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三日前から始まった大掃除の中休みで、今日は都内川めぐり。最初は神田川。遊歩道に植えられた木の向こう側に猫ちゃんがいます。もうちょっと近づいてみましょう。長い尻尾の猫ちゃんですね。続いて高井戸から玉川上水へ。玉川上水の土手の葉陰に猫ちゃんがいます。葉陰から出てきて、日向ぼっこです。小平公園で折り返し、仙川上水を経て善福寺川へ。善福寺川沿いの公園のベンチ下に隠れていた猫ちゃん。こちらは善福寺川沿いの家のヒーター室外機の上で寝ていた猫ちゃん。室外機の上は、暖かいんですよね。厳しい冬を乗り切るため、猫たちは工夫して生き抜いています。弱者や猫ちゃんが安心して暮らせるようになるといいですね。皆さん、よいお年を!
2006.12.31
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▼世紀の大発見それは戦争中の1943年のことであった。内田は鉱石検波器を改造し、これに第三極の電極を設けることにより、真空管同様に電気を増幅ができるとの確信を得た。もし鉱石が真空管の替わりに増幅作用をもたらすのであれば、それは画期的な出来事であった。とういのも、当時の真空管はよく「玉切れ」を起こし、あまり実用的とは言えなかったからだ。増幅作用を鉱石という個体が代替できれば、安定性が増すだけでなく、小型化できるのではないかという期待もあった。問題は鉱石に何を使うかであった。叔父に教わった鉱石についての知識を基に内田は、栃木県は日光の山中まで分け入り、様々な鉱石を採取しては実験を重ねた。そしてとうとう1947年、ある鉱石に針を二本立てると、増幅作用があることを発見した。その結果をブラウン管で調べたところ、1ボルトの入力が約3倍の3ボルトになることがわかり、内田はこれを「三極鉱石」と名づけた。大発見であった。これは後に開発されるトランジスタそのものであったからだ。内田はこの発見を発表しようとした。ところが、NHK技研の上司は全く認めようとしなかったのだ。それどころか、その上司は内田に対し「鉱石が増幅するはずがない。君は、味噌汁で顔を洗ってきたのか」「頭が変になったのではないか。君は研究所の恥だ」などと罵倒するばかり。内田は悔しさで唇を噛んだ。傷心の内田は、戦時中NHKの熱海放送所長を勤め、当時NHK技研の先輩であった杉本哲を熱海の自宅に訪ねた。そのときの様子を杉本は『初歩のトランジスタラジオの研究』の中で次のように記している。・・・内田さんはたしかに三極鉱石が増幅作用のあることがわかり、大いに自信があるのだが、どうしたものか、という相談にきたというのです。これが、アメリカでトランジスタの発表になった年の、お正月のことです。内田さんの発明は、その前年の秋ごろなのです。 私も半信半疑だったのですが、「君が本当に自信があるなら、個人が何といおうが、早く実物を作って、発表しなさい」と、大いにげきれいして、真鶴の海岸などを歩いてかえしてやったことを、いまでも、はっきり記憶しています。(続く)
2006.12.29
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▼高校時代に得た着想内田秀男は1921(大正10)年8月31日、福井県の乳母車の製造販売業者に生まれた。内田家は元々、船の欄干を彫る船大工や松平藩お抱えのたんす金具職人という商家であった。内田にもその技術者の血が流れていたとみられ、小学校四年生のときにはもう、『子供の科学』を見て、鉱石ラジオを作っていたのだという。内田は福井商業学校に入学。その在学中に、内田はある発想を得る。「鉱石ラジオの鉱石は検波用にしか使われていない。一方、真空管は検波用もあれば増幅用もある。ならば鉱石も増幅用として使えるのではないか」と考えたのだ。これには説明が必要だろう。鉱石ラジオとは、方鉛石、黄銅鉱などの鉱石の整流作用を利用したAMラジオ受信機のこと。整流作用とは、電流を一方向だけ流す作用で、ラジオ放送の電波から音声信号(低周波の電気)を取り出す(検波する)ときに電流を一方向だけ流す整流作用を持つ素子が必要になる。その検波用の素子として、真空管が普及する以前には鉱石が広く用いられていたのだ。もちろん、ラジオとして機能するためには、検波するだけでは不十分で、取り出した電気を増幅する必要がある。当時、真空管には、検波用とその電気を増幅する増幅用があったが、鉱石には増幅作用がないと考えられていた。内田は鉱石にも増幅作用があると考えたのだ。内田がこうした鉱石のメカニズムを熟知していたのは、秋田県の鉱山学校の教師をしていた内田の叔父によるところが大きかったようだ。叔父から鉱石に関する豊富な知識を学んだ内田には、こうした着想を得る土壌があったといえる。高校卒業後、いくつかの職を点々としたが、NHKの技術者養成所に入り、そこを二番の成績で卒業する。その成績が認められ、1941年にはNHK技術研究所に入ることができた。そこで内田は、高校時代に着想した鉱石の増幅効果についての研究に着手した。しかし時代は、暗雲急を告げる。日本は太平洋戦争へと突入していった。(続く)
2006.12.28
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▼二つの世界こうした現象は、偶然に起こったことなのだろうか。内田が事故に遭遇するちょうど一年前、一ヶ月前、当日の朝と、相次いで予兆ともいえる不思議な現象が内田の身の回りに起きた。事故の予兆というものは存在するのではないか、と内田は考えた。そこには、私たちがいまだ知らない法則がある、現代の科学では解明されていない「謎のミステリーゾーン」があるのではないか、と。では、一体そのミステリーの世界はどうなっているのか。何かそこには三次元世界とのつながりがなければならない。そのつながりとは何か。それは、それまで技術者として迷信を馬鹿にしてきた内田にとって180度の人生の転換点であった。その後の内田は、不思議な現象が起こるとの仮説に立ちながら、多くの霊能力者の協力を得て、ミステリーゾーンに科学的なメスを入れていった。失明という大きな代償を払いはしたが、内田の後半生は四次元の不思議世界を解明することに費やされた。内田は、ありとあらゆる超常現象を、技術者としての視点から解析しようと試みた。具体的には、電子工学的にすべて説明できるのではないかと考えたのだ。その研究はオーラを計測するオーラメーター、UFOのように宙に浮くイオンクラフト型円盤などの成果となって、世に出された。内田は四次元世界を測った男となった。内田の転機の一つとなったオートバイ事故には後日談がある。内田が超常現象を研究するようになったときに出会った霊能力者に、左目を失明した「本当の理由」を聞かされたのである。すでに述べたように、内田は以前、科学万能主義者であった。若いときは神や仏も信じることなく、神社のお札の中身がどうなっているか、面白半分に分解して調べたことがあった。霊能力者はその事実を言い当てた上で、左目の失明はその事実と関係があると述べたのだという。一方この内田が、ノーベル賞を受賞できるような発明をしていたことを知る人はほとんどいない。トランジスタに相当する増幅回路を、世界に先駆けて完成させていた。内田のもう一つの面では、優秀な科学者でもあったのだ。超常現象の研究者であり、ノーベル賞級の発明をした科学者としての内田秀男――。彼はどのような人物であったのだろうか。(続く)
2006.12.27
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▼きっかけ(2)内田は事故を起こすちょうど一ヶ月前にも予知夢のような不思議な夢を見ていた。1952(昭和二十七)年6月28日、内田は朝方に嫌な夢を見た。「その日は、いつになく朝早く目が覚めて、時計を見たらまだ四時ちょっと過ぎた頃で、まだ早いからと、ひと眠り寝たとき、まったく常識では考えられない風景の夢を見たのである」と内田は言う。その夢の中では、内田が当時勤めていたNHK技術研究所の正門に、左眼と、右眼の色がはっきり違う人物が立っていて、バスの来るのを待っていた。妙な人物が立っているなと、そばに近寄って、顔をのぞきこむと、どうも自分自身によく似ている。しかし、右眼の色が黒く、左眼が少し小さくて、色が青とも茶ともまったく表現のしようがない色をしていて、フーン、不思議なこともあるものだと、夢の中で内田は観察している。するとそのとき、どこから聞こえたのかわからないが、「これはお前だ」というような言葉が聞こえた。その途端に、その顔が内田自身の顔に変わったので「あっ」と大きな声を出して、眠りから覚めたのだ。いやな夢を見たものだと、内田は早速鏡に自分の顔を映してみて、両眼をしげしげ見た。両方の目とも異常がないので安心したものの、朝からなんとなく、憂鬱な気持ちは拭いきれなかった。妻にこの夢のことを話したら、そんなことは常識で考えてもありえないことだから、気にしない方がよいと言う。内田も、実際に人間の眼がペルシャ猫のように、右眼と左眼の色が違うなんてことはありえないことだから、と極力忘れるように努めた。しかし、この夢が現実となって現われる日がやってきた。そう、この夢を見た日からちょうど一カ月後の1952(昭和二十七)年7月28日、オートバイの自損事故で左目を失明して、あの夢で見た内田自身の顔とそっくりな、右目と左目の色が違う顔になってしまったのだ。(続く)
2006.12.26
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▼きっかけ(1)その事故をいま目撃すれば、映画『アラビアのロレンス』の冒頭のシーンを思い出した人もいたかもしれない。オートバイ“事故”を起こしたロレンスは、帰らぬ人となる。主人を失ったオートバイのタイヤは、まるで運命の車輪のように、カラカラと空しく回り続ける。しかし、不幸中の幸いなことに、そのオートバイ事故に遭遇した主人公は命を落とすことはなかった。そのかわり、左目はそれ以来二度と、光の影像をとらえることができなくなった。左の視力は完全に失われたのだ。その前兆はあったと、事故を振り返りながら、その主人公の内田秀男は言う。1951(昭和二十六)年7月28日、当時NHK技術研究所に勤務していた内田が、普段と変わりなく勤め先から東京・上北沢の自宅に帰ってくると、妻が不思議なことが起きたという。午後二時ごろ、家の中を掃除していると、突然玄関から全長二・五メートルくらい、胴体の直径が約六センチもあろうというヘビ(青大将)が入ってきて、内田の愛用している机の下から本棚のうしろの方にかけて、のさばって動かなくなったというのだ。追い払おうとすると、かま首を上げて、細長い舌をチョロチョロ出してどうにもならないので、隣家のおじいさんを呼んできて、やっとのことでつまみ出した。ちょうどそれから一年後の1952(昭和二十七)年7月28日朝、いつもと変わりなく、その頃飼っていた「バンビ」という小犬を連れて散歩に出ようとしたところ、どうしたはずみか、小犬につないである鎖が左足に巻き付いて、小犬に引き倒され、水溜りにしりもちをついて、一張羅のズボンから上衣まで泥だらけになったのである。内田は不吉な予感を覚えた。嫌だなと思いつつも、「科学的になんらの根拠のなしに(迷信の類を)信用することは大嫌いな方なので」、その日はいつもどおりに勤め先のNHK技術研究所に出勤した。ところが不安は的中し、その日の夜、帰宅途中に左目を失明するという大事故を起こしたのだ。(続く)
2006.12.25
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▼内田秀男のオーラ・メーター2実験は東京・世田谷の内田の実家で行われた。これがそのオーラ・メーター。内田のオーラ・メーターは十分に論理的である。電流に「オーラ」があるなら、それは電気的に測定・検出できるはずだからである。その仮定の下で電荷を測る装置を作ったのだ。かなり微弱な電荷であると予想されたので、電気量を増幅させてプラス、マイナスを測るようにした。問題は被験者の「オーラ」を測定する場合、測定者の「オーラ」が被験者の「オーラ」に干渉するのではないかという点だが、測定者の体から検知器までの距離を同じに保つことでその問題を解決したという。ただ、このメーターの弱点は、色がわからないことである。わかるのは、形と大きさだけ。それでも、普通では見えないオーラの形と大きさがわかるだけでもたいしたものである。実験ではまず、私が被験者となり、内田の家人がオーラ・メーターで私の「オーラ」の測定を試みた。測定の前に、検出器の動く方向に対応する電荷の変化を検出するため、検出器が停止した状態で電圧を調整して、メーターの針がプラスマイナスゼロの位置に来るようセットする。そして、測定者が私に向けて検出器を近づけると、私から一メートルぐらい離れた地点で針がマイナスの方向に大きく振れたのである。私の回りに、目に見えないマイナスの電荷が存在するのは間違いないように思われた。あるいはその場所にそのような電荷の変化がある可能性は残っていたが、試しに私がその場所にいない場合といる場合で測定してみたところ、明らかに差異が認められた。ただどうしたことか、私の体全体の「オーラ」を測ろうとすると、まったく反応しない方角があり、全体の「オーラ像」を測定することはできなかった。家人によると、測定するときは小さな場所ではなく講堂や会議室のような広い場所で測定しないと、うまくいかない場合があるのだという。内田秀男が測定したときは、デパートの催事場など広い場所で測定した。なおかつ、オーラの見える霊能力者にオーラの形を描いてもらい、それが測定した電荷変異の境界と一致することを確認しているという。昨日の実験では不十分であったため、今度はもっと広い場所で、多くの被験者や、オーラを見ることができる人にも参加してもらって実験をすることになった。ということで現在、オーラが確実に見えるという方を募集しております。(敬称略)▼おまけ本日行われたラグビー早慶戦。
2006.12.24
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▼内田秀男のオーラ・メーター1人生が180度転換するような出来事は突然やってくる。電気技術者として秋葉原で電気部品店を経営していた内田秀男の転機は1962年ごろ訪れた。当時内田は無神論者で科学万能を信じていた。ところが、ある不思議な能力を持つ“霊能者”に出会うと、それまで自分が「信じていた電子工学に、なにか重大な欠陥があることに気がついた」のだという。その霊能力者が内田の目の前でやってみせたことは、科学の常識を超えていた。霊能力者にわからないように電気コードに微弱な電流を流したり止めたりしても、霊能力者は正確に電流のオン、オフを言い当てたのだ。霊能力者は内田にこう答えた。「(電流が流れているときは)コードがかすかな薄紫色に輝いて見える」内田はそのとき以来、常人には見えない「色」、つまり「オーラ」の正体を突き止めようと「すっかり虜になってしまった」と言う。そして、試行錯誤の末に完成させたのが、知る人ぞ知る内田秀男の「オーラ・メーター」である。その具体的な仕組みは後述するとして、内田はオーラ・メーターを使って数千人のオーラを測定、多くの発見をしたという。たとえば、信仰心を持った人の周囲には仏像の光背と同じ形のオーラが輻射していたり、心に悩みのある人や健康に障害がある人のオーラは歪んだり、妊娠中には母体のオーラに重なるように胎児のオーラが出たりしたのだという。内田秀男は1997年に亡くなったので、本人に取材することはもうできない。ただ、内田の作ったオーラ・メーターは今でも稼動することが可能である。私は内田の家族に頼んで、そのオーラ・メーターを使って実験をすることにした。それが本日の一回目の実験だったのだが、その結果は明日のブログで。(敬称略、続く)
2006.12.23
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▼まやかし人事と審議会答申今月末で国連のコフィー・アナン事務総長が退任する。まともな事務総長だったなと思う。アメリカの暴走もイラク戦争も止めることができなかったが、どこかの国の首相とは異なり、アメリカに対して言うべきことは言っていた。アナンはガーナ出身。国連職員から選出された初めての事務総長だった。1997年の就任当時、私はハーバード大学ケネディ行政大学院に在籍していたが、ガーナ出身の同級生が喜んでいたのを覚えている。アナンはハーバード大学とはお隣のマサチューセッツ工科大学スローンビジネススクールを卒業している。こうした国際機関の人事だが、世界銀行はアメリカから、国際通貨基金(IMF)は欧州から出すのが暗黙の了解になっている。さすがに国連まで欧米から出すわけにはいかないと考えたとみえ、国連事務総長は欧米の主要国以外から選出されている。1994年の世界銀行・IMF総会がスペインで開かれた際、当時のルイス・プレストン世銀総裁に「世銀総裁がいつもアメリカから選ばれていることをどう思うか」と聞いたことがある。プレストンは「将来的には、総裁はアジアなどからも選ばれるべきだ」などと答えていたが、それから12年経った現在も、歴代総裁はアメリカから選ばれている。私が会った翌95年、プレストンは病死(注;私が毒を盛ったわけではありません)、オーストラリア出身で米国籍を取得したジェームズ・ウォルフェンソンが総裁に就任した。ウォルフェンソンも1995年任期切れに伴い辞任し、後任にネオコンで知られるポール・ウォルフォウィッツ(私がSAISにいたときの学長)が選ばれた。時の米政権が指名すれば、それが世銀総裁になるのである。ウォルフォウィッツは会見で「アメリカのアジェンダを世界銀行に押し付けるつもりはない」と述べているが、世銀がアメリカ外交政策の出先機関になっているのではないかとの懸念はいつも消えない。既得権益を守ろうとする点では日本の役人も負けてはいない。フィリピン・マニラに拠点を置くアジア開発銀行の総裁は大蔵・財務官僚の大事な「退職後の就職先」である。昨日は政府の税制調査会の本間正明会長が「一身上の都合」で辞職することが決まった。こうした政府や役所の調査会や審議会の人事も、私にはまやかしに思える。審議会の答申や委員会の報告は、既にメンバーが選ばれた時点で実質的に決まっているからだ。本間は自民党を支える大企業の税金を軽減するために選ばれたとみられている。つまりほかの税調メンバーがだれであろうと、会長が決まった時点で答申の方向も事実上決まるのである。そのことは、狂牛病が見つかったアメリカ産牛肉の輸入再開をめぐる食品安全委員会やプリオン専門調査会のゴタゴタを見てもわかるであろう。そもそもその審議会や調査会を担当する(実際は裏で操る)役人自身が、審議会や調査会の答申や報告は一種の「アリバイ工作(注:この場合は責任を回避するための工作)」であると、こっそり私に打ち明けているのである。タウンミーティングの「やらせ問題」が表面化したが、審議会や委員会でもそれに似たような「やらせ(よく言えば根回し)」は常態化しているのが実情。会長や委員長に政府の意に沿った結論を誘導するよう頼んだり、反対委員(これもアリバイ工作上必要な要素)をあの手この手で懐柔したりするのは、役人にとっては当然のことなのだ。政府は、その答申や報告をさもありがたがって拝受するが、本質的には一人芝居や出来レースにすぎない。完全に政府や与党から独立した第三者機関を作らないかぎり、これからも「アリバイ工作」にすぎない答申や報告が相次ぐのである。本間が辞めても、問題の根が消えることはない。
2006.12.22
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まずは複雑に絡み合った「複数の過去」の写真です。異なる世界の過去がこの根のように干渉し合っているかもしれませんね。さて、昨日は玉川上水、井の頭公園、野川公園、武蔵野公園、多磨霊園、浅間山公園、再び野川、最後に神代植物公園の野草園を回ってきました。武蔵野公園です。ようやく冬の景色になってきましたね。もうすっかり落葉しています。未来はこの枝のように、無数に分かれているのではないでしょうか。浅間山公園です。武蔵野公園の南側に多磨霊園があり、浅間山公園は多磨霊園の西側にあります。こちらもすっかり、葉が落ちていますね。浅間山の頂上へ向かう道。浅間山の標高は70メートル。周辺の平地との標高差は30メートルほどです。この辺りは鎌倉時代、南北朝時代に戦場となりました。頂上には小さな神社があります。浅間神社。御祭神は言わずと知れたコノハナサクヤヒメ。富士山の女神様ですね。浅間山の周りにはほかに高い山はありません。そのため晴れたときは、富士山がよく見えるそうです。昨日は見えませんでした。再び野川に戻って、深大寺の方向へ向かいます。途中で見つけた水車。ちゃんと動いています。実はこれはデモンストレーション用で、この近くに三鷹市が管理している「武蔵野野川流域の水車経営農家」があります。この家の奧に、今から約200年前実際に稼動していた、直径4・6メートルの大水車が展示されています。水車小屋を後にして、神代植物公園の野草園(入場無料)へ。冬に咲こうとしているバラです。失礼、ピントが奧になってしまいましたね。今年の冬は秋が混在していますね。きれいな紅葉をまた見つけました。初冬の一日でした。
2006.12.21
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冬至が近づいていますが、東京都内ではまだ秋の色があちこちに残っています。いずれも昨日、東京・府中の公園で撮った写真です。冬至のころには、葉も全部落ちているかもしれませんね。
2006.12.19
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▼ウィリアム・ブレイクおよび宇宙のモデルはメビウスの環であるかもしれないという仮説についての考察詩人の直感は時々、宇宙の真の姿を描ききってしまうのではないかと思えるときがある。18~19世紀に活躍したイギリスの詩人兼画家のウィリアム・ブレイクの詩『無心の前触れ』がまさにそれである。 To see a World in a Grain of Sand And a Heaven in a Wild Flower, Hold Infinity in the palm of your hand And Eternity in an hour.(一粒の砂に世界を観て、野に咲く花に天国を知る。手のひらに無限をつかみ、一瞬に永遠を抱く)この詩人の直感を信じれば、深遠なる宇宙の秘密は、実は身近に隠されていることになる。永遠は一瞬の中にあり、無限の大宇宙は極小の点になる。私はそこから宇宙モデルを考える。極大の宇宙の果ては極小ではないか。永劫に続くと見られる未来も、悠久の過去と、無限の果てでつながる。メビウスの環に裏と表がないように、この大宇宙においては過去も未来もない。メビウスの環の一面が裏であると同時に表であるように、宇宙の極大も極小に等しい。過去と未来は今この瞬間にも同時に発生しているし、極大の世界と極小の世界も同時に同じ波動を放ち、まるで同一物質のように共鳴しているのである。ただし、この宇宙の構造モデルとしてのメビウスの環は、過去、現在、未来の中で振動する帯のようなものでもある。極大の世界の果てを突き抜けて極小の世界に行き、今の自分に戻ってきたとしても、そこには元の世界はない。宇宙は別の次元へと変容していく。一瞬で宇宙は無限に変容するのだ。もちろんこれは、ある詩人の妄想であるかもしれない。しかし、今日最先端とされるヒモ理論やM理論ですら仮説であり、悪く言えば憶測に過ぎないのだ。宇宙はそれほど寛容に、私たちが想像する余地を残しておいてくれているということだろうか。(続く)
2006.12.17
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▼パラレルワールドからの帰還この三日間、パラレルワールドへ行っていたので、ブログの更新をしませんでしたが、本日無事、パラレルワールドから帰還しました。私が訪問したパラレルワールドでは、ネコちゃんが世界を治めていました。これがその証拠写真です。って、全然証拠になっていませんね。私がこの三日間読んでいた理論物理学者ミチオ・カクの『パラレルワールド』によると、宇宙の小さな一点が突然インフレーション(ビッグバン)を起こし、ベビーユニバース(子宇宙)が芽吹き、その宇宙からさらに別のベビーユニバースが芽吹いて、その発芽プロセスが永遠に続くという理論が有力になっているようです。こうなると一つの宇宙(ユニバース)ではなく、多宇宙(マルチバース)が宇宙の姿になりますね。この一つ一つの子宇宙は、それぞれの法則をもっているようです。つまりこの宇宙で通用する法則は、別の宇宙では通用しなくなってしまうんですね。恐るべし、パラレルワールド。私たちがいる宇宙は、無数の泡が浮かぶ海の中の一つの泡に過ぎないのかもしれないとミチオ・カクは述べています。この宇宙が枝分かれしながら別の宇宙を生み出すという図式は非常に面白いですね。もしかしたら、私たちの世界もこのように枝分かれしながら別の世界を形成しているのかもしれません。つまりAとBという二つの選択肢があって、Aを選んだとして私たちはAの世界に生きていると信じても、実はBの世界を選んだ私たちがいるかもしれないわけです。「シュレーディンガーの猫」の世界ですね。こうしたことが考えられるようになったのも、量子力学の世界では一つの電子が同時に二ヶ所に存在してしまうからです。たとえば、壁に二つの穴を開けて、そこに一つの電子を飛ばすとその電子は二つの穴を同時に通過することが知られているのです。シュレーディンガーの猫のパラドックスを解決するには、意識が存在を決定付けるとするか、無数の並行宇宙を仮定するしかないとミチオ・カクは主張します。後者を多世界理論と言います。宇宙が無限の可能性を実現させる場であるのならば、無数の並行宇宙が存在すると考える方が理にかなっているように思えます。多世界理論が正しいとすると、宇宙はすべての可能性が同時に存在することにもなります。すごいシミュレーション装置ですね。たとえば、1985年1月6日のラグビー大学選手権決勝で、当時慶応の主将だった松永・現監督が終了間際に放ったパスが決まって(注:私たちの世界ではスローフォワードの判定が下っています)慶応が同志社の三連覇を阻止した世界も存在することになるのです。その因縁の慶応対同志社戦は明日瑞穂で行われます。今日はラグビー・トップリーグの試合二試合を秩父宮に観に行きました。第一試合はヤマハの順当勝ち。第二試合は接戦になると思われたのに、前半NECの選手にレッドカードが出されたせいもありますが、サントリーの圧勝でした。サントリーは堅いディフェンスでまったく率が無い。NECのNO8箕内選手もパワーで何度も突進を試みましたが、サントリーのディフェンスの壁を崩せなかったですね。サントリーでは、あの“快速(足の速さは小野沢選手の三分の二ぐらいでしたが)NO8”の佐々木選手が50メートルを独走するトライを上げていました。最初に掲載した写真の猫ちゃんは、秩父宮ラグビー場そばの公園に住む猫ちゃんです。パラレルワールドにいた猫ちゃんと奇遇にも同じ猫ちゃんでした。
2006.12.16
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▼時間のモデルは直線ではなくツリー将来タイムマシンができて時間旅行をした場合、タイムパラドックスが生じるというSFがある。既に起きた過去を「現在の人間」が影響を与えることで、それまでの歴史や世界の様相が一変してしまうのではないかというのだ。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がその一例だ。これは、時間をただの直線と捉えた場合である。過去の一点は一つしかなく、未来の一点も一つしかない。確かにこの場合、パラドックスが起こりえるようにも思える。しかし、過去が一つしかないのならば、その結果である現在も一つであり、未来も一つであるはずだ。つまり、時間旅行をした「現在の人間」がどのように過去に関与したとしても、それは既に過去において織り込まれているので、パラドックスは起こらない。結論から言えば、どのような場合にもパラドックスが生じないのだが、このタイムパラドックスの考え方の最大の問題は、時間を一本の直線と考えていることである。過去が一つしかないと思っている人が多いと思うが、過去は複数、しかも多元的に存在している可能性がある。こう主張すると、既に起こったことが変わるはずがないと反論されるだろうが、この多元的宇宙を説明するには過去が一つであると矛盾することがたくさん出てきてしまう。私は、時間のモデルは直線ではなく、一本の木に近いのではないかと思っている。現在が太い幹の部分だとすると、未来は空に向かって無数に広がる梢、過去は無数に張っている地中の根である。このモデルでは、未来は複数存在し、過去も複数存在する。唯一「現在」の幹の部分だけが一つである。過去に目を向けよう。木が現在の幹の太さに生長するまでに、無数の根は、それぞれが存在した。根の一つ一つには異なる過去が存在し、歴史がある。それが見事に結実し、現在の太い幹を形成したのだ。しかも、その根は現在も変わり続けているのだ。未来はどうだろうか。現在の幹から見ると、未来は無数に広がっており、しかも現在も変わり続けている。このモデルの面白いところは、過去も未来もそして現在も、木の成長とともに刻々と変化することである。未来の可能性が無限に存在するように、過去の可能性も無限に存在する。このモデルでは、時間は生き物のように変化するのである。当然、タイムパラドックスなど生じるはずもない。過去も未来も、今この瞬間に存在するのだから。しかし、実はこのモデルでも説明できない現象がある。それがパラレルワールドの存在である。「現在の世界」と同時に別の「現在の世界」が存在する。モデルとしては、もう一つの木が二重(あるいは三重、四重)に存在し、お互いが現在だけでなく、過去、未来においても干渉し合っている構図を私は描いているのだが、その話はまた別の機会に語りたいと思う。(続く)
2006.12.12
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恐怖の独裁者として悪名を馳せたアウグスト・ピノチェト元チリ大統領が死んだ。南米の人にとっては忘れることのできない「もう一つの9・11」事件。1973年9月11日、民主的な選挙によって選ばれた左派アジェンデ政権を流血クーデターによって転覆した将軍がピノチェトである。同年から1990年まで続いたピノチェト軍事独裁政権下では、反政府勢力は次々と逮捕、拷問されなど粛清されていった。記録も残されずに抹殺された人は数千人に上るとされている。CIAがクーデターや軍事独裁政権の裏で糸を引いていたことは公然の秘密だ。南米に左派政権をつくらせるわけにはいかなかったのだ。ピノチェトの盟友であったイギリスのマーガレット・サッチャーも同様な考えであった。ピノチェトの政敵に対する弾圧は実に執拗だった。いわゆるコンドル作戦として知られている暗殺・粛清作戦をCIAの協力を得ながら展開したのである。その一例が、アジェンデ政権時代に外相を務めたレテリエルが1976年にアメリカの首都ワシントンで爆殺された事件である。その実行犯が、ケネディ暗殺に関与した疑いが強いCIA傘下の暗殺集団「オペレーション40」のノボ兄弟であるとみられている。時のCIA長官がジョージ・ブッシュ(父ブッシュ)であった。ブッシュは1976年1月30日から翌77年1月20日までCIA長官職にあったが、この間にキューバの民間航空機が爆破され、乗客・乗員73名が亡くなるテロ事件が起きている。容疑者はやはり「オペレーション40」のオーランド・ボッシュだ。ブッシュ大統領時代の1990年に、テロ容疑者として国際的に指名手配を受けていたボッシュをアメリカにかくまった張本人がブッシュであることは、偶然ではあるまい。フリーメーソンなど秘密結社が人類を闇から操ろうとしているかどうかは知らないが、表の顔である各国政府の目に見えない裏側で、あるグループの利益のために拷問、暗殺、テロ、謀略を好んで進める血脈のようなものが人類の歴史に流れているような気がしてならない。つまり、ピノチェトが死んでも、何も終わりはしないということである。
2006.12.11
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本当は行くつもりはなかったのですが、素晴らしく晴れたのでつい秩父宮ラグビー場まで。外苑の銀杏並木もようやく黄葉になりました。この日は、関東大学ジュニア選手権(レギュラーではない選手たちの試合)の決勝が行われたのですが、関東学院が12対3で早稲田を下し、早稲田の5連覇を阻みました。春の早関戦やファーストステージのジュニア早明戦のときのように、早稲田の攻めはことごとくつぶされました。関東のフォワードは最初にかなり早稲田フォワードに圧力をかけることに成功したようです。プレッシャーを受けたためか、早稲田にミスが多かったですね。逆にフォワード近辺を突かれ、ディフェンスラインを破られました。ジュニア準決勝の早稲田対明治戦では、明治のディフェンスの悪さから早稲田のバックスがディフェンスラインを突破するケースが多かったですが、さすがに関東学院のディフェンスは明治のようにはさせてくれなかったですね。実力的には個々のフォワードが強い分、関東のほうが上だったのではないかと思います。バックスタンドから新宿方面を望みます。いい眺めですね。こちらからだと太陽を一杯に受けて、ポカポカ暖かいです。次の試合はトップイーストリーグの三菱重工相模原対NTT東日本。両者決め手に欠けて、キックでしか点が入らない時間帯が続きましたが、両者疲れが出てきた後半の最後、トライ合戦があってスタンドが沸きました。フィットネスがトップリーグや学生に比べて落ちるので、こういう試合になってしまうんでしょうね。今日はこれから、イワクラ学会関東支部の忘年会です。
2006.12.10
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1963年11月22日にアメリカに滞在していた人ならジョン・F・ケネディ大統領が凶弾に倒れたとき、自分がどこにいたか覚えているというが、1960~70年代を生きたビートルズ世代なら、ジョン・レノンが殺されたとき自分がどこにいたか、おそらく覚えているのではないだろうか。1980年12月8日、私は英国ケント大学ダーウィン寮にいた。寮の食堂でフランスの友人がジョン・レノンが射殺されたニュースを教えてくれた。太陽が午後3時台に沈む、あの暗いイギリスの冬。慌しい学期末のことであった。あの日から今日で26年が経った。ジョン・レノンの「イマジン」は反戦歌として歌われ続けてきたが、9・11テロ後のアメリカによる「対テロ戦争」の中では戦争愛国主義者たちの狂気の中でかき消されてしまった。この日はまた、真珠湾奇襲攻撃の日(日本時間)でもある。その日、日本中が「真珠湾攻撃の大成果」に歓声を上げていたのだ。その愚かな愛国心が蘇らないことを祈るばかりだ。写真は渋谷区初台のオペラシティのクリスマスツリー。そのクリスマスツリーを見上げる巨人像も写っています(中央やや右)。
2006.12.08
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不思議な世界で取り上げた清田益章さんに5日、懲役1年、執行猶予3年の判決が下ったそうです。清田さんは10月下旬に大麻取締法違反容疑(大麻の譲渡)で逮捕・勾留されていました。先日紹介した「秋山眞人さんを囲む会」でも話題になっていました。何でもかつての超能力少年で警察に捕まったのは三人目だとか。どこかで魔が差してしまうんでしょうか。秋山さんも、ムー編集長の三上さんも心配していましたよ。叩かれ慣れている(?)清田さんのことですから、不死鳥のように復活してくれることでしょう。
2006.12.07
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紅葉もそろそろ見納めですね。本格的な冬の到来を前に、木々も最後の輝きを放っているようです。深紅に染まった紅葉。公孫樹の葉も黄金色に。晩秋の風景でした。
2006.12.05
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ネコ族以外の動物たちです。まずはアフリカゾウ。こちらはアジアゾウですね。違いがわかりますか。アジアゾウは背中が丸く、アフリカゾウは耳が大きいのが特徴です。キャベツを丸ごと食べているアジアゾウです。アフリカのサバンナに棲むキリン。同じくシマウマ。インドサイです。水を飲んでいます。のんびりしていますね。オオカミたちです。日向ぼっこするカンガルー。飼育員とおしゃべりする白いインコ。カラフルなインコもいます。インコとオウムがどう違うのかというと、主に白色で頭部に冠羽と呼ばれる特徴のある羽をもつのがオウムで、多色で冠羽を持たないのがインコだそうです。このほか写真に撮りませんでしたが、モグラの展示が結構面白かったです。蝶が舞い、バッタが飛び交う昆虫生態園もあり、見所があたくさんありました。
2006.12.04
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秋の日の ビオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し上田敏の名訳で知られる、フランスの詩人ベルレーヌの「落葉」の冒頭部分を思い出させます。黄色い落ち葉の絨毯の上を公孫樹の木の影が伸びて行きます。あまりにも美しかったので、つい時間を忘れて見入ってしまいました。晩秋の落日でした。
2006.12.03
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昨日の続きで、多摩動物園のネコ科の動物を紹介します。百獣の王ライオンもネコ科ですね。こちらはオスライオン。このタイガージャージは慶応のラグビー選手、のはずはなく、紛れもないタイガー、虎さんですね。密林の王者と呼ばれています。次は中央アジアの険しい山岳地帯に棲むユキヒョウ。ふかふかした毛ですね。極寒の雪山に住む豹だけのことはあります。最後はサーバル。ネコの中のネコ、「サバンナのスーパーモデル」といわれているそうです。遠くの壁のところでじっとしていたので、いい写真が撮れませんでした。写真はこちらでご覧下さい。まさにネコちゃんという感じです。チーターも、アムールタイガーも、ユキヒョウも、人間の環境破壊や密猟により生活環境が悪化、このままでは絶滅するのではないかと危惧されています。
2006.12.02
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かわいいネコちゃんを紹介します。ネコはネコでも、ネコ科のチーターですね。それでもかわいいことに変わりはありません。ちょこんと座ったチーター。左上に90という数字が見えますが、高さが90センチという意味です。二匹で仲良く寝そべっています。3~5歳のオス三匹が、この檻に入れられています。みんな仲良しのようです。繁殖計画中のためメスは別の檻にいて、時々オスと面会させます。いつも一緒にしておくとただの遊び仲間になってしまうので、繁殖が難しくなるそうです。「いいお友達」というわけですね。紅葉の多摩動物園でした。(続く)
2006.12.01
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