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今年の出勤最終日。あるモノを作るためにここしばらくけっこう大変な思いをしている。このところ、つくづく、飽きてきた。首の後ろ側にかまぼこ板でも入れているみたいに首が凝っている。頭のてっぺんから細い煙が「しゅー」と上がりそうな疲労感。しかしまだ終わっていない。約2日後には続きが再開されるのであった。まあ、とりあえず休みはおばあちゃんのところでのんびりしよ。おばあちゃんの好きな、ブルーベリーのタルトを買っていこう、と思うけどケーキ屋さんってまだ開いてるのかな。年末年始な感じが全くしない。世間の動きについていっていないのであった。。。みなさまはよいお正月を。
2006.12.30
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文芸講座の先生に薦められて読む。電車の中で偶然知り合いになった女性と僕とが昼休みの日比谷公園をいっしょに過ごす。だからといってとりたてて何かが起こるわけでもないストーリーらしきストーリーのない小説。私事ながら小説を書こうと思うときに書きたいと思うものは、かなり抽象的な、しかもほんの一瞬の感覚だ。たとえば、あれこれ考え事をしながらの帰り道、見上げた月が予想外に明るかったこととかその瞬間に聞こえた音とか、吸い込んだ息の冷たさとか、周囲に溢れる空気の匂いとかそんなこんなで微妙に生じた心の揺れ、みたいなものを書きたいと思う。とにかく興味の向く先が常にまして細かくなる。ところがど素人の私としてはどうやったらそんな微妙な感覚を小説という形にできるのか、今のところ見当もつかないのであった。『パーク・ライフ』を読むとそんな微妙な感じが表れている、ような気がした。繰り返し描かれる日比谷公園の風景。通常、人の目線の高さにて捉えられる風景はどうしたって平面上にあるがそこに重ねて、上からの視点で見た場合の三次元の風景描写とその風景を見る主体の内面に浮かぶ過去の風景という、時間軸を交えての四次元の描写が常日ごろ、特にぼんやり過ごしている時によくある、現実と記憶と空想との入り混じった曖昧な感覚をうまく表現している気がした。とにかく、小説中ではドラマチックな何かが起こるわけではない。それでもいろんなエピソードの断片が重ねられていった結果ラストシーンでは見事にその瞬間に主人公の感じたであろうなんとも言いがたいこれまたあいまいな感覚がこちらに伝えられた気がした。とかいう感想がまた「気がした」「気がした」「気がした」の、気分一辺倒で何がなんだかさっぱりな気がするけどそしてこれを読んだもらった方にはさらになんのこっちゃな感じだと思うけど読み終わって息をのんだ。こういのがありなら、私の書きたいと思うものもたぶん「あり」だ。2002年、文藝春秋刊。第127回芥川賞受賞作品。お読みになる場合でしかも他人の感想が気になりそうな場合はこの日記ではなくてもう少しまっとうな感想をお探しくださいますよう。
2006.12.29
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今日、両親は上海へ旅立った。母は約10日間、父は1週間、姉の家に滞在するらしい。私は年内あとだいたい3日ほど働く。残り4日中、3日も働くのね、と今初めて数えてみて、がく然とした。年の瀬の気配もない。今年は大そうじも年賀状もなし。ここを読んで下さっている方々に、どのくらい年賀状のやり取りをする方がおられるかわからないけどすみません私書きません。今回はただの一枚も書きません。それでもお正月は、京都で一人暮らしをしている祖母のところで過ごす予定。ゆっくりできるかどうかは仕事次第なのだけど祖母はお節を注文し、お寿司を注文し、しゃぶしゃぶをするつもりらしい。お雑煮ももちろん食べる。さらにケーキを買ってきたら?と。一泊くらいしかできないと思うのだけど、、、。旅立つ母から祖母宅に行く前に必ず電話すること、バスならどこどこで降りること、タクシーに乗るなら醍醐から乗ること、等々こまごま指示される。さらに上海への出発間際には風邪に気をつけて、ノロウィルスにも気をつけて、とあった。はい。私全然日常なんですけど。あまりに日常すぎて風邪を引くとかお腹を壊すとかそんな些細な非日常さえ起きる気配もないんですけど。とりあえずシゴトシゴトシゴトなのねえ。くどいようだけど年の瀬の、気配もなし。
2006.12.27
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多忙につき肌荒れ中。過去にも同じように多忙なことがありその時は肌が荒れてたよねって人が言ってたよって後になって言われたことがわりと心に残っていたため今回はそのようなことを無関係な他人から言われないよう注意していたのだが、また言われた。しかも同じように誰それさんがそう言ってたよっていう形で。むむう。実際にはほとんど「放っといてくれや!」な気分で、それでも言うとしたら「直接言ってくださいよ!」な気分なのだけどまずは単純にショックなのであった。その日の深夜。ふとつけたテレビで京都のメーカーが自然素材だけで作ったというイメージ的にいかにも「よさそう」なマッサージクリームを販売しており例になく即買いする。午前2時に注文の電話をかける。呼び出し音の後につながったのは、意外にも機械の自動音声ではなく人間の女性「ヨシオカ」さん。冷静で、丁寧だけど事務的な声がこちらの状況にそぐわない。すでに電気を落とした部屋は暗く私はパジャマでほとんど眠りこけている。テレビでは妙にテンションの高い担当者が商品の説明中で三者の間に全く接点が見出せない感じ。電話の相手はまるで地球の反対側か、それならまだしも異次元で電話を受けてくれているような感じ。どこまでも現実的な応対をする相手にわけもなく「すみません」、と言いつつ電話を切り、すぐに寝る。はたしてほんとにお買い物をしたんだろうか、と翌朝も半信半疑であった。昨日実際に商品が届いた。予告どおりS急便で。眠い中ほんとに電話してたんだなあ、と我がことながらほお~と感心する。深夜のテレビショッピングは相当シュールだ。どことなく不条理なシチュエーションの匂いさえ漂う。ぜひご体験ください。
2006.12.25
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このところ少々忙しくしているため夕食が疎かである。食事をいいかげんにしても、当面はどうってことはないが2,3年後にそのつけが回ってくる。体調的にがくっと崩れやすくなる。そういうことを経験的に知っているので夕食を適当に済ますかわりに朝食をいつもよりちゃんと食べるようにしている。そこでさっきは明日の朝食用に“OKピンポン料理”を作った。以前の大学の時の先輩に教えてもらったものでとにかく簡単。ざくざく切った白菜と、ソーセージ又はベーコンなどを交互に重ねて鍋に入れる。ふたをして弱火にかける。やわらかくなるまで決してふたを開けない。それだけ。なのにけっこうおいしい。野菜もたっぷりとれる。このあまりの簡単さに先輩は“OKピンポン”と命名してしまったらしい。今のところに勤め初めてすぐのころこの人にはよく食事に連れてもらった。一人暮らしをしていたので、栄養ちゃんと採ってる?何か食べたいものある?と聞いてもらって「そういえば最近ワカメを食べてません」と食材で答えてしまったのだがそのピンポイント加減にあきれもせずツッコミも入れずまんべんなく食べられるところに連れて行ってもらった覚えがある。懐かしい。この先もいつまでもこれを作るたびにきっと思い出す。とりあえずあしたの朝を楽しみに。。。
2006.12.19
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元町のアフタヌーンティーにて食事。大きめの器に、カットされたパンや野菜、蒸した鶏肉などが盛り付けられるプレートサンドイッチ。10年ばかり前、友達とよく食べた。職場の同期でもあった彼女は当時今私の住んでいる部屋に住んでいた。大学の時に弁護士を目指していたという彼女はまれに見る賢い人だった。しかもだれもが記憶に残す美人。さらに芸術家でもあった。彼女とはずいぶんいろんな話をした。考えていることを話してもたいてい共感されないと、当時思っていた私にはすんなり話が通じるめずらしい相手だった。数年間友達づきあいをしたが常々日本を出たいといっていた彼女は独学でフランス語をマスターし、旅行先のパリで知り合った男性と暮らすべく日本を去っていった。毎日暮らすこの部屋で時々懐かしい気配を感じることがある。彼女の旅立つ寸前に、ちょっとしたことが気になってしまい、連絡をそれ以来とらないままになっている。元気にしてるんだろうか。今でもパリにいるんだろうか。大好きだった彼女と今でも話をすることができる私でいられているのか時々考えることがある。パリ。街の名を聞くだけでいろんなことを考えずにはいられない。でも私もパリに行きたい。私も好きな人とそこで過ごせればいいのに、と思う。
2006.12.18
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冬なのにぬるい。空気がぬるくて日差しが不当に強い。何かがにおい立つ気さえする。12月なのであれば空気がもっと澄んでいてほしい。吐く息は白く月は冴えて群青色の空が遠い昼間の太陽は単に明るさを添える程度間違っても温度を上げてはいけないそんなのが好みだ。明日はちゃんと冷えるらしい。17日。そうでなくっちゃ、と思う。
2006.12.16
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先月。珍しく早々に来年の手帳を購入。今年の手帳は淡いピンクの色目が気に入って買ったのだったが例年どおりあんまり活用せず終わろうとしていてその反省の心持ちがあるのか今回もピンクである。手帳を買うときのこだわりは・月間スケジュールのページがあること・かさばらないことである。しかし実際にはほとんど手帳を活用しない。いくらがんばってみても、たいてい夏ごろから持ち歩くことさえなくなるのが常なのであんまり偉そうなことは言えないのだが。それでも手帳が並んでいるといちおう迷ったりする。あれこれとながめてみてまあ、いつものように月間スケジュールがあるものを候補に残すのだがどうも世間には週間スケジュールのものがはやっているのかな?と思う。この週間スケジュール、というのがあんまりしっくりしない。まず第一に予定の一覧性がないのがいやだ。中途半端に広く一日の欄が取ってあるようにも思う。区切りの単位として「週」が用いられていること自体が何となく余計なお世話な感じもする。とか思いつつ基本は月間スケジュールと決まっていても月間だけで事足りるというのはどうなんだ?という気がしてちょっと見栄を張ってやっぱり週間スケジュールつきさらにフリーページのそこそこあるのを選んだ。どんなに忙しくても週間スケジュールを使いこなす日はたぶん来るまい、と思うけどフリーページは大切なのだった。それにしても内容はどうあれちょっとかわいすぎる感もあり。。。
2006.12.13
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冷静に考えるとこわいのだけどうちには飼ってたハムスターを埋めた植木鉢がある。現在2匹が埋まっている。1匹目と一緒に埋めたのがハナニラの球根。2匹目と一緒にはチューリップの球根。今年は気温が下がるのが遅くいつまでも暖かかったため寒くなりかけたころにハナニラが元気いっぱいに芽吹いていた。そのハナニラの芽、というかひよひよと伸びた葉をかき分けて今日詳細に見てみるとこっそりとチューリップが芽を出していた。来年の春に芽吹けばよいと思っていたのに、12月。はなごろう、ちょっと無理?、と一緒に埋めたハムに話し掛ける。今でも毎日帰宅するとハムの名前を呼びかける。毎日呼んだ甲斐あって芽が出たのかもと思い土から出たばかりでまだ硬い芽を指先でそっとつつく。はなごろうの鼻先をなでている気がしておかしい。さて、どうしよう。どうしたら季節はずれのチューリップに花まで咲かせることができるんだろうか。咲かせるつもりある?たぶんなんにも考えてないんだろうけど、はなごろうは。
2006.12.11
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冬の夜は火の匂いがする。からっぽの部屋に帰宅すると昨晩暖めた空気の余韻がある。温度は低いのに火の匂いがする。たとえば蝋燭を灯したりお香をたいたりまたは子どものころの石油ストーブだったりそんな、具体的な何かが燃える匂いとは違う。ガスを使って煮炊きした残り香とも違う。暖まった空気の匂い。それはなぜか火を連想させる。いったい何の匂いなんだろう、と思う。ただこの匂いは冬にしか感じられない。個人的な季節の風物詩。手袋に息を吹きかけた時の湿った匂いとか冴え冴えした月の下で吐く白い息とかそんなのと一緒くたになって冬ならではの温もりとして不変のノスタルジーを形成している。
2006.12.10
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受胎告知。西洋の絵画を見ていると度々表れるこのテーマがなぜか個人的に興味深い。聖母マリアのもとに、神の子が宿されたことを告げにくる大天使ガブリエル。それを受けて驚くマリア。その瞬間を描いたものだ。天使は普通は天上から現れる。そのせいか、受胎告知を描く絵画の中には、画面上部に天使を、下部に聖母マリアを配置する構図が見られる。はっきりと画面の上部下部を分けていないとしても若干、天使を高く配置してるものが多くあるように思う。でも、数あるこのテーマの作品の中で私が好きな構図は横長のものだ。レオナルド・ダ・ヴィンチと、フラ・アンジェリコのとが特に気に入っている。この2つの画面ではマリアとガブリエルとが同じ高さに描かれている。キリスト教の解釈としてそこにどのような意味合いがあるのか、勉強不足の私としては想像の域を出ないけれどもこの2人が対等な高さにいることに加えていずれも人間的でない、どこか浮世離れした容貌であるところに人の子でない子を宿したマリアと、もちろん人でない天使の生臭さを排した静謐な雰囲気が表れている気がするのだった。数日前に新聞でレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知が来年東京にて公開されると知った。何年も前にフィレンツェでこの絵を見た覚えがあるのだけれども身近なところでまた見られるのであればそれは外せない。何でも日本で初公開らしい。このところの忙しさのご褒美のひとつに取っておこう、絶対見に行く!と決意する。
2006.12.08
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明日は文芸講座の日。前回は多忙につき欠席してしまった。本来は明日は作品を提出したかったのだけど気力不足につき降参。実際出席できるかどうかさえ、明日の夕方になってみないとわからない。仕方ないなあ。仕事だけで日常を過ごすつもりは全くないけどしばらくはご奉仕の日々である、とあきらめる。まあ、ひと月ばかりは忙しい。それが終わったら旅に出よう。好きなことをたくさんしよう。仕事であっても嫌いなことはできない、と思って職業を選んだ。それでも仕事であるからには好きなようにはできない。ストレスは、ある。不満も、ある。でも、ストレスも不満も、感じるのは自分自身だ。嫌ならそれらを感じなくても良いやり方はいくらだってある。なのでストレスありますよ?不満もありますよ?それが何か?あなたには関係ないでしょう?という気分。第一あなたって誰?近頃、ストレスや思い通りにならない不満をあってはならないものだと否定する風潮があるような気がしていてそれらを否定することが心の病を発生させる一因になっているのではないかと思っている。ストレスも不満もあるでしょう。そりゃあ。別にあっても良いでしょう。というか普通はあるでしょう。でもそんなのはそれなりに流しておいたらいい。それを大問題と感じるかどうかはいつも自分自身に任されている、と思う。なのでしばらく奉仕の日々やむなし、なのであった。表面的にはご奉仕しつつ、小説のプロットを練らせていただきます。ついでにレポートの準備と。
2006.12.04
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朝から少々厄介な会議に出席。これのために、ただでさえ忙しい中、神経を逆なでされるような打ち合わせを重ねてきていた。でも無事終了。一緒に出席した方々が、今日はもう帰りたいなあ、と言う中振替休日をもらって実際に帰る私。そのまま大芸大へ。文芸学科の特別講義の情報をリンク友のゆりぞおさんからいただいていたのでそれを聞きに行く。谷川俊太郎さんを迎えての講義。テレビでは見たことがあったけど、実物にお会いするのは初めて。思っていたよりずっとピリッとした感じのお方だった。面と向かって話したら、有名な人と知らなかったとしても、緊張感が走るに違いない。しかし全体的には、詩についてのまったりゆったりした座談会のような講義。谷川さんと詩論の先生と中国の詩人Dさんが壇上でフリートークをなさる。途中、Dさんが、「谷川さんの詩を中国語に訳す時に漢字があるとイメージが湧く、日本語には漢字もあるのに漢字を使わないでひらがなだけで詩を書くのは反則だ」というようなことをおっしゃった。そして「日本固有の漢字のみを用いて詩を作ってみたい」とも。「川」とか「峠」とか、日本固有なのだったっけ、としばし考えてみる。と、それって読み下す時にはどうするの?送り仮名を用いるのであれば漢字だけの詩といえないんじゃないの、という風に話が流れた。でも和製漢字だけで詩を作るというのはきっと、和語だけで文章を書くとどうなるか、ということに近い感覚ですよね。和製漢字だけでは詩を作るのは無理かもしれないけど和語だけでということならいけるかも、と思った。この講義のあと、通学生対象の非公式ゼミにちょこっと同席させていただいた。内容はもちろん詩について。詩とは日本語の文章として意味の通じる文言を連ねた結果深い意味が生じるものであるべき一読したときに表面的な意味さえ通らないものはどうかというDさんのお話が印象に残る。詩一辺倒の午後。詩について考えるといつも、話し言葉の、または日本語の、またはそもそも言語というものの本質について考えることになる。小説もいいけれど、詩も書きたい。小説を書くときの言葉も、できれば詩的でありたい。なんていう理想を持っている。
2006.12.01
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