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3月14日(木) 6時30分起床。ホステル料を払ったり、朝食を食べたりして7時過ぎに港へいく。昨日会う約束のTKとは会えなかったので、与那国島からの船あるいは飛行機が出なかったものとみえる。 7時30分頃上船、石垣港は中学生の本土への集団就職の人たちで一杯であった。出港で目に泪を浮かべテープを持つまだ15、6才の子たちを見ていると、ちょっとかわいそうな気もした。このようにして送られ、すぐ帰ってくる子たちも非常に多いという。 自分は昨日、米原の原生林で偶然一緒になった京都の先生になる○○女史に見送られ甲板に立っている。早大の三人のメッチェンもこの船に乗ることになっているのだが、まだ姿を見せない。テープが乱れ飛んでもう出港ではないかと思われた8時近く、彼女たち三人が現れた。手を振ったら、振りかえした。 日記の記載はこの日までで、この日以降は下記に示すような簡単の行動記録が残っているだけである。帰路への安堵感からか日記を書く情熱がなくなったものと思われる。フィルムもなくなったのか写真も残っていない。 3月15日(金) 3月16日(土) 3月18日(月) 9:00 那覇港外 6:30 起床 21:15 神戸下船 9:45 上陸 8:30 出発 21:30 三宮 11:35 たずみ荘 8:45 泊港 22:04 快速電車 13:30 コザ市散策 11:00 上船 (名古屋にいつ着いたかは不明) 18:00 たずみ荘 13:00 出港 入浴、夕食 買い物 23:00 就寝 乱雑に書かれた日記を苦労しながら、読み返し、当時のワンデリングの様子をまざまざと想い出すことができた。24日間のワンデリングを通じ、実に多くの人に出会い、お世話になった。特に沖縄の人には暖かく接していただき、危険なことや大きなトラブルもなく旅を終えることができ感謝の気持ちで一杯である。公民館や学校に突然転がり込み、宿泊させてもらったり、差し入れをもらったり、一緒に宴会をしたり、今の時代では挙動不審者で通報され、警察に何度も問いただされるようなことになったに違いないと思っている。 47年前このようなワンデリングができたは、日本がそれだけ安全だったことの証しだと思う。現在は監視社会になっており、このような旅はほとんど不可能ではないか、本当の意味で安全な社会にはなっていないような気がする。 【記録のメモ帳】 【2010年(平成22年)TKからの年賀状】 新春のご挨拶申し上げます 年末年始44年振りで石垣島、竹富島をはじめ 17島を巡ってきました。 赤瓦の民家もほとんどがアルミサッシの戸に 変わりましたが、竹富島は島十が保存遺産と なっていました。 波照間島へ訪ね日本の最東西南端へ行ったこと になりました。 役職も全て離れ、3月もネパールへ石楠花を 観にいってきます。 平成22年1月 T.K.
2015.05.13
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3月13日(水) TKと別れて2日目。昨日は平野の公民館で一夜を明かす。午後8時頃にはシュラフにもぐり込み、暗いうちから、目が覚めていたが、なかなかおっくうになって起きられない。普通のワンゲルの合宿などでは気が張っているため、起きられるが、暗いうちはまだ寝ていてやれと外が明るくなるまで、シュラフの中で頑張っている。 6時45分頃、起き出し、朝食をとるが、余り食欲は進まない。7時過ぎにようやくスタートする。平野を去る途中、農家で水をポリタンに詰めさせてもらう。この時、農家の主人らしい人が、お茶を飲んでいくよう勧めてくれる。お茶一杯とつけものをご馳走になり、早々に立ち上がる。 東側は牧場で一応柵らしきものが張りめぐらしてあった。門を通り、牧場内に入る道は左右に分れていたが、左の道を進む。牛の糞があちこちに散らばっている。海岸に出てしばらく行く。また、牧場内に戻る。 牛に取り囲まれそうになることもしばしばだった。歩いて行くと牛が一斉にこちらを向き、いまにも襲い掛かってくるのではないかと思った。牛の目を見ないように、知らぬふりをしてふらふら歩く。 牧場内に入ったり、海岸線を歩いたりして明石に出る。明石から伊原間の途中で昨日、西表からの帰りが一緒になった一見高校生風の子と会う。しばらく話をする。 伊原間に着き、公民館の裏で昼食をとる。この時食べたリンゴは美味かった。伊原間を去る時、中学生に五百本ガジュマルの場所を聞き、見に行く。ガイドブックに書いてあるほど大したガジュマルではなかった。 伊原間から西海岸へ抜ける道をとる。とにかく、今日1日は歩けるだけ歩くことにする。道は狭く、舗装も全くしてないデコボコ道だった。現在歩いているところが、どこかわからないまま、ぼんやり歩く。時々、バスに追い越される。 道に佇んでいる老人二人に「ここはどこですか?」と尋ねる。「栄」だと答える。いつもの通り「どこから来たのか・・・・」と話す。なんでもパインは割が合わないとか。1キロ4セントやっとこ生活しているとか。でも肥料などを借金し、生活は楽にならないという。 いつの時代でも、どこでも農民は苦しんでいると・・・・。二人の農民にもう一人の農民が加わり四人になる。適当なところで切り上げて、再び歩き出す。 伊土名の少し前でヒルギ林を見たが、西表のデラックスなのを見ているので、全く小規模でおもしろくない。伊土那までは歩いたがここで遂にダウン。米原までバスに乗り、熱帯原生林を見ることにする。 熱帯原生林は山の中腹にルートがつけてあり、ジャングルを思わせる。ハブが出るんじゃないかと思う。原生林を抜けると展望台に出た。展望台でぼんやりしていると原生林の方から声がする。誰かなと思う。みると西表島で一緒だった○○女史。「コンニチハ」という。男性二人と一緒だった。 「一緒に石垣まで行きませんか?」と言われ、米原からバスに乗ろうと思っていたので、心の中でシメタと思う。○○女史を隣に快適なドライブ。チョコレートなどを出される。石垣のホステルに車は横づけになった。 二人はなんでも地元の有力者のようであり、一人は今日の7時から首席公選の西銘の選挙対策会議があるという。 夜はホステルの連中と琉球芝居を観に行く。話の筋は勧善懲悪で簡単であったが、話す言葉がほとんど解らなかった。芝居の途中に歌が入ったりしておもしろかった。観客はほとんどが老人と子供で若い人はあまりいなかった。 入場料は大人50セントであったが、学割、団体ということで30セントにまけてもらった。夜になってもTKは現れず、結局、与那国島から帰ることができなかったようだ。今度の約束の場所は明後日、那覇のユースホステル。
2015.05.13
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3月11日(月) 6時30分起床。TKと西表島へ行くつもりであったが、8時出港と聞いていた船がなかなか出ない。泊まっている船に一隻、一隻いつ出港か聞いてまわる。偶然、与那国島へ行く船があったので、TKはそれで与那国島へ行くという。自分は手持ちのドルも少ないし、行く勇気もなかったので西表島で我慢することにした。ここでTKと別れた。 西表島への船は午後2時30分の出港だという。後で西表島でわかったことだが、12時30分にも出ていた。西表島へは約2時間で着いた。まだ開拓途上で、切り拓かれていないジャングルで覆われていた。まだ島の西海岸と東海岸を結ぶ道路さえできていない、未開の島であった。 多くの大学の探検部あるいはホステラーが入っており、自分の乗った船でも多くの若い人が西表島へ向かった。一泊だけではおしいし、もっと西表島を見たいし、おもしろいジャングルの島で、もっと歩きたいと思い13日までいることにする。 夜は京大生、東北学院大生と一緒に食事をしたり話をしたりする。 3月12日(火) 明日まで西表島にいるつもりだったが、天候がおもわしくないし、14日出港の船に乗れないと困るので、西表島には未練があったが、石垣島に戻ることにした。 石垣島に着くとすぐ1日分の食料の買い出しを行い、石垣島の北端平野までくる。平野までは海岸線といい、木のない山といいおもしろいところが多い。 明日は平野から東海岸を明石まで歩き、それから西海岸をできるだけ歩こうと思う。
2015.05.12
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3月10日(日) 天気晴れ。もっと寝ていたかったが、6時45分に起きる。朝食を食べ、8時にホステルを出る。於茂登岳登山口へのバスは8時20分という情報に従って行動したのだが、ターミナルに着いてみるとそのバスは7時10分に出たという。 於茂登岳登山口に一番近くまで行く路線を聞き、登山口に最も近い停留所で降り、あとは歩くことにする。彼女たちとりわけC子は最もよく笑う。バスの中でも平気。実に明るい。「かやね」というところが最も近いという地元の人が言ったのを信用してバスを降り歩き始める。彼女たち、景色とか道端に咲く小さな花にまで心をむけ、「きれいね」とかそれらに適当な形容をつけていく。休憩の時、写真を撮る。 T子というメッチェンを先頭にして歩いて行ったが、ペースはかなり早かった。TKと自分はザックを持っていた。汗が出てびっしょりになる。体調不十分。メッチェンと一緒なので、できるかぎり笑顔をつくる。 於茂登岳には1時間20分位で着く。石垣島が見渡せるが雲が厚くぼんやりしていた。頂上では前に名護のホテル大阪で会った札幌の大学生に再会した。於茂登岳頂上の茂みの中で昼食。チーズあり、コンビーフあり、トマトあり、バターあり、はちみつあり、それにコーヒを沸かしデラックスな食事をとる。 山の反対側へ抜けるつもりだったが、ルートがわからないので、あきらめて元の道を引き返す。途中、「山の子の歌」「ねむの木」などを口ずさみながら途中2回ほど休み、1時間で下る。もとのバス停に戻るのはばかばかしいので、名蔵まで歩くかヒッチをし、とにかく川平公園に行くことになる。メッチェンが三人もいるとヒッチはやりやすい。これと思った車は大抵止まってくれる。2回のヒッチの乗継で川平公園に着いた。 途中、パイン畑のある農家でパインを1個わけてもらう。この役は会計と渉外のM子とT子が行く。道端でC子と一緒に見ているが、彼女たち農家の人と何かやっている。話が上手くいかないのかなと思っていると、暫くして、まだ青いパイナップルを一つ持ってきた。どうして遅かったのかと尋ねると、農家の人が彼女たちがパイナップルを欲しいと言ったにもかかわらず、にわとりと勘違いしていたらしいということだった。ここで一同大笑いをする。 農家の庭先でこのパイナップルを食べていると、農家の奥さんがほとんどうちの畑のパイナップルはとってしまったが、まだ残っているはずだから採って、食べてもいいと言うので、C子がTKのナタを持って採りに行く。戻ってくると三つも手にしていた。 三つのうち一つを食べ、二つは自分のキスリングに入れた。川平公園は湾に島が浮かび非常に美しいところであった。約1時間ぼんやりして、そこでパイナップルをもう一つ食べた。 夜はユースに泊まるのを止め、その辺で寝ることにした。6時過ぎのバスに乗るつもりだったがバスは出た後だった。しかたがないので歩き始め、ヒッチをすることにする。うまく車がつかまりなんなく石垣についた。 彼女たちと一緒に食事をするはずだったが、日曜日でどこの店も休みなので、彼女たちをユースに追い返し、TKとそばと水を駆け込んだ。 店のおばさんが「今日はどこに泊まるのかと」尋ねたので「その辺で」と言ったら、「店の端っこで寝てゆけ」という。ただし店は12時に閉めるからそれまでフラフラしてくることにする。 食事に出かける時、八洲にザックを置いておいたので、取りに行く。彼女たちに寝る場所の決まったことを報告。ただし、12時まで石垣市内をフラフラしなければならないこと。そして、残りのパイナップルを貰ってしまっていいかと聞く。 TKが昼から飲みたい、飲みたいと言っていたので、彼女たちに飲みに行かないかと尋ね、結局皆で飲みに行くことになる。「ゴールデンキィー」という音楽喫茶に入る。カウンターで飲んだがTKは2、3杯を立て続けに飲む。自分は酒に弱いので、コークハイ一杯で終わり。 T子嬢とクラブや彼女の教育学の論文についてのことをペラペラ話す。10時30分頃引き上げた。彼女たちを八洲に送っていく。
2015.05.11
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3月9日(土) 朝起きると朝食だった。午前7時、宮古島の平良港に着いたが、桟橋に横づけになるまでに1時間位かかった。昨日のメッチェンに挨拶する。11時出港、3時間近くあったので、平良市内をぶらつく。昨日のメッチェンは三人連れだった。 船に戻り出港を待つ。出港するとすぐ、昼食のキジ飯が出される。昼食を食べ、タバコをふかしぼんやりしている。昨日のメッチェンともう一人が甲板に出るのがわかった。どうしようかと思ったが、結局、甲板に出て話を始めるきっかけを待つことにする。 ところが、だんだん気分が悪くなり、格好が悪かったので、隠れて遠くの海を見ている。がまんしきれなくなり、さっき駆け込んだキジ飯を海に吐いてしまった。黄色いヘドが船腹にはり付いていた。吐いた後はすっきりした。しばらくはぼんやりしている。 なにげなく後甲板へ引き返すと昨日のメッチェンが青いキルティングを着て一人で腰をかけていた。「やあ」と言って話し始める。最初は昨晩の船の揺れのこと。次に学生らしいとお互いにわかったので、学校のことそして将来?のこと。 授業料値上げの闘いがどうのこうのというので「東女ですか」と聞いたら「早大」だと答えた。羽田や佐世保の話が出て、連れがあと二人いることを直接聞く。彼女は今年の四月から小学校の先生になるのだということ、他の二人はまだ就職が決まらないという。 我々4人のところに船員が来て、あれこれ船員がマドロス調に話すのを承る。歌謡曲の歌詞を言っているみたいで面白くなかった。風が出てきて来て寒くなったのでこのままではたまらないなと思っていると青いキルティングのメッチェンが下でトランプをやらないと言った。 よしやろうということになり、4人で下に行き、石垣港に着くまでやる。罰ゲームは勝ったら重ねた手のひらを叩くことができるというもので、おもしろかった。青いキルティングのメッチェンがよくついていた。黒いスラックスのメッチェンと青いキルティングのメッチェンの話を聞いていると名前を呼ぶときM子とかC子とか言い合っている。 19時頃に石垣港に着く。ユースホステルはまだ決めていなかった。ホステルは二つあったが、彼女たちと同じ八洲にする。八洲のおかみさんに一部屋に押し込められる。風呂へ入ろうと思ったが、風呂はない。銭湯へ行ってくれという。宿代の1ドル90セント払って、銭湯へ少し面白くなかったが、しかたがないので銭湯に行く。(銭湯代24セント) 風呂から帰りすぐ夕食を食べる。うどんがおまけみたいについていたが、あまり美味くなかった。TKはばかみたいに駆け込む。 明日は彼女たちを連れて沖縄最高峰の於茂登岳(526m)に登ることになる。
2015.05.10
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3月8日(金) 久高の美しい島の公民館で一泊すごし、おばさんたちに聞くと、船は9時30分頃の出港というので、島内をぶらぶらし、貝殻を集め時間を潰す。久高島にはもう一泊したかった。久高から馬天へ行く船の中で大島の青年と羽田や沖縄のことについて話す。本を一冊持ったもの静かな青年であった。 馬天に着くころから雨が降り出した。バスで那覇に戻り、石垣島への船に乗るため、泊港ターミナルで時間を潰す。 ・バス代(馬天ー那覇) 13セント ・パン 15セント ・牛乳 14セント ・フィルム 1ドル30セント ・コーヒ 10セント ・パン 10セント 【父親へのハガキ】 『今日は昨日の好天とはうってかわり、朝からにわか雨が降り涼しいくらいです。 夕方石垣島へ渡り、14日頃再び那覇に戻る予定です。 そして16日の正午出港の関西汽船「浮島丸」で18日夕方神戸に着くはずです。 18日に帰名するつもりですが、1日位延びるかもしれません。 なにしろドルが少ないものですから、おみやげは余り期待しないよう家族の皆に 伝えておいてください。』 泊港には10時過ぎに着いたので、船の出港の4時までにはかなりある。上空は雲が低くたれこめ、時々雨さえ降る天気模様なので、船は出港するかどうか、出港しても揺れて大変なのではないかということが気にかかる。 喫茶店、ターミナルで買い食いしたり、タバコをふかしたりして、暇をもてあます。雨のせいもあるが、肌寒いぐらいでこれが沖縄かと疑いたくなるような天気。だいたい2~3日周期で天気が崩れるようである。 鹿児島大学の探検部、東北学院の連中に会う。今までどこかのユースかあるいはどこか歩いている時など思わぬところで会い、互いに旅の様子を交換しあう。今度のワンデリングで多くの人々に会い、つまらないことも高尚?なことも話あい、一時的かはもしれないが、友だちになった。 4時過ぎ白波が上がっている海に船は乗り出した。思っていたように防波堤を出ると船は揺れ始めた。シュラフをザックから出し、もぐりこもうとするが、人いきれと重油の匂いでとても眠れそうもないので、甲板に出て徹夜の覚悟をした。 だんだん離れゆく本島を見ながら左右に揺れる船に調子を合わせる。胸がムカムカしてくるが、とにかく我慢する。 一人のメッチェンがふらふらと出てきた。「揺れますね」という話がきっかけで、例のごとくどこから来たのだとか、どこへ行くのだとかを話す。目がクリクリとして、今年短大を卒業するメッチェンだと思った。調子に乗って話す。なんでも東京の人らしい。名古屋のこともよく知っている。船ではよくメッチェンと知合いになれるらしい。船員が夕食だというので折角興に乗りはじめたのに中途でチョン、残念だった。「じゃ又」と言って船室に戻ると夕食は終わりかけ、腹が減って食べたかったが、遂に食いはぐれてしまった。 しかたがないので、鹿児島大生がくれたビスケットを6~7枚ポッケトに突っ込み、甲板へ再び駆け上がった。さっきのメッチェンがまた来るんじゃないかと期待しながら待つ。口にのぼる歌を次から次へと歌う。去年舳倉島から輪島へ帰る途中したように。 かなりの時間が経ってから、思い通りさっきのメッチェンがコップを片手にふらついた足取りで来る。「どうしたの」と聞くと、仲間の一人が気分が悪くなって水が飲みたいというのであった。「水どこにある」と聞いたので「僕のザックのポリタンにある」と言ったら、「ああ、トイレにあるわね」と言ってトイレの中に入って行った。コップに水を満たし、船室に入って行く時、「この水汚くないかしら」と言った。 その後、8時頃までサロンのテレビをデッキの窓越しに見ながら酔わないようにするのに必死だった。昨年の苦い経験から、寝ない方が絶対にいいという確信があった。 12時頃、船員が来て「船室に入らないのですか」と尋ねたので、「危ないですか」と言って船室に戻った。船室の息苦しさと油臭さには閉口したが、しかたがないので、睡眠薬を2錠飲んでシュラフの中にもぐり込む。 うとうとすると船が左右に揺れ、とくに進行方向に対して左舷の揺れが激しいのでみんな左側によってしまい、人も荷物もすべての秩序を乱し、這い回っている。左の人が圧迫され押し返し、再び左側へ押されるという繰り返しを何度も行い、その度に眠りから覚めた。
2015.05.01
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3月7日(木) 摩文仁の公民館に6日の夜、青年が7,8人やってきて、この場を使い酒宴が始まった。自分は飲めないので、もっぱら進められた酒はTKの方にまわす。泡盛という沖縄独特の酒でかなり強いため、全く口にすることができなかった。泡盛をコーラで割って飲むのであるが、彼らは驚くほどよく飲む。 久し振りに本土から帰った人とか名護や那覇に働きに出ていて、帰って来た人が、小さい頃から一緒に育った人たちと本当に楽しそうに酒を酌み交わしていた。 彼ら同士が話す時は方言なので、我々には全く何を話しているのか見当もつかなかった。川崎から1ヵ月ほど前に帰った人を通訳として話をしているようであった。 入れ替わり、立ち代わり摩文仁の青年たちがやって来て、やって来る人が全て一番年下と思われる人に酒を買いにやらせるので、いつまでも尽きることがなかった。年を聞くと、16才から22才、ほとんどが未成年であったが、よく飲むことこの上なかった。 一番上の人が言っていたのだが、沖縄にとって基地はもうどうしようもないものだということを言っていたのが妙に頭に残っている。彼らの若いエネルギーが沖縄という小さな島に締め付けられ、どうにも発散できないという状態であった。 午前2時頃まで歌を歌ったり、ギターをかきならして騒いでいたが、自分はいつのまにやら眠っており、目が覚めると9時に近かった。お茶漬けをかけこんでいると、幼稚園の生徒が先生に連れられやってきた。しまったと思ったが遅かった。急いでパックし、出ようした時は10時近かった。何でも幼稚園は7時からだという。 本当にすまないことをしたと思った。先生にお詫びを言い歩きだした。 摩文仁から馬天までは強い日差しの中を歩いたり、ヒッチをしたりして、午後2時頃に着いた。久高島へは余り行く気がしなかったが、小さな船で久高島へ向かう。海は底が見えるほど澄んでいた。
2015.05.01
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