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”チャンスの順番”と言う言葉があります。 この”初めての活字本”は、それを証明するかのような内容と解してもらっても構いません。それでこの文章のサブタイトルを私の”チャンスの順番”としたいと想います。 そしてそれ以降これを冒頭において世間で見聞きする出世譚(たん)を私なりに解釈したものを綴って行きたいと想う次第である。 いくら陰善を積み、人知れず努力をしたとて、その成果を世に問う事ができなければ、自己満足に過ぎません。 それが細(ささ)やかなものであっても公刊され他の多くの人の目に触れることにより評価の対象となる事ができるのです。 もし、読者の中で”順番”が遅いと感じる人がおられれば、まず万全の準備や働きかけ、評価されうる成果を評価できる人に知らせているかどうかをチェックしてみて下さい。 自分のことを見守ってくれる人ばかりではないのです。 自己をアピールする能力も場合によれば必要なことがあります。 話を元に戻しますと、ほんの身の回りの人達は献呈したい気持ちで冊子を見てもらったら是非欲しいと言ってくださり、あまつさえ冊子代を差し出してもらうことができました。 その代金は公共機関に無償で譲渡する際の資金の一部として活用させてもらう所存です。 すでに幾冊かを受け入れてもらっている。 なお、当初10回2500字程度で本タイトルのアイテムをネットに上梓するつもりでいた。 結果的にその数倍する量になってしまった。 書き進めるうちに関連項目をこの際、”追加”した方がより理解してもらえるのではないかと”思い”出(だ)したからなのだ。 それがややもするとこのあといくつもその状態が生まれてくるのではと少なからず怖くなった。 事実、その兆候が現れそうで、さらに長くなるおそれがある。(事実、雨後の竹の子のように新しいコンテンツが頭をもたげてくる。) 感覚としては書き切った感がないのである。 しかし、見てもらいたいテーマが後に控えている。 そこで一旦今回の話題を収束させたいと思う。 なお、サブタイトルとして”チャンスの順番 1”とします。 謝辞 7ヶ月にわたりお付き合い頂き感謝致します。 折を見て、違うカタチを以て再開できる機会が来ることを期待して。
2015年11月30日
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医療行為と信仰上のそれとの関係についての問題について、昼のテレビの報道的バラエティ番組内で評論家が語っていた。 その人は専門家と見て欲しいのか少し難解な言葉を吐いていた。 それは「機序」と言う言葉だが音だけで聴いて何人が直ぐにそれと理解できるだろうか? この用語は普通、薬の”作用機序”という風にあるもののはたらきの順番を示す場合に用いられることが多い。 「機序」と単独で用いられることを聞いたのは今回初めてである。 仲間内では意味が通る言葉として使われると言ういわゆる業界用語的なものだろうが放送を見ている不特定多数の人の大多数が分かるものとは言えない。
2015年11月29日
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不特定多数の支持を獲得して、それにより二人以上で構成される組織が保持されるとき、 それを象徴する絶対的エースと呼ばれる存在をその初期の構成員の中から見いだすか見当たらない時は暗示をかけてでもその存在たらしめる過重な訓練を施しそれを創りあげる。 後者の場合その過大な期待と極限とも思える訓練に耐え抜き絶対的エースとしての風格を短期間のうちに備える能力があると見極められるものに限定される。 絶対的エースは言葉を換えていえばスターと言われるものに他ならない。 他の構成員を指導できるだけの技倆があり、それ故に尊敬措く能わざる(そんけいおくあたわざるー尊敬せずにはいられない)立場と目されることが必要である。 その者は組織内外からそれを自覚し、真摯にその役割を勉めることを要求される。 それを維持できない場合は別のその能力がある者に代わられるからその立場を維持し、なおその向上に努めることを余儀なくされる。 それによって得られるものはそれ以外の者に比べて格段上の待遇が用意されている。 それ故それに期待してそれを勉めるとも言える。 その絶対的エースの存在によりその後の不特定多数の支持が高まって行くとしよう。 組織というのは永続することが期待されるものだから、それを支える構成員を継続して補充してゆかねばならない。 絶対的エースの存在で不特定多数の一定以上の評価を獲得し、その継続性が期待できる時二次的募集をかけ、構成員を獲得する。 その中に最初の絶対的エースに匹敵する能力の者がいたとしよう。 それが早期に絶対的エースとして育てばその時の代表として先の者と拮抗するかそれを補完する者と期待されるようになる。 前者と後者の差は耐え難いほど区別される。 最初の絶対的エースが意識するとしないにかかわらず、二次的な採用者はそれがたとえ身近な日数であったとしても、前者により圧倒的な技倆を見せつけられ、大抵の者は萎縮(いしゅく)せざるを得ない存在になる。 そこには一次の構成員が一定の評価を獲得したという事実(実績とも)がある。 ましてそれが特殊な世界の場合年齢に関係なく一日の長があれば前者を先輩と奉(たてまつ)らねばならない。 それによりその世界が成立している不文律というべきものがあるからで、従わざるを得ない。 それでもそれが承服できないでそれを自分の中に封じ込めることを暗(陰)に陽に要請され、その自己矛盾と戦いながら組織での競争を行ってゆかねばならない。 そしてその一部のものはその不満を醸成しながらそこで活きてゆく。 そうできなければたちまちそこから放逐され、埒外(らちがい)の者と目され、その世界で活きてゆけないのである。 二次的な採用者の中で一次の絶対的エースに拮抗できる存在といえどもこの規範から逃れられない。 一次の絶対的エースが別のステージを求め、その組織から脱(ぬ)けるまでその関係は保持される。 一次の構成員はいわば創業者としてその立場を確立するために勉めてきたという自負があるからそれだけの自信も技倆もある。 トレーニングに励めばある程度だがそれに報いてくれる期待があり、それが実現することもあったという経験がある。 先駆者としての誇りというべきものだろうか、絶対的エースをもり立てることでその余得を授かれる特典も見いだすようになる。 二次以下の構成員は一次の構成員の”成功”の余得をさらに受ける存在として意識付けを余儀なくされることになる。 二次以下の構成員は努力してその組織での一定以上のレベルが認識されてこそ一次の構成員の下位に属することが認定される。 そしてひたすら(只管)一次の絶対的エースの退場を待つことになる。 その時期は不確定だからそれを待ちきれないものはそれに我慢ができずにそこから脱退し、別の組織なり世界でその活きる場を探すことになる。 一次の構成員のセレクションに漏れたが次以下のセレクションで採用者となった構成員の心情はいかばかりかと推し量るがその者になってみなければ本当のところは分からないが複雑なものであろうことは言うまでもなかろう。 ここであげた例というのは一昔前に比べて情報が満ちあふれている現代の世界でいくらでも見いだすことができる。
2015年11月28日
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虫酸が走る(むしずがはしる)言う言葉がある。 関西人の多くが感じる出来事でその最たるものと言えば“天覧試合”と言えるだろう。 ”戦後”が終息し、昭和元禄となった頃のある年に前(さき)の陛下が東京の野球場にお出ましされた際に”N”なる名前のYK軍の選手がホームランをHT軍のエース投手から打ったと言うものである。 HT軍は関西に拠点を置く人気球団で東京のYK軍とともにその試合は古くから特別のカードとして別扱いされてきたほどである。 而るにこの時から片方は人気が沸騰し、もう一方は悲劇の象徴として前者と反比例する
2015年11月27日
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から何もしないでただ一日が流れて言ってしまい貴重であるはずの人生の時間を消費してしまう。 古代中国の思想に老子の”無為”と言うのがある。 何にも働きかけず自分も変化せずに一生を過ごすと言う思想で、儒教の修養を積んだはずの士大夫クラスの理想とされ、ややもすれば額に汗して、時には泥にまみれ、”働く”ことが”悪”とされてきた。 絶対的生活保障の中で時間をもてあますようになったある種の人々はその生活水準を守ることすら他の人の奉仕を受けて成り立っていると言う自覚もなくそれが恰(あたか)も自然であるように思う時代が長く続いた。今そこにある幸せ? その1
2015年11月27日
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ため、それを認められる訓練を受けることが要求されるのです。 その最低限の知識なり行動の仕方を授けてもらえるのが”義務教育”と呼ばれる小学校・中学校での教育です。 これはオトナからの贈り物であり、恩恵(ありがたいもの)です。 決してこれは当たり前のことではないのです。 世界を見渡してみると教育を受けることができない子供たちもまだまだ多くいるのです。 ですから最低限義務教育の9年間はその学習に努めるべきです。 家庭内における両親等からの教えは健康に育って欲しいと言う願いからのものだから正しく自分の行動を決められるようになるまで耳を傾けてください。少年(少女)時代に必要なことの一つ その6
2015年11月26日
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添付の写真は鮮明に写っていた。 それだけでは困るのが本当のところなのだ。 紙の材質や本当の色など確定できないからそれがその時代のものかどうか判らないのである。 それはともあれ、診(み)てみることにした。 二葉の添付写真の一つには○○家譜とタイトルが右端に書かれている。20数行にわたり遠祖から数代の事績が連ねられている。 二葉目のそれには本来の依頼者が知りたいことが書かれている。 これらの古文書らしいものはネットで簡単に調べられるものであり、そうでなくても従来からある系図集を収めた本に同じことが掲載されているのである。
2015年11月26日
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今回の講演の準備は講演実施日の3日前に思いの外気分が良くてその日の夕方にレジュメ作成を2時間で終えることができた。 焦ることなく体の回復と心の安定に努めた結果この日にレジュメ作成のためのピークに達することができたと言える。 その前提のためには原稿の作成が必要なのだが今回は講演時間が一時間のため調査した資料を並べるだけでそれをなすことにした。 その理由は後述する。 正味50分くらいの講演ならそれでできるのである。 学者ではないから厳密さを厳しく求められることはない。 かと言って間違ったことをしゃべるのではない。 資料の中身はこれまで精査しているから資料を講演する順番に並べるだけで自然に講演で話す内容がその場で構成され、通して見ると全体として一本の講演として成り立ったのである。 こうした経験は以前にもあるからそうすることにした。 だから結果として巧くいったのではない。 ただ、今回の講演はオーディエンスにとっても私の今後の予定についても入門編にあたるものだからそうしたのであって、良い加減でなしたのではない。 今後の連続する予定の講演の最初の部分にあたるから私の意気込みが原稿に反映し、それがオーディエンスに伝わるのを恐れたのである。 難しく思われたのでは今後影響してはならないと思った。 本日の講演はいわばホームグランドであり、オーディエンスの方々も大切にしてゆきたいとの思いからである。 そのピュアな思いはどうやら伝わったようで、素直に終わりの拍手を受けることができた。 私が最初の講演者で、二人目の講演者のそれが終わったとき、オーディエンスを見送るために会場の扉を開け、一人一人感謝の言葉を言っているとそのうちの一人の人から声をかけられた。 一年前の半年にわたる連続講演に来てくれていたオーディエンスの人でそのほとんどに出席し頂いた方だった。 思いもかけない言葉をその人から頂いた。 ためにする言葉かと一瞬その思いがよぎった。 しかし即座にそれを取り消した。 繰り返し言うがとても信じられない言葉だったからなのである。 昨年の私の連続講演が頭について離れないとのことなのである。 そして私の後の講演者の講演がその人にはしっくりこなかったのだと言われた。 その会場の主宰団体から今春の連続講演の依頼がなかったからそこでは講演を行えなかった。 しかしその人曰(いわ)く、昨年の連続講演のオーディエンスの何人かは同じ思いで復帰を待ち望んでいると言われた。 望外の喜びだと思った。 その会場では軽費で会場を借りることができるから、その思いを受けて何らかの講座を開く気が動いた。 できればその思いが去らないうちにしたいと思った。 昨年の講座が終わる前の回にとらせてもらったアンケートでもその徴候(兆候ではない)が窺えてていた。 一回限りのテーマで挑戦してゆく自信はある。 それに今までに蓄えてきたきた講演テーマと原稿は結構ある。 来週にでもその会場のある建物にでかけ開いている場所があるかどうか確かめて見たい。
2015年11月25日
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それがややもするとこのあといくつもその状態が生まれてくるのではと少なからず怖くなった。 事実、その兆候が現れそうで、さらに長くなるおそれがある。(事実、雨後の竹の子のように新しいコンテンツが頭をもたげてくる。) 感覚としては書き切った感がないのである。 しかし、見てもらいたいテーマが後に多く控えている。 そこで一旦今回の話題を収束させたいと思う。 謝辞 上梓開始以来7ヶ月にわたりお付き合い頂き感謝致します。 折を見て、違うカタチを以て再開できる機会が来ることを期待して。
2015年11月24日
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坂を下りた地下鉄の駅前にある中規模なショッピングセンターにあるコープ(生協)に買い物に行った。 その中の隅に位置する幅3mほどの通路に三台のカートが固まっていた。 それにそれぞれ人がいる。 その塊の幅は3台が占めるものとして最小としても1m×0.8m位になろうか。 障碍(しょうがい)と化しているのである。 見るともなしに見ているとその状態が5分以上続いている。 おそらくそれ以上の時間、その場で意味のない井戸端会議を開いているのであろうと思われる。 いつ果てるのだろう?
2015年11月23日
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腹立たしい)ので急いでその数字、数桁をキーボードのファンクションキーのすぐ下にある数字があるキーを使い入力してみた。 何とか制限時間内にインプットできたみたいで、やがてドライバーソフトがネットから送信されてきて自動でインストールされた。 その制限時間はよくわからないが15秒以下でないかと思う。 メーカーの陳腐化政策のためにモデルチェンジされたものらしく、ネットで調べると当初のメーカー言い値価格の約1/4に近いものになっている。 廉価版となったものだから文句は言えないだろうが、若い人なら素早く数字を8回インプットできるだろうが、
2015年11月23日
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アナログを分かりやすく説明しますと針式の時計で秒針が一秒宛(ずつ)刻まないで進んでゆくのを見れば分かると思います。 余談をしますと針式の時計で一秒ごとに刻むのがありますがこの時計をデザインした人がそのデザインを広く多くの人に知ってもらいたいと思ったために刻むのと流れるのとどちらが良いかと新人の人に聴いたら刻む方がカッコいいと言ったのでこちらにしたといいます。 考えようによってはデジタルの本来の意味である”ぶつ切り”の感覚をその新人さんは図らずして(はっきりと具体的によく考えもしないで)、未来的感覚をアナログ時計の中にもイメージしたのかも知れません。
2015年11月22日
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”みかんの花咲く丘”を聴くと「かぎっ子*2」で家人が帰宅するまでの2~3時間、ローカルラジオ放送を聞いて宿題をしていた懐かしい日々を思い出す。 昭和を生きた人がそれを振り返る十分な時間ができたこともありましょうが、貧しいながらも心清い人がいたという記憶が純化されていることもあると思いますね。 *2006年当時 *2 家庭の事情で、学校からの帰宅時に親や他の家族(保護者)が自宅におらず、自ら家の鍵を持参している子供の事を指す通称。童謡・唱歌について その3
2015年11月21日
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先日、”知っている人がテレビに”という文章を電子空間で上梓(当ブログのこと)した。 さるローカルの朝の情報番組のMC的立場のタレントが散歩の出会いのコーナーに登場した施設と人について特化した情報が本放送とその週の終わりにそれらの中から特選したものを再放送するというのがあった。 その中で取材対象地域を巡り偶々(たまたま)出会った?人に興味を示した人物に食いつきその話を興味深げに聞くというスタイルの番組である。 ある時その人物が徹底的に取材し、その人なりの編集方針で個人的に自費出版した。 世の中には同好の士がいて、たちまち初版の本が5分冊で一分冊が数千円するにもかかわらず完売したとか。 その興味を持つ人に取ってはこの上ない貴重本なのだそうだ。 さて、その価格でも赤字なので再版するのを拒んでいたところ、再版の要望があまりにも大きいので仕方なく5版まで重ねてしまったとぼやかれていた。 それでいて苦笑の中にそこはかとない満足感が見えるように思えた。 その時私もかくあれたら密(ひそ)かに思った。 テレビ放送で施設内におかれていたその本を紹介したところ、一週間のうちに二回も放送された影響で放送終了後の数週間にわたり連日、数十人が押し寄せたという。 私が再訪したときはその熱が収まりつつあった頃で一息ついているという状況だった。 その時その人物は別の番組の取材に応じ、別の現場にいたのでお仲間の人に私の初めての共著出版物の追加購入をお願いしていた。 なぜ購入するのかについては別稿にて報告しつつある。(当ブログ) この度の著書の購入は知人から求められたためである。 その時10部を購入しその重さを実感した。 300葉(枚)以上の貴重な写真を掲載するためにア-ト紙に印刷している今回の冊子は結構重い。 本当はもっと必要なのだがこれ以上は持って帰れない。 とは言えそれを背負い鞄(ナップザック)に収納していたら、彼の人が戻ってこられた。 疲れも感じさせずににこやかに応対してくれた。 かのテレビ放映の結果押し寄せた人々の要望により貴重本の6度(たび)の再版を余儀なくされたとこぼれ話を聴いた。 テレビの影響力のスゴさを実感したとも。 それなら、そこで私は思ったね。 ついでに同施設で出版の運びに至った私との共著も放送で紹介してくれていたら...と。
2015年11月21日
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お昼が近かったのでいつも行くレストランで食事を取った。 奈良坂を上り博物館についたら1時間待ちだった。 行列に並んでいたとある夫婦が話しかけてきた。 今回初めてなので展覧会の見所を教えて欲しいと言った。 なんで私にと訝(いぶか)りながらも、ここ数十年に亘り展覧していることもあり、持てる知識の一部とその歴史等についてその行列が博物館の入り口に達するまで披露することができた。 博物館に入るとボランティアさんによる正倉院展の展示物についての解説が講堂で30分間あるとなっていたのでそれを聴かせてもらった。秋の好(よ)き日に その後 その1
2015年11月20日
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二次以下構成員は努力してその組織での一定以上のレベルが認識されてこそ一次の構成員の下位に属することが認定される。 そしてひたすら(只管)一次の絶対的エースの退場を待つことになる。 その時期は不確定だからそれを待ちきれないものはそれに我慢ができずにそこから脱退し、別の組織でその活きる場を探すことになる。 一次の構成員のセレクションに漏れたが二次以下のセレクションで採用者となった構成員の心情はいかばかりかと推し量るがその者になってみなければ本当のところは分からないが複雑なものであろうことは言うまでもなかろう。 ここであげた例というのは一昔前に比べて情報が満ちあふれている現代の世界でいくらでも見いだすことができる。絶対的エースの存在の意味するもの その6
2015年11月20日
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戦後を脱しようとする時代に物心がつき、高度成長期に青春を過ごし、バブル時代にはそれと無関係に生きたはずだが結果的に所謂(いわゆる)勝ち組に残れず、やや負け組雰囲気を纏わされてきた人生を経てきている世代にとっては毎日がこれで良かったのか?と心の隅で自問自答を繰り返している。 と言う人がいる。 かと言って現状を大きく変えるような動きも取らない。 何だかんだと言ってもなんとか今のところ生きていると言う現実に流れているという風だ。 真剣に考えたところで何もできないと言う”ケセラ・セラ つまり、なるようになるさ、或いは為るようにしかならない”と思う
2015年11月19日
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その時点での限界点を見極められたらその集団で主たる成員(メンバー)として他のメンバーを引っ張る存在(センター)として覚悟を決め、自分自身を含めて技術レベルをさらにアップする努力を行う。 そうでなくそれに従う立場と認識したメンバーはそれを目指す意識を保持しつつ、組織のレベル維持、向上に努める。 それにもなれないものは自身であるいは組織からそれに不相応と認識するかそれを余儀なくされ、そこから去ることになる。 諦めなければいつかものになるとの考え方もある限界と極限の差 試論2 その4
2015年11月19日
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少し前に古文書の翻刻を知人から依頼された。 系図だった。 桃山時代の戦国武将の名が載っているもので今の近畿地方の旧家によくあるものだった。 系図の全体ではなく、つながりのない2つの部分を写真に撮り、メールに添付してきたものだ。 依頼されたのは知人で会って私ではない。 その人が講演を終えた後にそれ(写真)を示され、その人が翻刻の技術がないため、私にお鉢が回ってきたのだ。 知人は同じサークルに属しているから助力を乞うとメールに書かれていれば無碍にすることもできないが、困惑することしきりだった。
2015年11月18日
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しかしその人曰(いわ)く、昨年の連続講演のオーディエンスの何人かは同じ思いで復帰を待ち望んでいると言われた。 望外の喜びだと思った。 その会場では軽費で会場を借りることができるから、その思いを受けて何らかの講座を開く気が動いた。 できればその思いが去らないうちにしたいと思った。 昨年の講座が終わる前の回にとらせてもらったアンケートでもその徴候(兆候ではない)が窺(うかが)えていた。 一回限りのテーマで挑戦してゆく自信はある。 それに今までに蓄えてきたきた講演テーマと原稿は結構多くある。 来週にでもその会場のある建物にでかけ、空いている場所があるかどうか確かめて見たい。
2015年11月18日
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話を元に戻しますと、ほんの身の回りの人達は献呈したい気持ちで冊子を見てもらったら是非欲しいと言ってくださり、あまつさえ冊子代を差し出してもらうことができました。 その代金は公共機関に無償で譲渡する際の資金の一部として活用させてもらう所存です。 すでに幾冊かを受け入れてもらっている。 なお、当初10回2500字程度で本タイトルのアイテムをネットに上梓するつもりでいた。 結果的にその数倍する量になってしまった。 書き進めるうちに関連項目をこの際、”追加”した方がより理解してもらえるのではないかと”思い”出(だ)したからなのだ。
2015年11月17日
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新しいキーボードで文章を作成するのは今回で初めてである。 Bluetooth製のキーボードなのだ。 テンキーのないミニのものだ。 ペアリングする際に時間切れで数字をインプットがなかなかできなかった。 使い慣れないキーボードそのものからインプットするのだが、機能するかどうか判らないのにそれをせよとはと、途惑うことしきりだった。 そのメーカーに問い合わすべくメールを送信したら週末にかかっていたので応答があったのは2日後だった。 それを使えないのはごうがわく(業が湧く-腹が立つ)。
2015年11月16日
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少年・少女(以下少年とします)がオトナとして認められる存在となるために生まれてからその訓練を受けているのが児童・生徒として学校における学習、両親・祖父母等による躾(しつけ-家庭内教育)、地域の人たちによる見守り です。 これはオトナとして競争社会で生きてゆくための技法、様々なツール(外国語、勉強のやり方、人とうまくつきあう-交際、礼儀)の習得を長い時間をかけて無理なく行う時代が未成年と呼ばれる時代です。 自分で自分の行動を決める考えがはっきりと固まっていないとオトナから認められない。少年(少女)時代に必要なことの一つ その5
2015年11月16日
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とは言えそれをリュックサックに収納していたら、彼の人が戻ってこられた。 疲れも感じさせずににこやかに応対してくれた。 かのテレビ放映の結果押し寄せた人々の要望により貴重本の6度(たび)の再版を余儀なくされたとこぼれ話を聴いた。 テレビの影響力のスゴさを実感したとも。 それなら、そこで私は思ったね。 ついでに同施設で出版の運びに至った私との共著も放送で紹介してくれていたら...と。”知ってる人がテレビに” その後 その4
2015年11月15日
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なんとかアナログ人間からデジタル人間に変わってきつつある実感があります。 アナログとは本来の言葉で言うと”連続”を意味するのですがよく似た発音の言葉にアナクロ(アナクロニズムの略)と言う言葉があります。 このアナクロというのが時代錯誤(時代が変わったのに気づかず、または当世風が気に入らず、以前のあり方を良しと守る態度)を意味するのですがこれと混同(区別しなければならないものを同一のものとして扱うこと)しているのが今の時代です。
2015年11月14日
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これではとても妙齢の女性とは言えない。 まるで深夜の電車内のくたびれた中年男性の酔っぱらいの姿である。 外に出れば7人の敵がいると私が社会に出た時先輩から教わった。 そして、世間様というのがあり、誰がどこで個人を見ているかわからないとも言われた。 前の晩にどのようなことが有ったにせよ、日付がかわり、出社する際にはシャキッとした顔をしてこいと言われてた。 電車の中で寝ていてはその準備と逆行することになる。 時間があればその人のその後の行動を見てみたいとも思った。 思っただけであることを強調しておこう。 妄想それ自体は罪にならないというからね。
2015年11月13日
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但し、それは確実性があるかと言えばそうでない場合もあるかも知れないと思う不安から生き残るために不断の努力と向上心の維持をはかる。 その意味では苛烈な人生であると言える。 なぜなら、高資質な者が選抜された上にスカウトに応じるという形で組織に参加が認められた”選良”則(すなわ)ち”エリート”がいる集団がその組織である。 いずれにせよ、組織で生きている以上それまでの経過を時折振り返りそれまでの行動が間違いのないものであったかを検証、確認する作業を”生き様”と言うのかもしれないと私は思う。* 大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指す 小(お)此(この)木(ぎ)敬(けい)吾(ご)氏の『モラトリアム人間の時代』(1978年(昭和53年))生き様 その9
2015年11月13日
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但し時代のながれにより時代遅れと認識されるその細かいものは以前より是正されることは言うまでもない。 ビューロクラシー【bureaucracy】(官僚制・官僚政治)が長く続くと 繁文縟礼(はんぶん-じょくれい)と言って一般人にはどうしてそれがそこに存在しなければならないのか説明がなされないもはや”遺物”としか認識されないようなものも存在したり複雑な手続きがあり、そのスピードアップ化を阻害しているものもあるやと仄聞(そくぶん)する。 それがあるから存在できる存在もあるのだという。 それは一般的にはムダと言われる存在で本来的に早急に除去されるものだが已然として存在するものらしいとも聞く。 礼儀とは?その8
2015年11月12日
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一次の構成員はいわば創業者としてその立場を確立するために勉めてきたという自負があるからそれだけの自信も技倆もある。 トレーニングに励めばある程度だがそれに報いてくれる期待があり、それが実現することもあったという経験がある。 先駆者としての誇りというべき者だろうか、絶対的エースをもり立てることでその余得を授かれる特典も見いだすようになる。 二次以下の構成員は一次の構成員の”成功”の余得をさらに受ける存在として意識付けを余儀なくされることになる。絶対的エースの存在の意味するもの試論 その5
2015年11月11日
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2015年の11月の第一週の平日に休みが取れたので私の講演のサポータの人、2人を伴い奈良正倉院展に出かけた。 行楽シーズンと言うこともあり近鉄奈良駅周辺の商店街は平日にもかかわらず到着した午前11時には混雑していた。 駅で国立博物館の入場券を購入したら従来の前売り券並みの100円引きではなく1100円の当日券となっていた。 後で商店街の金券ショップでそれを見たら200円引きの900円で販売されていた。 前売り券は一定期間前で販売が終了し、それ以降は当日券のみとなると後で書かれているのを見た。秋の好(よ)き日に その2
2015年11月10日
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想いもかけぬこと一年前の半年にわたる連続講演に来てくれていたオーディエンスの人でそのほとんどに出席し頂いた方だった。 思いもかけない言葉をその人から頂いた。 ためにする言葉かと一瞬その思いがよぎった。 しかし即座にそれを取り消した。 繰り返し言うがとても信じられない言葉だったからなのである。 昨年の私の連続講演が頭について離れないとのことなのである。 そして私の後の講演者の講演がその人にはしっくりこなかったのだと言われた。 その会場の主宰団体から今春の連続講演の依頼がなかったからそこでは講演を行えなかった。
2015年11月10日
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その時アドバイスを求められたりするがそれが的確であり、有効であればあるほどその地位は高まる。 その影響力の強さにより、場を与えたり、地位を保証することも可能になり相互の地位を固める事もできる。 自己の限界を見極めることも一種の才能であり、自身でそれがないと自覚する場合は周囲の助言を求め、その奨めに素直に従う勇気を持つことでその後の人生の方向性を決め、活動する方が良い。 自己の能力の高さか周囲の人のレベルの高さがそれを決めるのであるからその重要性を認識する柔軟性が必要である。限界と極限の差 試論2 その3
2015年11月09日
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”チャンスの順番”と言う言葉があります。 この”初めての活字本”は、それを証明するかのような内容と解してもらっても構いません。 いくら陰善を積み、人知れず努力をしたとて、その成果を世に問う事ができなければ、自己満足に過ぎません。 それが細(ささ)やかなものであっても公刊され他の多くの人の目に触れることにより評価の対象となる事ができるのです。 もし、読者の中で”順番”が遅いと感じる人がおられれば、まず万全の準備や働きかけ、評価されうる成果を評価できる人に知らせているかどうかをチェックしてみて下さい。
2015年11月08日
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ある日電車に乗った。 紫色のツルを持つメガネをかけた、いかにもインテリそうに見えそうな30代前半の女性が長椅子の端近くに座り寝ていた。 私が乗車した駅から終点の駅までの9駅の間、熟睡状態だった。 その間腕を組み、顔を思い切り仰向けにしてその鼻の穴は天井を見る目のように上を向いていた。 腰は座席の奥行きより前になり、スラックス履きのハイヒールのおみ足はだらしなく開き気味である。 これで口が開いていたらと思うとおぞましくなる。 朝の通勤時間帯だから勤め人であろう彼女の知り合いがその時間帯に乗り合わせているかもしれないのである。
2015年11月07日
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が私にはその動きが今ひとつ不自然でしっくりこないのです。 その意味ではまだまだデジタル人間に脱皮できていないのでしょう。 私は生まれてから30歳になる頃まで個人でマイコン(パソコンの一時代前の小型コンピュータの呼び方)すら持てないで紙とインクの素材でできた本なりノートで育ってきたのですから、仕方ないかも知れません。 とは言え30年間ワープロ(ワードプロセッサー・文章作成ソフト)を使って文章を作成できるようつとめてきましたからそのうちにワープロの機能を使いこなし、キーボードを打ちながら文章を作ることが苦にならなくなってきました。
2015年11月07日
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今年(2015年)の夏は加齢によるものだろうか、体力が低下したのを痛感するようになった。 11月の初めになってようやく元気を回復したのを実感するようになった。 それでも昨年に比べて85%くらい戻ったという感覚である。 10月の最終週のある日に友人と少し距離のある城下町までドライブしたのが気分転換になったみたいだ。 たまには、少しの遠乗りをして、日常から離れるのが良い。 この小旅行はここ7年ほど続いている。 もはや年中行事化している。 この時期、行楽のシーズンだが、私にとっては文化的刺激を受ける季節でもある。 奈良の国立博物館での正倉院展をはじめ、京都のそれの琳派展や、兵庫県立考古博物館で11月7日土曜日に開催される全国古代体験フェスティバル2015も楽しみの一つだ。 昨年から全国の名を冠すようになった全国古代体験フェスティバル2015は県立考古博物館の敷地内で行われるもので北海道から九州までの主要博物館が参集し、海外の台湾からは十三行博物館も参加する国際的なイベントとなっている。 数万人の来客数があり、会場は終日ごった返しているといって過言ではない。 出展する各博物館で日常的に実施されている古代体験を一堂に集めたもので、それぞれ工夫された古代生活の一シーンを体験できる。 おおむね数百円までの参加費で体験が可能で、中には無料のものもある。 飲食店のブースもあり、昼食の用意はいらない。 古代史の専門書を含む古本の販売ブースも設けられ、結構安価であるものもあり、思わぬ掘り出し物に遭遇し、ほくそ笑むこともある。 午前10時の開会式の頃には会場はほぼ満杯の状態と化している。 同日行われる隣接した史跡大中遺跡での播磨町の同時開催の大中遺跡まつり《播磨町町制施行50周年・大中遺跡発見50周年記念事業》もあり、退屈することなく、秋の好日を楽しむことができる。 場所は臨時に設けられる駐車場のほか、JRなら神戸線土山駅で下車して、”歴史とのであい ミュージアムロード→ であいのみち と略す”の名称のある別府鉄道(昭和59年2月1日廃線)線路跡を播磨町が整備した遊歩道を15分ほど徒歩で西行すれば博物館にたどり着く。 ”であいのみち”には西暦のあるプレートがいくつか設置されており、当該の年にまつわる解説が施されているのでちょっとした歴史の勉強になる。 博物館の東の川にかかる橋には、メロディを奏でられるものが設置されていて通行を楽しむことができる。 それが何であるかは、実際に訪れて体感してみればわかる。
2015年11月06日
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出展する各博物館で日常的に実施されている古代体験を一堂に集めたもので、それぞれ工夫された古代生活の一シーンを体験できる。 おおむね数百円までの参加費で体験が可能で、中には無料のものもある。 飲食店のブースもあり、昼食の用意はいらない。 古代史の専門書を含む古本の販売ブースも設けられ、結構安価であるものもあり、思わぬ掘り出し物に遭遇し、ほくそ笑むこともある。 午前10時の開会式の頃には会場はほぼ満杯の状態と化している。 同日行われる隣接した史跡大中遺跡での播磨町の同時開催の大中遺跡まつり《播磨町町制施行50周年・大中遺跡発見50周年記念事業》もあり、退屈することなく、秋の好日を楽しむことができる。 場所は臨時に設けられる駐車場のほか、JRなら神戸線土山駅で下車して、”歴史とのであい ミュージアムロード→ であいのみち と略す”の名称のある別府鉄道(昭和59年2月1日廃線)線路跡を播磨町が整備した遊歩道を15分ほど徒歩で西行すれば博物館にたどり着く。 ”であいのみち”には西暦のあるプレートがいくつか設置されており、当該の年にまつわる解説が施されているのでちょっとした歴史の勉強になる。 博物館の東の川にかかる橋には、メロディを奏でられるものが設置されていて通行を楽しむことができる。 それが何であるかは、実際に訪れて体感してみればわかる。
2015年11月05日
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難しく思われたのでは今後影響するからそうしてはならないと思った。 本日の講演はいわばホームグランドであり、オーディエンスの方々も大切にしてゆきたいとの思いからである。 そのピュアな思いはどうやら伝わったようで、素直に終わりに拍手を受けることができた。想いもかけぬこと 私が最初の講演者で、二人目の講演者のそれが終わったとき、オーディエンスを見送るために会場の扉を開け、一人一人感謝の言葉を言っているとそのうちの一人の人から声をかけられた。 一年前の半年にわたる連続講演に来てくれていたオーディエンスの人でそのほとんどに出席し頂いた方だった。
2015年11月04日
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今年(2015年)の夏は加齢によるものだろうか、体力が低下したのを痛感するようになった。 11月の初めになってようやく元気を回復したのを実感するようになった。 それでも昨年に比べて85%くらい戻ったという感覚である。 10月の最終週のある日に友人と少し距離のある城下町までドライブしたのが気分転換になったみたいだ。 たまには、少しの遠乗りをして、日常から離れるのが良い。 この小旅行はここ7年ほど続いている。 もはや年中行事化している。 この時期、行楽のシーズンだが、私にとっては文化的刺激を受ける季節でもある。 奈良の国立博物館での正倉院展をはじめ、京都のそれの琳派展や、兵庫県立考古博物館で11月7日土曜日に開催される全国古代体験フェスティバル2015も楽しみの一つだ。 昨年から全国の名を冠すようになった全国古代体験フェスティバル2015は県立考古博物館の敷地内で行われるもので北海道から九州までの主要博物館が参集し、海外の台湾からは十三行博物館も参加する国際的なイベントとなっている。 数万人の来客数があり、会場は終日ごった返しているといって過言ではない。
2015年11月04日
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その専門家同士の解釈と同意がそこには存在することも必要である。 ただしこれは権力者間において存在するものである。 権力による”法”による刑罰を伴う権力に従わせるための装置の他に被支配者が権力に従うことで身の安全を図ることを第一義に置き、自らを律すると言うことで自身を支配関係の下に置くことを納得させるという心の支配を行わさせしめるのが”礼”である。 その細かな施行令とでも言うべき細則に当たるのが徳目と言われるもので、それを守り実践することが”美しい”とすり替えて、賞揚されるのが礼儀であると言えるかも知れない。礼儀とは? その7(挿入分)
2015年11月03日
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偶々(たまたま)テレビの情報番組で街角インタビューに応える人を視るともなしに観ていると”どの面下げて”ものを言っているのだと言う思いにとらわれることがある。 例えば、だらしなく伸びきった寛衣のようなTシャツの首ぐりからたれ落ちそうな豊満な胸の谷間の上部の合わせ部分が見えることを気にすることなく、長年連れ添った少しの行き違いの中で一瞬にして愛が冷めたという理由で別居中の配偶者の悪口を長々と”くっちゃべって(〔俗語〕 無駄なおしゃべりを続ける)”いるのをみるとその念(おも)いになる。 結婚とは思い入れと誤解と幻想の入り交じったもので始まると考える筆者にとってはその時点で悪口の対象となっている配偶者を選んだのは”アナタ”であるのだと言いたい。 そんなに見る眼のない自分を反省しないで相手にばかりか自分の思い入れをカタチにしろと要求するのはおかしいと想わねばならないのにそうしない、えて勝手(わがまま)な存在なのだ。 蛇足ながら、”えて”は本来は”得手”と漢字で書かれるがここでは”猿”を意味する”エテ公”を想記してもらいたくてこう表現した次第である。 さらに言うと殊更(ことさら)女性が嫌いなのではない、似非(えせ)なる人間が好ましくないのである
2015年11月02日
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で放送終了後の数週間にわたり連日、数十人が押し寄せたという。 私が再訪したときはその熱が収まりつつあった頃で一息ついているという状況だった。 その時その人物は別の番組の取材に応じ、別の現場にいたのでお仲間の人に私の初めての共著出版物の追加購入をお願いしていた。 なぜ購入するのかについては別稿にて報告しつつある。(当ブログ) この度の著書の購入は知人から求められたためである。 その時10部を購入しその重さを実感した。 300葉(枚)以上の貴重な写真を掲載するためにア-ト紙に印刷している今回の冊子は結構重い。 本当はもっと必要なのだがこれ以上は持って帰れない。”知っている人がテレビに” その後 その3
2015年11月01日
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それでもそれが承服できないでそれを自分の中に封じ込めることを暗(陰)に陽に要請され、その自己矛盾と戦いながら組織での競争を行ってゆかねばならない。 そしてその一部のものはその不満を醸成しながらそこで活きてゆく。 そうできなければたちまちそこから放逐され、埒外(らちがい)の者と目され、その世界で活きてゆけないのである。 二次的な採用者の中で一次の絶対的エースに拮抗できる存在といえどもこの規範から逃れられない。 一次の絶対的エースが別のステージを求め、その組織から脱(ぬ)けるまでその関係は保持される。 絶対的エースの存在の意味するもの試論 その4
2015年11月01日
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