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しのびよる声
3
引っ越しが決まって房江を車に乗せようとすると、房江は観念していた心を翻し家の中に駆けり込んだのだった。そして、仏間であった部屋に入って床の間の壁が白くなった辺りをじっと凝視していたのだった。そこには白井家の先祖代々の位牌を並べた仏段があったところであった。無論、房江の夫の位牌も祭られていた。夫の死の時も涙を流すことを許さなかった房江の自責への戒めは、そのとき外されかかっていた。逢沢と育子が部屋を覗くと房江は肩を奮わせていたのだった。
「おかあさん!」
育子が曇った声を房江の背に投げた。
そのとき房江は、
「もう許されてもええじゃろう。もう許してもろうてもええじゃろう。・・・辛いわねぇ、泣きたいときにも泣けんなんて。あんときに、長太君の遺髪の入った骨箱を見たときに、私は誓ったんよ、決してこれからの人生でどんなに嬉しいことも、悲しいことでも涙を流さないって・・・。それが、それだけが、私にすることが出来た償いのように思えて・・・」
房江は畳に両手をついて泣きながら言った。
「お母さん・・・もういいって。お母さんの今までの生き様は・・・なんの楽しみもない、喜びのない、ただ子供達の幸せを第一に考えての人生だったことは、この私が一番良く知っているわ。だからお母さん・・・」
育子は房江の肩に手を置いてしゃくりながら言った。「お前は、私になんの相談もなくさっさと教壇を下りてしもうてからに・・・。私の苦しい苦い体験を・・・いいや、子供等を誰が守ってくれると言うんね」
「判っているってお母さん、私は私なりに子供達の幸せのためにペンを握る決心をしたんだもの。現場ではどうしても、言いたいことも言えないし、やりたいことも出来ないから。今の私なら自由に何でも言えるし書けるんだから・・・」
「だけど、あの時だって、知識人達は自分の考えを見失って、女子師範しか出とらん年端もない私等に本当のことを教えてくれなんだし・・・」
「お母さん、あの頃と今は違うわ」
育子は逢沢を見上げて言った。
「いいや、違うように思えん。本当に子供等のためを思うとんなら、あんなせせこましい教育はせん筈じゃ。日本語もろくにしゃべれん書けん教育があるもんかね。あの時にあの頃に返っていくように思われて・・・」
房江は何もない床の間を涙を流しながら食い入るように見つめて言った。
逢沢は、房江の考えが確りしていて、間違っていないことに共感し感心したのだった。その通りなのだ、文章を書かせてもまとまりがなく漢字を知らな過ぎると言う現実があった。それも、高校を卒業した短大生がしてそうなのだ。一体何を十二年間勉強したのか疑わしい子が多いいのだ。
「それは・・・」
育子は答える言葉を失っていた。育子に取っても房江の言い分を否定することは出来なかった。
「日本語を知らんから本を読まん、読まんから日本語が判らん、そんな子供等が果たしておまえの本を読んでくれるんかのう」
房江は言葉でギューと育子の首を締めた。この場は房江の勝利であった。そんな房江を宥め透かして、逢沢の家に連れてくるのは一苦労でも二苦労でもあった。
連れてきても、房江と育子はその問題で話し合っていたが、しまいには口論となり限りない平行線の結果、房江の勝利に終わった。育子は逢沢に助勢を求めたが逢沢はそれに取り合わなかった。母と子の、言ってみれば忌憚のない言葉のやりとりが二人の接点のように思われたからであった。逢沢は、そんな経験は全くないから寧ろ羨ましいとさえ感じていたのだった。
「二人に取って良い頭脳の鍛練になると思うがね」
「ええそうでしょうとも」
育子は頬をふくらましてすねたのだった。
「何でも言い合えるって良い事だょ。母子っていいなーあて思うよ」
逢沢は言葉を宙に泳がせた。
「あなた・・・」
育子の声が小さく落ちた。逢沢の事が頭を掠めたらしい。それからは、育子は何も言わなくなった。その拘りが房江から消えると同時に、ボケらしい兆候が始まったのだった。
夏の日、真昼の余熱がまだ漂い淀んでいる時、房江が突然に逢沢の家から姿を消した。
逢沢と育子は、慌てて走った。房江の嫌いな逢魔が時が近ずいていたからだ。気付くのが遅かったと逢沢は後悔した。二人で今度出版する「民話における男と女」のゲラ稿に朱を入れていたのだった。房江は自分の部屋で昼寝をしていたのを育子が確認していた。その時刻が三時頃であった。校正が一段落付いたので、お茶でもと台所へ立った時に房江の部屋を育子が覗き声を掛けようとしたが良く眠っていたので踵を返したのだった。それから四時間、二人は仕事に夢中になっていたのだった。房江のことが心配になって声を掛けると居なかったのだ。庭に飛びだし、家の周りを探し回った。育子は、
「おかあさん!」
と息をきらして汗を拭き拭き房江の名を呼んだ。声が薄暮の空に吸い込まれていた。
「どうしたのです?」
二人の慌ただしい姿に隣に住む安木老人が声を掛けた「おばあちゃんがいないのです」育子が口をとがらせて言葉を蹴飛ばしたのだった。
「ああ、おばあちゃんなら、沖に行くのはどちらですかいのう、と言って山を下りましたよ」
「何時のことでしょうか?」
育子が咳込んで問った。
「あれは私が洗濯物をしまっていた時でしたから・・・。五時頃でしょうか」
「育子、今日は何日だ」
逢沢は育子に日時を確認するように問った。
「ああ、今日はあの家を解体する日・・・」
「そうなんだ・・・」
逢沢は車庫へ走った。
「皆様御心配をお掛けしまして、すいません」
と言いながら育子も逢沢の後を追った。
車のエンジンを掛けるのももどかしく、二人は山を下りたのだった。
房江は、逢沢と育子が考えていたように、綺麗になくなった家の後に呆然と立ち尽くしていたのだった。家の残材は一かけらもなかった。その跡に山土が敷き詰められ、整地されていた。房江は、仏間があった辺りに立ち尽くしていたのだった。房江の頬を沈みかけた太陽が赤く染めていた。正に房江の怖がる逢魔が時が来ようとしていた。房江の顔は謡曲の「藤戸」の老婆、怨念を秘めて踊る痩せ女の面のように見えた。
「おかあさん」
育子が小さく言葉を落とした。
「やめておこう。そっと見ていてあげよう」
逢沢は育子を制した。房江の長い影が山土の上に伸びていた。その影が時折風に吹かれるように揺れた。だが、影も段々ん暗やみに呑み込まれていった。それは、逢魔が時に人が消えていなくなると言う言い伝えを肯定しているようだった。
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