全31件 (31件中 1-31件目)
1
この二日前にこの地下鉄駅の駅前のショッピングセンターの書店で本を見ていた時近くのエレベータで大きな音がした。 エレベータの方へ近寄ってみると下向きのそれに老婦人が頭を下にして倒れ、エレベータはどんどん下降していった。 やがて老婦人はキャスター付きの買い物ボックス、手荷物と一階の床に投げ出された。 エレベータを囲んで階上のホールがある。 その周囲に巡らされた柵にはその様子を聞きつけた野次馬が100人ほど鈴なりになっていた。 私もその1人だった。 階下の様子を見ていると駆け寄ってきた2人の警備員に向かって”エレベータを止めろ”と男が怒鳴っていた。
2015年03月31日
コメント(0)
その人たちに駅員にこの事態を告げてくると言った。(私は階上の駅務室につながるインターホンを見つけられなかった。) それでエスカレータを駆け上がりそこに向かった。 駅員にその旨を告げ、急行してくれるよう頼んだが、馬耳東風に近い様子に私は苛立った。やがて臨時”介助”の人とともに老婦人はパネルと買い物ボックスを携えた人の3人はエレベータで上がり、駅務室に近づいて来るのが見えたのでクレームを付けるのを止め、その一行に近寄り、後続の駅員に治療などの後の処置を頼み、一行の女性たちにも後のことをよろしくとお願いし、その場を離れた。
2015年03月30日
コメント(0)
私も降りようとその後を2人の人を挟んで追っていたのでその事故の瞬間は見ていないが、降車して見てみるとホームに件の老婦人が倒れていた。 パネルはその50cmほど横にあり、買い物ボックスの上に彼女が被さっていた。 「痛い!」と言っていた。 周囲の人は駆け寄り、老婦人を起こしかけていた。 右手の掌(手のひら)に少し血が見えた。 周囲の人たちはドアに挟まれたと口々に言っていた。 私が見るところホームと電車の段差に気づかず、転んだものと思えた。 数人の人が取り巻いていた。
2015年03月29日
コメント(0)
そのスペースに私と別の老婦人は着座した。 先座の老婦人はそれを気にもかける様子もなく、足下にそれを下ろす事も仕草すらもなかった。 15分して電車は私の降車駅に着いた。 その直前かの老婦人は電車がまだ動いているのにもかかわらず、そそくさと座席から立ち上がり例のパネルをキャスター付きの買い物ボックス(コロコロ? 若い人ならキャリーカートだろうが? いかにも安っぽそうでそう表現したくない)の上に載せ、乗客の間をかいくぐりながら降車するためドアに向かった。 やがて、ドアが開いた時悲鳴が聞こえた。
2015年03月28日
コメント(0)
博物館でのボランティア活動の後地下鉄で家路についた。 ホームで並んでいた時、前から10番目くらいに位置していたから、なんとか着席できると踏んでいた。 通勤ラッシュの始まる前の時間帯だったからスムーズに乗り込めた。 シルバーシートに二人分のスペースがあり、次の車両との貫通路(車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路と言うのだそうだ)である付近の席には約60cm大とおぼしきパネル状の板を座席の上の端に載せている老婦人が居た。
2015年03月27日
コメント(0)
アウェーは英語のawayのカタカナ表現でアウェイとも発音される。 今、日本でこの言葉が広く認識されているのはサッカーの試合で試合相手のご当地の会場(ホームグランド)に選手やファンなどがのりこむと言った時に使用されるというものである。 戦争をするのではないから”敵地”と言う表現は適当ではない。 試合が終わればノーサイドと言って”敵”も”身方(味方)”もなくなりサッカーという競技を愛する人たちになるのである。 サッカーの起源の一つに戦争の捕虜の首を切り取って、それを蹴り倒して戦争での恨みを晴らしたという恐ろしい話(イングランドの伝説)があったと幼少の頃聴いた事がある。 真偽の程は確かめていない。 それを国技とする国同士がある試合の判定を巡って国家間の戦争に及んだ歴史が近々の時代に有ったそうだから、さもありなんとも思う次第である。 ”a”と言うのは「同一」あるいは「~中に包含する」と言う意味が有ると聞いたことがある。 とすれば、 awayは同じ道という意味であり、同一の場という意味にも拡大解釈出来そうである。 サッカーの紳士的表現である「ノーサイド」に逢着できそうだから望ましいのではないかと思料する。 そんな中で「ノーサイド」に込められた崇高な念(おも)いを理解しないで、勝ち負けに拘り、試合を”戦闘”としてとらえ完膚なきまでに相手を打ちのめす事を望む者もいる。 ノーサイドならぬノーウェイ(Noway)とばかりに相手に憎しみを覚える行為に及ぶ者がおり、特定の”ファン?”が偏頗な考え方に固執し、その愛するチームを”敵”と思う人を差別するという愚行をも時折犯すことがある。 個々の事象にはいちいち触れないが昨今のニュースで判ると思う。 憎しみは憎しみを呼び、恩讐は恩讐を呼ぶ。 ノーウェイとは他人とは関わりたくない、自分のしたいことは自分勝手に行うから他人は関係ないよ、放っといてくれと言う自己中心的な(はた迷惑な)考え方はスポーツマンシップに悖(もと)るものである。 大勢に従うことは必ずしも良いことばかりとは限らないが平和裏に物事を進めるのが良いのに決まっている。 だから「試合」が終われば、敵も味方もないという「ノーサイド」の英国紳士流のスポーツ精神(マインド)は尊重して然(しか)るべきである。
2015年03月26日
コメント(0)
個々の事象にはいちいち触れないが昨今のニュースで判ると思う。 憎しみは憎しみを呼び、恩讐は恩讐を呼ぶ。 ノーウェイとは他人とは関わりたくない、自分のしたいことは自分勝手に行うから他人は関係ないよ、放っといてくれと言う自己中心的な(はた迷惑な)考え方はスポーツマンシップに悖(もと)るものである。 大勢に従うことは必ずしも良いことばかりとは限らないが平和裏に物事を進めるのが良いのに決まっている。 だから「試合」が終われば、敵も味方もないという「ノーサイド」の英国紳士流のスポーツ精神(マインド)は尊重して然(しか)るべきである。
2015年03月25日
コメント(0)
サッカーの紳士的表現である「ノーサイド」に逢着できそうだから望ましいのではないかと思料する。 そんな中で「ノーサイド」に込められた崇高な念(おも)いを理解しないで、勝ち負けに拘り、試合を”戦闘”としてとらえ完膚なきまでに相手を打ちのめす事を望む者もいる。 ノーサイドならぬノーウェイ(Noway)とばかりに相手に憎しみを覚える行為に及ぶ者がおり、特定の”ファン?”が偏頗な考え方に固執し、その愛するチームを”敵”と思う人を差別するという愚行をも時折犯すことがある。
2015年03月24日
コメント(0)
サッカーの起源の一つに戦争の捕虜の首を切り取って、それを蹴り倒して戦争での恨みを晴らしたという恐ろしい話(イングランドの伝説)があったと幼少の頃聴いた事がある。 真偽の程は確かめていない。 それを国技とする国同士がある試合の判定を巡って国家間の戦争に及んだ歴史が近々の時代に有ったそうだから、さもありなんとも思う次第である。 ”a”と言うのは「同一」あるいは「~中に包含する」と言う意味が有ると聞いたことがある。 とすれば awayは同じ道という意味であり、同一の場という意味にも拡大解釈出来そうである。
2015年03月23日
コメント(0)
アウェーは英語のawayのカタカナ表現でアウェイとも発音される。 今、日本でこの言葉が広く認識されているのはサッカーの試合で試合相手のご当地の会場(ホームグランド)に選手やファンなどがのりこむと言った時に使用されるというものである。 戦争をするのではないから”敵地”と言う表現は適当ではない。 試合が終わればノーサイドと言って”敵”も”身方(味方)”もなくなりサッカーという競技を愛する人たちになるのである。
2015年03月22日
コメント(0)
うざ、と読む。 断っておくがUSAではない。 USAはUnited States of Americaでもそれをもじった宇佐(うさ)というのが私の若い頃流行したのを思い出す。 鳥取県の東部にあった羽合温泉で有名な羽合町をアメリカのハワイ(Hawaii)と見立てたのと同じノリだ。 それはともかく、若者言葉でウザいと言うのがあるそうだ。 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。 江戸時代に「うじゃうじゃ」という言葉があり多くのものが狭い範囲に集まっていて有象無象の響きとよく似た意味合いで絡まり合う状態が”ゴチャゴチャ”と複雑さを意味する感覚を想起させることから”うるさい(煩雑さ)”と音が似ていることも相俟(あいま)って、干渉されることを嫌う自己中心的で未熟な若者にしっくりする言葉として定着したのが1980年代だと言う人がいる。 1985年と断定する事もある。 最初は不良とかの表現で呼ばれる落ちこぼれの青少年のグループの間で流行していたが珍(新)奇なものを見つけ、それが嬉しいのが信条のと思っているマスコミが取り上げたり、それらを主人公的に祭りあげたドラマ番組でセリフとして採用したことからそれを観た一般人にもそれが認知されていったというものらしい。 2012年に発表された28枚目の女性アイドルグループAKB48のシングルの新曲のタイトルとしても知られている。 この曲の歌詞の中のUZAは彼女のいる男性に惹かれている女性がその惹かれてる事実に気づき、それに悩み内部葛藤をしている時に男性の思う人の存在を無視した状態で一途に恋心を懐き続ける状況を表現するものとして突き放す言葉して使用していると言った誠に分かり難いものとなっている。 作詞者の秋元康氏の詩的表現の難解さを理解するには随分時間を要した。 なお、2015年3月に公開の有村架純(兵庫県伊丹市出身)主演の映画 『ストロボ・エッジ』の内容が、この設定がよく似ていると聞いている。 が、私には理解できない。 この楽曲のウリはAKB48史上最高難度のダンスレベルだそうだ。 ならばダンス表現を楽しむのが良さそうだ。 なお、マニアックな表現を敢えてしてみるとダンス選抜とやらでこの楽曲のMusic Video(MV)で踊りながら歌っているメンバーは製作当時国内の4グループからダンス上手として招集された人たちでその後のAKB48グループを担う中心メンバーと見なされており、そう推移してきているのが外野ファン的に見て取れるように思う。 歌詞の解釈はべつにしてこのUZAというのは今では上の経過を経て、人口に膾炙しているようだが、私には受け容れる事は出来ない。 なぜなら、自己中心的で未熟な精神を容認することが出来ないからである。 関西人ならこう表現する。 得手勝手な奴(人間)が真っ当な者ではない。 と言ってもこの言葉ほど21世紀の若者を象徴させる言葉であるのが腹立たしい。 未熟でしかも経験がないのに自分がなすことは正しいと思い込んで他人の行為をウザいと非難する傾向のある若者は誰しも思うことだがモラトリアム状況の中で許されている存在であるというのを理解していない者である場合が多いだろう。 そんな者をある事象に出会った時、間(かん)を置かずして直接的な行動に移る場合を見かけることがある。 少し前の事である。 電車の座席に若者が着座した後、空いているその隣に老人が座り、その杖が若者の前に来たとき、それを即座に叩き落とすのを見たことがある。 私はその斜め前の長椅子に座っていて驚くほかなかった。 老人には悪気がないのにもかかわらず杖をいきなり跳ね飛ばされたのである。 さぞびっくりしたと思われる。 悪くすればその事で違う事態が出来(しゅったい)したかも知れないのだ。 その時その若者はどう責任をとるのだろうか? その時はなにも起こったようには見えなかったが、老人の気持ちは如何ばかりだったかと思う次第である。 私はその若者が何故少しの間眼前の事象を見守れなかったのか、あるいはそれを口にして老人にやさしく語りかける事が出来なかったのかとも思った。 遠い将来に立場が変わることだってあるのだ、その時になって悔やんでも仕方ないだろう。 得てしてそういう状況になるのだといわれているのだ。それを四文字熟語で「因果応報」と言う。 情けは人のためならずである。 しかし善行をなし、「徳」を積んでこなかったことを残念に思うことはないのだ。 何故ならそんなことを知らないし、その親もそれを教わってこなかったから行えるはずもない。 青年期までにいかに生きるかを学び、考える人がいないのである。 私達の青年期までくらいだろうか受験勉強と並行して人生論(生き方)について学ぶよう受験雑誌に書かれていたように思う。 少なくとも私はそれをその時期に行い始め、大学の四年間も時間を特にとって実践した。
2015年03月21日
コメント(0)
得てしてそういう状況になるのだといわれているのだ。それを四文字熟語で「因果応報」と言う。 情けは人のためならずである。 しかし善行をなし、「徳」を積んでこなかったことを残念に思うことはないのだ。 何故ならそんなことを知らないし、その親もそれを教わってこなかったから行えるはずもない。 青年期までにいかに生きるかを学び、考える人がいないのである。 私達の青年期までくらいだろうか受験勉強と並行して人生論(生き方)について学ぶよう受験雑誌に書かれていたように思う。 少なくとも私はそれをその時期に行い始め、大学の四年間も時間を特にとって実践した。
2015年03月20日
コメント(0)
老人には悪気がないのにもかかわらず杖をいきなり跳ね飛ばされたのである。 さぞびっくりしたと思われる。 悪くすればその事で違う事態が出来(しゅったい)したかも知れないのだ。 その時その若者はどう責任をとるのだろうか? その時はなにも起こったようには見えなかったが、老人の気持ちは如何ばかりだったかと思う次第である。 私はその若者が何故少しの間眼前の事象を見守れなかったのか、あるいはそれを口にして老人にやさしく語りかける事が出来なかったのかとも思った。 遠い将来に立場が変わることだってあるのだ、その時になって悔やんでも仕方ないだろう。
2015年03月19日
コメント(0)
未熟でしかも経験がないのに自分がなすことは正しいと思い込んで他人の行為をウザいと非難する傾向のある若者は誰しも思うことだがモラトリアム状況の中で許されている存在であるというのを理解していない者である場合が多いだろう。 そんな者をある事象に出会った時、間(かん)を置かずして直接的な行動に移る場合を見かけることがある。 少し前の事である。 電車の座席に若者が着座した後、空いているその隣に老人が座り、その杖が若者の前に来たとき、それを即座に叩き落とすのを見たことがある。 私はその斜め前の長椅子に座っていて驚くほかなかった。
2015年03月18日
コメント(0)
彼女らはその後のAKB48の各グループを担う中心メンバーと見なされており、そう推移してきているのが外野ファン的に見て取れるように思う。 歌詞の解釈はべつにしてこのUZAというのは今では上の経過を経て、人口に膾炙しているようだが、私には受け容れる事は出来ない。 なぜなら、自己中心的で未熟な精神を容認することが出来ないからである。 関西人ならこう表現する。 得手勝手な奴(人間)が真っ当な者ではない。 と言ってもこの言葉ほど21世紀の若者を象徴させる言葉であるのが腹立たしい。
2015年03月17日
コメント(0)
その返事を待って、紙袋から少し大きめの青色の箱を取り出した。 さらにもう一度「重いけど何?」と聴いた。 ガーベラの花模様の着いた大きめのティーカップだよと言った。 青色の箱でどこのメーカーの陶器か分かった。 女性は親元での専用カップにしようか、はたまた飾っておく置物にしようかと言っていた。 男性は普段使いにしては、と提案したらそうすると甘い声で言っていた。 この間に私はカツ丼を食べ終わっていた。 無粋な感じがしたのでその場を立った。 ほろ苦さが残った。 その現場に立ち会えるなんてそうそうない経験なのである。
2015年03月16日
コメント(0)
男性はそれを頷(うなづ)きながら聴いていた。 一通り女性の話が終わると徐(おもむ)に少し大きめの手提げの紙袋を足下の籠から彼女の前の食卓に置いた。 曰く、バレンタインデーのお返しにと言った。 女性の顔は笑顔で綻(ほころ)んだ 。女性の名は「さっちゃん」と言うのだそうだ。 女性はその場でそれを「開けていい?」と男性に聴いたら「もちろん」と言った。 「なにがはいっているの?」と聴いたら「欲しがっていたものだよ」と返答があった。 もう一度「開けていい?」と聴いた。
2015年03月15日
コメント(0)
本日は3月14日である。 ホワイトデーなのだそうだ。 所用の帰りに夕食を摂ろうとしてこぎれいな食堂に入った。 カツ丼はリーズナブルな値段だった。テレビで絵手紙に童話画家が描いたカツ丼の絵があまりにも美味しそうだったので思わず注文していた。 それが手元に来たので食べようとしていたら隣の席の若い男女の様子が気になった。 美男美女の取り合わせで絵に描いた様というのはこのことだと思った。男性はタレントのU.K.こと楠 雄二朗バリの男前、女性は 菅野美穂バリの美形だった。 聞くとも無しに聴いていると女性は母親が世間知らずで困るとか言っていた。
2015年03月14日
コメント(0)
作詞者の秋元康氏の詩的表現の難解さを理解するには随分時間を要した。なお、2015年3月に公開の有村架純主演の映画 『ストロボ・エッジ』の内容が、この設定がよく似ていると聞いている。 が、私には理解できない。 この楽曲のウリはAKB48史上最高難度のダンスレベルだそうだ。 ならばダンス表現を楽しむのが良さそうだ。 なお、マニアックな表現を敢えてしてみるとダンス選抜とやらでこの楽曲のMusic Video(MV)で踊りながら歌っているメンバーは製作当時国内の4グループからダンス上手として招集された人たちである。
2015年03月13日
コメント(0)
それをマスコミが取り上げたり、それらを主人公的に祭りあげたドラマ番組でセリフとして採用したことからそれを観た一般人にもそれが認知されて言ったというものらしい。 2012年に発表された28枚目の女性アイドルグループAKB48のシングルの新曲のタイトルとしても知られている。 この曲の歌詞の中のUZAは彼女のいる男性に惹かれている女性がその惹かれてる事実に気づき、それに悩み内部葛藤をしている時に男性の思う人の存在を無視した状態で一途に恋心を思い続ける状況を表現するものとして突き放す言葉として使用していると言った誠に分かり難いものとなっている。
2015年03月12日
コメント(0)
多くのものが狭い範囲に集まっていて有象無象の響きとよく似た意味合いで絡まり合う状態が”ゴチャゴチャ”と複雑さを意味する感覚を想起させることから”うるさい(煩雑さ)”と音が似ていることも相俟(あいま)って、干渉されることを嫌う自己中心的で未熟な若者にしっくりする言葉として定着したのが1980年代だと言う人がいる。 1985年と断定する事もある。 最初は不良とかの表現で呼ばれる落ちこぼれの青少年のグループの間で流行していたが珍(新)奇なものを見つけ、それが信条と思っているのがマスコミである。
2015年03月11日
コメント(0)
うざ、と読む。 断っておくがUSAではない。 USAはUnited States of Americaでもそれをもじった宇佐(うさ)というのが私の若い頃流行したのを思い出す。 鳥取県の東部にあった羽合温泉で有名な羽合町をアメリカのハワイ(Hawaii)と見立てたのと同じノリだ。 それはともかく、若者言葉でウザいと言うのがあるそうだ。 うざいとは『うざったい』の略で、「鬱陶しい」「わずらわしい」「うるさい」「面倒臭い」「気持ち悪い」「邪魔」といった意味を持つ。 江戸時代に「うじゃうじゃ」という言葉があった。
2015年03月10日
コメント(0)
この結果を見るに偏波的な考え方と見られるだろうが戦中戦後にその経済強化へ協力した”兵士”として従軍した全国民への戦後補償と解する方がわかりやすいと思うのである。 ”軍人恩給”のように。その資金は特別税と言う名の国民年金保障税であり厚生年金保障税であるのは言うまでもないことだが。 こう考えると総国民年金等保険制度は制度疲労もあり、その役割も目的も終えたと言えるのである。それを支えてきた”若者だった”世代は支えてもらえるはずの少子化により、その世代の負担の増加に負い目を感じつつ、実質的に社会に出た際に約束された”年金”の約束を裏切られ、消費税の導入によりさらに減額を余儀なくされて行くのである.
2015年03月09日
コメント(0)
同時に無理矢理協力させられた戦争の被害への国による戦後補償と受け取った人もいると思うのである。 それらの人々は近年どんどん数が少なくなってきている。 そしてその制度が近未来において維持できなくなると予測した政府は当初に設定した支払額を30%カットする施策を打ち出し、現行の制度となった。 バブル景気が終わり、ミレニアムと言われその言葉に酔い、約500年前の人と言われるノストラダムスの”恐怖の大王が降ってくる”と言う予言に戦(おのの)いていた頃で、前世紀末のどさくさの時期だった。
2015年03月08日
コメント(0)
その額は最初に設定したものであったし実際に納めた期間もその後に比べて短くて済んだので受給者はその恩恵に感謝したに違いない。 当時は今では考えられないくらい市中金利が高かった。 退職までに貯めた金に対する金利で生活が可能だった。 筆者の記憶によると年利8%に近い水準まであったこともある。 概ね5%を割ることはなかったと思う。 その金利と年金で十分な生活をしていたように思う。 彼らにとっては戦後懸命に働いたご褒美にも思え、あるいは戦中、戦後の耐乏生活に耐えた反対給付のように思えただろう。
2015年03月07日
コメント(0)
ところがそれ以外の国民は被害を被ったにも関わらず何の補償もない。 自力で生活を再建してゆかなければならなかった。 その国民が一丸となって経済の再建に邁進した。 その結果がいつしかジャパンアズナンバーワンと持ち上げる本まで出版されることになった。 そのうちの国民の何割かが国民保険年金等の年金を受給できる年齢になった。 その当初は納める人と受給する人の割合が現在に比較して良好だったからたとえ無策でも機能してゆけたのである。
2015年03月06日
コメント(0)
それを将来受け取るまでにタイムラグが発生するから集めた資金をプールしておいてその一部を産業界に投資し、利益の一部を還元すると言うことでその運用を図るのである。 当然その支払いまでの期間は長く、一種のファンドとして機能したのは確かである。 そして産業界の再建と拡大に寄与したのも事実である。 一方、国民はその総意があったかなかったかの議論はここでは置いといて、戦争に協力したのも事実である。 そして多大な犠牲を払ったのも事実である。 軍隊に招集された人で生き残ったり、その負傷がもとで働けなくなった人には軍人恩給と呼ばれる補償が終生なされた。
2015年03月05日
コメント(0)
その前提としての国民への課税は戦前にはなかった低所得者へのいわゆる大衆課税をはじめ様々な税制改革を行った。 それ以上税収の幅を拡げる手段として掲げた方策が老後対策としての国民年金制度の強化である。 この制度の導入は戦時立法の中で決められ、運用(徴収)が始まっていた。 この時の制度導入に対する理念は詳しくは調査していない。 戦費の調達の一つとして官僚が考えたのかも知れない。 国民年金の本来の名称は国民年金税であり決して保険ではないのだ。 一種の目的税であるのだ。
2015年03月04日
コメント(0)
工場の生産設備は軍需生産をメインにしてきたものであり残っていたとしても民生用には適さないし、そのほとんどが空襲等により被災して使えない。 そこで考えられるのは国民から税金として集める方法と外国からの援助の受け入れである。 そして得られた資金を再建しやすい分野に集中してその確立をはかり、その次その次への分野へと資金を回してゆくという傾斜生産方式を当時の政府はとった。 その基盤が確立しようとするときに朝鮮戦争が数年間続き、その特需で日本経済は再離陸の足がかりを得た。
2015年03月03日
コメント(0)
戦後70周年を迎える今年(2015年)は総国民年金等制度の崩壊が叫ばれて久しい。 その維持へ向けて様々な方策をとっているように見せかけているが受給者にとって酷なものばかりで抜本的な施策は内容に思える。 そこで筆者はこの制度の目的は何だったのだろうかと考えてみた。 その結果の一つが以下の考察である。 戦争遂行のため国民生活を犠牲にして来た。 戦後占領下にあることを利用して経費の大半をつぎ込んできた戦費の負担がなくなり、経済の再建の名の下に戦後復興を図ろうとした。 そのための資金が必要だった。
2015年03月02日
コメント(0)
ダイエットジムを標榜するCMに不快感を持つのは私だけだろうか? 数人の男女が猫背で腹部をだらしなくさらけ出し不健康な顔をして順番に登場、そしてひとりごとにその体型を表現したいのか低音で不協和音のような背景音(BGM)が使用前そして間をおいて 画面が一転する。 使用後の姿が映る。 筋骨隆々たる裸に近い姿、晴れやかなギラギラし顔立ちである。 CM放映当初は素人ばかりと思う人たちが登場していた。 それでそれなりにインパクトが有るように思った。 そして同時に使用前のCMのBGMに軽い不快感を持っていた。 2ヶ月で輝くばかりの姿態になると言う短期間の手軽さとその成果。その早さ。 どんな訓練なの。 ありきたりの比較広告だから無視しようと思っていたがある時期のべつ幕なしにその映像が流れた。 不快なBGMとともに。 それを避けようとしてチャンネルを変えてもそれが流れた。 ダイエットどころか不快感がふとってしまうのである。 最近のそのCMを見て、「これは?」と思うようになった。 関西だけかも知れないが浪速のロッキーと言われた人気タレントがそれに登場したのである。 お定まりのだらしない突き出した腹(使用前)と使用後の精悍な容姿の対比映像。 減量のスペシャリストがそのジムを使う必要があるのか? タレント活動が長くなったので体型がくずれたのか? 過去の栄光を振り捨ててまでこのCMにでる必要があるのか? 等々疑問が渦巻くのである。 そしてそれを見てこのジムを利用したいと幾人が思うのだろうか? 実際にそのジム?の訓練状況が示されないから評価を下すことは不能であるが減量の専門家であるタレントの起用には”???”とそのCMの製作者の意図とその放映を許したジム運営会社のセンスに疑問を呈せざるを得ない。
2015年03月01日
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1