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追伸2 2008・1・30 書きかけていたこの追伸2が、なにかの操作の誤りか、パソコンの画面から消えてしまいました。で、また書き直しています。パソコンは便利だけどたまにこんなことも起きます。 先に書いた追伸の続きを書きます。 先の追伸で、告訴という方法自体が共に生きる関係の破壊に向かうものだということについて書きましたが、その後になって、ヒロはそれだけではなく、その頃の私のブログの日記の書き方自体が、告発調、糾弾調になっていて、共にいいる関係に向かうものになっていないということも感じたのかもしれない、と思いました。読み返しはしませんがそのような気もします。またその点については時間があったら読み直して考えてみます。 ところで告訴という方法についてですが、それを含めた訴訟ということについての私の体験や考えについて少し書きます。 私は1989年10月頃熊本刑務所に入所したのですが、その直後からたびたび、私および他の受刑者に対する刑務所側の対応の仕方に、人間不信を増幅するようなやり方がありのを感じました。で私は罪を犯したものの責任として、そのような対応は受刑者の再犯可能性を高めるものであり、それを少なくすることを責務としているはずの刑務所の意義に反しているなどと、具体的詳細な意見を述べるということをしてきました。そのつどできるだけどのように私は自分の罪を見つめなおしてきたかを伝えても来ました。だからこそ罪の償いとしてこうしたことを願い出、きいて貰おうとしているのだと。 そういう私の態度、あり方は、幹部職員のある人には認められ、またある人にはまるで理解されないということもありました。たとえば私は2,3の受刑者から職員に暴行を受けたということを聞き、それを民事訴訟の書面中に書き込み、こうしたことは繰り返さないで欲しいと訴えました。裁判所に提出する以前のものであり、ただ詳しく書くにはそんな風にするしかないと考えたのですが、その件で面接してくれた教育課長は、表向きは私にそのような事実はないといいましたが、後から他の職員から、職員会議の席でその教育課長が、刑務官が受刑者に暴力を振るうことはあってはならない、刑務官の職責に反する、などと強く行ってくれた事を気伝え聞きました。 刑務所の中ではいろいろなことがありけしてして刑務官個人を罰して欲しいとは思いませんでしたが、検察庁に告訴したこともありました。ただし事情聴取にきた検察事務官に、罰して欲しいとは思わないが責任をとってほしいなどという形で、刑務所で起こっていることを出来る限り検察官にも知ってもらおうとしたこともありました。話は良く聞いてくれました。罪の償いとしてこうしたこともしているという私の言い分にもよく耳を傾けてくれました。 私としてはこうしたあらゆる手段も方便として使い、閉ざされている刑務所の問題を可能な限り多くの人に考えてもらおうとしたのです。間違いもあったかもしれませんが、そうしたことの結果として改善されたこともいくつかあったと思います。 兄の告訴に関しても、なにかそん私の刑務所での生き方の感覚で受け入れてしまっていた所もあったと思います。 とりあえずこれでこの手紙は終わります。デバム-サブロウ
2008.01.30
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本を移して綺麗になった部屋 六畳の部屋だった。この部屋にぎっしり本が詰まっていた。フスマのむこうに私の 部屋がある。
2008.01.30
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倉の中に本棚を移す今日も山仕事はせず、野の花社の食堂の横の四畳半の部屋に詰め込んでいた本の大部分を、倉の一階に移した。
2008.01.30
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森の恐竜 2,3日前に撮ったもの。 七宗の国有林の森の中には、 今もこんな恐竜が住んでいて、 無音の叫び声を上げている。 怖くはない。 ただ静かである。
2008.01.29
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1月は5日ごろから山仕事をはじめ、途中休んだ日もあったけど、ここまで良く働いた。おかげで30万を越える売上があった。1月としては初めてのことだと思う。昨日は土岐のほうにいいチラがあるときいていたので下見に行き、結局探せずに、ほとんど収穫無しに帰ってきたが、今日は雨が降っていることもあり、仕事を休む。身体に疲れが残っているのを感じ、朝食後もベッドに入り眠り、昼食後もサンホームの風呂に入った後、帰ってきて眠った。おかげでからだの中から疲れが取れた感じ。サンホームの風呂はやはりいい、広くて、一人でゆったりはいれて、出てきたあとは無料でマッサージ器にかかれるし、帰ってきたあとベッドで寝られるのもいい。ベッドはすこしまえ、同級生の信夫さんとこの納屋にあったのを、使わないということから、貰ってきた折畳式のもの。でもまあまあしっつか利したものだから寝心地はいい。床から離れていることもいい。兄は相変わらず、毎日よく寝ている。でも酒はもう10日間ほど断っている。特にその点について不満をもらすこともない。食事のときに少し言葉を交わすだけで、ほとんど話し合うこともない。兄をもっと明るい暖かい部屋に住まわせたいけど、今はその力もない。彼の体力、気力が回復するよう、なにか手立てを考え付くこともない。ともかくここで楽に過ごして貰うこと、後は成り行きの中で決めてゆくしかない。妹とは高森さんの本を読んだこともあるのか、少し自分の態度を修正できている部分もあり、これまでより軋轢が少なくなっている気はするが、まだときどきある、私もまだムキになって強く言うことがある。新ちゃんが明日帰ってくる。彼も4日ほど前1度ここに帰り、すぐ名古屋へいったり一昨日から千葉の黒坂さんの所に行ったり、迷っているようだ。妹との関係があまりよいとはいえないこともある。彼がここへ帰ってきてくれて、食事の用意などしてくれると、私は非常に助かるのだけど、そんな彼に支払う金が稼げるほどにはなっていない。2月は山仕事が一番ない季節でもある。さてどうするか。流れの中に身を浸し、流れる中で考えてみようと思う。
2008.01.29
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これは数日前にエプロンが帰ってきたときに撮ったものです。携帯の方に返信用のメールが来ないので、パソコンの法にきた返信メールに添付して送ったものです。 改善されるまではこの方法で行くしかないなと、今は思っています。 帰ってきたエプロン長い間帰って来なかったエプロンが、むさぼるように食事をした後、ネコハウスのなかで、こんこんと寝てしまった。
2008.01.29
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愛するヒロヘ 手紙を書いていても、ついそのとき書くことにつられてというか、いい加減なことを書いてしまっている自分にきがついたので、少し昨日の手紙の修正というか、補うことを書きます。 兄が昨年のそう状態に入りかけたとき、岐阜病院の中で彼がある種の支配性を発揮するような場面は、あるにはあったと思いますが、まだ手におえないような強烈なものにはなっていなかったと思います。ただ冷房が壊れていることに対する修理の要請や、それとの関係で部屋のあり方の改善あだは願い出たようです。そのほかもあったと思いますが、そういう傾向が高まってきていることから、病院側は彼を閉鎖病棟に送り、保護室に入れたり薬の量を増やしたりしたのです。細かく言えば他のこともありますが、こういう処置に対して兄は保護室に入れられることと、薬を増やされることで苦痛な状況を強いられることが納得できなかったのです。病院の言い分もある程度は理解できましたが、兄の言うことも理解できました。で私は病院の方針に従うのではなく、退院し兄がアパートで暮らすほうを選択したのです。兄に対してもさまざまな問題や姿勢を感じてはいましたが、それを病院の保護室に入れることや、くすりの量を増やすということで対処したくなかったのです。しかもそこにいたるまでに私は何度も病院側とも話し合いましたし、主治医を変えたり、治療方針をもう少し柔軟なものにするよう提案もしました。こういうことの全体の関係には、兄の抱えている問題と共に、岐阜病院の抱えている問題もあったと思います。ようはそこでは兄の支配性とか、攻撃性とか言うことが最も大きな問題ではなかったということです。 兄はその後下呂谷敷病院のN医師の治療を受けることになり、彼の治療方針には従い、特に反抗とかしているわけではなく、むしろはじめて良い精神科医に出会えたと喜んでいました。岐阜病院で問題が煮詰まり、行き詰まり、そおいう新しい展開があったことは、兄にとっても私にとっても良かったことです。だと思います。兄にとって不幸な結果が生まれているわけではないと思います。 しかし岐阜病院の医師らを告訴したことの問題性、共に生きる関係の破壊性みたいなことに関しては、私は随分いいかげんなところがあったのを、昨日の手紙を書いてから、気づきました。現実に告訴が受理され、医師らが刑事告発の対象となる、起訴されるという可能性に関しては、あまりないと感じているところはありましたが、千が一か万が一か、そういうことが起こったら、彼らにとってそれは生きていくうえで大きな痛手になり、彼らの家族にとっても大変なことになっただろうと思います。その辺のことを私はほとんど考えませんでした。多分ヒロが言いたかったことはそうしたことに関わる事柄だろうと思います。また刑罰制度自体が、他者に苦痛を与えて、その苦痛や恐怖により、犯罪を抑制するという人間不信に根ざした制度であり、それを利用することは、共に生きるという立場からは考えられないとか言うこともあると思います。私はそういう点について深くは考えませんでした。今の私自身は人を罰したいとか、苦痛を味あわせたいという欲求は持っていません。ただ現在の刑罰制度も利用の仕方によっては、罪を犯した人がその罪に気づいたりするきっかけ作りの手段にはなるきもし、また情報をさまざまな人に伝えて、そこにある問題を考えてもらう機会にすることも出来るのではと考えているところもあります。 もう夜もふけて12時過ぎたので、つづきはまたの機会に書くことにします。
2008.01.27
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愛するヒロヘ こんばんは、ヒロ。 手紙への返事を書きかけて、中断して、もう10日間ほどになるだろうか、やっと核時間が作れそうなので、書いてみることにしました。 ヒロが手紙の中で 「形を変えた同じことの繰り返しという印象」などといっている点、単に兄のことだけでなく私のあり様に関しても感じているようにも思うけど、とりあえず兄のあり方とそれへの私のかかわり方について書いてみます。 兄に関しては、病院との対立的な関わりように関しては、1990年代の美濃加茂病院での主治医とのかかわり、200年前後の、郡上の慈恵中央病院の主治医とのかかわり、そして今度の岐阜病院での病院側とのかかわりの中にも、繰り返し同じような問題が現われているようです。美濃加茂病院でのことは今は私はあまり覚えていませんが、兄の言い方で行くと、主治医が兄の強烈な攻撃性みたいなものにさじを投げて、病院を追放・治療拒否にいたったし、同じ事が慈恵病院でも起こっています。そして、岐阜病院でも同じ形になっています。 慈恵病院の看護士が電話で妹に言ったとかいう、お兄さんは何でも自分で取り仕切ろうとするから、本当に大変です、という言葉が、その辺のことを的確に表現した言葉だと思います。 そのことは私が出所してここに帰ってきて3年ほどした、2006年の6月前後、そう状態に入りかけてここに帰ってきて、その兄と生活する中で私も体験したことです。私が野の花社の内部、庭、玄関などを私の好みでまとめていたことを、まったく間違っているとして、ほとんどを自分の好みに作り変えてしまいました。私の意見を聞くなどということはなかったし、口を挟めば強圧的な姿勢で怒鳴りつけるだけだし、およそ相互的な会話が成立しませんでした。俺は天才的な能力があり、すべてはうまく行っている、金も入ってくるお前は馬鹿だかだからそれが分からん、みたいな決め付け方をして。生活保護を受けていて、すこしの金しかないのに、毎日のように隣の町に飲みに行き、金を払わずに、しかもタクシイで無賃乗車で帰ってきたり、詐欺的な手法で金を得ようと立ち回ったり、大変でした。それでどうしようもなくなり、警察の手も借りて、彼を岐阜病院に医療保護入院の形で強制的に入院させたのです。 今回の岐阜病院との関係でも、同質の問題があったと思います。ただ、前回と比べると、時々強烈な支配性のようなものを見せながらも、まったく私とのコミニケーションが途絶えてしまうということはなく、私が強く忠告したり、考え直してくれといったりしたことの関して、その場ではないにしろ受け入れて自分の態度を変えてくれたことがかなりありました。ほんの少しづつかもしれませんが、兄も自分の態度、あり様を変えてきていると思います。そういうことは大切にしたいです。 それからヒロの言う兄は自分の生い立ちなどを文章化して見つめ直したことがあるだろうか、そうする必要があるなどということに関しては、それが出来たら良いと思います。そしてそうするように、1990年代の始めころから、機会があるごとに私は兄に勧めてきました。ほんの時たま何か心に触れる手紙のやり取りが出来るときがあり、時には兄が自分のあり様に疑問を感じる旨の返事をくれたりすることもありました。 また兄はときどき思い立ったように、精神病院のあり様を告発する本を書きたいというので、その内容を本当に豊かで深いもの、また読者が心を動かされるものにするためにも、自分がなぜ精神障害者になったのか、幼児期からの生い立ちの過程などを詳しくかいてみるよう勧めたことも何度かありました。今回の岐阜病院とのかかわりの中でも、そう勧めました。 勧め方のまずさや、時期的な適切さなどのこともあるのか、兎も角兄はそういうことに取り組む姿勢を見せたことはありません。 ヒロがそうしたらいい、そうする必要があるということと、人がそういう気になることの間には深い溝があります。本当にそのような気持ちになる人は、なかなかいない気がします。可能性としては誰にもあることですが。ちなみに内省的な姿勢もある妹にも、何度か薦めていますが今にいたるまでそうしようとはしていません。最も今晩、新聞を見ていて、自分史を書いてみるって良いことらしいねー、などといってはいましたが。 こういう状況に中で、兄の支配性とか、生活力のなさ、などについて少しづつ話し合いを持ちながらも、兄の病院に対する批判には共感的なかかわりをして、兄との信頼関係を壊さないようにしてきた所もあります。兄の支配性、攻撃性に対する批判は持ちつつも、彼の生活を支えたり、病院に対する怒りは共有したり。兄の浪費癖がどんなに私に困難をもたらしているかについても、私にとっては切実なことですから、強く言いました。私の労働の大変さを知って貰うためにも、兄と共に山の中に榊をとりに行ったこともあります。 リチウムとかバナジウムとかタウリンとかのことは、今すぐ兄が文章化して自分を見つめるというようなことに関心がないところで、現状を兄にとってより良くすることの出来るかもしれないひとつのこことひとつとして、関心を持ち、提案しているだけです。一番大切なことは、兄が自分を見つめることだとしても、今そのことに関心のない兄にそのことを強くいう気もしません。サプリメントや、生化学的な関心は、兄の精神的・全体的な回復に関わる、ある1部分でしかなく、それだけに興味を持っているわけでもありません。 兄が病院側を告訴したこと、結局、握りつぶされたような形になっています。このことに関してヒロがどう考えているのか少し分かりませんが、告訴という形を取ることが敵対的な,対立的な方法であり、共に生きる関係を破壊してゆくものだということでしょうか。 こうした点については、私はまだ良くわかりません。こうした方法を方便として取りつつも、関係の改善に向かうことは出来るのではないかと思うこともあります。 兄に関わることはとりあえずこれで今回はやめます。 私の仕事などの忙しさは、確かに尋常ではない所があります。ただ今年から名古屋の市場に出荷し始め、岐阜の市場より3割ほどいいこと、1月半ばから、名古屋の市場の人の勧めもあって、夕方出荷するようになったので、朝早く起きなければならないという、変則的なスケジュールを組まなくて良くなったことなど、状況は少しづつ改善されてきています。だんだん楽になっていくという予感はあるので、気楽にしてください。兎も角こkまで伸びてきたことを喜んでいます。 ヒロのほう、相変わらずじみちな勉強家ですね、ニコニコ。高校卒-とか試験、そんなのヒロは受けなくても良いのではと思うところもあるけど、ヒロはヒロでなにか計画、展望していることもあり、それで必要なのかなと思ったりもします。 山はここ2日ほど、ひどく寒いです。幸い雪はなく、仕事はしやすいけど。榊の枝を150本ほど束ねて、谷底から林道まで背負い上げるのですが、その間は汗を書きます。しかし、林道にとめた車の近くで、午後3時頃から榊の枝の整理をし始めると、汗が冷えてくることもあるけど、頬にあたる風が冷たく、冷え冷えとしてきます。車のエンジンをかけて、車の中を温かくしておいて、ときどきその中に入って、身体を温めながらやります。 宮城のそこは暖房はありますか。なければ寒いでしょうね。 ヒロのことだから暖かくする術は知っているだろうけど。 私は冷え性の方だから、熊本では、寝るとき布団の中に横になった形で、身体を動かすことなく、筋肉を緊張させた地緩めたりして自家発電して、身体を温めてから寝ました。 では今日はこれで。 デバム-サブロウ 2008・1/26夜
2008.01.26
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愛するヒロヘ こんばんは、ヒロ。 手紙への返事を書きかけて、中断して、もう10日間ほどになるだろうか、やっと核時間が作れそうなので、書いてみることにしました。 ヒロが手紙の中で 「形を変えた同じことの繰り返しという印象」などといっている点、単に兄のことだけでなく私のあり様に関しても感じているようにも思うけど、とりあえず兄のあり方とそれへの私のかかわり方について書いてみます。 兄に関しては、病院との対立的な関わりように関しては、1990年代の美濃加茂病院での主治医とのかかわり、200年前後の、郡上の慈恵中央病院の主治医とのかかわり、そして今度の岐阜病院での病院側とのかかわりの中にも、繰り返し同じような問題が現われているようです。美濃加茂病院でのことは今は私はあまり覚えていませんが、兄の言い方で行くと、主治医が兄の強烈な攻撃性みたいなものにさじを投げて、病院を追放・治療拒否にいたったし、同じ事が慈恵病院でも起こっています。そして、岐阜病院でも同じ形になっています。 慈恵病院の看護士が電話で妹に言ったとかいう、お兄さんは何でも自分で取り仕切ろうとするから、本当に大変です、という言葉が、その辺のことを的確に表現した言葉だと思います。 そのことは私が出所してここに帰ってきて3年ほどした、2006年の6月前後、そう状態に入りかけてここに帰ってきて、その兄と生活する中で私も体験したことです。私が野の花社の内部、庭、玄関などを私の好みでまとめていたことを、まったく間違っているとして、ほとんどを自分の好みに作り変えてしまいました。私の意見を聞くなどということはなかったし、口を挟めば強圧的な姿勢で怒鳴りつけるだけだし、およそ相互的な会話が成立しませんでした。俺は天才的な能力があり、すべてはうまく行っている、金も入ってくるお前は馬鹿だかだからそれが分からん、みたいな決め付け方をして。生活保護を受けていて、すこしの金しかないのに、毎日のように隣の町に飲みに行き、金を払わずに、しかもタクシイで無賃乗車で帰ってきたり、詐欺的な手法で金を得ようと立ち回ったり、大変でした。それでどうしようもなくなり、警察の手も借りて、彼を岐阜病院に医療保護入院の形で強制的に入院させたのです。 今回の岐阜病院との関係でも、同質の問題があったと思います。ただ、前回と比べると、時々強烈な支配性のようなものを見せながらも、まったく私とのコミニケーションが途絶えてしまうということはなく、私が強く忠告したり、考え直してくれといったりしたことの関して、その場ではないにしろ受け入れて自分の態度を変えてくれたことがかなりありました。ほんの少しづつかもしれませんが、兄も自分の態度、あり様を変えてきていると思います。そういうことは大切にしたいです。 それからヒロの言う兄は自分の生い立ちなどを文章化して見つめ直したことがあるだろうか、そうする必要があるなどということに関しては、それが出来たら良いと思います。そしてそうするように、1990年代の始めころから、機会があるごとに私は兄に勧めてきました。ほんの時たま何か心に触れる手紙のやり取りが出来るときがあり、時には兄が自分のあり様に疑問を感じる旨の返事をくれたりすることもありました。 また兄はときどき思い立ったように、精神病院のあり様を告発する本を書きたいというので、その内容を本当に豊かで深いもの、また読者が心を動かされるものにするためにも、自分がなぜ精神障害者になったのか、幼児期からの生い立ちの過程などを詳しくかいてみるよう勧めたことも何度かありました。今回の岐阜病院とのかかわりの中でも、そう勧めました。 勧め方のまずさや、時期的な適切さなどのこともあるのか、兎も角兄はそういうことに取り組む姿勢を見せたことはありません。 ヒロがそうしたらいい、そうする必要があるということと、人がそういう気になることの間には深い溝があります。本当にそのような気持ちになる人は、なかなかいない気がします。可能性としては誰にもあることですが。ちなみに内省的な姿勢もある妹にも、何度か薦めていますが今にいたるまでそうしようとはしていません。最も今晩、新聞を見ていて、自分史を書いてみるって良いことらしいねー、などといってはいましたが。 こういう状況に中で、兄の支配性とか、生活力のなさ、などについて少しづつ話し合いを持ちながらも、兄の病院に対する批判には共感的なかかわりをして、兄との信頼関係を壊さないようにしてきた所もあります。兄の支配性、攻撃性に対する批判は持ちつつも、彼の生活を支えたり、病院に対する怒りは共有したり。兄の浪費癖がどんなに私に困難をもたらしているかについても、私にとっては切実なことですから、強く言いました。私の労働の大変さを知って貰うためにも、兄と共に山の中に榊をとりに行ったこともあります。 リチウムとかバナジウムとかタウリンとかのことは、今すぐ兄が文章化して自分を見つめるというようなことに関心がないところで、現状を兄にとってより良くすることの出来るかもしれないひとつのこことひとつとして、関心を持ち、提案しているだけです。一番大切なことは、兄が自分を見つめることだとしても、今そのことに関心のない兄にそのことを強くいう気もしません。サプリメントや、生化学的な関心は、兄の精神的・全体的な回復に関わる、ある1部分でしかなく、それだけに興味を持っているわけでもありません。 兄が病院側を告訴したこと、結局、握りつぶされたような形になっています。このことに関してヒロがどう考えているのか少し分かりませんが、告訴という形を取ることが敵対的な,対立的な方法であり、共に生きる関係を破壊してゆくものだということでしょうか。 こうした点については、私はまだ良くわかりません。こうした方法を方便として取りつつも、関係の改善に向かうことは出来るのではないかと思うこともあります。 兄に関わることはとりあえずこれで今回はやめます。 私の仕事などの忙しさは、確かに尋常ではない所があります。ただ今年から名古屋の市場に出荷し始め、岐阜の市場より3割ほどいいこと、1月半ばから、名古屋の市場の人の勧めもあって、夕方出荷するようになったので、朝早く起きなければならないという、変則的なスケジュールを組まなくて良くなったことなど、状況は少しづつ改善されてきています。だんだん楽になっていくという予感はあるので、気楽にしてください。兎も角こkまで伸びてきたことを喜んでいます。 ヒロのほう、相変わらずじみちな勉強家ですね、ニコニコ。高校卒-とか試験、そんなのヒロは受けなくても良いのではと思うところもあるけど、ヒロはヒロでなにか計画、展望していることもあり、それで必要なのかなと思ったりもします。 山はここ2日ほど、ひどく寒いです。幸い雪はなく、仕事はしやすいけど。榊の枝を150本ほど束ねて、谷底から林道まで背負い上げるのですが、その間は汗を書きます。しかし、林道にとめた車の近くで、午後3時頃から榊の枝の整理をし始めると、汗が冷えてくることもあるけど、頬にあたる風が冷たく、冷え冷えとしてきます。車のエンジンをかけて、車の中を温かくしておいて、ときどきその中に入って、身体を温めながらやります。 宮城のそこは暖房はありますか。なければ寒いでしょうね。 ヒロのことだから暖かくする術は知っているだろうけど。 私は冷え性の方だから、熊本では、寝るとき布団の中に横になった形で、身体を動かすことなく、筋肉を緊張させた地緩めたりして自家発電して、身体を温めてから寝ました。 では今日はこれで。 デバム-サブロウ 2008・1/26夜
2008.01.26
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妹によると今朝早くエプロンが他の猫と喧嘩していたらしい。体が少し小さいのと、気が小さいこともあって、これまで喧嘩などしたことがない感じだった。それが今朝は喧嘩していたらしい。それから今にいたるまでエプロンは帰ってこない。喧嘩で傷ついて、どこか物陰に息を潜ませ、回復を待っているのだろうか。それならいいが少し心配だ。
2008.01.23
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1月の4日ごろから携帯の方に返信用のメールが来なくなり、楽しみにしていた写メールが送れなくなっていた。何度か楽天のほうに問い合わせ、指示どうりに試してみたりしたがだめだった。とうとう楽天の方で調べてくれることになり、今日必要事項を書いてメールを出した。多分これで明日頃からまた携帯から日記を書き込めるようになるだろう。
2008.01.23
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昨日はやはり七宗の国有林に行き、榊の枝を150本ほど取り、夕方6時頃までかかったけど、山の中で整理を終えて帰ってきた。あまり人が入っていない谷で、榊はかなりある。もう少しの間はここで切れそうだ。1月に入ってからこの付近で榊を取り始め、これまでずーといいものを出せていた。ちょうど名古屋の市場に出し始めるタイミングとあって、何とか1月もかなり稼ぐことが出来た。しかし今日は雨。朝早くから降り始めていた。強い雨ではないけど、気温が低いから、山に仕事に行く気にはなれない。ここの所少しぐらいの雨でも山に入っていたけれど、今日は止めるかも。兄はずーと寝てばかりで、夕方になるとっ少しの間起きて、新聞など読んでいるけど、後は何もしない感じ。ほとんど着替えもしないし、風呂も入らない。アパート代や携帯代の支払いにも行かない。無気力状態が続いている。酒はほぼ完全にやめているし、サプリメントは私が出しておけばほぼ食べているけど、とくに回復の兆しはない。兄の寝ている部屋は元教会の広間の北側の隅で、暗くて寒い。やぐらコタツはあるものの。もっと明るいこじんまりした部屋で、ストーブでも焚けばすぐに暖かくなる所なら良いのだけど。そんな部屋を作るほどの金はないし。どうしたら良いのだろうという戸惑いもある。でもできることしか出来ない。私のベッドの布団の上で寝ていたフクスケ、私のセーターをかぶせてやっていたフクスケが、起き上がって伸びをしている。背中を丸め、足を伸ばして。あっ,今ベッドから飛び降りた。そう私は今はベッドの上で寝ている。友人の家の納屋に放置されていた簡易ベッドを貰ったからだ。
2008.01.23
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昨日は午後2時頃までに市場に出す荷物をまとめ、3時頃から名古屋に向かい、5時過ぎに市場に着く。前回出荷したとき、ヤマエではネットで花屋から注文を受けることもあり、前日午後2時頃までに出荷物のファクスをいれ、午後7時頃までに市場に品物を届けてくれるといい、その方が良い値で売れる可能性がある、と市場の人から言われたので、そのような方法を取ってみることにしたのだ。幸い、日曜日だったので、国道41号線はスムーズに走れた。こういうやり方の方が、朝早く起きる必要がないので、その分楽な気もする。当分こういうやり方をしてみるつもり。ただ今回に関しては、早くもって行ったことが特に値段に反映した感じはない。今日はそんなこともあって市場に行かず、朝九時杉に山に向かう。130本ほどの榊の枝を切り、谷から背負い上げて3時頃。食事をしたのち山で整理をして、終わったのが5時。割といいペースで仕事が出来た。すこしの間はこの調子で行けそう。
2008.01.21
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昨日は兄の診察日で、兄を下呂の谷敷病院に連れて行くつもりだった。名古屋の市場から急いで帰ってきて、途中ジョイフルによって朝食をとり、そこで1時間ほど仮眠もしたが、兄に病院に行こうかと呼びかけると、どうも行く気がしないから今日はやめるとのこと。で妹と共に薬だけでもとりに行くということで、2人で出かけた。病院に着き、主治医と面接して、兄の酒の量などが多いこと、私の経済的な困難もあり、1日2合だけということにしているということもはなす。主治医は血糖値が174もあるし、アルコール依存症気味だから、酒は飲ませませないようにしてください。依存症の人は呑み出したらブレーキが効かず、どれだけでも飲むし、そのことで気力も減退するということもあるとかも言う。モンジュから過度のアルコールの摂取がビタミンB群の過剰な消費を起こし症状を強化するみたいなKとも言われていたことも思い出し、そのように兄に勧めてみることにする。病院から帰り道、妹が行きたがっていた92歳高の老婦の所により、夕方野の花社に帰り、夕食時になって、兄にその旨提案する。一応ワンカップ1個だけは買っていったが。その際、この間のことからしても、酒を飲んでいると兄の生活が成り立たなくなるのではないか、とも言う。兄は、そう私が言う前に、私たちが病院へ薬をとりに行ったことも含めて、こんなに世話になるとは思わなかったなー、みたいにも言っていた。また数日前、酒を3日ぐらいもたせてくれと買っていった、私が経済的に苦しいからということも言ってだが、それを夕食時と、次の日のうちに飲んでしまったことに関し、自分で俺も極道だなーと、反省的に言っていたこともあった。そんなこともあってか、昨日の夕食時の断酒の提案は異議をさしはさむこともなくうんそうだなという感じで受け入れてくれた。ほっとした。
2008.01.19
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以下は続1に続く、飯田さんからの手紙です。 それと気になったことは、ブログの字の変換が誤字のままになっていること。デバン自身が疲れすぎているんじゃないかな? お兄さんのことの他に妹さんのことと、野の花社のこととか多事多難の状況のようだし。アビさんの言ってくれている本の話、ありがたいんだけど経済的にぼくからもいくらか出すということが出来なくて心苦しい。作業賞与金の中からいくらかを送金できればいいのだけど許可がとれない状況なので。御免!! ぼくの方、11月17日、18日に高校卒業程度学力認定試験の科学A、生物、英語、数学、の4科目を受験し、数学は落ちたけど他は合格しました。今年は他の残り、倫理、政治経済、国語、日本史A、数学の6科目を受験するつもり。以前の大検にかわるものだけど、ボケを感じつつ頑張っています。3年間かけて学ぶものを独学で2年間でクリアーしたいというのは少し無理かも知れないけど、生きていられる時間が年々少なくなっていくという切実な状況があるのでなんとかね。右目が白内障になってしまったし・・ まあそんなわけで2008年はかなり充実した日々になりそう。英語が合格したのでとても自信がつきました。半年くらいしか勉強する時間がなかったからね。 今年は例年になく暖かい日々が続いているけどデバンの方は雪とかで山に入るのが大丈夫でしょうか?体と心の無理を重ねてダウンしないよう十分気をつけて下さい!! 短い文でペンを置かせても貰うけど、御免ね。 6.Jan,2008
2008.01.18
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以下は一昨日の飯田さんからの手紙の続きです。 リチウムやバナジウムとかタウリンとか生化学的な問題もあるだろうけど、他に行動原理にどんな人間観を取り込んでいるかというお兄さん自身の、いわゆる思想の問題もお兄さん自身がとらえなおさない限り、この告訴以外に、関わる人に抑圧を及ぼしてしまうかもしれないと心配です。 病者であることは差別を受ける原因にもなるけど、反面病気に逃げ込んだり、そこに居直ったり振り回したりする場合も出てきますからね。それを自ら克服しようとしない限り、我が儘的支配性で自分自身が苦しむことになると思うんです。つまり自分では正しい、当然なこととして要求することが、誤っていることに気付かない時、その要求は、支払いを求めて断られたときのようにトラブルのもととなると思います。 お兄さん自身が自分の手で生育暦を書いてみたことはあるのだろうか?自分自身がじっくり聞き手、読み手になって受け止めてみることも大切だと思うのだけど。 デバム-サブの私よりーさらに続きますが、私はここで風呂に入りますので中断します。 今日も名古屋の市場に行きましたが、榊はやはりかなり良い値で売れました。ただそこは月末締め切りの良くつき20日ぐらいの支払いのため、2月20日頃まで収入がありません。それまでかなり経済的に苦しくなりそうです。
2008.01.18
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私が昨年の10月16日付で出した手紙に対して、少し前に以下のような返事がきた。彼に手紙を書く暇がない感じだったので、昨年の8月頃からだったか、10月半ばまでにこのブログに書いた日記の重要なところをコピーして、メモ帳で編集してまとめて、プリントアウトして送ったのだ。短い文とともに。「 親愛なるデバムへ 2008年がスタート。明けましておめでとうと書くにはややためらいが生じるけどあえて願望も込めて年賀状にはそう書いたりしていた。 長い間ペンを取れなく御免! 10月16日付のお便りと楽天のホームページに書き込んだブログのコピーを読みました。うーん、重い重い。 告訴という形をとっ手しまった以上、ぼくなどが是非を述べても仕方のないことだけど、形を変えた同じことの繰り返しという印象を受けるのは何故なのだろう?ぼくの方の現在の考え方のせいなのかなァとも思う。 デバンのお兄さんのこととは無関係に20年以上、「関係性の障害」という事をライフワークのようにおとり組んでいて、その中で争い争いが生じる原因の多くに支配をめぐって争うという事と、その実際の姿が他者への攻撃性が、正義や正当性の着ぐるみをつけていることにより真の姿が隠されているということがあって、そのために関係性が破壊されてしまうということに気づいた。で、その攻撃って「権力」サイドのものは悪とされ、抑圧されている側の攻撃は「正当」とされてきているでしょう。造反有理とか革命の中で。 ライヒは階級対立というより、社会や文化の世代を通じての躾の形で抑圧が伝承される-親から子への家庭の躾やモラルに含まれる人間性に対する抑圧ーそういう事が人間を歪ませ性格を形成すると主張してたと思うけど、ぼくらは強者の支配原理を問題にするだけでなくその補完として存在してしまう弱者の持つ支配原理も否定して、支配-被支配の人間関係ではなく「共に生きる」という強制の原理に基ずく生き方を目指していたはずだと思う。1昨年の、つまり、18年7月31日付の速達でりりあんの集会のホームページのコピー3頁から4頁にかけてぼくらの手紙のやり取りに関わっているけど、そのことについてそれを克服しようという方向性は明白だよね。 デバンのお兄さんが八百屋さんで店の人を怖がらせつつ万引きのようなことをしようとしたりして」いた話などから「病者」であることを逆手に取った支配性があるのかなァと思っていました。病院のやり方について改善闘争みたいな事、それから暴力を振るうみたいな形になって云々と2000年頃のお兄さんの状況を伝えてくれているけど、うーんぼくはね、今回の告訴がお兄さんにとってマイナスにならなければいいがなァと気になっています。 ---まだ続きがありますが、私、デバムー三郎が疲れてきたので、 今日はここでやめます。
2008.01.16
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私は他の人と話し合うことが好きである。そしてお互いの人生における変容、変化の過程、お決まりのような過ち多い過程について、語り合い、理解を共有することが好きである。といっても完全な相互理解などということはありえず、常に、自分なりの理解しかお互いができないことも、ときどき、痛く自覚させられる。かって、出所後の私と親しくしてくれた女の人に対して、その人が私の関わりようから深く傷つけられた旨伝えてきても、その人が感じているありのままの苦痛を感じ取ろうとしなかった。多分そのことは私の妹とのかかわりの中でも重大な問題となっている部分と同じ根っこを持っているだろう。昨年くれに妹が私に1冊の本をプレゼントしてくれた。高森信子だったと思うが、『あなたの力が家族を変える』というようなタイトルの本だ。妹は私に対してよくこんなことをいう。妹が何か言うとすぐそれに対して私の意見をいい、妹の考えや感じていることを批判する、それってとても苦しくなる、いったんはそう感じているんだ、とか受け止めて欲しい、そんなことだ。私はそれをそうできたら良いと思いつつも、日常生活の中ではそうもいっておられないとも考え、あまりそのための努力をしてこなかった。妹がくれた本には、妹が私に繰り返し求めているような、そういうあり方をすれば家族の中で苦しんでいる人が、その苦しみから回復してゆくというようなことが深く書かれている。読んでみて自分にできる範囲でそうした点について、自分の態度を修正したいと思いつつもなかなかできない。多分私の中で、あの罪を犯した日々、刑務所生活の中で、苦痛に感じ、不当と思ったことに関しては、そのつどそれに対して何らかの形で、自分の意見をいうことが大切だと感じてきて、そうしてきたことがあり、かつ今もそういう態度に囚われているところもある気がする。また観念的にはありのままの妹を受け入れる必要性を感じつつ、私流のありのままの生き方と違う彼女のそれを、それゆえに彼女が苦しむことになるというふうに、批判的に考えてしまってすぐそんなことを口にして、ありのままの妹を批判してしまうことも多々ある。ねじれという言葉はあまり良い言葉ではないけど、人は他者のありようを共感的に理解する努力をしつつ、批判的な意見、考えも併せ持つということは当然ある。しかし本当に適切な形でそうしたことを思い、表明するのは難しい。難しいのは自分がなにかに囚われているからだ。昨日ある女友達に会い、そこで相互理解の大切さなどについて私は語ったのだが、今日になって電話で彼女から、そういいつつ私が彼女の大切に感じ、考えていることに対しては無関心だみたいにいわれた。言われればまったくその通りなのだ。言葉としてそういうことの心地よさの中にはいても、実体としては相手を理解しようとはしていなかった私。自分のいい加減さを自覚することは、自分の目を少しだけであれ開かせてくれる体験で、その分だけ自分が風通しが良くなった気がする。今日も雨がまだのこる中、七宗の国有林の中で、榊やチラを切った。雨がやむと森の中、林の中に強い北風が吹いてきて、森は寒々としたゴウゴウとした音を立てた。
2008.01.12
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今日も朝4時ころに野の花社を出て、5時半頃、名古屋のヤマエの市場についた。榊の枝を240本、芯を7本 チラ50本入りを8束、桐を17本。それがセリにかかり、手数料など引かれた売上の合計が、5万円。かなり良い値がついていると思う。高した良い値は1月後半にもなれば、かなり下がるだろうとはいえ、兎も角今の時点では私にはとてもありがたい。まだ名古屋の市場に出すペースがつかめていない感じがするが、少しづついろいろなことが見えてきて、慣れてくるだろう。今年は1,2月、山の仕事が思わしくなかったら、他の仕事もやることを考えていたが、何とかやましごと1本で行けそうな気がしてきている。昨年試みた温室で新芽を早く出させる仕事は、あまり儲からなかったこともあり、やる気があまり出てこないけど、やはり少しはやってみたい。今日は妹が、少し機嫌が良かった。そうすると私も楽な気持ちになる。
2008.01.11
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昨日名古屋の生花市場に出した榊が、かなり良い値で売れた。初めて市場に出すと、最初から言い値はつかず、とりあえず見てみるかという感じで、ちょっと低い値で買われたりするかも知れないと思ってもいた。しかし少なくとも岐阜の市場より30パーセントは良い値がついた。私の荷を解いてみて、買っていった人がどのように評価するかで、次に出すものの値は少し下がる可能性もあるけど、私がある程度いいものを出していけば、そう大幅に下がることもなさそうだ。兎も角今日、昨日のセリの結果を知らせるファクスが届き、良い値で売れていることを知りホットした。少し岐阜より遠いからガソリン代はその分高くなるが、それを補うだけの値はついている。やっていけるぞという、嬉しい気持ち。この1月から2月をどう乗り切るか、考えあぐねるところもあったから、安心するとともに、やる気が出てくる。今日は夕食のときにそのことを兄妹にも話した。二人とも喜んでくれた。
2008.01.08
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名古屋の生花市場に、榊など山で採ってきたものを出すことは、これまで名古屋が遠い感じがしてやらないできた。しかし、岐阜と名古屋では市場の規模が、断然名古屋の方が大きいはずで、そのぶん山で採って来た物の需要も高いはずだと考え、またこの地で同じような仕事をしている人たちの、岐阜より名古屋に出した方が良いという意見も聞き、今年から名古屋の市場に出そうという気持ちになった。山取りの物の需要が低くなるこの1月から3月はじめにかけての時期を乗り切るためにも、そうする必要を感じたこともあった。今日は朝2時40分頃におき、3時頃野の花社を出た。1時間半ぐらいでつくはずとも聞いていたが、はじめて行くところであり、夜が明ける前につくこともあり、時間は少し早めにした方が良いと考えたのだ。ほぼ1時間半で市場の近くに辿り着き、紹介されていたヤマエという問屋が開設している市場に付いたのは、5時近かったかもしれない。名古屋の生花市場は、岐阜の市場とは大きく違い、岐阜の市場の3分の1位の規模の市場がたくさんある感じのところだった。そのほかに相対市場といって、私の様な個人がとってきたものをたたみ1,2畳の板の上に並べて、直接花屋さんなどと交渉して売るところもあった。最もそうした場を持てる人は限られていて、私などは金もないしそういうことは出来ない感じだった。ともあれヤマエの人に話し掛けて、私をその市場に登録し、榊を180本ほど、10本づつ束にしたものを置いてきた。セリにかかる形になり、明日その結果が分かる。その他名古屋の知り合いの切り子さんにも何とか連絡をとり、ヤマエだけで鳴くほかの問屋にも物を出す道を作ることも、一応できるようにする試みもした。名古屋での切り子としての活動、かかわりの初めての日。少し新しい気分になった。岐阜の市場の人、切り子さんたち、花屋さんたちには本当に世話になった。この4年ほどの私の生活を支え、切り子としての能力を伸ばしてくれた人たち。本当に感謝している。そこで力を付けさせて貰って、いよいよ、私の生活上の困難を乗り切るためもあり、名古屋の市場、生花市場と関わるところまでこぎつけたのだ。またここで1から始めることもあるだろう。ともあれ、もうワンステップ飛躍するためにも、私はこうしたことを選択した。60歳になるこの年、これが私の人生の転換期のもうひとつのステップである。
2008.01.07
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もちろんそうしたい人はそうするのですし、そのことを邪魔する気などありませんが、まがいなりにも戦後の教育を受け、物事をそれなりに科学的に、あるいは多面的に、ありいは自分たちなりに考えてその是非、善悪、害無害などに関して考えることを学んできたはずでもある私たちの世代が、60になるからといってその厄を落とすために、神主のお払いを受けることを集団でするなどということ、そのようなことを企画し受け入れ従うということが、私には納得できません。そしてこのことは単に私たちの同級生だけでなく、聞くところに依れば私の兄の年代の人も同様なことを行ったそうであり、多分その後もあまり異議を挟まれることなく、その下の年代の人々にも行われていることなのではないかと思います。私は知的に優れているからとか、頭が良いからそんなことを考えるということではなく、誰でもが少しまじめに考えればこうしたことの無意味さは、すぐ理解できるはずのことだと思いいます。多分誰も神主にお払いを受けることによって、なにか自分に降りかかる厄介ごとから免れることができるとは、考えても信じてもいないと思います。ただなんとなくそうすることが習慣だから、やっておこうというぐらいのことなのではないでしょうか。私がそうしたことに異議をさしはさむのは、簡単に言えば、そういう態度の積み重ねの中から、私自身は自分の仲間や、友人の考え方に異議をさしはさむことなく、ずるずるとあのような犯罪にのめりこんでいってしまったという、自分の罪に対する反省があるからです。そしてこの地域の人たちが、同級生たちが同窓会でそうしたことに異議をさしはさむことなく、厄払いを行うようなあり方が、日本がアメリカの言うがままに戦争に参加したり、これから日本独自の仕方で戦争に参加していったりすることに、ずるずると加担することにもつながっていく態度だと思うからです。勝手の日本の大東亜戦争、太平洋戦争の愚かしさもまた、そういう積み重ねの上に起こったとも言えるのではないでしょうか。 そういう意味でも、私の同級生たちの企画している同窓会における、神主のお払いを受けるというようなやり方に強く反対し、意義を申し述べて起きます。60歳というのは老年の始まりを自覚するとか、これまでやっていた仕事をやめるとか、勤めていた会社をやめるとか、私たち自身の転換期でもあるだろう。そうしたことから直面する困難に対しては、安易に神にお願いするとか、神主にお願いするとか、ほとけに頼るとかいうのではなく、物事を自分なりに自分のこれまでの経験・体験などにてらしあわせて考え、判断し、よく友人と話し合ってその意見に耳を傾けたりもし、お互いの自覚、注意深さを高めるといったことで対処することを提案したい。なんだかいらぬおせっかいをしてしまった気もします。
2008.01.04
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ちょと還暦について調べているうち、私の単純な勘違いに気づいたのでその旨明らかにしておきます。引用は、ホームページに以下の以下のように書いてあったところからのものです。還暦出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』還暦(かんれき)とは、干支(十干十二支)が一巡し、起算点となった年の干支にふたたび戻ること。従って、満60歳となる年の1月1日に還暦を迎える事になる。以後、その年は「今年還暦を迎えた」の様に表現する。満60歳の誕生日とは無関係だが、還暦祝いは満60歳の誕生日を中心に行われることが多い。なお、法律では満年齢は誕生日の前日にプラス1されるので、1月1日生まれの人の満60歳の誕生日は還暦の前年の12月31日となる。これではおかしいので、世間一般常識の満年齢の60歳となる年と考えれば、前記の説明で問題無い事になる。また、数え年については昭和30年過ぎまで「数え(数え年)で何歳」といった使われ方がされていた。元々数え年の元日は当然太陰暦の1月1日であるが、当時既に太陽暦の元日で数え年で「1つ年を取る」事は完全に定着していたので、現在では還暦や古稀について太陰暦の事を意識する必要までは無いと言える。通常は人間の年齢について言い、数え年六十一歳(満60歳)を指す。本卦還り(ほんけがえり)ともいう。ま、120周年を大還暦(だいかんれき)、30周年を半還暦(はんかんれき)という。[編集] 日本での還暦日本における還暦の祝いでは、本人に赤色の衣服(頭巾やちゃんちゃんこなど)を贈る。かつては魔除けの意味で産着に赤色が使われていたため、再び生まれた時に帰るという意味でこの習慣がある。また、還暦を機に現役を引退する例も多かった。企業においても、満60歳を定年とする所が多い。人間の成長などに関する、覚者らのいう7年周期説とは何も関係なく、ただ12支に関わる俗説から来ているようだ。
2008.01.04
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2008.01.03
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山で初仕事、歩き回ったが、あまり榊の枝は採れなかった。
2008.01.03
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昨日ふと思い付いて買ってきた湯タンポを足元に置いて、足を載せてパソコンに向かっている。実に暖かい。
2008.01.03
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夜になって冬の冷たい雨が降っている。次第に雪になるのかもしれない。今日は昼近くに金山のコメリに行き、キャッツフードと湯たんぽを買ったのと、夕方近くに新ちゃんと神渕神社に行ったぐらいで、何をすることもなくゆっくり1日を過ごした。新ちゃんは明日一応ここを離れて、天理市に行く。新年のひのきしん隊みたいなのに参加するためだ。彼なりに天理教の本部のあり方を批判する目も持っているけれど、なぜかそんなものに参加する。ひのきしんとは、いわばこの場合本部の仕事を奉仕的にになう仕事である。その是非について何度か話し合いもしたけど、前からの約束でもあるらしく、行くという。明日は兄を下呂の谷敷病院に車で連れて行く。ほぼ1ヶ月間野の花社で寝て過ごしている兄だけど、食事に起きてくるときはそう暗い顔をしていたりせず、不思議に明るかったりする。妹は相変わらず悲嘆にくれていたりもするけど、新ちゃんを相手に大喧嘩したり、仲直りしたり、感情の起伏の激しい日々を送っている。でも少しづつなにかが軽くなってきている気もする。ここの生活がどうなってゆくのか明らかな見通しは立たないし、まだそう急に楽な状況は作れないだろうけど、私自身の気持ちはここ数年と比べると、かなり楽な感じになっている。冬の寒さ隙間風の入る古い家の中で暮らす、昔風の暗い家の中で暮らす、定かでない日々を暮らす、孤高なフクスケと、甘えん坊のエプロンとともに、冬枯れの庭の木々や草木、そこに訪れる冬の小鳥たち、あちこちで鳴くカラスたち、そんなものたちとともに、淡々と暮す。ここが俺の住処。ここが俺の住むところ。ここが俺の仕事場。ここが俺の学びの場。冬の雨の音が裏庭でする。私の横で送風式のストーブの音がする。さあ夕食の時間だ。
2008.01.03
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2008.01.03
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昨日同級生の還暦の祝い方などに関する私の意見を述べたこともあり、そうしたことについて考えるための資料となるとも思われる本を、紹介しておきます。著者の経歴などからして、かなり信頼できる本だと思いますが、私自身は読んでいないので、どこまでいいものかは分かりません。しかし自分なりに読んでいけば学ぶところ、参考になるところは、必ずあるとはいえると思います。いかは、紀伊国屋のサイトからの引用です。 (キノウニキケバアシタガミエル )昨日に聞けば明日が見える ISBN:9784775200100 (4775200100)351p 19cm(B6)ほんの木 (2003-08-08出版)・大村 祐子【著】[B6 判] NDC分類:370.4 販売価:\2,310(税込) (本体価:\2,200)わたしは、なぜ生まれたの?人生はやり直せるの?ルドルフ・シュタイナーの「七年周期説」をひもとく。 第1部 人生の七年周期(人生の七年周期とは;人と環境に育まれる(第1期~第3期)0歳から21歳までわたしは世界をどのように感じるか(第4期)21歳から28歳まで人生の危機に向き合う(第5期)28歳から35歳まで精神的な生き方へ向かって(第6期)35歳から42歳まで ほか)第2部 バイオグラフィーのワークショップ(「0歳から7歳まで」わたしは誰?わたしが生まれた時;「7歳から14歳まで」世界にひとりしかいないわたし;「14歳から21歳まで」理想を探しつづけた、十代のわたし;「21歳から28歳まで」理想と現実の狭間で;「28歳から35歳まで」人生最大の危機とは? ほか) 大村祐子[オオムラユウコ]1945年生まれ。東京で育つ。1987年よりサクラメントのR・シュタイナー・カレッジ教員養成、ゲーテの自然科学、芸術コースで学ぶ。’90~’92年まで現地のシュタイナー学校で教え、’91年から日本人留学生のための「自然と芸術コース」をカレッジで開始。’96年より北海道伊達市で教え子らと共に、シュタイナー思想を実践する共同体『ひびきの村』を始める。’03年4月、『ひびきの村』ミカエル・カレッジを創設し、授業を5月からスタート。6月からは高等部を開始。代表を務める。また、各地で講演、ワークショップを行っている。ミカエル・カレッジ「自然と芸術と人智学を学ぶプログラム」「シュタイナー学校教員養成プログラム」「アクティヴ・ユース・プログラム」各教師 私としては、同窓会で伊勢神宮に行き、厄落としのためにお払いをしてもらうなどということよりも、この著者のような人を呼んで、還暦の意味などについて講演でもして貰う方がよほど意味があると思うのですが、どうでしょうか。遠いところにいく必要もないし、自分や家族に生き方、人生に関して深く参考になる何かを学ぶ機会になるのではないでしょうか。今からでも遅くはないと思うので、このプログを通して、そのように企画を変更することを考えてくるるよう呼びかけたいと思います。
2008.01.03
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中学の同級生の何人かもこのプログを訪問してくれていることもあり、私はこの場を借りて、私の同級生が企画している、私たちの還暦、60歳のお祝い、あるいは厄落としとかいうものを、神社や仏教に依拠して行うことに対する不参加を明らかにしておきたい。今年おこなわれるという神渕在住の同級生の同窓会、およびこの夏頃に企画されているらしい、全体の同窓会における、厄落としの名目などにおける、神社でのお払いを受けたり、お寺の坊さんの何かを受けたりすることに関し、私自身はそのような必要性をまったく感じないので、参加を見合わせることにした。60歳という年が、人生における何か重要な転換期であるらしいことは、多くの覚者、シュタイナーや和尚ラジニーシも語っていることで、そのようなことを自覚するための何らかの催しがなされること自体には意義を挟まない。しかしよく考えることもなく神渕神社の神官のお払いを受けたり、それとともにその日のうちに仏教の坊さんの何かを受けたりすることに関しては、むしろ60歳、還暦というものの重要な意味をないがしろにするような、安易なものを感じる。このようなことを語り合う場もなく、またそのために多くの努力をする気力も、時間もないので、このような場で私のそのような意見を明らかにしておきたい。私自身は多くの覚者のように、60歳という年齢の意義とかいうものを体感し自覚しているわけではない。ただおぼろげに今年を、私が60になるというこの年を、重要な転換点になるような気がしているだけである。ただ60歳まで生きてこられたこと、あまりのも多くの貴重な体験を与えてもらったこと、この年になるまでありとあらゆる存在に支えられ、助けて貰いつつ生かされてきたこと、たった今生かされていつことに、深く感謝している。そのような私の人生と今ここの生、そしてまたそれぞれ多くの違いはあるにしろ、同様な人生を生き今を生きている私の同級生の皆さんに対しても、その人生と今ここの生に対して、お祝いを述べたい。役を落とすなどということではなく、ここまで生かされてきたことに対する、感謝と祝意を述べたい。そのようなことを、神官や坊さんにゆだねる気持ちはまったく起こらない。一人一人がそのような事実を感じ取り、一人一人が、多くの人々とともに感じ取り、感謝しお祝いできるような場が作れたらとは思う。もちろん感謝のみではなく、ここにいたるまでの人生における苦しみや今現在直面している困難について語り合うことなどもしたい。まとまらないけどそんなことを思ったので、ちょっと日記の形で書いてみた。
2008.01.02
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