとも透き通った水であり、このような熱い日には火照りを冷ますことが出来るでしょう。かつて眼病をわずらった平景清は、この清水で眼を洗ったところ、たちどころに癒えたことから、眼病治癒の信仰につながったそうです。神楽殿斜めから。以上、境内の末社と諸施設を概観してみました。熱田神宮にはこれら以外にも境外摂末社が複数あり、一日で全て回るのは難しいと思われます。他に行きたいところも有ったので、今回はここまでにしたいと思います。いずれもし名古屋方面に飛ばされたりした時には、今回の周り残しを含め、もう少し腰を据えて参拝してみたいと思います。公式サイトへのリンクです。・熱田神宮以上です。
2025年07月06日
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名古屋の古社と言えば、草薙の剣とも縁深い熱田神宮の名が挙がるでしょう。草薙の剣を依り代として天照皇大神を勧請した古社中の古社であり、上古より信仰の地として成った聖地とも言える神社です。今回はその熱田神宮の内、中心的な社殿群を見ていきたいと思います。また、境内社などは別の記事で紹介します。2024.8.17熱田神宮 ①中心社殿今回は神宮前駅方面から参拝したので、本当は裏参道的なところから境内に入ったんですが、どうせなんで表参道から順に見ていきたいと思います。熱田神宮の境内は広大で、表参道手前に境内社の類が集まり、中ほどには博物館やお食事処、奥に社といった配置になっています。・・・公式サイトの地図をまず見ていただくと、境内の様子がイメージしやすいと思われます。広すぎて口では説明しきれません。それではいざ、一之鳥居をくぐって熱田の宮に参拝せん!・・・と意気込む前に、鳥居左手に鎮座する摂社を拝みに行きましょう。境内の摂社の内、一際大きいのがこの上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)です。式内社でもあります。祭神は平止興(オトヨ)命で、この神格は熱田神宮の祭神の宮簀媛命・建稲種命の父に当たります。尾張国造でもあり、天火明命(饒速日命とも伝わる)・綿津見神の末裔ともされています。古墳時代真っ盛りの時の人物なので、〇〇神の子孫という風に自認していたことは当然なんですが、天火明命は天津神、綿津見神は国津神と両者系統が異なるんです。平止興命はいつの生まれかは不明なんですが、少なくとも熱田神宮創建(646年)や古事記成立(712年)よりは以前の生まれであり、まだ日本神話の形が統一されていなかった頃の人物です。そのため、国津・天津の区別はそれほど意識されていなかったんですかねぇ?地方領主的存在である人物なので、朝廷に取り入るには天津の後裔を名乗った方が同族感が出ていい気がしますが・・・。ただ、朝廷に仕える身分であるため、主である朝廷(天津)に対して、自らは国津の後裔だとへりくだったという見方も出来そうです。正直なところその辺の事情は不明ですが、こうした忖度が上古のころからあったものと思われます。上司の顔色を伺う国造の姿を想像すると、少し気の毒な気持ちにもなりますが(笑)上もあれば下もあります。少々離れますが、境内外縁西側に鎮座するは摂社 下知我麻神社です。ここには真敷刀俾命が祀られています。この神格は平止興命の妻であり、宮簀媛命・建稲種命の母とされています。境内の端っこにポツンと鎮座していますが、式内小社(論社)でもあります。境内の説明書きを見てみましょう。下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)祭神:真敷刀俾命 祭神は宮簀媛命の母神にあたり、俗に「紀太夫社(きだゆうしゃ)」と称されていた。往時の東海道や佐屋街道に面していたことから古くから旅行安全の神様として信仰の篤いお社である。再び上知我麻神社へ。拝殿の両脇には祠が鎮座しています。右の祠には大国主神が祀られます。そんで左の祠には事代主神が祀られます。これらの末社は1月5日に行われる”初えびす”で有名だそうです。午前0時から恵比寿・大黒の札を求めて大勢の参拝者で境内がごった返すようです。やはり他の地方の事はその土地のニュースを見るに限ります。今回もニュース動画にて初えびすを見てみましょう!・You Tube / 熱田神宮で商売繁盛願い「初えびす」 5万円の「福熊手」は約10分で売り切れ 7万人の人出 (25/01/05 12:02)上知我麻神社の側には、熱田神宮の別宮:八剣宮が鎮座しています。こちらも式内社。公式サイトによると・・・ 元明天皇和銅元年(708年)9月9日に勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて、祀ったことが創祀です。また、平成26年約80年振りとなる社殿の改修等が行われました。 建築様式をはじめ、年間の祭典・神事に至るまで全て本宮に準じて執り行われます。古来、武家の信仰が殊に篤く、天正3年(1575年)織田信長は長篠に出兵の際社殿の修造を命じ、又慶長4年(1599年)徳川家康は拝殿・回廊・築地の修造を、貞享3年(1686年)将軍綱吉は本殿の造替を行った等の記録が残っています。 本宮の参拝を終えられたら、少し足を伸ばして是非参拝されることをお勧めします。とあります。祭神の詳細などは有りませんが、おそらく熱田神宮の遥拝所的なものだと思われます。先達の方のブログにて、この社の御神体(708年納)の剣は西夷降伏の為に奉納されたものという記述を見つけました。勅によって西夷降伏の願いが懸けられた神剣、それを納めた社・・・。熱田神宮の構造と似ている気がしますね。摂社の筆頭・別宮とされているのには、このように構造が似通っていることも理由の1つだと思われます。そして参道を挟んで反対側のエリアにも、境内摂社が数社置かれているので見ていきましょう。一之鳥居に近い方から。こちらには日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)が鎮座しており、祭神は天照大神の御子神である天忍穂耳尊です。境内摂社でありながら、名神大社となっています。境内の説明書きを見てみましょう。日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)祭神:天忍穂耳尊 この地は、太古水際に張り出た洲崎の名残りで干崎(ひさき)といわれていた。記録によれば、古くは日破明神と称され、江戸時代初期の慶長年間(1596~1615年)には堀尾吉晴(松江城初代城主)が当社の造営を行っている。参道に沿って伸びる小道を北上します。神垣に囲われたこちらの社は孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)と呼ばれる社です。ここに祀られるのは尾張氏の始祖である天火明命です。境内の由緒書きを見てみましょう。孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)祭神:天火明命 祭神の天火明命は尾張氏の始祖であり、天照国照火明命・天照玉命とも称される。明治初年に海蔵門内の西側に鎮座していたのをこの地に遷座した。 ”ほあかり”とは、ほが赤くなるという意味で稲穂への尊称といわれている。孫若御子神社の北側には更にいろいろな祠が置かれています。その中でも大きな祠を構えているのが境内摂社の南新宮社です。祭神は素戔嗚命で、祇園八坂神社になぞらえてか、社のカラーリングは紅白となっています。南新宮社の傍らには2つの小祠が置かれており、右は八子社、左は曽志茂利社と呼ばれます。八子社の祭神は素戔嗚命ではなく天照皇大神の御子神8柱。天忍穂耳尊、熊野櫲樟日命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命となり、何れも素戔嗚命との誓約に依って出現した神格です。中には宗像三女神も含まれていますね。曽志茂利社の祭神は居茂利大神(こもりおおかみ)で、もともと居森に鎮座していたことからこの名が付いたとされています。居茂利大神は素戔嗚命のこととされていますが、これはもともと牛頭天王を祭神にしていたことに起因するようです。曽志茂利も、牛頭天王の故地である朝鮮の地名だとも言われています。境内の説明書きを見てみましょう。南新宮社祭神:素戔嗚命 社殿は当神宮唯一の朱塗りである。 当社の例祭は古来大山祭・天王祭・祇園祭等と称していた。その起源は平安時代中期に疫病が流行して、近隣の人々が旗鉾を捧げて当社に疫神を祀ったのを始めとする。 その後、この旗鉾を活用して大山や車楽の運行を始めたが、明治に入り電線が架けられるようになり廃止された。それでは熱田神宮に向かいましょう。参道を進んでいると、左手にかなり立派な樹が根付いていました。御神木であることは言うまでもありません。御神木の側には奉納された銘酒たちが並んでいました。どれも飲んだことはありませんが、いつかは頂いてみたいところ。二之鳥居まで来ると、先の方にはもう社殿が見えています。着きました、熱田神宮の社殿です・・・と言っても、やはり由緒ある大社ということで、直接社を見ることはできないようです。明治神宮などと同じような造りで、今見えているのは外縁の門でしかありません。その奥にまた瑞垣があり、内陣に御神体の眠る社が鎮座しているのです。この様な造りの大社にはなかなか参拝出来ません・・・。東北ではなおさら・・・。ご由緒です。熱田神宮 熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まります。 第十二代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお社として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護のお社として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました。 約6万坪の境内には、樹齢1,000年を越える大楠が緑陰を宿し、宝物館には信仰の歴史を物語るものとして、皇室を初め全国の崇敬者から寄せられた6,000余点もの奉納品が収蔵展示されています。 また、剣の宝庫 草薙館では、当神宮に奉納された名刀約450口を順次展示しています。 境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられています。祭神:熱田大神 祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。 天照大神は、言うまでもなく、皇室の祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。相殿神:天照大神、素戔嗚神、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命 又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。 当神宮の鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御子(みこ)である宮簀媛命をお妃とされ、やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地に祀られました。今からおよそ1,900年前になります。熱田神宮 / 熱田神宮について より引用面白いのは祭神の構成で、主祭神は草薙の剣を依り代とした天照大神なんですが、相殿神でもまた天照大神が祀られているんです。熱田大神は天照大神なれど、通常の天照大神とは別の状態として認識されていたんでしょうか?丁度和魂と荒魂の関係のように。その辺の事情はいつものごとく不明です。そして熱田大神の御神体である草薙の剣は、正真正銘本物の剣とされています。源平合戦で海中に没したものはレプリカとされており、当熱田神宮のものではないそうです。さすがに行事などでも上古より伝わる神剣を取り出すのは非常にリスキーですよね。そうした時に形代となるレプリカを作っておき、それを用いたんではないでしょうか。いうなれば保存用と実用といったところでしょうか。当然拝観は出来ません。草薙の剣は八岐大蛇の尾より生じた剣であり、雨雲を生じさせることから天叢雲剣とも呼ばれます。発見者は素戔嗚命で、斐伊川に住まう八岐大蛇を倒した際、その尾に雨雲が生じているのを不審に思い切りつけると、持っていた十束の剣が欠け、尾の中からこの剣が出てきた・・・という有名な伝説が伝わっています。これが東国遠征の折、倭姫より日本武尊に授けられ、庵原で難事を退ける事になります。はるか陸奥国まで攻め上り、艱難辛苦の旅路の末、いよいよ大和に帰還することに。帰り路では熱田に立ち寄り、同道した建稲種命の妹である宮簀媛命と再会し婚約。この時建稲種命は海難で身罷っており、身寄りのない宮簀媛命を守護するためか、草薙の剣を預けます。伝説の真偽はともかく、その時の剣が熱田神宮に今でも伝わっていると思うと、幽遠なる日本の歴史の根幹に触れたような気持になり、エモいです外縁の角から眺めてみます。門の大きさもさることながら、その前に広がる広場もかなり広いですね。広大な境内を持つからこそ、こうしたゆったりとした造りの神社が造れるんですね。奥の方には授与所もあり、ここでお守りや御朱印がいただけます。外縁の左側に沿って進んでみましょう。熱田神宮の左上の所でしょうか、こちらにも神明造の社が鎮座しています。こちらは一之御前神社、祭神は天照大神荒魂の摂社です。熱田神宮社殿の隅に、木々に囲まれひっそりと鎮座していますが、引きも切らず参拝者が訪れていました。一之御前神社から更に先に進むと、熱田神宮の本殿裏手に出ます。こちらにも鳥居が建っており、ここから直接本殿を拝める的な場所です。外縁をさらに進みます。熱田神宮社殿東方にはこれまた立派な樹があり、注連縄が巻かれていました。こちらも御神木でしょう。御神木の近く、神楽殿の裏手に土用殿が置かれています。ここにはもともと草薙の剣が安置されていたと伝わります。以下説明書きです。土用殿 神楽殿の北に位置し、もと、草薙神剣を奉安した御殿で、旧本殿の東に相並んで鎮座していました。様式は宝庫造、俗に井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる造りで、屋根切妻桧皮葺の箱棟でした。 永正14年(1517年)将軍足利義稙(よしたね)の造営と伝え、天文11年(1542年)修造されており、昭和46年に屋根を銅板葺にして復元されました。熱田神宮 / 境内案内 より引用更に進みます。土用殿の向い辺りには摂社 御田神社が鎮座しています。祭神は大年神であり、式内小社(論社)でもあります。御田神社 五穀豊穰の守護神である「大年神(おおとしのかみ)」をお祀りしております。大年神の「年」の字には、穀物、特に穂が稔るという意味があり、農耕中心の日本人においてどれほど大事な神様か、容易に推察ができることでしょう。 この社の祈年(きねん)・新嘗(にいなめ)の両祭に奉る神饌(しんせん:神様へのお供えもの)はまず烏に食べさせる信仰が残っており、祭員がホーホーと烏を呼びながら、御供(ごく)を土用殿の屋根の上に投げ上げます(烏喰の儀)。昔は烏が飛んできてそれを食べなければ、祭典が行われなかったといわれています。 6月18日には御田植祭(おたうえさい)が執り行われます。熱田神宮 / 境内案内 より引用その隣には龍神社。高床の社が面白い摂社です。神社名とは異なり、祭神は吉備武彦命・大伴武日命の2柱で、両者とも日本武尊の東国遠征に付き従ったと言われています。龍神社 吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)をお祀りしています。『日本書紀』には、景行天皇より日本武尊に遣わされた東征に従う神々としてその名が記されています。神楽殿の東に鎮座します。熱田神宮 / 境内案内 より引用樹々生い茂る小径を抜けると、急に視界が開けてきました。かなり広い広場の先には拝殿?でしょうか、大きな社殿が鎮座しています。調べてみるとこの社殿はなんと神楽殿。1月1日の0時にはここで古式ゆかしい神楽が執り行われるそうです。各種祈祷もこちらで受けられるとのこと。神楽殿の正面には”信長塀”と呼ばれる土壁の遺構を見ることができます。境内説明書きです。信長塀 永禄3年(1560年)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奏し大勝したので、その御礼として奉納した堀である。 土の石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大土塀の1つとして名高い。信長塀の脇には、それこそ神楽殿のような社殿が置かれています。こちらは西楽所と呼ばれる社殿で、昔は東楽所と対になっていたそうです。境内説明書きです。西楽所 貞享3年(1686年)五代将軍綱吉の再建による。毎年5月1日の舞楽神事には、この楽所前に特設舞台を組み、伶人がここで楽を奏する。 もとはこの西楽所(右楽所)に相向かいあって東楽所(左楽所)もあった。神楽殿を近くで見てみましょう。なんというかかなり巨大です。何も知らなければこちらの方を神社と勘違いしてしまいそうな程の立派さです。それではここで行われる神楽の方も見てみましょう。・You Tube / お祭りNagoya【お祭りと神事のチャンネル】 / 2025年5月1日 熱田神宮舞楽神事【仁和楽(にんならく)】中心社殿の紹介は以上となります。熱田の社は日本神話の太陽神を祀るとともに、尾張の地ゆかりの人物等も祀る社でした。当地はもともと祭神である宮簀媛命の屋敷があった所とも言われており、まさに神話の舞台にいるんだという実感がわきます。また参拝出来る日が来るは分かりませんが、次に参拝した時には境外摂社なども周り、熱田神宮ひいては尾張についてもう少し詳しくなりたいところです。今回貰った御朱印です。熱田神宮別宮:八剣宮※上知我麻神社社務所にていただけます。上知我麻神社公式サイトへのリンクです。・熱田神宮以上です。
2025年07月05日
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JR新橋駅から徒歩数分、焼き物のうまそうな香りが漂う、飲み屋通りの一画に変わった形の鳥居が建っています。鳥居の端の所が下に傾いた不思議な鳥居は、なぜこんな形をしているのかは不明です。おそらくこの神社オリジナルなのではないでしょうか。この神社に参拝したのは坂東巡りをした日の暮れごろ、茨城の友人と東京の神社仏閣・御朱印展を楽しんだ後のことです。気力・体力・空腹が限界に達していました。この神社参拝後、中華料理店で打ち上げをしたんですが、その時に呑んだビールの味は一生忘れないでしょう。2024.12.14烏森神社夕方にも関わらず参拝者はかなり多く、拝殿前に参拝待の列ができていました。茨城の友人と共にその列に加わり、順番を待ちます。この待っている時に焼き鳥やら焼肉やらの香りがどこかしこから流れて来て、神社の列ではなく飲み屋の列に加わろうかとも思いましたが、強い精神力で迷いを振り切りました。列も終盤になり、二之鳥居の前まで来ました。後ろには社殿が見えており、もう少しで順番が回ってくるでしょう。拝殿です。鳥居に似た造詣です。こちらもなんと変わった形なことか!拝殿を前にして右に手水、左に授与所があります。ご由緒です。烏森神社祭神:倉稲魂命、天鈿女命、瓊々杵尊地名の由来 烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。 明治以降昭和7年(1932年)まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。神社の創始 平安時代の天慶3年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。神社の隆昌 明暦の大火(世界三大大火の一つに数えられる俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となり、もちろん当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以降当社に対する信仰は日に日に厚くなっていった。 また、椙森神社(日本橋)柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されている。 明治6年(1873年)にはこれまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ている。昭和46年(1971年)には御社殿を造営し現在に至っている。烏森神社 公式ホームページ / 烏森神社について より引用なんと藤原秀郷によって建立された古社でした。祭神は稲荷大神に比定される神格の1柱 倉稲魂命です。そんなわけで当社は稲荷神社の系統である事が分かります。ご由緒にも神使として白狐が出てきていますし、まず間違いないでしょう。稲荷神社であれば、倉稲魂命・天鈿女命・猿田彦神の親子神を祀るパターンが多いんですが、当社の場合は猿田彦神の代わりに瓊々杵尊が祀られています。案内者ではなく、案内された方が祀られるという変わったパターンですが、どうしてこの組み合わせになったかも知りたいところ。また、烏森神社には室町時代の文書”足利成氏文書”が収められており、区指定文化財となっています。説明も見てみましょう。足利成氏文書 享徳4年(1455年)1月5日に鎌倉公方足利成氏より発給された御教書です。宛名を欠いていますが、文化・文政年間(1804~1830年)に江戸幕府の命によって作られた武蔵国内の古文書集『武州文書』に烏森神社所蔵文書としてみえ、今日に伝わります。 足利尊氏の次子基氏が南北朝時代に鎌倉公方として東国へ派遣されて以来、足利氏は代々その任にあたりました。成氏は基氏から数えて五代目にあたり、永享6年(1434年)に生まれ、宝徳元年(1449年)に推されて鎌倉公方となり、明応6年(1497年)に没しました。 管領の上杉氏をはじめ、長尾、太田などの有力家と争い、享徳3年(1454年)12月27日には管領上杉憲忠を鎌倉へ誘い謀殺しました。本文書はこれらの戦に軍勢を向かわせる際のもので、所願成就のあかつきには当社の修造を遂げることを約束しています。 翌4年1月21日、成氏は、武蔵国分倍河原で長尾景仲、上杉房顕(憲忠の弟)らと戦い勝利を得ます。後に下総国古河城に入り、以後ここに居ることが多かったため古河公方と呼ばれました。 なお烏森神社に残る明治末年の記録によると、本文書の寸法は縦1尺5寸5分とあり、現状より1寸(約3cm)ほど長いことがわかり、文書の左端が若干切断されたと考えられます。港区立郷土資料館 / 港区文化財総合目録 / 足利成氏文書 より引用室町時代の文書が現存していることに驚きですが、その頃の有力者たちも烏森神社に参拝し、戦勝や領内繁栄を祈願していたんではないでしょうか。古社にはこうした歴史が残っていて、由緒の読み甲斐がありますよね手水です。上の方には縁起が書かれていました(今回は省略)。そして境内の叢のかげに”きやり塚”というものがありました。他のかたのブログを見てみると、消火の際に殉職した方の供養碑だそうです。由緒にもあった振袖大火、その消火に尽力した江戸っこを供養するために建てられたんではないでしょうか。大火を逃れし烏森の社は、今も崇敬厚く、地域の方々に愛されていました。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・烏森神社 公式ホームページ以上です。
2025年07月03日
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中里から市浦に向かう峠道、その傍らに今泉集落はあります。今回の札所は、そんな集落の奧に鎮座する神明宮の境内に置かれており、神仏分離の逆風が収まってから地域の氏神の境内に再建されたものと思われます。津軽三十三観音霊場十六番札所:今泉神明宮 今泉観音堂十三湖湖畔の集落であり、規模もそこまで大きくありません。喧騒とは無縁で、どこまでも続くのではと思う程に広大な田園地帯が周囲に広がっています。路地を行くと社号標と共に神明鳥居が見えてきました。鳥居前に到着です。参道が山に向かって伸びているのが分かると思います。当神明宮は、この小高い山の上に境内を構えているんです。巳年ということで、鳥居には蛇の絵馬が懸かっていました。干支の額の奉納があるのは、管理して下さっている方がいるとともに、地域の崇敬も篤いという証拠!神明宮の参道には、いわゆる男坂と女坂があり、女坂に沿って三十三観音霊場が広がっています。今回はこちらから参拝したいと思います。道も折り返し、そろそろ境内に到着するというところです。参道は昔からの風情を残しており、趣深いです。そして今回の馬頭観音。胡座ではなく如意輪観音のような輪王座に見えますね。境内に到着です。手前に見える階段は男坂のもの。帰りはこちらを使うがよろしい。では社殿を1つづつ見ていきましょう。こちらの御堂には鬼神・水神・不動明王が祀られているようです。堂内はこんな感じです。豪華な黄金の幣が収められています。そして面白いのが御神体。なんと自然石?にオセンダクのようなものを着せています。津軽でも北の方に行くと、こうした自然石を御神体とする祠などが多くなってきます。主な例としては、金木の三柱神社・市浦の神明宮などが挙げられるでしょうか。先ほどの社の隣の御堂が、津軽三十三観音霊場の札所である今泉観音堂です。今泉観音堂は、元は少し北にある賽の河原に置かれていたようです。まずは賽の河原の由緒を見てみましょう。今泉賽の河原 今泉賽の河原は十三湖を見下ろす高台に位置し、南北朝時代の大津波や室町時代の戦乱で亡くなった人を供養したのが始まりと伝えられ「日本最古のイタコ発祥地」や「川倉賽の河原発祥地」と云われています。 大津波といえば興国元年(1340年)十三湖で大津波が起こり、安東氏の本拠で三津七湊の1つに数えられた十三湊が飲み込まれ12万人の死亡者を出したとも言われていましたが、発掘調査によるとそのような事実はないそうです。 その後衰微しましたが寛文9年(1669年)、再興され今泉観音堂が建立、享保元年(1716年)には良演上人(中泊町:善導寺六世)が地蔵堂を金木の川倉に移し、江戸時代末期には飛龍大権現が勧請合祀され飛龍宮と称されるようになりました。 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、観音堂も廃堂、本尊だった千手観音菩薩像は最勝院(弘前市)に移され、明治6年(1873年)に神明宮となります(津軽三十三観音霊場第16番札所に選定されていた今泉観音堂は、明治8年:1875年に中泊町今泉唐崎に再興されています)。 その後、境内地から木造の地蔵尊像が発見された事から地蔵堂が再建され33体地蔵尊など随時境内が整備されました。・・・。例祭である6月23日には「イタコの口寄せ」や興行などが行われ多くの参拝者が訪れます。青森県歴史観光案内所 / 今泉賽の河原 より引用観音堂の創建自体は寛文9年(1669年)、現在の今泉賽の河原に建立され、本尊は千手観音でした。もはや恒例のように飛龍宮となり繁栄しますが、明治の神仏分離に伴い廃堂。本尊の千手観音は金剛山 最勝院に移されました。それから間もない明治8年(1875年)に、現在地に再建され、今に至ります・・・という風に言えそうです。こちらも堂内が豪華です。錦の垂れ幕などで飾られています。幣の奥に厨子があり、その中に本尊の千手観音が収められているんではないでしょうか。津軽三十三観音霊場は、他の地域の三十三観音霊場と比較しても、札所本尊の御影などが不明なところが多く、この札所もまた本尊を見れたことはありません。斜めから。次の社は庚申堂。恐らく猿田彦神を祀る社だと思われます。堂内はこんな感じです。壁面に飾られた子供用の着物が謎を呼びますが、月待に関する通常の庚申信仰の社で間違いないでしょう。庚申堂の隣には山神堂です。その名の通り大山祇が祭神でしょうか。内部はこんな感じです。幣が複数あるため、大山祇神以外にも木花咲耶姫命や岩永姫命など娘たちも祀られているのかもしれないですね。んでもって、この御堂にはお気に入りの掛軸があるんです。それがコチラ!山神の姿を描いたものなんですが、その姿が実に面白いです。恐らく描かれているのは大山祇神と娘の木花咲耶姫命で、僕が好きなのが大山祇神の姿です。この髭を生やし斧を携えた姿というのが、いろいろな山の権現に共通しているのです。津軽ですと赤倉権現などの姿がこれに近いものとなっており、影響を受けていることが伺えます。おそらく山に関連する権現の姿というのは、1つの原型から派生していったものではないかと思っているんですが、どこにそれが書かれていたか忘れてしまったので、この説については、またいつか深堀してみたいです。山神堂の正面辺りに階段が伸びており、ここを登ると神明宮に到着です。神明宮の社殿です。神明造ではないですが、新しめの社殿ということで、地域の崇敬は篤いものと思われます。堂内はこんな感じです。社殿内には天照と鶏の額などが収められています。以上、今泉神明宮と観音堂でした。神社境内に再建された観音堂が今回の札所でしたが、全体的に境内は山がちで、社殿も”○○社”ではなく”○○堂”となっていました。このことから、純粋な神社の形というよりは、神仏混淆の様相が残された神社と言えるのではないでしょうか。所々から感じられる修験味が何とも興味をそそり、楽しく参拝出来ました御詠歌昔より ありとも知らぬ今泉 千手の神の しるしなるらん本尊:千手観音 सहस्रभुज以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十七番札所:春日内観音堂(相内飛龍宮) 津軽の古霊場に座す観音堂
2025年07月02日
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1年くらい前に人生で初めて名古屋に行ってきました。友達の結婚式に参列するためだったんですが、移動に時間がかかるため、式の前日はまるまる一日フリーでした。それを利用して名古屋の神社仏閣を数か所ながらまわることが出来たんです。その時に参拝した中でも、今回紹介する大須観音は規模が大きく、かなり満足できました2024.8.17北野山 真福寺 寶生院8月の名古屋というと、とても耐えられないほどの熱さで、東北出身者としてはかなりつらかったです。頬に汗を滑らせながら、電車を利用して名古屋駅から名鉄名古屋線で神宮前駅まで移動。念願の熱田神宮を参拝しました。その後街並みを見て歩くために国道22号を徒歩で北上。真宗大谷派 名古屋別院などを参拝して、いよいよ大須観音へ。大須通の春日神社から仁王門通りの前に到着です。見ての通り参道は今では商店街へと発展し、様々な店が軒を連ねておりました。騒がしい商店街を抜けると、大須観音の山門が突如姿を現しました。紅白のカラーリングが何とも上方っぽくて新鮮です。山門には仁王像が置かれています。特に由緒などは書かれていませんでしたが、この像もかなり年季が入っており、見ごたえが有りました。阿形!吽形!いきいきとした表情の大迫力の仁王、良いですよ!山門をくぐると、顎が外れたのかと言われそうなほどに、自然と口がぽかんと開いてしまいました。だって見て下さいよ、この伽藍を!日本でも随一の美麗な御堂ではないでしょうか説明書きも有りましたよ(一部加筆)。大須観音略縁起真言宗智山派別格本山開山:能信上人開基:後村上天皇本尊:聖観音 当寺は、もと尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)にありました。御開山は能信上人(のうしんしょうにん)です。 元亨四年(1324年)後醍醐天皇は、勅願を下したまい長岡庄に北野天満宮を御造営になりました。天皇は能信上人に深く御帰依(きえ)になり、元弘三年(1333年)上人をその別当職に補し、「北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」という寺号をたまわりました。 能信上人は当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に100ヶ日間おこもりになり、「この世の人々が、おすくいをうけ、おめぐみをいただきますには、どなたさまをおまつりいたしたらよいでしょうか」と一心不乱においのりになりました。上人の誠は神に通じ、ある夕べの霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である。」とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴いお姿を拝されたのであります。 そのお姿は、むかし弘法大師が一刀三礼御彫像(いっとうさんらいごちょうぞう)あそばされた摂州四天王寺の大慈大悲の観世音菩薩に寸分たがわぬ御尊影でありました。 この霊夢のふしぎは、後村上天皇の御代にいたり朝廷にたっし、みことのりによって、当寺に移され、ご本尊と仰ぐこととなったのであります。それからのち、霊験はまことにあらたかなものがありました。後村上天皇も厚く上人に御帰依になり、伽藍(がらん)を建立し、田地をたまい、すえ長く「勅願寺となす」とのありがたいみことのりを下されました。 能信上人は、学徳ともに高いお方で、当寺の所蔵する多数の書物は、東西の学者が珍重しているところですが、それらの多くは、上人がお集めになったものです。 さらに上人はすべてのひとびとら尊信をうけ、ある時には神宮の巫女が、僧伽梨衣(そうぎゃりい)というおけさを大神のおさずけとして持ち来り、又ある時には、神人が鬼面を持って来て「この面は観世音垂跡(すいじゃく)の夜叉面ゆえに、加持を加え、諸人の禍(わざわい)をのぞき、福をさずけよ」と申したと伝えております。そしてこれらは寺宝となって伝わっています。 御本尊の霊験は年とともに海内にひびきわたり、第二代住職は信瑜上人、第三代住職としては任瑜法親王がおつぎになり、寺領も一万余石におよび、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺としました。 そののち戦国の世となりましたが、織田信長公も寺領五百石を寄進し、徳川家康公に至っては、名古屋を建設経営するにあたり、慶長17年(1612年)、まず第一に、当寺を、いまのこの地に移されたのであります。 はたせるかな霊験、日に日に新に、善男善女の参詣きびすを接し、市の一大中心として繁栄し、「大須観音」と俗称され、真言宗智山派別格本山として、今日に至っているのであります。山号を見た時に天満宮の別当なのではと思いましたが、当たっていました。今回のように山号や寺号に神格関連の用語が使われている寺院は元別当である可能性が高いと思います(愛宕山、八幡山、八幡寺などなど)。岐阜県と愛知県の県境辺りにもともと建立されたようですが、徳川家康公によって現在地に遷座されたようです。元の鎮座地には今でも小さな観音堂が残っているそうで、岐阜県の三十三観音霊場の札所となっています。この様な旧鎮座地にも寺院が残されるという例は日本中であるようですね。身近な例だと南部領内の寺院が挙げられるでしょうか。南部の寺院は庇護者と共に移動することが多く、八戸から遠野へ、三戸から盛岡へ移り、旧境内に守護の為の一宇が残されるという例をたくさん見てきました。それと同じ感じですね。境内にはたくさんの石碑が置かれています。こちらは芭蕉句碑で、1687年の冬に芭蕉本人が名古屋を訪れた際に詠んだ詩だとか。説明書きです。芭蕉句碑の由来 芭蕉翁は、貞享4年(1687年)に再度名古屋を訪れた際、12月3日の夜、原町筋の当林風月堂にて、如行・夕道・荷兮、野水らと俳諧を催し、折からの雪にこの句を得て、堂主夕道に書き与えたと云う。いざさらば 雪みにころぶ 所まで芭蕉翁 元の歌*句碑は、文化文政頃の建立と云われているが、その後数度の変遷を経てここ大須観音に身を寄せていたものである。 芭蕉翁300年忌を迎えるに当り、その追善と名*文化発掘の一助として再建するのである。そんでもって弘法大師像もあります。この四角い碑には”大正琴発祥之地”と刻まれています。説明書きです。 明治45年(1912年)、大須の住人 森田五郎氏が八雲琴をもとにして小型で手軽るな二弦琴を作り上げた時に重陽の節句であったことから菊琴と名付けられた。 この菊琴をさらに弾き易く改良されたものが現在の大正琴の原形といわれております。大正時代大流行したこの琴も、時代の変遷によりその音色もいつしか消え去りました。 昭和2年(1927年)1人の少年がこの楽器のとりことなり、以来58年間改良に改良を加えながら、大衆芸能と云われるまでに育て上げてきました。初代菊琴誕生以来本年で、75年を向へるにあたり、菊琴制作者、森田五郎氏を偲びその功績を顕彰するとともに大正琴の発祥の地を明らかにし後世に伝えんとするものです。昭和60年9月9日 全國大正琴愛好会それでは気になる堂宇を見ていきましょう。こちらの二重屋根の御堂は普門殿、いわゆる観音堂でしょう。その名の通り、堂内には十二支守り本尊の8体の仏の他、多数の観音像が収められていました。扁額です。力強い筆運。堂内はこんな感じ。奥に見えるのが聖観音だったか・・・忘れてしまいましたが、堂の壁面に守り本尊が置かれ、それを取り囲むようにして小さな観音像が所狭しと並べてあります。そして本堂です。今まで見たどの仏堂よりも素晴らしいと思います。名古屋のジリジリと照り付ける熱い日差しのおかげで写真うつりもバッチリですねぇ堂内には右手にお守り売り場があり、そこでお守りや御札なんかが購入できます。御朱印は一階の寺務所にてお手続きいただけます。堂内は少々暗く、奥に厨子が置かれています。そこに収められし本尊:聖観音は秘仏にて、今回は見ることが出来ませんでした。噂によると次回の御開帳は2030年だそうです。本堂の階段脇にも石碑があります。扇塚とあることから、役目を終えた扇を供養したものと思われます。その正面には金剛界大日如来を始め、如意輪観音や地蔵尊などの石像が置かれていました。斜めから。やはりなじみの土地で無いこともあって、あまり詳しく解説することは出来ません。ですが、この伽藍のインパクトは絶大で、見に来て後悔することはないでしょう。日本三観音にも挙げられる観音霊場を、ぜひともお楽しみください。今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年07月01日
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