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理琉(ワタル)
自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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2023年11月02日

【年収120万円】低収入セミリタイア生活5年目で思うこと

僕は5年前、
離婚を機に 「低収入セミリタイア生活」 を始めた。

最低限だけ働いて、
残り時間をやりたいことに全振りするライフスタイル。

カテゴリー的には
「寝そべり族」「静かな退職」「隠居生活」に近い。

この生活をしていて思うことや、
メリット・デメリットを書いてみる。

人生に疲れた方や、
「シアワセのレールから外れた」と悩む方、
「週5・8時間労働」に疑問を持つ方の参考になれば嬉しい。

ー目次ー
  1. 現在の収支
  2. 人生の時間配分
  3. 低収入セミリタイア生活を選んだ理由
    (1)うつ病罹患で弱さを思い知った
    (2)とにかく自由でいたい
    (3)労働時間がムダに思える
    (4)人とずっと一緒にいると疲れる
    (5)長生きするつもりがない
  4. 低収入セミリタイア生活のメリット
    (1)内向的で没頭型の人に向いている
    (2)時間と健康こそ人生の宝と気づく
    (3)本当に必要な欲望に集中投資できる
  5. 低収入セミリタイア生活のデメリット
    (1)”世俗的な恋愛観の人”との恋愛は難しい
    (2)劣等感や無力感との闘い
  6. まとめ

1.現在の収支

政令指定都市・1人暮らし
精神障害者手帳を所持(広汎性発達障害:3級)

・収入
 ◎非正規、障害者雇用枠
  労働時間:週4日、週20〜21時間、残業ゼロ
  労働収入: 8〜9万円

 ◎副業収入(アフィリエイト広告・アンケートモニター・ポイ活等)
月1500〜3000円(成果次第)

・支出
 ◎固定費(家賃・光熱費・通信費等)
月5万〜5万5000円

・貯金
 数ヶ月は問題なく生活できる程度

ということで、収支は幸い黒字。

2.人生の時間配分

出勤している時間以外、
ほぼすべて趣味と副業に没頭している。

具体的には次の5つ。

・バスケをする
・野球をする
・筋トレする
・ブログや小説を執筆する
・MMD動画を制作する

ブログと YouTube動画制作 は楽しいから続けてきたが、
ありがたいことに少しずつ伸びている。

なので、趣味と副業の境界線はあいまい。

なお、スポーツでは
道具・体育館/グラウンド・移動などの費用がかかる。

もしバスケと野球に出逢っていなければ、
週3日労働でもやっていけると思われる。

だがスポーツは生きがい。
辞める選択肢はないため悪しからず。


3.低収入セミリタイア生活を選んだ理由

(1)うつ病罹患で弱さを思い知った

僕は16年前にうつ病を患った。
今はかなり回復したが、毎晩薬を飲んでいる。

1人で生活できて趣味に没頭していると、
つい忘れそうになる。

今の自分は、毎日の服薬でようやく保てていること。
少しでも無理したら、またすぐに心が壊れること。


「自分はこんなものじゃない」
「努力は必ず報われる」
そう思いたい人の気持ちもわかる。

ただ、「心の脆さ」「人間という生き物の弱さ」を
心に留めておいて損はない。


「自分は強いから大丈夫」
「心を患うなんて弱いヤツの甘えだ」

そう思っている人は1度、
自分のキャパシティーを把握してほしい。

多くの荷物を持っても平気な人もいれば、
少しの荷物で限界な人もいる。

【うつ病経験】”生きている”と、”死んでいない”は違う。

(2)とにかく自由でいたい

縁あって恋愛や結婚を経験できたことは
とても幸せだった。

だが、僕は結婚生活を経験したことで、
「家庭を持つ人生を望んでいない」
という本音に気づいてしまった。


僕の本音は
・好きなことに没頭したい
・一生、自由に遊んでいたい
・自分を表現したい、創作したい
だった。

いつまでも”プレーヤー”でいたい。
自分がプレーできる機会をガマンして、
たとえば子どものプレーを見守るなんてイヤだ。

僕は今もなお、
1度も試合を観に来てくれなかった親へ
「僕のプレーを観に来てよ!」と言い続けている。

僕に無関心だった親へ
「僕の作品を見てよ、内面を知ってよ!」と訴え続けている。

僕は精神の発達段階も欲求レベルも
”子どものまま” だと自覚している。


【大人強要社会】ピーターパン症候群のまま生きて何が悪い?

(3)労働時間がムダに思える

僕は働きたくない。

やりたいこと=”スポーツと創作”が明確なので、
それができない時間≒出勤している時間が
ムダに思えてしまう。

「有限な人生の大半をなぜ労働に費やすの?」
そう思っても飲み込んでいる人が多い中、
僕は飲み込めない人だった。

最も回避すべき状況は、
・イヤな労働をせざるを得ない状況≒家族を守る責任を負う

その責任が幸せだと思える人ならいいが、
僕は子どものままでいたいのでそんな責任を負いたくない。

なので、自分1人養えばいい生活にたどり着いた。

(4)人とずっと一緒にいると疲れる

僕は、マンガで恋人や夫婦が言う
「あなたと一緒にいると落ち着く」
というセリフに憧れている。

だが自分にはできないため、
「どんな鍛錬で身につけるんだろう?」
「人といても安心できない自分がおかしいの?」

と悩んできた。

そこで、
「よし!誰かと一緒いると安心しよう!」
と試みてきたが、習得への道は険しい。

誰かと同じ空間にいると、
体内のバッテリー残量が音速で減っていく。

恩きせがましい親に育てられると、
自分の存在が他人に喜ばれているという感情はもてない。

自分という存在は他人にとって負担なのだ、
という感じ方を心の底にこびりつかせてしまう。

だから心地よく他人と一緒にいることができない。
他人といると気がひけてしまう。

すると、
相手に何かしてあげなければいられない気持ちになる。

相手の得になるようなことをすることによって、
その居心地の悪さから逃れようとする。

『愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 』 より

僕の気質はおそらく 「hsp」「内向型」に当てはまる。
それもあって、僕は周囲からの

「お前のために苦労したんだぞ」

という無意識のメッセージを
強く受け取ってしまったのかもしれない。

(5)長生きするつもりがない

今でこそ立ち直ったが、僕は人生の多くの時間を
「安楽死したい」 と思って過ごしてきた。

根底には
「親から共感される体験やぬくもりをもらえなかった」
ことへの悲しみがある。

話が通じない親には、”心の実体”が存在しないのではないか。

「抱きしめられたい」
「無条件に安心できる人がほしい」

そんな幼児のままの欲求は、
もう満たされることはないと悟った時、

叶わない欲求を抱えて長生きしたら余計に苦しくない?
 なら人生、太く短くでよくない?
 内面の虚しさを埋める作業に没頭してさ。


と思った。

叔父も父も60歳前後で逝った。
僕も最長そこまででいい。
お金はそれまで持つくらいあれば十分。

低収入でも、欲望絞り込みで賄えることに気づいた。

4.低収入セミリタイア生活のメリット

(1)内向的で没頭型の人に向いている

人間の気質は、
誰かと一緒にいるのが好きな人が7割、
1人でいるのが好きな人が3割らしい。

1人が好きな人も”寂しい”という感情を持っている。
たまには誰かと過ごしたいと思う。

ただ、1人が好きな人は
刺激や他者の感情をすぐに読み取るので、
誰かといると無意識に疲れる。

低収入セミリタイアすると、
もっとも疲れる時間⇒職場にいる時間を減らせる。

さらに低収入なため、
退勤後の寄り道(外食・娯楽・飲み会など)の選択肢も消える。


何より、早く帰って没頭したいことがある。
結果、自然と出費が減り、節約する癖がつく。

(2)時間と健康こそ人生の宝と気づく

絶大な権力を手に入れ、頂点まで登りつめた人は、
ふと、こんな本音を漏らすことがあります。

暇な時間がほしい、
時間のゆとりはどんな幸福にも替えがたいものだ、と。


神皇アウグストゥスにしても、
国務から解放され、自由になることを願ってやみませんでした。

『人生の短さについて 』 より

現代社会は勤勉に働くこと
≒イヤなことでもガマンして続ける力が評価される。

だから多くの人は
「なぜ週5日8時間もイヤなことに費やすの?」
「何のために生きているの?」

という疑問を飲み込んで生きている。

日々ガマンして働き、
鬱憤を溜めている人にとって、僕のような者は

「怠け者」「わがまま」
「社会で役割を果たさないフリーライダー」

に映っても仕方ないだろう。

そう思われるリスクを恐れ、
無理して社会のラットレースへ復帰するか。

定年まで労働に明け暮れ、健康も気力も衰えた頃、
あの時にしかできなかったことを後悔するか。

誰に何を言われようと、
自分の時間を大切にして生きるか。


低収入セミリタイア生活は、
人生の時間配分を考え直すきっかけになる。

(3)本当に必要な欲望に集中投資できる

「欲望に優先順位をつけよ」

お金が足りなくなるのは宝石や装飾品など
必ずしも必要のないものまで欲しがっているからだ。

だったら優先順位の低い欲望は切り捨ててしまえ。
生活水準は大して変わらない。

そうすれば
本当にやりたいことのためにお金を使うことができる。

『漫画 バビロン大富豪の教え 「お金」と「幸せ」を生み出す五つの黄金法則 』 より

低収入、且つやりたいことが明確なら
自然に1点集中投資になる。

やりたいことが特にない人や、
お金がかかる趣味がある人は、
優先順位付けが必要になる。


今は”ファッション欲”を切り捨てている。

本当はゴシック系、ヴィジュアル系、
ホスト系のファッションが好きだが、

「バスケしたい」「好きな服を着たい」を天秤にかけ、
バスケを選択している。

これはとても悔しいので、今後の解禁を目指している。

5.低収入セミリタイア生活のデメリット

(1)”世俗的な恋愛観の人”との恋愛は難しい

世俗的な恋愛観とは、ここでは

・ずっと一緒にいるのが当たり前
・もし結婚したら同居するのが当たり前
・正社員/年収●百万円以上のスペックが当たり前
・人生の大半を労働に費やすのが当たり前

のような
”カネや将来性がある前提の相手を求めること”
を指すことにする。

低収入セミリタイア生活の人は、
こういう恋愛観の人とはうまくいかないと思う。

この生活は高負荷や重責に意味を見出せず、
働きたくないからたどり着いたのだ。

低収入セミリタイア生活者と相性が良い人は、
同じように”シアワセのレールへの違和感でいっぱいな人”だろう。


たとえば
・働きたくない
・たまに会うだけの気楽な関係でいい
・養う/養われる責任や負い目はNG
・一般的な恋愛観や結婚観が合わない
・世間体とかどうでもよくて自分の考えを貫きたい
『「山奥ニート」やってます。』 より

僕が定職に就かず、ニートであることを、
彼女はなんとも思ってなかった。

もともと男に養われるなんて嫌、という人だ。
かといって養うつもりもないらしく、結婚してからも財布は別だ。

彼女にとって僕は、地域猫くらいの感覚なのかもしれない。
たまに寄ってきたときにかわいがる。
僕にとってはその距離感がちょうど良かった。


ずっと一緒にいなくてもいいし、養う必要もないなら、
これから先も別れる理由がないように思った。
ニートだから異性と付き合えないってこともない。
恋をするのって、基本無料だ。
必要なのはお互いの心と体だけ。

「お金がないと恋愛や結婚ができない」
なんて言う人もいるけど、それは稼ぎ男に操り女、
という古い男女観に囚われてるんじゃないかと思う。
2人で川で釣りをしたり、縁側に座って夕日を眺めたり、
夜抜け出して星を見たりするだけでいい。

そんなデートを許してくれる女性は少ないって?
こんな辺鄙な場所へ来た女性は、その時点で
山奥ニート的な生き方に共感してくれてるんじゃないかな。

僕はこの山奥ニートの方に深く共感した。
自分そのものじゃないかとさえ思った。
こういう人も奥様も、まだマイノリティだと思う。

あるいは
「働きたくないダメ人間」と思われるのが怖くて
胸の内を明かせずにいるかもしれない。

もし出逢えたら、
たとえ低収入でもドロップアウト組でも、
素敵な関係になれるんじゃないかな。

「男のくせに泣くな」とは誰が決めたのか。

(2)劣等感や無力感との闘い

「幸せのカタチは無限にある」
「自分が幸せならそれでいい」

いくら頭で理解しても、幼少期からすり込まれた
「シアワセのレール」の幻影 は強力だ。

そのレールとは、たとえば
・良い学校、良い会社に入る
・バリバリ仕事して家族を養う

「シアワセのレール」への執着が強いほど、
そこから外れた自分を”不幸”と決めつけやすい。

特に同年代や年下が
順調にレールに乗れているところを見るたび、
自分との比較が始まる。

油断すると、
「自分はダメ人間⇒劣等感の塊⇒性格が歪んで社会的に孤立」
という破滅ルートへ堕ちてしまう。

そこで、いかに立ち止まれるか。
「自分は本当にシアワセのレールを望んでいるのか?」
問い直す必要がある。

今はSNSでもリアルでも、
簡単に他者と比較できてしまう世界。

低収入セミリタイア生活は、
「劣等感から破滅ルートへ墜ちる自分を引き戻す闘い」
でもある。


劣等感とは、誰と比べて”劣っている”のか。

6.まとめ

低収入セミリタイア生活は楽ではないが、
没頭型人間の自分には合っている。

メリット・デメリットはまだあると思うが、
今回はこの辺で。

繊細な人や社会不適合者は、
つい自分を卑下してしまう。

だが、それはあなたが悪いのではなく、
資本主義・競争社会に適合できなかっただけ。

「週5日8時間労働っておかしくない?」

それに気づくことが、
自分の人生を取り戻すきっかけになる。

人間である以上、
どんな底辺も世界的な成功者も、
不安や劣等感を消すことはできない。

だったら、不安も劣等感も連れて行こう。
人生の残り時間を、悔いなく生きるために。




⇒他記事
話が通じない親には、”心の実体”が存在しないのではないか。

優しい人が突然いなくなるのは、我慢の限界を超えた時。


⇒参考書籍

















posted by 理琉(ワタル) at 19:39 | TrackBack(0) | 人生観

2022年06月17日

普通でいたいと思うのは、孤独になるのが怖いから。

「普通になりたい」
「普通はこうすべき」
「常識的に考えて」

そう言われたり、つい言ってしまうことはないだろうか。

普通とは何だろう。
なぜ普通でいたいんだろう。
なぜ他者にも普通を押し付けるんだろう。

なぜ、僕らは”普通”にこだわり、”普通”に怯えているんだろう?


ー目次ー
  1. 普通でいたいのは”孤独になって死にたくないから”
  2. 普通とは”自分を押し殺して他人に合わせる行為”
  3. 普通になるために生まれた”教育制度”
  4. 普通が苦しいなら”普通なんて目指さなくていい”

1.普通でいたいのは”孤独になって死にたくないから”

「普通でいたい」と思うのは、孤独になりたくないからだ。



普通とはその時代、その社会での多数派のこと。

そして人間は社会的な生き物なので、
多数派の集団に属していたいと考える。

少数派になると群れから追い出されるし、
数の暴力に勝つことは難しいからだ。



 集団に属していたい
 多数派の一員でいたい

という欲求を持つ人間の社会で、
普通から外れる、孤独になることは、

「仲間外れにされて死ぬ」 ことを意味する。



普通じゃない人を攻撃することは、
生き残るための必死のアピールなのかもしれない。

いじめや悪口は、

「私は多数派と同じ考えなのでこの集団に置いてください」
「私は多数派に属しているので攻撃しないでください」


という訴えなのかもしれない。

2.普通とは”自分を押し殺して他人に合わせる行為”

普通でいることには「多数派に属せる」というメリットがある。
生き残って子孫を残せる確率が上がる。

「なら普通でいいじゃないか」
「”普通はこうすべき”という押し付けの何が悪いの?」

その通りだ。子孫を残すためなら普通は最適だ。



最適なのに、 なぜこんなに苦しそうな人が多いのか?

なぜ人を見下す人、八つ当たりする人が多いのか?
なぜ死んだ目をしたスマホゾンビが溢れているのか?

普通を求めるとは
「自分を押し殺して多数派に合わせる行為」 だからだ。




普通と言われていることと、
自分が望んでいることが一致しているなら問題ない。

普通でいることが苦しいのは、
自分の本当の欲求と一致していないからだ。


 「本当はゲーム実況がしたい、YouTuberになりたい、
  だけど普通でいるためにサラリーマンをしている」

 「本当はゴシックファッションが好き、
  だけど普通じゃないから我慢してスーツを着ている」

そのズレが、自分を縛るストレスになり、
普通じゃない誰かへの嫉妬になる。

普段から、無理して普通を演じている人ほど
普通じゃない人を叩きたくなる。

 「私は我慢して普通を演じているのに、
  あの人は好きなことをしているのが許せない」


から。

3.普通になるために生まれた”教育制度”

『人生の質なんてどうでもいい。とにかく子孫を残せ』
そう割り切るには、僕らの脳は発達しすぎてしまった。

「普通でいれば生き残れるが苦しい」
「でも仲間外れが怖いから普通を演じなければ」

そんな葛藤に折り合いをつけさせるために、
僕らは 「普通になるための教育」 を受けて育ってきた。



世界で義務教育が始まった理由の1つは、
「兵士たちに命令や情報を正確に伝えるため」だそうだ。

明治維新後の日本では、
教育は均質で命令に忠実な兵士を養成するために。

戦後の日本では、
教育はサラリーマンを養成するために。

いずれも
「その土地を征服した少数の支配者が、多数の現地住民を統治するため」
に作られたもので、少数の”普通じゃないトップ”を養成するためではない。


「普通でいるのが良いこと」と思わせ、
葛藤や苦しさを納得させるためだ。



もちろん、そのおかげで今がある。

これだけ恵まれた今があるのは、
普通を演じて働いている大多数のおかげ。

確かに社会”全体”は発展した。
決して「個人の苦しみ」が考慮されることのないまま。


4.普通が苦しいなら”普通なんて目指さなくていい”

「良い学校を出て、良い企業に入って、家族を養う」
「収入の高い人と結婚し、家庭に入って子どもを育てる」

それが”普通”であり、幸せのモデルだった時代もあった。
経済が上向きだったから、多くの人に実現の可能性があった。



しかし、収入が上がらないのに物価が上がる時代に突入した。

「良い企業」「結婚」など達成できそうもない人が増えたのに、
「普通の幸せのモデル」という残像だけが強く残った。


今、苦しそうな日本人が多いのはそのせいじゃないかと思う。



僕は上記のような”普通”にはとても届かない人生を送ってきた。
以前は普通になれない自分を呪い、苦しかった。

今は 「自分を押し殺して普通にならなくていい」 と思えるようになった。
それ以来、僕はずっと生きやすくなった。


非正規、低収入、家族なし、
それは”普通”とかけ離れているんだろう。

代わりに僕は好きなことをやって生きている。
バスケ、野球、ブログ、動画編集、読書…。

僕は普通じゃない自分に苦しむことがなくなった。



苦しいなら普通なんて要らない。
短い人生だ。自分がやりたいことをやればいい。







posted by 理琉(ワタル) at 19:44 | TrackBack(0) | 人生観

2022年03月11日

【うつ病経験】”生きている”と、”死んでいない”は違う。

僕は十数年前に、うつ病を発症した。

いまも抗うつ薬は欠かせないが、
自力で生活を送れるようになった。

仕事に行ったり、バスケや草野球に熱中したり、
こうしてブログを書いたりできるまでになった。



うつ病を経験して以来、つくづくこう思う。

「生きている」と「死んでいない」は違う

いったい何を言っているのか、と思われるだろう。

何をもって”死”なのか、脳死はどうなのか、
そういうことは難しくてわからない。

だから、これはうつ病経験者の個人的な感想。


ー目次ー
  1. うつ病はすべての気力を奪い、心を消し飛ばす
  2. うつ病の底に着くと、ただ死んでいないだけになる
  3. 人生に絶望できるうちは、まだ生きている
  4. うつ病になるのは、感情を抑圧しすぎたとき
  5. ”メンヘラ”を蔑称として使わないで
  6. ”生きている自分”の感情を大切に

1.うつ病はすべての気力を奪い、心を消し飛ばす

僕はうつ病を発症して数ヶ月後に仕事を辞めた。
そこから、さらに数ヶ月を寝たきりで過ごした。

目に映るのは、薄暗い部屋の天井だけ。
起き上がろうにも、身体が鉛のように重くて起きられなかった。

昼夜を問わず、すさまじい眠気に襲われた。
それもつらかったが、何よりつらかったのは、

「何をする気力もわいてこない」 ことだった。

”何を”とは仕事や趣味などという、高度なことじゃない。
「指を動かそう」「目を開けよう」という気力すらわかないのだ。



この期間、僕は死んでいなかった。
いや、死んでいないだけで、生きてはいなかった。

細胞やら何やらが稼働して、生き物としては維持されていた。
しかしそれは、 ”ヒト型をした空っぽの入れ物が横たわっているだけ”だった。

ただ空虚だった。
自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかもわからなかった。

まるで、心が消し飛んでしまったようだった。

2.うつ病の底に着くと、ただ死んでいないだけになる

僕にはバスケという生きがいがあったおかげで、
立ち直ることができた。

動けるようになるにつれて、
自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかが、
少しずつわかるようになっていった。

この経験から、僕は

・”死んでいない”とは
「心が消し飛んだか、マヒした状態」

・”生きている”とは
「自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかがわかる状態」


ではないかと思うようになった。



突き詰めれば
「心なんてない、すべては脳の電気信号」なんだろう。

あらゆる感情は、脳が作り出した
「生き残るための指示の副産物」かもしれない。

そうだとしても、寝たきりだった頃の僕は、
脳がどんな信号を発しているかもわからなくなっていた。

3.人生に絶望できるうちは、まだ生きている

うつ病の進行から回復には、大きな波がある。

発症すると、短期間でどん底へ落ちる。
身体が重くなったり、眠気に襲われたりする。

その間の気分は、
「すべてをネガティブに捉える」「深く落ち込む」から、
やがて絶望へ変わっていく。

「生きていても仕方ない」とか、「自殺」とか、
うつ病と聞いて浮かぶイメージ通りの思いが頭を支配する。
これが「希死念慮」だ。



そして、本当に底の底まで落ちると、
絶望も希死念慮も消し飛ぶ。


自分の目は、薄暗い部屋の天井を映しているだけ。
自分の手足は、布団に横たわっている感触があるだけ。

何も感じない。
ただの装置と化した自分に対しても、何も思わない。
今後の人生を憂うことも、生きていても仕方ないと自責することも。


だから、



人生に絶望できるうちは、まだ生きている。



自分を諦めることも、絶望もできなくなったとき。
それが”生きている”から”死んでいない”に変わるときだ。

4.うつ病になるのは、感情を抑圧しすぎたとき

人はどんなときに、うつ病になってしまうのか。

僕は専門的なことはわからないが、
「長期間、我慢しすぎたとき」 だと思う。

その我慢は本人が無自覚な場合が多い。
まるで起床したら顔を洗うかのように、
我慢が生活のルーティンになっている。



その我慢の中身は何かというと、
「自分の感情の抑圧」 だ。

たとえば、

・親から怒鳴られたが言い返せなかった
・やりたくない塾や習い事をやらされたが拒否できなかった
・ケンカばかりする両親のために作り笑顔ですごした
・学校でいじめられても相談せずに耐えた

ときに、怒りや悲しみを抑圧する経験を繰り返すこと。

感情を表現したら親に捨てられる、
あるいはクラスメイトに嫌われる。

それを避けるため、生き延びるために、
人は自分の感情を押し殺してしまう。



「沸き上がった感情なんて一時的なものでしょ?
 その場を乗り切れるなら抑えたって問題ない」


僕はうつ病を患うまでそう思っていた。
だけどうつ病を経験して、骨身にしみてわかった。

感情を抑えても、その感情は消えずにたまっていく。



「私は我慢しすぎました」などと、
悲劇のヒロインを演じたいわけじゃない。

ただ、僕は痛い目にあったことで、
感情の抑圧が当たり前になることが
いかに危険かを理解したつもりだ。

自分では感情の抑圧に気づかなくても、
身体には確かに、うつ病のトリガーとして刻まれている。


5.”メンヘラ”を蔑称として使わないで

和を重んじ、我慢を美徳とする日本がなぜ、うつ病大国なのか。
空気を読み、控え目が好まれる日本がなぜ、自殺大国なのか。

それは常に、上の立場の者が、
下の立場の者の感情を押さえつけてきたからじゃないだろうか。




心を病んでしまった者に対して、
気軽にこんな言葉が投げかけられることがある。

「メンヘラ」

気軽に使われるのは、
精神疾患が広く認知され、市民権を得たからかもしれない。
その気軽さで、精神疾患の恐ろしさが広まってくれるなら嬉しい。

だけど「メンヘラ」はしばしば
”めんどくさいかまってちゃん” という意味での蔑称として使われる。


「あいつウツだって、メンヘラかよ」

そんな心ない言葉が、あまりにも気軽に誰かを傷つける。



僕はこれも
「上の立場の者が、下の立場の者の感情を押さえつける国」
の弊害じゃないかと思う。

彼らはいつも、誰かより優位に立てるチャンスに飢えている。
「自分はメンタルを病むようなヤツより強い」 と思いたがっている。


なぜなら、ずっと感情を押さえつけられてきたからだ。
「下の立場になると押さえつけられる」という恐怖があるからだ。

6.”生きている自分”の感情を大切に

うつ病になると、本当に何もできなくなる。
数ヶ月から年単位で、人生の貴重な残り時間が奪われる。

薬で症状を抑えている場合は、言い方は悪いが ”薬漬けの身体” になる。
抗うつ薬や睡眠薬を切らすと、禁断症状に苦しむことになる。

また、うつ病は再発率が6割と言われている。

回復しても、心が壊れやすくなっているので、
ちょっと無理をすると簡単に病む。


以前はあったはずの”万全な状態”を感じられないまま、
立ち直れずに自殺してしまう人もいる。



だから僕は、うつ病から生還できた1人として願う。

どうか、「メンヘラ」という言葉を蔑称として使わないでほしい。
どうか、精神疾患を「気持ちの問題」と切り捨てないでほしい。

どうか、”死んでいない自分”になることのない人生を送ってほしい。
どうか、”生きている自分”の感情を大切にしてほしい。











posted by 理琉(ワタル) at 19:54 | TrackBack(0) | 人生観

2022年03月08日

大人になることは幸せか。

ー目次ー
  1. ドラえもんの言葉”おとなってかわいそうだね”
  2. 大人になるとは”逃げられない終身刑”の受け入れか?
  3. 大人を押し付け合う人たち”いい歳した大人が”
  4. 子どもの欲求を満たしてもらえなかった”子どもっぽい大人”
  5. 大人を強要するのは”親に甘えたかった欲求”を押し殺しているから
  6. 大人が『パパもあまえんぼ』に涙する世界は幸せか?

1.ドラえもんの言葉”おとなってかわいそうだね”

ドラえもんの名作に
『パパもあまえんぼ』 というストーリーがある。

のび太のパパが酔っぱらって帰宅。
ドラえもんとのび太は「パパの親に?ってもらおう」と思いつき、
タイムマシンで過去へ行く話。

過去へ着き、
のび太のおばあちゃん=パパの母親と再会したパパは、
おばあちゃんに泣きつき、こう叫ぶ。

「いじわるな部長が僕のことをいじめるんだ」

その光景を見たドラえもんがこう言う。

おとなってかわいそうだね。
自分より大きなものがいないもの。

よりかかってあまえたり、
しかってくれる人がいないんだもの。


『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 5』 ”パパもあまえんぼ” より


大人とは何だろう。何をもって大人になるんだろう。

ドラえもんの言うように
”自分より大きなものがいない人”が大人だとしたら、

大人になることは本当に幸せなんだろうか。


2.大人になるとは”逃げられない終身刑”の受け入れか?

大人とは、
年齢を重ねて、外見がそれっぽくなった人だろうか。
「守られる者」から「守る者」になった人だろうか。

それとも、ドラえもんがパパに感じたように
「寄りかかって甘えたり、?ってくれる人がいない存在」
になった人だろうか。

もし大人が

・他人に甘えてはいけない
・弱さを見せてはいけない
・我慢しなければいけない
・誰かを守らなければいけない

ことを強要される存在なら、
僕は一生、大人になどなりたくない。




僕がのび太くらいの年齢だった頃、
まわりにいた”大人”たちはみんな苦しそうに見えた。

家族を養う人も、1人で生活の糧を稼いでいる人も、
みんなみんな苦しそうだった。

僕には彼らが抑えている我慢の”カタチ”が見えていた。
時折、爆発する矛先が、いつ自分に向けられるかと恐れた。

そんな大人ばかり見て育った僕は、
自由を奪われることや、重責を背負うことを極度に嫌うようになった。

僕はこの頃から、家族や子どもを持つことを
「逃げられない終身刑」 と捉えるようになった。


3.大人を押し付け合う人たち”いい歳した大人が”

「子どもっぽい言動」をする人に対して、
大人と呼ばれる人たちの反応は冷たい。


「いい歳した大人が」
「大人のくせに」
「我慢しなさい」


たとえば30歳の人が、25年前に同じことをしても、
「仕方ないね」「子どもだからね」で済まされる。

なのに25年後には「いい歳した大人が」と非難される。
この差は何だろう。

きっと、「いい歳した大人が」と言う背景には、
その25年で社会の掟を学んだはずだ という期待がある。


そして、「いい歳した大人が」の辛辣さを高めるのは、
その人の「大人とはかくあるべき」という理想像との差分。



外見がそれっぽいというだけで、互いに
”大人でなければ許さない”という同調圧力をかけ合っている。

ただ25年の時間が流れただけ、というのも許されず、
常識という付加価値が増えていって当然とみなされる。

それ、大人になった人も、大人を強要される人も、苦しくないの?

4.子どもの欲求を満たしてもらえなかった”子どもっぽい大人”

「いい歳した大人が」と言いたい気持ちもわかる。

円滑に生きるためには、自分を抑える場面などいくらでもある。
自分が我慢していることを平気でする相手が許せないのもわかる。

ただ、他人に「いい歳した大人が」と言う人には、
1つ見落としていることがある。

子どもっぽい大人は子どもの頃、
 のび太のパパのように甘えることができたのか?


という視点だ。



子どもっぽいことをするのは、
子どもの頃に、子どもの欲求を満たしてもらえなかったから。


子どもの頃に、親に寄りかかって、泣いて、
思う存分、甘えることができなかったから。


「中身が子ども」という言葉はたいてい、
子どもっぽい大人をけなす意味で使われる。

だけど、僕はその使われ方に違和感を感じる。
「中身が子ども」という言葉は、

満たされなかった子どもの欲求を抱えたまま、
 身体だけ成長した悲劇


を表していると思う。

5.大人を強要するのは”親に甘えたかった欲求”を押し殺しているから

「いい歳した大人が」と言う人はきっと、
親に甘えたかった欲求を封じ込めている。


ドラえもんの言う「かわいそうな大人」を無理やり演じている。
だから余計に、子どもの欲求を露出する人に敏感になる。

子どもの欲求を封じ込めた自分 と、
子どもの欲求を親に満たしてもらいたかった自分 がぶつかる。


その葛藤を感じないために、
子どもっぽい大人を非難して自分を保っている。



『パパもあまえんぼ』のような作品が創られ、多くの人の涙を誘うのは、

親に甘えたくて、甘えられないまま、
 子どもの欲求を封じ込めて生きている大人がいかに多いか

 のび太のおばあちゃんのように子どもの気持ちに共感し、
 何も言わずに包み込める親がいかに少ないか


という現実を表している。

6.大人が『パパもあまえんぼ』に涙する世界は幸せか?

大人になるとは、

 「あなたはこの先ずっと支える側です」
 「あなたは支えられてはいけません、大人なんでしょ?」

という終身刑を受け入れることだろうか。

・世の大人が『パパもあまえんぼ』に涙しなくていい世界
・『パパもあまえんぼ』という作品が存在しなくていい世界


などは、空想の中でしか存在できないんだろうか。


大人とは、
「学べよ」「成長しろよ」「我慢して当然」「年相応」
という重圧の押し付けを受け入れることだろうか。

なぜ、生きている年数に応じて”大人”を強要されるんだろうか。
まわりに大人を押し付け、自身は大人を演じる人たちは幸せなんだろうか。



のび太の目に、パパはどう映っているんだろうか。
”幸せに生きている人”か、”苦しみを押し殺して生きている”人か。

大人を強要し合い、苦しみを相互監視する世界を見て、
「大人になりたい」と思う子どもがどれだけいるだろうか。



大人になるとは、本当に幸せなことだろうか?




U-NEXT『とっておきドラえもん わきあいあい家族編』



posted by 理琉(ワタル) at 19:35 | TrackBack(0) | 人生観

2022年03月04日

勧善懲悪が人気なのは、救済願望を満たしてくれるからではないか。

ー目次ー
  1. 勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”
  2. 救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む
  3. 勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる
  4. 熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信
  5. 救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”

1.勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”

多くの男の子が、
「戦隊ヒーローアニメ」にハマった時期があると思う。
僕も幼少期は戦隊ヒーローアニメが好きだった。

戦隊ヒーローアニメは1つのシリーズが終わっても、
新たな「●●レンジャー」シリーズが始まる。
観る人を飽きさせず、続編へ引き込む魅力がある。



なのに、僕はなぜか1つのシリーズが完結した時点で
「戦隊ヒーローアニメが好きな時期」が終わってしまった。

まわりの男の子が好きな戦隊ヒーローアニメの話で盛り上がる中、
僕はこんな思いを抱えていた。

 『怪獣さん…あんなに打たれて、殴られて、最後は爆発して…
  さぞ痛かったろうな、苦しかったろうな…』

 『生まれ変われたら、もう戦わなくていい人生になってほしいな』

『怪獣たちはどうして退治されなきゃいけないんだろう?
  どうしていつもレンジャーが勝つんだろう?』

『どうして”悪が倒される絵”は、こんなに多くの人を惹きつけるんだろう?』




僕は「勧善懲悪」モノのアニメやドラマを、素直に楽しめなかった。

懲悪される側が切られたり、殺されたりするたびに、
自分がそうされたように感じた。心が痛かった。
退治された側の姿に感極まって泣いたこともあった。

いつも懲悪される側の気持ちと一体化するクセがついた僕は、
「勧善懲悪はおかしくないか?」と思い始めた。

善が悪を退治する、それはあまりに一方的だ。
なのに、短期間でも戦隊ヒーローアニメが好きだった自分もいた。

「自分の中にも、善が悪を退治することを肯定する気持ちが潜んでいる」
それを受け入れるのがつらかった。

2.救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む

勧善懲悪モノや、戦隊ヒーローモノがどれだけ好きかは、
「その人がどれだけヒーローを求めているか」 に比例すると思う。

何を救ってくれるのか、それは
「自分の人生を救ってくれるヒーロー」 だ。

・自分が理想とする人生と、現在の自分の人生がかけ離れている
・自分はいちばん愛されたかった人にさえ、愛されない存在だと思い知る
・自分の無力さ、凡庸さ、何も成し遂げられない苛立ち

そういった無力感や敗北感を強く味わった人ほど、
”自分を救済してくれるヒーロー”の登場に心が踊るんじゃないだろうか。




対する悪の怪獣は、たとえば

・学校でいじめられた
・親が関心を向けてくれなかった
・部活でレギュラーになれなかった
・お金持ちになれなかった
・出世できなかった

などの、 「自分に無力感を与える何か」が化けた姿 だ。

そして、”自分の無力感が化けた悪の怪獣”に立ち向かい、
自分を救ってくれるヒーローこそが水戸黄門であり、レンジャーだ。

正義のヒーローが悪を倒す、その熱狂の根底には、
「自分の人生を一発逆転してほしい」
という救済願望があるんじゃないだろうか。


3.勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる

水戸黄門もウルトラマンも、戦隊ヒーローシリーズも、
いまだに高い人気を誇っている。

なぜ勧善懲悪モノは、これほど広く受け入れられるのか。

その理由は
・ヒーロー:自分の人生を救ってくれる存在
・悪の怪獣:自分に屈辱感を与える何か
だとしたら、

「自分はこんなものじゃないはずなのに、くすぶっている」
 という思いを隠し持つ人に、強烈に刺さるから


ではないかと思う。



自分は本当は怪獣に打ち勝てるはずなのに、現状に甘んじている。
その怪獣を倒してくれる、理想の強さを備えたヒーローが現れてくれる。

一方で、
「自分の人生にはヒーローなど現れない、現状は自分で変えるしかない」
ことも、うすうすわかっている。


・自分の無力さと向き合うことへの葛藤
・善悪と真っ二つにできない現実世界
・どこまでもグレーで、正解へたどり着けない苦しみ

勧善懲悪モノは、それらをきれいに割り切ってくれる。
葛藤から解放してくれる。


だからこそ、救済願望を抱えた多くの人に
受け入れられるんだと思う。

4.熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信

僕が勧善懲悪モノに違和感を覚えたのは、

 「一方的に善を主張する者たちが
  一方的に悪と決めつけられた者たちを粛清する」

ことに疑問を持ったからだ。
ある日、 ”退治される側の視点” に気づいてしまった。



では、なぜ”退治される側”からヒーローを見るようになるのか。
なぜ勧善懲悪モノを楽しめなくなる人が出てくるのか。
それは、何かをきっかけに

悪の怪獣を
”自分に無力感を与える何か”に置き換えられなくなったから


ではないか。



そして、怪獣をそんな目で見られなくなる理由は
「何が来ても自分で倒せるようになったから」
「ヒーローが必要なくなったから」
というポジティブなものではないと思う。

自分の人生にはヒーローなど現れないことが確信に変わったからだ。

良く言えば「悟った」
悪く言えば「諦めた」
そんな境地へたどり着く出来事があったとき、
人は勧善懲悪モノへの熱狂が冷めるんじゃないだろうか。

5.救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”

世の中には
「人生の幸福度を上げよう」
「一度きりの人生、やりたいことをやろう」
という言葉があふれている。

みんなが幸せを感じているなら、
世の中にそういうポジティブな言葉があふれるだろうか。

それは裏返せば、多くの人が
「生きることは、苦しみの方が何倍も多い」
ことに気づいているからじゃないだろうか。




人生には幸せの方が多いなら、
どんな怪獣が現れても自分で倒せるなら、
ヒーローなど必要ない。

なのに勧善懲悪モノがこれほど受け入れられるのは、
ヒーローに救われたい人がそれだけ多いから だ。


勧善懲悪モノは、
多くの人が心の奥底に抱える葛藤に応えてくれる。
正解のない答えを選び続ける苦しみを、一刀両断してくれる。
「自分の理不尽な苦しみには意味がある」と思わせてくれる。

だから、

「一方的な正義が、一方的な悪を討つ」

という構図はこれからも、
人間の救済願望を満たし続けるんじゃないだろうか。










posted by 理琉(ワタル) at 19:49 | TrackBack(0) | 人生観

2022年02月21日

反出生主義は、親に愛されなかった者たちがたどり着く救済思想。

ー目次ー
  1. 反出生主義は、親に愛されなかった者たちの救済思想
  2. 自己肯定感ブームの裏にある、自己否定と絶望
  3. 愛着障害と欠乏感、生後2〜3年で決まる”運ゲー”
  4. 反出生主義にある安心感、”生物の義務”からの解放
  5. 反出生主義者の役割、”苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない”

1.反出生主義は、親に愛されなかった者たちの救済思想

僕は 『反出生主義』 に賛成です。

人は生まれなければ苦しまなくてすむので、
人間の新規作成はやめた方がいいと思います。


僕は自分の代でこの家系を断絶させたいと思っています。

何万年も続いてきた自分の遺伝子が
途絶えることにロマンすら感じています。

反出生主義には
「出産行為は産まれてくる子どもへの暴力・親のエゴ」
と考える側面もあるようです。

同意はできますが、すべての出産を悪だとは思いません。
あくまで自分が肯定的に思うだけで、
他人に押し付けるつもりはないです。



昨今は僕のように、
反出生主義に賛成する人が増えているそうです。

それは、現代社会には
「生まれなければよかった」
「こんなに苦しいならもう生きていきたくない」

と、絶望している人がいかに多いかを物語っています。

そして、僕を含め、
反出生主義に賛成する人には共通点があると思います。

それは
「親からの愛情や共感的な応答を受けられずに育ったこと」 です。

そういう人たちにとって、反出生主義は救済の思想です。

「せめて自分が愛されなかったことに意味がほしい」
という叫びに理屈を付け、救われた気にさせてくれます。

2.自己肯定感ブームの裏にある、自己否定と絶望

昨今は 「自己肯定感ブーム」 です。

・自己否定を止めましょう、自己肯定感を持ちましょう
・承認欲求に振り回されないようにしましょう
・何事もポジティブに捉えましょう
・幸せは心の持ちようです

自己肯定感を上げるための書籍や、
カウンセリング、セラピーが大盛況です。

なぜ、自己肯定感が声高に叫ばれるのか。
理由はそれだけ 「自己否定に苦しむ人が多いから」 でしょう。

「自己肯定感ブーム」とは、
自己否定に苦しむ人の救済が巨大なビジネスになった結果です。



自己肯定感の源である「自分への自信や安心感→愛着スタイル」は、
生後3歳くらいまでに作られるそうです。


・自分が求めた時に、親から共感的な応答をしてもらえたか
・十分に共感的な愛情を受けて育つことができたか

それによって、安定した愛着スタイルを身につけた子どもは、
「自分を信じられる」「自分を肯定できる」ようになります。

この時期に親から放置されたり、
求めても気持ちを無視した対応をされると、
子どもは「自分は親からも関心を持たれない存在だ」と学習してしまします。

これが自己否定の根源になります。
後からどれだけ自己肯定感を持ったつもりになっても、
心のいちばん奥底では常に自分を否定し続ける ことになります。


3.愛着障害と欠乏感、生後2〜3年で決まる”運ゲー”

心の奥底に自己否定が根付いてしまうと、

・見捨てられるのが不安で他人の顔色をうかがう(不安型愛着スタイル)
・他人と親密な関係になることを回避する(回避型愛着スタイル)

という、愛着障害に苦しむ人生になります。


愛着障害を抱えて育つと、
「自分は何があっても大丈夫」
「必ず助けてくれる人がいる」
という自信を持つことができません。

なぜなら、自分を生んだ親ですら、
自分に興味も愛情も示してくれなかったからです。



「心が逃げ込める安全基地」がないので、
常に地盤がグラついている感覚がつきまといます。

いつも心に欠乏感を抱え、
何かを達成してようやくゼロになります。


よほどのことがない限り、人生はマイナス。
苦しみや孤独、寂しさ、悲しみでいっぱいです。

そして 人生にはリセットボタンがありません。
3歳に戻り、親に愛着スタイルを作り直してもらうことは叶わないんです。

生後2〜3年までという、
自分ではコントロールできない期間に、親に愛されたか否か。

それ次第で生涯、自己否定し続けるかが決まるなんて、
残酷な「運ゲー」 です。


完全ランダム、チャンスは1度、リセット不可だからこそ、
「親ガチャ」 という言葉が多くの人の心に刺さるんでしょう。

4.反出生主義にある安心感、”生物の義務”からの解放

そうやって、ぬくもりや共感を知らずに育った人は、
次第にこんな思いへ傾倒していきます。

・こんなに寂しくて、悲しくて、孤独な思いをする人間を再生産したくない
・そもそも生まれなければ、こんなに苦しまなくていい


反出生主義に賛成する人は、こうしてできあがるんだと思います。



反出生主義は、愛情不足に苦しんで育った人には、
とても魅力的で合理的に見えます。

「自分のように孤独や欠乏感に苦しむ人間を、
 少なくとも新規作成しなくてすむ」

そう思うとまるで、「子孫を残し、種を維持せよ」という、
生物としての義務感から解放されたような安心感 さえ覚えます。




また、反出生主義はこれまで、
「親のせいにするな」と言われて
黙らされてきた人たちにとっても救いになります。

「親からの愛情に恵まれなかった?
 もう大人なんだから親のせいにするな。
”親ガチャ”なんて言葉で親に責任転嫁するな

そう言われても、反論できなかった人たちはいるはずです。
でもこれからはこう言えます。

「だから自分は”もう大人なんだから親のせいにする”人間を
 これ以上、作成しないのだ。

 そう言うあなたたちは経験したことあるの?
 ”生まれなければよかった””存在を消したい”と
 自分を責め続けるほどの絶望を」




反出生主義は、
「自分は誰にも愛されない」
「自分に興味のある者などいない」
と苦しんでいる者に役割を与えてくれます。

「自分は誰にも愛されない」
「自分に興味のある者などいない」
と苦しむ人をこれ以上、生産しないことに貢献する、

という役割を。


5.反出生主義者の役割、”苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない”

ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは、
反出生主義を唱えた著名人の1人です。

ショーペンハウアーはなぜ、
反出生主義にたどり着いたのでしょうか。

それは彼自身が幼少期から、
母親からの愛情不足に苦しみ続けたからだと思います。

彼の母ヨハナは作家として大成する一方、
夫と結婚したのは「資産家だったから」でした。

生まれた息子アルトゥルの世話も
「人形遊びに飽きたから」 という理由で、
数年で愛情を注がなくなりました。

アルトゥルはわずか6歳で
「自分は母親にさえ愛されない存在だ」と悟り、
絶望に打ちひしがれたといいます。


そんな彼が反出生主義へたどり着くのは自然なことです。
母親からの無関心と、強まる厭世観の果てに、

「生誕などしなければ不幸が訪れることはないのだ」
という考えに至ることを、誰が非難できるでしょうか。



僕らの大半は「子孫を残したいと思う個体」です。

「子孫を残したくないと思う個体」は、
種の保存にとって危険なので淘汰されるはずです。

だから僕らは ”後天的なエラー個体” です。
それでも命ある限り生きていられるのは、
反出生主義に救済されているからでもあります。


「苦しむ人間をこれ以上、新規作成しない」
その役割をもって、 少しでも生きた証を残せた気になれるなら。








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posted by 理琉(ワタル) at 19:35 | TrackBack(0) | 人生観

2021年11月08日

スマホゾンビは格差社会へのあきらめの象徴ではないか。

スマホに夢中になるあまり、
周りで何が起きているのかさえ
気づかないような人を街で見かけることがある。

「スマホを支配しているのはあの人なのか、
 それともスマホがあの人を支配しているのか?」


『スマホ脳』 第6章 ”SNSー現代最強のインフルエンサー” より

僕は電車に乗ったときの、不気味な光景が怖いです。

それは右も左も、手前も奥も、
猫背のスマホゾンビであふれている光景です。




そして、そんな電車の中には不気味さと同じくらい、
疲れきった空気が充満しています。

誰も何も言いません。
ただ首を垂れ、取り憑かれたようにスマホを凝視するだけです。
ゲームやSNSが映った画面に、魂を吸われているようにも見えます。



スマホゾンビであふれる日本の電車内。
そこに漂う不気味さと、疲れきった空気。
僕はこの光景を見るたびに、

「スマホゾンビは格差社会へのあきらめの象徴ではないか?」

と思うようになりました。


ー目次ー
  1. ”頑張っても報われない現実”に気づいた日本人
  2. スマホ依存は”終わりなき劣等感を癒す場所”
  3. 日常すら手に入らないから”日常系アニメ”が増える
  4. スマホゾンビという抜け殻、スマホ依存は”ささやかな理想郷”への旅

1.”頑張っても報われない現実”に気づいた日本人

できるだけ長い時間
その人の注目を引いておくにはどうすればいい?
人間の心理の弱いところを突けばいいんだ。
ちょっとばかり ドーパミン を注射してあげるんだよ。

ショーン・パーカー(フェイスブック社 元CEO)

『スマホ脳』 第3章”スマホは私たちの最新のドラッグである” より

スマホの中の世界は依存物でいっぱいです。
その中身は「かもしれない」に対する期待です。


  • ゲームで勝てるかもしれない
  • ガチャでレアアイテムが出るかもしれない
  • SNSで「いいね!」が付いているかもしれない

これらを期待するとき、
脳には快楽物質ドーパミンが出ているそうです。

またこの快楽を味わいたくてスマホを手に取り、
いつの間にか依存していきます。



「歩きスマホは危険、止めましょう」
そんなことはさんざん言われています。死亡事故も起きています。

でも止められません。早くドーパミンを出したいから。
目の前の快楽に依存しなければいけないほど、追い詰められているから。
仮想世界へ逃避しなければいけないほど、現実がつらすぎるから。


<お金も仕事も奪われる若者>

日本全体の金融資産の6割は60代以上の人が保有していて、
39歳以下はわずか6%しか持っていません。

つまり、 もともとお金を持っている高齢者に、
貧乏な若者が年金を通してお金を渡し続けるシステム

でき上がっているわけです。
日本には高齢の経営者は幹部がいつまでも残り続けている企業が多く、
結果として経営が弱体化しているのです。(中略)

多くの組織で旧時代的な考えの人たちがまだ上の立場にいるために、
数々のばかげた不条理がまかり通っています。
<1人1票が表す不平等>

実は、39歳以下の若者が全員、投票したとしても、
40代以上の40%が投票すれば
その数を簡単に抜かれてしまうのです。
(中略)

どんなにすばらしい志を持っていても、
選挙で勝たなければ、政治家になることはできません。

だから、立候補者たちは 人口で勝る高齢者の喜ぶ政策
公約に掲げなくてはならないのです。

『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』 より

「格差社会」「デフレ」「失われた30年」と呼ばれ、
モノが売れない、給料が上がらない。なのに労働時間は上限なし。

職を探しても 低賃金の非正規雇用ばかり。

正規雇用の狭き門をくぐっても、
上のポストは高齢の役員で埋まっていて出世の見込みはない。

なけなしの給料から、もらえる保証もない年金を払い続ける。
それも「もともとお金を持っている高齢者」に。

「選挙に行けば、1票を投じれば、この社会を変えられるかもしれない」

そう希望を持ちたくても、
圧倒的に人口比率が高い高齢者の意見を覆せない現実。



そんな社会で生きてきた大人たちと、
そんな大人たちを見て育った次の世代。

彼らは、いえ、大多数の日本人は
気づいてしまったんじゃないでしょうか。

もういくら頑張っても報われない現実 に。





2.スマホ依存は”終わりなき劣等感を癒す場所”

勝利もお金も出世も、幸せの絶対条件ではありません。
それでも、人間は優越性を求める生き物です。

人間の心は、劣等感を正面から受け止めて生きるのに
耐えられるほど丈夫にできていません。


にもかかわらず、現実では
終わりなき劣等感から逃れられる者は一握りです。

そして、「その一握りになってやろう」という気力すら、
自分には残っていないと悟ってしまったなら。

「2位じゃダメなんですか?」
「心身をボロボロにして働いても報われないんですか?」


そんな叫びさえ、
資本主義社会の競争にかき消されるとしたら…。



スマホの仮想世界は、自分の思い通りです。

自分の好みのキャラクターに望みのストーリー。
敵キャラに勝つことも、レベルやお金をカンストすることも、
恋愛も結婚も、ヒーローになることもできます。

課金すれば、自分の分身を無限に強くできます。

それらは現実では決して手に入らない、いえ、
もう「手に入れてやろう」という気力すら
残っていないのかもしれません。




だから、せめて移動時間くらいは夢を見させてほしい。
つらい現実から目を背けて、自分の有用性を確かめさせてほしい。


会社では報われない仕事に疲れ、
家に帰れば孤独な家庭生活に疲れ、
それが良くなる未来すら見えない。

ならばせめて、誰にも邪魔されない時間くらいは、
この劣等感から逃げさせてほしい。

スマホゾンビ度が強い人ほど、
いつでもどこでも歩きスマホをする人ほど、
そんな「あきらめの悲鳴」が大きいのではないでしょうか。

スマホゾンビにとって、バスや電車、歩道は
「ひとときの癒しの場」 なのかもしれません。


3.日常すら手に入らないから”日常系アニメ”が増える

僕はアニメに詳しくありませんが、
最近は自分が子どもの頃よりも 「日常系アニメ」 が増えたと思います。

もちろん、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」など、
以前から人気の日常系アニメはあります。

それでも現在、街中で見かけるアニメキャラクターの多くは、
日常系アニメの主役である”かわいい普通の女の子”でしょう。



今の日本で日常系アニメが増えた理由として、
鋭い考察をしている方がいらっしゃいました。

なぜ日常アニメが今急速に増えているのだろうか?

大きな夢や壮大なものを思い描く想像力や体力はなくなり、
日本人は現在疲労しているのである。

もはや日本人は日常にさえ疲れるようほど体力がなくなった。
そしてその 「日常」さえ実は手に入っていない のである。
「リアルで頑張ることって意味があるのかな」
と考え始めた人たちが今バーチャルの世界に
これまでリアルで当たり前にあるはずだったものを
求めるようになっている。
頑張ることに疲れた、いや頑張っても夢がない社会になった。
日本人が現実に気付いてきた。

「そんな世界はない、高価な物なんて買えない、
 頑張っても夢をかなえられる人はごく一部」
だという真実に。

資本主義社会は残酷です。
「いちばん良いもの」「いちばん安いもの」
以外は生き残れず、つねに1位を獲るよう急き立てられます。

そこには圧倒的に大量の敗者が生まれます。



今やクレヨンしんちゃんの野原家は「勝ち組」で、
サザエさんの磯野家に至っては「豪邸」です。

「時代背景がちがう」
「高度経済成長期やバブル期が特殊だっただけ」
そんなことは言われなくてもわかっています。

現代は、かつて中流だった人から見れば「失われていく一方」です。
以前は当たり前だった”日常”すらも。


それが余計につらくて、屈辱なんじゃないかと思うんです。



自分が手に入れられない”日常”を「日常系アニメ」に求めること。
電車や歩道で、疲れた身体を丸めてスマホをのぞき込むこと。

この2つは ”救いを求める先”がちがうだけで、
根底にある「あきらめの感情」は共通じゃないでしょうか。


「理想の”日常”と、現実の間には大きなギャップがあるけど、
それを頑張って埋める意味あるの?頑張ったら埋まるの?

「スマホ依存症?歩きスマホは危険?興味ないね。
今、楽しければいいじゃん。今時、歩きながらでもゲームできるし。
 頑張ってもムダなんだから


そんな、悟りを開いたようなあきらめを、
胸にしまって生きているんじゃないでしょうか。

4.スマホゾンビという抜け殻、スマホ依存は”ささやかな理想郷”への旅

かつて、格差社会に絶望した農奴たちは、
反乱を起こして領主や王朝を倒してきました。

結果、そのリーダーの一部に富が集中し、
また反乱が繰り返されました。

20世紀、格差社会に絶望した労働者たちは、
格差をなくすために共産主義の国を作りました。

結果、「頑張っても給料は一緒だから」
人びとの勤労意欲が下がり、資本主義に移りました。

現在、資本主義を勝ち抜いた一握りの勝者と、
大多数の「2位の敗者」の格差が拡大しました。



平等では意欲が失われる。
かといって、追いつけないほどの格差がつけば、
意欲云々を通り越して”あきらめの境地”に達する。

スマホゾンビのうなだれた姿は、
奪われる意欲や、もう追いつけない格差への
”あきらめの境地”を表しているような気がします。


世界には全員が幸せになれるだけの富があるはずなのに、
全員に行き渡ることはありません。

そんな不条理に抗う気力もなくなり、手元にある薄い機械で
ささやかな”理想郷への旅”ができればそれでいい、 と。




電車に並んだ、猫背の身体たちは抜け殻。

彼らの心は、不気味さと疲れきった空気を残して、
”あきらめの果て”に旅立っているんじゃないでしょうか。








posted by 理琉(ワタル) at 19:25 | TrackBack(0) | 人生観

2021年11月02日

【死は悪なのか?】「生きることが苦しいなら死ねばいい」に嫌悪感を示す人の心理。

「生きることが苦しいなら死ねばいいじゃないか」

人前でこう言ったことはありませんが、僕は賛成です。
ただ、実際にこれを言うと多くの否定的な返答が予想されます。

「冷たい」
「命への冒涜」
「生きたかった人もいるのに」と。

もし有名人がツイッターで同じことをつぶやいたら炎上するでしょう。



それにしても、なぜこの世界では
「生きる=善、死ぬ=悪」のように語られるんでしょうか。


なぜ生きる権利には肯定的なのに、
死ぬ権利には否定的な風潮があるんでしょうか。

「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に
嫌悪感を示す人の心理とは何でしょうか。



ー目次ー
  1. ”私の方が不幸なのに我慢して生きている。なのにあなただけ”
  2. ”あなたが死んだら悲しむ人がいるから”は本質か
  3. 死への嫌悪感は、自分の嫉妬や被害者意識の裏返し?
  4. 支配者は”死”を悪者にしておく方が都合が良い
  5. ”生きる=善、死ぬ=悪”は、誰のためにあるのか

1.”私の方が不幸なのに我慢して生きている。なのにあなただけ”

結論から言うと、

『私の方が生きていることが苦しいのに
 お前だけ生きることから逃げるなんて許せない』


ではないでしょうか。



死を選択したい人はおそらく、
人生での幸福と不幸のバランスが

「幸福の量 <<< 不幸の量」
かつ、もうこれを覆す気力がないと確信したのでしょう。

そして、人生の幸福と不幸の量がわかるのは本人だけです。

傍から見れば楽しそうでも、
他人がうらやむような人生でも、
不幸かどうかの判断は本人だけができます。



「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に嫌悪感を示すのは、
誰かが死ぬのがイヤなだけではなく、

「苦しいから死ぬという”選択”が気に入らない」
のかも知れません。

そして、
なぜ死ぬ”選択”が気に入らないかというと、
「自分の人生の方がずっと不幸なのに」
と思っているからではないでしょうか。

死を、生きている限り続く苦しみからの逃げと
捉えているのではないでしょうか。


2.”あなたが死んだら悲しむ人がいるから”は本質か

「命は大切だから」
「親(神)から授かったものだから」
「自殺が禁止されている宗教もあるから」
「あなたが死んだら悲しむ人がいるから」


これらは一見、尊い理由ですが、
はたして死への嫌悪感の本質でしょうか。

「幸福の量 <<< 不幸の量」

この人生をもう覆せないと絶望し、
死を選ぼうとしている人に響くでしょうか。
第9講「自殺」

自殺が自己利益の観点から
合理的なものとして受け入れられるケースでは、
その人は死んだほうがましだ。


人生が今提供できるものが全体としてマイナスなら、
早く死んだほうが良い。

それはもちろん、死は”本人には”悪いわけではなく、
むしろ”良い”ということだ。
たとえ自殺者の家族や友人や愛する人に
嘆きや痛みをもたらすという、
自殺のネガティブな結果があるとしても、

もしその自殺者にとって死んだほうが本当にましなら、
そのネガティブな結果をすべて考えても、
なお本人の受ける恩恵のほうが優るかもしれない。


『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』 より


あなたが死んだら悲しむ人も、
親(神)から授かった命だから大切に思っている人も、
自殺したい本人ではありません。

「あなたが死んだら悲しむ人がいる」は
尊い意見ですが、それは周りの人の希望です。

「死を選びたい」という本人の希望を尊重していない、
形を変えた生の押しつけ でもあります。



だから、命の尊さや、生の奇跡を説いた意見は、
死を否定する理由の本質ではないと思います。

「不幸な人生からお前だけ逃げるなんて許せない」
これを”あからさまな生の押しつけ”とするなら、

「あなたが死んだら悲しむ人がいる」は、
きれいな理由で本音を隠している ようにも見えます。


3.死への嫌悪感は、自分の嫉妬や被害者意識の裏返し?

「苦しいなら死ねばいいじゃないか」に嫌悪感を抱く人も、
「生きる=善、死ぬ=悪」と考える人も、

本当は生きる苦しみから逃げられる他者へ
嫉妬しているんじゃないでしょうか。




もちろん、死んだ後のことは誰にもわかりません。
転生するのか、無になるのか、死後の方が苦しいのか。

もし死後の方が苦しいなら、きっと
「苦しいなら死ねばいい」を否定する人はいなくなります。
それなら生きている方が”まだマシだから”です。



死や自殺に過剰反応して否定するのは、
「死後のことなどわからないから怖い」という理由もあるでしょう。

ただ、それだけではなく、
「自分の方が苦しいのに逃げるのか」 という
嫉妬や被害者意識もひそんでいるように思います。


自分の現状への不満や、
世の中の不条理への怒りもあるでしょう。



でも、そういうドス黒い感情でいっぱいの自分など、
できれば見たくないのが本音です。

「自分が死や自殺を嫌悪する理由は、嫉妬や被害者意識かも知れない」
などと認めたくありません。


だから理由が必要になります。

死で逃げられることへの嫉妬を隠したい。
自分の黒い感情から罪悪感なく目をそらしたい。

そのために「悲しむ人がいる」「命の尊さ」などが
作られたんじゃないでしょうか。

4.支配者は”死”を悪者にしておく方が都合が良い

「生きる=善、死ぬ=悪」という風潮は
誰が作り出したんでしょうか。


・死を怖がるのは生き物の本能
・死に至るまでの苦痛が怖い
・だから死を忌み嫌うのは当然

本当にそれだけでしょうか。

「死ぬ選択はするなよ」みたいな相互監視の空気は、
生き物だからといって当たり前に作られるでしょうか。

「簡単に死を選択する人が増えたら都合が悪いから」
でもあるんじゃないでしょうか。



狩猟採集の時代は、
人手が減ったら食糧の調達が難しくなります。

危険な狩りで命を落とす人はいても、
そうでない場面で死なれたら集落全体の危機です。

農業革命の後は、一握りの支配者が民衆を動かします。

そのときもやはり、農作業の人手が減ることは損害です。
自分たちへの供物が減り、財を蓄えにくくなります。

強い軍隊を作るにも、人手は必要です。
戦争で損害が出るのは仕方ないにしても、
それ以外で簡単に死を選択されたら困ります。


”死への恐怖”が使えなければ、外敵を作り出すことも、
民衆の心の余裕を奪うことも難しくなります。



だから、支配者は「生きる=善、死ぬ=悪」
にしておきたいんじゃないでしょうか。

自力で生きていられる限りは、生きてもらいたい、
そして 自分の支配力を維持するために使いたい。


「人は使い捨てなのか」と、暗い気持ちになりますが
それが”死を悪者にしておきたい理由”の1つだと思います。

5.”生きる=善、死ぬ=悪”は、誰のためにあるのか

『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』
によると、英国で産業革命が起きた当時は
いま以上に”労働者は使い捨て”だったそうです。

ロンドンやマンチェスターには薄暗い工場が立ち並び、
子どもを含め多くの貧しい人たちが長時間、
過酷な労働に従事させられていました。
大多数の国民が
人間らしさを奪われた暮らしをしているのに、

何本かの道路を隔てた区画では、
一握りの富裕層がぜいたくに暮らしていた
ようです。



僕はこれを読んだとき、
「そんな苦しみがずっと続くなら生きなくてもいいのに」
と思いました。

「”貧しい工場労働者から抜け出してやる”という気概が足りない」
「苦しみにあふれた生の中で、小さな幸せを見つけて生きるんだ」
そういう意見はもっともです。

が、それはまるで
「他人のために無理やり生きさせられている」
「”生きる=善、死ぬ=悪”を押しつけられている」
ようにも感じるんです。



本人にとって圧倒的に「幸福の量 <<< 不幸の量」な人生、
なのに死を悪者のように否定する人がいる。

そこには自身の嫉妬や打算、被害者意識が
まったくないと言い切れるでしょうか。


「生きたかった人もいるのに」
「あなたが死んだら悲しむ人がいる」
それは死を選びたい人への嫉妬を隠すための、
”表面的な理由”じゃないでしょうか。

「生きる=善、死ぬ=悪」という風潮は、
本当に”生き物だから当たり前”なんでしょうか?









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posted by 理琉(ワタル) at 19:51 | TrackBack(0) | 人生観

2021年10月23日

【ブログ1000記事を達成】目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい。

2018年10月にブログを開設してからちょうど3年。
ついに1000記事の執筆を達成できました。

今回は1000記事への到達を記念して、
ここに至るまでに学んだことを書いてみたいと思います。


ー目次ー
  1. 毎日更新の挫折、完璧より”まずは世に出す”
  2. 目的も、方針もブレながら、人生が豊になった3年間
  3. ブログを通じて、親子問題に悩んだ自分の根源に気づく
  4. 目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい

1.毎日更新の挫折、完璧より”まずは世に出す”

実は、つい数ヶ月前までブログの毎日更新に挑戦してました。
結果は 「連続950日で挫折」 でした。

【ブログと向き合う】ブログ連続更新を950日でやめて思うこと。

毎日更新は
ブログ開設当初から目標にしてたわけじゃないですが、
いつの間にか生活ルーティンになりました。

区切りの「1000」には届かなかったけど、
今では挫折してよかったと思ってます。



1000記事を世に出したので、
昔の記事の書き直しもしていこうと思います。

昔の記事を読み返すと、
まとまりもなく、書き方も未熟で、顔から火が出ます。

ただ、全否定はしません。
当時の自分も否定することになるので。

Facebookを創設した
マーク・ザッカーバーグ氏の言葉を借りるなら、
完璧を目指すよりまず終わらせろ

Done is better than perfect.
だと思うことにします。

2.目的も、方針もブレながら、人生が豊になった3年間

この3年間、とにかくブレました。

  • 書きたいことを書くのか
    収益を出すために書くのか

  • 話題やトレンドに敏感になるのか
    雑記にするか特化にするか

  • ジャンルごとにブログを立ち上げるか
    このブログ1本でいくのか

  • このまま無料ブログで続けるか
    有料サーバーを契約してWordPressに移転するか


ブログを始めた当初から
明確な目的があったわけでもなかったので、
続けながら探してきました。

正直、いまもブレてます。
何がしたいのかわからなくなることもしょっちゅうです。



でも、ブログ毎日更新を挫折したときもそうだったけど、
「商用のブログを書く」のが楽しくない自分に気づきました。

もちろん、記事には本などの購入リンクを載せてますが、
そこへ誘導するのが第一目標じゃないというか。

「書きたい思いを書いて、それに役立ったから紹介」
という方が、自分の性分に合ってます。

「商売」「ビジネス」という面では、
まちがってるのかもしれません。

そういう目的でブログを運営している方からすれば、
「プロ意識がない」のかもしれません。



それでも、ブログを始めてから、
本当に自分が成長した実感がありますし、
人生が好転してきたのは事実です。


ほとんど読書の習慣がなかった僕が、
月に何冊も本を読むようになったり。

政治や経済に無関心だったのが、
気づけば「おもしろい」と言っていたり。

人間の心理に興味を持ったおかげで、
親子問題や人づきあいで苦労することが減ったり。

本当に、人生が豊かになっていきました。

3.ブログを通じて、親子問題に悩んだ自分の根源に気づく

今のところ、僕のブログでいちばん多い記事は、
親子問題やそれに起因する心理の考察です。

ブログ開設当時、すでに親と絶縁ずみだったくらい、
僕は親子関係で揉めてきました。

親子問題が起きるのはなぜなのか、
どんな心理メカニズムなのかを学ぶうちに、
僕が商用ブログを書くのが楽しくない理由もわかりました。

僕はずっと、

 『自分の素直な思いを言ってもいい場所がほしかった。』
 『自分の存在を許してほしかった。』

 『自分が何に興味を持ち、
  何を考えているのかに関心を持ってほしかった。』


からでした。

 ※商用のブログではそれに添えない、とは言いませんが、
  僕がブログに求めていたものとは何か違いました。

「特別扱いして」「ほめたたえて」とは思いません。

親にどんな崇高な思いがあろうと、
もう会いたくないし、許すこともできません。

でも、どんな確執があっても、
”あの人たちが親”という事実は消せません。


人生の途中で出会ったどんな人よりも、
親の特別さは心に刻みこまれています。

「自分の心から”親の特別感”が消えてくれたら」と、
何度も考えました。



僕は子どもの頃からずっと、 自分への空虚感や、
生への執着のなさ、死への肯定感に悩んできました。


ブログを書き始め、親子問題の勉強を進める中で、
その根底には

『僕は「親と呼ばれる人」ですら関心を示すに値しない人間なのか?』

という思いがあることに気づけました。

同時に、親が僕の内面に無関心だったのは、

「親も、自分の内面に関心を持たれたことがないから」
「親は自分の不安でいっぱいいっぱいだから」
「親が見ているのは”親自身”だけだから」


ということも学べました。

4.目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい

ブログに何を求めるかは人それぞれです。

僕も、今は 「自分の存在の許可証」みたいな位置づけですが、
変わっていくかも知れませんし、商用の何かを始めるかも知れません。

それでも、
ブログを始めて、1000記事まで続けてきて、
本当に良かったと思っています。


知識が増えて、悩みや苦しみに名前をつけられて、
「役に立ちました」という声もいただけて。

いまは充分に「自分の存在の許可証」になっています。



それと、
必ずしもブログを始める当初から
「明確な目標やビジョン」がなくてもいいと思います。


もちろん、あれば素晴らしいですが、
それは開始や継続のハードルを上げることにもなります。

たくさんの挑戦の1つとして、
「やりたいと思ったら始める、楽しければ続ける」
くらいでいいと思います。

自分にプレッシャーを与え続けるのが得意な人は、
ガツガツやっていけばいいし、

自分のペースで続けるのが得意な人は、
僕のように気楽に続けていけばいいです。



「目標は、やりながら探せばいい、途中で変わったっていい」

それが、1000記事への到達で出した、
いまの自分の思いです。






posted by 理琉(ワタル) at 19:49 | TrackBack(0) | 人生観

2021年07月24日

【ブログと向き合う】ブログ連続更新を950日でやめて思うこと。

先日、 ブログ連続更新を950日でやめた。

1つの目標としていた「1000日連続更新」に
届かなかったことは悔しい。



理由はいろいろあるが、
「更新のための更新」がつらくなったことが大きい。

ブログを書くことが楽しかった、
自分の内面を表現できることが嬉しかった、

はずなのに。

いつの間にか、
たかだか「毎日更新する」ためだけに、
寝る時間まで削って書いていた。



僕はたった今、大きな挫折をした。

そのはずなのに、
今はとてもすがすがしい気持ちだ。


それは、
いちど立ち止まり、自分のブログと向き合えたから。
ブログとの付き合い方を考えるきっかけになったから。




僕は何のためにブログを書いてきたのか?
副業を始めて稼ぎたいからか?それだけか?

ここまで続けられたモチベーションは、
本当に「稼ぎたいから」か?

「自分を表現できることが楽しいから」
ではなかったか?


一体いつから、
毎日更新すること自体が目的になった?




SEO対策
集客・マネタイズ
キーワード選定
マーケティング戦略
売れそうなジャンルを探す
etc…

そんなことをあれこれ考えて。

稼ぐことと、書きたいことの狭間で、
揺れながらブログを書いて、

楽しかったか?
つらくなかったか?
僕にとってブログとは何だ?


自問自答の中で、
「自分はブログを通して何がしたかったのか」に
気づくことができた。



それに、
「楽しさを忘れながら1000記事近く書いたこと」
自体からも、多くを学べた。


キーワード上位表示を狙って書いた記事なら、
「この記事ではGoogleに評価されない」
ことを学べた。

収益化を狙って書いた記事なら、
「こう書いても収益につながらない」
ことを学べた。

数々の失敗、挫折、苦しみ、寝不足は、
僕の財産として残った。




ブログで何の実績もない僕でも、
今ならエジソンのこの言葉を、少しは理解できるだろうか。

”I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.”
「私は失敗などしていないよ。1万通りのうまくいかない方法を見つけただけさ。」



posted by 理琉(ワタル) at 19:40 | TrackBack(0) | 人生観
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