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『放浪記』林芙美子(新潮文庫) 『めし』林芙美子(新潮文庫) えー、全くの私事ではありますが、今回の記事をもって、この拙ブログの「第一期」を終えようと思っています。「第二期」は、週三回の更新を基本として綴っていこうかなと考えております。 今までに変わりませぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げますぅー。 まず『放浪記』の方から報告してみたいと思います。 もう去年の話になるんですかね、巷では小林多喜二の『蟹工船』がちょっとしたブームになりました。 しかし、『蟹工船』とはやけに正統的ですねー。プロレタリア文学の本道ですものねー。なんでそんな本が売れたんでしょうねー。 『蟹工船』に比べますと、『放浪記』のほうが、貧乏暮らしを扱って、遙かに「怪しげ」で、そしてその分きっと面白いです。 事実、過去にベストセラーになったそうですし、別にわざわざ過去の事を取り上げずとも、舞台では森光子さんが今も「ロングラン興行」をなさっています。 でも文字の上では、とても長いお話です。文庫本で460ページもあります。それに日記形式です。 そもそも日記形式の文章ってのは、いかがなものですか。 きっと苦手な人って、多いと思います。ストーリーの「起承転結」が、きっちりと読みにくいからですね。 でも「日記文学」は、日本古典文学の「十八番」でありますし(平安時代の女流日記ですね)、近代に入っても有名どころの作品があると思います(永井荷風のなんかがそうですかね)。 またきっと、芥川とか太宰とかはなんなりと書いている気がしますが、えー、この形式、実は私も例に漏れず、少し苦手なんですね。 ただ、この本の場合は出版事情のせいで、単純な「日記形式」にはなっていません。 こんな感じになっています。 この作品は3部に別れているんですが、1部がまずベストセラーになりまして、半年ほどして2部が出ました。ここまでが昭和の初期ですね。思わぬ本が売れたので急いで続編を出したという構図がとてもよくわかります。1、2部とも、日記形式です。 で、3部は昭和20年代に出されます。 僕が、この作品の中で比較的面白く読めたのが、この3部なんですね。 そして明らかにこの3部には、ナマの日記でない、小説家としての「虚構化」が読みとれます。そしてそれがなかなか面白い。 読ませようとして書いてあるからでしょうね。1.2部の「素」の日記のような部分(ここにも少なからず虚構化はありましょうが)は、まー、僕には、ちょっとタルい。 と、そういう訳であります。 でも、暇に任せて、ごろごろと横になって読む分には、1.2部もそれなりに面白いとは思いますが。 そして続いて、『めし』を読みました。 『放浪記』の、わりと面白いもののちょっと長すぎるという印象に比べて、この本はシンプルに短いです。文庫本で200ページちょっとです。 というか、これ、未完の絶筆なんですね。 つまり、僕は『放浪記』と『めし』とセットで、デビュー作と絶筆とを読んだわけです、たまたまですが。 林芙美子の死は、一種の突然死でした。 これは嵐山光三郎の本で読んだのですが、前日まで外に出歩いていて、翌朝になったら死んでいたのではなかったかと思います。 死ぬ間際の林芙美子は、仕事的にはわりと好調だったようで、沢山の作品を発表していました。確か三島由紀夫が、晩年の林について一定の評価をしていました。 今回のこの作品の感想についても、「手練れ」の作者によるものという印象がとても強いです。まるで太宰治の女性版のようです。 そう言えば内容も、太宰の絶筆の一つ『グッドバイ』と、なんとない相似があるような気がします。 『グッドバイ』は、今までつき合ってきた女性と次々に別れていくという話で、『めし』は、やはり女房が亭主を棄てようとするという話です。 読み終えまして、小説たるもの、作家たるもの、せめてこれくらいの「芸」は欲しいよなー、という気がとてもしましたね。 特に、今まで、半同人誌の作品みたいな「自然主義」とか「私小説」なんかを読んでいますと。 というわけで、そんな好感の持てたお話です。 ただし未完なので、ストーリーとしては纏まっていないところが、うーん、いかにも残念でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.30
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『歌のわかれ』中野重治(新潮文庫) この作者は、どうなんでしょうか。むしろ詩人としての方が有名な方・評価の高い方ではないでしょうか。(まちがっているかしら。) 確か高校の国語の教科書に、よく覚えていませんが、「もうお赤飯を食べてはいけない」というような詩が、あったような、なかったような、あれ? 「お赤飯を食べてはいけない」って、変すぎますね。 なんか、間違っている気がします。 ……、えー、今、調べてみたのですが、僕がかつて教科書で読んだと記憶している詩は、多分『歌』という詩で、「お赤飯喰うな」ではなくて、 おまえは歌うな おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな というプロレタリア詩でありました。 「ひよわなもの」「うそうそとしたもの」を歌わずに「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え」という、力強いプロレタリアートの詩でありました。 (しかしまー、よーも、えー加減な記憶をしていたものですなー、私って。ぜーんぜん、違っているではありませんかー。でもこんなことって、私の人生に日常茶飯事なんです。すみません。) さて今回、僕は初めてこの人の小説を読んだんですが、それがなかなかに「厳しい」読書でありました。 上記に、「プロレタリア詩」と書きましたが、この小説は、小説の「主義・流派」でいえば、「転向小説」になるんですね。 大正時代中盤から「プロレタリア文学」がわっと流行り始め、昭和に入ってそれが政府により弾圧されます。 それは、少し前にブームになった『蟹工船』の作者、小林多喜二の惨殺をピークとし、そして多くのプロレタリア作家の、「共産主義」からの「転向」へ。 その後日本は、一気に、大陸での事変・太平洋戦争→文学の不毛時代へと突き進んでいきます。 その「転向小説」ですね。 この本の中に入ってあった『村の家』なんかは、「転向小説」の名作といわれています。 えー、『村の家』は、確かにわりと面白く、きっちりしっかりと書かれていました。 「転向小説の名作」。うん。認めましょう。 しかし、あとが、うーん、なんというか、どうなんでしょうか。 確か、佐多稲子の小説を読んだ時にも強烈に感じましたが(佐多稲子も一応「転向小説」作家ですかね)、作者はすっごい真面目に一生懸命書いていらっしゃるんですね。 なんと言っても「転向」経験を語るのでありますから、生半可なものではありません。 それは読んでいて、こちらにもひしひしと伝わってきます。 でもね、読んでいてね、不謹慎にも、ついこんな事を思ってしまうんですね。 「やっば、漱石って、すごいよなー」 漱石の代わりに、太宰治でもいいんです。 というより、太宰の方がいいかも知れません。というのは、太宰の小説も、一種の「転向小説」だからですね。 太宰治と中野重治の作品を比べてみますと(こんな比べ方はちょっと意味がないのかも知れませんが)、太宰・漱石が、何とも他者に比べようのない「面白いお話作りの天才」であることが、ありありと分かります。 漱石も太宰も読んでいて、まず第一に話が圧倒的に面白い。 それに比べると、……うーん、真面目なだけでは、ダメなんだなー、と。 というわけで、なかなかに「厳しい」小説を読んでいました。 「近代日本文学史上のメジャーのマイナーな小説を読む」なんてテーマで読んでいるから、こんな事になるのはやむを得ないのかも知れませんが、しかしなんか、改めてすごく「日本文学って何やねん」って、考えさせられてしまいます。うーん。 というわけで今回は以上。では。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.29
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『恩讐の彼方に・忠直卿行状記』菊池寛(岩波文庫) 菊池寛の最大の功績といえば、誰がなんと言っても、「芥川賞・直木賞」の設立でありましょう。それ以外にないと言いきってしまっていいと思います。 先日こんな記事(確か何かの雑誌記事じゃなかったかと思います)を読んだんですが、福沢諭吉の業績は、現在では「慶應義塾」の創設以外にはない、と。 菊池の件と会わせて、少々極端な言い方でありますが、逆に、教育とか後進を育てる事の、歴史的にいかに重要かを物語っていますね。 教育とはまさに国家百年の計ですね。 と、まぁ、現在ではほぼ評価される事のない菊池寛の短編集であります。 「評価されない」と書きましたが、何年か前にテレビの「昼メロ」で、何でしたか、原作になりませんでしたっけ。 まぁ、「昼メロ」というだけで、評価の限界が見て取れるような気もしますが(あ、これ差別的発言!?)、でも、菊池寛の小説は、ほとんどが「テーマ小説」である故に、とても読みやすい事は事実です。 何より作者の言いたい事がよくわかります。 例えば村上春樹の一連のベストセラー(出る本出る本みんなベストセラーですがー)に比べて、はっきり言って、読み終えた後に「わかった!」と言える実感の度合いが、全然違いますね。 村上春樹の場合は、読者の方にかなり逡巡があります。 「分かったって言わなきゃなんないのかな。流行りの作家だもんな。そういえば、分かったような気もするもんな。このセックスの描き方って、マジうまいもんな。あ、俺、村上春樹、分かってんじゃん。」 というように、本当はさっぱり分からない「村上ワールド」に対して、読者の方がおずおずと歩み寄ってくれます。村上春樹って、幸せな作家ですね。 さて閑話休題、菊池寛の上記の本ですが、実は僕はこの本の前にこんな本も読みました。 『滝口入道』高山樗牛(岩波文庫) この本も、菊池の短編集同様、時代小説です。 樗牛の本は薄い本ですが擬古文なので、慣れればリズムが何とも快いのですが、その世界に入っていくのに少しだけ時間が掛かりました。 さらに少し前に、田山花袋の短編集を読みました。 その中にも時代小説が幾つかありましたが、こうして読み比べてみると、菊池寛のが一番堂々としているような気がしましたね。 それはきっと、菊池寛が全く「文学青年」じゃないからでしょうね。花袋は一番「文学青年」っぽいですね。かなり「軟派」です。 樗牛はどうだったのか。残念ながら、早世しましたね。解説文によると28歳で死んでいますね。だとすると、早熟ですねー。それとも時代なんでしょうかね。 森鴎外の、例の有名な『舞姫』を含む「ドイツ土産3部作」なんかも、かなり若い時期の作品ですものね。 とにかく菊池寛のが、一番堂々としています。 ついでに書けば、菊池がこれらの短編小説で否定していた(軽蔑していた)のが、いわば『滝口入道』的世界ですね。 『滝口入道』は、こんな話です。 身分違いのために結婚できない男女。そして別々に出家し、女は時を移さず死んでしまう。男はそれに主従のしがらみが絡んできて、最後は腹を切って死ぬ。 これは、菊池が、いいかえれば大正時代のリベラルな雰囲気が、否定した旧時代の倫理観ですね。 しかし、面白いのはその「否定」の仕方で、集中の『三浦右衛門の最後』とか『忠直卿行状記』などはそれが本当に徹底していて、僕は読みながら「菊池寛という人はサディストではないか」と思ったほどでした。 ところが『恩讐の彼方に』では、わりと甘い「浪花節」なんですね。 このへんの「落差」をどう評価するかが、菊池寛の評価のポイントになっているのように思います。 うーん、失礼ながら、やや一面的、深みに欠ける、かな、と、少し、まー、思わないでも、ありません。 しかし考えれば、森鴎外も芥川龍之介も「テーマ小説」を得意としましたが、菊池寛ほど「やや薄っぺらい」という感じは抱かせません。 うーん、この違いは何でしょうねー。 まー、結局は「文学」に対する取り組み方の違い(期待度の違いといってもいいかも知れません)かなと、思います。 菊池寛は、彼自身の生涯を見ても、さほど文学に期待をしていなかったような気がします。 そんな本です。明治のあたりの小説を続けて読んでいると、そんなに高い評価の作品でなくても、それはそれでとっても面白いと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.28
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『センセイの鞄』川上弘美(文春文庫) 『神様』川上弘美(中公文庫) 前回から、川上弘美を読んでいます。さらに長短併せて4冊を読みました。 前回のブログの最後にも書きましたが、川上弘美の作品には「依存性」がありますね。 太宰治の如く、耳許でこっそり囁きかけてくるような、際どい「官能性」があります。 うーん、これは少しマズイ。 何が「マズイ」かと申しますと、川上氏は、筆者紹介欄に載っている写真を見ても分かりますが、とてもお美しい女性ですね。 まー、「お若い」からは、少々隔たりつつあるようでございますが、それでもこんなお美しい女性がわたくしの耳許で、 「この話はね、貴方にだけ言う秘密よ、誰にも言っちゃいやよ。あのね…」 なんて語りかけられた日には、私のそうでなくても風前の灯火のような「理性・判断力」などは、一気にパチンと崩壊してしまいます。うーん、これはマズイ。 ……、えー、反省を致しましてー、以下、冷静に、述べたいと思います。(大丈夫かな。) さて、まず、『センセイの鞄』を取り上げてみます。 以前にも触れたような気がしますが、かつて小林秀雄が、個人全集を読むことを非常に勧めていました。そんな難しい話でなくても、一人の作家の全作品を追いかけていくということは、非常におもしろいものです。 僕も以前はそんな読み方をかなりしていたのですが、まとまった時間がとれなくなって、最近はなかなかそうはいかなくなりました。 今回久しぶりにそれに近い読み方をしていて、非常におもしろがっています。 で、『センセイの鞄』ですが、この作品は川上氏の既出の作品の流れから考えますと、(これも前に少し触れましたが)たとえば村上春樹でいうと、『ノルウェイの森』のような位置づけに思えました。 つまり、本筋の仕事とは少し違うところで、とてもおもしろいものができてしまったという感じです。 川上弘美の本筋で言うと、『溺レる』のほうが遙かに主流だと思います、少なくとも、発表された作品群の流れに沿って考えれば。 いわゆる存在の根元的な寂しさという、一貫したテーマに沿っています。 じゃあ『センセイの鞄』はどうかというと、印象的なものですが、かなり通俗的なおもしろさが見られます。でもそれがとてもおもしろい。恋愛小説の「ツボ」について、全く上手に押さえてあります。(この作以降、筆者は恋愛小説の名人みたいに扱われている気がします。しかし僕は、本来はそうではなかったように思うのですが。) さてずっと川上弘美ばかり読んでいたきたのですが(10冊ほどですが)、とりあえずこれでやめようかなと思っています。これ以上追っかけていきますと、本当に「依存性」が抜けきれなくなりそうな気がします。(まぁ、それでもいいんですが。) 最後に短編集『神様』を取り上げます。 今まで読んできた中では、『溺レる』と『センセイの鞄』と、後一つ、この『神様』の三作で、川上弘美氏の作品紹介としてはほぼベストかと思います。 実はこの短編集が、読んでいて一番さわやかでした。 内田百ケン(「ケン」の漢字が出ません。「門構え」の中に「月」です。)ばり、あるいは筒井康隆の作品並みの、乾いたシュールを感じます。 今取り上げた三作の中ではたぶん一番古い作品集なんでしょうが、文体・プロット共、とても瑞々しく魅力的であります。 しかし、このタイプの小説を書き続けるのって、きっと大変なんだろうなと思いますね。 小説というものは、どうしても、感情や叙情が前面に出てくるもので、それから逃れるにはかなりのエネルギーや想像力を必要とする気がします。 内容的に軽くならずに、そんな世界を書ききってしまうのはかなり大変なんでしょう。(例えば、筒井康隆氏は、年齢を重ねるほどに、それをうまく描く作品が現れてきていますが、それでもいわゆる「当たり外れ」が見られるように思います。) 川上氏については、作品が新しくなるほどに、ちょっとそういった乾いたシュールが消えていって、代わりに哀愁が漂いだしている気がします。 今後、川上氏がどのような方向に進んでいこうとなされるか、余人の予測するところではありませんが、しかしなるほど、生きていく作家というのは、本当に大変なものだなと思いました。うーん。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.27
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『蛇を踏む』川上弘美(文春文庫) 『溺レる』川上弘美(文春文庫) 先月の終わり頃に、川上弘美の文庫本を何冊か買いました。半分はブックオフですが、半分は新刊で買いました。 こんな本の買い方は久しくしなかったのですが、なんとなく気合いを入れて買ってしまいました。(大層に言って、たかが文庫本なんですけどー。) なぜ川上弘美かというと、そんなに意味はなく、少し前に小川洋子の本を読んだ後、次は川上弘美だなと、ほとんど脈絡もなく思ってしまったからであります。 たぶんもう十年以上前(十五年以上前?)になると思うんですが、ちょうどそのころ「売り出し中」か、ぎりぎり「新鋭」と言われる範疇の女性作家を、ちょっとまとめて読みました。 そのころの女性の注目作家と言えば、笙野頼子・松浦理英子・多和田葉子が三羽がらすだったと思います(この人選は、僕のオリジナルじゃなく、たぶん誰かの文を読んでの事と記憶しています)。 その次のグループあたりに、おそらく小川洋子・川上弘美あたりが位置していたと思います。(うーん、この「番付」、かなり偏っているような気もする一方、今でも、ある側面をきっちり捉えている気もします。) で、先日小川洋子を久しぶりに読んだものだから、何となくそのまま次は川上弘美かなとなってしまい、買ってしまったという顛末であります。 とりあえず芥川賞受賞作の『蛇を踏む』から読みました。(これは再読。今回改めてブックオフで買いました。) 読み始めてすぐに、あ、せやっ、この人、小川洋子と全然違うかってんや、と、当たり前のことを思い出しました。 全く当たり前の話であります。 でも、「蛇踏み」は、僕の記憶上の読書に比べて、今回の方がとてもおもしろかった、つまり再読の方が面白かったように思います。 でもこれっていったい何なんでしょうかね。 公園で蛇を踏んづけたらそれが人間の姿になって、そのまま主人公の下宿にお前の母だと名乗って居着いてしまう。最後はその蛇とつかみ合いになるんだけれど、けんかをしている最中から部屋が水浸しになり、さらに水は濁流となり、ものすごい勢いで二人は部屋ごと流されてしまう。……。 これって、やっぱり、カフカ? ですかね。 しかし考えれば現代文学って、変なところに来ているなと思いますね。読んでいて、「蛇踏み」に、違和感がほとんどないんですものね。もっともっと変な話だと思ってもいいでしょうにね。 その理由の一つは、全体の、何というかとても「クール」(やや曖昧な言葉遣いですが、ある種の「説話性・戯作性」でしょうか)な書きぶりのせいだと思います。この「語り」に「騙されて」、我々は、蛇が母親になる話に「違和感」を失ってしまうんでしょうね。 で私は、引き続いて時をおかずに『溺レる』を読みました。 すると、カフカからつげ義春に変わっていました。 「懐かしさ」と「惨めさ」が「クール」を包んでいます。でも根本はあくまで「クール」でしょうね。ひょっとしたらこんなのを、実存的って言うのかもしれません。 なかなか表現しにくい小説群ですが、もちろんおもしろいから読み続けています。というより、この「おもしろさ」は、少し太宰治に似たところがありますね。 読者の感情のヒダに直接触れてくるような、少し、麻薬じみた、心地よさがあります。 うーん、ちょっと、気になりますね。 実際、川上弘美氏には、ディープなファンがいますものねー。 そしてさらに、次回も私の川上弘美読書は続きます。 (ね。川上弘美の作品にはこういった「依存性」があるんですね。上品そうなお写真の筆者ではありますが、なかなか一筋縄でいくようなお方ではなさそうです。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.26
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『土と兵隊・麦と兵隊』火野葦平(新潮文庫) 今回はなかなか書きにくいチョイスを、ということは、本当はいろいろと考える事のできる大切なチョイスを、してしまったなー、と正直なところ思っています。 仕方ないので、とりあえずまずは、搦め手でいってみます。 何度かこのブログで話題にした『筑摩書房・現代日本文学大系・全98巻』に、火野葦平は入っているんですね。それも、石川達三とコンビで、一冊二作家配当です。 以前もちょっと考察しましたが、この全集の「一冊二作家配当」というのは、まずまずの高い評価です。評価のレベルで言うと、上から3ランクめです。 明治以降、昭和30年代くらいまでの、すべての現代日本文学作家が対象でのこの評価ですから、かなり高評価だと言っていいと思います。 一方、例の高校国語用『日本文学史』副読本によりますと、この作品は(少し微妙な書き方ですが)一応「国策文学」と評価されています。 ここからズバリと本質に入っていこうと思うんですが、「国策文学」を書く事は、文学的にどういう意味を持つものなんでしょうか。 国家と文学の関係ですね。 まだ新しいめの話題ですが、村上春樹が、イスラエル政府からの文学賞を受け取りましたね。ちょうどイスラエルの、アラブの国への空爆が激しかった時期ということもあって、村上春樹が賞を受けた事に対して、賛否両論、実にいろいろな意見が交わされました。 今更わたくしごときが、その上に付け加えるものなどほぼ何にもないんですが、あの時、村上春樹は受賞スピーチで「壁と卵」に例えながら、自分は頑強な「壁=システム」ではなくて、壊れやすい「卵=人間」に寄り添いたいという趣旨の発言をしましたね。 (この発言についても、「感動した」という意見もあれば、「偽善的だ」という意見もありましたが)これなんかも、一つの「国家と文学」にたいする立場表明ですね、一応は。 ちなみに(いつものようにやや脇道に逸れますが)、僕はあのスピーチを聞いて、おやっ、と思いました。 今を遡ること70年近く前に、ほぼ同じ内容の事を書いた作家がいたんですね。 太宰治『畜犬談』です。この中で、太宰を擬した主人公は、こう言っています。 「芸術家は、もともと弱い者の味方だつた筈なんだ。(略)弱者の友なんだ。芸術家にとつて、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけぢやない。みんなが、忘れてゐるんだ。」 さて、冒頭の火野葦平の作品であります。 太宰治や、村上春樹の立場に立つと、この作品は、どう考えても批判されざるを得ないでしょう。しかし、実際は、もちろんそんな単純なものではありません。 それぞれの時代、それぞれの作家の立場、などがまるで違うからです。 (とはいえ、『畜犬談』と『土と兵隊・麦と兵隊』は同時期です。前者が昭和十四年発表、後者二作は昭和十三年発表です。うーん、太宰って、「偉い」?) 火野葦平の二作の内容は簡単に言うと、戦場に於ける日本軍の「英雄潭」と「ちょっといい話」です。小説ではなくて、ドキュメントですね。就中『麦と兵隊』は百二十万部のベストセラーになったそうです。 戦争とか国家とかに対する、作家独自の判断力も批判も、全く書かれていません。しかしそのことについては、時代から言って「やむなし」とは、思います。現代の倫理で、それは断罪すべきものではないと、充分分かります。 にもかかわらず、そう言った大局に対して全く無批判の描写を読み続けると、それはなかなか辛いものがあります。 うーん、困った。 何が困ったかというと、この火野葦平氏の作品は、「国策文学」の中でも優れていたから、この様に現在でも読まれるわけですね。もっとひどい作品は残ってすらいないわけです。つまり、優れているからこそ、歴史の中で批判にさらされるという、ねじれた状況がここにあるわけです。僕の困惑は、これなんですね。 で、困りまして、私は上述の『筑摩書房・現代日本文学大系・全98巻』を、何となくぱらぱらと捲ったりしていました。すると、「月報」に各作家の「研究案内」があり、そこにこんな事が書かれているのを発見しました。(「研究案内」筆者は、岩尾正勝氏。) 「平野謙が『ひとつの反措定』で、火野もまた『侵略戦争遂行のすざまじい波に流された一個の時代的犠牲ではなかったか』と書き、そして政治の犠牲という意味では火野は小林多喜二と同位置にあると論じて論議を呼んだ。」 うーん、さすがに、平野謙ですねー。恐ろしいような直感力ですねー。 (ただし、火野葦平は実は、「転向作家」でもあったんですね。そのことを理解していたら、小林多喜二との接点の発見も、さほどアクロバティックではないかも知れません。) ともあれこの視点で立論していけば、少なくとも上記の僕の困惑は何とか解決が付きます。 国家と文学、古今東西、古くて絶えず新しい課題であります。 何度もペンディングをしつつ、しかし決して手放してはいけないテーマだと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.25
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『子を貸し屋』宇野浩二(新潮文庫) 上記小説の読書報告の第3回目です。 作品の二つ目のポイントを、これに置きました。 (2)極めて特徴的な文体 しかし、見事に特徴的な文体であります。適当に引用してみますね。 私は、こんなに正直に、こんなに一所懸命に働いているのに、世界のすみずみまで見張つてをられるといふ神様は、彼が私に味方をしない筈がない、と夜の寒空の下を、ふるへながら、あるきながら、考へたものだ。私は、下をむいてあるきながら、彼はきつと私をあはれんで、私が拾つてもいいお金を、誰かにこの道に落とさしておいてくれるにちがひない、と本当にまじめに考へたものだ。だが、何にも落ちてはゐないのだ。この上は『どろばう』をしても差支へがあるまいともちよつと考へたことだが。これだけ文学の修業をしても、文字で飯を得られないものを、修業もなしに、『どろばう』する能力など思ひもおよばぬにちがひなかつた。 (『あの頃の事』) どうでしょうか。こんな文が、改行も極めて少なく、ずーーーっと続いていきます。 うーん、なかなかのものですなー。 ちょっと、この文体の特徴を、箇条書きに列挙してみますね。 1.一文の異常な長さ。(本来「。」のところが「、」に。) 2.ひらがなの多用。 3.一文中の逆接接続(屈折)の多さ。 4.段落の少なさ。 5.間接話法の多用。(直接話法も行がえなし。) 6.文末の断定型の多さ。 7.極端な比喩。大げさな抑揚。と、まー、こんなあたりでどうでしょうか。 6.7については、例えばこんな表現です。 「仕事は急流のやうに早くすすむのだ、あまりに貧乏な生活が私の頭から物を考へる力などを奪ひ取つてしまつたのだらう、私は機械になつたにちがひなかった。」 「ちよつとでもだまつてゐると、心のなかが荒野みたいになつて、その上そこに空ツ風でも吹きとほすやうな感じがしてたへられなかつたからだ。」 これらの文章上の特徴が、極めて特異な文体を作るのですが、僕がこの小説を読み始めてしばらくして気づいたのは、この一作だけならとにかく、この筆者は、この文体でずっと行くつもりなのか、という事でした。 作品ごとに文体をがらりと変えたのは、なんといっても芥川龍之介でしょう。 しかし芥川の場合は、「定点=原点」をしっかりと自分の物に持ちつつ「変奏」していったのでありまして、いきなりこれから入っていく宇野浩二とはかなり趣を事にします。 確かに宇野浩二のこの文体は極めてユニークではありますが、この文体では書ききれない事も少なくないだろうと。 かなり自信があったのかも知れませんが、果たしてこれでやっていく事に何か「怯む」ものを、筆者は持たなかったのでしょうか。 その辺がとても気になりました。 ただ、読んでいくうちに、幾つかの事が分かってきたのですが、当たり前ながら、筆者は、思いつくままだらだらとこの文章を綴っているわけではないということです。 それはこの短編集に入っている、『人心』という作品との比較で、特に分かりました。 同様の文体で描きながら、この『人心』のほうには「たるみ」が見られるのです。 この文体は、だらだらと書いているように見えながら、極めて緻密にタイミングを計りながら、プロットの出し入れのなされている事が分かりました。 『人心』は、ややそこが甘く感じました。 最後にもう一つ。 筆者がこの文体を選ぶのを決意した時、横に伴走していたものは、おそらく「伝統の力」でありましょう。 そして、この文体で行けるところまで行こうと第一歩を踏み出した筆者に、「先達」として見えていたもの、それはきっと、西鶴の「浮世草子」ではなかったかと、僕は密かに考えたのでありました。 今回は、こんなところであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.24
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『子を貸し屋』宇野浩二(新潮文庫) 上記本の紹介の第2回目であります。 この本の中から特に特徴的な『あの頃の事』という短編小説を取り上げ、以下の2点にポイントを置いて考えていこうと思っています。 (1)強烈な貧乏話 (2)極めて特徴的な文体 まず「貧乏話」であります。 以前にも少し触れたかと思いますが、「私小説の三大テーマ」というのがありまして、これです。 1.女 2.病 3.貧 なるほど、こうして並べてみますと、人生のある種の側面をこの三つで言い尽くしているような気がしますね。うまく並べたものです。 で、今回の小説のポイント・その1が、「貧=貧乏話」であります。 それはそれは、徹底した貧乏話でありまして、数ヶ月間全く収入がないという状況なんかが書かれてあります。あげくにこんな感想があります。 「人間はなかなか餓死しないものだ。」 「おーい、そんな他人事みたいに言うてる場合やないやろー!」って、思わず突っ込んでしまいました。 太宰治は、或る小説内で(『貧乏学生』?)、 「貧を衒う。安易なヒロイズムだ。」と書きましたが、やはり小説世界に「貧乏話」は山のようにあります。 上記に、「私小説三大テーマ」とまとめましたが、良く考えてみると、「貧」だけがちょっと違う感じがするんですが、そんな事ありませんかね。 「女」と「病」ってのは、なんか「瀬戸際」じゃありませんかね。少なくとも「病」はそうですよね。 しかし、「貧」は、テーマの特徴として、 1.ユーモアが漂う。 2.どこか、「ゆとり」が感じられる。 3.読者が、何か少し「優越感」に浸れそうだ。と、まとめてみたんですが、当たっていませんか? こんな感じですよね。 上記に引用した小説中の感想にも、充分ユーモアが感じられますよね。これは、おそらく「客観性」です。 優れた小説には、その展開に対して、何重にも客観性を保障する描写があるものですが、それがユーモアに包まれている時、読者は、作品への高評価と、筆者の強靱さとを感じるものであります。 そしてこれが、僕が宇野浩二に「美味しい匂いがする作家」を感じた理由でもありました。 「貧」をテーマに選ぶと言う事は、「ユーモア」を作品の大きな特徴とするという事であります。さらに、ではなぜ「ユーモア」を選ぶのかというと、それは、自分の小説観の核心が、そこにあると筆者が認識しているという事であります。 例えば、病院内において、重症患者の方が「羽振りが利く」ように(あ、これ表現に妥当性を欠くような気がします)、「貧」は、それが強烈・徹底的であるほど面白い。 太宰が「安易なヒロイズムだ」と説こうが、「貧乏小説」がなくならないのはむべなるかなであります。 (とはいえ、プロレタリア小説なんかの「貧乏話」はそう遊んでばかりはいられません。これにはまた別の「ルール」がありますが、しかし今は、おいておきます。でも一つだけ。太宰が述べようとしているのは、きっとこの辺のことです。) さて、次が「極めて特徴的に文体」でありますが、これが、なかなかやっかいそうです。 以下、次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.23
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『子を貸し屋』宇野浩二(新潮文庫) そもそも僕は、文学史の本を読むのが結構好きで、日本文学史以外にも、アメリカ文学史の本、イギリス文学史の本、フランス文学史の本などを、かつて楽しみつつ読んだ事があります。 えー、宇野浩二です。 もちろん私は初めて読む作家なんですが、以前から文学史の本を読んでいたせいで、なんとなく「美味しい匂いがする作家」という「アタリ」を付けておりました。 そしてその「アタリ」は、きっちり当たりましたねー。 とっても面白かったです。ただそれだけではなしに、幾つか考えてしまう事もありました。 この本には、やや長さのまちまちな4つの短編小説が入っています。 文学史的に言って、相対的に有名な小説は総題にもなっている『子を貸し屋』でありましょう。作品のバランス・まとまりも、とてもいいと思いました。 ただ、「特徴的」という事で言うと、『あの頃の事』という短編が、とっーーーーってもとっても、「特徴的」であります。 そのあたりのことをちょっと、考えてみたいと思います。 この短編集のポイントは、以下の2点だと思います。 (1)強烈な貧乏話 (2)極めて特徴的な文体 この順番に考えていこうとは思いますが、ただ、(2)の「特徴的な文体」について、この作品ではその程度が、少し異常なほどであります。詳しくは後述しますが、とっても気になりますので最初にちょっとだけ触れておきます。 しかし、これだけ異常な文体を「発見」した時、小説家とは一体どんな事を考えるものなんでしょうねー。 「やったー。おれのオリジナルだーっ。」って、思うんでしょうか。うーん。 クラシック音楽の指揮者に、もう亡くなられた方ですが、セルジュ・チェリビダッケという方がいました。 フルトヴェングラー亡き後のベルリンフィルの主席指揮者の席を、カラヤンにかっさらわれた事で有名な人です。 ちょっとだけ、ちょっとだけ、寄り道。 この辺のいきさつは、以下の本に詳しく書いてあります。少し推理小説仕立てで、どこまで真実なのか分かりませんが、とても面白い本です。 『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介(幻冬社新書) さてそのチェリビダッケという指揮者が、晩年、まー、何というかー、今までの人生の「怨念」を込めたように、異常に遅いテンポで幾つかの交響曲を振っています。 ブルックナーとベートーヴェンが有名ですが、時にベートーヴェンは、この異様なまでの遅さに、聴いていてなんだか鳥肌が立つようです。 僕は宇野浩二のこの小説を読んで、思わずチェリビダッケのベートーヴェンの7番を思い出してしまいました。 (ベートーヴェンの交響曲7番といえば、少し前にテレビドラマに用いられた事で流行った、カルロス・クライバーの7番が有名ですが、あれと比べると、全く別の曲かと思ってしまうほど、チェリビダッケのテンポはまるで違います。) しかし、落ち着いて考えれば、当然ながら、両者にはいくつもの違いがあります。 その最大のものは、チェリビダッケの場合は、或る意味すでに名を成し功を遂げた後の「新展開」ですが、宇野浩二は、まだ小説家デビューしたての頃の「発見」です。 そんなデビューしたての段階で、これだけ強烈な個性の文体を書くと言う事のうちには、きっといろんな考えが、筆者の中にあったろうにと思うのですが、その辺をちょっと順を追って考えていきたいと思います。 以下、次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.22
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『博士の愛した数式』小川洋子(新潮社) えー、数年前、ベストセラーになりまして、あまりにも有名になってしまった作品であり、筆者であります。 僕自身、この作品は、評判になり始めた頃に第一回目を読みました。 小川洋子の作品としてはそれまでに、芥川賞受賞作品一冊と、後、『アンネの日記』に関するエッセイを読んでいました。(なんでそんなエッセイを読んでいたんでしょうねー。あ、一時期、第二次世界大戦とユダヤ人について興味を持った頃があったからです。) 芥川賞受賞作の入った短編集は(もうだいぶ前に読んだのでほとんど覚えていないのですが)、かなり「硬質」な感じのお話が多かったんじゃないかと覚えています。 だから、ベストセラーになって驚いたんですね。あまり大量に売れるタイプの小説家とは、失礼ながら、思っていなかったんですねー。 実際、この本が売れていた頃はすごかったですもんね。 確か僕は、近所の図書館に様子を見に行ったのですが、すごい数の予約が入っていまして、とても借りるどころではありませんでした。 でも、何とか調達して読んでみると、ふーん、と納得できるんですね。 場面場面がとても丁寧に書かれていて、くっきりと頭に残る上に、もうすでに充分論じられていますが、「癒し系」なんですよね。 そう。時代の流行りっぽいところがありました。 小説家という生き方には、時々こんな感じの事が起こるようですね。 変な書き方をしましたが、要するに、生涯のテーマから少し道草を食う小説を発表したところ、それが存外に売れてしまった、という事です。 例えば、村上春樹『ノルウェイの森』、川上弘美『センセイの鞄』なんかが、そんな感じの作品に僕は思うのですが。 ただ、川上弘美の場合は、以降、自分の生涯のテーマを変えてしまったかもしれません。それが悪い事とは、一概には思いませんが。 さて、冒頭の作品の話に戻りますが、この度、再読してみました。 その理由は、えー、女房がブックオフで買ってきたからであります。 実にくだらない理由でありますが、しかしそれでも、まぁ当たり前ではありますが、再読することの意味はとても大きいと考えます。 先が見通せて安心して読めるということもさることながら、特に小説の場合、再読は小説の構造について深く考えることを可能にします。 例えばこの本で言うならば、作者は、もっと沢山数学絡み(さらに言えば素数がらみ)のエピソードを書きこみたかったんじゃないかと思いました。 江夏豊の背番号の使い方の、あざといばかりのうまさを感じました。 そんな、作品内の有機的なつながりについて、あれこれ立ち止まって考えることを、再読は大いに可能にします。 ただ、再読は同時に、作品のアラも見せてしまいますね。 たいていの小説は、再読すると少しやせた雰囲気を感じてしまいます。今回も少しそれを感じましたが、この本の場合のその理由は、僕なりには分かっています。 それは、こういう事です。 この作品のルーツらしきものを考えると、これはいわゆる「尾籠(おこ)=聖者」の物語ではないかと思います。 僕自身、そんなに知っているわけではないのですが、この系譜には、例のドストエフスキーから大江健三郎まで、歴史上名作が目白押しにあるようです。 つまりこの小説は、極めて上質だとは思いますが、「尾籠物語」の系譜の中で見ると、もう少し頑張れたのじゃないかと、そういうことなんですね。 うーん、何を勝手な事を言っているのか、という気が自分でもしますねー。 しかし、居直るようで申し訳ないんですが、読者とは、そんなにも、贅沢でわがままなものです。 もっと、もっともっと美味しいものを食べさせろと、作者に如実に迫ってきます。 申し訳ないながら、そんなわがまま勝手な感想も、再読後、少し持ってしまいました。 ただ、ブームは終わりましたが、今でも大いにお薦めの、或る意味これから「定番作品=古典」になる可能性の、極めて高い小説であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.21
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『当世書生気質』坪内逍遙(岩波文庫) 上記作読書報告の三回目であります。以下の論点に従って報告を致しておりました。 1.勧善懲悪的な文学観を排し、人間内面の追及を目標とした。 2.文学の独自性を主張した。 3.方法として、写実主義を提唱した。 4.が、全体に戯作調を脱しきれなかった。 で、最初に「4」をやっつけました。この評価は正しくない、と。(詳しくは前回の内容をご覧下さい。) では、残りを一気にやってみたいと思います。 ところで、『書生気質』の論点を、なぜこんなにきっちりと箇条書きにして表すことができるかと申しますと、実は坪内逍遥がそう書いてくれているんですねー。 本作後編の始めに「緒言にかふるに」ということで、前編出版後の幾つかの「書評」に対する作者の反論として、上記の「1~3」が、本作のテーマとして書かれてあります。 このテーマの元、私は頑張って書いたし、後半も頑張って書くつもりだ、と、まぁ、書いてあります。これは、作者の意図がとてもよくわかって、便利ですね。 ではそれに従いつつ、考えてみますね。 (2)作者の意図は、作品にて成就されたか。 まずいきなり大いに気になるのが「1」の「勧善懲悪の排除」であります。 これって、素朴にストーリーを読んだだけでも、全然排除されていませんよ。 最後の章「第二十回」は、あたかも推理小説のクラスマックス、名探偵の謎解き場面の如く、「勧善懲悪」がとても「スムーズに」生かされた形で「大団円」が描かれています。 「看板に偽りあり」です。 というより、わたくし、思うんですが、「勧善懲悪の排除」なんて、そもそもできないんじゃないんですか。現在に至るまで。 現在は少し置いても、例えば漱石『虞美人草』しかり、有島武郎『或る女』しかり。みんな勧善懲悪の大団円じゃないですか。 だってこれがなければ小説読者は「フラストレーション」になってしまいますよ。この「大団円」こそが、読者の「カタルシス」なんじゃないですか。 もしこれを本当に排除したいのなら、手は一つ。作品に悪人を描かないことですね。 あるいは、「ペンディング」ですかね。 一連の漱石の作品なんかは、この「ペンディング・エンド」が多そうですね。 『門』『彼岸過迄』『行人』『道草』なんかがそうですね。 『三四郎』なんかは「悪人無し・エンド」タイプ。 『坊っちゃん』はもちろん「勧善懲悪」で、『それから』『こころ』なんかも、やはり「勧善懲悪・エンド」だと思います。 というわけで、「勧善懲悪の排除」は、おそらく今(二十一世紀)に至るまでできていない。それは小説の自殺行為である、と。(というのは少し乱暴な論理展開で、本当はこのことは、もう少しきっちりと考える必要があると思います。) 次に「2」の「文学の独自性の主張」ですが、僕は実はこれこそが本作の最も優れた業績ではないかと考えています。 後の時代に、例えば、激しい学園紛争の中、誠実に文学の意味を問い続けた高橋和巳は、同じテーマを、(自らの専門の中国文学から仮借しつつ)「文学=無用の用」と考えました。 同時期、『豊穣の海』全四巻を書き終えた三島由紀夫は、次の自らの課題をとんでもないところにおきながら『小説とは何か』で、「小説=動物園のアザラシ」と比喩しました。 このように逍遥が取り上げたこのテーマは、多くの「誠実」な追随者を生み出し、そして今後も産み続けるとても重要な問いかけでありましょう。 この問いかけがあるというだけで、この作品は、第一級の評価を得てしかるべきと僕は考えます。 最後に「3」の「写実主義の提唱」ですが、これについては、私も特に一般的評価と異なる意見は持ちません。提唱そのものはすばらしいですが、「戯作調」の分析でも触れましたが、本作においては不十分であったこともその通りでありましょう。 ただこれにつきましても、この後の特に「自然主義」の諸作家が、実に日本的・ユニークな小説の探求を通して、あらゆる表現に耐えうる「近代日本語」を確立させました。 この「近代日本語」の先達として、坪内逍遥に高い評価が与えられることは、言わずもがなのことでありましょう。 以上、後半、やや駆け足になりましたが、今回の報告は、ちょっと(私としましては)気合いが入ってしまいました。 こんなに、気合いを入れてはかえってダメなのにねー。 というわけで、少々反省。では。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.20
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『当世書生気質』坪内逍遙(岩波文庫) 上記作報告の第2回目であります。今、上記作を読み終えました。 前回に続いて、今回も高校生用日本文学史教科書(ブック・オフ105円本)を元に、一般的なこの作品の評価をまとめますと、こんな風になります。 1.勧善懲悪的な文学観を排し、人間内面の追及を目標とした。 2.文学の独自性を主張した。 3.方法として、写実主義を提唱した。 4.が、全体に戯作調を脱しきれなかった。 えー、本作を読み終えまして、上記の4点の解説は、それに賛成するか否かは後述するとしましても、とにかく論点としては、実にしっかり押さえられてあると感じます。 さすが教科書ですね。(前回の教科書批判はどこへ行ったか。) 以下、ある程度この論点に従いつつ、考えてみたいと思います。 (1)「戯作調」とは、なにか。 「いきなり4番からかい」とお思いの方もいらっしゃいましょうが、特にその理由はありません。 ただ、やはり読み始めて一番に感じるのがこれだからです。 しかしそもそも、「戯作調」というのは、一体どんな「文体」を指すんでしょうか。 私が気がついた(こんなんが「戯作調」なんかなー、と思った)のがいくつかありますが、こんなあたりです。 a・( )がやたらと多く、その中に、小さい文字二行で「ト書き」のような作者の解説が入る。 b・同様に、各章の終わりに、その章の作者の解説や解題が入る。 c・章の変わり始め、人物紹介の際、必ず細かな着物の紹介から始まる。 (尾崎紅葉の小説なんかはこんな感じですよね。次の「浪漫主義」ですが。) d・だじゃれや地口がしばしば出てくる。例えばこんなの。 「放蕩卒業の証書と、マスタア色男の爵位を以て、学者の尊号に交換するたア、感々服々土瓶の煮音、蒸気の沙汰とはいはれない。」 これ、割と上手な表現ですよね。 そう言えば、二葉亭の『小説総論』にもこんな個所がありました。 「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に、模写こそ小説の真面目なれ、さるを今の作者の無智文盲とて、古人の出放題に誤られ、痔疾の療治をするやうに矢鱈無性に勧懲々々といふは何事ぞと、近頃二三の学者先生切歯をしてもどかしがられたるは、御尤千万とおぼゆ。」 ははは。こういった諧謔は、漱石にも「遺伝」していますよねー。 さて、この「戯作調」らしき特徴のまとめですが、まず一点目。 結局これらの表現は、どのような傾向だと理解することができるのでしょうか。 考えてみたのですが、きっと、きっちりした専門的な説明なんかもあるのだろうと思いますが、私なりにまとめますと、こういう事ではないでしょうか。 「戯作調」とは詰まるところ、作者の存在が感じられる書きぶりである、と。 次に、まとめの二点目ですが、はたしてこの「戯作調」は、逍遥だけが引きずっていたものなんだろうか、ということです。 ここんところが、本作の「否定的評価」の中心となっています。 でも、上記の「戯作調」の特徴は、多少の違いはあれど、例えば二葉亭四迷の『浮雲』にも見られますし、『書生気質』から二十年後の、漱石『吾輩は猫である』にも見られます。 さらに少々穿ったことを言えば、太宰治の『道化の華』なんかにも見られるじゃないですかね。 (そう言えば、太宰治ら「無頼派」は、「新戯作派」とも呼ばれましたっけ。) そう考えていきますと、『書生気質』の「否定的評価」の原因は、「戯作調」を脱しきれなかったからではなく、結局「言文一致体」じゃなかったから、つまり「擬古文」であったからではないでしょうか。 うーん、我ながら、舌鋒鋭い論理展開ですなー。(え? そんなことないって?) では、残りは、さらに次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.19
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『当世書生気質』坪内逍遙(岩波文庫) 近代日本文学の生みの親ともいえる作品が、本作であります。 これは例えば、西洋音楽に模して考えてみれば、どうなりますかね。 やはり、バッハでしょうかね。 でも、本作は、実作としては、近代日本文学の生みの親とは、評価されていませんものねー。そんな評価をされているのは、なんと言っても、二葉亭四迷の『浮雲』ですよねー。 じゃあ、ヘンデル? バッハと同い年ながら(1685年生まれだそうです)、バッハの場合は「生誕300周年」とか言われるのに、「ヘンデル生誕300周年」とは、言われなかったんじゃないでしょうかね。 そんな、ちょっと「差別的」扱いを受けているヘンデルであります。 しかし、私の経験から申しましても、多分、ヘンデルの音楽は、バッハの音楽の20分の1くらいしか聴いていないと思われます。(もちろん偏向した私の音楽嗜好においてでありますがー。) でもそんなことって、一杯ありますもんねー。 今年は「太宰治生誕100周年」であります。 同時に「松本清張生誕100周年」は、まぁ、言われますね、時々。 でも、「大岡昇平生誕100周年」は、ちょっと聞かないですよね。 そんなことないですか? さてとにかく、近代文学の生みの親である坪内逍遙の小説であります。 ちょっとこの辺の事情を、高校生用日本文学史教科書で見てみますと、こんな風なまとめになります。 坪内逍遙………『小説神髄』……『当世書生気質』 二葉亭四迷……『小説総論』……『浮雲』 左から、作者・評論・小説実践作と、なりますね。 我が家には、以前にも紹介致しました筑摩書房『現代日本文学大系』98冊という、「本棚の肥やし」がありますが(またこの「肥やし」が場所ふさぎなんですー)、その第一巻を取り出してみますと、ありました、『小説神髄』。 この巻は「政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」となっております。 あ、ありました、『小説総論』。 で、ぱらぱらと覗いてみて、初めて気がつきましたが、両者は、ぜーんぜんちがいます。 何が違うかというと、ボリュウムが、です。 『神髄』のほうは、おそらく文庫本にすれば、150ページくらいの長編評論です。 一方、『総論』のほうは、文庫本でも10ページくらいでしょう。 まず、「量」で見る限り、両者は全く別もんです。 ついでながら、私は我が高校時代をふと思い出したんですが、教科書の記述って、こんな不親切なところがあるんですよねー。 上述のように並べられると、このふたつは、質・量共に、相似形かと思うじゃないですか。「質」はともかく「量」で見た場合、現物に当たって初めて、全然別物だと分かるんですよねー。 実に不親切です。だから僕の高校時代の成績が悪かったんです。(ちがうちがうー。) で、「質」ですが、『総論』の方は読んでみました、頑張って。 「頑張って」というのは、この文章が極めて読みづらい「擬古文」であるからです。 ほとんどよくわかりませんでしたが、頑張って「音読」をして、読み通しました。 内容はというと、うーん、今となっては大したことは書かれていません。 たぶん、小説には「テーマ」があって、「テーマ」に従って「写実」することが大切だと言うことが書いてありました(たぶん)。なるほど、尤もですね。 一方、『総論』は、パス。 こんな擬古文の評論文の150ページは、ムリ。また、いつか。 その代わり、実践作を以て逍遥氏の文学理論を学ぼうと、これもほぼ擬古文ながら、「それでもまぁ小説だから」と、半分ビビリながらも読み始めたのでありました。 そして、やっと読み終えました。 「擬古文」かつ文庫本290ページということで、気合いを入れて読み始めましたが、確かにその気合いの必要な部分もありましたが、多くはさほど大変な読書でもありませんでした。 だって、評論と違って小説は「世態風俗」を描くものですから。 では、その報告ですが、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.18
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『人でなしの恋』江戸川乱歩(創元推理文庫) 江戸川乱歩という人は、かなり気になる作家の一人でありますね。 それは、おそらく僕ひとりのことではなく、少なくないまっとうな読書人(私除く)が何となくそう思っているんじゃないかというのは、そんな方々で、乱歩について発言ある方の文章の端々に、ちらちらと感じるからです。 太宰治ならこんな時、こんな言い方をしますね。 「――ひそひそ聞える。なんだか聞える。」 これは太宰の『鴎』という短編小説の「副題」ですが、うーん、今更ながら、太宰治は言葉の天才ですねー。言葉の喚起するものがすごいですね。禍々しいまでの言葉の存在感であります。 さて、閑話休題、江戸川乱歩です。 冒頭に書きましたが、この方は、気になる作家ではありますが、その評価となると、かなり良かったり、またそうでもなかったり、「毀誉褒貶」の甚だしい人ですね。 僕はちょっとだけ乱歩について調べてみたんですが、そもそもこの方の人生行路が、文学・小説に付いたり離れたりしていたみたいですね。 そんな意味で言えば、もっと性根を据えて、腰を据えて、「この道以外に生きる道はない」くらいのつもりで頑張れば、「大作家」に成れたかも知れませんが、それは「岡目八目」、気楽な第三者だから言えることでしょうね。 それではもう少し、「気楽な第三者」の立場で、ぐずぐず考えたいと思います。 とはいえ、実は僕はほとんど江戸川乱歩は読んでいません。(情けなー。) 小中学生の頃、怪人二十面相並びに少年探偵団絡みの本を何冊か読みました。 友人に借りた古い本で、シミだらけで、装幀を見ただけでもう、おどろおどろしい感じがしたのを覚えています。 でも、この「怪人二十面相」や「明智小五郎」という登場人物は、日本文学の中では数少ない「普通名詞」に成りかかっている、ある意味「大スター」であります。 そんな作中人物って、日本文学中でいえば、あまりいませんよね。 同じく推理小説で言えば、これも大物「金田一耕助」、純文学畑で言えば「坊っちゃん」。今でも「現役」なのは、これくらいじゃないですかね。 (すでに「現役」じゃなくなっているのも入れれば、例えば「寛一・お宮」とか「姿三四郎」とか、大衆文学系で結構あるかも知れません。あと、歌舞伎の世界。) しかしこの一事を見ただけでも、江戸川乱歩の凄さが分かりますね。 (ついでに漱石の凄さもわかりますね。「坊っちゃん」だけじゃないですものね。「赤シャツ」「山嵐」「うらなり」「野だいこ」など、現在でも通じる多彩・典型的なキャラクター輩出となっています。) あと、僕が読んだ乱歩作品の話ですが、随筆が数点と、高校時代に『陰獣』(これはほとんど内容は覚えていませんが、それでもとても面白くて、そしてめちゃめちゃ恐かった記憶があります)と、確か新潮文庫に短編の傑作選(これは、結構できが良かったですねー)があって、それを読みました。で、今回、冒頭の、十作ほどの短編集を読んでみました。 読みながら、かなりあきれました。 何にあきれたかというと、この十作は解説によると、大正十四年から十五年にかけての作となっています。ほぼ、時をおかない一年間のものであります。 にもかかわらず、なぜ、こんなに作品の善し悪しに、本当に驚くほどの差が出るのでしょうか。それは全く、あっけにとられるほどであります。 この中の作品で言うと、『人でなしの恋』『踊る一寸法師』『木馬は廻る』が圧倒的にいいです。他の七作に比べると、ストーリーもさることながら、文章力・描写力に至るまで、同一作家のほぼ同時期の作とは考えられないくらいです。 繰り返しになりますが、この差は一体どこから来るのでしょうかねー。 一つは、この作者の資質でしょうか。 発表媒体の違いというよりも、ちょっと分裂気味な感じのする作者の資質だと思います。 次に、これも大切だと思うのですが、こういった小説作品に対する、その時代の人々の大枠の評価(「期待度」といってもいいですか)です。 書く方も読む方も、はっきり言うと、そんなに期待していない。つまり発表された作品が、玉石混淆、というか、出たとこ勝負のようなところが大いに見えます。 (これは例えば、横溝正史の作品や、谷崎潤一郎の作品なんかにも、同じように感じられる雰囲気です。) で、上記の三作は、とてもできがいいと思うのですが、僕はふっと、大正の末ということで、梶井基次郎の『檸檬』を連想しました。 ちょっと調べたらやはり大正末、十四年一月『青空』創刊号に『檸檬』は発表されているんですね。 うーーん、何というか、比べるものが悪いのかとも思いますが、こうして比べてしまうと、『檸檬』の現代性には恐るべきものがありますね。 いや、当たり前か。 というわけで、乱歩は不思議な作家です。 作品のできの善し悪しの差が、激しすぎる作家です。 そして、なんだかひそひそ聞こえるような、とても気になる作家です。以上。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.17
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『希望の国のエクソダス』村上龍(文春文庫) 本作の読書報告の三回目であります。 やっと上記の小説にたどり着きました。(って、お前が勝手にあっちこっち行っているだけだろー。……すみません。) さて、この本の後書きとか奥付とかを見ると、この本は20世紀末に書かれているんですね。つまり、あの、2001.9.11アメリカ同時多発テロの前です。 「アメリカ同時多発テロ以前の世界」 うーん、なんかすっごーーーーーーい、隔世の感がありますねー。 100年くらい昔のような気がしませんか。 今でも覚えているんですが、後、数分で21世紀になるという、20世紀最後の夜の大晦日、僕はいつになくセンチメンタルになりまして、子供達に「21世紀はお前達の世界である。世界はきっと、人類の英知により、平和な時代に入っていくだろう」などと、当時の、破裂は時間の問題であった世界情勢を、何にも知らないままに語っていました。 で、21世紀になりました。 ええこと、なーーーーんにもあらしません。 世界中、さっぱし、沈みっぱなしです。 ……えーっと、やや、感情のトーンを落とします。 しかし実際、あれから本当に世界は、大激震ですものねー。 あの事件以来、世界は全く別のものになってしまいましたねー。 で、さて、この小説の舞台が21世紀初頭なんですね。 つまり流行りの「近未来小説」というわけです。 こうして読んでみると、近未来小説というのはなかなかむずかしいものですね。 だって、数年経てば現実が小説上の時代を通り越してしまい、書かれた未来予測について、嫌でも断罪されてしまうというのが、近未来小説ですよね。そんなのを書くというのは、本当はかなり度胸がいるんじゃないでしょうかね。 あるいは、書く時はそんな先のことなんて、何も考えないのかも知れませんね。 (しかし、それも変ですね。) この作品の未来予想について、もちろんこのテロの予測まではできていませんが(ということは、今となっては、ほとんど何も予測できていないと言うことかも知れませんが、まー、それは結果論として)、にもかかわらず、僕はわりとよくできていると思いました。 でも考えてみれば、僕が村上龍の長編小説を読むのは全く久しぶりで、作家の生のプロセスを辿っての感想ではまるでありません。 かつて小林秀雄が、一人の作家の全集を読むことを大いに薦めておりましたが、確かに一人の作家を追っかけて、あるいは全ての作品を虱潰しに読んでいくと、個々の作品の出来不出来はあまり気にならなくなるようですね。 しかし何となく読んでいて、とても懐かしいものを感じたのは、これは何でしょうかね。 むかーーし、昔の『限りなく透明に近いブルー』とか『海の向こうで戦争が始まる』とか『コインロッカー・ベイビーズ』なんかを直ちに、思い出しましたものね。 で、その延長上に、あー、この作家はこんなのだったっけと、思ってしまいました。 どう「こんなのだったっけ」かというと、後半、失速気味になっちゃうんですね。 真ん中やや後ろよりの、「国会中継」という山が終わった後、なんと言うんでしょうか、急に「つるつる」の話になってしまったという印象であります。 そんな感想でした。でも、よかったです。失礼ながら、才能、あります。はい。 今回はこんな所です。少々ペシミズムです。では。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.16
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『希望の国のエクソダス』村上龍(文春文庫) えー、前回からの続きです。 少し前、村上龍氏は、教育とか労働とかについて、かなり積極的に発言をなさっていましたが、その時は、なかなか鋭いことを提起しているなーと思って、僕も見ていました。 しかし、時は移り(実際、時って、あっという間に移ってしまいますものねー)、村上氏のおっしゃっていた主旨を改めて考えてみれば、ちょっと「ムリっぽい」んじゃないだろーか、と。 「仕事を通じて自己実現を図る」ということは、そんなに万人にできることではないだろー、と。 えー、話題は大きく振れていきます。 例えば、今私のいる空間では、ショパンの曲なんかが流れているんですが、この人の音楽を聴いていると変なもので、 「あ、こいつ、才能、あるなー」なんて、つい思ってしまいます。 「おまえ、なに考えてんねん」と言われそうですが、例えば、バッハとかベートーベンとかモーツァルトなんかの場合だと、「こいつ、才能、あるなー」とは、思ってもなかなか言えるものではないですよね。 だって彼らはとってもありがたい「人類の不労所得」なんですから。 でも、ショパンあたりだと、何となくそんな「与太」が言えそうな気がするんですがー、えー、なんか間違っているかな。間違っていそうだな。 これって、すごい畏れ知らずな発言なんでしょうかね、うーん、そんな気もするなー。 しかし例えば、ショパンのことを、「こいつ、才能、あるなー」と思うというのは、仮に文学の世界で言えば、どんな作家に対して言ったことになるんでしょうかね。 バッハを、例えばシェイクスピアに模してみるとすれば、ベートーベンはさしずめゲーテあたりですかね。この二人は親交もあったようですし。 でもやはり、この辺の連中に対しては、「君らには文学の才能がある」とはちょっと言えませんわね、常識的に考えて。 とすると、ショパンは、例えば、ランボーあたりで、どうですかね。 ランボーに対して、「こいつ、詩の才能あるよなー」っていうのは、うーん、やはりかなり、かなり、まずいような気がしますねー。 例えば、桑田佳祐に対して、「こいつ、才能あるなー」というのとは、やはり訳が違いますものね。 うーん、困ったことだ。(なにがやー。) いったい何が言いたいのかと申しますとですね、えー、これは全く何の根拠もない、言いっぱなしの発言なんですが、村上龍氏の小説を読むと僕はしばしば、「この人って、才能あるなー」って、思ってしまうということです。 これって、貶しているんでしょうか。(うーん、文脈的には少しそんな気がする。) また少し話が飛んでいきますが、以前、文藝評論家の斉藤美奈子が、村上春樹と村上龍を比べて、同姓であることから、我々は実に安易にこの二者を比較するが、そもそも比較すべき根拠が全く感じられない。 もしも村上龍を同時代の別の作家と比較するのならば、それは田中康夫ではないか、と、書いてあったのを思い出します。 斉藤美奈子はいったいどういうつもりでこんな事書いたんでしょうね。 少し聞きたい気がします。 そういえばこれも昔、確か、田中康夫が長野県の県知事になった頃じゃなかったかなと思いますが、東京都知事の石原慎太郎に、新知事へのエールをというインタビューをしていたのをテレビで見ました。 一定のコメントの後、インタビュアーが、同じ大学の出身であり、同じ小説家であるという角度から、田中康夫の文学的業績について尋ねると、「文学の質が違うから」と、いかにも嫌そうに、「同じにしてくれるな」と言わんばかりに、石原氏は述べていましたね。 うーん、分かるような、分からないような。 (今読めば、石原氏の『太陽の季節』と田中氏の『なん・クリ』って、きっとよく似ていると思うんだけれどなー。嫌がらせ?) さらに、この話はいったい何処へ行くのか、次回に続きます。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.15
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『希望の国のエクソダス』村上龍(文春文庫) 先日職場の上司が、酒の席とはいえいつになく真面目に、 「仕事や職場において自己実現が図れなければ、それはしんどいものになるから、そうならないように様々な職場環境を整えたい」ということを言いはったんで、みんな「へー」と驚いて、そして 「実際はなかなかそうもイカンよねー」と、こそこそと囁き合ったのでありました。 まぁ基本的には、なかなかそうは行かないものでありましょうなぁ。 この間僕が読んでいた本にも、仕事で「自分探し」をしていると、いつまでも最初の一歩が踏み込めないという内容があったように思います。 しかしこういった「自分探し」とか「自己実現」とかいう考え方は、一体どの辺から来たんだろうなと思っていたんですが、やはり今の流行なんでしょうかねー。 あるいは、「お国」のキャンペーン? 高校生のうちからいろいろと仕事について理解して、体験して、あれこれと考えて、そして、フリーターにならずニートにならず、ちゃんとした仕事に就きましょう、それから、「君、君、二十歳になったら国民年金の掛け金は、もちろんしっかり払うように」というやつですかね。 数年前に少し話題になりましたこの本、 『13歳のハローワーク』村上龍なんかの影響もあるように思うんですが、この本の基本的なコンセプト、「興味あることを仕事にする」というのは、今改めて考えてみると、とても素晴らしくはありますが、ちょっと「ムリっぽい」主旨じゃあないでしょうか。 何が「ムリっぽい」かと言うと、そもそも「仕事を通じて自己実現を図る」ということがですね。そんなことないでしょうかね。 えー、細かな内容はもう忘れたんですが、そんな一連の本の中で、村上龍は確かこんな風に言っていたと思います。 まず、仕事に就かない者はいないと説き始めて、つぎにやはりその仕事に充実感が覚えられなければそれはとても厳しいと説きます。まー、このへんまでは、他の人なんかもけっこう言っていることでしょう。 でも村上龍がもう一歩突っ込むのは、実はここからです。 彼は、仕事に充実感を覚えることができなくても、それ以外の趣味などで充実させるからいいという、当然考えられそうな反対意見に対して、自分はかつて充実した仕事を持つことなしに、本当に充実した趣味を持っている者を見たことがない、と喝破するんですねー。 ここが、「ミソ」なんですねー。ここのツッコミかたは、いかにも村上龍らしい、強引というか、力業というか、メチャクチャというか、あの村上龍の外見そのままの押しの強い・アクの強い迫力であります。 こう居直るように言い切られてしまうと、その迫力に負けてつい説得されてしまいそうですねー。確かに、めっちゃ説得力ありそうに感じてしまいますよねー。 こういう弁論のテクニックは、ぜひともよく覚えておきたいものです。今後の私の人生にとっても、大いに有効そうですねー。(ほんまかなー。) で、とにかく、僕も一時はそんな風に思っていたわけです。 でも、落ち着いて考えれば、うーむ、それはまー、正論かも知れないけれど、そんなことが叶うのは限られた人達、おそらく「才能」と呼ばれるものを持って生まれたあんた(村上龍のことだ)みたいな人だけでねー、大概の人はそーはいきませんて。 実は今、私は少々ペシミズムに陥っており、仕事・勤労に対して前向きな姿勢が取れないでいる、と、まー、こんなわけですかね。 うーん、困ったものです。 以下、次回。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.14
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『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋(新潮文庫) 『蒲団・一兵卒』田山花袋(角川文庫) 少し前から、僕は「私小説の系譜」ということを考えていたんですが(こんな書き方をするととっても「知的」な感じがしますね。なに、ふっと浮かんだだけですがー)、先日、こんな本を読みました。 『情痴小説の研究』北上次郎(マガジンハウス) 徳田秋声『仮装人物』から渡辺淳一『ひとひらの雪』まで「情痴」をテーマとする34編について、内容的にはそれほど重くない(一作品6ページほど)範囲で書かれた文芸評論(かな?)です。 この中に取り上げられた作家の過半が、いわゆる私小説作家です。 秋声の他、田山花袋・近松秋江・岩野泡鳴・葛西善蔵・嘉村磯多などですが、北上次郎は、彼らの小説は「主人公=作家のダメ男」であるが、私小説作家の一方の雄・志賀直哉と比べた時、彼らも本質的には何ら異なるところがないと説いています。 それは要するに「業が深い=自我の妄執」という共通項を持つという意味においてです。 志賀直哉の業の深さは、強烈な意志力として賞賛されつつも、一方ではそれを毛嫌いした太宰治が火達磨になりながら述べたように、得手勝手とほとんど表裏一体であります。 志賀直哉の得手勝手をもう一歩踏み込ませた時、そこに女関係に限りなくだらしない情痴小説が生まれると北上氏は説くわけですね。 そんな「自然主義=私小説」の方向性を決定づけた作家が田山花袋であります。 その嚆矢となったのが、この『蒲団』なんですが、そもそも島崎藤村の『破戒』の方が先に刊行されているんですね。一年の違いですが。 なぜ日本の自然主義は『破戒』の本格小説的な方向を取らず、『蒲団』のゴシップ的な方向に流れてしまったのでしょうかね。 うーん。この「本格小説的」・「ゴシップ的」という書き方から分かりますね。われわれは得てして、「本格」よりも「ゴシップ」が好きなんですね。 えー、そこにも(かなり強引ですが)「業」の深さが見られるようであります。 さて、冒頭二冊の本の『蒲団』はもちろん同じ『蒲団』です。 新潮文庫は短編2篇だけの薄い本です。角川文庫は『蒲団』+7つの短編が載っています。でも実は、どの短編もあまり面白くありませんでした。 そもそも『蒲団』は、私、以前読んだことがありました。その時は、文学史に載っているから読んだものの、「くだらねー」と思っておりました。 そして少し前に同作者の『田舎教師』を読んで、内容的には大したことないとは思いつつも、作者が説くところの「平面描写」という手法については、わりと好感を持ちました。 そこで今回『蒲団』を再読しまして、やはり「描きよう」は悪くないなと思いました。 とても丁寧に書かれております。この描写の仕方は、解説文によると、作者がかつて生活のために書いていた紀行文(今で言えば旅行本のライターかな)で身につけたようですね。この丁寧な描きぶりは、何より感じがいいです。 でもこれらの短編小説の中で、この度僕が一番面白かったのは『重右衛門の最後』でした。 この作品は一種のピカレスク(悪漢小説)です。山の中の小さな部落の住民を食い物にする「重右衛門」という男の話です。 彼は極悪者ではありますが、何というか少し「トリックスター」じみたところがあり、なるほど昔の共同体には、このような「よけい者」が、嫌われ疎まれながらも、住民同士の人間関係のために、一種の「緩衝材」のような働きを、結果的にしていたのではなかったかと思いました。 (もっとも重右衛門は、タイトルから想像できるように悪徳の度が過ぎて殺されてしまうのですが。) 終盤、重右衛門が村人に向かって怒って言った、 「何だ、この重右衛門一人、村で養って行けぬと謂うのか。そんな吝くさい村だら、片端から焼払って了え」というセリフは、そんな様相が彷彿とされ、なかなか印象的でありました。 田山花袋といえば、恥ずかしながら、僕は「食わず嫌い」でありました。 なんで「食わず嫌い」になったのかなと思い起こしますと、おそらく評論家・中村光夫の影響かなと。彼の「自然主義」に対する批判本のせいかなと思うんですが、ひょっとしたら、僕が間違った理解の仕方をしていたのかもしれません(多分そーだろーなー)。 で、近年、年を取ってきたせいかと思いますが、地味ーに丁寧に描く田山花袋はそんなに悪くないと、私は改めて思っております。 (でも、漱石がこの「露悪」「露骨」に対して反発したのは、もちろん大いに納得はできるんですが。) と、そういうところです。では。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.13
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『魔群の通過』山田風太郎(文春文庫) えー、前回の終盤は、なにか呪いにでもかかっていたような気がしましたが、どういう展開だったんでしょうか。 記憶が定かではありません。 冒頭の作品の報告をするにあたり、「水戸学」について、ちょっとだけ書いていたんですよね。その後どうなってしまったのか、うーん、よく分かりません。(なにか、コワイ夢でも見ていたような……。) ともあれ、幕末です。 「尊皇」という、それそのものは古くからある価値観について、ちょっとした「流行」のように、人々が改めて目を向け始めます。 しかしそれも、江戸幕府がのほほんとしつつも、それでもなんとか元気でいられた頃だからこそ、「尊皇」なんて価値を御三家が言えるわけで、一端本気で世間が「尊皇」を取り上げ始めると、水戸藩=徳川の「尊皇」なんて矛盾の固まりになってしまうわけです。 そんな尊皇・佐幕の確執が、なるほど幕末には、この藩をずたずたに切り刻んでしまったようです。 例えば山田風太郎はこのように説きます。 「水戸人は桜田の変以来、維新の革命の大いなる原動力であった。しかるに新政府ができてみると、そこには水戸人の片影もない。」 そしてその原因こそが、この天狗党の乱を中心にした「水戸の内戦」であり、この内戦を通して水戸の人材は徹底的に失われてしまったと。 この本を読んでいると、全くその通りだと思います。 「酸鼻」とか「凄惨」とかいう言葉がありますが、全くその言葉のままに、歴史の波間に弄ばれるように、その時々に優勢と見られた尊皇・佐幕それぞれのグループが、互いに「敵」のジュノサイドを繰り返し、日本には珍しい(あまり良くない例えではありますが、まるでイスラエルとパレスチナのように)始末の付かない血で血を洗う感情レベルの憎み合いとなってしまいました。 かつて山田風太郎は一連の明治小説(ちくま文庫から全14巻で「明治小説全集」として出ています)を書いた後、明治という時代のことを、 「一つの地獄の様な時代」と言っています。 そして本作は、まだそこに至っていない幕末が背景ではありますが、僕はこれら時代のことを考える時、現代の物差しで歴史を断罪してはいけないとは思いつつも、その「人命軽視」の精神風土に、背筋の寒くなるようなものを感じました。 しかし、このような思いは、司馬遼太郎の作品を読んだ時には感じられないものです。 よく分かりませんが、両作家の群衆の描き方の違いか(かつて二葉亭四迷について調べた時に、少しだけ知りましたが、明治時代の「暗黒面」についてですね)、設定された主人公の違いだろうと思います。 そんな意味でいうと、山田風太郎の明治は、司馬遼太郎の明治よりも、遙かに暗く凶悪であります。そしてこの一連の「人命軽視」が、僕にとっての本作への、少しの読後感の悪さの原因であります。 とはいえ、トータルで言えば、やはりなんと言っても山田風太郎は抜群に面白いです。 明治小説ならほとんどすべてが面白いです。(例えば、横山光輝の『伊賀の影丸』が「忍法帖」シリーズの「盗作」だとすれば、数年前に評判になった関川夏央原作の漫画『「坊ちゃん」の時代』は、ほとんど風太郎明治小説の「剽窃」ぎりぎりのもの、というのは言い過ぎでしょうか。) 「お勧め作」をあえて挙げますと、「明治小説」シリーズでは『幻燈辻馬車』か『エドの舞踏会』、室町物なら『婆沙羅』でしょうかねー。 ぜひご一読をお勧めします。 最後に、前回のブログの終盤で、「呪文」のごとくに触れました『大日本史』が「無価値」であることについてですが、しかし250年もかけてできあがったものが、ほとんど価値のない歴史書であったっていうのは、一体どんなもんなんでしょうねぇ。 作った人は、(特に最後の方の人は)ひょっとしたらそんなことに薄々気がついてはいなかったのでしょうかね。でも気がついていたとしても、そんな、「王様は裸だ」みたいなことはきっと言えなかったのだろうなと思いますね。 うーん、なかなか考えさせられる話ですね。 ぜひ「他山の石」に。では。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.12
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『魔群の通過』山田風太郎(文春文庫) えー、今回この作品を取り上げることについては、完全に私事ではありますが、わたくし、大いに迷いました。 本ブログの基本的コンセプトは(あくまで「基本的」であります)、 「作品選定の基準は、高校の『近代日本文学史』の教科書に準拠する。」 (『近代日本文学史』の教科書は、ブックオフで105円で買ってくる。)ってのがありましたんですね(って、私がそう作った)。 歴史小説に対する「日本文学史」の差別的評価の低さについては、以前より何度か述べてきましたが、それでも私も、山田風太郎氏までを射程に入れての「歴史小説」とは考えていませんでした。 下記にもありますように、山田氏の小説は私にとってフェイヴァレットであり、全くその価値を貶めるつもりはありません。 ただ、基本的に山田氏の小説は、「日本文学史」などという一種の「差別選別機構」とは全く接点を持つことのないフィールドで、巨大に屹立していると理解してきました。 まー、もう少し簡単に言えば、この人の小説を取り上げたら、このブログに於いて小説なら何でもアリかな、と思ったということです。 そんなことはもちろん極小さな私事であり、そうなってどこが悪いのかというようなことではありますが、ともかく、私と致しましては、少し、悩みました。 で、結局、山田氏の小説の中では、比較的人気のなさそうな、地味ーーなやつで解決を図ろうと、「三方一両損」でいこうと。(なんのことやら、さっぱりわかりませんねー。) というわけで冒頭の作品であります。 さて、繰り返しますが、山田風太郎の小説は僕にとってフェイヴァレットであります。 ただし、明治小説シリーズと、あと何作か(一連の室町もの、『人間臨終図巻』など)がその対象ですが。 評判のいい「忍法帖」のシリーズは、読んでいる時は確かにとても面白いのだけど、どうも僕にとっては後味がヨロシクナイ。僕には、あまりに殺伐としているように感じられます。 で、この小説の読後感にも、その殺伐さがあります。 舞台は、幕末の水戸藩。いや、主な舞台が水戸ということです。 なぜなら、主人公ら水戸天狗党一団1000名ほどの水戸から京都までの「長征」が、ドラマの主筋であるからです。 そもそも、水戸について、僕が何となく知っている歴史的事項と言えば、まぁ水戸光圀から始まって『大日本史』編纂、幕末は水戸の烈公徳川斉昭そして15代将軍慶喜の出自くらいでありしょうか。 えー、例によって、話は逸脱するんですが、私の友人に歴史小説ファンがいまして、この、水戸黄門とか、『大日本史』とか、「水戸学」なんかについて、ちょっと水を向けてみたんですね。 僕としては、ちょっとだけ水を向けたつもりだったのに、彼は全く「水を得た魚」の様に、鼻の穴を広げて、以下のごとく、延々と語り出しました。(こんな友人も、うーー、難儀だ。) ……そもそも水戸藩は、御三家の中でも将軍家ともっとも血縁関係の薄い藩であった。水戸黄門の『大日本史』は、その編纂に250年あまりを費やしたにもかかわらず、現在では全く価値のない史書となっている。我が輩も、ただの一度も見たことも(いや大学図書館の奥の方で見たことはあるか)、開いたこともない。 なぜ、価値がないかといえば、その史観がたいしたことないからである。ただこの書の主張として有名なのは、南朝が正統であるということである。他の歴史書でいえば、新井白石の『読史余論』なんぞは、今の徳川の代にいたるまで、八回の転換期があったとかいう点に非常におもしろみがある。だから、今でも価値があるのである。加えて『大日本史』の無価値さについて、例えば新しい史料が載せてあるかといえば、これもない。だから新し味にもかけるのである。 しかし水戸藩の尊王思想は、幕府を否定するものではない。元来、朝廷と幕府は対立するものではないのである。確かに、鎌倉幕府は、承久の乱で朝廷と戦った。だが、あれは西国政権と東国政権の戦いというもの。その後、室町に至り朝廷と武家は融合がはかられ、戦国期を経過して、両者は対立するのもではなくなったのである。それは、朝廷に、政権担当意欲がなくなったし、世間もそうは見なかったということでもある。 例えば、現在の天皇を崇拝し信仰することと、自民党政権を批判することに、全く論理的な連続性がないのと同じである。むしろ、尊王論が出てくれば、幕府にとっても好都合という側面があった。幕末期においても、尊王攘夷は流行するが、それは直ぐには討幕には結びつかなかったのである。あの新撰組も尊王の志士ではなかったかな。討幕ということが言われるのは、薩摩長州が結びついて、政権を幕府から奪おうとした時、1867年ごろからではなかったかと思うのであるのであーる。そもそも天皇のもと幕府から薩長が政権を奪った明治維新について……なんちゃらかんちゃら、かんちゃらなんちゃら、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、あーー、やかましいやかましいやかましやかましやかましやかまし……。 えー、次回に続きます。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.11
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『海に生くる人々』葉山嘉樹(岩波文庫) おおそれながら、冒頭ではっきり申します。 この本はまた、強ーーー烈に読みづらかったです、わたくしといたしましては。 何故こんなに読みづらかったのか、一応の答えは得ました。 この小説は、いわゆる「芸術性」を追求しない小説なんですね。 そこんところを、もう少し順を追って考えてみたいと思います。 この小説の成立事情を見ていたんですが、なかなか興味深い一時代であります。こんな風な略年表になります。 日本史事項 葉山嘉樹事項1914(T03) 第一次世界大戦勃発1917(T06) ロシア革命勃発 『海に生くる人々』着手1918(T07) 米騒動1921(T10) 雑誌「種蒔く人」創刊1922(T11) 日本共産党結成 治安警察法違反で逮捕される1923(T12) 関東大震災 名古屋刑務所内で『海に~』完成1924(T13) 雑誌「文芸戦線」創刊 〃 短編『淫売婦』1925(T14) 日本プロレタリア文芸連盟結成 刑務所出所・短編『セメント樽~』1926(T15) 日本プロレタリア芸術連盟結成 単行本『海に~』発行 こんな感じで、プロレタリア関係の出来事がほぼ毎年、堰を切ったように起こっています。しかし、そのポイントは何といっても「ロシア革命の勃発」でしょうね。つまり、日本でも共産主義革命の起こる可能性が、現実的にあった時代ですよね。 とりあえず、こういった時代背景の理解がなければ、この本はちょっと読みにくいのかなと思いました。 ところが、そんなことが分かった所で、この小説の読みづらさは変わんないんですね、残念ながら。 上記の略年表の1921年に「種蒔く人」創刊というのがありますね。これはわりと有名なプロレタリア文学雑誌なんだそうですが、この雑誌の、スローガンみたいなものがこうなんだそうです。「社会主義的・平和主義的・反芸術至上主義的文藝」 ポイントは3つ目のやつですね。「反芸術至上主義」。もちろん、「芸術的・芸術性」というのと「芸術至上主義」は異なります。 しかし、僕はざっくばらんに思うんですがー、「きっと文章を飾ろうなんて考えは持ちはらへん人達の集まりなんやろな」と。 はっきり申しますと、僕は、この作品の文章にかなり難渋しました。 それが、僕がこの小説の読みづらかった原因のその一です。 その二は、なんというか、「構成の難」でしょうかねー。 大概の小説は、半分まで読めれば、後はなんとか読めるものです、それがどんな長編であっても。むしろ長編小説の方が、長く付き合った文章の「息づかい」に慣れて、残り半分はぐいぐい進んでいけるものだという経験則を、僕は持っていたんですね。 ところが本作は、うーん、本当の終盤近く、船の上で争議が起こる寸前まで、実に読みづらかったです(中盤ちょっと、これはいけるかなという感覚が少しあったのですがねー)。 これは、失礼ながら、やはり構成に難があるんじゃないでしょうか。各エピソードが重層的に積み重ねられず、羅列的に並べられてあるという感じがしました。 それと、もう一つ、うーん、やはり、「階級闘争的アジテート」が、煩わしかったですねー。 ただ、葉山嘉樹の代表作といえば『セメント樽の中の手紙』ですが、このわずか数ページの短編がなぜ素晴らしいかといえば、実は、「文章力」なんですよねー。 非常に印象的なイメージを喚起する表現の力であります。 例えばこんな部分。 私の恋人は破砕器へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と一緒になって、細く細く、はげしい音に呪いの声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントになりました。 (『セメント樽の中の手紙』) この文の持つ、イメージの喚起力には抜群なものがありますね。 実はこれによく似た、鮮やかなイメージを描いている部分が、やはり『海に生くる人々』にも出てきます。こんなところは、とても心地よく読むことができました。 葉山嘉樹の才能は、本当はこんな所にあるんじゃないかと思われました。 しかし同時に、この感覚はどこかプロレタリア文学っぽくない感じを与えることも確かです。 もちろん、この後のプロ文が強烈な弾圧を受けた時代のせいでありましょうが、葉山は作家的成熟を見せることなく、1945年、満州で病没します。 51歳。全ての日本人が大変な時代でありました。 というわけで、この本は、ちょっと大変でした。では。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.10
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『老妓抄』岡本かの子(新潮文庫) 上記小説の読書報告の前回の続きであります。 前回は、この小説の文章の魅力に、ひたすら私は感心をしていました。 極めて「粋」な文体です。しかし、この「江戸前」の文章の歯切れの良さとは、いったい何なんでしょうね。 そもそもそんなものは、本当にあるんでしょうか。 そこで私が考えたのは、この「江戸前」の歯切れの良い文章に並び立つものがあるとすれば、それは、関西系の粘っこい文章じゃないかということでした。 その鼻祖は、私はよく知らないながら、やはり井原西鶴ですかね。 その後この系譜は、前回も取り上げた織田作之助とか野坂昭如とか、最近の人ならなんといっても町田康でしょうか、その辺に繋がって来るんじゃないですかね。町田氏の文体も、極めて関西的でユニークです。 関西人の場合は、どうしてこうなっちゃうんでしょうね。 恥ずかしながら、例えば私でも、このくねくねとのたくった粘っこい文は、どちらかといえば「タイプ」です。下手くそながらも、少しは書けそうな気がします。 一方、例えば東京人である谷崎潤一郎は、関西に移住して後、関西に芸術的新天地を見つけ、いかにも「関西的」な息の長い文で、『盲目物語』や『春琴抄』といった名作を書きました。しかしその文体は、息は長くはあっても、「粘っこい」感じはしません。 うーん、不思議ですねー。 関西人がそうなんだから、やはり、「江戸前」の文章も、あるのかも知れませんね。 しかし、今思ったのですが、この文体の違いは、結局、物事を認識する際の距離の取り方ではないか、と。 つまり、「江戸前」の文体のポイントとは、「突っ放し」? うーん、ちょっと、考察しきれないところに入ってしまいましたので、とりあえず、ペンディングします。 さらなる研鑽に大いに励んで(ほんまかいな)、またご報告申し上げたいと思います。 さて、この新潮文庫の短編集には9つの短編が入っていますが、大きく二つのグループに分かれそうです。 一つは、生前発表のグループ。 もう一つは死後発表のグループです。 読みながら、何となく質の違う、二種類のものがあることを感じていたんですが、読み終えてから作者について少し調べました。 すると、まずこの作家の小説家としての「実働」は、わずか3年だということを知りました。 これだけ筆力のある作家が、なぜ一般的な「大成」をしなかったのか不思議に思っていたんですが、なるほど実質的な小説家デビューの翌々年になくなってしまったのでは、むべなるかなであります。 (かの子は、最初は歌人として、一定名を成していたようです。その後、文壇に認められた作品は、芥川龍之介をモデルとした「鶴は病みき」であります。) というわけで、「生前発表グループ」作品は、「老妓抄」を始め、極めて切れ味がいいです。名品です。 しかし一方、「死後発表グループ」作品は、いわゆる習作の名残が感じられ、どこか「いびつ」な感じがします。 (えー、「死後発表グループ」作品という言い方は、正確なのか少し不安があります。死後発表であっても、これは「習作」ではないかと感じ得る作品群ということです。) 例えば「食魔」という天才的料理家を主人公とする作品がありますが、これはもっと面白くなってもいいものが、そうならずに「歪な」展開に終わっているように感じます。 ただ、それが作者の中で吹っ切れたとき、「生前発表グループ」作品が生まれたんでしょうね。 岩波文庫の解説文によると、その時かの子は、夫・岡本一平に 「もう大丈夫、ぱぱも安心して」と、言ったということです。 早すぎた死が、いかにも痛ましいですね。 では、今回はこの辺で。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.09
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『老妓抄』岡本かの子(新潮文庫) あの、関西人にとっては、「おーるでぃず・ばっと・ぐっどでぃず」の、懐旧と哀愁と栄光の、「関西が最も美しかった時」「関西が最も燃えた時」の、「EXPO70・大阪・日本万国博覧会」のシンボルタワー「太陽の塔」の作者・岡本太郎氏のお母さんであります。 うーん、極私的かつ極限定地域的感傷ですがー、実に懐かしい。 あの時以来、関西は40年間沈みっぱなしですからねー。 あれ以来、何ーーんにも、ええことあらしません。 とはいえ、関西の沈没と岡本かの子氏とは、なーんの関係もありません。(当たり前ですな。) ただ、かの子の長編小説『生々流転』の扉絵は、息子・太郎の「痛ましき手」という作品であります。 この作は、「芸術は爆発だーーーっ」と、アニマル浜口みたいになってしまった晩年の太郎氏からは想像しがたい、なかなか精神性の高い絵画であります。 さて、閑話休題、この本の読書報告に戻りたいと思います。 実は、「老妓抄」については再読です。幾つかの短編と共に、少し前に僕は岩波文庫で読みました。 そのときの感想は、なんと言っても圧倒的な文章力のすごさでありました。 ちょうどそのころ、たまたまですが、僕はプロレタリア小説なんかを幾つか続けて読んでいました。 それは、決して「つまんない」というものではなかったですが、如何せん、文章の「芸」とかいう視点については、プロレタリア小説はきっとあまりなかったと思われました。 (ちょっと雑駁な捉え方ですかね。小林多喜二なんかはかなりそのあたり、頑張ってはったようですが。) とにかくそんな小説を幾つか読んだ後でこの「老妓抄」を読むと、まるで、同人雑誌の中に一作だけ紛れ込んだプロ作家の作品を読んだごとく、まさに「掃き溜めに鶴」(これは言い過ぎですかね)、惚れ惚れするような快感を覚えました。 しかし実際の所、この文章の歯切れの良さというか、「気っ風の良さ」は、どうも説明のしようがありませんね。 僕がかつて経験した、同じような感じを抱いた他の小説家といえば、 幸田文・森茉莉・久保田万太郎あたりですかねー。 うーん、冒頭にもありますように、僕は「贅六雀」(これは江戸風に「ぜえろくすずめ」って読むんでしょうね。江戸っ子による、上方人を嘲った言い方です。)でありますから、いわゆる「江戸情緒」染みたものについてはよく存じ上げません。 しかし、なんかそういう言い方がいかにもふさわしい文章力を持つ方々です。 あ、今、思いつきました。 むしろ、これらの作家たちに対抗するような筆力の作家を別系統で挙げるなら、それは 織田作之助でありますね。または、 野坂昭如『ほたるの墓』。 ともあれ、私ごときの文章力では、この文体の説明のしようがありません。現物を見てもらうに如かずでありますが、例えば、冒頭はこんなんです。 平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人の素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。 ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。 (「老妓抄」) どうですか。主人公の佇まいについて、あっという間に説明しきっていますね。 見事なものです。 他に、こんな部分。 父と母と喧嘩をするような事はなかったが、気持ちはめいめい独立していた。ただ生きて行くことの必要上から、事務的よりも、もう少し本能に喰い込んだ協調やらいたわり方を暗黙のうちに交換して、それが反射的にまで発育しているので、世間からは無口で比較的仲のよい夫婦にも見えた。 (「鮨」) 上手な説明ですね。掌の上のものを見るようです。 しかし、この「江戸前」の文章の歯切れの良さとは、いったい何なんでしょうね。これはちょっと、別枠で考える必要があると思えますね。 そもそもそんなものは、本当にあるんでしょうか。 少し考え悩みつつ、次回に続きます。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.08
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『裏声で歌へ君が代』丸谷才一(新潮文庫) この本は再読です。すでに一度、単行本が出た時にさっそく買って読みました。 この作家の小説はわりと好きで(エッセイもとても高名ですね)、私の中では、新作が出たら結構リアルタイムに読む作家でありました。 で、今回再読したのは、古本屋で(珍しくブックオフにあらず)100円で売っていたのでつい買ったんですね、単行本があるのに。 ちょっと話題が飛んじゃうんですが(まーいつものことですがー)、時々私はこういう事をします。理由は二つあります。 (1)これをきっかけに再読するため。 (2)本を置くところがないもので、大きい方の単行本をこの際処分するため。 ところが、今回はその目論見が半分失敗しました。 再読はしたものの、単行本を処分しようとして本棚から取り出すと、箱に書かれている(この本は、例の「新潮社純文学書下ろし特別作品」シリーズです。箱入りです。)作者の言葉、これが名文なんですねー。「蝶の嫌いな男は蝶類図鑑は編まない」という比喩を用いた「絶品の随筆」であります。 思い出しましたが、僕はこの「作者の言葉」にもふらふら釣られて買ったんでした。 で、単行本は、よう処分してません。はい。 というわけで、ひさしぶりに再読をしました。 前回読んだ時は大ざっぱにこんなふたつの感想を持ったように記憶しています。 (1)推理小説を思わせるスリリングな展開である。 (2)風俗小説の王道を行くような堂々とした作品作りである。 ところが今回読んで、両者とも、なるほどその通りとは思いますが、そこにもう一つ大きな「感動」がなかったような気がするのはなぜ? と。 これは何でしょうかね。考えられることは、 (1)私の、加齢を主な原因とする感受性の摩滅。 (2)私の、鑑賞力向上よりくる作品の評価の低下。 まー、(1)でしょうがねー。 (2)っていうのは、早い話が、元々たいした作品じゃなかったのに、昔はその事が見破れなくて高い評価をしていたってことですよね。 これって、すっごい傲慢ですねー。やはり(2)は無いですね。 しかし、なんだかちょっと、思っていたより「贅沢さ・美味しさ」が感じられなかったという実感なんですけれどねー。 最初に読んだ時は、「おいしいおいしい」って思いながら読んでいたような記憶があるんですけどねー。 要するに、この本は「国家論」であります。(兵役拒否を描いた名作『笹まくら』などを挙げるまでもなく、「国家論」はこの作家の、おそらくは生涯のテーマです。) その国家論を重層的に描こうとする故に、いろんな所でいろんな登場人物が「討論」をします。この「討論」と、小説内世界のリアリティとのかねあいが、本作の一つのポイントですね。 えー、上記にもありますように、私にとってこの作家はフェイバレットです。 プロの物書きが、プロの「芸」を見せようと、彫心鏤骨しているさまがとても心地よいからです。 ちょっと前の小説家は、こうして、真面目に「芸」を我々に見せてくれていたものであります。もちろん今でもそんな誠実な、「職人」のような小説家はいると思いますが、なんか、こー、時代のせいでしょうか、ちょっと拗ねてるというか、斜に構えているようなところがあるような気がしますね。 もっとも、こんな「昔はよかった」みたいな感想を抱いてしまうのは、私の精神が老化しかかっているからかも知れませんが。 ともあれ、今回読んで、ちょっと「論」が先行しすぎているような気が、特にしました。 うーん、「再読の可否?」っていうのは、考えすぎですよねー。 ついでに、丸谷氏の作品の中では『たった一人の反乱』が(今んところ)ベストではないか、と、まー、私は、そう思っています。 よろしければお読み下さい。とっても面白いです。では。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.07
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『アフターダーク』村上春樹(講談社) 村上春樹氏の新作の売り上げが落ちませんね。 『ノルウェイの森』に並ぶくらいのペースで売れているんですかね。あれはものすごく売れましたものね。なんでも四百万部くらい売れたそうですね。 あの本は、僕もすぐに買いました。あれほど売れる前でありますが。 確かその後、村上氏は、百万なんてレベルで本が売れるということの戸惑いをエッセイで書いていましたが、今回はどうお考えでしょうね。また聞いてみたいものです。 さて、その話題の新作は、私はまだ読んでいません。 かつては村上春樹の新作といったら、発行と同時くらいに買っていたものですが、いつくらいでしょうか、たぶん『ねじまき鳥~』あたりから、一定、いろんな書評なんかを見てから買っています。 でも今回はそんな書評さえ、ほとんど読んでいません。 評判いいんでしょうか? きっと、いいんでしょうね。 僕が書評さえも読まなくなったきっかけは、ずばり『海辺のカフカ』です。 あの時は、何種類かの書評を読んでみたんですが、要するに、書評子もよく分かっていないんだなと言うことだけが分かりました。 どの書評も、あれこれ言いながら結局、戸惑っているとしか書いてなかったですね。 「あ、これは、書評なんて読んでも仕方がないんだ」と、その時思いました。 以降、村上氏の新作の書評は読まないようにしています。 えー、結局これは、村上氏の作品が近年、一作ごとに、いわゆる普通の「理解」というレベルでいうと、どんどん難しくなっているということですかね。 ただ、おもしろさについては、ちっとも減じていません。 それはつまり、「わかる」という現象の捉え直しが、僕たちに要求されているということですね。 それがスムーズにできさえすれば、村上氏の新作はどれも分かりやすく、そして面白い。 というわけで、村上氏の新作は、そのうち読むとは思いますが、もう少し落ち着いてからにしようと考えています。 そこで、旧作です。 もう一つ、人気のなかった『アフターダーク』です。 「自閉症小説」なんて言われたりもしましたね(うまいネーミングですね)。 ついでに、この本の新刊時も、書評があまり見あたらなかったような記憶があります。 やはり、誰も自信を持って批評できなかったんでしょうね。 このたび読み終えて、その理由が少し分かったように思いました。 一言で言うと、きわめて、シンプルに作られたお話になっていたからです。 村上春樹の作品といえばイメージと隠喩の洪水、そして謎とほのめかしといった感じの作品が、ここしばらく続いていたような気がしますが、今回は、文体も含めて(なんだか同人雑誌の文章みたいです)きわめてシンプル、タイト、いや、無防備という感じに思いました。 こんな、「世間知らず」のような展開でいいのだろうか、と。 おそらくは、そんなおとぎ話のような作品に、たぶん(僕も含めて)少しとまどったというところじゃないでしょうか(あるいは、さらなる「深読み」を求めて、結局、見つけだせなかった)。 ただ本作は、全体にちょっとキックが足りないんじゃないかという気がします。 それは、新刊時のオビ文に「村上春樹作家デビュー25周年記念」なんていう、よくわかんない宣伝文句が書かれていることからも逆に(そしてオビ文の思わせぶりな本文引用からも)、何となく分かりますね。 はっきり言って出版社も、内容については戸惑っていたんじゃないですかね。 『カフカ』なんかに比べたら、遙かに読みやすい本にはなっていますが(もっとも村上春樹の小説は、どれもこれもきわめてリーダビリティが高く、まさに「ワンシッティング」(一息に)という感じであります。かつて蓮見重彦も『ねじまき鳥』について、そんなことを書いていた記憶があります)、全体にやや「貧相」な感じして、それで、少し「華」に欠ける気がしてしまいますね。 清水良典氏の評論(『村上春樹はくせになる』朝日選書)に、村上春樹の作品群は、短編集と大長編とそして長めの中編が、ぐるぐるとローテーションしながら発表されていると書かれてありましたが、それによると、中編はちょっと「気が抜けている」らしいです。 『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』そしてこの『アフターダーク』が、その範疇にはいるそうです。 なるほどね。 作品を次々と世に問うて行かねばならない、生きている小説家というのは、やはり大変ですよねー。 では、今回はここまで。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.06
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『親指Pの修業時代・上下』松浦理英子(河出文庫) 最初の単行本は1993年に出たそうです。話題になって、かなり売れたんじゃなかったでしょうかね。 僕もこの本自体は、かなり以前に買ってあって、でもずっと読んでなかった本であります。(そんな本がいっぱいあって、それでもだいぶ減ってきたんですが、まだあります。) 実はもっと「物語口調」というか、「寓話」あるいは「説話」なのかなと思っていたのですが、かなりリアリズムであります。 とはいえ、設定の核が、二十歳過ぎの女性の右足の親指がペニスになるというものですから(山田風太郎の忍法小説に、そんな忍者が、冗談みたいに出てきますがー)、この「設定の核」とリアリズムのすりあわせについては、うまくいっているのかどうか、大切な部分ではありますが、よくわかりません。 ただそれについては、ひたすら真面目な描写と、「長さ」とで押し切っているという感じが、とてもしました。 特に「長さ」で押し切っているというのは、長編小説の良いところというか、読んでいてその世界に「馴染んで」しまえることですね。また馴染ませる作者の描写については、文章・プロット共に、やはりなかなかの力量があるのだと思います。 ただ、「性」を前面に押し出す小説というものは、どうなんでしょうか、読みながら、僕自身かつてどんなのを読んだだろうか、そしてどんな感想を持っただろうかと思い出してみたのですが、なんというか、どれも実に「息苦しい」。 例えば谷崎の「卍」とか「鍵」とかを、僕は連想したのですが(そんな「大層」なんじゃなく、もっと近い時代の作品があるはずだと考えたんですが、「性」そのものが中心テーマといわれると、結構考えてしまうものですね。どなたかご教授いただけませんでしょうか)、どうも爽やかな読後感の「逸品」というものがありませんね。 なんかとっても疲れるんですね。真面目な「性」のテーマは。 (これは、はしなくもSM小説の読後感と同じですね。昔、橋本治が、身も心もどろどろになりたい時SM小説を読む、とどこかに書いていましたが、一緒ですね。そういえば、SM小説って、そんなつもりはなくても、ちょっと人間性の根元に触れている感じがしますものね。しませんか? 僕だけ?) えー、考えたのですが、性を追及するということは、やはり「人間」を追及することに他ならないとは思うわけです。だとすれば、小説家がそれを描こうと意欲するのは当然の帰結であろうなと。 これも昔(もうかなり昔ですが)、安部公房が「性」は二十世紀に残された唯一の文学的フロンティアだと書いていた文章を読みました。さもありなんと思います。 (しかし、二十一世紀になって久しい今も、「性」がらみの小説は結構多いですが、考えてみればこのテーマも、もうかなり「古い」わけですねー。そろそろ賞味期限が切れかかっているんじゃないでしょうかねー。) しかし「性」は、結局「エゴイズム」に近いところに位置している可能性がかなり高いんじゃないでしょうか。 だとすれば、それを描くことが、一種「息苦しさ」を感じるものになってしまうのも、やむを得ないのではないかとは思いますね。 うーん、この小説も、愚直なくらい「真面目」に書かれていると思うんですが、やはり息苦しかったですねー。 (それにこの小説には「性」に加えて「奇形」が大きく出てくるんですが、そのことも「息苦しさ」の一因かと愚考します。) そんな小説です。 女性作家には、時にこんな「真面目さ」が見られるような気がしますが、これも私の偏見でしょうか。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.05
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『深い河』遠藤周作(講談社文庫) 上記本の読書報告の第2回目です。 しかし、例によって、まだ直接はこの本に触れておりません。 前回は「極めて難解な宗教論議」を致しておりました。(って、嘘です嘘ですー。) 前回の内容は簡単に言うと、頭が極めてアバウトにできている私は、キリスト教の入門書を読んでももう一つぴんとこず、その原因を不埒千万にも、入門書のせいだと考えたのでありました。 それは、一連の入門書と、以下の本を読み比べてそう思ったのでありました。この本です。 『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』遠藤周作(新潮社) こんな表現を聞いたことがあるんですが、「遠藤キリスト教」と。 たぶん遠藤氏自身のエッセイか何かで、「遠藤キリスト教も、線香臭くなてきたなぁ」と友人に言われたとかの文脈でありましたか。 そういえば、遠藤氏の代表作『沈黙』は(遠藤氏の代表作というより日本のキリスト教作家全体の代表作)、かつてカソリック教会から禁書扱いされたと聞きますが、私の記憶違いでありましょうか。 それは遠藤周作の、「悩める無力なイエス・キリスト」理解ゆえですね。 実は、これが、僕はとても好きなんですねー。 「遠藤キリスト教」だと、僕にとっては、聖書記述が非常にしっくりするわけです。 例えばこんなところ。 イエスがいよいよ磔刑へのカウント・ダウン、エルサレムへやってきます。そしてイエスは、神殿の境内で商売をしていた者達に「ここから出ていけ。私の父の家で商売などするな」と言いながら、彼らの屋台や腰掛けをひっくり返します。 この場面、前回に触れました『図説・聖書物語新約編』では、こんな解説がはいっています。 「日頃は柔和で、謙遜であるイエス。そのイエスの激しい怒りの爆発に、弟子達は度肝を抜かれた。イエスの怒りは、だが、冷めてみれば、よくわかる。弟子達は、あらためてその勇気に感服した。」 しかし、「遠藤キリスト教」はこうです。 「そして三日目の水曜日、イエスは彼らしくないことをする。(中略)イエスはこの行動で自分が彼らの手によって捕縛されるのを願っておられたのではないだろうか。」 そして、イエスがなぜ死のうとしたかについて、「現実的には無力で孤独な彼は自らの死によって、永遠に人間の同伴者となるという神の愛の教えを、そこに賭けたのである」と。 こういうイエス・キリスト理解は、おそらく日本的なんでしょうね。 異論がいっぱい出てきそうな、いえ、「異論」なんてレベルではなく、「断じて許せない」と考える人たちも沢山いるだろうなと、確かに思います。 でも僕は、明らかにこちらの理解の方が人間的であり、人間感情のあり方に沿っていると思います。僕は間違っているのでしょうか。 こんな、「遠藤キリスト教」が、僕は、とても好きです。 で、さて、そんな「遠藤キリスト教」理解の中、冒頭の小説『深い河』を読みました。 うーん、「遠藤キリスト教」、ますます好きですねー。 というより、考えれば、僕のキリスト教理解は、ほぼ「遠藤キリスト教」、つまり遠藤周作の『沈黙』をはじめとするいくつかの小説がベースで、それにちらほら別の知識が入った程度でしかありません。 遠藤キリスト教の定番、「悩めるイエス・キリスト」はこの作品にも十分反映しています。そしてそれが、僕にとってはとても面白いです。 しかし、この小説そのものは、少し薄味な気がしました。 主な登場人物5人が、それぞれ生と死、転生、神などの重い個人的課題を抱えてインドに集まるという話は、内容的に考えるとこの分量の1.5倍くらいは書き込めそうな気がします。 でもさすがに落としどころでは感動しました。読みながら何カ所かで目頭が熱くなりました。「遠藤キリスト教」まだまだ恐るべしであります。 ところで、やっぱりインドって、今でもすごいところなんでしょうかね。 いろんな人が行って、いろんな事を考えたようですが、今でもそんなカオスの塊の様な所なんでしょうか。ちょっと「怖い物見たさ」みたいな興味もありますね。 では、今回はこの辺で。よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末/font>にほんブログ村
2009.08.04
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えー、最初に宣伝を一つ、すんません。 大概このブログも「気の抜けた」ブログではありますがー、さらに「気の抜けた」ブログを一つ立ち上げました。 もしも「ぼーーーー」っとしたい時などございましたら、よろしくお立ち寄り下さい。 以下のサイトです。↓俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 『深い河』遠藤周作(講談社文庫) さて以前にも報告しましたが、音楽がらみのエッセイなんかを読むのが好きで、つい手が出てしまいます。 最近、その関係で、バッハについて書いてある本を読んでいたのですが、バッハの音楽の「真骨頂」はどこにあるかというと、それは、「カンタータ」などの宗教音楽である、と。(ついでにいうと、モーツァルトは、やはりオペラだと書いてありますね。ふむ。) どの本を読んでも、バッハについてはそんなこと、書いてあります。 曰く、『マタイ伝』がベストである。 曰く、『ミサ曲ロ短調』が圧倒的である。 しかし、こうなって来ると、やはり『聖書』理解は外せなくなってきますよねー。 まー、当たり前でしょうかね。別にバッハの音楽のためでなくても、西洋文化理解から『聖書』は、どう考えても欠かせませんよね。 と、思いまして、実は数年前に、旧約・新約、両聖書を読みました。 おもしろかったです。 でも、えー、宗教につきましては、生半可な気持ちで取り上げてはいけないんですよねー。まじめに、一心に、人生を賭けて取り組んでいらっしゃる方が星の数ほどいます。 というわけで、少し恐れ恐れ書いています。 えー、基本的に、宗教「半可通」の「寝言」のようなものです。 書いている者は、それでなくても頭のできの極めて「ユルイ」、誤解と偏見に満ちた愚者であります。 そこんところよくご理解いただいて、よろしく、御笑覧ください。 というわけで、「バッハ→キリスト教」の連想の元、キリスト教の本をどっさり、図書館で借りてきました。 どれも図版のたくさんある、初心者向けの楽しげな本です。こんな本です。 『聖書入門』ピエール・ジベール(創元社) 『図説・聖書物語新約編』山形孝夫(河出書房新社) 『キリスト教と笑い』宮田光雄(岩波新書) しかし、これだけいっぺんに借りてきて読んでいますと(絵や写真はとてもおもしろいんですが)、実際のところ、少し飽きてきます。 宗教画はとてもおもしろいですが、それ以外の箇所が、だんだん退屈になってきました。 その原因はなぜか? と考えてみました。 「原因その1」はすぐに浮かびます。 こらえ性のないおまえが悪い、です。 ……その通りですね。子どもの頃からずっと親からも教師からも、おまえは集中力がまるでない、ゾウリムシのような行き当たりばったりの思考形態だと、言われ続けた人生です。 上記本が面白くない原因の99%は、これでありましょうが、厚かましくもこの度は、わたくし、別のことを少し考えてみました。 「原因その2」は、これはまじめな話、宗教の根元に関わる問題であります。 ただ、この問題につきましては、すでにきっと、「宗教学」とか何とかの学問で、学術的に一定の見解なり、定説の出ていることと思います。 しかし、私はそれについては存じませんので、畏れ多くも、以下、素朴にこんな展開になっていきます。 えーっと、私は続いてこんな本を読んでみました。 『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』遠藤周作(新潮社) この本も図説の多い入門書であるわけですが、がぜん面白いわけですね。 一体、なぜでしょう。どこが違うんだろー、と。 それは、わたくしが思いますに、この本は遠藤周作が書いたからですね。 その辺の所、次回へ続きます。/font>にほんブログ村
2009.08.03
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『青春の蹉跌』石川達三(新潮文庫) 石川達三といえば、文学史的にはどういった位置づけになるんでしょうかね。 どうも私の持っている文学史の本(高校の国語の副読本ですかね。ブックオフ105円です。)によると、よく分からないですね。 ここ二年ほど、こういう文学史上のマイナーっぽい作家を読んでいくという、ひねくれた読書テーマを考え出して、それに従って文学史の本をちらちら見ていますと、よく分からないことがいくつかあります。 その中の最大のものが、その時代時代の文学的派閥・流派に属さなった人々の位置づけです。 というより、結局文学史という歴史的評価は、個人の作家・作品は評価しきれないんじゃないかと言うことですね。派閥・流派の位置づけだけを、何とか解説してくれるという感じです。 (もっとも、百年やそこらでは客観的評価は難しい、という事情もあるのかも知れません。) そして、時代を代表するような大きな文学的派閥・流派のよく見えない時期が、この石川氏のデビューの頃、つまり昭和初めから十年代じゃなかったかと考えます。 えー、105円文学史本に導かれつつ、この辺りの文学的派閥・流派をまとめますと、こんな感じになります。 1、プロレタリア文学……小林多喜二・葉山嘉樹・徳永直・等 2、新感覚派……川端康成・横光利一・等 この二つが時代を代表する大きな流派であるようですね。後はごじゃっと二つ三つ載ってあります。こんなんです。 新興芸術派・新心理主義・転向文学 とすると、たとえば私の好きな中島敦はどこに入っちゃうんですかね。 確かに中島敦は夭折したため、充分な文学史的業績をあげなかったかもしれませんが、作品に漂うあの格調の高さは、文学史上他に比較すべき作品が見あたらないほどのものだと思います。 ということで、同時代である石川達三ですが、文学史教科書には、ほとんど記述がありません。文学史的メジャーじゃないんでしょうかね。 ただ、僕がこの作家の事績として知っているのは、第一回芥川賞受賞作家ということです。ついでになぜ僕がそんなことを知っているかというと、太宰治がらみですね。 芥川が大好きな太宰は、私生活上の行き詰まりを打開する乾坤一擲として、本当に、喉から手が出るほど芥川賞を切望しました。 そのための、佐藤春夫や川端康成宛の、卑屈なばかりの手紙が今も残っています(賞が取れなかった時の、手のひらを返したような太宰の手紙も残っています)。 (ついでに、太宰は第二回芥川賞の時も切望し、しかし取れませんでした。そのときの受賞者は、なしでした。) というわけで、第一回芥川賞受賞作家の石川達三です。 うーん、こういうのって、やはり「風俗小説」というんでしょうかね。 「風俗小説」といって一番に頭に浮かぶのは、永井荷風の諸作品です。 かつては、バイアスのかかった私の中では、あまり高評価ではありませんでした。なぜかというと、たぶんそれは、中村光夫『風俗小説論』のせいですね。 しかし、何も知らない若い頃の読書というものは、読者に与える影響たるや、きわめて大きなものがありますよねー。(昔の上流階級家庭では子どもに小説は読ませなかったそうですね。さもありなんと思います。) この中村氏の文芸評論は、かなり昔に読んだ本なので、ほぼ完璧に内容を忘れているんですが、ただ、風俗小説について、あまり高い評価じゃなかったような印象の記憶が残っています。 えらいもので、僕のバイアスのかかった頭は、知らず知らずのうちにこうして形作られていったんですねー。 その後、どうも「風俗小説」というものは、さほど評価の低いものではなさそうだと気がついたのは、丸谷才一氏のおかげです。 丸谷氏のきわめて上質な風俗小説を読んだおかげですね。 と、そんな風に思っている「風俗小説」なんですが、丸谷才一が、何かのエッセイでこんな風に触れていたと思います。 そもそも風俗は、古びるのがとても速い。そのことを知りつつ、風俗小説は書かれねばならない。つまり、いかに古びない(古びるのを遅らせる)風俗小説を書くかということ。そして、にもかかわらず、風俗小説も、必然的に古びるものであるということ。 確かそんな丸谷氏の文脈だったように思います。(ちがったかしら。) で、この『青春の蹉跌』ですが、うーん、それとはちょっと違うかも知れませんねー。 描かれている「風俗」が古びているんじゃなく、取り上げられた「テーマ」が、古びてしまったんじゃないか、と。 基本的なプロットは、『罪と罰』の小型版です。そこに(僕は最後まで読みきれなかった)大西巨人の『神聖喜劇』が少し被っています。大体そんな話です。 うーん、時代のせいなんでしょうかねー、ちょっと「ルーティーン」な感じに終わってしまったように思います。 申し訳ありません。今回はこんなところです。/font>にほんブログ村
2009.08.02
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『菜の花の沖』全六巻・司馬遼太郎(文春文庫) 前回の続きであります。 この本は、今年の始めの頃、ブックオフで6冊バラで、みんな105円で売っていたので買いました。105円本は、巻数の多い作品は抜けていることが多いんですが、これは珍しくバラで全巻あったので買いました。 しかし、うーん、小声で言いますが、かつて読んだ『坂の上の雲』より、おもしろくないですね。 昔『龍馬が行く』を読んでいて、四巻目でケツを割ったんですが、それに似たおもしろなさ、というか、ちょっと説教臭いんですよねー。 実にいろんな事を、教えてくださいます。 でもまぁそれは、一概にイヤな事、というわけではないんです。 しかし、例えば前半が終わったところで説かれた作者の蘊蓄を、覚えているまま並べてみますね。 ・商業論(交易論) ・回船の歴史とシステム(船舶論と航海論) ・兵庫県西宮ならびに「灘五郷」の歴史 ・北海道開拓史 ・そしてお得意の、組織論といったところですか、ね。 なるほど、ちょっとお教えいただきすぎー、という感は否めませんね。 ただ、今回の「組織論」のなかに「いじめ」について触れられてありましたが、これはちょっと面白かったです。 作者は、「いじめ」を日本の社会・風土すべてに見られるものとし、かつ「漢字」にはこの「いじめ」のニュアンスを持つ言葉がないと説いて、日本固有か、それに近いもの(もちろん程度の弱い・小さいものは世界中にあるでしょうが)と捉えています。 なかなか面白い視点ですが、どうでしょうか。 作者の存命中は、現在では猖獗を究める如き「いじめ」現象は、とりあえずあまり表面化していなかったのかも知れませんね。 しかし、もし今も司馬氏がご存命で、より根が深くなった「いじめ」現象を御覧になったら、また異なった見解をお持ちになるかも知れません。 ともあれ、ちょっと蘊蓄しすぎー、であります。 これも昔、私は、ハーマン・メルヴィル著の『白鯨』(新潮文庫で上下二冊、六〇〇ページずつくらいあったやつ)を、「上」が終わったところでケツ割りしましたが(しかし私もたいがい多くの本をケツ割りしてますなー)、あの本も捕鯨論とかなんとかかんとか、やたら蘊蓄が多かったですねー。 そんなことを思い出しながら、私は第三巻あたりまでを読んでいました。ちょっと嫌な予感を抱きつつ。 そして、次の巻に入りました。 私のイヤーな予感は、まさに的中せんとしていました。 ますます司馬氏の筆は冴え、作者の「御講義」は甚だしくなり、第四巻目は「北海道開拓史」一本槍。 しかしこれは、どう考えても必要以上に多すぎると思うんですがー。 これって、小説の範囲を逸脱してはいませんでしょうかー。 続く第五巻を私は、ちょっと「辟易」しながら読んでおりましたが、この巻はあっぱれ「ロシア史」の巻であります。 高田屋嘉兵衛なんてどこ行ってしまったのか、全く出てきませんよ。 うーん、どんなモンなんでしょうね、この本。 ところが、そうは言っても、さすがに「国民的作家」司馬遼太郎であります。 第五巻も強烈に蘊蓄傾け展開でありまして、それは今まで以上に徹底しており、ほとんど高田屋嘉兵衛が出てこないという異例の展開でありました。本当。 しかし、その部分から、第六巻にかけて、いよいよ嘉兵衛がロシアに拉致される端緒に入る切っ掛けあたりの書き方は、さすがに上手でしたねー。 長い長いロシア史「蘊蓄」が終わって、さて嘉兵衛が次に物語の前面に出てくる時、いきなり十歳、嘉兵衛は年を取っているんですね。 このジャンプの仕方はうまいなと思いましたね。 ただこれ以降の、クライマックスの部分については、やや薄味であったように思います。 そもそも、そんなに連続的に劇的展開をさせるわけにいかない素材であったからでしょうかね。 まぁもちろん、これも一概にそんなに悪いものとは言い切れませんが。 ともあれ、全六巻読み終わりましたが、正直な話、ちょっと長すぎましたね。 どうでしょう、僭越ながら、2/3くらいの長さで、いけたんじゃないでしょうか。 以上、そんな感想でした。/font>にほんブログ村
2009.08.01
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