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さて、 『この人の閾(いき)』保坂和志(新潮社)の三回目であります。 次回までのあらすじ。 朝起きたらとても天気のいい日だったので、おじいさんとおばあさんは近所の地獄巡りに行こうと考えました。しかし、おばあさんは腰痛のため辞退。おじいさんだけ、アダムスキー型円盤に乗って、図書館へと繰り出したのでありました。 あらすじ、終わり。 って、すみません、前回前々回のブログ記事を読んでください。 よろしくお願いいたしますー。 というわけで、私は、上記の本が芥川賞を受賞した際の選考会の選考委員の選評を読みました。 ざっと読みおえて、一言で言えば、僕の見方もそんなに的はずれなものではなかったな、という感想を持ちました。 9名の選者中、積極的に評価しているのは前3名です。その中でもかなり褒めているのは、冒頭の日野啓三でした。 次の4名は、まぁ別にこの作品でもいいですが、と言う感じの評価ですね。 残りの2名は、否定的。特に田久保英夫は、そうですね。 しかし、褒めている人もけなしている人も、おもしろいことにその理由は全く同じなんですね。 作品の中に、見事に何の事件も起こらないという、その一点が「毀誉」の理由であります。 このあたりがきっと、いわゆる「文学的」であることのおもしろさでしょうなー。 同じ理由で褒められて、同じ理由でけなされる。 文学賞受賞の経過なんて、どちらに転んでも紙一重という感じが、今回ちょっと調べてみただけでもよく分かりましたね。 そして、実はもう一つ、結構興味深いことに気づいたんですねー。 それは、時期の問題。 なるほど、これも実に微妙に作品の評価に影響するんですねー。 この作品の、「1995年下半期」というまさにこの受賞時期が、実に絶妙に作品を際だたせていたんですね。 それはいうまでもない、阪神淡路大震災とオウム真理教事件です。 選者の選評にもこれが影を落としています。 実は日野啓三の選評には、以下のような文がありました。 「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。オウム事件に対抗できる文学は細菌兵器で百万人殺す小説ではないだろう。」 なあんだ、地震とテロとで「日常」というものが揺らぎ、そして吹っ飛んでしまったおかげかー、といってみれば、まぁ、そういえないこともないわけですね。 でも僕は、時期がどうであれ、このような作品をもきっちりとすくい上げたところに、「芥川賞」もまだまだ捨てたものではないなと言う感想を持ちました。 ただし、十年以上も前の「芥川賞」のことですがね。 えー、図書館に行ってそんなことをしていました。 僕としましては、なかなか楽しいひとときでありました。 では今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.30
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さて、前回の続きです。 取り上げている本は、 『この人の閾(いき)』保坂和志(新潮社) です。 小説を読み終えたものの、もうひとつ「しっくりいかず」(読後感が悪いというわけではありません)、私はふと、図書館へと向かったのでありました。 (前回までのあらすじ終わり) なぜ図書館に行ってみようと思ったのかを述べますね。 本の総題にもなっている「この人の閾」という短編が、前回冒頭で触れましたように、芥川賞を受賞していたので、その時の「選評」を読んでみようと思ったんですね。 確か図書館に、『芥川賞全集』といったたぐいの本があったように思い出したんですね。 まぁそれだけ、この小説が気になったわけです。 やはり、ありました。本作は、『芥川賞全集第17巻』にありました。 それによると、この作品の芥川賞受賞を決めた選考会に出席していた小説家は9名でした。 ざっとそれぞれの選評を読んでみました。 以下に、ごく短く、最も特徴的と思える部分を抜き出してみました。 日野啓三 明日世界が滅ぶとしたらこんな最後の一日を過ごしたいとも思う。 河野多恵子 男女共学の収穫の達成を想わせる人たちの創造に成功した文学作品が、ついに出現したのである。 黒井千次 もし危機が訪れるとしても、それがいかなる土壌の上に発生するかを確認しておく作業も等閑には出来まい。 三浦哲郎 どこかに、たった一つだけでも、読む者の心に文学的表現としての文章なり情感のひと撲ちがあれば、という気がしたのである。 大江健三郎 これから作家生活を続けてゆかれるには、やはり小説らしい物語をつくる能力が--あるいは、それを試みてみようとする意欲が--必要ではないだろうか。 丸谷才一 しかし人生そのものはこんな調子だとしても、小説のなかの人生としてはこれでは退屈なのぢやないか。小説のなかに生の人生を切り取つて貼付けたとて、それが小説家の手柄なのかしら。 大庭みな子 よく見知っているなつかしい世界のように思っていただけに、もの足りない淡さがあった。しかしこの優しさ、快さは、不快にぎすぎすしたものに疲れている読者を魅きつける。 古井由吉 今の世の神経の屈曲が行き着いたひとつの末のような、妙にやわらいだ表現の巧みさを見せた。しかし、これは出発点なのだろう。表現の対象である日常が、すでに土台から揺すられている。 田久保英夫 ここで終始くり返される会話は、あまりに日常的で散漫すぎる。 こんな感じでした。 以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.06.29
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今回は、次回と次々回の三回に分けて、少し変わった小説を選んでみます。 『この人の閾(いき)』保坂和志(新潮社) 十年以上前の本ですから、まぁそんなに新しくはないんでしょうが、文学史の教科書には載っていません。少なくとも、私がブック○フで105円で買った文学史教科書には載っていませんでした。 さて、まず最初に、上記に「変わった小説」と書きましたが、この言葉は、例えば「小説らしい小説」と読み替えても、ほぼ問題ないと言えば、まー、ないわけです。 いわば、ひとつ目小僧の世界では二つ目小僧はちょっと変わっている(このたとえは、うーん、ちょっと合ってない気がする)。 ともあれ、対象は小説ですから、それくらいのフレキシビリティを持って読んでいただけるお方が、私は、好きだーーーっ。 というところで、まずお願いします。 えー、実はこの作者の本は、一昨年に少し読んだことがありました。 そのとき、かなり変わっていると思いつつ、引き続き別の本を読んでみるとか、特にその後の展開をしなかったんですね。 で、今回、取り上げてみました。 短編集ですね。1995年度の下半期の芥川賞を受賞した作品を含む4作の短編が入っていました。 どう、変わっているのかということを、一息で一気に書いてみますね。 えー、そもそも小説というものには、いわゆる波瀾万丈の冒険小説(例えば世界的名作『戦争と平和』でもいいけれど)などは言うまでもなく、例えばずるずると日常生活を綴った私小説の類(やはり志賀直哉あたりの私小説ですかね)にも、必ずやその日常の裂け目のようなものが描かれる(前述志賀直哉作『城の崎にて』などでは、主人公が出会う何匹かの小動物の死なんかがそうですね。さらに例えば、村上春樹の『風の歌を聴け』なんかの、主人公の日常に双子の片割れの小指のない女の子が突然現れる「裂け目」などは、大いに奮っていますね。)ものですが、この小説にはそれがまるでありません。(本っっっ当ーーーに、まるでないんですから。) もちろんそれのない作品自体が、ひとつの裂け目であるという言い方はできるのでしょうけれど、実に不思議な読後感であります。 おそらくこれが、この小説の不思議さの正体です。でも、結局もう少し別の作品も読んでみなければよく分からないなと感じます。 しかし、それにしてもなんだかとても変です。(この「変」さがこの作品の新鮮な価値なんだという断定は、もちろん可能なんでしょうが) 考えれば考えるほど、うーん、と唸ってしまう小説です。 そこで、とりあえずいろんな言葉を当てはめてみました。 「日常の抽象化」 「意味づけ・解釈・感傷の拒否」 「風通しのよい描写」などなど。 しかし、どうもしっくりいきません。 そこで私は、家のそばの図書館へ行ってみました。 以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.06.28
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『砂の女』安部公房(新潮文庫) そもそもなんで安部公房かというと、まぁ、そんなに意味があるのではなく、先日阿刀田高の読書案内みたいなのを読んでいたら、たまたまそこに出てたもので、なんとなく本箱から取り出したというわけです。 懐かしい読書であります。 安部公房は高校時代にのめり込み、文庫から単行本までかなり読んで、それ以降も公房が死ぬまで新刊が出るたびに買って読みました。 もっともあのころ公房の新作といえば、一種の文学史的事件ではありましたね。 この『砂の女』も確か2回は読んでいたと思うのですが、今回改めて読むに当たって、実は少し不安がありました。 それは、過去読んだ2回ともすごく面白く読んだ記憶がある、ということで、今回も面白く読めるだろうかということでした。まぁ、自分の感受性に対する不安ですね。 で、結果から言うとかなり面白く読めましたが、しかし、息もつかせずというところはありませんでした。 うーん、と少し考えてしまいましたね。 例えば貴方は、詩でも小説でも、いわゆる文学作品に対する自らの感受性(の摩滅)に不安を抱くということはありませんか。 ひょっとしたら、僕の理解の仕方は誤っているんじゃないか、いや、理解というよりセンスの問題か、もはや僕には文学的センスは失われてしまったんじゃないか、と不安になる、という。 (「摩滅」といっても、若かった頃それがあったということではありませんが) そういえば、少し前に大江健三郎の『万延元年のフットボール』を何とはなしに手にとって読み始めたら、うっとうしくってとても読めませんでした。 うーん、隔世の感がありますねー。 だって初めて読んだとき、本当に一晩、寝ることも忘れて夢中になって一気に読み切ったんですから。 ともあれ久しぶりの公房でしたが、確かにタイトル通り、この「女」にはせまってくるようなリアリティーがありました。やはり公房の中ではダントツの作品ではあるんでしょうね。 しかし、何というか、公房独特の、例えば『赤い繭』のラストシーンとか、新聞紙のように燃え上がる子象といった、クールな文章の中に突然現れる強烈なイメージの奔流が感じられなかったようにも思いましたが(この不満足が今回の不安の一部でしょうな、きっと)。 それは短編と長編の違いですかね。 もしもそうなら、少しほっとするような、いえ、おそらくは違うでしょうね。ああ、心がただ一すじに打ち込めるそんな時代は、ふたたび来ないものか?(『いちばん高い塔の歌』ランボー・金子光晴訳) では、今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.27
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『桜島・日の果て』梅崎春生(新潮文庫) この本、例によってブック○フで買ったのですが、珍しく105円本ではありません。 ブック○フの文庫本は、105円本じゃなければ、だいたい定価の半値+税金あたりですか。そんな値段の本ですが、見てくれはもう新品と一緒ですよね。 実際これでは、普通の本屋で定価のままで買おうという気は起こりませんわねー。 私にしても、最近普通の本屋に行ったのは、はて、いつだったでしょうか。思い出せないくらい久しいです。 こんな状態になるなんて、例えば大学生の頃には思いも寄らなかったですねー。 うーん、大変なものです。 えー、また内容と関係のない前振りをしているなーと、お思いになられたかと思いますが、残念でございます。この「まくら」は、内容に(めずらしく)大いに関係があるんですねー。 というのは、つまり105円本じゃない新品同様の本であるという話をしたのは、この本が新しく改訂されて出版されているという事が言いたかったわけですね。 そして、改訂されて、巻末の解説文が変わりました。(改訂前のを読んでいませんので、たぶん、ですが。) 巻末の解説文を町田康が書いています。 なんで、町田康なのかなと始めは思いましたが、読み終えて、なーるほどと感じました。 この作者梅崎春生は、文学史上の分類では「第一次戦後派」と、大概はなっていますね。野間宏とか椎名麟三や武田泰淳なんかといっしょです。 でもその後が変わってくるんですね。 「第一次戦後派」の人々って、まー別に本が売れようが売れまいがどちらでもいいようなものの、一時のブームみたいなのが、急速に衰えていった人々なんですね。 その理由ははっきりしています。 「戦後」が終わったからですね。第二次戦後派、第三の新人、そして大江健三郎や石原慎太郎なんかが出てきても、彼らは、基本的に生真面目な彼らは、しこしこと実に誠実に自らの文学的命題を個々に追及なさいましたが、まー、ムーブメントじゃあなくなったんですねー。 そんな中、梅崎春生は少し違う道を歩きます。 まず第一に、そんな悲惨な戦争体験を書く作家としては一瞬「そぐわないんでは」と感じる「直木賞」を受賞するんですね。でもこのこと自体は、別に取り立てて変わっているわけでもありません。 例えば、感覚的には「逆」の事例ですが、かつて女性一人称エロ小説(「あっ、わたし、濡れてる」ってやつです)で一世を風靡した宇能鴻一郎は『鯨神』で芥川賞を取っていますものね。 (あの女性一人称エロ文体は太宰治の『女生徒』が本家ですね。もっとも、本家といっても、太宰も実際の女性の日記を下敷きにしてあの作品を書きましたが) ともあれ梅崎春生はその後、何となく「中間小説」的方向の開拓者になっていくわけです。 で、結果としては、なるほど、その延長線上に町田康がいると考えられないこともないな、と。 この作品集には五つの短編が入っていますが、そのうちの三作が「重たい」戦争体験話です。 『桜島』という作品は、かつて高校の国語の教科書にも一部記載があったようですね。大岡昇平の戦争物なんかに通じるような、重い、誠実な作品です。 で、一つ、インターバルとおぼしき短編をはさんで、最後の短編は、もうかなり町田っぽい。 しかし、トータルとしてみると、なかなか配分がいいです。絶妙のバランスですね。 なるほど、出版社っちゅうのは微妙なところに目をつけてくるものだと、ちょっと感心しましたね。 いくら『蟹工船』がブームになったとはいえ、何でも売れるわけではなかろう。 野間でも椎名でも武田でもなく、「ハイブリッド」のような梅崎春生を改訂して、改めて売り出す。 うーん、策士ですな。プロの仕事ですな。 そんな印象の本でした。なかなかよかったです。 しかし、この本は新しく改訂されて、売れたんでしょうかね。 というわけで今回は以上。/font>にほんブログ村
2009.06.26
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『狂人日記』色川武大(福武文庫) えー、極めてまっとうな小説であります。 ここでちょっと説明させていただきますね。 「まっとうな小説」って、少し形容矛盾な所があるような気がするんですが、そんなことありませんか。そもそも「小説」というジャンルは、何でもありーの、「変」が普通のジャンルですからねー。 そこでまず、基本的にすべての小説は、「よくもまー、こんな事考え付くなー」と思えるようなものであると前提いたします。 それを踏まえまして、以下再開。 本作は極めてまっとうな小説であります。 私も今まで、「変」な小説も結構読んできましたが、この小説は、たぶんそんな小説群とはきわめて対照的なところにあります。 タイトル通り「狂気」を描いています。しかし、その描き方にいわゆる「鬼面人を驚かす」ような要素は全くありません。 じっくりと、一歩ずつ、実にオーソドックスに狂気を、その内部から描いています。その展開には、一種タイトルから感じるような山っ気はありません。 しかし、古来狂気を描く小説は多々ありましょうが、寡聞にして、このように完璧に内部からそれを描いた小説を僕は知りません(知らないながら、外国文学にならあるような気がしますがー)。 「近しい者の狂」 「狂になぞらえた主張」 「予想される未来としての狂」 「恐怖の対象としての狂」などはあるように思いますが、この話は、主人公の精神病院入院の場面(自らの狂を既存の物と認める地点)から始まって、餓死を決意し、その実行途上(決意の成就間近か)で終わるという展開です。 いわば、徹頭徹尾、真正面から自らの属性としての狂に向き合っているわけです。 そこに圧倒的なリアリティと独創性があります。 と同時に、想像していただけば分かると思いますが、読んでいるとつらい部分がかなりあります。 例えば漱石の絶筆『明暗』を読んでいると、登場人物の、エゴイズムの正面衝突している会話が次々に出てきて、とてもスリリングなものを感じるのですが、ふと、 「まぁ、こんな小説書いとったら、漱石も、胃から血ぃも吹き出るわなぁ」と思ってしまいます。それだけ強烈です。 この作者は、有名な精神疾患(詳細は存じませんが、確かナルコレプシーという睡眠障害の一種で、発作前後に幻覚症状を伴うことがあると当人のエッセイに書いてあったと思います。)を持った人ですが、この作品が晩年のどん詰まりに書かれたというのは、分からなくもないなぁとしみじみ思いました。 もっとも同作者の晩年のエッセイを読んでいると、一つの作品を書き終えた時は、昂揚感もあって、まだまだこの程度のものの二つや三つと、いつも思っていたそうではありますがね。 そんな、深いところからヒヤリと冷たいものの襲ってくるような小説でした。 この作品は、やはり名作でありましょうね。 というわけで、今回はここまで。/font>にほんブログ村
2009.06.25
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『澪標・落日の光景』外村繁(新潮文庫) 初めて読む作家です。 でも、なんとなくお顔についてはイメージがあります。旧制高校の三高生として学生三人で写っていた肖像写真ではなかったかと思い出すんですが、その写真を初めて僕が見た時の目的人物は、梶井基次郎でした。 同じく小説家の中谷孝雄と合わせて三人で写っていました。外村繁は梶井・中谷より2歳年下だそうです。 そんな時代の人なんですねー。 読み終えて、なんというか、とても「優しい」あたりだなーと思いました。 例えばこの時代の他の作家といえば、ちょっとバイアスの懸かった選択かもしれませんが、やはり、太宰治あたりですかね。 この優しさは、とっても似ている気がしますねー。 それと、私、思うんですが、やはり、「ええ氏の子」共通点じゃないでしょうかね。 この外村繁も、やはり「ええ氏の子」のようですね。 「育ち」ですね。 太宰なんかも、見逃さずに読めば気がつきますが、やはり「上品」さがありますものね。 さて、三つの作品を含む短編集です。 「澪標」という作品が、どこかの文学史の教科書で見たことがありますね。 つまり、日本文学史の教科書レベルでいいますと、この作家は、小説家名だけが載るか、一作ぐらい代表作を紹介されるかという、ぎりぎり「文学史メジャー」作家中のマイナー作家でしょうかね。 まさに私の読書テーマのストライク・ゾーンであります。 「澪標」は、『ヴィタ・セクスアリス』です。 主人公(仮名ながら、ほぼ作者と等身大。作品中に中谷孝雄と梶井基次郎は実名で出てきます)が、産まれてほぼすぐの頃から、死の前年まで(解説によると本作執筆一年後に亡くなったそうです)の性欲史です。 ポイントは、一人目の妻の病死と、その後の二人目の妻との生活、そしてその妻の乳ガン発病ですかね。つまりこの作品は、「性欲史」であるとともに、「病妻もの」でもあるわけです。 「病妻もの」というのは、近代日本文学史独特のジャンル(なのかな、他国の文学史にもこんなジャンルはあるのかしら)でありましょう。 何の本で読んだのか忘れましたが、私小説=自然主義作家のテーマ、三種の神器といえば、1.貧乏 2.病気 3.女であると聞きます。 「病妻もの」はこの区分でいけば「病気」の変形ですかね。 でもこの辺のテーマは、お互いに重なり合って出てきますものね。 そういう意味で言うと、本作には「3.女」は全く出てきません。特殊ですね。 あのー、言わずもがなですが、ここで取り上げている「女」とは「愛人」の事ですね。「妻」はこの「女」の中には入りません。 で、本作には「女=愛人」の類は一切出てきません。 だって、童貞で結婚したことを誇らかに宣言する男性が主人公なんですから。 これって、ひょっとしたら、友達に梶井基次郎なんかのいたのが「反面教師」になったのかもしれませんね。 「病妻もの」で有名な小説って、どんなのが挙がりますかね。たくさんあるようにも思うんですが改めて考えると、どんなのでしょうか。こんなのかな。 ・堀辰雄の一連の作品 ・島尾敏雄『死の棘』 あれぇ、案外挙がりません。古井由吉の芥川賞受賞作も思い浮かべましたが、あれは「病妻」というより亭主と両方とが病んでいる小説ですね。(堀辰雄のも、妻ではなくて恋人でしたっけ) まー、そんな中で、本「病妻もの」は、なかなかよかったです。「優しい」イメージを感じるのも、それ故かもしれませんね。 表題作以外に入っている「夢幻泡影」という病妻ものも、解説にもありましたが、最終シーンの台詞のやりとりは絶品でありましたよ。 えー、ついでに、本作の新潮文庫はすでに絶版であります。 大阪梅田のカッパ横町古書街の店で三百円(安い!)で買いました。 まー、今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.24
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突然ですが、「天下の奇書」という言葉がありますね。 恥ずかしながら寡聞にして私は、世界文学は不案内でありますので、近代日本文学で考えてみるといたしまして、はて、どんな作品が挙がるのでしょうか。 私の知っている中ではこんなあたりですかね。 『神聖喜劇』大西巨人(途中で読みやめてしまいました) 『ドグラ・マグラ』夢野久作(これは読みました) 『大菩薩峠』中里介山(ぜんぜん読んでへん) あと、泉鏡花とか渋澤龍彦とか中井英夫とかの作品にも、そんなのがいくつかありそうな気もしますね。 しかしまー、なんといってもこの手の「奇書」の話になると、ネットの中にもきっといっぱい「マニア」な人がいると思うんですが、どうでしょう。 あ、後、沼正三の『家○人ヤプー』とか、団鬼六の『花と蛇』みたいなのも含めちゃうと、おそらく収拾がつかなくなりますよねー。 あんまり深入りはしないでおきます。 というわけで今回は、そんな一連の「奇書」的作品群の中に含めても、決して引けをとらないだろう小説であります。 『田紳有楽・空気頭』藤枝静男(講談社文芸文庫) 実は、長さにおいては少し物足りないところはあります。文庫本300ページ弱で二作の小説ですから。少し不満。 が、やはり、知る人ぞ知る「天下の奇書」と言っていいと思います。 今回、初めて読み、読み終わって、私、わりと興奮してしまいました。 まず「田紳有楽」ですが、モグリの骨董屋に身をやつしている弥勒菩薩と、その家の庭の池の中に沈んでいるグイ呑み・丼鉢・抹茶茶碗が主な登場人物(?)ということからして、この先一体どこに連れられて行くのか想像もつかない、とんでもない設定でありますわねー。 さらに話は、あれよあれよと言う間に破天荒に拡がってゆき、最後には、上記メンバーに妙見菩薩・大黒菩薩が加わって全員で御詠歌の大合唱という、何というか、言葉を失う「唖然」とする展開となります。 実に、……うーん、あきれてしまいました。うーん、すばらしい。 で次の「空気頭」ですが、冒頭、こちらは本格的私小説特有の一人称語り。 ところが、こちらの作にしても、ただの「狐」ではありません。 第二部に入ったとたんに、上述『ドグラ・マグラ』なみの神経症的幻想性を持つ医療現場の話から始まって、強精剤の話、ス○トロジィへ、さらにはドッペンゲンゲル・ニルヴァーナ・瓢箪鯰まで、全く訳が分かりません。 で、最後にこんな一文。 「平気で弱いものに冷酷になれる人、味方に似たふるまいを見せていて裏切る人、そういう人は沢山ある。そして、平生の生活で自分がその一人だという自覚がある。」 しかし、現代における「私小説」の語りがこんな攻撃的な形になってしまうのは、仕方のない所なんでしょうかね。 例えば、車谷町吉なんかも典型的にこうですものね。 おそらくしゃあしゃあと我が事を書くことへの「テレ」でしょうかね。 ともあれ、本作のこの居直り的語りのなかにも、白樺派の残党、現代文学における私小説の発展形を見ました。 ひさびさにエキサイティングな読書でした。 と今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.23
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「ムラカミ・ワールド」についての第3回目です。 こんな本を取り上げていました。 『東京奇譚集』(新潮社) 『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社) 『スプートニクの恋人』(講談社文庫) 『国境の南、太陽の西』(講談社) しかし、やはり村上春樹話題はなかなか尽きることがありませんね。 うーん、恐るべき才能だなー。(もちろん村上氏のことですよ。) さて、前回最後のあたりで「ソフィスティケイトされた表現や比喩」について、少し低評価気味に触れましたが、なかなかどうして、やはり大いに魅力的でありますよねー。 今回はちょっとだけ、それについて考えてみたいと思います。 例えばこんなところです。 「今でも彼女のことを思い出すと、僕はいつも日曜日の静かな朝の情景を思い浮かべる。穏やかで、天気がよくて、まだ始まったばかりの日曜日。宿題も何もなく、ただ好きなことをすればいい日曜日。彼女はよく、僕をそういう日曜日の朝のような気分にさせてくれた。」(『国境の南、太陽の西』) いかにも村上春樹らしい比喩ですね。お洒落でカッコイイですよねー。 でも、少し意地悪な目でこの比喩を読み直してみると、ちょっと違うかなあという気になりませんか。 僕達は一人の女の子のことを思い出すとき、本当に実感としてこんな比喩のイメージを持つことができるんでしょうか。 僕は、よく考えてみると、こんな複雑なイメージを伴って人物を思い出すことなんてできません。 つまり、この比喩はきっと、何かをわからせるための説明としての比喩ではないんでしょうね。 「あー、その感じその感じ」と、実感できるような説明ではない。 では何のための比喩か。 純粋な文章の飾りですね。 いえ、それでも、別にいいわけです。事実こういった突拍子もないイメージの連想が快くて、僕達はこの作者の文章を読むのですから。(これの得意だったのはやはり三島由紀夫ですかね) それともう一つ、こんな文ですが。 「そのとき順子は、焚き火の炎を見ていて、そこに何かをふと感じることになった。何か深いものだった。気持ちのかたまりとでも言えばいいのだろうか、観念と呼ぶにはあまりに生々しく、現実的な重みを持ったものだった。それは彼女の体の中をゆっくりと駆け抜け、懐かしいような、胸をしめつけるような、不思議な感触だけを残してどこかに消えていった。」(『神の子どもたちはみな踊る』「アイロンのある風景」) これはうまいですね。 いつからか、村上春樹の小説は幻想性にかなり傾斜していき、そして現在に至っていると思いますが、こんな文を読んでいると、さもありなんと思いますね。 村上春樹は、目に見えないもの、世の中にないものを書くとき、極めて丁寧になります。表現の嗜好がテーマの方向性を生んだのか、それとも逆なのか、どちらにしてもこれらは二人三脚で現在の村上作品を形作っていると思います。 さて、そんなことをあれこれ考えながら、3回ほど、村上作品を読んでみました。 改めてシンプルに思うんですが、前回の僕の分析の「3」の項目、 3.男は、日常生活を捨てて女を手に入れる冒険に旅立つ(あるいは旅立てない)。が作品に描かれた具体的な描写並びに展開は、やはり激しく僕の内面に揺さぶりをかけてきます。読み終えた後、不安になりますね。 僕が年を取ってきたせいで、特にそう思うのですかねー。 やれやれ。 村上作品は新作だけではありませんよね。旧作でもガンガン僕らに揺さぶりをかけてきます。 「おまえ、そんな生き方をしていて本当にいいのか?」 「いえ……別に、自分でも、……気には、なっているんですが……」 うーん、困ったものです。 では、今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.22
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さて、前回の続きです。 取り上げている小説は、村上春樹の旧作4冊。 『東京奇譚集』(新潮社) 『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社) 『スプートニクの恋人』(講談社文庫) 『国境の南、太陽の西』(講談社) これらどの作品を取っても、とても重いテーマを描きながら、なぜこんなに面白いのか、なぜこんなに多くの読者の心をチャームするのか、少し「うんざり」しながら(ムラカミ・ワールドの人物なら「やれやれ」と呟くところですね)、考えてみました。 何となくぼんやりと思いついたのは、これらの作品の話とは、ことごとく僕達が人生の中で憧れながら実行に至らなかった冒険をする(あるいは「しない」)という話なのだ、ということでした。 そんなこと、ありませんかね。 そう思ってこの作家の作品を遡って思い出してゆくと、実に同じテーマが、様々な意匠を換えて取っ替え引っ替え描かれていることに気がつきました。それは、こんな原型の話です。 1.男が、精神的な双生児のような運命の女と出会う。 2.二人は別々の人生を歩み始め、絶対的孤独を感じる。 3.男は、日常生活を捨てて女を手に入れる冒険に旅立つ(あるいは旅立てない)。 4.男は女を手に入れることができず、より深い孤独が残される。 基本的にこのパターンですね。 これを「パラレル・ワールド」で飾りつけると、いわゆる「ムラカミ・ワールド」の大概の作品になりそうな気がします。 さらに「2」および「3」の部分なんですが、もう少しここを補足するとこうなります。 A・ストイックである。 B・意志的な努力家である。 C・金銭的社会的成功者である。 D・ふんだんにセックスが出てくる。 E・そして孤独である。 うーん、どうでしょう。こんな分析をしてみたんですがね。 噴飯ものですかね。 しかし、こうしてみると、村上春樹の作品って、ちょっとしたインテリゲンチャのおとぎ話ですかね。(よく見たらチャンドラー?) 結局、村上春樹の小説の魅力というのは、村上春樹独特のソフィスティケイトされた表現や比喩、そして「孤独感」というよりは、我々読者には現実にはできっこない冒険への「意志」と、その冒険が敗れる、いわば「敗者の美学」じゃないでしょうかね。 えー、少し、横道にそれます。 僕たちが、現実の世界で、なぜ「ムラカミ・ワールド」の人物のように振る舞えないのかのポイントなんですけど。どこだと思いますか。 上記の1~4の項目でいえば、僕は、「1」の「運命の女」への断定にあると思います。 ムラカミワールド人物は、実に断固として「運命の女」を「独断」「断定」してしまいますね。 ところが、どうです? 我々の現実において、この「断定」は、なかなかできるものじゃないと思いませんか。 もしこれがあっさりできるのならば、幸・不幸はともかく、その後の人生について、少なくとも自分では大いに納得できるものになるでしょうね。 以下、次回。/fontにほんブログ村
2009.06.21
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さて、満を持して、村上春樹。 というわけでは、実はありません。 新作小説が社会現象のようにブームになっている今、かえってなかなか村上春樹には触れがたい(んなこと、ありませんかね。たぶん僕のつまらない考えすぎだとは思いますがー。)ような気がします。 そこで、旧作です。(単に新作を読んでいないだけなんですが。) 村上春樹の旧作を、初読・再読・再々読等、してみました。 三回に分けて報告してみたいと思います。 村上春樹の小説、4冊です。 『東京奇譚集』(新潮社) 『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社) 『スプートニクの恋人』(講談社文庫) 『国境の南、太陽の西』(講談社) 前2つが短編集で、後ろ2つが長編ですね。最初の一冊だけ初読ですが、後3冊は再読です。 もともと村上春樹の作品は好きなものだから、ほとんどの作品は3回以上(中には10回くらい)読んでいますので、そんな中でいうと、この度の再読の作品群は、僕にとっては今まであまり再読したいとは思わなかった話ばかりということになります。 なぜなんだろうなと思っていたのですが、今回読んでいて、気がつきました。 暗いんですね。テーマが、正面から重いんです。どう重いのか、作品中のエピソードを一つだけ挙げてみますね。 ある人物が、北極熊について語っている場面です。 北極熊はあの広い北極で単独生活をしています。年に一度の交尾期だけ、たまたま出会うオスメスが短い交尾をし、オスは終了後一目散に逃げ去ります。後は凍てついた大地の上で、たった一匹で、深い孤独のうちに残りの一年を生きていきます。 この話を聞いた相手が、じゃあ北極熊はいったい何のために生きているのかと尋ねたとき、彼は答えます。 「それでは私たちはいったい何のために生きているんだい?」 (『神の子どもたちはみな踊る』「タイランド」) こんなエピソードを書く小説が、明るいはずがありません。 にもかかわらず、僕は村上春樹の小説が好きだし、一般的評価についても、日本国内のみならず、いまや彼は世界文学レベルの大家です。 しかし、今回読んでいて、なんでこんなに重い小説が面白い、すくなくとも何か心惹かれる(いや、もっと厳密に言えば「揺さぶりをかけられる」)のだろうと、少しうんざりしながら考えてみました。 以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.06.20
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『無限抱擁』瀧井孝作(新潮文庫) この本の読書は結構辛かったです。 うーん、そもそも何でこんな本を選んだのかと、ちょっと説明いたしますね。 さて今回だけに限らず、取り上げる小説作品選択の基本ポリシーは、ブログタイトル通りの「近代日本文学史メジャーのマイナー」(これもわかったようでわからないですねー。おいおい考えていきたいと思いますー。)というのに加え、実は「うちにあって今まで読み過ごしてきた文庫本」というのがあります。 で、まさにそれにぴったんこで選んだのが今回のチョイスだったわけです。 古い記憶を遡れば、たぶん昔読んだ中村光夫の日本文学史の本で褒めてあったから買ったんではなかったかと思います。 さて、この本は、文芸雑誌に分けて発表された4つの短編の連作をまとめた物なんですね。だから4つの章があります。 でこれが、実は読んでいてちっともおもんないんだな、これが。 そこで章が一つ終わるたびにちょいと別の本に「浮気」します。 一章読んでは面白くないので一冊浮気、また一章読んでは面白くないので一冊浮気ということで、この本一冊を読み上げる間に、3冊の別の本を読みました。まとめますとこんな順番になります。 『無限抱擁』第一章「信一の恋」→『砂のように眠る』関川夏央(新潮文庫)→ 『無限抱擁』第二章「竹内信一」→『ブルックナー』土田英三郎(新潮文庫)→ 『無限抱擁』第三章「無限抱擁」→『カツラーの秘密』小林信也(新潮文庫)→ 『無限抱擁』第四章「沼辺通信」 まー、こんな読みかたをしていたら、面白い本でも面白くなくなる、というよりそもそも面白い本ならこんな読み方はしないわけです。 でも、かといって、この本に対して私がとてもひどい評価を下すかと言えば、それは全然そんなことないわけです。 それは読みながら自分でも分かっていたのですが、要するに、 「これはこれで確かに一つの世界を描こうとしているんだろうけれど、今の僕とはほとんど関わるところを持たないな」 ということなんですね。 ひょっとしたら、学生時代に読んでいたら、もっと愉しく読めたかも知れないなと思いました。 いかにも昔の「純文学」という感じですね。 「文学の本道→私小説→作り話は書かない」という感じですかね。しかし、時代的な役割はすでに終了している気がしました。 うーん、時間とは怖いものですよねー。 じゃ今回はそゆわけで。/font>にほんブログ村
2009.06.19
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『婦系図』泉鏡花(新潮文庫) さて、すでに、あの盛り上がりに欠けること甚だしい自然主義の大作『夜明け前』を全巻読破し、ますます自らの読書力に思い上がった自信を持ってしまった私は、もう何も怖いものはないと、この度、上書を読んでみました。 まー正直、そんなに読みにくいわけでもなかったです。 明治41年の新聞小説ですからね。この時すでに漱石は『三四郎』なんかを書いているんですから。 しかし、この二者の文体の相違たるや、ちょっと眩暈のしそうなほどの距離がありますよね。こういう時代って、どんなんなんでしょうかね。 二作の冒頭、こんなんですよ。 素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯に酸漿を含んで居る。…… うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる。此の爺さんはたしかに前の前の駅から乗った田舎者である。 同時代にこれくらい懸け離れた文体が同時に存在する時代って、きっと「文壇」は結構ワクワクとしていたんじゃないかなと思いますね。 結構愉しそうな時代ですよね。 ところでこの『婦系図』ですが、多分多くの人も誤解していたと思いますが、私も誤解していました。何がそうかというと、こういう連想ですね。 『婦系図』--お蔦・主税--湯島の白梅--「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉。今の私には『死ね』とおっしゃってくだしゃんせ」 って連想ゲームなんですが。今回読んでみて始めて知ったんですが、「湯島の白梅」以降は原文には全くないんですね。お蔦と主税の別れるシーンはない。 というか、そもそもこれ、恋愛小説じゃないんですね。 特に後半、話が動き出す後半は「悪漢小説」なんですね。文庫本の解説文にもあったんですが早瀬主税に似た文学史上の登場人物を探ると、それは『嵐が丘』の「ヒースクリフ」であると。 うーん、全くそうですね。恋に狂って復讐劇を始める「ヒースクリフ」に似てるといえばたしかに似ている、そんな「悪漢小説」だったんですねー。 というわけで、ええ勉強にはなりましたが、話としては、まーちょっと、どう考えても「通俗小説」ですわね。 とても『三四郎』の持つ一種の「確固たる世界」はありません。 鏡花作品というのは、歴史の中で「間欠泉」のように何年かごとにブームのようなものが来るようですが、そんな中でも本書はあまり高い評価に至りません。 まるで鏡花作品は「妖怪変化」が出てこなければ評価できないといわんばかりの歴史的評価ではありますが、実際に読んでみると、「むべなるかな」という気もしますね。 そんな意味で言えば、この作品は、ちと、不調であります。 と、そゆわけで、以上。/font>にほんブログ村
2009.06.18
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『田舎教師』田山花袋(新潮文庫) こんな本を読んでいると、なんか文学部出身、っちゅう感じですなー。私、文学部出身ですぅ。はは。いかにも「らしい」チョイスですよね。 さて今回の小説ですが、うーん、滅びつつある日本文学の如く、みごとに「退屈」なものでしたわ。 しっかし、私が言うのも何ですがー、日本文学ってのは、こうして文学史に名前が残っているような作品を五月雨式に読んでいくと、本っ当ーーーに、「つまらない」ですね。 もっとも、繰り返しになりますが、「つまらない」ことと「価値がない」こととは、かなり異なっておりますよね。 なぜ、こんなにつまらないんでしょうねえ。 うーん、結局こういう事じゃないでしょうかね。 1.かつて日本文学者は、読者の存在なんか考えたことがなかった。 2.かつて日本文学者は、「面白さ」などは唾棄すべき価値観であると考えていた。 うーん、こうして並べてみると、やはり隔世の感がありますねー。 えらいもんですねー。 プロの小説家が、読者のことをまったく考えないんですから。 そんな中で、読者を強く意識していたのが、おそらくは漱石だったんでしょうね。だから、漱石作品の面白さは他を圧倒して、全く「破格」であります。 そもそも、日本文学がちょっとは面白くなったのは、近代文学史的に言えば「耽美派」あたりからでしょうかね。 もっとはっきり言えば、谷崎潤一郎という極めて特殊な個性の、どちらかといえば個人的資質が生み出したものでしょうか。 実は私は谷崎の作品を大学時代にかなり読んだんですが(実は卒論だったんですぅ)、その頃はそんなこと思いも寄らなかったんですが、改めて考えると、谷崎作品の「面白さ」というものは、思いの外に広範な影響を生んだように思います。 面白さを価値として追求することの発見が、その辺から生まれたように思います。 というわけで『田舎教師』は、とっても退屈な小説でした。 しかし、上述のように、価値がないとは全ーーーく思いません。 花袋がこの作品で取り組んでいたと言われる「平面描写」は、作品のストーリーの上では「退屈」を生み出しましたが、それを「写生」とみますと、極めて正確で素直な文体と描写は、やはり日本語の新しい可能性を広げたのではないかと思わせる、読んでいて心地よい感覚がありましたよ。 花袋、やはり、「案外に」魅力的ですよ。 今回は、じゃそゆことで。/font> にほんブログ村
2009.06.17
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『暗い絵・崩壊感覚』野間宏(新潮文庫) この本も大概古くに買ってあったものです。家の本棚にありました。 ページ全体が日に焼けています。多分大学時代に買ったんだと思いますが(ふるいなー)、今回初めて読みました。 野間宏と言えば「クラーイ」小説、というか、「シツコーイ」描写。という頑なな先入観があったんですが、その先入観はきっちり正しかったですね。というよりきっと、昔この本をちらっと読んで、その「しつこさ」に途中で読むのをやめたんじゃないかと思います。 この本には4つの短編小説が入っていましたので、頑張って読めるように今回、ページ数の少ない短編から順に読んでみました。 この読み方は正解でしたね。4つともスムーズに読み終えることができました。 どの話も、暗い上に描写がやはりしつこいです。でも読み終えてしばらくして思い出してみると、なにか変な魅力があります。これは何かと考えるに、「戦後派作家」独特の「誠実さ」ではないかと私は思いました。 例えば「崩壊感覚」という話は、主人公の男が、今の言い方で言うと「セックス・フレンド」のような女性に会いに行こうとしたときに、同じ下宿に住んでいた大学生の首つり自殺場面に遭遇してしまいます。 主人公はぐずぐずしながら、女のことを考えたり、死んだ大学生のことを考えたり、かつて自分が兵隊として戦争に行かされていたときのことを思い出したりします。 そしてそのすべての思考や記憶において、主人公はマイナス方向にマイナス方向に、どんどん指向していきます。 そして終盤、実は主人公が、戦争中に上官より屈辱的な扱いをされたこと、そのトラウマから抜け出せないでいることが描かれます。そんな話です。 しっかし、暗いですねー。 でも、でも今読んでみると、主人公のとても誠実なことが分かります。これは時代的なものでしょうかね。 例えば「セックス・フレンド」のような女性との関係は、当時はきっと顰蹙の対象であったからこそ作者は設定したんじゃないか、そして今では、普通とは言わないまでも、もはや「顰蹙」でも何でもない、単なる風俗に過ぎない、ということですかね。 そんな風に、ストーリーの表面上の風俗を一つ一つ剥がしていくと、最後には自らの内面を真剣に見つめる主人公の誠実さだけが残ってくるんですね。 そんな話でした。 浮世離れした本ではありますが、思い起こせば、そもそも僕はそんな浮世離れした話が好きだったんですねー。 いやー、とても面白かったです。 じゃそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.16
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『季節のない街』山本周五郎(新潮文庫) えー、なんというか、かなりびっくりしました。 山本周五郎という作家は、もう20年以上も前でしょうか、僕は『さぶ』という小説を読みました。ほとんど内容は忘れていますが、うっすらと残る記憶によりますと、人情時代劇であります。 今年、3ヶ月ほども前でしょうか、『日本婦道記』という短編集を読みました。ちょっと面白かったですが、「人情時代劇」という範疇を越えるものとは思えませんでした。 で、今回の上記作。驚きました。 シュール・レアリズムでハード・ボイルドであります。 読みながら、心の中で何度も、 「なんだなんだなんだなんだ、この展開は、いったい何なんだーーーっ!」 と、思いましたね。例えばこんな話です。 増田益男32歳、妻勝子29歳。 河口初太郎30歳、妻良江25歳。 こんな二組のカップルが、吹きだまりのような「季節のない街」に住んでいます。 夫は共に飲んだくれの日雇い作業員。女房はやかましいだけの無教養な女。子供は共にいません。 ある夜、飲んだくれて夫婦げんかをしてぷいと家を飛び出した益男が、初太郎の家に来ます。もちろん初太郎も飲んだくれています。 二人はさらに飲みながら、益男がなぜ夫婦げんかをするに至ったかを初太郎に説明すると、初太郎は 「それは勝子さんが悪い」といって、勝子に意見をしに一人で益男の家に行ってしまいます。 初太郎の家に残されたのは、益男と良江。 その後もぐじゅぐじゅと飲んだくれて、そのまま寝込んでしまいます。一方、初太郎も勝子のいる家に行って、とうとうその夜は帰ってきません。 次の朝、それぞれ別の家から仕事に出かけた男二人は、夕方、何の不思議もないかのように、前夜を過ごしたお互いの家に帰っていきます。 4人の男女はまるで今までそうであったように、夫婦を取り替えて、そのまま普通に生活を始めてしまいます。……。(『牧歌調』) どうです。読みたくなってきたでしょう。びっくりするでしょう。唖然とするでしょう。 ユーモアがあって、展開が超現実的で、表現にも芸があってと、極めて一級品の作品集になっています。 さらに驚くべきは、本短編集は15ほどの作品でまとめられているのですが、全作ことごとくが「ハイレベル」であります。これがまたすごい。 短編集にはどうしても、できの善し悪しが出るものですが、この本にはほとんどそれが感じられない。ムリヤリ読めば、まー、全く善し悪しがないとは言い難いでしょうが、それはほとんど「趣味」の違い程度でありましょう。 そもそもこの山本周五郎という小説家、どれくらい「エライ」人なんでしょうかね。 あ、「エライ」なんて言ってしまいましたが、よーするに、ご存じだと思いますが、一連の近代日本文学史上で評価の低い人々達の中で、です。 主に「時代小説作家」ですね。 この方々の評価が、「正調」近代日本文学史の中では、大偏見的に低いんですよねー。 で、そのなかで、この「山周」は、どの辺に位置しているんでしょうね。 今回僕は読んでびっくりしましたが、それでも司馬遼よりは「エラク」ないんでしょうね。 吉川英治と比べたらどんなものなんでしょう。 藤沢周平よりは、「エライ」ですよね、きっと。 海音寺潮五郎よりはエライ気がします。海音寺氏はちょっと説教クサイですね。 松本清張と比べるとどうなんでしょうか。 山田風太郎とは。うーん、山田氏は、まるっきりのバカバカしい作品も多いからなー。……。 というわけで、本作はひさびさの、「とってもお薦め」であります。 ところで、本作が原作となっている黒澤明の『どですかでん』って、おもしろいんでしょうかね。 僕は情けない話しながら、映画についてはいっこうに見識を持ちません。 ちょっと見たいような気もするし、いやいや見ぬ方がよい、という気もいたしますが。 じゃ、今回はそゆことで。/font>にほんブログ村
2009.06.15
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『或る女』有島武郎(新潮文庫)(後編) 前回書きましたことは、 1.この本は今までの文学史的評価より遙かに優れているんじゃないか。 2.作者の真面目な意気込みが行間からあふれるようで心撃たれはするがちょっとシンドイかな。 3.主人公早月葉子の社会に対する反抗には今となっては時代的な限界を孕んでいるよーな気も する。 と、みっつでした。 基本的に全部読んだ後も変わりませんが、この「3」について、少し新たな感じ方が生まれました。 ア・「社会に対する反抗」というよりは、後半はむしろ「ピカレスク・ロマン」(悪漢小説)のようだ。 イ・「時代的な限界」ということなら、むしろ焦点は主人公の死に方ではないかな。 と、いうことで以下、特に「イ」について、もう少し書いてみますね。 そもそも同種の「女性の社会的地位と近代的自意識の相克」タイプの小説としては、世界文学名作中の名作としては『アンナ・カレーニナ』『ボヴァリー夫人』などが有名であります。 しかし、両者とも主人公の女性は、共に最後は自殺するんですね。ところが一方、早月葉子は上記のように病死なんですね。 で、早月葉子病死の原因を本文描写より探ると、 1.性的放埒 2.基本的生活習慣の乱れ 3.産後の肥立ち であろうと思われます。もちろんこの3つのさらなる深層原因に、早月葉子の性格的欠陥を置くことは可能でありましょうが、例えば漱石の『虞美人草』。 『虞美人草』主人公「紫の女・藤尾」は、やはり有島の本作と同種の書き方(死に方)をされ、実際のところは「倫理的潔癖者」漱石の手によって「倫理的罪状」によって「殺され」ます。 しかしそのことは、同時に『虞美人草』の作品的な欠陥となっています。 だって、病気に掛かるのは「因果応報」ではありませんから。 例えばガンになった人は何か悪いことをしたからガンになったわけでは、ぜーんぜんありませんよね。 さてこの早月葉子の死因を振り返って上記の3つを考えてみれば、まず3はほぼ無実。 本人のせいではありません。 1.2は、微妙なところなきにしもあらずではありますが、これを持って本人を断罪してしまう(「ほーら、バチが当たった」)には、ちょっとやりすぎじゃろうが。 というわけで、まー、「時代的な限界」、と。 しかし、にもかかわらず、フローベルが「ボヴァリー夫人は私だ」と言った意味と同じレベルにおいて、作者有島は、早月葉子を、おそらくは自分であると考えているだろうことは作品より充分に読みとれて、好感が持てはするのでありますがね。 というわけで、やはり、とても面白い本ではありました。 今回は、そゆことで。では。/fontにほんブログ村
2009.06.14
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『或る女』有島武郎(新潮文庫) とりあえず今回は前編の紹介をしようと思っています。 新潮文庫では、この小説は550ページほどの一冊本で、中身は前後編に別れています。 今回は、やや中途半端ではありますがー、前編だけ。 この作は、もちろん文学史の教科書なんかに出てくる名作であります。 すでに定着した高い評価があります。 しかし僕は、内容的には文学史教科書なんかで下している評価よりも、まだまだずっとずっと遙かに「傑作」だと思います。まだまだ評価が低いです。 まず近代日本のリアリズム小説としては、圧倒的に出色な作品でありましょう。 僕としては、この時期の日本文学に、この作品と比肩しうる作品をちょっと思いつかないんですが(あえて言えば漱石の『道草』かな)、たぶんそんなすごい小説です。 文章も明晰でありながら必要以上の難解さはなく、作者の誠実さと一生懸命さが伝わってくるような文章であり描写であります。 ただ、なんというか、 1.作者の「真面目な」リアリズム描写が時に読んでいてつらいこと。 2.主人公早月葉子の生き方・反抗というものが、今となっては時代的な限界を孕んでいること。 あたかも『舞姫』や『破戒』の展開に時代的な限界が見て取れるように。 等の理由で、作品、あるいは主人公に対して、完全に重なり合う如き感情移入は、もはや現代では成しがたくなっていると、前半を読んだところで私は一端そう思ったんですがぁ、…… 一方で、はて、こんな批評態度ははたして正しいものだろうかという迷いも少々、感じてはいます。 というのも、こうして小説ばかりを連続してずうーーーっと読んでいると、やはりいろんな事を考えるんですね。 それは本当にいろんな事なんですが、その中のひとつだけ、根元的なのを挙げると、 「やはり小説って、いったい何なんだ?」 という疑問、というか、ぼんやりした思い、ですかね。 なぜ小説なんかがあるんだろう、なぜ小説なんかを読むんだろうという。 うーん、なんて言うか、例えば、夕方、人通りの多い街頭で、ふと自分はなぜこんなところにいるのだろう、一体どこに行くつもりなんだろう、などと周りをきょろきょろ見回して感じてしまうような、そんな疑問ですかね。 しかしこれって、なんか痴呆症の「見当識」のなくなりつつある状態のような気もするんですがー、まぁ、そんなこと、あれこれと思っていました。 そんなところですかね。なかなか、あれこれ、大変ですね(?)。 今回は、そゆことで。にほんブログ村
2009.06.13
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ここんところずっと土曜日はR大学の公開講座に行っていましたが、先週は違って、K大学に行って来ました。聴いてきた講義も、一気に「理系」。もっといえば「物理」。 なかなか愉しかった講義でした。でも理系音痴の僕が愉しかったと言うくらいですから、実は本格的な「理系」でもなんでもなく、講演のタイトルは、 『生命の世界の物理--生命現象の物理的背景』 と物々しいものですが、私がわりと分かったのは、その中の「物理学--生物学小史」という部分だけです。これは、生物学の中の物理学についての研究史です。つまり歴史ですね。だから何となく分かった気がしたんですね。とはいえ、わかったと言っても、以下のようなレベルですけどー。 例えば、20世紀の「物理学--生物学」の最大発見はふたつあるそうです。なんだと思いますか。それは、 1.アインシュタインの「相対論」 2.ボーアの「量子力学」 や、そうです。っていわれてもなー、別になーんの感動も感心も納得もありません。シロートっちゅもんは困ったモンやね、ほんま。 それでも「1」は、なんとなく聞いたことはありますわね。でもこの説明はしてくれませんでした。ちょっと話題として逸れますからとサラッと言ってはったですが、きっとシロートに話してもとても理解できまいと思われたんでしょうな。実に賢明なご判断でした。 次に「2」ですが、これも何となく聞いたことはあるが、「1」以上にさっぱり分からない。「1」はSF小説や漫画なんかでも、言葉としてはよく触れられています、何となくカッコイイから。 「2」は、それに比べるとかなり「ジミー君」ですね。何かぼそぼそと喋る控えめな少年のごとくであります。 しかし、実はこの少年ジミー君はとってもえらいヤツだそうです。 例えば、(ということで、講師の先生はとても卑近な例を出して説明してくださったのですが、実に賢明なご判断です。) 1.お日様の下にいると日焼けしますが、ストーブに当たっていても日焼けしないのはなぜでしょう。 2.あんな何億光年も遠く遠くの星の光が見えるのはなぜでしょう。 なんて問は、「量子力学」的な考え方でなければ説明しきれないのだそうです。 「のだそうです」というところまでは私も分かりましたが、実はそこからが、わからない。(そこからが大切やろーが。) だから、実際は何の役にも立たない知識でありますが、うーん、困ったモンやね、シロートは。 という講義に行ってきました。 ということで読書報告。 『夜明け前・第二部(下)』島崎藤村(新潮文庫) 終わりましたねー、『夜明け前』。長かったです。しかし何とかクリアしました。私の今年の読書計画の前半の山を越えることができました。 あの、別に自慢するつもりじゃないんですがね、これで日本の近現代の第一線級の長編小説は、私、かなり読んだんじゃないかと考えるんですが。 もちろんどんな小説を「第一線級」と考えるかによってそれは全然違ってきますが、たとえば教科書に出てくるような作家の代表的長編小説ということでいえば、なんかかなり押さえたように思います。(でもまー、もちろん、まだかなり押さえるべき長編小説はありますわね。今後の「山」ですかね。) というわけで『夜明け前・第二部(下)』です。 どんな長編小説でも3/4位を過ごすと、いわゆる「哀愁」が漂ってくるんですねー。頑張っている作者に声援を送りたくなってくるんですねー。ということで藤村も「よくがんばりました賞」であります。 今回、3/4を過ぎまして、とってもとってもおもしろくない「自然主義文学」としては、かなり大きな動きがありました。 1.主人公青山半蔵の娘の自殺未遂事件 2.主人公青山半蔵の「献扇」「不敬事件」であります。で、話は一気に半蔵の「発狂」へと進んでいくのですが、実はこの部分は、今となってはあまり面白くありません。 「今となっては」という書き方をしたのは、現代文学のジャンルの一つに、総合的多視点的に「狂気」を捉える一連の作品があるからであります。例えば僕が読んだのだけでも、色川武大『狂人日記』とか島尾敏雄『死の棘』など、すぐに幾つかが浮かびます。そしてそんなのに比べると本作は、狂気に至るプロセスの書き込みが残念ながら貧弱なように思います。 というようなことも少々気にはなるのですが、しかし、なんといっても新潮文庫全4冊、島崎君、よくがんばりました。書いた藤村もえらい。読破した私もえらい。(私は別にえらくもないか。) 今回も、じゃそゆことで。/fontにほんブログ村
2009.06.12
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この4月から職場はメチャメチャ忙しくなって、こっそり同僚に尋ねても、異口同音に「忙しい」「気ぜわしい」「ぎすぎすしている」。 全くどうなっちゃうんだろう、このまま行けば。今に病人だらけになってしまうんじゃないか、と考えていたんですが、さていきなりの読書。 『夜明け前・第二部(上)』島崎藤村(新潮文庫) を読んでいてはたと気が付きました。 「忙しい」「気ぜわしい」等言っている方々は、まー私がそれを尋ね、それに答えられた方ですから、ほぼ、私と同じ「ロートル」ですわ。 いわば、「御維新」に付いていけない「アンシャン・レジューム」の「没落者」達なんですねー。 まるで没落武家ですわ。オペラ『蝶々夫人』のタイトルロールの実家みたいなもんですな。事実、明治初年の娼家には没落武士の娘が溢れていたと言いますから、全く悲しい話であります。さしずめ我々は「没落武士の娘御」か。いえいえ時代を読めない愚鈍な「没落武士」。 いや実際、今という時代は、ミニ「御維新」みたいなものでありますね。多くの普通のサラリーマンは、時代の流れに乗り切れずばらばらばらと振り落とされております。 中でも我々のようなロートルは、きっと唾棄すべき情けない存在なんでしょうなー。 やはり末は「ハラキリ」の蝶々さん。(『蝶々夫人』というオペラはいい曲がいっぱいありますが、私は個人的にどうもあのドラマツルギーについていけなくて困っております。なんで蝶々さんが最後に一人で「ハラキリ」すんねん。) というわけで、『夜明け前』。 前回の報告で、少しこの作品を胡散臭そうに書きましたが、やはりそんなことないですね。前言撤回。とにかくベテラン作家が頑張って書いているという感じがします。 そもそも、日本の「自然主義文学」っちゅうのはおもしろくないものと相場が決まっていたではありませんか。だからきっと僕も今まであまり読んでこなかったんでしょう、我が事ながらよくわかりませんが。 漱石が『門』を書き始めたとき、正宗白鳥がそのつまらなさ(というかおもしろ味のなさ)を「腰弁」と褒めましたが(中盤あたり、三角関係が出てくるいかにも漱石的展開あたりからは貶し始めました)、そもそもこの「つまらなさ」こそが、自然主義作家が主張する文学のあるべき姿なんですよね。つまらないからいいんだと言ってるんですよね。文学=現実とは、「作り話」ではないと。 本来そんな一党の藤村です。しかも藤村といえば、例えば、盟友田山花袋の死の床で耳許に、 「花袋君、君は今死のうとしているんだよ。死ぬっていったいどんな気持ちだい。」と尋ねたという、うーん、なんちゅうかかんちゅうか海千山千の藤村。 自分の姪を妊娠させて人生をメチャメチャにして、そのことを小説に発表した藤村。 そんなお方の晩年の長編小説ですから、気合いが入っていない訳がありません。 私、なんでこんなに読みにくいんかなーとずっと考えながら読んでいたんですが、要するに作品に盛られた情報量がすごいんですよねー。かなりかなり調べこんで書いているんでしょうねー。気合い入っていますよ、実際。 まさに、「悪いヤツほどよく眠る」っちゅう感じですかね。(あ、関係ないか。失礼。) さていよいよ後一冊。最後を島崎先生は、どうまとめてくれるか、少し楽しみ(といっても、面白くなるかななんて期待は全く持っていませんがー)であります。 というわけで、私の毎日は「御維新の没落武士」。 じゃそゆことで。にほんブログ村
2009.06.10
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実際、今週も仕事でへろへろですなー。 しかしそんな嵐のような仕事の中を突っ切って、先週末の土曜日、私は午前中はR大学に、午後にはクラシック音楽会会場におりました。 なに、大学といっても大学に勤めているわけでもなし、以前申し込んだ無料の生涯学習講座に参加しただけであります。 午後は、ベートーヴェンを聴きに行ってたんですが、これについては今回は割愛。 で、R大学の公開講座ですが、今回のテーマは「癒し」。タイトルは「○○心理学の人間学と癒し」というものでありました。しゃべりはった人は、心理学の先生ですかね。 でもお、心理学って、なんか胡散臭くありませんか。 言ってることは「言ったモン勝ち」という感じだし、やっている実験は考えようによっては「恥知らず」というか「無礼者」というか、まー何とも言いようがありません。 しかし、腹の立つことにそれがとても面白かったり、興味深かったりするんですよねー。テレビの「ドッキリ」と一緒ですねー。(しかし我が記載ながらめっちゃバイアス掛かってますなー。えらいすんまへん。) まー、それは私がきっと「下品」だからでしょうね。 というより、今分かりました。 心理学って「下品」なんです。とてもじゃないが「君子」の学問じゃないって感じ。そう思いませんか。(とうとう言い切ってしまいました。ごめんなさい。でも二葉亭四迷だって、文学のことを「男子の一生の生業にあらず」と言い切っていますし。あ、二葉亭ならいいか。) で、そんな講座を受けながら、実はいろんな事を考えていたんですよねー。例えば、 「鴎外は幸せではなかったも知れぬが、ゴッホは幸せであったかも知れぬ」なんてことを、ぼーと思ったりしていました。何の話かというと、講師の先生がこんな事を聞きはったんですね。 「人生の究極の目標とはなんですか」 これもまた、ひどい質問ですよねー。ほとんど質問の体を成していませんよねー。で、先生は、参加者に次々と当てていきはったんですね。 あのね、そもそもこんな公開講座に参加している人達ってのは、99パーセントまでが60歳以上の方であります。男女の比率は、まーざっと7対3で女性の勝ちってところですかね。とにかくそんな参加者に、 「人生の究極の目標とはなんですか」と順々に聞いていきはったんです。向学心に燃える老人というのは、或る意味とっても真面目で素直であります。(時々ピントがはずれますがー) 次々と真面目にみなさん答えていかれました。で、最後になんとなくぐずぐずとその答えを先生がまとめられたのが、こんなニュアンスの表現です。 「現在の充実のないところに未来の幸福はない」 んー。始め少し期待はずれな気もしましたが、口の中で反芻するうちに、「そうだよな」という気持ちになってきました。 「現在の充実のないところに未来の幸福はない」 「幸福を志向し、そして今が忙しいこと。」 少し具体的にかつやさしく言うとこういう事でしょうか。そして、ひょっとしたらこの考え方は、究極の幸福への「鍵」になるかもしれないなと、思いました。 えーっと、少し単純すぎますかね。なにを幼稚なことを言っているんだと思われますかね。でも正直なところ、僕はこの講座の帰り、なんだか少し、幸福感に溢れていたような気がしましたよ。なかなか日々の現実的な細々とした事柄は思うように行かないものですが、「忙しいこと」は「現在の充実」ということで、まー、そーいうことで、 『夜明け前・第一部(下)』島崎藤村(新潮文庫) しかし仕事が忙しいということもありますが、大概この本も進みませんなー。いえ、進まない事もないんですが、要するに相変わらずおもしろくないんですよね。 今回のメインの話は、「幕末、参勤交代の廃止」っちゅうのがわりと大きなテーマでしょうか。これは私知りませんでしたね。というより、言われれば、なるほどきっとそんなこともあったんだろうなとは思いますが、まーあまり積極的に疑問に思うことでもありませんしー。 でも、参勤交代制度って、誰が始めたんでしたっけね。家光っぽい感じがしますが、始めた事実があるんだからやめた歴史的経緯もあるはずだと考えると、それはちょっと面白かったです。でもねー、後がー、ない。 このおもしろなさはどこかで経験したぞと記憶を辿ってみたんですが、思い出しました。 『菜の花の沖』司馬遼太郎 この中の、「樽回船」とかそんな類について延々と作者が説明し始めたあたりであります。でも、司馬遼作には、作者の肌合い・体温・声・息づかいがありました。この藤村作には、どうもそれが感じられません。 というより、この小説、ちょっと胡散臭い感じがしてきましたよ。 例えば、北杜夫の『楡家の人々』。 同じように歴史の一部を切り取りながら、主人公とその一族を描いています。北杜夫の作品には、それを描くこと自体を最大の価値とし、喜びとする価値観が作品から溢れ出るように感じられます。しかし、この藤村作からは、どうも、なんだか「別の価値観」のような匂いが、少しするような気がするんですがねー。 うーん、まだ途中ですから。もう少し、頑張ってみます。じゃそゆことで。/fontにほんブログ村
2009.06.10
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って言って、引っ越しの挨拶に新潮文庫のワインレッド色の表紙の『夜明け前』を配って回ったら、ご近所の人は「お近づき」のご近所づきあいをしていただけますでしょうかね。 やはりその点では、ネットは便利ですね。 ここんとこしばらくは「お近づき」で、まー「顔見せ」みたいなものだと思っても、読書テーマの文章だと毎日書くわけにはいかないですわねー、やはり。 でも、「顔見せ」ですしー。 で困ったときの過去の日記、ですね。 ちょうど一年ほど前。5月中旬あたりですかね。季節感が重なってわかりやすいし、一年間で最もいい季節でもあります。いいですね。 それに、新潮文庫の『夜明け前』は全部で4冊ですから、そのままで4日持ちますね。 というわけで、以下の文章は一年前の個人的な日記を元にしたものです。なんか、読書以外のことがいっぱい載っているのは、ちょうど、パソコンの周辺機器を買ってドライバを同梱のCDからインストールしたら、一見役に立ちそうな気もするが、その後二度と立ち上げることのないソフトがいっぱい一緒に入ってきたようなものですね。 うーん、実にわかりやすいたとえだ。 というわけでしつこく、以下の文章は、去年の実録をもとに少々(かなり)改変を加えたものであります。------------------------- 『夜明け前・第一部(上)』島崎藤村(新潮文庫) 『夜明け前』は、私の今年度の読書計画の前半の山と位置づけていた小説であります。 なんせ新潮文庫で4冊もあります。 そもそも私は何かをはじめるとき、なんと言いますか「ブッキッシュ」といいますか、わりと「本」をたよりに物事を進めていくタイプでして、文学作品を読むことについても、むかーしから、「文学史」をメンター(先達)と仰いで読んできました。 そんななかで、自分として「死角」と思い続けていた近代日本文学史の文芸思潮のひとつが「自然主義」であります。で、島崎藤村ですね。ストレートです。 この度、満を持して読み始めました。 ところがこれが、いかにも、おもんないんですよねー。 いえ、全くおもんないこともないんです。おもんないことはおもんないんですが、読みながら冷静に考えると、やはりこの小説は極めて正統的な小説であると理解はするんです。 まだ読み始めたばかりだけれど、なんというか、「労作」という言葉が浮かぶ小説であるなとは、理解するんです。理解は。 でも、おもんない。 畢竟、ちょっと、別の本なんかを手に取ります。カルイ「口当たりのよい」本をちょいと手に取ってみる。しばしのめり込む。そんなことを3冊分くらいしていました。 全く、例えば学生時代、試験が近づくとなんとなく部屋の模様替えがしたくなるというのと同じで、読まねばならないと感じる本があると、別の本の読書はとってもよく進みますなー。 というわけで『夜明け前』ですが、実際僕達は、学生時代に歴史の授業なんかで一応は幕末という期間を学びますが、本当のところその時代の人々の中でどんな時間が流れていたのかという「日常」については、ほとんど知りません。 この本には、それが実に丁寧に書かれています。そして、こういう「一本道」の小説って、今まであまり読んでいないということにも気づきました。現代小説は、より複雑にはなりましたが、その結果こういう「正面」からの力業で「寄り切る」という感じの展開は難しくなってしまったのだと思います。 そんなわけで、つまみ食いをしつつ、頑張って読んでいきたいと思います。 じゃそゆことで。/fontにほんブログ村
2009.06.09
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というわけでですね、先週末、私は、ほとんどぼーーとしつつ、少しは庭で愛兎と戯れつつ、少しは金魚の瓶の水替えをし、そして、バッハとブルックナーを結構聴きつつ、そして、こんな本を読んでいました。 『学問のすすめ』福沢諭吉(講談社文庫) えー、例のアレです。アレ。 「天は人の上に人を重ねて人を作る」 っちゅうギャグが、昔はやったような、そんなことはなかったよーな、なんかよーわからんやつですがー。 実際のところ、この本は、ほとんどの人が冒頭の文句だけは知っているが読んだことのない本として、ひょっとしたら『源氏』や『枕』なんかの古典作品を除くと、一等賞の本じゃないでしょうかね。 つまり、「多くの人が冒頭だけは知っていて、それ以外の個所は読んだことのない本」という分野のベストワンであります。 そう思いませんか。そんな本って、古典作品を外して、明治以降の作品で考えるとして、この本以外に思いつきますか。 いいですか。二条件です。 1.書き出しは非常に人口に膾炙している。 2.作品全体を読んだ人はとても少ない。 どうでしょう。クラシック音楽で言えば、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』みたいな物ですね。冒頭有名、最後まで聞いたことある人ごく少数。 えー、話題戻します。 漱石の『草枕』なんか、ちょっとそれに近いような気もします。でも、『学問のすすめ』に比べると「実力の差が歴然」という気がしますよね。やはり、きっと一等賞です。 というわけで、私もその例に漏れず、冒頭以外はまるで知らなかったのですが、今回、全文を読んでみて(文庫本でだいたい150ページほどであります)、和漢混淆文的な擬古文でありますので、若干読みづらかったんですが、結構面白かったです。 何が面白かったかと言いますと、まず、この本のテーマが一言ですっと言えることです。つまり、 「徹底的実学志向」。 ほぼ、これに尽きますね。もちろんそれは、時代的背景によるものでありまして、私は一切そのことを貶めるつもりはありません。むしろ感心したことのその2として、「実学志向」だけでよくこれだけの物事をカバーしたものだと思ったことです。 例えば、友達大切にしろ、人嫌いになってはいけない、なんて事にまで触れており、私といたしましては、若かりし頃に比して、はるかに「人嫌い」になっている我が身を大いに反省致しました。 それに、優れた文章にはすべからく遍在している物が、この作品にもあります。それは、 1.ユーモア精神 2.パッションであります。 たとえばこれは何なのでしょうか。同時代の他の人の文と比べたことがないので、断定はできませんが、やたらと二重否定が多いのです(まー漢文脈といってしまえばその通りなんでしょーがー)。例えば、 学者勉めざるべからず。けだしこれを思うはこれを学ぶにしかず、幾多の書を読み幾多の事物に接し、虚心平気活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん。学者勉めざるべからざるなり。 なんて文ですね。ここはさほどユーモラスでもないですが、こんな風に「ざるべからず」とか「いわざるを得ず」がいっぱいあると、そこはかとないユーモアと、作者のパッションを感じてしまいますね。 そんなわけで、私は実は時々吹き出しながら、この本を読みました。でも私が吹き出したのは、それはきっと作者の「狙い」でもあったと思います。 ということで、今となっては「誰も読まない(?)」(明治初年は大々ベストセラーですが)『学問のすすめ』ですが、まーそもそも今時こんな本を読んでいる閑人は日本国中でもそんなにおりますまい。 じゃそゆことで。にほんブログ村
2009.06.08
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「マイナー」では、ないなー。 でも、芥川って、やはり『羅生門』を教科書で習った以外、あまり読まれていないような気がするけれど、そんなことないんでしょうか。黒澤明の映画の影響があったりなんかする気もしますけれど。 で、とにかく、始まりは『河童』です。 とってもおもしろい作品ですね。「秀逸」という言葉がとっても似合う。 むかーし、読んだとき、なんかもうひとつおもしろくないなー、って思った記憶があるんですがね。 よく似たテーマで言うと、中島敦の「悟浄」シリーズの方がずっとおもしろかったような気がしていました。 で、今回、読んでみて、とてもおもしろかったです。 はじめの方に出てくる、河童のお産のシーンなんて、最高であります。 評価・「とってもよくできました◎」 あ、『歯車』ですが、解説文によると、このタイトルは、発表前に(この作品の発表は芥川の死後ですがー)、原稿を見せてもらった佐藤春夫がアドバイスをしてつけたそうですが、うーん、なんというか、感心しましたね。 この作品は、幻覚と幻聴が始終おそってきて、死にたい死にたいと考えている人物が主人公ですよ。そんな作品を読んだとき、一番に言うべきなのは 「うーん、タイトル、変えた方がいいねー」じゃなくてー、入院を勧めることでしょうに。おかげで芥川君は死んじゃったじゃないか。 うーん、難儀な人達です。 じゃ、そゆことで。にほんブログ村
2009.06.07
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