未音亭日記
2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
先週末、「能力主義」とクラシック音楽の関係について考えたことをブログに書きましたが、その際に亭主の脳裏に浮かんできたのが表題のことです。日本のクラシック音楽界は、長年にわたり演奏能力に係る階層的なピラミッド構造を維持してきました。そこでは「ミスをしない技術」や「コンクールでの入賞歴」といった客観的(?)指標、そして東京藝術大学をはじめとするエリート音楽教育機関における揺るぎない能力主義が芸術音楽の物差しとして今でも君臨しているように見えます。一方で、この能力主義は本当にクラシック音楽の価値を体現しているのか、あるいは近代以降の歴史的・社会的な産物として作り上げられた、ひとつの「呪縛」ではないのか、という疑問も湧いてきます。これを考える上でヒントになると思われるのが、晩年に突如として大ブームを巻き起こしたフジコ・ヘミングというピアニストの存在です。もうだいぶ昔になりますが、1999年にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放映されると大反響を呼び、いわゆる「フジコブーム」が起きました。その後発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録(日本のクラシック界では異例の大ヒット)。その後も2024年になくなるまで、彼女の様子はおりに触れてメディアで取り上げられていたことはいまだ記憶に新しいところです。彼女は東京藝大に在学し、著名な海外の巨匠にも師事した経歴を持つ一方で、主要な国際コンクールでの優勝経験や、いわゆる「プロの演奏家」としての輝かしいキャリアの階段を上ってきたわけではありません。むしろ、技術的な瑕疵(かし)や独自の解釈を含む彼女の演奏スタイルは、既存のクラシック界の基準からすれば「異端」とも言えます。それにもかかわらず、彼女が晩年になって日本の聴衆、とりわけ普段はクラシックのコンサートに足を運ばない50代〜70代以上の女性を中心とする層から爆発的な支持を得たことは特筆に値するでしょう。この現象をどう捉えるべきか。肯定的な立場に立てば、これはコンクール歴や読譜の正確さという硬直した能力主義の基準に対する、聴衆の側からの「暗黙の異議申し立て」として解釈することもできます。専門家たちが共有する窮屈なエリート主義的価値観の外側で、人々が自らの感性に従って「人間の業や人生の哀切がダイレクトに伝わる音楽」を再発見した稀有な瞬間だったと言えるかもしれません。しかし、否定的な(あるいはより冷徹な)視点に立てば、この現象の本質は「音楽そのものの評価」ではなく、メディアが演出した「波乱万丈な半生・苦難と復活」という強力なナラティブ(物語)の情緒的消費にあったとも言えます。資本主義的な興行システムは、正統な能力主義の階層的ピラミッドのなかで冷遇されていた「規格外の存在」であっても、大衆の感傷的欲求を満たす「コンテンツ」となり得ると見るや、喜んでそれを例外として接ぎ木し、商業的成功に変えてしまいました。ここで見えてくるのは、資本主義的な興行システムと能力主義の密接な相互依存の構造です。興行主やメディアにとって最大の関心事は、突き詰めれば「客が入るか・儲かるか」です。正統的な演奏家であろうと、そうでない例外的な存在であろうと、商業的価値を生み出す限りにおいてシステムに取り込まれます。その一方で、能力主義のピラミッドの底辺や中層で「食うや食わず」の生活を強いられている無数の職業演奏家たちの存在があることも見逃せません(フジコもかつてはそうでした)。音楽学者の渡辺裕は著書『聴衆の誕生』のなかで、彼らが「芸術に殉じている」と表現しましたが、この「芸術」という聖別された言葉の実態こそが、過酷な境遇と自己搾取を正当化する「能力主義の神話」にほかならないのではないか。正統なピラミッドのなかで「自分たちは芸術のために身を捧げている」と信じ込み、低賃金と過酷な競争に耐え続ける若手や中堅の演奏家たちにとって、システムの外部から突如として現れ、技術的評価の網目をくぐり抜けて絶大な人気と富を手にしたフジコ・ヘミングの存在は実にアイロニカルに見えたでしょう。それは能力主義のオルタナティブというよりもむしろ、能力主義のシステムが残酷に人を選別する一方で市場はその気まぐれによってそれをいとも簡単に裏切るという、資本主義の冷徹な本質を可視化する事件だったと言うこともできます。(最近の例で言えば「かてぃん」こと角野隼斗がこれに相当するでしょう。)こうした構造的矛盾を見据えたとき、日本の音楽大学やプロオーケストラといった「訓練と選別のインフラ」はこのままでよいのか、という疑問が湧いてきます。本来、大学/大学院という教育機関が果たすべき高等教育の理念は、「すぐに役には立たないが、自ら考えて行動する能力を身につけさせること」にあるはず。しかし、日本の音大(特に名門とされる東京藝大など)の実態は、名目上の「芸術・学術の研究・教育機関」という建前の裏で、属人的な師弟関係に基づく極めて閉鎖的な「演奏技能の訓練所」として機能してきました。大内隆夫氏の『音大崩壊』などが詳細に指摘しているように、そこでは社会に出てから自立して生きるための汎用的な能力や、音楽を仕事としてサバイブするためのビジネス的・マネジメント的な教育(すなわち「職能訓練」)はほとんどなされてきませんでした。結果として、「よい演奏をしていればいつか誰かが見出してくれる」というロマンティックな能力主義の神話に依存したまま、市場の需要や社会の構造から遊離した「職人崩れ」が大量生産される構造が温存されてきた、というわけです。もし音楽家を育てる機関が、世間知らずの「純粋無垢な芸術の僕(しもべ)」を育てる場ではなく、大衆の欲望や社会の構造を自覚的にハックし、自らの表現を社会に流通させるプロデュース能力を持った表現者を育てる場所であったなら——あるいは、極論を言えば吉本興業のような「芸人」としてのサバイバル能力や興行のメカニズムを学べる養成機構がクラシック界にも存在していたなら、日本のクラシック音楽の風景はまったく異なるものになっていたかもしれません。残念ながら、クラシック音楽界における「音楽事務所」はそのような意味での「プロの音楽家養成」の機能を持っておらず、「芸術家」志望の演奏家を即戦力としてプロモートするだけのもの。音大もそのような機能を果たせない以上、この業界にも吉本興業のようなプロの芸人養成システムが是非とも必要ではないかという気がします。フジコ・ヘミングという現象や、それに伴う一連の議論は、単なる一人のピアニストの特殊な成功譚にとどまりません。それは、明治期以降の日本が西洋から輸入し、高度に制度化してきたクラシック音楽における能力主義と、それに対する興行システムの「過剰適応」を鏡のように映し出していると言えます。「芸術」という聖域の背後で隠蔽されてきたある種の労働の搾取、芸術至上(エリート)主義的な音楽教育機関がはらむ構造的な問題、あるいはその対極としての市場原理による物語の消費。これらを直視することなしに、これからの時代における音楽と社会の健全な関係性を築くのは容易なことではないでしょう。世間はとっくに「クラシック音楽といえども能力主義ピラミッドの頂点にある演奏家たちだけがその価値を担っているわけはない」と気づいています。クラシック音楽が「普通の職業」になるためにも、関係者はそろそろ「クラシック音楽とは誰のためのものであり、そこでの表現とは何のためにあるのか」という、より根本的な問いに向き合う必要があるのではないでしょうか。
2026年09月06日
コメント(0)