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平賀源内の三春駒の香炉① ある日、私が歴史好きなのを知っている友人が、三春の『さくらカフェ』に平賀源内の作った三春駒の香炉を模したものがあると知らせてきました。カフェのオーナーの浜崎明美さんが、「日下部先生が、平賀源内の三春駒の香炉のあることを知って作ったものの一つだ」と言っていたと、その友人は話してくれました。平賀源内と言われた私の頭には、日本で初めて、手を繋いで輪になった人々に通電して、感電を体験する百人おどしの実演を行ったというエレキテル、そして土用の丑の日には鰻を食べることを普及した、江戸時代中期に活躍した人であると直ぐに浮かびました。ところが調べてみると、それだけではありませんでした。薬物学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家であり、さらには地方特産品を集めた展示会の開催、世評の風刺から浄瑠璃の戯作、滑稽本の著作に化学薬品の調合、さらには西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織工芸品の製作、それと地質調査、鉱山開発、水運事業等々ありとあらゆる分野に先鞭をつけ、それらを企画開発した多技・多芸・多才な顔を持ち、後年、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれたというのです。その源内が『源内焼』という陶器を作り、しかも『三春駒の香炉』を作ったというのですから驚かされました。 さっそく私は、『さくらカフェ』に行ってみました。すると浜崎さんは、「日下部さんは、三春の資料館に源内焼の三春駒があることを知って、何度か見に行って、それを模刻したようです。資料館の三春駒のしまってある箱には源内作とあったことから、日下部さんは源内の真作と思っていたようでした。ウチにあるのは日下部さんがよくできたから飾ってくれと言って持ってきてくれたものです。」と話してくれたのです。『さくらカフェ』には、小さな源内焼の『三春駒の香炉』の模刻品が飾られていました。つい昨年(令和5年)に亡くなられた日下部正和氏。いったい何が、日下部氏をこれの製陶に駆り立てたのでしょうか? もし、それを知ることができれば、源内が『三春駒の香炉』を作ろうと思った動機を知ることができるのではないか、私はそう思ったのです。 日下部正和氏は三春の出身で陶芸歴50年、その作品には数十万円の値がつくこともあるという抹茶の茶椀の他、自由な作品の名手として知られ、三春町込木(くぐりき)に游彷陶房(ゆうほうとうぼう)工房を構えて、彼が作った無煙薪窯を使っての作品の制作や、ワークショップの主催などしていました。しかしワークショップのほとんどを海外で開催していたため、海外のファンも多く、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、トルコのキプロス島、さらにはサンフランシスコから訪れて来ていた方々もいたそうです。その日下部氏に、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の模刻品を作らせた理由が知りたいと思ったのですが、すでに亡くなられた方に聞くわけにもいきません。私は、東京に住むという日下部氏の息子さんのフェイスブックに、コメントを入れてみました。直ぐに返事は来ましたが、『父の資料については全く知りません。もともと片付けが苦手の人間でしたから、資料を、ただの紙コップも紙ごみも一緒にしていた可能性が高く、もしあったとしても、私が紙ごみとして一緒に捨ててしまっている可能性が非常に高いです。お役に立てず申し訳ありませんでした。』というものでした。残念ながら私は、源内の作った『三春駒の香炉』を、日下部氏がどのような思いで作ろうと思ったのか、その心の内を知ることができなかったのです。 三春駒は、青森県の八幡馬(やわたうま)、宮城県の木下駒と並んで日本三大駒のひとつと言われ、郷土色の強い玩具です。昭和29年に日本で最初に発行された年賀切手は、この三春駒の絵でした。ところが、この『三春駒の香炉』の作者の平賀源内は、享保13年(1728年)に、四国の高松にあった松平藩の志度浦、いまの香川県さぬき市志度に生まれた人です。このような人が、どこで三春駒を知り、香炉という形ではあっても、何故これを作ったのか? 私はどうしても知りたいと思ったのです。色々と調べていると、平成15年に、東京世田谷の五島美術館で『源内焼〜平賀源内のまなざし展』が開かれたのを知り、ネットでその図録を手に入れました。するとそこには、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の写真も掲載されていたのです。しかしその躯体に施された模様に、私は首をひねりました。その胴にある模様は鳥の足跡のような形のもので、いま私たちが見ている三春駒の模様とは大きく違うのです。そこで私は、デコ屋敷に張子人形作家の橋本広司さんを訪ねてみました。なおデコ屋敷とは、今も4軒の作家の家々が、木製の三春駒、三春張子と呼ばれる人形や張子の面などを作り続けており、数百年の伝統を守って今日まで伝えている集落で、その各屋敷が所有する人形の木型は、福島県の重要文化財に指定されています。広司さんはそのような広司民芸を経営するかたわら、古くからの木型などを集めた資料館も持っていたのです。「いやー、そういうものがあるとは、薄々話には聞いていたが、本当にあったんだない。」彼はそう言ってしばらく図録を見た後、自分の資料館に案内してくれました。そこには古文書や木型などの他、古い三春駒もありましたが、源内の描いた模様と同じ模様の三春駒はありませんでした。彼の話によると、「昔は、三春駒を作っているウチがもっとあって、各工房がそれぞれに絵付けをしていたがら、その頃の仲間の家で作っていた模様かもしれない。しかしこういう物があるのだから、昔はこのような図柄が一般的であったのかもしんに〜な」とのことでした。この模様の出所は、見つけることができなかったのです。ただ彼は、「江戸時代に、浅草などで売ったこともあったという話を、先祖がしていた」との話を聞かせてくれたのです。金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だったと言うから、すでに商売に向いた地であったのかもしれません。 『源内焼』は、先覚的なデザイン、鑑賞を重視した高い芸術性と斬新な三彩釉の使用といったところにその特色があり、元文3年(1738年)に、讃岐国志度浦で開窯したとされる志度焼を基礎に、宝暦5年(1755年)になって、『源内の指導』によって発展したとされる陶器が、源内焼と呼ばれるようになったとされます。しかし近隣の諸窯のうち、類似する意匠や焼成技法のある屋島焼などとの混同も認められることから、さらに調査研究の必要な状況にあるというのです。源内焼の特徴は、技術的には桃山時代以降の日本の陶器に影響を与え続けた中国の華南三彩と同系列の軟質の施釉陶器(せゆうとうき)であって、緑、褐色、黄などの鮮やかな彩色を特徴としています。 精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図などの斬新な意匠の皿などが試みられていますが、しかし、皿や鉢など限られた器に偏る、という指摘もあります。それは陶土の可塑性や型成形の技術的な制約も影響していると考えられています。ともあれ、展覧会の図録にある写真だけでも、数え切れないほどあるのです。種々の仕事をしながら、これほど質の高い陶器を作っていたのですから、ただ驚かされるばかりです。
2024.10.20
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石田三成の首 天正十三年(1585年)以来、豊臣秀吉に従うことを迫られていた伊達政宗が、再三の勧誘に応じないばかりか会津を攻略していたのです。戦いが終わってから小田原に着いた政宗は、いまの小田原市早川にあった石垣山城において、死を覚悟の上で白の死装束を身にまとい、豊臣秀吉との会見に臨みました。政宗が秀吉の惣無事令に反して、会津や須賀川を戦い取ったことは、『関東惣無事』を宣言していた秀吉の意に反することであったからです。それでも千利休のとりなしで死を免れることはできたのですが、そのとき政宗は、小田原より三春の田村の臣である橋本刑部に、次の文書の飛脚を立てたようです。 『関白様が田村八万七千六百八十二石八斗七升と申されたは、小野六郷は田村領に含まるるの意である』 この文意は、小野六郷も田村の領であることを、秀吉が確認したということでしょう。ともあれこの政宗の小田原参陣が遅かったこともあって、田村を含む会津、須賀川、安積が政宗から没収されてしまったのです。しかしこの間に、当時の三春の領主・田村宗顕は、秀吉の小田原参陣に応じようとしたのですが、政宗に拒否されて行けずにいたのです。 ところで。平成十年一月に、三春町歴史民俗資料館の学芸員の藤井康さんが『三春の歴史こぼれ話3』に次の記事を載せていました。 先日、たまたま『茨城県史料』に収録されている「秋田藩家蔵文書」という史料を見ていたところ、その中に次の書状が含まれていることに気づきました。 我等事、今日ミはるまて参候、明日ハミさかへ可参候、明後日十日ニハ かならす其地へ可参候(中略) 治少 佐藤大すミ殿 最後の『治少』とは石田治部少輔三成のことで、意味は今日三春までやって来ており、明日は三坂(今のいわき市)まで行き、あさってには『佐藤大すみ』のところまで行く、というものです。この書状の出された年月は、おそらく天正十八年(1590年)のことと思われます。そして、三成が三春にやって来たのは、この年の豊臣秀吉による奥羽仕置きに際して、岩城氏の処置をするために経由しただけと思われ、三春で具体的になにをしたかは分かりません。今後さらに調査を進めていきますが、新たな発見があればみなさんにお知らせしたいと思います。なお、この史料については、『三春城と城下町』(平成十年度特別展図録)に収録してありますが、この図録につきましては、品切れとなっております。館内のみであれば閲覧可能です。カウンターでお申し出ください。 そこで彼に問い合わせると、『一関田村家本』の『田村系譜』には、三春藩の橋本刑部顕徳が大阪に上り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたが、その甲斐がなかったと記述されているそうです。なにかこのことと、関係があったのでしょうか。そこで私は、この前後の石田三成の動きをチェックしてみました。天正十七年、 美濃(岐阜県)を検地していました。天正十八年三月、豊臣秀吉の小田原攻めに従っています。 五月、常陸の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋。 閏五月、佐竹義宣、および越前敦賀城主大谷吉継らと館林城を攻撃。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継・近江国水口岡山城主の長束正家らと 忍城(埼玉県行田市)を攻撃。 七月、豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴 く。 十月、奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じら れ、再度奥州へ赴く。天正十九年四月、南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。年号が変わった文禄元年二月、 朝鮮出兵の準備のため、肥前の名護屋へ行く。 六月、越前敦賀城主の大谷吉継らとともに朝鮮出兵軍の奉行を命じら れ渡海。 これらから石田三成の動きをみると、天正十八年の七月か十月、もしくは天正十九年四月に三春に回ったのではないかと想像できるのですが、なぜ三成が三春を回って『佐藤大すミ』の所へ行こうとしたのか、そして彼がどういう人なのかは、これらの資料からは分かりませんでした。 ところで『街こおりやま』誌の平成二十六年七月号に、郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センターの押山雄三氏が、『三成の首塚』という一文を載せておりました。『関ヶ原の戦いの敗戦の将の西軍の石田三成は、二週間後の十月一日、京の三条河原で斬首されたと伝えられているが、その首が郡山まで運ばれていたとの異聞が『前田慶次道中日記』あるので紹介したい。これを書き残したのは、加賀藩主・前田利家の義理の甥の前田慶次である。 慶次は、初冬の十一月十五日に郡山を訪ねている。浅香の沼や浅香山の旧跡に親しんだ後、彼は「格好が尋常でない大きな塚」を見て驚いている。不審に思った慶次に対し村人は、『石田治部少三成』とかいう人の首が、今年の秋の初めより都から送られてきた。それを他所へ転送しない所では、物憑きになる人が多く、悩みの種だというので、国々では武装した二、三千人ほどの人数を繰り出して、地蔵送りのようにして次々と送り、そして最後に送りつけられた所で塚を築いた。今年の天候不順は、三成のたたりです」と説明している。『兎にもかくにも笑いの種、ただの人ではない』との一文を残して、慶次は郡山を旅立ってしまった。 さて慶次を驚かせた「三成の首塚はどこにあり、その正体は?」、日記から、その場所は、日和田町高倉にあったようだ。『大きな塚』は、古墳だったのかも知れない。疑問を解くため、宇野先輩をリーダーとする同好の13名と一緒に高倉を訪ねてみた。最初に地元で蝦夷穴と呼ぶ高倉古墳群を見学したが、街道筋から離れすぎていた。次に源六林塚群を訪ねた。旧国道『にごり池バス停』そばの高台にあるため、この脇を慶次が旅し、見上げた可能性がある。そしてこの中に、もしかして・・・』 これが押山雄三氏の記述です。押山氏は「もしかして・・・」と感慨を述べていますが、私もまた「う〜ん」です。これらのことについて、「何か新たに分かることがあればいいな」と思っています。
2024.10.10
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守山藩の目明かし・⑤ 金十郎の金掘り職人探し 金沢村、今の田村町守山金沢にある禿山が、銀山ではないかとの検分のために、江戸の山師の三人が守山に到着しました。彼らは銀という性質上、秘密裏に試掘するのが目的でした。彼らは陣屋に対して、「山色がすこぶる良く、掻き流しも二ヶ所付けられそうなので、試掘して検査したい。それについては半田銀山、いまの桑折町の半田銀山から二・三人の金掘り職人を雇いたいが、信用のある目明かしを派遣してもらいたい。」と申し出たのです。そこで選ばれた金十郎は、郡山で一人の金掘り職人を探し出したのですが、半田の仲間にも、金掘り職人を見つけるよう頼みました。間もなく半田銀山から、金掘り職人が二・三日以内に守山に着くと連絡があったので、それを陣屋に報告しました。いよいよ堀り始めた頃、銀山が守山藩直営となったので惣奉行が任命され、その下で金十郎と新兵衛が現場の見回りをするように命じられたのです。銀山惣奉行は、掘り出した銀山の荷を出荷して間もなく、江戸へ出立しました。その後、灰吹銀の結果が陣屋に知らされてきたのですが、思わしいものではなかったといわれます。 越後女の縁談 法度とされながらも、金十郎が無宿者の世話をしたり、縁談の仲介をしたりすることは、たびたびありました。二本松から越後高田、いまの新潟県上越市に移り住んだ金具師の喜右衛門は、新発田藩家中の大刀と小刀を六腰盗み、守山へ逃げて来たのですが、その後二本松へ戻って行ったようでした。越後に残されていた男の女房が居づらくなり、目明かしの金十郎を頼って守山に移って来たものの、夫の行方は確かではなかったので、そのまま金十郎の世話になっていました。そこで金十郎は、この女を源七の家の手間稼ぎに送り込んだのですが、女房を亡くしていた源七の後添えに良いと思って世話をしたのです。ところが守山藩では、他領よりの入籍と他領への移籍は、陣屋に届け出て許可を得る決まりになっていました。それなのに金十郎が無届けにしていたのは、役目柄、不届きであると決めつけられたのです。この処分について、金十郎の菩提寺である金福寺が、訴願にやってきたのですが許されず、三度にも渡った訴願により、ようやく処分が解かれました。 目明かし新兵衛の罷免 金十郎と一緒に目明かしをしていた新兵衛が、罷免されました。彼が隠れて鉄砲を持っていたという嫌疑から発展し、免職になったものです。寛延の大一揆のとき、目明かしの新兵衛を引き渡しの要求があった位でしたのに、その後も、脅しや強請(ゆすり)や、たかり、その他にも示談屋的な行動が治まらなかったのです。新兵衛と村役人が呼び出され、「家で人寄せをするな。」「他領の風来者を、一夜でも泊めるな。」「縁組など他人の世話をするな。」「大元明王の祭礼であっても、神楽打ちや薬売りの宿はするな。」という内容の禁止条項が読み聞かされた上で、免職を申し渡されたのです。これには、金十郎も同席させられていました。 風来者 風来者とは、街道筋を無宿者のヤクザや無頼の徒が、一人旅の姿で徘徊するのを言います。俗に、旅烏とか一匹狼というのがそれにあたります。守山陣屋でも、もし『風来者』が来たら、『例え一人であっても泊めないようにせよ。』との触書を出していました。そのような一人者の風来者の幸八が、河原者に袋叩きにされ、守山領から追い出されたのですが、舞い戻った幸八は、大雲寺に押し入ったのです。知らせを受けた金十郎はこれを逮捕したのですが、まだ何も盗んだわけではありませんでした。泥棒とも強盗とも認めるわけにいかず、守山陣屋ではこの事件の始末を金十郎にまかせました。そこで金十郎は、「二度と再び、ここへ来るな!」と叫びながら、力一杯鞭で叩いて守山領から追い出したのです。なおここに出てくる河原者とは、動物の屠殺や皮革加工を業とした者たちで、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれていたのです。河原に居住した理由は、河原が無税であったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説があります。 無宿者人の始末 三春藩郡奉行から、手紙が届きました。それは三春領過足村、いまの三春町過足の全応寺の隠居所に強盗が入り、住んでいた隠居を絞め殺した犯人を二本松領の郡山で逮捕したのですが、その犯人は、守山領蒲倉村、今の郡山市蒲倉町の述五郎と言っているが、間違いないか、というものでした。述五郎は守山領内の者ではあったのですが、事件を起こした場所が三春領内であったので、三春藩の処置に任せています。このような悪事をした述五郎の罪状がどうなったかは、不明です。 強制欠け落ちの顛末 金十郎は、クビにされた新兵衛に代わって、新しく目明かしとなった兵蔵とともに、強制的な夜逃げに関係することになりました。これは、三春領で強盗同様の犯罪を犯した蒲倉村の喜十郎を、面倒が起きないうちに守山領から強制的に追い出してしまおうというものでした。その犯罪の内容は、喜十郎が三春領春田村の庄左衛門宅に押し入り、カネを盗ろうとしたことです。喜十郎は庄左衛門に抵抗され、家族の者に大声で騒がれたので、何も取らずに逃げ出しました。守山領の者が三春領で事件を起こしたのは、陣屋としては実に具合が悪いことです。そこで無理にでも守山から追い出して、三春藩との関係を穏便に済ませようとしたのです。喜十郎は、いったんは納得して家財道具の始末をし、挨拶のため祖父の元へ行ったのですが、朝になって金十郎の家に現われ、「自分は相手に何の実害を与えていない。それであるから、逃げ出したりはしない。」と申し出てきたのです。金十郎の報告を聞いた守山陣屋では召喚状を発して身柄を拘束すると脅しました。驚いた喜十郎は、次男を連れて逃げ出したのです。 酒造業の看板 守山陣屋は、領内の酒造業者十二軒に、酒林と新諸白、一升ニ付何程との書付を出すようにとの指示を出しました。ところが何軒かの酒屋がそれに従わなかったため、それぞれに営業停止の処分をしたのです。酒造業者らは、一様に、そのような指示を知らなかったと申し立てたのですが陣屋ではそれを認めず、我儘な仕方で重重不届であるとして、商売の遠慮を申し付けたのです。町内の僧侶たちが陣屋に行って彼らの無罪放免を願うことで、事なきを得ることができました。ともあれこのような問題などで領民が困った時、僧侶が仲裁に立ったのです。酒林とは、杉の葉で作られた大きなボールのようなもので、その枯れ具合で酒の熟成度を客に知らせる看板のようなものです。 寛延大一揆 寛延二年(一七四九年)十二月十一日桑折、いまの桑折町の代官が支配する幕領で、百姓一揆が勃発すると、十四日には三春藩で、二十日には二本松藩で、二十二日には会津藩でと、たちまち広がっていきました。そして二十三日の夜からは、守山領の北部で、一揆の火があがったのです。そこで発生した百姓の一揆の結束が南下しながら膨張、十二月二十五日には守山陣屋の門前まで押し寄せ、守山町をはじめ、大善寺村、山中村、正直村などで打ち壊しが始まりました。いわゆる寛延の大一揆です。この一揆発生の理由ですが、守山藩では、去年も今年も二年続きの凶作の上、この年の六月末には暴風雨に見舞われ、八月には大嵐があったので、凶作になるのは目に見えていたのです。そこへ他の藩で起きた激しい一揆の続発が、守山領北部の村々へ強い刺激を与えたのです。一揆の百姓たちが守山陣屋に突きつけた要求は、全部で十四ヶ条ありました。その主な要求は、三春藩、二本松藩と同じ様に年貢を半減にしてもらいたい、年貢米一俵につき五升三合取るのは止めてもらいたい、というものでしたが、それに加えて、目明かし新兵衛の身柄引き渡しの要求があったのです。新兵衛は、日頃から百姓たちから憎悪の目で見られていたので、真っ向からその怒りの波をかぶることになったのです。しかし新兵衛は、一揆による騒動の夜、母親が病のため看病をしていたので何も知らなかったと答申しています。怒涛のように押し寄せてくる一揆に対して、抗すべきもののないことを承知していた新兵衛の、逃げ足は早かったのです。この金十郎がヤクザの身ながら、この『御用留帳』の最初に名が出てきたのは、享保九年(一七二四年)のことでした。最初は、守山陣屋の御用を務める役でしたが、それから十四年後の元文三年(一七三八年)には、正式に『目明かし』となりました。彼が退任したのは明和七年(一七七〇年)でしたから、実に四十六年もの間、守山藩に奉職したことになります。彼が生まれた年の記述はありませんが、その時すでに、年齢は七十歳を越していたと思われます。
2024.10.01
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