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posted by fanblog

2015年11月07日

他人(ひと)に何かを言われると気になる理由。



「他人が何と言おうと関係ない」

というような言葉を聞くことがあります。

でも私のような臆病な人間は、なかなかそうは行かないのが実情だと思います。

実際には、他人の何気ない一言に深く傷ついたり、自分の意見と反対の事を言われると嫌な思いをしたり、ということが多いのではないかと思います。
それを当たり前の事だと思っていました。

ところがある日、ふと、疑問に思ったのです。

「他人に何かを言われても物理的に何かが変わる訳ではないのに、なぜ自分の中に負の感情が生まれるのだろう?」

不思議に思いました。
嫌な感情は、他人から直接自分自身の感情に打ち込まれる訳ではありません。
届けられるのは言葉だけです。それを受け取った自分自身の中で、嫌な感情が生まれてくる。

そうすると、嫌な感情を作り出しているのは自分自身という事になります。
どうしてわざわざ、嫌な感情を作る必要があるのでしょうか?

一つは、やはり人間が社会性を本能的に持つ動物であるからだろうということです。
他人の評価=属する社会からの評価であり、群れで行動しようとする動物であれば、必然的に社会からの離脱は死を招く行為でありますから、それを何とか補正しようとすることはまた本能の活動として納得できる話です。
あるいは、自分の評価を社会から貶めようとする第三者を排除するという行動を引き起こすための引き金として負の感情を引き起こす、という原理かもしれません。これも何となく理解できる話です。

ですが、自分の感情をよく観察してみると、どうもこれだけでは説明できない気がしました。
何か他の大きな原因があるのではないだろうか・・・

その時ふと、一つの考えが浮かびました。

それは、「世の中には一つの正しいことがある」という無意識な思い込みが原因ではないか?という考えです。
そのきっかけは、「他人が自信たっぷりに正しそうなことを言っていた時、自分自身に大きな引け目を感じていた」という心理的事象が自分の中で観察された事です。
これは自分自信が否定された訳ではなく、勿論誹謗中傷を受けた訳でもありません。
でも不思議と自分の感情の中では、何か自分が否定された時と同じような機能が働き、負の感情を生み出していると思える訳です。
それはなぜだろう・・・と考えたときに思いついた理由は、

「世の中には一つの正しいことがある」 という思い込みにより、
「他人が正しい=自分が間違っている」ことの二元論で世界を捉えているからということでした。

どういうことかというと、

目の前の人間と自分と、どちらかが正しい。
どうも目の前の人間が言っていることが正しそうだ。だとすると自分は間違っている。
自分は劣っている・・・

という論法で物事を捉えていたということです。

これを踏まえてこれまでの事を思い返してみると、多くの場面でこの論法が働いていたと思い当たることがかなり多くありました。

正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。

そういうように物事を捉えるのは間違いではないのかもしれません。
正解を求めるのは誰しもが抱える根源的な欲求なのでしょう。特に科学の世界においては、世界の真理を探し当てる、解き明かすということに全ての力を注ぐ訳ですから、それは顕著に表れてくることだと思います。
かつて、私もその科学の門の前に立っていた者の一人ですから、それは実感として分かります。
しかしその考えを、無意識のうちに拡張し、この「人間社会」に当てはめてしまっていたのではないかと思うのです。

正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。きっとそれはあるはすだ。
誰か、「正しいこと」を全て教えて欲しい・・・絶対に正しい事を・・・

こう考えたとき、どんな人間であっても、「正しい」という絶対の前に裁かれる存在でしかなくなります。
突き詰めていくと、全ての人間の存在の根本が「正しい」という事象の中に存在することになり、人間全ての存在価値が消えてしまう。
だとすると、そんな状況の中で、誰が一体自分に自信を持ち、誇りを持ち、大事に思うことが出来るのでしょうか。
出来るはずがありません。
(ひょっとすると、この思い込みこそが、自分自身からあらゆる「自信」を奪っていた原因なのかもしれません)

億を超える人間が存在する中、万人が理解しえる「正しいこと」などこの社会には存在しないというのが今の考えです。
社会とは所詮人間が形作るもの。
物理法則が支配する科学の世界とは根本的に異なるもの。
たとえ大多数の人間が「正しい」と考えたとしても、たった一人の人間が「間違っている」と考えた時点で、その「正しいこと」は絶対ではなく、ただの相対になってしまうのです。

つまり”人間社会において”、「正しい」ということはあくまで相対的なものでしかなく、絶対的なものではないということです。
人間それぞれが、「正しいと思っている」事があるのに過ぎません。
だから例え誰が何を言おうと、それはその人間が正しいと思っていることに過ぎず、その意見をまるで世界の意思の表明であるかのように真正面から受け止め、自分の考えとどちらが正しいのかを考えつくす必要はないのです。

一言で言うと、
「誰が何を言おうがいちいち気にしない」
という事です。
勿論参考にするのは大事だと思いますけれど。

副次的に、自分が何かを言おうとする時に「本当にそれは正しいことなのか?100%の保証はあるのか?」と付き纏うサイドブレーキのような感覚も、消失することになると思います。

以上が、私が考える「他人(ひと)に何かを言われると気になる理由」であり、それを気にする必要はないという理由です。
ここまで書いて、自分の中で浮かび上がってきたのは、またしても漫画「天」の赤木の一言。

「さあ、漕ぎ出そう・・・いわゆる『まとも』から放たれた人生に・・・・・・」

※関連して、少し前に書いた記事です。
ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について
posted by 霧島もとみ at 2015年11月07日 | Comment(0) | TrackBack(0) | メンタルヘルス
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他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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