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▼羽根の謎13(昨日の原稿の解説です。)最初の問題は、筆者本人が見つけた羽根のラインなのに、なぜ富山大学のY教授のグループの研究でわかったと書いたかだ。答えは、新聞記者は黒子で、あまり表に出ない存在だからであり、大学教授の名前を出したほうがニュースの信頼性やバリューが上がるからでもある。Y教授とは「尖山は古代ピラミッド!?」の原稿でお世話になった山口博教授のことだが、了解を得ていないので仮名にしてある。もちろん羽根のラインのことは山口教授にも事前に話してあり、竹内文書の研究を一緒にしているので、山口教授と私は一種の研究グループである。実際に原稿を出すときには、山口教授に原稿をチェックしてもらった後で出稿となる。最後のY教授の談話も、山口教授ならこのように言ってくれるだろうということで、私がかってに書いている。山口教授が別の表現のほうがいいということになれば、言われたとおりに直して出稿する。その時点でY教授は山口博教授に変わるわけだ。一方、富山医科薬科大学の荻田教授は厳密に言うとグループではないが、羽根のラインのことを話したら面白がって自説を語り始めたので、そのまま採用させてもらった。後に『「竹内文書」の謎を解く』でも紹介したが、光通信網は理系の教授らしい発想であると思う。原稿ではさすがに“超能力者”秋山氏の気球説や“金星人”の話までは書けなかった。字数に制限があることもあるが、“良識ある報道機関”が超能力者や金星人の話を真面目に取り上げることはまず不可能であろう。最近、テレビ番組などで「超能力捜査官」がよく登場するようになったものの、大手新聞を読めばわかるように、超能力者やUFOはいわゆる市民権を得ているとはいえない。つまり実在すると認めていないのである。市民権を得てないものには触れないのが新聞社の常である。触れるとしても、茶化す場合が多い。記事の構成は「黒三ダムと朝鮮人」の原稿と同じである。最初のリードで一番知らせたいことをすべて書く。とくに重要なのは意義付けである。なぜこれがニュースなのかを読者に納得させなければならない。黒三ダムのときは、黒三ダム建設の難工事に従事した労働者の大半が朝鮮人であったことはこれまで知られていなかった、という点がポイントであった。この羽根のラインの原稿では、もしかしたら「知られざる古代王朝の痕跡ではないか」という点が最重要ポイントである。リードの後に来るのが、具体的な記述だ。ここでは日本海側から太平洋側に至る羽根の地名が紹介されている。その後の段落では、リードで紹介した要素を詳述していく。竹内文書とは何かとか、知られざる古代王朝があったとする理由はなにか、といったことを肉付けしていくわけだ。最後の締めは、Y教授の談話である。このように最初に一番重要なことを書き、あとからリードで触れたことの細部を記述していく書き方を逆三角形スタイルという。英語の論文を書くときも、同じである。(続く)
2006.05.31
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▼羽根の謎12(羽根の原稿)この羽根のラインの話を富山支局時代に書いていたらどうなったか。20年経った今、新聞原稿にしてみたらこうなった。【富山】岐阜県の位山を中心にして、日本海側から太平洋側までの約320キロにわたる同一経線上に羽根という地名が並んでいることが、富山県の古代史を研究する富山大学Y教授らのグループの調べでわかった。富山に伝わる竹内文書という謎の古文書を解読しているうちに見つけたもので、意図的に配置された可能性が強い。そのため、知られざる古代王朝の痕跡ではないかと論議を呼んでいる。問題の羽根という地名は、石川県・能登半島から愛知県・渥美半島まで四県五箇所にある。いずれも、東経一三七度一一分の経線上にあり、特に石川県能都町の羽根と富山市の羽根は約六〇キロを隔てた富山湾の対岸に向かい合うように位置している。ほかの三箇所は、岐阜県萩原町の羽根、岡崎市の羽根、愛知県・渥美半島の赤羽根。竹内文書には、国之常立(くにのとこたち、記紀では神話の時代に登場する神)が「天空浮船」に乗って「羽根飛び登り行くところ」を羽根と名づけたと記されている。同文書は一八九二年、富山の竹内家の養子となった竹内巨麿が養祖父から譲り受けたとされる秘伝書。巨麿が後に公開したが、一九三六年には神宮神事に対する不敬罪、文書偽造などの容疑で当局に逮捕された。一九四四年に無罪が確定したものの、同文書は内容が奇想天外なことから、学会からは偽書扱いされている。天空浮船の発着場との説は確かに奇抜だが、イギリスでは聖地を結ぶとその直線上に「レイ」という地名が並ぶ「レイライン」が知られている。富山医科薬科大学の荻田善一教授は「直線ということから光を使って合図を交わしていたのではないか」と話す。荻田教授によると、位山には王がいて、狼煙などを羽根のラインに沿って上げることにより、日本海側と太平洋側で漁獲量など重要な情報を交換し合った可能性はある、という。「いわば古代版光通信網だ」と荻田教授は言う。一方Y教授らによると、羽根という地名のラインは、江戸時代後期に作成された伊能忠敬の日本地図よりも正確に経度を測量した可能性が高いという。五箇所の羽根という地名は江戸時代より前、一部は戦国時代まで遡れる。しかし竹内文書以外の文献にはいっさい記されておらず、いつの時代に誰が何の目的で羽根という地名を配置したかはわからない。諸説紛々としているが、Y教授は「古代において神々が日本に降臨、飛騨王朝を建国して天空浮船で空を飛びまわっていたのかもしれませんね」と話している。(了)明日はこの原稿の解説をします。
2006.05.30
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▼羽根の謎11(気球・山頂説)私はそのメモを読んで驚いたと同時に「しまった」と思った。そこには、羽根のラインは古代人により気球のような乗物を利用して測量されたという驚くべきことが書かれていたが、いつ、どのような人々が、何の目的で羽根のラインを築いたかは記されていなかったからだ。「いつ、どのような人が、何の目的で作ったのかも聞いてもらえませんか」と、慌ててTさん頼んだが、時既に遅し。そう何度も聞けないのだそうだ。Tさんが「このような質問でいいですか」と聞いてきたときに、ちゃんとチェックしておけばよかったと悔やまれる。しかし、これだけでも貴重な情報である。何と秋山眞人氏と同様に、気球を使ったとの見解を“金星人”が持っていることになる。違うのは、秋山氏が火を使って気球を上げたとしているのに対し、“金星人”は今使われているエネルギーではない、未知のエネルギーを使っていたことを示唆している点だ。そのエネルギーとは何か。見当もつかない。とにかく、気球説が急浮上してきた。気球を使ったならば、70キロ以上離れた山から富山湾の対岸の火を観測するよりもずっと正確に、南北に延びる経線を測量できただろう。具体的にどうやったかは推測するしかないが、少なくとも気球から測量すれば、視達距離は飛躍的に延びる。山あり谷ありの起伏の激しい地形でも、人を乗せた気球を上げて観測すれば、かなり遠方まで南北のラインを測量することが可能であろう。おそらく風のない日に、地上とロープで結ばれた気球をほぼ真上に上げて、山の頂などを目標にして地上の二点を結び正確に南北を測量したのかもしれない。風で気球がどちらかの方向にずれても、簡単な計算で補正できたはずだ。その測量用気球(天空浮船)を打ち上げた場所が、羽根と名づけられたのではないか。アイヌの文化を後世に伝える活動をしている北海道平取町二風谷の山道康子(アイヌ名アシリ・レラ)さんは、羽根は当て字でアイヌ語の「パネ」ではないかと言う。「パ」が山などの「頂上」、「ニ」は「そうである」の意味であるという。つまり「羽根」は、「山の頂上があるところ」ということになる。気球が「山の頂上」のように打ち上げられた場所という意味かもしれない。奧能登の最高峰・宝立山や、富山平野でひときわ目立つ呉羽丘陵、高山にそびえる霊峰で分水嶺ともなっている位山が、羽根のライン上にあることも偶然ではないだろう。羽根はそうした山の頂上のそう遠くない(最大約15キロ)真南に位置しているからだ。羽根のラインが築かれたのが、いつの時代であったのかはわからない。ただ言えることは、私たちの知らない、おそらくはずっと封印されてきた古代日本秘史の断片が「羽根の謎」の向こう側に、ほのかにではあるが影絵のように浮かび上がってくるということである。
2006.05.29
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▼羽根の謎10(気球説2)「私の場合は、お筆先で交信しているのです」とTさんは言う。お筆先とは、自分の意志とは関係なく、自動書記のように筆が動いてメッセージが記される現象。大本教の開祖出口なおの「お筆先」がよく知られている。「珍しいパターンですね。テレパシーで交信する人が多いようですが、自動書記ですか。でも、自動書記でどうして、その相手が金星人だとわかるんですか」と私は聞いた。「簡単です。私の場合は、質問を紙に書くんです。そのときにあなたは誰ですかと書いたら、金星人のだれだれですと答えが出てきました」「紙に質問を書くと、自然に答えが出てくるんですか」「そうです」「それを使えば、羽根のラインの謎もわかるかもしれない?」「その通りです。既に以前、天照大神の神話がいつごろの時代の話なのか聞いたことがあります。そうしたら、たしか1万8000年前であると出てきた」「1万8000年前? まだ氷河期のころですね」「羽根のことも質問してみましょう」Tさんはそう言うと、手帳を取り出して鉛筆でなにやら書き始めた。書き終わるとそれを私に見せて言った。「このような質問でいいですか」見せてくれた手帳には、「羽根のラインは、だれかが意図的につくったものですか。そうならば、どうやってつくったのでしょう」というような意味のことが書かれていた。「これでいいです」と私は言った。Tさんはそれを聞くと、手帳の前で鉛筆を持ちながら、独特の呼吸法で瞑想のような状態を作り出したようであった。すると、鉛筆がチョコチョコと動き出し、文字を書き始めた。あとで聞いたら、本人もどのような文字が出てくるかまったく見当がつかないのだという。書き終わったメッセージは次のようなものであった。「羽根のラインは、古代の人々が今とは異なるエネルギーを使った気球のようなものを飛ばして、測量したものである」(続く)
2006.05.28
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▼羽根の謎9(気球説)竹内文書に出てくる天空浮船は気球ではないかとする秋山氏の説は面白い。古代人は縄で人が乗り込める気球を造り、火を焚いて飛ばした。気流に乗り、やがて気球の中の空気が冷えると不時着する。古代人はその新天地で、縄でできた気球を解体、縄や毛皮、布といった気球に使われた材料をすべて生活に再利用したのではないか、そのため気球の残骸すら残っていないというのだ。この気球説はまったくありえない話ではない。たとえば、南米ペルーのナスカ高原にある不思議な地上絵は、古代人が気球を使って鑑賞したのではないかとの説が有力視されている。国際探検協会のジム・ウッドマンは、当時あったとされる材料と技術を使って気球を作製、実際に高度130メートルまで上昇させる実験に成功している。ナスカの地上絵が描かれたのは、今から約2000年前である。秋山氏は“超能力者”であるから、そのような気球の映像が見えたのであろう。秋山氏自身、超古代レムリアで気球の製作に携わった“過去生の記憶”があるというから、この惑星ではかなりの古代から気球が使われていたのかもしれない。この気球説には後日談がある。私は2004年8月、岐阜県知事の招待で、高山市で「羽根のラインと古代飛騨王朝」というテーマで講演をした。原日本人が羽根のラインを築いたのではないかという私の仮説を紹介したのだ。地元の人を中心に200人近くが私の講演に耳を傾けてくれた。講演会の後、地元の人の案内で位山のそばの巨石めぐりをして、夜は懇談会となった。私の隣には、位山の守人ともいえる地元のTさんがおられたので、羽根のラインにまつわる話をして盛り上がった。私はTさんに「羽根のラインをどうやって築いたか、どうしてもわからないんです」と正直に打ち明けた。Tさんはしばらく考え込んでいて、「もしかしたら、わかるかもしれない」と言う。「どういうことですか」と私は聞いた。「実は、私は金星人と交信ができるのです」金星人――。普通の人なら、この人は頭がおかしいのではないかと思うかもしれないが、幸い(?)なことに、私の友達にも金星人が知り合いだという人が何人かいたので、「Tさんも金星人と交信できるんですか!」と思わず言ってしまった。Tさんは人差し指を唇に当てて「しーっ」という仕草をすると、「あまり大声で言わないで下さい。このことはあまりほかの人には話していないんですから」と小声で言う。「わかりました。面白いですね。では金星人とはどのように交信しているのですか。テレバシーですか?」と、私も小さな声で密かに聞いた。(続く)
2006.05.27
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▼羽根の謎8(飛行船発着場説)先に羽根のラインに関する文献など残っていないと書いたが、実は古代の羽根について唯一言及している文献がある。平群真鳥の子孫であるという、越中の竹内家が密かに秘蔵していたとされる「竹内文書」だ。簡単に説明すると、宇宙からはるばる地球にやってきた一族の子孫である上古第14代国之常立天皇が、天空浮船という空飛ぶ乗物に乗ってハネ飛び登り行くところを羽根と名づけたと書かれているのである。「竹内文書」の真偽のほどは議論が分かれるが、この羽根に関する記述は非常に興味深い。発想が飛び抜けている。羽根は飛行機のような空飛ぶ乗物の古代発着場であったというのだから。国之常立は記紀神話にも登場する神話時代の神である。なるほど羽根のラインがかくも神業であるわけだ。これは荒唐無稽な話であろうか。その判断材料にもなるので、ここで一つの説を紹介しよう。私が考え出した説ではない。ここから先の話は新聞記者の日常とは無縁の話なので、「新聞記者の非日常」として聞いてほしい。私は時々、行き詰まったときに「ズル」をするのだ。どのような「ズル」か。超能力者や霊能力者に答えを聞くという「ズル」である。もちろん盲信はしないが、奇抜で面白い意見は、硬直して行き詰まった私の脳を刺激してくれるのでありがたい。羽根のラインに関して、国際気能法研究所所長で“超能力者”としても知られる秋山眞人氏は次のように言う。「私には、古代の人々が気球を使って空を自由に飛んでいたような気がしてならないのです」これに対して私は質問をする。「そうだとしたら、なぜそのような痕跡なり、土器に描かれた絵なりが残っていないのでしょう。証拠が残っていてもおかしくないはずですよね?」秋山氏は言う。「布施さん(筆者の本名)。火焔土器を見たことがありますか。あれなんか、火を使って動物の皮かなんかで造った気球を膨らませて、飛ばしていたイメージそのものなんですよね。火焔土器の形が気球の籠の形であったかもしれない」あっけにとられている私には目もくれず、秋山氏は続けた。「私は縄文時代の縄に着目しているのです。おそらく麻縄かなにかで人を乗せて運べる籠を造った。布か動物の毛皮を張り合わせて風船の部分を作り、火を焚いてその風船に温かい空気を送り込むと空に浮きます。それが天空浮船だったのではないでしょうか」(続く)
2006.05.26
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▼羽根の謎7(防衛ライン)同時刻に執り行われた太陽の光の祭り。おそらく、羽根のライン上で毎日同時刻に実施されたであろう光通信も、祭りや儀式的な要素を多く含んでいたであろう。通信自体、祭祀と言ってもいいかもしれない。そこに連帯感や絆が生まれたであろうことは、想像に難くない。私は古くから飛騨地方に伝わる日抱き御魂鎮めの神事に注目している。これは、太陽が高く昇っている時刻に池や井戸などの水面に映った太陽を見つめることにより瞑想状態に入り、潜在意識の世界で予知情報などを得る神事であるとされている。羽根のラインを使って、この同時刻瞑想をやっていた可能性もあるのではないかと思っている。大胆な仮説だが、建築家の渡辺豊和・京都造形芸術大学教授は光を見つめることにより、おそらく縄文人が体験していたのであろう神秘体験をしたことがあると話している。渡辺教授によると、光にはさまざまな未知の情報を喚起する力があるのではないかという。そうだとすると、光はユングの主張する集合無意識に入る込むための媒体となりうるのだ。絆の強いもの同士で瞑想を同時に行えば、信じられないように複雑で濃厚な情報が交換できたのかもしれない。さて、その羽根のラインだが、最後には防衛ラインとして使われたのではないかと思っている。なぜ最後かというと、前述したように大和朝廷が権力を掌握した以降に築かれたラインであれば記録が残っているはずだが、どの文献を探してもそのような記録はまったく残っていない。つまり、大和政権に征服された人々が築いた可能性が浮上してくるのだ。あくまでも推測だが、羽根のラインは被征服者である原日本人が築いたラインではないだろうか。海の向こうからやってきた征服者たち(天津神)は九州に上陸、東へと侵略の歩を進めた。防衛ラインは次々に破られていく。出雲の地において、大激戦となるが原日本人(国津神)の代表であったオオクニヌシは敗北。原日本人はさらに東の地へと追いやられる。飛騨地方でも再び激戦があったに違いない。その際、羽根のラインを使って、征服者たちの居場所などの情報を連絡しあった時期もあったかもしれない。それは防衛線としても機能したのだ。しかし羽根のラインも打ち破られ、最後には諏訪湖で決定的な敗北を喫し、生き残った原日本人はサンカや蝦夷、アイヌとして山岳地帯や北方へと散り散りになって敗走する。近畿地方に大和政権を樹立した征服者たちは、その後も原日本人に対する迫害の手を緩めることはしなかった。七世紀半ばには、蝦夷を福島県白河の地まで追い払い、さらに8世紀には秋田、岩手へと蝦夷を追い詰めていく。止めを刺すべく、桓武天皇は797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて東北へ派遣。とうとう802年に田村麻呂は蝦夷を平定するのである。(続く)
2006.05.25
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▼羽根の謎6(光と祭り)おそらく南北のライン(経度)をこれほどの規模でしかも精確に測量できる人たちならば、光を使った巨大な高速通信網を構築していたとしても不思議ではない。彼らは、位山を中継基地にして、日本海側と太平洋側の情報を相互に伝え合っていたのではないだろうか。太平洋側からは「新潟産のヒスイを送ってくれ」という注文が日本海側に伝えられ、日本海側からは「こちらは不漁なので魚の干物を送ってくれ」という注文が太平洋側へ伝えられる。こうして交易に利用していたのかもしれない。この巨石と光を使った通信網は、情報を伝達するだけに使われたのではないような気もする。羽根のラインの中心地とみられる位山にある巨石群は、明らかに祭祀に使われていた痕跡があるからだ。つまり太陽や火など光を使った祭りや儀式にも用いられていた可能性がある。巨石と光と祭りの関係は、古代から非常に密接であった。巨石の周りで火を焚いて踊るなどは日常茶飯事であっただろう。太陽の光と巨石を使った祭りもあった。鍋山のメンヒルもそうであろうが、夏至の日に二つの巨石の間から昇る太陽を拝む儀式は、三重県二見町の二見浦にある興玉神社の祭祀が有名である。夏至の日の朝、沖に浮かぶ夫婦岩の間から朝日が昇るのを拝む。しかもその先には富士山が見えるのだ。この太陽を拝む夫婦岩の神事は、羽根のラインとも無関係とはいえない。夫婦岩と富士山を結んだ直線は当然、羽根のラインと交差する。その交差地点は渥美半島・赤羽根町の北にある衣笠山のきわめて近くであるからだ。おそらく羽根のライン上にある衣笠山でも夏至の日の朝、富士山から昇る太陽をほぼ同時刻に拝んでいたであろう。そのときに火を焚いて狼煙を上げれば、夫婦岩からその狼煙を見ることも可能なはずだ。同じ日、岐阜県恵那市鍋山のメンヒルでも、太陽が昇るころ夏至の祭りが行われていたに違いない。このように日本中で、光と岩を使った祭りが同時進行していたのではないだろうか。同じ時刻に祭祀を執り行うことにより、いっそうの連帯感が生まれ、絆を強くすることができたのかもしれない。連帯感と絆――。それは次の仮説へと私を導くのである。(続く)
2006.05.24
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▼羽根の謎5(仮説:古代高速光通信網)羽根のラインをどうやって測量したかも難問だが、では何の目的で築いたかという謎を解くのも難しい。文献などが残っていない以上、私たちにできるのは、仮説を立てることしかできない。そのうちのいくつかの仮説を紹介しよう。まず、直線であるということから、直進するという性質をもつ光を使ったのではないかと推察される。つまり火を焚いて、情報を伝達したのではないかいう考えに結びつく。事前に火の焚き方が何を意味するか決めておけば、情報伝達は可能である。もちろん使ったのは火だけではないであろう。太陽の光をモールス信号のように反射させた可能性もある。羽根のライン上にある岐阜県の位山には、鏡岩と呼ばれる、岩の一面を研磨したような巨石がゴロゴロしている。この鏡岩を使って、羽根のラインから東西などあらゆる方向に向けて太陽の光を一定のリズムで反射させ、情報を伝えたのかもしれない。これは壮大な仮説である。鎌倉時代以前の日本で、日本海側から太平洋側までを結ぶ高速光通信網ができていたことになるからだ。羽根のラインを基幹通信網にして、そこから網の目のように中部地方一帯、あるいは関東や関西地方にまで、情報通信網が張りめぐらされていた可能性すらある。その傍証となりうるのが、位山を中心にして羽根のラインを時計の反対周りに24度傾けたライン上に羽根、羽咋、浅羽、根羽と、「羽」、音で言うと「は」と「バ」が並んでいることである。これはもう一つの羽根のラインではないかと私は考えている。このことから、位山を中心に情報網が形成されていた可能性が浮上してくる。その情報網を、炎の光と太陽の光が飛び交っていたのである。光と石を結びつける物証はある。岐阜県の山中には、「夏至の日の出を告げる石」もある。恵那市の鍋山にある二枚の巨石を立てたメンヒルで、二枚の巨石の小さな隙間から夏至の太陽が昇るのが見えるのである。古代人が季節を知るために立てたとみられている。また方位石という東西南北に割れ目が入った石も見つかっている。この方位石の中央で火を焚けば、その割れ目に沿って東西南北に光を送ることができるのだ。ではなぜ、南北に正確にラインを築く必要があったのか。私はその疑問に対する答えは、時間ではないかと考えている。精密な時計がなかった時代、時を知るには太陽の位置を見るぐらいしか方法がなかった。ところが経度が異なると、日の出・日の入りだけでなく毎日の南中の時間も大きくずれる。効率的な光通信を行うには、時間を決めておくのがいちばんである。南北一直線上であれば、南中時間は一年中いつも一致する。簡易日時計で太陽が南中する時刻を知り、その時刻に光を送信すれば、わずか数秒で日本海側から太平洋側まで情報を伝達することができるのである。インターネットも驚く、高速光通信網の出来上がりだ。(続く)
2006.05.23
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▼羽根の謎4(誤差について)2003年12月、上野の国立博物館で伊能忠敬展が開かれたとき、床いっぱいに広げられた伊能の大図を使って、富山湾の対岸でどのくらい経度に誤差があるかを定規で測定したことがある。大図というのは、伊能図の中でも縮尺が三万六〇〇〇分の一ともっとも大きく、中図(縮尺二一万六〇〇〇分の一)や小図(縮尺四三万分の一)に比べて地図に記された地名も詳しい。小図は日本列島(北海道~九州)を三枚の図に収め、中図は八枚、大図は二〇〇枚以上の図に全国を収めている。実はこれほど精巧に作られた江戸時代後期の大図でも、六〇キロ離れた富山湾の対岸ですでに約1・5キロも東西方向にずれが生じていた。一方、富山湾の両岸にある羽根という二つの地名の経度はほぼ一致する。具体的な数値を上げると、能登の羽根は東経137度10分24秒~137度11分00秒にあるのに対し、富山市の羽根は東経137度10分58秒~137度11分24秒に位置する。つまり同じ経度を共有しており、ずれがあるとしても全体で30秒程度、距離にして800メートルほどである。伊能の地図と比べても誤差が極めて少ないことがわかる。伊能でもなしえなかったこの技術的な問題を、それより古い時代において、羽根のラインの作成者はどのように克服したのだろうか。実はいまだに、この謎が解けていない。理論的に推論することはできる。だが、それが実際に可能であるかと聞かれれば、ほとんど不可能なようにも思える。とりあえず、私の推理を紹介しよう。夜中、南北一直線になるように二箇所で火を焚く。それを対岸の高い場所から観測し、その火が一直線になる場所を特定すればいいように思える。ただこれが、六〇キロ離れた富山湾の対岸で実際に観測できるのかという問題がある。幸いなことに、能登には469メートルの宝立山がある(しかもこの山は、能登の羽根の真北にある山である)。その頂上からの視達距離D(単位:海里)はD=2・078×(√469)で求められるから、D=45海里つまり、約83キロ遠方まで視認できる計算だ。宝立山から富山湾の対岸まで75キロであるため、視達距離内ではある。あとはどれだけの火を焚けば対岸から見えるかだが、仮に見えたとしても75キロ先の光の点を結んで本当にこの誤差で済ませられるのかという疑問は残る。まさに神業としか思えないのである。(続く)
2006.05.22
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▼羽根の謎3南北に正確に羽根のラインを築くことが大事業であったことは、江戸時代後期に大規模な測量をして日本地図を作成した伊能忠敬の苦労からもわかる。正確な時計がなかった時代、伊能は経度を測るため月食など天体観測に頼ったが、結局最後まで経度を正確に測ることはできなかった。そのため伊能の地図は、緯度こそ極めて正確であったが、経度がいびつになり、日本列島も東西方向に歪んでしまったのである。しかし、鎌倉時代以前に遡るとみられる時代に、一体どうやって経度に相当する南北をかくも正確に測量できたのだろうか。精密な時計があれば、それほど問題なく経度は測定できる。時計がない時代においては、やはり伊能が試みたように天体観測に頼らざるをえなかったであろう。ではどうやったのか。ある地点における南北の方向を知ることは、それほど難しくない。太陽が南中する(影が最も短くなる)ときに影が伸びている方向が真北である。あるいは、固定した観測点から日の出と日の入りの位置を同じ高さ(水平線)において正確に記録するか、星が水平線に現われてから水平線に沈むまでを正確に記録し、その線分の中点を取っても南北が決定できる。真北がわかれば、その南北線上に二本の棒を垂直に立てる。その二本の棒が重なる線を延ばして目印を付けてゆけば、遠方にも真北の第三点を求めることができる。これを精確に繰り返せば、どこまでも南北のラインを引くことが可能なはずである。ただ、問題は見晴らしのいい平野部ならともかく、山あり谷ありの320キロもの壮大なラインとなると、どうしても誤差が出ることだ。それを修正するためには、精密な時計を使う必要があるのだが、精密な時計もない時代にどのようにしてラインを修正したのかは不明である。また富山湾のように60キロも目印もないような離れた場所でどのように南北を測定したのだろうか。両岸で火を焚いたり、狼煙を上げたりしても、六〇キロ離れていると、それを視認するのは非常に困難な作業になる。現在の日本の灯台でも、室戸岬にある灯台の光達距離(光が届く距離)が最大で、40キロほどとされていることを考えると驚異としか言いようがない。仮に対岸の火や煙が見えたとしても、かなりの誤差が出るはずである。ところが、羽根のラインの誤差は、ほとんどないのである。(続く)
2006.05.21
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▼羽根の謎2羽根のラインはいつごろ、築かれたのであろうか。これを調べるのは非常に困難である。唯一方法があるとしたら、いつの時代から羽根という地名が確認できるかである。とりあえず、公的な文献に残っている地名の記録を調べてみた。能登の羽根については、1518年3月に能登を旅した冷泉為弘「能州下向日記」に「ハネ」という地名が出てくるのが最初である。富山市の羽根は、江戸初期(1604年)に「はね村」として登場する。岐阜県萩原町の羽根も江戸期にはあったことがわかっている。愛知県岡崎市の羽根は、戦国期に羽根郷として現われる。渥美半島の赤羽根はもっとも古い記録が残っており、鎌倉時代には存在していたことがわかる。しかし、これだけではいつから羽根のラインが存在していたかわからない。おそらく鎌倉時代以前からあったのであろうが、文献でたどれるのはここまでである。「いつ」がわからないのだから、「誰」がわからないのも当然といえば当然だ。しかし、ヒントはある。「旧岡崎市史」によると、岡崎市の羽根の由来は、古代土師(はじ)部の住地で埴土(はにつち)が産出したからであるという。そうだとしたら、羽根のラインが築かれたのは、古代にまで一気に遡る可能性がある。ただ「旧岡崎市史」も、おそらく伝聞を書いているだけであるから、真偽のほどは定かではない。土師部が絡んでいるというのは、一つの有力な説ではあるだろう。別の見方をすれば、記録に残っていないことが「誰」を解くヒントになるかもしれない。日本海側から太平洋側まで320キロを南北一直線になるよう測量し、後々まで残る地名を名づけるという壮大な作業は、時の政権が成し遂げたのであれば、何らかの記録が残ってしかるべきである。それがないということは、時の政権とは一線を画した存在が羽根のラインを築いたとも考えられるわけだ。(続く)
2006.05.20
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▼羽根の謎1黒三ダムの原稿が出稿できなかったのは、私にとって非常に残念であった。実は富山支局にいる間に書けなかった大切な原稿がもう一つあった。それは「羽根のライン」の原稿であった。拙著『「竹内文書」の謎を解く』をお読みになった方ならご存知だと思うが、私が「竹内文書」という謎の古文書を読み解いているうちに発見した南北一直線に並ぶ羽根という地名のラインのことである。この羽根のラインはもしかすると、日本の古代史を根底から覆す「動かぬ証拠」になるのではないかと、私は考えている。この羽根のラインに関する私の考察を紹介しよう。まず事実だけを述べると、石川県鳳至郡能都町の羽根から愛知県渥美半島の赤羽根まで、東経137度11分に羽根が付く地名が五ヶ所も南北一直線に並んでいるのである。これは偶然の一致ではないと私は考えた。大きな湖の南北の対岸に同じ地名があれば、それは意図的に配置された地名であると考えるのと同じである。たとえば、直径100メートルほどの池の対岸に同じ名前を冠した神社があったとしよう。当然これは池の対岸に向かい合うように意図的に二つの神社を建造したと考えるはずだ。しかもそれが南北一直線に向かい合っているとしたら、その建造者がきちんと方位を測定して建造したとするのが妥当だろう。次に直径二キロほどの湖の対岸に、同じな前を冠した神社が向かい合うように建っているとしよう。これも建造者が意図的に対岸に神社を配したとみるのが自然であろう。しかも二つの神社がちょうど南北のライン上に建造されているとしたら、建造者が正確に方位を測定し、神社を建てたと誰もが考えるであろう。羽根のラインも同様である。南北60キロ離れた富山湾の対岸に羽根という地名があり、羽根を関した神社が向かい合っているのだ。だれかが意図的に地名を付け、南北一直線に向かい合うように神社を建造したと考えても不思議ではない。この羽根のラインの凄いところは、日本海側から太平洋側まで全長320キロにわたる雄大なラインであるということだ。ここで断っておくが、羽根という地名が全国に無数にある地名ではないということだ。『角川日本地名大辞典』によると、羽根という地名は羽根のラインの羽根を含め、神奈川県秦野市、鳥取県斐川町、岡山県成羽町、大分県香々地町など20弱しかない。そのうち4つ(赤羽根は赤がついているので除いている)が羽根のライン上にあるのだ。統計学的にも偶然の一致では済まされないであろう。では誰が、いつ、どうやって、何の目的で、この雄大なラインを創設したというのであろうか。(続く)
2006.05.19
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▼黒三ダムの悲劇6昨日の原稿の解説です。(解説)第一段落:24年前の原稿では具体的な場所が記されていなかった。黒部川ダムといっても第一から第四まである。最初の段落で、どのダムの建設の話なのかを明記しないのはよくない。しかも、いきなり吉村昭の小説『高熱隧道』が出てくる。ある程度有名な小説だが、読んでない人も多いので、こうした本を最初に持ってくるときは、書いている当時よほど有名な本でなければならない。すでに出版されて何年も経っている本を、最初の段落にもってくるのは好ましくない。第二段落:ここで初めて吉村昭の『高熱隧道』をもってきた。ポイントは次の「実際に工事に従事したのが、どういう労働者であったかは記録にほとんど残っておらず、わかっていなかった」の部分。吉村昭の小説や当時の新聞にも朝鮮人労働者がいたことは書かれている。だが、実際どれだけの朝鮮人労働者が働き、亡くなったかは記録がないのが実情である。この点を指摘しておかないと、「証言により大半が朝鮮人労働者であったことがわかった」というニュース性が弱くなってしまう。第三段落:ここでは実際の生々しい証言を紹介して、原稿全体の意義付けをしている。ここまでの三段落が新聞記事のリードと呼ばれるもので、必要な要素と原稿の意義付けが盛り込まれていなければならない。つまり、ここまでがニュース価値があるとして勝負しなければならないところである。問題点:・このリードの問題は、いったいどこまでが新事実であるのかわからないところだ。第二段落で記録がほとんど残っていないことを強調しているが、初めてわかった事実があいまいになっている。実はこれが、24年前に原稿を完成させることができなかった最大の理由でもあった。・ここでいちばん欲しい新事実は、亡くなった人のうち一体何人が朝鮮人労働者であったか、であろう。また、一体何人ぐらいの朝鮮人労働者が徴用され、うち脱出した人や怪我をした人が何人いたかがわかれば、さらにいい。残念ながら証言からは具体的な数字が出てこない。唯一、雪崩で亡くなった84人のうち60人ぐらいが朝鮮人労働者であったという証言ぐらいだ。実際の朝鮮人労働者の証言から衝撃の事実が出てくれば原稿にしやすいが、そこまでには至っていない。結局、手元にある証言から書ける原稿はここまでであった。・もう一つ、出稿できるチャンスがあるとしたら、地元の郷土史家が黒三ダム工事の真実を知ってもらいたくて、証言を集め本や冊子などを作成したときであろう。その人に焦点を当てて原稿にすることはできる。当時の私もそういう人がいないか探したが、見つからなかった。結論としては、ニュース原稿として配信するには、ちょっと弱かったかもしれない。24年前、私は原稿を完成させることができなかった。しかし世の中には、ちゃんと真実を伝えていこうという人が必ずどこかにいるものである。その後1992年に、内田すえの、此川純子、堀江節子の三名が、高熱隧道に携わった朝鮮人の足跡を探究し、雪崩事故に遇った朝鮮人遺族を尋ねて『黒部・底方(そこい)の声-黒三ダムと朝鮮人』(桂書房)を著わしている。そこには、朝鮮人労働者が従事した過酷な労働の実態も描かれているという。24年前にこの人たちに出会っていれば、私の原稿も日の目を見ることができたかもしれない。今では絶版状態になっているこの本が、当時の日本人によって機械のように扱われ、使い捨てにされ、歴史からも抹殺されつつある朝鮮人労働者の魂の供養になればと願うばかりである。
2006.05.18
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▼黒三の悲劇524年後の本人による原稿。【富山】富山県黒部川の一連の発電用ダム建設の中で、最難所であったとされる阿曾原谷~仙人谷間の黒部川第三ダム(黒三ダム)建設の過酷な労働に従事したのは、主に朝鮮人労働者であったことが、共同通信社に対する複数の関係者の証言で明らかになった。 黒三ダムの工区は、歴史小説家・吉村昭の小説『高熱隧道』で知られる、岩盤温度で摂氏180度を超える高熱地獄の現場であった。だが実際に工事に従事したのが、どういう労働者であったかは記録にほとんど残っておらず、わかっていなかった。「朝鮮人にはひどい仕事をさせて、機械のように使い捨てた」「朝鮮人労働者が足りなくなると補充した。日本人の記録は残っていても、外国人の記録は燃やしてしまったのではないか」(辻江秋天さん)と証言する人もおり、今回の関係者の証言で朝鮮人労働者が意図的に"徴用"され、記録資料もほとんど失われている実態が浮き彫りになった。 黒三ダム建設は、1936年8月から4年の歳月をかけて完成。黒部川第三発電所は1940年11月に運転を開始した。しかし工事は困難を極めた。とくに阿曾原から掘り進めたトンネルは、岩盤温度が急上昇。火薬取締法の使用制限温度である摂氏40度をはるかに超える180度に達した。工事関係者は、トンネル掘削は不可能であると一時判断したが、電力供給という国策を重視して強行に工事を進めた。工期中は、宿舎が最低4回は雪崩の被害に遭あったり、トンネル内の高熱で死者が出たりして300人以上の犠牲者を出した。 とくに多くの犠牲者を出したのは、1938年12月27日午前2時ごろ発生した雪崩であった。志合谷にある4階建ての冬季宿舎兼現場事務所が倒壊、84人が死亡した。当時を知る宇奈月町の旅館経営戸出喜久三さんは「死者のうち約60人が朝鮮人労働者であった」と証言する。 高熱のトンネル内の事故も多かった。1938年8月28日には、岩盤にダイナマイトを仕掛ける際、熱のためダイナマイトが自然発火、8人が即死した。火傷による死傷者も多く、そのほとんどが朝鮮人労働者であったという。「過酷な労働のため朝鮮人労働者は日本人の倍の給料をもらっていたが、半強制的に働かされていた」と戸出さんは言う。17歳から三年間、黒三ダムの建設現場で働いたという石丸与一郎は「日本人は現場監督で、実際にトンネル内で過酷な労働をしていたのは朝鮮人だった。朝鮮の人は日本人の三倍くらい働いた」と語る。 黒部川の発電所を管轄して日本電力の社員で黒三建設に従事した辻江秋天さんも「朝鮮人にはひどい仕事(過酷な仕事)をやらせ、機械のように使い捨てた。朝鮮人が足りなくなると補充した。日本人がする仕事はきれいな仕事ばかりだった」と話している。(了)明日はこの原稿の解説をします。(続く)
2006.05.17
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再び黒三ダムの話です。前回までに、当時を知る人の証言メモを紹介しましたね。その続きです。▼黒三の悲劇4私の取材メモはここで終わっていた。すべて当時を生きた日本人の証言である。私は当時の朝鮮人労働者の証言を聞きたいと思った。そして実際に朝鮮人労働者の電話インタビューに成功した。ところが、そのメモが出てこない。なんという不覚。別のメモ帳に記していたのだ。だが、そのメモ帳がどこにあるのかわからない。資料整理のずさんさのツケが回ってきたわけだ。記憶だけを頼りに証言内容を再現すると、その朝鮮人労働者の生き残りの人は千葉に住んでいた。どうやってそこまでたどり着いたのか、覚えていない。とにかく手に入れた住所と名前を基に105で電話番号を聞き、当人に電話インタビューした。覚えているのは、あまりにも過酷な労働だったため、雪山を“脱走”した朝鮮人労働者もいたということである。かなり高齢の方で耳が遠かったので電話では埒が明かないと思い、後日取材させてほしいと言ったまま、結局取材で千葉に訪れることはなかった。私の怠慢である。さらに怠慢であったのは、何度も宇奈月まで足を運んだものの、原稿自体も日の目を見ることがなかったことだ。途中まで書いたが、うまく書けずにデスクに原稿を上げることもなかった。まだ新人記者で原稿の書き方が下手だったせいもある。取材ノートに当時の書きかけの原稿が記してあったので、参考までに紹介しよう。「富山発:富山県黒部ダム建設の中で最難関とされ、吉村昭の小説でも知られる「高熱隧道」を掘り進んだのは、主に朝鮮人労働者であったことが、当時を知る人の証言で明らかになった。岩盤温度摂氏180度のトンネルの中で、高温によるダイナマイトの自然発火や火傷、さらには雪崩などで多くの犠牲者を出した。」書き出しでかなり苦労している跡が見られる。確かにこれではまだ、わかりやすい原稿であるとはいえない。では20年以上の歳月が流れた後、現在の私がこの原稿を書くとどうなるか。24年後の本人による添削である。(続く)
2006.05.16
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昨日は福島・白河で開催されたアイヌの儀式に参加してきました。私の小学校時代からの友人が二年ほど前から当地で農業を始め、アイヌの儀式で土地を清めてもらったことが、毎年アイヌの儀式を行うことになったいきさつのようです。その友人がどうやってアイヌのシャーマンであるアシリ・レラ(新しい風)さんと知り合ったかは、聞きそびれましたが、10年前からの付き合いだそうです。その友人の農家と農地です。住所は西白川郡西郷村。私の友人はこの地で、アトピーなど化学物質に対するアレルギーをもつ人のために無農薬の根菜を栽培、販売しています。ご覧のようによく晴れましたが、雲の動きが凄かったです。竜雲が、やはりアイヌとの縁の深い鬼越のほうから儀式の地まで続いているとレラさんは話していました。昨日と同じ写真ですが、雲の写真。儀式が始まります。儀式が始まる前に突風が吹き荒れましたが、それは神様が「早くやれ」とせかしているのだそうです。右奥の木にかけられた白いものがイナウと呼ばれる御幣(木を削ったものでヒラヒラしています)です。イナウとは、神への捧げ物であると同時に、神への伝言を伝えたり、清めをしたりする役目があり、それ自体が神でもあるそうです。イナウには、柳やミズキ、ニワトコ、ナナカマドなどが目的に応じて使われるそうです。真東にそのイナウを置き、神の座とします。そこは死者を迎える座でもあり、焚き火が境界線となり、焚き火から向こうへは参加者は足を踏み入れることができないことになっています。また、正面からイナウの木の写真を撮ることも許されないため、この写真も斜めからの構図になっています。手前の焚き火をレラさんらが囲み、焚き火やその周辺にお神酒を撒きます。お神酒をまきながら神への伝言を伝えます。レラさんの隣の人は手で扇いで煙を全身に浴びています。感謝の気持ちを表すと同時に、どこか体の悪いところに煙を当てると治るとされています。浅草寺の線香の煙を浴びるのと同じですね。おそらく、アイヌの儀式のほうがはるかに古いのではないでしょうか。ここでレラさんのことを紹介しましょう。本名は山道靖子さん。北海道日高地方の沙流郡平取町二風谷(宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を連想しますね)に生まれ育ちました(年齢は不詳)。平取は智恵の神オキクルミが降臨、アイヌに自然と共生する英知を伝えた聖地とされ、現在アイヌの人口密度がもっとも高い地区でもあります。苦労して育ち、15歳のころからアイヌ女性活動家として活躍してきました。アイヌの言葉や文化を学ぶアイヌ語学校を主宰しながら、カムイユーカラを語り継いできました。日本各地に残るアイヌの聖地に出向き、シャーマンとして土地を清める儀式もしています。10人以上の実子や養子を育てた「肝っ玉母さん」でもあります。レラさんの公式ホームページはここ。さて儀式の続きです。レラさんは出席者全員の名前を告げながらアイヌ語で神の守護を祈り、人間の魂が宿る木の棒を使ってお神酒をまき続けます。レラさんによると、火は、神が人間にだけ与えたもので、動植物と人間の境界線を示すそうです。焚き火は生きている者の座で、火の神様にお神酒を捧げながら人間の伝言を伝えていきます。参加者も手で招き入れるようなしぐさ(感謝のしぐさ)を三回した後、回されてきたお神酒(どぶろく)を、魂の棒を使って三回焚き火にまきます。その後、そのお神酒を一口飲んで、隣の人に渡します。儀式の最後はイナウを燃やします。白い煙がパッと立ち昇れば、成功です。それが終わると、皆が持ち寄った食べ物や飲み物を飲食する昼食会が始まります。これはナオライといって、神と人が共同で飲食をする儀式でもあります。われわれが食べる前に、持ち寄った食べ物の一部を盆に乗せ、焚き火にくべます。そのときにレラさんが、人間の食べ物のことをアイヌ語で神様に説明します。人間はこんなものを食べているんだよ。神様も召し上がれ、と言っているようです。それが済んだら、われわれも食事を始めます。われわれの口を通して、神や先祖も食べ物を味わっているのだそうです。食事を始めると、頭上の太陽の周りに虹が出ました。昨日紹介しましたね。儀式が始まる前に突風が吹き荒れたのがウソのように穏やかな天候になっています。虹が出たということは、カムイ(神様)から祝福されているということだそうです。食べながら、アイヌの歌と踊りが始まります。皆でアイヌの歌を歌います。最後はレラさんがユーカラ(アイヌの口承民話・叙事詩)を披露して終わりです。アフンルパロ(死者の国への入り口)の話でした。最後にアイヌの祈りの言葉を紹介しましょう。カムイ、ピカハ、チコプンキネ(神よ、どうか、よりよくお守りください)イエ、カルカンナ(と、申し上げます。祈ります)
2006.05.15
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今日は「竹内文書」の謎を解くため、福島県西白河郡西郷村に日帰り出張。当地で行われたアイヌの儀式を取材しました。雨が降るかと思ったら、素晴らしい天気になりました。アイヌのシャーマン(中央の女性)がカムイ(神)に人間の気持ちを伝えるため、焚き火にお神酒を注ぎます。シャーマンは北海道平取町二風谷に住むアシリ・レラさん。アイヌ語で新しい風という意味だそうです。アイヌの踊り。アイヌ語の歌に合わせて踊ります。この地で儀式が行われるのは、昨年に続いて二回目。白河はアイヌが倭人に虐殺された地でもあり、その鎮魂も兼ねているようです。儀式が終わると、太陽の周りに虹が。写真ではちょっと見えにくいかもしれませんが、太陽の下方に見える雲がかすかに虹色に染まっています。長くなるので詳細は明日。
2006.05.14
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▼黒三の悲劇3取材メモはまだ続く。朝鮮人労働者に対しての、より具体的な証言をしてくれる人もいた。辻江秋天(明治41年2月4日生まれ)日電の社員で黒三建設に従事。途中1937年から1939年6月まで軍隊にいたが、39年7月から再び黒三建設のために働いた。主任は魚躬(うおのみ)。責任者は中江で、私と立野が中江に仕えた。阿曾原から仙人谷までの700メートルのうち500メートルは熱くてとても作業ができるような状態ではなかった。そこで100馬力の送風機を設置。坑内にも小さい送風機を何箇所にも設置した。坑内を冷やすため仙人谷から黒部川の水を流した。阿曾原からも直径30インチの鉄管で水を流した。鉄管は10メートル間隔で穴が開いていて、そこから水が出る仕組みになっていた。それでも二〇分以上働くことはできなかった。坑内労働者の日当は10円であった(注:当時学校の校長で月給54円の時代であったから、かなりの高給であったという)。1939年春に阿曾原で朝鮮人がなくなっている。36年には1度に7人死んだこともあった(注:38年にダイナマイトが熱さで爆発、8人が即死した事件のことか?)。死ぬと300円の保険金が支払われたが、使い捨てであった。朝鮮人にはひどい仕事(過酷な仕事)をやらせた。機械のように使い捨てた。朝鮮人が足りなくなると補充した。日本人がする仕事はきれいな仕事ばかりだった。黒四ダムより、黒三ダムの方がはるかに難しい工事だった。日本人の記録は残っているかもしれないが、外国人の記録は燃やしてしまったのではないか。朝鮮人労働者の遺体は朝鮮本国に送った。私の月給は35円であった。朝鮮人労働者には班長・組長がいた。元締めのような人物で日電(日本電力)から感謝状をもらっていた。戸出喜久三(大正10年1月29日生まれ)佐藤組に勤務(注:第一工区である高熱隧道は当初、加藤組が請け負っていたが、あまりもの難工事に作業を放棄。代わって佐藤組が1938年4月から第一工区を担当した)。15人ほどの機械班に所属した。阿曾原の雪崩では26人が死亡、大半が朝鮮人であった。志合谷の雪崩では84人が死亡、うち約60人が朝鮮人であった。肉体労働者よりも事務職の食事のほうがよかった。朝鮮人労働者には朝鮮の女性が給仕していた。朝鮮人労働者は半ば強制的に徴用された。国策であったと思う。ただし、タコ部屋に押し込むようなことはしなかった。ストライキもやっていた。阿曾原の宿舎には500人が寝泊りしていたが、そのうちの300人が朝鮮人であった。朝鮮人労働者は過酷な勤務に従事したので、日本人の二倍の給料をもらっていた。石丸与一郎(生年月日不詳)17歳から20歳までの三年間黒三ダム建設に従事した。トンネルは高熱だったので火傷を負う人が多かった。死んだ人もいたのではないか。ボロボロの袖のない雨合羽をかぶり、ほとんど裸になって働いていた。蒸し風呂に入っているようで、ふやけて皮がブヨブヨになった。全身水ぶくれになった人もいた。今では考えられないような悲惨な環境であった。あの熱くて苦しい場所でよくやったと思う。朝鮮人労働者が多かった。彼らは親切でおとなしかった。朝鮮の人は日本人の三倍くらい働いた。日本人は現場監督で、実際にトンネル内で過酷な労働をしていたのは朝鮮人で、日本人はいても少ないはずだ。主に怪我人は朝鮮人であった。一日7,8人は火傷を負っていた。朝鮮人労働者は朝鮮本国にいる家族に仕送りをしていた。朝鮮人労働者は20代、30代の働き盛りであった。(続く)
2006.05.13
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▼黒三の悲劇2地元の宇奈月町では最初、郷土史家を訪ねた。そこで当時の新聞記事などをコピーさせてもらい、さらに黒三ダムの建設に実際に携わった人の名前と住所を教えてもらった。私がやったのは、そうした人たちを地道に訪ねて、話を聞くことであった。幸いなことに、当時取材したときのメモの一部が今でも残っている。ただ残念なことに、なくなったメモもあり、残っていたメモも悪筆(!)のため判読が難しいものもある。確かテープにも録音していたと思うが、そのテープはその後の幾度にもわたる引越しの際に行方不明になった。それでもメモを読むと、当時の様子がうかがうことができる。取材メモから当時の証言を再現してみよう。1982年7月23日のメモ長松さん(大正7年=1918年3月11日生まれ)1935年~40年日本電力勤務。黒部第三発電所建設所第一工区(最難関の高熱隧道のある工区)を担当した。1937年春から40年夏までの間、阿曾原にいた。削岩機で穴を掘り、発破をかけて、瓦礫をトロッコで運び出す作業をした。ほとんどが朝鮮人だった。岩盤温度は120~160度に達した。食事はもち米とおかゆ、それに塩タラをよく食べた。皆、カネがたくさんもらえたので働いた。久作さん(明治36年=1903年4月25日生まれ)1936年から1940年まで水路担当をしていた。1938年12月27日のホウ雪崩では、遺体が見つかったのは50人程度、30人近くは遺体すら見つからなかった。高熱隧道には熱くて入れなかった。みなほとんど裸で作業した。薄いシャツを着て、カッパとズボン姿。何十人も死んだ。黒部の合宿所で火事があったのを覚えている。立野●(注:判読できず)次郎さん(明治37年=1904年6月17日生まれ)1923年から37年間(注:どこで働いていたかは不明)。鉄道敷設の仕事をしていた。高熱隧道の温度は100度を超えた。熱さで死んだ人が2人、感電死した人が一人いた。高熱隧道で作業する人には看護婦が注射していた(注:人夫たちは熱射病や、水をがぶ飲みすることによって生じる胃腸病の障害で悩まされたため、カルシゥムなど栄養剤の注射を頻繁に打ったらしい)。工期中、四つか五つの雪崩が発生した。志合谷で約80人、猫又で約20人、阿曾原で約20人、出平で約3~20人亡くなった。いずれの宿舎も鉄筋が入っていなかったので、もろかった。(続く)
2006.05.12
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▼黒三の悲劇1立山連峰の大パノラマの中に忽然と現われる巨大なアーチ。堤高186メートル、堤頂長492メートルという黒部川第四発電所のダム、通称黒四ダムだ。立山黒部アルペンルートのハイライトの一つとして、毎年数十万人の観光客が見学に訪れる。しかし、黒四ダムのことを知っていても黒部川第三発電所のダムのことを知る人は少ない。さらにその黒三ダム(仙人谷ダム)が、大勢の朝鮮人労働者の犠牲の上に成り立っていることを知る人はもっと少ないはずだ。黒三ダムは1936年から5年の歳月をかけて完成した。その際、欅平から仙人谷までの6キロを資材運搬ルーとして結ぶため、欅平の山の中に標高差200メートルのトンネルを掘らなければならなかった。まず横穴を延々と掘り、そこから一気にエレベーター用の竪穴を掘るという大事業であった。ところが横穴は、60メートルほど掘り進むと温度が75度に上がった。さらに進むと85度、最後には120度という灼熱地獄の様相を呈してきた。吉村昭の小説で知られる『高熱隧道』である。黒部川の冷水をホースで作業員にかけながら続く作業は困難を極めた。高熱隧道での作業は一人10~20分が限度であった。またこの熱さでは、作業で使うダイナマイトも爆発してしまう。それでも、断熱材でダイナマイトを包んで装填するなど工夫をこらして、何とかトンネルを掘り進めたのである。過酷な作業ゆえに作業員が火傷を負うなど日常茶飯事。命を落とすものも少なくなかった。この難工事のいちばんの悲劇は1938年12月27日午前2時ごろ下新川郡宇奈月町(現黒部市)志合谷で起きたホウ雪崩であった。ホウ雪崩とは富山などの豪雪地帯で起きる大規模な煙型乾雪表層雪崩。強烈な爆音とともにものすごいスピードで崩れ落ちてきた雪の大塊に作業員宿舎の3,4階が吹き飛び、84人の人間の命を奪ったのだ。一体犠牲者はどのような人たちであったのだろうか。朝鮮人労働者はどれだけこの工事に従事していたのか。彼らは強制的に働かされたのか。どのぐらい過酷な労働であったのか。富山支局にいるとき、私はこの話に興味をかきたてられ、何とか記事にできないかと考えた。当時を知る人も少なくなっており、今のうちに証言を集めなければと思ったのだ。(続く)
2006.05.11
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▼あわや事故!マイカー取材は禁止されていたが、私はしょっちゅう車で取材をして回っていた。しかし危ない場面もあった。一回目は吹雪の日のスーパー農道。取材の帰り道、時速30キロほどでギアをサードに入れて走っていた。何の障害物のない一本道のように見えたので30キロぐらいでも大丈夫だろうと思ったのだ。雪道の運転もかなり慣れたころだった。「多分大丈夫だろう」これが慢心であった。最初は白い道が永延と続いているように見えた。吹雪で視界は悪かったが、こんなところに障害物はあるはずがないとも思っていた。やがて不意に雪の塊が視界に入ったように思えた。何だろうと思いながらそのまま近づいていくと、その塊の正体がわかった。雪にすっぽり覆われた車であったのだ。駐車しているうちに雪が積もり、車が保護色の雷鳥のように姿を隠していたのだ。悪いことに、その姿を隠した車は、道の半分を完全にふさいでいた。「まずい」とばかりにハンドルを右に切った。衝突は避けられたものの、右に振れた車体を戻そうとつい左にハンドルを切る。右に振れたときは右にハンドルを切るのだと言葉ではわかっていても、人間はつい反対方向にハンドルを切るものだ。車体は、今度は左に振れる。また焦って、右にハンドルを切る。完全に蛇行運転となり制御が利かなくなった私の車は、右側の低い雪の壁を乗り越え、田んぼの斜面に頭を突っ込んで止まった。幸い怪我はまったくなかった。それでも外は猛吹雪。車はまったく動かない。まるで遭難したような気分だ。近くの民家に助けを求めたところ、ワイヤーを結んで車で引っ張って引き上げてくれた。もう一回は、夜中のまったく交通量のない山道。季節は夏だった。最初は舗装された道路だったので安心していたが、登るに連れて道が狭まり、とうとう舗装道路が泥道になった。まだまだ登れるだろうと思って猛進したところ、タイヤが泥で滑り側溝に脱輪してしまった。側溝からどうにかして自力で抜け出そうと20分ぐらい奮闘したが、抜け出せない。近くには民家すらない。かといって一人では脱出は無理だ。辺りは外灯もない真っ暗闇。月の光だけが頼りであるという有様だ。思案に暮れた果てに、ふもとの民家まで助けを求めに行くことにした。山奥での夜道の一人歩き。林の中から今にもお化けが出てきそうであった。ふもとまでどれだけ歩かなければならないのだろうか。歩き続けること30分。ようやく人里の気配がしてきた。と思って、回りを見渡すと、そこは墓地であった。夏は怪談。夜中の山の中の墓地というのも乙なものである。と言いつつも、足は自然と早くなる。さらに10分ほど歩いて、ようやく民家にたどり着いた。民家の人に事情を説明したら、車を出してくれて、側溝から私の車を出すのを手伝ってくれた。後日、助けてくれた民家にお礼に行ったことは、言うまでもない。ありがとう。今日私があるのも、あなた方のおかげです。
2006.05.10
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今日のテーマは緑。これは4月22日に東京・代々木公園で開かれた「アースデイ東京2006」の会場を撮影したものです。毎年地球の環境保護をテーマに開かれる「緑つながり」の大きなイベントです。今年は使い終わった天ぷら油を燃料にした「天ぷら油バス」が注目されていました。ネイティブアメリカンによる民話の紹介も面白かったです。木々の向こうに見えるのは代々木体育館です。プールがあり、時々水泳に利用しています。このころはまだ木々の緑は映えていませんね。ところが、2週間後の5月5日には、もうあたりは緑一色に変わります。場所は多摩湖です。新緑が美しいですね。自転車道を20キロほど走ると到着します。次は多摩湖の貯水ダム。近くにはインボイス西武球場があり、ちょうど松坂投手が投げていました。最後は5月6日の秩父宮ラグビー場の緑。ちょっとはげてて痛々しいですね。東日本学生セブンス(7人制ラグビー)が開かれていました。写真は早大対道都大の試合。早大はこの試合には勝ちましたが、コンソレの決勝で宿敵関東学院大に完敗しました。写真の在庫一掃セールみたいになってしまいましたね。
2006.05.09
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本日の一枚はこれ。昭和記念公園内の日本庭園です。空と池の青と、緑が妙にマッチしていますね。ここは本当に広い公園で、移動するだけでも大変です。運動場もあり、サッカーやペタンク、ディスク・ゴルフができるようになっています。さて、連休も終わってしまいました。「新聞記者の日常と憂鬱」も明日か明後日から再開します。
2006.05.08
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今日は、私がサイクリングでよく利用する玉川上水の紹介です。これは多摩川の取水口である羽村堰です。玉川上水は、まさにこの羽村堰から始まります。葉桜とその右を流れる多摩川。玉川上水は、江戸時代の1653年に開削。羽村市から新宿区四谷大木戸に至る総距離約43キロの上水路です。下水路ではないので、神田川のようなドブの匂いがまったくしません。非常に綺麗な水で、現在でも現役の導水路として利用されています。1986年ごろに玉川上水沿いが整備され、いまでは快適な自転車・歩行者専用道ができています。四月下旬に羽村堰まで行ったときには、そばの水田でチューリップ祭りをやっていました。さらに多摩川上流に進むと阿蘇神社があります。写真を撮ったのですが、パソコンに取り込むのを忘れました。阿蘇神社は何と、推古天皇九年(601年)に創建されたそうです!?阿蘇神社のそばに咲いていた桃。きれいですね。玉川上水の自転車道は、実質的に杉並区の富士見ヶ丘まで続きます。これはNHK富士見ヶ丘グラウンド。このグラウンドは休祭日でもほとんど使っていませんので、芝生がとても綺麗です。秩父宮ラグビー場より整備されているかもしれませんね。これも皆様の受信料のおかげです。皆様の受信料で高級住宅地にある広大なグラウンドの維持・管理がなされ、NHK職員のための福利厚生に生かされています。もちろん一般には公開されていません。今一度、NHKの報道姿勢を含め、受信料の使い道をチェックする必要がありそうですね。そう思いませんか?
2006.05.07
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立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はユリの花――。もちろん、あなたのことですよ!今日は座っている「あなたの姿」である牡丹。昭和記念公園の牡丹園に咲いていました。ちなみに芍薬と牡丹の違いは、立っているか座っているか、ではなくて、草(芍薬)か樹木(牡丹)かですね。確かに牡丹は低潅木のようです。芍薬はすらっとした草花。次は白い紫陽花?残念、違いました。紫陽花に似ていますが、ちょっと時期が早すぎますね。これはオオデマリというスイカズラ科の植物です。ゴールデンウィークが終わると、沖縄もそろそろ梅雨入り。やがて東京地方にも紫陽花の季節が訪れますね。今年はそのころ、つまり沖縄の梅雨明けを狙ってダイビングに行こうかと考えています。
2006.05.06
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竹の子の丈くらべ。これだけ大きくなってしまうと、食べられませんね。子供のころは時々、近くの公園に竹の子狩りに行ったのを思い出しました。
2006.05.05
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昨日は運動を兼ねて昭和記念公園へ。東京国際スリーデーマーチと重なったので、玉川上水は混んでいました。昭和記念公園もかなりにぎわっていましたね。公園内の花壇に咲いているアイスランド・ポピー。紫の花は姫金魚草(リナリア)です。さて、今日こそは『留学のための英語論文・ペーパー作成術』を書き進めないといけませんね。とにかく締め切りは昨年の12月でしたから。このままでは半年遅れです。出版社に怒られてしまいますね。
2006.05.04
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龍に似た雲があるなと思って撮ったのがこの写真です。形が崩れていますが、龍に似てなくもないですね。そういえば先日、夢の中で空を飛んでいる龍を初めて見ました。20メートルぐらいの小さな龍でした。へぇ~、龍はこうやって空を飛ぶんだと妙に感心したのを覚えています。あくまでも夢の中での話ですが。憲法記念日。空を飛ぶ龍は何を思うんでしょうか。
2006.05.03
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玉川上水をサイクリングしているときに撮った動植物を紹介します。カルガモさんが休んでいます。のんびりくつろいでいますね。上水公園のクロネコ。全部で三匹いるそうですが、おかあさんネコは娘に縄張りを譲ってどこかへ行ってしまったと世話をしている人が話していました。流れに逆らって泳ぐ鯉です。鯉のぼりですね。ニワトリも放し飼いになっています。この辺りはかなり東京の西の方まで来ていますが、朝が早そうですね。ニワトリさんは夜明け前に発声練習をされますから、都会で飼うのは難しいかも。羽村堰のそばにいた人なつこいオスネコちゃま。尻尾がピンと立っています。山吹です。こちらは八重山吹。玉川上水は動植物にも快適な環境を提供しているようです。
2006.05.02
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葛西臨海水族園の続きです。水族館ではなく、水族園としているところが少しお洒落ですね。建物もドーム型です。ドームに入って、下に降りていくと巨大な水槽が目の前に現われます。最初はサメの水槽。フラッシュ撮影禁止のため、速く動く被写体の写真はブレたり、ボケたりしています。ご了承ください。ハンマーヘッド(シュモクザメ)です。 次はもっと巨大なマグロの水槽。やはり速く動くのでついて行けません。小さな水槽もあります。ヘラヤガラ(トランペットフィッシュ)です。このように動かない魚は比較的簡単に撮れますね。珊瑚もきれいです。周りをフレンチエンジェルとグレイエンジェルが泳いでいますね。懐かしい! カリブ海のお魚さんです。テングダイ。伊豆でも見られるお魚さんです。次はウメイロモドキ。フエダイ科の「ウメイロ」に似ているので、この名がつきました。ウメイロは、体色が熟れた梅の実のようだから名づけられた魚です。最後は謎の巨大魚。シーラカンス?もちろんシーラカンスではありません。メモを取らなかったので間違っているかもしれませんが、おそらくハタ科のタマカイです。2メートルを超える巨大魚になることもあるそうです。水族園から見た夕陽。2月らしい夕焼けでした。
2006.05.01
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