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理琉(ワタル)
自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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2020年06月07日

オリジナルCD自主制作への道 〜CD手作り編〜。

「オリジナルCDを作りたい」

そんな目標を決めた僕は
音源の宅録と、CDの手作りに突き進んだ。

→宅録編
「オリジナルCD自主制作への道 〜宅録編〜。」



今回は、
不織布ケースを使った手作りCD制作
手順や経緯をシェアしたい。


ー目次ー
  1. 必要な材料と道具
  2. 作成手順
  3. 主な失敗談
  4. プリンタ感動秘話
  5. オリジナルCDは、自分で作れる

1.必要な材料と道具

当時はヨドバシカメラのラベルコーナーで調達。
便利な エレコムオンラインストア でも揃えられる。

材料


道具


2.作成手順

  1. PCに「ラベル屋さん」をインストールする

  2. 「ラベル屋さん」で
    ジャケット用紙とCD表面用ラベルをデザインする

  3. デザインしたラベルデータをプリンタで印刷する

  4. CD-Rに音源データを入れる

  5. CD/DVDラベラーを使い、CD表面用ラベルを貼り付ける


【Instagram】オリジナルCD完成

IMG_20200528_165614_440.jpg

この後、3曲入り、12曲入りなど数種類を作りながら、
1年間で手売り100枚を目指して動き出した。

3.主な失敗談

宅録時のような大騒ぎは少なかったものの、
プリンタの扱いなどで失敗を連発。

1.インクが切れる

プリンタを初めて持ったので、
インクがこれほど減り易いのかと驚愕。

さらにインクカートリッジの高額さにも驚愕。
原価の半分以上はインク代かも知れない。

2.デザインに凝りすぎて、デザイン自体が目的に

ジャケット、歌詞、CD表面の
デザインをあれこれ作ること自体に熱中。

一時期、デザインを作ることに目的がすり替わった。

3.CDを収納しずらい不織布ケースがある

不織布ケースの種類によっては、
口が狭い、厚みが足りないなど、
CDメディア本体をスムーズに収納しづらいタイプもある。

いきなり100枚入りを買うよりも、
少な目を買って見極めることも必要。

4.プリンタ感動秘話

必要な材料・道具の中で、
プリンタだけは予算の関係ですぐに調達できなかった。

宅録の時と同じように、
今回もお金を貯めて買おうと思っていた矢先。

なんと、僕の活動を応援してくれていた友達が
プリンタをくれた。

オリジナルCDを作っていることを伝えたら、
使っていないプリンタがあるからどうぞ、と。




本当に、感謝してもしきれない。
僕は精一杯にCDを作ることで恩返ししようと思った。

5.オリジナルCDは、自分で作れる

宅録を始め、CD手作りに進み、完成まで約半年。
プロが作った市販のCDとは比べるべくもない。

それでも。

オリジナルCDは、作ろうと思えば自分で作れる。
そんな挑戦を応援してくれる人がいる。




何かを作りたい、やってみたい。
そんな思いがあるなら。

やってみよう。大丈夫だから。



ーーラベル用品の購入はこちらーー

タグ: 挑戦 感謝

2020年06月06日

オリジナルCD自主制作への道 〜宅録編〜。

昔の写真を漁ってたら、2012年の宅録風景が出てきた。

【Instagram】宅録風景

IMG_20200525_162341_866.jpg

そうだ、あの頃の僕は、
オリジナルCDを作りたくて宅録機材を揃えたんだ。



今回は、僕が宅録に至るまでに何をしたか、
きっかけや経緯をシェアしたい。


ー目次ー
  1. 宅録のきっかけ
  2. 録音方法を調べる
  3. 録音機材を揃える
  4. いざ、宅録
  5. 主な失敗談
  6. 苦闘の末、音声データ作成に成功

1.宅録のきっかけ

当時、 シアーミュージック で音楽の勉強をしながら、
オリジナル曲もライブ経験も順調に増えていた。

「CDを作ってみたい」と思い始めた僕は、
制作方法を調べたり、ボーカルの先生に聞いたりした。

結果、

専門業者に発注すると、かなりの金額になる。
それに、 業者に立派なものを作ってもらったら、
何となく「自分で作った感覚」が薄い。


「うーん……。よし、自分で作ろ。」

2.録音方法を調べる

自分の曲に必要なのは2つ。

  • 鍵盤の伴奏
  • 歌声

これをどうやってPCに録音するか。必要なのは
「オーディオインターフェース」

これは音声データをPCで読めるように変換する装置。
写真におけるスキャナーのような役割。

「よし、機材を買い揃えよ。」

3.録音機材を揃える

録音方法がわかったところで、
宅録に必要な機材は以下の4つと判明。

  • 新しいPC
  • 電子ピアノ(録音機能つき)
  • オーディオインターフェース
  • マイク

これを1ヵ月に1つずつ、
若干の貯金と生活費の残りで買い揃えていった。

4.いざ、宅録

必要な機材がいよいよ揃ったところで、
ここからは実際に曲を演奏し、録音していく。

1.事前準備

  1. PC、電子ピアノ、マイク、
    オーディオインターフェースをつなげる

  2. PCにオーディオインターフェース附属の
    専用ソフトをインストールする

  3. 電子ピアノで伴奏を弾き、
    それを電子ピアノ本体に録音させる(カラオケ音源作り)

  4. 2.録音本番(一発録り)

  5. 録音したカラオケ音源を流しながら歌う

  6. 音声データを聴き返しながら、
    ボリュームバランスやエコーなど細部を調整する

  7. 気に入らない場合はまた歌う
    気に入るまで繰り返す

5.主な失敗談

知識も経験もない、ひたすらの手探り。
以下の3つどころではない失敗を繰り返す。
1.ピアノ伴奏を間違えまくる

「録音」ボタンを押さずに弾くのと、
押して弾くのとでは緊張感が違う。

そのプレッシャーに勝てず、
カラオケ音源を作るだけでテイク数十回。

ピアノ発表会だったら大失敗する性分。

2.音が割れる、無音

ボーカルとオケの音量バランス調整がうまくいかず、
音割れを繰り返す。

ソフトやオーディオインターフェースの
変なところをいじり、無音になって録り直しを繰り返す。

3.専用ソフトの用語に戸惑う

なにせDTMの知識がなかった。
インストールしてしばらくは用語の勉強に明け暮れる。

6.苦闘の末、音声データ作成に成功

そんな大騒ぎの末、
なんとか納得のいく音源が完成。

角の闇部屋が幸いし、苦情は来なかった。



CD-Rに入れ、ボーカルの先生に聴いてもらえたところで、

「よし、CDも自作しよ。」



こうして僕は、
ラベル用紙とプリンタの調達に進んでいった。



ーー社会人・未経験から音楽を学んだ『シアーミュージック』はこちらーー



2020年04月24日

『Zepp Tokyo出演オーディション』は、アーティストの夢を食い物にする罠だった。

音楽活動、モデル・タレント活動、アーティスト活動。
芸能活動は夢を売る仕事。

応援してくれる人がいる一方で、夢を食い物にする人にも遭遇する。
その時に、自分をどう守るか。




今回は、僕が音楽活動をする中で、

『Zepp東京イベント出演オーディション』と称して
60万円を払わされる寸前まで行った経験
を話してみる。


ー目次ー
  1. オーディション応募のきっかけ
  2. 一次審査・弾き語り披露
  3. 二次審査・個別面談は【壮絶な罵詈雑言の嵐】
  4. Zeppに出たければ60万円、即金で払え!
  5. ためらいなく、60万円を借り入れる彼を目撃
  6. 我に返り、断りの電話をかける
  7. 夢を売るには、立ち止まれる勇気が必要

1.オーディション応募のきっかけ

当時は シアーミュージック で音楽を学んで2〜3年目。

ボイストレーニングを受けつつ、空きブースをレンタルして自主練。
独学で鍵盤、作詞、作曲を進めていた。

オリジナル曲も、ライブ出演経験も増えてきたある日、

『Zepp東京でのビッグイベント、出演アーティスト募集』
という広告を見つけた。

「よし、東京進出の第一歩に、挑戦しよう!」

そう思った僕は、深く考えずに
東京で行われるオーディション参加申込を済ませた。

2.一次審査・弾き語り披露

オーディションは一次・二次あると知らされた。

一次審査は豊島区駒込。
そのイベントを主催する音楽事務所の
オフィス兼スタジオにて、オリジナル曲を披露する。

応接室から、順番にスタジオに入ると、
事務所の代表、プロデューサーを含む3〜4名の審査員が出迎えた。

僕は選曲に悩んだ末、 「きみらしく」 を歌った。
その場での評価や合否判定は特になかった。

3.二次審査・個別面談は【壮絶な罵詈雑言の嵐】

駒込での実技が終わった16時頃、
「代表がアーティストと1対1で面談したい」と告げられた。

個別面談の場所に指定されたのは、新宿駅すぐの
セガフレード・ザネッティ 新宿南口店

カフェに着くと、スタジオでは無口だった、
セミロングヘアのオールバック、サングラスをかけた代表が、
恐ろしい顔でこちらを睨みつけてきた。

そこから小1時間、

壮絶な罵詈雑言の嵐。

人格否定という言葉にすらできないほどの凄絶さ。
人間は本当に心が折れると涙すら出ないことを知った。


4.Zeppに出たければ60万円、即金で払え!

地獄絵図のような人格否定がおさまった頃、
少し口調をやわらげた代表がこう言った。

「Zepp東京、出たいか?
アーティストとして大成したいか?

Zeppに出たければウチの事務所に所属しろ。
お前をビッグなアーティストに育ててやる。

そのための勉強代だ。
所属料、レッスン料、合わせて60万円、即金で今すぐ払え。」




そんな大金、持ち合わせていないと答えると、

「すぐ向かいのビルにアコムが入ってる。借りて来い!」

怒鳴られるままにカフェを追い出され、指定されたビルに入ると、
消費者金融の無人契約機が並んでいた。

僕はあまりの恐怖と混乱で頭が真っ白になり、
契約機の前で立ち尽くした。


5.ためらいなく、60万円を借り入れる彼を目撃

僕がカフェを追い出されるのと入れ替わりで、
若い男性が代表の待つ席についた。

どうやら、僕の次に「個別面談」を受けた人らしい。

僕が無人契約機の前で立ち尽くしていると、
その男性がスタスタとアコムの契約機のカーテンをくぐっていった。


そして、

何ごともなかったかのように60万円を借り入れ、
スタスタと立ち去っていった。




え…?!本当に借りた…。

僕は我に返り、
シアーミュージック の先生や受付の方に電話をかけた。

音楽業界では、これが日常なの?おかしいんじゃない?
それを確かめたかった。

講師陣の答えは、僕の疑問と一致した。
僕は恐怖心と闘いながら、断る決意をした。

6.我に返り、断りの電話をかける

「無人契約機の操作がわからないなら俺に電話しろ」

そう言われ、教えられていた番号に電話をかけた。

「やはり60万円は払えないし、事務所への所属も
すぐには決められないのでお断りさせてください。」




僕がそう断った後は、
携帯スピーカーの限界強度に迫る、罵詈雑言と脅迫の嵐。



「俺がどれだけの大物とつながってるか、さっき名刺見せたよな?

圧力かけりゃ、お前を今後一切、
東京で活動できなくさせることぐらい容易いんだぞ?

お前の携帯番号は俺にバレてることを忘れたのか?
いつでも取り立てに行けるんだぞ?!」




代表が電話越しで怒鳴っている途中に、
僕は覚悟を決めて電話を切った。

もう一度、シアーの講師に電話し、断ったと伝えた。

すっかり暗くなった空を照らす、新宿のネオンがまぶしかった。

7.夢を売るには、立ち止まれる勇気が必要

その後、代表から脅迫めいた連絡が来ることはなかった。

カフェでのやり取りと、
電話での会話をもし記録していたら。
脅迫行為なにがしかで訴訟できたかも知れない。

残念ながら記録できなかったけど、
恐怖の中でよく立ち止まり、断れたと思う。



あの時、スタスタとアコムに入り、
ためらいなく借り入れた彼と鉢合わせなければ。
僕も同じように、大金を失っていたかも知れない。


あの時、突然の相談に親身に応えてくれた
シアー講師の皆さんには本当に感謝している。



何も知らない、大舞台を夢見る純粋な者。
それを食い物にして儲けようとする者。

上を目指す限り、どこかで必ず出くわす。

夢を売るには、騙されない知識と度胸、
そして、立ち止まれる勇気が明暗を分ける。






2019年07月30日

音楽活動を始めた本当の理由。

僕の音楽活動歴の中で今のところ最大規模、
東京、渋谷のライブステージで300人の前での演奏。

その時のMCで、僕が音楽活動を始めたきっかけを話した。

「僕はここに居る」ことを知らせていきたい、
自分は確かにここに存在していることを示していきたい、

そう語ったことを憶えている。



社会人になり、就職、鬱病になり退職と辿った後、
前々からやりたかったけどできなかったことをやろうと
シアーミュージック へ通い、音楽を学び始めた。

だから最初は、純粋に「やりたかったから」
音楽を始めたんだと自分では思っていた。



活動の場が広がるにつれ、別の目的も生まれていった。

始めて作詞に挑戦し、ノートが何冊も増えてくると
これは今まで抑えていた自己表現なんだと気づいた。

→「 作詞は最初の自己表現だった。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/47/0

病院演奏会のボランティアに参加し、
患者さんの前でオリジナル曲を披露した時は、

僕と同じように鬱病や精神疾患に苦しむ人を癒せる曲を
書きたい、届けたいという思いが生まれた。

→「 病院演奏会。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/44/0



だけど、これらを辿ってみると、
僕の心の奥に隠された本当のきっかけは、
作詞作曲やステージでの演奏などの自己表現を通じて
自分の存在を認めてほしかったからだと気づいた。

他のライブでも、MCや関係者さんとの会話などで
音楽を始めたきっかけについて話す時、必ず
「僕はここに居る」ことを示していきたいと
語っている自分がいた。



僕はここにいて、こう思ってる、こう考えてる、
こういう気持ちでいるんだよってことを
どうか聞いてほしい、認めてほしいという思い。

ちょっと卑屈な言い方だと、
僕の考えを誰か肯定してほしい、否定しないで聞いてほしい、
頭ごなしに押さえつけずに最後まで表現させてほしい、

そんな自分の存在に対する自信の無さ、
自分は無条件でここに居ていいんだという確信の無さを
自作の曲を通して表現していきたかったんだ。

今でもそうだが、僕はそれだけ自己肯定感が低くて、
根本的な問題である存在自体への確信を
自分1人では持ち切れていないんだ。

→「 無条件の愛情とは何だろう。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/244/0



こういう理由があったからか、僕は音楽活動で
色んなステージに呼んでもらえるようになってからも、

自分の存在や考えをもっと知ってほしい一方で、
有名人になりたくない思いも抱えていた。

とある市の地域アピールのPVに出演した時、
インターネットTV番組やラジオ生放送に出演した時、
初めて東京でのライブに呼ばれた時、

すごく嬉しかったし光栄なことと喜ぶ反面、
喜び一色でない自分、目立ちたくない自分もそこに居た。

たくさんの人に自分の存在、考え、意思を
知ってもらえるチャンスをもらったのに、

自分の存在を知ってもらうことへの罪悪感や
葛藤を抱えたまま出演してきた。
”自己承認への欲求”

自分が自分として承認されることが
あまりにも少なかった人生を通して、
ACは自分で自分を承認することすらできないで生きてきました。

それは彼らのしばしば口にする「居場所のなさ」の感覚、
「生きていてもいいのだろうか」
「この世の中に存在してもいいのだろうか」
という感覚とまったく重なるものなのです。


『「アダルト・チルドレン」完全理解』 第三章 より


音楽をやっていてステージに上がったことのある人なら
一度は抱いたであろう「注目されたい」という思い。

僕も例外なくその思いも抱えて出演してきたが、
こうやって分析すると「目立ちたい」とは少し違った。

もちろん、作詞作曲はボイストレーニングなどを学んだのは
心の底から「自分がやりたくて」始めたこと。

だけど根底では、自分自身の存在への自信のなさや疑い、
そして、何もしなくてもここに居ていいと許されたかった。

自分自身でそれを許せていなかったから、
音楽を作ることで求めたんじゃないかなぁ。


2019年04月18日

隠れボイスパーカッション。

人生で通算2人くらいにしか話したことがないが、
実は7年くらい前からボイスパーカッションをやっている。

誰かに習ったわけではなく、
楽しくてやっているだけなので大して上手くはない。

ついでに言うと、できてるのかすらも危うい。



僕は色んなジャンルの曲を幅広く聴くのも好きだが、
気に入った曲は一週間くらいひたすらリピートする。

そうするとコーラス、ベース、
ドラム?まで丸暗記レベルで覚えてしまう。

そして曲の大まかな構成を覚えてくると
ノリで適当にパーカッションを口ずさんでみる。



元々アカペラやコーラスが大好きで、
RAG FAIR のコーラスを全パート聴き取って

歌う時はリードではなく
わざと各コーラスパートを歌ったり真似したりしていた。

その内にコーラスだけでは飽き足らず
口だけで全て表現するボイスパーカッションにも憧れ、
見よう見まね、聴こう聴かね(?)で真似し始めた。



RAG FAIR で一番好きな代表曲
白い天使が降りてくる 」を初めて聴いた時、

6人しかいないのに
10人くらいで歌ってるような重厚なコーラスと、

ボイスパーカッションは1人なのに
3人いるような神業に圧倒された。

別々に録音して
後から重ねてるとわかってからも、

1つしかない口で3人分くらいの
パーカッションを表現しているおっくんは
化け物だと思ったのは憶えている。



聴こえてくる音を口で再現しようとしてるだけなので、
どの音がどの名前の楽器に対応してるかわからない。

ドラムを叩いたことがないのと、
最近まで「タム」の意味もわからなかったくらい疎い。

人生で通算2人くらいの前でやってみた時、
できてるみたいな感想だったので、
それっぽくは聴こえるんだと思う。



何も小道具がなくてもできる特技もどきだが、
お金がかからないし、地味に腹筋とブレスの量を使うので
楽しくも割とハードなコア運動になる。

2019年03月20日

電子ピアノとお別れ。

僕は現在、
・YAMAHA 88鍵 電子ピアノ(自宅用)
・YAMAHA 61鍵 キーボード(ライブ用)
の2台を持っているが、

今回、
7年間愛用して来た88鍵電子ピアノを売却。

今後はどうなるかわからないが、
当分は61鍵キーボード1台だけで身軽にやっていく。



理由はいろいろあるが、
整理し切ったと思ってた家の中が
まだ意外とモノで溢れていたことと、

あまり使わなくなって半年以上経ち、
自身のリセットの意味でお別れすることにしたから。



この88鍵ピアノを買った当時は、
なぜ4年も続いたかわからないコールセンター(受信)を
大きなクレーム続きで怒鳴られまくって辞めた後、

これまたなぜ合わない仕事に行ったかわからないが、
レンタカーショップの受付(3か月の短期)業務に
片道2時間かけて通っていた頃。

このバイトが割と高時給で、
宅録のための機材を順番に買い揃える過程で
本格的なピアノがほしくて買ったんだった。

→「 路上ライブ時代の話。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/45/0



僕の家に初めて88鍵のピアノが来た時の喜びは
今も忘れていない。

持ち運び用のソフトケースも買ったが、
ソフトとはいえ88鍵が入るキャリーケース、相当重い。

61鍵キーボードはこの後に買ったので、
当時はこの重いピアノを担いで東京へライブに行ったり、

野外フェスに出演したり、
PCと繋いで宅録しCDを手作りしたり、

思い出は数知れず。



僕はあまり”苦労”という言葉を使いたくないが、
この電子ピアノとは本当に苦楽を共にしてきたから、

絶対に泣かないと決めてさらっと売却したはずなのに、
お店を出てしばらくすると、号泣していた…。

家を出る時に撮り忘れた写真、
お店に着く直前に慌てて撮った。

映りが良いとは言えないし
辺りが暗いしで、いい写真ではないかも知れないけど、

20190319_171456.jpg

…また、泣いてしまう。

もう少し落ち着いてから見よう。



きみとの最終章。」でもそうだったけど、
僕は大切にしてきたモノへの感情移入が強いのかも知れない。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/71/0

買った時に置かれていた状況、
モノと一緒にどういう旅をして、
どんな景色を一緒に見てきたか。

思い出は音より映像で甦る。
どうしてもその時の感情の光が、
モノにも強く反射して、跳ね返ってくる。



…ダメだ、思い出したらまた泣けてくる。

もたもたせず、パッと行ってパッと売ってきたのが
返って未練がなくてよかったのかも知れない。

必要とされる人に使ってもらえたら嬉しい。
手放した分、新しい出逢いがありますように。

2019年03月07日

病院演奏会。

鍵盤弾き語りで音楽活動を始め、
オリジナル曲もようやく10に届こうかという頃、

病院での定期演奏会のボランティアに
参加していた時期がある。

※音楽活動を始めたエピソード。
24歳で鍵盤を始めた話。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/46/0

作詞は最初の自己表現だった。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/47/0



当時は僕自身が鬱病からの1度目の回復期であり、
精神疾患を患っている人へメッセージを届けたくて
作詞していた節もあったので、

最初にお話をいただいた時は願ったり叶ったりだった。

ただし今以上に下手くそだったため、
その点は大いに心配していた。



入院経験があって、
定期演奏会に患者として参加したことがある人に
観客としてどういう気持ちだったか話を聞いた。

彼らが口を揃えて言っていたこと、それは
「毎月楽しみにしていた」

腕前が未熟なことなど誰一人、気にしていなかった。



実際、僕のオリジナル「きみらしく」を演奏会で披露した時、
2番の途中からもう泣いている患者さんがいた。

たどたどしいピアノ、響きも深みも未熟な歌声、
だけど彼らに伝わったのはそういうことではなかった。

僕は自分を必要以上に下げていた。

※2019.3.19
 理琉 【オリジナル曲】「きみらしく」の歌詞を載せてみた。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/115/0



路上、ライブハウス、
リゾートホテル、スナック、野外フェス、

ありがたいことに
今まで色んな場所で歌う機会をもらってきた。

東京、300名収容のライブハウスが満席の中で
大歓声をもらって歌った時は身震いが止まらなかった。

だけど病院演奏会で、
僕の歌で泣いている患者さんと話した時は、

東京で300人の前でライブした時と
どちらが上かなんて到底比べられないような、
心が揺さぶられる喜びを感じた。

あの時に込み上げた気持ちは
今でも忘れられない特別なもの。



今でも下手かそうでないかと言ったら
間違いなく下手。

しかも自分が生活に困窮し、
また定期演奏会に参加したいという思いは空回り。

だけど、またあの特別な瞬間を共有しに
動き出してみたい。

2019年01月23日

作詞は最初の自己表現だった。

大学→新卒で就職→サラリーマンというレールを、
23歳で鬱病となり脱落しました。

直後から音楽を始め、自分の曲を作りたくなり
作詞を始めていきますが、

僕にとって作詞を始めたことが
自分の中でどのような位置付けだったかを
今回はお話したいと思います。
自分の曲を作りたくなったのがきっかけ

僕の音楽のスタートは
当時たまたま開校間近だったボイストレーニングスクール
シアーミュージック を見つけ、開校と同時に入学、

発声の基礎を学びながら
既存の曲を歌うことからでした。

1か月くらい経つと、既存の曲に飽き足らず
自分で曲を作りたい気持ちが強くなりましたが、

楽器経験がなかったので、
ペンとノートがあればできる作詞をとりあえず始めました。

なので当時は、
作詞をすることで何が変化するかを何も考えておらず、
ただオリジナル曲を作りたい一心でした。
溢れ出る言葉たち

僕は小学生の頃から
CDジャケット裏面の歌詞を読むのが好きでした。

人生で初めて触れたCDは
大黒摩季さんのアルバム「BACK BEATs 1」

※一番好きな曲は「夏が来る」
 人間くささというか、焦りや周りからの圧力に対し
 気丈に振る舞う現実感になんとなく惹かれました。



曲はもちろん聞いてたけど、
裏面の歌詞ノートをずっと読んでました。

作詞の専門的な勉強をすることはありませんでしたが、
歌詞の区切りや流れにずっと触れてきたので、
こういう区切りでまとめる、という感覚はありました。

いざ作詞を始めてみると、一番困ったことが
言葉が溢れ出てきて1曲に収まりきらないことでした。

最初はどうしても長くなってしまい、
まとめるのが大変でした。

作詞の勉強なんかしたことがないし、
歌詞が降りてこなくて苦労する話はよく聞くのに、

どうしてこんなに言葉が溢れるのか、
自分で気付いていませんでした。
気持ちを表現する場を求めて

溢れ出て書ききれないほどの言葉たちはどこからきたのかと
僕の半生と照らし合わせてみたところ、

父との関係(1) -小学校-」でお話した
自分の気持ちを押し殺す習慣が付いてしまったこと、
表現してこなかった家庭環境の影響がすごく強いと思います。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0

自閉してしゃべらない僕と、話を聞く習慣のない父
という組み合わせは会話の諦めを生み出し、

話が通じない人とわかった時点で口を開くことを放棄、
自分の気持ちを押し殺す児童が完成してしまったんですね。

作詞を始めた動機の中に、最初からあったわけじゃないけど、
僕は自分の気持ちを表現する場を求めていたことがわかりました。

黙って自閉してばかりで感情を表に出さず、
能面のように表情も消して、

誰かに気持ちを伝えることを諦めていたようで
実は伝えたくて仕方なかったんです。

作詞を始めたことで、こんな自分に出逢えるなんで
夢にも思っていませんでした。
僕にとっての作詞の位置づけ

気持ちを表現する場、というのは後付けで、
やってみる過程で見つかったものですが、

心の奥底で、
自分の気持ちを伝えたいと思っていたことは
誰よりも僕自身が気付いていませんでした。

気持ちに蓋とよく言われますが、
無意識に蓋をしたまま15年以上過ごしてきたことに
図らずも気付きました。

作詞作曲をする人の目的は本当に様々だろうけど、
僕にとって作詞は、

目を背けていた自分の気持ちと向き合うこと
嘘を付いていた気持ちの蓋を外すこと


という位置づけで、とても大切な時間です。

作詞ノートの初期の作品、
読み返すと恥ずかしいくらいの駄作もあるけど、

決して消さずにとっておきます。
同じ言葉は二度と出てこないから。




2019年01月22日

24歳で鍵盤を始めた話。

「路上ライブ時代の話。」でちょっと触れましたが、
タイトルの通り、僕は24歳で鍵盤を始めました。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/45/0

幼少からピアノに対する憧れ、
弾いてみたい気持ちはあったものの言い出せず、

音楽を始めたことをきっかけで
長年の夢だった鍵盤に触れていくことになります。
やりたいことは残さずやりたくてピアノを始める

小学校の合唱でピアノ伴奏を担当する同級生を
羨望の眼差しで見ていました。

しかし、幼少からピアノを習っておらず、
音楽教室に通ってもいなかったことと、

「父との関係(1) -小学校-」で触れましたが、
家族との会話がなかった僕は、
ピアノをやりたいと言い出せませんでした。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0

そんな悶々とした年月を経験したものの、
音楽にのめり込むほどに高まる、
自分の作った曲を表現したい気持ち。

なんとしてもピアノをやりたい、弾き語りをやってみたい。

僕の周りにいた大人たちは
「ピアノは小さい頃からやっておかないとダメ」
と口々に言ってきましたが全て無視。

ピアニストではなく弾き語りのための手段、
そして純粋にやりたいことをやりたくて、
ピアノに夢中になりました。
ピアノコード参考書1冊のみの独学

ピアノを始めた、と一口で言っても、
誰かに師事したりピアノ教室に通ったりせず。
ほぼ独学と言ってもいい状態です。

ピアノ教室ではありませんが、
当時はボイストレーニングスクール
シアーミュージック 」に通っていて、

練習用のブースに設置されてるキーボードを
ひたすら触るところからスタートしました。

当時お世話になっていた講師の方の薦めと、
曲作りをする上でコードの知識が必要だったので、
勉強のために唯一買って読んだのがこれ。

この本が唯一の参考書のため、僕は昔も今も
譜面が読めませんし、指くぐりもできません。

最初の数ヵ月間は
ただコードを押さえるだけからスタートし

徐々に慣れてきたら、
ギターで言うところのアルペジオに挑戦。

イントロ、間奏、アウトロでメロディが浮かんだら
音の順番を頭の中に書き込んで保存、
押す鍵盤と対応する指を決める。

法則性は特にありません。

その時に動かし易い指の順番、
必要だと思った音をフィーリングで入れます。
歌詞とコードだけの楽曲ノート

僕のオリジナル曲のノートには
ピアノコードと歌詞が書いてあるだけ、
細部のちょっとしたメロディは頭の中にしまいます。

この時にしまっておくのが 「言葉への変換が。」で登場した
頭の中にある引き出し、 通称:脳内Tan-su
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/4/0

なので、ピアノ経験者の方から見ると
僕の弾き方はむちゃくちゃです。

ピアノを語れるような知識は何一つなく、
バイエルなどの基礎も未実施。

でも弾き「語る」ための手段だから
伴奏としての機能さえ果たせれば
それでもいいのかなと思ってます。

最近は気に入ったカバー曲のメロディを弾いてみて、
指くぐりなどの重要性を認識する機会があります。

近くの指で対応できなくなり次第、
徐々に慣れていけばいいかな、くらいです。
やりたい、やってみよう、それだけで突っ走った

ピアノもそうですが、
路上ライブ、宅録、自作CDいずれも

やりたいからやってみよう、
あ、できた。おもしろい、もっとやってみよう。

これだけで動きました。

うまくできなかったら、失敗したら、笑われたら、
そんな邪念が入り込む余地もなく、

ただ やりたいことに正直になり
考えるよりもとにかく行動しました。

発達障害の特徴の1つとして言われる
衝動性に起因するのかも知れませんが、

まったく未経験の音楽に飛び込んだことに関しては
この衝動性が計り知れないパワーを生みました。

この頃かその前か忘れてしまったけど、
何かのタイミングでこんな言葉を知りました。

残りの人生の中で今の自分が一番若い、
遅過ぎるスタートなんてない。


音楽を始めると決めた後、僕の周りの大人たちは
「ピアノとフィギュアスケートは小さい頃が全て」
と言ってたけど、

僕は聞く耳を持たずに飛び込んで、
一番若いその瞬間を捕まえ続けました。




2019年01月21日

路上ライブ時代の話。

僕は23歳の時、
本当にたまたま無料体験レッスンを知った
シアーミュージック 」というボイストレーニングスクールに入学し
音楽人生をスタートさせました。

24歳の時に鍵盤を始め、
オリジナル曲を弾き語りで歌っています。

ここ1年くらいはライブ活動はできていませんが、
昨年末に久々の新曲を作ったので、

また演奏活動を再開することも、
今年の目標の1つです。

今回は僕が鍵盤弾き語りで路上ライブを行い、
自作CDの手売り100枚に挑戦していた時のお話を。
完全手作りのオリジナルCDを作成

僕は当時も今も
DTMの技術を持ち合わせていませんが、

質はともかく、何とかして楽曲を録音し、
自分でCDを作りたい思いがありました。

そこで、
オーディオインターフェースとマイクを購入し
電子ピアノとPCを繋いで宅録を敢行。

家電量販店でラベリング用紙やCD-Rを調達し、
友人から譲り受けたプリンタと、
フリーのラベリングソフトを使って

完全手作りのオリジナルCDジャケットを
作成するに至りました。

この時は一人暮らしのフリーターでしたが、
1ヶ月1万円ちょっとは貯金できていたので、

・演奏の録音機能が付いた自宅用の電子ピアノ
・オーディオインターフェイス TRI-CAPTURE
・楽曲編集ソフトを稼働させる新ノートPC
・マイク

というように、
毎月1つずつ機材を買い揃えていきました。
路上ライブで手売りを開始

宅録したオリジナル曲を収録した、
完全自作のアルバム。

業者さんがプレス作業を行ったものとは
比べるべくもない、本当に デモ音源レベルの出来 です。

が、
僕はせっかく形に残したものを
どこまで広げられるか試してみたいと思いました。

やってみればCDなんて1人で作れるじゃないか、
よし、今度は路上ライブに出て、
1年間で100枚の手売りに挑戦しよう


以来、繁華街のアーケード商店街で
毎週決まった時刻に1時間の路上ライブを敢行しました。

Twitterなどで多少の告知はしましたが、
基本的に予告はそれだけで、

通りがかる人にどれだけ響くかを
確かめてみたかった思いはありました。
雪の日も、吹雪の日も、氷点下の日も

鍵盤を担いでアーケード街を練り歩き、
マイク無しの生声、電源は取れないので乾電池です。

演奏中に電池が切れるハプニングは
それなりにやらかしました。

路上ライブを始める時、毎週やると決めたので、
頑なに毎週やりました。

台風の日も、雨の日も、吹雪の日も
気温が-10度を下回った日もやりました。


それくらい気温が下がった日は
さすがに鍵盤を弾く指が動かず
30分程度で限界を迎えたりしましたが、

路上経験上、最も寒かった-15度の吹雪の日、
なぜか足を止めて聴いてくれる人がやたら多くて、

拍手をくれて、話しかけてくれて
1枚CDが売れたことがありました。

アーケード街とはいえ、
外を歩くのも苦痛なくらい寒い日、

いつにも増して足早な人並みの中、
不思議でなりませんでした。
警察官との交流

頑なに毎週決まった時間に路上へ向かう日々、
路上ライブは本来は道路交通法違反、違法行為です。

閉店後のアーケード街では僕の他にも
ギター弾き語りやストリートダンスなど、
路上パフォーマーはたくさんいました。

騒音やら苦情やらで警察を呼ばれたことはありませんが、
行き交う人混みに混じって警察官は頻繁に通りました。

怖かったけど、なんでしょうね、
路上パフォーマーをどうこうしようとする警官はおらず、
別の通報で呼ばれて急いでいるように見えました。

演奏中に警官から
「この辺りで喧嘩の通報があったが、見なかったかい?」
と、情報提供を呼びかけられたことはありました(汗)
1年間で100枚の手売り達成

1時間以上やっても
誰も足を止めてくれないことはザラで、

特に寒い季節は
そういう日が続くと心が折れかけました。

何やってんだろう、
こんな手作りのデモ音源なんかに価値があるのか、
と自分を卑下することも多数ありました。

思い返せば
なぜここで止めてしまわなかったのか、
甚だ疑問ではありますが、結果がどうこうよりも、

自分1人の力で曲を作れて、録音できて、CDが作れて、
勇気を出して路上ライブができたことへの充実感と嬉しさ

勝ってたんでしょうね。

なんだかんだで諦めず、懲りずに路上で歌い続け、
本当に1年間で100枚の手売りを達成しました。

8曲入500円のアルバム2種類、
デザインや収録曲は更新がありましたが、
とてもCDショップに置ける代物ではありません。

なぜ達成できたんだろう?と
今でも疑問に思う瞬間があります。



この時に売れたCDの1枚は、
僕の住む街から200キロほど遠方の雪深い街で
旅館のオーナーをやっている方が持っています。

その方は今でも、
僕がライブをやる際にはわざわざ高速を使って
観に来てくれることがあり、

あの時買ってくれたCDは旅館のBGMとして
毎日流してくれているそうです。



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