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吉村作治氏が見つけたという直角三角形は次の図の通りです。このA、B、Cが直角三角形になるわけですね。大ピラミッドの北東角がA。大ピラミッドと第二ピラミッドの中心は綺麗に対角線上に並んでいます。その線をさらに南西に延ばしていって、第三ピラミッドの基底部南底辺との交点がBです。さらにそのBから第三ピラミッドの中心を通る直線が、スフィンクス神殿の南西角と交わる点がCです。Cのすぐ右上に見える小さい横長の黒い影の部分がスフィンクスですね。図では右(東)に頭を向けています。図は大英博物館が出版した『Dictionary of Ancient Egypt(古代エジプト事典)』に掲載されているギザ台地の地図を利用しました。元々の地図はこちら。上が西になっています。このほかにも測量の痕跡は随所にあります。私が見つけた位置関係は次の通りです。(1)大ピラミッドの北東端Aと、第二ピラミッドの中心、そしてカメレルネブティ1世の墓の中心の三点は一辺が640メートルの正三形となり、かつその一辺の距離は第二ピラミッド中心からスフィンクスの腰付近までの距離と等しい。(2)第三ピラミッドの南西角と、ケントカウエス女王の墓(図の6)の南西角、それに大ピラミッドの中心を結ぶと直角三角形となる、。(3)大ピラミッドの中心からスフィンクスの頭までの距離約540メートルは、第二ピラミッドの中心とケントカウエス女王の墓の中心を結んだ直線の距離と等しい、。(4)スフィンクスの顔から、大ピラミッドの北東角および第二ピラミッドの北東角までの距離はそれぞれ約580メートルで、二等辺三角形となる。(5)ケントカウエス女王の墓の中心と第二ピラミッドの北東角を結んだ直線は、大ピラミッドの中心と第二ピラミッドの中心を結んだ直線と直交する。(6)ケントカウエス女王の墓の南西角と、第二ピラミッドの中心、それに第三ピラミッドの中心の三点を結ぶと直角三角形を形成する。(7)ケントカウエス女王の墓の中心と、大ピラミッドの中心、それに第三ピラミッドの南にある3基の衛星ピラミッド(図の2)のうち西端のピラミッドの北西角を結ぶと直角三角形となる。その際、ケントカウエス女王の墓の中心と衛星ピラミッドの西端のピラミッドの北西角を結んだ直線は、ちょうど第三ピラミッドの南東角を通る。(8)第二ピラミッドの基底部南底辺を延長した直線上にスフィンクス神殿の南辺の東西軸があり、その直線上で神殿東30メートルの広場の地点と、大ピラミッドの中心、そして第二ピラミッドの南西角を結ぶと、二等辺直角三角形となる。図を縮小しているため、番号等は見づらいかもしれませんが、以上記しただいたいの測量の痕跡を、図でたどっていただければと思います。実はこの図ですら、紙幅の関係で本書でも載せられませんでした。本当はもっと詳しい図をもっているのですが、単行本やブログで掲載するには細かすぎてしまうんですね。とにかくギザ台地にある構造物は、ほとんどが計算されて配置されていたことが、詳細図によってわかるわけです。(続く)
2016.10.31
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ギザ台地に二番目に造られたピラミッドが、ジェドエフラー王の異母兄弟とみられ、第四王朝第4代ファラオとなったカフラー王のピラミッドです。第二ピラミッドとも呼ばれ、クフ王のピラミッドの南西のすぐ隣に建造されました。高さは143・5メートル。ギザの三大ピラミッドの中で唯一、頂上付近に外装の一部をとどめています。ギザ台地に三番目に造られたピラミッドは、カフラー王の息子で第5代ファラオとなったメンカウラー王のピラミッドです。第三ピラミッドとも呼ばれ、カフラー王のピラミッドの南西のすぐ隣に建造されました。三大ピラミッドの中で一番小さく、元々の高さは66・5メートルありました。つまりギザ台地の三大ピラミッドは、北東から南西にかけて、ほぼ一列に、それこそオリオンの三ツ星のように配置されているわけです。この三大ピラミッドと、スフィンクスを含むその他の複合施設全体の配置は、意図的にデザインされたのではないかとの説はかなり古くからありました。たとえば、早稲田大学名誉教授の吉村作治氏は、大ピラミッドの北東角と、第三ピラミッドの南底辺を倍に長さに延ばした南西角角、そしてスフィンクス神殿の南西角の3点を結ぶと直角三角形になることに気がつきました。でも、それだけではないんですね。ギザ台地にある複合施設はすべて、非常に綿密に計算された上に配置されています。次は、なるべく図を使って説明しましょう。(続く)
2016.10.30
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初めての真正ピラミッドである赤いピラミッドを建造した後に登場するのが、同じ第四王朝のクフ王がギザ台地に建てた「ギザの大ピラミッド」ことクフ王のピラミッドです。紀元前2520年ごろ完成したとみられています。完成時の高さは146・7メートルで、これは14世紀のイギリスにリンカーン大聖堂(約160メートル)が建造されるまでの約3800年間、世界で最も高い建築物であり続けました。こちらそのクフ王のピラミッドです。下から見上げると、こんな感じになります。まさに「ザ・ピラミッド」と呼べる真正ピラミッド。で、このクフ王の大ピラミッドの建造位置がどのように決められたかというと、4つのプロセスがあったと思われます。1) ギザ台地の南東にある小山群1と小山群2を結んだ直線上におおよその建造場所を設定した。2) 屈折ピラミッドと小山群1を結んだ直線上で、かつその距離の二倍となる位置に大ピラミッドの中心を置いた。3) かつ、サッカラの階段ピラミッドとスフィンクス(ただし既にスフィンクスが建造されたと仮定)の腰付近を結んだ直線上に大ピラミッドの中心を置いた。4) 同時に階段ピラミッドからの距離が、赤いピラミッドとカーバー王のピラミッドを結んだ距離と等しくなるように測量、かつその距離が階段ピラミッドと赤いピラミッドを結んだ距離の二倍になる位置にピラミッドの中心を置いた。この四つの条件をすべて満たす必要はありません。2)と3)だけでも、十分に位置が決まりますね。面白いのは、ギザから南に65・5キロ離れたメイドゥームのピラミッドがギザの大ピラミッドの頂上からなら視認できたことです。もちろん天気が悪ければ見えませんが、お互いが頂上に登って火を焚けば、65キロ離れた距離があろうとも、瞬時に連絡が取れたことになります。頂上にかがり火を焚いたピラミッドが夜空を焦がす光景は、さぞ見応えがあったのではないでしょうか。(続く)
2016.10.29
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23日から昨日(27日)まで関西・中国地方に取材に行っておりました。特に啓示のような夢を見たから出かけたわけではありませんが、京都、鳥取、倉敷、安芸の宮島、奥琵琶湖を回りました。まあ何と、昨日の夜明け前に見た星々の綺麗だったこと!ちょっとした気分転換になりました。上の写真は昨日、関東地方に戻ってから撮ったものです。また明日より「5000年前の古代人の驚異の測量技術」シリーズを続ける予定です。
2016.10.28
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屈折ピラミッドが建造されたのと同じスネフェル王の時代、もう一つ非常に重要な意味を持つピラミッドが建造されたました。それが赤いピラミッドです。表面の花こう岩が赤っぽく見えることから名づけられました。どうして重要かと言うと、屈折型でも階段型でもない初めての真正ピラミッド(側面が二等辺さん脚気の方錐形ピラミッド)だからです。高さは104メートルとエジプトのピラミッドの中では三番目に高く、屈折ピラミッドの北約2キロの場所に建造さました。このピラミッドの四面はほとんど見事に東西南北に向いていますが、約1度ほど時計の反対回りに傾いています。どうして傾いているかは、もう想像がつきますね。小山群2の中心部を南の基準点にしたからです。実は赤いピラミッドの一つ前に造られた屈折ピラミッドも、南面が小山群2の中心部を指しています。この二つのピラミッドは、明らかに小山群2の中心部を南北の基軸線の測量点にしていることがわかるわけです。赤いピラミッドに関しては、ほかにも面白い測量上の事実があります。赤いピラミッドは、第一号ピラミッドであるサッカラの階段ピラミッドと小山群3を結んだ直線(14・0キロ)の直線上にあるだけでなく、その中点(両点から7キロの位置)にあることです。つまり非常に正確に、南にある二つの小山群の目立つ場所を測量で使いながら、赤いピラミッドが建造されたことが良くわかりますね。スネフェル王の時代に造られた二基のピラミッドである屈折ピラミッドと赤いピラミッドは、時は流れて、第12王朝のピラミッドを建造するときに測量点として使われました。アメンエムハト2世のピラミッド(別名・白いピラミッド)とアメンエムハト3世のピラミッド(別名・黒いピラミッド)です。その関係を示したのが、本書271ページの図6-4です。これがその図ですね。幾何学の嫌いな人にはそれほど面白くないかもしれませんが、CX=CD=DZ=1550メートルで、AY=DB=DX=2170メートルです。言いたいことは一つです。四つのピラミッドは完璧な測量の結果、配置が決められて建造されているということです。(続く)
2016.10.22
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もう覚えていないかもしれませんが、「アイルランド見聞録」を始める前、「5000年前の古代人の完璧な測量技術」をシリーズで20回続けておりました。アイルランド取材旅行の記憶が鮮明なうちに書こうと思って、中断していたわけですが、それを今日から再開いたします。前回、最後に取り上げたのは、古代エジプトの五番目のピラミッドである屈折ピラミッドでした。今日はその復習もかねて、古代エジプト初期のピラミッドがどのように決められたかを整理しておきましょう。その前に夕日の写真です。古代測量師は、このような風景を見ながら、一年のどの季節にどこに夕日が沈むかをしっかりと把握しておりました。最初の五基のまとめです。(1)エジプト第三王朝ジェセル王の時代に、夏至の太陽が「小山群1」の谷間に沈むのが見えるライン上で、かつ南12キロの「小山群2」の中央を測量点として、経線に対して時計回りに4度16分の傾きとなるような直線上に、第一号基となるサッカラの階段ピラミッドを建造しました。どうして4度16分の傾きとなるのかというと、ピラミッドの南北軸がそのように傾いているからです。つまりその南北軸は明らかに小山群2の中心をさしていると言うこともできます。(2)第三王朝セケムケト王の時代に、小山群2の東端の真北かつ階段ピラミッドから600メートルほど離れた地点で、夏至の太陽が小山群1の南の小山に沈むのが見えるライン上に、セケムケト王のピラミッド(崩れピラミッド)を建造した。(3)第三王朝カーバー王の時代に、小山群2の中心と小山群1の中心付近を結んだ直線上で、小山群1の中心までの距離が、小山群1の中心と階段ピラミッドを結んだ直線の距離と等しくなる地点に、カーバー王のピラミッドを建造した。(4)第四王朝スネフェル王の時代に、カーバー王のピラミッドからほぼ真南に引いた直線と、階段ピラミッドとセケムケト王のピラミッドの頂点付近を結び、小山群2の西端付近を通る直線の交点にメイドゥームのピラミッドを建造した。(5)同じスネフェル王の時代に、階段ピラミッドと小山群2の中心を結んだ直線上で、その直線を3対1に分割する地点、かつ階段ピラミッドとメイドゥームのピラミッドを結んだ直線上で、その直線を5対1に分割する地点に屈折ピラミッドを建造した。こうしてシュメルの血をひくとみられる古代エジプトの技術者たちは、次々と測量をしながらピラミッドを建造していったわけです。(続く)
2016.10.21
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ある日の夕暮です。青と・・・紫と・・・赤と黄色・・・四つの色の凌ぎ合い。秋の空は七色に変化しますね。
2016.10.18
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剣神社を参拝した後、下山ルートを変えて東から下ろうとしたのですが、途中で工事があり一時通行止めとなっていることがわかりました。午後2時半まで通行できません、というんですね。そこでリフト乗り場まで戻って、元来た道をそのまま下って行くことにしました。それが結果的に正解だったようです。雲が晴れて来たからです。ところどころ狭い道もありましたが、快適に下山して、最初に立ち寄ったつるぎ町の道の駅に再び立ち寄ります。そして展望台から再度撮影。ちなみに剣山に登っていく前に撮った写真はこちら。山々を覆っていた厚い雲がすっきりとなくなっていることがわかりますね。そしてなんと、晴れた写真をよく見ると、剣山と思われる山が右の奥の方に顔を出しておりました。それを拡大したのがこちらです。展望台に設置された地図で確認しても、これが剣山で間違いないようでした。東のルートで下っていたら、この写真は撮影できませんでした。剣山の写真も撮れて、これでミッション完了です。徳島空港へと向かいました。その徳島空港。正式には徳島阿波おどり空港と言います。写真上やや左のほうに見えている光は、窓に反射した照明が写り込んだもので、UFOではありません。台風の影響で空のダイヤは大きく乱れましたが、一時間遅れで徳島空港を飛び立ち、羽田に戻ることができました。翌9日の瀬戸さんのコンサートにも無事間に合ったということですね。お蔭様でククリヒメに日(9月9日)に、括(くく)ることができたわけです。(終わり)
2016.10.16
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剣山がある山々の方角です。この写真はつるぎ町のそばにある道の駅の展望台から撮ったものですが、厚い雲に覆われていて、剣山の姿を見ることはできません。でも、とにかく剣山がある方角に向かって、車を走らせることにしました。最初は快適な道路が続いたのですが、途中から悪路に。対向車が来たらすれ違うことができないほど狭い山道が続きます。ようやく剣山登山口のリフト乗り場に着いたのは、道の駅を出発してから1時間20分後でした。これがそのリフト乗り場です。リフトに乗って山に近づくこともできましたが、頂上付近は曇っていて時間もかかることがわかり、今回は断念します。そこでリフト乗り場のそばの峠の茶屋で、御そばを食べることにしました。お茶屋の女主人から剣山のソロモンの財宝の話などを聞きます。その女主人は生まれも育ちも剣山のそばで、昔からそういう言い伝えがあったと話していました。最後はお礼を言って、剣神社の場所を聞きます。ちょっと坂を下りたところに剣神社がありました。剣神社にお参りします。剣山に寄ったことには意味があったことが、後でわかります。自宅に戻ってから、つるぎの「つ」には鍵の意味があることを知らされたからです。また一つ謎が解けました。このころになると、段々晴れて、見晴らしがよくなってきます。でも帰りの飛行機の時間もあるので、剣山登山はまた次の機会にすることにしました。(続く)
2016.10.15
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高知の羽根を訪れた後はホテルへ直行します。そのホテルからの風景。眼下に太平洋が広がっています。沖の方にある雲は台風によるものです。ちょうどこのとき、台風が四国沖の太平洋を関東地方に向かっているところでした。明日はかなり荒れそうです。で、翌9月8日が明けました。心配だった天気はどうなったかというと・・・何とこの日も快晴。天気が良いことがわかったので、どこに行こうかと思案します。その結果、当初計画していなかったのですが、剣山へ行くことになりました。考えてみると、翌日は9月9日。瀬戸さんのコンサートがある日なんですが、99でククリヒメ(白山菊理姫)となります。で、菊理姫と言えば、白山比め神社や剣神社です。菊理姫と剣はどのような関係にあるかというと、ミカエルの剣と同じで、剣は自分の心の中のドラゴンを退治するシンボルなんですね。菊理姫はこの剣を持っていると考えられています。だから加賀一の宮の白山比め神社のそばに「鶴来」という地名があるのも偶然ではないんですね。鶴来は剣なんです。剣山はこの雲の向うにあります。(続く)
2016.10.14
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介良事件のUFO発見現場を見た後は、高知市の東にある安芸郡まで行き、そこのホテルにチェックインしました。で、早めに着いたので、荷物を部屋に置いて、再び車で外出します。向かった先は、室戸市の羽根。そう、東経137度11分の羽根ラインと同じ地名です。位山から引いた南北線上には、羽根という地名が5つも並んでいました。さらに位山から八方位線を引くと、ちょうど南西の線上に、琵琶湖の音羽山、徳島の羽ノ浦があり、最後はこの羽根に至ります(さらに延ばせば、種子島があります)。あれほど正確に経線(羽根ライン)を引けるほどの測量技術があれば、当然八方位線を引くこともできたはずです。その測量の痕跡が、室戸市の羽根である可能性があるわけです。羽根町で最初に立ち寄ったのは、こちら。お饅頭屋さんです。ここで羽根名物「お倉饅頭」を購入しながら、羽根のことをいろいろ教えてもらいました。江戸時代に、不漁と不作で餓死寸前の村人に対して、奉行の岡村十兵衛が禁制のお倉米を自分の命を掛けて放出して、分け与ええて救った出来事にちなんだお饅頭だそうです。とても美味しかったです。そのお饅頭屋さんのそばの羽根川橋。次に、羽根町の神社である八幡宮をお参りします。奥能登の石川県・羽根にも八幡神を祭る八幡神社がありました。八幡神はいまでこそ応神天皇ということになっていますが、その由来はもっと古いとみられています。元々はヤハタノカミと読まれていましたから、応神天皇の時代に来朝した弓月君の子孫と称される秦氏と関係があるとも考えられます。もしそうなら、八幡の神はヤハウェなんてことにもなってしまうかもしれません。あくまでも可能性の一つですが。羽根岬からの風景です。位山から引いた八方位線である「南西の羽根ライン」は、この海の先にある種子島へと続くわけです。(続く)
2016.10.13
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四万十川を越えて、ひたすら東へと走ると、高知市に出ます。で、高知市の東部には、甲府事件と並び、日本の二大UFO事件とされる介良事件が起きた介良地区があります。たまたま四国に出かける前に、この事件のことを思い出したので、立ち寄ることにしました。第一発見現場とされる、介良中学の西にある田んぼです。何の変哲もない田んぼの風景ですね。1972年8月25日から9月下旬にかけて、この田んぼの周辺で複数の中学生によって小型のUFOが頻繁に目撃され、両手に乗るほどのサイズの小型UFOが複数回捕獲されました。で、捕獲されるたびにUFOは逃げて、消えてしまったという奇妙な事件です。しかもその小型UFOには、青海波のような模様が刻まれていたというんですね。真偽のほどはわからず、現在でも謎のままです。で、私が気になったのは、現場から見えたこちらの山。鉢伏山(標高213メートル)です。文字通り鉢を伏せたような山ですね。いかにもUFOが出てきそうな山です。しかし、その後、介良に関しては面白いシンクロニシティがありました。9月9日に瀬戸さんのコンサートを楽しんだ後、有志8人で吉祥寺の飲食店で食事会を開いたのですが、そのうちの一人が、何と私たちが介良に行った一日前に介良に行っていたことがわかったんですね。たった一日違いのニアミスでした。こんなこともあるんですね。(続く)
2016.10.12
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翌9月7日。別の台風が近づいているというのに、前日とは打って変わって、足摺温泉は快晴です。余りにも快晴なので、再び唐人駄場ストーンサークルに写真を撮りに行きました。前日は霧が出ていましたが、実によく晴れています。実はこの唐人駄場ストーンサークルのそばの丘の斜面にも、巨石遺構のような巨石群があります。上の写真は、唐人駄場ストーンサークルの駐車場から唐人石の方を見上げた斜面の巨石群です。ここは牧草地のため中には入れません。さらに下ったところの斜面には、このような巨石群が見られます。下の方の斜面にはこのような風景が広がっています。もしかしたら、ストーンサークルのような古代の遺構がこうした場所からも出てくるかもしれませんね。さて、次は四万十川を越えて高知市へと向かいます。(続く)
2016.10.11
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唐人石の撮影が終わったので、足摺温泉のホテルへと向かいます。ホテルにチェックインした後、まだまだ夕食にも時間があったので、足摺岬へ散策に出かけました。足摺岬の展望台からの風景です。低いところに雲が出ていますね。さらに下を見ると・・・結構切り立った崖になっています。こちらは足摺岬灯台。天気もますますよくなってきました。この辺りには巨石や奇岩が多く、中には名前が付けられたものもありました。「大師の爪書き石」と書かれています。何でも弘法大師が爪で「南無阿弥陀仏」と彫ったのだそうです。こちらは「亀石」。案内板によると、弘法大師はかつて岬の先端にある亀呼び場から亀に乗って、灯台の前にある海中の不動岩へと渡ったそうなのですが、この亀石はその亀呼び場の方向を向いているとのことです。不思議な伝説が残っているんですね。四国は面白いです。(続く)
2016.10.10
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再び車で10分ほど山道を登って、唐人石巨石群に到着。岩肌も乾いて、それほど滑りやすくなかったため、先ほどは断念した千畳敷石に架け橋を使って渡ります。その千畳敷石から見た唐人石。存在感がありますね。まるでモアイ像が何体も立ち並んでいるようです。そこから今度は、唐人駄場ストーンサークルの方角を見ると、このような風景が広がっておりました。写真右上の晴れ間から光が降り注いでいるのがわかりますね。中央左奥の黄緑色の芝生のあるところが、唐人駄場ストーンサークルがある公園です。先ほどは公園が見えないほどガスがかかっておりました。右の出っ張った石が、既に紹介した亀石ですね。千畳敷石から再び元の見学コースに戻ります。そこにあるのは、鬼の包丁石。確かに、砥石で研いだように鋭角です。最後は、「唐人石磐座群で最強のパワースポット」と案内板に書かれていた「再生のエリア」。左端の岩が母で、右端が父。そして写真真ん中の亀石がその子供なのだそうです。とにかく写真撮影はうまく行きました。天気の神様の計らいに感謝です。(続く)
2016.10.09
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こちらが千畳敷石に架けられている梯子です。梯子にたどり着くまでに、鋭角な屋根のような岩の上を渡らなければならず、ちょっと危険なわけです。で、この後、別の巨石群を見るために、さらに奥へ進みます。ほかにもたくさん巨石があり、写真を撮りまくったのですが、いかんせん晴れていないので、それほどいい写真は撮影できません。でも一応全部の巨石の写真を撮ったので、次の目的地である足摺温泉のホテルへ向かうことにしました。宿泊先ホテルまでは車で15分ほどです。そして山を下り、ホテルに向かっている途中、何と空に晴れ間が見えてきたんですね。あの大雨でどんよりとしていた空に青空が見えます。これには、驚きました。ホテルまであと五分ぐらいのところまで来ていましたが、唐人駄場遺跡まで踵(きびす)を返します。(続く)
2016.10.08
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案内板に「唐人とは、光り輝く神の居場所の意味」と書かれていたことを昨日紹介しましたが、一般には唐人とは異人、駄場とは平らな土地という意味でいいようです。つまり案内板を書いた方が意訳をしたのでしょうね。ただ、その昔この不思議な遺跡を異人が開拓した場所だと考えて名付けたのは、間違いないように思われます。不思議な異人さんのことを、神の使いであるとでも考えたのでしょうか。アイルランドのケルト人にとっても、自分たちが来るよりはるか大昔に巨石遺構を造った人々は「異人」であり、ダーナ神族と呼ばれていたんですからね。さて、昨日の続きで、唐人石巨石群のそのほかの巨石を紹介しましょう。行く手を阻むように林立する巨石群の中へと進みます。これは亀石のようです。確かにカメが首をもたげているように見えますね。巨大な屏風のように立ち並ぶ巨石群。この巨石の間をさらに奥へと進みます。すると・・・千畳敷岩(神楽石)と書かれていますね。空気が澄んだ日には、遠く九州まで見えるそうです。神楽石と書かれているように、絶好のお祭り広場であったと思われます。架け橋があり、千畳敷岩に渡れるようになっていましたが、雨が降った直後で滑りやすかったので、このときは断念しました。そう、このときは、です。(続く)
2016.10.07
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そのころには雨が完全に止んだので、先ほど雨とマムシのせいにして行かなかった唐人石巨石群を見に行くことにしました。マムシや滑りやすい足場に注意しながら、恐る恐る唐人石巨石群がある山の細い山道を登って行きます。最初に見えてきたのは、こちらの磐座(イワクラ)。見上げなければならないほどの巨石です。案内板も立っています。「唐人」とは、「光り輝く神の居場所」であると書かれています。私はてっきり「唐人」とは唐の人とか外国人という意味かとばかり思っていました。どうして、そのような意味になるのか、今度調べてみます。別の角度からこの磐座を撮影。ずっしりとした存在感があります。さらに矢印に従って歩いていくと・・・巨大な棒状の巨石が現れました。で、近くの案内板を見ると・・・まだまだ先に変わった形の巨石が林立しているようです。(続く)
2016.10.06
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既に述べましたが、残念ながら唐人駄場ストーンサークルは原形をとどめていません。昭和61年の県の公園整備工事で、ストーンサークル内が整備され、中央部分の貴重な巨石が撤去されるなどしたためです。もったいないことをしたなと思いますが、終わったことを嘆いても仕方ありません。それでもいくつかの巨石は残っており、当時の面影を偲ぶことはできます。奥の巨石なんかは加工されたように見えますね。縦に長い立石もあります。次はどっしりとした御餅のような巨石。これらがストーンサークルを形成していた巨石だとすると、日本では珍しく、かなり大きな巨石を使ったストーンサークルであったことになります。また地図で見た限り、その規模も案内板に書かれていた通り世界最大級レベルです。私が受けた感じでは、英国のエイヴベリーのストーンヘンジよりは小さい(二分の一くらい)ですが、ストーンヘンジよりははるかに大きいのではないかと思います。でも、整備された公園の中にある巨石だけでは、その大きさや当時の姿を推し量ることはできません。唯一、公園の外れにある巨石の塊が、当時のサークルの配列をとどめているでしょうか。公園の駐車場から少し歩いた森の外れに、ストーンサークルの一部と思われる巨石群がひっそりと佇んでおりました。(続く)
2016.10.05
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唐人駄場遺跡に着いたときはまだ、小雨が降っていました。そして次のような案内板を見つけます。注目すべきは黄色い張り紙です。「マムシに注意!」と書かれていますよね。唐人駄場遺跡は、唐人駄場というストーンサークルの遺跡と、この案内板がある唐人石という巨石組石群から成ります。で、この唐人石を雨が降る中、しかもマムシがいる中、見学するのは、ちょっと無謀ですね。そこで案内板のすぐそばにある「南のサークル」という組石だけ撮影することにして、この先にある唐人駄場ストーンサークルを見に行くことにしました。こちらがその「南のサークル」の写真です。この「南のサークル」から車で少し下ったところに、唐人駄場ストーンサークルの遺跡があります。これがそのストーンサークルの遺跡です。地図を見ると、どうやらこの手前の石がストーンサークルを形成する石の一つのようです。その石の列はこちらに続いていました。ただし、こうした巨石はところどころにしかありません。どうやら、ストーンサークルの全体像がわかるほどには巨石は残っていないようです。このころになると、先ほどまで土砂降りだった雨も止み、雨の後のモヤが立ち込めるだけになっていました。(続く)
2016.10.04
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明るい妖怪が棲むような道後温泉の陽気にどっぷりつかった翌9月6日は、朝からうす曇りで、天気予報によるといつ雨が降り始めるかわからないような天気でした。後で知ったのですが、台風が昨日ようやく通りすぎたと思ったら、次の台風が発生し、どうやら近日中に高知県のそばを通るらしいとのこと。高知と言えば、この日、これから向かう場所です。そんなことを知らずに、のんきに道後温泉を出発した我々は、目的地の高知県足摺岬までは「道の駅めぐり」をしようということになります。立ち寄った愛媛県南宇和郡愛南町の「道の駅みしょうMIC」から撮った海の風景です。冬の海に沈む夕日が光の屈折で達磨のように見える「 ダルマ夕日」が見えるところで有名です。ダルマ夕日とは、大気と海水との温度差が大きく冷え込みが厳しい晴れた日に、海面から立ち上がる水蒸気によって光が屈折してできるもので、一種の蜃気楼現象のようなものです。寄り道をしながら足摺岬方面に向かっていると、高知県土佐清水の道の駅にいるときに土砂降りの雨に遭遇します。このとき初めて、台風がこちらに近づいているのを知ることになりました。前が見えなくなるくらいの雨に、しばらくたじろぎます。せっかく写真を撮影しようとした遺跡の写真を撮るのは難しい感じになって来ました。ところが、また「大丈夫」という声が聞こえます。「まさか、この雨で大丈夫ということはないだろう」と疑いつつも、ダメ元で目的地の「唐人駄場」に向かいます。近づくにつれ、心なし雨が小降りになったような気がしてきます。そして到着。唐人駄場遺跡。おそらく日本最大のストーンサークルがあった遺跡です。(続く)
2016.10.03
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これが道後温泉本館です。道後温泉の中心にある温泉共同浴場で、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』に出てきた銭湯「油屋」のモデルの一つとされています。風情がありますね。「油屋」は結構、おどろおどろしい感じがする銭湯でしたが、こちらはまったくそういうおどろおどろしさがありません。明るく突き抜けた感じのするお風呂屋さんです。宿泊先のホテルにも当然、大浴場があるのですが、みなさん観光の一環として、この共同浴場に入りに来ます。夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくることでも有名で、別名・愛称は「坊っちゃん湯」だそうです。神の湯一階、神の湯二階、霊の湯二階、霊の湯三階個室と分かれていて、料金はそれぞれ410円、840円 、1,250円、1,550円。上の階に行くほど豪華になり、上の階ではお菓子やお茶が付きます。ホテルで無料券をくれたので、私は一階のお風呂を利用しました。そのお風呂の中にも、昨日紹介した円筒形の石の湯釜と同じ湯釜からお湯が出ておりました。湯釜の夢を二回も見るわけですね。次に来るときは、二階か三階のお風呂に入ってみようと思います。こちらは道後温泉本館へと続く、仲見世のような商店街の入り口です。商店街で買うお土産のお勧めは、一六本舗の一六タルトでしょうか。この入口付近にからくり時計の時計塔と、昨日紹介した湯釜があります。定時になると、からくり時計が動きだすので、時計塔の前は大勢の観光客でごった返しになっておりました。(続く)
2016.10.02
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東山の山頂付近からは、もう一つ、遠くに目立つ山がありました。それがこちら。写真中央のビルの谷間の奥に、綺麗な円錐形の山が見えますね。おそらくこれもタカミムスビの測量に関係する山だと思います。国土地理院の地図で調べたところ、方角から見て、弁天山(標高130メートル)ではないかと思われます。これでこの日の取材はおしまい。宿泊先の道後温泉へと向かいました。この道後温泉が面白いところなんですね。なにしろ、夢に二度も現れたのが、道後温泉の源泉の吹き出し口の円筒形の石の建造物(湯釜)なんですから。その石の湯釜がこちらです。まさに夢にまで見た道後温泉。この明るい妖怪が棲むような、不思議な温泉の話は次回のブログでお話ししましょう。(続く)
2016.10.01
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