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はっ!! 我に返ってみた。 違うんだった。 あまりにレベルが低すぎるのだった。 圧勝連勝はあたりまえ。レベルが違うのだから。 そんな勝ちでいい気になっている場合じゃない。 今まで圧されていた分、少しくらい浮かれたっていいじゃない、とつい緩みがちだが、今までをよく顧みて、今までと変わらない、と自分に言い聞かせ、慢心せず弛まず努めねば。 一番気にしいなお年頃に厳しい環境にいたのは良かった、と改めて思う。 心はいじけて捻くれてはしまったけど、求める段階がだいぶ高いと思う。 世の中はそんなに高くないのだけれど、もしもその高さを知らなければ私は現状に満足して、いい気になってしまうところだった。 せっかくそのように育ったのに、今ここで慢心しては意味がない。 只の捻くれ損だ。
2006/09/26
オーラみたいな、もしくは燐粉みたいな、そういうものを発するのだろうか? 男の人は(いや女の人もだ)ブランドに弱く、人がちやほやしだすと価値を感じて便乗する、と思っていたのだが、そうともいえないのかもしれない。 やはりなにか発しているのかもしれない。 あまり受けが良すぎるのはやや困る。期待されすぎると力を抜くところがなくて大変だ。しかし力を抜くと堕落の一途をたどってしまいそうだ。 これまでの経験を鑑みると、これを越えてスタンスを確立したら楽になる。しかし一度確立するとそこから上がるのも大変になる。 秋は不得手とする季節。新月は不得手な時期。 自分でも怖いと思いながらも、私はまだまだ全然本領を発揮しているつもりはないし、むしろ抑えようとしている。怖気づいて篭ろうとしている。 だけどいつまでもこのまま、小さなチヤホヤをどこでもたくさん集めて、微笑をサービスして喜ばせて、ささやかな幸せを想い出の一ページに刻んであげるなんてことをやっているつもりはない。 それはそれで楽しいけど、そんなんでいちいち照れたり喜んだりしているような枝里子ではないわ。
2006/09/25
この時期は文化祭の時期だから、いつもよりオーガンジーに触れる機会が多く、オーガンジーが好きな季節でもある。オーガンジーとかサテンとか、非日常的な素材を知ったのは文化祭がきっかけだった。そしてやたらとみんながユザワヤと日暮里に出没する時期でもある。 そんな感じで、今週は試みとして、カボチャを薄くスライスして焼いてサンドイッチに入れるために、最初にちょっと蒸して軟らかくしている。でも軟らかくしすぎると歯ざわりがね・・・って感じで、すこし固めに。 そんな一苦労をしているにもかかわらず、切りにくいし食べにくい。やはり蒸してつぶしてペ-ストにしたほうがいいのだろうか。カボチャスープにも応用できるし、毎朝が楽になる。 綺麗な写真のお料理好きマダムのHPに影響されて、焼きカボチャを採用したかったんだけどなあ。
2006/09/20
何の仕事をしているか、とか、仕事をしていない、とか大阪城あるいは上野公園で寝ています、とかに関係なく、その人が回転しているか、かどうかだと思う。 仕事をしているのは、その人の好き勝手で、そんなことより自発的かどうか、だ、と、おもう、の。 と思ってるからこそ、[私は@@@なにがし会社で働いているんですー」って言う人がいても、「あ、そうですかー」で終わるのだと思う。少なくとも私には重要じゃない。
2006/09/19
しつこいけど身長について。 最近 身体乗り物主義という言葉を知った。まさにそのとおりだと思う。 身体は偶然その人その人に付与されたもので、外見装飾欲は身体と精神の融合を試みている結果なのだと。 私を見ると身長の話をしたくなるのか、もともと人々が身長の話題が好きなのか知らないけど、人々が身長の話をするのを聞く機会が多い気がする。 私がなぜその手の話が嫌いかというと、身長が低い人は何故か卑屈で、まるでその人の身長が低いのは私のせいだとでもいう様に責めるからだ。 私は自分が身長の低い星に生まれたとしても構わない。 ただし今は身長の高いような身体を与えられているから、見栄えがいい悪いにかかわらず私は当然それを受け入れているだけなのだ。それだけなのだ。 身長が高いほうが見栄えがいいとか、悪いとか、そんなことはその人やその時の捉え様なのであって、そして高いか低いかは、比較したときの話であって、 私は身長が高いとか低いとか、そんなことは人と比較しないからわからない。あなたより見栄えがいいのは身長のせいじゃない、といってやりたい。 見栄えの悪さを身長のせいにして嘆き、自分より恵まれた(とその人が捉える)人にやっかんでからむのは、…どうしようもないでしょう?私はどうもしてあげられないでしょう? 今からでも四つ葉牛乳を飲んでみてはいかがですか?ってかんじで。
2006/09/15
最近目の調子が悪くて、毎日メガネをかけている。 メガネ及びコンタクトレンズ歴10年。 10年間、毎日コンタクトレンズをつけていて、メガネは家に居る一瞬だけ。 だから、メガネに愛情も愛着もなく、留学のときなんて日本に忘れてきちゃったくらいだ。 だから、毎日メガネをかけているのはとってもいずい。 メガねっこに見られるのも嫌だ。 めがねは嫌だ嫌だ! だからとても深刻に近視回復手術を考えているところ♪ そんな中、今日はコンタクトレンズをつけている。 なぜなら今日はお出かけが多いから。 コンタクトレンズをつけているときのほうが、本来の姿に戻ったようで、水を得た魚って感じがする。のではないだろうか。 ウキウキしちゃって、スキップとかも出来ちゃってさ。 お向かいのビルへ行くのに、道路じゃなくて緑地をチョイスしちゃったりして。 私が楽しそうにしていると、周りの人も楽しそう。 「あれ、なんだか楽しそうな子がやってくるぞ」 って、微笑ましんでくれる。お店の人も微笑みが多く陽気に対応してくれる。 メガネのときは、私は出来るだけ人に見られないように、存在感を消しているのだ。だから周りも微笑んでくれないのだ。 メガネのときは、スキップも出来ない。思いっきり振り向くのも出来ない。 上見て下見て、ってきょろきょろも出来ない。私はきょろきょろするために生まれてきたのに! つまらないつまらない。 知らない人でも、二度と会わない人でも、楽しそうな私を見て微笑ましい気分になってくれたら、私にも幸せが伝播する。私は周囲を微笑ませたい。だから私もルンルンしていたい。
2006/09/14
面白がったり楽しんだもの勝ち。 例えば畳の目を数えるのが好きなんです、っていってお給料もらいながら一生懸命数えて、五時になって帰宅、でも、いいのだと思う。 畳を数えるのが本当に好きで、楽しくて時間があっという間に経ってしまうのなら、それでいいのだし、みんなは文句をいえるどころかきっと羨ましがる。 仕事が世の中や、他の誰かの役に立つのか、意義があるのか、不毛ではないのか、なんて言ってしまったら、そんなものはなく、どんな仕事だって、ちっぽけで別になくたって、いい。絶対になきゃいけないものなんてない。どんな物だってどんな人だって、ないならない、いないならいない、で世界は一向に構わない。 それならば、立派な大層な仕事をしていても、畳の目を数えていても、楽しんで、自分自身で意義を見出しているもの勝ちなのだ。 ってこと?世の中って。
2006/09/13
本当はこんなこと意識しちゃいけないんだけど、 今この瞬間が幸せだ!って思ったその瞬間が多ければ多いほど、生きている甲斐があるってもの。 同じように、本当は意識しちゃおしまいな事。それは「人生は一度きりしかないんだから」というような言葉。 あまりに陳腐な表現で恥ずかしいけど、このようなことをしかと意識しては駄目なのだ。スタンスとして保っているべきではあるけれど、それを目指して心に強く念じては駄目なのだ。念じるくらいなら、思っても無いほうがいい。 その時を、はやく過ぎるようにと過ごしている人をよく見ませんか?道端でただただトランプをしているだとか。確かにそんな時間がある。時間がないといつも思っているのに、でも途方も無く余って持て余してしまうことも、ある。のは何故なのだろう?? 少しでも多く、少しでも多くのときに、しみじみと今この瞬間は幸せだ、という小さなものをかき集められたら、その集大成はきっと充実していて幸せ。
2006/09/05
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