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今日はペンギンの日(注:冗談です)。こんなにたくさん泳いでいます。下からも観察できるようになっています。陸でやすんでいるペンギンさんたち。ちょっと古いですが、今年2月に遊びに行った葛西臨海水族園で撮った写真です。マグロで有名な水族館ですね。以前、UFO型のくらげの写真をアップしましたが、その写真もここで撮りました。ついでに、くらげさんの別カットを公開します。ゴールデンウィーク中は「新聞記者の日常と憂鬱」はお休みします。ブログのアップも不規則になりますので、ご了承ください。
2006.04.30
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拉致被害者横田めぐみさんの母、早紀江さんらがホワイトハウスでブッシュ大統領と面会。ブッシュは「国家として拉致を許しているのは信じがたい」「国際社会からの尊敬を得たければ、人権を尊重すべきだ」と述べたという。しかし、国家としてテロを許し、人権をいとも簡単に踏みにじってきたのはどこの国の誰だったか、と思う。いくつか例を挙げよう。▼キューバ航空爆破事件オーランド・ボッシュという男を覚えているだろうか。「カストロが愛した女スパイ」で、一九六一年にキューバ侵攻作戦の訓練中に撃たれたマリタ・ロレンツの怪我を治療した医者だ。もっとも人の命を救う医者というより、大勢の命を奪う反カストロの亡命キューバ人テロリストと呼んだほうが適切であろう。ボッシュは六〇年代~七〇年代にかけて反カストロの破壊活動に携わる。CIAが訓練し、資金援助していた暗殺集団「オペレーション40」のメンバーであることは、ご承知のとおりだ。一九六三年十一月に起きたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件にかかわった疑いももたれている。一九七六年一〇月にはキューバ民間航空機を爆破、七十三人の乗員・乗客全員の命を奪ったテロの首謀者としてベネズエラで逮捕・勾留された。しかし不可解なことに、テロリストのボッシュは駐ベネズエラ米国大使らの策略でまんまとベネズエラを脱出、一九八八年にアメリカに不法入国する。当然、アメリカ当局はボッシュを逮捕、不法入国と約30ものテロ活動容疑で刑務所に勾留した。ところが反カストロ亡命キューバ人にとって、ボッシュは英雄である。彼らは強力なロビー活動を展開する。そしてとうとう一九九〇年には、ジョージ・ブッシュ大統領(父ブッシュ)の恩赦とも呼べる特別な計らいで、ボッシュは刑務所から無罪放免され、アメリカでの居住が許されることになったのだ。そのロビー活動の中核を担ったのが、父ブッシュの息子で現フロリダ州知事のジェブ・ブッシュであった。アメリカは、ボッシュだけでなくキューバ民間航空機爆破事件の共謀者とされるルイス・ポサダ・カリレスら反カストロ亡命キューバ人テロリストたちを事実上かくまった“前科”がある。そして今もカリレスをベネズエラ政府に身柄を引き渡さないことによりかくまっている“テロリスト擁護国家”であることが知られている。ちなみにカリレスは中南米の「ウサマ・ビン・ラディン」と呼ばれている人物である。アフガニスタンのタリバン政権は、ビン・ラディンを引き渡さなかったために空爆・打倒されたのではなかったか。しかも、キューバ民間航空機爆破事件自体、CIAが背後にいた可能性が極めて強いのだ。爆破事件当時のCIA長官は父ブッシュであった。▼もう一つの9・11テロ父ブッシュがCIA長官時代には、別のテロもあった。キューバ航空機爆破事件が起きる一ヶ月前の一九七六年九月二十一日、チリのアジェンデ政権当時に外務大臣を務めたオーランド・レテリエルが首都ワシントンで爆殺された事件である。ここで9・11テロについて説明しておこう。9・11テロといっても二〇〇一年九月十一日にアメリカで起きた同時多発テロのことではない。一九七三年九月十一日にチリで起きた、アメリカによるテロともいえる軍事クーデターのことである。この日、自由選挙によって選ばれた初の社会主義政権であるチリのアジェンデ政権が、CIAの支援を受けたアウグスト・ピノチェト陸軍司令官らによるクーデターで倒されたのだ。サルバドール・アジェンデ大統領はこの日、命を落とした。▼コンドル作戦権力を握ったピノチェトは翌七四年六月二十七日、大統領に就任。その後アメリカの庇護を受けながら16年間にわたって軍事独裁による恐怖政治を行い、政敵や反政府活動家を次々と抹殺していく。一九七六年のチリ元外相爆殺事件を指示したとされるのも、多くの国民を拷問・虐殺したピノチェトであった。ピノチェトはブラジル、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイなど各国の軍事政権と共同して互いの相手国に亡命した反政府活動家を拘束、もしくは抹殺する「コンドル作戦」を展開していた。前政権の要人であったレテリエルを殺したのもその一環で、実行犯グループにCIAの息がかかったノボ兄弟ら反カストロ亡命キューバ人が容疑者として名を連ねたのである。お分かりだと思うが、ノボ兄弟とはギレルモ・ノボとイグナシオ・ノボで、ロレンツの証言にも出てくるオペレーション40のメンバーである。フランク・スタージスやオーランド・ボッシュとともに、一九六〇~七〇年代に数々の反カストロ・反共産主義のテロ活動や暗殺事件に関与したとみられる札付きだ。ケネディ暗殺事件に関与した疑いももたれている。今日では、ラテンアメリカ諸国での一連の軍事クーデターや「コンドル作戦」のような非合法活動の背後にCIAがいたことは常識になっている。つまりオーランド・ボッシュやノボ兄弟らは、事実上CIAが抱える殺し屋たちなのである。そのCIAのボスが、ボッシュに“恩赦”を与えた父ブッシュであったことは偶然ではあるまい。ところで、爆殺されたレテリエルの息子フランシスコ・レテリエル(父親が爆殺された当時は十七歳であった)は後に、ロレンツの娘モニカと結婚、一九九一年には男の子が生まれる。ロレンツと一時期行動をともにしたノボ兄弟がロレンツの娘の結婚相手の父親を殺していたとは、何と言う巡り合わせか。▼テロリストの側とはこのようにアメリカは長年にわたって、テロリストを支援し、恐怖政治を擁護してきた。そのような米外交を支持していたのは、ニクソンであり、キッシンジャーであり、父ブッシュであった。そこで冒頭の子ブッシュ発言に対する私の疑問に戻るわけだ。二〇〇一年九月十一日に発生した同時多発テロ以降、子ブッシュは「テロリストを掃討」するため、アフガニスタンとイラクに対し相次いで戦争を仕掛け、多くの人を殺した。ブッシュはそのときこう言ったはずである。「われわれの側に立つのか、それともテロリストの側につくのか」と。一体どっちがテロリストの側なのであろうか。横田さんの母親がわらにもすがる思いで、ブッシュにすがった心情は十分に理解できる。しかし、すがった相手が悪かった。毒をもって毒を制するということか。その毒が世界中に回らなければいい、新たな戦争の口実に利用されなければいいと願うのは私だけだろうか。この惑星の住民はもっとアメリカという国について知るべきである。
2006.04.29
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▼タバコ戦争今でこそ嫌煙権が確立されつつある(と期待している)が、1980年代当時の記者クラブはどこもタバコの煙で“アヘン窟状態”であった。富山署の記者クラブも例外ではなかった。朝からもうもうと立ち昇る煙。警電が終わった午前10時ごろには、とても記者クラブにはいたたまらなくなって、脱出する毎日であった。記者クラブにいるぐらいなら、警察署内を回った方がまだ空気がいい。もちろん警察署内も当時は禁煙ではなく、タバコを吸う警察官は多くいた。それでもフロアが広かったので、少なくともアヘン窟状態ではなかった。春から秋にかけてはまだ、ましだった。窓を開けてあるため、時々だが新鮮な外の風が入ってくるからだ。ところが冬場は窓を閉め切ってしまうので、私は窒息する。あるとき、私の我慢も限界に達した。タバコを吸っている記者に向かって「こんなところは人間がいる場所ではない」と言って、寒いのはわかっていたが窓を全部開け放したのだ。この私の行動に怒ったのは、富山テレビのK記者である。「冷たい風で風をひいたらどうしてくれるのだ」と言う。私は「では肺ガンになったらどうしてくれるのだ」と言い返す。「風邪なら治るが肺がんは死ぬではないか」――。まさに殴り合いのけんか一歩寸前。幸いお互い手を出すことはなかったが、そのときは時々換気をすることで和解した。私は別にK記者個人が嫌いなわけではない。K記者だけでなく記者クラブの記者の9割方は喫煙者であった。その9割の記者は、タバコの煙がいかに隣人にとって害であり、嫌なものか理解する能力に欠けている。私はその想像力の欠如が嫌いなのだ。「人間ならそのぐらいのことは想像しろ! ばか者!!」と言いたい。その後一〇数年経った1990年代の半ばになって、記者クラブもようやく禁煙や、最悪でも分煙となるところが出てきた。新聞記者も少しは想像できるようになったということだろうか。しかし世の中を見渡してみると、歩きタバコをする人間ばかりである。レストランで、最悪の場合は寿司屋でタバコを吸う人もいる。「タバコを吸うのは自分の主義・嗜好だ。心の問題をとやかく言われる筋合いはない」と言う。どこかで聞いた言葉だ。自分さえよければ、隣人はどうでもいいというその態度は、小泉の靖国参拝と同様に醜く、哀れなほど下等だ。
2006.04.28
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▼刑務所での面会富山刑務所で面会に来たことを告げる。すると応対に出た刑務官は面会申込書に氏名と続柄を書けという。氏名を書くのは簡単だが、問題は続柄だ。「なんて書こう」と一瞬と惑ったものの、「知人」と書いた。私は裁判所でその男性を傍聴席から見ているし、ある程度の素性も知っている。まあ、私から見れば「知人」のようなものだろうと強引にこじつけた。刑務官はその申込書を持って、その男性に面会者が来ている旨を伝えるため、奥に入っていった。待たされる側としては気が気でない。その男性は面会に応じてくれるだろうか、「知人」などと書いたので、気を害したりしていないだろうか、などなどと考えていた。しかし、それらは杞憂であった。その男性は間もなく私の前に現われた。一応Aさんとしておこう。20代の若者だ。よくテレビに出てくる刑務所の面会場と同じで、私たちの間に穴の開いた透明の衝立があり、その衝立を通して話をするようになっていた。私は事情を説明した。私が新聞記者であること、Aさんの裁判を傍聴していたこと、できれば過激派の女性が逮捕されるきっかけがなんであったかをしりたいのだということを説明した。事情を理解したAさんは、こちらの意図に理解を示しつつも、最初は過激派逮捕のきっかけについてはあまり話したがらなかった。しかし私の質問に対してAさんは、断片的にだが答えてくれた。いきさつは大体こうである。Aさんは旅先の長野県の山中にある宿泊施設でその過激派の女性に出会った。女性はそこで働いていた。Aさんはその女性と親しくなり、そして恋をした。お互い自分の生い立ちを打ち明けるようになったとき、その女性は自分が過激派であることを明かしたのだ。二人はやがて別れ、富山まで流れてきたAさんはそこでちょっとした盗みを働く。警察に捕まり、取調官に事情を聴かれているときに口を滑らせて、その女性のことを話してしまう。色めき立ったのは富山県警である。すぐに警視庁に連絡を取り、長野県の山中で女性を逮捕したのである。Aさんはその後、富山地裁の判決で執行猶予付きの刑が確定した。判決後、富山刑務所を出所するAさんに再び会った。弁護士に連れられ、富山署で世話になった警察官に「これから心を入れ替えて真面目に働きます」と挨拶に行くのだという。その後、Aさんがどこで何をしているのか、消息は知らない。
2006.04.27
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▼取材テクニック取材のテクニックは、ありそうでない。先輩で警察からネタを取るのがうまい記者がいたが、その先輩記者に極意を聞くと「ただひたすら粘るだけ」との答えが返ってきた。つまりいかに足繁く、取材先や現場に足を運ぶかが、独自のネタを取れるかどうかの決め手になるようだ。もう一つのコツは、とにかくやってみることだろう。とやかく言っているよりはやってみる。ダメモトで行動することではないか。詳しくは忘れてしまったが、82年か83年に本社からバタが来た。全国に指名手配になっていた過激派の女性活動家(名前は忘れたが、当時は結構有名な指名手配犯人であった)が警視庁公安課に捕まったが、その端緒になったのはどうも富山県警によって窃盗容疑で逮捕された若い男性であるらしい。ちょっと調べてくれ、というのがバタの内容であった。調べてみると、その男性はすでに窃盗罪で起訴されており、公判が始まっていた。その公判に行ってみると、他社の記者も来て傍聴している。普段ならこのような窃盗事件の公判は取材しない。警視庁公安課から情報が出て、同じように本社から取材の手配を受けたのだろう。しかし公判では、一向に過激派逮捕につながった話は出てこない。それはそうであろう。あくまでも窃盗事件の公判であるのだから、関係ない話は検察側も弁護側もしないものだ。そこで私は一計を案じた。勾留されている富山刑務所にその男性に面会に行こうと思い立ったのである。「とにかくやってみろ」である。私は他社の記者に気づかれないように、車を富山刑務所に向けた。(続く)
2006.04.26
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▼炸裂!? ピラミッドパワー集合場所は横江の「喫茶とんがりやま」であった。食事を済ませていない人はそこで簡単な食事を取ったりしてしばらく時間を使った。全員の用意が整ったところで、それぞれが懐中電灯を持って、尖山の山頂を目指した。日はとっぷりと暮れていたから、辺りは真っ暗闇である。とても一人では登れない。暗い山道もこれだけの人数なら安心である。ところが、事前に天気予報で晴れになる日を選んだのだが、登山の途中から雲行きが怪しくなってきた。やがて頂上が見えるころには、ぽつぽつと雨が降り出した。ホテル立山での「UFOを見る会」にしても、今回にしても、やはり私は雨男なのであろうか。登ること一時間弱。全員が頂上にそろったところで、UFOを呼ぶことにした。と言っても、何か呼び方があるわけではない。最初は皆バラバラで雲に覆われた夜空を見上げるなどしていたが、これではパワーが足りないのではないかと考え、全員が頂上で円陣を作って手をつなぎ、「UFOよ、現われろ」とばかりに念を空に向けて発してみることにした。もしかしたら尖山のピラミッドパワーで念が増幅されるかもしれない。5分ぐらい経っただろうか。雨は激しくなるばかりである。目を開けているのも大変なほどの横殴りの雨になってきた。そのとき、上を見上げたら、不思議なことが起きていた。ちょうど尖山の上だけ、雲にポッカリと穴が開いたようになっており、無数の星が瞬いていたのだ。それ以外は雨雲である。風があったので、尖山の上が晴れていても雨が吹きつけることは何ら不思議ではない。ただそのときは、ピラミッドパワーと関係があるのではないかと直感的に思ったのである。山の上には雲がとどまることが多い。たとえば南太平洋などの島々を飛行機で飛べばわかるが、島の上だけに雲が動かないで残っていることがわかる。古代の航海者はこの動かない雲を見つけ出し、大海原の中で陸地を発見することができたのだという。特に尖った山には動かない雲が出現することが多いようだ。快晴の関東平野の中にポツンと島のように浮かんでいる筑波山の上にも、このような動かない雲を見たことがある。この現象をうまく説明した解説書を私は知らない。海と陸地の温度差からそのようなことが起きるのか、あるいは地震雲と同じように地磁気と何らかの関係があるのか。いずれにしても古代から尖った山や島の上に雲が滞留することが知られていた。雨の降りしきるその夜の尖山では、それとは逆の現象が起きていたのかもしれない。頂上の上の空にだけ、雲がなかったのだから。ピラミッドパワーによる不思議現象か、あるいはただの偶然だったのか。このときも(またそれ以降も)UFOは現われなかった。あまりにも雨がひどいので、UFOを呼ぶ会も早々にお開きとなり、ずぶぬれになりながら下山した。もちろんすべて、雨男である私のせいであった。
2006.04.25
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▼セント・エルモス・ファイアー(聖エルモの火)UFOの話の最後に、立山町横江にある尖山の頂上に輝いていたとされる謎の光体について触れておこう。これも拙著『「竹内文書」の謎を解く』で紹介した話だが、近くの大山町に住む船尾美津子さんらの目撃談である。1980年2月21日午後8時ごろ、雲ひとつない夜空に星が鮮明に輝いていた。船尾さんら三人が車に乗って富山市から自宅に帰る途中、横江の尖山の頂上がオレンジ色に光っているのに気づいた。「何だろう」と車を停めて観察したところ、尖山の山頂一帯が炎のように燃え上っていた。しかもその「炎」は二つに分かれたり、元通りになったり、不思議な動きをする。「これは大変なことになっている」と思った船尾さんは、近くに住む友人宅に知らせに行き、その友人一家5人を連れて現場に戻ってきた。すると尖山の頂上はまだ燃えたようになっている。船尾さんら8人が凍てつく寒さの中、なおもしばらく観察していると、「炎」の中から丸い白光色の電球のようなものが転がり落ちたのだ。「あっ」と皆が声を上げる中、その光の玉はどこかへ行ってしまった。その尖山の「炎」はその夜、午後11時ごろまで観測することができたのだという。私がその話を東京商船大学の茂在寅男名誉教授にしたところ、茂在氏は「それはセント・エルモス・ファイアーではないか」と言う。セント・エルモス・ファイアーは嵐など異常気象の際、船のマストなど尖った場所で起こる放電現象であるとされている。地面と中空の間の電圧差が大きくなったときに生じるらしい。嵐の中、船乗りたちが道標にしたとの伝説も残っている。茂在氏も航海中に、そのセント・エルモス・ファイアーを見たことがあるのだという。尖山もマストにように尖っている。嵐ではなかったが、何らかの異常気象で放電現象が起きたのだろうか。今のようにデジカメラやビデオが普及していない時代だったから仕方がないが、尖山の頂上で起きた現象をカメラやビデオに収めていたら、学術的にも極めて貴重な影像になっただろう。さて、そのような不思議な現象を起こす尖山でUFOを呼んだら、UFOが現われるかもしれないとの夢(妄想?)を膨らませた私は、富山大学の山口博教授ら7~8人を誘って、ある夏の夜、密かに尖山を登った。(続く)
2006.04.24
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▼UFOで夜回り2UFO最初に出現した場所に近づくには、岩峅寺の辺りから山道に入っていかなければならない。なれない道を行くには明るいうちのほうがいいので、少し早めに仕事を切り上げて目的地を目指した。地図でいうと立山町の座主坊の方向である。およそ富山の人でも、地元に住んでいる人でないかぎり、まず行かないような場所だ。次第に道幅が狭くなる山道を登りながら、周りの風景を見ていると、ハッとさせるような景色が目に飛び込んできた。中国の桂林を思わすような急峻な山があちこちに出現したのだ。海底火山が隆起したような山々である。もちろん桂林ほど規模は大きくないが、ミニ桂林とも呼べるような風光であった。ここならUFOの基地があってもおかしくないな、などと思いながら、先を進んでいるうちにあたりもすっかり暗くなっていた。これ以上進むのは危険だと判断して、その場に駐車した。辺りには人里もない、ひっそりとした場所である。谷底に落ちたら、何ヶ月も発見されることもないような場所でもあった。もちろんUFOが出現して、誘拐されたとしても、誰も気づくことはないであろう。私はその場所に一週間通い詰めた。今から思うと本当に暇だったのだなと思う。だが、写真に収められれば世紀のスクープである。ASA400のフィルムを詰めたカメラを握り締めながら、毎日二時間ぐらい待った。一週間経ち、やがて雪もちらつくようになり厳冬が訪れると、“UFOの夜回り”も物理的に断念せざるをえなくなった。UFOは結局、一度も現われなかったが、凍てつく夜空の星がいやに大きく光って見えたのだけは今でもよく覚えている。
2006.04.23
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UFOの乱舞?
2006.04.22
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▼UFOで夜回り1東さんらは、きっとその光体が出現した山の中にUFOの基地があるのではないかと言う。そして夜な夜なその基地から空飛ぶ円盤が出現するのではないか、と。「それは確かめてみなければなりませんね」と私が言うと、東さんらは最初の目撃の際の恐怖心から、暗くなってからはその場所に行きたくないという。仕方ない、一人で見張ってみるか。と思いつつも、決めかねていた(腰が引けていた)。そのような話を当時親しくしていた富山県警本部長にしたところ、妙に面白がって、「それは夜回りをしたらどうですか」と言う。「どうせ共同さん暇でしょう。県警のほうも今は大きな事件を追っていないし、やるなら今です」確かに暇ではある。警察も暇なようだし、あそこまで言われたらやるしかないな、と思い立ち、翌日から連日連夜、UFOの張り込みに出かけることに決めた。確か11月下旬か12月初めにかけてのまだ雪が降り積もる前の時期だったと思う。仕事が終わってから富山市を出発したので、現場に着いたのは夜の9時ごろにはなっていた。外はかなり寒かったので、自動車の中でひたすら待った。誰もいない山の中の真っ暗闇の中で一人待つのはつらいものがある。記者の夜回りも、待ち時間が長い。取材先が自宅に帰ってくるのをひたすら待つ。だいたい真夜中を過ぎる頃、取材先は帰ってくるが、早く帰宅することもあるので記者は夜の10時ごろから自宅前で辛抱強く待つのである。しかし午前1時になっても帰ってこないこともあり(新聞記者を避けて都内のホテルに宿泊したりする)、結局三時間待って成果なしのことも多い。UFOはいつ出現するのであろうか。そもそも基地があるのかどうかもわからない。取材先に対する夜回りと異なり、かなり不確かな“夜回り”ではあった。初日はその現場に2時間待機したが、結局何も現われなかった。翌日からはちょっと趣向を変えて、UFOが最初に出現したと思われる山の辺りに地図上で目星をつけ、そちら側から観測することにした。(続く)
2006.04.22
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▼UFOを目撃した人々故荒井欣一さんが指摘したように、」立山周辺ではUFO目撃情報が多い。拙著『「竹内文書」の謎を解く』でも一部紹介したが、立山町千寿ケ原に住む佐伯金三さん(1984年当時62歳)の目撃は衝撃的で、かつ信憑性も高い。1978年8月10日午後8時ごろ、佐伯さんが車を運転していたところ、対向車線にまばゆいオレンジ色の光が見えた。佐伯さんは最初「オートバイのライトだと思った」と言う。しかし、車やオートバイのライトにしては10倍ぐらい明るい。近づいてみると、それはオレンジ色の光というより、キラキラ輝く白光色の球体で、道路の上でクルクル回っていた。さらに近づくと、その球体はものすごい勢いで急上昇、夜空に消えていったという。同乗者もそれを目撃している。名前は忘れたが、地元のおばあさんが立山町のある富山地方鉄道の駅で電車を待っていたところ、目の前の山の中腹近辺で銀色の円盤が宙に浮いていたのを目撃したとの証言もあった。UFOに追いかけられたと証言した人もいた。立山町本宮辺りに大辻山の方へ入る細い山道がある。東さんというアマチュア無線家が、星を見るために仲間と四輪駆動でその道を分け入った。初めての道であったが、開けたところに出たので、車を停めてしばらく空を眺めていた。すると、下界のほうから車のスポットライトのようなものがふらふらと上がって来るのが見えた。自分たちが登ってきた道とは違う方向であった。「あんなところに道があったのかな」と訝りながら、その光を見ていると、どうも様子がおかしい。車のライトよりかなり明るいし、動き方が尋常ではない。東さんらが驚いたことに、その光はドンドン大きくなり、自分たちの方へ向かってくる。明らかに自分たちがターゲットになっていた。しかも、その光体は空を飛んでいたのだ。つまりUFOである。得体の知れない物体に対する恐怖が東さんらを襲った。頭から血の気が失せる。顔面蒼白なった東さんらはほうほうの体で車に乗り込み、その場から猛スピードで逃げたのだという。後日、太陽が明るいうちに東さんらと一緒に私もUFO目撃現場に行ってみた。その光体はまったく道のないところを上昇してきたのだと、東さんは指でその場所を指し示しながら熱心に説明してくれた。その指し示された方向には確かに道はない。東さんの目撃が本当なら、その物体は山の中を浮かびながら飛んでいたことになる。(続く)
2006.04.21
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▼UFO記念日立山でUFOは現われなかったが、荒井欣一氏との親しい関係はその後も続いた。浦和支局時代の1987年にも、支局に荒井氏から電話がかかってきた。さてはUFOでも目撃したかなと思い電話に出たところ、「もうすぐUFOも40歳になるのですが、原稿にしてくれませんか」という依頼であった。UFOが40歳? 何のことだろうと思ってたずねると、「実はUFOが世界で最初に目撃されて40年になるのです」と荒井氏。荒井氏によると、信頼できる最初のUFO目撃は1947年6月24日にさかのぼることができるのだという。この日、米国の実業家ケネス・アーノルドが自家用飛行機でワシントン州の上空を飛行中、二枚のお皿を合わせたような飛行物体がピュンピュン跳ねるように飛んでいるのを目撃した。彼の目撃談を伝えた新聞は、その物体を「空飛ぶ円盤」と形容、後に未確認飛行物体(UFO)と呼ばれるようになった。このため荒井氏を含むUFO研究家は、アーノルドの目撃をUFO元年とみるようになったのだという。荒井氏はその40周年記念に、自宅に作ったUFOライブラリーで特別展を開くという。おやすい御用であった。浦和支局の担当外であったが、荒井氏が親しくしている共同通信の記者は実質的に私だけだったので本社のデスクに事情を説明、私が書いた「UFOも40歳」という原稿を全国の加盟社に配信してもらった。その後も東京・五反田の荒井氏の自宅であるUFOライブラリーを訪ねたりして、荒井氏との親交は続いたが、2002年に荒井氏も亡くなってしまった。荒井氏が生前収集した約4000点に上る貴重なUFO関係資料は現在、福島県飯野町の「UFOふれあい館」(木下次男館長)に展示・保管されている。
2006.04.20
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▼立山でUFOに遭遇?立山でUFOが目撃できるのだろうか、などとわくわくしながら現場に着いたものの、そのころには雨が降り出して空は鉛色の雲に覆われていた。外で行われるはずだった観測会は中止。急きょホテル立山の中で「UFO講演会」なるものが開かれることになった。それがUFOライブラリーの荒井欣一館長との最初の出会いであった。荒井館長は元陸軍航空少尉。本業はビル賃貸業だが、1940年代に相次いで起きたUFO目撃事件に触発されて、1955年7月1日に「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足させ、代表に就任した。この研究会の顧問には、日本のロケット開発の父と呼ばれた糸川英夫や、徳川夢声(当時テレビやラジオで活躍した講談師)、会員には三島由紀夫や星新一、黛敏郎、石原慎太郎らの顔が並んだ。荒井氏は五六年には機関紙「宇宙機」を創刊。その後も出版、講演、展示会などを通じてUFO問題を広く一般にアピールして日本のUFO研究の草分けとして活躍した。ただし一時期は1000人にも達した会員数も次第に減少し、私が荒井氏に会った1983年には活動はかなり下火になっていたようだ。荒井氏は講演会で、写真パネルを使いながら、こうしたUFO研究の歴史について説明した。講演後もUFOの話がはずみ、荒井氏とはすっかり打ち解けることができた。荒井氏自身はUFOを目撃したことはないそうであった。荒井氏によると、立山は結構目撃情報が多いので期待していたが、天気が悪くて残念であったと話していた。UFOは目撃できなかった。だが、原稿はもうとっくに送ってあったので、ホテル立山でのんびりとした夜を過ごすことができた。ちなみにこの取材は俗に言う「アゴ足付き」で、食事も宿泊代もすべて主催者の富山地方鉄道もち(企業などの主催者がこうした取材の便宜を図ることはよくある)。これもまた、新聞記者の(悪しき)特権であった。(続く)
2006.04.19
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▼新聞記者の特権新聞記者にも“特権”がある。もちろん権力者のそれと比べると、ささやかな特権だ。だが一般の人から見れば、かなりの特権でもある。私が富山支局に赴任して初めて知った特権の一つは、取材で使う車は駐車違反除外車両の指定を受けられることであった。つまり取材であれば、どこに駐車しても(と言っても限度はある)駐車違反に問われることはない。外から見える場所に駐車違反除外指定車両の証明書を置いておけば、レッカー車で持っていかれることはないわけだ。私も北日本新聞社の前の駐車違反ゾーンに、よく停めさせてもらった。原稿を出さなければならないときなど、駐車場に入れている暇などないからだ。また火事や事件現場に直行する場合も、駐車場を探す暇はない。暇なときはなるべく富山県庁や富山署の駐車場を利用した。そこなら報道機関用の駐車場が確保されているからだ。これも特権の一つであろう。ほかにも富山地方鉄道の優待パスが支局にあった(今もあるかどうかは不明)。富山と長野県の大町を結ぶ富山長野アルペンルートも、このパスを使えば無料であった。富山地方鉄道としては、雪の大谷や立山町のケーブルの除雪作業の取材などで便宜を図ったつもりなのだろうが、実はそういう取材の時は、すぐに写真の現像を支局でしなければならないので、マイカーを使った。電車を待っていたのでは、出稿が遅れてしまうからだ。それでも遊びで取材するときは、よく優待パスを使わせてもらった。標高2500メートルの室堂にあるホテル立山で開かれた富山地方鉄道主催の「立山でUFOを見る会」を取材したときも、優待パスを使って、のんびりと鉄道とバスを乗り継いで、“現場”に到着した。(続く)
2006.04.18
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▼同期の消息沼沢均以外の同期は、順調に出世している者、私のように途中で辞めてフリーになった者など様々だ。今ではほとんど付き合いがなくなってしまったので、間接的に近況を聞くだけになってしまった。いちばん消息がつかめるのは、本でも出してくれることだ。粟野仁雄も私と同様にフリーになり、すでに五冊の本を出している。最近出版されたのは、『アスベスト禍――国家的不作為のツケ』(集英社)である。社会部出身だけあって、社会派ジャーナリストとしていい仕事をしている。ちなみに彼がよく寄稿する『週刊金曜日』は、私が500円を払って購入してもいいと思わせる唯一の週刊誌である。初任地は釧路支局で、地元でアイスホッケーをやったり、警察官と柔道をやったりしていたと本人から聞いたことがある。共同通信で記者をしながら本を出す同期もいる。社会部の佐々木央は2002年に『未来なんかみえない――自傷する子供たち』(共同通信社)を書いている。彼の初任地は福井支局。ほかに金沢支局にも同期が赴任しており、北陸三支局の同期でよく連絡を取り合っていた。外信部出身で現在共同通信の編集委員をしている石山永一郎も著作が2冊ある。マニラ支局勤務であったため、いずれもフィリピン関連の著作だ。共同通信の同期とは別に、富山支局の同期というのもある。つまり富山が初任地だった同期の他社の記者たちだ。前にも触れたと思うが、つい最近まで官邸キャップをしていたNHK政治部の萩原記者は富山の同期。私が経済部時代に官邸を担当したことがあるため、そこでよく出会った。毎日新聞政治部の福井記者とも政治家を取材する過程で再会した。今はどうしているのか知らないが、会えば富山の話で盛り上がるにちがいない。
2006.04.17
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▼追悼、沼沢均記者2沼沢均とは、前述した1985年に発生した新潟のがけ崩れ現場でも一緒に仕事をした。そのときは書かなかったが、私も沼沢も土砂崩れの原因が山林の伐採にあったのではないかとにらんでいた。地元の一人の老婆が「裏山の神木を切った祟りだ」と話していたからである。もちろんそれだけでは原稿にすることはできない。私たちは応援取材であったので、新潟支局や本社社会部の記者たちがそろったところで、その話を引き継いで私たちは現場を離れた。その次に会ったのは、私が埼玉支局に転勤になって間もなく発生した、1985年夏の日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故のときであった。当時もまだ長野支局にいた沼沢は長野県側から御巣鷹山の墜落現場を目指した。私は一度名簿班(名簿に載っている人たちの自宅に片っ端から電話取材を敢行するグループ)の要員として東京の本社社会部に出向いた後、群馬県藤岡市の現地対策本部の取材を担当した。私は遺体が運ばれてくる平地の取材、沼沢は生々しい死体が散乱する山奥の取材である。どちらが困難な取材かは容易に想像がつくだろう。沼沢からは当時の墜落現場取材の大変さを聞かされた。とにかく自分たちも遭難しそうになるほど現場は大変な山奥だったようだ。道なき道をかき分けて、行く手を巨大な岩壁にふさがれることもしばしばであったという。結局、山岳登山経験が豊かだった沼沢も、真っ先に現場にたどり着くことはできなかった。それでも一日遅れぐらいで現場に入り、死臭漂う墜落現場を取材、救助に当たった自衛隊員と山中で寝食をともにした。この事故の取材については、いずれ詳しく書くことにして、沼沢記者の話を続けよう。沼沢記者の冒険野郎としてのスピリットは、彼の記者生活を通じてずっと発揮された。1986年か87年に、最後の商業捕鯨船に乗り込んで長期取材をしたのも沼沢記者であった。沼沢記者は福岡支社勤務を経て90年4月に外信部に配属された。外信部でも、戦場に積極的に出かける記者として知られていた。90年8月に起きた湾岸危機、湾岸戦争でバグダッド、クウェート、カイロに出張。92年からはナイロビ支局長としてアフリカをカバー。ソマリア、ルワンダ、スーダンなど危険地域に踏み込んだ取材は一〇〇日を越えた。90年以降は私も仕事で忙しく、ほとんど沼沢記者に会っていない。沼沢記者をよく知る外信部の先輩記者で現在は独立している作家の辺見庸氏が日垣隆氏との対談で次のように述べているので、紹介しよう。辺見 彼(沼沢均)は僕が知っている限り、後輩の中では、いわば管理型の記者世界には合わない人間ですよね。人間を愛し、人の世界にギラギラ音の聞こえてきそうなほど興味を抱いていた。日垣 94年暮れ、ルワンダ取材の話がもちあがって、僕は彼に協力を求めました。久しぶりの再会を現地でと楽しみにしていたのですが、僕と電話で話した直後、彼は取材中の事故で亡くなってしまった……。辺見 僕はナイロビで、それからソマリアでもずっと一緒に彼とやって、あんまり何度も戦場に行くものだから、「ヤバイと感じたら布団をかぶって寝てるものだぜ」と言ったことがありました。 信毎(信濃毎日新聞)にもずいぶん載ったけれども、ある意味で彼はアフリカ報道を変えちゃったんですよね。途上国、第3世界というのは新聞的なバリューがいままでほとんどなかったのに、沼沢は記事の中にロマンを入れた。読者の胸を打つようなかたちをつくった。常に柔軟な考えをもち、あえて危険に立ち向かいながら、世界から見捨てられた人たちを取材、感動的な話にまとめあげていく沼沢の姿が浮かんでくる。彼の取材記録・遺稿は、同僚たちがまとめて、死んでから約一年後の1995年11月、『神よ、アフリカに祝福を』として集英社から出版された。
2006.04.16
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▼追悼、沼沢均記者沼沢均記者は北海道大学水産学部を卒業した。大学時代は探検部に所属した「冒険野郎」で、卒論は確か「昆布にもガンができる」というテーマだった。学生時代に結婚し、共同通信に入った。しかし実際に籍を入れたのは共同通信に入社してからであったため、ちゃんと会社から結婚祝い金(記憶では10万円。ほかに互助会などから5万円が支給される)をもらっていた。冒険好きであるから山登りは得意であった。そのため山岳遭難の多い長野支局に配属された。富山とは巨大な山脈を隔てているが、お隣の支局である。そのため電話で連絡を取り合ったり、現場で出会ったりすることが多かった。その沼沢には助けられた思い出がある。拙著『「竹内文書」の謎を解く』を読んだ方ならご存知だろうが、私は1984年6月19日の夕刊用に「富山の尖山はピラミッドか」という記事を書いた。実はこの原稿、6月初めには完成、名古屋支社デスクを介して本社に上げられていた。ところが、一度出稿されることになったが、途中で「共同通信の原稿には適さないのではないか」と横槍が入り出稿がペンディングになっていた。これはまったく偶然だが、当時サンデー毎日編集部も「日本にはピラミッドがあったのではないか」という特集の連載記事を計画していた。その取材の過程でサンデー毎日の取材班は、長野県の皆神山を取材した。そのことを電話で知らせてくれたのが、沼沢であった。沼沢は、私が書いた原稿のことを知っていたので、面白いから是非出せと言う。そうしないと、サンデー毎日に抜かれてしまうぞ、本社の社会部は頭が固いからこのままではボツになってしまうぞ、と。そのとき私は、サンデー毎日がそのような企画を取材中だとは知らなかったので、すぐに名古屋支社のデスクに状況を説明して説得、日の目を見ないでいた私の原稿をサンデー毎日の発売日に合わせて出稿してもらったのだ。記事は一部加盟紙のトップを飾るなど大きく扱われた。まさにその日にサンデー毎日の「ピラミッド特集」もスタートしたのである。あのとき、沼沢が激励してくれなかったら、富山の尖山も今ほど有名にはなっていなかったであろう。(続く)
2006.04.15
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▼それぞれの道「逆噴射の会」のメンバーは今どうしているのだろか、と時々思う。私は1996年に退社してしまったが、今頃同期の多くはそれぞれの部署でデスクや編集委員として働いていることだろう。共同通信の記者は入社後6~9年間は地方支局・支社の記者を経験、本社に戻るときに、社会部、政治部、経済部、外信部、文化部、科学部などの配属先が決まる。配属先が決まると、8,9割方の記者はその部にとどまる。私は経済部に配属され、そのまま8年間経済記者をして退職した。同期も私のほかに4人、経済部に配属された。社会部に行った記者もいれば、外信部を経て海外支局勤務(一人支局の場合は支局長)となった記者もいる。あと2,3年もすれば、あるいは今年にも、部長になったり、地方の支局長になったりする者も出てくるかもしれない。そうなれば、労働組合を離れ「社側」の人間となる。つまり経営する立場から、報道という業務に携わることになるわけだ。それが嫌で「生涯一記者」を選ぶ人もいる。それはそれぞれの判断である。もちろん判断は尊重されるが、会社側の思惑に左右されるのが常であろう。その同期の中で、触れておかなければならない故人がいる。1994年当時ケニアのナイロビ支局に勤務していた沼沢均記者だ。一人支局であったので、ナイロビ支局長である。1994年11月、アフリカのルワンダ難民救済のため、自衛隊が派遣された。最寄りの支局は沼沢記者が支局長を勤めるナイロビであったが、支局長はルーティンの仕事を抱えており、べったりと自衛隊について取材することはできない。そこで本社は、社会部から記者二人を取材拠点のザイール(現コンゴ民主共和国)のゴマに派遣していた。取材は長期化した。ゴマの生活環境は悪く、交替でナイロビに休養に行くようになった。その際、沼沢支局長も独自の判断でゴマでの取材を試みたらしい。フジテレビの入江敏彦カイロ支局長とともに小型飛行機を実質的にチャーターしてナイロビからゴマへ向かった。日本時間で同年12月6日のことだ。沼沢、入江両支局長の乗った飛行機はゴマに向かう途中墜落、乗っていた全員が死亡した。沼沢均がナイロビ市局長として海外赴任をするとき、同期の記者ら4,5人で本社のそばの居酒屋で送別会を開いたのを今でもはっきりと覚えている。新入社員のときにはなかったあごひげをボウボウにはやし、いやにすべすべの肌とのコントラストが私には奇妙に映った。私と同じで童顔なので、ヒゲをはやして風格を出そうとしたのかな、と思った。ヒゲをはやした風貌から、沼沢はゴマでは「ザビ(ザビエル)」と呼ばれていたらしい。(続く)
2006.04.14
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▼逆噴射の会大惨事は連動するのであろうか。ホテル・ニュージャパン火災があったまさに翌日、今度は福岡発羽田行きの日本航空350便が羽田空港沖に墜落するという大事故が起きた。1982年2月9日午前8時50分のことだ。その日航機は順調に飛行しているように思えた。間もなく羽田空港へ滞りなく着陸するところだった。ところが、滑走路300メートル手前で突然失速して急降下、空港手前の誘導灯に機首をぶつけながら東京湾の浅瀬に墜落した。この事故で乗員・乗客174人中、24人が死亡、142人が重軽傷を負った。浅瀬であったため、機体の沈没は免れたのが不幸中の幸いであった。だが、厳冬の2月である。生き残った乗客も墜落のショックと海水の寒さでパニックに陥った。衝撃的だったのは事故原因であった。K機長が副操縦士の制止を振り切り、飛行中に逆噴射操作を強行していたことがわかったのだ。逆噴射の結果、機体は急降下して機首から突っ込む形で墜落した。事故後回収されたボイスレコーダーには、「機長、何をするんですか!」という副操縦士の絶叫が録音されていた。その後の調べでK機長は、数年前から精神を患っていたことが判明した。事故の二年前には、「自宅に盗聴器が仕掛けられている」と警察に通報したり、「宇宙から電波が届く」などと言ったりするなど異常な言動がみられたという。その後も「私は皇室の人間だ」と言ったり、犬の散歩中に見知らぬ人に愛犬をあげてしまったりするなどの奇行が続いていた。その背景には、中間管理職であった機長の極度のストレスがあったのではないかとされている。結局K機長は、総合失調症(精神分裂症)であったとして不起訴処分となった。連日の大事件に新聞やテレビ各社は大混乱となった。急な精神錯乱をさす用語として「逆噴射」はこの年の流行語になった。だが、この1982年が私にとって記憶に残っているのは、私が共同通信に入社した年でもあるからだ。この年採用された記者は26人。同期会はいつしか「逆噴射の会」と命名されるようになった。
2006.04.13
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▼ホテル・ニュージャパン火災2横井英樹はとにかくけちで、目先の損得を優先にする経営者であった。1979年4月にホテル・ニュージャパンの経営権を握ると、従業員を大量に解雇、徹底的な合理化を進め、宿直従業員を減らした。出入り業者への支払いも常に遅れがちで、設備管理会社も契約解除を通告、同ホテルから撤退していたという有様だった。そのような状態であったため、火災当日はまともな初期消火ができず、警報ベルは鳴らず、非常放送もなく、避難誘導も皆無に等しかった。ほとんどの宿泊客は寝ていたため、火事に気づくはずもなかった。折しも異常乾燥注意報発令の中、火はあっという間に広がり、多くの宿泊客が取り残された。当日同ホテルに宿泊していたのは442人。うち9階と10階に泊まっていたのは103人で、この高層階の宿泊客から多くの犠牲者を出した。煙に巻き込まれ部屋や廊下で死亡した人のほかに、熱さに耐え切れずに飛び降りまたは転落して死亡した人が13人もいた。窓から身を乗り出し助けを求めている宿泊客の影像を覚えている方もいるのではないだろうか。私が取材した三協アルミの中堅幹部も高層階の部屋に泊まり、火と熱さから逃れようと、窓から身を乗り出している一人であった。その人の目の前で、宿泊客が飛び降りて地面に叩きつけられる地獄絵図が展開していた。その人も次は自分の番だと、覚悟したという。もはや熱さに耐えられる状況ではなかった。二つ隣の部屋のガラス窓も火の熱さのため、爆発するように砕け散った。もう駄目だ。隣の部屋のカラス窓が割れたら、自分も飛び降りようと決めたその刹那であった。消防の梯子が目の前に現われ、消防隊員が声をかけてきた。助かった! まさに九死に一生を得たとはこのことを言うのであろう。その人は三協アルミ本社の一室で、私に火災の様子を静かに語ってくれた。修羅場を経験した人だけがもつ、落ち着いた語り口であった。さて、そのホテル・ニュージャパンはその後どうなったのだろうか。「防災設備は万全だった」などとうそぶいていた横井はその年の11月、業務上過失致死傷の容疑で逮捕された。ホテルの跡地は廃墟の状態で14年間も放置されゴーストスポットとなっていたが、同ホテルに多額の融資をしていた千代田生命が競売で自己落札、新たに高層ビルを建設することになった。ところが、2000年にはその千代田生命が経営難に陥り計画は頓挫。その後、アメリカの生命保険大手のプルデンシャルと森ビルが建設中のビルごと買い取り、2002年12月に高級マンションやオフィスが入る地上38階建ての「プルデンシャルタワー」という高層ビルになっている。
2006.04.12
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▼ホテル・ニュージャパン火災1本社や他支社局からの依頼で取材して原稿を書くこともある。その依頼をバタと呼んでいた。なぜバタと呼ぶかには諸説がある。「番外頼む」(編注:原稿には番号をつけるが、原稿以外は番号がつかないことから番外という)から取ったという説、受け取った方がバタバタするからだという説があったが、私は前者ではないかと思っている。このバタのおかげで、普段の取材では会えないような人に出会うことがある。このような人が富山県にいるのかと驚いたり、感心したりするようなケースがある一方、こんなこと自分で調べればいいのにと、がっかりするときもある。バタバタしながら取材をするせいか、名前を覚えていない場合もある。本社からの依頼でホテル・ニュージャパン火災を生き延びた人を取材したのだが、恥ずかしながらその人の名前は忘れてしまった(名刺がどこかへ行ってしまった)。だが、話してくれた内容はよく覚えている。「ホテル・ニュージャパン火災から一年」という企画に使うための取材であった。その人は高岡市に本社がある三協アルミニウム工業に勤めていた中堅幹部だった。三協アルミは住宅建材などを販売している会社である。東京に出張した際、ニュージャパンに宿泊して罹災した。もう覚えていない方もいると思うので、この火災についておさらいをしておこう。火災が発生したのは、1982年2月8日であった。深夜3時25分ごろ、東京・赤坂にある地上10階建てのホテル・ニュージャパンで、イギリス人男性が泊まっていた部屋から火事が発生した。当時東京でも有数の巨大ホテルであったが、実は非常用設備や防火設備はお粗末で、火は瞬く間にホテル中に燃え広がった。加えて従業員による避難誘導もなかったせいで、死者33人、重軽傷者34人(内消防隊員7人)を出す大惨事となった。火災の原因は寝タバコではないかとみられているが、消防署と警察の調べでホテル設備の不備が次々と明らかになった。スプリンクラーはまともに設置されておらず、散水孔に配管はなく、天井にスプリンクラーらしきものが貼り付けてあるだけだった。防火扉はヒューズが切れていて動かない状態。火災報知器もスイッチが切られ、非常時の放送設備も故障で使用できなかった。しかも、消防の再三の指導にもかかわらず、まったく改善されていなかったという。そしてこのずさんなホテル経営をしていたのが、乗っ取り屋で知られる横井英樹であった。(続く)
2006.04.11
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今日は曇りですが、昨日は快晴で絶好のサイクリング日和。外はすっかり春の花が咲きはじめました。玉川上水の歩行者・自転車専用道路を西へひたすら走ります。こんな道やこんな道が永延と続きます。都会とは思えない、のどかな田舎道。ハトさんものんびり道の真ん中でくつろいでいるようにみえます。緑も段々、映えるようになってきました。だけど、新緑の季節というには少し早いですね。これは玉川上水に映った太陽。水面に映った太陽を凝視すれば、「日抱き御魂鎮め」ができますね。飛騨地方に伝わる神事です。着いた場所は都心から30キロほど離れた立川市の昭和記念公園。国営の有料公園です(冒頭の写真)。今の季節はチューリップです。砺波のチューリップフェアを思い出します。チユーリップ畑の脇を機関車の形をしたバスが通ります。敷地が広大なのでバスを使って移動する人も多いです。花壇です。花で花模様を作るなど凝っていますね。これもチューリップです。品種はスカーレット・ベビー。チューリップの品種改良はかつてオランダで盛んでした。17世紀のチューリップの狂乱。元祖バブル経済の象徴ですね。これはアルメニアカム。桜もまだ咲いていますね。チューリップとのコントラストが素敵です。枝垂桜。日本庭園を流れる川です。水仙が見事に咲いています。これはバラ科のユキヤナギ。白い雪のような柳ですユキヤナギの丘になっています。往復自転車で五時間はいい運動になりました。恒例の春のシェープアップ運動の一環です。帰る途中、明大前周辺で見た夕陽です。静かに暮れてゆきました。「新聞記者の日常と憂鬱」は今日はお休みします。
2006.04.10
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▼「有峰の仙人」現代においても仙人が生きているとは知らなかった。鍬崎山の埋蔵金探しをしていた人の話が出たついでに、「有峰の仙人」の話にも触れておこう。鍬崎山の南に有峰湖という湖がある。有峰ダムでせき止められてできた人造湖だが、周辺一帯はブナやミズナラなどの原生林を生い茂る、標高1100メートルの自然豊かな高原地帯である。そこの手付かずの自然の中に仙人が住んでいるというのだ。私がこの一風変わった話を聞いたのは、富山県警山岳警備隊からであった。と言っても、俗世界とまったく接点のない“完全な仙人”ではなく、春から秋の間だけの“季節仙人”である。春から秋までは有峰湖のそばの森の中で暮らし、山菜を採ったり、魚を捕ったりするなど自然の恵みを受けながら自活する。さすがに冬を越すには厳しすぎて、里にある自宅に戻るという。三年目の年末年始用のネタにしようと考え、何度かこの現代の仙人の取材を試みた。だが、どうしても会うことができない。有峰湖へは有料自動車道が通っており、キャンプ場もある。ただ、仙人に出会うにはさらに山の中に分け入らなければならない。山岳警備隊の道案内も必要だ。1週間ぐらいかけて有峰湖周辺を探し回れば出会えたかもしれないが、本人があまり取材に応じたがらないとも聞いた。それはそうであろう。元々は自然が好きで仙人になったのだろうから、新聞取材などの喧騒からは逃れたいはずだ。やはり仙人は、雲の上の人のままでいいのかもしれないと思った。いつしか私も取材を断念してしまった。
2006.04.09
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▼成政の財宝夢のある物語は読者の心をつかむ。二年目の年末年始用ヒマネタ原稿に私が選んだのは、越中の武将佐々成政が山中に隠したとされる埋蔵金の話であった。おそらく富山の人なら誰もが知っている有名な伝説だ。戦国時代の武将・佐々成政は1580年、織田信長の命を受けて越中平定に向かった。成政は敵対する上杉陣営との約二年間の激戦の末、富山城、魚津城を落とし、越中を支配下に置いた。信長の死後、成政は天下を取ろうとする豊臣秀吉と対立、遠江の徳川家康と組むため、1584年に厳冬の立山のざら峠を越えて家康の浜松城に到着した。しかし家康との同盟はならず、1585年にはとうとう秀吉の軍門に下る。成政は秀吉から国替えにより肥後を与えられ、越中を去った。だが肥後で一揆が発生し、その責任を取らされて、1588年切腹により絶命する。伝説は、その悲劇的な成政の運命から生まれた。伝説によると、成政はざら峠越えのときか、あるいは秀吉の軍門に下る前に、再興を期して北アルプスの山中に財宝を隠した。伝説は次の歌にも残っている。「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱい、光かがやく」つまりこの歌などによると、埋蔵金は7×7の49個の壺に、紋入り小判が約100万両(時価数兆円)。埋めた場所は立山連峰の鍬崎山(標高2089・7メートル)であるというのだ。もちろん、これだけでは原稿にはならない。「今日性」がまったくないからだ。しかし幸いなことに、この財宝探しに今でも果敢に挑戦している人がいるとしたら、これは報道に値するニュースである。北アルプスのふもと、富山県上新川郡大山町原に住む本原盛明さん(1983年当時58歳)がその人だ。毎年のように金属探知機を担いで、一攫千金を夢見て山に分け入る。本原さんが埋蔵金発掘に本格的に乗り出したのは1981年。その三年前に鍬崎山に登った際、中腹の大きな岩に、かなり昔に彫られたような矢印があるのを発見、成政の埋蔵金が本当の話であると確信をもったという。こうした話を私が書いたところ、名古屋タイムズが一面トップで使うなど主にスポーツ新聞で大々的に掲載され、大きな反響があった。その後、鍬崎山に登山する人が増えたとも聞いた。ただし、今でも埋蔵金は見つかっておらず、本原さんらの夢は夢のままである。
2006.04.08
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▼富山の霊水シリアスな話が続いたので、再びヒマネタの話。新聞社は年末年始が近づくと、各支局、各部署に年末年始用ヒマネタを出すよう大号令をかける。官公庁が閉まり、ネタがなくなってしまうからだ。警察や検察も、年越しの捜査をしたくないので内偵事件に着手することは滅多にない。当然紙面は薄くなる。だが新聞社は、何もなくても紙面を埋めなくてはならない。ネタ枯れの時期には、冬眠前のリスのように、ネタをストックしなければならないわけだ。ただしこの時期は、新年を迎えるにふさわしく、肩の凝らない夢のある内容の原稿が求められる。年末年始のヒマネタ出稿は、大事件の取材に追われていない、富山のような支局にとってはノルマになっている。私は一年目に、「穴の谷の霊水」をヒマネタに選んだ。穴の谷の霊水は、北アルプスのふもと、富山県上市町にある霊水だ。江戸時代、美濃の国の白心という法師が修行していたこともあり穴の谷霊場とも呼ばれる。たしか富山では穴の谷を「あなんたん」と言う。参道から階段を下った谷間に薬師観音堂があり、そこから湧き出る清水は古来、難病に効くといわれ、環境庁から「全国名水百選」にも選定された。実際に病気が治ったという人もいるそうで、わざわざ関東や関西から、この水を汲みに来る人もいる。しかもこの水の特徴は、長期間放置しておいても腐らないのだという。ただ、これだけでは記事にならないので、私は万病に効くのはなぜか、そのメカニズムや清水の秘密に焦点を当てて原稿にした。結論を言うと、わからないというのが答えだが、原稿はそれでも構わないのである。私が紹介したのは、当時の北里大学教授によるゲルマニウムが含まれているからある種の病気に効くのではないかという説、富山県の水質を検査する試験場による不純物が極めて少ないから腐らないのではないかという説、民間に伝わる薬師如来の御利益説などだ。私の原稿では、フランスにもルルドの水という万病に効くという霊水(やはりゲルマニウムが含まれていることが知られている)があることを挙げながら、苦労して山道を歩き清水までたどり着き、水を飲むという行為自体と信仰心に、穴の谷の霊水が健康によいという秘密があるのではないか、などと結んだように記憶している。私も取材のついでに、10リットルのポリ容器に水を入れて持ち帰ったが、非常においしい水であった。飲料やご飯を炊くときなどにも使い、腐ることもなく長期間利用させてもらった。もっとも、富山の水は水道水でもおいしかった。富山の水を飲んでから、東京の水道水は飲めなくなった。穴の谷の水は、以前は無料だったが、現在は維持管理の為に10リットル当たり50円徴収するのだという。
2006.04.07
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▼富山の正力23(英雄の正体)富山の正力の物語もこれで終わりである。正力は富山県の、特に富山県警職員の間では、絶大な人気を誇っていたと思う。警察出身の偉大な実業家としての虚像が、今日でも支配している。私が富山でサツ回りをしていたときも、正力の批判をしようものなら、袋叩きに遭いかねないような雰囲気があった。富山の英雄の暗部に光を当てるのは、とくに保守的な富山県民や読売グループにとってはタブーでもあるのだろう。「富山の英雄」の暗い過去を暴いてどうなるのかとの指摘も聞いた。しかし過去の暗部に目をつぶることは、未来に起こる悪事にも目をつぶることである。人間が犯した悪行を語り継がなければ、同じような愚行を繰り返す。過去から学ばないものに未来はない。臭いものに蓋をして済まそうとするならば、やがて内部から腐りはじめ、気づいたときには、耐えられない臭気に満ちた世界になってしまうだろう。社会主義者らを強権で弾圧し次々検挙、何人もの人間を死刑台や死の監獄へと送りこんだ頭目が、警視庁時代の正力であることは疑う余地はない。正力は、その累々たる屍の上に敷かれた出世街道を邁進した。警視庁を追われ新聞業界に乗り込むと、数々の客寄せイベントや、力道山や巨人軍の人気を最大限に利用して大衆の目を娯楽に向けさせ、体制に従順な国民を生産することにも成功した。人を踏み台にして、すべての手柄を自分の功績にするのが正力であったことは、佐野眞一の『巨怪伝』に詳しい。プロ野球創設に尽力した鈴木総一郎を差し置いて、自分こそがプロ野球の父であると書かせたのも正力であった。その正力の名を冠した賞が毎年、日本プロ野球に貢献した人物に贈られるという。正力松太郎賞である。1977年の王貞治を皮切りに、長島茂雄、イチロー、星野仙一ら大物が受賞者として並んでいる。中国人である王貞治の父親・仕福は関東大震災の前年に来日し、危うく関東大震災の虐殺を免れた歴史をもつはずだ。流言蜚語をタレ流し、多くの朝鮮人や中国人の虐殺を事実上黙認した責任者は誰であったか。震災直後の混乱の中で、仕福が千葉県佐倉の連隊に拘束されたものの中国に強制送還されるだけで済んだのは、不幸中の幸いであった。あのとき、他の中国人のように殺されていたら世界の王も誕生することはなかった。おそらく王ら輝かしい選手や監督の受賞によって光栄に思うべきは、正力松太郎のほうであろう。そもそも、自分の都合のいいようにプロ野球史を改竄したとも指摘される正力松太郎を冠した賞に、いったい何の意味があるのか。それは正力一族並びに読売グループの宣伝でしかない。読売新聞によると、正力松太郎賞はプロ野球界最高の賞なのだという。死してなお名誉欲に駆られる一族の姿を見るようで、哀れでさえある。(参考文献)佐野眞一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』文春文庫 二〇〇五年長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社 一九八二年御手洗辰雄『伝記 正力松太郎』講談社 一九五五年正力松太郎ほか『正力松太郎 悪戦苦闘』日本図書センター 一九九九年
2006.04.06
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昨日アップし忘れた写真です。神田川を桜の花びらが流れ、その中をコイが上流へと泳いで行きます。今日は東京地方は雨でした。テニスもお休み。
2006.04.05
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▼富山の正力22(その後の正力一族)正力の死後、読売新聞社長の座に就いた務台は、正力張りの経営手腕を発揮した。常勝巨人軍という人気商品を作り出し、大衆を取り込みながら部数を拡大したのは、正力仕込みの拡販手法であった。1979年に江川卓投手を「空白の一日」という前代未聞の姑息な手口で巨人軍に入団させたのも、強引な正力経営のDNAが務台らに引き継がれたことを示していた。1970年、務台の読売新聞社長就任とともに、正力の娘婿・小林與三次は日本テレビ社長に、正力亨は読売新聞社主になった。その後1981年に務台は読売新聞会長に、小林與三次が社長に就任。務台が名誉会長職を経て、1991年に94歳で死去すると、小林は会長に退き、読売新聞社長には、新たな政財界のドンであるナベツネこと渡辺恒雄が就いた。読売新聞の株は公開されていないため、持ち株比率は定かでない。一説によると、正力一族がいまでも約7割を保有、残り三割は務台の遺族や退職した役員たちが持っているという。それでも正力一族の発言力は、次第に衰えてきているようにもみえる。巨人軍を絶対的な支配下に置いていた正力亨も、今では読売巨人軍最高経営会議の一員でしかない。読売グループのパーティーを開いても、人が集まるのはナベツネの周りであって、読売新聞社主の亨ではない。会長の小林も脳卒中で倒れたことがあり、すでに高齢になっている。正力王国は終焉を迎えたのだろうか。いいや、そうでもないようだ。よみうりランド社長の関根や亨の子供たち、つまり正力松太郎の孫たちが日本テレビなど読売グループで元気に働いている。私が共同通信経済部の記者をしていたとき、正力の孫は日本テレビ放送網報道部の経済担当記者をしており、時々現場でも一緒になった。言葉を交わしたこともある。今はまだ、孫たちは読売グループのトップを狙う位置にはいないが、やがて読売新聞の大株主として君臨するときが来るのかもしれない。(続く)
2006.04.05
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満開だった桜もハラハラと散り始めました。井の頭公園の桜です。井の頭公園西園にある「三鷹の森ジブリ美術館」。宮崎駿氏がプロデュースした美術館です。小平公園の桜。最後は三鷹にある母校の桜です。正門から800メートルほど桜並木が続きます。元々は飛行場の滑走路だったそうですが、これでは授業に遅刻してしまいますね。何度遅刻しないように走ったことか。そういえば、テニスコートから正門を往復するのが、テニス部の練習の一環でもありました。ロータリーの植え込みと桜。雑木林の奥に見えるのが、四年間過ごしたテニスコート。クレーコートで四面ありました。相変わらずゴチャゴチャしていますね。夏は雑草が生い茂るのでボール探しが大変です。24年前に比べて、桜の幹も太くて立派になりました。帰る途中、神田川は桜吹雪。花嵐でした。
2006.04.04
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▼富山の正力21(怪物の最期)正力の性根に最初に気づき、いちばん正力の行く末を案じていたのは、正力の母親・きよであっただろう。警視庁時代の正力がチフスにかかり静養していたとき、郷里から東京に駆けつけたきよは、正力に次のように言った。「おまえが蓄膿症やチフスで苦しい思いをするのは、おまえの手で捕まえられ、死刑になった人たちの祟りのような気がしてならない。もうこれ以上は罪作りはやめて、別のお役に代えてもらうようにしなさい」きよの言葉に対して正力は笑うだけで、意に介さなかったという。晩年の正力は、正力王国を作るために蹴落としてきた人物が復讐に来るのではないかとの妄想を抱くようにもなった。真夜中にガバット跳ね起き、「いま柴田(正力が首にした日本テレビ幹部の一人)が表にきている。俺を叩き殺しにきた」と叫ぶなど、悪夢にうなされることが多かったという。逗子の自宅の庭に敷き詰められた石を、なにかに取り付かれたように洗う正力の姿も目撃されている。その石は朝鮮から取り寄せた石で、黒ずまないように正力はタワシでごしごしと必死の形相で洗ったそうだ。関東大震災後の混乱の中で虐殺された多くの朝鮮人に対する贖罪の気持ちが少しはあったのだろうか。そうだとしたら、シェークスピアの『マクベス』を思い起こさせるシーンではある。やがてマクベスのように、正力の命運も尽きるときが来る。すでに妻には先立たれ、精神的にも弱っていたようだ。1969年になると、正力の肉体の衰えもいよいよ顕著になってきた。6月に国立熱海病院に入院、一時は散歩に出られるほど健康が回復したが、10月9日午前1時に容態が急変、その2時間50分後に息を引き取った。正力家の人間は誰一人、見送ることのない、84歳の寂しい死であった。(続く)
2006.04.04
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▼富山の正力20(正力王国の野望)佐野眞一氏が『巨怪伝』で書いているように、「正力にとって読売は、己の野心と権勢欲を実現させ満足させるための一手段に過ぎなかった」のだろう。正力は「新聞は公器だ」と述べていたようだが、実際は正力一族のための道具であった。1966年に妾の子である武を日本テレビで引き取ると、翌67年には33歳の若さで取締役に取り立ててしまう。正力の意図は明らかだった。長女梅子の夫である小林與三次を読売新聞、次女利子の夫である関根長三郎をよみうりランド、長男の亨を報知新聞、武を日本テレビのそれぞれトップに据えることであった。しかし、正力が描いた王国は磐石とは言えなかった。一族内の抗争が始まったからだ。労働争議で墓穴を掘り、無能な経営者として報知新聞を追われた亨は1968年、正力の計らいで日本テレビの副社長に就任した。亨は腹違いの弟である武をよみうりランドに追放。武は二度と日本テレビに戻ることはなく、1985年に51歳の若さで死去した。正力王国を築く上で気になる存在は、営業の神様と言われた務台であった。務台の実力は、入社当初から誰もが認めるところであった。務台なしでは、これほど読売が部数を伸ばすこともできなかった。正力は務台の手柄が気に入らない。読売新聞社内における務台の人気を恐れた正力は、存命中は決して務台を社長に就任させなかった。正力は務台に対して、首にこそしなかったが、生涯を通じて何度も嫌がらせの人事異動を実施している。1942年に務台をビルマ新聞に出向させたのも、務台がいつか読売を乗っ取るのではないかという正力の恐怖心の現われであったといわれている。正力は初め、務台に1~2ヶ月の間の出向だと名言した。しかしそれが6ヶ月になり、結局は1年8ヶ月間日本に戻ることはできなかった。その間、三人の子供を抱えた務台の妻は、東京大空襲の最中、精神に障害をきたしてしまったのだという。務台はその後も読売から遠ざけられ、読売に復帰できたのは、1951年1月のことであった。このように正力は、正力王国を脅かす実力のある人材に対しては警戒を緩めずに牽制しつつ、絶対服従を誓う社員に対しては重用し、側近にしていった。これもすべて、息子や義理の息子に正力王国を託すためであった。(続く)
2006.04.03
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千鳥ヶ淵を目指して早稲田から九段下方面へ向かいます。これは、枝からではなく幹から咲いている桜の花。さて、九段下に到着し千鳥ヶ淵に行こうとしたら、凄い人です。靖国通りは大混雑。写真は手前の牛ヶ淵の風景です。対岸に日本武道館も見えますね。この調子だと、上野公園はもっと混んでいそうです。そこで計画を変更して白山通りを北上、小石川植物園へ向かうことにしました。途中、後楽園(東京ドーム)を通過します。観覧車と桜。小石川植物園に到着しました。皆さん、宴会をしたり、撮影をしたりして、桜を楽しんでいます。植物園内の日本庭園と桜です。水面に映る桜がきれいです。これは山桜。植物園ですので、桜以外の植物も紹介しましょう。サルスベリの並木です。椿園に咲いていた「淡路島」。これはシダですね。種類は忘れました。最後は再び桜並木です。この後播磨坂の桜並木を通って、午後5時に無事帰宅しました。午前11時に自宅を出発しましたから約6時間の都内桜ツアーでした。(今日は「新聞記者の日常と憂鬱」はお休みです。)
2006.04.02
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今日は絶好のお花見日和。どこもかしこも桜は満開です。都内の桜の名所を回ってみました。これは自宅そばの公園の桜。次は中野区立中央図書館のしだれ桜です。私がよく利用する図書館です。今日も本を返却に立ち寄りました。館内からもこの桜を観賞できます。そのまま中野通りを北上します。中野通りの桜並木です。妙正寺川の桜。この川は途中から神田川になります。左手は哲学堂公園ですね。妙正寺川・神田川を下ります。神田川と桜。山手線を越えて早稲田方面へと向かいます。都電荒川線と桜のツーショット。と、思ったら、電線の上にハトちゃんたちが列をなしていました。都電は早稲田行きですね。さらに神田川を早稲田の方へ進むと、面影橋に出ます。この橋から見た桜がきれいなので、人だかりがしています。面影橋から見た神田川にかかる桜です。両岸の桜がくっつきそうですね。早稲田大学は写真右手の方向にあります。神田川の上流の妙正寺川は早稲田大学ラグビー部グランドがある杉並区上井草の近くから流れています。桜祭りの提灯が飾られていますね。神田川・豊橋のそばで寝転んでいた猫チャマ。飼い猫でちゃんと首輪をしていました。新江戸川公園近くの神田川の桜。この後、有名な千鳥ケ淵、それから小石川植物園へと向かうのですが、それはまた明日。
2006.04.01
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▼富山の正力19(会社の私物化)正力は結局、衆議院議員に4回、参議院議員に1回当選。第一次岸内閣では科学技術庁長官、原子力委員会委員長、国家公安委員長を務めた。しかし、その選挙のやり方はとても国家公安委員長だった政治家とは思えない、どぎついものであった。とにかくいつもふんぞり返って、「お願いします」などとは絶対言わない。さすがに「おい、コラ」の警察出身である。最初の選挙の応援には、川上哲治、千葉茂、別所毅彦といったプロ野球巨人軍の選手だけでなく、阪神タイガースの藤村富美男、中日ドラゴンズの杉下茂らの有名選手もセリーグ会長に率いられ動員された。後の選挙では長島茂雄、王貞治、力道山らも富山入りをさせ、人寄せにユニフォーム姿で選挙応援のためのサイン会やプロレスの前座試合を開催させたりもした。読売新聞、日本テレビ、よみうりランドの正力直属三社が調達した選挙資金を地元富山の有力者や販売店にばら撒き、有力者の子弟を片っ端から日本テレビに入社させて票固めに血道を上げた。このため、当時の日本テレビのアナウンサーは皆、富山弁であったといわれたほどであったという。後に日本テレビの粉飾決算が明らかになるが、正力は公私を混同し、会社の資金を自分の選挙などに流用していた可能性が強い。当然これは犯罪行為である。正力が会社を私物化したのは明々白々であった。正力は自分の故郷の富山県高岡市に読売新聞の北陸支社をつくって現地印刷を始めたが、これも露骨な選挙対策であった。私が富山支局に赴任して最初に驚いたのは、読売新聞が北陸に支社をもち夕刊すら発行していることだった(読売以外の全国紙は夕刊を発行していないし、支社は名古屋や大阪などの大都市に置いている)。しかも使用している紙が他のどの新聞よりも厚くて重くて良質のものであった。正力はすでにこの世にいなかったが、正力がいかに自尊心の異常に強い俗物で見栄っ張りであったかは、簡単にうかがい知ることができた。(続く)
2006.04.01
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