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久しぶりに夜早くから本を読んでいる。と言ってもサプリメント関係の本だが。こうした本を読んだあとに、すこし思想的な本なども、読み始めてみたい。すこしづつだけど。やっと静かな自分の時間が戻ってきているような、安らかな気持ちを感じている。この地方もこの冬1番の大雪で、物音一つしないような静寂に包まれていることもある。もう10センチは積もっているようだけど、降り止む気配はなく、明日の朝は2,3十センチは積もっているのではないだろうか。当分山の仕事にはいけそうもない。こんなとき榊の値段はぐんと上がるはずだけど、ストックもないし、取りに行くのも岐阜の市場に車で運ぶことも困難だ。当分はここにいて出来ることをやるしかない。 天地が与えてくれた休息のときとでも思い、すこしゆっくりしよう。 昨日は午後から名古屋の鶴舞公園の近くにある、ジスイズイットという、和尚の弟子たちがやっている店に行き、ノーマインド瞑想と、ミュージックセレブレイションのときを過ごす。久しぶりにジべりシュという無意味なことばを叫びつづけることも含んだ、瞑想もし、乗りのいい、感じのいい生の演奏にあわせて、踊りに踊った。ときどき自分の踊りをすごいだろう見てみろなどと言う自分の声を聞き、相変わらずの自分を笑いながら。 その場で20年ぶりくらいに、逮捕される前に知り合っていた2人の女の人にも出会い、親しく声をかけてくれたこともあり、何かとても懐かしくくつろいだときをすごした。終わり近くにすこしだけ早く帰ろうとする私に、それらの人を含めた数人の女の人太刀は一人一人、これも久しぶりのような親しいハグ、抱擁をしてくれして返し、何かすこしこころ満たされた気持ちになって帰ってきた。夜の11時ころ。そして12時頃寝て、今日は4時に起きて5時前に岐阜の花市場に出かけた。昼の12時過ぎに帰ってきて、ご飯を食べたあと4時間ほど寝て、すこしかたずけの仕事をしたりした後、夕食を食べ、そのあとはゆっくり過ごして、今ここにいる。
2005.01.31
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昨日はさすがに疲れが出て、夜8時過ぎから今朝7時近くまで眠りました。久しぶりです、こんな疲れを感じたのは。山の上がり下がりが、しんどくてならないし、野の花社に帰ってきても体の芯がかったるいし、これは寝るに限るという感じで、夕食済ませてすぐ眠りました。 朝はかなり疲れが取れている感じです。すこし動いてみないと分かりませんが。さあご飯を食べる用意をしようっと。 暗号強度を上げたためか、携帯からの私のメールに添付した写真が、ここに移せなくなっています。すこし残念ですが、何とか対処方法を見つけたいです。 夜です。やはりよく寝た甲斐があって、今日の山仕事は楽でした。しかし、今日は榊の枝があまり取れませんでした。この1月の間ずーと取っていた谷はもう取り終わった感じで、次は近くのほかの谷に入るつもりです。 ところでこのごろその谷にいくとちゅうで、よく猟師の人の小屋に立ち寄ります。すこし前は大きな猪を取ったばかりで、腹を断ち割られた猪が、その小屋の脇の流れのすこし深くなったところに沈められていました。肉を冷やすためにそうするとか言う話です。そのこやでこーひーを暖めて飲んだり、今日はカップのうどんを食べさせてもらいました。のんびりした彼らの仕事振りはうらやましいくらいです。すこし親しくなったので、榊の生えているところも教えてもらえるようになりました。 今日もその山に行く前に、妹とかなりしんどいやり取りをしてしまいました。朝彼女はとても調子よさそうでした。しかし何か話していて、私が必ずしもこの地に永くとどまると決めているわけではなく、2,3年しても自分の思うような方向で物事が始まらないなら、ほかのところに行くことも考える、そんなことを言ったトタン、とても彼女は不安そうになって苦しみ始めてしまいました。とても苦しそうでした。 以前にもそういうことがありました。なぜそんなことが苦しみの原因になるのか、これまではあまりよくわからなかったのですが、多分次のようなことがその原因の1つになっているのではないかと今は思います。 彼女は末っ子で、私より二つ年下です。で、私が中学を卒業して近くの美濃加茂詩の高校は要り、その町に下宿したとき、上の兄も東京の大学に行っていたことから、暗い家に取り残されました。それはつらい経験だったようです。又私が高校3年になったとき、妹も同じ高校に入学し、母も化粧品のセールスでよくその辺まできていたこともあり、父は山を売って小さな家をその町に造り、3人がそこで暮らせるようにしました。そこも私は高校卒業後4ヶ月ほどして出てゆき、妹はやはり母との関係とか私がいなくなったことからくる何かで苦しんだようです。それから私が事件を起こしたときも、それまでは何とか妹とも連絡できる状態にしていたのに、突然そのような形で彼女から離れ、しかも彼女はそのことから非常な苦しみを体験してきました。 私がここを離れる戸いうことは、どうも彼女のそうしたことからくる苦しみにつながるような、、なにか出来事として感じられるのではないかという気がするのです。私がここにいるということが、彼女がいつも帰ることのできる場を用意していることにもなり、私がいなくなればそういう場ではなくなってしまう、そのことが苦しいようです。たぶんです。私の推測が間違っているかもしれません。 夜10時頃からか雨が降り始めています。多分これは朝までには雪に代わるのだと思います。春までもう少し。昨日など森の中ではもうブヨが飛んでいました。
2005.01.29
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妹が半年振りに名古屋の友人の女の人に会いに行き、昨夜その人のところに私が電話したのだが、昨年の8月にあった頃と比べるなら、妹はとても元気になっているとのこと。ふっくらとしてきたし、血の気が射してきたし、30分ほど歩き回っても平気だった。まえはすぐつかれてしまって、休まないでは歩けなかったのに。また4時間ほど喫茶店で持続的に話し合ったけど、そういうこともできるようになっている。そういう点では前とは雲泥の差だ、。とか言っていた。 そん餡ことを聞きほっとしている。たしかに体調ということでは、ずいぶん元気になっているのだと私も思う。この半年でそんなふうになれたことを、喜びたい。ともすれば関係の困難さに目が行きがちな私に、彼女のそのことばは嬉しかった。まず喜ぼう。 それはそれとして私の身体も快調だ。昨日は朝4時に起き、4時半過ぎには岐阜の花市場に榊の枝などを出しに行き、8時過ぎには野の花社に帰り、朝ご飯を食べて、9時過ぎには山に仕事に行き、帰り道で役場の前で献血をしT400ccの血液を提供し、5時前に帰って夕食をした後、寒いなか外で8時頃まで榊の整理をした。8時半頃から11時半頃まで、妹のことで近くの女友達や、名古屋の女友達と話し合い、そん後帰ってきた妹とすこし話をし、12時半ころ寝た。京は5時過ぎに目が醒めてしまって、こうしてパソコンに向かってキーボードを叩いている。 自分でも驚くほど元気だ。もっともときどき疲れを感じたときは昼間であろうと寝てしまうような、健全な生活をしている。さらりマンとは違う。自分で時間を設定できるというか。私にはすこぶるあっている。この生活が。これを基礎に、今年はもう1歩新しい生活に踏み出したい。それができる予感がする。 夜です。朝はあんなに元気だったのですが、山に行き獣道をあがってゆく途中に、すごく疲れているのを感じました。こんな感じで仕事するのいやだな―とか思いながら仕事を始め、すこしもいい榊の枝も取れず、今日はだめかな―と思っていました。しかし終わり近くになって人の手の入っていないいい榊に出会い、いい枝をいっぱい切らせてもらいました。こんなときはほんとにその榊に手を合わせたくなります。まったく自分勝手なのですが。 今日は遅くても10時には眠ります。明日は4時おきですから。なんとか1月もある程度稼げそうです。昨日はかなりの量の榊を出したのですが、まあまあの値がつき、全部で3万円くらいになりました。ほっとします。何とかなるという感じはとてもよいものです。こんなふうに生きてゆくことを支えてくれている人々と、全ての存在に感謝します。もう少ししたら寝ます。
2005.01.27
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朝寝坊をしてしまいました。今日は月曜日で、4時に起きて岐阜の生花市場に行くつもりだったのですが。私には珍しいことです。携帯のアラームを設定していたはずですが、設定し損ねていたようです。まあこんな日もあるでしょう。すこしゆっくりした気持ちになっています。8時半から入れる、近くの老人ケア―施設のサンホームの風呂に入りに行くつもりです。その後近くの山に入ろうかな。 たしかに忙しい日々だけど、会社に勤めているやけでもなく、使いたいよう二時間が使える部分があり、私にはそれがとても貴重にかんじられます。とりあえずはもう少し経済的に余裕があるようにしたいですが。 また夜に書き込むつもりです。 朝日のNHKの報道番組に関する件、刑務所での体験もあり、すこし気にして未ています。事実はどうなのかよくわかりませんが、権力を持っている人は、平気であったこともなかったことにしてしまうことが出来ます。証拠がなければ。刑務所で起こったことと同じパターンなので、気に止ってしまいました。
2005.01.24
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今日の朝の書き込み、1/16日に入れてしまった。コピーしてきたので直しておきます。今日の書き込みに。■本文 妹は昨日の朝早くお墓参りに行った。父の命日にもそうだった。私はそういうことにまったく関心がない。父や母がお墓にいて?そこに赴き手を合わせるというようなことが、自分としては意味をなさないからだ。妹がついていってくれと強く言うときはそうするが、行っても儀礼的なことはほとんどしない。父母の魂がそんなところにいるとも思わないからだ。 また父母の死を弔うということは、もしそんな言い方で父母の死を考えるとしたら、お互いに苦しかった彼らの人生にあった問題?課題をできるだけ理解し、其れを克服し?あるいはそうしたあり方から自由になり、この私の人生を実りあるものにし?1日1日をささやかでもいい喜びの感じられるものにし、生かされていることの不思議さ?豊穣さにか感謝して生きられるようにするといったこと以外にない。現実の死んだ父母がお墓参りをしてくれることを?喜んでくれるとは考えもつかない。其れはあくまで生き残っているものが、そうすることで慰められたりすることでしかないと思う。 妹とはその辺のことを徹底して話し合っているわけではないけど?折々にそうした話をしてはいる。 妹は母のために天理教の人に祝詞を上げてもらいたかっただろう。もしそうすればその御礼もしなければならないし、第一母の御霊が移されているとか言う?御霊さまの社、大きな神棚を掃除したり、私がそれを移した部屋を掃除したり、あるいはそれを元のところに戻さなければならなくなったり、なんだかんだとやらなければならなくなることがいっぱい出てくる。妹の精神的な安定のためにはそうしたほうがいいのだろうけど、そうした妹の意にそってばかりいたら、私たちの生活が成り立たなくなる。母の父母のお墓参りはしたほうがいいと思ったからしたけど?いい天気の日でほんとうは働きたかった。其れが出来なかった分が次の日に回り?夜の9時頃まで榊の仕分けをしなければならなかった。 12月はかなり稼いだけれど?出費も多く今月はそれほどいい値で売れるわけではないから、多くのものを出さなければならない。そうしないと生活してゆくために必要な金がなくなる。私はその方が現実の不安で、それを回避するためには1月2月はまだかなり根をつめて働く必要があると感じている。まだ蓄えがほとんどない状況で、2月はひょっとしたらすこし人に金を借りなければならなくなるかもしてないとも思っている。 そんなこともときどき話し合っているから妹は分かってはいる。だから私ができないといえば?無理にやろうとはしない。でも満たされない気持ちはあるだろう。 妹は天理教的な儀礼、あるいは母がしていたことを受け継ぐ形でか儀礼的なことは?日常的にやっている。食べ物もお初は必ず神棚か何処かに持っていこうとするし、お墓にはシキミではなく榊を持っていくし、野の花社にも命日にはそれなりの花を立てて飾ろうとするし、???。私はそれを止めさせたりはしないしやりたいようにさしてもらっているけど?自分ではけしてする気になれないからしない。いろいろなところでそうした妹と私の?生活上のものの考え方?感じ方が違うから、くつろげないところもあると思う。もっともそうしたこと私も全てをやっても、妹はくつろげないだろうという気はする。 私自身は夜9時頃から?和尚の創案したクンダリーニ瞑想という?ダンスなどのステージのある瞑想をし、その踊りのステージで母に語りかけるようにして?歌いながら踊った。妹に自分なりにできることをすればいいのではと言っていたこともあり?そんなこともやってみたけど、そうすることの特に意味を感じてはいなかった。妹にたいして?そうしたほうがいいだろうと思ったからやったというか。 ともあれこRからは1週間に1度はそんな瞑想もしてゆきたい。踊ることは好きだし?身体もほぐれるだろうし?瞑想的なスペースに日常的に入ってゆくための1つの試みにはなるだろう。 私がいくつかの宗教施設を爆破した気持ちの中には?天理教本部の巨大な建物への反感が1つの要素としてあった。ここに帰ってきてから整理していて分かったことだけど?あまり現金収入のなかった私の家でも?毎月のように数万の金を上級の協会に寄進していたようだ。そんなお金であの巨大な建物が建てられていると思うだけで、その存在が疎ましいものに感じられる。一人一人の天理京都にはいい人も多いのだけど。
2005.01.23
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まだ雪が残っている日陰の谷間その雪を踏みつつ山を登り朝陽の射している山の中腹に立つと雪が解けたばかりの榊の林の中に微かに温かみのあるゆるやかな風が吹いていた冷たくもあるけれど何処か温かみを感じさせる湿り気を帯びた風すこし光を増した陽が注がれている大地から暖かさを貰い緑濃い榊の無数の葉を揺らせながら新しいときを季節を運んでくれている風榊さん今日もあなたの美しい枝をたくさん切り取りました御礼も言わず金になるから切り取りました
2005.01.22
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一昨日の母の両親のお墓に言ったときも、それ以前にも妹から聞いていることだが、母にとって嫁いで来た加藤家での苦しみについて、ありのままに話が出来たのは母の両親だけであった、妹もそうだったのかもしれないけど、から母は私たちに自分の死後そのお墓に赴くように言ったのだと思われる。妹からこんなことも聞いている。 ある日いつものように母はその母に会いにゆき、その苦しみについて聞いてもらい、その家を出てバス停に向かったのだけど忘れ物をしたのに気づき、また家に引き返した。すると祖母が一人で激しく泣いていた。母の悲しみ、苦しみを思い、母が帰っていった後に泣いていたのだ。。 その話を聞くたびに私も涙が出てきてしまう。 母が最も苦しんだことの一つに、天理教のあり方も深くかかわっている。妹もそのことは良く知っている。 父が胃潰瘍で入院し大きな手術を受けなければならなくなったとき、その手術が無事に済むように願ったりしてだろう、母は上級の協会のアドバイスを受け入れもするような形でだろう、山を売って金を作り、40万円だかを天理教本部に寄進した。父には無断で。 そのことを退院してきた父が知り、またその頃母が傾倒していたある布教師の男の人と肉体関係があるかのように言う、噂話も信じて父が激怒し、離婚するからとして親族会議を開いた。その席には上級の会長もいたが、その女の会長は監督不行き届きですまなかったと詫びるばかりで、母とその人のあいだにそんな関係はなかったなどとは言ってくれなかった。 母は離婚されて子どもたちと別れ別れになるようなことだけは絶対に避けたいと思い、あらゆることに耐え、何とか離婚だけは去れないでこの家に踏みとどまった。その母の思いは、多分祖母がある事情で実の母とは別れて暮らさなければならなかったこと、多分その悲しみを祖母から聞かされていたことなどの影響もあると思う。 また私の事件後、母が出入りするようになった天理教の布教所の布教師らは、私がそんな風になたり兄が病んでいたりするのは、母が父に頭を低くして尽くすということをしなかったからだとして、家では父に尽くしきるよう教えたりしたため、母はそうしようとしてみるが上手く行かず苦しんだりもしている。 妹の方がこうしたことはよほど良く知っている。天理教のなかにも、ほんとうに愛情深い人々はいるにはいるのだけど。 私は母がこうした天理教のありようの中で苦しんできたことだけをとっても、母の命日に祝詞を天理教の人に上げてもらう気になれない。チロリンさんの父上の場合とは、かなり性格が違う事柄だと思う。妹の苦しみはそういうことについて、よく考えたりはせずに今も天理教に出入りしているようなことにも関係している気がする。 レイさん、大地は台地の間違いです。
2005.01.19
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京は父の命日だったけど、仕事の関係もあり22日の母の命日には行くことが出来ないので、今日ははの父母のお墓参りに行く。母を看取った妹が母の遺言として、私たちにそうしてくれるようにとたのんでいたことがあり、妹はそのことが果たせていないのをかなり気にしていたから、そうした気がかりなことを1つ1つできるだけ果たしていったほうがいいと思い、そうした。 私自身は母の気持ちは分かる気がするけれど、その遺言にしたがてそこに行くことに、特に意味を感じててはいなかった。ただ妹はそうすることに価値を感じ、そうしないことが母にそむくことになるような感じ方をしているようだから、彼女のためにはそうしたほうがいいと考えて。またそうしないと妹の気持ちが満たされず、その分不安定になり、それは私にも苦しい状況を生むことになるから、それを避けたいということもあった。 行ってよかった。ともかく妹の気がかりなことが1つ消えたし、成長して初めての母の在所の訪問だったことから、母の育った野山を大人の目で見て、ここで母は育ったのだということを、深く感じ取っていたようだった。こんな墓参をしたことはなかったともいっていた。 母の在所は不思議な感じのところだ。野の花社から車で1時間くらいかかるだろうか、木曽川に近いところだけど、とても高い大地のうえにある村という感じで、山が低く天がとても広い地形で、太陽が地平線に近いところに沈む。 長くなるからやめる。その後帰り道で父の遺骨を埋めてくれた近所の人に、ささやかなお礼の気持ちを表すものとして、タオル2枚を買ってゆきそのひとたちに配るということもした。父が死んだのはここから遠く離れた豊田市の病院だった。特別養護老人ホームからもう面倒見切れないとして回された、死期の迫った人をあつかう専門の病棟のあるところのようだった。詩の間際には兄一人が駆けつけて看取ったようだけど、妹はそう出来なかった。私の知るかぎり、父は寂しがり屋のところもあり、そんな遠くの病院で死の間際まで肉親が誰もこないような状況で死を迎えるということは、とても悲しいことだったかもしれない。兄によると、死顔はとてもよかったとは言っていたが。 その病院の関係の葬儀社で火葬に付された父の遺骨は、兄も病んで苦しんでいたため、家族の手でこの地のお墓に埋葬することが出来なかったため、近所の人が埋葬してくれていた。そのことに対する御礼が出来ていないことを、妹が気にしていたこともあり、私自身もそのことについての詳しい説明を妹から聞いて近所の人にお詫びと感謝の気持ちを伝えたかったこともあり、ささやかなお礼の品を持って夕方そんな人の家を回ったのだった。 加藤家の戦後処理、とでも言うものかもしれない。それが出来ていないことも妹を苦しめてきたのかもしれない。
2005.01.17
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妹は昨日の朝早くお墓参りに行った。父の命日にもそうだった。私はそういうことにまったく関心がない。父や母がお墓にいて、そこに赴き手を合わせるというようなことが、自分としては意味をなさないからだ。妹がついていってくれと強く言うときはそうするが、行っても儀礼的なことはほとんどしない。父母の魂がそんなところにいるとも思わないからだ。 また父母の死を弔うということは、もしそんな言い方で父母の死を考えるとしたら、お互いに苦しかった彼らの人生にあった問題、課題をできるだけ理解し、其れを克服し、あるいはそうしたあり方から自由になり、この私の人生を実りあるものにし、1日1日をささやかでもいい喜びの感じられるものにし、生かされていることの不思議さ、豊穣さにか感謝して生きられるようにするといったこと以外にない。現実の死んだ父母がお墓参りをしてくれることを、喜んでくれるとは考えもつかない。其れはあくまで生き残っているものが、そうすることで慰められたりすることでしかないと思う。 妹とはその辺のことを徹底して話し合っているわけではないけど、折々にそうした話をしてはいる。 妹は母のために天理教の人に祝詞を上げてもらいたかっただろう。もしそうすればその御礼もしなければならないし、第一母の御霊が移されているとか言う、御霊さまの社、大きな神棚を掃除したり、私がそれを移した部屋を掃除したり、あるいはそれを元のところに戻さなければならなくなったり、なんだかんだとやらなければならなくなることがいっぱい出てくる。妹の精神的な安定のためにはそうしたほうがいいのだろうけど、そうした妹の意にそってばかりいたら、私たちの生活が成り立たなくなる。母の父母のお墓参りはしたほうがいいと思ったからしたけど、いい天気の日でほんとうは働きたかった。其れが出来なかった分が次の日に回り、夜の9時頃まで榊の仕分けをしなければならなかった。 12月はかなり稼いだけれど、出費も多く今月はそれほどいい値で売れるわけではないから、多くのものを出さなければならない。そうしないと生活してゆくために必要な金がなくなる。私はその方が現実の不安で、それを回避するためには1月2月はまだかなり根をつめて働く必要があると感じている。まだ蓄えがほとんどない状況で、2月はひょっとしたらすこし人に金を借りなければならなくなるかもしてないとも思っている。 そんなこともときどき話し合っているから妹は分かってはいる。だから私ができないといえば、無理にやろうとはしない。でも満たされない気持ちはあるだろう。 妹は天理教的な儀礼、あるいは母がしていたことを受け継ぐ形でか儀礼的なことは、日常的にやっている。食べ物もお初は必ず神棚か何処かに持っていこうとするし、お墓にはシキミではなく榊を持っていくし、野の花社にも命日にはそれなりの花を立てて飾ろうとするし、、、、。私はそれを止めさせたりはしないしやりたいようにさしてもらっているけど、自分ではけしてする気になれないからしない。いろいろなところでそうした妹と私の、生活上のものの考え方・感じ方が違うから、くつろげないところもあると思う。もっともそうしたこと私も全てをやっても、妹はくつろげないだろうという気はする。 私自身は夜9時頃から、和尚の創案したクンダリーニ瞑想という、ダンスなどのステージのある瞑想をし、その踊りのステージで母に語りかけるようにして、歌いながら踊った。妹に自分なりにできることをすればいいのではと言っていたこともあり、そんなこともやってみたけど、そうすることの特に意味を感じてはいなかった。妹にたいして、そうしたほうがいいだろうと思ったからやったというか。 ともあれこRからは1週間に1度はそんな瞑想もしてゆきたい。踊ることは好きだし、身体もほぐれるだろうし、瞑想的なスペースに日常的に入ってゆくための1つの試みにはなるだろう。 私がいくつかの宗教施設を爆破した気持ちの中には、天理教本部の巨大な建物への反感が1つの要素としてあった。ここに帰ってきてから整理していて分かったことだけど、あまり現金収入のなかった私の家でも、毎月のように数万の金を上級の協会に寄進していたようだ。そんなお金であの巨大な建物が建てられていると思うだけで、その存在が疎ましいものに感じられる。一人一人の天理京都にはいい人も多いのだけど。
2005.01.16
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インド洋の大津波で何十万の人が死んだとか言う報道を、ときどき目にしながら、イラクやパレスチナでの繰り返される暴力の報道に、ときに接しながら、ほとんどそのことにこころが動かない自分がいる。そのことを特におかしくも思わない。今の私にはそれが当然なのだ。誰だって私のような生活をしたら、そうなるのではないかと、不遜にも思ってしまう。 あの頃はそういう日本人たちを、軽蔑し、罵り、憎んだりしていた。その私が今は自分の生活、仕事、妹との関係といった身近な事柄にしか関心とエネルギーがむかなくなっている。多分そのことはとても意味のあることだ。いつかもっと意識が外にむかうだけの余裕が出てきても、この今の体験を忘れたくない。 それでも生活の中で外部社会の何かとつながり、自分を通すこともある。たとえば今夜は妹と、間じかに迫った父や母の命日に関しどうするかということで、かなり激しいやり取りをした。妹が天理教の人に祝詞を上げてもらうようにしたいというので、私はそんなことより私たちが自分の言葉で父や母にたいする思いや感謝を述べる機会を作れば良いのではないか、私は天理教徒ではないし、天理教からなぜ私たちの家庭がこうなったかの納得の行く説明も受けていないし、そんな人の祝詞など上げてもらいたくないとか言う。妹はでもこの近くの天理教との人々には、両親の死んだときに世話になっているし、母は御霊返しという天理教の葬儀の儀式もやってもらっているしとか答える。そういうことは感謝するけど、そのことと自分の現在の宗教に対する考え方とかは別のことだ。信仰していない宗教の儀式などに私は参加するつもりはない。妹がやるのは自由だけど。そんな話をすると妹は決まったように精神的に不安定になる。 妹は天理教徒ではない。明示的には。でもそうしたところにゆくと気が休まったりするから、大阪でもここでも行っているようだ。私もこの近くの天理教の人とはときどき話もしたりするし、その人が苦労してきた人で、人間的にもよい人だとは感じている。しかし天理教という組織の中で私の父母が救われてゆかず、私たち子どもも苦しみを味わってきたということもあり、そのことに対する私なりの思索の中から、天理教に関わることはしないという選択をしているのだから、いいかげんなことでは済ませないことだ。 だけどそんなことを言うと妹は苦しむ。私が私の現在の考え方などを言うと往々にして苦しむのだ。だから今夜もそんなこといわねば良かったのかもしれないと思うことは思う。 仕事と妹とのこうした関係だけで、今の私は手一杯な感じで、それと野の花社での生活とその修理などで、世界の悲惨な出来事などほとんど意識に上らない。今はそれでいいと心底思う。
2005.01.15
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今日は朝岐阜の花市場に行った。昨日1日と、その前にすこし取っていた榊の枝などが、1万500円くらいで売れた。12日の分が1万円ぐらいだった。すこし安いけど、古くから出している人とそう代わりの無い値段だった。新参者が買い叩かれるということもないようで、ほっとしている。また昨年などは1月はほとんど収入がなかったけど、この感じなら7,8万は稼げそうだから、何とか切り抜けられるだろう。 その帰りに兄のいる、病院付属の援護寮に兄を訪ねたが、兄は診察を受けているということで、面会できなかった。そのかわりにそこの職員と兄のことについて話をした。兄がすこし気力を取り戻していること、俳句のサークルを自分で作ったりしてもいるとか。 兄には会わずに帰ってきて、今日も妹とのすこしハードなかかわりの中にいたことが多かった気がする。2時頃かR2時間ほどは近くの山に入ったのだけど、その他の時間で、何かに悩み苦しんでいる妹の姿や言葉をしばしば耳にしていた。また野の花社の隙間風の入る古いつくりの部屋で、体が冷えることも苦しいようだ。 消火の時に出る匂いを嫌っていることなどから、リサイクルで電気スト―ブを買ってきてやったのだけど、電気代を気にしてあまり使わないでいるかもしれない。 そんな兄妹とかかわりながら、特にその頃はきつかったのだろ行けど1990年前後に、老衰してゆく父母と、病む兄を一人で支えていた感じもある、妹のくるしみを思った。 彼女にはたぶんにそのことのことがトラウマになっている部分がかなりある気がする。どんなに大変だったろう。 もう眠たい。今日は朝早くから仕事をしているから。
2005.01.14
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今日は朝4時半頃から、安全運転で岐阜の花市場に行き、榊の枝の束など出すとすぐ帰って来た。早朝は降っていなかった雪が、帰って来た頃から降り始めて、前の山に入ってはみたもののすぐ榊採りは止めて出てきた。そして野の花社の中のかたずけ仕事などした後、パソコンの修復の作業にかかった。1時は何処かほかのところもおかしくなって、この日記も書けなくなり、マイクロソフトの助けを求めても、有料のサイトで4500円必要と来たのでそれも止め、一人でいじっていた。そのうちひょんなことからわかってきて、暗号強度が0になっていたのを128まで上げることが出来た。これでeバンクの口座を開いたりできるようになった。 まぐれとしか言いようがないけど、いろいろ見ているとふとしたひらめきが沸いてきて、いろいろ無視してやってみたら上手くいった。ようはバージョンアップのインストールが中途半端に終わっていたからのようだ。 ところで昨日サプリメントのこと書いたらいつにない、140ものアクセスがあった。サプリメント自体への関心なのか、サプリメントに関するネットワークビジネスにたいする関心からなのか、よくはわからないけど、すこしビックリした。 シャコの書き込みにも答えたいけど、今日はもう遅いので寝ます。明日は寒いけど山に入ります。こんな雪がちの日々は榊の値段も上がると思うし。
2005.01.12
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昨日とどいた前立腺の健全化?似役立つとかいうサプリメントが2錠づつ2回飲んだだけで、かなり効いている感じですこし驚く。私はごく健康で健康に関する基本的なサプリメントを食べても、その効果を明確に感じ取ることは難しいところがありましたが、今回のサプリメントの効目には、すこし驚いています。もう少し見てみないと、はっきりしたことはいえませんが、私は私ぐらいの年齢の人が良く言う、ション便の切れが悪くなり、小便の後たまたまチャンのしたあたりから尿道を押さえて、残っている小便を出し切っていないと、ペニスをズボンの中にしまった直後に残尿がでてパンツがぬれるということが良くあったので、前立腺の健全化に役立つとか言うそのサプリメントを購入したのです。 そしたらその夜から小便を特に切りもしないのに、残尿がパンツをぬらすということがまったくない感じなのです。まだ1日たってもいませんから正確なことはわかりませんが、もしこれがほんとにそのサプリメントの効果なのなら、すごいものだと思います。すこしびっくりしています。 夕方ですけど、小便の切れ具合、やはりそれほどでもない感じです。そんなに簡単に効目がでるはずがないと思うし、まあその後今日の昼頃までの感じでは、やはりパンツが濡れるのです。ニコニコ。 夕方、eバンクに口座を開こうとして、40ビットしかない何かを128まで上げようとして、トラブッてしまった。この修復に1週間ぐらいかかるのではないかとすこし気が重い。幸いこのぺじを書いたりすることには何の支障もないのだけれど。次から次へといろいろ起こる。そのことを通して、物事を体験的に知っていけるのだが、すこし夜は自分の時間が出来始めていたから、残念。何とか集中してこのトラブルを超えたい、できるだけ早く。 今日は1日じゅう雪が降っていた。明日の朝にかけて大雪になるということだけど、明日は可能なら岐阜の花市場に初出荷するつもり。雪がちの日々はすこしは値も良くつくかもしれないということもある。もう榊はトラックに積んである。朝4時過ぎに出かけて、安全運転で雪の中をゆっくり走るつもりです。
2005.01.11
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朝方は晴れていたのに仕事で谷の奥の林の中にきたころには雪になっていた始めは綿のようなふわふわした雪だったそれがいつか雲の間から漏れる光にきらきらと光ながら舞う粉雪に変わっていたまるで金粉か銀粉かそんなものを木々の上から撒いたように粉雪は林の中の木々のあいだにきらきらと光りながら漂い落ちた私はただそこに立ち尽くしてそれを見ていた とてもこの写真では、あのこな雪の美しさは表せません。
2005.01.10
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アビが愛する人となら6時間に3回はいけるとか書いていたけど、56歳の私でもそういう条件ならそのくらいは出来そうです。(笑い)。でもそれも情況次第だけど。相手もそんことをとても楽しむ気持ちがあるならという。ごく当然のことですが。 ただそうしたいということは、そうないかもしれない。まあ2度くらいならしたいときもあるかな。オルガスムの体験も良いけど、その前後の他のし、優しいふれあいのとき、性交に至らないゆるやかな、くつろいだ触れ合いのとき、それもすきです。 マスターベーションについては、私はあまりフェチシズム的な感覚はないような気がするけど、そう考えるだけで実際はそうなのかも。ただ特定の対象にこだわることはないし、一番気持ちいいのは特定の人を対象にして、イメージの中でその人とセックスしながらいくようなときです。 ところで和尚などが性的な欲求が自分の中にあらわれたとき、それにすぐ同化しないで、それを見つめる訓練をすることの大切さ、などについて語っているところもある気がするのですが、そんなことを試みると、たしかに性的な欲求の中に入らないでいられるときはあります。そんな中D周りの自然の美しさなどに意識がむいてゆき、心が洗われるようなさわやかなときを過ごせるときも。最近はあまりそういう意識の向け方はしませんが。 私が年の割に性的な欲求が強いほうかどうかはわかりません。アビや和尚の弟子など、あまり性的な欲求に抑圧的に向かわない人々は、抑圧的に向かい合う人々より、年の割には強く見えるということかもしれません。この地の同年輩の人とそんな私の感じを話すと、かなりの人がもう自分は妻とここ何年かセックスもしていないという人が多かったりします。それは性欲の減退ということとは違うことが含まれていると思うのですが。 ともあれ今この地で私が性的にも触れ合える女の友達がいないのは、私自身が性的に抑圧的な文化とでも言うものにとらわれていて、そのようなことにむかう関係を作ることをしないでいるところもあるのかもしれません。まあこうして書くことがささやかな相したあり方への打開の試みの一つともいえるかもしれません。 ところで性犯罪に関して、その被害者の父親などがどんな気持ちに成るかは分かる気がしますし、そういう人々との現実の関係では、とても慎重な対応が必要だと思います。またそうした犯罪にたいしては根本的な対策と、今ここでのとりあえずの対策、手立てが必要ということもわかります。私の理解の範囲で。 今日は同級生の友達に俺が手伝うからと強く勧められて、風呂の屋根のトタンをやっと張りました。そんな作業をしている私たちを見て、何人かの近所の人が野の花社のなかに入ってきて、なんだかんだと励ましてくれました。下の写真はその屋根を写したものです。
2005.01.09
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私は性的欲求が強いのか、単に性的な刺激に過敏なのかよくはわからない。ただ56歳を半ば過ぎたいまでも、いつも朝方になるとペニスは勃起しているし、私好みの女の人にであったり、美しい女の人の綺麗なあるいは猥褻なヌード写真など見ると、すぐ性的な何かが動き、性的な触れ合いへの欲求が高まってきたりする。マスターベーションも今年になってもう3、4回している。山の激しい労働を休んでいたからかもしれない。 今日も近くの山にいく途中の、山のなかのバイパスの下をくぐる地下道にたどり着いたとき、そこに放り出してあった性欲を掻き立てるヌード写真の多く掲載された週刊誌が目にとまり、つい手にとってしまった。そのときはそれで終わり山に入ったが、目当ての榊がない山を一巡りした後またそこに来たとき、性的に高まり、残雪の残る地下道の入り口当たりで、その雑誌を手にしてヌード写真を見ながら、マスターべ―ションをしてしまった。 これも私の一つの側面、現実である。私はこういう人間であるという事実を隠したくはない。それがありのままの私のある一面である。ときどきほんとに今、女の人との性的な触れ合いをしたいと感じるときがよくある。 こんな私だから電車の中で痴漢行為をする男の気持ちや、性的な犯罪者の気持ちは、かなり理解できるところがある。最近なら件で幼い女の子を性的な対象としていたとも思われる男が、少女を殺してしまったことに関し、あるホームページでかなりの人が性的な犯罪を犯した人は重刑を受けたり去勢されても当然だみたいな書き込みをしているのを覗き、その考え方にすこし寒気がしたことがある。被害者の人権は大切にされなくてはならないけれど、加害者は懲らしめられなければならないという考え方は、当然だとしたら、もしそれを厳密に行ったら、この世界は混沌としたものになってしまうはずだ。 この世の現実の中にはあからさまにならない形での加害行為が、あふれている。この世の権力を持った人々の中には、その力を使って自らの加害行為を隠し、正当化している人々はいっぱいいるのではないだろうか。ごく普通の人々も、法的な規制には触れないとしても、日々の生活のなかで他者にたいして加害者として関わっていることは良くあることではないだろうか。私が暮らした刑務所の中でも、職員による受刑者の尊厳を傷つけるという行為は、集団的、組織的にも数多くあった。犯罪者は、加害者は、懲らしめなければならないということを当然のように行ってはばからない人々は、こういう現実をどう考えているのだろうか。 加害と被害は多重で入り組んでいる。
2005.01.08
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昨日も妹とかなり激しい言葉のやり取りをしました。発端は妹が自分で買ってきていた正月用の酒の月桂冠は美味しくないから、花見蔵を買ってきてくれと年末にかなり深刻な感じで頼まれたので、そうしたのですが、正月になるとその花美蔵が出てこなかっつたので、どうしたのかと正月中に聞くと、間違えてしまったとか良くわからない返事しか返ってきていなかったことからはじまります。間違えて、近くの良くいく天理教にお供え物としてもって行ってしまったのかな、などと思いそのときはそれで済ませていたのですが、そのことにかかわりのある話が昨日出てきたのでまた私が聞くと、山の榊を切らせてもらっているお礼にAサンのところに持っていったということでした。間違えたというのは年末に、私がAさんの山で榊は切っていない旨妹に話したことがあり、そのときすでにその酒はAさんのところにもって行っていたのですが、そこから来た言葉だったのです。Aさんのところに持っていったというのを昨日初めて知り、それはあんまりではないかと強く言ったのです。山の仕事は私がしていることで、そのことに関するお礼とかいったことは私がすることで、そんなことまで妹が先回りしていろいろするのは間違っている、ということなどです。しかもそれは妹が深刻な顔で、正月用の酒として買ってきてほしいといったからかってきたもので、お礼用に買ってきたものではなかったこと、そうお金もないのにそんなことされたのでは私が苦しくなる、そんなことも言いました。それにたいし妹は、Aさんに持っていったのはそれだけではなく、正月前にAさんらに招待される形で料亭でさけなどご馳走になったことに対するお礼の意味でもそうした。ただ酒など飲んだらあとからどうなると思う、そんなことは私はできない、などともいました。私はその席は招待された席であり、私がお金を払うわけではないことはそこに行く前から妹にも言ってあり、もしそれがいやなら妹はこなければいい、向こうは私が貧しいことを知っていて招待してくれているのだから、そのお礼に高価な酒など持っていくことはない、もしどうしてもしたいなら自分の金でしてくれ、私の買ってきたものを回さないでくれ、とかも言いました。妹は、もう苦しいから止めてくれ私はそうしないとどうしようもない気持ちになるからさせて欲しい、みたいにも言いました。それは分かるからしても良いけど、私の金ではなく自分で稼いだ金でして欲しい、そのことだけはドンナに苦しかろうとはっきりいいたいしっかりわかってもらう必要があるから言う、引き下がらないというと、お金を出せば良いんでしょうというふうにお金を出してきました。 こんなふうなことがずーと繰り返されている感じです。 同じようなことが昨日もありました。お礼しなければと、額は少ないけど同様なものをある人にもって行っているのです。私たちはもらうものが多いのでその一つ一つに御礼などしていたら、貧しい私がそれだけ稼がなければならなくなるということになるので、もらい物の中であまっているようなものを回すというような形でそうして欲しいといい、妹はそうするようにしてはいるのですが、それでは済ませない気持ちになるときもあるのです。たぶん。 正月はそんなこと以外にも、買ってきた酒が水に変わっているというような騒動もありました。どういうことなのか未だにあまりよくわかりませんが、兄といもうとの関係や精神状態が関係して、何か不可解なことか勘違いに過ぎないことで、一騒動おきたりしました。 今日はすこし妹と私の関係について詳しく書きました。具体的に書かないと感じが伝わらないこともあると思い。
2005.01.07
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アビの新しい本第1章を読み終わる。とても親しみを持って読んでいる。シャーマニズムにつながるワークでの体験や、部族的社会の限界などについての言及や、その論としてのバランス感覚などに。いずれもう少しくわしい感想も書くつもりだけど、今夜はこれで寝ます。 そうそう、最近特に女の人と性的に触れ合いたいという欲求を強く感じ、悶えています。そのことを明らかにし、今日はもう寝ます。
2005.01.06
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今日も1日山の仕事に入れなかった。朝から妹に付き添う形でサンホウムに行き、彼女が始めようとしている年老いた人にかかわる仕事のことなどで、そこの職員の女の人と話し合ったり、彼女の部屋のカーテンを買いに2人で金山に行ってきたりしているうちに、もう夕方になってしまった。そのついでに私も自分の部屋のカーテンを買った。必ずしもすごくいいものではなかったけど、その衣料品のスーパーの店ではこれがいいかなというもの。 そのカーテンをつけると部屋の感じがだいぶ変わった。これまでは金がないから、解体する近くの家から貰ってきた、思い感じのものをとりあえずつけていた。やはりカーテンとか家の内部の配色,デザインなどもとても大切だということを改めて感じる。金や暇が出来たら、できるかぎりもっと良いものに、この野の花社の空間を変えてゆきたい。 5段のスチール棚を拾ってきて、そこにパソコン関係の機器を入れたことでも、この部屋の雰囲気が変わり、使いやすくなった。 上の写真はここのそうした変化の1部分と、現在の私を写したもの。私の写真の後ろの右腕側が新しいカーテンで、反対側がまだ残してある古いもの。 山の仕事のために必要なものや、こうした野の花社の整備のために、多くの金を使っている。12月は良く稼いだけれど、また明日からも身を入れて働く必要がある。できるかぎり夜には持ち込まないようにしながら。妹とのかかわりも、もう少しシンプルなものにしながら。 新しいステップに踏み入れるとき。 ストーブの上に載せた薬缶で ゴトゴトじんじん音がしている 妹も静かな この寒い夜 私は生きている
2005.01.05
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昨日は昼頃、妹の連れ合いが大阪からきてくれたりして、妹を交えた4人で近くの焼肉ハウスで会食し、いろいろ話し合いました。そんな機会が持てて、ほっとするところがありました。妹の連れ合いがとても身近に感じられるようになりました。妹との関係で彼も私と同じようなことを感じつずけていたことなどが、わかったこともあります。 その後美濃加茂市のシティホテルで開かれた,高校の同級生の同窓会に出ました。その場で同席した人などに、私の本を読んでくれるようそれとなく働きかけていたりしたところ、幹事が前に出て挨拶し本のこともいうように勧めてくれたのでそうしました。そうしたら友達の一人が、俺が本を売ってやると言ってみんなのところを回り、持っていった11冊の本全部を売ってくれました。そのおかげで予約2冊も取れました。 とても嬉しいことでした。 またそんな中で、あの頃大学に行き全共闘運動などに関わったりした3,4人の人とも,いろいろな話をしました。その中で大学の封鎖などの闘いもやった人が、その後普通の会社に入り普通に生きてきたことを,常に後ろめたく思う気持ちがぬぐえない,それがトラウマになっている,とか同様な話も聞きました。そんな人らと熱心に話し合いもしました。それもとても嬉しいことでした。 あの時代に大学に入った人が、未だにその時代を抱えつつ生きているということに,すこし驚くとともに、とてもこころを動かされました。 いつかそんな人々を集めて会食などし、積もる思いを語り合うような機会も持ちたいと思いました。 今日は妹の連れ合いは彼女が借りてきている軽トラで近くの駅まで妹が送り、私は兄を病院まで送りました。その帰りにパソコンなど置く5段ぐらいスチール製のの収納だなを,ゴミ捨て場で見つけ拾ってきました。それに収納したパソコンでこれを打っています。場所が取らないので,部屋がいっぺんに整理できた感じで、喜んでいます。
2005.01.04
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別に正月だからといって、特別な用意をするのは止めようと、気ずかいの強さで疲れ気味の妹に言いつつ、12月30日から31日にかけて一人で野の花社の広間と、私の部屋を何ヶ月ぶりかに掃除した。 掃除してきれいにした広間に、ストーブ3台を入れて火をともし、すこし暖かくしたところに30日の昼過ぎ、30年ぶりかの友人たち3人を迎えて、再会を祝し談笑し、2時間ほどで別れ、夕方には兄を迎えた。 少しばかりきれいにしたところに人を迎えるのは、やはり気持ちのいいものだ。またそこで過ごすのも気持ちのいいものだ。私の部屋もモスグリーンの砂壁とでもいうものが古くなり、壁際は砂がかなり落ちてきて溜まっており、毎日そのすぐ横に布団を強いて寝ていたが、目と花の先にその砂を見ながら眠りにつくのはすこし気になっていた。そんなものを掃除機で吸い取り、ほこりの溜まった本棚の上や中、机の上などを雑巾でふいたりもした。 仕事に没頭し、部屋の中のことなど省みることもなかっつた仔の数ヶ月、自分ながら良くやってきた感じがある。生き抜いてゆくということのもたらす、充実感もあった。それがただ生活を維持するということのためではなく、私のそれを土台とした新しい生活、活動のためというそれなりの展望もあり、そこからそのことに意味を感じていたということもあった。 兄と妹との3人の正月に、特に変化や喜びを感じるわけではない。そうしたこととは別に、新しい年が始まるという、何かを感じている。やっと自分のやりたいことにすこしは時間を使い、夜は自分の時間に使うことができるだろうというような、そんな予測がもたらす微かな喜び。 ところで最近あるお寺の住職と話をする機会があった。そこで聞いた現在の仏教界の現実の奇怪さに、あらためて驚きもした。 彼の属する宗派では、そのお寺で大事な行事をするとき、本山からかなりの地位の人とともに10人程度の坊さんらを招かなければならないが、そのえらいさんには40万ほどの金を払わなければならず、その他直人も近くの町の料亭かクラブのようなところに連れてゆき、女をはべらせて飲み食いさせ、その費用を全て経費として負担しなければならないとか、坊主としての資格が金で売り買いされるとか、戒名みたいなものが、40万もの金を払うよう求められるとか、宗派の総長の選挙に金が飛び交うとかいうような話だ。 仏教の世界などは、最も世俗的な欲望が立ち回る、どうしようもなく汚い世界なのだ。その話を仏教界全体に当てはめるのは問題があるにしても、多分そうしてもそう大きくは間違っていないだろう。 そんな話を現実のものとして聞くと、そんな仏教界のお寺の住職に、死んだ家族の葬式を仕切ってもらい、さも大事なことをしてもらっているように感じている人々のことも、唖然とした気持ちになる。死者にたいする冒涜のようなものだ。 葬儀などということは、そんなことを仕切る専門の人に任せることなく、ごく親しかった人の手でささやかに行えばいいの
2005.01.02
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