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日本最長の木像太鼓橋が有名な富士見湖。鶴田町から岩木山に向かう途中にある津軽の名所の1つです。その近くに境内を構えるのが今回紹介する正明寺。この寺院は近世に開創された寺院で、寺宝として陶器製の白衣観音を有しています。今では富士見湖公園内の白衣観音堂に遷され、津軽三十三観音霊場の三十四番札所(自称らしいです)として崇敬を集めておりました。2025.5.3三宝山 自覚院 正明寺寺の境内に踏み入ると、まずその開放感に驚かされます。堂宇の殆どは白く、晴天も相まって照り映えておりました。境内右側の地蔵堂には沢山の石地蔵。これも地蔵信仰の篤い津軽ならではでしょうか。それでは白亜の本堂を見ていきましょう。寺院建築というよりは民家に近い造りとなっています。切妻屋根は北東北の最適解です。ただし木彫装飾の方はというとかなりの精巧さです。懸魚には彩色もされています。お気に入りがこちらの木鼻の獅子。他にはない作風で独特の存在感を放っています。ご由緒です。三宝山 自覚院 正明寺浄土宗開山:片山徳秀和尚本尊:阿弥陀三尊 北郡鶴田町下桂井地区には2つの寺が向かい合っている。その1つは三宝山 正明寺。県内浄土宗寺院の中ではもっとも新しい創立年代といわれ、開山・開基・寺号公称も同時で昭和27年(1952年)、 現在地に建立された。したがって現住職の片山徳秀和尚は、開山和尚であり、初代住職ということになる。 もともとは西郡稲垣村出身で、父親の生業は大工だった。しかし大工仕事をきらい、15歳のとき正明寺の向かいに居を構える護念院に弟子入り。このときの住職片泰幢大和尚の修行信念は厳しく、8人いた弟子のうち、たった1人残ったのが徳秀和尚。その人のもとで10年余り修行し、現在に至っている。その後きたえられた教化信念に自信を持ち護念院を“出家、布教活動に奔走。そのかいあって檀信徒らに支えられ黒谷浄土宗の寺院を創建した。昭和46年(1971年)、開宗八百年净土宗大同団結の方針に沿い、改めて浄土宗に帰属、現在200余りの檀家をかかえている。 昭和51年、本堂の拡張工事を進めたが、実は片山住職、建築技能士の資格を持ち、宮大工としての技術もマスターしている人。同じ大工でも宮大工は2000人に1人といわれるだけにユニークな存在。布教活動を通じ”ものをつくる”という生活信条を会得したそうだが、それを実践しようーと40歳を過ぎてから勉学に励み、またたく間に資格を得たというから、そのバイタリティーは並みのものでない。今、手づくりの本堂建築に精を出しており、山門の扁額から本堂の“柱組み”まですべて自前。宮大工ならではの「併組み」「彫刻」の寺院建築技術を忠実に取り入れているという。「私が僧になったのは、大工仕事より本を読むのが好きだったから。着のみ着のまま小坊主として修行に入った。いろんな苦労があったが、今考えると、逆境こそ飛躍のチャンスだったのかも・・・・。」と過去を振り返る。 本尊は阿弥陀如来で、これは藩政時代から伝わってきたもの。板柳町の豪商と知られた「井筒屋」の内仏を伊八さんという地元の庄屋が預かったもので、寺院設立の際、伊八さんの子孫である石村才吉さん(当主)から寄進された。木彫だが元禄年間(1688~1704年)のころの作といわれている。 寺宝に白衣観音像がある。幕末から明治にかけて勤皇の志士たちをかくまった女傑 太田垣蓮月尼の作といわれ、北郡中里町の財閥として知られた「宮越家」に伝わってきたもの。それを中里町の川浪一剛という人が亡くなった一人娘の供養のために入手、三転して片山住職がある縁で寄進を受けた。極彩色で天女を形どった半跏座の焼き物。身丈七寸。つがるのお寺さん 下巻 244.245ページ より引用なんと先ほどの木彫装飾は全て初代住職が手掛けたものだったんですね!二足のわらじとはよく言ったもので、住職 兼 宮大工という方はそうそういないでしょうね!本堂に入るとまず目につくのが、右側奥に置かれている小さな六角堂です。これは津軽三十三観音霊場三十四番札所となっている白衣観音堂のミニチュアだそう。もとはここに件の白衣観音像が納めてあったものと思われます。小堂の前には白衣観音の御影も置かれていました。斜めから。津軽三十三観音霊場は三十三番札所まで・・・。番外はあっても三十四番はありません。ですがこれもまた面白い取り組みですよね。実際白衣観音堂は美しく、津軽巡礼の締めくくりとしてまわるのも良いのではないでしょうか。三十四番札所の御朱印の他にも、寺院本尊の御朱印もいただけますので、是非ご参拝ください!今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月30日
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能登半島の付け根に鎮座する氣多の大やしろ。他の大社と同じくかつては神仏混淆の形体であり、境内には神宮寺が置かれていたと言います。大社格の神宮寺ともなると、明治の神仏分離の際に真っ先に対象とされたため、現存している例は多くありません。氣多大社の場合はしっかりと現存しており、今回紹介するのは件の神宮寺となります。見事な造りの氣多大社の随神門から左に伸びる脇道を進むと到着です。2025.11.24亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院惣門に着きました。この先が氣多大社の神宮寺 亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院の境内です。・・・ここまで山寺号の長い寺院は初めて見ましたよ・・・!惣門の左手にはもう1つ門があり、そこを進むと正面には護摩堂が置かれています。門の脇の鐘楼。撞鐘の音を味わってみたいですね。境内には地蔵尊や弘法大師(修行時)の石像が置かれています。護摩堂前には白寿観音という仏像が置かれています。白寿と言うと99歳のことでしょうか、それまで健康に過ごしたいという願いが込められた観音像なんですかねぇ。北陸白寿三十三観音霊場の十九番札所本尊として崇敬を受けています。これと似たような像容の仏像が青森の全仏山 青龍寺にも置かれています。そちらはボケ除き観音だったかな?懐かしいです。観音像の後ろに控えるのは護摩堂。神仏混淆時代からある堂宇で、本尊は弘法大師御作と伝わる不動明王。こちらは厨子に納められているんですが、絶対秘仏のためどのような姿をしているのかは分からないそうです。初詣や毎月1・28日には護摩祈祷が行われ、不動明王の御前にて心願成就が願われます。護摩堂の後方に控える宝形造りの御堂は阿弥陀堂。かつて氣多大社の講堂本尊であった阿弥陀如来坐像が収められています。遥か昔の平安時代後期に作仏されたと伝わる木像で、国指定重要文化財に指定されています。像容はこちらからご覧になれます。・のと千里浜 観光ガイド / 観る / 正覚院そんで本堂。珍しく切妻屋根の御堂です。雪国は切妻屋根が最適解ですかねぇ。御由緒です(パンフレットのもの)。亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院高野山真言宗開山:泰澄大師本尊:大日如来 元正天皇の御代(715~724年)に、越前の大徳泰澄大師が「恋しくば尋ねても見よ能く登る一つの宮の奥の社へ」との夢想の歌のお告げから一宇を建立、これが当山の開創と伝えられています。 養老2年(718年)のことです。 文徳天皇の御代(855年)、亀鶴蓬萊山 気多太神宮寺の勅号を受け、「3人の長管僧を置くので永久に絶やさぬように」との詔(みことのり)を授けられた記録が文献上での初見です。以来千有余年、気多大社に奉仕してきましたが、明治維新の神仏分離の際に直接の関わりを絶ちました。然しながら神仏混淆当時の面影を色濃く残し、今は知る人ぞ知る口能登の慈悲深い名刹として、県内外の人々に親しまれています。 分離時、護摩堂(祈願堂)も当院境内に移り能登一ノ宮不動尊としてあがめられています。また、現在所蔵する宝物も気多神宮寺当時の史実を物語るものが多く、その趣きが拝観者の関心を集めています。開創自体は8世紀はじめとされ、それから150年くらい後、正式に氣多大社の神宮寺となったみたいですねぇ。この神宮寺認定の年代は文献でも示されているため、マヂもんの古刹ということになります。他のサイトの由緒書きでは、正覚院以外にも様々な僧坊が置かれていたようですが、いつものごとく明治の神仏分離によって、跡形も無く廃されてしまいました。神宮寺唯一の後裔である正覚院には、他の僧坊や氣多大社から遷されたであろう宝物類が幾つも伝わっております。前述の阿弥陀如来像・不動明王像に加えて、県指定としては”絵画「絹本着色真言八祖像」8幅”・”絵画「絹本着色十二天像」3面”などが、市指定としては”工芸「銅板打出日輪懸佛」1面”・”彫刻「木像十一面観音立像」1体”・”典籍・古文書「正覚院古文書・典籍類」4673点”などが収蔵されています。まさに文化財の宝庫といったところでしょうか。斜めから。氣多大社の神宮寺 亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院でした。氣多大社は浜べりの高台に鎮座しているんですが、この神宮寺もすぐ隣に境内を構えています。どちらも参拝していると波が打ち寄せる音や、海鳥の鳴き声が聞こえて来て本当に趣深かったです。かつて大陸から日本海を渡り、沿岸諸地域に寄せてきた渤海の国。文化や物品とともに疫病も運んできたようですが、それらを寄せ付けぬ様に護摩堂内の不動明王は睨みをきかせているんではないでしょうか。古来より当地の発展と盛衰を見続けてきた古刹なんですね。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月30日
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11月後半の三連休最終日、永平寺参拝のため近くの道の駅で車中泊したんですが、これがなかなかにキツく、一瞬凍死しかけましたがホッカイロのおかげでなんとか一命を取り留めました。日の出とともに徐々に気温が上がってきましたが、まだまだ外は寒風吹きすさぶ冬の世界。じっとしていてはまた凍ってしまうと思い、時間もあるので近くの神社をまわることにしました。2025.11.24大山咋神社永平寺にほど近い成願寺町の奥深く、山際の林の中に今回紹介する神社は鎮座しています。先ほどから林の奥の方でガサガサと草が揺れる音や、キョーッという特徴的な鳴き声が聞こえてきます。カツッ カツッという固いもの同士がぶつかる音も・・・。じーっと見ていると、沢山の鹿が群れで走り抜けていきます。菅江真澄の鹿角の記述が思い起こされますね。東北の鹿よりも毛皮の色が濃く、深い茶色をしていました。集落にこんなに近いところにも出るとは・・・風情があるんですが食害が深刻そうです。鳥居の前に到着。かつては鳥居前の大木が、そのまま鳥居の代わりをしていたんではないかという風情です。これに注連縄がかかれば諏訪大社の鳥居にそっくりです。社号標です。側面には白山神社・黒龍神社・波著神社の三社も刻まれていますね。かつて村に鎮座していた神社たちでしょうか?現在は全て大山咋神社に合祀されているんでしょう。おほーっ、小高いところに社が置かれていますね。これだけで山神を祀っている感がヒシヒシと感じられますよね!苔生した参道を登ります。大山咋神社の拝殿です。古めかしい感じが哀愁を感じさせて良いですね。この神社の詳しい由緒は不明みたいなんですが、”御大典記念福井県神社誌”にはいつごろ先ほどの神社が合祀されたかの記述は書かれてありました。白山神社は祭神:伊弉冉大神、波著(波着とも)神社は祭神:天児屋根神、黒龍神社は祭神:高龗大神を祀り、いづれも同字に鎮座していた無格社で、大正10年2月9日に合祀されたようです。そのため現在大山咋神社の祭神は大山咋神の他に↑の神格が併せ祀られています。例祭日は4月10日。社殿の脇には石祠。合祀された神格が祀られているのかもしれません、知らんけど。斜めから。村の奥深くに鎮座する鎮守の社でした。やはり日吉大社や松尾大社に近いことから、大山祇神ではない系統の山神 大山咋神が祀られることが多いんでしょうか。現在いろんな山の神格は大山祇神・大山咋神などの有力な山神と同一視されていますが、古来ではそれぞれの山に独自の神格が置かれ、奉斎されていたんではないでしょうか。神道が広まるにつれて、土着の神格は同一視・淘汰されてしまうことが多く、そのままの形で現在まで残っているものは希です。山神の社を見るたびに、そんな取り留めのないことを考えてしまうのです。もとはどんな神格を祀っていたのか・・・気になりますねぇ。以上です。
2025年11月28日
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富山県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク富山県神社庁富山県神社一覧wiki 府県社 / 富山県の旧県社wiki 郷社 / 富山県の旧郷社wiki 村社 / 富山県の旧村社富山県の神社の旧社格官国幣社国幣中社高岡市:射水神社国幣小社南砺市:髙瀬神社 南砺市:髙瀬神社 越中国開拓の祖神祀る神社諸社県社高岡市:氣多神社社格不明南砺市:級長戸辺神社以上です。
2025年11月27日
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福井県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク福井県神社庁福井県神社一覧wiki 府県社 / 福井県の旧県社wiki 郷社 / 福井県の旧郷社wiki 村社 / 福井県の旧村社福井県の神社の旧社格官国幣社官幣大社敦賀市:氣比神宮諸社村社福井市:大山咋神社 福井市:大山咋神社 林の奥の山神祀る社福井市:北野神社以上です。
2025年11月27日
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福井県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:福井県の仏堂と寺社13世紀1244年永平寺町:吉祥山 永平寺以上です。
2025年11月27日
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滋賀県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:滋賀県の仏堂と寺社16世紀1573~1592年多賀町:普光山 真如寺以上です。
2025年11月27日
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滋賀県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク滋賀県神社庁滋賀県神社一覧wiki 府県社 / 滋賀県の旧県社wiki 郷社 / 滋賀県の旧郷社wiki 村社 / 滋賀県の旧村社wiki 無格社 / 滋賀県の旧無格社滋賀県の神社の旧社格官国幣社官幣大社多賀町:多賀大社 多賀町:多賀大社 近江の東岸に居わすめおとのやしろ諸社県社多賀町:胡宮神社野洲市:兵主大社 野洲市:兵主大社 琵琶湖東岸のうつくしき古やしろ郷社多賀町:大瀧神社村社東近江市:阿賀神社(太郎坊宮)以上です。
2025年11月27日
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岐阜県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク岐阜県神社庁岐阜県神社一覧wiki 府県社 / 岐阜県の旧県社wiki 郷社 / 岐阜県の旧郷社wiki 村社 / 岐阜県の旧村社岐阜県の神社の旧社格官国幣社国幣大社垂井町:南宮大社以上です。
2025年11月27日
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石川県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:石川県の仏堂と寺社8世紀718年羽咋市:亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院 羽咋市:亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院 氣多大神の御別当務めた古刹以上です。
2025年11月27日
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石川県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク石川県神社庁石川県神社一覧wiki 府県社 / 石川県の旧県社wiki 郷社 / 石川県の旧郷社wiki 村社 / 石川県の旧村社wiki 無各社 / 石川県の旧無各社石川県の神社の旧社格官国幣社国幣大社羽咋市:氣多大社 羽咋市:氣多大社 原始祭祀の姿を残す北陸道の大社国幣中社白山市:白山比咩神社 白山市:白山比咩神社 白き美しの嶺を奉斎する古やしろ以上です。
2025年11月27日
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先の三連休で愛知県から滋賀、北陸に入り富山までまわって来ました。諸国の一之宮を中心に巡礼したんですが、いやはや、やはり大和の根幹地に近いこともあり、神社の造りがまずこちらの神社とは異なっていました。こちらの神社は主に拝殿・本殿が一列に並ぶ造りが大半です。しかし、関西に近い土地の大社はそうではなく、本殿が独立しているのです。本殿を囲むように瑞垣が建てられ、その一部が拝殿となっています。必ずしも本殿と連結しているわけではなく、瑞垣内に複数の本殿があるものも見られます。こうした社の姿を見ていると、まず氏神や土地の神を祀る小さな社があり、それを守る様に瑞垣が建てられ、拝みやすいように拝殿が設けられ、更に大人数が拝めるように拝殿・幣殿が分けられ・・・というような造りの変化があったんではと感じます。そして更に遡ると、森自体を御神体として祀ったり、山頂の磐座を御神体としたり・・・という原始祭祀にまで辿り着くんではないでしょうか。今回紹介する神社は、そうした原始祭祀の姿を残した北陸の古社です。かつて蝦夷対策の最前線として機能した社と聞いています。2025.11.24氣多大社石川県は能登半島の付け根に、大社を冠する古い神社があります。一般的に大社ともなるとゴテゴテの装飾をした豪華絢爛な社を想像してしまいますが、この社はそうではありません。古びた木の色合いが非常に美しく、古来よりの姿をよく残している様に感じました。鳥居は大きく両部式です。その脇には国幣大社と刻まれた石柱が建っていました。鳥居をくぐり落ち着いた空気の漂う参道を進んでいると、左側に社が置かれていました。これは末社の大黒社です。祭神は大黒天でしょう。御神体はこんな感じです。豊かな笑みを湛えています。檜皮葺きの随神門が見えてきましたね!その背後には鬱蒼とした原始の森が広がっています。右手には社務所、左手の小道の先にはかつての神宮寺である亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院が境内を構えています。神仏混淆時代の遺物などもこちらでご覧になれます(要予約)。手水舎も大きく立派ですねぇ!再び随神門。建立は遅くとも天正12年(1584年)、安土桃山時代の建築的特徴がよく残されているそうです。延宝8年(1680年)に本堂などの社殿と共に修理を受けているそうです。重要文化財の指定を受けているんですが、それも納得の美しさです。門をくぐった瞬間に息を呑んでしまいました・・・。森を背にして3つの社が並び立ち、その手前に拝殿が独立して立っているのです。”おぉ、祭神が3柱で、それらを祀るために拝殿が建てられているんだな”と思ったんですが、祭神は大国主神1柱のみ。奥の3つの社の内、中央は氣多大社の本殿ですが、その両脇は摂社の社だそう。・・・思っていた感じではありませんでしたが、初見で受けた衝撃は相当のものでした。拝殿について公式サイトの説明を見てみましょう。氣多大社 拝殿 気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りである。4面に切目縁を巡らしているが、高欄は付いていない。縁へは正面と両脇側から石段で昇る。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてあるが、唐様を主調とした建造物である。 建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653年)から同3年(1654年)にかけて建立されたことが知られる。建仁寺流の加賀藩御大工 山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。氣多大社 / 由緒 より引用この造りの拝殿自体は当地域でもよくよく見られますが、屋根の葺き方や全体の装飾などは、なかなか他では拝めないでしょう・・・!うっとりするような姿ですよ御由緒も見てみましょう。氣多大社祭神:大国主神 8世紀、9世紀の能登の氣多大神宮は、渤海と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中・佐渡・越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。仁明天皇承和元年(834年)には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝2人が把笏せしめられる。寺家遺跡の祭祀遺物は8世紀、9世紀のものであり氣多大神宮の祭祀の盛期を物語っている。氣多大神宮で国家祭祀が行われていたと考えられる。 称徳天皇神護景雲2年(768年)に封戸20戸と田2町を寄進され、しばしば奉幣を受けた(『続日本紀』)。また、桓武天皇延暦3年(784年)に従三位から正三位(『続日本紀』)、仁明天皇承和元年(834年)に正三位勲一等(『続日本後紀』)、清和天皇貞観元年(859年)には従一位勲一等、醍醐天皇寛平9年(896年)には正一位の神階を賜った(『日本三代実録』)。 氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。六国史で大神宮と呼ばれたのは氣多大神宮だけだった。蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮、越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に「日本四社」と称せられた。 氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。聖武天皇天平20年(748年)に越中守 大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、海辺にて歌を一首つくり、之乎路(しをぢ)から 直超え(ただこえ)来れば羽咋の海 朝凪したり 船楫もがもと詠んだ。万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。 昭和58年5月、石川県で植樹祭があった。それは22日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。その行事がとどこおりなくおわったあと、天皇陛下は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。斧入らぬ みやしろの森めづらかに からたちばなの 生ふるを見たりというお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。 陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。 『延喜式』神名帳によると、名神大社に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していたことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。 順徳天皇建保5年(1217年)に将軍 源実朝が公田として11町余を寄進したが、これは古代の封戸などによる神領とみられる。中世末期には、980俵と56貫余の社領を有していたという。 正親町天皇永禄4年(1561年)に、能登守護 畠山氏が正親町天皇の勅許を得て社殿の造営を進め、同12年(1569年)には摂社 若宮神社(事代主神・国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。 天正5年(1577年)に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領350石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。 本殿(大己貴神)・拝殿・神門・摂社白山神社(菊理姫神)(以上、国指定重要文化財)・神庫・随身門(ともに県指定文化財)がそれである。 明治4年(1871年)に国幣中社、大正4年(1971年)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。 神社の生命は、祭祀にある。後水尾天皇元和5年(1619年)の由来書によると、実に74度の神秘な祭祀を執行していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会、仏生会(花まつり)、放生会、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。氣多大社 / 由緒 より引用8世紀には既に北陸道各地に信仰圏を形成していたようです。能登は出雲との交流も盛んだったようで、日本海沿岸に大国主神を祀る神社が多いのは、こうした交流の痕跡とも言えるのかもしれません。蝦夷や渤海との折衝地ということで、朝廷からも重要視されていたようです。渤海と言うと現在の朝鮮半島北部~中国東部までを収めた国ですが、日本海側の各地と盛んに交流していたようなんです。東北だと秋田城跡の古代式水洗トイレで豚由来の細菌が発見されたそうですが、これは豚食の文化を持つ渤海の使者が来ていたことを示しているそうです。人や物品の往来とともに疫病も持ち込まれ、それを鎮めるために氣多大社は広く信仰されたんでしょうね。能登は製塩が盛んと説明にありましたが、おそらくこの塩は軍馬の飼育に用いられたものと思われます。馬の飼育には多量の塩が必要になるため、こうした製塩拠点は各地に造られました。能登から近いところだと木曽なんかが馬産で有名ですよね。そこに塩が送られていたのかもしれません。祭事についても見てみましょう。氣多大社の中心的な祭事は平国祭・例大祭・鵜祭の3つがあります。平国祭は、氣多大社から七尾市の能登生国玉比古神社までの距離を御神幸するもので、数日間に渡る大きな祭事です。能登生国玉比古神社は氣多本宮とも称され、気多大社の祭神はここから分霊されたものだという説もあるようです。公式サイトの説明も見てみましょう。こちらには例大祭の蛇の目神事に関する記述もあります。平国祭3月18~23日 石川県七尾市の所口町にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、現在は3月18日から23日まで、羽咋・鹿島郡内の2市5町を回る。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭り」と呼ばれる。沿道には人々が集まり、神幸を迎える。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり一体となる能登の春祭りとして親しまれている。 注目したいのは、往路の21日、中能登町金丸の宿那彦神像石神社に一泊し、翌日同社の少彦名命が神輿に同座して七尾の気多本宮に赴き、一泊して祭典を営んでから帰途につくことである。気多大社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。帰社した神輿は4月3日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。 例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録によれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。昭和63年からはその流鏑馬神事が450年ぶりに復活され、古式に従って執り行われた。平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目される。氣多大社 / 祭典・神事 / 平国祭 より引用次に気になるのが鵜祭。名前からしてインパクト大ですが、本当に面白そうな祭りです。鵜祭12月16日 12月16日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った1羽の鵜を、同地の鵜捕部3人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。 鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。16日午前3時すぎ神社で祭典があり、祝詞奉上、撤饌がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答がかわされる。やがて、「鵜籠を静かにおろし、籠をとりすて、鵜をその所に放てと宣い給う」とおごそかにいわれると、鵜捕部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押さえられ、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるのである。 鵜祭の由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿渡島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれている。神秘的な行事ではあるが、気多大社の年中祭祀上から大観すると、新嘗祭(11月23日)中の神事だったのである。平国祭から例大祭(4月3日)に連なる行事が、祈年祭(2月17日)の性格を有するのと対比して考えるべきであろう。なお当夜、鵜の神前への進み具合によって年の吉凶を占う習俗があった。 加賀藩祖の前田利家は、鵜祭の行事を重んじ、天正13年(1585)に鵜捕部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭の鵜が例年にまさって神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」(能登国にとり、これ以上縁起のよいことはない)と喜んだ書状が大社にある。 この神事を脚色した能「鵜祭」があるが、加賀藩祖前田利家がひいきにしていた金春流でもっぱら演じられたことは注目すべきである。氣多大社 / 祭典・神事 / 鵜祭 より引用なんとも面白い祭事じゃぁありませんか!鵜を捕る役が鵜捕部とされているのも古代の役職のようで面白いですよねぇ!因みに氣多大社のおみくじには鵜様の肖像が描かれています。・・・今回は大吉でした。鵜祭の準備などはこちらからご覧になれます。・YouTube / 石川テレビ公式チャンネル / “鵜様”を未だ捕獲できず…16日の氣多大社『鵜祭』を前に主役不在 能登半島地震による地形変化が影響か (2024年12月12日)それでは境内の様子を見ていきましょう。先ほどから気になっていた拝殿後方の摂社ですが、左側は若宮神社。屋根からは草木が生い茂り、これぞ古社という風情が感じられます。祭神は事代主神。大国主神の子とされています。恵比寿神とも同一視されており、七福神の1柱とされることも。この屋根の感じ・・・イイですよねぇ!本殿右側には摂社 白山神社。本殿同様に美しい社殿です。祭神は菊理媛神。白山を神体山とする白山信仰の社で、白山比咩神社を総本社としています。若宮神社・氣多大社本殿・白山神社が並び立つ様はなんとも壮観!この地において重要な神格を集め祀ったんでしょうねぇ!白山神社の隣には宝形造の社殿があります。これは神庫、かつては宝物類が収められていたんではないでしょうか。石川県指定文化財になっています。勇壮な社殿を拝みつつ、境内の右の方に足を運ぶと、森めがけて鳥居が建っていました。これは何かの遥拝所かと近づいてみると、入らずの森と書かれています。・・・これはッ、原始祭祀の姿そのままではないですか!どうやら入らずの森は氣多大社の奥宮となっているみたいです。そしてそこに祀られているのは、氣多大社祭神:大国主神の親神:素戔嗚神・奇稲田姫神の2柱と激アツの構成・・・!鳥居からのぞむ入らずの森。まさに原生林といった感じで、”人の手が入っていない原初の森”の姿そのままに、古来より神職のみが足を踏み入れることを許されています。因みに末社の楊田神社は、特に祠などは見当たりませんでした。祭神は加具土神。入らずの森の鳥居から右に進むと、末社の太玉神社へと続いています。厳かな切妻の社に祀られているのは、祭祀の神格である太玉命。岩戸隠れ神話では、春日大社に祀られる天児屋根命と共に太占(ふとまに・骨を焼き吉凶を占う)を行い、方策が正しいかを判断したといいます。忌部氏の祖神ともされているようです。太玉神社を後にして随神門の方へと進んでいると、沢のすぐ近くに末社発見。鳥居の両脇から社殿まで、ずらりと並ぶ合格祈願の絵馬。そう、これは菅原道真公を祀った菅原神社。学問の神として、ひろく崇敬を集めています。なんといっても、僕自身一番気に入っているのが天満宮。見つけるといつも柏手を打っています。もう1社末社があるみたいなんですが、そちらは見つけられませんでした。奥津島神社、祭神は宗像三女神の市杵島姫命。この他に境外末社2社があるみたいですが、時間の関係上、今回参拝は見送りました。斜めから。いかがでしたでしょうか、能登国一之宮・国幣大社 氣多大社でした。今のままでも十分に荘厳なんですが、今屋根を茅葺に吹き替える計画が進んでいるみたいです。そんなことをしちゃった日にゃぁ、垂涎ものの美社殿になること間違いなし!いつになるかは分かりませんが、その姿も見てみたいですねぇ。北陸の果てに鎮座する鎮国の大やしろ、しかと目に焼き付けました。今回貰った御朱印です。御朱印と共にいただける”氣”と刻まれた縁起物。公式サイトへのリンクです。・氣多大社以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー御門
2025年11月26日
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昇仙峡の根幹エリア、山頂付近まで伸びるロープウェイ乗り場からほど近く、立派な鳥居を構えた神社が鎮座しています。この神社は夫婦木神社 姫ノ宮。ここから北にある夫婦木神社の別宮とされています。本宮と同じく、御神体は生殖器型の妙木です。夫婦木神社 姫ノ宮弥三郎山の麓に心地よい風が吹いています。秋晴れの空の下、白亜の鳥居をくぐります。わーぉ・・・下手したら本宮よりも豪華な社殿ですねぇ!参道脇には安産神:柿本人麻呂と書かれた立て札が建っておりました。この巨岩に祀られているのか、それとも洞に祀られているのか・・・。拝殿手前の祠には弁財天が祀られています。よく見ると裸体弁才天という形式の像でした。本土ではサラスヴァティという女神であった弁財天は、主にインドではこのような姿で描かれるそうです。そして拝殿。鮮やかな朱がなんとも言えず美しいです。由緒は不明ながら、社殿の新しさからして、近代になって昇仙峡が整備され始めたころに建立されたのではないでしょうか。拝殿内には入場料を払うと入れるらしく、内部には女性器型の奇妙な樹が祀られているとされます。こちらからご覧になれますよ!祭神は十四代神功皇后でしょうか。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月21日
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甲府の中心街から北へ向かう事、数十分。日本を代表する渓谷 昇仙峡に到着です。南北に長く伸びた荒川に沿って売店やら何やらが立ち並び、一日中ゆっくり過ごせそうです。昇仙峡はもともと金峰山(甲州御岳山)へと登拝する行者が準備をする場所でした。それが今や一大観光地と化しているのです。俗から離れた世界が、一気に俗へと近づいてしまったのです。・・・なんとも因果な話でしょうか。昇仙峡の北端には金峰山を奉斎する金櫻神社が鎮座し、武田氏の庇護を受けていました。今回紹介する神社は、金櫻神社の鳥居の近くに立派な社殿を構えています。夫婦木神社(みょうとぎじんじゃ)一風変わった鳥居が境内の入口です。参道を進んでいると、目を惹く不思議な形の木が生えていました。むんっ!・・・皆様は言わずとも分るでしょう。夫婦木神社は僕が熱心に追っているタイプの神社なんです。これも生命力の象徴、または生命の神秘を表したものだとされています。社殿が見えてきましたね。拝殿です。ここまでは何の変哲もない神社なんですが・・・。拝観料を払って本殿に進むと・・・。言い表せないほど面白い御神体が収められているのです。2025.11.21御神体はこちらからご覧になれます。説明書きです。夫婦木神社祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神神木:夫婦木(栃、樹齢約1000年以上) 古来、和合繁栄、特に縁結び・子授けに霊験あらたかな神と信仰され、多くの伝説を持つ。 周囲10m余り、直径3m余り、樹体の中心空洞にして男女両性をあらわし、夫婦和合の形をなす。実に雄渾壮大、視る者をして造化の妙に感嘆せしめ、天下稀なる奇木であり、霊木である。御神体の栃はもともと下黒平にあったようですが、昭和33年11月29日に境内に遷したそうです。太く逞しい幹には縦長の洞が口を開き、内部に入って見上げてみると上から気根の様に男根が垂れ下がっています。自然の神秘を表した素晴らしき造詣の御神体・・・。1つで両性を表すものはここくらいではないでしょうか。今回も良き巡りあわせに感謝です・・・!昇仙峡には別宮の夫婦木神社 姫ノ宮が鎮座しています。そちらも是非ご覧ください。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月21日
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日本が誇る霊峰 富士山。太古の昔より火と煙を吐くその姿に神性が感じられ信仰の対象となっていました。富士山は浅間神社という宗旨にて奉斎されていますが、その総本社とされるのが、今回紹介する富士山本宮浅間神社です。本当であれば、鳥居と富士山のツーショットが拝めるんですが、今回はあいにくの曇り・・・。出張中にリベンジ撮影したいところです。富士山本宮浅間大社とはいえ、総本宮に詣でられるのは喜び限りなし。青森にいては叶うことは無かったでしょう。こうした意味では出張に感謝しなくてはいけません。一之鳥居は相当に巨大で、富士山の崇敬の大きさを表しているかのようです。富士山信仰は本来神仏混淆の信仰なので、両部式鳥居が使われると思っていたんですが、こちらは明神鳥居。思えば山梨の一之宮である淺間神社も明神鳥居でしたねぇ・・・。うーん、でも市川三郷町の一宮浅間神社は両部式・・・。このことから神仏分離後に建てられた鳥居は明神鳥居、それ以前は両部式鳥居を用いていたんではないでしょうか。参道は広く、長く、立派です。春には桜が彩ることでしょう。出張は本年度中ですので、帰るまでに桜花の咲き誇る浅間大社を拝めるかもしれません・・・!参道終点には騎馬弓兵の銅像が建っています。かなり動的な像で、臨場感たっぷりです。これはおそらく随神門手前の馬場にて行われる流鏑馬の場面を表したものでしょう。なんでも源頼朝が富士山の裾野にて巻狩りをしたのを模しているんだとか。そのため流鏑馬の参加者は鎌倉武士の装束に身を包み、小笠原流(逃げ上手の若君にも出てましたね!)の作法で弓を射るんだとか。なんとも古式ゆかしい行事ですねぇ今年の流鏑馬の様子は下のリンクからご覧になれます。・YouTube / SBSnews6 / 「すごい迫力!」鎌倉武士に扮して次々と矢を放つ 流鏑馬祭 的が射抜かれ拍手と歓声 富士山本宮浅間大社=静岡・富士宮市馬場の奥には勇壮な随神門。濃い桃色?桜色?がなんとも美しいですねぇ!随神門手前には鉾立石という岩が置かれています。かつて浅間大社が鎮座していたところは、今は山宮浅間神社が鎮座しており、明治初年までは御神幸という行事が行われていました。おそらく神輿か何かを担いで本宮から山宮まで参拝するという行事だと思われますが、その際に神槍を突き立て休めた石だと伝わっております。随神門横の手水舎もたいした立派だ姿です。門をくぐると、広い境内に徳川家康公御寄進の社がどっしりと鎮座していました。随神門の内側は塀によって囲われ、周囲とは隔絶されています。まさに神域といった風情が感じられ、非常にエモい光景が見られますよ!何といっても面白いのが社の造りです。拝殿越しにでもわかるほど本殿が高く造られているんです。この様な造りの社は他の宗旨では見られません(栃木縣護国神社など一部護国神社などでは見られる)。俗に浅間造と呼ばれる造りです。ご由緒です。富士山本宮淺間大社主祭神:木花之佐久夜毘売命(別称:浅間大神)相殿神:瓊々杵尊、大山祇神起源 「富士本宮浅間社記」によれば、第七代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第十一代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27年・皇紀準拠)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。 その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。 最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6km)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。 社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。※加筆:このエピソードがもとで天叢雲剣が草薙の剣と呼ばれることになります。相模国との説もあるようですが、駿河国には実際に草薙という地名が残っているため、駿河説を推したいと思います。 大同元年(806年)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。 当大社は、朝廷より篤い尊崇を受けてきました。延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。神階については『文徳実録』に仁寿3年(853年)従三位を加うとあるのを初見として、その後順次階位を授けられ、永治元年(1141年)には正一位を授与されています。 歴代武将の事跡も多数ありますが、中でも特に篤い崇敬を寄せたのは、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康でした。 源頼朝公は、建久4年(1193年)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納されました。現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。そのほか社殿の修復なども行いました。 武田信玄・勝頼親子は当大社を篤く崇敬し、神領の寄進、社殿の修造などを行いました。当大社には、信玄の願状をはじめ武田家奉納の品も多く残っており、崇敬の一端を知ることができます。ちなみに、境内にあるしだれ桜は信玄の寄進とされ、信玄桜と呼ばれて親しまれています。 徳川家康公は、関ヶ原の戦いに勝利した御礼として、本殿・拝殿・楼門をはじめ30余棟を造営し、境内一円を整備しました。現在、本殿・拝殿・楼門等が残っており、本殿は国指定重要文化財、拝殿・楼門は県指定文化財となっています。また、富士山八合目以上を境内地として寄進する等しました。庶民の信仰 恐ろしい噴火を繰り返す富士山を、鎮め奉る浅間大神への敬慕の念によって信仰され、その頂きは浅間大神の御神域として尊ばれてきました。富士山の噴火が収まるに従い、その敬慕の念が富士登山という形に変化していきました。 平安時代、都良香(みやこのよしか)(834~879年)の著した『富士山記』には、富士山頂上の様子が書かれています。 ”山に神あり。浅間の大神と名づく。この山高く雲表を極むること、幾丈なるをしらず、頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央窪く下りて、体炊甑の如く、甑の底に神池あり。池中に大石あり。石の体驚奇にして、宛ら蹲虎の如し。亦その甑底を窺へば湯の沸騰するが如く、その遠きにありて望む者は、常に煙火を見る。 ・ ・ ・中略 ・ ・ ・宿雪は春夏も消えず。(原文は漢文)” 現在の山頂の状況と似た点が多く、早くから富士登山が行われていたことが分かります。同書には役居士すなわち役小角(えんのおづぬ)が富士山頂を極めたという伝説ものっており、信仰登山の兆しも有りますが、登山はまだ珍しい事であったと思われます。 久安5年(1149年)末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。当大社所蔵の絹本著色富士曼荼羅図(重要文化財)には、登山の情景が細かく描かれており、その様子を知ることができます。これによっても当時既に信仰登山が盛んに行われ、様式も整ってきていたことが分かります。 戦国時代末から江戸時代初め、長谷川角行が人穴に籠もり、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説きました。これは、関東を中心に広がり、江戸時代中期、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。 明治維新後、神社は国家管理となり、新しい階位が作られ各神社に付与されましたが、当大社は駿河国一宮であったことから、明治4年5月14日に国幣中社、さらに願いによって明治29年7月8日官幣大社に列せられました。第二次世界大戦終戦後、神道指令、宗教法人法の制定により、当大社も宗教法人となり、名称を富士山本宮浅間神社と変更しました。しかし、旧官幣大社は大社と名乗る例が多く、全国1300余社ある浅間神社の総本宮たるにふさわしい名称とするため、昭和57年3月11日富士山本宮浅間大社と変更しました。 大宮に鎮座し1200余年を経た現在、全国1300余に及ぶ浅間神社の総本宮、また、駿河国一之宮として、全国的な崇敬をあつめる東海の名社となっています。駿河国一之宮 富士山本宮浅間大社 / 御由緒 より引用もうこの御由緒だけで大分富士山信仰に詳しくなれるような気がするんですが、おそらくこれでも太古より続く信仰の歴史の一部でしかないんでしょう。他の主要な浅間神社をも巡り、更に理解を深めていきたいもんです。もう1つ面白いポイントとして、浅間大社の社紋があります。浅間神社の社紋は、棕櫚の紋という天狗の内輪の様な紋様なんですが、他の浅間神社に比べて本宮のものは葉の数が多いのです。これも本宮であればこそでしょうか。この棕櫚の紋なんですが、浅間大社の宮司である富士氏の家紋と同じなんだとか。最初見た時はもともと修験と関りが深いからかと思っていたんですが、そうではないのかもしれません。拝殿左手には奇岩が2つ。片方は富士山噴火の際に飛来した火山弾。もう1つは南極の石。富士宮市出身の砕氷艦乗組員 赤池稔 氏による奉納です。そして瑞垣内には摂社の三之宮淺間神社が置かれています。祭神は浅間第三御子神(火遠理命・山幸彦)、例祭日は11月4日、僕の誕生日と一緒です。ここからは本殿も良く見えます。宝形造のような本殿の上に、更に流造の社が乗っかったような造りです。本当に面白いですねぇ!拝殿右手にも摂社が置かれています。こちらは七之宮淺間神社。祭神は浅間第七御子神(?)、例祭日は11月4日です。では御朱印帳を預けて境内の様子を見に行きましょう。社務所を出てすぐの所には末社の天神社が置かれています。祭神:菅原道真公、例祭日は4月4日です。祠の近くには筆塚が置かれており、文人たちの崇敬も篤かったのではないでしょうか。天神社からすぐのところに、いと清き池ありて、かたわらに祠1つ立るところ、これを水屋神社と呼ふ。御井神・鳴雷神の2柱祀りて、1月4日に人々集まりて祭りを催す。このいと清き池は”湧玉池”と呼ばれ、富士山の雪解け水が長い年月をかけて溶岩層により濾過され、湧き出たものです。水温・湧出量は常に一定であり、富士山登拝社の禊ぎ場となっていました。今では国指定天然記念物になっています。平安時代中期の歌人で、三十六歌仙にも名が挙げられる平兼盛は、湧玉池について下の様な歌を残しています。つかうべき 数にをとらむ浅間なる 御手洗川の そこにわくたま平兼盛本当に美しい池です池の側には他の末社も。こちらは稲荷神社。祭神は宇迦之御魂神・猿田彦神・大宮姫神、例祭日は2月初午。稲荷神社からすぐのところ、湧玉池に赤い橋が架かっており、対岸にも末社が置かれています。こちらは厳島神社。祭神:市杵島姫命、例祭日は6月17日。今回の出張では富士山登山は叶いませんが、またいつの日か、生きている内に一度は登拝してみたいです。登山前にこの本宮で願掛けし、それから頂上の奥宮まで・・・行きたい!斜めから。富士山信仰の総本宮、富士山本宮浅間大社でした。境内から社殿まで全てが美しく、整った形をした富士山を奉斎する社としてこれほど相応しいものはないでしょう。まだ信仰の一端を見たに過ぎませんが、ここが古来より続く信仰の根拠地として、参拝出来たことが本当に嬉しかったです次は是非晴れた日に参拝して、思う存分写真を撮りたいところ。今回貰った御朱印です。専用御朱印帳:表専用御朱印帳:裏公式サイトへのリンクです。・駿河國一之宮 富士山本宮浅間大社以上です。
2025年11月20日
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津軽でも有数の都市 弘前。込み入った市街地を離れ、郊外の方に向かうと多数の寺院がぽつぽつと置かれています。ここ不動寺も通りに面して広がる住宅地の、その一画に境内を構えています。津軽弘法大師霊場の札所であると共に、津軽七福神めぐりの札所でもあります。津軽七福神めぐり 毘沙門天:鷹揚山 不動寺高野山真言宗に籍を置く本寺院。本堂には美しい五色の垂れ幕が懸かっています。その左手、端っこの方に小さな堂が置かれているんですが、これは毘沙門堂。ここに札所本尊の毘沙門天が収められています。堂内には力強い表情の毘沙門天像と共に、背後には七福神・毘沙門天の掛軸、横には龍の置物などが置かれており、地域の素朴な信仰を表しています毘沙門天は七福神唯一の忿怒相。悪鬼を退け、財福をもたらして欲しいという願いが込められているんではないでしょうか。斜めから。弘前からもほど近く、参拝しやすい寺院です。今回は毘沙門堂の紹介にとどまりましたが、堂内や歴史について興味がある方はこちらからご覧になれます。ぜひとも津軽弘法大師霊場の方もまわってみてください!札所本尊:毘沙門天以前貰った御朱印です。以上です。
2025年11月20日
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青森県の北端にありて、津軽とも南部とも異なる文化を有するのが下北の地。古くから南部領でしたが、津軽からも船を使えば数十分でついてしまうため、規制が敷かれていた中でも人や物の往来はあったようです。下北と言えば本州最北の霊場として名高い恐山があります。宇曽利山湖というカルデラを中心に据え、蓮の花の様に並んだ峰々が外界と霊場との境になっています。霊場へと向かう道はなだらかな山道で、今ではむつ市から数十分。しかし昔はというと数日かかるかという大日程だったといいます。そのため案内人や入山の起点となる坊などがいくつかあったそうです。今回紹介する札所もその1つであり、かつ面白い伝説が残っている寺院となります。田名部海辺三十三観音霊場十一番札所:東光山 優婆寺むつ市から北方に十数分。大畑に差し掛かる前に海側の細道に抜けると、趣深い外観の寺門が建っています。長年風雪に耐えて来たのか、屋根の色あせ具合が長い歴史を物語っています。慈覚大師の石碑を囲むように何体もの地蔵尊が建っていました。今では曹洞宗となっている恐山 菩提寺ですが、以前は天台宗寺院であり、創建の御由緒も天台宗三代座主 慈覚大師にちなむものでした。青森県は圧倒的に禅宗寺院が多いんですが、所々にこうした密教寺院の古刹が残っているのです。これらは歴史的実証は出来ないものの、かなり古い時代に開創された古刹中の古刹だと思っています。隣には笑みを浮かべたような聖観音像が置かれていました。いきいきとしている感じがしますね。本堂からも厳しい自然に耐えて来た雰囲気を感じられます。ただ装飾は美しく、全体的な造りもかなり整っております。下北随一の御堂と言えるのではないでしょうか。ここからはご由緒や伝説を見ていきましょう。まずは境内の説明書きから(一部加筆)。恐山門戸 優婆寺縁起東光山 優婆寺浄土宗本尊:阿弥陀三尊 下北半島の中央部に日本三大霊場の一つ恐山がある。恐山には宇曾利湖という湖があり、そこを源に津軽海峡に一本の川が流れでている。古い地図には生死川と表記されておりその名の通り、この川を渡る前がこの世で川を渡ってしまえばあの世の世界と言う意味である。川を渡る手前には、この世でどんな罪を犯したか、亡くなった人の着ている衣を柳の枝にかける奪衣婆の仏像が安置されていた。衣の重さにはその人の業があらわれる。柳の枝がぐーとしなれば生前に悪業を犯し、しならなければ善業を積んでいたことになる。その重さによって死後の処遇が決められる。 平安時代初期に宇曽利湖に大雨が降り、湖の水かさが増し生死川が氾濫をした。奪衣婆の仏像も一緒に流され三里(約12km)ほど下流に下ったこの地に流れ着いた。流れ着くこと三度続き四度目には村人がお堂を建てて奪衣婆の仏像を祀ったのが優婆寺の始まりである。奪衣婆のことを優婆尊とも呼ぶことから優婆寺という寺名になった。 もともとは恐山の入り口、生死川に安置されていた仏像ということから、恐山に行く前に優婆尊に手を合わせ、流された川沿いの山道を登り恐山にお参りに行くという風習と共に恐山門戸と言われるようになった。なんとも面白い縁起ですよね!現在でも恐山の入口には三途の川と橋があり、その傍には柳の木。木の基には奪衣婆と懸衣翁が座し、荒涼とした景色も相まって本当にあの世に来たかの様です。三途の川は今では生死川ではなく正津川と表記されていますね。下北の民話と伝承によると精進川とも呼ばれたそうで、これをたどってみると本当に優婆寺の脇を通って津軽海峡に流れているんです。こうして見てみると、この伝説は本当にあったような気がしてきますね。絵巻の中では優し気に描かれている優婆尊ですが、実際の像容は、爛々と燃えるような眼を見開いた恐ろしい顔をしています。続いて札所本尊についてです。ここの札所本尊は聖観音となっているんですが、これはおそらく本尊 阿弥陀如来の脇侍のことでしょう。現地の霊場案内板には奪衣婆の脇にあると書かれていますが、今では奪衣婆の上に三尊形式で置かれていました。この像についてどのような由緒があったのかは不明です。本堂に入ろうとしていると、蟇股部分で黄金の龍が睨みをきかせておりました。その後ろに大扁額。寺号額まで。堂内祭壇の中央に、厨子に納められた奪衣婆像が鎮座していました。おそらく常時御開帳のこの仏像は恵心僧都作との伝承もあるようです。その奪衣婆像の上に、おそらく本尊の阿弥陀三尊像があります。かなり新しめで、最近修繕したか納められたかしたものと思われます。斜めから。恐山の入り口として崇敬を集めた浄土宗寺院でした。恐山 菩提寺とは宗派こそ違えど、奪衣婆像が流れ着いたという不思議な縁で結ばれている寺院です。恐山の山門という意味の”恐山門戸”を冠するに相応しいのではないでしょうか。宗派を超えた信仰の姿は信州の善光寺を思わせ、北の地に花開いた山岳信仰の素晴らしさを感じることができます。御詠歌?札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月20日
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山梨県は名前に反して周囲は名山ばかり。それぞれに山岳を奉斎する神社が有ったりするんですが、今回紹介する金櫻神社は、山梨県と長野県の境に屹立する高峰 金峰山(甲州御岳山)を奉斎する神社になります。御岳山という山は日本各地にありますが、最も有名なものは木曽の地に立つ御嶽山でしょう。ここも登って見たかったんですが、本腰を入れる前に火山活動の関係で閉山となってしまいました・・・。本当に悔しいです。以前は御岳神社というと富士山を祀る神社なのかなと思っていたんですが、本当はそうではなく、ここ木曽の御嶽山を奉斎する信仰みたいです。そうした信仰の連なりの一節に金峰山(甲州御岳山)があるのです。金峰山は修験の霊場であり、こちらも日本各地に同じ山名の山がありますね。蔵王権現を祀る本信仰は、日本の荒々しい山中において生まれ、各地に広まっていきます。神仏分離の影響もあり、金櫻神社も今では蔵王権現を祀ってはいませんが、神と仏とが一所で祀られていた時代においては、ここも蔵王権現を奉斎する社だったのではないでしょうか。昇仙峡の奥に鎮座する古社を見ていきましょう。金櫻神社(御岳町)先ほどの立派な両部式鳥居の他に、かつては里の方に一之鳥居が建っていた様なんです。今では公園に移築されていますが、一応現存はしていました。鳥居が作成されたのは鎌倉時代ともされ、県有形文化財に指定されています。この鳥居から金峰山まで御嶽道という道が伸びていたらしく、ここにかつての金峰山の信仰を見ることができます。それでは境内の方を見ていきましょう。マップで境内の雰囲気を掴みます。神社があるのは何と標高854mの高地!鳥居をくぐると直ぐに、行燈数基と社が見えてきます。この祠は御嶽道祖神を祀るもので、御神体は御幣だそう。手水舎です。これでもかとしゃっこい水が流れ出でていました。山梨県はやはり清水の宝庫です。そんで参道です。遥かに続くように感じますが段数は266段しかありません。参道も半ばまで来ると、杉の巨木が何本もで出迎えてくれます。樹齢は数百年。脇には末社の金櫻稲荷神社もあります。かつての神木か、巨木が屋根付きで祀られていました。参道を登り切ると左手に社殿・社務所が置かれています。そしてその奥に駐車場がありますので、車で参拝したい場合も安心です。こちら側にもしっかり手水が整備されています。本殿の近くに生えるのは”鬱金の桜”と呼ばれる神木で、神社の創始以来数代に渡りこの地に根付いてきたようです。鬱金というのは天皇が着る着物の色とされ、名前からしてターメリック、つまり黄色のことでしょう。再び社殿の方に戻るとさざれ石がありました。結構いろんなところにありますよね。さあ、金櫻神社の社殿です。陽光を受けて映える鮮やかな朱色が特徴的ですねぇ!扁額の書体もなかなかに面白いです。それではご由緒も見てみましょう(一部加筆)。金櫻神社略記祭神:少名彦神、大国主神、素戔嗚神 約2000年前(皇紀準拠)、第十代崇神天皇の御代に全国各地に疫病が蔓延し悲惨をきわめた折、甲斐の国に於いては当神社より北方30km、標高2595m、金峰山五丈岩に御祭神 少彦名命の医薬禁厭の守護神を鎮祭されたのが当神社の起源です。 その後、第十二代景行天皇の御代には、日本武尊が東国巡行の際に国土開発のため須佐之男命、大己貴命をあわせ祀られました。 今から1500年前(皇紀準拠)、第二十二代雄略天皇の御代に金峰山本宮(五丈岩)と富士山が遥拝できるこの地に里宮が開かれました。第四十二代文武天皇の御代には大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ神仏習合の日本三御嶽、三大霊場として広く信仰され東国の名社として関東全域、遠くは越後・佐渡・信濃・駿河の各地に及び春秋配礼はことに賑わいました。 領主武将の信仰も厚く寄進された室町鎌倉期の文化の枠を結集した絢爛華麗な社殿や幾多の宝物は壮観をきわめました。明治の御代を迎え当社は神仏分離により神社として独立、大正5年(1916年)県社に昇格、広範な社有林と昇仙峡の清流に囲まれた神域は幾世隔てた今日も変わらず清新であり全国から参拝される人々の信仰の地となっております。令和元年5月1日皇紀準拠でなくとも千数百年の歴史を持つ霊場みたいですねぇ。疫病鎮消のために薬神 少彦名神を山頂に奉斎したことを起源としています。その後日本武尊によって大国主神・素戔嗚神が合祀。神体の五丈岩は屏風型の巨岩で、遠くからでもあれが五丈岩だなと一目でわかるほどです。こちらについては別記事にて紹介したいと思っています。今すぐ見たい方はコチラからどうぞ!そしてその後、現在地に里宮が造営されたり、吉野 国軸山 金峰山寺から蔵王権現が勧請されたりします。この蔵王権現の勧請を神仏混淆の始まりとしているようです。また、wikipediaでは、出典不明ながら面白い記述が見られます。なんと蔵王権現と共に金精大明神が勧請されたというのです。この説についてはなかなか思う所があって・・・というのも、金櫻神社の手前 昇仙峡の地にはなぜか生殖器崇拝の神社が多いのです。夫婦木神社に始まり、弥三郎山中腹の八坂神社などがそうなんですが、どうしてここに集中して鎮座しているのかがずっと不明だったのです。根拠は不明ですが、かつて金櫻神社で金精大明神が祀られており、それが里へと分祀されていった・・・とかだったら説明できちゃうんですが・・・。社宝についても説明書きが建ててありました。左上から見てみましょう。金櫻神社の御神宝 金櫻神社の伝承によれば、これらを「火の玉(3個)」・「水の玉(2個)」と呼び、神祇管領の許可を受けるために、上洛したかつての金櫻神社の神職たちが、上洛の際、水晶の原石を持参して、京都の玉造に加工させた現存する日本で最古の加工された水晶である。※純度の高い水晶は、金峰山周辺の鉱山から産出されたものである。金櫻神社大々神楽付面と衣装 現在の演目は、「神楽次第」によると、奉幣・宇須女(うずめ)・白狐・緑舞・湯立・住吉・竜・雷神・手力雄・翁舞・散供・五竜王・山幸・猿田彦・大山祇・小屋根・太玉・扇舞・謡女(うたいめ)・事代主・四方・大霊女・童子・剣舞・稲田姫・少彦名・四方切・神木舞という26座記されている。 金櫻神社の春の例大祭で、太々神楽は奉納されている。 衣装は絹製であり、衣装一式は、金櫻神社において収蔵・管理され、使用していない一部の衣装は拝殿に展示されている。※昭和57年3月9日 市の無形民俗文化財に指定。能面 「甲斐国志」には、「宝殿ニ蔵ムル所」として、金櫻神社の宝物が列挙されている。その中に「武田勝頼奉納ノ仮面四箇 銘ニ天下一イセキトアリ」との記述があることから、江戸時代以来武田家所縁の宝物として伝来してきたものと思われる。 能面は、①増髪、②今若、③平太、④小面、⑤中将、⑥尉、⑦喝食、⑧邯鄲男の8面で①と②には「イセキ」の刻銘がある。※「イセキ」とは、能面作家の家系のうち、中世の能面作家 三光坊を祖とするとされ、越前出目家・近江井関家・大野出目家の三代家系の内の近江井関家のことを示す。※昭和42年8月7日 県の有形文化財(工芸品)に指定。住吉蒔絵手箱・家紋散蒔絵手箱住吉蒔絵手箱 金櫻神社宝物帳に「武田信玄公母堂奉納」とされている宝物の1つ。長方形の合口仕立てで、箱の角を内にえぐり込む入角とし、蓋の表面にわずかに甲盛をつける。箱の表面は全体に黒漆を塗り、金の平蒔絵に絵梨子地を交えて模様を表す。蓋表から4側面にかけては、住吉社を主題とした意匠をくまなく散りばめている。※昭和42年8月7日 県の有形文化財(工芸品)に指定。家紋散蒔絵手箱 長方形の合口造りで、蓋の表面には緩やかに甲盛がある。身の側面には紐金具を打ち、内側には懸子を1枚収める。箱の表面は全体を錫梨子地に仕立て、桐・梅鉢・引料・花菱などの家紋を散らす。※昭和42年8月7日 県の有形文化財(工芸品)に指定。筏散蒔絵鼓胴・武具散蒔絵鼓胴筏散蒔絵鼓胴 「甲斐国志」「甲斐国社記・寺記』には、武田勝頼によって奉納されたと記されている。全体的に黒漆を塗り、金の平蒔絵に絵梨子地を交えて、流水に筏の文様を表す。※昭和42年8月7日 県の有形文化財(工芸品)に指定。武具散莉絵鼓胴 「甲斐国志」「甲斐国社記・寺記」には、仁科五郎(武田信玄の五男)によって奉納されたと記されている。筏散蒔絵鼓胴と同様に、全体的に黒漆を塗り、金の平蒔絵に絵梨子地を交えた高台寺蒔絵の技法を用いている。鼓胴の受けには、朱漆で「観世」(花押)、「阿古」(花押)、黒漆で「弥左衛門」(花押)と銘が記されている。※昭和42年8月7日 県の有形文化財(工芸品)に指定。数々の宝物がある中で、特に面白いのが水晶でしょうか。加工された最古の水晶ということで、非常に貴重なものです。大きさはそれぞれまちまちですが、その輝きは一級品!見ごたえがあります。当時の職人の腕前がいかようであったかが伝わって来ますね拝殿裏手にも行けちゃいます。ここからは本殿を拝むことができます。本殿の柱には上り龍と下り龍とが巻き付いております。これは複製再建されたものですが、もとの龍はかの左甚五郎の作だと伝わっていたようです。下に境内の説明書きを載せます。昇・降竜記 当金櫻神社には初代左甚五郎作と伝えられる昇・降竜が奉納されており、鎌倉時代の社殿と共に全国に其の名を知られてまいりました。 昭和30年(1955年)の大火により全てこれを焼失して以来各方面からこれを惜しみ再現復活が要望されてまいりました。 昭和55年(1980年)ご神縁により東京銀座祝橋診療所 吉河孝雄医博により日展会友堀友二氏に制作依頼され同58年8月27日奉納されました。ケヤキ一本作りの全長1.7mの此の竜は元々水晶の玉を抱いております。当神社の水晶のお守りは深い関係をもっており鬼をさる王なれば天魔疫病の恐れなし如意宝珠なれば宝に於いてあきみてり国を守る王なれば息災にして天が下治む竜王の王なれば水火に於いて自在なり天地の鏡なれば萬の事曇りなし神符なれば不死不老悪衆不入病なしの玉依姫命の神託通り強い霊力をもつものと信仰されたものです。 昇仙峡の神秘的な風景と日本三大霊場の此の御岳の里の古い歴史の中の数多い伝説の起源ともなった昇・降竜の由来は又此の新しい竜の再現によって高いご神徳を遍く蒙られるものと信ずるものでございます。境内説明書きより引用本殿の隣にはなんだか神聖そうな井戸があります。名を”龍神之井戸”!里宮創建当時からここにあり、いつ何時でも水が枯れることはなかったそうです。昔はこの水を使って餅をついたそうで、そう考えると俗にいう閼伽井の様なものだったのかもしれません。※閼伽井:仏尊にお供えする水(閼伽)を汲む井戸次は金峰山・富士山遥拝所の方に行ってみましょう。境内からは山道を10分程度とそこまで離れていません。遥拝所までの道の起点には、大黒天を祀る祠が建っています。祠の前面には見事な鳳?の木彫が懸けられていました。祠内には満面の笑みを称えた招福大黒天像が収められていました。この像は樹齢2000年を超える老杉から削り出されたものです。昭和30年の火災によって多くの巨木が失われたようです。この林を進んでいきます。この広い林の大部分が金櫻神社の境内だと言うんですから驚きです。遥拝所までの道の途中には西室という岩窟があります。ここに祀られているのは西室権現。明らかに神仏混淆の痕跡です。何の神格化なのかは不明です。道祖神と西室権現の石碑もありました。山道も終盤、金櫻神社と書かれた鳥居が見えてきました。山宮遥拝所はもう少しです。鳥居を過ぎると、このような石祠が遥拝所までずっと等間隔で並んでいます。何かしら神格を祀っているんでしょうか?気になります。そんなこんなで遥拝所に到着です。奥の石碑には現在の天皇が金峰山登頂時に詠んだ詩が刻まれていました。雲間より さしたる光に導かれ われ登りゆく 金峰の峰に皇太子殿下んー・・・まぁ、見えるっちゃ見えるくらい・・・ですかね・・・。天気があまり良くないのもダメでした。五丈岩を写したかったんですが・・・。この様に金峰山は高すぎる&奥地すぎるために市街地からはなかなか拝めません。琴川ダムからなら正面からの姿を拝むこともできますよ!斜めから。金峰山の遥拝所として栄えた昇仙峡の地に鎮座する古社でした。今では神仏混淆の要素は皆無ですが、蔵王権現を祀る修験の霊地としての風格は存分に感じられました。山梨県には数社金櫻神社があり、杣口には御正体として蔵王権現の懸仏が伝わっています。こちらには現存しないようですが、かつては蔵王権現の神体が社殿内に置かれていたんではないでしょうか。国家の安寧を願った神仏混淆の大霊場は、姿は変われど今でも参拝者で溢れています。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・御岳山 金櫻神社以上です。
2025年11月19日
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山寺や蔵王の登り口として有名な山形市、市街地にも山間部にも仏閣が溢れております。寺院として見てみると、やはり多いのは真言宗や天台宗などの密教寺院であり、それらが往古より修験と結びついていたことは言うまでもありません。今回紹介する札所も三番札所:高瀧山 光明院に引き続き、もともとは山中の瀧に不動尊が感得されて祀られていたものが、寺院へと発展したものです。東に蔵王、西に出羽三山と、修験の影響を受けない方が難しい、そんな土地に鎮座する不動尊霊場です。2025.9.14東北三十六不動尊霊場四番札所:上埜山 大樹院山形市街の北東に青野という集落があります。いざ集落の中まで進むと道は細く、こするかこすらないか、だいぶスレスレの状態で進んでいきます。寺院が見えてきたところで、一度小休止。寺院の手前まで車で行ってしまうと、引き返すことも難しくなってしまいます。少し手前に広い駐車場があるので、ここに停めて参拝しましょう。境内に続く上り坂を進んでいくと車に乗った面白い不動尊が出迎えてくれます。これは車不動尊と呼ばれるもので、同様のものが福島県会津美里の薬師寺にも置いてあります。大樹院の本堂。参道脇には何体もの童子像が置かれており、なかなかに印象的な風景でした。ご由緒です。上埜山 大樹院天台宗開山:弘法大師本尊:雷不動尊 大岡山の南西、のどかな環境に甍を並べる大樹院。石段のまわりや裏庭など、境内には数多くのサツキが植栽されており、花の季節はとりわけ美しい。サツキの刈り込みのあいだには、不動明王の眷属たる三十六童子の像が立ち並び、霊場らしい雰囲気を醸しだしている。 本堂右手の里親観音や裏手の観音堂周辺には桜の木も植えられ、小さな藤棚もあって、春の境内は華やかだ。 縁起によれば、弘法大師空海により天長年間(824~834年)に開創されたと伝わる。本尊の雷不動尊は、老若男女貴賤高下の別なく、五穀豊穣や諸願成就を願う場として信仰を集めてきた。特に雨乞いに霊験あらたかで、最上大旱魃のおりには天から宝の雨を降らせたという。 当山の縁起を伝える安政年間(1854~1860年)の版木には、「日本三所」として、日光山霧降瀧雷不動尊・陸奥遠藤ヶ瀧雷不動尊・最上請雨ヶ瀧不動尊が並び刻まれ、その霊験を讃えられている。 請雨ヶ瀧の地は大樹院から2mほど山あいの渓谷で、奥の院の籠堂があり、湧き出る霊水は眼病ややけどに霊験あらたか。弘法大師が湯殿山を開いて下山のおり、当地の旱魃を救うために雷不動尊を勧請したと伝わる霊地である。 大樹院の参拝を終えて本堂前で振り返ると、眼下には町並みが一望のもと。それほど高い場所にあるわけではないのだが、遠くまで見通せ開放的な気分になる。 ・・・。東北三十六不動尊霊場ガイド 春野草結 著 30~35ページ より引用弘法大師開創の縁起があるみたいですね。今は天台宗ですが、堂内の御由緒書きによると元は羽黒派修験道の流れを汲む寺院だったんだとか。面白いのがここの不動尊は雨乞いに使われていたと言う事です。不動明王というと迷いを断ち切ったり、心願成就を願ったりというような祀られ方をすることが多いと思います。雨乞いは諸水神・龍神や聖観音などに対して行われる例が多く、そうした点ではここの不動尊はなかなか珍しいんではないでしょうか。本尊の雷不動尊は秘仏なんですが、堂内には写真が飾ってあり、そこで姿を拝むことができました。かなり新しく見えますが、それもそのはず、この雷不動尊は復元複製されたものなのです。復元前の本尊の写真も堂内にてご覧になれますで、参拝時には是非見てみてください。さて、この写真を見たところで、なぜ雷不動尊が雨乞いに使われたのかの謎が解けそうですよね。答えはその像容にあります。雷不動尊は龍の背に乗った独特な姿をしているのですが、なんとなく龍神を従えて使役している様に見えませんか?不動明王の力が宿った龍神に、皆降雨の願いをたくして拝んだんでしょうねぇ!雷不動に思いを馳せ、さぁ帰るかとお堂を出たところで、境内の裏手に童子像があったことを思い出しました。最初に訪れた時は、この不思議な存在感に圧倒されたものです。東北三十六不動尊霊場の中で三十六童子が勢ぞろいするのは宮城県美里町の梅光山 神寺 松景院と、福島県棚倉町の石堂山 徳善院 明王密寺くらいのものでしょう。童子たちの中心には三体の赤い不動尊が睨みをきかせています。それぞれ少しずつ像容が異なっていますねぇ。朱々と燃える迦楼羅炎が見事です。三十六童子や不動尊を堪能し終えたら、更に境内の奥へとすすんでみましょう。境内の最奥には小さな観音堂が置かれています。内部には聖観音が祀られていました。これが青野観音。観音堂から街の方を眺めてみます。夏も終わりが近づき、雲は低く、秋の訪れを感じさせます。街の周りが一面田んぼになっているのは、故郷の風景にも似ており、ちょっとペシミシュティシュな気持ちになってしまいます。斜めから。青野は大樹院の雷不動は、龍の背に乗る面白い像容をしていました。そのせいもあってか、不動尊としては珍しく雨乞いに用いられていたようです。山形県には他にも面白そうな不動尊霊場が幾つもあるので、いづれはそれらも見てみたいですねぇ。御詠歌諸人に 普くひかり与え給ふ 青野にいます 大きみ仏もろびとに あまねくひかりあたえたもふ あおのにいます おおきみほとけ本尊:雷不動尊 अचलनाथ以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。観音堂本尊の御朱印以上です。
2025年11月18日
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十和田の街から南に向かうと向切田の集落に着くでしょう。そこから更に奥入瀬川を越えたところにあるのが切田であり、名前に関連があって面白いですよね。この切田という地名はかなり古いころからあるようで、この地名を姓にとった武将もいたほどです。南部家が家臣、切田氏がそれにあたります。元は伊豆国伊東荘を本貫地とし、伊東氏を名乗っていましたが、当地に流れ付き切田館を根幹地としたことから切田氏と名乗り始めます。そんな切田氏が崇敬したのが切田八幡神社、当地きっての豪華な社殿を持つ八幡宮です。2024.9.14切田八幡神社幾つも連なる鳥居に驚きつつ、横を見てみると二十三夜と天照皇大神などの石碑が置かれています。この天照皇大神・春日大神・八幡大神という構成は当地では一般的な構成なんですが、これ、おそらく道場の神棚などに祀られる構成なんではないでしょうか。鳥居が何基も建っていますね。提灯が懸かっているのは、前日に例大祭があったからです。鳥居脇に御由緒も有りましたよ。切田八幡神社祭神:八幡大神(十五代応神天皇)例祭:9月15日 建久2年(1191年)に南部光行公 奥州下向に際し、八幡宮を勧請。諸所の崇拝を経てこの地に鎮座せりと伝承する。 後に伊豆伊東氏の一族 伊勢親安なる者、由縁ありて切田上館に住し、地名を冠して切田氏と改め別に氣田氏とも称せしが、弾正の時(1396年)に至りて南部十三代守行公に随従し、武功高く切田中館に居住、おおいに神社を恢弘する。 神楽もささやかながら創建当時のものといわれる。切田神楽が年代の久しき時に盛衰あり、一時おおいに衰退の兆しあり。天保年間(1830~1844年)南部小鳥谷の舞太夫 松之助なるものを招き、滞留数ヶ年、ほとんど切田の村民と等しき生活を営みつつ、神楽を伝えること実に75番各曲目の拍子舞様、その他ことごとく切田の村民に授けたり。切田神楽について、こちらの記述も見てみましょう。切田神楽【名称】切田神楽、南部切田神楽【所在地】十和田市切田字下切田【時期・場所】9月15日の切田八幡宮の例祭【由来】 伝承によると、建久2年(1191)南部三郎光行が糠部に下向し、これと同時に八幡宮を勧請し、切田に鎮座。この鎮座とともに神楽が付属することになったという。応永3年(1396年)切田を領した気田弾正が八幡宮を振興し神楽を盛んにしたといい、以後、別当である良善院という修験により継承されてきた。江戸時代後期には75番の演目を伝承し、早池峰大償神楽(岩手県稗貫郡大迫町)と同系であるという。【演目など】 伝承活動は南部切田神楽会が行なっている。後継者の育成に力を注ぎ、県内で最初に取り組んだという。 演目は、本舞および地狂言など47曲45番といわれ、『青森県の民俗芸能』には、「権現舞」「山ノ神舞」「三番叟」「鳥舞」「機織」「寅の口」「庭鎮」「二本剣」「三本剣」「薬師舞」「信夫太郎」「注連切」「八幡舞」「花舞」「両剣」「扶桑金神」「三宝荒神」「那須与市」「蕨折」「番楽」「舅礼」「雀追」「次郎・太郎」「ねんねこ」「五本剣」「若子」「酒漉」「桜子」「盆舞」「両天」「天女」「正月新五」「拾弐式状」「浦島」「鞍馬山」「鍾巻」「曾我兄弟」「小獅子舞」「座頭」「小僧」「やわた」「地蔵」が記録されている。これらの中には狂言や道化舞がかなり含まれており、地域の古老の話ではその多くはできなくなってしまったという。聞取りでは、現行の演目は「権現舞」「山ノ神舞」「三番叟」「鳥舞」「寅の口」「二本剣」「三本剣」「薬師舞」「信夫太郎」「番楽」「三宝荒神」「盆舞」「両天」「浦島」「鞍馬山」「鍾巻」などというが、切田八幡宮の例祭には「権現舞」のほかは演じられず、上演の機会は少ない。ちなみに、「権現舞」「山ノ神舞」「三番叟」「鳥舞」「機織」の5曲が県技芸指定になっている。 「権現舞」は、山伏神楽の中核をなす祈祷舞で、神下ろしの下舞から豪快な本舞である権現の舞にうつる。歯打ちは歯切れ良く、下から上に歯打ちをしながら、幕をまきつけていく。獅子頭は大ぶりな権現で、麻糸の長い髪をつけ、幕は藍色で、7・5線と桐紋がつく。特に5つの獅子頭による五方堅めが特徴的で、頭振りと尾とりがそれぞれ5人で、振りあわせを行なう。青森県市デジタルアーカイブス / 26_青森県史民俗編資料南部 より引用ふーむ、あくまでも神楽の担い手は修験僧だったんですねぇ。切田にとどまらず、当地における山伏の影響力はかなりのものだったことが、各地の神社仏閣の由緒から分かります。観音堂・神社に関しては別当職を山伏が担当することも多く、神仏分離以前において、彼らが霊場の存続に果たした貢献はかなりのものだったんではないでしょうか。当地においては良善院という山伏が別当(管理者)を務めていたとされていますね。切田神楽ふくめ、東北の主要な神楽は”東北文映研ライブラリー映像館”様がまとめてくださっているので、是非ご覧ください。もちろん切田神楽もありますよ!・YouTube / Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館 / 切田神楽の神楽宿「盆舞」参道に戻ります。脇には崩れた鳥居が打ち捨てられていました。長い参道の末、やっと社殿に近づいて来ました。ここからは末社が続きます。不動尊社。切田神社。祭神は不明。もしかすると摂社かもしれない。八幡宮です。遂に拝殿まで到着しました。周辺地域においても、この様な構造の八幡宮はここくらいでしょう。おそらく石清水八幡宮の拝殿を模したものだと思いますが、何とも見事な社殿です堂内には権現頭が5つ並んでいます。そして絵馬。額もありましたよ。斜めから。三戸南部十三代守行公の家臣、切田(気田)弾正の庇護を受けた八幡宮でした。何といってもこの素晴らしい拝殿、一見以上の価値があります。南部氏は奥州入部以来、各地に八幡宮を勧請していますが、この八幡宮も入部まもなく創建されたものだとされている由緒ある八幡宮です。南部氏も元をたどれば甲斐源氏、源氏の氏神は八幡神、ということで南部氏の領地だったところには八幡宮が多いのです。南部十和田の切田鎮守、切田八幡神社にぜひご参拝ください!以上です。
2025年11月17日
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日本各地に素晴らしい神社仏閣があり、それらを巡ってお参りすることは精神的な癒しになると共に、私たちの生活になくてはならないことだと思います。巡礼はすばらしいもの、ただし何か所も周っていると、いつかは疲労し、足が動かなくなってしまうことでしょう。そんな時に私たちを支えるのが、おいしい食事と素晴らしい温泉です。このページでは、巡礼の助けとなる”めぇままかへるどご(食事どころ)”と”たげあずましいゆっこ(湯どころ)”の二つを、行った順で紹介したいと思います。そういう企画の山梨県編ページです。美味ぇ飯食へる所(めぇままかへるどご)国中地方郡内地方凄げ吾妻しい湯処(たげあずましいゆっこ)国中地方甲斐市:湯めみの丘 甲斐市:湯めみの丘 甲斐富士眺望の名湯甲斐市:玉川温泉 甲斐市:玉川温泉 古き良き公衆浴場の風情漂う玉川の湯どころ郡内地方以上です。
2025年11月15日
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今日はなんと休日出勤でした。いつもとは違う現場を体験できたので面白かったんですが、休日に仕事をするというのはやはり体にも心にもクるものがあります。これは何かしらで休日感を味わわなくてはと思い、仕事終わりの足でそのまま温泉を目指しました。山梨県で初の温泉・・・という訳では無いんですが、この公衆浴場があまりにも印象に残ったのでいそいで筆を持ちました。玉川温泉今日は雲1つない快晴!本当であれば甲斐金峰山を攻めたかったんですが、叶わず・・・。明日も天気は良いみたいなので、この機会を逃さずにピークハントしたいと思います。さて、甲斐市の南方、玉川という地区にある玉川温泉に着きました。夕暮れ時ということで皆こぞって入浴に来ています。その列に混ざり僕も中へと向かいます。扉を引いて中に入ると、近所の方が持ち寄った野菜やフルーツが置いてありました。その中に柿7コ入りで100円という目を疑う商品がありまして・・・今夜のポン酒のつまみにとついつい手に取ってしまいました。受付の方曰く、近所の農家の方が来る人に楽しんでもらえるようにとこの価格をつけているんだとか。こんな有難いことがこの世にあるでしょうか。このおかげで本日の晩酌は秋の風情が漂いまくっていることは言うまでもありません。ここの湯舟は2つ。奥の広い方が普通湯、手前の少々濁っている方がバイブラです。洗い台も4つしかない上に設備も新しいとは言えないんですが、それが逆に古き良き公衆浴場の雰囲気を醸しており、日常の喧噪や日々のストレスを置き去りにすることができるんです。普通湯は若干褐色でサラリとした滑らかな泉質です。温度は体感40~41℃くらいとそこまで熱くありません。その分苦も無くずっと入っていられそうです。湯舟の近くに小窓が有るんですが、開けると秋風がヒュルリと吹き抜け肌を撫でていきます。これを背中に受けながら半身浴するのがなんとも気持ちが良い!よく刺激や苦労のない環境を”ぬるま湯”と称しますが、そうした環境にはずっと居たくなるものです。ここも違う意味でぬるま湯であり、いつまでも居たくなってしまいした。バイブラは濁りがあり湯の華が舞っています。普通湯よりも少々熱めではありますが、津軽衆には少々物足りないのではないでしょうか。ただ本懐は温度にあらず、泡にあります。湯舟のそこからかすかに吹き出す細かい泡が効率よく体を温めてくれます。入って十数秒もすればすぐと体が温まってたんげあずましがったんですこりゃ冬に入ろうものなら虜になってしまう事間違いなしです!湯のこともあり、風情のこともあり、柿のこともありと、かなり印象深い温泉体験ができました!こんな体験をこれからも味わっていきたいですねぇ!住んでるところからはそんなに離れていないので、こりゃ仕事帰りの休み場に丁度良さそうです。またいづれ、体の垢と心の錆を落としに来たいと思います。玉川温泉料金:500円(2025.11.15現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)、産直入浴備品の販売:不明(無さそう)湯の温度:ぬるめ湯の種類:2種類サウナ:無し以上です。
2025年11月15日
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弘前の街と西目屋とを繋ぐ県道28号。周りには禅林街や新寺町など寺院があふれ、ここを歩くだけでも1日中楽しめそうな感じです。今回紹介する寺院も国道28号沿いに境内を構えています。ただ先ほどの寺町からは少々離れており、街の喧騒とは無縁です。津軽弘法大師霊場四番札所:鷹揚山 不動寺道路の側に境内への入り口があります。御堂の前が広くなっており、そこに駐車できるので、車でも安心。出るときは見通しが利きづらいので注意しましょう。境内入って直ぐ右には、修行大師の像が置かれています。津軽弘法大師霊場の札所であることの証明です。隣には如意輪観音と仏塔でしょうか。弘法大師像の向かいには手水。何とも面白い積み石の水盤です。手水の隣には石柱が3つ。いずれも龍神を祀ったものかと思いますが、何故か左のものは人面です。これはなんなんでしょう?五色の垂れ幕が懸かった本堂。本堂左の小さな堂は毘沙門堂、津軽七福神めぐりの札所本尊が収められています。ご由緒です(一部加筆)。第四番札所 鷹揚山 不動寺高野山真言宗開山:加福晃教和尚寺院本尊:厄よけ不動 不動寺は、昭和41年(1966年)2月28八日、真言宗国分寺派大本山国分寺の末寺として、鷹揚山不動寺の認可を受け、現在に至っている。したがって、加福晃教和尚が開山した新しい寺であり、修験道・加持祈祷(とう)を中心に活動している。 昭和59年(1984年)には、弘法大師1150年御遠忌記念事業として、「弘法大師像」を境内に建立し、「癌(がん)封じ観音・観音堂」を建立した。 昭和61年、修験道を極めるべく、寺籍を真言宗当山派修験の本山である醍醐寺(京都市)に移した。醍醐寺は、豊臣秀吉最後の観桜会「醍醐の花見」と言われるように、その勢力を広めた寺で、不動寺もその修験道の法燈を津軽の地に広めるべく、信者の迷いや悩みの相談を受け、現世利益を目的とした衆生済度のために日々の活動を続けている。 また、近年では津軽弘法大師第四番霊場とともに、津軽七福神「毘沙門天」霊場としても知られている。 平成27年(2015年)より高野山真言宗となり、阿字観瞑想法の道場を開設。一般に向けて阿字観の指導を行っている。津軽弘法大師霊場 / 札所紹介 / 第四番札所 鷹揚山 不動寺 より引用20世紀になって開山された新しめの寺院です。祈祷寺ということもあってか、堂内には密教由来の大日如来や不動明王の像が多く収められています。数回宗派を変えていますが、いずれも真言系の宗派ですねぇ。現在は高野山真言宗に属しているため、本寺は金剛峯寺だと思われます。堂内護摩壇の奥には本尊の厄除け不動尊と共に降三世明王・大威徳明王・金剛夜叉明王・軍茶利明王が祀られ、五大明王の形式になっています。堂内右手にて面白い仏像を見つけました。これは大日如来像なんですが、金胎両部の形式となっているんです。通常は金剛界・胎蔵界どちらかの印を結んでいることが多いんですが、こちらはそれら2つの印を同時に結んでいるんです。市内では弘前高野山 法光院の本尊もこの形式の大日如来とされますが、実際に見た事はありません。堂内左手には鎮守の稲荷社が置かれています。御朱印を書いてもらった後で、住職にいろいろと質問してみました。立派に彩色された不動明王像の隣に、藁を束ねたような祭具が見えますねぇ。これなんですが、住職の話を聞くまではアイヌの祭具であるイナウだと思っていたんです。これは何なのかと住職に尋ねたところ、なんとイナウではなく御幣だとのこと。しかも修験が使用した御幣なんだとか。通常御幣と言うと紙製のものを連想すると思うんですが、こちらは木の皮?稲わら?で作られています。青森県立美術館の常設展示品にお山参詣の祭具があるんですが、そちらもこれと同じ姿をしていました。津軽の修験たちはこの植物繊維製の御幣を好んで使っていたんでしょうか。さらに住職が言う事にゃ、当地では紙が高級品だったため、かわりに植物を用いてこの様な御幣を作っていたんだとか。手に入りやすい素材で祭具を作っていたんですね、腑に落ちます。ただしイナウとの関連があるのかどうかは分かりません。山中にて修験とアイヌの交流があったとしても不思議ではないと思うんですが・・・。アイヌと和人はお互いに単語の借用などがあり、文化もそうであったと個人的には思っています。津軽の修験僧が本州アイヌのイナウに着想を得て、この様な木幣を作ったとしたら?・・・歴史ロマンがありすぎて、興奮しっぱなしです隣には権現頭や祠が置かれていました。斜めから。津軽の真言宗寺院の中でも修験色の強い寺院でした。近年創建された新しい寺院ですが、堂内には修験ゆかりのものが多く、非常に楽しめました。弘法大師霊場・七福神めぐりの際は、是非事前に電話してから参拝することをおすすめします。御詠歌濁る世の 人のこころを清めんと 加福不動に 香たなびけりにごるよの ひとのこころをきよめんと かふくふどうに こうたなびけり人はただ 祈るこころぞ大事なる 鷹揚山の 灯明中に座してひとはただ いのるこころぞだいじなる おうようざんの ほなかにざして寺院本尊:厄よけ不動 अचलनाथ以前貰った御朱印です。津軽弘法大師霊場本尊:厄除け不動以上です。
2025年11月13日
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9月の三連休に行った最上・村山地域遠征にて参拝しました。寒河江市に来たのは今回が2度目、以前は慈恩寺だけしか見れませんでしたが、今回は市内の神社仏閣を数ヵ所参拝出来たんです。その内の1つに今回紹介する寒河江八幡宮があります。寒河江八幡宮は城跡に鎮座する八幡宮で、社殿だけでなく別当寺院までもが良好な状態で保存されているレアな神社なんです。丁度この日、例大祭が斎行されるようで、境内に幾人もの氏子が集い準備をしていました。秋の三連休はどこも例大祭で賑わっており、普段感じられない祭の空気感を味わうことができて面白かったんです2025.9.15寒河江八幡宮赤く大きな鳥居の側に、立派な幟が挙がり、風ではためいていました。雲がまばらにかかった気持ちの良い秋空の下、参道を登っていきます。参道右手には別当寺院が置かれています。境内には古めかしい仏堂。この中には十三仏霊場の札所本尊である文殊菩薩が祀られています。中央に文殊菩薩、両脇に聖観音と不動明王が置かれ、奇妙な三尊形式となっていました。更に文殊菩薩の手前に置かれた小さな厨子には、生まれ年守り本尊の7尊が置かれています。別当寺院の本堂です。寺院名は西方山 神宮寺。寒河江市史にて、由緒などを確認できました。ご由緒です。西方山 神宮寺慈恩宗 瑞宝山本山慈恩寺末寺本尊:阿弥陀三尊・・・。 寒河江八幡宮の別当は、真言宗幡光山満徳院であった。満徳院は、慶安2年(1649年)江戸幕府が従来の黒印地を朱印地に直すさい、「神人等随意僧籍ニ転ズルヲ許セリ、因ッテ神主幡野右近満徳ナルモノ官允ヲ請ヒ別当トナリ、真言宗佛式ヲ以テ奉仕。満徳院ト称ス」とあって近世初期の創建を記すが、室町末の『寒河江大江城古絵図」に満徳院が画かれてあり、別当としての創建はもっと古いと考える。しかし、『寒河江大江城古絵図」が江戸時代に書かれたものという可能性も検討されなければならない。 寒河江八幡宮には、もう一つの別当神宮寺があった。神宮寺なる名称は、神祇に仕える目的で神社に付属して建立された寺院のことで、神護寺や宮寺などともいい、神仏習合思想の具現化を示す標識であり、明治元年3月の神仏分離令で廃仏毀釈がおこなわれ、全国的に神宮寺の堂社、仏像以下が廃壊されたことは周知の事実である。寒河江の神宮寺は、現在六供町の八幡神社鳥居脇にあり、今に神宮寺の名称を遺存する珍らしい例である。全国的に神宮寺は、一部を除いておおむね天台・真言いずれかの宗派に属したが、寒河江の神宮寺は新義真言宗で、宝暦・寛政などの近世文書によると、惣持寺の末寺になっていた。 八幡神社の記録によると、神宮寺について「元八幡宮社僧ニシテ本地阿弥陀仏ノ守護役ナランモ貞享2年(1685年)満徳院社領綜合ノ際、八幡宮ヲ離レテ阿弥陀領トシテ朱印状ヲ受ケタルナルベシ」とある。すなわち神仏習合の中で生まれた本地垂迹説によると、八幡神の本地仏は阿弥陀如来であり、寒河江八幡宮の阿弥陀如来像に奉仕してきたのが神宮寺であったというのである。『乩補出羽国風土略記』には、「一阿弥陀堂」として「六日町に有、仏餉料26石7斗、慶安以後御朱印頂載別当真言宗安養山神宮寺といふ」と書かれている。 明治の神仏分離に際して、寒河江八幡宮の阿弥陀如来像が神宮寺に移された。銅像の小像であるが、鎌倉時代の鋳造にかかるものと推定されている。 神宮寺は江戸時代に満徳院との紛議によって、阿弥陀堂領を奉持して、八幡宮との縁を切ったもので、そのため明治初年の廃仏毀釈による廃寺をまぬがれたものであろう。 現在神宮寺は、慈恩寺派として、山号を西方山と号し、貞観2年(860年)真済の開基を伝えているが、八幡宮と分離した後、新しい縁起を生み出したものであろうか。・・・。寒河江市史 上巻(原始・古代・中世編) 447.448ページ より引用創建年代などは不明ながら、かつての寒河江八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を護持する寺院みたいですね。本地仏を護持しているということは、相当に重要なポジションだったと思われます。以前は真義真言宗に属していましたが、現在は瑞宝山本山慈恩寺を本山とする慈恩宗に属しています。寒河江市は慈恩寺にほど近いことからも、このように慈恩宗の寺院が多そうです。別当寺院を後にして、参道を更に進みます。二之鳥居は石鳥居、ここから本格的な登りになります。鳥居脇には古井戸?の様なものがあり、おそらく水神を祀るであろう祠が置かれています。うーん、かつては水垢離の場所とかだったんではないでしょうか?更に登った所には注連縄がかかった洞があり、中にはまたもや謎の祠。水もわずかながらしみだしているようです。先ほどの古井戸?の水源でしょうか。上の洞を基点に右の石段を登っていくと、駐車場に着きます。その脇には神仏混淆の痕跡でしょうか、鐘楼が置かれています。左の石段が表参道。道の先には立派な随神門が建っていました。なんとこの随神門、去年落慶したばかりのピカピカの伽藍なんです。以前の随神門は享保年中(1716~1736年)には既に建っていた様ですが、神仏分離の際に市内の寺院に移されてしまったみたいなんです。立派な随神像は残りましたが、それを納める門は無い、という状態が長らく続きました。それを受けて平成29年から数年の時をかけて随神門が再建され、随神像も元の伽藍に戻ることができたということです。とっちぱれ。門をくぐり左手の方には、末社の高良神社 / 新山神社が鎮座しています。こちらの御朱印もありますよ。ご由緒です。高良神社 / 新山神社祭神:武内宿禰、大山祇神由緒・沿革 八幡宮の末社として応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の三代に使えた武内大臣を祀り、後に新山より南町二丁目の安孫子医院に移り、明治時代に合祀され南町講中によりお祭りされている。祭祀:旧4月28日いつぞやの記事でも書きましたが、新山神社は修験と関係の深い神社です。もと仏堂や仏尊を祀る祠が新山神社となったのではないでしょうか。今では大山祇神を祭神としていますが、おそらく以前は別の祭神(仏尊)があったものと思われます。社殿内には立派な厨子が置かれています。小さいながらも荘厳な外観です。高良神社 / 新山神社の脇、社務所の手前には、”古代の王”と銘打たれた焼き物が置かれています。・・・銅鐸とかなんですかね?随神門の右手から駐車場の方へと向かってみましょう。こちら側にも末社やら堂宇やらいろいろあります。ちなみにこれは神輿舎、祭りの日ということで開け放たれていました。ここからは末社です。こちらは稲荷神社。水神社、祭神は不明。開運之神社、祭神は聖徳太子でしょうか。そして本殿脇にはまたもや梵鐘です。こちらは以前使われていたものでしょうか。基壇の説明書きによると、昭和42年に役目を終えるまで二百数十年にもおよぶ長きに渡り、人々に時を知らせていたようです。かなりの古鐘ですよねぇ!ではいよいよ拝殿です。青空に映える美しいカラーリングの拝殿ですよねぇ!現在の拝殿は安永4年(1775年)に建立されたもので、市指定有形文化財に指定されています。ご由緒も見てみましょう。寒河江八幡宮祭神:八幡大神(十五代応神天皇) 出羽国風土記・古社縁起等に依れば、今の高瀬山(郊外、島地区)近くに血縁・氏族等の大集落の守護神あり、康平5年(1060年)源頼義・義家奥州平定(前九年の役)の祈願をし、その霊験あらたかに依り寛治7年(1090年)8月15日に八幡宮をお祀りし、神主1人を置き3,000坪を奉納した。 後に、大江広元 文治5年(1187年)11月源頼朝より寒河江荘を賜り最上川西一円の地頭となり、建久2年(1191年)産土神鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請し、社人4人と田地1,000石を寄進し併せて現在の地に鎮座せしめられた。以来400年の間大江城主は、神を敬い民を撫し水利を興し田畑を拓き、祭政一致殖産興業を勧奨し大いに仁政を布き氏子の信仰篤かった。 出羽守最上義光に天正12年(1583年)に亡ぼされたが、義光公も敬神の念篤く文禄年間より黒印を与え、後江戸時代に至り幕府直轄の御朱印となり寒河江本郷17ヶ村と川西総鎮守として歴代尊崇変わる事なく氏子に維持され、神威ますます厳然として現在に至っている。寒河江八幡宮 / 由緒・年間行事 より引用南東北に多い”源頼義・義家父子による開創譚”を持つ神社ですが、地方史などによると源頼義・義家父子は寒河江に陣を張ることなく奥州合戦に参陣しており、信憑性は薄いとのこと。おそらくその次の鎌倉御家人 大江氏による勘定が本当の開創ではないかと思われます。・・・そうだとしても相当に歴史のある古社であることは変わりませんがね!そして祭事に関する記述も面白いので載せますねぇ。寒河江まつりの由来寒河江市文化財保護委員長 宇井啓 寒河江の祭の最大のものは、寒河江荘の総鎮守であった寒河江八幡宮の祭である。鎌倉時代の建久2年(1191年)に大江氏が鎌倉から神霊を勧請したというから、かれこれ800年以上の歳月が流れている。 このころの祭の様子はわからないが、室町時代に寒河江城を大修築して城下町を整備したころ、この八幡宮に馬場が作られていた。おそらく大江氏は、寒河江城の西方に八幡宮を奉り、鎌倉八幡宮で行われていた8月15日の放生会の流鏑馬儀礼を取り入れたものであろう。この祭は、生きている鳥や魚を放って神仏を供養し、弓馬の競技によって神意を占うものであった。 江戸時代、寒河江は幕府の直轄地となり陣屋が置かれ、代官が派遣された。寒河江は、「寒河江千軒」の町として繁栄し、代官様のお膝元ということで、ゆったり空気が流れていた。紅花や青苧(あおそ)・漆を扱う大商人が軒を並べて、市の立つ日には大勢の人々が集まってきた。 寒河江八幡宮の祭も、正徳年間(1711~1716年)ころから神輿が町を巡るという形態をとるようになる。神が町へ下り、人々に神徳を授けるものであった。「放生会」も舟橋川(沼川)で行われていた。流鏑馬も作試しと称して稲作の吉凶を占うものに変化していた。 享保12年(1727年)八幡宮の神輿が新しくなった。この祭の時に、チャンチャンネンツンと称する若衆の手による「祇園囃子」も町を廻った。六供町・上町・西ノ町・新町・南町・七日町と7台も出て、寒河江の町衆の心意気を表した。六供町組のものは、元禄年間(1688~1704年)に京都に行って習ってきたものだから、他の町に教えるなと戒めた。 文化・文政のころは、さらに寒河江の各町や富豪層は「山車」を出して祭礼を盛り上げた。六供町の又三郎は「風流三国志」、治郎兵衛は「日高川入相楼」、川嶋屋は「須磨浦塩汲」、高津屋は「龍宮」、六右衛門は「養老屋」、かどやは「足柄山」、新町も横町も石川も華麗な山車を出した。寒河江の祭は飾り屋台や山車が巡行して、それは見事なものであったろう。 近代に入ると、神輿に武者行列と奴がつく。奴は「凱旋奴」と称し、六供町の猛者組が担当した。閏年の祭の日には、この奴と内楯獅子踊組が各所で衝突した。寒河江の祭は熱気を帯びていたのである。 戦後の仮装行列も寒河江祭の圧巻で、谷地のドンガ祭の観衆が寒河江に流れてきたほどであった。 寒河江の祭は、寒河江八幡宮の放生会・流鏑馬・神輿渡御を中心として、町衆の祇園囃子屋台や山車が盛り上げたのであった。(平成14年発行 寒河江まつり「神輿の祭典」20周年記念誌掲載)寒河江八幡宮 / 由緒・年間行事 より引用分霊元が鶴岡八幡宮ということで、祭神だけでなく祭の方も同じようなものを行っていたんですねぇ。鎌倉武士団が統治した他の地域ではどうだったのでしょうか?そちらも気になりますねぇ!扁額は金縁の豪華なもの。田中栄作首相による揮毫です。拝殿もそうですが本殿はさらに荘厳です。本殿は貞享3年(1686年)の建立で、拝殿と共に市指定有形文化財の指定を受けています。ここからでは見えにくいですが、極彩色で着色されており見ごたえは抜群ですよ斜めから。祭りの空気が漂う境内は活気で溢れており、人々が楽しそうに飾りを付けたり、神輿を運んだりしていました。地域の鎮守とはかくやという感じで、相当に大事にされているようです。鎌倉幕府が出来た頃に勧請された八幡宮は、威風堂々とした姿で氏子に囲まれておりました。これからも寒河江の町を見守っていって欲しいですね今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・寒河江八幡宮以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー五色の幟と美社殿
2025年11月11日
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北秋田遠征の時に立ち寄りました。大館市の神明社です・・・というと、みなさん大館神明社の方を連想するんではないでしょうか?大館神明社の方は以前から知っていたんですが、当社は偶然見つけて参拝したんです。大館の町から北に進んだところにひっそりと鎮座していました。鎮座地は釈迦内、つまり地名を冠した神社となります。2025.6.15釈迦内神明社鳥居は石造りの神明鳥居。結構新しいです。参道脇には、なぞの祠が置かれています。気になって宮司さんに聞いてみたんですが、これは龍神社、つまり龍神を祀る祠だそうです。以前は鳥居手前が沼地だったらしく、そこに祀られていたものを境内に移したんだとか。今では住宅地に様変わりしており、沼があった様には見えません。拝殿です。入母屋の屋根が美しい、新しめの社です。木彫と扁額です。ご由緒です。釈迦内神明社祭神:天照大御神、唐糸霊神例祭:9月11日 現神明社所在地は、明治の神仏分離以前は釈迦堂のあった土地で、土地に残されている「初七日山釈迦堂略縁起」によれば、神社の草創を鎌倉時代に求めることができる。 執権、北条時頼が剃髪後、民情視察の為、廻国の途次、津軽藤崎に来た時、鎌倉に残して来た愛妾、唐糸の姿を見かける。唐糸は無実の罪で流されて来ていたのであった。唐糸は己の姿を恥じ、自ら入水して果てる。唐糸の初七日に時頼はちょうど釈迦内の地に来た。その供養のために釈迦如来像一体を刻み、この地に残した。釈迦内の地名はこの釈迦像に由来するという。往古風萩村といい、また日也迦村とも唱えた。 この像をおさめた釈迦堂の背後の台地は、中世末、浅利氏の女性の居った母衣飾(ホロカザリ)館で、江戸期、菅江真澄の「にえのしがらみ」に「うちのおほん社」があったと見える。 明治に釈迦如来像を村内の寺に移したあとに、この台地にあったお伊勢様を遷座しそれに、村人たちの尊崇を集めていた釈迦像のかわりとして、その源にさかのぼって名を新に唐糸霊神と付して合せ祀り、神社名を神明社として現在に至っている。 現社殿は昭和55年8月に改築。秋田県神社庁 / 神明社 より引用なぜか津軽の唐糸御前の伝承が伝わっています。津軽と秋田北部は陸続きであり、人の移動と共に諸々の物語も伝わったんではないでしょうか。唐糸御前の話以外にも、猿賀神社の由緒などで両者に関連が見られ、不思議な縁が有るようです。さて、元は山号を初七日山と採る仏堂だったようですね。祀られていたのは唐糸御前を追悼するための釈迦如来像、地名の由来にもなっているんですねぇ。菅江真澄も訪れていた様ですが、その部分を記述した巻は未購入・・・。いつか読んで、エモい気分に浸りたいです。また、釈迦如来像が遷された寺院というのも特に調べていません。青森に戻りし時にリサーチしたいですねぇ、これは。本堂はかなり高いところにあります。斜めから。元仏堂、しかも鎌倉執権 北条時頼公と縁のあるものということで、相当に歴史のある社なんではないでしょうか。唐糸御前の伝承とも結びつき、面白い由緒となっています。フラリと参拝しましたが、何気に面白い由緒と歴史を持っており、非常に楽しめました今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月10日
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日本で最も標高の高い山岳、日本と言えばの富士山。浅間神社は富士山を神体山として祀る山岳信仰の社です。やはりというか、富士山の麓である静岡県や山梨県では特に篤い信仰が見られますが、今回紹介する神社もその1つとなります。富士山を眼前に臨む富士市の総鎮守です。富知六所浅間神社街なかにも関わらず、立派な樹叢に囲まれた境内の入口には、1基の鳥居が建っています。手水舎も現役、且つ立派です。境内に進むと菊祭りの真っ最中でした。東北でも奥州市の駒形神社などで同様の菊祭りが見られます。去年は丁度その時に参拝出来ました。巨木も生えています。しかも側には鳥居が建ち、絵馬まで懸けられる崇敬ぶりは見事です。幹は相当に太く、コブの様に大きく膨らんでいました。樹齢は1200年とも言われ、平安の昔から当地に立ち続けて来たと思うと、かなり感慨深くもあります。御神木の名に恥じない老木でした。御朱印帳を社務所に預け、拝殿に向かいます。参道は花で飾られ、手入れも行き届いていました。拝殿です。装飾の具合からも信仰の篤さは疑うべくもありません。現在の社殿は平成27年(2015年)に落慶したもので、以前の社殿と比べると三倍近い大きさらしいですよ。賽銭を投げ入れ、無病息災を願って柏手を打っていると、ふと蟇股に目が行きました。するとなんとも見事な富士山の木彫がしてあるではないですか!中腹には瑞雲がたなびき、神聖な感があります。この木彫の図案は御朱印にも使用されているので、そちらも見てみてください。ご由緒です。富知六所浅間神社主祭神:大山祇命相殿神:木花之佐久夜比賣命・大山咋神・深渕之水夜禮花神・阿波乃咩神・高龗神※富知六所浅間大神と総称する。例祭日:5月3日社格:別表神社 人皇五代孝昭天皇2年(皇紀基準では紀元前474年、おそらくここまで古い創建ではないと思われる)富士山山腹に御創建と伝えられる。第十代崇神天皇が建沼河別命を東国に御派遣の際、当神社を深敬のあまり奏聞し勅幣を奉られ、爾後代々続けられた。 その後富士山の度重なる噴火のため第五十代桓武天皇延曆4年(785年)に現在の地に遷座し、第五十一代平城天皇大同元年(806年)、五社浅間を勧請するにあたり当神社を首座と定めた。 第五十二代嵯峨天皇弘仁2年(811年)、正四位に叙せられ中宮の御安産祈願を奉仕した日本最古の安産祈願所であり、以来勅願所と定められ皇室の御安泰はもとより国家安秦の御祈願が行われた。 寛保年度の調書に御朱印其他808石外に別当領66石とあり、朝廷及び武家諸候が当神社に寄せた信仰の厚さを窺い知ることができる。 また当神社6柱の御祭神は五社浅間・富士山本宮浅間大社の御祭神であることより岳南総社と広く信仰を集め、現在は神社本庁の別表神社に列せられ富士市の大氏神として連綿と崇敬を仰いでいる。 現在の御社殿は約250年ぶりに改築され、平成27年10月に遷座祭を御奉仕、その後旧御社殿の解体整備工事を終え平成28年6月に竣功祭を斎行した。祭神6柱を併せて富知六所浅間大神と称し、富士山信仰の根幹をなしている神社みたいですね。祭神の中にはあまり聞きなじみのない神格が数柱ありますが、いづれも表記などから水神ではないかとされています。社名は地名から三日市浅間神社とも呼ばれているようで、この名称の方が浸透しているらしいです。創建は四道将軍の時代よりもさらに前とされますが、それが西暦何年にあたるのかは諸説あります。皇紀換算では紀元前474年となりますが、個人的には古墳時代の3~7世紀頃ではないかと思っています。そうだとしても相当に古い社と言う事になりますが・・・!富士山の活動が活発だった9世紀頃には、時の天皇からの奉仕も厚く、富士山を奉斎する5社の浅間神社の筆頭として、国家安泰の祈願が行われる勅願所として機能したようです。斜めから。富士山南麓に広がる岳南地域の総鎮守として、今でも篤い崇敬を集めている当社は、原初の頃から存在したであろう山岳に対する信仰の社でありました。祭神が大山祇神や木花咲耶姫神などに同一視される以前から、山の恵みに感謝し、煌々と吹き出す噴煙に恐れを抱き、山そのものを神として捉えた、そんないにしえの信仰の姿を今に伝えているのではないでしょうか。富士山信仰を語る上では外すことの出来ない古社、それが富知六所浅間神社なんです。今回貰った御朱印です。木彫図案入御朱印切り絵御朱印以上です。
2025年11月10日
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静岡県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:静岡県の仏堂と寺社8世紀701年袋井市:医王山 薬王院 油山寺710~794年浜松市:正楽寺大日堂725年袋井市:法多山 尊永寺733年浜松市:萬松山 龍潭寺 浜松市:萬松山 龍潭寺 浜名湖北部の山間部に境内を置く大古刹9世紀806~809年浜松市:光岩山 長楽寺810年浜松市:秋葉山 舘山寺13世紀1293年富士宮市:富士山 法華本門寺根源14世紀1371年浜松市:深奥山 方廣寺15世紀15世紀初頭森町:龍渓山 雲林寺1401年袋井市:萬松山 可睡斎1411年森町:橘谷山 大洞院1428年浜松市:廣澤山 普済寺 浜松市:廣澤山 普済寺 東海道の禅の名刹 白亜の大堂 普済寺浜松市:髙松山 西来院16世紀1517年菊川市:国源山 正林寺1529年静岡市:湘海山 大雲寺1582年以前浜松市:浩徳山 妙雲寺年代不明掛川市:長松山 龍華院以上です。
2025年11月10日
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静岡県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク静岡県神社庁静岡県神社一覧wiki 府県社 / 静岡県の旧県社wiki 郷社 / 静岡県の旧郷社wiki 村社 / 静岡県の旧村社静岡県の神社の旧社格官国幣社別格官幣社静岡市:久能山東照宮官幣大社富士宮市:富士山本宮浅間大社 富士宮市:富士山本宮浅間大社 天衝く美峰奉斎するかみやしろ三島市:三嶋大社官幣中社浜松市:井伊谷宮国幣小社静岡市:静岡浅間神社森町:小國神社諸社県社磐田市:鎌田神明宮磐田市:府八幡宮磐田市:矢奈比賣神社御前崎市:白羽神社掛川市:事任八幡宮掛川市:三熊野神社小山町:冨士浅間神社静岡市:御穂神社静岡市:草薙神社浜松市:曾許乃御立神社浜松市:五社神社 / 諏訪神社 浜松市:五社神社 / 諏訪神社 浜松の産土神となった2つの古社富士宮市:村山浅間神社森町:天宮神社焼津市:焼津神社郷社磐田市:鹿苑神社磐田市:天御子神社御殿場市:一幣司浅間神社御前崎市:池宮神社掛川市:矢柄神社静岡市:伊河麻神社静岡市:豊積神社静岡市:豐由氣神社静岡市:酒瓶神社裾野市:須山浅間神社浜松市:渭伊神社浜松市:浜松秋葉神社浜松市:浜松八幡宮袋井市:赤尾渋垂郡辺神社袋井市:冨士浅間宮富士市:富知六所浅間神社 富士市:富知六所浅間神社 上古からの信仰の社、岳南の浅間神社村社御殿場市:新橋浅間神社御殿場市:駒門浅間神社浜松市:二宮神社浜松市:井伊谷白山神社浜松市:太刀山愛宕神社浜松市:日枝神社富士宮市:山宮浅間神社 富士宮市:山宮浅間神社 富士山遥拝の古浅間社三島市:若宮神社三島市:浅間神社三島市:芝岡神社護国神社静岡市:静岡縣護國神社社格不明御前崎市:駒形神社菊川市:大頭龍神社静岡市:用宗浅間神社浜松市:井伊谷秋葉神社浜松市:元城町東照宮三島市:廣瀬神社以上です。
2025年11月10日
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茨城県龍ヶ崎市の中ほどに”女化”という変わった地名があります。こうした地名には決まって元となる伝説や民話があるものです。女化の場合は、鶴の恩返しの様な”異類婚姻譚”かつ”見るなのタブー(禁室型)”に属する民話に基づいて付けられた地名だそうです。その民話の舞台となったのが、今回紹介する女化神社です。女化神社牛久の街なかから女化神社の北側を抜けるように伸びる女化街道。その道のからも境内に入れるんですが、せっかくなので表参道から参拝してみます。樹々に囲まれた参道を進んでいくと、三之鳥居と社号標が建っていました。社号標には女化稲荷神社と刻まれています。神社が創建されてからいろいろと神社名が変わってきたようですが、稲荷神社という呼称はより古く、その次に保食神社、神仏分離後は女化神社という風に変化していったみたいです。鳥居をくぐり、またくぐり、更にくぐると社殿が見えてきました。所々に金縁の装飾も成されてあり、全体的に荘厳な雰囲気が漂っています。社殿の前の狛狐には、民話になぞらえてか、三匹の子狐が寄り添っています。それでは地名の元となった民話と神社の由緒を見てみましょう。與福惣社 女化神社祭神:保食命大祭:旧暦2月初午女化稻荷緣起 昔、建久の頃、源頼朝公が富士の裾野に狩に行った時、夢の中に霊狐が現れ、「私は長い間この野原に棲んでいるが狩で命が危ない。願わくは命を助けて下さい。」と言って消えてしまった。翌日仮屋の頼朝公の前に白狐が現れ、非常に哀れな様子で首を垂れていたので、頼朝公が「ここから東にある常陸の国の高見が原という広い野原に稲荷の祠があるという。ここに移り棲め。」と言われた。 時が移って永正6年(1509年)。常陸の国 根本村に忠五郎という律義者がいて農業の合間に筳を織って商いをしていた。ある日土浦に商いに行って帰る途中、夕暮れ時に高見が原を通りかかった時一人の猟師が寝込んでいた白狐を弓矢で射ろうとしているのを見て、かわいそうと思い咳を1つした所、狐は驚き目覚めて草むらに逃げ去った。猟師はものすごく憤り咎めたところ忠五郎は筳を売った代価を差出し、ひたすらにその罪を謝り夜8時頃家に戻った。家に帰って柴の折戸を開けようとした時、側に老いた男と若い女が佇んでいたので、何処の者かと問尋ねた所、「我等は奥州の者で鎌倉に行く旅の途中です。今この家に泊めて下さいとお願いしたのですが、主人が留守だということでおばあさんから断られたのでどうすることも出来なくここにいました。」と答えた。 忠五郎は生来慈悲深くこの様子を見て非常に憐れみ一夜の宿を貸した。夜が明けて女だけが居るのでいぶかしく思い聞きただした。女は涙ながらに言うには「私は奥州の信夫の郷の者ですが、幼い頃父母を亡くし譜代の使用人に育てられ今年21歳になります。家が貧しいので一族を頼って鎌倉に行く途中でこの始末です。」 その後あの老僕がいなくなり、捜したがついに見つからなかった。女は毎日まめまめしく耕作など手伝いをしながら日を送り、いつか早三ヶ月ほども経った。里の人達がこの様子を知っていて、心も顔立ちも美しいので忠五郎の妻にどうかと老母にも勧め結婚させた。女は貞淑誠実で仕事に励み家業に大きく貢献し家運も大いに揚がった。夫婦仲も良く8年の間に一女二男をもうけた。 永正14年(1517年)仲秋のある時、末の子に乳を飲ませていた時、子供と一緒に眠気を催したが秋風が身にしみるので目覚め、乱れ咲く白菊を茫然と眺めていたところ、遊びから帰って来た長子がこの姿を見て自分の母親が狐だったのに驚き泣き叫んだ。自分の正体を子供に知られたのを恥じて歌を一首書き残していなくなった。みどり子の 母はと問はばをなばけの 原になく泣く ふすと答へよ ついに母親を再び見つけることができなかった。忠五郎はこれを知り非常に悲しみ嘆き、3人の子供を連れ跡を追ったが忠五郎の徳に恩義に感じて霊孤が若い女性に化けて恩に報いたこの神秘を語り伝えて人呼んで「女化原」といい、「女化稲荷」と称するようになった。神社由緒書き より引用男に命を助けられた白狐が、女に化けて男の恩に報います。3人の子供に恵まれ、親子仲睦まじい幸せな日々を過ごしますが、秋のある日にふと気が抜けて正体を見破られてしまいます。そのまま狐は”をなばけの原”に身を隠してしまうんですが、これが現在の奥の院だそうです。神社からも近いので、後から見にいってみましょう。拝殿には豪華に木彫装飾がなされた扁額が懸かります。額面には女化神社。そして本殿。大きな覆堂に囲われていますが、その訳はこの造詣の見事さからでしょう。これでもかと精密な彫り込みの木彫装飾がしてあります。相当に崇敬を集めていた様ですねぇ!斜めから。ひとまず社殿の方はここまでにして、周辺の祠と奥之宮を見てみましょう。本殿左奥には祠が置かれており、その中には3つの小祠が輪座しています。それぞれ祭神は不明ですが、おそらく全て稲荷ではないかと思っています。本殿の後ろには幣が置かれた石祠があります。これは何なんでしょうか?茨城の友人と共にかつての本殿ではないか、いやただの末社だろう、狐の夫の墓ではないか、などなど語ったんですが、結局のところ何なのかは不明です・・・。境内から女化街道に出ました。遠くを眺めていると、奥の方に鳥居らしきものが・・・!あれが奥之宮ではないでしょうか。茨城の友人と共に鳥居まで歩きました。僕が「結構遠いじゃないか、車で行ってはどうか」と愚痴ると、友人は「なに、これも趣があってよろしい」と答えます。こんな風にああでもない、こうでもないと言いあっていると、いつの間にか鳥居の前に着いていました。・・・そんなくらいの距離となっています。鳥居の奥には社は無く、ただただ林が広がるのみです。所々に鳥居なども見えますが、祠的なものは1つもありません。ここが"をなばけの原"でしょうか。林の奥の方に向けて狛狐が置かれています。白狐は最後の時まで、この林で過ごしたのでしょうか。家族の元を去った白狐、彼女の悲しみと後悔を表すかのように、冷たい秋風がさびしい音を立てて吹きすさんでいました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月05日
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奥州三十三観音霊場は基本的に古刹が多く、山上に境内を構える大堂から地域に守られて来た小堂まで様々な観音堂が札所となっています。その中でも特に、今回紹介する観音堂は最小の仏堂と言えるものです。民家の一画にポツンと観音堂が建っており、その中に何処よりか流れ着いた千手観音が収められており、五番札所の本尊となっているのです。2025.3.22奥州三十三観音霊場五番札所:名取千手観音堂神社の境内によくある摂末社の祠くらいの大きさです。一間四面よりも遥かに小さく、所々色がすすけたりしていますが、その佇まいは堂々としています。ご由緒です。名取千手観音堂無宗派本尊:千手観音一家の護持仏として、代々守られ、受け継がれてきた、謎多き千手観音様。 古来より、国道4号線の旧増田町本町に所在していたが、平成15年に名取市役所通りに所有者の移転により移転した。玄関先の庭に祀られている。 1m四面の観音堂は昭和7年(1933年)に改築された。以前は一間四面であった。 御本尊の千手観音は厨子に納められていて、高さ60cm程の立像で、寄木造り漆乾仕上げの目鼻立ちの整った観音様である。由緒・沿革・作者・制作年代は不明。旧所在地では、「上増田村に鬼越山 東光院というお寺の末寺で宝鏡院があり、そこに所在した観音様が名取千手観音堂か」と言われている。 ご詠歌の作者は、衣川の館主 安倍頼時六男の安倍重任であるから、かなり古くからのものである。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 32~35ページ より引用ご由緒を見る限り、鬼越山 東光院の末寺、宝鏡院に置かれていた観音像みたいですね。今では廃寺となっているのか痕跡さえ見つけられません。現在観音像を護持している佐藤家は、もしかすると宝鏡院ゆかりの家系なのかもしれませんね。廃寺に伴って引き継いだものと思われます。御詠歌に関しても、詠み手は俘囚の長として名高い安倍頼時の六男 安倍重任です。11世紀ころの人物でしょうか、奥州三十三観音霊場が開創された年代よりも以前に活躍したようです。安倍重任の詳しい事蹟などは残っていないんですが、この様に御詠歌に名が残っているということは、それなりの勢力であったのではないでしょうか。本尊の千手観音像はこんな感じです。御朱印に付いてくる御影にて確認できます。観音堂手前のポストに御朱印が入っていますので、各自お金を納めていただきましょう。斜めから。古くからあったということしか分かっていない名取の千手観音堂。おそらく奥州三十三観音霊場が開創される以前から、脈々と受け継がれて来た古仏なのではないでしょうか。思いを馳せる事しか、今は出来ないのです。観音堂はかつての奥州街道のその脇に、姿を変えつつ今でも建っているのです。御詠歌消えぬ月 罪もそれそと今熊野 大悲往古の 朝霞かなきえぬつき つみもそれそといまぐまの だいひおうこの あさかすみかな本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・六番札所:松島青龍山 瑞巌円福禅寺 三聖堂 遥かな旅の末、松島に往した聖観音
2025年11月03日
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