全795件 (795件中 601-650件目)
< 1 ... 8 9 10 11 12 13 14 15 16 >
関東平野の縁に立つ高尾山・景信山を歩いてみますと、登山道には層状になった光沢のある岩石が剥き出しになっていることが多いのです。色は緑色、灰色、ベージュと多彩です。関東で変成岩の名所として知られているのは荒川上流の長瀞で、緑色の緑泥片岩が主体ですが、白色の絹雲母片岩、赤色の紅廉片岩もあります。この様な地層が、高尾山・景信山まで続いているかと思いつつ、これは灰白色なので絹雲母片岩と思い自宅に持ち帰ったものですが、変成岩一歩手前と言う処でしょうか。インターネットで調べてみますと、「地質学的にみる高尾山」と言うタイトルで次の様に解説されていました。粘板岩(スレート)とは、泥岩や頁岩が圧密作用によりスレート劈開を持ったもの。やや変成の進んだ堆積岩の一種。変成岩として扱われることもある。高尾山と周辺の山々を形成している地層を、その地層が特に露出している代表的な場所である「小仏峠」から名をとり「小仏層」と呼ばれる。高尾山の地層は「互層」と呼ばれ、砂岩と頁岩(粘板岩)が定間隔で「交互に堆積した」構造をなしている。又、高尾の地層は傾斜角70~80°、海底に自然に堆積された地層が隆起したなら、地層も規則正しく水平に見える筈ですが、立ち上がり垂直の地層となっている。将に強大なエネルギーの発散、大地殻変動の証拠、1億年の壮大なドラマを見てとれる。砂岩と粘板岩が互層となっていることから、地質学的には強固な岩盤では無く、圏央道のトンネル工事は大変な難工事になることも予想されます。高尾登山を楽しむには、素晴らしい展望、マイナスイオンの多い林間散歩、種類の多いスミレ等の野草類観賞に加え、足下の岩石観察も欠かせない様です。1億年前は巨大恐竜時代、化石が見つかることは無いのでしょうか?
2010.01.21
コメント(0)
昨日は、丹沢にあるシダンゴ山に行って見ることにしました。シダンゴ山は丹沢山地の南部に位置する標高758mの山で、見晴らしの良いことで知られています。飛鳥時代に、仏教を寄(やどりき)の地に伝える仙人がいて、この山の上に居住し仏教を宣揚したといわれている。この仙人を「シダゴン」と呼んだことからこの地名が起こり、「シダゴン」が転じて「シダンゴ」(震旦郷)と呼ばれるようになった。家内と登ったのは2回あると記憶していましたが、どうも2000年秋だけらしく、10年振りの再訪となります。朝9時前に家を出て、129号線から246号線に入り、寄(ヤドリギ)交差点で右折して山道に入り神奈川県松田町内寄(やどりき)自然休養村管理センターの駐車場に停め、トイレを拝借し、準備を整えて出発しました。山頂までは1時間10分との表示板もあり、軽いものだと登り始めたのですが、傾斜のきつい茶畑を登りつめ、登山道に入る前にへばってしまいました。何回もコーヒー休憩を取りつつ林間を登って行き、漸く時間通りに山頂に到着したのは12時正午となりました。山頂広場は小さく半分ほどに見え、記憶と言うものは不確かなものですが、見晴らしは記憶通りで素晴らしいものでした。山頂は丹沢山塊が一望出来る、素晴らしい展望場所です。西方を望めば、半分しか見えませんが富士山、「肩富士」と呼ばれるそうです。南方を望めば、相模湾、もやっていなければ房総半島も見えるのですが・・バーナーとコッヘルでインスタントラーメンをこしらえて昼食、ゆっくりと休憩して宮地山を経由して下山することにしました。自然休養村管理センターに戻り着いたのは、午後2時過ぎ、往復3時間の行程でした。心中家内に、昔一緒に登った「矢倉岳」、「幕山」など富士山が望める処に再度行ってみようと呼び掛けて、帰路に着きました。
2010.01.20
コメント(0)
尾根緑道脇に小さな教会があります。古城の塔にも見える石組の塔が印象的ですが、桜並木がすっかり大きくなって、冬枯れの時期でないと目立たなくなりました。今まで何回となく、この前を素通りしていたのですが、昨日は見学させて貰うことにしました。桜美林学園の創始者である清水安三氏が建てたもので、プロテスタント福音派の日本基督教団(日本キリスト教団)に属する教会なのだとのことでした。当初は学校教会でしたが、1966年頃より近隣在住の方々が増え、今は2/3以上となっています。桜美林学園関係の他、福音主義派の牧師方も協力牧師として参加し、毎週の説教もローテーションを組んで地域に開かれた教会として、礼拝を大切にしています。このプロテスタント教会はカトリック教会と違い、主祭壇飾り付けも無い小さな教会で、教会内部の天井も低く実用的な祈り本位の教会でした。緑道から印象的に見えた石組の塔は、死者の為の納骨堂なのだそうです。
2010.01.16
コメント(0)
昨日も小春日和でしたので、甲州街道から旧甲州街道を経て、小仏バス停を通り過ぎて車道止めまで行き、路上駐車しました。3連休の中日ですので、低山登山者が多くて、車道止め付近の駐車場が一杯だったのです。中央高速道の小仏トンネル横にある登山路を使ってみましたが、此処は何回となく家内とも登ったコース、登りがきついのですが景信山への最短路で、1時間程で山頂まで行くことが出来ます。天気晴朗で日差しが強く、途中ウィンドブレーカーを脱がなければ暑くて仕方が無い程となりました。他の登山者に殆ど追い抜かされる程、思い出に浸りつつ、ゆっくり登って行ったのですが、ほぼ1時間で山頂の山小屋に到着しました。団体客も多く、驚く程の混雑でしたが、何とか腰かける場所を見つけることが出来ました。景信山標高は727mですので、隣山となる標高599mの高尾山は眼下となります。家内がした様に、キャベツと白ネギを小さめに切ってポリ容器に入れて来ましたので、バーナーとコッヘルで塩ラーメンを作って食しました。珈琲と蜜柑・菓子も楽しんでゆっくりと時間を過ごす内に、団体客が下山しましたが、それでも何時もより沢山の登山客が屯していました。午後1時も過ぎましたので下山、小仏峠を経由しましたが、この峠の茶屋2軒は閉められてから数年経ち、大部分がブルーシートで覆われていたのは寂しい限りでした。替りの峠モニュメントはタヌキの焼き物、昔はタヌキが多く住みついていたと言うことなのかも知れません。独り登山とは寂しいものですが、人生を共にした家内への感謝を胸に閉って、新たな目標を定めつつ、その寂しさに慣れなければいけないのが私の今後の課題です。
2010.01.11
コメント(2)
午前10時に風呂の掃除をし、布団を干したが、寒中とは言え小春日和ですので、ハムエッグのサンドウィッチを作り、珈琲をポットに入れて、町田市小山田地区の白山谷戸から小野路城址に散歩に行って来ました。案の定、快晴の青空で、暖かく冬の寒さはありません。2ヶ月前の葬儀直後では、歩いている時に涙が止まりませんでしたが、今回は独り静かに散歩が出来ました。人間の感情と言うものは刻々変化している様です。但し、寂しさが募って来るのは避けられませんが・・谷戸の中の今まで行かなかった道を種々探索しつつも、結局は小野路城址に行きつくこととなりました。城址と言っても、祠が祭られているだけの小さな平地の小さい山頂です。此処の木の根元に腰かけて、サンドウィッチ・お菓子類と珈琲で昼食を取り、1時間半程で戻りましたので、往復しても到底1万歩には足りません。
2010.01.09
コメント(0)
昨日は1月7日、例年ならば家内が前日に「七草粥セット」を買って来ておいて作ってくれたのですが、独り暮らしですとそんなことを忘れてしまっていました。冷蔵庫の野菜室を見ますと大根があって、その頭に葉が残っていましたので、気は心で良いと「一草粥」と思い作り始めましたが、緑が少ないので、細ネギを刻んで入れ、切り餅を入れてあった言う間に完成、仏壇に供えてから食べました。昨夜はNHKでHV特集「日本の名峰・ふるさとの富士」を見ていましたら、薩摩富士「開聞岳」が紹介されていました。家内と共に其処を訪れましたのは2年前、健康にも不安の無い最後の旅行でした。2日間は悪天候で見えず、折角来たのだからと、指宿国民休暇村に連泊して3日目に漸く見ることが出来ました。適当に予定を簡単に変更できる気ままな旅が我が家では好きで、海外・国内共パック旅行を利用したことはありませんでした。
2010.01.08
コメント(0)
昨日は寒さも和らぎましたので、町田ぼたん園に行ってみました。寒牡丹が丁度時期になったかと期待したのです。園内はすっかり冬支度が済んでいて、松には藁縄の雪吊りも設えられていましたが、訪問者は殆どいない状態でした。肝心の寒牡丹は、結構な数咲いてはいるのですが薄い花弁が皺だらけで、可愛そうな様子、寒さ避けの菰も無く、霜にやられてしまった様でした。園内の整備員の方に聞きましたら、寒牡丹と冬牡丹の違いを一目で区別するには、緑の葉があれば「冬牡丹」、葉が無く花だけのもの「寒牡丹」なのだそうです。-寒牡丹 春につく蕾はつみ取り、夏の終わり頃に葉をつみ取って花期を遅らせ、藁の霜囲いをして暖かいところに保護すると冬に開花する 。 -冬牡丹 春咲きの品種を人工で温度調節し、冬に咲かせる牡丹。整備員の方は、「寒牡丹が大きくなって、藁の菰も掛けられなくなりましたので、強い霜が降りる前が見頃となり、ここ数日の寒さで見頃は過ぎてしまった」との説明でした。
2009.12.23
コメント(0)
八王子市鑓水に、1972年に市が史跡指定して整備した「絹の道」があります。明治初期に埼玉や群馬等から生糸が八王子に集められ、鑓水を通って横浜へ運ばれたもので、「浜街道」とも呼ばれていたらしいのです。絹の道資料館には駐車スペースが7台程ありますので、其処に停めて、事務所で案内マップを頂いてから、散歩開始です。林の中を進む道はいかにも旧街道といった趣で、道路脇は往時の大八車往来で削られたのでしょうか丸くなっています。15分程も歩くと、「絹の道」石標が立っている大塚山公園入り口に着きますが、此処で終点、如何にも短い散歩道でした。此処では、石標脇の石に腰かけて、よく家内とおにぎり・珈琲昼食をしたものでした。大塚山公園は、嘗て鑓水の豪商たちによって建立された道了堂が建っていた場所を公園として整備したもので、現在では建物は無く、礎石だけが寂しく残されているだけです。大塚山公園脇から見る景色、真下に八王子バイパス、中ほどに横浜線片倉駅、遠くに多摩の山々、家内と登った三頭山も見えている筈ですが、どれがそうなのか識別出来ませんでした。残った私が元気な内に家内と行った場所を再訪したく、来春はそんな目標を持ってみようかと考えています。
2009.12.16
コメント(3)
相模原市城山町にある宝泉寺の道路脇に車を停め、墓所横の階段を登ると小松城山ハイキングに入ります。其処から橋本方面を見ますと、毎年来ていました「城山カタクリの里」の里山が眼下に見えます。度々来ていたのですが、「イノシシ注意」の掲示がありますので、あまり近年は来なくなっていたのです。兎に角ハイキングコースに入りますと、小松城址の看板がありますが何も残っていない様です。城山湖までの40分の気軽なハイキングですが、12月ですので殆ど訪れる人はおらず、閑散としています。途中にある評議原は紅葉の名所とされる処で、テーブル・ベンチもあり、一休みするには良い場所です。残念ながら、全て葉を落として暖かい日の光に溢れていました。此処では家内と何度も昼食をしたのですが、昨日は一人寂しいながらも、良く付き合ってくれた家内に感謝し、ポットの珈琲を飲みつつおにぎりでお昼としました。昨日は城山湖までは行かず、金毘羅宮直前で折り返し、往復7~8人しか出会うことの無かった小春日和の中のハイキングを一人静かに楽しんで、宝泉寺まで戻りました。往復1時間強ですので歩数は1万歩位だったでしょうか、宝泉寺の前で独り寂しく車に乗り、橋本経由で帰宅となりました。
2009.12.08
コメント(1)
ご近所の懇意にしている御老体から、仏壇に捧げて欲しいと弔辞と思われる書状を頂きました。私も高齢者ですが、彼は米寿を過ぎた本当のご老体です。もう体も思うように動かないのですが、電動車に乗って、体に鞭打って家に入って仏壇に手を合わせてくれました。御遺影に捧げ奉る親愛なる貴女はあまりに早くこの世を去られました。実に痛恨の極みです。良い人ほど早く逝くと言われるにしても未だ60代の女盛り、全く惜しいことこの上もなく悔しさで一杯です。しかも、私の亡き長女と同い年とは、実に憐憫の情ひとしおです。胸の病に侵され酸素吸引の苦しい療養の日々を送られていたと知らず、誠に迂闊でした。貴女は今、極楽浄土で清浄な空気を吸われ、楽になられたことでしょう。どうか安らかにお休みください。残した最愛の夫の寡夫暮らしが気がかりかとも思いますが、こまめな性格で、自炊生活も体験している様で心配ありません。また、独立された御子息等も、立派な社会人になられ懸念ありません。私は今、夫氏と昵懇の交友をさせて頂いておりますが、団地随一の博識者であり、誠に有り難く思って感謝致しております。私も来年は数えで90歳の大台に達しますが、余命いくばくも無いと自覚しておりますので、間もなく黄泉で再会することでしょう。此処に謹んで、ご冥福をお祈りいたします。南無阿弥陀仏、南無弥陀仏合掌16年前に富士山を見に行った時のスナップ、義母88歳の米寿、家内50歳。義母は五島に生まれ、満州で永く暮らして五島に帰国し其処での生活が殆どでしたので、富士を間近に見たことに感激していました。その義母は我が家にて90歳で亡くなりましたので、娘である家内の66歳永眠は確かに早すぎました!
2009.12.03
コメント(0)
君が此処に来たのは 9月中旬の暖かい夕刻車椅子で僕に押されて 今年初の訪問だったそれから2週間 食事・排泄が出来なくなり意識不明に陥り入院 途中意識回復はあったがこん睡が続き1ヶ月後 病院で帰らぬ人となった今見ると 落ち葉が散歩道を埋め尽くし最後の散歩を思い起こして 涙するばかりだ君の人生は幸せだったのか 問うても答えはないつつましやかで殆ど 自分を主張することも無く暴夫の僕に静かに従い 天命を全うしたに違いない君の兄弟は早世 その寂しさを嘆いて泣くたびに何とも答えようも無く 僕は何度涙しただろうか僕が君の人生に寄与したのか 甚だ自信が無いが君が僕の人生に寄与したのは 明らかで感謝するゆっくり休むが良い 今生の責任は果たしたのだ君の育った五島の郷里に 葬ろうとしたのだが子供達も春秋彼岸には 墓参りしたいと言うのでゆったり永眠出来る場所に 墓所を探している遺骨を手厚く葬るには 少し時間も掛りそうだが暫く自宅で辛抱して 待っていて欲しいと思う父母も眠る郷里に 供養散骨する約束は守るから
2009.11.28
コメント(0)
嘗て「戦車道路」とされた尾根伝いの道は、町田市と八王子市の境界に位置して、大きく3区分されています。先日は尾根緑道を散歩しましたので、昨日は鑓水小山緑地に行ってみることにしました。都立小山内裏公園の出口付近から見る鑓水小山緑地、遠くには多摩秩父の山々が見えてなかなかの眺望です。直下に見える鑓水給水塔付近までは、暑い時期家内と散歩したことはあるのですが、木陰が無いので諦めたことがあるのです。通常のウィークデイの所為か、殆ど人の往来が無く寂しい散歩道でしたが、多摩美術大学キャンパスを横目に見ながら、兎に角終点となる国道16号線まで行ってみました。
2009.11.26
コメント(0)
息子からのメールに「母さんのゆかりの場所を訪ねると色々思い出してつらい気持ちにもなるけど、思い出があるのはとても幸せなことと思うようにしています」とあったのに、少し気持ちが救われています。昨日は小春日和で暖かくなりましたので、珈琲を沸かして魔法瓶に入れ、尾根緑道の散歩に出掛けました。この散歩道は嘗て「戦車道路」と言われ、相模陸軍造兵廠で製造された戦車走行用のもので、町田から八王子鑓水まで8km、富士山や丹沢山塊を一望できる景観豊かな尾根道です。昨日は思い出に涙すること無く、「思い出を有難う」と一人静かに散歩することが出来ました。此処は「富士見広場」と言う処で、ベンチもある休憩場所なのですが、現在では並木が大きくなって富士山も丹沢山塊も見えません。しかし、此処には遅咲きで良い香りを放つ「駿河台匂い」が植栽されていますので、ソメイヨシノの花見が終わった時期に、香りを嗅ぎに何回か来たことがありました。葉を落とした桜を見つつ思い出に浸り、珈琲とおにぎり、蜜柑と頂き物のカステラで昼食を取って、思い出を感謝しつつ散歩の帰り道となりました。
2009.11.24
コメント(1)
昨日は、曇りから少し晴れ間が出て来ましたので、兄の家に行って同道して貰い、御殿場にある富士霊園に行って来ました。我が家からは東名高速を使っても2時間以上は掛りそうで、その遠さに驚くほどでしたが、我が家は団地のマンションですので終の棲家とも思えず、墓所を近くにする意味合いは無いのだろうと思っているのです。要は足しげく通って弔うのか、思い入れのある場所でゆっくりと眠って貰うのか どちらかを残った遺族が選択することになりますでしょうか。私は当初、家内の故郷である五島の地に葬ろうと思っていたのですが、子供達が墓参りを望むこともあり、親の責任を果たす意味もあって将来私も子供達も入ることの出来る「我が家の墓」を建立する方向に軌道修正することにしたのです。財団法人 冨士霊園(静岡県駿東郡小山町大御神888-2)開園 昭和40年 総面積 230万平方メートル(70万坪)総区画数 約7万区画 開園時間 9:00~16:30 休園日 毎週水曜日、祝日の時は翌日昨日は休園日でしたが見学は出来ましたので、管理事務所のある中央道路のある義姉の親戚の眠る墓所に行って見ました。其処は中央道路沿いにあり、桜並木の近傍、春の季節にはピクニック気分で墓参出来る環境でした。この方向には富士が見える筈なのですが、曇りで見えませんでした。園内は未だ余裕があり、新たな墓地が造成されていました。広い園内には秋の紅葉が美しい場所もあり、南には箱根の山々も良く見える静かに永眠して貰うには最適な墓所とも思えました。家内と登った金時山は雲の中でしたが南に見え、西には好きだった富士山も見え、毎年通った山中湖・忍野村も近く、高原ですので冬季は道路凍結も危惧されますが、墓所の第一候補にしたいと思って帰って来ました。
2009.11.19
コメント(1)
多摩丘陵の自然をそのまま生かした都立桜ヶ丘公園、園内は雑木林に覆われ、ちょうの道、うぐいすの道、どんぐりの道、あざみの道などのコースが整備されています。多摩市の連光寺公園、大谷戸公園も隣接していますので、桜ヶ丘公園内を散歩してから、大谷戸公園の芝生広場や備え付けのベンチに坐って昼食を取るなどいろいろ行動が多彩に出来ます。大谷戸公園の芝生広場でおむすびと珈琲、蜜柑とお菓子のささやかな昼食を取り桜ヶ丘公園の林間に入った落葉樹の葉が落ちて明るくなった下道は落ち葉であふれ静けさの中を歩くとさくさくと鳴り心に沁みる丸太の階段道を踏みしめてあざみの道を登ると殆どのあざみは終わっているが頑張っているものもある思わず口ずさむ あざみの歌健気なものだが時節を逸したのではと哀れでもある倍賞千恵子さんのあざみの歌山には山の 愁いあり海には海の 悲しみやましてこころの 花園に咲きしあざみの 花ならばいとしき花よ 汝はあざみこころの花よ 汝はあざみさだめの径は 果てなくも香れよせめて わが胸に登り切って駐車場に戻る途中にあった紅葉、自然は確実に時を刻んでいました。
2009.11.17
コメント(1)
昨日は雲一つない快晴、都立小山田緑地の駐車場に車を停めて、白山谷戸から小野路城址を経て万松寺谷戸に向かうことにしました。谷戸の名前は、その入り口に白山神社、万松寺があることに由来するのだと思われます。白山谷戸の途中から小山田緑地方面を見ますと、懐かしい里山の風景が広がります。20分も野道を行けば小野路城址に着きますが、小さな祠があるだけで栄枯盛衰の歴史が思い遣られます。城趾を下りた道端に小町井戸があります。此処は整備が悪く井戸とも思われない状況、説明板も腐って放置されたままでした。4年前には僅かな湧き水が確認できたのですが・・説明板には「小野小町が悪病にかかり、ここで療養したところ病が治ったということから小町井戸と呼ばれるようになった」と書いてあります。万松寺谷戸の入口は小野路であり其処には小野篁を祭った小野神社があり、小野氏に縁の深い土地柄、小野小町も小野道風と共にその一族だったことから、その中で一番名高い小野小町に因んで作られた話の様ですが、何か浪漫が感じられて良いものでした。其処から坂道を下りて行きますと、いよいよ万松寺谷戸、4年前には放置され荒れ放題だった棚田も少しながら、耕作され始めていました。何処を歩いても、思い出されることが多く涙が止まりませんでした。だがしかし、家内が天命を全うしたことを認識し、それを祝っての供養散歩とするのが私の目標なのですが、少し時間も掛りそうな気がします。
2009.11.16
コメント(1)
昨日は豊洲に行く用事があったので、手土産でも買おうかと銀座三越に寄ることにしました。地下鉄銀座4丁目駅に着きましたのが9時45分、開店前でしたので、少し時間を潰さなければと付近を見回してみますと、4丁目交差点にある円形の三愛ビル1,2階がドトールになっていました。すっかりお上りさん状態、まあアメリカン珈琲を飲んでゆっくりすることにしました。ドトール銀座店ではアメリカンコーヒーが390円、他のドトール店とは異なり、銀座値段なのかと思いましたが、スターバックと同じ様にカップを大きくして、価格相当にサービスする戦略の様でした。ドトール2階から見る銀座4丁目、其の象徴である服部は変わりませんが、三越、松屋等のデパートは外装化粧直しで、少し高くなって、空が狭くなっていました。三越と松屋の間の横道を入った処にある王子ホールの室内楽コンサートに行ったのは、それ程昔のことでは無かったのにと思いを馳せずにいられませんでした。
2009.11.11
コメント(0)
野津田公園のバラ園に行ってみました処、盛りは過ぎていましたが、何とか楽しめました。ケアフリー・ワンダー(Carefree Wonder)野津田公園には、家内が退院後、車椅子に乗せ酸素ボンベを担いで、晩春にアジサイを見に来たのですが、もうこの世にいません。Hayley Westenra - The Last Rose of SummerThe Last Rose of Summer 最後のバラ'Tis the last rose of summer, 夏の最後のバラLeft blooming alone, 一輪だけ咲いています。All her lovely companions 美しい仲間たちは全てAre faded and gone. 色あせて散ってしまいNo flow'r of her kindred 今は共に咲く花やNo rosebud is nigh 蕾も無くなってTo reflect back her blushes, 心のときめきやOr give sigh for sigh! ため息を交わすこともありません。I'll not leave thee, thou lone one, 私は君を一人にはしませんTo pine on the stern, 茎の上で枯れゆくままには、Since the lovely are sleeping, 美しい仲間も眠っているのですからGo, sleep thou with them. さあ一緒に眠ってください。Thus kindly I'll scatter やさしく君の葉を沢山Thy leaves o'er the bed, 君の寝床に撒いてあげましょうWhere thy mates of the garden 其処では、庭の仲間だった花もLie scentless and dead. 香りなく横たわっているのですから。日本ではバラの代わりに菊の花を主題にしていますが、明治時代にはそれ程バラが一般的に出回っていなかったのでしょうか?庭の千草庭の千草も 虫の音も枯れて 寂しく なりにけりああ 白菊 ああ 白菊ひとり おくれて 咲きにけり
2009.11.10
コメント(1)
昨日は曇りから晴れと言う天気予報でしたので、久しぶりに山中湖で富士を見るべく、午前9時から出掛けました。何時もは中央高速で談合坂でコーヒー休憩、大月から河口湖線、東富士自動車道を通るのですが、土曜日で込み合いますし、私の車にETC装備もしていませんので、無料の道志道を通ってゆっくり行くことにしました。到着は午前11時、東の方角は良く晴れていたのですが、残念ながら西方にある富士は雲に隠れて見えません。折角、来たのだからと車中で休憩、持参した蜜柑と薄皮饅頭を食しながら、雲間に見える富士を待ちました。1時間程して漸く、雲間から何とか頂上付近を表した富士山でしたが、太陽光線が少し逆光気味になりましたので、薄くしか撮影出来ませんでした。それでも、大きく見える富士山とは良いものです。これ以上は撮影条件が良くならないと諦めて、山中湖を後にして、山中湖村から道志村を抜けて帰宅することにしました。自宅に着きましたのは午後3時、久しぶりの道志道はジグザグが多くて運転に注意を要し、一寸草臥れました。
2009.11.08
コメント(0)
どうも一人で家にいると、家内の遺影に話しかけたりすることも多く、自閉症気味となります。家内もそんな姿は見たくないだろうし、却って「何処か行ってらっしゃい!」と言われている様な気がしましたので、朝8時半に家を出て、高尾山に行くことにしました。薬王院祈祷殿の駐車場に車を停め、ケーブルカー横から「稲荷山コース」を採り、登山することにしました。このコースは40分程で東に開けた四阿屋(あずまや)があり、東は新宿まで、北は西武ドームまで見渡せる展望台となっています。此処で、ポットの湯でコーヒーを入れて一休みをするのが通常でしたので、今日もそれに倣いました。高尾山は「紅葉祭り」最中なのですが、未だ絶好の紅葉狩りの季節ではありませんでした。恐怖の200段を登って山頂への到着は午前11時、所要時間は1時間半で、従来とあまり変わらず私の体力は落ちていなかった様です。山頂の紅葉は一部が紅くなっている程度で、2週間程尚早なのかと感じられましたが、其処でおにぎり1個、ペットボトルの冷茶、みかん2個で簡単な昼食、西には富士が見える筈なのですが雲に隠れて見えなかったのは残念でした。早々に下山、1号路から6号路へのバイパス最短コースを採って、祈祷殿の駐車場に帰って来ましたのは12時40分、往復3時間ですから、登山と言うよりハイキングでしかありません。標高600mの山ですから、当然と言えば当然ですが・・・慰霊登山となったか否かは、分かりませんが、今日は自閉症気味とならなかったことで良しと致しましょう。
2009.11.04
コメント(3)
登戸近くにある大きな堰、正式には二ヶ領宿河原堰と呼ばれるこの堰は多摩川最下流に位置するらしい。秋本番で、落ち鮎の季節なのでしょうか、多分小鷺と思われる白鷺が多数集まって狙っています。河川敷きでは、雑草の間からバッタも群れ飛び、昔馴染みの自然が感じられ、何か懐かしさを思い起こすことが出来ます。設計的には、固定部が洪水時に流れる水を阻害しないよう、起伏式5門、引上式1門の可動堰を装備し、魚道も3箇所あって、アユその他の魚の遡上にも配慮されています。多摩川が、1991年に「魚がのぼりやすい川づくり推進モデル事業」の第1号に指定されて結果、その様な設計が採用された様です。其処から取水される二ヶ領用水は本来の役割を終えていますが、今なお多摩川の水が供給され、両岸には桜並木が続き桜狩りの名所となっていて、憩いと安らぎを与える「環境用水」として活躍を続けています。
2009.10.16
コメント(0)
秩父長瀞には、緑色の緑泥片岩、灰色の絹雲母片岩、赤い紅廉(こうれん)片岩、等の種々変成岩が露出して見応えがあります。天気も良いので出掛けてみたい気分にもなりますが、家に寝たきりの病人がいますとなかなかそうも行きません。車椅子をトランクに入れてはあり、車載型酸素吸入器もあるのですが、途中のトイレ休憩・着いた先でも不自由があるのかと結局は諦めることが多い日常となります。10年以上も前には、ドライブ方々、訪問した際に拾って来た紅廉(こうれん)片岩が玄関先に転がっていましたので、今朝ほど一寸刷毛で綺麗にして写真を撮ってみました。紅廉片岩は紅廉石石英片岩とも言われ、白い石英片岩が筋状に入っているのが普通です。左は石英片岩が多くて赤色が目立ちませんが、右の方は石英部分が少なくて赤色が鮮明です。この紅廉片岩の大岩は長瀞の荒川河岸に突き出ていて、秩父赤壁として知られています。
2009.09.17
コメント(1)
これは産業廃棄物のコンクリート破片に見えますが、そうではありません。通称「さざれ石」とされる石灰質角礫岩で、神奈川県の水源「相模湖」の南に位置する石老山から、リュックに入れて持ち帰って来たものです。石老山には、大きなさざれ石と言いますかさざれ岩が点在していますが、石質が脆いことから一部が崩れたのでしょうか、トレッキング道には様々なさざれ石がごろごろしていますので、その小さな数点を登山記念にしようと思ったのです。日本国歌にも歌われている「さざれ石」ですが、一見すると、やはり産廃のコンクリート破片にしか見えません。さざれ石(細石)は、小さな石の欠片の集まりが炭酸カルシウム(CaCO3)などにより埋められ、1つの大きな石の塊に変化したもの。「石灰質角れき岩」とよばれる。石灰岩が雨水で溶解し、石灰質の作用により、小石がコンクリート状に凝結して固まってできる。日本では滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。石老山699mは相模湖の南にあり、約一時間で登頂出来ます。途中の大見晴台からの展望で相模湖、中央高速道が見ることが出来ます。
2009.09.09
コメント(1)
昨日は午後雨も上がり、青空もちらほら見えて来ましたので、菖蒲を見に薬師池公園に行ってみました。家内も家のベッドで寝たきりではストレスも溜まるだろうと、酸素ボンベを担いで、車椅子を押して気分転換を図ろうと思ったのです。土曜日にも拘わらず、未だ10日程早かった様で2分咲き程度でした所為なのでしょうか、訪問客も少なくのんびりと見物出来ました。それでも、午前中の雨で菖蒲田は活き活きしていましたので、出掛けて良かったと思います。薬師池公園では、一角の沢を、池の水を循環させて沢の上奥21番棚田から沢下1番田に流し落とす菖蒲田に整備し、水車小屋も再現し、日陰を確保する四阿・ベンチも設置していますので、ゆっくり散策し休憩しながら観賞出来ます。又、菖蒲田側面の林との間にも散策土道が設けられ、脇には各種の紫陽花が植栽されていますので、菖蒲と紫陽花を同時に愛でることが出来ます。この時期、説明テントが設営され、菖蒲(しょうぶ)、文目(あやめ)、杜若(かきつばた)の鉢植えと共に、特徴・見分け方が書かれています。菖蒲の江戸系・肥後系・伊勢系の説明もあり、江戸系は花弁3枚、肥後系は大輪で6弁、伊勢系は3弁・6弁が混在するとされていました。これは、「鷹の爪」と名板があった菖蒲、多分ピンクに斑の入った方がそうだろうと思われます。
2009.06.07
コメント(0)
昨日は、1年振りに町田えびね苑に行ってみました。電話して開花状況を聞きました処、エビネは満開、クマガイ草は見頃が過ぎてしまったと言うことでした。暗くなりがちな杉・檜木立を間引きし、下枝を落として、地面床には柔らかい日の光が差し込む様に整備されていて、その様な床に適するエビネが10万株植えられています。昨日は日差しが明るい場所にあるエビネは黄エビネを中心に咲いていましたし、その他のエビネも色とりどりに咲いていました。匂いの良いことで知られるタカネエビネは、鮮やかな色の対比も見事な花ですが、午後になると良い香りは薄れてしまうとのことでした。エビネ(Calanthe)は日本に自生する可憐な蘭の花で、花色は黄色、赤、白、桃色と多岐に亘り、花弁と唇弁の色の組み合わせで更に多彩となりますが、観賞用に乱獲され、絶滅危惧種に指定されているものもされているものもあります。日本のエビネは林の中の床土に息づいて群生して咲きますので、種々の色のエビネを一個所で鑑賞出来る特徴があります。苑内には高価なえびねもあって、盗掘して持ち帰る様な不心得者もいるとのことで、開苑時間も午前9時30分~午後4時までと短く、花の季節2週間が終わると閉苑してしまいます。加えて年々、監視員の姿勢が厳しくなっている様な気がしますが、落ち着かない時代の趨勢でしょうか?
2009.05.03
コメント(1)
昨日、登戸近くの多摩川の宿河原堰で特別採集隊が魚の調査をしていました。此処には多段カスケード式の魚道があって、鮎やウナギが上流に向かって遡上して行きますので、その調査だった様でした。魚道の上流側に仕掛けた網には、銀鱗を煌めかせた鮎が沢山見えましたが、その一部をバケツに入れ、スケールを当て体長を調べているのを見ていたのですが、殆どが60mm前後の稚魚でした。多摩川も一時は汚れが酷く、その汚れに対応できる鯉だけになったこともありましたが、近年奇麗になって、多くの種類の魚が戻ってきました。清流に住むヤマメ、昔から中流域に豊富だったウグイ、オイカワに加え、海岸付近からのボラ、ウナギの遡上もある様です。釣り人の憧れるアユ解禁には1ヶ月余もありますが、多摩川はもう既に初夏の気配でした。もう直ぐ、例年の様に鮎の大群が遡上して来るのだそうです。
2009.04.18
コメント(1)
登戸近くの多摩川河川敷に小さな稲荷神社があります。洪水の時は冠水してしまうのでは思うのですが、其処は河岸段丘の上段になっていることから免れる地形になっている様です。「正一位船島稲荷神社」となっていますので、小さいながらも由緒があるのかも知れません。ガイドマップに依ると、別名「沓稲荷」で、京都の伏見稲荷から分霊を受け、馬術発展と馬の健脚を祈願して、馬の藁沓を奉納したのが始まりだと言う。正一位と言うと神社の格が高い様ですが、全国の稲荷は全て正一位を名乗るのだそうです。稲荷神の総本社である伏見稲荷大社が正一位であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も正一位を名乗っており、「正一位」は稲荷神の異称のようになっている。多摩川の宿河原可動堰の近くにありますが、昨日は花見も終わり、夏日に近い暑さとなった所為か、殆ど訪れる人も見えませんでした。
2009.04.11
コメント(1)
例年、相模原市城山町にある「カタクリの里」には夫婦で訪れていたのですが、家内が入院中なので今年は一人で行くしかありません。今朝9時過ぎに家を来るまで出て、橋本を経由して1年振りの訪問です。カタクリ(片栗)は、桜のソメイヨシノより少し遅いとの感覚がありましたので、一寸早いかと思ったのですが、案に相違して花の盛りを過ぎていました。先週の寒さで、桜の開花が止まったのですが、カタクリは寒さにめげずに盛りを迎えてしまった様でした。それでも80%は満開状態で、群生している花々には見応えがあります。一眼レフを帯同して方に訊いてみましたら、「此処に5年以上通っているのですが、今年は盛りを過ぎて良い写真が撮れない」と嘆いていました。写真家とは、一瞬の撮影勝負なので、萎れた花が混在しているのは、生命力に陰りが見えて許せないのかも知れません片栗のピンク色の花は、今朝の晴天に映えて、花弁を折り返し、中央には特有の縞模様が見えて魅力的な花でした。午前中パソコンに取り込み、それらの朝撮れ画像をプリント、簡単なフォトフレームに入れ、午後1時の面会時間には今年は行けなかった入院中の家内に届けました。
2009.03.30
コメント(0)
家内の入院している病院は登戸駅から徒歩3分、多摩川の岸辺から遠くありません。川崎街道を南下し、矢野口から多摩沿線道路に入り、稲田堤・中野島を経て多摩水道橋を横切れば直ぐの処にありますので、毎日の様に車で通っています。稲田堤・布田堰付近の対岸は50年以上も前、中学校時代に魚釣りに来た処で、その頃終点だった京王多摩川駅から歩いて川の中で川虫を採り集めて、ハヤ釣りに興じた覚えがあり、懐かしく感じながら通っています。昨日は晴天で暖かい陽気に誘われ、病院から出て登戸付近の河川敷まで散歩してみました。3連休の人達も多いのか、河岸は散歩する家族、釣り糸を垂れる人達、浅瀬に入って水遊びをする若者等、思い思いに楽しんでいる様でした。此処も、幼児だった長男を連れ、先日亡くなった父に相伴して魚釣りに来た処でもありました。30年以上も昔は、河岸は草で覆われていて、それを掻き分け土の岸辺に出た覚えがありますが、砂利・岩が多い河川敷は当時の印象とは大分異なっていました。手前の橋は小田急線の線路橋、複々線となったことから一際大きくなりました。その向こうに見えるのが多摩水道橋、4車線への改造竣工から10年も経たない最新鋭のローゼ桁アーチ橋です。河岸整備と橋改造等の大規模工事で、すっかり河川敷の様子は変わっていましたので、30年以上も昔、父が選んだ場所で、父と私と我が長男が釣りに興じた場所は特定出来なくなりました。
2009.03.22
コメント(1)
東京オペラシティ2階オフィスロビーのエレベーターホール横には、3階迄吹き抜けとなっていて広い空間が広がっています。何も無い訳では無く、広場の中央にポツンと黒い人物像が立っているのです。3階から見下ろして撮影したのですが、丁度右側からエレベーターホールに行こうとする人がいますので、丁度等身大の大きさであることが分かります。アントニー・ゴームリーによる立像だそうですが、何か奇妙に存在感がある様に感じられます。裸で佇んでいる彫刻には、通行する人々は意識するものの、意識的にはなるべく目をあわさないようにしている様です。どうも作者自身の体を写し取ったと言われると一寸気味が悪くなりますので、当然そうなるのかも知れません。アントニー・ゴームリー(Antony Gormley、1950年~)は、イギリスの彫刻家。ゴームリーは、人体とは記憶と変化の「場所」であるとする、ラディカルな研究を通して、自分自身の体をモデルに・ツールに・素材に使って、彫刻における人間像に新しい生命を与えてきた。彼の作品は、人体を「物」としてではなく「場所」として扱おうとしていて、その制作過程は、全人類共通の条件を識別するために、個々の肉体の「場所」を取り囲むことにある。「作品は象徴ではなく印で、時間の中のリアルな肉体のリアルなイベントの痕跡」と言うことらしい。上野の西洋美術館にあるロダンの等身大の立像「青銅時代」も、製作時「実際の人間から型を取ったのではないか」との噂があった様ですが、それは真実ではありませんでした。
2009.01.12
コメント(0)
父に伴って、父の故郷を訪れたのは11年前のこととなり、遠い昔となりました。 龍光寺本殿 足利(喜連川)氏墓所父と住職が話をしていましたが、往時の画像は無く、Webで借用させて頂きました。龍光寺(りゅうこうじ):臨済宗円覚寺派の寺院、山号は慈雲山、本尊は釈迦如来。所在地:栃木県さくら市喜連川4317(旧塩谷郡喜連川町)源氏の嫡流足利氏(喜連川氏)の菩提寺。足利尊氏の開基による創建と伝えられ、当初は東勝寺と号し、尊氏と直義が全国に設置した安国寺の内、下野国安国寺に指定された。戦国時代、喜連川に入った足利頼氏が龍光院と改め、以後喜連川氏の菩提寺であったことから、藩主14代の墓地が整然と立ち並び、大名の廟所として風格を感じさせる。第二次大戦後の1953年(昭和28年)寺号が格下げとなり、現在の龍光寺と改められた。喜連川宿は奥州街道にあり、喜連川藩下、江戸から二十番目の宿場本陣町として、参勤交代の際にも利用され、それなりに栄えていた。それでも、源氏の嫡流足利氏(喜連川氏)の本拠地とは言え、僅か5000石の碌高では台所事情は苦しいものがあった様で、家臣も100名に満たなかったらしい。しかし、明治時代の東北本線敷設の際に、「岡蒸気」反対として線路・駅設置を拒否したことから、氏家からそのまま北上することとなり、地域開発の時代に遅れ、急速に寂れてしまった。結果として、那珂川沿いを散歩しても、草叢1m毎に、ヤマカガシ、青大将に出会う程、蛇の生息数の多い処として、濃い自然が残る日本の原風景が保たれました。しかし分からないもので、1981年町の起死回生を狙っての温泉掘削が行われ、質の良い温泉湧出に成功、一躍自然の残る周辺地でのリゾート開発が進展することになりました。
2009.01.04
コメント(0)
昨日は、午後2時頃、伊勢原から平塚に抜ける県道61号線をドライブしていました。ふと西を見ますと、畑の向こうに富士山が見えて来ました。冬の陽は傾くのが速いので、早くも西日となっていて半分シルエットとなりかけていましたが、この様な富士も綺麗なものと車を停めて撮影しました。やはり、年明けの正月に見る秀麗富士、空気も澄んでいて何とも良いものです。昨年末は不景気風が酷く辛い年明けとなりましたが、今年は何とか視界回復を目指し、難局打開が望まれる処です。
2009.01.03
コメント(3)
紅葉も見頃と思い、箱根に行って来ましたが、流石に名だたる景勝地、観光シーズン真っ盛りで、物凄い混雑でした。小田原厚木道路から車は長蛇の列で、国道1号線は大渋滞、のろのろ運転で芦ノ湖畔の元箱根に着きましたら、今度は駐車場が見つかりません。箱根関所跡まで行き過ぎて、ようやく恩賜箱根公園付属の駐車場に停めることが出来ました。久し振りに関所跡を見学後、箱根離宮跡に登り、芦ノ湖・箱根連山の向こうに富士山を見ました。雲一つ無い快晴なので風情に欠けますが、やはり天下の絶景でした。折角ですからと大涌谷に行ってみますと、此処も観光名所ですので、駐車待ちの車で又も長蛇の列となっていました。仕方無く諦めることにして、仙石原まで降り、其処の湿性園、近くススキが原を散策してみました。ススキは既に枯れススキとなっていて見頃は過ぎていたのですが、此処でも訪問客も多く、その人たちに交じって、名にし負う大群落を堪能することが出来ました。
2008.11.15
コメント(2)
町田ダリア園は11月3日で今年は閉園しますので、行ってみました。入園料は350円と昨年からは50円値上げとなっていましたが、「町田ダリア園」は、在住の花園芸家に町田市がハウス栽培園芸の障害者福祉作業所を兼ねて委託している民営公園ですし、全て値上げされていますので仕方がないのでしょう。さて、ダリアの季節は真夏の様な気がしますが、秋のダリアも立派なものです。閉園間際と言うことで、花が摘み取られてしまった株も多くありましたが、大輪のダリアもあって、未だ見ごたえは十分でした。花弁の中心が白く、先がピンクになっているダリアは華やかさの中に清楚さが感じられました。逆に、中心が深紅で花弁の先が白く斑が入っているものは、豪華に見えました。3mを超える高さで、樹木とも見える「皇帝ダリア」もありましたが、閉園後開花するとのことで一寸残念でした。どんな大輪が咲き出すのか見てみたいものです。しかし、町田ダリア園は如何せん敷地が狭いので散歩になりません。ダリア観賞後は、「薬師池公園」に行って園内散歩をするのがお勧めです。
2008.10.31
コメント(0)
昨日は絶好の天気でしたので、中央高速道から東富士自動車道経由で山中湖、忍野に行くことにしました。八王子から小仏トンネルまでは渋滞が酷く、30分程巻き込まれてしまいましたが、何とか午前10時には東富士自動車道に入り、雲も出て来ましたが未だ快晴、富士山を邪魔する程では無く、久しぶりに素晴らしい富士山を見ることが出来ました。山中湖では湖面は静かで、天空にそびえる秀峰でした。それでも、未だ午前10時半でしたので、折角ですからと北側に位置する忍野八海に移動してみました。少し北側になったことと、富士山にデジカメを向けてみますと、残念ながら少し逆光で姿が薄く見え、近影が邪魔して上手く撮影出来ませんでした。この時期、観光シーズンに入っているのか、続々と観光バスが来て、訪問客で一杯となりました。それでも忍野八海の内、富士山を見つつ3つの池を散策、山中湖に再度行って湖畔を一周し、帰途はゆっくり山道の道志道を通って帰りました。
2008.10.30
コメント(4)
3日続きの晴天と予想された2日目の昨日、久し振りに高尾山に行って来ました。車で往復する一番怠惰な方法を選び、10時に家を出発して高尾山参道を過ぎた甲州街道沿いにある薬王院祈祷殿に駐車させて貰いました。此処は駐車料金が500円と、他に比べて半額なのです。家内が数年来のぎっくり腰が高じて脊椎骨の一部が潰れ、私が6月にぎっくり腰を患ったことから、最短コースを至ってゆっくり登ることにしました。高尾病院を通り過ぎて登山コースとなりますが、此処は昔民家があって通過禁止となっていたことから、正式な登山コースとしては認知されていません。しかし、ケーブルカー山頂駅に行く最短コースとなります。通常は30分なのですが、何回も休みを入れ、1時間掛けてようやく1号路に合流しました。高尾山には、日本一の急勾配を誇るケーブルカーがあり、簡便に登れることから、自然を楽しむ行楽地として知られています。山頂から見る富士は日本百景に選定されていますし、中腹には薬王院があって修験の場でもあり、東海自然歩道の起点です。山腹一帯は「明治の森高尾国定公園」に指定され、キャンプやバーベキュー、植物採取、鳥類捕獲も禁止されていて、東京近郊にも拘わらず、豊富な自然が残されています。2007年には、ミシュランガイドで最高ランクの“三つ星”の観光地に選出されたことから、登山道の安全を確保する尾根沿いに鉄製手摺・ナイロンロープ等が多数装備されました。薬王院前の杉並木から見る八王子市中心街、驚く程の近さです。奥の院への長い階段を登り切り、山頂近くの遊歩道沿いにあった林に設置されてあったベンチで一休み、鍋(コッヘル)にインスタント塩ラーメンを入れ、プロパン・バーナーで沸騰調理し、駅前で買ったおにぎりと共に遅い昼食としました。インスタント・ラーメンは家で食べると美味しくないのですが、山の上では暖かさが貴重なのか美味しく食することが出来るのも不思議です。山頂駅付近では最大斜度31°の日本一の急勾配を誇る、ケーブルカーの線路沿線、紅葉には未だ1ヶ月以上も必要の様でした。
2008.10.04
コメント(1)
新宿駅西口前に地上50階の奇抜な形のビルが出現し、モード学園コクーンタワーと言うらしいのです。コクーン(Cocoon)と言えば「まゆ」の意、確かに蚕(かいこ)の繭(まゆ)を立てた様な形で、蚕の糸で外側が覆われているとも見えないこともありません。インターネット検索すると、次の様に紹介されています。モード学園コクーンタワーの完成は2008年10月、東京モード学園の新校舎で、東京モード学園と新たに開校するHAL東京、首都医校の三校が入ることになります。東京モード学園の現校舎も引き続き使用いたします。両校舎とも新宿駅西口から地下道を通って3~4分の好立地で、2009年4月に開校する予定です。HAL東京は4年制を中心としたIT・デジタルコンテンツ系の専門学校。ゲーム・アニメと言ったエンターテイメント分野、カーデザイン・CGといったデザイン分野、ロボット・自動車システムといったサイエンス・テクノロジー分野からITビジネスまで、ITをキーワードに幅広い分野をカバーしています。IBM・任天堂・マイクロソフト・日産自動車をはじめ、それぞれの分野で業界を代表する企業の強力なバックアップを受けた産学連携による実践教育が特徴です。首都医校は学生総数約7千名規模のメディカル総合学園です。チーム医療・福祉の時代に応じ、各学科などとも交流・連携しながらチーム医療に必要な学びを実践します。また東洋医療系学科を設置予定しており、「西洋医療と東洋医療の融合」といった複合的な学科編成になっております。いずれにしても、この東京モード(MODE)学園、HAL東京、首都医校(iKO)は4年制もあるとは言え、正式な大学扱いでは無い専門校ですから学士号取得も無く、教育助成補助金無しの純民間経営による職業訓練校の様です。教育は向学心に燃える若者世代に低価格で提供されなければならないものだと考えているのですが、教育事業は金儲けビジネス産業に変貌して来ている様にも思えてなりません。一等地に出現した巨大な専門学校、さぞ授業料が高いのではと心配しています。
2008.09.12
コメント(1)
東京日野市の高幡不動尊で6月1日から7月6日まで「アジサイ祭り」が開催されていましたので、行ってみました。此処はテレビでも紹介されるアジサイの名所となっていますので、一眼レフを抱えたカメラマンも多く、驚く程の混雑振りでした。山アジサイの小径もあり、珍しい品種には全て名札が付けられていましたが、全国津々浦々から山アジサイが集められている様です。又、高幡不動の境内には多数の出店もあり、全国種々の名産品なども売られていて、アジサイ祭りを盛り上げていました。 背景に見えるのは五重塔、アジサイは日本古来の花ですので、和風建築と良くマッチする様な気がします。
2008.06.30
コメント(0)
梅雨の時期、雨を吸ったアジサイの花々は一際奇麗に見えます。昨日は梅雨の中休みとなりましたので、あじさい祭りが行われている府中市の郷土の森博物館に行ってみました。6月一杯は楽しめるとのことでした。此処は梅の名所であり園内も広いので、アジサイの種類も多く、植栽されている数も多いのですが、それ程のボリューム感は感じられません。だがしかし、園内を散歩しつつ何処其処にゆったりと種類別に咲き乱れている様を見ることが出来るのは、却って良いのかも知れません。原種に近い「萼アジサイ」も種類が豊富で、珍しいものもあった様です。青色の萼アジサイ、普通はこれでしょうか?ピンク色の萼アジサイ、グラデーションも奇麗でした赤色の萼アジサイ、花弁数は少ないのですが見事な紅でした
2008.06.25
コメント(2)
薬師池公園では、一角の沢を、池の水を循環させて沢の上奥21番棚田から沢下1番田に流し落とす菖蒲田に整備し、水車小屋も再現し、日陰を確保する四阿・ベンチも設置していますので、ゆっくり散策し休憩しながら観賞出来ます。又、菖蒲田側面の林との間にも散策土道が設けられ、脇には各種の紫陽花が植栽されていますので、菖蒲と紫陽花を同時に愛でることが出来ます。この時期、説明テントが設営され、菖蒲(しょうぶ)、文目(あやめ)、杜若(かきつばた)の鉢植えと共に、特徴・見分け方が書かれています。菖蒲の江戸系・肥後系・伊勢系の説明もあり、江戸系は花弁3枚、肥後系は大輪で6弁、伊勢系は3弁・6弁が混在するとされていましたが、良く分かりません。この「八ヶ岳」と名板に書かれた菖蒲、3枚花弁ですので江戸系と推測するばかりで、区分けについての自信はありません。
2008.06.13
コメント(1)
昨日は雨も上がり晴天となりましたので、薬師池公園に行って菖蒲田の様子を確かめてみましたが、1週間ほど早かった様です。1週間ぶりの晴天を楽しむ家族連れの方々で結構混雑している中、ゆっくりと散歩していましたら、展示館前の芝生広場で、賑やかな祭りの音が聞こえて来ました。何事かと行ってみますと、「神龍会」の幟があり、大太鼓・小太鼓・横笛に合わせて、獅子舞が演じられていました。ストーリ性のある獅子舞で、面白いものでした。オカメ・ヒョットコが、手なずけた獅子を飼い犬然として連れて歩くのですが、その内に獅子が草臥れたのか、動かなくなります。するとヒョットコが棒で獅子を打ちすえ動くように促すのですが、横になったままで言うことを聞きません。小さな風船ボールを持ち出して、口に食わえさせて、その風船を割って脅かします。吃驚して立ち上がり、疲れているのにあんまりだと怒った獅子は、何とヒョットコに襲い掛かり、ヒョットコは平謝りに謝ります。「神龍会」は町田天満宮の氏子社中の皆さん、祭りを楽しむ有志の方々で賑やかに神輿を担ぐのを主目的として、結成されている様でした。「神龍会」幟の下には、白装束の神主さんがじっと立って、獅子舞踊りの様子を見ていました。図らずも久し振りに、祭りの気分を味わうことが出来たのは幸運なことでした。
2008.06.02
コメント(2)
昨日は中央区月島4丁目の「月島ハイツ」、江東区東陽町の「原木会館」に行く用事がありました。昔は下町と言われ、都バスを使わなければ行くのが難しかった地域が、地下鉄網の発達で驚くほど便利になっていて、ビジネス・リゾート地区への変貌していたのには吃驚してしまいました。京王線から都営新宿線、メトロ有楽町線と乗り継いで「月島」で降り、清澄通りを7~8分歩いて、漸く「月島ハイツ」に着きました。挨拶方々、「月島駅から遠いですね!」と言いましたら、相手をしてくれた人が怪訝な顔をしたのです。都営大江戸線「勝どき(鬨)」駅からは2分しか掛からないらしいのです。しばらく歓談し、昼食を一緒にした後、「東陽町に行くのにはバスで門前仲町に出てメトロ東西線に乗るのですか?」と聞きましたら、「都営大江戸線で門前仲町は勝どき駅から2駅目、途中は月島で、来られる時は一駅分歩いて来たのですよ!」と言うのです。教えられた通りにすると、所要時間も短く、あっという間に「東陽町」に着きました。駅前東西を走る「永代通り」は、昔から交通の混雑する様子は変わりませんが、通りには高いビルが多々あって小奇麗なビジネス街に見えて、下町的な様子はなくなりました。南北を走る「四つ目通り」の北側には江東区役所もあり小奇麗に変貌していましたし、原木会館前にはビジネスホテルもオープンしていて確実にビジネス街に変貌中の様でした。原木会館内で所定の用事を済ませ、勤務時間後「アフターファイブ」として小さなビールパーティを楽しませて頂きましたが、昔はよく知っていたと思われた地域については、全く地理不案内の「今浦島」状態であることが分かりました。15~20年昔は、江東区は工場地帯・ごみ埋め立て地として知られていたのですが、今や確実にアクセス便利なビジネス・リゾート地区へ変貌しています。嘗て知っていた筈の街並みが、あまり変貌を遂げた場合は、トーマス・マンの言う「トニオ・クレーゲル的徘徊」も適わないものだと思いながら、帰宅することとなりました。
2008.05.24
コメント(0)
例年はNHK大河ドラマを殆ど見ないのですが、今年は3月に鹿児島に行った所為か、此処2ヶ月程「篤姫(あつひめ)」を楽しみつつ見ています。彼女の実家は今和泉島津家、その屋敷跡は薩摩今和泉駅から徒歩10分ほどで行ける場所にあるとされるのですが、その敷地は今和泉小学校となって跡形もありませんでした。藩主の代役を務める筆頭格の名家だったそうですが、時代の荒波に呑込まれてしまったのでしょうか、松原・海岸に沿う石垣等が寂しく残っているだけで、其処には次の様な説明板が建てられていました。今和泉小学校は、今和泉島津家の屋敷があった処です。その領地は今和泉郷と呼ばれ、現在の岩本・小牧・新西方の一部・池田・仙田からなり、1万5千石の石高がありました。今和泉島津家第5代忠剛(ただたけ)の娘一子(かつこ)は、嘉永6年(1853年)に第11代薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の養女になり、名を篤姫(あつひめ)に改めました。そして、安政3年(1856年)、第13代将軍徳川家定(いえさだ)に嫁ぎ、家定が亡くなった後は、天璋院(てんしょういん)と名乗り、幕末から明治の動乱の時期に、徳川家の存続に尽力しました。現在、当時をしのばせるものとして、今和泉家伝来の手水鉢や井戸、隼人松原や領主仮屋跡の石垣が残っています。 「指宿市教育委員会」しかし、此れも大河ブームにあやかって、今年に急遽整備されたものの様でした。天璋院篤姫が擁立する予定だったにも拘わらず、徳川家最後の15代将軍慶喜とは仲が悪かったことが影響してか、歴史に埋もれてしまい地元でも長らく忘れ去られていた様でした。
2008.05.12
コメント(1)
帝国ホテル4階の窓から、日比谷公会堂が見えました。生憎、今日は雨天から曇り空の天候の所為か、特有の赤煉瓦がくすんでしまって映えないのが残念でした。都会のオアシスとされる「日比谷公園」の一角にありますが、園内の木々も大きくなり、周囲のビル群も高層化されていますので、緑とビルの中に埋没してしまっている感がありました。日比谷公会堂は1922年コンペ当選者であった佐藤功一氏の設計になるもので、客席2700をもつわが国初の本格的ホールとして計画され、1929年に竣工した。当初はルネッサンススタイルの計画だったのだが、関東大震災による中断を挟んで周囲の調和なども考慮しネオゴシック風に変更したと言うことです。嘗て、東京唯一のコンサートホールとしてプロ・オーケストラの演奏会やリサイタルも多く開かれましたが、東京文化会館を皮切りにNHKホール、昭和女子大学人見記念講堂、サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホールと言ったコンサート専用ホールや多目的ホールが整備されるに従い、コンサートホールとしての地位は低下して、講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会はほとんど開催されなくなっている。1960年代には、コンサートが東京文化会館で行われると嬉しく、日比谷公会堂では少しがっかりとしつつも音楽会に出掛けて行った記憶が蘇って、懐かしくなりました。4階建てのビルですので時計台も目の高さに見えましたが、相変わらず正確な時刻を刻んでいる様でした。この時計台を持つ煉瓦造りのビルディングは数がすっかり少なくなり、東京都の歴史的建造物に指定されているのも分かるような気がします。その向こうに見える円筒状の屋根はプレスセンター、昔は特異な形状で目立つビルディングでしたが、こちらもビルの中に埋没し目立たなくなりました。それでもプレスセンターでは、今尚、外人記者クラブ会見等も多々あって、その存在感は失われていない様ですが、こちらも6年程ご無沙汰です。
2008.05.02
コメント(1)
昨日は午後から晴天となり、1年振りに町田えびね苑に行ってみることにしました。電話して開花状況を聞きました処、エビネは6分咲き程度、クマガイ草が見頃だと言うことした。暗くなりがちな杉・檜木立を間引きし、下枝を落として、地面床には柔らかい日の光が差し込む様に整備されていて、その様な床に適するエビネが10万株植えられています。昨日は日差しが明るい場所にあるエビネは黄エビネを中心に咲いていましたし、その他のエビネも色とりどりに咲きだしていました。匂いの良いことで知られるタカネエビネは、鮮やかな色の対比も見事な花ですが、午後になると良い香りは薄れてしまうとのことでした。エビネ(Calanthe)は日本に自生する可憐な蘭の花で、花色は黄色、赤、白、桃色と多岐に亘り、花弁と唇弁の色の組み合わせで更に多彩となりますが、観賞用に乱獲され、絶滅危惧種に指定されているものもされているものもあります。日本のエビネは林の中の床土に息づいて群生して咲きますので、種々の色のエビネを一個所で鑑賞出来る特徴があります。クマガイソウは満開状態、年々その数を増やしている様でした。苑内には高価なえびねもあって、盗掘して持ち帰る様な不心得者もいるとのことで、開苑時間も午前9時30分~午後4時までと短く、花の季節2週間が終わると閉苑してしまいます。
2008.04.29
コメント(1)
高尾山には、日本一の急勾配を誇るケーブルカー・リフトがあり、簡便に上ることが出来ることから、自然を楽しむ行楽地として知られています。山頂から見る富士は壮大で日本百景に選定されていますし、中腹には薬王院があって修験の場でもあり、東海自然歩道の起点であります。山腹一帯は「明治の森高尾国定公園」に指定され、キャンプやバーベキュー等、又植物採取、鳥類捕獲も禁止されていることから、東京近郊にも拘わらず、豊富な自然が残されています。2007年には、ミシュランガイドで最高ランクの“三つ星”の観光地に選出されたことから、登山道の安全を確保する尾根沿いに鉄製手摺・ナイロンロープ等が多数装備されました。高尾山周辺はスギ・ヒノキも多く植栽されていて、スギ花粉の発生源ともなっているのですが、登山道近傍では、放置されたままで暗かった杉林の下枝が伐採されて明るくなり、陽光が差し込む様になりました。今は丁度、スミレの季節で沢山咲き乱れていましたが、多くは丸葉のタチツボスミレ、一番生命力が強い様で、エイザンスミレ、高尾スミレは滅多に見つかりません。そんな中、青い可愛い花が群生して咲いているのを見つけましたので、写真撮影して自宅で「高尾山の野花」でネット検索しましたら、ヤマルリ(山瑠璃)草と言うことが分かりました。
2008.04.24
コメント(1)
先週の土曜日、薬師池公園に行きましたら、無料駐車場に、沢山の「町田牡丹園」の幟が立ててありました。町田牡丹園は、例年4月中旬からゴールデンウィーク迄は、牡丹が咲き誇って有料となりますが、今年もその時期になった様です。駐車場には誘導係員の方もおられましたので、開花状況を聞きましたら、「今年は開花が遅れて、本日は未だ無料です!」とのことでした。折角ですからと、早速行って見ましたら、開花状況は10%程度で一寸寂しく、急遽世話係の方々が「無料」との判断をした様でした。ベンチ・腰掛けには、緋毛氈が掛けられて、訪問客を迎え入れる準備が整えられていましたが、如何せん開花数が少なく、観賞に訪れる方々も疎らでした。多分、インターネット等で開花状況がチェックし、未だ早過ぎると、訪問を控えているのでしょう!それでも、早生の種は、綺麗な姿を見せてくれていましたが、やはり「見頃は、有料になる思われる今週末からではないか?」と思われました。
2008.04.14
コメント(0)
桜島は今尚旺盛な噴火活動を続ける活火山で、1955年から数えただけでも、総爆発回数7700回を超え、放出される火山灰は多い年で推定2900 万トン(1985年)に達するらしい。近年の大噴火は1914年が特筆されるもので、30億トンの溶岩流が、当時400mあった瀬戸海峡を横断し大隅半島と陸続きになったとされています。1914年爆発以前は、海岸から500m沖合に烏島と言う島があった。高さ20m、周囲200mの無人島であったが、桜島の中腹から流れ出た溶岩はこの烏島を溶岩の下20mに埋め込んでしまった。海を隔てた島が溶岩で埋もれてしまうと言う現象は、火山史上でも極めて珍しいものである。この出来事を永遠に記念する為、1951年石碑を建てたものである。烏島展望所は桜島港から約2kmの溶岩原に、桜島火山群と錦江湾を一望できる展望所として整備されていました。其処から見る桜島火山群、南岳から小さな白い噴煙が見られましたが、活動の動きは全く無く、平穏そのものなのです。展望所には「烏島この下に」と言う記念碑が建てられていましたが、如何に無人島だったとは言え、時として、自然の猛威・驚異は想像を超え、凄まじいものだと実感してしまいました。
2008.03.28
コメント(1)
仙巌園の磯山にある切り立った岩(巌)肌に刻まれている「千尋巌(せんじんがん)」3文字は、薩摩藩27代島津斉興が失業者救済の公共事業として、3ヶ月の日数と人員延べ3,900人を要して彫らせたものだそうです。岩の高さが約40mで刻まれた3文字全高が11m、1969年10月、150年振りにお化粧されて白い文字が浮かび上がって、実測では文字高さはそれぞれ3.3m、幅が「千」が2.2m、「尋」が2.3m、「巌」が2.6mと言うことの様です。滝廉太郎作曲で知られる「箱根八里」では「千仞(せんじん)の谷」と唄われ、尋(ひろ:6尺で約1.8m)の字は充てていませんし、通常「千尋」は訓読みで「ちひろ」と読ませています。此処仙巌園は、日本で初めて中国から移植されたとされる孟宗(もうそう)竹の「江南竹林」、曲がりくねった清流が庭を流れる「曲水の庭」、など中国風の造園を感じさせるものもありますので、中国文化にその命名の由来があるのかも知れません。
2008.03.27
コメント(0)
鹿児島市の西郷隆盛像は、中央公民館交差点、中央公園に面した通りの反対側に立っています。陸軍大将の軍服姿で、何とも無骨な感じがしますが、風貌・姿は此方の方が近いとの評もある様です。最も写真も肖像画も一切残っていないとのことですので、何とも言いかねますが・・高さは5.3mと上野の西郷像に比べて1.5倍とかなり大きくなっています。郷土の彫刻家「安藤照作」による銅像は、軍国主義が大いに闊歩した1937年の製作ですので、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、時代の趨勢からすれば、西郷の名誉回復という観点からも当然かも知れません。一方、上野公園にある西郷像は明治時代の重鎮彫刻家高村光雲の作で、高さは3.6m、5年の歳月を経て1898年完成、「西郷の特徴ある唇(人間的な魅力と情愛に弱い処が同居する様子)を表現し切れない」と苦しんだとされています。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「うちの主人はこんな人ではなかったですよ」と漏らしたらしいのですが、その意図は「亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀を弁えない人間ではない」と解説されている。西南戦争で朝敵となったことで反感を持つ政治家も多く、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられ、一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案されたとのことですが、如何にも気軽に「西郷さん」と挨拶出来る親しみ易さがあります。
2008.03.26
コメント(2)
全795件 (795件中 601-650件目)