全37件 (37件中 1-37件目)
1

黒石と言えば古い町並みが残る”こみせ通り”が有名ですが、その東側の通りから黒石城跡の方に向かうと、丁度坂を上り切ったところに鳥居が建っています。ここが黒石神社の入口です。名前から分かる通り当神社は黒石の町と関りが深い神社で、津軽氏の分家である黒石氏(黒石津軽氏)の家祖 津軽信英公を祭神として祀ります。それでは見てみましょう。2024.11.10黒石神社鳥居を抜け参道を進むと、立派な神門が構えてあります。これはもともと黒石陣屋(今の御幸公園)にあったもので、明治12年(1879年)に移築されました。黒石陣屋唯一の遺構であり、貴重なため市指定有形文化財になっています。神門をくぐると、入母屋屋根の社殿が見えてきました。当地ではよく見られる造りです。参道左手には手水舎と共に柳の巨木。拝殿です。屋根の頂部には黒石氏の旗印である”黻”という紋があしらわれています。この紋には”悪しきに背き善に向かう”という意味があるそうですよ。御由緒です。黒石神社祭神:津軽十郎左衛門信英公(黒石氏初代)例祭日:7月22日 津軽十郎左衛門信英公は、津軽氏二代信枚公の次男で津軽氏初代為信公の孫に当たり、元和6年(1620年)10月5日江戸に生れる。初め幕府の小姓組番士として出仕し、のち江戸西丸書院番、駿府在番などを勤めた。明暦2年(1656年)津軽氏四代信政公より黒石・平内・上州勢多郡等計5000石を分知され同時に陣屋を建て町割りを行い、黒石藩の基を築いた。 信英公は、幼少より文武に励み、特に当代第一流の軍学者 山鹿素行の高弟として兵学を、その他武術、文学を各師に学び、他に遊戯諸芸をも学ばれ、その人となり温良慈仁にして良政をしかれ、その学識と執政は諸大名の間にも高く評価された。 明治維新後、旧士族は藩祖信英公の御遺徳を追感欽慕し、明治12年(1879年)神祭願いを県令に提出、官許を得て郷社に列せられ、更に明治15年県社に昇格したが、戦後社格は廃止された。 氏子はなく崇敬会を以て神社維持運営し今日に至る。神社探訪・狛犬見聞録 / 黒石神社 より引用黒石氏初代信英公を祀る神社でした。ちなみに現在の宮司は黒石氏の末裔らしく、姓は津軽だそう。子孫がまさか自分の廟を守ることになるとは、信英公さえ考えてもいなかったでしょうね。何気に蟇股部分には黒石氏の家紋”五葉牡丹”が刻まれていました。ちなみに津軽氏のものは七葉となっています。扁額も美筆です。こちらの説明書きには社宝が列挙されています。※文化財名をクリックすると、黒石市の文化財のサイトに飛びます。黒石神社境内にある文化財県重宝●金梨子地牡丹紋散蒔绘衛府太刀拵:昭和49年10月14日指定 黒石藩四代目藩主・津軽承叙が、明治時代に奉納した御神刀で、金梨子地の鞘に黒石津軽家の家紋が施されている。この太刀は現在、黒石神社の御神刀として大切に保管されている。黒石市指定有形文化財●藩祖信英公書状(二):昭和61年8月7日指定 明曆2年(1656年)、江戸に住んでいた黒石領初代領主・ 津軽信英が、弘前藩家老・津軽百助に宛てた親書で、政務に関する事項が記されている。明治12年(1879年)、黒石藩家老・境形右衛門の子孫である貞太郎が黒石神社に奉納した。●御神刀:平成12年3月24日指定 「金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵」に納められている太刀。鎌倉時代中期~後期と言われ、作者は平安時代の刀工・正恒。●釣燈籠(一对二基):平成12年3月24日指定 江戸時代中期の透六角釣燈籠で、津軽信英の十三回忌にあたる延宝2年(1674年)に家臣の益子彦右衛門と長澤角兵衛が奉納。●石燈籠(二対四基):平成13年12月6日指定 黒石神社の本殿と拝殿の間に設置されている。一対は、延宝2年(1674年)、黒石領二代目領主・津軽信敏が津軽信英の十三回忌に、もう一対は、宝暦11年(1761年)、黒石領五代目領主・津軽著高が、信英の百回忌に奉納したものである。●藩祖信英公頌德碑:平成17年3月14日指定 津軽信英の御廟内に建立された石碑。黒石領三代目領主・津軽政児が、信英の50年忌にあたる正徳元年(1711年)に建立。●津軽信敏建立の石碑:平成17年3月14日指定 黒石領二代目領主・津軽信敏が、津軽信英の死後1年目にあたる寛文3年(1663年)に信英の墓として御廟内に建立。●黒石神社の神門:平成20年5月8日指定 黒石陣屋に置かれていた門で、明治12年(1879年)に現在の場所に移され、黒石神社の神門となった。神門は薬医門形式で建てられており、屋根は切妻・鉄板葺である。黒石陣屋に関係する建造物の中で唯一現存するものであり、貴重である。令和5年3月1日 黒石市教育委員会こちらは本殿。拝殿とは切り離されて建っており、瑞垣で囲われています。この本殿と拝殿の間に、先ほど説明書きに出てきた2対4基の石灯籠が建っています。やはりというか、所々破損していますが、この豪雪地帯でよく数百年ももったなと造りの丈夫さに感心してしまいます。次は黒石神社の境内摂社 東照宮を見ていきましょう。この東照宮の側には古めかしい水盤が屋根付きで置かれています。覆い屋根の柱にはこんな説明書きが・・・。御洗水石 「黒石御墓石盥盤 延宝2年(1674年)9月22日」の刻銘あり、諸臣からの献納と推測される。津軽氏または黒石氏と関係のある人物からの奉納みたいですねぇ。というか17世紀の水盤がこんなにキレイに保たれているのも驚きです。近くには石碑が2基。手前の方は芭蕉句碑で、明治26年3月に東根舎社中による奉納です。碑面には以下の唄が刻まれています。春も稍 けしき調ふ 月と梅芭蕉では東照宮。中くらいの新しい鳥居の奥に、瑞垣に囲われた小祠が見えます。祠はこんな感じ。こちらも新しいですねぇ。境内にあった御由緒書きを見てみましょう。摂社 東照宮祭神主祭神:徳川家康命相殿神:津軽満天姫命 徳川家康公薨去の翌年元和3年(1617年)春、津軽安泰北門鎮護のために津軽氏二代信枚公が徳川氏二代秀忠公の許しを得て、先ず弘前城本丸に家康公を祀る東照宮を創建した。寛永元年(1624年)、城外東方鬼門の方角に当たる土渕川沿いに新たに社殿を建立し奉遷、以降平成の御世に至るまで弘前東照宮として脈々と庶民の信仰を集めてきた。しかし、平成25年(2013年)3月、故ありて弘前東照宮は解散せざるを得なくなった。 当宮の祭祀は、これを受けて御祭神家康命を新たな場所に永久に安んじ奉るべく、この神域に新宮を建立し、平成27年6月16日御霊が奉遷された事を始めとするが、更にこの時、家康公の養女であり、信枚公の正室である満天姫命が合わせて相殿にお祀りされた。これは、満天姫が黒石神社御祭神 津軽信英公の母君であるため父子三代の御霊が仲睦まじくこの神域にお鎮まりになられ、そのご加護とご神徳が広大無辺に垂れ給わんと発願した事による。境内説明書き より引用もとは弘前東照宮として祀られており、社格も県社と高かったようです。最近になって土地関係のトラブルで社殿を売却、本殿のみ県が何とか買い戻したため、旧鎮座地にそのまま置かれている・・・と、いう風に聞いたんですが、実際のところどうだったんでしょうか。解体前の社殿はこちらからご覧になれます。東照宮斜めから。津軽氏と徳川氏のつながりが感じられる東照宮。陸奥新報に面白い記事が有ったので、ページの最後に捺せたいと思います。更に黒石東照宮は今年6月で遷座10周年を迎えたようです。これからも北の地を明るく照らして欲しいと思います。社殿斜めから。黒石氏初代信英公を祭神とする黒石を代表するような神社でした。津軽氏関連の神社としては他に高照神社などがありますが、この様に神葬を採る例は希ではないでしょうか。母の満天姫は、他の藩主と共に禅輪街の奥にある太平山 長勝寺に葬られています(津軽家霊屋の内の明鏡臺)。黒石氏は宗家の津軽氏と同じく東京都台東区の東叡山 寛永寺 津梁院・清瀧山 不動院 常福寺を江戸での菩提寺としていたらしいです。国元においては黒石市:黒梵山 保福寺が菩提寺だったらしく、今でも旧境内に墓が残っているそうです。藩主を神格化し、領地の守護神として置く。このような地域の偉人を祭神とする神社は、明治時代に創建例が多く、ある種のムーブメントであった可能性もあります。当神社もそのような流れの中にあったのかも知れませんね。今回貰った御朱印です。黒石神社摂社:東照宮以上です。付録:陸奥新報:東照宮400年「節目を郷土活性化の出発点に」引用元:陸奥新報 / 社説 / 東照宮400年「節目を郷土活性化の出発点に」東照宮400年「節目を郷土活性化の出発点に」 黒石市にある黒石神社が、弘前東照宮(弘前市)の宗教法人破産を受けて摂社「東照宮」を建立してから間もなく2年。前身は日光東照宮に次ぎ1617年に弘前城内に建てられた東照宮で、そこから数えると今年はちょうど400年に当たる。この節目に古里を振り返ってみたい。郷土愛が膨らむのではないか。 東照宮の歩みが記されている各種資料によると全国に先駆けて弘前城内に東照宮を勧請できたのは満天姫の功績という。満天姫は東照宮に祭られる徳川家康の養女で、弘前藩2代藩主津軽信牧(枚)の正室。そして黒石分知で初代領主に就いた津軽信英の母親。信英を祭る黒石神社は、東照宮建立に際し、満天姫を新たに神格化し相殿神とした。 弘前東照宮の本殿などは国の重要文化財で、宗教法人の破産により弘前市が取得した。ただ政教分離の原則から、本殿内にご神体を安置できなくなった。表現は適切でないかもしれないが、居場所を失ったご神体を黒石神社が受け入れた形である。 これにより弘前東照宮は建物としての価値はあるが、信仰対象としての役目を完全に失った。つまり摂社東照宮こそが、弘前城内にあった東照宮の現在の姿なのだ。しかも同じ神域に家康、満天姫、信英の親子3代が鎮まることで、将軍家と黒石の関係を身近に感じる場となった。社殿は小ぶりだが、見た目で判断できない重みが詰まっている。 満天姫の功績は東照宮勧請だけにとどまらない。津軽家が幕府から命じられた国替えを免れることができたのは、家康の養女の願い出であったためという。もし満天姫が津軽家に嫁いでなければ、この地を「津軽地方」と呼ぶことはなかったかもしれない。満天姫は信英の母であるとともに、現在の津軽地方の母と言っても過言ではない。 一方で弘前藩初代藩主津軽為信に滅ぼされた千徳家の居城があった黒石市浅瀬石地区はちょっと違う。為信が城主千徳政氏の死後も追討をやめなかったため、千徳家の菩(ぼ)提(だい)寺の和尚が抗議し、川に身を投げたといい、この悲劇が津軽じょんから節の起源と伝えられる。落城390年に当たる1987年から、千徳家と和尚を供養する灯籠流しを続けているほか、地区を挙げた防災訓練などにも積極的。住民の結束力がこの地区の強みになっている。滅ぼされたはずの浅瀬石城が、今も息づいているようだ。 津軽家、千徳家の歴史とも諸説が存在するが、黒石よされや旧正マッコ市など、本家弘前をしのぐほどの活気を生み出す力を持っていることや、滅ぼされた側の浅瀬石地区が黒石津軽家に負けじと多彩な取り組みを展開しているのは確か。東照宮400年をきっかけに郷土を再認識し、地域再興を競い合う“平和な戦国時代”につなげたい。
2025年12月31日
コメント(0)

福島県白河市の住宅街の一角に、雨ざらしの古建築がポツンとあります。ほぼ廃墟のような感じなんですが、今でも一応神社として機能しているんじゃないですかねぇ。小峰城作事稲荷神社鳥居や石灯篭の方がまだ状態が良いと思われます。まずは説明書きを見てみましょう。小峰城作事稲荷 初代白河藩主丹羽長重は、寛永6年(1629年)より同9年まで白河小峰城の大改修を行った。城内の三の丸には、作事方役所が置かれ、櫓や門などの建築を担当した。この作事稲荷本殿は作事方役所内に大工・石工達の安全を祈願して祀られていたもので、江戸時代の建造物と推定される。一部火災を受けた痕跡が残される。本町復起会建立時期は不明ながら、江戸時代の初め頃には既にあったようで、そこから遷座して当地に置かれ、今に至ります。火災の跡というか、全体的に傷んでおり、もう骨組みくらいしか残っておりませんが、当時の白河の歴史を学ぶ上では重要な建築物だと思います。以上です。
2025年12月31日
コメント(0)

愛知県の東側、かつて三河と呼ばれた地域のさらに東端、豊川の地に居わすは豊川稲荷。稲荷とは言いますが神社ではなく寺院です。寺の鎮守である荼枳尼天があまりにも崇敬を集めた結果、寺院よりも立派な御堂を構えることに。こんな面白い寺院にはなかなか出会えません。それでは見ていきましょう(今回は相当長い記事になります)!2025.11.22圓福山 妙嚴寺街なかに広大な境内を構える豊川稲荷。周辺の町内は門前街の様相を呈し、そちらも見どころの1つでしょう。狐のおめんや稲荷寿司、きつねそばなど、思わず寄り道してしまいそうな店屋っこが並ぶなか、それには目もくれずズンズンと境内を目指します。長い石塀の脇を進んでいると、立派な総門が見えて来たんです。網が掛かっており見にくいんですが、山門の木彫装飾もすんごいんですよ!門の側に置かれた説明書きも見てみましょう。総門 この総門は当寺の創立から214年後の明暦2年(1656年)に一度改築された。現在の門は明治17年(1884年)4月18日当寺二十九世黙童禅師によって上棟改築されたものである。 門扉及び両袖の扉は1000有余年の樹齢を重ねた高さ4.5m・巾1.8m・厚さ15cmの欅の一枚板で欅独特の如鱗のような木目は類い稀な木材として専門家に知られている。 屋根は銅板鱗葺きで又諸処に使用されている唐金手彫の金具は優れた技法を示している。 頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪ノ和四郎その他名工の合作といわれ参詣の諸人はこの仏様に見守れながら、この門をくぐるのである。それでは境内へ・・・進む前に、境外の堂宇を見に行きましょう。山門前の豊川稲荷表参道を遡ります。商店街の店と店の隙間に小さな門が建っています。奥には幟旗たなびく小路地。・・・この異世界へと続く感じ最高ですよねぇ旗をかき分ける様にして進むと、奥の方にお堂が見えてきました。着きました、薬師堂です。堂内中央には少々黒ずんだ薬師如来像と、それを取り囲む様に置かれた日光・月光菩薩と十二神将。スタンダードな祀り方ですねぇ。本尊の薬師如来は長寿薬師とも称され、ご利益にあやかろうという参拝者が後を断ちません。堂内にて御朱印も頂けました。それでは境内へと進みます。豊川稲荷の境内は広大ですので、一度こちらから概観しておきましょう。今回は最初に荼枳尼天堂、次に本堂、残りを時計回りで見ていきます。参道右側、最初に出会うのがこの鎮守堂。荼枳尼天の他にも鎮守が置かれているとは驚きですが、この堂に祀られるのは曹洞宗では一般的な白山妙理大権現。龍を侍らせ宝珠と剣とを携えた女神の姿をとっています。加賀の霊峰 白山の権現体です。この堂宇の別称 龍天堂もこの像容から来ているのではないでしょうか。鎮守堂の隣には鐘楼堂。こちらは昭和12年に寄進されたもので、総欅材造の秀作です。豊川いなり本堂落慶を祝して建立されました。参道を見てみましょう。この様に鳥居と山門が並び立つ不思議な境内。まずは山門の方から見てみましょうか。山門です。圓福山 妙嚴寺の伽藍の中で最古のものとされており、建立されたのはなんと天文5年(1536年)だそう。寄進者は東海一の弓取りと称された今川義元公。寛政5年(1792年)、昭和29年(1954年)の2度の修理を受けて現在に至ります。山門の先には吉祥殿という事務所があり、そこで御朱印をいただけます。そしてその隣には古態を残す最祥殿という堂宇があります。今でも法務などで利用されているのではないでしょうか。いよいよ豊川いなりを見てみます。へたな神社よりよっぽど立派な鳥居が建っていますねぇ!仏閣内にここまでの規模の鳥居があるのも、相当珍しいですね。二之鳥居をくぐると大本殿はもう目の前です。・・・というかこの造り、善光寺と一緒ではないですかッ!撞木造という特徴的な造りの御堂は、中部地方を中心に全国的に見られるようです。ここもその一つだったんですねぇ。いやもう、うっとりしちゃいますよね、こんな御堂を見ちゃったら。天気も快晴で、こんな参拝日和はそうそうないでしょう。大本殿に到着です。大きさ的には甲斐善光寺と同じくらいでしょうか。さすがに本家本元の善光寺本堂よりは小振りです。建立されたのは昭和5年(1930年)と近代で、それ故か装飾や塗の美しさはこちらの方も負けてはない感じがします。↓に説明書きを載せますね。豊川いなり大本殿 寒巌義尹禅師がご感得、ご自作の端厳妙相をそなえられる豊川吒枳尼真天通称「豊川いなり」のご本体が祀られており、全国幾千万のご信者の信仰の中心でありご祈祷の根本道場である。 御真言は「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」と申しご参詣の人々は、このご眞言を唱えて拝礼しご加護を受けられたい。 当寺二十九、三十、三十一世の三代にわたる大本殿新築の大願は明治、大正、昭和の三世代に跨って信者の信心を凝集して昭和5年(1930年)春竣工し落慶大開帳が行われた。 建物は総欅造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり間口十間七分五厘(19.35m)、高さ百二尺(30.6m)、奥行二十一間四分三厘(38.59m)、丸柱直径八寸(24cm)のもの、直径三尺(90cm)のもの計72本が使われ内部は内陣般若殿・施主殿に区画され、内陣は本尊「豊川吒枳尼真天」が奉祀してありその厨子は、諏訪ノ和四郎の作で屋根の瓦に至るまで朱漆塗りで精巧に彫刻を配し稀に見る巧緻精麗な出来栄えは拝観者の讃嘆するところである。 更に両脇祭壇には伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩、その他貴重な諸仏・諸菩薩の像及び諸仏具等が安置されている。 明治時代に至り有栖川宮家より「豊川閣」の大額が下賜され大本殿内に掲揚されている。当寺を「豊川閣」と呼ぶのは、この因縁によるものである。境内説明書き より引用この大本殿の本尊が豊川吒枳尼真天なんですねぇ。荼枳尼天は、大陸ではシヴァの妃神 カーリー काली の眷属とされているようです。豊穣神として知られていますが、もともとはベンガル地方の土着信仰の神らしく、裸身で空を舞い、人を喰い殺す夜叉のような側面も備えていたみたいです。一説によるとスカベンジャーのジャッカルを神格化したものとも言われ、ジャッカルが生息しない中国に伝わった段階で、かわりに狐と結びつき、現在のような狐に騎乗した姿となったともあります。禅宗の一派、曹洞宗でありながら、このように祈祷がメインとなっているのは、やはり霊験あらたかな豊川吒枳尼真天にあやかろうという強い信仰あってのことだと思われます。それではご由緒です。公式サイトのものですが、まずは豊川荼枳尼天を感得した僧の略歴、次に豊川荼枳尼天の顕現、そしてそれが祀られた経緯の順で書かれています。圓福山 妙嚴寺曹洞宗 廣澤山普済寺末寺開山:東海義易禅師本尊:千手観音寒巌義尹禅師略伝 圓福山妙嚴寺の歴史は寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることはできません。 寒巌禅師は八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。 出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(1234年)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖 道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ10年、御年26歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。 寛元元年(1243年)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長6年(1254年)に帰国された折りには師 道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。 弘長3年(1263年)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永4年(1267年)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。 その後は宇土郷に三日山 如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治2年(1276年)には熊本は釈迦堂村に青堤山 極楽寺を開き、同年5月、自ら筆をとって幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・綠川の難所に大渡橋を約1年半を費やして架設、弘安6年(1283年)その大渡橋畔に大梁山 大慈寺を創建、また弘安7年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。 永仁7年(1299年)83歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安2年(1300年)8月21日、84歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巌禅師のお墓は大慈寺、如来寺および浜松普済寺にあります。豐川吒枳尼眞天の由来寒巌禅師は700余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて2度までも宋国(中国)へ渡られました。 その2度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶 このでき事に深く感激された寒巌禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。 その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巌禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巌禅師御自作の豐川吒枳尼眞天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元年(1441年)旧暦11月22日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。 時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は当山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い二十八世霊龍禅師およびそのお弟子 二十九世黙童禅師の善処によって寒巌禅師の勝躅を護持し、豐川吒枳尼眞天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。 以後は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。 また、明治時代には有栖川宮家より『豐川閣』の大額が下賜されて以来、当山は『豐川閣(とよかわかく)』という呼称でも広く知られることとなりました。平八郎稲荷の伝説 豐川吒枳尼眞天を豊川稲荷と称する因縁は冒頭でご説明した通りです。「いなり」とは「イナノリ」の音便で、ノリは実登の義で、豊年を意味して稲荷と書くわけです。また、豐川吒枳尼眞天は世に「平八郎稲荷」とも称せられています。以下にその理由を御紹介しましょう。 東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、1人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。 老翁は1つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾10人幾100人を展待するのにもこの不思議な釜1つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。 そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って「私には301の眷属がありますので、どんな事でもできないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。 この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。 この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。この平八郎稲荷と301の眷属に対しては、年2度の大祭の時、儀式中に眷属供養の厳粛な秘法加行を伝承的に執行しております。宗教法人妙嚴寺 豊川稲荷 / 豊川稲荷について より引用皇族出身の僧 寒巌義尹禅師が2度目の渡唐の帰路、海上にて感得したのが豊川荼枳尼天。これが後に圓福山 妙嚴寺の開山僧 東海義易禅師によって鎮守として祀られ、今のような形になったんですね。神仏分離の嵐にも耐え、寺院と別れることなく、今の今まで続いているのは本当にすごいことだと思います。当時の檀家や住職が如何に苦心したのかが伝わってきますねぇ。大本殿の天井には大提灯。稲荷の宝珠が染め抜かれています。大本殿から右手に進んでみましょう。この辺りは広場の様になっており、本堂や三重塔、奥之院への参道などが伸びています。この広場を基点として、各堂宇をぐるりと一回りすることができ、本当であれば奥之院~霊狐塚~本堂とまわるのが良いんでしょうが、今回は逆回りで行きたいと思います。まずは三重塔から。そこまで大きくはありませんが、それでも造詣がすばらしく、存在感のある堂宇です。三重塔から左を向くと法堂(本堂)があります。俗に言う金堂であり、妙嚴寺の根本とも言える堂宇です。当然本尊もここに祀られております。かなり新しい印象の外観ですが、これは最近になって建替えられたもの。以前の法堂は、山門に次ぐ古さの堂宇で、天保年間(1831~1845年)に建てられたものだったとか。さらに本尊に関しても、今は巨大な千手観音が収められており、以前の本尊は胎内仏となっているようなんです。かなりの後援がなければ、ここまで伽藍を整えることは出来ませんよね。本当に崇敬篤い寺院です。・・・というか、本尊、千手観音だったんですねぇ。曹洞宗は通常釈迦如来を本尊としますが、そうでないところは地域問わず存在します。そのような寺院はもともとは違う宗派だった場合が多く、その時の本尊を曹洞宗に改められてからも祀っているため、本尊が釈迦如来ではないという状態になるのです。どういう来歴なのかにもよりますが、そうした寺院は古刹の場合が多く、古刹かどうかを見分ける1つの基準とも言えそうです。向拝支柱の龍の彫り物は最高にクールです。左右で昇り龍・降り龍となっています。扁額には正式名称の妙嚴禅寺という4字が刻まれています。それでは法堂から右手へと進んでみましょう。法堂と同じくらい巨大なこの堂宇は万燈堂。文久3年(1863年)の建立で、内部には豊臣秀吉の念持仏と伝わる不動明王・文殊菩薩が収められています。この不動明王は、東海三十六不動尊霊場の十七番札所 札所本尊として知られています。万燈堂の隣には宇賀神堂という小堂があり、祭神はそのまま宇賀神です。堂内には宇賀神以外にも、摩利支天や菅原道真公などいろいろと祀られておりました。更に隣には弘法堂。名前からして弘法大師を本尊とした御堂でしょう。大本殿の落慶と同年の昭和5年(1930年)に立替えられました。更に隣には、白い蔵のような御堂があります。こちらは大黒堂で、お堂の手前には2体の”おさすり大黒天”が置かれています。堂内奥には古めかしい大黒天像が安置されています。こちらの由緒も知りたいところ。大黒堂の右手には、霊狐塚と刻まれた巨大な石碑があり、ここから豊川稲荷の有名スポットに向かうことができます。参道には鳥居が建ち、ちょっとした神社感があります。参道の両側にはおびただしい数の幟と狐の像。何とも風情ある光景か、まるで伏見にでも来たかのようです(※行ったことは無い)。石垣の先に小さな石祠が建っています。もうこの辺から狐密度がかなり高くなってきます。巨岩の上に飛翔態の狐が!真っ赤なべべをさげているのも可愛らしいです。東京の根津神社の境内社にも似たようなものが有りましたよね?そんで、ドン!霊狐塚!中央の石祠は使用されなくなった狐像を弔うためのものだったそうです。それがいつしか諸願成就の御礼として像を奉納するようになり、像が増えに増え、今の状態になったんだとか。反対側にもズラーッ!と狐、狐、狐。一体何体あるんですかね?これ。次は奥之院を目指します。こっちの参道には鳥居の奉納が多いですねぇ。奥之院に向かう途中にあるのが天龍白大大神という龍神を祀る社です。この神格がどのような神格かは不明ですが、社に入れない・奥之院の後ろにあることからも、当寺院において重要な神格なのではないかと思われます。個人的な推測では、当地の地主神だったんではないかと考えています。境内安堵のために篤く祀っているのでは・・・とか、妄想しつつ先を急ぎます。奥之院に到着です。向かって左側の杉林の先にあるのが奥之院。向かって右側にある六角堂は、現在は納符堂として使われているんだとか。奥之院手前に鳥居は無く、代わりに杉の木に注連縄を懸けていました。奥之院です。この社殿はかつての鎮守社(豊川吒枳尼真天を祀る堂)の拝殿であり、現在の大本殿建立後に奥之院の拝殿として移築されました。建立自体は文化11年(1814年)、境内の他の堂宇も手掛けた諏訪ノ和四郎の作となります。・・・ということは、先ほどの天龍白大大神の社は、奥之院の本殿ということになるんでしょうか?公式サイトにも特に奥之院の来歴は無く、どのような役割の堂宇なのかは不明です。奥之院建立の棟梁 諏訪ノ和四郎が手掛けた彫刻は最高です光背の梁の部分には波間の龍。これが左右に施されています。反対側です。しっかり阿吽の形で刻まれており、見応えすんごいっす!斜めから。杉林に隠れるように建つ奥之院、是非とも彫刻類をじっくりご覧ください!奥之院を後にして、最初の広場へと戻ります。その途中にあるのが景雲門。本来であればこちらから奥之院を参拝するのが良いんではないでしょうか。この門、来歴が面白いんです。実はこちらの景雲門、元は奥之院の拝殿だったそうです。安政5年(1858年)に諏訪ノ和四郎によって建立された社殿で、昭和5年(1930年)の大本殿落慶の折に現在地に移され、門として改築されたようです。社が門としてリノベーションされている例は初めて見ました。そんなことも有るんですねぇ。・・・ということは、前の大本殿が現在の奥之院となり、前の奥之院は現在の随神門(景雲門)になっているという、複雑な状況ということでしょうか。諏訪ノ和四郎が手掛けた云々・・・最高ですよ、ホント!胎内巡りのように境内をまわり、無事にもとの広場へと戻ってきました。ここから眺める大本殿もなかなかに味わい深いです。三重塔も相まって、かなり風情ある景色が拝めました。豊川いなりをじっくりと味わった後は、本当の意味の”豊川いなり”を味わいましょう。境内の店屋っこで甘酒と共に五目の稲荷を購入。こうした食事も巡礼の”醍醐味”です。斜めから。本日は御日柄も良く、まさに参拝日和でした。天気が良いと丁度いい塩梅で伽藍が照らされて楽しく撮影できますねぇ本当に思う存分、”豊川いなり”を味わえました。今回貰った御朱印です。鎮守:豐川吒枳尼眞天本尊:千手観音法堂落慶切り絵御朱印公式サイトへのリンクです。・宗教法人妙嚴寺 豊川稲荷以上です。
2025年12月31日
コメント(0)

これまでまわった寺院を現行の宗派ごとにまとめてみました。本末関係が分かる場合はそちらも併せて載せたいと思います。本末関係といっても使用する資料は古めであり、現在の状態を必ずしも反映できているわけではありませんので、あくまでも参考までにご覧ください。それでも寺院間の関係性が見えて来て面白いのではないでしょうか※記事を書いたものから順次載せていきます。まわったけれども記事を書いていない寺院は載らない場合があります。各宗派の総本山・大本山は参拝できていないものには未と付いています。・・・というか殆どまわれていないので、未がついていないものの方が少ないですが。下に列挙している宗派も、主に東日本と関係があるものが殆どで、京都などに勢力を持つものは、もしも参拝出来たら順次載せていきたいと思います。・の下に一段落下がって付いている”・末寺”と書かれたものが末寺と堂宇です。諸寺院には総本山から直接本末関係を辿れない寺院などをまとめています。基本的に●のついている寺院(総本山から本山まで)は写真を付けたいと思っていますが、それ以外の寺院でもあまりにもお気に入り・素晴らしいものは写真付きで載せたいと思います。その辺の基準は僕がどれだけ贔屓しているかによります2026.1.1特に旧南部藩領の寺院に関しては↓の資料を基にしています。こちらの出版年自体が1973年と結構昔で、現在の状況とは食い違っている部分もあると思われますが、あくまでも参考ということで・・・。藩内のほぼ全ての寺院(18世紀までに創建されたもの)が列挙されており、かなり助かりました。種本の著者である故 横川良助氏、編纂に携わった全ての方に感謝を捧げます。●岩手史叢 第1巻 / 奥南旧記抜萃 / 寺社修験本末支配之記著者:岩手県立図書館 編出版者:岩手県文化財愛護協会出版年月日:1973年各宗派の本山と末寺 平安仏教編天台宗(山門派)総本山●滋賀県大津市:比叡山 延暦寺 未末寺:青森県中里町:高野山 般若寺末寺:青森県弘前市:巌鬼山 叡平寺 薬王院 六十番札所:巌鬼山 叡平寺 薬王院 弘前東照宮別当天台宗薬王院末寺:岩手県奥州市:妙見山 黒石寺 二十五番札所:妙見山 黒石寺 釈迦観音堂 山麓に大伽藍構える大古刹末寺:福島県会津美里町:醫徳山 千壽院 藥師寺 三十三番札所:醫徳山 千壽院 藥師寺 田園地帯に境内を構える古薬師と不動尊末寺:福島県本宮市:和田山 常光院 岩角寺大本山●岩手県平泉町:関山 中尊寺特別霊場之一:関山 中尊寺 ①中心堂宇 天台宗東北大本山冠する名刹特別霊場之一:関山 中尊寺 ②周辺堂宇 天台宗東北大本山冠する名刹本堂金色堂●栃木県日光市:日光山 輪王寺 日光市:日光山 輪王寺 日光の霊地に建つ古刹別院:栃木県日光市:日光山 輪王寺別院 中禅寺 十八番札所:日光山 輪王寺別院 中禅寺 歌ヶ浜の立木観音末寺:栃木県宇都宮市:天開山 浄土院 大谷寺 十九番札所:天開山 浄土院 大谷寺 大谷寺の磨崖の千手観音●東京都台東区:東叡山 円頓止観院 寛永寺堂宇:清水観音堂 六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂 江戸は上野の清水寺塔頭:東叡山 浄名院 六番札所②:東叡山 浄名院 幾千も上野に集いし地蔵尊●長野県長野市:定額山 善光寺 大勧進別格本山●岩手巻平泉町:医王山 毛越寺●宮城県気仙沼市:海岸山 観音寺 ●長野県上田市:金剛山 照明院 常楽寺 上田市:金剛山 照明院 常楽寺 別所温泉の地に建つ天台教学の古道場●長野県駒ヶ根市:寶積山 光前寺 本堂早太郎像諸寺院青森県平川市:猿賀山 長命院 神宮寺 平川市:猿賀山 長命院 神宮寺 猿賀の深沙大権現守護する古刹青森県平川市:猿賀山 蓮乗院青森県弘前市:一輪山 桂光院 報恩寺末寺?:青森県平川市:朝日山 浄土寺末寺:青森県弘前市:那智山 袋宮寺 四十八番札所:那智山 袋宮寺 弘前市内見守る大仏像岩手県一関市:東光山 観福寺岩手県岩手町:北上山 正覚院 三十二番札所:北上山 正覚院 大河の一滴を生む観音堂岩手県二戸市:八葉山 天台寺 三十三番札所:八葉山 天台寺 みちのくの果て、御山に居わす観世音岩手県平泉町:神鏡山 達谷西光寺 二十三番札所:神鏡山 達谷西光寺 蝦夷と朝廷の激突の地、窟谷の毘沙門天と姫待不動金堂毘沙門堂秋田県秋田市:湯殿山 多聞院宮城県登米市:大嶽山 興福寺宮城県涌谷町:無夷山 箟峯寺 九番札所:無夷山 箟峯寺 観音堂 山上の一大霊場、箟岳の大悲殿山形県天童市:鈴立山 若松寺 一番札所:鈴立山 若松寺 霧立ち込める山の頂に建つ観音堂山形県山形市:上埜山 大樹院 四番札所:上埜山 大樹院 龍を従えた雷不動、雨を呼ぶ福島県会津美里町:雷電山 妙行院 法用寺 二十九番札所:雷電山 妙行院 法用寺 観音堂 風雅な地名に境内構える大古刹福島県須賀川市:古寺山 瑞雲院 白山寺 十二番札所:古寺山観音堂(古寺山 瑞雲院 白山寺) 古色蒼然たる山の鎮守と観音堂茨城県大子町:八溝山 日輪寺二十一番札所:八溝山 日輪寺 陸奥と坂東に横たわる名山の寺院二十四番札所:八溝山 日輪寺 観音堂(八溝山観音堂) 八溝の山照す、日輪の観音堂弁財天:八溝山 日輪寺 佐竹氏と八溝山千葉県成田市:滑河山 龍正院 二十八番札所:滑河山 龍正院 祈りの末に授けられた十一面観音東京都台東区:江北山 宝聚院 清水寺 二番札所:江北山 宝聚院 清水寺 合羽橋の千手観音、白亜の清水寺東京都目黒区:泰叡山 護国院 瀧泉寺東京都文京区:柳井堂 心城院 七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院東京都文京区:南縁山 正徳院 圓乗寺神奈川県平塚市:金目山 光明寺天台法流山形県天童市:高瀧山 光明院 三番札所:高瀧山 光明院 出羽の奥地、高瀧山の不動尊天台寺門宗総本山●滋賀県大津市:長等山 園城寺 未諸寺院宮城県登米市:遮那山 長谷寺東寺真言宗総本山●京都府京都市:八幡山 秘密伝法院 教王護国寺 未大本山●滋賀県大津市:石光山 石山寺 未高野山真言宗総本山●和歌山県高野町:高野山 金剛峯寺 未大本山●和歌山県高野町:高野山 寳壽院 未別格本山●静岡県袋井市:法多山 尊永寺 準別格本山●青森県青森市:浅虫高野山 陸奥護国寺 十八番札所:浅虫高野山 陸奥護国寺 陸奥湾見おろす御山の弘法大師●東京都中央区:新高野山 大安楽寺 五番札所:新高野山 大安楽寺 処刑場供養の大師堂諸寺院青森県大鰐町:神岡山 大圓寺青森県つがる市:西の高野山 弘法寺青森県弘前市:弘前高野山 法光院 三番札所:弘前高野山 法光院 津軽弘前の高野山青森県弘前市:鷹揚山 不動寺四番札所:鷹揚山 不動寺 弘前奥の祈祷寺院毘沙門天:鷹揚山 不動寺 弘前郊外に鎮まる毘沙門天東京都江東区:大栄山 金剛神院 永代寺 六番札所①:大栄山 金剛神院 永代寺 今は無き深川の地蔵尊東京都港区:高野山東京別院神奈川県伊勢原市:日向山 霊山寺 宝城坊真言宗善通寺派総本山●香川県善通寺市:屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 未大本山●京都府京都市:牛皮山 隨心院 未●香川県三豊市:劍五山 千手院 彌谷寺 未●佐賀県基山町:仁王利剣山 華厳院 吉祥寺 未真言宗醍醐派総本山●京都府京都市:笠取山 醍醐寺 未大本山●京都府京都市:三宝院 未●奈良県御所市:金剛山 転法輪寺 未●奈良県天川村:大峯山 龍泉寺 未●広島県尾道市:摩尼山 総持院 西國寺 未●香川県丸亀市:妙智山 正覚院 観音寺 未●香川県多度津町:桑多山 明王院 道隆寺 未別格本山●東京都品川区:海照山 普門院 品川寺三十一番札所:海照山 普門院 品川寺 商店街のなかの古刹一番札所:海照山 普門院 品川寺 最大最初の地蔵尊東海道の出入口に建つ金銅丈六の地蔵尊本堂諸寺院青森県板柳町:大峰山 蓮正院十四番札所:大峰山 蓮正院 板柳の石野村に拓かれた修験道場弁財天:大峰山 蓮正院 津軽は石野の弁財天青森県黒石町:愛宕山 地蔵院青森県弘前市:行峯山 覺應院青森県弘前市:北門山 大王寺 二番札所:北門山 大王寺 飲み屋街の一角にある元修験の寺青森県深浦町:春光山 円覚寺十番札所:春光山 円覚寺 津軽の湊守りし大寺院十二番札所:春光山 円覚寺 湊町に座す元修験の古刹津軽龍神霊場:春光山 円覚寺 船乗り照す龍神の大杉末寺:青森県深浦町:見入山 大悲閣 九番札所:見入山 大悲閣 津軽一の懸造観音堂真言宗御室派総本山●京都府京都市:大内山 仁和寺 未大本山●大阪府河内長野市:天野山 金剛寺 未●広島県廿日市市:多喜山 大聖院 水精寺 未別格本山●宮城県仙台市:恵澤山 龍寶寺 未諸寺院神奈川県横浜市:三療山 醫王院 薬王寺真言宗大覚寺派大本山●京都府京都市:旧嵯峨御所大覚寺門跡(嵯峨山 大覚寺) 未準大本山●神奈川県伊勢原市:雨降山 大山寺 諸寺院神奈川県座間市:妙法山 星谷寺 八番札所:妙法山 星谷寺 座間入谷に境内を構える古刹真言宗泉涌寺派総本山●京都府京都市:泉山 泉涌寺 未大本山●大阪府大阪市:紫金山 小松院 法樂寺 未●広島県尾道市:轉法輪山 大乘院 淨土寺 未真言宗山階派大本山●京都府京都市:亀甲山 勧修寺 未諸寺院青森県浪岡町:元城山 照法寺十五番札所:元城山 照法寺 新城跡に鎮座する修験の寺院津軽龍神霊場:元城山 照法寺 新城鎮座の白龍大権現真言宗国分寺派大本山●大阪府大阪市:護国山 金剛院 国分寺 未諸寺院青森県五所川原市:成田山 大善院青森県平川市:赤倉山 金剛寺真言宗智山派総本山●京都府京都市:五百佛山 根来寺 智積院 未末寺:岩手県奥州市:如意山 眞行寺 三十一番札所:如意山 眞行寺 観音堂 疫病沈消の不動明王と京都伝来の千手観音末寺:岩手県北上市:上台山 安楽寺 三番札所:上台山 安楽寺 国見山 極楽寺の塔頭の裔、安楽寺末寺:岩手県花泉町:東光山 醫王寺 二十八番札所:東光山 醫王寺 岩手最南端の薬師霊場末寺:長野県上田市:獨鈷山 前山寺大本山●千葉県成田市:成田山 金剛王院 神護新勝寺 未分院:青森県青森市:成田山 青森寺十七番札所:成田山 青森寺 青森市街の成田不動尊十七番札所:成田山 青森寺 青森の名を冠する成田不動の寺院末寺:青森県弘前市:成田山 弘前寺●東京都八王子市:高尾山 薬王院 有喜寺 本堂飯綱権現堂●神奈川県川崎市:金剛山 金乗院 平間寺 未別格本山(旧含む)●福島県いわき市:水晶山 玉蔵院 常福寺 三十六番札所:水晶山 玉蔵院 常福寺 神水湧く山の不動尊本堂多宝塔●栃木県栃木市:出流山 満願寺 十七番札所:出流山 満願寺 幾千年の時を経て形作られた十一面観音本堂奥之院●愛知県名古屋市:北野山 真福寺 寶生院 名古屋市:北野山 真福寺 寶生院 商店街の先の大観音諸寺院青森県碇ヶ関村:古懸山 不動院 國上寺 三番札所:古懸山 不動院 國上寺 津軽最古級の大寺院青森県弘前市:護国山 観音院 久渡寺四十番札所:護国山 観音院 久渡寺 津軽真言五山の一、坂元の久渡寺一番札所:護国山 観音院 久渡寺 観音堂 想像絶する上り坂の果ての観音堂六番札所:護国山 観音院 久渡寺 聖観音祀る山中の古寺津軽龍神霊場:護国山 観音院 久渡寺 龍神堂 湧水の地の龍神堂青森県弘前市:金剛山 光明寺 最勝院末寺:青森県青森市:朝日山 常福院青森県弘前市:愛宕山 橋雲寺青森県弘前市:岩木山 求聞寺 六十六番札所:岩木山 求聞寺 神仏習合の痕跡残る寺院青森県弘前市:五色山 聖心寺十番札所:五色山 聖心寺 岩木山の東麓に置かれる修験色濃い寺院津軽龍神霊場:五色山 聖心寺 五色に輝く龍神さま岩手県奥州市:岩谷堂山 多聞寺 三十二番札所:岩谷堂山 多聞寺 人首川の高台に建つ毘沙門堂岩手県奥州市:愛宕山 興性寺二十二番札所:愛宕山 興性寺 愛宕の別当、江刺の不動尊三十三番札所:愛宕山 興性寺 江刺の煌めく十一面観音岩手県北上市:巌谷山 如意輪寺 二番札所:巌谷山 如意輪寺 国見山の南麓に建つ彩華の寺院岩手県陸前高田市:如意山 一乗院 金剛寺岩手県宮古市:玉王山 長根寺秋田県秋田市:普光山 普傳寺秋田県大館市:医王山 長久寺 遍照院秋田県男鹿市:幸福山 吉祥院秋田県能代市:湯殿山 龍泉寺 二十五番札所:湯殿山 龍泉寺 湯殿山を再現した一大山岳霊場秋田県三種町:日王山 正覚院 玉蔵寺宮城県角田市:勝楽山 高蔵寺 角田市:勝楽山 高蔵寺 宮城県最古の阿弥陀堂宮城県角田市:安狐山 斗蔵寺 四番札所:安狐山 斗蔵寺 山の上の鎮守と別当、斗蔵山の古社・古刹宮城県栗原市:音羽山 清水寺宮城県栗原市:楽峯山 勝大寺宮城県登米市:竹峯山 大悲院 華足寺宮城県名取市:熊野山 新宮寺末寺:宮城県名取市:桑島山 金剛寺 名取市:桑島山 金剛寺 川上観音堂の元別当、金剛寺元管轄仏堂:宮城県名取市:川上観音堂 三番札所:桑島山 金剛寺 観音堂(川上観音堂) 東北の素朴な観音信仰表す古観音宮城県美里町:梅光山 神寺 松景院 二十七番札所:梅光山 神寺 松景院 風流の心溢れる地の大不動尊宮城県仙台市:滝本山 西光寺 二十九番札所:滝本山 西光寺 秋保の大瀧、不動尊の姿重ねる福島県いわき市:菩提山 無量寿院 願成寺 いわき市:菩提山 無量寿院 願成寺 極楽浄土を模した古阿弥陀堂福島県白河市:成田山 圓養寺福島県棚倉町:石堂山 徳善院 明王密寺 三十五番札所:石堂山 徳善院 明王密寺 山奥の岩屋に祀られる不動尊福島県棚倉町:聖務密山 持宝院 如意輪寺 二十三番札所:聖務密山 持宝院 如意輪寺(八槻観音堂) 陸奥一之宮の守護寺院東京都品川区:豊盛山 延命院 一心寺長野県松本市:金峯山 牛伏寺真言宗豊山派総本山●奈良県桜井市:豊山 神楽院 長谷寺 未末寺:東京都豊島区:醫王山 東光院 眞性寺 三番札所:醫王山 東光院 眞性寺 巣鴨の商店街前の地蔵尊大本山●東京都文京区:神齢山 悉地院 大聖護国寺 未別院:茨城県つくば市:護国寺別院 筑波山 知足院 中禅寺 大御堂 二十五番札所:護国寺別院 筑波山 知足院 中禅寺 大御堂 古の姿を今に伝える千手観音諸寺院岩手県遠野市:法門山 福泉寺岩手県盛岡市:宝珠盛岡山 永福寺山形県鶴岡市:湯殿山総本寺 大日坊 金剛院 瀧水寺山形県鶴岡市:新山 遍照院 龍覚寺福島県会津坂下町:金塔山 恵隆寺 会津ころり三観音:金塔山 恵隆寺 見上げる程巨大な千手観音像福島県大玉村:安達太良山 相応寺福島県白河市:雨寶山 慈雲院 龍蔵寺末寺:福島県白河市:鹿王山 最勝寺 二十七番札所:鹿島観音堂(鹿王山 最勝寺 観音堂) 鹿嶋の元別当、最勝寺の鹿島観音堂福島県伊達市:金剛山 長谷寺 未末寺:福島県桑折町:明王山 不動院 大聖寺 十三番札所:明王山 不動院 大聖寺 観音堂 白檀から彫り出した聖観音福島県福島市:瑠璃光山 医王寺茨城県桜川市:雨引山 樂法寺茨城県土浦市:南明山 慈眼院 清瀧寺 二十六番札所:南明山 慈眼院 清瀧寺 筑波の神の喉を潤した滝と観音堂茨城県常陸太田市:妙福山 明音院 佐竹寺栃木県益子町:獨鈷山 普門院 西明寺 二十番札所:獨鈷山 普門院 西明寺 益子の町を見下ろす山の観音堂本堂閻魔堂内の仏像群・有名な”笑い閻魔”千葉県千葉市:海上山 千葉寺真言宗室生寺派大本山●奈良県宇陀市:宀一山 室生寺 未諸寺院福島県西会津町:金剛山 如法寺 会津ころり三観音:金剛山 如法寺 会津西方に座す聖観音像真言宗易行派本山●青森県青森市:全仏山 青龍寺 青森市:全仏山 青龍寺 一息つくなら青龍寺境内の堂宇:高野山青森別院金堂と五重塔護摩堂と大日如来坐像真言律宗総本山●奈良県奈良市:勝寶山 四王院 西大寺 未大本山●奈良県生駒市:生駒山 寶山寺 未別格本山●神奈川県横浜市:金澤山 称名寺 ●奈良県奈良市:一之室院 未●奈良県奈良市:護国院 未●大阪府枚方市:天王山 木津寺 久修園院 未●大阪府八尾市:獅子吼山 大慈三昧院 教興寺 未●愛媛県今治市:金光山 最勝院 国分寺 未●愛媛県今治市:補陀落山 法華寺 未●熊本県玉名市:高原山 蓮華院 誕生寺 未諸寺院神奈川県鎌倉市:霊鷲山 感応院 極楽律寺真言宗単立茨城県笠間市:佐白山 正福寺 二十三番札所:佐白山 正福寺 笠間氏の寵愛受けた寺院以上です。
2025年12月30日
コメント(0)

北の地で脈々と受け継がれて来た観音めぐり 津軽三十三観音霊場。そのボーナスコンテンツとして近年新たに札所となった仏堂があります。今回紹介する白衣観音堂がそうです。津軽最大の溜池である富士見湖の湖畔に置かれており、世にも珍しき八角堂なんです。本尊も白衣観音と通常であれば札所本尊に選ばれない仏尊です。しかし、しっかり御詠歌も用意されており、急ごしらえで作られたような御詠歌なしの巡礼とは異なり、巡礼者の愛が感じられます。正式な札所でないものの、津軽巡礼の際には寄ってみるのも面白いと思います。津軽三十三観音霊場三十四番札所:白衣観音堂白衣観音堂を拝む前に、富士見湖について概観していきたいと思います。桜が写っているという事は、今年の春に行ったんだと思うんですが、富士見湖には桜が多く植えられており、花見スポットになっております。そしてバックに見える太鼓橋は、なにげに日本最大の木造太鼓橋として有名で、鶴の舞橋と呼ばれています。概要は以下の通りです。廻堰大溜池の沿革 古記によると、このため池は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水による貯水池であったものを、万治3年(1660年)に津軽四代信政公が、樋口権右衛門を廻壇大堤率行に任命し、柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものと記録されている。 その後、豪雨、融雪と自然災害により元禄、寛政、文政、明治、大正と堤防が決壊し、そのたびに大修理が加えられ関係者の苦難は、多大なものであった。しかし、この長期にわたる努力と地域住民の献身的な働きかけにより、国や県の手により提体や取水施設等の整備がなされ現在のため池となっている。 貯水量は、1.100万トン(直接かんがい面積393ヘクタール、補給面積6.500ヘクタール)をかかえ、満水面積281ヘクタールと県内でも最も大きな人造湖であり当地域の重要な農業用施設となっている。 また、このため池は周囲11kmのうち堤長4,178m、堤高7mと日本でも有数の大きなため池であり、ことに堤長に関しては日本一である。 ため池にうつる壮大な岩木山の姿から「津軽富士見湖」の愛称で親しまれており、また古くから豊富な淡水魚類、野鳥の宝庫として知られている。17世紀にこのような姿となった富士見湖ですが、それ以前の小さな溜池の頃から、↓のような伝説が残っているようです。見てみましょう。津軽富士見湖の伝説:白上姫と清水城主の悲恋物語 今から約600年前の春、野も山もしたたるような新緑に包まれた中を清水城(現在の間山部落の一部である館の﨑にあったという)城主 間山之守三郎兵衛忠勝は数人の若武者たちと共に白狐沢、高山方面で狩りをし、高山で獲物を前に昼食をとった。その時、東の方向にある隠里(廻堰字稲川)に煙が立ち上るのを発見した。日が落ちるには間があり、勢いに任せた間山之守三郎兵衛忠勝は隠里まで馬を飛ばした。 草深い中にある目的の家は、太右衛門宅であった。疲れた馬に水を与え、主人と談笑していたところへ同家の息女である白上姫が茶を持って顔を見せた。丈なす黒髪、色白な容姿は清純な山百合を思わせ、間山之守は一目で白上姫を恋するようになった。その日から、間山之守は一人で狩りに出かけるようになった。雨の日も風の日も隠里の野山には二人の姿が見られた。こうして一年はあっという間に過ぎていった。 ところが、翌年の秋、間山之守には当時、大福池堤わきに住んでいた豪農太右衛門の媒酌で妙堂崎の半四郎の次女、琴姫と婚約が進み、問山之守はいつしか白上姫を忘れるようになっていった。そうとも知らぬ白上姫は、以前に約束した間山之守の正月用の晴着を縫うのに精を出していた。 やがて晴着を縫い終わった日上姫は、サイカチの館(今の間山部落)清水城に通じる山道を急いだ。雪のちらつく日てあったが、問山之守に逢いたい一心の乙女心には雪など少しも苦にならなかった。 城に近づくと、普通の日と違って大変な人通りである。不審を抱いた白上姫は通りかかった人に聞くと、この日が間山之守婚礼の日と知らされた。手にしていた晴着が落ちたのも知らず、人目を避けて帰る足はいつしか大溜池の畔に姫を運んでいた。過ぎ去った日々の楽しい思い出が走馬灯のように脳裏をかけめぐり、今の我が身の惨めさがひしひしと感じられた時、水草が揺らぎ、波紋を残して白上姫の姿は水中に消えて行った。村人たちの必死の捜索も空しく、姫の遺体は発見されなかった。 翌年の春小雨の降る日、大溜池に清水城へ向かって湖水を渡る白竜を見た人があり白上姫の遺恨が化身したものだと大騒ぎになった。この話を伝え聞いても間山之守は新しい生活の幸福におぼれて一笑にふしていたが、しばらくすると、夜毎に狂人の状態になり、藩士を呼び寄せては、斬り捨てるようになった。ついには、愛妻の琴姫をも殺し、自らも城を抜け出し、吸われるように大溜池に身を投じた。 このことを嘆いた太右衛門とサイカチ部落の人々は、一宇を建立し、来る年ごとに二人を供養したと伝えられ、供養のかいがあってか、それまで魚の居なかった溜池に、たくさんの「フナ」や「鯉」がいるようになったということである。やがて、この大溜池は津軽新田の水源地となり、戸和田神社は豊作の神としてまつられている。 鶴の舞橋ステージの中央付近で手を叩くと”ビーンビーン”と反響音がこえてきます。もしかしたら、この音が白竜の鳴声かもしれません。今から600年前というと、南北朝時代も終わるかという頃でしょうか。津軽においても、この頃は南部氏・安東氏が覇を競っていた頃で、応永17年(1410年)には山本郡刈和野(秋田県大仙市)にて両軍激突、旅の僧侶に助けられ南部方が勝利したとされています(福聚山 大慈寺(糠塚)・籠田山月山神社の縁起参照)。その22年後の永享4年(1432年)には十三湊をも制圧し、安東勢力を蝦夷ヶ島に追い落とします。そんな激動の津軽において、間山之守とはどのような勢力に属していたんでしょうか。この人物に関しては創作の可能性も高く、確かなことは分かりません。ただ、現在でも富士見湖の畔にある戸和田神社にて、白上姫と共に奉斎されていることは確かです。小さな頃から幾度となく訪れた富士見湖ですが、鶴の舞橋で鳴龍のような現象が起きるとは露知らず、この説明看板を読んだときに驚いてしまいました。確かにビーンッと聞こえる気がしますが、鳴龍とは異なる様に聞こえます。鶴の舞橋を渡る前に岩木山と重ねて一枚。本当にキレイです・・・(うっとり)。富士見湖は季節によって大きく水位が変動します。水位が高くなる春~夏には水没している木がよくよく見られますよ。なんだか南国感が有りますねぇ。桜に飾られたこの小さな神社が、件の戸和田神社です。一応こちらの石碑には十和田神社と刻まれており、ここも十和田湖の十和田神社を分霊したものの一つだと思われます。津軽においても数社の十和田神社が確認されており、当地方においても篤く信仰されていたんではないでしょうか。割木に由緒が書かれていました。やはり十和田湖の分霊社なんですね。十和田神社 当社は十和田湖休屋にある十和田神社の分社で、毎年旧暦4月19日に例大祭を開催しています。 元々は小さな祠が湖の中に佇むように鎮座していました。岸辺からシツコ(清水っこ・泉)が湧き、農家の方々は”さんご打ち”をしました。”さんご打ち”とは紙にお金やお米を乗せ、シツコの流れにゆだね祠に到達する途中で沈めば神様が嘉納(供物や願いを喜んで受け入れること)した証しとして、豊作や凶作を占う風習のことです。残念ながら湖の築堤によりシツコはなくなり社も現地に移されました。 湖には悲恋の”白上姫白龍化身伝説”があり、白上姫と龍神様は当社の産生神として大切に祀られ、五穀豊穣・福徳恵方の願いを加護しています。 心を込めて御参拝いただければ幸いです。鶴田町誌参照社殿内、中央の祭壇には小さな祠が置かれ、この中に御神体があるものと思われます。斜めから。本当にいい時期に参拝出来ました!もう少し早ければ満開だったでしょうが、これでも十分春を感じられました。富士見湖鎮守の十和田神社、面白い伝説が残っており、非常に楽しめました。いよいよ札所の白衣観音堂を目指します。本当ならこの紫陽花の小道から直接行けるんですが、今回は正面からお参りしたいと思います。富士見湖西岸には富士見湖パークという大きな公園があり、小さな頃は休日に良くここで遊んでいました。公園の端の方に花壇の広場があり、そこから白亜の仏堂が見えます。参道を上っていくと、まずは鳥居、その奥に寺門と少々込み入った造りになっています。寺門に関しては少々低いです。観音堂の横には三十三観音霊場が広がっています。何の三十三観音霊場の写しなのかは不明ですが、面白い点として、全ての札所石仏が白衣観音と化しているのです。こんな写し霊場はここぐらいではないでしょうか。お待たせしました、白衣観音堂です。東北全体で見ても、このような八角形の仏堂は珍しいんではないでしょうか。御堂正面には津軽第三十四番霊場・御詠歌が懸けられ、扁額も双龍の装飾がしてあります。堂内には中央に大きな祭壇があり、そこに本尊が置かれています。そして四方には合掌印の菩薩?観音?と金の幣。御堂の守護として置かれているんではないでしょうか。本尊:白衣観音です。当札所本坊(朱印所)の三宝山 自覚院 正明寺の記事によると、この観音像は珍しくも陶器製とのこと。詳しい来歴は本坊の由緒をご覧ください。斜めから。湖畔に置かれた美しい八角堂でした。津軽山と大きく刻まれた扁額は、ここが打ち止めの札所であることを示しているんではないでしょうか。できれば良く晴れた日に御参拝ください。一緒に岩木山なども楽しめるかもしれませんから。御詠歌津軽山 諸菩薩の母御祀りて 法の松風 見るぞ尊し本尊:白衣観音今回貰った御朱印です(朱印所は三宝山 自覚院 正明寺)。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー富士見湖から見る津軽富士
2025年12月28日
コメント(0)

須坂から松代の方へと山際の道を下ると、保科という集落に着きます。集落の道は細く、その脇に堀がはしり、山手の方から湧いた清水がこうこうと流れておりました。建物は現代的になっても町の造りは古いままで、そこに古雅な趣が感じられます。保科は古より荘園が置かれていたそうで、そこを本拠としていた保科氏も、地名を姓とした一族であったようです。鎌倉時代には既に名が見える古い家柄ではありますが、中世には一旦断絶したとの説もあり、詳しいことは分かっておりません。後に諏訪神党に数えられたり、会津松平氏に繋がったりと、長い歴史の中を生き抜いてきた一族なんではないでしょうか。そんな保科氏発祥の地にある観音霊場です。2025.12.20信濃三十三観音霊場十六番札所:阿弥陀山 護国院 清水寺 観音堂駐車場に車を停めると、堰に石橋が架かり、奥の寺門まで参道が伸びておりました。境内は貴族の屋敷かと思わんばかりに、石垣・白壁・瓦屋根で囲われております。境内には桜も多く、春に参拝した日にゃぁ桜花に酔いしれること間違いなし。寺門をくぐると、一際大きな桜が生えており、その奥には巨大な鐘楼。本堂もどっしりとした佇まいでよろしい。寄棟屋根が特徴の大堂で、瓦が整然と並べられた様は何とも見ごたえがありました。御由緒です。阿弥陀山 護国院 清水寺真言宗智山派開山:行基菩薩開創 寺伝では、天平2年(742年)、行基菩薩が諸国化の折この地に立ち寄られ、千手観世音像および協侍聖観音・不動明王の2体を自ら刻まれ草堂に安置されたのが当寺の発祥と伝えられています。 その後、桓武天皇の延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麿が東奥地方を平定に向かう折当寺において戦勝を祈願したところ誠に霊験あらたか、無事平定でき、帰路再び当寺に寄り、被っていた兜の前立て(鉄鍬形・重文 桃山御陵鎖護神星甲の原形となる)と直刀一口を奉納されたと言われています。 京に戻った田村麿は家人を遺して伽藍を建立。落慶供養の導師に当時の高僧 空海(弘法大師)を招かんとしましたが入唐のため果せず、帰朝後自ら描いたと言われる金胎両部曼茶羅(本著色両界曼荼羅図・重文)を当寺に寄進されたとととえられています。中興 足利時代に至って、将軍義政の帰依厚く、三重塔をはじめ33の坊舎ならびに30余の神堂宇が建立され、総門・鐘楼・本堂などのほか、仁王門から奥の院観音堂に至る参道の両側に経蔵・三重塔・大日堂・釈迦堂・八将社などが健ち並ぶ七堂伽藍は実に壮観で、法燈高く輝き、法雨普く潤し、鎮護国家の霊場として「信濃清水寺」の名は全国に知れわたりました。中興後 文政4年(1821年)11月8日夜、奥の院観音堂が焼失。時の住職が再建に努め、天保12年(1841年)に落成しましたが、大正5年(1916年)5月10日、保科村の大火災の際、当寺も類焼に悪い、一山伽藍・仏像のことごとくを焼失。そこで、同年7月奥の院仮本堂再建許可を得て建設。同時に、内務大臣の許可を得て、奈良・石位寺より20余体の霊像(うち、千手観世音・薬師如来・阿弥陀如来等5体 大正10年国宝に編入される)を移し、大正12年(1923年)内仏殿本堂を再建。 また、奥の院観音堂は昭和50年(1975年)に、 鐘楼は同53年(1978年)に、山門は平成3年(1991年)にそれぞれ再建され、1200年の歴史を持つ信仰の地としての復興計画が現在進められております。清水寺 パンフレット より引用行基開創と伝わる霊場で、後に坂上田村麿の庇護を受け伽藍が発展。最も寺勢が高まったのが中世室町の頃で、足利八代義政の帰依を受け僧坊あまた、神格を祀る祠も数多く、信濃清水寺と称される大寺院へと成ります。近代になってそれらの伽藍や寺宝は灰燼に帰してしまいますが、信徒の援助もあって伽藍は一部再建、仏像は高円山 石位寺より移して今に至ります。これら寺宝の仏像群は、長野市のサイトにてご覧になれます。下のリンクからどうぞ!●本尊:千手観音・長野市文化財データベース / 木造千手観音及脇侍地蔵菩薩像●四天王像・長野市文化財データベース / 木造広目天立像・木造多聞天立像●薬師如来坐像・長野市文化財データベース / 木造薬師如来坐像●阿弥陀如来立像・長野市文化財データベース / 木造阿弥陀如来立像●聖観音立像・長野市文化財データベース / 木造聖観音立像賽銭箱に刻まれているのは真田の六文銭!この辺りも真田氏の領地だったんですかね。扁額です。金字の近代的な物。本堂の背後には白壁防火造りの宝物殿。ここに本尊:千手観音像、四天王像を除く諸仏像が収められています。斜めから。この札所の本懐は本堂ではありません。奥之院と称される観音堂に詣でて、本尊を拝みに行きましょう!参道は本堂の左手にあります。観音堂の参道です。こちらにも本堂同様山門が建っています。・・・それにしても門に付随するこの白壁は本当に雅ですよねぇ。この寺院も他の札所にはなかなか見られない独特の風情があります。信濃三十三観音霊場の札所は面白いとこ揃い、本当にまわり甲斐があります。門をくぐると天衝く参道。久渡寺とどっこいくらいの段数でしょうか。参道左手には当地の実業家 北野家の墓があります。参道を飾る行燈の殆どには寄進者:北野某と刻まれており、この寺の大檀那だったんではと思っています。街の方にある北野氏の邸宅跡には、北野美術館が建てられ、数々の名画が収蔵されています。そして自宅に分霊していた湯島天満宮は、現在では大きな社殿を得て、湯島天満宮 信濃分社として鎮座しています。その墓所の横には小祠。中にはすっかり丸くなった如意輪観音石像が収められていました。それではこの祠を、如意輪観音堂とでも呼びましょうか。参道はいよいよ林の中へと伸びていきます。左側には平坦に整えられた空き地がありますが、ここには以前大日堂と三重塔が建っていたと言います。件の保科大火にて焼失し、再建されることはありませんでした。説明書きを見てみましょう。史跡 清水寺の仁王門・三重塔·大日堂跡長野市指定 昭和42年(1967年)11月1日指定 清水寺は総門・鐘楼・本堂・庫裏を備え、仁王門から観音堂(奥院)に至る参道の両側には経蔵・三重塔・大日堂・釈迦堂・薬師堂及び八将社があって珍しく堂塔をそろえた寺であった。 これ等の諸堂は大正5年5月10日の保科村大火で全て焼失した。 仁王門は江戸時代初期に建てられた桁行三間 梁間二間の建物で、12個の礎石と基壇4面の列石の跡が一部残っている。 三重塔は鎌倉時代末の建築で、三間三層、屋根は柿葺(こけらぶき)とした。その跡に一辺8.87mの方形の基壇と、基壇上に外側柱の礎石12個と塔内四天柱の礎石が現存している。また、基壇上の周囲に敷かれた切石や内部に四半敷にしてあった切石もそのまま残る。 大日堂は三重塔の北西にあって、鎌倉時代中期に建てられた単層で、桁行五間 梁間五間、屋根は寄棟造茅葺であった。大部分の礎石が、建物当時の位置に整然と残り往時をしのぶことができる。平成20年12月20日 長野市教育委員会 清水寺説明書きから写真部分を切り出してみました。三重塔も大日堂も相当立派だ姿をしていますねぇ!特に大日堂は屋根の形が良く大柄なため、非常に存在感があります。現存しないのが非常に惜しまれる堂宇です。ここまで来ると整然とした石段はもうありません。なかば山道と化した参道を更に進みます。冬にも関わらず汗が頬を伝い、顎の先から地面に落ちていきます。山門から15分は登ったでしょうか。結構きつい登りでした。もう目の前に手水舎が見えてきているので、終わりも近いでしょう。ぶっちゃけ観音堂まで車道が伸びているので、そっちを使った方が圧倒的に楽なんですが、せっかくなので徒で向かいました。そっちの方が絶対面白いですよ!坂を上り切ると、もうどってんしてしまいました。手水舎の奥に見えるのは巨大な懸造の御堂信濃三十三観音霊場は下調べ無しでまわっているので、時折こうした荘厳な御堂に行き当たって、度肝を抜かれてしまうんです。思えば寺号は清水寺、懸造の大堂があっても不思議では無いということです。本家よりは小振りですが、それでも素晴らしい外観に息を呑んでしまいます。手水舎の奥には不動尊が祀られています。かつてはここから水が湧いていたんでしょうか。のたくる参道を上っていきます。どこから撮っても美しく、何枚でも撮っちゃいますよ、これは!はぁー・・・良いですねぇ、ホント。出張に感謝です。こんな最高の御堂に巡り合えたんですから!観音堂の入口は側面。こっち側には大きなしだれ桜の古木があり、是非春に来て桜花を愛でたかったですねぇ。観音堂向拝の天井には真言宗智山派の宗紋 桔梗が咲き誇っておりました。色とりどりの花々が美しく天井を飾ります。進んできた参道を振り返ってみましょう。もう山門は粒ほどもみえません。扁額です。柱には本尊の御影もありました。焼失以前の本尊はいったいどんな姿をしていたんでしょうか、気になります。斜めから。先ほどべべ出し観音にお参りしてからすぐと、このような思いがけないご利益に与れました。べべ出し観音のご利益はこういう意味では無いのですが、本当にこの御堂との出会いに感謝したいのです。故郷にも清水寺を模した観音堂はありますが、そことはまた違った荘厳さです。なによりも、長い山道を登った先にコレがある、というシチュエーションが本当にエモいです。今年ももう終わってしまいますが、最後にこんなステキな体験ができるとは露知らず、この日は満面の笑みを湛えて拠点まで戻りました。御詠歌かりそめも にごる心を 求むなよ 影清水に 月は澄みぬる本尊:保科観音(千手観音) सहस्रभुज今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年12月27日
コメント(0)

長野県の東方、上田から上野の方へ抜ける山道をひたすらに北進。降りしきる白雪の中、辿り着いたのは須坂の町。ここには有名な大瀑布 米子大瀧があり、上杉謙信ゆかりの不動尊が感得されたところでもあります。この滝の周辺は古来より修験の行場として知られており、大谷不動尊や、四阿山の神格を祀る山家神社など、殊更に山と関係の深い神社仏閣が溢れています。今回紹介する札所もそうした山岳霊場の延長にあるもので、集落西側にそびえる屏風型の低山 蓑堂山山頂に御堂が置かれています。2025.12.20信濃三十三観音霊場九番札所:蓑堂別当 樋口家の門を出ますと、通りの先に岩肌が目立つ御山があります。これが蓑堂山で、米子不動尊の方まで裾野が続いています。札所の蓑堂が置かれているのは山の西の嶺。塚の様に突き出した奇岩が幾本も並び、その上に築かれています。ズームで見てみましょう。最初はどれが御堂か分からなかったんですが、おそらく一番高い松の左側にあるものがそうなんではないかと思っています。別当さんに登拝は出来ないのかと確認したところ、一応山に入ることは出来るが参道は長らく人の手が入っておらず、とても登れる状態ではないとのこと。今回は遥拝にて御免。このように遥拝で終える札所と言うのも、なかなか珍しいですよねぇ。他地域の観音霊場とは一味違った趣があります。それではご由緒を見てみましょう。蓑堂本尊:べべ出し観音(十一面観音) 名勝米子大瀑布への道筋に見える奇岩絶壁は雨具の「蓑」に似た山容から蓑堂山と呼ばれる。昭和40年代の松代群発地震により、山上のお堂が傾いたため、本尊の十一面観世音菩薩は麓の樋口家宅にて遷されて大切に安置されている。 俗に「べべ出し観音」とも呼ばれるのは、急峻な坂や岩場をよじ登って参拝する際、女性の着物の裾が乱れ、後ろから登る男性の目に思わぬ“ご利益”があったからだとか。江戸時代後期、祭事で村が留守の間に火事が起きたことから「お祭り嫌いの観音様」としても知られている。信濃三十三観音札所巡り / 札所一覧 / 谷街道・大笹街道エリア より引用開山・開基不明で、宗派さえ判然としない当札所。山の頂に仏堂が作られる例は少なくありませんが、こうした仏堂の殆どが修験と関りがあり、ここもそうなんではないかと思われます。同集落内に境内を置く米子瀧山 不動寺も真言宗であり、当札所もその影響を受けていたのかもしれません。ですが確かなことは分からないのです。別当宅にて朱印を書いてもらっている間に、本尊を眺めてみます。十一面観音の座像で、持物や宝冠の状態も良いですねぇ。近代になって補修されたんでしょうか。表情は安らかで、手も優し気にこちらに伸ばされて、当に救世の仏といった風情でしょうか。別称はべべ出し観音、何とも嬉しい功徳が得られそうです。僕も山登り中に”ご利益”が得られるように、強く強く念じてきました。斜めから。蓑堂山の頂に置かれた大悲閣、遥拝で済ます珍しい札所です。蓑堂山に限らず、長野県の山は山頂付近に奇岩が目立つ急峻な山が多く、そうしたところに神性を感じ修験が入るのもなんだかわかる気がします。謎多き札所ではありますが、成り立ちを想像しつつ眺めるのも一興!面白い仏閣でした。御詠歌井の上や 夜な夜なきたるみのん堂 雨はふるとも 身をばぬらさじ本尊:べべ出し観音(十一面観音) एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。
2025年12月26日
コメント(0)

一番札所:仏眼山 法善禅寺二番札所:宗善寺観音堂(楊柳山 宗善寺)七番札所:蟲歌山 桑台院九番札所:蓑堂・九番札所:蓑堂 登山者に嬉しい利益もたらす観音堂十一番札所:仏智山 明真寺 観音堂十六番札所:阿弥陀山 護国院 清水寺・十六番札所:阿弥陀山 護国院 清水寺 観音堂 保科の地に建つ信濃清水寺十九番札所:小菅山 菩提院 観音堂二十七番札所:金峯山 牛伏寺 観音堂二十八番札所:龍頭山 龍福寺二十九番札所:布引山 釈尊寺客番札所之一:北向観音堂・客番札所之一:北向観音堂 火口から出る星見の観音堂以上です。
2025年12月26日
コメント(0)

富士山を奉斎する浅間神社は数在れど、かつての遥拝の社と言えば数社しかありません。ここ山宮浅間神社も古来より富士山遥拝の社として知られています。修験僧達が登拝を行うまでは、富士山は遥拝するものでした。山麓の地から峰に向かって祭祀を行い、噴火などの怒りを鎮めようとしたのです。その遥拝の中心地がこの山宮浅間神社。富士山本宮浅間大社の元宮です。山宮浅間神社富士山信仰の中心地である富士山本宮浅間大社から北へ数km、山際の地に鳥居が建っていました。山岳信仰に見られる素朴なデザインもさることながら、山へと向かっていく参道はいかにもな風情を感じられます。鳥居脇のこちらは庚申塔と観音でしょうか?参道はこの様に石灯籠で飾られています。これが奥までズーーッと続いているのです。道祖神もありました。少々進むと直ぐに二之鳥居が見えてきます。いやー、ここからも石灯籠がえげつない数ならんでおりますねぇ。篤い崇敬が感じられますよ・・・!参道の先に社殿がありました。最初随神門かと思っていたんですが、どうやらこれは籠屋という社殿らしいです。かつてここに宮司や社僧が泊まり、次の日の祭祀に供えたとされています。現在の社殿は昭和8年(1933年)に再建された物。籠屋の外壁上部には浅間神社の社紋である棕櫚が捺されています。葉の枚数は富士山本宮と同じ17枚。こちらも格式が高いものと思われます。籠屋の先にさらに参道が続きます。参道の起点に建っているこちらの石は鉾立石。富士山本宮から山宮に御祭神を渡御させる御神幸という祭祀の際、御神体である槍をこの石に突き立て休ませるそうです。奥にも鉾立石。これらは富士山噴火の際の火山弾だそう。石段を上ると、正方形の区画が柵によって囲われています。ここは遥拝所と呼ばれ、富士山を直接遥拝するための場所です。遥拝所なんですが、本日はあいにくの曇天、霊峰 富士山は拝めませんでした・・・。内部はこの様になっています。石によって区画分されており、かつては社も建てられていたんでしょうか?説明書きによるとただの席分けの目印ともされているみたいですが・・・。気になる説明書きを見てみましょう。山宮浅間神社祭神:浅間大神(木花咲耶姫神) 山宮浅間神社は、富士山そのものを祭神として祀られた場所と言われています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所があります。拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝する場所として、その祭祀の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8.4mにわたり30~40m程度の溶岩で築かれた祭壇となる石列があります。この石列は玉垣で囲まれ、さらにその周囲には約45m四方を区画する溶岩を積み上げた石塁が見られます。 神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社社伝によれば、山宮に遷される前、山足の地へ祀り、その後、山宮の地に祀ったと伝えています。 かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸」が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道」と呼び、道筋の50丁(1丁=約109m)の間には、1丁目毎に目安の石碑が建てられていました(現在は4基だけが残されています)。 また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石」が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。 拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠屋と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官らが参篭したとされるもので、現在の籠屋は、昭和8年に建築されたものです。更にもう一枚。先ほどの石列についてです。遥拝所石列 遥拝所の石列については、江戸時代に書かれた『駿河記』や『駿河志料』に、「(山宮浅間神社は)今は荒れ果て、社殿はないが、石壇や鳥居などがある。神の鎮座する所の中心には、榊を植えてご神体の石を安置している。」とあります。 「浅間神社の歴史」によると「この石礎は、今も現存する並石(石列)をいう。」とあり、江戸時代より遥拝所には石列があったと考えられます。また、ここには山宮御神幸などの祭事に参列する本宮(富士山本宮浅間大社)の大宮司以下の社人(神官)や供僧(社寺の僧侶)などが着座し並ぶ配置を区画したものだとも記されています。この石列を囲む玉垣は、昭和5年(1930年)に建設されたものですが、平成25年度(2013年)に実施された発掘調査では、玉垣の西南(正面)側下部において、石列が2か所(石列1・石列2)で確認されています。この2か所の石列は、玉垣内の石列と同質の溶岩を使用しており、ほぼ同時期に配置されたものと考えられます。単純に富士山を神体山として遥拝する。そんな原始の祭祀の場として山宮浅間神社はこの地に鎮座しています。この祭祀の形は、かつて森や山など神格が居わすとされた聖域に向かって仮宮を建て、祭祀が終了すれば取りこわすという古態に基づいています。後に仮宮が取り壊されず、祠や社として置かれるようになり、現在の神社の基礎となったそうですが・・・まぁ、面白いですねぇ!山宮浅間神社の様に神体山自体を遥拝する祭祀は、日本最古社の大神神社における三輪山の例が挙げられます。それ以外にも山岳に関わる神社の多くが、今でも遥拝所として里宮を置いており、この祭祀の仕方は現代に引き継がれているものと思われます。そして遥拝所内の石列も面白いですねぇ。祭壇に最も近いのは大宮司、これは当然。そして少し離れたところにはなんと別当・供僧席があるんです!神社の祭祀に別当僧が関わっていたといのは神仏混淆の時代を今に伝える稀有なものとして、非常に興味があります。斜めから。古代の祭祀の形を保った貴重な古社でした。この様に社殿が無い神社と言うのは初めて参拝しましたが、古代にはこうした祭祀の形が一般的だったんでしょうね。山中の巨岩、古木、大滝や美峰など、人知を超えた自然の造形物を神体として脈々と祭祀が行われ、それが現代に繋がるならばこれほど面白いことは他にありません。本当に参拝出来て良かったです今回貰った御朱印です。以上です。
2025年12月25日
コメント(0)

甲州市北部、秩父に至る雁坂峠のその脇に、恵林禅寺・放光寺などの大寺院が境内を置いています。歴史の重みが感じられる重厚な姿の大伽藍に目を奪われてしまい、感嘆のため息が尽きません。これら古刹の影に隠れてしまいがちなのが今回紹介する松尾神社です。式内社:松尾神社の比定社としても有名な古社であり、ここら一帯の鎮守として仰がれています。松尾神社ドでかい両部式鳥居から参道が伸びています。かつて、この鳥居の脇には咳止地蔵尊という仏塔が置かれていたとされています。明治になってからの神仏分離と道路整備の影響で、今では大雄山 岩松禅院という禅寺に遷されています。参道脇には今でも太い幹の古木たちが立っており、古社の風格たっぷりです。参道脇には四菱の紋がついた小祠が鎮座しています。祠の周りは一段掘り下げてあり、おそらく以前は水がまわされていたんではないでしょうか。祠内には弁財天。いや、今では市杵島姫神でしょうか。参道突き当り、拝殿が見えてきました。松尾神社の拝殿です。地域の神社としては大きな社殿ですねぇ!さすが郷社といったところ。背後におがる木々も古雅な感じがして良いですねぇ。御由緒です。松尾神社(塩山)祭神:大山咋命、天照皇太神、足仲彦命、大己貴命、誉田別尊、気長足姫命(息長足姫命か)例祭日:10月1日 往古、松尾の郷置かる時郷の鎮守たり。社記に曰く、「六所明神といひ式社たり。景行天皇41年鎮座、社頭に日本武尊の褥塚と云ふあり、塚上の櫻樹を褥櫻と呼ぶ。歌あり読人知らず、『幾万代々に変らで花も咲け君が褥のあとのさくら木』」現在松里中学校々庭東南隅なり。昭和51年2月現在社頭に再興す。昭和57年拝殿屋根瓦葺を改め銅板葺きに改修する。山梨県神社庁 / 県内神社の紹介 / 松尾神社 より引用六所明神という名の通り、祭神は大山咋神だけでなく天照皇大神・大国主神というツヨツヨ神格、応神天皇+父母となっています。見た感じは神明社や国魂神社、八幡社などの神社も合祀されているのかなと感じました。そんでここも日本武尊の伝説が残っているみたいですねぇ。おそらくこの唄の中の君とは弟橘媛のことでしょうね。伝説上では神奈川から千葉に渡る時、持衰として入水し、海神の怒りを鎮めたとされています。その後の武尊の気の落ち様はすさまじく、各地で歌を残しているのです。陸奥の奥深くまで進んだ後、都へと引き返しますが、甲斐国はその復路上にあり酒折宮はじめ各地に日本武尊関連の伝説が残っているのです。実際の所、日本武尊は各地の英雄譚を寄せ集めて創造された架空の英雄との説もあり、実在性はあまり高く無いのかもしれません。ただこの様に付随する伝説が幾つも作られているという事は、人々から愛されているというのは確かでしょう。源義経味がありますねぇ!扁額は珍しく白字です。それでは社殿を反時計回りにぐるりと回ってみましょう。木に注連縄が架けられた原始の鳥居の先には石祠と石碑が幾つも置かれています。どれも摩耗が激しく判別できませんが、おそらく右から二番目のものは庚申塔・青面金剛だと思われます。社殿裏手、木の幹の元に置かれているこちら、うーん、地蔵尊でしょうか?良く分かりません。その隣には”巻之明神”と書かれた石碑が置かれています。聞いた事のない神格ですが、個人的には”牧の明神”なんではないかと思っています。松尾神社が鎮座してある辺り一帯は、往古牧荘という荘園が置かれていました。その名残りか今でも塩山北方には牧丘町という小村が広がっています。牧荘という名の通り馬産の地であり、その牧の守護神として巻之明神(牧の明神)が置かれたんでは?・・・と妄想しております。本殿も見えますよ。切妻の流造でしょうか、キレイな社殿です。拝殿左手。幾つかの石祠が置かれているも、どの祠も祭神は分かりません。斜めから。塩山北方の総鎮守 松尾神社でした。社格に恥じない厳かな雰囲気の境内は落ち着いて参拝できる素晴らしき環境!恵林禅寺参拝の際は是非ともお立ち寄りください。以上です。
2025年12月25日
コメント(0)

山梨最大級の禅の古刹 恵林禅寺。武田晴信の菩提寺であり、甲斐武田氏滅亡後は庇護者を失い衰退しますが、後に甲斐国に入部した徳川家康公によって再興を果たします。文句なしの大伽藍と広大な境内を見た後で、近くの松尾神社に詣でようと集落の小路地を進んでいると、恵林寺と宗派が同じ寺院があります。寺院名も院号、これは塔頭ではないかと寄ってみることにしました。大雄山 岩松禅院境内に入ってまず目に入るのがこの御堂。新しめの小さな堂の中には、六地蔵が刻まれた石塔が収められております。堂の脇に貼られた説明書きには、面白い由緒が書かれていました。咳止地蔵尊とは 1707年富士山の噴火「宝永噴火」の際、人々は、火山灰による呼吸器系の疾患、特に咳に悩まされていました。このお地蔵様の土台の石を削り煎じて飲むと咳が止まったということから、「咳止地蔵様」と呼ばれるようになりました。 当初は近くにある松尾神社様の参道の入口付近に置かれていたお地蔵様ですが、明治時代に行われた道路拡張計画により、岩松院に移設されました。土台の石を削り、それを煎じて飲むと不思議と咳が止まる・・・。不思議な霊験です。煎じられた石の粒が気管の粉塵を吸着し取り除くとか・・・実際に効果があったのかは不明ですが、やはり地蔵尊は様々な願いを託されるというのは確かでしょう。地蔵尊は仏教に取り入れられる前は、Pṛthivī プリティヴィーという地母神だったとされています。仏教が興る前から存在した神格であり、インド=ヨーロッパ語族に共通する母なる神格として知られているようです。伴侶はディアウスであり、天空を司る父神です。このディアウスという語彙は、他の地域でも最高神や天空神の神名などに派生していることもあり、インド=ヨーロッパ語族に属する言語を話す集団において、”父なる神”を表す共通の語彙だったと言われています。例としては deus(ラテン語:神)、Ζεύς(ギリシア語:ゼウス)などがありますが、こうした語彙の共通性を見ていると、やはり神話は民族の移動と共に拡散するということが実感できますね。さて、咳止地蔵尊の像容はというと、一般的な石仏ではなく、この様に六地蔵が刻まれた仏塔スタイルなんです。僕の地元 津軽では、地蔵と言うと石仏のイメージがあるんですが、山梨県ではこうした仏塔スタイルの地蔵がところどころで見られます。例としては甲府市川田町の冨田山 寿徳院などがあります。こうした地域による信仰の違いなどは、見ていて本当に面白いです手水舎は小さいながらも清水湧く龍の手水。そして本堂です。詳しい歴史などは不明なんですが、住職さんの話によると、自分が着任する以前は無住で堂もかなり朽ちていたんだとか。今でこそこうしてキレイになっていますが、その前はかなりの荒れ寺だったんですねぇ。そして気になる本末関係なんですが、乾徳山 恵林禅寺の末寺だとのこと。それが最近になってからのことなのか、それとも創建時からそうなのかは不明です。上でも書きましたが、宗派は恵林禅寺と同じ臨済宗妙心寺派、本尊は延命地蔵尊です。・・・臨済宗で本尊が延命地蔵尊、これが元塔頭でないなら、もとは違う宗派だったとかしか考えられません。塔頭だった可能性は相当高いんでは?祭壇には本尊の延命地蔵尊。円型の光背ややわらかな表情が見事な美像でした。いつどこで作仏されたのか、詳細は不明ながらも、きっと沢山の崇敬を集めていたことでしょう。御油印を書いてもらっている間、奥様に奥の間を見せてもらったり、夫婦でまわった霊場の話など、いろいろと楽しくお話していただきました。四国八十八ヶ所霊場の掛軸を指差しながら、ここの札所はこうだった、ここでは何があったなど、楽し気に語る住職。それにつられてこちらも思わず笑顔になってしまいました。帰る頃には沢山の下げ者や飲み物など、いたれりつくせりの御接待を受けて、本当に嬉しかったですその節はどうもありがとうございました!今回貰った御朱印です。本尊:延命地蔵尊咳止地蔵尊以上です。
2025年12月25日
コメント(0)
長野県の北から南、西から東へと、広大な土地に散らばる観音霊場をめぐる巡礼です。霊場の開創自体は江戸時代の初めごろ(17世紀初頭)とされているようですが、札所の変遷など詳細は不明な点も多いようです。しかし札所の多くは善光寺周辺の街道沿いに置かれているため、善光寺参拝と併せて巡礼していたということも考えられます。長野県は全国で最も市町村の平均標高が高いそうですが、札所の多くも山間部に置かれているものが多い印象です。里に置かれた本坊・別当に対して、観音堂は山の上など高いところに集中して置かれる傾向にあります。山に堂を置くと言う事は懸造が主になるということ。これほどまでに懸造の札所が多い巡礼も稀でしょう。まわっていて非常に楽しめます!ただ、山の上に札所があると言う事は、一つ一つの札所のボリュームが大きくなると言う事。普通の三十三観音霊場よりも多くの時間を費やさなくてはいけないでしょう。・・・それ故、結願の喜びも得難いものです幸運な事に長野県には至る所に名湯が湧いているため、巡礼の助けとなることでしょう。信濃三十三観音霊場は公式サイトの解説や朱印所紹介が充実しており、それを見て計画を練っておけば、まずつまずくことはないでしょう。公式サイトは↓のリンクからご覧ください。・信濃三十三観音札所めぐり全札所の御朱印と位置は下のリンクからご確認ください。・信濃三十三観音霊場 御朱印の記録札所記事をまとめたページはこちらです。・信濃三十三観音霊場 札所記事一覧以上です。
2025年12月24日
コメント(0)

長野県一円に散らばる観音霊場をまわる巡礼です。長野県は岩手県同様かなりの広大さ、それ故巡礼には通常の三十三観音霊場よりも遥かに時間がかかるでしょう。更に信濃三十三観音霊場は、基本御朱印は直書き。それ故に札所と朱印所が離れている所もかなりあります。札所は35か所でも、実際にまわる寺院はその1.5倍くらいだと思った方が良いでしょう。札所の解説や朱印所の詳細な位置などは、公式サイトの方でご覧になれますので、そこで良く予定を立ててから巡礼に赴かれるのが最適だと思います。僕自身行き当たりばったりで周りましたが、それ故に朱印所探しに苦労しました。この巡礼は本当に計画が物を言う巡礼でしょう。札所は主要な街道沿いにあるため、街道ごとにまわっていくのが推奨されています。発願:2025.10.5信濃三十三観音霊場一番札所:仏眼山 法善禅寺御詠歌逆縁も 洩らさで救う西谷の 巡礼塔を おがむ尊さ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二番札所:宗善寺観音堂(楊柳山 宗善寺)御詠歌おしなめて 知るも知らぬも宗善寺 寺へ参るは 後の世のため本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未※朱印所は一番札所:仏眼山 法善禅寺三番札所:笹命山 岩井堂御詠歌安坂川 波間にむすぶ岩井堂 うろくずまでも 浮かみこそすれ本尊:古司の尻つみ観音(馬頭観音) हयग्रीव札所記事未※朱印所は札所近くの宮下家四番札所:大里山 風雲庵御詠歌清野寺 立ち出でみれば霧雲の 晴るるところは もとのすみかよ本尊:清野観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未※朱印所は観音堂近くの市川家五番札所:倉科山 妙音寺御詠歌くらしなと 思えばいずる明星の ひかり田水に 浮かむ星影本尊:竹ノ尾観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未六番札所:洗渕山 観龍寺御詠歌雨の宮 森の木陰に寺見えて 参る心は 涼しかるらん本尊:森の観音さん(千手観音) सहस्रभुज札所記事未※朱印所は龍灯山 長雲寺七番札所:蟲歌山 桑台院御詠歌虫生田に かげを隠すは東条 有明月は 西にかたむく本尊:虫歌観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未※朱印所は杵淵山 福徳寺八番札所:時頼山 西明寺御詠歌水上を さし出でみれば西明寺 岸うつ波に 船ぞ浮かめる本尊:吉窪観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未※朱印所は札所近くの塩入家九番札所:蓑堂御詠歌井の上や 夜な夜なきたるみのん堂 雨はふるとも 身をばぬらさじ本尊:べべ出し観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・九番札所:蓑堂 登山者に嬉しい利益もたらす観音堂※現在登拝不可、遥拝のみ可能。朱印所は東麓の樋口家十番札所:妙徳山 高顕寺 観音堂御詠歌あづまやの 川瀬の波の音聞けば み法の船の たがわざりけり本尊:千手千眼十一面観音 सहस्रभुज札所記事未十一番札所:仏智山 明真寺 観音堂御詠歌清滝や 川瀬の波の繁ければ 心静めて 頼む後の世本尊:清滝観音 または 養蚕観音とも(千手観音) सहस्रभुज札所記事未※朱印所は杵淵山 福徳寺十二番札所:菩提山 無常院 観音堂(中見堂)御詠歌中見堂 参りて拝むありがたや よきもあしきも もらし給ふな本尊:子育観音(馬頭観音) हयग्रीव札所記事未十三番札所:恵日山 開眼寺御詠歌開眼寺 後ろは山に前はよし 北を流るる 志川なるらん本尊:日不見の観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十四番札所:姨捨山 長楽寺 観音堂御詠歌音に聞く 姨捨山を来てみれば 月の都は ここにこそあれ本尊:姨捨観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十五番札所:富蔵山 岩殿寺御詠歌罪科も 露と消えなむ岩殿の 松吹く風も 御法なるらん本尊:馬頭観音 हयग्रीव札所記事未十六番札所:阿弥陀山 護国院 清水寺 観音堂御詠歌かりそめも にごる心を 求むなよ 影清水に 月は澄みぬる本尊:保科観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事・十六番札所:阿弥陀山 護国院 清水寺 観音堂 保科の地に建つ信濃清水寺十七番札所:福寿山 関昌寺御詠歌昔より 大悲の御影今見堂 後世こそ大事 助け給へや本尊:正命観音 または 今見堂観音 とも(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十八番札所:金峯山 長谷寺 観音堂御詠歌はつせでら 松の葉ごしの影よりも 遠に見えゆく とをの山寺父母の 菩提のためにはつせでら 建ててぞ祈る 大慈大悲を本尊:人肌観音 または 長谷観音とも(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十九番札所:小菅山 菩提院 観音堂御詠歌小菅寺 南を見ればあづまやの 誓を頼み 願ふ後の世本尊:馬頭観音 हयग्रीव札所記事未二十番札所:鷲峯山 長安寺 観音堂御詠歌岩井堂 岩にぞ御堂懸けつくり 谷をへだてて うつす水かげ本尊:岩井堂観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未※朱印所は醫王山 神宮寺二十一番札所:岡田観音堂(小沢山 常光寺)御詠歌本山や 常の光のみ寺にぞ 有明月に 朝日輝く本尊:岡田観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十二番札所:羽広山 仲仙寺御詠歌はるばると 登り向かえば仲仙寺 いつも絶えせぬ 松風の音本尊:羽広観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十三番札所:龍洞山 宝蔵寺 観音堂(岩谷堂)御詠歌宝蔵寺 見上げてみれば岩谷堂 峯の松風 谷川の音本尊:岩谷堂観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十四番札所:法国山 阿弥陀寺 観音堂(岩屋堂)御詠歌唐沢や 岩間に結ぶ観世音 誓いの水は 汲めどつきせじ本尊:岩屋観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未※朱印所は桑原山 正願寺二十五番札所:天陽山 盛泉寺御詠歌参るより 心も清き水沢の 誓も深き み寺なりけり本尊:水沢観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未二十六番札所:栗尾山 満願寺 観音堂御詠歌ありがたや 功力も深き観世音 導き給へ 弥陀の浄土へ本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未二十七番札所:金峯山 牛伏寺 観音堂御詠歌来世にて 死出の山路はよも越さじ 金峯山へ 参る身なれば本尊:うしぶせ観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十八番札所:龍頭山 龍福寺御詠歌鳥羽の山 登りてみれば龍福寺 田子の浮き舟 松風の音本尊:鳥羽堂観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未※朱印所は嶺南山 全芳院二十九番札所:布引山 釈尊寺御詠歌望月の 御牧の駒は寒からじ 布引山を 北と思へば本尊:布引観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十番札所:歓喜山 正法寺 観音堂御詠歌正法寺 月は三ヶ野の峰に出で 下る片丘 寺のともしび本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十一番札所:慈眼山 広福寺御詠歌広福寺 誓を頼む八重桜 峰の嵐も 吹きや散らさじ本尊:乳出し観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未※朱印所は万年山 明松寺三十二番札所:椿峯山 西照寺御詠歌椿峰や 高き恵みはいかばかり 深き罪身も 浮かぶとぞ聞く本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未※朱印所は三十三番札所:宝珠山 高山寺三十三番札所:宝珠山 高山寺 観音堂御詠歌高くとも 安く登れよ寺坂を 九品浄土へ 参る身なれば本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未客番札所之一:北向観音堂御詠歌いくばくの 人の心を澄ますらん 北向山の 峰の松風本尊:北向観音(千手千眼十一面観音) सहस्रभुज札所記事・客番札所之一:北向観音堂 火口から出る星見の観音堂客番札所之二:定額山 善光寺御詠歌身はここに 心は信濃の善光寺 導き給へ 弥陀の浄土へ本尊:善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来) अमिताभ आर्यावलोकितेश्वर महास्थामप्राप्त札所記事未以上です。
2025年12月24日
コメント(0)

今年の夏の奥州大巡礼にて参拝しました。登米市の中心街から離れて東に進むこと数km、気仙沼の海岸部に至る道沿いに米川という集落が広がっています。この集落の裏通りに奥州三十三観音霊場の札所が境内を構えているんです。参道の脇が駐車場になっているので、車でも安全。まずは通りに面した入口の方から見ていきましょう。ここには宝珠地蔵尊という形態の石仏が置かれていました。錫杖を持たずに、宝珠だけを両手で抱え込む様に持っているのが特徴です。地蔵の隣には古めかしい経塚。碑面には今光明最勝王経と刻まれています。いったいいつ頃写された経典が収められているんでしょうか、気になりますねぇ。それでは参道を進みましょか。2025.8.6奥州三十三観音霊場十四番札所:法輪山 大慈寺参道の突き当りに悠然と建つのは、この寺で最も古い伽藍である山門です。この寺の開創自体は奥州藤原氏時代まで遡れるようですが、奥州合戦後に庇護者を失い廃寺。再興されたのは数百年後の1429年、奥州曹洞宗の根本 正法寺四世中山良用大和尚によってです。この時に建立された山門は当時の姿を保ったまま、今目の前にあるのかと思うと感涙もんです。山門に懸かる扁額も年代物。字も流れる様に滑らかで美しい・・・!門をくぐり境内へ。階段を上り一段高くなっているところに本堂やその他の伽藍が置かれています。右側に勢いよく建っているのは鐘楼。デザインも趣深く良いですねぇ!手前にはまたしても経塚です。境内左側には子安観音。そんで句碑です。この唄は奥州三十三観音霊場の御詠歌になっているものです。詠み人はなんと西行法師。奥州行脚中に当寺を詠んだものとされており、それが今日まで伝わっていることに本当に驚いております。平清盛の知己であった人物の唄と思えば、感慨もひとしお。西行歌碑の隣には日人の歌碑というのが置かれていました。日人は当国桃生出身の俳人で、生まれ:宝暦8年(1758年)・没:天保7年(1836年)。門弟の人数は500人以上ともされ、藩御用達の腕前であったそうです。見ながらも 桜見ようと 思ひけり日人句碑の側には小さな祠。これは当山鎮守の秋葉山大権現。おそらく火災盗難防止を願ってのものでしょうねぇ。ほんでドン!本堂です。現在の本堂は平成23年に再建されたもので、まだまだピッカピカです扁額です。”慈”の字に特徴があります。ご由緒も見てみましょう。法輪山 大慈寺曹洞宗 大梅拈華山円通正法寺末寺(中興)開山:中山良用大和尚本尊:釈迦如来 ・・・。旧東和町は、米川、錦織、米谷の一町二村が合併した町で、その三地区が交わる飯土井に総合支所をはじめとする公共施設が集中している。大慈寺は飯土井から国道346号を北に2.5km、米川の町にあり、JR東北本線瀬峰駅からはミヤコーバス佐沼営業所乗り換えの市民バスで乗車1時間の行程である。この米川地区と隣町(岩手県一関市藤沢町)にかけては隠れキリシタンの遺跡の多いところで、白いチャペルと鎮守の森が混在する独特の歴史風景を目にすることができる。にぎやかな商店街の裏通り、標高302mの八森山の山裾にたたずむ大慈寺は表通りの喧噪とは対照的な静寂の中にある。 この寺は、開山以来たびたび災害に遭って、堂塔をはじめ多くの寺宝を失い、寺の由緒について詳しく知る術もないが、開創は藤原秀衡と伝えられていることから嘉応年間(1169~1170年)前後と推定される。当初は天台宗で諏訪森大慈寺と号し、藤原氏隆盛の時代には栄えたが、文治5年(1189年)の藤原氏滅亡とともに衰微し、やがて廃寺の状態となった。しかし、永享元年(1429年)に岩手県奥州市水沢区黒石町にある名刺、曹洞宗東北大本山・大梅拈華山 円通 正法寺四世の中山良用大和尚が自らの隠居寺として入山し、 天台宗を曹洞宗に改めて再興、山号も現在の法輪山 大慈寺とした。その後の寺運は隆盛を極め、正法寺門派538ヶ寺の中の8主寺となり、多くの末寺を持つまでになった。 前述の通り、何度も災害で堂宇を焼失しているため現在の本堂は平成23年に再建されたもので、さすがに近代的な雰囲気は否めない。内陣には、大慈寺御本尊 釈迦牟尼仏が安置され、十四番札所御本尊聖観世音菩薩は現在、本堂右脇のホールに安置されている。当初の十四番札所御本尊は運慶の作と伝えられていたが、火災によって焼失し、現在の御本尊は後に奉納されたもので、作者も年代も定かではない。 この寺で唯一、往時の姿をとどめているのが、永享元年(1429年)に開山中山良用大和尚によって建立された山門である。度重なる災禍を免れて570余年の歴史の重みを今に伝え続け、昭和47年には旧東和町の史跡建造物に指定された。 ・・・。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 68~71ページ より引用奥州の大古刹 黒石寺の奥之院とも称される正法寺の末寺でした。いやー、正法寺、538末寺って本当にすごくないですか?さすが曹洞宗第三之本山と称されるだけありますよねぇ。末寺は岩手県の県南地方を中心に分布しており、その影響力の強さが伺えます。大慈寺の長い歴史の中で、札所本尊は一時焼失してしまいます。後に納められた聖観音像は、作者も創建年代も不明と分からない事だらけ。堂内の片隅に、今でも鎮座しているようです。そして大慈寺には面白い祭事が伝わっております。まずは説明書きを見てみましょう。米川の水かぶり 毎年2月の初午の日に行われる火伏せ行事で、厄払いや新たに地域の集団に迎え入れる男性の成人儀礼と通過儀礼の意味も有する。水かぶり宿の口伝によれば、江戸時代中期には既に行われ、一度も休まずに続けられてきたという。一説には、地区内の諏訪森大慈寺(1170年建立)の修行僧の行が起源とも言われている。 水かぶり宿に集まった米川五日町の男たちは、裸体に白の股引きを着用し、稲わらで作った「しめなわ」、「あたま」、「わっか」を身につけ、「わらじ」を履き、顔には「かまどの煤」を塗る。水かぶり装束を身に纏い、水かぶり宿を出発し、大慈寺境内の秋葉山大権現に参拝し、来訪神に化身する。その後、家々に水をかけて火伏せをする。沿道の人々は、装束の稲わらを抜き取り、火伏せのお守りにする。 水かぶりの一団とは別に、手鐘を鳴らす墨染僧衣の「火男」と、天秤棒に手桶を担いだ「おかめ」が托鉢の形で家々を訪れる。2人は、福をもたらす来訪神と言われる。 先人たちは、自然の力を恐れ敬い、崇め奉ってきた。「火伏せ」の意味も、災いとならないよう火の神様に祈願する1つの形である。昭和46年10月8日:東和町無形民俗文化財指定平成3年8月30日:宮城県無形民俗文化財指定平成12年12月27日:国重要無形民俗文化財指定平成30年12月1日:「来訪神仮面・仮装の神々」ユネスコ無形文化遺産登録登米市教育委員会おっほー!まさか来訪神の祭事の傍流がここにも伝わっていようとは!来訪神というと秋田の”なまはげ”や”あまはぎ”、鹿児島県悪石島の”ボゼ神”、沖縄県宮古島の”パーントゥ”などが知られていますが、こちらもなかなかに面白そうです。もととなっているのは修験僧の行とありますが、それよりは何か神道と結びついている行事な気がしますが。または両者の融合したものか・・・。いずれにしても面白いですよね。秋葉大権現の祠に詣でて来訪神と化し、家々に水を撒くことで神徳を与え火伏を行う・・・。うーん、修験味も感じられますねぇ。実際に米川の水かぶりを見てみましょう。下のリンクからどうぞ!・YouTube / 米川チャンネル / 米川の水かぶり【令和七年】斜めから。来訪神に関連する祭事が残っている面白い古刹でした。東北にはこうした奇祭や古態を残した祭などが残っていますが、今回のものはより古い時代の祭りが生き残ってきたものなんではないでしょうか。来訪神の祭事、どれも面白そうです。これらが何時から行われているのか、その源流はどこなのか、考えるだけで夜も眠れません。御詠歌頼母しや 大慈の法の誓には 玉の台に 花の白雲たのもしや だいじのほうのちかいには たまのうてなに はなのしらくも札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2025年12月23日
コメント(0)

岩手県・秋田県・宮城県・山形県の県境に東北有数の温泉地が広がっています。鬼首温泉、中山平温泉、川渡温泉などなど、複数の温泉地が江合川に沿って並んでいるのです。それらの温泉地の丁度中ほどにあるのが鳴子温泉郷。少々店屋などは寂れていましたが、それでも冬季には良質な温泉を求めて湯治客であふれているようです。鳴子温泉郷の一画に小さな施設を構えているのは滝の湯。小さいながらも湯は極上。値段もかなり手ごろです。ここには3回目の福島出張の帰りと、ゴールデンウィークとに訪れましたが、いづれもかなり満足することができました。昨今の厳しい冷えも、ここの湯に浸かればたちまち吹っ飛んでしまうことでしょう。鳴子温泉 滝乃湯細路地の奥に施設があります。近くの鳴子温泉神社の境内が駐車場になっており、そこから参道を遡って向かいました。鳴子温泉神社から滝の湯に向かうと、丁度湯を運ぶ木管が見えますよ!白く濁ったこの泉質、計り知れないパワーが秘められております。実際ここに浸かった後は内臓が元気になって、いくらでも飯を掻き込めてしまいました。入口近くに券売機があり、そこで券を購入して中へ。脱衣所は少々狭いですが、総木造なのでかなり情緒があります。江戸後期にタイムスリップしたような感が味わえ、非常に気に入っています。浴室に入ると更に趣深いんです。シャワーの類はなく、上り湯で垢を落とすシステムです。古い湯にはよくあるシステムですね。青森県だと谷地温泉が丁度そんな感じでしょうか。他は栃木県の鹿の湯などもこのシステムです。湯舟は2つ。手前の大浴場と、奥の打たせ湯です。大浴場は十数人が浸かれるくらいの正方形の湯舟で、先ほど見た木管が上から湯を注いでいます。自由に水で埋められるんですが、それも周りの人次第。熱めが好きな方は埋めず、ぬるめが好きな方は結構埋めているんではないでしょうか。タイミングによっては源泉そのままの温度なので、かなり熱いです。1度目は相当に熱く、1分も浸かれば十分といった感じでした。ですが2度目は結構ぬるめで少々物足りない感じ。その時々の状態を楽しみましょう。奥の打たせ湯はまぁ、首・肩・背中をがっつりほぐしてくれます。定員は3名くらいだったでしょうか、なかなか狭き門。ここも湯舟になっているため、半身浴しながら打たせ湯を受けるという感じになります。極上の湯体験!何よりもここは雰囲気が最高で、何度でも行きたくなります。設備がどうとかは関係ありません。ここに最高の湯があることは確かなんですから鳴子温泉 滝乃湯料金:300円(2025.5.4現在)休憩所の飲食物:なし入浴備品の販売:あった気がする湯の温度:41~45℃(変動)湯の種類:2種類サウナ:無公式サイトへのリンクです。・鳴子温泉「滝の湯」- 公式以上です。
2025年12月22日
コメント(0)

丁度1年前の頃、僕は2度目の福島出張の真っただ中でした。その現場は2度目ということもあり、そこまで仕事で苦はありませんでした。そうやって心にも余裕が出ると、ついつい遠くへ足を伸ばしてしまうんですよね!この日は夜明け前に拠点を出発し、ひたすら南下。日の出から数十分といった頃合いにひたちなか市に到達。そこからは太平洋沿いを進み、大洗町へ赴きました。以前茨城の友人と東国三社巡りをした折、大洗磯前神社という古社があると聞き、とても気になっていました。その時は鳥居を見て終わったんですが、今回は参拝まで、しっかりと。・・・境内・社殿、素晴らしいです。・・・神磯の鳥居、感激物です荒く削られた岩礁に小さな鳥居が建てられ、時折白波に撫でられ、飛び散るうしおが陽光を受けて輝きます。美しい・・・この一言に尽きますね、ホント。その後はそのまま太平洋沿岸を北上。大洗から福島いわきの蟹洗を目指してひた走ります。その時に立ち寄ったのが水木町。ここには延喜式内社の泉神社が鎮座しており、街中に在りながらも古来よりの姿を留めているという珍しい神社でした。ほくほくした気持ちで境内を後にし、近くの大甕神社を目指すことにします。大甕神社余りにも長い導入、読んでいただきありがとうございます。これだけ長いのは、この日のことがとても印象的で心に残っているからです。大甕神社の存在は以前から知っていたんですが、1回目の福島出張の時はまわる時間が取れず、断念していました。青森に帰ってからも食い入るようにグーグルマップの写真をスワイプ、凝視、スワイプ、凝視・・・といった具合に、かなりこころ引かれていたんです。大甕神社は特に延喜式内社では無いんですが、武甕槌神・経津主神2柱による東国征伐にまつわる神話が伝わっており、物語的にも激アツのスポット。ここをまわらず青森に帰られようか・・・強い信念を心に据え、今回念願の参拝を果たしました。境内の入口は2つあります。社務所に近い参道と、拝殿に近い参道です。今から見るのは社務所に近い方で、こちらには立派な鳥居と随神門。かなりの見ごたえですよねぇ!うわー!うわーーー!うわー!ただただ奇声を発する事しか出来ません。なんですかこの随神門は・・・美しすぎますよ。そしてすぐ脇には社務所。実は拝殿よりも大きく立派な社殿となっています。社務所から見える所に今回の目玉といって差し支えない社が鎮座しています。決して大きな社殿では無いんですが、どことなく存在感がある気がします。社には扁額が下がり、そこに刻まれている神格名は”甕星香香背男(みかほしかがせお)”、伝説上は武甕槌神・経津主神でさえも服従させられなかった程、武に秀でた荒神だったそうです。説明書きも見てみましょう。我国最強神 甕星香香背男大神 大甕と称する磐座は宿魂石と言い、日本神話に登場する我国最強の神 甕星香香背男が祀られている。我国最古の歴史書「日本書紀」に天照大神が鹿島・香取の武神命じて、服はぬ神々草木石類に至るまで、国中を平定したが、勇猛果敢に戦う甕星香香背男を征服することができなかったとあります。 一説によれば、大和朝廷の支配に抵抗した最強の「蝦夷の酋長」を神格化したとも伝わります。ふむ、この社は遥拝所と言う事でしょう。この背後に丘があって、その頂上に宿魂石という御神体があるみたいです。それは後から見るにして、今はこの甕星香香背男大神について考えてみましょう。一般的には流星の神格化と言われている甕星香香背男大神ですが、その根拠は神格名にあるようです。名前の”甕星”という部分、別称の”天ッ甕星”から、明らかに星の神格であることは明白です。そして天体の規則に従わない荒ぶる星といえば流星・・・という風にイメージされたのかも。蝦夷の酋長というよりは、何か隕石衝突などの自然現象をモチーフにしている様に思うんですが・・・どうなんでしょ。悶々と考えつつ、境内を更に進みます。このまま進むと社殿の方に出るんですが、その道の脇には様々な末社などがありますよ。数ある石碑や祠に混ざって、なぜか鶏がおりました。尾羽が長く奇麗なカラーリングをしています。そして末社:天満神社。祭神は菅原道真公。更に隣の神輿舎の神輿。まだまだあります。末社:八坂神社。祭神は素戔嗚神。宿魂石と刻まれた石碑と共にあるのは大杉神社。稲敷市に鎮座する古社で、こちらも茨城県を代表するような有名神社です。こんなのもあります。白蛇塚、白い石で囲われていました。白蛇というと弁財天の使いの宇賀神が思い浮かびますが何か関係があるんでしょうか。これで最後、末社:稲荷神社です。白狐の石像が祠を飾ります。oh~、やっとこさ社殿に着きましたね。まずは手水舎で手を清めまして・・・。一回境内から出ます。これは表参道から見た拝殿です。こちら側にもしっかり鳥居がありますねぇ。この手前に駐車場が整備されているので、車で向かう方はこちらからの方が参拝しやすいかもしれませんね。拝殿はこんな感じです。中規模の社殿ですが、所々の装飾は素晴らしく、全体的なまとまりの良さも感じられます。この社殿手前の両側に若木が植えられているのが好みなんです。この構成だと小さな社殿だとしても、不思議と古社の風格が漂い始めるんです。似た構成のものは福島古殿の伊波止和気神社が挙げられるでしょうか。興味があればご覧ください。そんでご由緒です。大甕神社の由緒御祭神:武葉槌命(建葉槌命、倭文神) 織物の神格地主神:甕星香々背男大神(天津甕星、天之香々背男)例祭:5月5日 当社の創祀は、悠遠住古にして詳らかならずといえども、社伝には皇紀元年と言へり、御祭神 武葉槌命、地主神 甕星香々背男の霊力を封じ国土開発・国家静謐に御稜威灼然なり。 以来、此の地の住民大甕神社を鎮守と仰ぎ奉り各々家業に励み、天下泰平を祈念しつつ現今に及べり。斯かる創祀の古き当社なれば、大甕山上古宮の地に在りても、祭祀の厳修怠ることなし。 時移りて、江戸期藩命を蒙り、甕星香々背男の磐座上に、社殿を造営遷座せり。これ時 元禄8年(1695年)旧暦4月9日なり。幾多の星霜を経たる今日に至るも御神徳著く赫々たり。 是れ偏に氏子崇敬者の丹誠に據るものなり。ここまで甕星香香背男大神について見てきましたが、あくまでも大甕神社の祭神は武葉槌命(倭文神)です。この神格は荒ぶる香香背男を鎮めたことでも知られています。常陸国二之宮 靜神社の祭神としても有名ですが、どのように香香背男を鎮めたのかについては言及されていないようです。武葉槌命が織った素晴らしい織物に感銘を受けて服属した・・・なんてことはなさそうですよねぇ?荒ぶる星の神をそれで止められるでしょうか。うーん、気になる。神話はやはり詳細がはっきりと言及されていない部分が多いですよね。他部族を服属させた時に、うまく統治するには自分たちの神格の正当性を示さなくてはいけないでしょう。相手の信仰の神格を、上手く自分たちの信仰する神格の下につけることで、統治の正当性を示す・・・そうした上古の吸収合併のドラマが感じられます。・・・実際のとこどうなのかはわかんないんですがね。再び拝殿に目を向けると、懸魚の所に面白い表情をした飛龍がぶら下がっています。・・・この龍、笑ってるね?”笑龍(しょうりゅう)”と称されるこの木彫は、昭和8年の社殿建替えの際、彫刻師 後藤桂仙氏によって彫られたものです。ニガッと口の端を持ち上げて笑う龍は、この神社以外では見た事ありません。珍しい造詣ですねぇ!拝殿に懸けられた扁額には式外社と有りますねぇ。拝殿の脇障子にも見事な木彫が。こちらも後藤桂仙の腕になるものでしょう。脇の所には「星香々背男ヲ金田山魔王 石上ニ誅スルノ図」とあります。金田山魔王が何なのかは分からなかったんですが、神話から考えるに武葉槌命のことではないでしょうか。相当な武神と捉えられていた様です。それでは本殿(宿魂石)まで行ってみましょうか。拝殿の左手から登っていけます。社殿の裏手はちょっとした森の様になっており、その奥の丘に石が祀られています。上まで行くのに普通に鎖場があったりと、結構デンジャーです。本殿までの道の脇にまたもや末社。これは天満社だった気がするんですが・・・。おっ、見えてきました。あれが本殿でしょう。側に宿魂石もあるはずなんですが、ここからは見えませんねぇ・・・。正面に回ってみますと、思わず「おほーっぉ!」という驚きの声が出てしまいました。柵で囲われた社が本殿でしょうね。そしてその手前には注連縄がまわされた巨岩が。宿魂石とはこのことでしょう。まさに御神体といった風情です。本殿は小さいながらもしっかりと飾り付けられています。龍・鳳・象・獅子などスタンダードな木彫を中心に、細部まで作り込まれています。長さがしっかりと揃えられた細かな垂木もなかなかお気に入りなんです。脇障子もほら、すんごいでしょう!?こちらも後藤桂仙氏の作でしょうか。反対側も良し!宿魂石も眺めてみましょう。まるで天から降ってきたかのような荒々しい外観・・・。磐座となるのも当然ですよねぇ、こんな見事な岩ならば。それでは次は旧鎮座地を目指します。宿魂石の丘を下ると、お札がこれでもかと張られた円形の石が置かれています。これは境界石と呼ばれる大岩で、縁切りの験があるそうです。こんなにも縁切りを望んでいる方がいるというのも、少々恐ろしい・・・。随神門、鳥居と過ぎまして、横断歩道を渡って、車道を挟んで境内の反対のエリアに来ました。ここには末社か、それとも単立か、久慈浜稲荷神社が鎮座しています。由緒不詳。ここから祖霊社へ。そんで一般道を介して古宮まで向かいます。祖霊社は言わずもがな、地域の英霊が祀られております。祖霊社の脇には鳥居が建ち、その先には石の柵に囲われた謎石が祀られていました。その奥の盛土には山祇の社。細っこい民家脇の道をズンズン進んでいきますと、かつての境内に到着です。今ではこの様に石碑と石祠しかありませんが、かつてはここで大甕神社の祭祀が執り行われていたんです。旧境内からは水木町が一望できます。波穏やかな太平洋も青く輝き、どこまでも続くような蒼天と共に見る者の心を奪います。神がいつまでも見守ってくれるように・・・そういう気持ちを古代の人は持っていたんではないでしょうか。村を見渡せる高所に神格を祀るのはそのためでしょう。本当に美しい景色でした事の真偽は置いといて、本当に面白い伝説が残る神社でしたねぇ!何といっても宿魂石が古代祭祀の趣があって非常に良かったです。水木町は縄文の頃から人が住んでしたとか聞きますが、そうした古い土地には古い信仰が残されているものです。大甕神社も由緒通りなら(皇紀換算で)紀元前の創建となる超古社なんですが、それはさすがにちょっと怪しい・・・。とは言え、見ごたえのある境内・社殿は茨城県内でも随一のもの。ホントに楽しめました今回貰った御朱印です。通常のもの見開き金字のもの大甕神社オリジナル御朱印帳(表)こちらの面はまるでグリモワールの様なデザインです。大甕神社オリジナル御朱印帳(裏)公式サイトへのリンクです。・大甕神社以上です。
2025年12月19日
コメント(0)

出張も既に2ヶ月が過ぎ、残すところ4ヶ月となりました。仕事もそうなんですが、こっちはあまりにも面白い神社仏閣があり、それら全てをまわり切ることができないと思うと非常に歯がゆいです。甲斐百八霊場についてもそうですが、なかなか巡礼が進みません。今のところ進捗は20%といったところでしょうか、今年中にもう少し進めたいところ。甲斐百八霊場は山梨県のありとあらゆる名刹をまとめた霊場です。今回紹介する寺院も相当な古刹で、かの武田晴信の菩提寺です。武田滅亡に際して、織田信長に焼き討ちされるなど、数々の法難がありましたが、今日に見る禅宗特有の落ち着いた庭園風境内、壮大な規模の伽藍などなど、時の有力者の庇護を受けて再興されております。それでは見てみましょう。甲斐百八霊場九番札所:乾徳山 恵林禅寺山梨から秩父へと抜ける雁坂道。その脇に境内を構えるは14世紀開山の古刹 恵林寺。今でこそ入口は幾つも有りますが、表参道はここ黒門から伸びる道です。門の脇には2本の木。冬枯れの広葉樹と整えられた枝葉の松、これらが門を飾ります。黒門をくぐると樹々が立ち並ぶ落ち着いた雰囲気の参道が・・・。大きな禅寺はこうした趣ある境内を味わえるので本当に好みです。津軽にも禅宗(主に曹洞宗)が多くあるんですが、派手すぎないけれども細部まで優れた装飾がなされている伽藍も見られ、”わびさび”という言葉そのままの風情が感じられます。さすがにここまでの規模の寺院はありませんが、楼門で有名な長勝寺は是非とも直に見ていただきたい!参道の中ほどにはまたもや門。先ほどの総門(黒門)に対して、こちらは赤門と呼ばれており、その名の通り脚部が鮮やかな朱色をしています。屋根は檜皮葺き、なんとも、こう・・・、良いですよねぇ!なんでも桃山時代に建立されたとかなんとか。その時代の特徴が有意に見られることから、国重要文化財に指定されております。赤門に懸かるは古ーぅい山号額。かなりアジが出てますねぇ!こりゃぁ、いい赤門からまだまだ参道が続きます。左側には日本庭園。ここに雪が積もった日にゃぁ、もう、すんごいでしょうねぇ(語彙消失)!参道右手も同じように庭園になっているんですが、奥の方には一休庵という茶屋があり、一休み一休み・・・といった具合に休憩も出来そうです。ここ以外にも総門の隣や境内の端っこなどにもお店があって、人々の憩いの場といった感じ。・・・直接の関係があるのかは不明ですが、焼き討ちにあう前は境内を囲むように沢山の塔頭があったみたいなんです。今では少々離れたところに大雄山 岩松禅院があるのみで、他の塔頭は現存していません。○○庵というと塔頭感が有りますよねぇ?もしかして還俗して茶屋を開いたんでは?なんて妄想しながら、境内の更に奥を目指しました。またもや見ごたえのある門が!こちらは山門。かつての焼き討ちの際、この楼上に僧侶や武田勢が集められ火をつけられたと言われています。赤々と燃え上がる門、揚がる悲痛な叫び・・・相当に凄惨な情景だったでしょうねぇ。この時の住職は快川国師。武田晴信と大変懇意にしていた僧で、美濃国の出身といわれています。彼もこの時楼上にて焼死しますが、その時に詠じた唄というのが今でも恵林寺に伝わっています。安禅不必須山水 滅却心頭火自涼安禅は必ずしも山水をもちいず 心頭を滅却すれば火も自ずから涼しどこかで一度は聞いた事のある唄ですよねぇ!まさかこの寺で詠まれたものだったとは驚きです。門の脚部には今でもその文が刻まれておりました。そんな武田の終焉を伝える山門は、今では棟札と共に山梨県指定文化財となっています。山門の脇には武田晴信の歌碑が残っています。この唄は、晴信が快川国師に花見に招かれた時に詠じられたもの。最初は戦支度で忙しく、それが落ち着いてからと思っていた様ですが、国師の誘いに折れ、満開の時期に参拝。その時の桜の美しさに感嘆して、この唄を残したとされています。観桜の詠歌誘引ずば くやしから満しさくら花 実こんころは 雪のふるてら信玄これまで晴信公には猛々しい武人のイメージを持っていましたが、こういう唄を見てしまうと文武両道の傑物であったことが分かりますよね。国師と共に咲き誇る桜花を愛でたんでしょうか。快川国師の略歴については公式サイトに記載がありますので、こちらからご覧ください。山門をくぐると大伽藍がお待ちかね。正面に見える御堂の後方に本堂が置かれているようです。本堂は塀によって囲まれ、手前の堂の両側に入り口と思しき門が置かれていました。まずは御由緒を見てみます。乾徳山 恵林寺臨済宗妙心寺派開山:夢窓国師開基:二階堂出羽守貞藤本尊:釈迦三尊 恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹である。元徳2年(1330年)に、甲斐牧ノ庄(かいまきのしょう)の地頭職をつとめていた二階堂出羽守貞藤(道号は道蘊)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しました。 武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564年)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めました。 天正4年(1576年)4月、遺言通り3年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、父信玄の盛大な葬儀を厳修しました。しかし天正10年(1582年)3月、勝頼は時運を味方につけることができず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡しました。同4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言葉を残し、100人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。同6月3日、「本能寺の変」によって信長が斃れて後、徳川家康の手により復興され、また徳川五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢美濃守吉保の庇護で寺運は発展、柳沢吉保嫡男の吉里の代に柳沢家は奈良大和郡山に転封となるも、吉保夫妻は恵林寺を菩提寺として霊廟をもうけました。 庭園は鎌倉時代、夢窓国師の作庭で、国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれています。臨済宗妙心寺派 乾徳山 恵林寺 / 恵林寺の歴史 より引用甲斐東方、牧の荘と呼ばれる荘園の領主 二階堂出羽守貞藤公による創建で、後に甲斐武田氏十六代晴信・柳沢吉保夫妻の菩提寺となるなど、時の領主と関りの深い寺院と言えます。そのためか、焼き討ちにあったにもかかわらず、現在でも広大な境内と大伽藍を有する甲斐国指折りの名刹として親しまれていました。開山の夢窓国師は中世の禅宗僧として最も有名な僧と言われているようです。詳細は公式サイトにてご覧になれますが、本堂裏手の庭園も国師自らが手を加えたものとされています。山水の風情に禅の平穏を見、それを境内に再現することを目指したこの高僧は、自らの意思に反して、徳の高さ故時の有力者から重用され、血なまぐさい政争に巻き込まれてしまいます。国師の心の内は下の唄に現れており、清らかなリズムが感じられて好みです。仁人自是愛山静 智者天然楽水清 莫怪愚惷翫山水 只図藉此砺精明仁人は、みずからこれ山の静なるを愛す 智者は天然に水の清きを楽しむ 怪しむなかれ、愚惷(愚か者)の山水を翫(もてあそ)ぶを ただこれを藉(かり)て精明(心)を砺がんことを図るのみ夢窓国師そんな夢窓国師を偲ぶ御堂がこちらの開山堂。本堂の手前、境内の一番手前に置かれた御堂で、甲州市指定文化財となっています。堂内には開山:夢窓疎石、中興開山:快川紹喜、二世末宗瑞曷の3人の像が安置されているそうです。公式サイトにて夢窓国師の像だけはご覧になれます。それでは境内の左側から見ていきましょう。こちらには納骨堂となっている三重塔が置かれています。小振りですが、夕日に照らされた姿は大変な美しさでした。開山堂の左手には本堂へと至る門。この先には枯山水が広がっているんですが、こちらは締め切りです。内部拝観は開山堂右手の庫裏からどうぞ!更に先に進めそうですね。社号標には武田不動尊と刻まれており、行燈の数からしてかなり崇敬篤い仏像なんでしょう。武田不動尊の参道脇には稲荷の小祠。その奥にはまた庭園です。池の中央に置かれているのは芭蕉句碑。有名な”古池や・・・”で始まる唄が刻まれていました。おほーっ、立派な門ですねぇ!この先に控えるは明王殿。本尊は武田不動尊と呼ばれる人の身の丈ほどもある巨像です。武田不動尊は晴信公を模して彫られたものとされ、法量は等身大みたいです。以外と晴信公大きかったんですかねぇ。山梨県指定文化財になっているこちらの像ですが、作仏は室町時代とされ、相当な古仏です。公式サイトにて像容をご覧になる事ができますよ!脇から明王殿を眺めてみましょう。拝殿と本殿の様に2棟が連結されたような造りをしています。この奥の宝形屋根の御堂に武田不動尊は二童子と共に鎮座していました。ここで公式サイトの補足資料も載せておきます。武田不動尊 武田信玄の菩提寺である恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されている。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』巻七五に拠れば武田不動尊像は信玄が京から仏師康清を招聘し、信玄と対面して彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色させたものであるという。 像内は内刳りされ、像底には布張り漆塗の底板があることから、未確認ながら、像内の空洞に像内納入品を納めている可能性も考えられている。 中尊の不動明王坐像は像高92.9cm。胸前の条帛には金泥で武田家家紋である花菱文が描かれている。 『軍鑑』『国志』では信玄の姿を写した像であるとする伝承が記されているが、武田不動尊は左手に索、右手に剣を持つ儀軌どおりの造形で、相貌も伝統的な不動明王像の表現であることが指摘されている。仏師康清は本像以外に県内でいくつかの作品を残しており、大井俣窪八幡神社(山梨市)の旧蔵であると考えられている清水寺(山梨市)の勝軍地蔵像や、円光院(甲府市)の勝軍地蔵像・刀八毘沙門天像などが知られている。臨済宗妙心寺派 乾徳山 恵林寺 / 恵林寺の文化財 より引用それでは開山堂の右手のエリアも見ていきましょう。正面に見える門から内側に進むと庫裏が置かれており、そこで入館料を払って拝観します。因みに恵林寺の境内も甲斐八景に選ばれております。柳沢吉里が選出した、甲斐国を代表する風雅な景色八選です。この石碑によると”恵林晩鐘”、つまり恵林寺にて日暮れに鐘撞く光景がそれでしょう。今回は見れませんでしたが・・・。門をくぐります。あれに見えるは本堂か。かなり大きな御堂です。そして庫裏。こちらも大きく立派です。こちらが件の枯山水です。あの門を抜け、この庭園を横目に、かつては本堂に参拝していたんではないでしょうか。本当に日本らしい趣ある風景ですねぇ!この先は撮影できないと言う事で、解説はここまでにします。とりあえず先ほどの枯山水を見て、その後鴬張りの床を踏みしめ武田不動尊の御前へ。善光寺風の暗い廊下を進み、せせらぎが聞こえる頃には柳沢吉保夫婦の墓・御影堂。夢窓国師作の日本庭園を眺めつつ庫裏に戻る、といった感じです。ここから先は実際に御参拝していただき、ご自身の目でご確認ください(丸投げ)。参拝を終えて広い境内を後にします。ふと振り返るとどっしりと構えた伽藍が日に照らされておりました。禅の世界を体現する静かな境内、独特な伽藍の配置、こうした禅林にはなかなか出会えませんよ・・・。数百年の歴史の重みを味わいつつ、冷えた体をコーヒーで温めながら、木枯らしに揺れる樹叢をしばらく眺めていました。御詠歌?本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・臨済宗妙心寺派 乾徳山 恵林寺以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年12月18日
コメント(0)

尾花沢の市街地から南へ南へと進みます。村山市との境にさしかかる頃には民家も減って田んぼだけが広がっていますが、そんな地域にひっそりと境内を構えるのは五十澤観音堂の別当寺院です。山門は年季が入っており、境内も少々荒れ気味ですが、17世紀に創建された古刹であることは確かです。札所本尊が安置されている観音堂を見る前に、こちらを少し見ていきましょう。境内には古めかしい鐘楼。そろそろ正月ですが、撞鐘の音は響くんでしょうか。そして本堂。寄棟屋根の御堂で、結構大きな建物でした。ここで御由緒も見てみましょう。五澤山 喜覺寺浄土真宗大谷派開山:釈浄信(金森石見守)本尊:阿弥陀三尊 昔、加賀の国の大名金森家の祖先が、代々、守護仏として信仰してきた。戦国時代になって、当時の領主・金森石見守は戦いに敗れ、老臣森又右衛門、加藤惣四郎などを従え、加賀の国から出羽の国に逃れてきた。この人たちは五十沢に住みついて郷士となったが、余りにも浮き沈みの多い世の有様を悲観し、菩提心をおこして、持ってきた観音像を祀ってお勤めしていた。 石見守は、慶長19年(1614年)3月、東本願寺十三代門跡、宣如上人に弟子入りし、法名を釈浄信といい、金森山 喜覚寺を開山した。また、金森山の中腹にお堂を建てて観音像を安置し、村人の参詣を認めた。人々が、この観音を布引観音と呼んでいるのには訳がある。昔から、このお堂の下を通るときには馬に乗らず、必ず馬からおり、手綱を引いて通るようにしていた。その手綱が、布で作ってあったから「布引き」というのである。 元禄年間(1688~1704年)、ここも山火事のためお堂は焼けたが、仏像は釈源正坊という住職が猛火の中から取り出し、しばらくは喜覚寺の内に安置した。源正坊は、信者の間を説きまわり、再建することに成功した。現在のものがそれである。堂内にある三十三観音の木像は、地方の有志の発願により、大正14年(1925年)に安置された。最上三十三観音 / 札所一覧・マップ / 第21番 五十澤 より引用この由緒を見るに、慶長19年の開山の時から既に、境内と離れたところに観音堂があったようですねぇ。そして山号も今とは違うようです。最上三十三観音霊場の公式サイト・グーグルマップでは如金山、御由緒では金森山、そして山門の社号標には五澤山・・・と、どれが最新の山号かは分かりません。このブログでは社号標に従い五澤山ということにしたいと思います。札所本尊の由来も面白いですねぇ。布引観音というと長野は上田に同様の観音札所がありますが、そことは違うシンプルなエピソードです。村人の参詣も許していた、と有り、そりゃ崇敬も篤くなるわけだと得心。歴史の長い観音札所です。斜めから。それではこれから札所の観音堂へ向かいます。ここから数百mほど離れた林の中に鎮座しているそうですが、いったいどのような姿なんでしょうか。2025.9.13最上三十三観音霊場二十一番札所:五十澤観音堂車で来た!・・・んですが、鳥居の周りに駐車場はありません。路駐にて御免。今更仏堂に鳥居が付いていたからって驚くことはありません。これまでの記事を見ていただければ、そんなもの、わんさかありますから。面白いのが明神鳥居ではなく両部式鳥居となっていることです。由緒には有りませんでしたが、神仏混淆の時代もあったんでしょうか。気になる所です。鳥居の先には苔むした参道が続いています。観音堂見たさでこの程度の石段は気にもなりません。すらすらと上っていきます。上まで来ると、こう、絶妙な感じで観音堂が置かれていました。カメラアングルが見つけやすい良配置ですよ、こいつは!いわゆる映えというものでしょうか、すんばらしいです正面から見てみましょう。古めかしい年季の入った観音堂、言うに及ばず歴史が感じられて素晴らしいんですが、なによりもこの納め札の多さたるや、辺りに比肩する者無し。どんだけ崇敬が篤いんですかねぇ、この霊場。最上三十三観音霊場の札所は、こうした納め札で覆われた御堂がホントに多くて、参拝していて面白かったです。観音信仰が篤い篤い土地ですねぇ!もっと近くで納め札を見てみましょう。数多の先達たちに続いて、今回この札所を参拝出来て感無量です。数百年の長き連鎖の上に立つことができました。斜めから。札打ちという言葉をそのままに、お堂を覆うは納め札。如何に優れた堂宇でも、こればっかりは人頼り、霊場巡りの徒となりて、勇んで進むは出羽の路。法詠み唄い、向かうはいづこ。という訳で、本当に趣深い観音堂でした御詠歌ひとはいざ こころもしらぬいさざはの やまのおくにも つきはてるらん本尊:布引観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2025年12月17日
コメント(0)

秋田県というと、南部氏や津軽氏と覇を競った安東氏が統治していたんだろうな、と思っていたんですが、一部は南部氏が押さえていたみたいなんです。この鹿角もその内の1つであり、籠田山月山神社や福聚山 大慈寺(松舘)の開創譚に見える南部と安東の激突があった土地(※16世紀鹿角にて両者が激突したのには変わりないが、由緒での激突地はあくまでも山本郡刈和野で、現在の大仙市付近)です。老僧の情報提供によって勝利を掴んだ根城南部氏は、その後もこの要衝の地を守り続けました。それ故か、鹿角には南部氏諸氏の菩提寺や関連寺院が多く、調べていて非常に面白味があります。今回紹介する寺院は、↑の大慈寺の中興を務めた虎山玄龍和尚の出身寺院であり、国内外に幾つもの末寺を持つ格式の高い曹洞宗のお寺です。2025.6.14祝融山 萬松寺山間に広がる広大な田んぼ。その間に民家が建ち、小さな村を形成しています。そんな村の奥に境内を構えているのが祝融山 萬松寺です。ハウスの横に大きな駐車場があるので車でも安心。駐車場から山門までじゃりけんどが伸びているので、進んでみましょうか。境内は白壁に囲まれており、古態を残したようなその姿がエモいです。入り口はこの山門。置かれている仁王像はなかなかに個性的。動的なポーズで見ごたえがあります。阿形!吽形!「ムンッ!」という力み声が聞こえてきそうな表情です。良い見上げると龍のレリーフ。鱗や毛の表現が見事です。境内から山門を見てみましょう。仁王像の裏側には十六羅漢が並びます。本堂です。白亜の外壁が美しく、木材の色も明るいですねぇ。最近建立されたんでしょうか。いずれにしろ入母屋屋根の美しい御堂ですよね!そして何よりも見て頂きたいのが、向拝突端と屋根の上部に捺された向鶴です。南部氏所縁の寺院であることは確定でしょう。木彫装飾もこの通り素晴らしき素晴らしき・・・山号額なんてね、もう、ね?ここでご由緒。祝融山 萬松寺曹洞宗 霊樹山耕雲寺末寺開山:済庵玄思大和尚(寺伝上) または 笑山厳悦大和尚(実在)、傑堂能勝大和尚 とも開基:阿保親王本尊:釈迦三尊 秋田県鹿角市にある曹洞宗 祝融山 萬松寺は、寺伝によると戦国時代初頭の応仁2年(1468年)済庵玄思大和尚が、大湯上岱山中に開創したのち、火災などで現在地に移転しました。 元禄5年(1692年)十一世祖月易全大和尚が本寺 霊樹山 耕雲寺に開山 済庵玄思大和尚の法系を正したところ、比定すべき人物が不明であったことから、耕雲寺十二世笑山厳悦大和尚を開山の勧請し、古代開山済庵玄思大和尚、伝法開山笑山厳悦大和尚として伝えられています。 南北朝期に津軽に拠った南朝の重臣北畠氏とのルートに当たるこの地に、南朝の武将で耕雲寺の修行僧であった傑堂能勝大和尚が開いたと思われます。当時は多くの弟子を育成し全国に輩出、江戸末期には直末寺81ヶ寺、孫末寺558ヶ寺を数えました。その弟子の一人であった古代開山済庵玄思大和尚はこの地に住し一寺を開創したのだと思われます。 また、寺伝では開基は阿保親王としており、平安初期の平城天皇の第一皇子であるが、平城天皇が皇位を弟の嵯峨天皇に譲った後に、薬子の変に連座し左遷されて皇位を剥奪されました。承和9年(842年)に急死した不運の皇子ですが、「伊勢物語」の主人公とされ、六歌仙の1人で歌人在原業平と記されています。その末裔に源義経の奥州避行に同行した者がおり、平泉城亡後、一族がこの鹿角の地を開拓し、勢力を伸ばし後に花輪代官を勤めた鹿角四性の一人・安保氏系柴内氏であると言われています。 一方、南部氏の時代に入り、慶長年間(1596〜1615年)に住持した三世虎山玄龍大和尚が、盛岡南部氏二代利直公の読書師範を勤め信任極めて厚く、寺領のほかに肖像画、竹袈裟、水晶数珠など賜り、多くの歴代住職も読書指南役に任じたことから、南部氏を中興開基として祀られております。曹洞宗 祝融山 萬松寺 より引用新潟県村上の禅の古刹 霊樹山 耕雲寺の末寺みたいです。開創譚については15世紀に求めるものと9世紀に求めるものとがあります。うーん、9世紀の方はまず無いとして、15世紀の方はまだありそうです。鹿角は交通の要衝故、各地から勧進僧が来ていてもおかしくはありません。その時に自分の師を開山としたとか・・・いろいろ考えられますが、確かなことは良く分からないということです。当寺三世虎山玄龍和尚は盛岡南部氏二代利直公の読書師範を務めていたんですねぇ。南部宗家のおかかえ僧ともなれば、末寺を開くのも容易でしょう。後の直末寺81ヶ寺、孫末寺558ヶ寺という繁栄振りも、藩主の庇護があってこその結果なのではないでしょうか。堂内には立派な祭壇が置かれています。奥には本尊の釈迦三尊。大きさもさることながら、かなり緻密な彫り込みです。写真では少々分かりにくいんですが、脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩の宝冠もかなり細かな造形です。職人技とはこういうものを指すんでしょうね古刹に相応しい本尊でした!御朱印を待っている間に本堂裏手の鐘撞堂を目指します。住職に確認したところ、撞くことは出来ないそう。まぁ、どんなものか見に行ってみましょう。墓をぐるりと迂回し、緩やかな坂を上っていくと、花に囲まれた鐘楼があります。集落一望の一等地。奥には奥羽山脈の山々、この先に南部や八戸があると思うと感慨深いですねぇ。近い様で遠い、八戸の民からして鹿角はそんな場所です。斜めから。秋田遠征の終盤に立ち寄りましたが、本当に面白そうな神社仏閣が多いですねぇ、鹿角は!中でも元仏堂の大日神社はかなり面白そうで、大館にあるものも併せると3社あるようです。何れも行基開創の伝説が残っており、御堂もかなり立派です。伝説上は一木から三体の阿弥陀如来像を八幡平・独鈷・別所の三ヶ所に祀ったそうですが、なぜかいづれも大日堂とよばれております。参拝したのは別所大日神社だけなので、他の2ヶ所も参拝してより深く理解していきたいですねぇ。話がそれまくりましたが、萬松寺は境内も良く整えられていて、落ち着いた気持ちで参拝出来ました。八戸にも末寺をもつ曹洞宗の大寺、萬松寺でした。今回貰った御朱印です。鹿角三十三観音霊場ってのも有るんですねぇ!もし秋田に異動になったらまわってみたいと思います。・・・まずはまわり残している秋田三十三観音霊場からでしょうか。公式サイトへのリンクです。・曹洞宗 祝融山 萬松寺以上です。
2025年12月16日
コメント(0)

今年のお盆休みで奥州三十三観音霊場を巡礼したんですが、その際石巻の街なかを走っていると、突如として”湯殿山”とデラデラと書かれた大看板が!羽黒神社・月山神社はよく見るんですが、これまで摂社以外で湯殿山神社を見た事がなく、これは出羽三山に詳しくなるチャンスだと、意気揚々と境内へ向かいます。総本社以外では、こちらの湯殿山神社が東北の中でも群を抜いて大きな湯殿山神社なんではないでしょうか。湯殿山神社総本社の方の湯殿山神社は、境内の様子について語ってはならないという”お言わずの山”故に、どれ程篤く祀られているのかがずっと分かりませんでした。いつかは参拝したいと思っているんですが、少なくとも東北に帰ってからになるでしょうねぇ。当社の社殿を見る限りは、相当篤く崇敬されていることが分かります。鳥居もこの様に大きく、キチンと注連縄で飾ってありました。ここの手水は水盤が船の様になっており面白いです。まさに石船。これは撫で牛・・・ではなく、”願い牛”と呼ばれる石像で、湯殿山神社と特に関りのあるものとされています。なんでも、湯殿山の開場が丑年丑の日だったことに由来するとか。湯殿山大神の化身として、湯殿山神社には必ずと言っていいほど置かれています。願い牛の後ろには、出羽三山碑と末社の祠が置かれています。祭神は不明ですが、龍のような置物が置かれているので、水にまつわる神格なのではないでしょうか、知らんけど。大黒天の像もありました。かなりにこやかです。そんで拝殿です。・・・いやー、立派ですよ、こいつぁ!近代になってから創建されたそうなので、当初からこのような装飾美麗な外観だったんではないでしょうか。崇敬あふれる拝殿です。御由緒です。湯殿山神社祭神:湯殿山大神・湯殿山権現(大山祇神、大国主神、少彦名神) 昭和15年(1940年)、湯殿山大神の御神霊を招来しここ石巻清水の地を聖域と選びお祀り申し上げました。 昭和26年(1951年)には、希望と豊饒に満ちた和郷に築き上げようと衣・食・住の守護神と仰がれている出羽三山大神の御神霊を招来し、以来「石巻湯殿山」として尊ばれています。湯殿山神社 より引用祭神の湯殿山大神は、大山祇神・大国主神・少彦名神を併せ祀った神格みたいですねぇ。大山祇神は言わずもがなですが、大国主神・少彦名神も揃って山岳に祀られる例が多い気がします。茨城県の八溝山、山梨県の金峰山などなど、探せばもっとあるんではないでしょうか。なぜこのように2柱が祀られるのか・・・理由として考えられるのは国土発展と疫病鎮静の神徳を期待される2柱を、地域の神体山に祀りることで広く神徳を得ようとしたからではないでしょうか。山梨の金峰山はまさにその好例であり、開場も湯殿山と割と近しいです。上古の頃は疫病がたびたび蔓延し、各地の神体山にて病気を鎮めようとこのような措置が取られたんでは・・・?湯殿山もその1つなんでは・・・?どうなんでしょ。拝殿左脇には注連縄がかかった巨岩。奥には本殿です。斜めから。出羽は庄内の霊山を奉斎する神社でした。出羽三山の内、月山・羽黒山は当初から含まれていたんですが、湯殿山が加わったのは江戸時代になってからだと言います。それ以前は葉山という山岳が出羽三山の一角を務めていたんですが、別当の庇護を失うと衰退。霊場も閉ざされてしまいました。代わりに台頭した湯殿山。今でも山中の様子は謎に包まれ、かなり興味をそそります。来年は山形県の巡礼をメインで進めていきたいですねぇ!参拝したいですねぇ!今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・湯殿山神社以上です。
2025年12月16日
コメント(0)

霊峰 富士山を奉斎する神社として有名な浅間神社。富士山麓の静岡県でも、ここ山梨県でも相当に篤く祀られています。なんでも静岡県の富士山本宮浅間大社と、山梨県の淺間神社とで、南北両麓から富士山の噴火による災禍を鎮めようとしたそうです。富士山本宮浅間大社は、当初は今よりももっと富士山に近いところに境内を構えており、ちょうど山宮浅間神社がその跡地だと云います。となると、山梨の淺間神社はどうなのか。こちらも例外ではなく、当初の鎮座地は神山という低山の麓。山宮神社、そう呼ばれている神社から祭神の木花咲耶姫神は里宮(淺間神社)へと奉遷されました。今では淺間神社の境外摂社となっていますが、実質本宮の様な格式高い神社なのです。山梨を代表する古社 淺間神社。その元となった神社を見ていきましょう。山宮神社葡萄畑を縫うように走る、細っこい路地の先に鳥居が建っています。それを囲むように意味ありげな巨岩が転がっていますが、こちらは何なんでしょうか。鳥居の先には参道が伸びているんですが、普段は獣除けのためか柵が張ってあります。ここを開けて奥へと進むんですが、参拝後は忘れずに閉めましょう。参道は山の奥へと伸びていきます。参道というよりはモロ山道ですが、それがかえって古社の風格を成しているというか、なんだかイイですよねぇ!山中は静かで、居るのは獣か杣人くらいのもんでしょう。落ち葉を踏みしめ、先へと進みます。鳥居から10分くらい歩いたでしょうか、奥の方に社らしきものが見えてきました。山宮神社到着です。社殿自体はかなり簡素ですが、山中の神社は一部の例外を除いてだいたいこんなものでしょう。正直社殿の荘厳さよりも、こんな山中に1000年以上信仰の社が残り続けていることが本当にすばらしく有難いことだと思います。御由緒です。山宮神社祭神:大山祇神、瓊瓊杵尊 本社を距ること東南二十丁余(2km余)清流 山宮川の水源、神山の麓にあり千古の老杉2本、神木として連立している。本殿は、春日造、檜皮葺にしてその結構すこぶる壮麗である。 毎月15日を恒例神祭日となす。3月15日山宮神幸祭を行ってきたが現在は、3月15日前の日曜日。 当社は、垂仁天皇の御代(皇紀換算:前29~70年、278~298年との説も)鎮祭された本宮であるが、貞観7年(865年)12月、三柱の内、木花開耶姫命を里宮に遷座されたもので大山祇神と天孫瓊々杵命の二柱を御祭神としている。甲斐國一宮 浅間神社 / 摂社 山宮神社 より引用垂仁天皇の統治年代に関しては、皇紀をそのまま西暦に直したもの(前29~紀元70年)と、皇紀1年を西暦での半年分として換算したもの(278~298年)とがあります。個人的には、皇紀は日本で生まれた暦として、文化としてみると素晴らしいと思いますが、歴史的根拠として見るにはあまりにも創作性や操作が多いものだと思っています。近年の研究がどのような状態なのか、隅々まで把握しているわけではありませんが、後者の方がまだ現実味がある説なのではないでしょうか。・・・だとしても古社ですよねぇ?笛吹市は古代山梨の中心地であり、そうした古社が本当にあったとしても・・・おかしくはないのではないでしょうか?拝殿に反して本殿はかなり立派な造りです。写真では分かりにくいですが、名だたる古社と同じく檜皮葺きです。装飾は少ないながらも、室町時代の建築的特徴を備えた社殿ということで、重要文化財の指定を受けているようです。そんでもって古社というと、自然物を神体とする例が非常に多いんですが、山宮神社にも神体・・・では無いんですが、そう見える位置に2本の大杉が生えています。この巨木を神体として祭祀が始まった・・・とかなら本当に面白いんですが、樹齢から考えてもそれはあり得ません。斜めから。淺間神社の本宮的神社に参拝出来ました。人間の家族で例えると、現在神社に祀られているのは嫁を除く義父と夫のみ・・・と非常に気まずい状況なのではないでしょうか。せめて夫の方だけでも淺間神社に合祀できないものなのか・・・想像すると吹き出してしまいそうです。山宮神社を後にし、鳥居へと戻ります。太古の祝部が歩いたであろう道を歩いていると、山梨の長い歴史の道の上に立てたようで、不思議な嬉しさがあります。歴史を味わえるこうした神社が有る限り、歩みを止めるつもりはありません。今回貰った御朱印です。※御朱印は淺間神社にていただけます。以上です。
2025年12月15日
コメント(0)
日本各地に素晴らしい神社仏閣があり、それらを巡ってお参りすることは精神的な癒しになると共に、私たちの生活になくてはならないことだと思います。巡礼はすばらしいもの、ただし何か所も周っていると、いつかは疲労し、足が動かなくなってしまうことでしょう。そんな時に私たちを支えるのが、おいしい食事と素晴らしい温泉です。このページでは、巡礼の助けとなる”めぇままかへるどご(食事どころ)”と”たげあずましいゆっこ(湯どころ)”の二つを、行った順で紹介したいと思います。そういう企画の福井県編ページです。美味ぇ飯食へる所(めぇままかへるどご)嶺北地方嶺南地方凄げ吾妻しい湯処(たげあずましいゆっこ)嶺北地方南越前町:河野シーサイド温泉 ゆうばえ 南越前町:河野シーサイド温泉 ゆうばえ 若狭の浦を臨む湯どころ嶺南地方以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

福井県は南越前の沿岸、ツヌガアラシトと伝説で名高い氣比の松原を拝み、明日は曹洞宗大本山永平寺へと参詣しようと思っている時、疲れを落とせる湯どころを捜し求めて、沿岸部を走っていました。この辺りには温泉が良くあり、どこに入ろうかと迷っている内に日も落ち、かようにきれいな夕焼け空が広がっていました。岩壁にて夕焼けに見とれていましたが、寒さもひどくなり、近くの温泉で温まることにします。河野シーサイド温泉 ゆうばえ福井の浜辺も、青森は深浦同様見ごたえのある風景でした。日本海はやはり故郷津軽の深浦や鯵ヶ沢を思い起こさせ、なんだかしんみりとした気持ちになってしまいました。ここから幾千里下れば陸奥につくのかと思うと、随分と遠い所まで来てしまったなと思うわけです。明日の日程の無事と夜の寒さに耐える為、ここで体を温めました。中に入るとちょっとした旅館の様な雰囲気です。マッチョなマスターに入浴料を払い、奥の脱衣所へと向かいました。浴室に入ると大きな内湯。洗い場は左側に数ヶ所。まずは身体を流し、ささっと湯舟に向かいます。水風呂、サウナなどもありますが、まずは内湯。広いガラス窓の先には広大な若狭湾、ここを舞台に還日本海文化が栄えていたのかと思うと胸があつくなります。先はどこまで見えているんでしょうか、およびもつきません。透明度の高いサラリとした泉質で、おそらくアルカリ泉だと思われます。湯温は普通、少々物足りない感じですが、入っているとかなり気持ち良い。遠国の湯としてはかなり印象に残りました。内湯の隣には浅めの湯舟。ここは寝風呂に適しています。内風呂と温度などは変わりませんが、横”さなればまんだ入り心地も違うもんです。旅の疲れを落とすには丁度よい湯でした。この後永平寺の近くの道の駅にて車中泊したんですが、凍えずにすんだのはひとえにこの湯のおかげです。極寒の越前の夜を耐え抜くことが出来ました。河野シーサイド温泉 ゆうばえ料金:600円(2025.11.23現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台、食事も可入浴備品の販売:有湯の温度:普通湯の種類:3種類サウナ:有以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

信州三十三観音霊場の札所に布引観音(布引山 釈尊寺)という懸造の古刹があります。ここから牛に導かれて善光寺まで駆けた老婆が、極楽往生したことは良く知られている伝説です。それに因んだ温泉がここ、布引温泉です。道の駅の一画にある温泉ですが、露天風呂が素晴らしく、是非とも夜に訪れて欲しいところです。布引温泉 御牧乃湯善光寺参詣の折、疲れた体を引きずって上田まで戻ってきました。さすがに数時間も運転するとなると、右足の膝裏は張り、びっこひぐありさま。こいだばまねど思って、こごさ寄ったっつーこどだ。夜もおせがったばって、まんだまんだあがるぐ明がりついだったはんで、中”さ入ってまった。道の駅の受付さ銭渡”して中”さ入れば、そごそご広い脱衣所あって、準備ば済ませで浴室さ向がったんずさ。片”足ば引きずりながらやっとこさ行ったべな。浴室さ入れば、まず広ぇ内湯あって、まずはそごさ入ってみるが。思ったったより温がったばって、ちょっと物足りねぇ。もっとあっつう方が好みだばって、これはこいでいいもんだねすぇ。透き通った色したサラッとした湯っこだった。水風呂もあって、体バリッと冷える良い水風呂だ。サウナさ入った後”、こさ入ればたんげ気持ちぃんでねべが。ちょっと狭ぇはんで、冷えだらすぐ出だほうが次の人も気持ちぇぐ使えるんでねべが。なんっつってもおもしぇーのが露天風呂。広ぇー外”のポツンと真ん中”さ湯舟あって、周りには椅子っこ。そごで涼めるしなんぼいい環境だが分がんねのぉ。晩にいったはんで湯舟がら良ぐ星見えでたんだ良いもんだ、こいは!良ぐ湯もあっつくて、たんだ吾妻しいぇ長旅せば疲れるのが常だばって、こった湯っこあればだっきゃどごまでも行ってまるやな。山梨まで帰るにこご無ば帰らいねがったびょん。いい湯さ巡り合ったもんだねすぇ。布引温泉 御牧乃湯料金:650円(2025.10.05現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台、食事も可入浴備品の販売:有湯の温度:普通湯の種類:3種類サウナ:有公式サイトへのリンクです。・信州布引温泉 御牧乃湯以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

朝早くから上田と佐久の神社仏閣を巡った後、別所温泉で休憩。心身は休まりましたが、帰るにはエネルギーが足りません。なにか食事ができる所はないかと、フラフラ走っていると、偶然見つけた中華料理の看板、引き寄せられるように店内へと駆け込みます。ラーメンフロンティア かもめまずは名前がよろしい。未開の土地を切り開くかの如き冒険心が感じられます。そして海をたゆたうカモメの如く、僕も店へと飛び込みました。土日は昼飯を抜くことが多いので、その分夜はしっかり目に食べます。腹を満たし、無事山梨へと帰りたいのです。2025.12.07中華丼かまぼこやきくらげ、エビ、卵や諸々の野菜を、濃厚な鳥出汁で炒め、全てのうま味を餡で閉じこめました。これが白米にドカッと乗っているんですから、こたえられません・・・。空腹の状態でこんなものを見せられては、我慢できるはずが無いでしょう。蓮華を持つ手が止まらず、口いっぱいに米とうま味を詰め込みます。喉つまりしそうになるのを、中華スープで飲み干し、ひとつため息。これほどの幸せがあるでしょうか、いや無い!豚角煮ラーメン次に運ばれて来たのが豚角煮ラーメン。シンプルな鳥出汁しょうゆラーメン、北国では珍しいストレート麺の上に、こちらも分厚い角煮が3つもころがっておりました。・・・なんていうかその、食べづらくはあるんですが、肉の塊をかじるというのは、心の中の獣を呼び起こすようで不思議な心地良さがありました。スープを飲み麺をすする、そして塊肉をかじる。これを繰り返すともう、満足感で胸がはちきれそうです。2人前をペロリと平らげ、体は重くなりましたが、財布は大分軽くなりました。財布に比例して心も軽く、気持ちいいままで甲州街道を上っていきました。以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

山梨県の長期出張に伴い、なにかしら癒しが欲しいと思い、休みどころを探しておりました。その末に見つけたのがこの温泉です。仕事終わり、疲れたと思ったら駆け込むようにしています。山梨県の温泉の中では、ここに一番通っているでしょう。回数券も買ってしまいました。山梨県はだいたいどこからでも富士山を眺めることができるんです。住んでいる所からも、出張先からもキレイな御山が拝めるため、いつもほっこりしています。そしてこの温泉も例外ではありません。ここではなんと露天風呂に浸かりながら富士山を拝むことができます。よく富士山の壁画が描かれた銭湯はあると思うんですが、本物の富士山を拝めるところは、やはり静岡や山梨ならではのことではないでしょうか。湯めみの丘仕事をかたずけ、日も落ちるかという頃、足早に湯めみの丘に向かいます。早く汗と疲れを流したくてしょうがないのです。広い駐車場もあり、車でも安心。店の入口からして、こんな富士山が見えるんです。露天風呂からだと、更に眺めが良い事は言うまでもありません。よく入浴後はここで晩飯をすませ、家で記事を書けばいいだけの状態にしています。心と体も整い、今では生活になくてはならない場所です。では、行きましょう。浴室に入ると、右側に洗い場、左側に湯舟やサウナが置かれています。シャンプー・ボディーソープは備え付け、タオルと着替えがあれば十分に入れます。湯の種類は豊富で、入り口に近い方から水風呂(すぐそばサウナ)、電気風呂、普通湯(寝風呂・ジェット風呂)、バイブラ風呂、あつ湯、露天風呂となっています。水風呂はキンキンと冷えており、サウナ後にはたまらなく気持ちいいです。その隣には電気風呂、これは苦手なのであまり使わないんですが、結構強めの電気が味わえると思います。そんで普通湯、ここはエリアごとに寝風呂やジェット風呂が置かれていて、様々な楽しみ方ができます。湯の温度は普通で、サラリとした滑らかな無色透明の泉質です。隣にバイブラ風呂があり、こちらは細かい泡のおかげですぐと体が温まります・・・なんですが、僕としては、圧倒的に隣のあつ湯を推したいです!山梨県の温泉は、いづれも普通の温度で、津軽衆にとっては少々物足りない感があります。確かにぬるめの方が本当は身体にいいんでしょうが、正直そんなこと関係ありません。ジガジガどあっつー湯に入りてぇ時もありますよね?そんな時にこの温湯、本当にあっついです。体感は44℃くらいでしょうか、入った瞬間はちょっと辛いんですが、段々とあっつみが気持ちよくなってきて、得も言われぬ感を味わえます!体も一瞬で温まるし、気持ちいいし、なんなら疲れも消滅します。ゲームでいう所の激レアアイテムのような、絶大な効果がある気がするんです。一番気に入っている湯!そして件の露天風呂。眺望は言うまでもなく、外気浴も出来て最高です。湯の温度は普通湯よりも少し低いかという位。なんの負担もなく長風呂出来てしまいそうです。流れとしては、ここで暮れゆく富士山をゆっくりと楽しみ、次にあつ湯でリフレッシュ。以後繰り返し、という感じです。そんなことをしていると、体が浮きそうな程、軽く・楽になるんですよ!風呂、通わずにはいられない!名前のごとく、夢見ごこちのような体験ができる湯どころでした。何といっても通いやすいのがいいですね!丁度いい設備と、丁度いい湯、これが揃って近くにあるんですから、当然通うでしょう!これからも癒しを求めて通いたいと思います。 湯めみの丘料金:700円(2026.2.7現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台、食事も可入浴備品の販売:有湯の温度:普通~熱い湯の種類:6種類サウナ:有公式サイトへのリンクです。・山梨日帰り温泉 源泉かけ流しの湯 湯めみの丘以上です。
2025年12月14日
コメント(0)
日本各地に素晴らしい神社仏閣があり、それらを巡ってお参りすることは精神的な癒しになると共に、私たちの生活になくてはならないことだと思います。巡礼はすばらしいもの、ただし何か所も周っていると、いつかは疲労し、足が動かなくなってしまうことでしょう。そんな時に私たちを支えるのが、おいしい食事と素晴らしい温泉です。このページでは、巡礼の助けとなる”めぇままかへるどご(食事どころ)”と”たげあずましいゆっこ(湯どころ)”の二つを、行った順で紹介したいと思います。そういう企画の長野県編ページです。美味ぇ飯食へる所(めぇままかへるどご)北部(北信地域・長野地域・北アルプス地域)中部(佐久地域・上田地域・松本地域・諏訪地域)上田市:ラーメンフロンティア かもめ 上田市:ラーメンフロンティア かもめ 信州上田の満足中華上田市:お茶の間 上田市:お茶の間 常楽寺参道脇のお休み処南部(上伊那地域・木曽地域・南信州地域)凄げ吾妻しい湯処(たげあずましいゆっこ)北部(北信地域・長野地域・北アルプス地域)中部(佐久地域・上田地域・松本地域・諏訪地域)上田市:地蔵温泉 十福の湯 上田市:地蔵温泉 十福の湯 峠の先にある極楽の湯東御市:布引温泉 御牧乃湯 東御市:布引温泉 御牧乃湯 布引観音のお膝元の湯どころ南部(上伊那地域・木曽地域・南信州地域)以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

こっちに来てから、山梨県だけでなく周辺地域にも足を伸ばしているんですが、長野県は特にいろいろと神社仏閣をまわっています。長野県も思っているより広く、特に南北に長いため、北部に行くと山梨まで帰るのは一苦労です。帰り道はグーグルマップに任せているんですが、よくよく通るのが上田や佐久を通って富士見に抜けるルートです。この日は戸隠五社参りと併せて戸隠山登拝を敢行、挫折して帰る折、地蔵峠を越えることに。心身ともにボロボロで、どこかで気持ちを入れ替える必要がありました。長い峠道には街灯もなく、霧も立ち込めています。コンディションも最悪、こんなことでは山梨までかえることはできないでしょう。峠の中ほどにある湯処で休んでいくことにしました。地蔵温泉 十福の湯こんな山の中にあるにも関わらず、駐車場はほぼ満員。かなり人気みたいですねぇ。車を停めてボォッと明るく照らされた店内を目指します。店内に入って驚いたのが、産直や休みどころ、食事処が併設されていることです。俗に言うスーパー銭湯のようなものでしょうか。風呂上がりの濡れ髪で野菜を品定めするおがぁさま、ビール片手に満面の笑みを湛えるおどぉさま方がそこかしこに!皆一様に表情が緩んでおりました。僕も軋んだ体と荒んだ心を整えるために、足早に脱衣所へと向かいます。浴室の戸を開けると、まず大きな内湯が置かれています。正方形の湯舟で、かなりの人数が浸かれるんではないでしょうか。公式サイトによると、日替わりで男女の浴室が切り替わるそうで、今回は石造りの湯舟でした。それを取り囲むように洗い場が配置されており、まずはそこで今日の垢と屈辱を雪ぎます。それでは内湯から。温度はそれほど高くはありません。体感41℃、湯疲れせず丁度入りやすい温度です。サラリとした無色透明の泉質で、肌に染み込んでくるような感じがあります。肩まで浸かればあら不思議、抜苦与楽の世界が広がっています。今日あったあれやこれやも全て湯に溶けていきました。次にいよいよ外湯(露天風呂)を楽しんでみましょう。ここの露天風呂は長野県のなかでも最大級と言われており、かなり楽しみにしていました。期待に胸を膨らませ、外湯への扉を開くと、たちまち景色に目を奪われてしまいました。広大な岩の湯舟に満面と湯が湛えられ、それを飾り付けるかの如く紅葉や笹などの木々が配されています。赤や黄に色づいた葉がライトアップされており、それが風で揺れるたびに、ひらりと水面に落ち浮かび・・・。これは何かの美術作品なんじゃないかと思ってしまうほど、すんばらしい景色ですゆっくりと足から浸かり、湯舟の空いているところまで湯をかき分けていきます。気分はさながら遊山の徒、湯の川を遡って安生の地へ。肩まで浸かって空を見上げ、一息に肺を空にすると、興奮も自然と落ち着き、一気に安らかな気持ちに。星は見えませんでしたが、どこまでも深く暗く広がっている夜空は、なんだか見ていると妙に落ち着きます。まさに虚空蔵の如き夜の空をいつまでも眺めていました。外風呂には壺風呂というのも有って、こちらは定員1名づつ。陶器で出来た大きな壺型湯舟は保温性も高く、すぐに体が温まります。そのすぐ側にはサウナやねまれる椅子なども・・・。体と心を休めるのにここまで適した場所は無いでしょう。いろいろな楽しみ方が出来そうです。地蔵峠には面白い伝承が有るようです。この峠を信仰すると地蔵所縁の十の福が得られるんだとか。今回得られた福は体感十以上、百福はあったでしょうか。とんでもなく満足できたし、心身ともに癒されました!上ったり下ったりの山道も難なく超えて行けそうです。地蔵温泉 十福の湯料金:900円(休日料金、2025.10.18現在)休憩所の飲食物:自販機(ジュース)数台、食事も可入浴備品の販売:有湯の温度:普通湯の種類:4種類サウナ:有公式サイトへのリンクです。・地蔵温泉 十福の湯以上です。
2025年12月14日
コメント(0)

関ヶ原の狭路を抜けて滋賀県に入ると、もう日は暮れ神社も門を閉じていました。どうしてもここに参拝したくて、道の駅で車中泊し、翌朝出直しました。神社に近づいてくるにつれ、だんだんと門前街の雰囲気が漂い始め、境内の真ん前ともなると沢山の店っこが立ち並ぶ参道が伸びておりました。絵馬通りと掲げられた門をくぐり、いま境内へと進みます。2025.11.23多賀大社多賀大社の境内は広く、参拝のし甲斐があります。まずはマップにて概観してみましょう。社殿を中心として、境内の端々に社やら何やらが置かれていますね。とりあえず鳥居をくぐる所から始めましょう。白っぽい明神鳥居が優雅に建っておりました。なんかもう・・・鳥居の先からして雅な雰囲気が漂っていました。明らかに東北や関東の神社とは異なる、上方の雰囲気とでも言いましょうか、そんな美しさがありました。参道中央に架かる石橋は、今は渡ることは出来ません。例祭の時に神輿が渡るくらいです。”そり橋”とも呼ばれるこの神橋は寛永15年(1638年)に徳川幕府の助成のもと、境内の諸堂と共に建立されました。今では町指定文化財となっています。そり橋の両側には末社が鎮座しています。こちらは右側で、右:秋葉神社 祭神:火産霊賀具都知神 例祭日:8月16日左:愛宕神社 祭神:火産霊神、伊邪那美神 例祭日:9月25日となっています。左側は天満宮。祭神は菅原道真公です。沢山の絵馬が懸かっており、崇敬はよほどのものと思われます。随神門をくぐると、広い境内の奥に美しい社殿が鎮座していました。近代的な外観ではなく、創建当時の姿をそのまま保っているかの様な古雅な佇まいは、控えめに言って最高です手水舎もなんだかすごいですね(語彙消失)。水盤は花で溢れ、まるで庭園の様です。参道を進みます。神馬舎の手前には大きなしゃもじの石像が!こちらは”御多賀じゃくし”と呼ばれている安産祈願のためのしゃもじで、元正天皇(715~724年)の病気平癒のために炊いた強飯にシデの木のしゃもじを添えたところ、見事に平癒したことに因んだ呼び名だそうです。おたまじゃくしの語源とも言われていますね。崇敬の篤さを示す様に、後ろには絵馬の様にしゃもじが幾つも懸かっています。神馬舎もこの通り・・・。神馬像もかなりリアルです。立派な舞殿もありました。背景にはいぶし銀な松が映えています。この舞殿の周辺には幾つもの末社が置かれています。それぞれ見てみましょう。まずすぐ近くに置かれているのがさざれ石。もう見慣れてしまいました。大きな神社に置かれていることが多い気がします。石の柵で囲われた所がありますねぇ。この中には白石という岩が置かれているんです。とりあえず説明書きを見てみましょうか。寿命石と祈願の白石 今から800余年前、俊乗房重源上人は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧進を仰せ つけられた。上人はまず大神宮に三度参詣、さらに寿命守護を祈るため当大社に参籠し、満願の暁に『莚』の字の虫喰いのある柏葉を授かり20年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。 この寿命石は上人がその霊験をいただいた際のゆかりの石と伝えられている。・・・。800年前と言うと鎌倉時代ころでしょうか?東大寺再建の勧進僧が延命を授かった石と言う事で、延命祈願の参拝者が後を断たないようです。白石の後ろには3社の末社が鎮座しています。右から・・・子安神社:木花咲耶姫 祭日:12月1日年神神社:大年神 祭日:6月30日竈神社:火産霊神 祭日:6月30日となっています。何となくですが、祭神の構成も東北とはずいぶん異なっている気がします。東北で圧倒的に多いのは稲荷や八幡などの有名な神格であり、火産霊神などは希ではないでしょうか。こうした祭神の構成からも地域性を感じられて面白いですねぇ!更にその奥には5社!右から・・・三宮神社:角杙神、活杙神、大冨辺神、面足神、惶根神 祭日:10月15日聖神社:少彦名神 祭日:10月15日熊野神社:櫛美気野神(素戔嗚神) 祭日:10月15日天神神社:天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神 祭日:10月15日熊野新宮:速玉之男神(伊弉諾大神) 祭日:10月15日となっています。5社の隣には、本殿横までつづく長い赤鳥居が建っています。これはもう稲荷でしょう!立派な祠がありましたよ!名前は金咲稲荷神社。祭神は宇迦之御魂神で、祭日は11月8日です。多賀大社の末社ながら、この神社の講が全国にあるみたいですよ。つまり崇敬者が多いと言う事です。この鳥居の数にも納得ですね。金咲稲荷神社からは多賀大社の本殿が良く見えます。当然の様に檜皮葺きであり、どっから眺めても美しいの一言に尽きます。拝殿から大きく伸びた瑞垣によって本殿が囲われているという、上方の標準的な造りの社殿です。一時多賀大社から離れて、駐車場に近い境内左手のエリアも見てみましょう。こちらには神仏混淆時代の遺物も幾つかあるんです。こちらは文庫と呼ばれる社殿で、明治期の近代史が好きな方ならば垂涎ものの社殿ですよ!とりあえず説明書きを見てみましょうか。文庫 彦根藩は「桜田門外の変」の後、勤皇の旗印を明らかにした。この轉向に大きな役割を果たした人物は少なくないが、中でも、当大社 大祢宜 車戸宗功は長州藩士 伊藤俊介(後の博文)ら勤皇方と彦根藩老の仲介に奔走して偉功があった。 この文庫は、当時車戸家の邸内にあり、長州や土佐の志士らと密議を行ったという、維新の前夜の秘史を物語る遺構である。この小さな蔵の中でいきり立った勤皇方の志士たちがどのような密談を交わしたのか・・・歴史が動く前夜にどんな話し合いが行われていたのか・・・ここまで妄想が膨らむスポットが他にあるでしょうか、いや無い。文庫の横には大きな釜が2つ。いったいこれは何に使われたものなんでしょうか。境内の説明書きを見てみると、この大釜は徳川幕府主導の寛永11年(1634年)・元禄11年(1698年)の大造営に際してこしらえられたものだそうです。具体的には御湯神事という祭事に用いられるものなんだとか。御湯神事とは、御田植祭にて使用される神社所有の田 神田を清めるための祭事なんだとか。御湯神事・・・石切劔箭神社の動画を見たんですが、これ、修験の火渡りの時に行われるものと、非常に近しいですよねぇ!なんというか修験って本当に神仏入り乱れて祀っていたんだなぁというのが実感できました。どちらが先かは分かりませんが、確実に両者には繋がりがあると思いました。こうした修験の祭事と神社の神事とを見比べてみるのも面白いかもしれません。文庫の裏には立派な鐘楼。神仏習合時代の遺物で間違いないでしょう。この中に吊られていた梵鐘が県指定文化財になっているみたいです。説明書きを見てみましょう。県指定文化財 多賀大社の「つり鐘」 この大鐘は、室町時代後期、天文24年(1555年)に鋳造されたものである。天文5年から永禄6年にかけ室町幕府・佐々木六角氏・浅井氏らの奉賛のもとに社殿の大々的な修造を行ったので 「このつり鐘の鋳造も、その修造事業の一つである。 鐘身156.2cm、竜頭からの高さ209.2cm、口径127cmで法量の上からいえば全国五指に入る堂々とした大鐘である。銘文は、池の間に陰刻され、まづ第一区の銘文は、次の通りである。大日本国近江刕多賀大社鳧鐘天文廿四年九月廿日奉鐘之畢本願上人祐尊謹誌 鼻鏡とは鐘の異称、この事を企てた祐尊は明応3年(1494年)開基の不動院初代で、日野権大納言内光の末子といわれ、二代目祐賢とともに前述の社殿修造にあたった。 銘文第二区以外は「つり鐘」造成にあたって浄財を寄進した檀那や造成に尽力をした123人の人名が羅列してある。 そこには佐々木氏・尼子氏の如き守護級のもの、多質・高宮・河瀬諸氏など大社に関係の深い土豪層の名も見え、第二区上段に浅井猿夜叉とあるのは、浅井長政の幼名である。昭和59年10月22日 多賀町教育委員会北近江の雄 浅井長政ゆかりの梵鐘でした。更に駐車場の奥へと進みます。倉庫の影に1社の末社が鎮座しています。こちらは夷神社、祭神は事代主神で、祭日は11月20日です。因みにこの末社の周辺は、神仏混淆時代には神宮寺が複数建っていたんだとか。下にその説明書きを載せますねぇ。般若院跡 明治の神仏分離まで、多賀の境内には不動院・般若院・成就院・観音院の4つの神宮寺があった。このあたりは、その般若院の跡と云われている。般若院は彦根藩主井伊家の宿坊であり、藩主の参拝、毎年古例大祭に奉仕する藩の上士の出役など、この宿坊を基点とされた。 「花の生涯」の村山多賀女は、この坊で若き日を送り、ここで直弼公を知り、長野主膳と出会ったと云う。本当に外れまで来ました。ここから眺める境内は、本当に森の様です。境内の端には水路が張り巡らしてあり、外界と境内とを仕切るような考えがあったんではないでしょうか。この近くに多賀大社の境内社でありながら、延喜式内社になっている神社が有るんです。この様に別個に鳥居も置かれています。奥には手水舎も。確実に多賀大社とは異なる神社と言うかんじですよね。鳥居の先には2社の神社が鎮座しています。両者は同じ瑞垣によって囲われているので、パッと見は1つの神社に見えなくもないです。まずは左の大きな方から。こちらが延喜式内社になります。日向神社という神社で、祭神は瓊瓊杵尊、祭日は4月24・12月1日で、古くより当地の氏神として崇敬されていたそうです。その隣には神明両宮。伊勢神宮の内宮・外宮の天照皇大神・豊受大神が祭神となっています。祭日は12月1日です。こちらは特に式内社というわけではありません。では、お待たせしました。多賀大社の社殿を見ていきましょう。凍てつく夜を乗り越えて、フラフラと神門をくぐると、バッと広い境内が広がっており、その奥にこんな美しい社殿が鎮座していたら・・・初見の時に衝撃は相当のものでした。当然東北ではこのような造りの神社はまずまず拝めません。関東でもどうかというレベルです。滋賀県ともなると、もう都は目と鼻の先、このような上方風の大社がわんさか鎮座していて、なんだか感覚が狂いそうでした。社殿は荘厳で装飾華美ではあるんですが、背後の樹叢のせいでしょうか、全然不自然に感じません。見事に自然と調和しているというか、古くからの信仰を体現しているような、そんな雰囲気があって非常に好みですよ、これは御由緒も見ましょうよ!多賀大社祭神:伊弉諾大神・伊弉冉大神 古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。 日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。 生命(いのち)の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、多賀大社の分祀社は全国239社を数えます。 春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉なども見事で、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。多賀大社 / お多賀さんとは より引用・・・公式サイトでは、特に詳しい由緒などは紹介していないみたいです。ネットの情報にも限界があって、面白い由緒は見つけられませんでした。ここまでの大社であれば、相当長い歴史があるはずなんですが・・・何か調べる手段は無いでしょうか。祭神が伊弉諾大神・伊弉冉大神ということで、伊勢神宮の親神の社として認識されていた様です。wikiなどでは、当初祭神は上の2柱ではなく、当地の有力者 犬上氏の氏神だったなどの記述もあり、いろいろと謎の多い神社です。というか、上方に近くなればなるほど、元の祭神が分かっていない神社というのが増えてくるように思います。今では日本神話の何かしらの神格に比定されているとしても、実態はよく分からないのです。当社もそんな神社の1つかと感じました。斜めから。社殿が陽光を受けて美しく輝いていました。ここまで古雅な雰囲気を放つ神社は本当に稀で、社務所で御朱印を待っている間も、終始目を奪われてしまいまして・・・。式内社ということは千年以上の歴史を持つことは確かでしょう。長きに渡り修繕を繰り返され、今日まで続いているのかと思うと感慨深い・・・。いつまでも見ていたくなる、そんな古社です。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・多賀大社以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー陽光浴びる神門
2025年12月12日
コメント(0)

出張も始まったばかりの頃、長野市の北方に面白い神社を見つけ参拝してみることに。戸隠神社と言うその古社は天岩戸神話・鬼女紅葉など複数の神話のゆかりの地となっています。かつての僧坊(今では宿坊)立ち並ぶ参道の先、宝光社という社からはじまり火之御子社・中社・九頭龍社・奥社と合計5つの社が、戸隠山の麓まで置かれているのです。今回は宝光社の駐車場を基点にこれら五社を詣でた後、戸隠山登拝を目標に歩いたんですが、最後の戸隠山登拝で挫折。天気が崩れてきたこともあるんですが、なによりも登山道がほとんどロッククライミング状態であり、今のままの実力ではとても着いていけませんでした。ですが今回で鎖場の感覚は掴めたので、天気の良い日に再挑戦したいと思います。歩き通して最後に到着した鏡池から眺める戸隠山は本当に美しく、この日の何もかもが報われた気がしました・・・!山中の様子に関しては下のリンクからご覧ください。・YAMAP / 戸隠山 五社巡りと登拝さて、この記事では戸隠五社に加えて、戸隠修験最後の尼僧が開創した修験寺を概観し、霊場がどの様な雰囲気なのかを書いていきたいと思います。各々の社について別個に記事も書いていきたいので、完成には少々時間がかかるでしょう。戸隠五社と登拝宝光社戸隠神社の社の中で最も麓に鎮座しています。宝形造のように見えますが、奥に長い独特な造りをしており、神仏混淆の雰囲気が存分に感じられます。祭神の天表春神は天八意思兼神の御子神とされ、天暦年間(947~957年)には奥社に合祀されていました。康平元年(1058年)に社殿近くに御正体が飛来したとされ、そのまま宝光社が建てられ祭神となります。今では飛来地には杉が立ち、伏拝と称されています。ここから火之御子社までは徒歩十数分くらいです。途中中社と火之御子社への分岐があるため、見逃さないようにしましょう。祭神:天表春神社の記事・長野市:戸隠神社 宝光社 里に至近の大社殿火之御子社神仏混淆の戸隠霊場の中にありて、創建から一貫して神社だったそうです。創建は承徳2年(1098年)と古く、戸隠神社の主要社と同じく、天岩戸神話に関連した神格が祀られています。主祭神は天鈿女神、それ以外の3柱は合祀されたものと言われています。社殿左手の大杉の脇から中社に向かえます。途中集落の墓地を抜けるんですが、古めかしい石仏が立ち並んでおり、こちらも見どころです。中社までは20分といったところでしょうか。※火之御子社の御朱印は宝光社・中社にていただけます。祭神:天鈿女神、高皇産御霊神、栲幡千々姫神、天忍穂耳命社の記事未中社戸隠五社の中でも中ほどに鎮座している神社。三本の大杉に囲まれた境内は圧巻の神域感!古社の風格そのままに、参拝者で溢れていました。社殿は宝光社と同じ造りでしょうか、なかなかに見ごたえがあります!社務所から左に進むと奥社参道が伸びています。参道の途中には、戸隠修験の霊場 戸隠山 公明院が置かれており、ここから眺める戸隠山もなかなかオツです奥社までは50分くらい?でしょうか。祭神:天八意思兼神社の記事未九頭龍社奥社が創建される以前から祀られていたと伝わる古社です。祭神は九頭龍大神で、戸隠山の鎮守とも称されています。麓に水をもたらすため、早くから水神に比定されていたようです。奥社駐車場からかなりキツイ山道が続きます。ペースを崩さずにゆっくり進まなくては、すぐに息切れしてしまうでしょう。鳥居から社殿までは30分くらいかかったでしょうか。祭神:九頭龍大神社の記事未奥社戸隠山の中腹に鎮座する社。すぐ近くには九頭龍社が鎮座しており、社務所にて両方の御朱印をいただくことができます。天岩戸神話にて岩戸を投げ飛ばす剛力の持ち主 天手力雄神を祭神としており、戸隠神社の中でも特に重要視される社です。社務所手前から登山道が伸びているため、起点となることも多いそうです。祭神:天手力雄神社の記事未戸隠山 公明院昭和18年(1943年)に開創された修験寺です。大分出身の姫野公明尼にて営まれた小庵が始まりで、今では立派な御堂を構えるに至っています。公明尼は晩年、戸隠山にて修行・荒行を行い、最後の戸隠修験と称されました。公式サイトによると本尊は天照皇大神だとのこと。境内には他にも御堂が立ち並び、それぞれ面白い由緒を持った仏像が祀られているようです。本尊:天照皇大神(雨宝童子?)寺院記事未公式サイトへのリンク・戸隠山 公明院公式サイトへのリンクです。・信州戸隠山 戸隠神社以上です。
2025年12月10日
コメント(0)

福井県の古刹、山中に建つ禅の聖地として知られる永平寺参拝後、更に北上して白山信仰の総本社 白山比咩神社を目指します。県道22号をひた走り、ふと東の山々を眺めると奥の方に雪を被った高峰が見えました。あれがもしかして白山かしらとジーっと眺めていると、いつの間にか信号が変わっており、後ろからクラクションをくらってしまいました。見とれるほどに美しい峰々でした。駐車場から撮影したんですが、これが限界でした。ここも登拝したいですねぇ。2025.11.24白山比咩神社白山市の東の端、手取川のほとりに境内を構えております。一之鳥居の前には広い駐車場、今回はここに停めて参拝します。黄色く色付いた銀杏の葉が境内を飾り、夢うつつのまま参拝できました。参道は緩やかな登りです。木々に囲まれた厳かな雰囲気は、山岳信仰の社という風情があり、とてもお気に入りです。参道脇には巨木が立ちます。注連縄もまわしており、御神木だと思われます。参道の突き当りには白鳥居。奥には摂社の荒御前神社、随神門が立ち並びます。随神門の真ん前からは手取川が臨めます。白山から流れ出でて日本海へと注ぐ美川ですが、石川とも呼ばれるそうです。石川県の名前の由来となっていることは言うまでもありません。随神門です。ここを抜けるともう社殿が見えます。門の裏側には勇壮な姿の神馬像。華やかに飾られており、今にも動き出しそうです。門の脇、先ほど紹介した摂社:荒御前神社。祭神は荒御前大神・日吉大神・高日大神・五味島大神の4柱とされていますが、これらは14代神功皇后の朝鮮出兵に際して守護した神格と言われているようです。日吉大神以外はあまり聞きなじみがない神格ですよね。詳細を知りたいところ。荒御前神社の脇には力石が3つ。この地域では力石ではなく盤持石というようです。右から”あか石(127.5kg)”、”おまもり石(150kg)”、”あお石(172.5kg)”と呼ばれており、祭事の時には若者たちがこぞって持ち上げ、場を沸かせたそうです。お待たせしました、白山比咩神社の拝殿です。新しめの外観ですが、周囲の樹叢も相まって古社の風格がプンプンと漂っております。総本社にも関わらず装飾が控えめなのは、イブシ銀の感じがして良いですねぇ曹洞宗の寺院の鎮守社として置かれることも多く、境内も少なからず禅宗様の要素が混じっているんではないでしょうかねぇ、知らんけど。古めかしい木材、太い注連縄、緑溢れる境内・・・山岳の神を奉斎する神社として必要な要素を全て備えている、そんな神社でした。御由緒です。社務所にて購入できる”白山比咩神社 略史”より抜粋していきたいと思います。白山比咩神社鎮座と祭神 神代より降り積む雪のますます白く、「越のしらやま」として詩や歌に詠まれ、富士山・立山と並んで日本の三名山と仰がれる「霊峰白山」は、白山比咩大神の鎮まります神の御山と尊ばれる。また有徳の大明神の鎮座ましますところとしてあまねく崇敬されるところである。この霊峰白山のまつりの庭、すなわち白山比咩大神の遥拝所として石川県白山市三宮町に奉斎されているのが、白山本宮・加賀一ノ宮白山比咩神社である。 当社の創建は『白山大神宮御鎮座伝記』によると、崇神天皇7年(皇紀基準:前91年)と伝えられる。御祭神は菊理媛尊(白山比咩大神)、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱である。 神地は初め船岡山にあったとされるが、応神天皇28年(297年)手取川畔に遷座、さらに霊亀2年(716年)、社地が河流の氾濫のためにしばしば崩壊するので、詔して東南の地に遷された。ここが現在の北陸鉄道加賀一の宮駅横の古宮址、すなわち安久濤の森で、文明12年(1480年)の大火災によって本殿が炎上して三宮の現社地に遷るまで、約764年間の旧鎮座地であった。 ・・・。神階と社格 当社はもとより延喜式内の名社であり、また「加賀一宮」として広く尊崇され「白山さん」としてあまねく親しまれてきた大社であるが、加賀国が越前国に属していた頃にも「越前一宮」であったとも伝う。 神階は『日本文徳天皇実録』には仁寿5年(853)10月に従三位、『日本三代実録』 には貞観元年(859年)に正三位を奉られたことが記されている。さらに永治元年(1141年)には、正一位の極位を極めたことが『源平盛衰記』・『白山之記』によって知られる。 社格としては、明治4年(1871年)6月に国幣小社に列せられ、大正3年(1914年)3月には国幣中社に昇格した。 ・・・。白山奥宮 白山頂上の奥宮は養老元年(717年)の創建であり、泰澄大師の登嶺後、天長9年(833年)に加賀・越前・美濃の三馬場(登山路)が開かれ、各々神宮寺を定められた。すなわち加賀馬場は白山寺(本宮)、越前馬場は平泉寺、美濃馬場は長滝寺である。 白山は標高2702mで、富士山・立山と共に古来日本の三名山の一とうたわれている。最高峰御前峰の頂上に奥宮があり、白山比咩大神を祀る。大汝峰には摂社 大汝神社があって大己貴命を、別山には摂社 別山神社があって大山祇命を祀る。 ・・・。摂末社 『白山之記』によると、加賀の下山の7社(白山七社)として、白山宮(本宮)、金劔宮・三宮(現、白山比咩神社の社地に鎮座)・岩本宮(現、岩本神社)の「本宮四社」と、中宮(現、筒笠中宮神社)・佐羅宮(現、佐羅早松神社)・別宮(現、白山別宮神社)の「中宮三社」からなっている。 また末社は、本社境内に荒御前神社・住吉社があり、殿内末社として大国主神社がある。御贄祭 御贄祭は長和5年(1016年)に、加賀の七湊から御贄の献進があったことを起源とする古い祭で、漁業関係者の神恩報賽の祭典である。鎌倉時代には加賀国の七浦七湊から御贄の献進があったがいつしか絶え、江戸時代には当社10人神主のうち誰でも最初に手取川で鮭をとったものが献供して、直会には10人神主などの家族が集まり、骨まで頂いていた生贄の神事というものが僅かに名穫をのこしていた。 しかし明治時代以降、この祭は中絶していたが、大正15年(1926年)以来、七湊御贄祭として再興され、古例によって、旧江沼郡小塩田尻・伊切、小松市浜佐美、石川郡美川・石立、河北郡高松・大根布の七漁業組合から御贅が献進されることになった。 祭日は、従来、例大祭と併せ執行していたが、昭和43年(1968年)以降、每年6月の第一土曜日と改められ、加賀・能登両海区の各漁業協同組合をはじめ、海産物の卸・仲買・小売業者・加工業者など、漁業関係者がつどう大祭として、もろもろの海の幸が献進され、盛大な大漁祈願祭が執行されている。白山の開山 白山は上古においては、白山比咩大神の神霊の鎮まる霊山として仰がれ、禁足の神体山として女人はもとより一切の入山を許されなかった。越前の僧泰澄は「まだ誰も登らぬ雪の峰白山には必ず霊神あらん、我登山して顕応を乞わん」と志していた。『白山本宮同禅頂御出現次第』によると、霊亀2年(716年)、船岡山妙法窟に籠って観念を凝らし、祈願をこめると、霊験忽ち現れて白馬に乗った貴女が「我は舟岡に住んでいるが、西の河の深淵に行って、汝に結界荘厳せしめよう」と言い終って隠れられた。泰澄は急いで安久濤の淵(白山比峰神社旧鎮座地)に臨み、滝水の砌に向い大音声をあげて礼拝念誦した。養老元年(717年)4月1日、再び貴女が現れ「我、安久濤の淵に住み、和光同塵の垂跡を示し、不浄汚穢の輩を済度しよう。我が本地は白山禅定にある。往きて拝せよ」との霊感を蒙った。時に泰澄は36才であった。同年6月18日に初めて登山し、頂上の転法輪窟において、21日の祈念加持をこらした後、翠ヶ池のほとりで本地の真身を拝した。 次いで別山にて小白山大行事、大汝峰にて大己貴命の示現にあった。このことは天聴に達し、元正天皇の勅命が下って、麓に白山の神殿を造立された。泰澄はこの後なお1000日の錬行を修め、臥行者・浄定行者も侍して、共に錬行した。 その後、神亀2年(725年)7月、行基菩薩が白山登拝の際に泰澄は喜んで迎え、年来の友の如きありさまであった。行基はまた、泰澄の物語に感嘆したと言う。泰澄は、元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳各歴代の天皇の御帰依深く、徳行異相など枚挙にいとまがない。白山信仰が広く朝野にひろまったのはこれからである。客人宮 延暦元年(782年)、比叡山八王子の麓に白山妙理権現が現われ、叡山二十七代の慶命座主に一夜託宣があり、翌朝には積雪一尺という誠に不思議な霊験があった。天安2年(858年)6月18日、遂に社殿を建てて祀られるに至った。これが日吉の客人宮である。白山の観音 白山は本地を十一面観音とする。清少納言の『枕草子』にも、雪の山を築いた折「白山の観音これきえさせ給ふなと祈るも物くるほし」とあり、単に北陸ばかりの信仰でなく、都においても深く信仰されていたことがわかる。白山五院・中宮八院・三箇寺・神輿振 当時当社に所属する寺社は甚だ多く、白山五院の柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野坂寺・大聖寺や、中宮八院の護国寺・昌隆寺・松谷寺・蓮華寺(廃寺?)・善興寺・長寛寺・涌泉寺・隆明寺や、三箇寺と言われる那谷寺・温谷寺・栄谷寺など多くの子院もあり、神領も多くその勢威を弄して神輿振りもした。神輿振りとは、神輿を奉じて大衆がつき従い強訴を企てることである。神仏分離 明治元年(1866年)に発布された神仏判然令によって神仏習合が廃せられ、当社においても明治2年(1869年)6月、本地堂を取りこわした。仏器を取り除き、長吏は復飾して三神直と改称した。 また明治7年(1874年)7月、県官 三橋久実、森田平次等によって白山嶺上神祠の仏体仏器の下山が行われた。銅造十一面観音坐像(大御前本地仏)、銅造阿弥陀如来坐像(奥院本地仏)、銅造聖観世音坐像(別山本地仏)、十一面観音立像(慶松室)、木造泰澄大師坐像(室堂安置)、木造薬師如来坐像(市瀬薬師堂安置)等は旧白峰村に、木造十一面観音坐像、木造阿弥陀如来立像(桧新宮)等は旧尾口村尾添区にそれぞれ預託された。白峰村の下山仏は、現在白山市白峰の林西寺 白山本地堂に安置されている。白山比咩神社 略史 より抜粋古社でありながら、ここまで詳細な由緒が残っているというのは、それだけ朝廷からも重要視されていたと言う事を示しているんではないでしょうか。末社や傘下の寺院も多く、霊場の規模はかなり大きかったものと思われます。神仏分離に際して仏具の類は一掃されてしまいましたが、現在でも信仰の篤さを示す社宝が現存しており、こちら(公式サイト)からご覧になれます。2025.12.31白山信仰について詳しく解説している動画を見つけたので載せたいと思います。・YouTube / 石川県 歴史文化会議チャンネル / 霊峰白山と山麓の文化的景観出雲大社の注連縄とまではいきませんが、こんなに立派な注連縄はそうそうありません。なんともご立派ァ!な太綱です。扁額です。こちらは割とスタンダードなデザインですねぇ。拝殿左手には三本の杉が植えられております。こちらも御神木で、それぞれ菊理媛神・伊弉諾神・伊弉冉神が祭神として充てられているみたいです。御神木の隣。社殿の隙間から一本の竹筒が飛び出ています。ここから流れ出ているのは神体山である白山の伏流水です。両手で救い顔を洗ってみました。汗だらけの顔が洗い流されてスッキリ!気持ち良かったです。社務所を越えて駐車場の方へと向かいます。ここには芭蕉句碑が置いてありました。風かをる 越しの白嶺を 国の華翁この句が詠まれたのは元禄2年(1689年)と300年以上前なんですね。それでもありありと白くなった白山の姿が浮かんでくるのは、本当に面白いことです。優れた歌もそうなんですが、いつ聞いても新鮮な感じがするのはなんでなんですかね?再び神門の近くに戻ってきました。こちらにある石碑には昭和天皇御製の和歌が刻まれています。昭和55年の白山登拝に際して御詠じられたもので、明治天皇がご覧になった白山を今見ることが出来たと唄っています。ももとせの 昔帝の見ましけむ 白山にして 我登りゆく昭和天皇歌碑の隣には奥宮(白山山頂の社)の遥拝所が置かれています。ここで初めて知ったんですが、白山も三山形式なんですね。中央の峰は御前峯、右峯は別山、左峯は大汝峯と呼ばれており、それぞれ祀られる神格が異なります。各峯に神社があるらしく、縦走も楽しそうです・・・!本当に登拝したいですねぇ・・・。霊峰白山 霊峯白山は、御前峯・大汝峯・別山の三峯から成り立っております。 白山奥宮は最高峰の御前峯頂上に祀られ、全国3000余の白山神社の総本社として仰がれるお社です。白山奥宮の境内1689haの地域は、古来白山比咩大神の御神体山として尊崇され、霊峯白山は富士山・立山と並んで「日本の三名山」として有難く知られております。 昭和37年11月、白山奥宮境内を中心として石川・富山・福井・岐阜4県にわたる47700haの地域が国立公園に指定されました。この「白山国立公園」のすぐれた特徴としては、①豊富な高山植物②広大な原生林③美しい自然景観が挙げられております。毎年春山(5.6月)・夏山(7.8月)・秋山(9.10月)の開山期には、全国各地から数万の人々が白山奥宮に登拝いたします。 霊峰白山の遥拝所として今から2000余年前の人皇十代崇神天皇の御代にお祀りされたのが当社の創始とされております。別山(右峯):別山神社祭神:大山祇神標高:2399m御前峯(主峯):白山奥宮祭神:白山比咩大神標高:2702m大汝峯(左峯):大汝神社祭神:大国主神標高:2684m各峯の神格を表しているのか、鳥居の先には立派な磐座が3座並んでいます。”白き神々の座”と称される北陸の美峰を思い浮かべながら、いつか登拝出来るようにと願掛けしました。斜めから。白山を神体山とする白山神社の総本社 白山比咩神社でした。加賀に関わらず、その国の一之宮となっている神社には山岳を祀る神社が非常に多いです。それも山がちな国ならばなおさらのこと。古来より山というのは畏敬の念を持たれていたことが良く分かりますね。その畏敬の念がいつしか信仰へと形を変え、今日の大社や名社の類に続いていると思うと・・・感慨深いですよねぇ。美しい山の社には美しい社殿を、美社殿を眺めつつ終わりとします。今回貰った御朱印です。※御朱印の花は月ごとに変わるそうです。公式サイトへのリンクです。・北陸鎮護の大社 白山本宮・加賀一ノ宮 白山比咩神社以上です。境内の説明書き白山詣双六 石川県立歴史博物館の「大鋸コレクション」の中に、江戸末期頃に刷られた絵双六「新版手擲清水参並白山詣双六」がある。振りだしは東山の西養寺で、上がりは白山比咩神社。マス目には全24ヶ所の景観が白山参詣道として描かれており、往時の街道筋の庶民生活に想いを馳せることができる。白山市
2025年12月09日
コメント(0)

下北半島の東側は古くから東通りと称され、むつ市を経由して川内などに至る西通りと対をなす下北の主要道でありました。東通りから少々外れたところに、角の様にとがった半島がありますよね。これは尻屋崎と呼ばれる岬で、天気が良ければ下北半島の北浜が一望できるスポットなんです。寒立馬でも有名ですね。この尻屋崎から丘を隔てて南側にあるのが尻労村。日本一?の砂丘である猿ヶ森砂丘の北端にある小さな漁村です。この村の主要な仏堂として置かれているのが今回紹介する池徳庵です。入り組んだ路地の先に、ひっそりと境内を構えています。田名部海辺三十三観音霊場七番札所:池徳庵田名部海辺三十三観音霊場の札所はほとんどがこうした庵寺です。地域の寄り合い所となっているような小さな寺ですが、こうした寺にこそ面白い歴史があるというもの!見ていきましょう。御堂は入母屋屋根で、中くらいの大きさ。中央の引き戸は開けられませんが、一部が開くようになっており、そこに朱印が置いてあります。喜捨を収めて自分で押印します。御堂の前の祠。中には罔象女社と書かれた木札が収められていました。漁村と言う事もあり、水神の信仰が篤そうです。境内には田名部海辺三十三観音霊場の由緒書きが有るんですが、これでは情報が少ないので、他の記述と併せて見てみましょう。参考文献・青森県「歴史の道」調査報告書 北浜街道 41ページ池徳庵浄土宗 不退山常念寺末庵本尊:阿弥陀如来 当庵の開山は元禄8年(1695年)9月19日とされていますが、開山主・開基ともに不詳となっております。明治4年(1871年)には廃庵となりますが、その4年後には復庵となり現在に至ります。古地図(北郡尻労村内澗崎大砲台場測量之図)では自徳庵とも書かれており、”ちとくあん”または”じとくあん”と称していたことは確からしいです。 浄土宗の庵寺ですが、村内には吉祥山 円通寺の檀家もいるらしく、そうした方をも拒まずに受け入れているんだとか。 札所本尊の如意輪観音像は錆こそ目立ちますが、光背は燦々と輝いており、裏面にはなんと神鏡が取り付けてあるといいます。仏像胎内納入鏡という形式らしいですが、これも神仏混淆の産物と見て間違いないと思います。堂内には入れませんが、引き戸の先には札所本尊の御影もあります。・・・こうして眺めてみると、単立の像というよりは三十三観音像の内の1つといった風情があります。実際のとこどうなんでしょ?とはいえ、余裕のある姿はなかなかの貫禄!斜めから。村の小さな庵寺ですが、納められている仏像は面白し形態をしていましたね!この胎内鏡、納められる前には誰が持っていたんでしょうか?この地の修験でしょうか?それとも上方から来た高僧でしょうか?由緒書きや文書の類は既に無く、今はそんな妄想を重ねることしかできませんが、そこの歴史の面白さがありますね。御詠歌?札所本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र今回貰った御朱印です。以上です。
2025年12月08日
コメント(0)
神奈川県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:神奈川県の仏堂と寺社8世紀702年平塚市:金目山 光明寺716年伊勢原市:日向山 霊山寺 宝城坊718年伊勢原市:雨降山 石雲寺721年逗子市:海雲山 岩殿寺724年逗子市:醫王山 来迎院 神武寺725年厚木市:飯上山 長谷寺729~749年大磯町:相府山 眞勝寺座間市:妙法山 星谷寺 八番札所:妙法山 星谷寺 座間入谷に境内を構える古刹逗子市:黄雲山 地蔵密院 延命寺葉山町:守護山 玉蔵院734年鎌倉市:大藏山 杉本寺736年鎌倉市:海光山 慈照院 長谷寺753年小田原市:飯泉山 勝福寺755年伊勢原市:雨降山 大山寺9世紀9世紀中厚木市:華厳山 遍照院 金剛寺11世紀1044年横浜市:瑞應山 蓮華院 弘明寺1088年?伊勢原市:誓正山 西迎院 涅槃寺12世紀1133~1212年鎌倉市:大異山 高徳院 清浄泉寺1188年鎌倉市:稲荷山 浄妙寺1189年以前横須賀市:金剛山 浄楽寺1189年横須賀市:金剛山 無量寺1192年横須賀市:鈴木山 長慶寺1194年横須賀市:岩戸山 満願寺横須賀市:義明山 満昌寺1200年鎌倉市:亀谷山 寿福金剛禅寺13世紀13世紀中?茅ヶ崎市:懐島山 龍前院 正録護国禅寺三浦市:金剛山 大椿寺三浦市:飯盛山 妙音寺三浦市:岩浦山 福寿寺1219年鎌倉市:普明山 法立寺 成就院1221年逗子市:青龍山 東昌寺1225年鎌倉市:祇園山 安養院 田代寺1232~1233年横須賀市:明星山 傳福寺1243年鎌倉市:天照山 蓮華院 光明寺1253年鎌倉市:巨福山 建長興國禅寺1258年?横浜市:金澤山 称名寺1259年鎌倉市:霊鷲山 感応院 極楽律寺1281年鎌倉市:金寶山 浄智寺1282年鎌倉市:瑞鹿山 円覚興聖禅寺14世紀14世紀以前横浜市:三療山 医王院 薬王寺1321年以前横浜市:諸嶽山 總持寺 横浜市:諸嶽山 總持寺 大都会に開かれた禅刹の根本地1332年横須賀市:海上山 円乗院1334~1335年三浦市:金田山 清傳寺1336年鎌倉市:宝亀山 長寿禅寺1345年伊勢原市:福智山 能満寺1351年横須賀市:金鳳山 景徳寺1394年以前横須賀市:大冨山 清雲寺1394年鎌倉市:扇谷山 海藏寺15世紀1436年鎌倉市:妙厳山 本覺寺1458年伊勢原市:蟠龍山 洞昌院1468年横須賀市:宝林山 正住寺16世紀1505年横須賀市:七重山 浄林寺1544年以前愛川町:満珠山 勝楽寺1550年以前横須賀市:海照山 専福寺1567年伊勢原市:冨士山 上行寺1584年横須賀市:栄久山 等覚寺1591年以前逗子市:長谷山 海宝院1596~1615年三浦市:龍徳山 光照寺17世紀17世紀以前横須賀市:延命山 東福寺1608年伊勢原市:無常山 浄発願寺1613年大磯町:雞足山 高麗寺 慶覚院1616年三浦市:紫陽山 見桃寺1671年?寒川町:霊信山 西善院1687年横須賀市:坂中山 観音寺17世紀1704年以前三浦市:白蓮山 心光寺1719年以前三浦市:円通山 蓮乗軒年代不明伊勢原市:伊勢原火伏不動堂逗子市:蓮沼山 観藏院葉山町:軍見山 海宝寺三浦市:城谷山 音岸寺三浦市:立光山 海應寺三浦市:網代山 海蔵寺三浦市:仏光山 観音寺(大畑観音堂)三浦市:菊名山 法昌寺三浦市:海東山 三樹院横須賀市:普門山 慈眼院横須賀市:楽浦山 能永寺以上です。
2025年12月06日
コメント(0)
神奈川県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク神奈川県神社庁神奈川石川県神社一覧wiki 府県社 / 神奈川県の旧県社wiki 郷社 / 神奈川県の旧郷社wiki 村社 / 神奈川県の旧村社wiki 無各社 / 神奈川県の旧無各社神奈川県の神社の旧社格官国幣社国幣中社鎌倉市:鶴岡八幡宮寒川町:寒川神社 寒川町:寒川神社 関東総鎮守に数えられる相州の古きかみやしろ諸社県社伊勢原市:大山阿夫利神社二宮町:川匂神社平塚市:平塚八幡宮郷社厚木市:小野神社伊勢原市:高森神社伊勢原市:比々多神社大磯町:六所神社 大磯町:六所神社 領国内の古社を集め祀る相模の総社大磯町:高来神社茅ヶ崎市:鶴嶺八幡宮中井町:五所八幡宮葉山町:森戸神社平塚市:前鳥神社 平塚市:前鳥神社 学問と職能の神を祀る古社三浦市:海南神社横須賀市:西叶神社村社厚木市:龍藏神社伊勢原市:高部屋神社伊勢原市:伊勢原大神宮伊勢原市:日向神社鎌倉市:甘縄神明神社鎌倉市:荏柄天神社鎌倉市:八雲神社平塚市:八坂神社平塚市:平塚三嶋神社三浦市:海南神社(城ヶ島)横須賀市:久里浜天神社横須賀市:東叶神社横須賀市:大津諏訪神社横須賀市:鹿島神社社格不明伊勢原市:比比多神社(上粕屋)大磯町:守公神社鎌倉市:宇賀福神社鎌倉市:白旗神社(源頼朝墓)二宮町:吾妻神社秦野市:出雲大社 相模分祠葉山町:鐙摺須賀神社三浦市:白髭神社三浦市:岩浦八坂神社三浦市:金田走湯神社三浦市:三浦白山神社横須賀市:走水神社横須賀市:近殿神社横須賀市:熊野神社(岩戸)横須賀市:船越神社以上です。
2025年12月06日
コメント(0)

琵琶湖の東のほとりには、津軽に見られるような広大な田園地帯が広がっています。田んぼの隙間を埋めるように民家が建ち、それがいつしか村となり、今日の風景をかたち作っています。田園地帯の一画には昔の面影を残す松並木。学校の横を通り、その先には今回紹介する神社が鎮座しています。2025.11.23兵主大社駐車場に車を停め、足早に境内へと向かいます。蒼天のもと、すがすがしい気持ちで大社に臨みます。神橋を渡り、その先には鳥居、そして大きな随神門が立ち並んでいます。鳥居をくぐった先にあるのが手洗御前社。小さいながらも萱葺風の屋根がステキです。調べましたが祭神は分かりませんでした。おそらく祓えの神格ではないかと思われます。そんでさぁ・・・こんな随神門、反則です。あまりにも美しすぎます解体修理時に出てきた墨書きによると、建立されたのは天文19年(1550年)だとされています。寄進者はかの足利尊氏とされていますが・・・。檜皮葺の屋根がなんとも言えないアジを醸しており、見ごたえ抜群!随分長いことうっとり眺めてしまいました・・・。楼門の両側には舞殿のような建物が突き出していますが、懸かっている扁額からも、これはおそらく境外末社の遥拝所ではないでしょうか。右側には矢放神社・狩上神社・戸津神社の3社。左側には二ノ宮神社・浅殿神社・矢取神社の3社が並んでいます。因みに兵主大社の境外末社は恐ろしい程多く、村内の殆どの神社が末社になっているんではないでしょうか。ここで確認できるのは・・・兵主若宮神社:事代主神乙殿神社:稲背入彦神戸津神社:三穂津姫神八幡神社:十五代応神天皇四之宮神社:光殿姫神?稲荷神社:倉稲魂神杜若神社:素戔嗚神野々宮神社:天照皇大神天満宮:菅原道真公八幡神社:十五代応神天皇矢放神社:天少彦名神下堤神社:大国主神苗田神社:稲田姫神苗田日撫神社:天照皇大神三之宮神社:高光照姫神吉地神社:五十猛神浅殿神社:事代主神城之神社:事代主神二ノ宮神社:天児屋神比利多神社:経津主神木部神社:素戔嗚神高木神社:高皇産霊社長澤神社:天瀬織津姫尊矢取神社:手力雄神三河神社:事代主神牛尾神社:素戔嗚神服部龍神宮:龍神南産土神社:天孫瓊瓊杵尊北産土神社:天孫瓊瓊杵尊千原神社:素戔嗚神狩上神社:事代主神という感じで計31社の末社があるそうです。参拝した時には、兵主大社で全ての末社の御朱印を出していました。なんというやり込みコンテンツでしょうか。当然今回は断念。楼門くぐり参道右手、境内社の乙殿神社が鎮座しています。一応社格は村社となっています。単に社だけが置いてあるのではなく、それを囲むように瑞垣が貼られ、その一画が拝殿の様になっています。まさに上方の神社の造りといった感じです。境内の御由緒書きを見てみましょう。乙殿神社 御由緒祭神:稲背入彦神、菅原道真(天満宮・明治42年11月13日合祀)縁起 養老2年(718年)兵主大神降臨にともない、五条小森立の地にあわせて鎮座する。兵主の神の主(氏の上)の祖神として現在に及ぶ。それ以来豊積の里農地開田の神にして崇敬され、兵主祭渡し当番に際しては兵主十八郷の第一として神事を務め現在に至る。祭礼日1月1日:元旦祭1月15日:左義長祭1月25日:初天神祭4月8日:内祭り5月5日:兵主祭6月下旬:寅御前祭7月上旬:御千度祭10月中旬:御日待祭11月下旬:新嘗祭12月25日:仕舞天神瑞垣内にはこの通り2つの社が置かれています。大きな方が乙殿神社、小さな方が天満宮でしょう。随神門の先に広がる参道を今一度眺めます。両側に樹叢が繁り、枝葉の間を抜けて少し冷たい風が吹いていました。頭上から射す日差しが心地よく、自然と表情も緩んでしまいました。ああ、これほど趣深い境内がどれほどあるでしょうか、いや、これ以上のものはそう無いでしょう。手水舎では亀が清らかな水をはき、参拝者の身を清めます。山門と等しく拝殿も良し。やはり檜皮葺には不思議な魅力があります。中央の二重屋根の部分と両側の社は舞殿の様になっており、内側は吹き抜けになっていました。参拝時には玉垣内が良く見え、壁がないので神鏡が浮いている様に見えます。面白い造りです。境内の説明書きをば・・・。兵主大社拝殿翼楼建立年代:天保13年(1842年)改築年代:昭和16年(1941年) 拝殿翼楼の建物は中央の拝殿一棟と左右の翼楼二棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめずらしい型のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。 現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。 昭和16年(1941年)皇紀2600年を記念して改築されましたが、天保13年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉地村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左ェ門と棟札に記載されております。平成13年10月吉日では御由緒!兵主大社祭神:兵主の神(八千矛神・別に大国主神と同一視された)由緒 「兵主」の神は、全国に50社近くお祀りされていますが、その内延喜式神名帳に記載されている社が19社、その中でも当社は大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社と並んで名神大社に列せられています。元来、中国の八神信仰に由来する兵主(八千矛神)の神を、渡来人が奉斎し但馬国を中心に全国各地にお祀りしたと考えられます。 「兵主大明神縁起」によれば、御鎮座は養老2年(718年)と伝えられます。「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、中世には武将の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏による社殿の造営を始め数多くの武器・武具類の寄進があり、社宝として伝えられております。一方では旧不動堂・不動明王立像を始め仏教色を残す宝物が多く残存し、当社の信仰圏の広さがうかがえます。 又、当社は「兵主十八郷」と称する氏子地域の総氏神として住民より心のよりどころと仰がれ、他方、三十番神信仰に代表されるように全国各地よりの崇敬者の参拝も跡を断ちません。年中行事1月1日:歳旦祭、初もうで1月3日:元始祭1月10日:初えびす1月15日:神粥神事2月3日:節分祭、乾湿伺神事3月上旬:祈年祭5月3日~6日(5日:神輿・太鼓渡御):兵主祭(春季例大祭)6月30日:夏越の大祓(茅の輪くぐり)7月1日:納涼祭10月中旬:鮒寿司祭(秋季例大祭)10月下旬:火まつり(護摩木供養)11月15日:七五三詣11月下旬:新嘗祭12月上旬:八ヶ崎神事(おこりかき)12月31日:師走の大祓神社パンフレット より引用八神信仰とは、陰陽道における方位の神格である8柱の神格を祀るものです。仏教の十二神将とは異なり、それぞれの神格が東西南北・北東北西南東南西の8方位に対応しているようです。これらの8柱の神格は牛頭天王の御子神ともされており、神仏分離によって牛頭天王が素戔嗚神と同一視されると、八神も素戔嗚神の御子神である八王子神と同一視されました。そんな八神信仰に登場するのが蚩尤という怪物。そして兵主神とは蚩尤と同一だという説もあります。真偽は分かりませんが、実際に大陸の神格が伝わり、それを奉斎したのが始まりなんではないでしょうか。実際近江国は渡来系の氏族が多く居住していたとされており、彼らが自国の神格を持ち込んだとしてもおかしくはないと思います。そして八千矛神とは大国主神の別称とされていますが、それと兵主神とが同一視されているのはなぜなんでしょうか?この部分は本当に謎です。祭祀の中でも面白そうなのが八ヶ崎神事です。まずはどのような祭祀なのか見てみましょう。兵主大社と八ヶ崎神概要 兵主大社は、祭神を八千矛神とし、養老2年(718年)に創建されたと伝えられており、流麗な朱塗りの桜問(室町時代・県指定文化財)が美しく、数多くの社宝や文化財を有しています。その文化財の中でも、平安時代後期に造られた池泉回遊式の庭園(国指定名所)は、紅葉の名所として知られています。 八ヶ崎神事は、毎年12月上旬に行われ、宮司が湖中に入って御神体を清め、神を向かえる神事です。白蛇の姿をした兵主神が大亀に背に乗って琵琶湖を渡り、鹿の群れに守護され、現在の社地にたどり着いたという伝説にちなむものです。ストーリーの位置づけ 祭神が琵琶湖を渡り現在の社地にたどり着いたとの伝説がある。毎年、秋に湖岸で、宮司がご神体と共に湖中に入りご神体を琵琶湖の水に浸すという神事がおこなわれるなど水と祈りとの深いかかわりがある資産。日本遺産 ポータルサイト / 琵琶湖とその水辺景観 兵主大社と八ヶ崎神事 より引用兵主の神の遷座の様子を再現する神事みたいですねぇ。実際に動物たちが付き従っていたならば、かなり神秘的な風情があるでしょうね。滋賀県はやはり琵琶湖と関連する神事などが多いです。どれだけ琵琶湖が生活と深く関わっていたかが伺えますね。実際の八ヶ崎神事の様子を載せたいと思います。こちらからどうぞ!・YouTube / 野洲市観光物産協会 / 日本遺産 兵主大社と八ヶ崎神事 ‐八ヶ崎神事と水辺の舞楽‐右脇から本殿を拝めます。境内の中で最も高いところに座し、威風堂々です。植物溢れる美しい玉垣内陣は見どころの1つです。境内の説明書きも載せますね。県指定有形文化財 兵主神社本殿桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺令和7年3月18日指定 兵主神社の創建は平安時代にさかのぼるとされ、その名称から中世から近世にかけて武士の信仰を集めた。現在の本殿は棟札等から寛永20年(1643年)に建立された事が明らかである。屋根の正面側が長い流造と異なり、正背面で屋根の長さが等しい切妻造の一間社は極めて珍しく、さらに一間社としては全国的に見ても大規模な本殿である。外観は控えめではあるが要所に優れた彫刻を施す。建築技法的には中世と近世の過渡期的な部分が認められる。また近世に野洲郡を中心に活躍した谷川(長谷川)姓の大工棟梁の代表的な作例である。 年代が明確で後世の改造も少なく、形式と規模において県内でも他に類例を見ない本殿であり、技術的にも意匠的にも優れた質の高い建築として貴重である。令和7年6月社殿右手のエリアを見てみましょう。まず社務所の隣にあるこちらから。これは神武天皇遥拝所と呼ばれています。名前からしておそらく橿原神宮の遥拝所だと思われます。その隣には神仏混淆の痕跡も。こちらは旧護摩堂、かつてあった神宮寺の堂宇の1つだと思われます。ここでは兵主大社の本地仏 不動明王が祀られていました。境内の説明書きです。兵主大社旧護摩堂建立年代 江戸時代後期 棟札によると寛政6年(1794年)12月に、吉地村の大工、谷川若狭重道一族により上棟されて現在の形に改められたと思われる。本来は神社蔵の江戸初期絵図によると宝形造・二間四方・廻り縁付きで、兵主神の本地仏(不動明王)をまつる護摩堂として建立されたものである。 一部、丸柱・格天井などには中世の部材も多く残り、平成8年度の修理では、根継ぎ等による補強を加えて、歴史的な重みを加えることとなった。 又、内部には、氏子崇敬者三十六社の神々を祀り、江戸時代にはその御神徳は、現在の守山市・中主町・近江八幡市・野洲町の2市2町にまたがる信仰圏を形違っていたものと思われる。平成8年8月堂内には大きな幣を取り囲むように祠がズラリと並んでいます。脇には地蔵尊像も。旧護摩堂の近くには両大神宮の祠が鎮座しています。恐らく伊勢神宮 内宮・外宮の神格を祀っているものと思われます。拝殿左手には文化財に指定されている庭園へと続く門があります。入ってすぐの浮嶋には祠が。恐らく弁財天か。平安時代の遺構が残る貴重な庭園は、紅葉の時期にピッタリ!参拝時には無料で拝観できました。季節によって有料・無料が切り替わるみたいです。斜めから。風光明媚の喩えを欲しいままにするうつくしの社、兵主大社でした。祭神や歴史などには不明な点が多いですが、それも悠久の歴史があったことの証明でしょう。境内・社殿全てが古雅・秀麗であり、こんな古社にはなかなか出会えないでしょう。よい神社でした今回貰った御朱印です。紅葉の御鈴以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリーうつくしの門
2025年12月05日
コメント(0)

静岡県と同じく富士山の麓に広がる山梨の街。古くから甲斐国と呼ばれ、河内源氏の流れを汲む甲斐源氏が統治しておりました。甲斐源氏の嫡流は武田を姓とし、この一門から武田信虎・晴信などの傑物が生まれています。富士山は古くから遥拝の山として知られており、山梨県からもその整った山容を拝むことができます。古代の有力者も、次代の武田氏も、みなこぞって崇拝し、篤い崇敬を捧げていました。今回紹介するのは、そんな富士山を祀る浅間神社の内、甲斐国で最も社格の高い神社です。淺間神社国道20号を東に進みます。笛吹市の一宮町にさしかかる頃、勇壮な一之鳥居が見えてきます。建立時期が新しいのか、明神鳥居となっています。参道を進んでいると、土手の脇には小さな神社が鎮座しておりました。これは天神社、菅原道真公を祭神とする神社で、淺間神社の境外末社です。天満宮と言えばの撫で牛。黒光りしています。社殿も小さく、ほぼ祠です。祠の周りには地蔵尊なのか、庚申なのか判別不能な石碑が置かれていました。道の突き当りにそのまま随神門が建っています。かつての参道が今でも公道として利用されているんですね。二之鳥居と社号標も建ってますねぇ。参道にどっしりと構える随神門は木材の色味が丁度よく、非常に落ち着いた威厳ある外観です。門の両側には随神像。どちらも弓を携えていますね。社務所の脇には奉納品が並びます。日本酒ではなくワインが並んでいるのが非常に山梨らしくて面白かったです。手水舎です。この手水舎は別名”女神の井戸”と呼ばれています。淺間神社の祭神 木花咲耶姫神にあやかった命名で、かつては境内の各所から湧いていたそうです。近代になって枯れ井戸となってしまい、新しく掘削して湧水したのがこの手水なんです。そんでもってついに拝殿が見えてきました。拝殿の前に建つのは鳥居ではなく注連縄。古めかしい趣が感じられますが、それも当社が山梨最古級の古社であるからでしょう。拝殿と向かいあう形で立派な石の棒が勃っています。この石は子持石と呼ばれる陽石で、見た通り生殖器崇拝が形作った産物です。なんとも言えない場所に何重にも紙垂が垂らしてあり、かなり神聖な見た目となっていますね!根元には両側に丸い石も置かれており、これはもう確信犯です。拝殿です。どっしりとした横長の拝殿はまさに山岳信仰の社といった感じでしょうか。ここからは境内の説明書きを見ていきましょう(被っている内容は省きます)。浅間神社の文化財浅間神社御祭神:木花咲耶姫神 当社は甲斐国の一宮であり、延喜の制に於ける名神大社です。御祭神は、木花咲耶姫神で、十一代垂仁天皇8年(前22年)正月に東側の神山の麓に祀られました。今ここが浅間神社の摂社 山宮神社となっています。 五十六代清和天皇の貞観7年(865年)12月9日、木花咲耶姫神を現在の地に遷し祀られています。 明治4年5月14日、国幣中社に列格。本殿は入母屋造向拝付銅板葺、拝殿は入母屋造唐破風向拝付銅板葺です。 境内は、3395坪。山宮神幸祭3月15日前の日曜日 「山宮」という名前は今の浅間神社を里宮というのに対する呼び方です。そのため神さまは、1年に1回、里宮である浅間神社から山宮神社に帰ります。これが「山宮みゆき」というお祭りです。大神幸祭(川除祭)4月15日 川除祭(水防祭)は、一宮(浅間神社)、二宮(美和神社)、三宮(玉諸神社(甲府))の三社合同で行われます。赤やピンクの長襦袢、紅とおしろいで女装した華やかな男衆が交代で神輿を担ぎ、「そこだい、そこだい」と独特の掛け声を上げながら練り歩きます。神輿は境内から担当地区を通り、石和町の石和八幡神社、甲斐市竜王の信玄堤公園へと移動し、治水を祈願します。 また、参拝客で賑わう浅間神社境内の神楽殿では、お神楽が奉納され、一方では子ども神輿も繰り出し、家から家へと廻っていきます。笛吹市教育委員会こちらには更に詳細な由緒が載っていました。日本遺産:葡萄畑が織りなす風景構成文化財 甲斐國一宮 淺間神社 「日本遺産」は地域の歴史的魅力や特色を通じて、わが国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。 甲府盆地東部の峡東地域は、平坦地から傾斜地まで葡萄畑が広がり、初夏には深碧の絨毯、秋には紅葉の濃淡が日に映え、季節ごとに様々な風景を魅せてくれます。 先人たちの知恵と工夫により形成された葡萄畑は、時を経た今もなお、美しい風景と豊かな恵みを人々にもたらしています。 受け継がれてきた技術・建造物・そして人々の思いが溶け込む「葡萄畑が織りなす風景」がここにあります。淺間神社の歴史「木花咲耶姫神」をご祭神とし、古代甲斐国の中心地に創建 垂仁天皇8年(前22年)に、ここから東南に約3km離れた神山(こうやま)の麓に祀られたのが始まりといわれています。山宮神社と称するその摂社から、木花咲耶姫神を現在地に遷座し、淺間神社が創建されたのは貞観7年(865年)12月9日のこと。富士山の「貞観の大噴火(864~866年)」を鎮めるためでした。 当時、駿河国側には「富士山本宮浅間大社」がすでにあったため、甲斐国側にも淺間神社を建立して両方向から富士山を鎮めようと、朝廷から命を受け、富士山鎮護の神様である「木花咲耶姫神」をこの地に遷してお祀りしたのです。 この神社は、噴火の被害を避けるため富士山が見えない場所に位置し、さらに神様が正面から被害を受けないように本殿が富士山に対して90度横を向いているという特徴があります。また当時この地域は国府が近く国分寺もあるなど、甲斐国の中心地であったことも鎮座地になった理由であり、そのため噴火が鎮まって以降も、甲斐国の神社の中で最も古い歴史を有する伝統的な神社として崇敬を集め続け、現在に至っています。地域の産業とともに農業生産や酒造繁栄の神様として地域に根ざす 甲斐国一の都市に位置し、ご祭神の木花開耶姫命は富士山鎮護のみならず、農業・酒造・子授安産の神様として崇敬されていたことから、富士山が鎮まってからは、米・養蚕・果樹といった産業を守る神様として地域に根ざしていきました。明治時代から始まった桃・葡萄の栽培は日本一の生産量を誇るまでになり、現在もフルーツ王国やまなしをけん引する地域として発展を続けています。 中でも明治時代に日本で初めて手がけたワイン醸造は、この地域の主要産業となりました。昭和40年頃から3月の山宮神幸祭には峡東地域のワイナリーからワインの新酒が奉納されています。そのほとんどが一升瓶のワインです。通常、御神酒は日本酒ですが、浅間神社では奉納されたワインを神様にお供えした後に御神酒としています。また古くは薬として用いられていたワインの効能にちなんで、御神酒を封入した「葡萄酒守」もあり、ご神徳は「無病息災」「身体健全」「葡萄酒豊穣」であることも、葡萄畑が広がる日本ワイン発祥の地である峡東地域にふさわしいものです。 さらに近年、使用済みのワインコルクをお焚き上げして自然にかえす「ワインコルク感謝祭(コルク供養)」も3月に行われるようになりました。 地域の産業を神様が守り、人々とともに歩んできた長い歴史と由緒のある神社として、この地域に育まれた文化を未来につなげていくことも大切にしています。例大祭「大神幸祭」長い歴史を経て今もなお人々に親しまれる「おみゆきさん」 甲斐国一番の大祭といわれ、1100年以上昔から行われているとされています。当時釜無川の氾濫により甲府盆地では頻繁に作物が被害を受けていました。そこで富士山噴火という自然災害を鎮めた浅間神社の神様をお連れしたのが祭りの発端です。神様が移動することを神幸(みゆき)といい、その中でも最大規模なので大神幸祭となり、やがて「おみゆきさん」と呼ばれるようになりました。 毎年4月15日に甲斐市竜王の三社神社まで片途約6里(24km)に及ぶ長い行程を神幸の上、釜無川の氾濫を鎮めるための水防祈願祭を執り行っています。神輿が行く途中では、古くからその時代の国の長がお参りをする風習があり、武田信玄公も館から降りてきて陣を張りお参りしたといわれています。現在では葡萄畑に囲まれた沿道でワインがふるまわれるなど、今も地域の人々に親しまれ続けている大切な祭事です。神事とワインとが結びついているのが本当に面白くて、フルーツ王国たる山梨県の風土を感じることができますね。このコルク供養というのも興味があります。実家にはコルクが大量に溜めてあるので、それらを供養してもらいたいですが・・・。更に創建の由緒も面白かったですねぇ。静岡県の富士山本宮浅間神社と対を成す形で創建された古社でした。2国で祭祀を行わなければならない程、富士山噴火の被害はすさまじかったんでしょうね。被害を受けない工夫というのも面白いです。ここからは社宝についてです。国重要文化財 紺紙金泥般若心経 付武田晴信自筆奉納包紙明治38年4月4日指定 紺色の料紙に金泥(金字)で写経を行った般若心経で、後奈良天皇(在位1528~1557年)の御宸翰(天皇の自筆)による。乱世に在位した天皇は写経の功徳によって万民を救済しようと、諸国一宮に般若心経の奉納を試みた。当初は全国「六十六ヶ国・島国」まで奉納することを目的としたが、奉納されたと記録されるのは二十四ヶ国だけで、現存するのは甲斐を含め、三河・周防・肥後・越後・伊豆・安房の七ヵ国分にすぎない。 紺色の料紙には罫線が引かれ、18行にわたって般若心経が記された後、1行おいて「甲斐国 国土安穏万民和楽」の祈願文がある。見返しには杏仁型の図柄を一面に配する。罫線・文字・図柄ともに金泥で書かれている。 経典とともに残される包紙には、武田晴信自筆の奉納文と花押が押されている。その内容から、この般若心経は天文19年(1550年)、一旦国主である晴信・に渡された後、改めて甲斐一宮である浅間神社に奉納されたことがわかる。山梨県教育委員会笛吹市教育委員会県指定・工芸 浅間神社所蔵の太刀2口一、太刀 銘 国次昭和40年5月13日指定 本刀は、武田信玄が奉納したと伝えるもので、長さ104cm、反り4.5cm、鎬造り。地は板目肌、鎬地は柾目肌で刃文は中直刀。茎は鑢目鷹の羽で目釘穴一ヶ、国次と二字を切る。銘ぶりは俗に民国次といわれるもので、国構えの中に「民」の字が切られる。寛正・永正頃美濃国に住んだ刀工 民国次の作である。民国次の刀工としての位次は高くはないが、本刀は技両すぐれた作品として県指定を受ける。一、太刀 銘 一徳斎助則昭和47年1月27日指定 本刀は、一徳斎助則の作で、長さ115.1cm、反り2cm、鎬造り。地は小板目細かく無地風、刃文は直刃に小互の目交り、足葉入り、刃緑匂で締まり、諸所に沸付きが地にこぼれる。 助則は、一宮町中尾の人で、本名 田村義事。文政10年(1827年)に生まれ、明治42年(1909年)没した。本刀は、明治23年(1890年)64歳の時の作で、浅間神社に奉納されたもの。生地中尾の田村家所蔵のもの(明治22年作)とともに、甲州刀の代表作として、県の指定を受ける。昭和62年3月山梨県教育委員会一宮町教育委員会↑の宝物含め、全ての社宝類は公式サイトにてご覧になれます。やはりというか武田晴信関連の宝物が多かったですねぇ!篤い崇敬を受けていたことが分かります。ここからは境内の様子を見ていきます。随神門付近には摂社 山宮神社の遥拝所とともに、陰陽の力を象った一対の奇岩が置かれています。山宮神社はこの遥拝所の背後に見える神山内に鎮座しています。立派な本殿とその背後の巨木が見所です。こちらは別記事にて紹介したいと思います。陰陽石も見てみましょう。手前のこちらは明らかに陽石でしょうねぇ!怒張した勇峰と共に根元の双玉も輝いております。隣には陰石もあります。縦一筋に走った亀裂が生命の息吹を感じさせます。そこから程なくして、陽気そうな大黒天の像が置かれています。裸足なのが気になる。そして境内に端にはまたしても勇根型の秀石が置かれています。これで3つ目ですよ。こんなに密度が高いのは初めてのことです。勇根の近くには裏参道。こちらは鳥居の原型のような感じですねぇ。裏参道の近く、社殿の右手には神楽殿が建っています。ここの脇から本殿後方をぐるりとまわって、末社めぐりができるんです。神輿舎の影になっているこちらの祠群は七社大神と呼ばれています。構成は・・・雨降大神(大山祇神)道祖神稲荷大神金刀比羅大神六所大神(構成不明)加具土大神天満宮(菅原道真公)となっています。その脇には郷土の英霊を祀る護国社が鎮座します。護国社があると、地域で一番大きな神社なんだなと感じられます。祓いの門。くぐります。十二支守りの巡礼用でしょうか、十二支像が置かれています。こちらの像はどれもデザインが可愛らしく、見ていて飽きません。自分に関連する干支を見ていきましょうか。こちらは子。僕の干支である丑。奥まで行くと羅針盤のようなものも。最近知ったんですが、乾や艮、巽などは戌亥・丑寅・辰巳を一字で表したものなんですねぇ。末社の稲荷社もあります。こちらには御由緒も附されていました。境内末社「稲荷社」由来 この稲荷社社殿は、昭和59年8月、日本の高度成長期に、例大祭「おみゆきさん」とご縁のある竜王町(現在の甲斐市)に創業された日立製作所甲府工場の中に祀られていた、 日立浅間神社(後のルネサス浅間神社)境内にあったものを、移築したものです(横にある古い看板は、その境内に建てられていたものです)。 県内最大の企業内神社としての歴史を留めると同時に、企業発展、商売繁盛を祈念して、末社七社神社内の稲荷大神から御分霊を頂き、新たに稲荷社としてここに祀られました。 参道の朱塗りの鳥居は、参拝の皆様から御奉納を頂き増やしてまいります。ご希望の方は、社務所までお申し出ください。境内説明書き より引用稲荷神社の鳥居の近くには、なぜか巨大なキノコの石像が・・・!次に本殿左手まで来ると、末社 神明社が鎮座していました。祭神は天照皇大神でしょう。鳥居のデザインが古雅でかっこいいです。神明社の隣には真貞社。祭神は伴直真貞公で、公は貞観6年富士山噴火の時の八代郡擬大領。社家の祖でありました。瑞垣に囲まれた本殿の手前に、梅の木が生えています。こちらは夫婦梅と呼ばれる樹叢で、面白い形の梅の実を付けることで有名です。こちらがその実です。2つの実がくっ付いたような独特の外観・・・!その近くには斎田があります。こちらは6月17日に行われるお田植祭にて使用されます。斜めから。日本一の秀峰 富士山の裾野に位置する山梨県を代表する古社でした。何といっても境内に生殖器崇拝の痕跡が溢れているのが不思議です。やはり祭神の木花咲耶姫神に因んだものでしょうか。境内は静かで落ち着いた空気が流れており、心を鎮めて参拝出来ます。社格に恥じない立派な社殿を、是非ともご覧になっていってください今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・甲斐國一宮 浅間神社以上です。
2025年12月03日
コメント(0)

関東平野と中部地方の平野部を隔てるように、鬱蒼とした森と岩石が形作る峰々からなる秩父山地が広がっています。この秩父山地は山犬の伝承が顕著に残っており、それにい付随する形で山岳修験道も盛んに行われていました。平地とは隔絶された山の世界において、修験者たちは現実では考えられないような奇妙な出来事を何度も体験した事でしょう。それらがいつしか霊場の開創譚となり、後世にまで伝わり、今日に至るのならば、これほど面白いことはありません。秩父山地の南方、妙法ヶ岳に鎮座する三峯神社も、山中での奇蹟的な体験が由緒に反映されているのかもしれません。山犬の伝承が色濃く残る山中へと、今足を踏み入れました。2025.11.1三峯神社妙法ヶ岳の東麓、現在落石により分断されている県道140号の埼玉側。行き止まり地点のすぐ側に、三峯神社の一之鳥居が建っています。ここが登拝の起点となるのです。鳥居の先には長い長い参道が伸びています。すぐ側では狛犬ならぬ山犬が睨みをきかせておりました。かつては本当に狼が何頭も生息していたんではないですかねぇ。この大橋を越えると本格的に昇り坂が始まります。霧けぶる峰々を分けて清水が流れていきます。これが関東平野に注いでいるんですねぇ。苔生した燈籠と幾つもの石碑が立ち並ぶ、そんな信仰の山を進んでいきます。ここから舗装は無くなります。文字通りの山道が伸びています。山の斜面からは水が湧いており、これがもとでたびたび土砂崩れが起こるようです。秩父の御山が岩がちなのも、長年水によって表面の土が削られたからなんでしょうか。登山道も半ばまで来ると、かすかに水のせせらぎが聞こえてきました。それは段々と大きく響くようになり、音のもとまで近づいてみると一筋の滝があるではないですか。見えにくいですが滝の上部の木には注連縄がしてあり、この滝が信仰の対象となっていることは確かでしょう。近くには神社も置かれており、禊ぎ祓えの場という雰囲気が濃厚に漂っていました。この滝の名は清浄の滝。登山者の身も心も清めてくれます今回の登山で最も印象に残ったのはこの滝で、苔の生し加減や涼やかな空気、上から降り注ぐ陽光、足を這い登るサワガニなどの要素が混然一体となって、強く脳裏に焼き付きます。登山終わりに茨城の友人と共に滝に手を合わせ、今日の無事を感謝し、明日の筑波山の道行安全を祈願しました・・・!因みに祠には清浄宮と書かれていましたが、これは祭神不明。場所や名前からも祓戸大神や住吉三神といった祓えの神格が祀られていそうですが・・・。清浄の滝から少々登った所には薬師堂跡があります。これはかつての女人堂でもあり、以前は女性の方はここまでしか上ることができませんでした。今ではそんな制限は当然なく、誰でも自由に登拝することができます。下に看板の説明書きを載せますねぇ。薬師堂・施宿供養塔 この道は、三峰山表参道といい、ロープウェイも車もなかった頃の三峰参詣のメインルートでした。この場所はその頃の参詣者のための休憩所だったところで、薬師如来の堂(女人堂)が併設され、病人などの看護も行っていたところです。遥かな道程を歩いて旅するものにとっては、医薬の神、薬師様がどれほど頼りになったことでしょう。 また、ここは三峰施宿供養塔が建立されています。これは、当時登山を許可されなかった女人や、病気になった人、積雪のために進退できない人を無料で宿泊させたところで、その人数が3000人になったのを記念して明和9年(1772年)に塔が建てられました。ここは標高710m埼玉県・環境庁薬師堂から神社までは結構かかります。途中には無人の宿のような建物が幾つもあり、当時の繁栄ぶりを伺わせます。息も切れてきた頃、三峰神社の奥宮遥拝所についに到着!ここからは奥宮のある妙法ヶ岳山頂をはじめ、秩父の街並みなどを見渡すことができます。山間に広がる幾つもの民家・・・。あそこが秩父でしょうねぇ。随分と遠くまで来たもんだ。遥拝所の向いには二之鳥居がしっかりと建っていました。当然の様に両部式!神仏混淆の霊場である証です。ちなみにこの近くに遠宮という社殿があったようなんですが、今回は参拝し忘れてしまいましたので、由緒だけでも載せたいと思います。遠宮(御仮屋) 三峯神社の御眷属(お使い神、お犬様で大口真神と称する)のお宮です。御春属は深い山中に身をひそめられている為ここを仮のお宮としてお祭りを行うので遠宮(お仮屋)と呼んでいます。 今から1900年ほどむかし、十二代景行天皇の皇子 日本武尊が東夷御平定のかえり道に山梨県から奥秩父の山々を越えて当山に登り、初めて三峯神社を祀られた時、道案内をつとめたのが山犬で、その忠実さと勇猛さによって三峯神社の御眷属に定められたと伝えています。 お犬さまはその霊力で三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす害獣熊・猪・兎等を追い払い、家々を守護しては火防・盗難除・諸難除の神と崇められています。每月19日 御焚上神事境内説明書きより引用かつては山中にニホンオオカミがいたんですねぇ・・・。絶滅してしまった現在でも、奉斎する社は建ち続けているという・・・。なんだか哀愁が感じられますねぇ。鳥居をくぐると珍しく下り参道です。幾つもの行燈が立ち並び、奥に控える随神門へと誘います。まずは、門の手前を右にそれてヤマトタケル像を拝みに行きましょう。高らかに腕を挙げて参拝者を迎えるのは、三峯神社を草創したヤマトタケルその人です。十二代景行天皇の皇子でありながらも、九州や東国、果ては陸奥まで平定に向かったとされる伝説上の人物であり、その実在性は低いみたいですね。各書籍などでも言われている通り、ヤマトタケルは各地の勇士の説話が寄り集まって形成された架空の英雄だといわれています。この話を受けて、三峯神社の開創譚なども以前はヤマトタケルではなく、別の主人公がいたんでは?と思ってしまいます。面白いことに、津軽ではヤマトタケルが来ていないにも関わらず、ヤマトタケルを祭神とする神社が幾つかあります。津軽三不動尊の札所 長谷澤神社と中野神社、あとは十和田神社でしょうか。これらの神社はもともと修験の霊場であり、ヤマトタケルとは無縁の場所でした。ではなぜ、ヤマトタケルが祭神となっているのか・・・おそらくこれは明治初期の神仏分離・修験禁制と関係があるのではと思っています。日本神話において知名度抜群のヤマトタケルを祭神とすることで、霊場の存続を図ったのではないでしょうか?こうした視点で考えると、三峯神社の開創譚も、まず話のモデルとなる人物がおり、神社の格を上げるためにヤマトタケルが行ったことにしたんではないかと思ってしまいます。本当の所どうだったのかは、まったくわからないんですがね。話も道も本道に戻しましょう。こちら随神門、あちらこちらに荘厳な装飾がなされています。・・・山の中腹にこんな豪華な社殿があるなんて誰が想像するでしょうか?本当にすんごい豪華さですここはもともと神仏混淆の霊場ということで・・・当ブログを見てきた方なら、だいたい察していると思うんですが、これ、元は仁王門でした。つまり寺院の門だったのです。中には随神像の代わりに仁王像が置かれていました。神仏分離によって神道式に変わり、現在の形に落ち着いたのです。県指定有形文化財となります。仁王門時代の痕跡なのか、随神門には山号額のようなものが懸かっています。こちらも文字は力強いし、装飾は厚いしとかなりの豪華さ。門の先には大杉立ち並ぶ参道。あとはこちらを見つめる山犬。遂に神社の前まで来ましたよ!もう汗でシャツはびしょびしょです。道のりは長かったですが、そこまでキツイ道のりではありませんでした。早朝から登って、到着したのは9時ころでしょうか?その頃にはもうこんなに混んでいたんです。なしてこったに人来てらんだば!手水舎。あまりにもカラフル、且つ豪華です。使うのがもったいないですね。こちらも県指定有形文化財の指定を受けています。手水舎の向いにあるこれは行燈?でしょうか?なにもここまで豪華にしなくても・・・。そしてついに社殿に到着。・・・いやぁ、なんというか・・・。ここまでの装飾はここと日光東照宮くらいじゃないですか?どんだけ篤く信仰されたらこんな社殿が出来上がるんでしょうか。豪奢な社殿の手前には、鳥居の他に老杉が一対屹立しています。鳥居の原型のような外観、良いですねぇ!文句なしに御神木でしょうねぇ。御由緒です。三峯神社祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神 三峯神社の由緒は古く、当山大縁起によると日本武尊が伊弉諾尊・伊弉册尊をお祀りしたのが始まりと伝わります。 景行天皇の命により東国平定に遣わされた尊は、甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中三峯山に登り、山川が清く美しい様子をご覧になり、国をお生みになられた二神をおしのびになって仮宮を建てお祀りし、この国が永遠に平和であることを祈られました。この時、尊を道案内したのが狼(山犬)であったとされ、神様の使いとして一緒にお祀りされています。 その後、景行天皇は日本武尊が平定した東国を巡幸された折に三峯山に登られ、三山高く美しく連らなることから「三峯の宮」の称号をたまわりました。 降って文武天皇の時(697~707年)、修験の祖役小角が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。 淳和天皇の時(823~833年)には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、社殿の脇に本堂を建て本地堂としました。 こうして徐々に佛教色を増し、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。 鎌倉期から畠山重忠などの東国武士を中心に篤い信仰をうけていましたが、正平7年(1352年)足利氏を討つ兵を挙げた新田義興・義宗等が、戦い敗れ当山に身を潜めたことから、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。 文亀2年(1503年)、修験者 月観道満がこの荒廃を嘆き、27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。 天文2年(1533年)山主龍榮が京都の聖護院へ参じ、「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院 高雲寺と称しました。更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後の山主は、十万石の格式をもって遇れました。現在社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。 やがて、享保5年(1720年)日光法印という僧によって、「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まりました。以来信者も全国に広まり、三峯山の名は全国に知られました。 その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。秩父 三峯神社 / 御祭神・由緒 より引用中部の山地によく見られる役小角入峰の縁起を持ちます。祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神の2柱で、その本地仏とされたのが十一面観音。こちらは弘法大師御作の伝説があり、現在は三峯神社博物館にてご覧になれます。表面が錆で黒ずんでおり、相当の古仏といった印象を受けます。衣服・光背と冠だけが煌々と輝いており、不思議な存在感がありました。一時戦渦によって荒廃しますが、後に天台宗の関東総本山となるなど、寺院としての格式も高かったようです(現在は東叡山 円頓止観院 寛永寺が関東総本山)。参道脇にはまたしても山犬。シュッとしてかっこいい像でした。拝殿の一部を見てみましょう。極彩色の塗りもすごいですが、木彫も見ごたえがありますよ。左・中央・右の蟇股には七福神が遊戯をしている木彫がなされており、縁起物といった感じ。奥の壁面には極楽鳥が並びます。扁額は縁の部分の木彫が見事。菊の紋も捺されています。本殿も見事な極彩色!紅葉も相まって最高の眺めです社殿の隣には、摂末社の社がずらりと並んでいます。近い方から見ていきましょう。こちらは祖霊社。三峯神社の縁者が祀られています。奥津城のようなものでしょうか。その隣、國常立神社です。祭神は国常立神。木曽の御嶽山などかつて蔵王権現を祀っていた霊場において、神仏分離の際に仮の祭神に置かれることのある神格です。拝殿・本殿に次いで装飾の素晴らしい社殿です。その隣、他の社よりも一回り小さな社は日本武神社。祭神は言うまでもなく日本武尊。かつては役小角・前鬼・後鬼の尊像が収められていたそうで、修験と関りの深い社と言えます。尊像は現在、三峯神社博物館に展示されています。ここからは小祠群です。左の大きなものから行きましょう(※祭神は神社名からの推測)。伊勢神宮:天照皇大神月読神社:月読大神猿田彦神社:猿田彦大神塞神社:猿田彦大神?鎮火神社:加具土命?厳島神社:市杵島姫神杵築神社:大国主神琴平神社:大物主神屋船神社:高龗神?稲荷神社:宇迦之御魂神淺間神社:木花咲耶姫神菅原神社:菅原道真公諏訪神社:建御名方神金鑚神社:天照皇大神、素戔嗚神安房神社:天太玉命御井神社:御井之神?祓戸神社:祓戸大神突き当りにあるちょっと大きな赤い祠は東照宮。祭神は東照大権現(徳川家康公)。春日神社、八幡神社、秩父神社の小祠を挟んで、また一回り大きな社があります。これは大山祇神社。祭神は大山祇神。山を住み家とする修験僧にとっても重要な神格だったでしょうね。奥宮登拝のため、駐車場方面に抜けます。こちらには立派な三鳥居が建っておりました。大神神社などで見られる形式の鳥居です。この辺にはおみやげ物屋なども立ち並び、一気に観光地感が増します。ここで登拝のための元気をチャージします。駐車場からすぐの所に奥宮登拝の参道が伸びています。ここから参道スタート。木の杖なども立て掛けられており、沢山の人々が足を運んでいることが分かります。入山届などもここで提出できます。少し進んだところの鳥居は両部式です。ここから奥宮までなかなかの登りが続きます。狭い斜面の道が終わる所に鳥居あり。奥宮最後の鳥居となります。鎖場や急な岩道を乗り越えると奥宮に到着。石造りの小祠ではありますが、存在感はなかなか。何よりも登拝できた達成感でいっぱいです側には石碑と共に、歴代の山犬たちが置かれていました。斜めから。秩父奥地に広がる山岳霊場、三峯神社でした。今では神社までの車道が整備されているため、わざわざ登拝することもないんですが、やはり山岳霊場は登拝してナンボという考えがあります。特に山犬の伝承がある山ともなれば、森厳な雰囲気を味わいつつ、伝承に思いを巡らせ、山路を踏みしめつつ神社に向かうのが一番エモーショナルな体験ができるんではないでしょうか。かつてヤマトタケルが歩いたであろう道を遡りつつ、一之鳥居へと帰ります。途中、後ろに気配を感じて振り返ろうとすると、茨城の友人に山犬の話をされ止められました。送り狼という言葉の原義を思いだしつつ、足早に境内を去りました。今回貰った御朱印です。交通安全シール有名なお犬様の御札公式サイトへのリンクです。・秩父 三峯神社以上です。
2025年12月01日
コメント(0)
全37件 (37件中 1-37件目)
1
![]()

