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江戸屋敷とその周辺 参勤交代により、領地より江戸に戻った大名は、それぞれの上屋敷に入りました。ここで江戸屋敷について、若干の説明をしてみます。もちろん江戸屋敷とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。
2023.09.21
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大名行列 慶安二年(1649年)の軍役(ぐんやく)規定によりますと、五万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名とされていましたから、二本松藩の場合、士分562人、足軽704人、その他684人の合計1950名となります。その上で大名行列の規模は、大名の石高によっても異なりますが、五万石で約170人、十万石で約240人、二十万石以上で約450人程度と決められていました。しかし実際には、これよりもはるかに大規模でした。幕府も寛永法度においてこの実状を認め、従者の員数は分相応とし、極力少なくするという方針をとったのですが、諸大名は互いに競い合って威勢を張り、見栄を飾る傾向が強かったのです。例えば、加賀藩の4000人を筆頭に、五万石以下の藩でも100人を下らなかったと言います。行列の順序は、大名によって異なりますが、髭奴に次いで金紋先箱、槍持、徒歩などの先駆がこれに続き、大名の駕籠廻りは馬廻、近習、刀番、六尺などで固め、そのあとを草履取り、傘持、茶坊主、茶弁当、牽馬、騎士、槍持、合羽駕籠などが続きました。行列の通行には大きい特権が与えられており、例えば行列の先払いが通行人に土下座を命じ、河川の渡し場では一般の旅人を川留にすることができ、また供先を横切るなど無礼な行為があった場合は、切捨御免の特権もありました。このような大名行列を円滑に進めるためには、さまざまな準備が必要でした。まず出発に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に『先触れ』といって通達書を出しました。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりませんでした。 実際の旅ともなると、行列を先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示しました。この関札は、先にこれを掲げた藩に選手特権があり、後から来るいかなる大藩の宿泊も許さないという厳重なものでした。大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿場内の旅籠屋に分宿しました。しかしそれでも不足する場合は、周辺の寺院を使うこともありました。それでもなお収容しきれない場合は、前後にある小さな宿場に分散して泊まることもありました。郡山の場合、北は久保田、南は小原田でした。大名行列は、家柄や藩の権威といった力や富を誇示する重要な意味合いがありました。ところが、その行列の大多数は、日雇いアルバイトである武家の奉公人であったというのも興味深いことの一つです。 特に大きな戦いのなかった時代、大名たちは行列を通じて優位性を争っていたことがうかがえます。 ところで、郡山宿を利用したと思われる大名は、仙台藩をはじめ、会津藩、二本松藩、福島藩があったと思われますが、そのほかにも、今で言う東北の5県、そして北海道の松前藩が利用したものと思われます。これらの大名行列は、街道を行く際、隊列を整えて歩いていたわけではなかったそうです。街道の山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、気ままに歩いていたというのです。たしかに江戸までの長丁場を、一糸乱れず行進してというわけにはいかなかったのだと思われます。しかしその一糸乱れぬ行列を見せつけるのは、旅の途中では宿場町に出入りする時だけでしたから、宿場町の入り口には、全員が夕刻までに集合し、藩士が揃うと行列を整えて宿場町に入っていったのです。多くの人の目に触れる場所でだけ、行列の武士たちは、いかにも規則正しく振る舞ってきたかのように見せかけていたのです。大名行列は軍事行動の一環であり、武力を誇示することも大事でした。しかし、経済的に厳しい藩だからといって行列の人数が少なくてはハクがつきません。先頭で毛槍を放り投げて交換するパフォーマンスを行っている人も、期間付きのバイトで雇われた中間(ちゅうげん)と呼ばれる人たちの場合もありました。 では当時宿場町であった郡山は、どんな様子だったのでしょうか。いまの大町、会津街道への分岐点のちょっと北、それから東邦銀行中町支店のちょっと南で、道路がカギの手に曲がっているのにお気づきでしょうか。それらは町への出入り口、つまり枡形だったのです。そしてその中間にあたるビューホテル・アネックスの場所には、本陣がありました。例えば北からやって来て江戸へ向かう藩の人員は大町の枡形に集合し、毛鎗の奴さんを先頭に、窮屈な駕籠に乗り換えた大名の駕籠を守って、粛々と町に入りました。この行列は、全員の旅の途中での着替えをはじめ、殿様の風呂桶からトイレまで持ち運び、宿場町では、馬の糞尿の始末をする係もいたのですから、人数は勢い多くならざるを得なかったのです。そして行列が本陣に着くと殿様と上級の者はそこへ、他の者は宿屋やお寺に分宿したようです。 さてこの郡山の枡形ですが、大槻友仙著『明治見聞実記』に次の記述があります。『上下(うえした)ノ入口升形取払=文政年中上町入口、下町入口ニ升形ト云モノヲ築立タリ、ミカゲ石ニテ高さ六尺程ニ積立其上ニ松ノ樹ヲ植ナラベタリ。立七八間横五間程アリ、当年十月中バ頃皆取崩荒池ノ堤岸ニ積ナラベタリ。其他十三夜ノ供養碑石迄●ニ積重タリ。下ノ升形ハ石盛屋ニ西側ハ今ノ茶屋ノ所堺ナリ』とあります。これは、残されている絵を見ると、入り口の堀を境にした、中々立派なものであったことが分かります。なお、上町枡形の最初は現在の旧4号線と日の出通りの角に作られましたが、後には今の旧4号線と会津街道の角から北へ約50メートルの場所に移されました。また下町枡形の最初は東邦銀行郡山中町支店の南へ約50メートルの場所にありましたが、後に更に南100メートルほどの原畳店の所に移されています。今でも微妙な角の道路となっており、枡形の形を残しています。ところでこの枡形ですが、少なくとも郡山の場合、平野の中にあります。仮に一般の人が町に入ろうとして、番人に断られたとしても、周辺の農道を辿ればいくらでも町へ入ることができるのです、この枡形は、防衛のためというより、大きな宿場町であった郡山の『お飾り』であったのかも知れません。この二つの枡形の位置から、一本道であった当時の郡山の規模を知ることができます。なお、今の如宝寺や善道寺、そして安積国造神社などは、あえてこの一本道から外れた場所に作られたと言われています。今は街の喧騒の中にある神社も寺も、当時は寂しい所だったのです。 ところで旅人の多くは、この大名行列に遭遇することを嫌いました。特に商人にとっては、足止めをされることで商機を逃すことがあるかも知れません。そこで伊達・桑折の生糸の産地から小浜を通り、やはり生糸の産地であった三春を経由し、須賀川・白河の西を通って茨城県の結城・堺へ、そこから利根川を下って銚子から江戸への船便を使いました。故・田中正能先生は、この道を日本のシルクロードと表現されておられました。 ちなみに三春藩は、明和七年(1770年)の記録によりますと、三春より江戸街道の赤沼と守山を経由し、御駕籠15人、御長持21人、御箪笥25人、合羽持3人、人足80人の合わせて144人に加え、人数が明確ではないのですが、お付きの侍たちの馬が80頭だったというのですから、やはり大変な人数であったことが想像できます。
2023.09.10
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参勤交代 3代将軍・徳川家光の時代までの江戸はまだ人も少ない「ものさびしき」様子であったという。そこで、諸大名を江戸に住まわせ、城下を「にぎはふべき為」に「はからひこと」、それが参勤交代の狙いであったと言われます。 寛永十一年(1634年)、幕府は譜代大名にその妻子を『江戸に置くべし』と通知し、その翌年、外様大名の26人に対して「帰国せよ」と命じ、55人に対しては江戸に留まるようにと命じました。これが、参勤交代の始まりと考えられています。参勤交代とは、全国300近くある大名たちが、2年ごとに江戸に詰め、1年経ったら自分の領地へ引き上げることを交代で行うことです。徳川将軍に対する大名たちの服属儀礼として始まったものですが、寛永十二年に、第3代将軍の徳川家光によって、徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものです。はじめの頃は、出府の時期や在府の期間についての定めはありませんでしたが、寛永十九年には制度化されています。この制度によると、諸大名は1年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも、正室と世継ぎは江戸に留まらなければなりませんでした。ただし、側室および世継ぎ以外の子には、そのような義務はありませんでした。元和元年(1615年)に制定された武家諸法度の条文に、現代語に翻訳すると、『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。最近供の数が非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにするように』という意味のものがあります。ところで大名は、自分の領地から江戸までの旅費ばかりではなく、江戸屋敷の建設や維持費、さらには江戸での滞在費までも負担させられたため、各藩には財政的負担が重くのしかかった上に人質をも取られる形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たさせたのです。この制度の目的は、過大な費用負担により諸大名の財政を弱体化させることで勢力を削ぎ、謀反などを抑える効果があったのですが、ただしこれらは結果論であって、当初幕府にそういった意図はなかったという説が有力です。 参勤交代で大名が江戸屋敷を留守にした際には、大名の正室がそれを守りました。つまり正室は、江戸屋敷での最高責任者の地位につくことになるのです。それもあって、表の玄関などの一式とは別に、奥方の居所にも裏門から、玄関、式台、対面所といった、来客応接用の一切が作られていたのです。この参勤交代の藩主に従って江戸に出る勤番者は、いわばエリートでした。何も知らない親戚縁者は、ただ喜び、ただ羨んだのです。本人としても、藩主に従って江戸に出ることは、心浮くことではあったのでしょうが、その生活は、そんなにいいものではありませんでした。江戸に出た藩士の一ヶ月の手当が、今の金額で5万円から6万円程度であったと言いますから、彼らの生活は決して楽ではなかったのです。 参勤交代には、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介として江戸の文化が全国に広まる効果をもたらすことにもなりました。また逆に、地方の言語、文化、風俗などが江戸に流入し、それらが相互に影響し、変質して江戸や各地域に伝播し、環流した面もありました。参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化、そして江戸の繁栄に繋がることになったのです。また、江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは、参勤交代による影響でした。なお、高野山・金剛峯寺のように大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度がありました。ところで仙台藩の場合、江戸との間は約360キロメートルあり、7泊8日から9泊10日で奥州街道を通って参勤交代を行っていました。奥羽の他藩でも、江戸との中間に位置する郡山宿などを利用しています。 大名行列は軍役であったため、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が、暇をもてあましたり、江戸での暮らしに不自由しないようにと茶の湯の家元や鷹匠までもが同行し、万が一に備えて、かかりつけの医師も連れていました。その上、大名専用の風呂釜やトイレなども持ち運んでいたのです。それに大名駕籠とその駕籠かきの交代人数、そのうえ予備の駕籠も運んでいたのです。料理人、料理道具、食材の他にも、馬の糞の後始末する人もいたのですから、大掛かりな行列にならざるを得なかったのです。移動時間ならびに移動速度は、一日の平均で6時間から9時間を掛けて、約30から40キロメートルを移動しています。それにしても、多くの大名が同時期に参勤交代で行列を組んだときには、街道および宿場はしばしば混雑しました。そのため各藩の行列の前後には物見が付き、他の行列とのトラブルが発生しないように注意していました。 この大名行列にとって、毛槍は最も重要な道具の一つでした。槍の先端部分の装飾には、鳥の羽や動物の毛で飾られ、それらには幕府から各大名家に許可された特徴的な装飾様式がありました。そのため毛槍は、遠くから見ても大名家の識別に役立つことになり、『見通し』 とも呼ばれました。なお毛槍の本数は小名クラスの1本から、御三家クラスの3本まで、大名家の格式により異なったのです。それはともかく、大名行列は一般庶民の目に曝される訳ですから、どうしても立派さを競うようになります。それでも領内を動くときは、限られた少人数で行列を組んだのですが、江戸に入る時はアルバイトを雇って人数を膨らませ、態勢が整っているように見せかけていました。江戸への入府は最も多くの人の目に触れる参勤交代のハイライトでしたから、より多くの人員を必要としたのです。すると、「あの藩はすげぇ人数でやって来たぜ」と、江戸っ子たちが口にするのですが、それが他藩の重役の耳に入りますと、恥をかくわけにはいかないとばかりに、「ウチはもっと人数を揃えろ」となりますから、際限のない見栄の張り合いとなったのです。この大名行列の通行の場合、先払いの者が庶民に、 道の片側に「 寄れ、寄れー 」などと声を掛けるだけで 、「下に〜下に」と声を掛けられるのは、余程の大藩に限られていたそうです。
2023.09.01
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