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2018年08月17日
再現性がないことって何だろう?
プロ奢ラレヤーのヴォイシーを聴いた。
その中で 「再現性がないことをやれないといけない」ということがすごく響いた。
「再現性のあるものに、自分しかできない再現性のないものを乗っけないといけない。」
という言葉が、ボディブローのように僕の内蔵にめり込んできた。
僕が書いているブログについて振り返ってみると次のとおりだ。
・ブログ・・・再現性ある。誰でもできる。
・自分しかできない再現性のないもの・・・一体何だろう。
プロ奢ラレヤーは
「それがないと、やってけない。」
って言ってる。
自分が出来ること、出来ないことをよく分かっている人だ。
能力と、自分の人間性をよく分かっている人だ。
それを見つけられた人だ。
自分はどうなんだろうか。
2018年06月03日
新しいページの作成
ファンブログでほそぼそと記事を書いてきましたが、ワードプレスを使って新しいページを作ってみることにしました。
新しい一歩です。
始めたばかりですが結構面白い。
新しい一歩です。
始めたばかりですが結構面白い。
2018年04月15日
今治のちょっとレトロなランチ!「喫茶モードリン」
今日はちょっとローカルな話をお届けします。
先日、今治市の 喫茶モードリンという老舗喫茶店でランチしました。
今治市といえば 焼豚玉子飯 が有名ですが、それとは違うものを食べてみたい・・・ということで探したのがこのお店。
レトロな雰囲気満点の店内で食べたランチは、今治の隠れたソウルフード!と言える素敵なものでしたので簡単に紹介します。
今治市役所から少し北に行った、海から近いところ。
今治新都心のイオンからは車で5分〜10分くらい。
商店街近くの静かな路地の2階にあります。
外観
入口のメニューなど
道路を挟んで斜め前の100円パーキング「渦潮」への駐車がおすすめです。
嬉しいことに食事をすると駐車券(1人で30分、2人以上で60分)が貰えます。
専用駐車場も一応ありますがちょっと分かりにくいのと台数が少ないので、100円パーキングが良いですね。
レトロで落ち着いた店内で居心地良かったと感じました。
座席は少し狭めですが、テーブル席は4人で普通に座れます。
座席数はそれほど多くはないですが、少なくもないといったくらいでしょうか。
良かった!
日替わりランチが700円。
ハンバーグ&目玉焼き&エビフライにライスと味噌汁が付き、コーヒーもセットです。
100円追加でオレンジジュースやミックスジュースに変更出来ます。
このオレンジジュースやミックスジュース、絞ったのかミキサーにかけたのかは分かりませんが、とても新鮮。粒感が一杯でとても美味しくて驚きました。しかもグラスがでかい…。
ハンバーグ&目玉焼き&エビフライは素朴な風味ながらしっかり味で美味しい。ボリュームは十分。エビフライはかなり立派で身がしっかりしていて、食べごたえありです。
違う角度から。目玉焼きをちょっと破ってしまいました・・・。
これで700円はちょっと信じられません。
別のお客さんが頼んでいたチーズハンバーグが気になる…チーズの盛りっぷりが凄かったです。
また行きたいです。
【喫茶モードリン】
今治市米屋町1−2−14
先日、今治市の 喫茶モードリンという老舗喫茶店でランチしました。
今治市といえば 焼豚玉子飯 が有名ですが、それとは違うものを食べてみたい・・・ということで探したのがこのお店。
レトロな雰囲気満点の店内で食べたランチは、今治の隠れたソウルフード!と言える素敵なものでしたので簡単に紹介します。
場所は?
今治市役所から少し北に行った、海から近いところ。
今治新都心のイオンからは車で5分〜10分くらい。
商店街近くの静かな路地の2階にあります。
外観
入口のメニューなど
駐車場は?
道路を挟んで斜め前の100円パーキング「渦潮」への駐車がおすすめです。
嬉しいことに食事をすると駐車券(1人で30分、2人以上で60分)が貰えます。
専用駐車場も一応ありますがちょっと分かりにくいのと台数が少ないので、100円パーキングが良いですね。
雰囲気は?
レトロで落ち着いた店内で居心地良かったと感じました。
座席は少し狭めですが、テーブル席は4人で普通に座れます。
座席数はそれほど多くはないですが、少なくもないといったくらいでしょうか。
料理は?
良かった!
日替わりランチが700円。
ハンバーグ&目玉焼き&エビフライにライスと味噌汁が付き、コーヒーもセットです。
100円追加でオレンジジュースやミックスジュースに変更出来ます。
このオレンジジュースやミックスジュース、絞ったのかミキサーにかけたのかは分かりませんが、とても新鮮。粒感が一杯でとても美味しくて驚きました。しかもグラスがでかい…。
ハンバーグ&目玉焼き&エビフライは素朴な風味ながらしっかり味で美味しい。ボリュームは十分。エビフライはかなり立派で身がしっかりしていて、食べごたえありです。
違う角度から。目玉焼きをちょっと破ってしまいました・・・。
これで700円はちょっと信じられません。
別のお客さんが頼んでいたチーズハンバーグが気になる…チーズの盛りっぷりが凄かったです。
また行きたいです。
【喫茶モードリン】
今治市米屋町1−2−14
2018年01月15日
信用って何だろう?
西野亮廣さんが「革命のファンファーレ」で「これからは個人の信用が価値を持つ時代だ」ということを書いていました。
堀江貴文さんも「信用こそが大事だ」と以前の著書から一貫して書かれていますし、最近では佐藤航陽さんが「お金2.0」で信用経済を提唱されています。
最初はその意味が良く理解できませんでしたが、その考え方が腑に落ちてきたという感覚を今は持っています。これは「お金2.0」を読んだ時の衝撃と揺さぶりで、それまで自分の中にパーツとして蓄積されていた何かが、急激に形を成したんだろうなと思っています。
信用とは、つまり、自分という個人に対する信用の事です。
信用を与えるのは誰かというと、それは勿論「他人」です。他人が個人に対して「この人なら何かやってくれそうだ」「これまでこういうことをやってきたから、今度も大丈夫だろう」という考えを持ち、その個人に対して信頼や確信を持つということが「信用する」ということです。
大辞林で「信用」を引くと次のような説明が書かれています。
おおむね外れていなさそうです。
よかった。
その信用は誰がするのか?というと、既に書きましたが「他人」です。
そう、他人に信頼されることがここでいう「信用」を持つことです。
では「個人」が他人に信頼されるためにはどうすればいいのか?その事がこれからの自分の生き方のキーワードになるような気が急にしたので、今このブログを書いています。
ブログを書くことは、自分の中では匿名的な行為として位置づけていました。
だからブログで記事を書いていることは実生活上の知り合いには話していません。現実の私という個人とは切り離し、ネット上の誰でもない存在として記事を書いているのが今のこの人格です。
なぜ実生活上の知り合いに話さないの?というと、それは単純な話で、「自分の考えをその人達に見せたくない」と考えていたからです。実生活の人たちとは必要最低限の表面的な付き合いを行い、自分が頭の中で考えている事や、「これは面白い」と考えていることは密かにネットで叫び、「俺はネットでこんなことを書いているんだ」という小さな承認欲求を満たそうとしていたのです。
でも、それって一体何になるんだろうということをいつも考えていました。
・時間や労力を割くほどの価値があるんだろうか?
・文章力の練習になっているのだろうか?
・自分の「コンパス」が指す方向と一致しているのだろうか?
そこにこの「信用」という感覚が飛び込んできた時に、何かがスパークしたような、啓示のようなものを受けたような不思議な感覚があったのです。
今やっている行いは、「信用」に繋がるものでは無いよと。
先程書きましたが、私は実生活の人格とネット上の人格とを切り離しています。
それはつまり「自分自身が実際に考えていることでは実生活の人間と繋がらない」と宣言をしているということです。自分という個人は実際には見せずに表面上の付き合いをする、言い換えれば、「他人と繋がらない」生き方を選択しているということなんです。
この状態で「信用が欲しい」と言うのはものすごく大きな矛盾を抱えています。
なぜなら他人は、自分の何の繋がりを感じない存在を信用するなんてことは無いはずだからです。
ではどうしたら「信用」は得られるのか?
これはTwitterでいわゆる「信用力」の高そうな人をフォローするとすぐに分かります。
自分を出していくんです。どんどん。
「自分」という個人を「他人」にどんどん見せていくことで、他人のセンサーに引っかかっていく。そして行動する。言葉と行動の発信が他人の琴線に共鳴すれば、その他人の中に「信用」が生まれる。
これがきっと「信用」の構造なんだろうと閃きました。
ということは、そもそも「自分という個人」を発信していかなければ「信用」なんていつまでたっても得られない。貯金できないってことなんじゃないか?何か自分は他人の評判を恐れるあまり大事なものを見過ごしてきたんじゃないか?
そう考えた時、時代に取り残されてしまったような痛烈な焦りを感じ、寒気すら覚えました。
おそらく最初に名前を挙げさせていただいた方たちが言うように、これからは「信用」が力を持ってくる時代がやってくると思います。
そうなってからではきっと遅い。
信用を得るということは「他人とつながること」から始まる。
それをこれからは念頭に置き、自分の行動を変えていきたいと思いました。
そのことを覚えておくためにこのブログに書きます。
堀江貴文さんも「信用こそが大事だ」と以前の著書から一貫して書かれていますし、最近では佐藤航陽さんが「お金2.0」で信用経済を提唱されています。
最初はその意味が良く理解できませんでしたが、その考え方が腑に落ちてきたという感覚を今は持っています。これは「お金2.0」を読んだ時の衝撃と揺さぶりで、それまで自分の中にパーツとして蓄積されていた何かが、急激に形を成したんだろうなと思っています。
信用とは?
信用とは、つまり、自分という個人に対する信用の事です。
信用を与えるのは誰かというと、それは勿論「他人」です。他人が個人に対して「この人なら何かやってくれそうだ」「これまでこういうことをやってきたから、今度も大丈夫だろう」という考えを持ち、その個人に対して信頼や確信を持つということが「信用する」ということです。
大辞林で「信用」を引くと次のような説明が書かれています。
間違いないとして受け入れられる、人や物事のもつ価値や評判。
おおむね外れていなさそうです。
よかった。
その信用は誰がするのか?というと、既に書きましたが「他人」です。
そう、他人に信頼されることがここでいう「信用」を持つことです。
では「個人」が他人に信頼されるためにはどうすればいいのか?その事がこれからの自分の生き方のキーワードになるような気が急にしたので、今このブログを書いています。
ブログを書くことは、自分の中では匿名的な行為として位置づけていました。
だからブログで記事を書いていることは実生活上の知り合いには話していません。現実の私という個人とは切り離し、ネット上の誰でもない存在として記事を書いているのが今のこの人格です。
なぜ実生活上の知り合いに話さないの?というと、それは単純な話で、「自分の考えをその人達に見せたくない」と考えていたからです。実生活の人たちとは必要最低限の表面的な付き合いを行い、自分が頭の中で考えている事や、「これは面白い」と考えていることは密かにネットで叫び、「俺はネットでこんなことを書いているんだ」という小さな承認欲求を満たそうとしていたのです。
でも、それって一体何になるんだろうということをいつも考えていました。
・時間や労力を割くほどの価値があるんだろうか?
・文章力の練習になっているのだろうか?
・自分の「コンパス」が指す方向と一致しているのだろうか?
そこにこの「信用」という感覚が飛び込んできた時に、何かがスパークしたような、啓示のようなものを受けたような不思議な感覚があったのです。
今やっている行いは、「信用」に繋がるものでは無いよと。
信用を得るということは「他人とつながること」
先程書きましたが、私は実生活の人格とネット上の人格とを切り離しています。
それはつまり「自分自身が実際に考えていることでは実生活の人間と繋がらない」と宣言をしているということです。自分という個人は実際には見せずに表面上の付き合いをする、言い換えれば、「他人と繋がらない」生き方を選択しているということなんです。
この状態で「信用が欲しい」と言うのはものすごく大きな矛盾を抱えています。
なぜなら他人は、自分の何の繋がりを感じない存在を信用するなんてことは無いはずだからです。
ではどうしたら「信用」は得られるのか?
これはTwitterでいわゆる「信用力」の高そうな人をフォローするとすぐに分かります。
自分を出していくんです。どんどん。
「自分」という個人を「他人」にどんどん見せていくことで、他人のセンサーに引っかかっていく。そして行動する。言葉と行動の発信が他人の琴線に共鳴すれば、その他人の中に「信用」が生まれる。
これがきっと「信用」の構造なんだろうと閃きました。
ということは、そもそも「自分という個人」を発信していかなければ「信用」なんていつまでたっても得られない。貯金できないってことなんじゃないか?何か自分は他人の評判を恐れるあまり大事なものを見過ごしてきたんじゃないか?
そう考えた時、時代に取り残されてしまったような痛烈な焦りを感じ、寒気すら覚えました。
おそらく最初に名前を挙げさせていただいた方たちが言うように、これからは「信用」が力を持ってくる時代がやってくると思います。
そうなってからではきっと遅い。
信用を得るということは「他人とつながること」から始まる。
それをこれからは念頭に置き、自分の行動を変えていきたいと思いました。
そのことを覚えておくためにこのブログに書きます。
2017年10月14日
アンパンマンのセリフは、最後まで言わない。なぜだろう。
テレビのアンパンマンのセリフは、最後まで言わないのが多いことに気がつきました。
バイキンマンがー、とか、
大変なことがー、とか
述語が略されていることが多いです。
何かとカッコ(◯◯◯)を付けないと話が通じないんですね。
僕はその表現は美しくないと感じました。
嫌だなあと。
でも理由があるはずだということでちょっと考えてみました。
想像がついたのは、
「尺」ルールではないだろうか?
ということです。
アンパンマンの一話はとても短いです。
丁寧な言葉を並べているとストーリーが途中で終わってしまう。
だから短く短く切っている。
そう考えると説得力があるように思えました。
見方を改めると、途中で言葉を切る表現も「尺に収めようと頑張っているんだなあ」と感じ方が変わりました。
面白いものです。
バイキンマンがー、とか、
大変なことがー、とか
述語が略されていることが多いです。
何かとカッコ(◯◯◯)を付けないと話が通じないんですね。
僕はその表現は美しくないと感じました。
嫌だなあと。
でも理由があるはずだということでちょっと考えてみました。
想像がついたのは、
「尺」ルールではないだろうか?
ということです。
アンパンマンの一話はとても短いです。
丁寧な言葉を並べているとストーリーが途中で終わってしまう。
だから短く短く切っている。
そう考えると説得力があるように思えました。
見方を改めると、途中で言葉を切る表現も「尺に収めようと頑張っているんだなあ」と感じ方が変わりました。
面白いものです。
2017年08月13日
iPodは使用できません・・・!?
2017年06月11日
テレビが「一人で見るもの」から「その他大勢と一緒に見るもの」へと変わったと感じた瞬間
テレビで 「炎の体育会TV(TBS)」
を見ていた時のこと、 マスクドマン
という企画がありました。
スポーツに取り組む中学生と、子どもたちが憧れる選手(元プロ?)とが真剣勝負をする企画です。
今回の競技は野球。
全国大会クラスで活躍する中学生達の前に、マスクで顔を隠したガタイのいい選手が現れました。何でも、引退したプロ野球選手との事。
誰なんだろう?と興味が自然と湧きます。
しかし、いかんせんプロ野球には全然興味がないため、番組でヒントが幾つか出されますが全然ピンと来ません。
そんな時、ふと思い付きました。
同じように番組を見て、「こいつは誰だろう」「きっと誰それだ」と考えている人が多いに違いないと思い、Twitterで「マスクドマン」と検索してみました。
するとまあ一杯出てきます。
「元木だろ」
「元木じゃん」
「元木w」
Twitterの人たちの間では、もう「マスクドマンの正体は元巨人の元木」という結論が出ている感じでした。見る人が見れば簡単に分かるものなんですね。
なるほどなあ、と感心すると同時に「これは今までにない体感かもしれない」と考えました。
今までテレビを見るというのは、こんな感じだったと思います。
・同じテレビの前で見ている人間で楽しさを共有する
・翌日以降、同じテレビを見ていた人間と感想を共有する
この時に感じたことは、次のような感じでした。
・同じテレビの前で見ている人間で楽しさを共有する
・同じようにテレビを見ていて、
そう、「自分以外の大勢と一緒に楽しんでいる」という、スタジアムや、映画館にも似た感覚でした。
これは一人でテレビを見るよりも何だか楽しい気がします。
しかもスマホで簡単に体験できる。
テレビが「一人で見るもの」から「その他大勢と一緒に見るもの」へと変わったんだなあ、としみじみと感じた瞬間でした。
良くも悪くもネットの向こうには大勢の人間が存在していて、その気配を感じることができるんだなあ、と実感しました。
スポーツに取り組む中学生と、子どもたちが憧れる選手(元プロ?)とが真剣勝負をする企画です。
今回の競技は野球。
全国大会クラスで活躍する中学生達の前に、マスクで顔を隠したガタイのいい選手が現れました。何でも、引退したプロ野球選手との事。
誰なんだろう?と興味が自然と湧きます。
しかし、いかんせんプロ野球には全然興味がないため、番組でヒントが幾つか出されますが全然ピンと来ません。
Twitterで検索してみたら・・・
そんな時、ふと思い付きました。
同じように番組を見て、「こいつは誰だろう」「きっと誰それだ」と考えている人が多いに違いないと思い、Twitterで「マスクドマン」と検索してみました。
するとまあ一杯出てきます。
「元木だろ」
「元木じゃん」
「元木w」
Twitterの人たちの間では、もう「マスクドマンの正体は元巨人の元木」という結論が出ている感じでした。見る人が見れば簡単に分かるものなんですね。
なるほどなあ、と感心すると同時に「これは今までにない体感かもしれない」と考えました。
インターネットがもたらす「皆で見る体験」という新しい体感
今までテレビを見るというのは、こんな感じだったと思います。
・同じテレビの前で見ている人間で楽しさを共有する
・翌日以降、同じテレビを見ていた人間と感想を共有する
この時に感じたことは、次のような感じでした。
・同じテレビの前で見ている人間で楽しさを共有する
・同じようにテレビを見ていて、
そう、「自分以外の大勢と一緒に楽しんでいる」という、スタジアムや、映画館にも似た感覚でした。
これは一人でテレビを見るよりも何だか楽しい気がします。
しかもスマホで簡単に体験できる。
テレビが「一人で見るもの」から「その他大勢と一緒に見るもの」へと変わったんだなあ、としみじみと感じた瞬間でした。
良くも悪くもネットの向こうには大勢の人間が存在していて、その気配を感じることができるんだなあ、と実感しました。
2017年04月08日
本気で人と付き合っているのか?と問いかけてくるAbemaTV「徹の部屋」が面白い!!
半年ほど前に 「たった一人の熱狂」
という本と出会いました。
アニマル浜口のような、いかつい年配の男性が怒鳴りつけるというインパクトのある表紙に「何だこのオッサンは?」「何を怒鳴っているんだ?」と引きつけられたのをはっきりと覚えていますが、そのオッサン、もとい、本の著者が幻冬舎の代表取締役社長である 見城徹 さんでした。
この本は内容もインパクトの大きな本でした。表紙から受けたものよりもはるかに。
そのインパクトの大きさゆえに、まだ記事は書けていません。何故かは分かりませんが、自分の中で「この本のポイントはこの3点くらいで、今の自分にとってはこういう印象だった」と簡単に言葉にしてしまうことに躊躇いを感じていることがあると思います。
見城さんの本、それから見城さんと付き合いのある藤田晋さんや堀江貴文さんの本(元々堀江さんの本は好きで読んでいました)などを何冊か読みましたが、それでもまだ整理しきれず、書ける気がしません。
確実に言えるのは、「自分自身の世界が広がった」ということです。
物の見方や考え方もそうですが、一番印象を強く受けたのは「人との付き合い方」というエッセンスでした。見城さんの本を読んだ後では、自分自身の人との付き合い方は、とにかく浅いとしか言いようのないものにしか感じられませんでした。
とまあ話が長くなりそうなので、一旦戻します。
そう、 AbemaTVが面白い んですよ。
アプリをダウンロードするだけで、スマホやタブレットで簡単に番組が見られることにまず驚くのですが、そのチャンネルの豊富さや、地上波とは異なる「異質さ」にもう一段の驚きを感じました。
その中で出会った 「徹の部屋」 という番組。
「見城徹が今、一番会いたいゲストを招き、内蔵と内臓をこすり合わせる様な熱狂トークを披露する」というキャッチフレーズの番組です。
これがとにかく面白い。
普段の地上波で見ているタレントさんの印象ががらっと変わります。普段のテレビは「テレビの向こうの世界」として見れるものなんですが、この番組は、「僕達の世界の延長線上にいる、この人達が作る現実の世界」を見せてくるんです。
それもすごく 生々しく。
その中で平成29年2月26日に放送された「徹の部屋#10」が、芯に響いてくる強烈なボディーブローを打って来ました。
この回のゲストはネクシーズ社長の 近藤太香巳 さんと、 郷ひろみ さんでした。
司会の見城徹さんと付き合いの長い3人でどんなトークが繰り広げられるのか・・・と期待していましたが、期待と予想を遥かに上回るものでした。
というのは、僕は「エピソード」に期待していたんですよね。
ところが僕は、それとは全く違う、3人が醸し出す「人間関係の深さ」にノックアウトされてしまったんです。
それが何かと言うと、表情や言葉、リアクション、エピソード、あらゆるものの背景に「どこか通じ合っている3人」というものの姿が見えた気がした、ということです。
そしてその姿は、普段の僕の人との付き合いの中には全く無いものでした。
僕は、まあ、気にしいです。
そして軽く対人恐怖症だと思っています。だからといって人と付き合いが出来ない訳ではないんですが、常に「場の流れを感じ取り、人の気持を推し量り、差し障りのないこと、相手が楽しくなりそうな話の進め方を考えていく」というスタイルを取る傾向があると思います。
ところがこの3人の間にはそんなものは見て取れない。
勿論、プロスポーツのスキルの凄さが素人には分からないように、僕が感じられないレベルでそういうった事も考えているとは思うのですが、それよりも強く感じられたのが「躊躇うこと無くさらけ出し、ぶつかり合う」という人間関係の姿でした。
僕は、
「ああ、僕は今まで、本当の意味では人と付き合っていなかったんだな」
と呟きました。
そしてそれと同時に感じたことがありました。
それは普段から感じている「自分の考えを他人が理解してくれない」という寂しさや不満が、ごくごく当たり前の事ではないのかという事。
なぜなら、そもそも「自分の考えを他人に対してぶつけていない」のだから、理解なんてされるはずなんて無いって当たり前のことだから。
この番組は、視聴者に対して「俺たちのように本気で人と付き合っているのか?」と問いかけてきます。
この人達のようになりたい。
そう少しでも思った僕は、少しづつですが、本気で人とぶつかっていくことを考えていきたいと思います。
試してみたいと思います。
アニマル浜口のような、いかつい年配の男性が怒鳴りつけるというインパクトのある表紙に「何だこのオッサンは?」「何を怒鳴っているんだ?」と引きつけられたのをはっきりと覚えていますが、そのオッサン、もとい、本の著者が幻冬舎の代表取締役社長である 見城徹 さんでした。
この本は内容もインパクトの大きな本でした。表紙から受けたものよりもはるかに。
そのインパクトの大きさゆえに、まだ記事は書けていません。何故かは分かりませんが、自分の中で「この本のポイントはこの3点くらいで、今の自分にとってはこういう印象だった」と簡単に言葉にしてしまうことに躊躇いを感じていることがあると思います。
見城さんの本、それから見城さんと付き合いのある藤田晋さんや堀江貴文さんの本(元々堀江さんの本は好きで読んでいました)などを何冊か読みましたが、それでもまだ整理しきれず、書ける気がしません。
確実に言えるのは、「自分自身の世界が広がった」ということです。
物の見方や考え方もそうですが、一番印象を強く受けたのは「人との付き合い方」というエッセンスでした。見城さんの本を読んだ後では、自分自身の人との付き合い方は、とにかく浅いとしか言いようのないものにしか感じられませんでした。
とまあ話が長くなりそうなので、一旦戻します。
そう、 AbemaTVが面白い んですよ。
アプリをダウンロードするだけで、スマホやタブレットで簡単に番組が見られることにまず驚くのですが、そのチャンネルの豊富さや、地上波とは異なる「異質さ」にもう一段の驚きを感じました。
その中で出会った 「徹の部屋」 という番組。
「見城徹が今、一番会いたいゲストを招き、内蔵と内臓をこすり合わせる様な熱狂トークを披露する」というキャッチフレーズの番組です。
これがとにかく面白い。
普段の地上波で見ているタレントさんの印象ががらっと変わります。普段のテレビは「テレビの向こうの世界」として見れるものなんですが、この番組は、「僕達の世界の延長線上にいる、この人達が作る現実の世界」を見せてくるんです。
それもすごく 生々しく。
その中で平成29年2月26日に放送された「徹の部屋#10」が、芯に響いてくる強烈なボディーブローを打って来ました。
この回のゲストはネクシーズ社長の 近藤太香巳 さんと、 郷ひろみ さんでした。
司会の見城徹さんと付き合いの長い3人でどんなトークが繰り広げられるのか・・・と期待していましたが、期待と予想を遥かに上回るものでした。
というのは、僕は「エピソード」に期待していたんですよね。
ところが僕は、それとは全く違う、3人が醸し出す「人間関係の深さ」にノックアウトされてしまったんです。
それが何かと言うと、表情や言葉、リアクション、エピソード、あらゆるものの背景に「どこか通じ合っている3人」というものの姿が見えた気がした、ということです。
そしてその姿は、普段の僕の人との付き合いの中には全く無いものでした。
僕は、まあ、気にしいです。
そして軽く対人恐怖症だと思っています。だからといって人と付き合いが出来ない訳ではないんですが、常に「場の流れを感じ取り、人の気持を推し量り、差し障りのないこと、相手が楽しくなりそうな話の進め方を考えていく」というスタイルを取る傾向があると思います。
ところがこの3人の間にはそんなものは見て取れない。
勿論、プロスポーツのスキルの凄さが素人には分からないように、僕が感じられないレベルでそういうった事も考えているとは思うのですが、それよりも強く感じられたのが「躊躇うこと無くさらけ出し、ぶつかり合う」という人間関係の姿でした。
僕は、
「ああ、僕は今まで、本当の意味では人と付き合っていなかったんだな」
と呟きました。
そしてそれと同時に感じたことがありました。
それは普段から感じている「自分の考えを他人が理解してくれない」という寂しさや不満が、ごくごく当たり前の事ではないのかという事。
なぜなら、そもそも「自分の考えを他人に対してぶつけていない」のだから、理解なんてされるはずなんて無いって当たり前のことだから。
この番組は、視聴者に対して「俺たちのように本気で人と付き合っているのか?」と問いかけてきます。
この人達のようになりたい。
そう少しでも思った僕は、少しづつですが、本気で人とぶつかっていくことを考えていきたいと思います。
試してみたいと思います。
2017年02月14日
BDレコーダーに溜まっていく録画番組の山!押し潰されるその前に
以前に「テレビの音がうるさいと感じる時」という記事を書きました。
テレビの音がうるさいと感じる時: 世界は素敵で面白い、そんな生き方を目指すブログ
元来テレビっ子だった私が「テレビがうるさい」とふと感じたくだりや、その理由は何なんだろうと考察した記事なのですが、意外とアクセス数が多くて(あくまでこのブログの中では、ですけれど・・・)驚いています。
同じように感じる人が多いってことなのかな?
さて今日はまた「テレビ」に関してまた書いてみたいと思います。
タイトルのとおり、BDレコーダー(HDD搭載のもの)に気が付けば録画番組が溜まりまくってもう見ることも無理っぽい・・・ときの話です。
そうなんです。決してテレビを全く見ていないという訳ではありません。
例えば去年話題になった 「逃げるは恥だが役に立つ」 も見ていました。面白かったです。
そういえば自分が今チェックしているテレビ番組ってどれくらいあるんだろう・・・とふと考え、整理してみました。次のリストのとおりですが、結構あるなって感じです。
・カルテット(ドラマ)
・下克上受験(ドラマ)
・奪い合い、冬(ドラマ)
・機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(アニメ)
・ワールドプロレスリング(スポーツ)
・全力!脱力タイムズ(バラエティ)
・アメトーーク(バラエティ)?2
・そこまで言って委員会NP(報道バラエティ)
・らららクラシック(音楽)
・題名のない音楽会(音楽)
並べただけではピンと来ませんので、時間にしてみましょう。
見る時は大抵録画でCMを飛ばしますから、1時間30分番組は1時間、1時間番組は40分、30分番組は20分でざっくりと計算します。あ、NHKはCMが少ないですから30分番組は30分とします。
60分+40分?4+20分?5+30分=350分
一週間で350分!なんと、実に5時間30分ものボリュームになっていました。
なんだ大したことないじゃんって思う人もいるかもしれません。一週間で5時間30分ですから、1日あたりだと1時間を切りますからね。
でも家族持ちには結構厳しい時間です。
なぜなら、これらの番組は今のところ全部私の趣味に過ぎないからです(泣)。家族の時間にこれらのテレビを見ることはできず、 つまり、一人の時しか見れないという制約があるってことなんです。
一人で使える時間のうち、一週間に5時間30分。
これはかなりキツイです。
ではどうなるか?というと、単純な話ですが「見れません」。じゃあ諦めて見たいものだけ見ればいっか・・・て考えれば良さそうですが、そうはいきません。
なぜなら、見えない鎖に縛られているからです。
見えない鎖とは何か。それはBDレコーダーによる 「自動録画」 です。
このBDレコーダーは、革命的な家電製品です。今の若い人には(すみません、お決まりのフレーズで・・・)VHSビデオで録画していた頃のことなんて知らない人も多いでしょう。かつては「VHSテープ」という大きなカセットに録画していました。
このVHSテープには幾つかの制約があり、それに応じて録画する側も工夫が必要でした。
・録画できる時間が少ない(通常2時間、3倍録画で6時間)
→何本ものテープを持ち、テープ残数を把握しながら差し替えていた。
・録画後の編集ができない(編集するには高額な機材が必要)
→同じドラマだけを連続して録画するには専用の◯◯テープを作り、録画刷る時にはそのテープをかならず使わなければならない。ミスは許されない。
→CMカットをするためには、テレビの前に張り付いて自分が「録画一時停止」操作をCMのたびにしなければならない。
・中身の確認は実際に見るしかない
→手間がかかる。これを怠ると大事にしていた番組が上書きで消えてしまう。
これらの課題が、BDレコーダーの登場によって全て一気に解消されてしまったのです。これはVHS時代を知っている人間には 「テレビ録画の革命や!!!」 としか言い表しようがないインパクトでした。
更にHDD大容量化により録画可能時間も飛躍的に伸びました。もうこれからは、好きな番組を好きなだけ録画できる。そんな夢が正に現実のものとなったのです。
・・・ちょっと話が逸れてしまいました。
しかしそんなBDレコーダーにも一つデメリットがありました。ようやく話が戻りますが「自動録画」です。自動録画が何かというと、改めて言うまでもありませんが、「同じ番組を自動的に毎週録画してくれる機能」で、本当に便利な機能です。
ではその便利な機能の何が問題なの?ということなんですが、まさにこの便利というものが曲者で、便利だからその機能を使ってしまいます。「ちょっと面白そうだな」と思うと、数分もかからないうちにその番組の自動録画が出来てしまう。とても簡単です。
「これも面白そう」
「これも見てみたいな」
・・・
そうして登録された設定に従い、BDレコーダーは黙々と自動録画を繰り返していきます。機械的に(機械ですから・・・)。そしたらどうなるか?もうお分かりですよね。
あっという間に、レコーダーの中は未視聴の録画番組が山のように積み上げられてしまいます。
こうなったらもう無理です。物理的に全部を見ることなんてできません。
でも気になっていたあのドラマ、話題になっていたあのドラマも、そのレコーダーには第1話から最終話まで全部録画されているんですよ。
見たい。いや、見なければいけない!
きっと面白いものがそこにあるから。見ることができるものを見ないなんて、何か損するような気持ちだから。
限られた時間の中で見ようと努力する傍ら、レコーダーは機械的に新しい録画をどんどん積み上げてきます。物量戦です。どんなに奮戦(視聴)しても敵の補給は尽きること無く、積み上げられた録画番組の山にやがて押し潰されてしまう。。。
気が付けば、私はそんな状態になっていました。
そんな中で、何とか確保した時間で録画した番組をちょっとだけ見ることができると、「ようやく少しだけ見れた・・・」とホッするとともに、重荷が少しだけ減ったような感覚を覚えるのです。
でもふと気付きました。
ちょっと待てよと。
俺は ”重荷から解放されてホッとするためにテレビを見ているのか?” と。
そうなんです。
元々は「楽しいものが見たい」という自発的な気持ちだったものが、気が付けば「見ないと損」「見なければいけない」という強制的な意識へと変貌していたんです。
悦楽だったものが苦行に変わり、また、行為の主体が自分自身からそれ以外の誰かへと変わっていた。
これで楽しいはずがありません。冷静に考えて、こうまでしてテレビを見る必要なんてあるはずもない。でも、いつの間に変わってしまったんだろう?
自分なりに思考を巡らせてみました。
そして気付いたのは、勘違いによる錯覚に陥っていたこと。
まず最初に、「便利にたくさん録画できる」ことを「いつでも自由に見られる」ことだと認識していたのだと考えました。
でもこれは勘違いではなく事実です。私は録画した番組を、好きなときに、いつでも自由に見ることができます。この事に間違いはありません。
次に、この「いつでも自由に見られる」ことを「録画した番組の 全てをいつでも自由に見られる」ことだと認識していたと考えました。
ここです。ここに第一の勘違いがあったのです。
録画した番組の 「全て」を自由に見ることなんて出来ないのです。一つ一つの番組を見ることは勿論可能です。事実です。でも全部を網羅して見るためには、録画機能とは関係なく、 結局は自分がそれを見る時間を確保できるかどうか次第なんです。
結局は時間を確保できず、見れずに山積みになっている、ということです。
そしてそこに、 過去の自分の「これが見たい」という気持ちが亡霊のようにこびりつき、自分自身に「見なければいけない」という義務が課せられているかのような錯覚に陥る。これが第二の勘違いです。
録画番組は機械的にドンドン積み上げられていく。
「見なければいけない」という義務感はそれに従いドンドン強くなっていく。
この心理的負担が自分自身に重くのしかかってくる。
これが今の状態なんだと。
ここから脱却するために、そもそも論で考えてみました。
そもそも論として、本来は楽しむために見ようとしていたものです。
それが「見なければいけない」ことで苦しむようなら本末転倒。
じゃあどうすればいいか?
見なければいいんです。
ただそれだけ。
または、最初から録画しないという方法もあります。
後でどうしても見たくなればDVDとかオンデマンドとか多分方法はあると思いますし。
溜まった録画番組は「見れないもの」と割り切って、一切合切、削除してしまいましょう。
断捨離の考え方では(あまり最近聞かなくなりましたね・・・)、「いつか使うものは捨てる」のが原則。これをBDレコーダーにあてはめると、「いつか見たいものは削除する」のが原則。
少なくとも1ヶ月以上見ていないものは、お気に入りの保存用を除いて、スパスパっと削除してしまえばいい。
しかし、そう思っても、いざ消す段になれば、録画容量が一杯じゃない限りはやはり消せません。今のところ「消す必要」が無いのです。私の手もここで止まりました。「そうだ、とりあえず、録画容量が一杯になったら消そう」と、何とも気持ちは弱いもの。
でもいいんです。
後は「見なければいけない」という錯覚で作り出した思考から脱却し、「見られたら見ればいい」「どうしても暇な時に見たらいい」というような緩い思考でBDレコーダーに向き合うことができれば、心の負担にはなりませんから。
別に見なくたって損もしないし、得もしない。
そこにどんなに面白いコンテンツがあったとしても、なかったとしても構わない。
自分が楽しめる状態の時に、楽しむものとして、楽しめる範囲で見ればいい。
きっと、そうなんです。
でも気をつけないといけません。
油断するとあっという間に「見なければいけない」という強迫観念にまた堕ちてしまいます。それは現代社会が私たちに仕掛けている 罠のようなもの。
(この 「罠」についても、また記事で書きたいと思います)
というわけで、BDレコーダーから心を解き放ち、また一つ気持ちを楽にして日々を生きていきたいと思います。
長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
テレビの音がうるさいと感じる時: 世界は素敵で面白い、そんな生き方を目指すブログ
元来テレビっ子だった私が「テレビがうるさい」とふと感じたくだりや、その理由は何なんだろうと考察した記事なのですが、意外とアクセス数が多くて(あくまでこのブログの中では、ですけれど・・・)驚いています。
同じように感じる人が多いってことなのかな?
さて今日はまた「テレビ」に関してまた書いてみたいと思います。
タイトルのとおり、BDレコーダー(HDD搭載のもの)に気が付けば録画番組が溜まりまくってもう見ることも無理っぽい・・・ときの話です。
とは言いつつテレビを観ています。
そうなんです。決してテレビを全く見ていないという訳ではありません。
例えば去年話題になった 「逃げるは恥だが役に立つ」 も見ていました。面白かったです。
そういえば自分が今チェックしているテレビ番組ってどれくらいあるんだろう・・・とふと考え、整理してみました。次のリストのとおりですが、結構あるなって感じです。
・カルテット(ドラマ)
・下克上受験(ドラマ)
・奪い合い、冬(ドラマ)
・機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(アニメ)
・ワールドプロレスリング(スポーツ)
・全力!脱力タイムズ(バラエティ)
・アメトーーク(バラエティ)?2
・そこまで言って委員会NP(報道バラエティ)
・らららクラシック(音楽)
・題名のない音楽会(音楽)
並べただけではピンと来ませんので、時間にしてみましょう。
見る時は大抵録画でCMを飛ばしますから、1時間30分番組は1時間、1時間番組は40分、30分番組は20分でざっくりと計算します。あ、NHKはCMが少ないですから30分番組は30分とします。
60分+40分?4+20分?5+30分=350分
一週間で350分!なんと、実に5時間30分ものボリュームになっていました。
なんだ大したことないじゃんって思う人もいるかもしれません。一週間で5時間30分ですから、1日あたりだと1時間を切りますからね。
でも家族持ちには結構厳しい時間です。
なぜなら、これらの番組は今のところ全部私の趣味に過ぎないからです(泣)。家族の時間にこれらのテレビを見ることはできず、 つまり、一人の時しか見れないという制約があるってことなんです。
一人で使える時間のうち、一週間に5時間30分。
これはかなりキツイです。
ではどうなるか?というと、単純な話ですが「見れません」。じゃあ諦めて見たいものだけ見ればいっか・・・て考えれば良さそうですが、そうはいきません。
なぜなら、見えない鎖に縛られているからです。
自動録画というネビュラチェーン
見えない鎖とは何か。それはBDレコーダーによる 「自動録画」 です。
このBDレコーダーは、革命的な家電製品です。今の若い人には(すみません、お決まりのフレーズで・・・)VHSビデオで録画していた頃のことなんて知らない人も多いでしょう。かつては「VHSテープ」という大きなカセットに録画していました。
このVHSテープには幾つかの制約があり、それに応じて録画する側も工夫が必要でした。
・録画できる時間が少ない(通常2時間、3倍録画で6時間)
→何本ものテープを持ち、テープ残数を把握しながら差し替えていた。
・録画後の編集ができない(編集するには高額な機材が必要)
→同じドラマだけを連続して録画するには専用の◯◯テープを作り、録画刷る時にはそのテープをかならず使わなければならない。ミスは許されない。
→CMカットをするためには、テレビの前に張り付いて自分が「録画一時停止」操作をCMのたびにしなければならない。
・中身の確認は実際に見るしかない
→手間がかかる。これを怠ると大事にしていた番組が上書きで消えてしまう。
これらの課題が、BDレコーダーの登場によって全て一気に解消されてしまったのです。これはVHS時代を知っている人間には 「テレビ録画の革命や!!!」 としか言い表しようがないインパクトでした。
更にHDD大容量化により録画可能時間も飛躍的に伸びました。もうこれからは、好きな番組を好きなだけ録画できる。そんな夢が正に現実のものとなったのです。
・・・ちょっと話が逸れてしまいました。
しかしそんなBDレコーダーにも一つデメリットがありました。ようやく話が戻りますが「自動録画」です。自動録画が何かというと、改めて言うまでもありませんが、「同じ番組を自動的に毎週録画してくれる機能」で、本当に便利な機能です。
ではその便利な機能の何が問題なの?ということなんですが、まさにこの便利というものが曲者で、便利だからその機能を使ってしまいます。「ちょっと面白そうだな」と思うと、数分もかからないうちにその番組の自動録画が出来てしまう。とても簡単です。
「これも面白そう」
「これも見てみたいな」
・・・
そうして登録された設定に従い、BDレコーダーは黙々と自動録画を繰り返していきます。機械的に(機械ですから・・・)。そしたらどうなるか?もうお分かりですよね。
あっという間に、レコーダーの中は未視聴の録画番組が山のように積み上げられてしまいます。
こうなったらもう無理です。物理的に全部を見ることなんてできません。
でも気になっていたあのドラマ、話題になっていたあのドラマも、そのレコーダーには第1話から最終話まで全部録画されているんですよ。
見たい。いや、見なければいけない!
きっと面白いものがそこにあるから。見ることができるものを見ないなんて、何か損するような気持ちだから。
限られた時間の中で見ようと努力する傍ら、レコーダーは機械的に新しい録画をどんどん積み上げてきます。物量戦です。どんなに奮戦(視聴)しても敵の補給は尽きること無く、積み上げられた録画番組の山にやがて押し潰されてしまう。。。
気が付けば、私はそんな状態になっていました。
そんな中で、何とか確保した時間で録画した番組をちょっとだけ見ることができると、「ようやく少しだけ見れた・・・」とホッするとともに、重荷が少しだけ減ったような感覚を覚えるのです。
でもふと気付きました。
ちょっと待てよと。
俺は ”重荷から解放されてホッとするためにテレビを見ているのか?” と。
楽しむために見ようとしていたはずが・・・
そうなんです。
元々は「楽しいものが見たい」という自発的な気持ちだったものが、気が付けば「見ないと損」「見なければいけない」という強制的な意識へと変貌していたんです。
悦楽だったものが苦行に変わり、また、行為の主体が自分自身からそれ以外の誰かへと変わっていた。
これで楽しいはずがありません。冷静に考えて、こうまでしてテレビを見る必要なんてあるはずもない。でも、いつの間に変わってしまったんだろう?
自分なりに思考を巡らせてみました。
そして気付いたのは、勘違いによる錯覚に陥っていたこと。
まず最初に、「便利にたくさん録画できる」ことを「いつでも自由に見られる」ことだと認識していたのだと考えました。
でもこれは勘違いではなく事実です。私は録画した番組を、好きなときに、いつでも自由に見ることができます。この事に間違いはありません。
次に、この「いつでも自由に見られる」ことを「録画した番組の 全てをいつでも自由に見られる」ことだと認識していたと考えました。
ここです。ここに第一の勘違いがあったのです。
録画した番組の 「全て」を自由に見ることなんて出来ないのです。一つ一つの番組を見ることは勿論可能です。事実です。でも全部を網羅して見るためには、録画機能とは関係なく、 結局は自分がそれを見る時間を確保できるかどうか次第なんです。
結局は時間を確保できず、見れずに山積みになっている、ということです。
そしてそこに、 過去の自分の「これが見たい」という気持ちが亡霊のようにこびりつき、自分自身に「見なければいけない」という義務が課せられているかのような錯覚に陥る。これが第二の勘違いです。
録画番組は機械的にドンドン積み上げられていく。
「見なければいけない」という義務感はそれに従いドンドン強くなっていく。
この心理的負担が自分自身に重くのしかかってくる。
これが今の状態なんだと。
ここから脱却するために、そもそも論で考えてみました。
「見なければいけない」からの脱却。
そもそも論として、本来は楽しむために見ようとしていたものです。
それが「見なければいけない」ことで苦しむようなら本末転倒。
じゃあどうすればいいか?
見なければいいんです。
ただそれだけ。
または、最初から録画しないという方法もあります。
後でどうしても見たくなればDVDとかオンデマンドとか多分方法はあると思いますし。
溜まった録画番組は「見れないもの」と割り切って、一切合切、削除してしまいましょう。
断捨離の考え方では(あまり最近聞かなくなりましたね・・・)、「いつか使うものは捨てる」のが原則。これをBDレコーダーにあてはめると、「いつか見たいものは削除する」のが原則。
少なくとも1ヶ月以上見ていないものは、お気に入りの保存用を除いて、スパスパっと削除してしまえばいい。
しかし、そう思っても、いざ消す段になれば、録画容量が一杯じゃない限りはやはり消せません。今のところ「消す必要」が無いのです。私の手もここで止まりました。「そうだ、とりあえず、録画容量が一杯になったら消そう」と、何とも気持ちは弱いもの。
でもいいんです。
後は「見なければいけない」という錯覚で作り出した思考から脱却し、「見られたら見ればいい」「どうしても暇な時に見たらいい」というような緩い思考でBDレコーダーに向き合うことができれば、心の負担にはなりませんから。
別に見なくたって損もしないし、得もしない。
そこにどんなに面白いコンテンツがあったとしても、なかったとしても構わない。
自分が楽しめる状態の時に、楽しむものとして、楽しめる範囲で見ればいい。
きっと、そうなんです。
でも気をつけないといけません。
油断するとあっという間に「見なければいけない」という強迫観念にまた堕ちてしまいます。それは現代社会が私たちに仕掛けている 罠のようなもの。
(この 「罠」についても、また記事で書きたいと思います)
というわけで、BDレコーダーから心を解き放ち、また一つ気持ちを楽にして日々を生きていきたいと思います。
長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
タグ: テレビ
2017年01月09日
スマホ買い換え!iPhone7とGalaxy S7 Edgeとを約2ヶ月間ほど迷い倒した僕の結論は「iPhone7」
最近、スマホを買い換えました。
Xperia Z3(ソフトバンク)から iPhone7(docomo)に変えた訳なんですが、これでもかというくらい悩み抜きました。
ウェブの記事や、YouTubeでのレビューを見ればみるほど悩みが深まり、
「どっちを買うたらええんや〜〜!!」
と夜空に叫びたくなるような日々を過ごしました。
その時の考えの記録として、また、ひょっとしたら同じ悩みを持つ誰かの参考になるかもしれないと思い、その記録を書いておきます。
※なお評価の基準は全て僕目線での基準ですので、参考になるかならないかは全く保証できません。
悩んだのは、ズバリiPhone7とGalaxy S7 Edgeのどちらに機種変更するか!です。
それでは書いていきます。
Galaxy S7 edgeを選ぶことのメリット
まず整理しました。
・今のスマホがAndroidなので違和感なく使える。
・以前にGalaxyシリーズを使ったことがあるので抵抗がない。
・液晶が有機ディスプレイで綺麗
これは個人差がありますが発色の存在感が液晶よりも強く、綺麗に見えます。コントラストが強いんでしょうかね。
・Edyが使える
iphoneはEdyが使えません。 コレ便利なんですよね。Edyは近所のスーパーでも使えます。 財布なしで買い物できる楽さ、小銭を出し入れする煩わしさの無さは、一度使うともう手放せません。 ApplePayは使える店も増えてきましたが、まだまだ。
これらは十分なメリットでしたが、僕が最大のメリットとして考えていたのは次の点です。
・GearVRが付いてくる!+安い
コレですよ。
2016年は「VR元年」と言われてもう久しく、既に2017年になってしまいましたが、「VR」なんてものは僕には全く関係ないと思っていました。
普通のゲームで飽き足らない人向けのコアなコンテンツだと考えていたのです。
それがイベントで偶然体験してみたら、この GearVR+Galaxy7edgeのセット、予想を覆すクオリティの高さでした。 圧倒的な没入感!映画館で初めて「アバター」を見たときのような衝撃を感じました。
なんだこの異世界は!という衝撃です。
目の前に広がる立体空間。頭を動かすとそれに追随して変わる眼の前の世界。空を見上げることも、高いところから下を覗き込むことも、まるで自分がそこに座っているかのような感覚で実現できてしまうんです。
しかもその時に行われていたキャンペーンが「 docomoに乗り換えてGalaxy7edge」を買うと、無料でGearVRが付いてくる」というもの!!
さらに他の機種に比べて値段が数万円値引きされていたんです。タイムリー過ぎます。
もう半分以上「買いだろコレ」という気持ちになっていました。この時はね。
iphone7を選ぶことのメリット
正直ほぼ気持ちの中ではGalaxy7edgeに決めかけていましたが、店頭に行くとどうしても気になってしまいました。
でもまあ、そこまでは正直揺れていなかったんですよね。
この記事を見るまでは。
Androidでツムツムをやるとカクカク処理落ち!iPhoneの方がオススメ?
この記事にショックを受けました。でももし読んでいなければ、後できっと後悔したと思います。ありがとうございました・・・。
ツムツムは僕がスマホで熱を入れて遊んでいる唯一つのゲームです。
そして今までAndroidスマホでだけ遊んできました。 正直、カクカクというか、ツムが落ちてくるのが遅い!と感じたり、ツムが消えるのが遅い!と感じることが多々ありました。 でも、ゲーム自体が そういうものかと思っていた んですよ。
ところが、それはAndroid特有の症状だとこの記事は言うのです。嘘だろ・・・?と思いながら、持っていたipad mini4にツムツムをインストールして試してみました。
そうしたら、 驚くほどの早さ。 唖然としました。
スピードだけの問題だけではありません。早さもさることながら、一つ一つの処理の早さが組み上げるゲームバランス、それに対応しなければという焦らされる気持ち。 体感的には全く別のゲームというくらいの違いでした。
これまでツムツムに費やしてきた時間は何だったんだという喪失感 が全身を包みましたね。そしてこの事実は、「これからAndroidを使うんだったら、ツムツムの本当の魅力は味わえませんぜ」という厳しい現実を僕に宣告したのです。
そして一つの大きなメリットがここに出現しました。
いや、まあ、他にもあるんですよ、iPhoneを選ぶことのメリットは。
例えば他のMac機器の連携とか。
実はApple製品も幾つか持っていまして、
・MacBook Air
・iPad mini4
・iPod shuffle
・iPhone 3gs
・iPod Classic(第3世代)
・ついでに、Bose Sound Air
ちなみに音源はitunesで管理しています。
改めて数えてみると 何だか完全にAppleユーザー ですが、不思議とiPhoneに執着は無かったんですよ。 なぜなら使っていたXperia Z3がとても良かったから。
不満といえばゲームやカメラを使っているときの「熱さ」と、ツムツムをやっているときの目に見えて早いバッテリーの消耗くらいで、それ以外の通常の使用では全く問題はありませんでした。
スマホで撮影した写真データをMacBookに移動するのが少し手間がかかるという事はありましたが、そこまで頻度がある訳ではなく、全然許容範囲でした。
だから「iphone7が防水になった」と聞いても「ようやくAndroid並になったか」程度にしか思っていませんでした。
しかしこのツムツム問題は衝撃をもってiPhoneの地位を急激に押し上げることとなったのです(あくまで僕の中で)。
※ついでに書くと「モンスト」でもiPhoneの方がグラフィックが綺麗です。当たると敵がブルブルと細かく震えるとかの違いがあり、驚きました。
・迷える日々
それからはひたすら迷い続けました。
AndroidかiPhoneか。
ということもありましたが、主には、
GearVRかツムツムか。
そうして辿り着いた結論は、
「GearVRはせいぜい遊んで一日に数分から数十分。それも家で一人の時しか出来ない。でもツムツムはほぼ毎日やっているし、外出先でも遊んでいる」
「優先するべきはツムツム」
という事でした。
そうして僕はiPhone7を買いました。
実際にiPhone7を使ってみると
すごく良いです。これは正直驚きました。
主な購入動機となったツムツムの動きは勿論ですが、実際に使ってみると「感覚的に良いと感じる」事がとても多いことに気づきました。
・サイズが丁度良い。軽い。
いつでも持ち運んでいたい気にさせます。
・指紋認証が一瞬。
ほぼボタンを押す(厳密には押していませんが・・・)だけで携帯がセキュリティ保護されたうえで起動する感覚は凄いとしか言いようが無いと思いました。
・全然熱くなることがない。
・カメラが綺麗、早い。
・Apple製品との連携はやっぱり便利。気持ちいい。
ホーム画面の構成はAndroidがやっぱりいいなと思います。日本語入力もちょっと使いにくい。
が、それを超える優位性を感じました。
あれこれ悩んだけど、次にスマホを変えるとしてもまたiPhoneでいいかな。
なんて清々しい気持ちで考える瞬間が確かにありました。
結果、iPhone7に大満足しています。
いやあ、考え抜いて良かった!
ということでこの記事は終わります。
でも何だかんだいって、この悩んでる時っていうのが、後から考えるときっと楽しい時間なんでしょうね!