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東京は今が紅葉真っ盛り。11月も今日が最後です。まさに晩秋という感じですね。森の中のハイキングコース。野性の動物たちの水飲み場もあります。この森には、タヌキやイタチ、オオタカなどが生息していることが確認されているそうです。東京の住宅地のそばにも動物たちのオアシスがあるんですね。枯葉の絨毯が敷き詰められた道は続きます。やがて、住宅地を見渡せる丘に出ます。すすきが秋らしいですね。夕日が沈んでいくのが見えます。晩秋の風景をお届けしました。場所は東京都日野市南平です。
2006.11.30
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私は会員ではないのですが、今日は国際縄文学協会の会合に参加しました。弁護士の西垣内堅佑さんが理事長を務める会で、古代史だけでなく精神世界の探求にも力を置いている研究団体です。今日の講師は秋山眞人さん。「異次元の世界を語る」というテーマで一時間講演。その後、二日前に誕生日を迎えた秋山さんを囲んで、軽食付きの懇親会に突入し、講演時間を含め計三時間半も古代史や精神世界の話で盛り上がりました。西垣内さんとは今日が初めてお会いしましたが、弁護士でありながらソニー出身の天外さんのように多くの神秘体験をされているそうです。位山では何と、巨大な浦島太郎がカメに乗って空を名古屋方向へ向かってゆっくりと泳いでいく影像や黄金に輝くピラミッドのビジョンを見たそうです。拙著『「竹内文書」の謎を解く』を読んでくれていて、古代史談議に花を咲かせました。日本の古代史のキーマンはニギハヤヒでしょうか。秋山さんからは1万年前に人類が使用していたかもしれない気球(天空浮船)の絵を描いてもらいました。やはりそういうビジョンがたびたび見えるそうです。静電気などの帯電した電気をアースするための紐も見えたと言っていました。熱海の海底遺跡も気球の発着場であった可能性が強いとのことです。いわゆる2013年のアセンションについての秋山さんの見解は、東洋と西洋の価値観のバリアがなくなるような流れが起きるのではないかとのことでした。その前の2008年には、日本人が日本霊界と結び直されるような現象、つまり、それぞれの国がそれぞれの霊界と結びなおされるような現象が起こると予想していました。さて、二年後、七年後には何が起こるのでしょうか。
2006.11.29
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三日前から始まった大掃除の中休みで、今日は都内川めぐり。最初は神田川。遊歩道に植えられた木の向こう側に猫ちゃんがいます。もうちょっと近づいてみましょう。長い尻尾の猫ちゃんですね。続いて高井戸から玉川上水へ。玉川上水の土手の葉陰に猫ちゃんがいます。葉陰から出てきて、日向ぼっこです。小平公園で折り返し、仙川上水を経て善福寺川へ。善福寺川沿いの公園のベンチ下に隠れていた猫ちゃん。こちらは善福寺川沿いの家のヒーター室外機の上で寝ていた猫ちゃん。室外機の上は、暖かいんですよね。厳しい冬を乗り切るため、猫たちは工夫して生き抜いています。弱者や猫ちゃんが安心して暮らせるようになるといいですね。皆さん、よいお年を!
2006.11.27
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「私、脱いでも凄いんです」とばかりに、本日発売の「週刊プレイボーイ」にデビューしました!でもご安心ください。私が脱いだわけではありません。巻末カラーグラビア(ヌード写真の狭間にあるので見つけづらいですが)4ページの特集「超古代文明ジャーナル:日本のピラミッド」に私のコメントが載っているだけです。拙著『「竹内文書」の謎を解く』も参考文献として紹介されています。女性のヌード写真だらけの雑誌のため、購入するのも、立ち読みするのも”勇気”が必要ですが、引用された私のコメントだけ紹介しましょう。オリジナルは次のようなコメントです。▼竹内文書や酒井勝軍に関するコメント:現存する竹内文書には、尖山や葦嶽山がピラミッドであるとの明確な記載はない(竹内巨麿の長男義宮が編纂した『神代の万国史』に、尖山は神殿の跡であるとは書かれている)が、竹内文書の研究家である酒井勝軍や上原清二らが太陽を祀る神殿という意味で日本にもピラミッドがあったと主張した。全山すべてが人工物とは思えないが、葦嶽山や尖山の頂上には大きな石が配置されていたり、近くに明らかに人工的な巨石遺構(鬼叫山の神武岩や尖山の中腹にある円形劇場のような石組み)が築かれたりしていることから、何らかの祭祀のため山に加工が施された可能性が高い。おそらく太陽信仰の神殿もしくは祭祀場として使われたのではないか。エジプトのピラミッドも最新の研究では、墓ではなく太陽信仰などの祭祀場であったのではないかと考えられている。その意味で葦嶽山や尖山も「古代人のピラミッド」と言ってもいいと思っている。また一部だけ加工されている葦嶽山や尖山と異なり、黒又(クロマンタ)山はほぼ全山が人造である可能性があるので興味深い。黒又山を徹底的に調査すれば、古代ピラミッドの全容が解明できるのではないだろうか。▼超古代文明の可能性についてのコメント:問題はこうした巨石遺構がいつの時代に造られたかだが、決定的な判断材料になりうるのが沖縄・与那国の海底に眠る巨石遺構「海底遺跡」である。琉球大学の木村政昭教授によると、この遺跡は明らかに人工物で、今から1万年前に建造された可能性が極めて高いという。しかも、海底遺跡周辺の海底には、カイダ文字という与那国に古来伝わる象形文字と似た文字が彫られていることがわかっている。このほかにも海底遺跡には、太陽などの天体観測に使ったとみられる「太陽石」も見つかっている。つまり、巨大な岩石の加工技術をもち、天体を観測し、かつ文字を持った超古代文明が、1万年前に日本列島に存在したかもしれないわけだ。もう一つの傍証として私が注目しているのは、岐阜県の位山を中心にして、日本海側から太平洋側までの約三百二十キロにわたる同一経線上に羽根という地名が並んでいることである。私が二十二年前に、富山大学文学部の山口博教授(当時)と竹内文書を解読しているうちに見つけたもので、意図的に配置された地名である可能性が強い。この経線を便宜上、イギリスで発見された「レイライン」になぞらえて「羽根のライン」と呼ぶことにする。南北の同一線上320キロにわたって直線を引くのは大変な事業である。江戸時代後期に伊能忠敬が全国を測量して日本地図を作成したことが知られている。しかしその伊能をしても、これほど経度を正確に測ることはできなかった。羽根という地名は江戸時代以前からあり、羽根のラインは伊能図よりも正確に経線を引いていたことを示しているのだ。大和朝廷以降の時の政権がこの地名を配置したのであれば、何らかの公的な記録が残っているはずだが、残っていない。こうしたことを勘案すると、大和政権成立前の古代において、江戸時代の伊能を上回る測量技術をもつ日本人がいたのではないかと思われてくる。これがただちに1万年前の超古代文明と結びつくわけではないが、羽根のライン上にある位山周辺には、与那国の海底遺跡と同様に天体観測に使ったと思われる巨石遺構がたくさん見つかっているのである。与那国の海底遺跡と位山周辺の巨石遺構の共通点は多い。おそらくはわれわれの知らない古代において、天体観測をしながら、精密に南北を測定、羽根のラインを後世に残した古代人がいたのではないだろうか。羽根のラインこそ、日本の古代史を根底から覆す「動かぬ証拠」になるのではないかと、私は考えている。(了)上記を大幅に削ったコメントが掲載されています。(写真は広島の葦嶽山や富山の尖山)。ちょっとしたお知らせでした。
2006.11.27
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昨日は3時間半の山歩きでしたが、今日は2時間のサイクリングでした。目的がないのもつまらないので、中野区立中央図書館に本を返却した後、上井草の早稲田ラグビーグラウンドへ。既に早稲田Cと慶応Bの試合が始まっていました。慶応のセカンドジャージを初めて見ました。黄色に黒の横じまは同じなのですが、黒のラインが細いので遠くからは真っ黄色に見えます。ちびタイガージャージですね。試合は早稲田Cが53対0と圧勝。慶応はフォワードが圧倒されていました。一軍と二軍の差がこれだけあるということは、慶応の一軍はよほど少数精鋭ということでしょうか。第二試合は早稲田Bと明治Bの関東大学ジュニアラグビー選手権の準決勝。10月に八幡山でやった試合は明治がフォワード戦で終始優位に立ち19対14で勝っています。この日は早稲田がリベンジを果たし43対19で勝利。スクラムでは明治フォワードが優位に立っていましたが、早稲田はボールに対する寄りの早さで対抗。明治バックスのディフェンスが悪いせいかはわかりませんが、早稲田のハーフ、バックス陣が明治のディフェンスラインを何度も切り裂いてはトライを重ねていました。最後は明治スクラムの認定トライもあり、強い明治のフォワード対スピードと展開の早稲田バックスという「伝統的な試合」ではありました。その後私は、善福寺川のサイクリングコースへ。和田堀公園のベンチには猫ちゃんが座っていました。どこか風格のある猫ちゃんですね。
2006.11.26
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今日の富士山です。すっかり雪に覆われていますね。山の紅葉です。上の写真はそれほどではありませんが、段々赤い紅葉も現われます。赤と黒のコントラストがいいですね。これは結構赤いです。次は真っ赤ですね。ススキが太陽の光の中で美しい。紅葉は続きます。しばし、ご覧下さい。しかし、このように自然が豊かな東京の山ですが、ご安心ください。自然破壊はちゃんと続いていますよ。石原知事のおかげです。みなさんが選んだ知事殿です。びわ滝。この日もオーブは撮れませんでした。麓の紅葉。山よりも麓のほうが紅葉が綺麗になってきました。写真はいずれも奧高尾と高尾山麓。今日の高尾はまるで銀座並みの混雑でした。ケーブルカーは長蛇の列。普段の登山道も大賑わいでした。もちろん私はケーブルカーなど使いません。三時間半ほとんど休まずに山の中を歩き回っていました。シェイプアップ道を究めるのも大変です。
2006.11.25
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先週土曜日に行った奥多摩の紅葉の続きです。奥山に踏み入ります。多摩川の上流。今来た道を振り返ります。とうとう奥多摩湖のダムが遠くに見えてきました。小河内ダムです。せっかくの山奥の雰囲気が、ダムとという巨大な人造物で興ざめになってしまいます。それでもダムさえ見なければ、奥山です。尾根の日当たりのいいところは、紅葉が進んでいます。奥多摩湖の湖面も見えてきました。しばし、紅葉をバックに記念撮影。これは浅間神社です。浅間神社は霊峰富士山と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀っていることで知られる神社ですね。ゴールの奥多摩湖まであと少し。山道は続きます。奥山の紅葉です。上の写真を撮った1分後に、同じ場所をキャッキャッ騒ぎながらおサルさんの一群が通り過ぎてゆきました。小石が落ちてきたので、私は早々に立ち去りました。滝のリ沢。そしてようやく、奥多摩湖そばの村近くにたどり着きました。むかしみちの九キロのハイキングコースも奥多摩湖がゴールです。奥多摩湖からはバスで奥多摩駅に戻りました。バス停そばには冬桜が咲いていました。
2006.11.24
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今日は秩父の宮でラグビー観戦。ヒヤヒヤものでしたが、早稲田が慶応に勝ちました。明治戦でもそうでしたが、慶応の山田のステップは面白いですね。早田をかわしたプレーはすごかった。早稲田の今村と五郎丸の強さもさすが。今日は慶応のディフェンスと山田や五郎丸、今村の個人技を観に行ったようなものでした。早慶は大学選手権で再戦するかもしれません。ところで、写真の猫ちゃんは近所のお米屋さんのプーちゃんです。おコメの袋の上にちょこんと座っています。二年前に捨てられていた子猫をご主人が拾ってきて育てているそうです。立派な黒猫ちゃんに育ちました。いい人に拾われてよかったね、プーちゃん!
2006.11.23
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奥多摩の紅葉の続きです。山奥へ進めば進むほど紅葉がきれいになります。心が洗われますね。緑とのコントラストも綺麗です。これは弁慶の腕抜き岩。岩の下のほうに、弁慶の腕が入るほどの大きな穴が開いていることから名づけられました。紅葉はますます鮮やかに。多摩川には吊り橋が架かっています。一度に五人しか渡れないことになっていますが、10人ぐらいが渡っていました。その吊り橋から撮影した多摩川です。奥山に分け入ったという感じですね。ゴールの奥多摩湖まであと三キロほどです。(続く)
2006.11.22
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今日はポカポカ陽気で、素晴らしい秋晴れでした。かねてからの予定通り、東京海洋大学の茂在寅男名誉教授らイワクラ学会の人たちと、筑波の巨石めぐりをしてきました。筑波山です。左が男体山で、右が女体山。女体山のほうが高いので、この地方では昔は女性上位だったとか。これはつくば市にある鹿島神社です。鳥居の左側には巨石が連なっているのがわかります。その巨石群です。御神体は巨石です。その巨石が安置されている奧社。さらに奧に鎮座する磐座(イワクラ)とみられる巨石です。その後、筑波の歴史に詳しい地元の方の家にお邪魔して、しばし筑波山の歴史などについて話を聴きました。とても素敵なお家です。庭で採れた野菜を中心とするお昼までご馳走になりました。ありがとうございました。筑波の古代史や巨石の話は、いずれ詳しく触れたいと思います。
2006.11.21
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「奥多摩むかしみち」は、氷川村からダムができた小河内までを結ぶ旧青梅街道です。かつては大菩薩峠を越えて甲府へ至る甲州裏街道と呼ばれており、甲州街道よりも8キロほど近道だったそうです。むかしみちの入り口付近では、”門番”の猫ちゃんが日向ぼっこをしていました。ポカポカ温かそうですね。「道中、気をつけて行くんだぜ~」むかしみちは、最初はこんな感じです。最初は舗装されていますが、段々と舗装されていない山道になっていきます。青梅街道の向こう側に富山の尖山に似た山があります。富山の尖山は太古、原日本人が太陽信仰の神殿として使っていたとみられていますが、この山はどうだったでしょう。むかしみちの脇には、かつて小河内ダム建設のときに使われたトロッコ鉄道の軌道跡が残っています。最初の休憩所に到着。槐木(さいかちぎ)というマメ科の巨樹が目印です。休憩もソコソコに先へ進みます。この辺りから、紅葉が目立つようになってきます。不動の上滝。オーブは写っていませんでした。くねくねと曲がる山道を進んでいきます。向かいの山でも紅葉が始まっています。山奧に進むにつれ、紅葉も色鮮やかになっていきます。多摩川に流れ込む支流。白髭神社に到着しました。これはすごい! 石灰岩の大壁(断層面の露出)を側面にして社殿が建っています。大壁の上方も紅葉していますね。祭神は塩土翁神と高麗王若光。若光の風貌から白髭と名づけられたそうです。猿田彦命と武内宿禰を祀っているとの説もあります。記紀などによって日本の歴史は歪められてしまいましたから、本当の祭神もわからなくなってしまいました。奥多摩駅から白髭神社までが約4キロ。奥多摩湖まであと5キロほどあります。先へ急ぎましょう。紅葉はますます鮮やかになっていきます。(続く)
2006.11.20
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昨日は今秋二度目の奥多摩へ。紅葉が見事でした。既に真っ赤になったモミジ。かと思うと、緑から赤へと変わりつつあるモミジも。そのグラデーションがとても綺麗です。JR青梅線の奥多摩駅に着いたのは午前11時半でした。駅から奥多摩湖まで「奥多摩むかしみち」という全長9キロ、徒歩4時間ほどのハイキングコースがあります。私はすぐには「むかしみち」へは向かわず、氷川渓谷を30分ほど散策しました。最初は奧氷川神社境内にある三本杉。樹齢650年。鎌倉末期にはあったそうです。そのまま多摩川の河原の方へ降りて行きます。青梅街道の氷川大橋を見上げます。河原から見た風景。赤い橋が川面に鮮やかに映っていますね。さらに先を進むと吊り橋が。吊り橋から先ほどまでいた河原方向を振り返ります。家族連れが石投げなどをして遊んでいます。吊り橋を渡って奥山へ。山道を川沿いに歩きます。この道は穴場で、土曜日でもほとんど人がいません。川のせせらぎ。静かな時が流れます。竹林の緑と紅葉。山道はその後、青梅街道に合流。少し青梅街道を駅の方へ戻って「むかしみち」を目指しました。(続く)
2006.11.19
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「新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編)」のシリーズは昨日終了しました。これで6年にわたる地方での記者生活時代が終わり、いよいよ本社経済部記者時代へと突入するわけですが、次の次の作品(次回作品は『留学生のための英語論文・ペーパー作成術』になる予定)の取材に専念したいため、ブログの更新を不定期にさせていただきます。ご了承ください。次の次の作品では、再び皆さんが驚愕するようなノンフィクションの世界へと誘いたいと思っております。ご期待ください。
2006.11.18
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▼ホピの予言2緊急集会の目的は、ホピの予言を外部に公開するかどうかであった。とういうのも、石板には、二つの世界大戦と広島、長崎への原爆投下とみられるシンボルが刻まれていたからである。原爆はホピの言葉で「灰のびっしり詰まったクッション」と表現されていた。このままでは地球が破壊されてしまうことを人類に警告すべきではないか――。精神的指導者「キクモングイ」たちの意見は一致した。三人のメッセンジャーがその会議で選ばれ、ホピの予言に込められた教えと警告を世界に伝えていくことになった。宮田さんが1978年に出会ったのは、その三人のうちの一人バンヤッケであった(三人の中で最後まで残っていたバンヤッケも1999年に90歳で死去した)。ホピの聖地は当時から、莫大な量の石炭や石油、それに地球最大級のウラニウム産地として開発が急激に進んでいた。ホピの聖地から採掘されたウラン鉱石が核兵器など核開発に使われていたのである。日本の原発に使われるウラン鉱の一部も、ホピの聖地で採掘されたものであるという。しかも聖地は、核廃棄物の巨大処理場に変貌してしまった。ずさんな核廃棄物処理のせいで、ホピやナバホの人たちの中からは「被爆」するものも現われた。聖地は開発の名の下に破壊され、ホピは汚染に苦しむことになった。それは人類が直面している危機そのものであった。宮田さんはバンヤッケによって語られるホピの予言を通じて、ホピの聖地が現在どのような危機に直面しているかを映画の中で訴えた。「文明が母なる地球を被爆させ、その呼吸を困難にさせているのだ」と、宮田さんは言う。「ホピの生き方こそが、この地球の病を治す唯一の道である」宮田さんはその後、89年から6年かけて日本とアメリカを頻繁に行き来し、第二部の制作に取り組んでいたが、95年3月編集作業に入る直前、米国滞在中に脳内出血で倒れてしまった。一命はとりとめたが、重度の後遺症が残り、現在療養生活を続けているという。
2006.11.17
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▼ホピの予言1当時埼玉県に住んでいた映画監督宮田雪さんに会うまでは、ネイティブ・アメリカンのホピのことはほとんど知らなかった。何のきっかけで宮田さんと出会ったかはよく覚えていないが、宮田さんがちょうど『ホピの予言』というドキュメンタリー映画を完成させて、自主上映を始めた1987年の7月ごろ取材、予言の話を8月の広島原爆の日に併せて出稿した。『ホピの予言』は、核兵器を開発し、地球の環境を破壊し続ける人類に対するホピからの警告のメッセージを伝えるドキュメントであった。宮田さんがこの映画を作るきっかけとなったのは、1970年代にインドで仏教僧から「大地と生命を敬い、創造主への信仰のもとに生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが近代物質文明を変えるだろう」という言葉を聞いたことであった。宮田さんはその後、1978年に訪米。ネイティブ・アメリカンによる権利回復運動「ロンゲストウォーク」に参加した際、「ホピの予言」のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカと出会い、映画の製作を決意した。ホピ族はアメリカ南西部、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドの4つの州が一つに交差する「フォー・コーナーズ」周辺、コロラド高原とグランド・キャニオンなどの巨大渓谷に囲まれた地に住むネイティブ・アメリカンである。多くのネイティブ・インディアンたちがヨーロッパからの侵略者によって祖先伝来の聖なる地を追われていく中、ホピ族は少なくとも二000年以上、マーサウという偉大なる精霊(グレートスピリッツ)から与えられた土地を守ってきた。そして、多くの差別と迫害に耐えて、その伝統的な生き方と、偉大なる精霊から与えられたという予言の石板を死守してきたのだという。 バンヤッカによると、もともと予言の石板は門外不出の古くからホピ族に伝わるメッセージで、宇宙の計画としてホピに与えられたものであった。「第三の世界」と呼ばれるこの世界の始まりから、浄化の日を経て、「第四の世界」と呼ばれる新しい世界が始まっていくまでのことが印されているのだという。ホピは常に、ホピ族自身に起こる変化とこの地球上で起こる変化を、その石板と照らし合わせながら見つめてきた。転機は1948年にやってきた。ションゴパビ村の地中の集会所「キバ」に、ホピの8つの村の精神的指導者「キクモングイ」が集まり、緊急会議を開いたのだ。(続く)
2006.11.16
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▼浦和支局の三年間結局、私が埼玉県政を担当している間は一度も国政選挙がなかった。取材して原稿にしたのは統一地方選と浦和市長選だけである。1988年秋の埼玉県知事選も、その年の春に本社経済部に異動になったので担当しなかった。畑和に対抗する自民党の候補が自治省出身の官僚に決まったことを、はるばる埼玉から東京・平河町の自民党本部まで出向いて原稿にしたぐらいであった。その後本社勤務では、平河町の自民党本部には足繁く通うようになるのだが、それは経済部編のシリーズで詳述することにする。埼玉県政は、成田―大宮リニア構想以外に全国ネタになるような動きもなく、極めて平穏であった。それでもヒマネタは書かなければならないので、埼玉大学と理化学研究所が提携する話などを独自ネタで原稿にしたこともある。変わったところでは、埼玉県北本市に住む自営業の男性が「幽霊探知機」を製作したという情報を得て、取材を試みたが、本人が試作機に自信がもてないということでボツになった思い出もある。映画『ゴーストバスターズ』が流行っていた時代でもあり、原稿にしたら大きな反響を呼んだのではないかと思うが、残念であった。岐阜県で恐竜の化石が見つかったというので、管轄外ではあったが休みを取って日帰りで岐阜県高山市まで取材に行ったこともあった。行く前には古生物の専門家に恐竜の化石の見分け方を簡単に教わったが、現場で見たものは残念ながら素人の私にも恐竜の化石ではないとわかるものであった。このようにして、殺人事件や日航機墜落事故といった社会部的大ニュースの“洗礼”を受けて始まった浦和支局での三年間が過ぎ去っていった。明日は「ホピの予言」について書いた原稿の話を紹介して、それで浦和支局編のシリーズを終えようと思う。
2006.11.15
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▼埼玉の政治家(浜田卓二郎とマキ子夫妻)政治屋だか、ヤクザだか、お笑いタレントだかよくわからない千葉県選出の元代議士にハマコーというのがいるが、埼玉県にはハマタクという代議士がいた。浜田卓二郎である。同じ浜田でも、ハマタクはサラブレッドというかエリート街道を進んだ政治家であった。1941年、鹿児島県で警察官の息子として生まれた。その後神奈川県横須賀市に移り住み、東大法学部を卒業。在学中に国家公務員上級試験と司法試験に合格するという秀才ぶりであった。結局、大蔵省に入省し、35歳まで勤めた。退官後は地縁、血縁のまったくない旧埼玉一区から自民党公認で衆議院選挙に出馬。79年は次点に終わったが、翌80年の衆議院選挙で初当選。90年まで四期連続当選し、自民党副幹事長や外務政務次官を歴任した。しかし、そのハマタクよりも注目を浴びていたのは、浜田の妻マキ子であった。マキ子も浜田と同時期に東大で学んでいた。しかも東大入学一年前は日本航空のスチュワーデスを10ヶ月勤めるという異色の経歴をもっていた。マキ子は1965年に東大卒業と同時に、参議院議員だった叔父の植竹春彦の秘書となった。同年3月15日、大蔵官僚だった浜田卓二郎と結婚した。1973年には和洋のマナーや英仏会話、料理、華道などを教える「芝アカデミー」を設立、学長に就任。テレビ出演や著書出版などタレントとしても活動した。ハマタクはその後、1993年に落選の憂き目に遭う。浪人中の94年に自民党を離党、新生党に移籍し新進党結党にも参加した。ところが96年の総選挙でも落選。無所属となった98年の参議院議員選挙でようやく当選し、5年ぶりに国政に復帰した。2003年の埼玉県知事選にも出たが、敗北。2004年、自民党に復党し参院選・比例代表で出馬したが惨敗した。事実上政界を退き、現在は東京弁護士会の所属する弁護士として活動している。一方、マキ子も1993年の衆議院議員選挙に自民党公認で出馬してメディアに注目されるが、夫婦そろって落選して、これも話題となった。マキ子はその後も衆議院議員選挙や東京都知事選に立候補したが、いずれも落選した。私が浦和支局にいたときは、「流行の夫婦」として記者の前に顔を出したこともあったが、やはり流行は廃れるものなのかもしれない。政治家の人生の盛衰を見るようで感慨深い。
2006.11.14
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▼埼玉の政治家(五十嵐文彦)1987年のある日、私が埼玉県政記者クラブにいると、埼玉県庁広報課員が一人の人物を連れてきた。その人は各新聞社を回って挨拶を始めた。共同通信の机のところに来ると、その人物は名刺を私に渡して自己紹介した。「五十嵐文彦です」それが後に埼玉県選出の衆議院議員となる五十嵐との最初の出会いであった。五十嵐は1948年生まれ。東京大学文学部を卒業後、時事通信社に入り、政治部の記者として活躍した。ところが、どういうわけか15年間勤めた時事通信を辞めてフリーになったのだという。そのときどのような会話を交わしたか詳しくは覚えていないが、私は五十嵐に対して「フリーになるとは随分思い切りましたね。政界へ進出されるのですか?」というようなことを聞いたと思う。私の記憶では五十嵐は「いろいろな可能性を探っているので、まだ決めていない」と答えた。五十嵐はその後、1990年に衆議院議員選挙に無所属で旧東京7区から出馬するが落選。1993年の衆議院選挙では、旧埼玉2区から日本新党公認で出馬して初当選する。1994年に離党後、新党さきがけに入党し、党政調会長代理を三年間務めた。1996年には民主党結党に参加、直後の総選挙では落選するものの、2000年の衆議院選挙で返り咲いた。2003年の総選挙でも再選されるが、2005年には自民党候補に大差で落選した。五十嵐との最初の出会いから6年経って、私は経済部の記者として国会周辺で五十嵐に再会した。五十嵐は私のことを覚えていなかったが、埼玉県政記者クラブで会ったことを告げると、その後も取材ではいろいろ便宜を図ってくれた。とくに新党さきがけで党政調会長代理を務めていたときは、連立与党が進める経済政策のことを詳しく教えてくれたので非常に助かった。五十嵐は現在、選挙の地元狭山市で、月一回政策研究会を開きながら、再起を期しているという。
2006.11.13
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▼紅葉シーズン突入へ今日辺りから紅葉が鮮明になってきたと思います。写真は一週間前の百草園(東京都日野市)の紅葉ですが、今頃はもっと紅葉が進んでいるはずです。百草園は京王線の百草園駅下車徒歩10分ほどですが、かなり急な坂を上ります。一週間前にも赤く染まっている木はチラホラと見受けられました。ただし大半は、まだ緑でした。緑の中の紅葉。緑も結構きれいですね。百草園の中にある竹林。赤くなり始めたモミジ。リンドウですね。マメヅタ。バラ。バラの蕾。オーソンウェルズの『市民ケーン』では、主人公のハーストとみられる新聞王がつぶやいた最後の言葉が「バラの蕾」でしたね。この日の百草園ではマリンバとギターの演奏会もありました。11月26日まで同園では「紅葉祭り」が開かれています。問い合わせは電話042-591-3478へ。百草園を一通り見た後、七生丘陵散策路を経由して、日野で唯一の酪農家「百草ファーム」を目指しました。その途中にある駐車場で出会った猫ちゃまです。こちらにやって来ますね。背中をなでてやると、ゴロゴロとのどを鳴らしていました。しかしそれでも足りないのか、自分で背中をこすりつけはじめました。ゴロゴロゴロゴロと転がりまわります。痒いよ~。ようやく終わりました。「あ~、疲れた」道端のお地蔵さん。これが百草ファームの牛さんです。小さな農場には牛が10頭ほど飼われており、食事をしている最中でした。さらに町に向かって歩くと、自家製生乳(せいにゅう)を使ったジェラートアイス工房があります。そこでアイスクリームを食べるのが観光コースになっています。最後に、ジェラートアイス工房のそばで撮った秋の穂を紹介します。ただ、何の穂なのかよくわかりません。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、ご存知のかた、教えてください。秋の一日でした。
2006.11.12
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▼埼玉の政治家(山口敏夫)埼玉県政を担当している間に取材した政治家の中で、なんとも憎めないキャラクターをもった代議士がいた。珍念と呼ばれていた山口敏夫である(なぜ珍念と呼ばれていたかは不明)。小柄だが、ひとたび口を開くと弁舌は明快で歯切れがいい。畑和知事から県政を奪還する自民党の集会が大宮市の大正製薬工場そばで開かれたとき、それまで二,三回しか会ったことがなかったのに、気さくに向こうから「元気?」と話しかけてきたこともあった。あれだけ人当たりがいいからこそ、選挙にも強かったのだろう。衆議院選挙で連続一〇回当選を果たしている。山口は埼玉県東松山市出身で、1940年に生まれた。父山口六郎次も衆議院議員だったが、山口が明治大学在学中に死去した。大学卒業後一時労働省に勤め、政治家秘書に転進。1967年自民党から立候補して初当選。26歳という最年少の当選として注目された。党内では、河野洋平、西岡武夫ら同年代の若手と結託して党内左派の勉強会「政治工学研究所」を結成、党内右派の「青嵐会」に対抗した。1976年には河野、西岡らと自民党を離党、第二の保守政党を目指して新自由クラブを立ち上げた。新自由クラブはその後浮沈を繰り返すが、やがて退潮が決定的になると、1983年には自民党・新自由クラブの連立内閣樹立に成功。山口は第二次中曽根内閣で労働大臣として入閣した。だが新自由クラブは1986年の選挙で惨敗すると解党し、自民党に復党した。その間山口は根回しに奔走、そのヒラリヒラリと派閥などのあちこちを飛び回る様から「政界の牛若丸」との異名を取るようになった。後に知ったが、山口に関しては「くればうるさい こなきゃさみしい記者と珍念」という戯れ歌があったのだという。まさに言いえて妙である。しかし山口も、1992年の埼玉県知事選ごろから政治力に陰りが見えはじめる。93年の宮沢内閣不信任案では不信任票を投じ、再度自民党を離党して無所属に。94年に新進党結党に参加したが、翌95年に東京協和・安全の2信用組合による乱脈融資事件に関与していたことが発覚、背任の共犯容疑で逮捕された。その際、新進党は離党したが、議員は辞職せず居座ったため、それまでの人気も急落。翌96年の総選挙には出馬せず、政界を引退した。背任罪や業務上横領罪で起訴された山口は一審、二審で実刑判決を受け、最高裁に上告した。
2006.11.11
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▼埼玉の政治家(土屋義彦と大正製薬)談合疑惑で出馬を断念した畑和に代わって埼玉県知事に選ばれたのが、自民党出身で参議院議長まで務めた土屋義彦であった。土屋のバックには大正製薬があった。土屋は大正製薬のオーナー社長として同社を大企業に育て上げた上原正吉の甥にあたる。上原正吉は埼玉県北葛飾郡杉戸町出身。1915年に前身の「大正製薬所」に入社。その後順調に出世し、戦後の1946年に社長に就任した。このころから大正製薬では、上原家が事実上のオーナーとして君臨するようになる。無借金経営を貫き、問屋を通さない直販体制を作り上げ、栄養ドリンク「リポビタンD」を売りまくった。巨万の富を築いた正吉は、自ら政治を動かすべく1950年には参議院議員埼玉選挙区から日本自由党公認で立候補し初当選。以後連続五回当選を果たした。第一次佐藤内閣で科学技術庁長官として入閣。自民党両院議員会長も務めた。正吉には子供がいなかったので、養子にしたおいの昭二(土屋義彦の実兄)を会長に就ける。1973年には社長を昭二に譲り会長に退いた。また、大平正芳の息子を婿養子に迎え同社の副社長にすえるなど政界への影響力を強め、大平首相誕生への資金面の原動力になったとされている。とにかく正吉は高額納税者番付の常連で、1964年~1979年の間に計6回もトップを占めた。正吉は1983年に亡くなったが、上原家には莫大な財産が残されていた。土屋義彦は上原家の資金力をバックに「土屋天皇」と称されながら、政界に君臨した。参議院議長になったのも、豊富な資金源をもつ「天皇」としての力が認められたからだ。このように土屋のような自民党の政治家は大企業と結託し、その潤沢な資金を背景に日本の政界を動かしていくのである。埼玉県知事を三期務めた土屋は、権力者の常と言うべきか、ほどなく県政の私物化に精を出すようになる。土屋の長女桃子は企業や団体からの献金を自由に使い、そうした企業や団体が有利になるように県政に介入していた疑いがある。建設業界が土屋に媚びるために、合角ダムの人造湖に土屋の長女桃子の名前からとって西秩父桃湖と名づけさせたのは有名な話。一族ぐるみで県政を推し進めた象徴的な出来事であった。しかし2003年に、桃子が知事の資金管理団体の資金約1億1000万円を隠し、流用した政治資金規正法違反事件で逮捕されると、土屋は知事を辞職する。まさに政治を私物化していた土屋一族らしい最後であった。もっとも次女土屋品子は、自民党所属の二世議員(衆議院議員)として、現在は安倍内閣にあって環境副大臣を務めており、土屋一族の政治の血はちゃんと受け継がれているのである。
2006.11.10
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▼埼玉の政治家(糸山英太郎)その県で選ばれる政治家を見れば民度がわかるというが、革新系知事を生み出した埼玉県であっても、その民度はあまり高そうではなかった。当時埼玉では、金権選挙で悪名を馳せた糸山英太郎が三区選出の代議士として幅を利かせていた。糸山は実業家の佐々木真太郎と糸山道子との間に生まれた。輸入車のセールスマンを経て、新日本観光に入社、ゴルフ場の運営で頭角を現した。その後笹川良一の姪と結婚して、資金の後ろ盾を得て、政界に信進出した。当初は中曽根康弘の秘書をしていたが、1974年に自民党から参議院全国区に出馬、32歳で初当選した。しかしこの選挙では、糸山が経営する会社や笹川が支配するギャンブル業界関係者らによる大規模な選挙違反が発覚、142人が逮捕されるという戦後最大の選挙違反事件に発展した。カネに物を言わせてなりふり構わず当選する糸山の金権政治は、笹川や闇の世界との関連性から物議をかもした。糸山に対しては選挙違反の責任を取って辞任しろとの声が上がったが、糸山が大枚をはたいてせっかく手に入れた参議院議員の職を手放すはずもなく、6年間国会に居座った。糸山に言わせると、綺麗な選挙などこの世に存在しないのである。カネで票をまとめてないが悪いということであろうか。糸山は1983年に衆議院議員に転身、一度落選を経験したが計三回当選し1996年に辞職した。総資産4200億円、世界で154番目(日本で5番目)の大富豪(米経済誌フォーブス)とされる糸山の周辺には、常に暴力団の影がちらついていた。カネが絡むところには、その臭いをかぎつけて集まる種類の人間がいるわけだ。糸山の裏には、糸山の依頼を処理する暴力団関係者がいたとされている。有名なのは、2004年に週刊誌などで報じられた「児童買春事件」である。糸山は、東京都港区にある自社ビル「ザ・イトヤマタワー」18階の自宅で、元暴力団関係者から紹介された16歳の少女を買春した。しかし、買春相手が18歳未満だとは知らなかったとして、児童福祉法違反に問われることはなかったのである。このとき、糸山と親しい暴力団組長が事件のもみ消しに暗躍したといわれている。カネで票を買う政治家にもあきれるが、カネで票を売る有権者もどうかと思う。糸山は最後まで札束を枕に、札束の夢でも見ながら死を迎えるのであろうか。そうだとしたら、実に哀れな姿である。
2006.11.09
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立冬の昨日、高尾山に行ってきました。京王線高尾山口駅から稲荷山コースで高尾山頂を目指します。このコースは舗装された道路のない自然道なのでいちばん頻繁に利用します。上りは90分と記載されていますが、私はいつも一時間弱で登りきってしまいます。しかし、この日は私よりも早く歩く人がいて驚きました。後ろから「さっさっさっ」という音がして振り返ったら、なんとその人は山道を走っていました。急な坂はさすがに歩いていましたが、平坦な道やなだらかな坂は小気味よく走り抜けていきました。まるで天狗さんですね。上には上がいるものです。さて、高尾山の山頂(599メートル)に到着。遠くに富士山が写っていますが、見えますでしょうか、雲の塊があるところが富士山の山頂ですね。肝心の紅葉はどうでしょう。まだちょっと早いようですね。ただ、ところどころに紅葉したモミジも見受けられます。紅葉している木は日当たりのいい場所にありますね。寒暖の差が激しいと早く紅葉するといわれています。山頂周辺の紅葉はどうでしょうか。赤と緑が混ざっていますね。全山赤く染まるのは、来週でしょうか。今週末もいいかもしれませんね。私はさらに奧高尾へと歩を進めました。紅葉台近くから見た富士山。中央奥にうっすらと見えるのが富士山です。両側をすすきに挟まれた道を小仏城山方面へと進みます。小仏城山の山頂(670メートル)にたどり着きました。ここはちょうど東京都と神奈川県の境です。神奈川県側には相模湖が見えます。中央の光っているのが相模湖です。その奥に富士山が見えているのですが、写真ではよくわかりませんね。城山から八王子(東京)方面の眺めます。左下に私の影がスーッと伸びています。城山の紅葉です。そして何と、この城山山頂に猫ちゃんがいたんですね!下の黒猫ちゃんにズームイン。上のミケ猫ちゃんにズームイン。降りたがっていますね。このような山の中ですから、野良ちゃんではないと思います。いったい誰が面倒をみているのでしょうか。もし野良ちゃんなら、山猫ちゃんになってしまいますね。この城山からは三つの選択肢があります。一つは今来た道を戻り、高尾山へ戻るルート。二つ目は「竹内文書」にも出てくる影信山を通って、陣馬山へと抜けるルート。三つ目は神奈川県の相模湖に下るルートです。昨日私が選択したのは相模湖へのルートでした。相模湖まで5・6キロ。ひたすら下ります。3キロほど下ると、相模川のそばの集落に出ます。そのときに振り返って、下って来た山を見上げました。この山のはるか向こうに城山があります。上の写真の電線の辺りに写っている木は、樹齢100余年のソメイヨシノだそうです。相模川です。この相模川に沿うようにしてJR中央線の相模湖駅へ向かいます。相模湖付近で空を見上げると、わかりますでしょうか、何かが飛んでいますね。上の写真では4羽ほどしか写っていませんが、数えたら12羽いました。地元の人に聞いたらトンビだそうです。「ピーヒョロロロロ」という鳴き声をよく聞くそうです。相模湖駅は午後4時52分の八王子駅行きに乗り込んで帰りました。来週はいよいよ奥多摩を目指す予定です。
2006.11.08
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▼革新系知事・畑和の夢結局、畑和のリニア構想は実現することはなく、畑は六選を目指した92年の知事選前に談合疑惑が発覚、政界を引退した。国が推進するリニア構想としては、大宮―成田空港間ではなく、自民党の金丸信が推進していた、金丸の地元山梨を通るリニア中央新幹線に事実上軍配が上がったのだ。一方北陸新幹線は、整備新幹線として着実に前進している。1997年には東京駅から長野駅まで開業、北陸まであと一歩のところまできている。中沖は知事を退いたが、悲願の北陸新幹線全面開通への道を切り開いたことになる。自治体の首長が描く夢が実現できるかどうかは、多分に中央との力関係によることは明白である。地元も自分たちの目先の利益を考えると、「寄らば大樹」で時の政権に擦り寄るのである。こうして巨大な利権の塊が生じ、保守王国の地盤を磐石なものとしていった。その中にあって、革新系知事畑和の評価は今でも高い。県立高校を増設したり、時間割を生徒自身で決定し組み立てることができる、全国で初めての総合選択性の普通高校・県立伊奈学園総合高校を創設したりするなど独自の教育政策を積極的に推進、さらには当時「ダサいたま」と呼ばれた埼玉のイメージを払拭すべく、さいたま新都心構想を打ち出した。人口の急増に対応して、警察予算や人員を増やすことにも躊躇しなかったので、革新系知事なのに、珍しく警察の受けもよかった。このように畑は現実的な路線を突き進んだこともあり、保守層にも食い込み、圧倒的な人気を維持することができたのである。五選といえば、生まれた子供も成人式を迎える長期政権だ。多選の弊害もあっただろう。現に私が浦和支局にいたときも、畑知事に関する疑惑がいくつか浮上しては消えていた。それでも畑の人気は絶大であった。退任の際は県庁前に職員約700人が集結して、盛大な見送り式が行われたという。畑は1996年1月26日、85歳で死去した。
2006.11.07
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▼県政:畑和と中沖豊1987年の春、私は県政担当となった。当時の浦和支局記者の担当は大きく分けて、三つしかなかった。警察、県政、遊軍(大宮市担当)である。既に私は警察と遊軍をやっていた。県政を担当することにより、無事“三冠”を達成することができたわけだ。県政担当にとって大きな取材となるのは、自治体の首長選挙や国政選挙である。私は富山支局時代にも半年間だけ県政担当をしており、そのときは富山県知事選を取材した。当時の知事は自民党出身の保守・中沖豊知事で、1984年11月に行われた知事選で再選を果たした。対立候補は共産党候補だけで、圧勝であった。いくら保守王国とはいえ、その後まさか20年間も富山県政に君臨するとは、当時は考えもしなかった。中沖は6期24年知事の座にとどまり、その座を2004年11月まで譲ることはなかったのである。1987年の埼玉県政でも、多選の問題が浮上していた。全国でも珍しい革新系知事である畑和の長期政権である。畑は日本社会党の代議士だったが、1972年の埼玉県知事選で初当選。84年には革新知事として四選を果たし、88年の知事選で五選を目指していた。政治家とは面白いもので、口を開けばいつも同じことを繰り返す性質がある。中沖はいつも「北陸新幹線、北陸新幹線」と熱病に冒されたように、北陸新幹線の敷設に血道を上げていた。畑はリニアモーターカーを成田空港―大宮間に敷設することを夢に掲げていた。記者がその質問をしようものなら、記者会見では「リニア構想」を延々と語り続けた。どちらも自らの政治生命をかけた闘いではあったのだろう。だが、北陸新幹線が地元への利益誘導の色彩が強かったのに対して、リニア構想は単なる地元への利益誘導ではない、政治家としてのダイナミックな夢があったように感じた。
2006.11.06
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最近撮影した秋の風景を紹介しましょう。新宿で見た秋空です。いずれも紀伊国屋新宿南口店前で撮影した秋空です。次は、秋の植物。こうじみかん。撮影場所は武蔵国国分寺の万葉植物園です。前回来たときにいた猫ちゃんには会えませんでした。柿。都会でも至る所でなっています。おいしそうですね。レモンマリーゴールド。国立科学博物館屋上の薬草園に咲いていました。続いて、ススキのある風景です。秋の夕日が川面に映ります。場所は小金井紙市の野川です。今日も、秋の風景を探しに出かけます。
2006.11.05
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今日は「僕の叔父さん」を紹介します。ティラさんです。僕の叔父さんというと、中沢新一の叔父さんである歴史学者網野善彦氏を思い浮かべますが、大きな目で生命の系図を見た場合、恐竜も人類の叔父さんのようなものなのではないかと考えることがあります。進化の枝は違うが、生命の源はつい最近まで一緒であった、と。秋山眞人氏らによると、宇宙人には恐竜から進化した爬虫類型と猿人から進化したヒューマノイド型があるそうですから、地球の恐竜も絶滅しなければ宇宙人へと進化したかもしれません。念のために、今の地球人はまだ宇宙人へと進化したとは言えません。恐竜のように滅亡して、今度は昆虫が地球人に取って代わる可能性が残っていますね。それにしても上の写真のティラノザウルスさん、いい歯をしていますね。歯は健康の源です。次はウミガメの恐竜アーケロンでしょうか。海竜です。名前はチェックしませんでしたが、モササウルスかもしれません。最近の研究では、一部の恐竜には羽毛が生えていたのではないかとされています。一番最初に紹介したティラノサウルスも羽毛恐竜で、子供には羽毛があったと考えられています。恐竜は絶滅したのではなく、一部は鳥類へと進化したとの説もあるようです。これがその羽毛恐竜。そこで公園のハトさんに聞いてみました。「お前は昔恐竜だったのかい?」答えは「クー、クー」。つまり「何かくれ」でした。ちなみに写真は、国立科学博物館の常設展示から。「ミイラと古代エジプト展」を観た帰りに立ち寄りました。
2006.11.04
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たまには拙宅を紹介しましょう。正面玄関から撮影した我が家です。レンガ造りのちょっと質素な家ですね。家の中。家具もなくがらんとしていて寂しいです。居間です。寝室の窓。各部屋には当然暖炉が付いています。窓です。本当に地味な作りですね。私の部屋の窓から庭を眺めます。二階の客室からは中庭が見えます。最後は庭から撮った我が家です。以上、拙宅の紹介でした・・・なんてはずはないですね。今日紹介したのは、加賀百万石・前田家十六代当主前田利為(としなり)侯爵の豪邸でした。前田家は明治維新で禄を失ったため、東京・本郷の旧藩邸に移住。明治17年の華族令発令で公爵の爵位を授与されました。ところが隣接の東京大学の敷地拡張に伴い、当時駒場にあった東京大学農学部の土地と交換、1930年に地下一階、地上三階建ての洋館と二階建ての純和風の和館を建てたのです。使用人は100人以上、当時東洋一の大邸宅と呼ばれていたそうです。しかし前田家の栄華も長くは続きませんでした。第二次世界大戦でボルネオ方面軍司令官として従軍中の1942年、前田利為候は不慮の死を遂げます。戦後、前田邸は連合軍に接収され、さらには戦後の混乱の中で前田家は莫大な財産税を支払わなけらばならなくなり邸宅を手放しました。邸宅と敷地はその後、富士産業の手を経て、1956年に国有地となり、現在は駒場公園として市民に開放されています。その駒場公園内のナツツバキ。うっすらと紅葉していました。
2006.11.03
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▼目的「ETとの交信は可能か」にも書いたが、UFOの出現や宇宙人との交信は地球レベルで進行している破壊と無関係ではないようであった。1980年代の地球人の多くは、地球レベルで環境が破壊されていることに気付かないでいた(ブッシュと彼を支持する連中は、今でも気づいていないか、わざと無視している)。宇宙からのメッセージには、その環境破壊に気付かせ、このままだと地球では生物が生存できなくなることを警告する目的があったようだ。私が当時注目していたのは、オゾン層の破壊であった。なぜなら地球の科学者がオゾン層の破壊が起きているのではないかと大々的に発表する前に、私は宇宙からのメッセージの中にその警告があることを知っていたからだ(一部の科学者は気付いており、既に1970年代に学会で発表していたが、大きく取り上げられることはなかった)。オゾン層破壊の原因は、冷蔵庫やスプレーに使用しているフロンガスらしいことはわかっていた。しかし地球の科学者による発表にもかかわらず、政府は「まだ因果関係が証明されたわけではない」として、対策に消極的であった。オゾン層の破壊はとくに南極で顕著であった。1970年代中ごろから、南極上空のオゾン層が減少、ポッカリと穴があくようになった。オゾンホールである。全米科学財団がようやく重い腰を上げ、研究班を現地に送り大型気球を使った観測を始めたのは1986年の8月であった。ただしその観測でも、フロンガスが原因であると断定することはできなかった。それでもフロンガスを含む何らかの化学物質による反応がオゾン層を破壊しているとの認識が生まれ、翌87年「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」が採択、5種類の特定フロンと3種類の特定ハロンの生産量を削減することを合意した。最初の警告から10年以上が経って、ようやく曲がりなりにも対策が取られたのである。この件に関して浦和支局にいる私には、やれることは限られていた。私は86年7月ごろからオゾンホールに関係する動きや情報を本社科学部に上げて、科学部に原稿を書くように要望した。科学部のほうでも興味を示し、全米科学財団に取材して原稿にしていた。およそ地球レベルの危機に対して、地球人は国益ばかりを優先するので対応が極めて遅くなる。私には気が狂っているとしか思えないが、自国の経済を第一に考えるから、自分の国さえ繁栄すれば地球がどうなろうと構わないのである。素晴らしい愛国心!おそらく温暖化防止策についても、そのような議論が繰り返されるのであろう。なぜ自国の経済を停滞させるような条約に批准しなければならないのか、ようやく獲得した生活の利便性をなぜ諦めなければならないのか、といった議論だ。国益と国益、国のエゴとエゴがぶつかれば、早晩共倒れするのが関の山であろう。
2006.11.02
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▼コンタクティーたち2秋山氏以外に当時私が取材したコンタクティーたちは、次のような人たちであった。北川恵子さん、岡美行さん、海後人五郎さん、作詞家のAさん母娘、梅本利恵子さん、安食天恵さん、政木和三さん。アカデミズム関係者では、関英夫、佐々木茂美、大谷宗司各教授や西丸震哉さん。こうして次々と取材していくうちに取材ノートもドンドン膨れていった。取材により多くの情報が集まると、新聞記者の性で自然に筆が進んでしまう。そうして出来上がったのが「ETとの交信は可能か」という原稿であった。ただ残念ながら、「良識ある共同通信社」で、ETとの交信をしていると主張している人たちを真面目に取り上げることはできなかった。結局その原稿は、秋山氏が当時編集長を務めていた『ボストンクラブ』というムックのような書籍に掲載された。続いて第二段も掲載され、第三弾、第四弾と続くはずが、その前に『ボストンクラブ』が廃刊になってしまい、日の目を見ずに終わってしまった。この四部作が完成したのは、それから18年経った昨年出版された『不思議な世界の歩き方』の中である。「テレパシー交信」「金星人とのコンタクト」「アトランティスの記憶」「惑星間の転生」の四部作は、それぞれ拙著の4,6,5,8に対応している。それにしても、『不思議な世界の歩き方』でも紹介した清田益章氏が大麻取締法違反容疑で逮捕されたのは残念である。新たな活動を展開する矢先の出来事。そのうち本人の釈明が彼のホームページに載るそうなので、注目したい。
2006.11.01
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