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Back numberをラストに入れました。最近の日本でのコロナ急減少。良い傾向ではありますが、世界の情勢を見ると少し不気味ではあります。なぜ日本だけ? これから遅れて日本もまだ増加するのか?そんな時に新たなコロナの上陸。世界が驚愕して株価は暴落。注意する事に変わりはないが、気にしすぎたら生活が成り立たない。最も、除菌やマスクはもはや生活の一部となっている。マスクなどすでにファッション化して柄物はともかく、マスクピアスなども出ていて、順応の高さに驚く。若い人は特に環境の適応能力が高い。どんな時にも遊び心を捨てていない。良い傾向である。それに、慣れてしまえば元の生活の方が無防備で怖い事を思い知ったからね。さて、今回も日本編の続きです。計らずも、今回は日本の交易の話しが半分。禅文化まで辿り付くのに遠くから入り過ぎました。日本では平安から鎌倉時代の激動期に禅が伝わるのですが、それは中国が宋(そう)の時代です。当時の日宋の関係を見ていたらおもしろい事に気が付いたのです。武家政治に移行した期間にプライベート交易が増え、平家や足利家がその富を得ていたのです。何故だ?興味の深追いをして、交易自体の確認をしていたら飛鳥時代まで遡ってしまいました。遡ったのはシステムの確認でもあります。時代と共に輸出入の品は変わります。相手国の状態で交易自体も変化していきました。朝廷から武士に権勢が変わったから日本に輸入される品物もガラっと変わった? 増えたのです。もたらされる文化も上層から中層へと移った。武士の文化が禅を引き寄せたと言っても過言でないかもしれない。今回Part2は交易と禅の影響を受けた文化? の2本立ての予定でした。交易に時間を掛けすぎたのもありますが、最後に禅文化をチャチャと入れて終わらせるつもりが、チャチャと終わらせられなくなりました。禅を甘く見ていました。禅からもたらされた文化の深さ。あれもこれも載せたい。少し突っ込みたい。いつまでたっても終わりが見え無い。そんな訳で 分割させていただきました。つまりPart3 行きます (^^;)※ Part3 はなる早で仕上げる予定です。すでに半分できているので・・。写真ですが、今回は南禅寺三門と建仁寺の禅庭。他、五山禅寺のあちこちから引っ張っています。次回は相国寺の山外塔頭金閣と銀閣の庭。禅庭に関しては(訂正)天龍寺と南禅寺を考えています。結構写真はあるのです。「アジアと欧州を結ぶ交易路 15」を待っている方申しわけありません。年内は無理です。やる気にならないと書けない部分もあるので・・。京都五山のPart3 を出して、年越か正月に何かショート物が出せれば良いのですが・・。そんなわけで (*_ _)人ゴメンナサイ京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡おまけ 新羅との交易遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)平家による宋(そう)とのプライベート貿易太宰府を排した独占的貿易で平家台頭なぜ公式の太宰府を避けたのか? 代用貨幣から貨幣経済へ日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ足利氏によるプライベートの貿易禅宗から生まれた文化建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園禅の心〇△□とは絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)南禅寺三門からの眺望 見えるのは京都盆地です。1778年、大坂角の芝居小屋で初演された歌舞伎狂言「楼門五三桐さんもんごさんのきり」「絶景かな、絶景かな。・・」は、芝居の中、南禅寺の山門の上から夕暮れ時の満開の桜を眺め、桜をめでた石川五右衛門(いしかわごえもん)の有名なセリフです。舞台でのセリフですが、実際ここがその脚本の絶景スポットなのです。「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と続く。実際の撮影ですが、前日に降った暴風雨で満開の桜は葉桜に代わってしまって残念でした。三門を反対から見た所です。見えるテラスからの景色です。天気が微妙でかなり明るくしています。南禅寺は京都盆地の東に位置しているので盆地の向こうに見えるのは嵐山方面です。真裏に法堂が見えます。そもそも法堂の山門ですからねそう言えば、回廊が付いて一周回れる三門はここだけ? 前回紹介していますが、高さ22m。三門自体は東福寺と同じ高さですが、こちらの方が見晴らしは良い。海抜も高いのでは? 第90代、亀山天皇(1249年~1305年)(在位:1260年~1274年)が1289年、出家して法皇となり1291年、南禅寺を開山。五山の中で南禅寺が別格なのは亀山天皇の勅願に寄る所らしい。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が広まったと言われるが、その実、出家しても好色ぶりは変わらなかったと言う。亀山上皇時代には元寇の来襲などもあった。野心家で、兄の後深草天皇を差し置いて皇位継承した事から亀山系の南朝と後深草系の北朝(持明院統)と言う皇統の分裂を招いた。南北朝動乱の元凶がここ。何度か消失し、現在の法堂は1909年の再建。水路閣が方丈の裏庭を通っています。南禅寺と言えば、石川五右衛門の句で有名な三門ですが、それ以上に有名なのが水路閣(すいろかく)と呼ばれる水道橋です。京都ものの推理サスペンスでは出ない事が無いと言えるほど出てくる水路閣は、南禅寺の敷地内を通過しています。以前水路閣については書いています。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)方丈の禅庭については後半に・・。宋との交易を調べていてここまで遡(さかのぼ)りました (^o^; 公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)の名前くらいは記憶に残っていると思いますが、これが正式に確認できる日本の最初の公式の外交使節団です。※ 遣(けん)とは訓読みで「つかわす」。遣隋使は「随に送った使者」の意です。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に日本の正式な外交使節団として、隣の大国である随(ずい)(581年~618年)の第2代皇帝の煬帝(ようてい)(在位:604年~618年)に両国間の国交を開く為に派遣された使者です。※ 推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。遣唐使出港の想像図(難波宮) 大阪歴史博物館のパネルから前期難波宮は第36代、孝徳天皇(こうとくてんのう)(596年(推古天皇4年)~654年)が造営したとされる。ここで、百済からの外交使節なども受け入れていた。難波宮は初期の日本の外交窓口でもあった。件の遣隋使や遣唐使船はここ難波宮から瀬戸内海を通り大陸に向かった。奈良の都の者らもここまで見送りに来ていた? 外交使節の為の宿泊所もあったらしい。前期難波宮は686年、大蔵省の失火から全焼。後期難波宮は726年、第45代、聖武天皇(701年~756年)が再建を指示。732年完成。平城京の副都と位置づけされたらしいが・・。都の再建は聖武天皇(701年~756年)の御代、735年~737年に天然痘が流行した事によると思われる。以前「四天王寺庚申堂」の所でも書いているのだが、後期難波宮(大阪の宮)の建設などは、飛鳥に居られなかった切迫した状況があったからだと考えられる。実際どの程度使用されていたのかは解らない。難波宮廃止と長岡京遷都は同時に決められたらしい。桓武天皇(737年~806年)は平城京でなく、難波宮を長岡京(784年~794年)に移築。難波宮は784年に解体され消えた。しかし結局、長岡京も都があったのは10年ほど。794年には平安京に遷都されている。難波宮は、大阪湾に面した上町台地にあった。それは奈良の都に繋がる旧大和川の河口にある。下は大阪歴史博物館のパネルから。埋め立てが進み、現在とはかなり地形が異なってますが、およそ現在の大阪城跡南の所。大阪歴史博物館は難波宮(なんばぐう)の史跡の上に建っている。※ 地下の史跡見学ツアーがあります。下は小学館の「日本歴史館」の挿絵から借りました。東シナ海を渡るのは危険を伴う航海です。新羅(しらぎ)との関係が悪化した時は東シナ海を南路渡ったらしいが、大陸側まで寄港地が無い。長期の航海となり、また食糧なども多く積む為に船の大型化も図られたらしいが、考えたらこれはガレー帆船。長くはこげないので帆に頼る所も多かったと思われるが造船能力も低く季節風など航海技術も乏しい。3割の船は難破したと言う。その為に一気に沈まないよう船の設計も考えられたらしいけど・・。時間かせいでも泳げなければ・・。下も小学館の「日本歴史館」の挿絵から遣唐使船復元図全長25m。最大幅9.7m。120~140人乗り。この設計で復元船の実物が造られている。楠(くすのき)が主で杉、檜(ひのき)、松も使われた。船底を隔壁(かくへき)で区切ってブロック割にし、一気に沈まないよう対策されたらしい。タイタニック船の沈没を思い出した遣隋使や遣唐使に選ばれる事は名誉な事であるけれど、命がけだったわけで、無事に帰国出来た者が成功者になれたのですね。大阪歴史博物館の宮中フィギュア(宮中の侍従達)です。ところで、大陸側(随や唐など)から見ると、皇帝に対して周辺国の君主が認めてもらう為に貢物(みつぎもの)を持ってやって来る朝貢使(ちょうこうし)に捉えられるようだ。が、実際、朝貢を受けた大陸側(随や唐など)は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜(かし)する為に貢物を献上する側の方が(土産が多く)お得となっている。※ 返礼もあるので大陸側も、何者でも朝貢を認めた訳ではなかった。話しは戻って、有名な「日出ずる処の天子・・」の書き出しで始まった失礼な? 文面であったが、煬帝(ようてい)はこれを認めてくれた。間違いなく国のトップからの使者と理解したからだろう。国のトップ同士が話しを付け、この時(第一回は600年)、正式に国交を結んだ? 開かれた? のである。遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化日本は仏教の輸入が当初の目的であったが、同時に大陸の先進的な技術や文化、政治に至るあらゆる物を学び持ちかえったのである。これは唐の時代になっても同じく遣唐使船には僧侶だけでなく、文官や政務官など多くの留学生が同行し、あらゆる物を学び、吸収して帰国した。※ 仏教に至っては、派がすでに複数誕生しているので、誰に師事するか? もあったろうし、流行の派(最先端の仏教)は重視されたかもしれない。また、彼らの帰国時には経典のみならず、書や暦、陶磁器などすぐれた文化の名品も持ち帰っている。実際、遣隋使や遣唐使の帰国時には皇帝から天皇へのたくさんの土産が持たされたはずだ。※ それらは奈良の正倉院に現在も宝物として残されている。つまり遣隋使と遣唐使は単に交易を目的としたものではなく、彼らが持ち帰ったのは国交によってもたらされた文化というお宝だったと言う事だ。遣唐使船はただの交易船では無かったと言う事でもある。日本からしたら、実際に正倉院にある「ササン朝の切子グラス(6~7世紀頃)」など遠くペルシャからもたらされた古代ローマン・グラスはあこがれ以上の眩しい文化だったろうと思う。※ 古代ガラスについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード※ 仏教の伝来については、「倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の中、「仏教の伝播」・「日本へのルート」・「日本への伝来」 で多少書いています。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)当時、70の周辺各国が唐に朝貢使(ちょうこうし)を送る関係が合ったとされる中、朝貢関連の国との取引もむしろ唐に派遣した遣唐使(630年~894年)よりも多くあった。遣渤海使(けんぼっかいし) (728年~818年) 輸出 (絹、絁(あしぎぬ)、糸、水銀、椿油、漆など) 輸入(毛皮、昆布、朝鮮人参、日干し、蜜など)遣新羅使(けんしらぎし) (668年~836年) 輸出 (金、絹、絁(あしぎぬ)、錦、真綿、美濃絁) 輸入(佐波利製食器(金属食器)、朝鮮人参、絨毯、香辛料など)遣唐使らの航路図資料は小学館の日本の歴史(上)から借りました。遣唐使は公式な外交船。だから難波宮から出港していた。遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡唐(とう) 618年~907年該当する日本の時代は、飛鳥時代から平安の中頃まで飛鳥時代 592年 ~ 710年奈良時代 710年 ~ 794年平安時代 794年 ~ 1185年日本と唐の関係は当初良行であったが、同時に日本は朝鮮半島の百済(くだら)とも300年に及ぶ強固な同盟関係を持っていた。※ 当時朝鮮半島には日本の統治領もあった? 「朝鮮半島の倭人について」は、「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」で触れています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)朝鮮半島で起きた動乱で百済(くだら)は唐や新羅と敵対し戦争(白村江の戦い)になった事から、日本は百済側に付き参戦。それ故日本も唐や新羅と敵対関係になり遣唐使は一時停止された。※ 白村江(はくすきのえ)の戦いについても「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」の中、「百済の最後、白村江の戦い」で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)以降に遣唐使は再開される。しかし。894年、菅原道真の建議により再び遣唐使は停止された。国内の災害や唐の衰退などが要因であったようだ。そうした事からその間、日本の朝廷は許可なく異国に渡ることを禁じた渡航制限と、唐や宋などの商船の来航制限をもうける措置をとったらしい。停止から13年、唐は907年に滅亡した。結局、遣唐使は再開されないまま終わった。つまり、ここに公式の外交使節団は終ったのである。次代の宋(そう)の成立には間がある。※ 唐以降の変遷 唐(とう)→宋(そう)→明(みん)おまけ 新羅との交易新羅(しらぎ) BC前57年~935年※ 7世紀中盤(三国時代)・・新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立(ていりつ)※ 668年~900年(統一新羅時代)・・朝鮮半島唯一の国家新羅の時代※ 10世紀(後三国時代)・・新羅が分烈、後高句麗と後百済の再び3国に。新羅の商人もかなり日本に来ている。白村江の戦い(663年)以後、668年以降に日本は遣新羅使を派遣し国交回復?以降の天皇は親新羅政策をとったが8世紀の終わりに新羅の内乱が勃発。多数の難民が日本列島へ亡命し帰化申請する事態が発生。翌780年に公式の遣新羅使は停止されたが、民間レベルの交易はやはり残ったらしい。※ 韓国の国立中央博物館で新羅時代の日本への航路図を見た。朝鮮半島から新潟に航路を取って新羅の商人も頻繁に日本に来ていた事を示していた。彼らは日本(新潟の糸魚川)で産出される翡翠を欲っしていた。華々しい黄金文化で栄えた新羅(韓国)では、勾玉(まがたま)として翡翠は必需。しかし、絶対的に需要はあるが自国で産出できなかったからだ。大陸側にとって、日本の翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、真珠(しんじゅ)はまさに宝玉であった。遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)宋(そう) 960年~1279年※ 960年 ~ 1127年 (北宋)※ 1127年 ~ 1279年 (南宋)該当する日本の時代平安時代 794年 ~ 1185年 (平氏政権 1167年 ~ 1185年)鎌倉時代 1185年 ~1333年※ 栄西(1141年~1215年)、臨済宗(りんざいしゅう)を1191年宋より持ちかえる。※ 道元(1200年~1253年)、曹洞宗(そうとうしゅう)を1226年宋より持ちかえる。唐が滅んだ後、当然次の宋(そう)との間で国交が交わされ、遣宋使(けんそうし)が派遣されると思うところだが、実際、交易は行われていたが、それが遣隋使や遣唐使の時のような皇帝と天皇による国際的な国交か? と言うとそのクラスではなかったと思う。単なる民間の交易を認めただけ・・と言うレベルに思う。1401年の遣明使(けんみんし)にしても、幕府の使者よる派遣で朝廷による使者ではなかった。先に触れたが、朝貢(ちょうこう)受ける側も相手を選ぶ。相手は国のトップである天皇でなければならない。宋と明の交易は単に交易を認めただけのレベルで、朝貢(ちょうこう)にレベルがあったとするなら、極めて低いレベル。明との交易では勘合札まで持たされているのだ。遣隋使や遣唐使の時のような最上級の国交とは決して言え無かったと言える。そう言う意味では遣唐使レベルの国交は以降、無かったと言えるのではないか?遣宋使船の復元模型図であるが、船を見れば一目。一般の船である。こちらも小学館の「日本歴史館」の挿絵から。いらない部分を落として若干修正して出しています。平家による宋(そう)とのプライベート貿易大陸との間に全く交流が無かったわけではない。民間レベルの交易は常に存在していた。むしろ宋代になると唐以上に日本に来航する商人が増え貿易は活発化する。お互いに欲しい物があったと言う事だろう。遣隋使や遣唐使と異なるのは、その交易の窓口が確実に北九州博多に移動した事だ。正式な遣隋使や遣唐使なら宮中まで来なければならない。基本は私貿易なので宮中にあいさつする必要はなかったが、朝廷による検閲は行われた。検閲の間に商人が暮らす商館もできたし、11世紀中頃には宋商人の集まった街まで出来ている。中世の博多は交易窓口として大いに栄える事になる。また、南宋に渡る日本船も年間40~50艘(そう)あったらしい。輸出 (砂金、銀、水銀、硫黄(いおう)、阿久夜玉(アコヤ真珠)、夜久貝、琥珀、水精(水晶)、象眼、緋襟、鷲羽)輸入 (沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)、衣比(えび)、丁子(ちょうじ)、綾、錦、羅(うすもの)、穀(こめ)、呉竹、甘竹、吹玉、銅銭、陶磁器、薬、書物など)※ 沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)は香(こう)の材料です。香道(こうどう)と言う文化があるが、貴族は着物に香をたきしめるのがオシャレとされたから? 香の原料の輸入が多い?一方、宋の側は日本の金や宝玉などが多いが、特筆するのは硫黄(いおう)である。宋代になると硫黄(いおう)の量が特に増していると言う。どうも火薬の材料になっているらしい。つまり、火薬を使う兵器の発達による需要だろう。そう言えば、鉄炮伝来の時に日本は硝石(しょうせき)を輸入していた。火縄銃の火薬の材料である。10世紀から13世紀、日本と中国の宋朝の間で日宋貿易(にっそうぼうえき)は民間レベルでは盛んに行われていた事が解る。この民間レベルの交易に目を付けて成功したのが平家なのである。平忠盛(1096年~1153年)は舶来物を院に献上して近臣となると、伊勢産の水銀などを輸出して利益を上げた。この宋との交易は平家の富を増し、財政基盤を造る事になる。太宰府を排した独占的貿易で平家台頭平忠盛は太宰府を排除して、日宋貿易の独占を図ろうともしたらしい。日本は古来より、防衛の意味でも交易の正式な窓口を北九州博多の太宰府(だざいふ)に設定していた。それ故、当初は太宰府だけでの取引であったが、それを嫌ったのはむしろ宋の商人の方だった? だから? それ以外の場所での密かな取引が横行していく。実際、太宰府を避けて宋の商人が博多や薩摩、越前まで来航していたと言うが、平家政権下(1167年 ~ 1185年)の日宋貿易では瀬戸内海の港も利用したらしい。これら手法で朝廷を介在させない民間レベルの交易がより増大? 平家による交易の独占が可能になった。なぜ公式の太宰府を避けたのか? その理由は、商船が到着すると官人が臨検(りんけん)を行い、交易に至るまでが時間がかかりやっかいであったからだ。来航理由、船員の氏名、積荷の確認をし官人がリストを造り京都に送った。京ではそれが朝議にかけられ天皇の親裁いかんで商人を追い返すか、滞在を許可して貿易を許可するかが決定された。この間1~2ヶ月を要した。あわよくば貿易が許可されたとしても、最初に朝廷が買い上げる品のリストが造られ、先物買いされた。残りが民間の貿易になるのだから、朝廷が欲しい積荷が優先で許可が出たはずだ。逆に興味の無い品には許可がなかなか出なかったかもしれない。しかも当時の日本は「絹を代用貨幣としていた」。つまり日本にはまだ貨幣経済が存在していなかったので朝廷の支払いは絹反(きぬたん)であったと思れる。物々交換にしても言い値にしても、取引はお互いが満足した物でなければならない。シルクロードで絹を商売にしている国である。宋の者に絹はいらなかったはずだ。何より、京都にお伺い立てる時間が惜しい。帰国も貿易風を待たなければならないとすると、滞在はより長くなる。それ故、朝廷との取引で不満が出たのは当然だろう。だから平家は朝廷を差し置いて、 私的な交易を行い宋の商人の欲しい物を提供し良い条件を提示して素早くビジネスしていた? 輸出入の市場を独占できたのだろうと推察する。代用貨幣から貨幣経済へ貨幣と言えば、708年に日本で鋳造発行された和同開珎(わどうかいちん)がある。また以降250年の間に十二種の貨幣(皇朝十二銭)が鋳造されているのだが、もともとの流通量が少なく、平城京と平安京の一部で多少出回ったものの? 貨幣として流通する事もなく958年を最後に廃止されたらしい。唐を真似て貨幣を鋳造したものの、そもそも原材料の銅は輸入にたよっていたので数も少なく流通しなかった。日本の市場で貨幣は時期尚早(じきしょうそう)。市中ではまだ物々交換の方が良かったのだろう。そんな中で朝廷じたいも絹を放出して現物に替えていた。つまり朝廷が代用貨幣として使用した物品貨幣は絹織物であったと言う事だ。当然、絹の相場に上下もあったので、宋銭が出回れば、必要の無い絹は余剰し、価値は下落した。平家は宋との交易を進展させると、仏具の材料として輸入していた銅製の宋銭(一文銭)を大量に輸入して国内で流通させようと考えたらしい。実際、絹よりも利便性の高い宋銭の流通は、朝廷が禁止しても進んだ。つまり実体経済で必要とされたのは宋銭だったから貨幣としての絹の需要は減り、絹の価値は下落。よって朝廷の収入は減少して行く。下は大阪造幣局博物館で撮影したものです。一方、宋銭を大量輸入した平家は財を増やし資金力で朝廷を圧倒。平家による政権の基盤となり、ここに武士の進出が始まった?※ 平清盛の地位が上がると共に平氏一門の官位も上がった。※ 1179年(治承3年)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。平清盛(1118年~1181年)と後白河法皇(1127年~1192年)との確執は宋銭の流通問題にもあったのだ。因みに、日宋貿易を半ば独占した平清盛(1118年~1181年)は、その富を政権基盤とし、娘である平 徳子(1155年~ 1214年)を入内(じゅだい)させ将来の天皇となる孫(高倉天皇と徳子の子)も誕生させた。清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言に昇進。栄華を極めるに至る。※ 高倉天皇(1161年~1181年)第80代天皇(在位: 1168年~1180年) 安德天皇(1178年~1185年)第81代天皇(在位: 1180年~1185年)誤算は高倉天皇の早世か? 後白河法皇との関係はより悪化。また清盛自身も突然の熱病で1181年に急死。話しは戻って・・絹を代用貨幣とした経済は源平合戦(1180年~1185年)以後も続いた。鎌倉時代に入ってようやく幕府は1226年に宋銭を認めたが朝廷が公式に認めるのはさらに4年後の1230年。また、源平合戦(1180年~1185年)以後は、公式ではなかったが鎌倉幕府(1185年~1333年)は民間の交易を認め、また唐や宋などの商船の来航制限を解除したらしい。互いに需要があったからだ。またこの時代に貿易船で大陸に留学する僧も増えている。※ 大陸側が政変で国が変わっても私貿易は続いている。因みに、銅の宋銭を輸入して日本での貨幣の流通を図っていた平家であるが、当の宋ではすでに紙幣経済が現れている。重い銅銭では取引に不都合で最初、手形が利用されるが、不当たりも出だした事から紙幣に移行したらしい。1215年、紙幣の価値維持で宋は銅銭の利用を禁止。それらは輸出に回された。※ 紙幣は手形から進化したものだった。日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ宋(そう)(960年~1279年)の後に日本が交易をするのは明(みん)であるが、実はこの間に元(げん)の国が存在する。「元寇(げんこう)の襲来」と、習ったはずだ。モンゴルから発した元(げん)は鎌倉時代に2度に渡り艦隊を組んで日本に襲来した異国の敵である。先に触れた亀山上皇時代に襲来している。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)※ 台風と言う神風で撃退したと習った記憶があったが、そうではなかったらしい。しっかり上陸され戦闘が行われている。明(みん) 1368年~1644年該当する日本の時代室町時代 1336年 ~ 1573年 (南北朝時代 1337年 ~ 1392年)(戦国時代 応仁の乱 1467年 ~ 1590年)安土桃山時代 1573年 ~ 1603年江戸時代 1603年 ~ 1868年足利氏によるプライベートの貿易平家だけではない。室町幕府を開いた足利氏も私交易を行っている。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)は1401年に明との交易を開こうと試みた。実は在職中の交易ではない。なぜなら、明側は天皇の臣下(幕府)との公式の通商を拒否したので義満は出家して一個人として民間レベルで明と交易をする事になったからだ。なぜ個人が?遣明船は幕府が送ったが、将軍ごときでは相手にされなかったらしい。国を代表する天皇クラスでなければ取引はしない? それが明の意向だった? ただし民間レベルの渡航は認めたのだろう。そう考えると勘合札(かんごうふだ)などと言う証票(しょうひょう)が必要だった理由も解せる。遣明船だったらあり得ないからね。それ故、室町幕府が交易していたのではなく、当初は足利義満個人が明との独占的な交易を行い、結果的に足利家の富を築く事になる。それは宋と平家との貿易に非常に似ている。異なるのは足利家から征夷大将軍が出ているので政情も安定していた事だろう。プライベートなのだからお金は自由に使えた。だから芸術にお金を贅沢に使う事ができたとも言える。将軍の立ち位置では正式に国交が結べない。これはもしかしたら鎌倉幕府も室町幕府と同じ理由で国交が結べず、民間レベルの貿易しかできなかったのではないか? と考察もできる。※ 鎌倉時代は元寇の襲撃があり大陸側も安定していなかったが・・。また、それらを踏まえると、かつて「日出ずる処の天子・・」の書き出しで隋(ずい)に送られた書簡は、やはり「この国のトップが挨拶している」と言う事を相手側に明確に知らしめた一文であった。つまり、隋も、唐も、宋も明の皇帝も、日本のトップとしか国交はしないよ。とい言う態(たい)だったと言う事だ。そう言う意味で日本は希望したが、遣宋使も遣明使も成立しなかったと考えられる。最も公式は無くても、現実に必要な貿易は行われていたから交流があったと言うのは事実。実際、留学を希望するの者らにとって渡航の道が開けた事の方が意義があったと思われる。先にも触れた臨済宗(りんざいしゅう)を輸入した栄西禅師(1141年~1215年)は1187年に宋に留学(2度目の宋への渡航)。1191年宋より帰国。これは平清盛の時代に宋に渡っているので平家の貿易船? で渡航していると思われるが勉学して戻ってくる時、平家は没落していた。※ 俗に源平合戦と呼ばれる「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱」は平家政権に対する反乱で、敵対していた後白河法皇を源頼政がバックアップして 平氏 vs 源氏による戦闘が始まった。1180年から6年に渡る戦いは、最終的に1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が負け終焉。次代、鎌倉幕府は源氏による政権となった。栄西禅師が帰国した時は源氏の時代となっていたが、帰国してからは鎌倉幕府の庇護を受ける事ができたと言うわけだ。禅(Zen)が日本に入ってきた時はそんな時代の狭間だったのです。禅宗から生まれた文化京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が開花する。ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)した。また、禅僧が日本に持ち込んだのは信仰だけではない、帰国した僧らは禅の影響を受けた文化のみならず大陸でのあらゆる文化を持ち込み広めて行く事になる。建築、庭園、漢詩文、山水書画(水墨画、書道)の他、茶道、華道、武道、等「道」と付くものがたいていそうである。なぜなら「道」そのものが中国哲学上の用語となっていて、礼や義などを超越した真理とされている。つまり万物、広げれば宇宙まであらゆる終始に道は存在する。老子や荘子などの道家(どうか)や孔子などの儒家(じゅか)によって説かれ、あらゆる「道」に思想が形成されて行く。今は古武道と一括りされるが、剣術、柔術、槍術、弓術、砲術なども禅の浸透と共に技術が体系化されてまとめられ道が形作られた。前回も触れたが、茶を日本に持ち込み、文化より先に茶会に精神性を与えたのも禅寺院である。茶祖 建仁寺でとり行われる四頭茶会(よつがしらちゃかい)は現在の茶会と異なり、侍香(じこう)、供給(くきゅう)、提給(ていきゅう)、行者(あんじゃ)など多くの役割を僧、非僧により4人の正客を拝する物。※ 現在、茶祖栄西禅師御生誕讃法会で執り行なわれる四頭茶会では表千家、裏千家、(煎茶)花月庵の茶道家元らが顕彰(けんしょう)の奉仕をするそうだ。また、水墨画自体は唐代にはすでにあったが、山水書画と共に水墨画も武士らに好まれた。禅宗では、墨の濃淡で表現する絵に内面を読んだのだ。写実とは事なる、また色彩が無いだけにその濃淡は内面の深さを表現する。つまり目に見える物が全てではない。ある意味抽象だが、物の本質をそこに表現する絵師。また見る者は絵師の精神性をもそこから受け取る。絵の形を見ると言うよりは、それが訴えてくるイメージを受け取る?そうした水墨画は屋敷の屏風(びょうぶ)やふすま絵に描かれるようになり如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)、雪舟(せっしゅう)など相国寺からすぐれた絵師が輩出されている。建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園重文 海北友松 筆 雲龍図襖※ 海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533年~1615年) 安土桃山時代から江戸時代初期の絵師。海北派の始祖。枯山水 大雄苑(だいおうえん)大雄苑(だいおうえん)は1940年に造られた枯山水庭園。方丈の南に位置する。雲龍図襖のある部屋の前庭であり、見えるのは法堂。花頭窓(かとうまど)からの大雄苑(だいおうえん)花頭窓(かとうまど)は蓮の花弁を図案化した上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った禅宗様式の窓1940年に“植熊”加藤熊吉氏氏により作庭。白砂に苔と石を配した枯山水と言う様式である。石塔は織田有楽斎が兄(織田信長)の為に建てた供養塔。白砂に「うねり」と「渦紋」の文様が描かれた枯山水は大海を表しているようです。海北友松 筆 琴棋書画襖重文 山水図襖海北友松 筆潮音庭(ちょうおんてい小書院と大書院の間にある苔の美しい庭。三尊仏に見立てた三尊石が苔の美しい庭に置かれている。仏教の三尊仏になぞって組まれた「三尊石組(さんぞんいわぐみ)」は中央に大きな中尊石、左右に脇侍石(きょうじせき)を据えて構成。日本最古の庭園書「作庭記」にも記される石組みの基本の様式の一つ。仏教思想を反映した石組みは他に「須弥山石組(しゅみせんいしぐみ)」がある。禅の心〇△□とは〇△□乃庭(まるさんかくしかくのにわ)現代の小堀遠州とも称される北山安夫 氏、2006年に作庭。〇△□(まるさんかくしかく)を表現する庭。〇△□ は禅の心を表す図形。〇(円)・・・禅の思想やあらゆる生物、自然、宇宙全体を表現する時に描かれる〇(円)を一円相(いちえんそう)と呼ぶそうだ。また、円は切れていない。途切れず続く(循環する)ので絶対的な真理を表してもいるそうだ。△(三角)・・坐相 足を組んで座禅をしている姿勢を表現した形が△(三角)で、これを座相(ざそう)と呼ぶそうだ。禅には「非思量(ひしりょう)」と言う言葉がある。非思量(ひしりょう)は頭を空っぽにして心を無にすると言う状態を指す言葉らしい。逆に思量(しりょう)はあれこれ考え心が一杯になり視野も心も狭くなってしまった状態を指す。つまり追い詰められた状態が思量(しりょう)である。そんな時は座禅を組んで自我を解放しましょう・・と言う事で座禅する時は「非思量(ひしりょう)」で在らねばならない。□(四角)・・枠で囲まれた□(四角)は捕らわれた心を表しているそうだ。たいていの人は常識と言う枠の中で生きているが、それ故、悩みや苦しみも持っている。そんな枠から一歩踏み出す事で心が捕らわれから解放され、自由になれると言う。〇△□の意味を見て、□△〇のが解り易いのではないか? と思う。結局のところ、捕らわれた心を解放して坐禅を組み無の境地に至り真理を求める。と、言うのが〇△□(まるさんかくしかく)の意図(いと)するところだからだ。他の方の庭の説明に疑問があり、追求しました。庭の解釈も、まさに□四角の枠の中に渦紋の○円がありさらに島? ○円がある。植えられた木は座した人だと思う。白砂は海、あるいは宇宙であり、その中心に真理がある。真理の中心に植えられた木は真理に辿り付いた人? そんな解釈も出来る。Part3 につづく。禅を深掘りするつもりは無かったが、禅のもたらした文化の奧は深いからスルーできない部分もある。枯山水は石組みの意味がわかるともっと面白い。次回は庭園三昧です。ところで、「非思量(ひしりょう)」と言う言葉、私は知らなかった。これ禅用語でしょうね。仏教の方で聞いた事が無い。言葉の方が逆に難しい気がする。Back numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月11日
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Back numberをラストに入れました。禅(Zen)は、 サンスクリットのディヤーナ(dhyāna)の音写から派生した仏教用語らしい。※ ディヤーナ(dhyāna)=禅那(ぜんな)or禅定(ぜんじょう)このディヤーナは「心が動揺する事がなくなった一定の状態を意味」するそうだ。つまり無心に近い状態ですね。そして、このディヤーナの状態? この領域に達する為に様々な方法論が考えられた。つまり至る教えを説く為に禅宗(ぜんしゅう)が生まれたのだ。その方法の一つが坐った状態で精神統一を行う坐禅(ざぜん)と言う修行である。禅(Zen)は坐禅(ざぜん)の略か? と思いきや、本来は「禅宗(ぜんしゅう)」そのものの略称だった。坐禅(ざぜん)の手法も宗派で異なるようだが、要するに座してリラックスして瞑想(めいそう)を行い心を無心にする。ただ、瞑想と言ってもヨガなどの心身の健康を目的とするだけではなく、心身の静寂の上にさらに高次の悟りを導く修行にも使われている。何も考え無ければ良いと言うものではなく、心身をリセットしてゼロに持って行く事が重要?「もう一度考えて見たら?」と言う時に「心」だけでなく姿勢と言う「体」、深く瞑想する「技」を以て坐禅(ざぜん)に臨むのは有効な知恵かもしれない。宋で学んだ栄西により、禅宗は日本に伝えられた。禅は瞬く間に広がり、禅の精神から多数の文化が生じた。禅から派生した芸術はセレブによってそれぞれ形にされ、さらにそれらは昇華され、至高の域にまで達したのである。精神性までをその内に表現する至高の芸術。日本の伝統的文化は世界的に評価される芸術ばかり。そのほとんどが室町時代に完成された。総じて、質の高い芸術文化は、経済的背景と同時に安定と言う政情があってこそ誕生するのだと改めて思う。今回は、室町時代に最高峰の寺格として選ばれた禅寺の紹介です。当初、普通に写真を並べる予定でしたが、調べてみて驚いた。仏教自体は公式に国によって輸入されたけれど、禅宗は公式な輸入ではなかった? ようなのだ。予期せず、背景には国交と言う事情が出てきた。禅由来で文化も多数生まれているし・・。でも、そもそも禅宗とは何なのだ?シレっと通番を付けましたが、2回くらいで終わらせます。f^^*)京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師 風神雷神図京都五山(きょうとござん)とは?五山制度(ござんせいど)インド五山の伝え南宋版の五山の伝え鎌倉五山京都五山寺格のランク大乗仏教の一派 禅宗大乗仏教の学派と思想栄西禅師と臨済宗(りんざいしゅう)時の中央の武家政権に支持された臨済宗(りんざいしゅう)茶祖の寺建仁寺(けんにんじ)三門誰もが知っているのではないか? 上 風神(ふうじん)風神と雷神は千手観音(せんじゅかんのん)の眷属(けんぞく)だった。風神(ふうじん)は「風の神」。風を司(つかさど)る神です。風袋(かざぶくろ)から風を吹き出し風雨をもたらす。風雨は時に暴風となり、また川を氾濫させて農作物をダメにすることもある。そうならないよう鎮める為に? 適度な雨風で豊穣を期待して? 風の神が祀られるようになった。雷神(らいじん)は、「雷様(かみなりさま)」。雷を司(つかさど)る神です。雷神は、太鼓打ち鳴らして稲妻と雷鳴を引き起こす。こちらも雷を鎮める為に? 雷の神が祀られるようになったと思われる。ところで、菅原道真(すがわらのみちざね)公を天神としたのは怪異が続いた事から御霊として祀り天神としたのであって雷の神様になったわけではない。道真公の雷は怒りとして捉えられている。だから道真公の方は本来は魂を鎮める御霊信仰(ごりょうしんこう)から発している。下 雷神(らいじん)琳派(りんぱ)の絵師、俵屋宗達(たわらやそうたつ)筆の風神雷神(ふうじんらいじん)屏風画(びょうぶが)国宝。生没年不詳。桃山時代から江戸初期の絵師とされている。1570年代前後に誕生し、1600年~1630年代あたりで活躍。1642年以前には亡くなっていると推定。この風神雷神図は、寛永年間(1624年~1645年)中頃の作品で、1639年に妙光寺に奉納されている。それが後に建仁寺(けんにんじ)に寄贈された。つまり現在は建仁寺の所蔵作品なのである。一番のお宝ですね。縦154.5cm × 横169.8cm国宝なので本物は京都国立博物館に寄託されているので方丈で公開されている作品はレプリカである。それ故、撮影ができたのである。重要文化財や国宝など、特に紙物などは湿気を嫌い保存が難しい。また盗難の問題もあるので寺社などで公開されているものは、今やたいていレプリカとなっている。京都五山(きょうとござん)と山号(さんごう)京都五山(きょうとござん)は、京都にある5つの山ではありません。5つの寺を意味しています。それも選ばれた最高の格付けの5つの寺と言う意味なのです。寺には寺の名前である寺号(じごう)とは別に山号(さんごう)と言うものが付されている。寺のある山の名が付いている場合もあるが、全く山の無い平地の寺に付いていたりもする。※ 宗派で付けない所もある。寺の名前以外になぜ山号が? 山号は元々は寺格を現す称号だったそうです。遡る事、日本では鎌倉時代(1185年~1333年)以降に始まる。五山制度(ござんせいど)日本は中国にならって山号を付したのですが、その中国でも南宋(1127年~1279年)時代、第4代皇帝の寧宗(ねいそう)(1168年~1224年)が古代インドにあった初期仏教の5つの精舎(寺院)を模して中国版の「五山」を造ったと言われている。インド五山の伝えには諸説ありますが・・。インドの5精舎(しょうしゃ)を天竺五山(てんじくござん)or天竺五精舎(てんじくごしょうしゃ)と呼ぶ。鹿苑(鹿野苑)精舎・祇園精舎・大林精舎・竹林精舎・那蘭陀寺南宋版の五山の伝え径山・霊隠・天童・浄慈・育王これら5寺を「五山」として皇帝が庇護したのが由来とされている。日本では、鎌倉時代に幕府が臨済宗のトップとなる5寺を選んで「五山」の寺格を制定したのが最初とされ鎌倉五山が造られ、建武の新政(1333年~1336年)以降に京都五山が造られた。※ 鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇による親政時代が建武の新政。「五山」は「トップ5」と言う意味なのである。当然であるが、トップ5に入るか入らないか? は、寺にとって大きな問題である。幕府の絶対的支援が与えられるのだから・・。それ故、五山は時の権力者の思惑で変動した。鎌倉五山鎌倉にある五つの禅宗の寺院・・建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺京都五山1401年、足利義満の決定した五山(当時は相国寺が1位)以下は1410年に決定された最後? の五山。※ 順位も大切別 格 南禅寺 第1位 天龍寺 第2位 相国寺 ※山外塔頭に鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)第3位 建仁寺第4位 東福寺第5位 万寿寺後醍醐天皇が建武の新政をおこなっていた頃は大徳寺も京都五山に入っていたらしい。寺の規模、三門など見ても大きな寺なのに・・と思ったのだが・・。後醍醐天皇に敵対する室町幕府は大徳寺の寺格を十刹(じっせつ)の下方(9位)に落としたので離脱して在野となり独自路線を進んだらしい。それ故? 大徳寺は室町時代には部将や大商人、文化人などの比護を受けて戦国大名が菩提寺とする塔頭が多く並ぶ戦国大名御用達の寺となっている。※ 以前大徳寺は紹介しているが秀吉と因縁が深く信長の葬儀も行われた寺。大徳寺三門と千利休切腹の話しも書いています。切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)寺格のランクところで、寺格の格付けは五山以下もある。これもインド由来の五精舎十塔所(ごしょうじゃじゅっとうしょ)から由来。南宋版 五山・十刹(じっせつ)・甲刹(かつさつ)日本版 五山・十刹(じっせつ)・諸山(しょざん)・林下(りんか)※ 十刹(じっせつ)以下の成立は鎌倉時代末期が通説。十刹(じっせつ)・・五山に次ぎ、諸山の上に位置する寺。1380年、十刹に加えて準十刹6ヶ寺が定められる。1386年、京都十刹及び鎌倉十刹が定められる。1486年、十刹は46ヶ寺もある。諸山(しょざん)・・五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられた。原則、五山と同様に室町幕府の将軍御教書によって指定。が、制限が無かった為に多くの禅林に与えられた。林下(りんか)・・在野の寺院を指す呼称。五山十刹など幕府の庇護と統制下にあった一派に対し、林下はそれ以外。座禅修行に専心する厳しい禅風が特色。※ 日本では臨済宗の寺格で構成されていたので宗派変えから消える寺や、時の情勢でかなり寺の入れ替えがある。 山号は、寺のある山の名が付いたと書かれているのもあるが、分派が各地に建立され、同名の寺を仕分けする意味で山号が使用された事も確かにあるが、本来の発祥は寺格です。そして禅寺の場合、静かな里山に造られる事が多かったから山号は必須になったのかもしれない。京都五山の禅寺を京都の観光マップに示してみました。今回中心となる建仁寺(けんにんじ)は、京都最古の禅寺です。今や祇園(ぎおん)に程近い場所にありますが、1202年に開山した時は人の寄らない森の中であったと思われる。以前紹介した六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は南北朝時代( 1337年 ~ 1392)以降に建仁寺の塔頭(たっちゅう)となっていますが、六道珍皇寺は平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創でこちらのが古い。ご近所なのです。リンク 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺大乗仏教の一派 禅宗禅(Zen)は、中国で発展を遂げた大乗仏教の一つの宗派で、520年頃、インドから布教僧であるボーディダルマ(菩薩達磨)によって中国に伝えられた。瞑想と言う手法を中心に据えて真理を追究する禅は、従来の経典を研究する仏教とはかなり異なるもの。彼は仏教本来の精神を復興させる目的で来中し、皇帝にも謁見している。皇帝に謁見した後にボーディダルマはそこで9年間の瞑想に入り実践してみせた。真理(悟り)は座禅による瞑想の中で直感的に会得する?そのコツは実践の中で師から弟子へ直伝されるもののようだ。中国では古来からある儒教と道教の影響を受けて禅は発展した。その過程で禅問答が生まれている。インドから伝わり、中国で発展を遂げた禅宗は朝鮮、ベトナム、日本へと輸出されたが、とりわけ日本での影響が大きかったようだ。インド由来の神秘性? と中国で発展した実践的技法。瞑想から悟りへの行為。その精神性。鎌倉幕府、室町幕府と将軍による統治時代に興隆(こうりゅう)している事からも日本の武士道の精神に通じるものがあった? と思われる。その禅から受けた精神性により茶、書、絵、建築、庭園など、日本独自の文化の形成にも貢献している。禅によって生み出されたその文化は、日本のみばかりでなく、今や海外からもその精神性の高さを称賛されている。そんな日本を誇らしく思います。大乗仏教の学派と思想インド大乗仏教の教理はマードヤミカ(Madhyamikan)中観派 とヨガーチャーラ(Yogachara)瑜伽行派の2つの学派に支えられていると言う。※ マードヤミカ(Madhyamikan)中観発祥は2~3世紀?全ての存在は「空」とする中観派。瞑想によって空を認識し、事物の本来の在りようを認識する。中観派の教理は悟りへの速やかな道の提供であり、それが現実世界での救済であると強調。この中観派の教理は中国と日本で支持されたそうだ。※ ヨガーチャーラ(Yogachara)瑜伽行派(瑜伽行唯識学派)3~4世紀頃、瑜伽師(ゆがし)と呼ばれる者らによって創史。多数の経典論や書を経て導き出された観念論? 認識論? 広義の哲学論とも言える?中国へは玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602年~664年)によって招来されたらしい。唯識を元に法相宗が起きると、日本へは奈良時代に伝来した。マードヤミカ(中観 )とヨガーチャーラ(瑜伽行)どちらも難しい。複雑な論証と独創的で魅力的な哲学は知識階級には受ける。しかし大衆のレベルでは論証はいらない。誰もが解りやすく受け入れ易い物でなければならない。思想面では2つのレベルの異なる仏教が生まれた。大衆に向けられたのが「救済者による助け」である。ボーディサットヴァ(bodhisattva)・菩薩(ぼさつ)は大乗仏教の中心に位置する信仰であり、衆生(しゅじょう)を救う者として存在している。菩薩は、自身が悟り(ニルヴァーナ)に至る一歩手前に留まって、悟りに至りたい者らに未来永劫に救いの手を伸ばすのである。それ故、菩薩の自己犠牲的な救済はキリスト教におけるイエスの犠牲にちょっと似ている。因みに、菩薩は彼岸(ひがん)に居る。つまりそこは悟りに至る境地なのである。では悟りに至った人は? 仏陀(ブッダ)ただ1人。到底たどり着けない至高の場所です。弥勒菩薩の像は広隆寺と中宮寺にありますが、写真の撮影ができないので以前紹介した時は本から持ってきています。日本で仏像の撮影は難しく、私もほとんど写真が無い。今回は奇跡的に撮影していた奈良の薬師寺にある薬師三尊から脇の日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)を菩薩の見本として紹介します。結構貴重な写真です。(左)月光菩薩、(右)日光菩薩 国宝697年に開眼(by日本書紀)※ 白鳳時代(はくほうじだい)(645年~710年)薬師如来の隣(脇侍)にいる日光菩薩・月光菩薩。薬師如来は病気の治癒もお願いできる珍しい如来で、日月の両菩薩はそのサポートをしてくれる菩薩です。因みに、菩薩(ぼさつ)に性別は無いが、仏陀になる前のシッダールタ太子の姿? を模したと言われている。栄西禅師と臨済宗(りんざいしゅう)中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)があるがその一つ、臨済宗(りんざいしゅう)は、鎌倉時代に宋で学んだ栄西(1141年~1215年)によって日本に持ち帰られた最初の禅宗です。それから少し遅れて、建仁寺でも修行した道元(1200年~1253年)が1226年に宋より持ち帰ったのが曹洞宗(そうとうしゅう)です。坐禅を中心に修行する仏教集団が「禅宗」と呼称されるのは唐代末かららしいが、日本では源平合戦(1180年~1185年)以降、社会が貴族から武家政治に代わると共に禅宗が興隆(こうりゅう)した。質素な庵で、心を研ぎ澄ませて真理を見い出そうとする禅の修行が武士の生き方にマッチしたからのようだ。今回メインとなる寺は五山3番目に数えられた建仁寺ですが、実は栄西(1141年~1215年)禅師が日本に臨済宗を持ち帰り、京都で最初に開山した禅寺です。(京都最古の禅寺)開基は源頼家(みなもとのよりいえ)栄西禅師は幼い頃から素養があり、14歳で比叡山延暦寺にて出家。天台宗の教学と密教を学び取得するも、現実には政争の具とされ堕落する天台宗を嘆いていたと言う。それ故? もっと高見を目指したのか? 得のある経典を求めたのか?1168年、宋に向かった。当時の宋とは正式な国交はなかったが、平家は独占的に宋と交易をしていた事から平家の助けを借りて渡航したのは間違いない。本人たっての希望か? 平家方の勧めかは解らないが、その年の9月には天台の経典60巻を持って帰国している事から、そもそも南宋への渡航は貴重な経典を日本に持ち帰る事が使命だったのかもしれない。その頃、南宋では禅宗ブームが起きていた。先に紹介したよう、禅は520年頃、インドから来たボーディダルマによって伝えられた。中国で儒教と道教の影響を受けて発展した禅を知り栄西は日本仏教の立て直しに禅宗の導入を考えたのだろう。栄西自身が今度は禅を学ぶ為に再度南宋に渡航したのは1187年。因みに、この時インド渡航も願い出るが許可されなかったと言う。天台山万年寺の臨済宗黄龍派の禅伯 虚庵懐敞(こあん えしょう)に師事。師より菩薩戒と臨済宗黄龍派の印可を受け「明菴」の号を授かり1191年帰国。国内での布教を開始する。鎌倉幕府2代将軍・源頼家の庇護を受け、天台、真言、禅の三宗兼学を朝廷宣旨(ちょうていせんじ)により掲げ1202年(建仁2年)に京都に建仁寺を創建。建仁寺の名は元号からきている?いずれにせよ、幕府と朝廷両者の庇護を受け、禅宗の布教と振興に努めた。先に触れた曹洞宗(そうとうしゅう)の道元のほか、一休禅師もここに学んでいる。時の中央の武家政権に支持された臨済宗(りんざいしゅう)臨済宗(りんざいしゅう)は時の中央の武家政権であった鎌倉幕府や室町幕府に特に支持され政治や文化の面でも重んじられて行く。それ故、京都五山、鎌倉五山のどちらも公に幕府によって全て臨済宗の寺で定められたのである。それに対し、後続の曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武家、豪族や下級武士、一般民衆に広まって行く。因みに臨済宗は派が複数出来るが、曹洞宗は一系譜のみ。総本山は永平寺。創建1244年。道元。その理由は、道元自身が、弟子たちに特定の宗派名を称し名乗る事を禁じたからと思われる。茶祖の寺ところで、建仁寺は茶祖としても有名である。栄西は南宋からの帰国に際して茶の種を持ち帰えり栽培して日本に茶の文化を根付かせた人でもある。今日に至る茶会の精神性や形式は、ともに禅宗寺院の茶会が原初とされているそうだ。邸内には茶碑が建てられている。「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)と千利休については「大徳寺と茶人千利休と戦国大名」で書いています。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名建仁寺(けんにんじ)京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山(とうざん)本尊は釈迦如来京都で最も古い禅寺。開祖は栄西(1141年~1215年)禅師。建仁寺 勅使門(ちょくしもん) 重要文化財※ 天皇が派遣した使者が来た時など位階の高い来訪者の通行に使用される正面門。※ 格の高い人が来るような寺にしか存在しない。勅使門(ちょくしもん)から見えるのが三門放生池(ほうじょうち)からの三門建仁寺 三門(さんもん) 重要文化財三門の名は「樓闕望(ぼうげつろう)」。御所を望む楼閣という意味らしいが、そもそも三門(さんもん)は形式的には中央と左右の小さな門の3門を連ねて1門としている事。また仏道では悟りに至る為の空・無相・無作の三解を門に例え、空門・無相門・無作門の三つの解脱門を表していると言う。つまり、煩悩を捨て、無心になってお参りしなさいと言う事らしい。三門の上には釈迦如来(しゃかにょらい)、迦葉(かしょう)尊者、阿難(あなん)尊者、十六羅漢(じゅうろくらかん)が祀られているらしい。法堂(はっとう)前回の「西国の寺社(Back number)」の所で紹介した双龍図が描かれていたのがここです。法堂天井画「双龍図」小泉 淳作 筆2002年に、創建800年を記念して描かれた物。建仁寺境内地図勅使門→三門→法堂→方丈と中直線に位置している。その両サイドには塔頭(たっちゅう)の他に禅寺には僧坊、食堂、浴室などが置かれている。三門寺の構成は、時代によって特性が見てとれる。塀で伽藍を囲った飛鳥・奈良時代の寺院は南が正式な入口だから南大門が玄関として存在していた。※ 浄土教は極楽浄土が西にあるので東が門になるようです。金堂や講堂と塔は、さらに塀で囲まれているので中門が存在していた。食堂や僧坊は伽藍の後方側に並んでいる。先に勅使門と三門の意味を紹介したが、他に仁王門(におうもん)と言うのもある。強い門番は寺を守護するだけでなく、人の悪い心を捨てさせる意味があるそうだ。つまり、寺院において門はただの入口ではなく各々役割を持って建てられていると言う事だ。だから楼閣の上には仏像が祀られている。建仁寺の楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者、十六羅漢が祀られているらしいが楼閣観覧は無かった。因みに南禅寺と東福寺の三門は常時上る事が可能。(有料)比較参考に南禅寺と東福寺の三門載せます。建仁寺より大きい三門です。南禅寺 三門 重要文化財山間にある南禅寺は階段の上にあるので下の写真は裏側からです。かなり大きいので画角ギリです。高さ22m。本尊が宝冠釈迦座像。十六羅漢像が祀られている。石川五右衛門が「絶景かな。絶景かな。」と見得を切った、日本一の高さを誇る三門です。正面の柱の数も違います。上からの景色は南禅寺の目玉の一つです。南禅寺は次回詳しく載せます。東福寺 三門 国宝思遠池からの三門こちらも南禅寺と同じく高さ22m。本尊が宝冠釈迦座像。十六羅漢像が祀られている。楼上天井には画僧・明兆(兆殿司)らにより極彩色の飛龍や天女が描かれ浄土世界をイメージしている。他の楼閣と異なり、こちらは外階段があり登り易い。楼上も広く公開されていた。建仁寺と東福寺は池が手前にある構成ですが、南禅寺に池はない。但し手前に水路閣からの小水路が通っていた。比較すると同じ所や違いが解って面白いですね。Back number 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年11月16日
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すごーく古い過去ログを掘り起こされると恥ずかしいですが、金閣と銀閣の互換リンクを載せる時に調整中に拾った寺社の Back numberを載せました。写真は建仁寺の竜の天井画のみ載せました。建仁寺は五山禅寺の一つ。実は金閣寺(鹿苑寺)と銀閣寺(慈照寺)も五山禅寺の相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)なのです。京都五山は 相国寺のメインと万寿寺以外は回っていたのでついでに京都五山禅寺をサラッと入れようかと思ったのですが、書き出したら長くなり、写真もあるので今回は当初目的の Back numberだけにしました。近日、京都五山禅寺をアップします。西国の寺社(Back number)西国の寺社(Back number)建仁寺(けんにんじ)と京都五山西国(和歌山、奈良、大阪、京都、兵庫、滋賀、岐阜)京都府リンク 鹿苑寺 舎利殿・金閣リンク 慈照寺(じしょうじ)観音殿・銀閣リンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ 広隆寺リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎 木嶋神社リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 北野天満宮 梅花祭りリンク 北野天満宮の骨董市(梅花祭り)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓三重県リンク 伊勢神宮 1 (内宮)リンク 伊勢神宮 2 (外宮)奈良県リンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 2リンク 法隆寺 (柿食えば・・の鐘の件)リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 1 法隆寺縁起リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 2 聖徳太子大阪府リンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 大阪 お初天神 美人絵馬番外 東京都リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰建仁寺上はスマホで撮影してます。建仁寺(けんにんじ)と京都五山京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山(とうざん)本尊は釈迦如来京都五山の一つです。臨済宗(りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の一つで鎌倉時代に日本に伝えられ、様々な流派が成立。臨済宗の寺院の寺格である京都五山の寺の選定は、時代の政治体制で多少入れ替えがあったようです。※ 別格. 南禅寺 1. 天龍寺 2. 相国寺 3. 建仁寺 4. 東福寺 5. 万寿寺特に足利氏の政治、政略的な格付けとして、室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認めていた。つまり五山禅寺は幕府への財務支援を行い、また事務などの庶務もこなしていた。東班衆・・院の経理や荘園の管理担当。西班衆・・宗教活動担当。室町幕府との関係が密であった。朝廷と近い比叡山延暦寺や南都興福寺とは対立関係にあったらしい。とは言え、比叡山延暦寺と南都興福寺も争っていたが・・。次回、京都五山禅寺を紹介。
2021年11月02日
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一昨日の赤く染まる月。それは3年ぶりの皆既月食。古来の人は、「皆既月食は良く無い事が起こる兆し」としてとらえていたと言う。また、昨日朝方、諏訪湖(すわこ)に出現した御神渡(おみわたり)現象。古来の人は「御神渡りは上社の男神が下社の女神のもとへ出かけた跡」ととらえていたと言う。御神渡(おみわたり)は諏訪湖が「全面氷結」した時に起こりうる現象で、気温が下降すると湖を分断するよに氷は収縮して湖上に亀裂が走る。その裂け目に水が貫入して再び膨張凍結して、いかにも何かが通ったかのような氷のせり上がりが起こると言う珍しい現象である。※ 氷の筋道の方向やせり上がり具合でその年の豊作や吉凶なども占ったらしい。夜空に不釣り合いな赤色は人を不安に駆り立てる。まして自ら光るように輝く月の異常事態である。一方諏訪湖の方は、まだメルヘンを感じられる解釈であるが、古来わからない事を神の仕業ととらえていた事の証拠である。つくづく、古人(いにしえびと)は自然の中に常に神を見い出していたのだろうな・・と思う。倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)磐座(いわくら)磐座(いわくら)登拝の条件霊亀の滝と(霊泉)亀の井醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社醸造祈願祭りと醸造感謝祭り酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)前回、松尾大社は京都の神社としては最古と書きましたが・・。実は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請しての松尾山の麓への社殿の創建は701年(大宝元)ですが、信仰自体はもっと昔からあったとされているからなのです。2017年8月「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」 の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」で、カンナビ(神奈備)について紹介していますが、松尾山の磐座(いわくら)もまた、古代人より祀られてきた そう言う霊験な場所だと言われています。よって、松尾大社の祭神の本来の鎮座場所は巨石をいたたぐ松尾山(標高223m)の頂上に近い大杉谷上部の磐座(いわくら)であり、松尾山自体が神域となっているのです。※ 現在は旧鎮座場所とされている。実はこの旧鎮座場所である松尾山の磐座(いわくら)に参拝に行く事が可能です。しかし、残念ながら今回は登って来ていません。紹介のみ ※ 神域ですから、登拝(とはい)には諸々の条件があり、写真を撮る事も不可能。磐座(いわくら)登拝の条件磐座(いわくら)に登拝する人はここで祓串(はらえぐし)で左右左と祓い清めて行かなければならない。松尾大社地図から。 境内の裏山が松尾山。磐座(いわくら)は地図の右上。社殿の背後の松尾山を含む約12万坪が境内だそうだ。画面中、ピンクの矢印が磐座(いわくら)登拝。霊亀の滝。霊泉「亀の井」。への入口。松尾山は別雷山(わけいかづちのやま)とも称され、七つの谷に分かれている。社務所で登拝(とはい)料を払い、許可証をもらわないと登拝の参道には入れない。門が閉まっている。参道の道はあまりよろしくないらしい。松尾大社では磐座登拝道修復協賛金 一口500円を募っている。上古の庭の裏手に磐座(いわくら)を真下から拝める遙拝所(ようはいしょ)の登坂口がある。下がその遙拝所(ようはいしょ)あくまで、神様のお膝元・・と言う概念であり、正面はただの山の斜面。左手に「心願」の杯(さかずき)投げコーナーがもうけられている。5枚 200円。京都では何カ所か見たが、ここのは坂の上方面に樽があるので難しい。届かないので一枚お持ち帰りしてきました。素焼きの小皿です。登拝(とはい)と遙拝(ようはい)の違いは、登拝(とはい)は拝しながら登って神所に進む事。一方、遙拝(ようはい)は遙か遠くから神所を仰ぎ見て拝む事。日本各地にある富士を遠くから拝む富士山信仰などは遙拝(ようはい)にあたります。諸注意の看板。看板は登坂口にありますが、簡単に紹介。入山はいつでもできるものではなく、登拝できない日や時がある。(天候でも禁止になる事がある。)入山には必ず入山受付けが必要(記帳)で、許可証を必要とする。(受付は9時~3時。下山は4時まで。)※ 登拝の初穂料金は高校生以上1000円。2回目以降は500円。一人での入山はできない。(危険がある為と思われる。猿も出るらしい。)カメラ、ビデオの持ち込み禁止。およその所要時間1時間。※ 松尾大社のサイトからでも確認できます。社殿の裏山。どうも松尾山はこんな岩盤でできているらしい。磐座の写真が撮れないので苦肉の策なのであるが、実は松尾大社の磐座(いわくら)は、かつて古墳時代に玄室の石切場だったのではないか? と言う説がある。以前紹介した蛇塚古墳を調べていた時にこの説にあたったのだ。※ 蛇塚古墳については、2017年8月「倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ」太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)で紹介リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ蛇塚古墳の場合、巨石の材質は堆積岩らしいが、近辺に巨石の採掘できる場所は無い。巨石の運搬は当然 川、あるいは農水道が利用されたのだろうと考えると、松尾山の可能性はかなり高い。(保津峡も考えられるが・・。松尾山にかなり近接する一ノ井川が気になる。)以前も紹介したが、古墳時代の終わりは646年(大化2年)に出された薄葬令による。つまりそれ以降の採掘は無くなり、岩山は祀られたのではないか? とも考えられるのだ。最も 社務所の人にそれとなく聞いたけど、そんな話は聞いた事もなさそうだった 岩の成分を調べれば解るだろうけどね。手水舎(ちょうずしゃ)の亀松尾大社ではあちこちに亀の像を見る。それは松尾大社ではの亀と鯉が神の使いとされているからだ。伝説では、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が山城丹波の国を拓くため保津川を遡った時、亀と鯉(急流)に乗ったと言う寓話から亀と鯉が神の使になったらしい。また古事記では、首に三台(三つの星)をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀』が谷より現れたと言う。それを嘉瑞(かずい)として谷は霊亀に改元。※ 嘉瑞(かずい)はめでたい事。吉兆はめでたい事の前ぶれ。きざし。霊亀の滝と(霊泉)亀の井写真左奧の赤い鳥居の奧が霊亀の滝。霊亀の滝からの水で出来た小川は御手洗川(みたらしがわ)と言うらしい。つまりは浄めの御手洗(みたらい)をする川と言う事だが、川の目の前に霊泉があるからね。亀の井看板には神泉(しんせん)と書かれている。茶道や書道の用水として汲み帰る人がいる霊泉らしいが、延命長寿「蘇りの水」としても有名だそうだ。最も特異なのは、酒造家(蔵人)がこの水を酒の元水として持ち帰り、仕込み水に混ぜて用いる風習があった事だ。醸造の際にこの水を混ぜると酒が腐らないと信じられていた? なんて説も出ているが・・。江戸時代には各地の酒蔵関係者が参拝に訪れ、水を汲んで帰ったと言うが、実際、江戸時代の酒造家のテキスト(壱子相伝 酒蔵口伝)には松尾大明神への信心が説かれていたらしい。それ故、松尾大社は昔から酒神として酒造関係者の信仰を集めている。霊亀の滝松尾大社では、古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造祖神として、全国の酒造家、味噌、醤油、酢等の製造及び販売業の方から格別な崇敬があると言う。※ 先に「亀の井」を紹介しましたが、酒蔵家だけの神様ではなく、醸造には醤油・味噌・酢も含まれる。境内には全国の酒蔵の菰樽(こもだる)が奉納され並んでいる。酒樽の破損を防ぎ保護する為に菰(こも)を巻いた菰冠樽(こもかぶりだる)。その起源は海上運搬の始まった江戸時代。上方から江戸に酒荷を輸送する樽廻船(たるかいせん)に合わせ四斗樽(72リットル)が登場。その破損が問題になったらしい。※ 72リットルで一升瓶40本分。醸造祖神(じょうぞうそしん)松尾大社松尾山の神様。大山咋神(おおやまぐいのかみ)が醸造祖神となった理由は松尾大社 所蔵の「酒由来の事」による伝説です。簡単に略すと神代の昔、八百万の神々が松尾山に懇親会に集まった時、水ではしのびないと、山田(嵐山)の米を蒸し、東流の清水を汲み、一夜にして酒を造り、大杉谷の杉の木で器を造り神様方に振るまった。つまり、大山咋神(おおやまぐいのかみ)は神様に出す為にお酒を造った神様だと言う事。松尾大社 お酒の資料館の掛け軸よりまた、松尾大社 所蔵の1834年(天保5年)の「造酒三神と云所謂書」では45代 聖武天皇(701年~756年)の御代、733年(天平5)に社殿背後の御手洗谷(みたらしだに)より醴泉(れいせん)湧き出る。※ 醴(れい)は、通常「甘酒の意」であるが、「旨い味の水」が湧き出た・・と言う事。託宣の結果、諸人はこの醴泉(れいせん)を飲むべし。諸々の病を癒やし、寿命も伸び長くなる。またこの御手洗の泉をもって酒を醸して我を祀らば寿福が増長。家門繁盛して自然と造酒の業に霊功を得て造酒にあやまちあるべからずとの御霊告於今に著しく諸国遠近の造酒家おのおのにも当社に詣で御手洗の泉を酌み持ち帰りて酒を醸し・・。733年に御手洗谷の泉(霊泉 亀の井)が湧き、それはとても旨い水であった。その水は飲めば病にも効き寿命も延びる。またそれで酒を造って我を祀るなら福が来て家は栄え、酒造りの功績を得るであろう。酒造家は当社に詣でて泉を持ち帰りそれで酒を醸すと良い。以上は、亀の井の伝説にほぼ一致する。醸造祈願祭りと醸造感謝祭りところで、酒造りは「卯の日」にはじめ、「酉の日」に完了する慣わしがあるそうだ。松尾大社では、秋に醸造祈願の為の「上卯祭」)(11月 上卯日)が行われる。また春には醸造の成功を感謝する「中酉祭(ちゅうゆうさい)」(4月 中酉日)が行われる。毎年11月上の卯の日の醸造安全祈願祭(上卯祭)では全国の和洋酒、味噌、醤油、酢等の醸造業はもとより、卸小売の人々も参集し、盛大に醸造安全を祈願が行われる。守札としての大木札(だいもくさつ)を受けて持ち帰り、蔵の神棚に奉斎してからお酒造りを始める醸造家かは多いらしい。下が醸造関係者に授与される守護の大木札(だいもくさつ) 見本これらの祭事には、灘の酒造会社各社から役員や杜氏なども一同に介し、参拝し大木札(だいもくさつ)を戴くらしい。酒造司(みきのつかさorさけのつかさ)ところで秦氏(はたうじ)とお酒の関係がなかなか見つからない。21代 雄略天皇(在位456年~479年)の時代に側にいた秦氏は秦酒公(はたのさけのきみ)。名前からするとお酒造りをしていた人なのか? とも思う。それを証明するすべは無いが、酒宴が朝廷の重要な行事にとなった律令下(7世紀末~10世紀)に宮中には酒造司(みきのつかさ)と呼ばれる官職があった。主な職務は酒や醴(あまざけ)、酢などの醸造で、宮中で供される全ての酒造りもなされていた官営工房であり、酒造技術も、この司で進歩発展したと言われる。因みに平安中期の延喜式」神名帳には酒造司(みきのつかさ)について書かれた条文があり、「御酒(ごしゅ)」「御井酒(ごいしゅ)」「醴酒(れいしゅ)」「三種糟(さんしゅそう)」などいろいろな種類のお酒の仕込みや配合等が詳しく記述されているらしい。それによればどうもお酒は行事や季節により使い分けられていたらしく、例えば「三種糟(さんしゅそう)」は正月用で、米、麹、麦芽に酒を加えて造られるみりん系らしい。奈良の平城京跡からも酒造司(みきのつかさ)に関する木簡やお酒を貯蔵した坪が出土していると言うが、どうも平安京の酒造司(みきのつかさ)の実務を担当していたのが秦氏(はたうじ)らしいのだ。秦氏の関係する所には良き水と米がある。さて、今は摂社である松尾月読神社も載せたかったのですが、入り切らずに終わります。
2018年02月02日
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さて、昨年「倭人と渡来人」シリーズ1~5で、古来日本にやってきた渡来系氏族について書きました。内容は後半、その中でも最も大きな氏族である秦氏(はたうじ)と、彼らが日本にもたらした功績についての紹介となりました。Back numberはラストにまとめました。秦氏は大人数で渡来。日本各地に散った一族はそれぞれに成功。冨を築き、朝廷の大きなスポンサーになったにも関わらず謎が多い氏族です。謎が多いとは、秦氏の役割存在は大きいにもかかわらず、政界に進出する欲がなかったようで歴史の表に出て来る人物も、彼らの仕事についても記録がほとんど残っていないようなのです。そして、そればかりか、秦氏の名前は8~9世紀頃より歴史の表舞台から消えて行く。※ その理由については、ちょっと思う所がある。今現在、秦氏の子孫とされる一族は多々いるようですが、その後の秦氏について公式に語られてもいない。ましてどういった経緯で日本に渡って来たのかも、ハッキリされていないので相変わらず謎の一族のまま。しかし、解らないのを良い事に、「秦氏はユダヤ人だ」とか言う話をでっちあげて真実のように語っている人達がいるのに驚いた秦氏については、歴史で検証できる事実において、曲げられない真実もある。それら話はそんな真実も無視したものだ。先にその問題を片付けたいと思う。そもそも、その原因の発端に木嶋神社(このしまじんじゃ)の看板があるのではないかと思う。「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」では、バカバカしてくあえて簡単に流したが、元糺(もとただす)の森の元糺(もとただす)の池にある三柱鳥居(みはしらとりい)が、景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていた事だ。当の神社がそんな事を載せるようでは鵜呑みにする者が出るのも致し方無いが、三角形を見たらなんでも三位一体にはめるのはいかがなものか。私の結論(史実から導き出した結論)では、あの鳥居が石造りになるのは江戸の終わりか明治の頃。それ以前は木造の姿で浮世絵に描かれている。そもそもあの鳥居は平安の頃には無かったと推測される物だ。平安時代にあったなら、賀茂神社にも同じ物が無ければならないからだ。加えて言うと、古代キリスト教の教派の1つネストリウス派の開祖ネストリウス(Nestorius)(381年?~451年?)は431年のエフェソス公会議で異端とされ排斥さた。その後彼らはペルシャ帝国へ移動、7世紀頃に中央アジア、モンゴル、中国へは唐の時代(618年~907年)に伝わったとされる。秦氏の日本への渡来時期は3世紀から4世紀である。全く時代に引っかからない。※ ネストリウス派が異端とされたのは、簡単に言えばマリア信仰を認めなかった事だ。神は唯一であり、神の子イエスを生んだとしても特別は無い。ローマの国教としてコンスタンティヌス帝が求めていた教会の教義の統一に逆らった・・と言うのが排斥理由の一つだろう。ユダヤ人説もどこから出たのか?ユダヤ教は選民思想の教えである。(ユダヤ教はユダヤ民族の為の思想。)しかも一神教であるので、他のいかなる神も認めない。秦氏は日本に来て、いろんな神様を祀った。ユダヤ教徒ではあり得ないのだ。秦氏の日本へのルートも、そもそも秦(しん)から直ではなく、朝鮮半島の辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からと推測される。※ 前に紹介しているが、1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部が辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)と別れていた時代であり、辰韓(しんかん)は文化的にも秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国とされた。その辰韓にもいられない事情があっての日本亡命であろう。弓月君が日本の朝廷に申し立てた「民族の危機」と合わせて、考えられる秦氏の渡来時期は辰韓(しんかん)が滅する356年前後と推定。(一番理にかなっていると思う。)そしてそれは、15代応神天皇~16代仁徳天皇の御代と推測される。実際 秦氏が日本に持ち込んだ文化は中国宮廷、門外不出の秘技、「絹の織物と蚕」そのものである。もし、ユダヤ人であるなら、秦氏はワインを造って日本に紹介していたことだろう。秦氏が造ったのは米から日本酒である。真実が一つも無いのに勝手な論法であたかも本当のように寄せて行く。それはダメでしょ で、今回紹介するのは、やはり、秦氏に関わる松尾大社です。京都の神社としては最古とも言われ、しかも「お酒の神様(醸造祖神)」を祀った神社として有名です。創建は701年。弓月君から何代目かわかりませんが、秦大津父(はたのおおつち)の系統の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わっています。因みに伏見稲荷大社を711年に創建した秦伊呂具(はたのいろぐ)とは兄弟のようです。タイトルをどうするか悩みましたが全体に秦氏の話になったので「倭人と渡来人 6~7」でまとめる事にしました(松尾大社全2部予定)倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)秦氏にまつわるウワサから秦氏の造った用水路(洛西用水路)脇勧請(わきかんじょう)松尾大社の創建松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 松尾大社、平成の大鳥居横には巨大な一対の御神酒徳利(おみきどっくり)が置かれて居る。松尾大社は中世以降、醸造祖神としても信仰されている。それは霊泉「亀の井」があるからだ。(次回紹介)神酒徳利(おみきどっくり)、瓶子(へいし)の後方に見えているのが松尾大社のご神体である磐座(いわくら)がある山。※ 神饌用酒器、瓶子(へいし)のルーツは中国の宋の時代の酒瓶として使用された梅瓶(めいびん)。前回、「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」の中「占いがメインであった陰陽寮」で紹介した「陰陽五行思想」を元にした占いですが、秦氏は渡来した時にすでにこれらを持ち込んでいた可能性がある。「四神相応(しじんそうおう)」を考慮して794年に都を平安京に遷都させたのは第50代 桓武天皇。しかし、すでに秦氏が葛野地方に住み着いて300年? 秦氏は氾濫する川に堰(せき)を造り、京都を富める土地へと造っている。そもそも京都盆地の中心、平安京の内裏でさえ、元は秦氏の邸宅だった所。※ 秦氏のもたらした土木技術も当事の日本には無い高水準のもの。実は今回紹介する松尾大社の創建は701年。正式に京都に都(平安京)が遷都されると、松尾大社は西の王城鎮護の社と称され、崇敬される。東の王城鎮護の社は賀茂社。賀茂社の創建は賀茂別雷神社(上賀茂)678年。共に長岡京以前、都が奈良にあった時に創建されている。平安京のベースは全て秦氏がひいたと言っても過言では無い。ついでに長岡京の資金も平安京の資金も秦氏が援助している。一の鳥居(平成の鳥居)からの二の鳥居.秦氏の造った用水路(洛西用水路)一の鳥居と二の鳥居その間には洛西右岸の用水路が横切っている。「大堰川(おおいがわ)」の「一ノ井堰(いちのいぜき)」から取水された用水路(洛西右岸東幹線用水路)である。大堰川(おおいがわ)」の堰(せき)については、2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)下は渡月橋近くの看板から松尾大社のある松尾山の北側のお山が嵐山。渡月橋までは近い。5世紀中頃に、秦氏は桂川の氾濫を押さえる為の堰(せき)を大堰川(おおいがわ)に建設したとされる。同時に放水用水路は農業用水として、洛東と洛西の水の無い場所に施設。これにより京都は富める土地に生まれ変わった。※ その農業用水は今もほぼ同じ所を流れているらしい。実は葛野大堰(かどのおおい)がいつ造られたのか? 誰の時代に造られたのか? 明記された物が無い。あくまで推論であるが、弓月の君から3代目?、秦酒公(はたのさけのきみ)は全国に散らばっていた秦一族の族長として、21代 雄略天皇に山のような献上品を贈っている。※ 21代 雄略天皇(418年~479年)(在位:456年~479年)その事から秦酒公の時はすでに葛野大堰(かどのおおい)は完成していた可能性が高い。順番が後先になるが、楼門をくぐった後、松尾大社境内を横切る洛西の用水路。おそらくこちらは洛西右岸西幹線用水路。右の帆掛かりが修復中の楼門。二の鳥居次回紹介するが、今は摂社となっている松尾月読神社はこの左(南)方面400m。二の鳥居を飾る脇勧請(わきかんじょう)古墳時代前期の4世紀頃には原始的な神社が登場。日本最古級の神社と言われているのは奈良県桜井市の大神神社。ご神体は三輪山にある磐座(いわくら)。実は松尾大社のご神体も松尾山にある磐座(いわくら)。脇勧請(わきかんじょう)鳥居の起源についてはハッキリしていないが、最初は木と木を縄で結んだだけのものが鳥居の起源と考えられているそうだ。※ 鳥居の形式はいろいろあるようだが、よほどの理由が無い限り、寄進者の好みの問題らしい。そして、松尾大社の二の鳥居にかかる縄となにやら下がったもの。実はそれは榊(さかき)の束であるのだが、これらは脇勧請(わきかんじょう)と呼ばれ、鳥居の原始形式を示すものだそうだ。松尾大社では、脇勧請は新年に合わせて交換。縄に貼られた榊の束は全部で12束。閏年は13束。それは月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗によるものらしい。写真は昨年(2017年9月13日)のもの。榊の枯れ具合で占うと言うものだが、空気の乾燥度合いを読むのかもしれない。「勧請(かんじょう)」と言う言葉の意味を考えると、占うと言うよりは「豊穣を祈り誓願する」的な意味も込められていたのではないか?松尾大社の創建松尾大社は、第42代 文武天皇の勅令により701年(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請して社殿を建てたのが始まりとされている。730年(天平2年)には第45代 聖武天皇(しょうむ てんのう)(701年~756年)(在位:724年~749年)より大社の称号を得、第56代清和天皇(850年~881年)(在位:858年~876年)の時に社格は正一位。延喜式(えんぎしき)神名帳によれば明神大社22社の制において上7社に数えられ天皇の行幸も行われたと言う平安の頃より格式高い神社だそうだ。※ 明治の時に旧官幣大社となり、現在は別表神社に管轄されている。御祭神は2柱。大山咋神(おおやまぐいのかみ) と 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)冒頭の方ですでに書いたが、京都に都(平安京)が遷都されると、王城鎮護の社として、西の松尾大社と東の賀茂社は尊崇される。松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係実はまだ賀茂社については、取り扱っていないのだが、両者の御祭神を見ると面白い事がわかる。賀茂社が祀る祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)その賀茂別雷大神には両親がおり、母は賀茂建角身命の娘の玉依比売命(たまよりひめのみこと)そしてその父は 上賀茂神社の社伝では、山代の乙訓社の火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、古事記では松尾大社の祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)とされている。つまり、古事記を支持すれば、賀茂社の祭神は松尾社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の息子と言う事になるわけだ。神社の創建では678年と僅かに賀茂社(賀茂別雷神社)の方が早いが、松尾社の祭神の息子では歴史が後先になるから賀茂社は父を変えたのかな?楼門は修復工事中だったので、楼門を出た所からの拝殿拝殿の真後ろに本殿があるのだが、見えない。拝殿を回り込み本殿。こちらも修復中なので本殿参拝所のみの撮影です。社殿が修復中で見えないが、本殿は室町時代(1397年)の建造。1542年に修理。松尾造りと称される建坪35坪余り、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで国の重要文化財に指定されている。賽銭箱にはフタバアオイが・・。菊の紋は、神話などに登場し天皇家の祖と考えられた祭神を祀っているから?松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 以前、木嶋神社(このしまじんじゃ)の所で紹介しましたが、木嶋神社の神紋(しんもん)もフタバアオイ。そして、下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。さらに、信長が延暦寺焼き討ちで攻めた日吉大社の神紋もフタバアオイでした。※ 日吉大社のフタバアオイは花付きではありませんが・・。日吉大社は(東本宮)祭神に、松尾大社と同じく大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祀っている。その為なのか?あるいは、やはり秦氏に関係した神社なのか?実は日吉大社もまた、平安京の表鬼門を方除する神社でした。※ 創建はハッキリしていないが、西本宮は大津京鎮護の為に祭神に大己貴神(おおなむちかみ)をたてて668年に創建されている。※ 大己貴神(おおなむちかみ)の別名大国主命(おおくにぬしのみこと)曲水の庭からの松尾山。旧、ご神体の座した磐座(いわくら)は右の方の山かも。磐座(いわくら)には許可を得て、ルールを守れば登山する事が可能です。それについては次回につづく。リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
2018年01月22日
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写真追加しました年明け第一弾は、昨年出かけていた平安の陰陽師(おんみょうじ)、阿倍晴明(あべのせいめい)を祀った「晴明神社」から 実はかなり昔に参拝していましたが、ずいぶんと変貌していましたブーム以前の神社は半分駐車場となり写真映えは最悪。陰陽師ブームになる以前、「地元で、生まれてきた子供の命名をしてもらう神社」で有名だと当事のタクシー運転手に説明されました。それはもしかしたら、晴明神社がかつては戸籍代わりの氏子登録(氏子調)をする神社としてあったのかもしれない。実際、江戸時代には晴明九町組と言う氏子圏が組織されていたらしいから・・。※ 神社改革のあった明治(1871年)には村の鎮守の社などが列格される「村社」にふりわけられ、現在は神社本庁に所属。そんな晴明神社に活気がが戻ったのは、映画「陰陽師」のおかげ?現在は「魔除け」「厄除け」の神社として人気急上昇のようだ。来訪者はとてつもなく増えたのだろう。そう言う所が意識された? インスタ用のオブジェもいろいろ設置され、かなり様代わり。驚きました。(広くなっている気も・・。)陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)占いがメインであった陰陽寮晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)のブームは、夢枕獏(ゆめまくらばく) 氏の人気小説シリーズ「陰陽師」(1986年)と、それを原作に漫画化した漫画家 岡野玲子(おかのれいこ)氏の「陰陽師」シリーズに始まります。スコラでの漫画、一巻の初刊は平成6年(1994年)。マニア人気が少しずつ増えたのは、岡野玲子 氏の漫画に寄るところが大きい。その後、狂言師(きょうげんし) 野村萬斎(のむらまんさい)氏の主演で2001年、映画「陰陽師」が公開されると一気に安倍晴明の知名度は全国レベルに発展。※ 現在の清明神社境内にあるお土産屋(桔梗庵)の内容も映画関連が多いように思う。 映画はあくまで夢枕獏 氏の小説が原作となっていますが、登場人物のキャラクター等は岡野玲子 氏の描いた漫画「陰陽師」の世界感そのもの。漫画ファンの私は、映画以前に、岡野玲子 氏の描く「陰陽師」シリーズに影響された一人です。清明神社 拝殿前 左陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)安倍晴明(あべのせいめい)(921年~1005年)平安時代に活躍した陰陽師(おんみょうじ)。師は陰陽師(おんみょうじ)で天文博士である賀茂忠行(かもただゆき)(生没年不詳~960年)。陰陽寮に所属するのは40歳頃、天文博士となるのは50歳頃と遅い。それは兄弟子 賀茂保憲が上にいたからなのだろうか?晴明の名が史書に登場するのは961年、天文博士 賀茂保憲(かものやすのり)(917年~977年)の補佐として護身剣、破敵剣の鋳造の時。※ 賀茂保憲は晴明の師匠 賀茂忠行の息子。※ 安倍晴明が仕えた歴代の天皇は62代 村上天皇、63代 冷泉天皇、64代 円融天皇、65代 花山天皇、66代 一条天皇安倍晴明が天文博士となるのは972年。賀茂保憲の後を継承した晴明が表で活躍するのは64代 円融天皇(在位969年~984年)以降、65代 花山天皇、66代 一条天皇までとなる。※ 天文博士になるのは遅いが、彼の能力故、陰陽家としてすでに貴族の信頼があったようだ。霊感は幼少の頃よりあったようで、今昔物語には百鬼夜行を師の賀茂忠行に知らせて難を逃れたと言う逸話が残っている。物の怪の解除や祓い、病気の回復祈願、泰山府君祭りなど、晴明の得意分野であったようだ。※ 生死を司る泰山府君(たいざんふくん)の祭りとは、呪術により身代わりを立てて命の差し替えを行うと言うもの。今昔物語には晴明が泰山府君を祭る人物として登場。晴明の呪術の見事さが記されているらしい。それ故、陰陽師イコール呪術師のようなイメージがあるのは、安倍晴明の活躍に寄るところが大きいのだろう。995年には「蔵人所陰陽師」となり出仕はしていなかったが朝廷の諸々の諸事(先例、典故、吉凶、日時)を調べて上申する日時勧申(にちじかんじん)を80歳過ぎても行っていたと言う。亡くなる前年の雨乞いの「五龍祭」では大雨が降る快挙。褒美までもらったらしく、最後まで人気が衰えなかった事が解る。位階の最終は「従四位下」。晴明を祀るよう言明したのは一条天皇とされるのも納得だ。因みに、安倍家は晴明以後も代々公家として朝廷に仕えたが、室町時代中期以後、「土御門(つちみかど)」を名乗ったとされる。岡野玲子(おかのれいこ)氏の安倍晴明 スコラ 「陰陽師5(青龍)」より表紙漫画と言っても、筋だけ追うならともかく占術や呪(しゅ)についてなど、内容は後半に行くほど難解です占いがメインであった陰陽寮陰陽寮(おんみょうりょう)を造り、律令下に陰陽道を組み込んだ張本人は天武天皇(生年不明~686年)(在位:673年~686年)だそうです。基本、陰陽道は天文、暦、陰陽の3部門の専門集団からなっていたようですが、当初、天武天皇が求めたものは占い。天文や占星術を使用した占いで都を造る時の土地の善し悪しや方位を決めたり、天候不順など、通常で無い事(天変や怪異)がおきた時の瑞兆(ずいちょう)の判断など、諸々の天皇の政の中で重用された部署だったようです。つまり「陰陽寮」は官職であり、そこで働く技術集団は国家公務員なのであった。その占いのベースとなったのが、陰陽と五行思想。陰陽(いんよう)思想とは夜と昼の二元論。そしてそれは一年を通してみれば春夏秋冬。森羅万象あらゆる事が陰陽(いんよう)の局に分けられると言う考え。 五行思想とは、宇宙は5つの要素(木・火・土・金・水)からなり、それらには「相生」と「相剋」と言う二種の循環によってなると言う考え。方位の五行この陰陽思想と五行思想が組合わさってできたのが陰陽五行思想である。そしてそこから四神相応(しじんそうおう)の考えや、八卦(はっけ)、風水など、方位からあらゆる占いが考案されている。左 五行相克 右 五行相生※ 五行相克(ごぎょうそうこく)の星形である五芒星(ごぼうせい)はあらゆる魔除けの呪符として用いられた。安倍晴明がこれを紋に用いた事から晴明桔梗(せいめいききょう)印とも「セーマン」とも呼ばれる。陰陽道の方位と十二支晴明神社(せいめいじんじゃ)堀川通り 越しの「清明神社」右手が北、すぐ今出川通りにぶつかる場所。市バス「一条戻橋、晴明神社前」下車晴明神社は清明亡き後、安倍晴明を祭神として、1007年(寛弘4年)晴明の屋敷跡に祀られたらしい。一の鳥居には晴明桔梗紋が。晴明神社見取り図一の鳥居と二の鳥居の間に一條戻り橋のオブジェと式神のオブジェがある。(SNSスポット)晴明の屋敷に近い一條戻り橋には晴明が解き放っていた式神(しきがみ)がいたと言う。(源平盛衰記)この戻り橋はオブジェであり、実際の場所ではないが、欄干親柱は大正11年~平成7年まで使用されていた本物らしい。式神(しきがみ)「式(しき)」は「使役(しえき)」に由来する言葉のようだ。文献によっては「式鬼(しき)」とも。「宇治拾遺物語」は晴明が式神を使っていた話が出てくる。実際の人ではなく、鬼に類する精霊のたぐいか?今昔物語では神霊的なイメージ? 密教の童子のような眷属に描かれ、宇治拾遺物語では紙などが呪術であたかも生物に成り代わると言ういメージがついた?日月柱二の鳥居右に「陰陽博士 安倍晴明 公 居館跡」と石柱があるが、本当の清明の屋敷は現在の京都ブライトンホテルのあたりと言われている。※ 内裏の位置も平安と現在では変わっているが、晴明の屋敷は、紫宸殿の裏鬼門に位置していたらしい。陰陽師(おんみょうじ)先に紹介したように陰陽道はそもそも学問としては天文学や地政学に近く、それらから計算された占いが主な仕事であったようだが占いで良くない物がでれば、同時に祓いも行う。だんだんに怨霊や物の怪の「祓い」や「祭り」も行われるようになったようだ。平安時代、暗闇には魔物が潜んでいると皆が信じていた時代である。ちょとした天変地異(雷などの自然現象)でさえ怨霊の祟りと考えられた。その怪異の原因を占い、穢れ(けが)を祓い(はらい)、病気平癒(びょうきへいゆ)や、雨乞いまでしてしまうスーパー祓い屋、「陰陽師(おんみょうじ)」が定着したのは平安中期頃だそうだ。当然、安倍晴明らの活躍があったからだが、初期の「陰陽寮」では、占いはしても結果を天皇に奏上できたのは陰陽頭のみ。職務の分担があったらしい。二の鳥居をくぐると右手に手水舎があり、その横に晴明井がある。古より湧き出ていたと言う晴明井は洛中の名水として知られ、病気平癒のご利益もあるとされる。晴明五芒星、桔梗紋を配し、流水口はその年の恵方に向けられているそうだ。井戸の前には北辰北斗信仰の象徴の北斗七星が。陰陽道はもともと道教の北辰北斗信仰がベースにあるのだ。実はこの晴明井の水は千利休も茶の湯に利用していた水だ。なぜなら、現在の晴明神社の場所は、豊臣秀吉の屋敷、聚楽第(じゅらくだい)があった場所にひっかかっているようなのだ。二の鳥居左脇には聚楽第内に屋敷を構えていた千利休が茶事で利用した井戸がある旧跡と書かれている。そして聚楽第で秀吉により切腹を申し渡された千利休は聚楽第内で果てる事になる。※ 聚楽第と千利休については、2015年6月「大徳寺と茶人」で書いていますから良かったら見てね。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)正面に拝殿 左に晴明像、右に厄除け桃、そのまた右の大木がご神木である樹齢300年と言われる楠(くすのき)現在の本殿は明治38年にたてられたもの。厄除け桃原産地は黄河上流の高山地帯。古来、桃は魔除厄除の果物。食用のほか祭祀用途にも用いられ。平安時代には特に珍重。当時の桃はそれほど甘くなく主に薬用や観賞用とされた? 桃園を持つのは貴族でもステータスであった。楠の後ろ、本殿北側にお稲荷さまと2柱の神様が祀られるお社がある。天満社、齋稲荷社、地主社このお稲荷さまが、齋院(さいいん)鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所にあったことに由来するらしい。晴明の母、葛葉(くずは)は狐であったと言う風説から、晴明がお稲荷さまの生まれ変わりと解釈された説がある。久しぶりに行った晴明神社は、こじんまりした中にも、写真スポットは満載されている。近年のSNSブームを意識しての事なのだろう。参拝する方の立場で見ると、オブジェは少し軽い。式神なども可愛良すぎ。もう少しリアル感がほしいかも・・。売店の御札 一部さすが「厄除け」、「方除」、「火除け」、厄年用の「厄除」など災厄に関する札が並ぶ。学業守りとせず「、「向上守」としている所も良い。星形の魔除けステッカー、もう少し重厚なありがたみが欲しいかも・・。ところで、気になった事がある。神様でなく、人(人間)を祀る時の規定と言うものがある。本来人は祀られるべき対象ではないが、特例があるのだ。御霊である平清盛や、菅原道真はともかく、人である秀吉や信長を祀る神社は明治政府に公式に認められ存在する。明治以後に「人」を祀る神社が増えているのは明治政府が行った宗教改革のせいである。その明治の「人」を祀った神社の中に「清明神社」が無いので改めて、どこに分類されるのか不思議に思った。そもそも晴明神社は本当に昔から存在していたのか?1007年(寛弘4年)に晴明は祀られたとされるが、当初は祠(ほこら)だけで神社までは無かったのではないか? などと思ったのだ※ 2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」の中、「維新政府の宗教改革(振り回された神社)」にて明治政府の宗教改革について書いています。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)※ 御霊信仰については、2015年2月「北野天満宮 梅花祭り」「北野天満宮と御霊信仰」の中で簡単に紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭り
2018年01月11日
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最後に他のリンク、先追加しました。前回、秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)が大阪の発展の始まりだと書きましたが・・。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)もともと堺の商人の貿易力は戦国の時代から信長も認めていた事。秀吉の時代を経て江戸の城下がはるか遠くなっても、大阪は戦略的にも、経済的にも重要な拠点。徳川家康がそれをほっておくわけはなかった。大阪夏の陣後、家康の特命により摂津大阪藩10万石の藩主となったのは、家康の外孫であり養子でもある松平忠明(まつだいらただあきら)(1583年~1644年)(在職 1615年~1619年)である。そもそも彼は秀吉との休戦協定中、大阪城外堀と内堀の埋め立てを担当した奉行でもあった。※ 徳川方 勝利の一因は、この埋め立ての早さにもあった。つまり、家康の肝いりで藩主となり大阪城下の戦災復興担当に任命されたのも彼なのである。在職期間に大阪の町の区画整理をし、人を大阪に移住させたり、市街地の拡大を積極的に行い、堀の開削を進め物流を確保したり、町の強化も図っている。(少なくとも藩主時代の5年で街の骨子は造られた。)在職は5年であるから、城下中心部が主であるが、それはどれもこれも素晴らしく計算されたものである。頭の切れる人だったに違いない。松平忠明(まつだいらただあきら)は「大阪都市計画史上特筆すべき業績を残した人物」と、讃えられている。因みに、1619年、摂津大阪藩は幕府の直轄地となり大阪町奉行が置かれる事になった。つまりこの時、摂津大阪藩10万石は無くなったのである。そして1620年、松平忠明 転封(てんぽう)後に大阪城の再建が始まる。1624年には大阪城下の町組、大阪三郷(おおさかさんごう)(北組、南組、天満組)ができている。大阪城の再建は、都は江戸に行ってしまったが、大阪と言う街の活気を取り戻す事に寄与したのだそうだ。さて、今回は前回に引き続きミナミの繁華街にある法善寺の紹介ですが、その前に面白い事を発見したので先に紹介です 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大阪七墓)摂津大阪藩主 松平 忠明大阪七墓と七墓めぐり千日墓地と法善寺法善寺と法善寺横丁水掛不動(みずかけふどう)大阪七墓と七墓めぐり摂津大阪藩10万石の藩主となった松平忠明が行った仕事の中に、寺および墓地の移転がある。街の拡張を行うにあたり寺は小橋村と高津村、天満村に集められた。そして、じゃまになった墓地をまとめ、また火葬場や刑場を市外に移転させたのである。(もともとそこにあった墓地もあるが・・)それでできたのが江戸(時代)の「大阪七墓」である。梅田村、濱村(南浜)、葭原(よしわら)、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、飛田(とびた)、千日(せんにち)※ 江戸から明治にかけて大阪市内には七つの墓所と二つの処刑場(No6.No7)があった。下の地図は現在の環状線の駅に乗せてみました。便宜的(べんぎてき)に数字を当てました。(大阪環状線を右回りに梅田を1番にしました。)1.梅田墓所・・・・・・・・JR梅田貨物駅のあった北ヤード。火葬場もあった。 1684年大阪三郷の墓地を集めた曾根崎の墓所が梅田に移動したもの。さらに長柄墓地に移転。 近年の再開発の為、平成22年8月に地蔵尊は四天王寺の地蔵堂、供養塔と後から出た墓石は川西市の稱名寺、遺骨は天王寺の一心寺に改葬。2.濱村(南浜)墓所・・・・・北区豊崎。 開所747年。 行基(668年~749年)によって開所されたと言われ、日本最古の墓所とか・・。現存。3.葭原(よしわら)墓所・・北区天神橋6丁目。沖向地蔵尊の堂宇のみ現存。堂はポケストップになっている。 墓所は北市民館建設の為、長柄墓地に移転。天六地下鉄工事爆発事故の現場界隈だった。現在は無い。4.蒲生(がもう)墓所・・・・都島区東野田町。京橋駅の外側近く。現存。5.小橋(おばせ)墓所・・・天王寺区東高津公園。真田丸の南方に位置する。現在は無い。 冬の陣、真田丸攻防の時の戦士の墓だったとも・・。1914年、北の十萬寺に移転。無縁仏は大圓寺へ。6.飛田(とびた)墓所・・・・西成区JR新今宮駅の南側。処刑場があった。 1874年新設された阿倍野墓地に移転。近年まで墓地跡に太子地蔵尊があったらしいがそれも現在は無い。7.千日(せんにち)墓所・・中央区千日前。火葬場と処刑場があった。(大塩平八郎ら20名の処刑) もともと江戸初期に集められた場所のようだが、千日寺と呼ばれた法善寺、竹林寺(天王寺区に移転)の南に刑場と聖六坊、斎場、焼場、灰山、墓地などがあった。大坂三郷、最大の墓所だったらしい。 刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転(1872年の地図には既に記録が無い)大阪冬の陣に続き夏の陣の戦没者は相当数いたようで、墓地は共同墓地的な要素が強かったのかも。もちろん普通の寺にも檀家の墓所はあった。まだ墓所に入れてもらえた人はともかく、堀に落ちて、そのまま埋められてしまった方々もかなりいたようだ。建設工事の時に未だに人骨もよく出るらしい。400年もたっているのにね 七墓めぐり江戸時代中頃から、明治の初期まで、大阪には「七墓めぐり」と言う風習(流行?)があったそうだ。盂蘭盆会(うらぼんえ)(7月13日~16日)の間に、諸霊供養の為、木魚、持鈴、摺すり鉦などを持って徹夜で大坂七墓を巡り無縁の卒塔婆を回向すると言うもの。※ 祖先の供養と同時に、自身が極楽浄土へ行けるようにと言う願をかけたと言う話もある。千日墓地と法善寺「千日前」とか、「千日前通り」と言う地名は今も残っているが、これは先に紹介したように千日(せんにち)墓所に由来している。明治の初期に移転をよぎなくされたが、かつて、そこには千日(せんにち)墓所があり、刑場があり、火葬場(火屋)があり、幾多の寺が寄り、地蔵が置かれた土地であった。もちろんそれができたのは江戸の初期。冒頭紹介した松平忠明(まつだいらただあきら)の町造りの中で置かれたものだ。順序としては、墓所が決められ、寺が寄ってきた。法善寺が移転してきたのは1637年。竹林寺(前身は浄業院)が移転してきたのは1649年。いずれも墓所より後。また江戸後期地図にある蓮登山自安寺(日蓮宗の門跡)が来たのは1742年。※墓所は、松平忠明の着任中(1615年~1619年)には決まっていたはず。夏の陣の戦没者などがいたはずだから・・。千日寺(せんにちでら)とはそのネーミング、一般的に周知されているのは、法善寺と竹林寺が千日回向(せんにちえこう)を行う寺だった事。通称「千日寺」とよばれ、その門前は千日寺前と呼ばれたと言うもの。千日回向とは?回向(えこう)とは、1)死者の成仏を願って(主家)供養をする。とか、2)僧が念仏で自分の修めた功徳 (くどく) を他の人に分け与える。とか、その念仏により、3)阿弥陀如来が人々を救済し、浄土に迎えくれると言う(他力回向)。など。※ 千日回向とは、詳しくわからなかったが、千日毎に行われる特別な回向があったものと思われる。そもそもは、1)の意味で「大坂の陣での戦死者を含めた死者の供養の為、千日回向が始められた」と考えられる。が、江戸も中頃以降? 目的は2)や3)に変わって行ったようだ。 一度の参詣が千日分の御利益が得られると騒がれ浄土宗の法善寺や竹林寺は千日回向に来る人でかなり賑わったらしい。確かに千日ごとでは3年弱になるからね。寺が年中賑わっていたのなら、回向は年中行われて、いつでも御利益がもらえたと考えた方が正しいのかも。下は道頓堀近くの看板の一部「道頓堀周辺図(幕末頃)」 ※ 見づらかったので手を加えました。図の難波新地は1765年に開発され、茶屋が集まりやがて大阪有数の歓楽地となる。千日(法善寺)の人気が出て、知名度が上がった理由千日の周辺は、娯楽所が寄り合っていた場所。後に難波新地もできる。本当は千日寺近辺に遊びに来るのが目的だが、体裁的に、千日参詣を口実に利用した可能性が・・。何しろ墓地のすぐ北には幕府に公認(1653年)された芝居名代5棟が立ち並んでいた。※ 芝居小屋の方が法善寺より早く1626年(寛永3年)に移動してきたらしい。(看板に書いてあった。)下は大坂歴史博物館のジオラマからこうした芝居小屋は道頓堀の前に建ち並んでいたらしい。現在、かに道楽やくいだおれ太郎の店が並ぶ道頓堀通りだ。また、芝居小屋だけでなく、法善寺の開帳時には見世物小屋が開かれ、軽業や見世物興業、勧進相などが行われたようだ。※ 実話の心中(しんじゅう)話を舞台や浄瑠璃(じょうるり)にして演じて客を呼ぶ(興業)など話題も造った。日本橋(道頓堀東)の方面には宿屋があり、新町に女郎屋が存在していたかは定かでないが、夜鷹(よたか)(辻の売春婦)は確実にいただろう。1627年、新町に吉原遊郭 誕生していた。まあ、何にしても、千日寺と共に界隈は有名になり、旅人(観光客)も立ち寄り大いに繁昌したようだ。大坂歴史博物館のパネルより現在の地図にだいたいの場所を載せてみました。黄色が現在の戎橋筋商店街、ピンク1~5は芝居小屋の位置(今の道頓堀通り)紫は現在の法善寺の場所。緑の四角内に千日墓所(東墓地と西墓地、中に刑場、火屋(火葬場)、灰山が築かれていた。※ 今回、はっきり特定するのを避けましたが、詳しく調べて載せている方はいます。※ 千日前デパートの火災事故による大きな被害は、その場所がらの因縁がもたれる由縁です。先に書いたように、刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転している。この元墓地の場所は繁華街となり、地価が高騰。近年の開発で千日前通りに面していた竹林寺も2008年になって天王寺区勝山へ移転している。一方、現在も残り、且つ水掛不動尊で繁盛している法善寺は。昭和の時代も平成になってからもずっと人気で、ミナミの顔となっている。法善寺と法善寺横丁どちらかと言えば、現在の法善寺は道頓堀からのが近い。ここが寺か? と思える路地を入った一角にある。正直、どこからどこまでが寺なのかもよくわからない。普通の寺なら本殿があり、そこで拝むのが当たり前。しかし、ここにはそう言うかんじではない。写真左に金比羅堂(こんぴらどう)。写真正面の唐破風の向こうに水掛不動尊(みずかけふどうそん)上は水掛の順番待ちの列。水掛不動の正体は不動明王(ふどうみょうおう)様です。乾く時間もなく、常に水を掛けられているので水苔でフワフワ、モサモサのお不動様。見て、正直ちょっと驚いた こんなになっちゃって・・・水掛不動(みずかけふどう)実際、水を掛ける根拠は何もないそうだ。そもそも不動明王(ふどうみょうおう)は大日如来の使者とされ、憤怒の相で自ら火生(かしょう)。身から火炎を放出してその火で悪魔や煩悩(ぼんのう)を焼き尽くすと言う明王である。だから本来の御利益は、厄払いです。逆境(ぎゃっきょう)を乗り越えたい人にお勧めですが、物は考えよう。学業、仕事、勝負事などなんでも行き詰まった事に厄払い。ある意味オールマイティーなのかも。因みにここでは水を掛ける事から水商売系にも良いらしい。戦前には、普通にお水を供えしていただけだったそうだ。ところがどこかの女性が願を掛けながら水を掛けたらしい。それを見た次の人が真似をした?今に至るまで、みんなが水をかけ続けていて、こんな姿になってしまったらしい。正直、石仏に水をかけ続けていつかヒビが入り壊れるのではないか? と心配である。上手い具合に火炎の所にコケは無い。それは意外に位置が高いから水がそこまで届かないのである。柄杓(ひしゃく)でかけても私には顔さえ届かない。中にはバケツでかける人もいるようだが、見ていて、さすがにお不動様に失礼な気がした。中央に不動明王(ふどうみょうおう)、脇侍は矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ) どっちがどっちか解りません。水掛不動の堂を横から見た所。水掛不動様は割と薄い?金比良堂江戸時代には金比良信仰でも賑わったと言う。でもこちらは神道なんですね。神仏習合の見本みたいなものです。金比良さんは漁師、船員など海事関係者の守り神として崇敬され、信仰されているそうだ。この堂の右の路地にたくさんの地蔵が・・。慈悲地蔵尊。奉納料、一体2万円なり。法善寺横丁道の両脇には和洋の飲み屋さんが並ぶ。そもそも法善寺の境内の露店から発展したのがこの横丁のルーツらしい。明治から昭和の初期にかけては寄席の紅梅亭と金沢亭が全盛で、落語を楽しむ人々で賑ったそうだ。これら夜のお店の繁盛のおかげで、逆に水掛不動尊は夜も水を掛けられているのだろう。看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんらしい。多分、法善寺正面の看板が西で、こちらが東。さて、道頓堀通りの看板の写真が今回載せられませんでした。大阪七墓が長くなって・・面白ハデ看板の写真だけ番外で近日アップします。今週日曜から再び大阪入りです。天気だったら良いのにな (* ̄- ̄)人Back numberリンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)他 一部リンク先リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2017年10月31日
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以前は当の寺や神社の案内が一番正しい・・と思っていましたが・・。社寺の来歴では、都合の悪い所など敢えて書かない。実は正しく解っていない。特に口伝により伝えられた来歴の信憑性は微妙です。それなのに? 希望的観測? ならまだしも、社寺にマイナスになりそうな内容を敢えて消すなど(来歴詐称?)史実をねじまげている所も見られ、本家の掲げる由来は逆に信用できない・・と思うこの頃です。やはり、ある程度は客観視して照らし合わせないとね比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由比叡山(延暦寺)と僧兵比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない本当の焼き討ちの場所は坂本?僧兵が生まれた理由今月初め比叡山に行ってきましたが、寺では、信長に焼き討ちされて尊大な被害を被った話が連呼されていました。比叡山の説明に寄れば、最盛期3000に及んだと言われる堂や伽藍は信長の全山焼き討ちにあって消滅したとの事。実際、信長は確かに焼き討ちをしましまたが、当時の比叡山側に問題があったのは明らか。それに焼き討ちしたのも歴史的に見れば、実は信長だけではなかったのです。加えて言うと、近年の発掘調査で、考古学的に信長の時代に合致し、火災焼失と思われるのは根本中堂と大講堂のみで、寺側が言う程の被害は発見できなかったとの事。最盛期に本当に堂が3000もあったのか疑問だし、それらは信長以前に無くなっていた可能性のが高い。そして、何より、今回行って思ったのは、本当にこの深山の中まで攻め上り、焼き討ちできたのか? と言う疑問である。ひょっとすると今の比叡山の山中ではなく、信長が攻めたのは琵琶湖畔の坂本にある日吉大社の山、八王子山だけではなかったのか? と調べているうちに確信してきました。さて、今回写りがあまりよろしくないのですが、10月2日に出かけた雨の比叡山の写真です。比叡山がいかに深山であり、今だからこそルートができているけれど、人が易々入山できるようなお山では無い事を紹介します。京都側から入ったので、叡山本線で八瀬比叡山口からケーブル、ロープウェイを使って比叡山頂に向かいました。叡山ケーブル 八瀬駅八瀬から先は急勾配を上るケーブルカー(鋼索鉄道) が設置されている。その高低差561mは日本一らしい。(9分で登る。)そして勾配も平均勾配が40分の1。ケーブル比叡駅の標高は686.5m。逆算すると、ケーブル八瀬駅の標高は125.5m。天気が良ければ、京都の街が見えたに違いない。残念。でもまた行きますそれにしても、こんな山登れませんよ。比叡山(延暦寺)と僧兵最澄や、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍の功績にあぐらをかき、権力を得た比叡山。平安時代より寺の勢力を拡大してきた比叡山は朝廷でさえも手を焼く目の上のたんこぶとなっていた。武力を持って他を制するなど、仏の道の者が? と言う非道な振る舞いがあたりまえに。朝廷への嘆願も多く、非常に達の悪い存在に・・。つまり、比叡山は立派な教えを持つ寺であるにもかかわらず、平安後期にはすでに多くの敵を造る存在になっていたようだ。もともと僧兵は、寺領荘園を自衛する目的で始まったが、保守の度が過ぎて他者の者まで奪う行為に発展? 比叡山の私設、僧兵の進軍で寺社を奪われ武力により傘下にされた寺は数知れず。叡山ロープ比叡 駅濃霧でも止まらないらしい。カミナリの時は停電すると困るので運休する可能性はあるらしいが・・。3分で到着。比叡山駅の標高は813m。比叡山山頂の標高は848m。実はロープウェイを降りてから、シャトルバス乗り場まで1km程歩く。バスは比叡山内のシャトルバスである。東塔エリア、西塔エリア、横川エリア、ロテルド比叡 間を巡回している。つまり、普通の寺の山と違い、比叡山は連山でできている。お山は一つではないのである。エリア移動をシャトルバスでし、後エリア内は自力で山坂、階段の上り下りが基本。ぶっちゃけ、足腰の悪い人には無理である。比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない比叡山の脱線はおよそ400年。平安時代末期、寺社の統制に力を入れていた後白河法皇(1127年~1192年)により、平清盛(1118年~1181年)に延暦寺と僧兵、駆除の攻撃を命じている。特に南都興福寺と比叡山延暦寺の対立は激しく手を焼いていたそうだ。実際、京都の祇園社(八坂神社)争奪で興福寺と争い、勝った延暦寺は、周辺の利権を獲得。より勢力を拡大。特に鴨川西域の利権を独占すると物資の流通も独占して財力も得る事になる。信長の焼き討ちより酷かったのは、室町時代、1435年(永享7年)、第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)による制圧です。将軍が強行した理由の一つには、天台宗内部、延暦寺と園城寺(三井寺)の対立で、比叡山の宗徒によって園城寺(三井寺)が焼き討ちされた事。(焼き討ちは度々あったらしい。)※ 園城寺(三井寺)は比叡山の琵琶湖側の麓にある。将軍、足利義教は自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲。トップの僧侶の首を斬首して、沈静化。(この時、抗議のため根本中堂に火をかけたのは僧侶側。)ひょっとすると、信長よりも強烈な仕打ちをしたのは足利義教かもしれない。その炎は京都からも見え世間は騒然となったらしいが、それに触れる者を「罰する」とした為に世間には広まらなかったのかもしれない。しかし結局、足利義教が亡くなると、比叡山は再び力を増したと言う。軍兵とも言うべき、数千人の僧兵をまとった比叡山は軍事独裁国家に成長していく。つまり、寺の看板をしょってはいるが、そこら辺の武将よりも強大で、やっかいな存在であったのは間違いない。1499年(明応8年)には、管領 細川政元も延暦寺を攻め、根本中堂を灰にしている。それにしても根本中堂は何回焼けたのか?※ 比叡山東塔の根本中堂は比叡山第一の総本堂。比叡山の勢力は相変わらず。それは戦国時代に入ってからも酷かったらしい。1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。西塔エリア 入口2017年10月1日より、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の始祖 相応(そうおう)和尚(831年~918年)の1100年御縁忌を記念して、西塔エリア、釈迦堂の本尊、釈迦如来立像がご開帳され、同時に内陣特別拝観が行われる事になった。それがお目当ての比叡山でした。酷い雨でしたが・・。西塔の中堂が釈迦堂。正式には転法輪堂。釈迦堂側からの階段 あの階段を下り、帰りは登るのである。釈迦堂(転法輪堂)は、信長の比叡山焼き討ちで焼かれた事になっている。※ 1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。それは信長が焼き討ちする前の年。現在の建物は、秀吉の代になって比叡山再興が許可された為に、秀吉により、坂本の圓城寺(三井寺)弥勒堂を移築し、手を加えたもの。建物自体は、鎌倉時代建立のもので、山上で、現存する最も古い建物だそうだ。今回の内陣公開は、比叡山の僧侶でさえ、拝んだ事が無いものまで含まれているらしい。宝物館の方よりも、良かったです。そして1571年(元亀2年)9月12日、織田信長による比叡山の攻撃が始まる。そもそもは、浅井、朝倉攻めに伴い、比叡山に協力のお願いをした事に始まる。せめて協力しないまでも、邪魔だてしないで欲しい。もし、邪魔をするならば、一山焼き払うと言明したそうだ。太田牛一「信長公記」(現代語訳)より「比叡山、山下の僧衆は延暦寺が皇都の鎮守であるにも関わらず、仏道の修行でも出家の道を外れ、天下の笑い者になっているのも恥じず、天の道に背く事の恐ろしさにも気付かず、色欲にふけり、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて浅井、朝倉に荷担し、かって気ままな振る舞いをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった。ついにその時が来たのであろうか。その鬱憤を今日こそ晴らす為、9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞(うんか)の湧き上がるごとく灰燼(かいじん)の地と化した。山下の老若男女は右往左往して逃げ惑い、取るものもとりあえず、皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った。」僧、俗、学僧、上人、すべての首を切り信長が検分。中には寺にいるはずのない美女、小童、なども居て数千の死体が転がったと言う。戦国武将らも比叡山には手を焼いていた。結果、信長が焼き討ち討伐に成功し、比叡山は一時おとりつぶし状態に。もしかしたら信長以外の武将が同じような事をしていた可能性もあったろう。・・と思う。因みに、この比叡山焼き討ちの後、明智光秀は近江国滋賀郡が与えられ坂本城を築城。城主となる。信長の目的は比叡山の監視と琵琶湖の制海権? だったらしい。その城は琵琶湖に面した平城であったが山崎の戦いで明智光秀が落命すると、安土城から引きあげできた明智 秀満(あけちひでみつ)が居たが、秀吉の軍勢に囲まれると、自ら城に火を放ち自害したそうだ。信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで果て、坂本城も無くなると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めたと言う。比叡山の再興の許可は秀吉が出している。東塔エリア 大講堂。経典の講義や、5年に1会の法華大会の場になるそだ。坂の下左(修復中)が東塔エリアの中核。根本中堂である。内陣の撮影はできないが、この中に「不滅の法灯」が置かれている。ところで、延暦寺に脈々伝わる「比叡山・不滅の法灯」であるが、やはり、焼き討ちのあった1571年(元亀2年)9月12日にその炎は途絶えている。が、不滅の法灯は当時、各地の天台の寺に分燈されていた事から、ラッキーにも、山形の立石寺(りっしゃくじ)から分燈されて本家に戻れたのである。天皇もしのぐ権力を振りかざし、俗人のような振る舞いをしていた当時の比叡山の堕落ぶりは皆が周知していた、それ故、「山門を亡ぼす者は山門なり」と皮肉まで言われ、同情するよりも肯定的に評価されて来たと言うのも皮肉である。比叡山と周辺のマップ左下が京都。右が琵琶湖。左のピンク→が、叡山ケーブル&叡山ロープウェイ右のピンク→が、坂本ケーブル黄色の円が日吉大社と八王子山坂本ケーブルは、全長2.025km。日本一の長さを誇るケーブルカーである。比叡山の境内がいかに広いか解るだろう。坂本ケーブル、延暦寺駅からの景色(本来は琵琶湖が見渡せる絶景のはず。)本当の焼き討ちの場所は麓の坂本?それにしても比叡山は行って見てわかるが、非常に険しく広大な山である。簡単に登って比叡山全てを焦土にする事など不可能である。襲撃の前日(9月11日)、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたらしい。そして攻めたのは、現在の坂本ケーブルの乗り場近くの日吉大社と八王子山である。実際、八王子山は比叡山の一部となる山(標高381m)であるし、当時はそこも延暦寺境内だったのだろうが、そこから現在の延暦寺の東塔までは恐ろしく深山を登らなければならない。一日では無理である。誰か配下の者を別に登らせて、火を付けさせた可能性はあるが・・。先に紹介した「信長公記」の中「皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った」とある。現在、八王子山には日吉大社の三宮宮と牛尾宮があり、おそらく攻められて逃げた衆徒らはそこで囲まれ斬首された。当時、比叡山の僧徒のほとんどは坂本に居住していたのかもしれない。東塔や西塔がある深く険しい深山には、千日修行する行者しかいなかったのかも。坂本ケーブル 延暦寺駅 654m見るからに急で険しい山の中。比叡山に入るなら、恐らく、坂本ルートであろう。坂本ケーブル、坂本駅の標高は170mところで琵琶湖の海抜は84mである。ここまでの標高差は86m。琵琶湖湖畔の坂本と言っても結構登っているようです。坂本駅の右手の山の方に日吉大社はある。(ここより徒歩5分)僧兵が生まれた理由当時は僧兵とは呼ばなかったようだが、大寺院で雑務をしていた者達が武装化して寺社の境内や荘園を守ったのが始まりだったようだ。最初は警備程度のものだったのだろうが、後々他勢力への対抗のために完全な兵隊に進化。「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を憶えているだろうか? 歴史の教科書で習いましたね。「墾田永年私財法」は、聖武天皇の治世、743年(天平15年)に発布された勅令で、墾田(開墾して得た耕地)の永年私財化を認める法令です。農地を増やし税をたくさん取る為に天皇の勅令によりこの法律はでき、人々は必死に田畑を開墾するかと思いきや、実際、得したのは資本のある金持ちと大寺院である。金持ちは人を雇い土地を拡大。寺社も同じく僧徒らを使い土地を拡大。しかし、領地が増えれば盗賊もやってくる。「自分達の土地は自分達で守ろう」と武装化したのが武士の始まりとされています。同じように寺領荘園を有する寺院の武装集団は、僧兵と言う分類になります。実際は僧侶が武装化したわけではなく、当初は使役されていた寺男達がそれを勤めたのでしょうが・・、ところで、僧兵と言う言葉から、十字軍の兵隊達がよく重ねられるようですが、彼らとは全く違います。彼らは、聖なる戦いの為に、兵士となりましたが、実際は僧侶ではありません。テンプル騎士団に限って言うなら、彼らは、テンプル騎士として働く間に限り、「修道誓願」の誓いをたてる事が約束されていたのです。だから騎士としてある時は、彼らは真面目な修道騎士だったのです。※ テンプル騎士団についてはかなり詳しく書いています。リンク先一つだけのせます。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)日本の僧兵はそう言う意味では、僧侶の姿をしているけれども、こちらも決して僧侶ではなく、ただの荒くれ者? だから女は買うし、博打もするし・・と駄目駄目だったのでしょうか?最も、そう言う者らを雇い、管理していた僧侶側に問題があったわけですが・・。もちろん今の比叡山の立派な僧侶の方々とは何の関係もありません。ただ、自分達だけ黒歴史に蓋をして、信長を悪く言える立場ではないよ・・と思ったわけです。比叡山開山1300年近くの中、黒歴史が400年。凄いな
2017年10月13日
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庚申堂の Back numberと大阪関連のBack numberもラストにあります。天王寺は、前に紹介したように、石山本願寺VS織田信長「天王寺の戦い」の場所ですし、何より、徳川家康VS真田 信繁(幸村)「大坂夏の陣」の主戦場です。それは地形的な問題もありますが古来、要所であった場所だからです。※ 2017年4月「大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村」リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村何やら、界隈にまた新たに旗が沢山建ち、茶臼山には以前なかった石碑が建っていました NHKの大河ドラマ以降、訪ねてくる人が増えたのでしょう。ブームに乗って天王寺一帯の街おこしに利用されているのです。尚、ビックリなのは壮年で戦った筈の真田 信繁(幸村)なのに、美青年の姿でイラストされている事。これはもう若い女性受けまでねらった商法ですね。2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 1~2」 を改訂してタイトルを替えました。リンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)※ カテゴリーの「神社仏閣」に仕分けしています。さて、今回引き続き紹介する庚申信仰は、前回の2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」を見てからの方が、わかりやすいかと思います。基礎が書いてあるので。。、リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)四天王寺庚申堂青面金剛(しょうめんこんごう)と青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?庚申詣での楽しみ四天王寺庚申堂は茶臼山(ちゃうすやま)のすぐ近くでした。四天王寺南大門より南に300mの少し下った坂の途中。JR天王寺駅にほど近い。庚申堂東門前から庚申街道と四天王寺南大門を見る東門かつては、四天王寺南大門の脇に堂があったようです。前回紹介したように、明治の維新政府により、神仏分離が進められ、庚申堂は寺の境内から出されたのは間違いないようです。(現在は飛び地扱い)※ 四天王寺や庚申堂の解説にはそのような記述は一切書かれていませんが・・。大阪歴史博物館蔵 四天王寺境内絵図集 (18世紀前半の四天王寺伽藍図)赤く囲った所が18世紀前半の庚申堂の位置。赤い矢印300m先に現在の四天王寺庚申堂がある。南大門より、そこに至る道は庚申街道と呼ばれている。※ 資料は中之島の府立図書館で探してきました。青面金剛(しょうめんこんごう)と青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)一般に、庚申信仰で祀られる本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)である。しかし、四天王寺の庚申堂では、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が祀られているようだ。(・_・?) ハテ?そもそも、庚申信仰は、中国より伝えられた守庚申(しゅこうしん)と言う行事を平安貴族達が真似して始めたのが発端のようだ。そしてそれは庚申の日を終日寝ずに起きて居ると言うものであった。(庚申待 or守庚申)※ 前回(2017年9月)「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」で説明してます。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)庶民にその慣習が降りて来たのがいつ頃かは特定できないが、三猿など、山岳信仰と結びつき? 守庚申(しゅこうしん)は形を変えたようだ。庚申の日は、青面金剛(しょうめんこんごう)に人々からのいろいろなお願いを祈祷する日に・・。本来は病気と寿命を司る天帝に告げ口する三尺(さんし)の駆除をしてくれるのが青面金剛(しょうめんこんごう)の役割だったはず。今はいろんなお願いをきいてくれる存在に?しかし、四天王寺はちょっと違う。(四天王寺の庚申縁起)四天王寺の「庚申堂由来記」によれば、疫病の流行った7世紀、庚申の日?、帝釈天のお使いと言う青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が病気払いの祈祷をしていた僧の前に現れ「人の悩みを憐れみ除災無病の方便を与えよ。」と告げられて来たと言う。その後疫病は退散したので、以降、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を祀る事になったとされる。つまり、四天王寺では、病気と寿命を司る天帝は、帝釈天であり、その使いが青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)と言う事になっているようだ。青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)の描かれたポスター四天王寺庚申堂の青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)像のご開帳は60年毎の庚申(かのえ さる)の年。近々では1980年(昭和55年)。次の庚申の年は2040年(平成52年)となる。しかし、今上天皇がご退位を考えておられるので、年号は変わっているだろう。きっと・・。それにしても、他は青面金剛(しょうめんこんごう)なのに、四天王寺ではなぜ青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が祀られているのか? 前回、八坂で紹介したように青面金剛は仏教の仏ではなく、またアマテラスの系譜でもない。それが明治政府が庚申信仰を棄却した理由である。しかし、青面金剛が帝釈天のお使いであるなら、問題は無い?四天王寺が、明治政府への言い訳の為に青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を間に挟んだのか?あるいはもっと昔から? 四天王寺では青面金剛が仏教の仏ではない事に気がついていたのかもしれない。なぜなら、唐から守庚申の行事を日本に持ち帰ってきたのは、間違いなく、遣唐使であったからだ。それすなわち僧である。守庚申(しゅこうしん)の行事は、その頃日本に伝わり、四天王寺が天台化した頃(9世紀)に取り入れられた? と推測される。※ 「青面金剛童子」を祀る行為は室町時代に入ってからとの説もある。 尚、こちらの縁起に三尸(さんし)の話は見えない。正面門(南)日本を襲った疫病が現世利益の庚申信仰にのっかった?ところで、実は海外との交易や人の行きが始まって、日本に入ってきた物は良いものばかりではない。大陸より新型の疫病(えきびょう)も持ち込まれている。白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)以降は、特に大陸からの大量の移民団も来たし・・。ほとんど知られていないが、7世紀~9世紀は日本に疫病が蔓延。苦しんだ時代でもあるそうだ。※ 白村江の戦いについては、2017年7月に書いてます。 「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」 の中 大宰府の大要塞化と百済からの難民 「百済の最後、白村江の戦い」 「百済からの亡命者」リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)特に聖武天皇(701年~756年)の御代、735年~737年に流行した天然痘では政府高官や藤原四兄弟なども感染して大量の死者が・・。当然政治自体も混乱を極めたようだ。聖武天皇による、後期難波宮(大阪の宮)の建設などは、飛鳥に居られなかった切迫した状況があったからだと 考えられる。四天王寺の「庚申堂由来記」に書かれている事が真実なら、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)の出現と共に、いくら仏僧が加持祈祷をしても収まらなかった疫病が、たまたまピークを越えて、収束したのだろう。それ故、四天王寺では無病息災と疫病退散がメインになったと思われる。人は単純に現世利益を求めたがるものだ。霊験(れいげん)があるなら庚申信仰の本尊は青面金剛でも、青面金剛童子でも帝釈天(たいしゃくてん)でも猿田毘古神(さるたひこのかみ)でもよいのかも・・。宝輪閣お百度石(ひゃくどいし)の上にも三猿が・・。百度参りも民間信仰。願かけて寺社に百度参りをする慣習は鎌倉時代頃にはじまったとされる。大阪ではけっこう見かけます。いつか詳しく調べてみます。三猿堂今は堂の中には三猿の置物。(格子のすきまから撮影。二猿しか撮影できず。)山王信仰と結びついてお山の猿(神徒)が持ち込まれたのでは・・と寺で聞いたが・・。前回、三猿は、天台系の僧により8世紀頃に日本に持ちこまれたらしいと紹介。仏教、密教、修験道、道教などいろいろ絡んで来るのは確か。三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が庚申の使いに抜擢された理由は、「見なかった事にして。聞かなかった事にして。天帝に告げ口しないで。」と言う意味が込められていたかららしい。※ 三猿が三尺(さんし)の役割をしているかのようだ。最も昔は猿もあちこち出没したのだろう。四天王寺庚申堂では、近年まで実際生きた猿がいたそうで、下はそのお猿さんたちのお墓らしい。堂の中にも猿が・・。(許可を得て猿だけ撮影させてもらいました。)毎日朝、10時~11時、「猿加持祈祷」なるものが行われているそうだ。写真の木猿で体の痛いところを撫でてもらうと、「病に勝る」「魔も去る」と言う事らしい。※ 猿は「サル(去る)」から厄除けの意味にも使用されている。本堂は、行った事のない人でも、もしかしたら見た事があるかもしれない。1970年の大阪万国博覧会の時に日本仏教会が建てた「日本仏教館」(宝輪閣)である。四天王寺復興部建築事務所が設計にあたった縁もあり、博覧会終了後に四天王寺に移築し庚申堂として改装した建物だそうだ。※ 天王寺区役所市民協働課の資料より以前のものは1945年の空襲で焼失。外はモダンであるが、中は天井から灯籠が吊されて伽藍には四天王が安置されている。最も身近で拝める四天王像だそうだ。手水舎(ちょうずしゃ)と奧が東門四天王寺庚申堂では、庚申の日には、四天王寺から僧侶が来て祈祷が行われる。特に年明け初めの初庚申日には和歌山より修験者が来て護摩焚祈祷も行われ賑わうらしい。庚申詣での楽しみ庚申の日には、八坂の場合もそうであったが、なぜかコンニャクの市が立つ。四天王寺だけでなく、八坂でも庚申の日には市が立つ。コンニャクは体の砂払い(老廃物の排出)と言われている事からなのか?四天王寺では、北を向いてコンニャクを食べると無病息災が叶うと伝えられている。ところで、コンニャクの砂払は迷信ではない。実際グルコマンナンと言う食物繊維でできていてるコンニャクは人の消化酵素では消化しきれずに腸まで届く。そして腸内活動を活発にして老廃物を排出する助けとなる物質なのだ そもそも、歴史をみればコンニャクは仏教と共に日本に伝来。薬用として始まった食品らしいし・・。恐らくコンニャクを食す慣習は江戸時代からだろう。何しろ庚申信仰は江戸期に人気急上昇した信仰なのだ。そして昆布も大阪では庚申の日のお土産となっていたらしい。大阪と昆布と言えば北前船の影響だろう。江戸時代から明治時代にかけて北海道から日本海沿岸を航行した海運のたまものである。運ばれてきた昆布は昆布の佃煮となって大阪名物となっている。この昆布は細く365筋に切り、毎日食すると効用があるらしい。(髪にいいからね。)下は現在も東門の前で営業する「梅須磨商店」「梅須磨商店」は江戸時代の創業。江戸時代から庚申の日は境内でも販売していたそうだ。昆布は自ら切らなくても、ちゃんと松葉昆布が売っている。昆布の佃煮は母のお土産にしました。江戸期には「七種の麁菓(ソカ、お菓子)を紙三角形に包み12銭をもって参詣人に授く」どうもかつてはお下がりのお供物が振る舞われていたようなのだ。現在は無い。代わりに現在は庚申の日に甘菓子が売られている。やはり東門の前に店を構える「青山の甘納豆」である。こちらも創業93年の老舗である。実は、こちらのお店と御縁があった。庚申堂の三猿堂の前に たまたまいた美人親子に庚申の話を聞いたのだ。七色菓子の話を聞いて、「七色ではないけどうちは甘納豆屋です。」と言うのでお店に伺った。上の庚申最中はお猿の形。餡が別にパックされているので日持ちがする。お土産に買ってきました。庚申の日は境内でも売られているそうです。甘納豆もお土産にはお手頃値段。私はミックスを購入。甘さはとても控えめ。サツマイモの甘納豆が特に気に入りました四天王寺庚申堂に行ったなら、是非お土産にどうぞ。実は、平成29年9月29日から30日にかけてがの庚申の日。つまり今日なんですね。だから急いでいたのですが、いろいろ忙しくて遅れました。庚申の日を待って、行って撮影してから載せようかとも思ったのですが、せっかくなので間に合わせました。Back numberリンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰) 四天王寺庚申堂大阪関連 Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎
2017年09月28日
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秦氏が歴史から消えて行った理由がなんとなく解りかけてきました。一言では終わらないので、松尾大社、もしくは大覚寺を紹介する時の機会にします。今回は別の案件ですが、やはりその歴史は古く、平安時代まで遡る変わった信仰のお話です。古来、日本は大陸からいろんな物を受け入れてきた。それはほとんど来る物をこばまなかっと言っても良い。特に宗教に関しては土着の神(カミ)がいるにもかかわらず、仏(ホトケ)をありがたく受け入れた。仏教を積極的に受け入れた蘇我氏に対して、物部氏は、従来の神様に対して「申し訳無い。神が怒り災いが起きるのではないか?」と反対したらしい。実は神と仏は全く別物だ。神は存在自体は不確かなものであるが、我々の周りのあらゆる物に神が宿っていると考えられ、人は神をあがめ、祀った。それは現実的に考えれば、自然への感謝とみて良い。一方仏教の方は、原始仏教に立ち返ると、釈迦が語ったのは、人の生きる道での精神論だ。畜生とは異なる思考を持つ人間の苦悩。迷いや悩みや、苦しみからの解放の教えこそが、釈迦の悟りである。つまり人の心を支える教えが仏教なのだ。仏像をありがたく拝む・・と言う行為は釈迦以後の後世の造り事。人は拝むだけでは救われない。本来の仏教は非常に哲学的な思考のものなのである。もっとも、渡来当時「人はなぜ生まれ、生きているのだろう?」などと考え悩んだ人達がどれだけいたか・・。「神頼み」と言う言葉があり、神様はいろんなお願いを聞いてくれる。(かもしれない)が、仏様には自身の誓願成就を祈るお願いくらいしかできないのである。明らかに、両者は性質が違うのだ。さて、話がそれかけたが、大陸から伝播した宗教は仏教だけではない。と言うのが今回の話に繋がる。八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)維新政府の宗教改革(振り回された神社)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か?庚申待(こうしんまち)とは?庚申待(こうしんまち)の変容庚申信仰にあやかる?くくり猿が八坂庚申堂を救う?日本初の暦中国からは儒教や道教思想も持ち込まれた。孔子(こうし)が示した儒教(じゅきょう)は。「仁、義、礼、智、信」の五常が示すように人の倫理に関する指導書? である。論語と共に日本に入ってきた儒教は、学問として限られた人達の中で浸透?問題は道教である。正式に誰が入れたわけでもない。気付いた時には日本中に道教思想は広がっていたようなのだ。今でも私達のまわりに残る民間伝承のほとんどが、そこからきていると言っても過言ではない。七夕とか、てるてる坊主、なども道教由来のお話であるし、前に紹介した「六道の辻」の閻魔信仰もまた道教由来。本能寺で紹介した「三足の蛙」もまた道教由来。方位としての「鬼門」のこだわりなども道教由来のものなのである。何だか庶民に広まった身近な信仰のほとんどが道教由来かもしれないと言う事実に改めて驚いたそもそも道教自体の発生が、中国でも、各地の土着に発生した話が各地に伝播されたものとされている。(内容に統一性が無い。)だからこそ、日本においても庶民の生活に一番近く、受け入れ安くもあったのかもしれない。それらは半ば楽しまれて拡散して行ったのかもしれない。子供にする夜とぎ話にもちょうど良いし・・。だが、庶民の中に浸透するにつれ、原型が失われ、不思議な変容をとげた信仰も多々あったようだし、それらが産んだ強い迷信は、もはや文明開化の中で「まやかし」の信仰とされたのも確かだ。京都、夢見坂からの 八坂の塔(霊応山法観寺)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)はこの撮影場所より少し下がった右側。維新政府の宗教改革(振り回された神社)とにかく日本人は、矛盾するようなものまで、何でも取り入れてきた。それが神仏習合と言う、ユニークな寺や神社を産み出したのである。が、明治の維新政府はそれらを否定して宗教改革を断行。国家の中心に神道を置く事で日本人のアイデンティティー(identity)を示したかったのだろうし、意識の統一も計りたかったのかも・・。まずはごっちゃになった神と仏の分離を始めた。(神仏分離)明治政府は仏教を迫害したわけではなかったが、過激な者達により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こってしまった。神社には国家からお金が出るようになったのに対して、寺の方は寺院の特権もはがされ寺領は減らされ、暗黒時代を迎えた。とは言え、神社自体も調査時の176000社から、合併や排斥があり80000社が削減されたらしい。素性の知れない祭神を祀っていた神社や、寺などはその対象になり随分閉鎖に追い込まれたり、前回触れたように祭神の置き換えが行われ、オリジナルが取り払われ変貌した所も多々。結局、明治の維新政府は信仰を利用した国家戦略で国をまとめようとしたわけだが、大戦での敗戦が決まると、日本統治に入ってきた連合国軍総司令部(GHQ)により、政府のしてきた国家神道の解体が進められた。諸悪の根源は明治政府の打ち立てた国家神道のせいだ・・と理解されたからだ。この時、維新の時と反対に、国家の庇護と援助金がなくなった神社に暗黒時代がやってきたのである。だが、GHQの予想に反して、神道は消滅する事なく、神社は個々に生き残りの道をかけて再スタートしたようだ。(信仰の自由となり、オリジナルを取り戻した所も・・。)事情を考慮してもらう為に前振りが長くなってしまいましたが、今回紹介するのは、明治政府によって「迷信(めいしん)」とされ、棄却された庚申信仰(こうしんしんこう)なのである。※ 庚申信仰は今や絶滅危惧の信仰で、本もほとんど絶版。都内大手ショップにもなく、古本の取り寄せに時間がかかりました。そして、今回もまた、かなり長くなりました m(_ _)m八坂庚申堂(やさかこうしんどう)八坂庚申堂(やさかこうしんどう)は、排斥されたにもかかわらず、今に残る庚申信仰の地です。しかも、元祖、発祥の地らしい。三猿即庚申尊庚申信仰では三猿と青面金剛(しょうめんこんごう)が主に祀られている。庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か? 庚申信仰とは、そもそも宗教とは言いがたいものですが、庚申(かのえさる)の日の夜に庚申の言い伝えにより「庚申待(こうしんまち)」の習俗(しゅうぞく)をしていた人達を言います。古くは平安時代に貴族の間で始まっていた?習俗とされ、その話は枕草子の中にも出てくるそうです。庚申待(こうしんまち)とは?60日に一度の周期で来る庚申(かのえさる)の日、寝ずに一晩をやり過ごす・・と言う習慣です。それは、庚申(かのえさる)の日、人の体に宿る三尺(さんし)と言う虫が、人が眠ると体を抜けだし天帝の所に向かい、その者の罪過を報告に行くとされ、それを受けた、天帝は、その者の健康や寿命を操作したと考えられていたからです。報告されては困る、身に覚えのある者達はそれを阻止するべく、「三尺(さんし)が体から出られないように、寝ずに庚申の晩が過ぎるのを待つ。」「庚申待(こうしんまち)」なる奇妙な習俗(しゅうぞく)ができたようです。そもそも庚申(かのえさる)と言うのは陰陽五行、十干(じっかん)、一二支(じゅうにし)が組み合わさってできた古来の暦の57番目の日をさしています。(60日で一周、同じく年も60年で一周して還暦となる。)北宋時代の道教類書、雲笈七籤(うんきゅうしちせん)には3回守庚申すると三尺(さんし)は弱り、7回すると根絶できると書かれているらしい。もしかすると、日本の各地にあった庚申塔や、庚申尊などの石塔は7回守庚申を終えた講(こう)の記念塔なのかもしれない。三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)もいつの頃か庚申信仰に欠かせないアイテムに中国より、天台系の僧により8世紀頃に日本に持ちこまれた三猿。日光東照宮より先に庚申信仰で三猿は有名に?三猿は庚申の使いになっている。庚申待(こうしんまち)の変容陰陽五行の暦なので陰陽道(おんみょうどう)に由来すると思われている人もいるようですが、もとは中国(唐時代)の道教の祭り、一陽来復を願う守庚申の行事に由来するらしい。※ 唐の守庚申は、日本の正月に似たものだったらしい。日本では最初(平安の宮中で)、僧や貴族がそれにならった「庚申の御遊」が始まり、後に陰陽道(おんみょうどう)の中で「延命長寿」あるいは「疫病退散」の呪法が取り入れられたのではないか?さらに、一般民衆に伝わるうちに、その手法は元の形から大分変化したと思われる。最初は一人で寝ずに真面目に朝待ち。いつしか複数の友達と歓談しながら寝ずに朝待ち。やがて酒を飲むように。人が集まり講(こう)なる集団が結成。村落単位もあったと思われる。やがてそれは60日に一度、大酒を飲める大宴会に発展? したのだろう。もはや災厄から免れる祈りの行事と言うよりは娯楽色が強い。明治政府はこれを悪しき習慣と位置づけたようだが、排斥されても娯楽の無かった山間ほど残ったらしい。何だか女性が多い気がする。開基 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)? 様かと思ったが、十六羅漢の1人、賓頭盧尊者(びんづるそんじゃ)の木像らしい。内容的には巣鴨の「とげ抜き地蔵尊」のように、悪い所をなでて拝むと良くなる・・と言う事らしい。なぜここに仏教が? と疑問であったが、八坂庚申堂の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」つまりここは今は寺になっていた。それにしても庚申信仰が廃絶されたのに、なぜ八坂に残っているのか不思議であったが・・。実は大阪にも四天王寺庚申堂が現在も存在する。しかし、そこもかつては四天王寺 境内にあったものが明治の神仏分離で外に出された・・と言う経緯がある。八坂庚申堂は、庚申信仰を捨て、寺として明治に生き残こり、敗戦後の宗教の自由により復活したのかな?本堂前現在の本堂は1679年江戸時代の再建本堂の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、秦氏が渡来したときに持ち込まれたもの・・とされているが・・。三尺(さんし)の虫を食ってくれるとも言われ中世以降は庚申待ちの時に青面金剛に祈る風習に変わった?とも言われる。庚申信仰にあやかる?青面金剛(しょうめんこんごう)が秦氏が持ち込んだもの・・との説はちょっと疑問。何しろその信仰は中世かららしいし、実は仏教の仏像の中に青面金剛(しょうめんこんごう)はいない。どうも仏教由来の像ではなさそう。ひょっとするとバラモン教の神あたりから由来しているのではないかと思う。※ 冥界の神ヤマ(Yama)はバラモン教からヒンドゥー教に融合され、道教に入って閻魔天を指す。青面金剛(しょうめんこんごう)の姿はバラモン教の像の方に近い気がする。とにかく庚申待ちの盛んになった江戸時代には庚申信仰にのっかるべく、神社仏閣がその人気に乗っかったらしい。三猿も青面金剛(しょうめんこんごう)と同じく祀られたが、それは庚申(かのえさる)の猿に由来しているらしく、後はそれらに引っかけて? 神道系では猿田毘古神(さるたひこのかみ)が祀られている。人気のあやかり系では、柴又の帝釈天も江戸時代には庚申詣で有名だったそうだ。一時行方不明になった本尊の帝釈天像が庚申の年の庚申の日に見つかった・・と言う御縁かららしい。庚申の日には多くの人が詣で、縁日が出て「弾き猿(はじきざる)」なるオモチャも売られたそうだ。神仏習合のチャンポン文化は、この頃さらに加速しているのである。それにしても平和の安定した江戸時代の文化は華やかだ。流行の先端を行く江戸の庶民は賑やかなイベントが大好き。何か今の若者たちに思考が似ているかもしれない。かつてはかなりの規模だったようだが今は狭い。それでも驚くのは、近年また人気が出たのか? 人が非常に多かった。くくり猿が八坂庚申堂を救う?どうもSNSで最近若い女性の間で人気のスポットとなっているらしい。その理由はカラフルなくくり猿と写真映え。さらに、くくり猿は、それ自体は庚申尊(青面金剛)の分霊の入った「御守」らしいが、くくり猿に願い事を書き、自分の欲を一つガマンすれば願い事が叶うとされているらしい。だからこの寺のあちこちに絵馬に相当するくくり猿がカラフルにくくられている。くくり猿とは、手足をくくられて動けなくなった猿の姿を現した物。人の欲の姿を猿に置き換えた物らしい。つまり欲求のままに走り回る猿の行動。人の内にある欲望も同じ。その欲望を固定して欲求をセーブ。庚申さんによって猿がくくりつけられている姿と言う事らしい。「くくられた猿」とは微妙ではあるが、見て可愛らしい造り。もちろんお持ち帰りしても良いそうだ。境内にくくられたカラフルなくくり猿。本当はカラー毎に願いの意味があると思うのだが・・。どれを見ても恋愛成就。あるいは「彼女、彼氏ができますように。」中には「息子にカワイイ彼女ができますように。」何てのもあった。SNSで拡散? 八坂庚申堂はなぜか恋愛成就の祈願場所になった?どうりで女性が多くなったはず。そして着物女子も増えたわけだ。ご近所の軒先にくくられている。5匹のくくり猿「御縁があるように」とか「家庭円満」の願掛けがあるらしい。都内にも庚申塚なるものが幾つか残っているので私も名前くらいは知っていたが、それら塚は全国に無数にあったにもかかわらず、ほとんどが明治期に破壊されたそうだ。(明治政府の廃仏毀釈があったから)地域で多少ムラがあるのは、厳しく取り扱われたか・・と言う事?東京でも入谷(いりや)に庚申堂があったらしい。昭和初期に探した人がいたらしいが、すでに無かったとか・・。それにしても地方独自のアイテムもいろいろ出て来るので庚申信仰は面白い。何より今もずっと進化し続けている所がまた面白い。くくりザルは八坂庚申堂だけ? かもしれない。四天王寺庚申堂では庚申の日に七色菓子、昆布、蒟蒻(こんにゃく)を売っていたそうだ。もはやお参り帰りのお土産としか思えないが・・。調べていたら広がり過ぎて、盛りだくさんに。これなら他の庚申堂にも、また違う庚申信仰の方法が出て来るかもしれない。確かに学者さんはそこそこ厚い本を出版されている。一朝一夕(いっちょういっせき)に語れる内容の話では無いのである。少なく見積もっても1200年は続いているはずなのだから・・。日本初の暦日本最初の暦が作られ配布されたのは第33代推古天皇の治世。604年(推古12年)正月の事。日本書紀によれば、当初の日本の暦は百済から招いた暦博士が編纂したものだったらしい。602年に(推古10年)に百済から僧、観勒(かんろく)を招くと、暦法や天文地理を帰化系の子弟らに指導してもらい、604年(推古12年)。完成にいたったとされている。※ 推古天皇の治世である、摂政は聖徳太子なので、渡来系の子弟とは、おそらく当時太子のブレーンをしていた秦氏らを中心とした者たちだったと推察できる。※ 帰化系の子弟ら・・と言うのは言葉の壁もあったのかもしれない。※ 日本書記には百済とあるが、ひょっとすると来日したのは新羅の僧であった可能性もある。当時の暦は太陰太陽暦の暦法を用いた中国の暦、元嘉暦(げんかれき)であったとされる。※ 元嘉暦(げんかれき)には朔日の問題があり、後に定朔法を用いた儀鳳暦(ぎほうれき)に併走しながら代わる(697年)庚申信仰の元となる暦はこれらの暦からきたもの。1.五行・・・き・ひ・つち・か・みず ※ 木・火・土・金・水(もく・か・ど・こん・すい)だけど組み合わせの読み方は(き・ひ・つち・か・みず)となる。2.十干(じっかん)・・・甲乙丙丁戊己庚辛壬葵3.一二支(じゅうにし)・・・子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥この3つの組み合わせで月日や年は構成され60で一周になる。2017年9月「四天王寺庚申堂」も書いています。リンク 四天王寺庚申堂長くなりついでに日本初の暦についても載せました。しばらくお休みさせてもらいます。(9月末くらいには再開予定。)その為に今回内容的には3回分くらいを詰め込んでしまいました。 m(_ _)m
2017年09月07日
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最後にBack numberいれました。前回、「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」では、はっきりしなかったのですが、葛野大堰(かどのおおい)を手がけた秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)の孫、秦酒公(はたのさけのきみ)らしいです。471年、第21代雄略天皇(418年~479年)の御代に各地に分散していた秦氏族を統括して長になったのが秦酒公(はたのさけのきみ)。※ 秦酒公(はたのさけのきみ)は一族の造った絹織物などをうずたかく積み、朝廷に献上。それが地名の太秦(うずまさ)になった。と言う説もある。かつて広隆寺内にあり、明治の神仏分離政策で寺から出された大酒神社(おおさけじんじゃ)には秦の始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)が祀られています。中世、大酒神社に改名されたようですが、元の名前は「大辟(おおさけ)」神社。実は603年に広隆寺ができる以前からあった社(やしろ)だそうです。※ 広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)は秦酒公(はたのさけのきみ)から6代下がった子孫らしい。ところで、大酒神社で相殿神として祀られているのが秦氏と渡来した4人の織女のうちの二人だそうです。呉織神・・兄媛命(えひめのみこと) 呉服女と、漢織神・・弟媛命(おとひめのみこ) 。秦氏が養蚕(ようさん)に力を入れ、できた絹で、かつて中国の宮廷人しか着る事のできなかった上質の絹の織物を日本で生産。絹を織るのは誰でもできると書いている人がいたが、それは違う。やわらかな肌触りの絹織りや、豪華な西陣の帯のような織物は秘技でもある。秦氏は自分達に冨をもたらしてくれた織物の神様として彼女らも祀ったのであろう。余談だが、中国宮廷は絹製品を輸出しても生糸の生産流出を防いでいた。桑種子と蚕種が流出し、欧州には5、6世紀頃、イスラムへは8世紀頃伝播したとされる。日本へは、弥生時代に早くも持ち込まれてはいたが本格的な生糸の生産と上質な絹織の技術は秦氏のおかげで欧州よりずっと早くにもたらされたのである。そんな経緯もあり秦氏は蚕(かいこ)を祀っている。また稲も祀っている。蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが今回紹介する木嶋神社(このしまじんじゃ)の摂社にある蚕ノ社(かいこのやしろ)なのである。因みに「稲が生(な)る。」から生まれた? 稲荷(いなり)信仰では、秦伊呂具(はたのいろぐ)が全国の稲荷の祖となる伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)を創建(713年)している。※ 伏見稲荷大社については以前紹介しています。2014年5月「京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)」リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)2014年5月「京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)」リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎養蚕の話木嶋神社(このしまじんじゃ)と蚕ノ社木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森フタバアオイ紋三柱鳥居(みはしらとりい)木嶋神社(このしまじんじゃ)は前に紹介した太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)から歩いても10分くらいのところ。両者は太子道と言う通り1本で繋がっています。先に紹介した大酒神社(おおさけじんじゃ)と同じ頃の創建。太子道はもとは広隆寺への参道とも言われているので、もしかしたら大昔は木嶋神社や蚕ノ社もまた、広隆寺の敷地内に入っていたのではないかと思います。もとは一帯全てが秦氏の土地であったし・・。外の鳥居には養蚕(ようさん)神社の文字があったから明治以前は、養蚕(ようさん)の祭神がメインであったのだろう。最寄り駅は嵐電(らんでん)の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」だし・・。三柱鳥居(みはしらとりい)は木嶋神社(このしまじんじゃ)の目玉 鳥居が三組合わさった世にも珍しい鳥居。三柱鳥居(みはしらとりい)は元糺(もとただす)の森の中、元糺(もとただす)の池の中にある。木嶋神社(このしまじんじゃ)正式名称は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)です。神社の創建年ははっきりしていない。が、神社では、603年の広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと伝えられているそうだ。神社の名前が初めて記録に載るのは701年らしいが、平城遷都(710年)より前に存在していたのは間違いない。つまり、都がまだ奈良にあった時に秦氏はこちらに住みついていた事が解る。渡来した秦氏の一族は山城、近江、摂津に散って、それぞれ地方豪族になって成功して行ったようだ。山城でも、深草(ふかくさ)と葛野(かどの)に秦氏は関係が深い。(深草から葛野に移ったとも・・。)※ 山城(やましろ)、近江(おうみ)、摂津(せっつ)。ザックリ言うと現在の京都、滋賀、大阪。※ 深草(ふかくさ)は今の伏見あたり。葛野(かどの)は前回紹介した太秦や嵐山、嵯峨野あたり。※ 深草(ふかくさ)には秦氏(秦伊呂具)が祀った伏見稲荷大社がある。現在の祭神は、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 大国魂神(おおくにたまのかみ) 穂々出見命(ほほでみのみこと) 鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)境内摂社(東本殿)に養蚕神社(こかいじんじゃ)がある。またの名を蚕の社(かいこのやしろ)話はそれるが・・。祀られている神様は当時と違うのではないか? と言う疑問がある。明治政府の出した神仏統廃合令により、日本各地の神社では、天皇家の祖神、アマテラス(天照大神)を祀る伊勢神宮の下に統一管理される事になったそうだ。つまり独自の神様は主神から外されてアマテラスの系譜に沿う神様がメインに明治時代に置き換えられた神社も多々あるのではないか? と言う事だ。因みに、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原(たかまがはら)の頂点にいる神様であり、当然アマテラス(天照大神)の祖でもある。※ 実際、今祀られている五注の祭神は1883年(明治16年)の記録による所らしい。木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)先ほど、広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと書いたのは、神社の入口立て看板に記載されていた事だ。が、おそらく神を祀る・・と言う行為は、秦氏が葛野(かどの)に来てすぐにあったと思われる。そしてそれは今の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ではなかったであろう。最初に秦氏が葛野(かどの)に来て祀ったとされる神霊は、糺(ただす)の森と言われるこの神域そのものであったと推察する。※ 現在は糺(ただす)ではなく、元糺(もとただす)の森である。それは古来の神道を考慮すると、土地その物を神の座所とするカンナビ(神奈備)から始まったと考えられるからだ。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての鎮守(ちんじゅ)の森。そして森に湧く泉はまさに神聖な場所そのものだったのだろう。社(やしろ)ができるのはずっと後、古来、神の依り代となったのは深い森や、巨木、巨大な古い石、あるいは湧き出る泉だ。今風に言えばそれらはパワースポットと言えるかもしれない。古人(いにしえびと)達は本能的に畏怖(いふ)する場所を見つけ、畏怖と同時に見えない何かに畏敬(いけい)の念を抱きつつ、土地から与えられる稲や野菜などの恵みに感謝して、氏神様として祀ったに違いない。人により神の体系が作られるのはずっと後の話だからね。現在の木嶋神社(このしまじんじゃ)見取り図黄色→が境内摂社(東本殿)の蚕の社(かいこのやしろ)赤色→が元糺(もとただす)の池下の赤い円は、稲荷神の神使の御狐様の社がある所。木嶋神社(このしまじんじゃ)を取り巻く鎮守の森こそ、元祖「糺すの森」だ。※ 木嶋神社を取り巻く鎮守の森は本来もっと広大であったと思われる。舞殿赤い→が元糺(もとただす)の池と三柱鳥居(みはしらとりい)へのゲート。糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森当初、この森は「糺(ただす)の森」と呼ばれていたようだ。現在は糺(ただす)ではなく、「元糺(もとただす)の森」となっている。同じように「糺(ただす)の池」は「元糺(もとただす)の池」となっている。※ 実は現在、糺(ただす)の森は下鴨神社境内にある。「糺(ただす)の森」は清水の湧く所。かつて湧き出る泉からの縁か? 木嶋神社(このしまじんじゃ)では祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)が行われていたと言う。祈雨(きう)とは雨乞いの事である。奉幣(ほうへい)とは天皇の命により幣帛(へいはく)を奉献(ほうけん)する事。つまり、平安遷都後は、干ばつの時に天皇の命を受けて雨乞いの祈祷がされ、奉幣(ほうへい)が献(ささ)げられていた神社だったと言う事だ。ところが、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態が発生したらしい。何かしら汚れとなる事態が起きた? 嵯峨天皇の御代に「糺(ただす)の森」と「糺(ただす)の池」と共に、神霊が太秦より下鴨の地に移動したと考えられる。祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)の場も移動したかも・・。第52代嵯峨天皇(さがてんのう)(786年~842年)(在位:809年~823年)の御代、817年より7年連続で京都は干害の被害を受けたとされている。この時の祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)はどちらでおこなわれたのか?あるいは災いに関係無く、784年従二位、807年正一位と神階叙位(社格)を上げてきた賀茂神社の勢力による所もあるのかもしれない。地元神を押さえて賀茂神社の社格が高位にあがったのがこの頃だ。また、賀茂神社に斎宮の制度が始まった810年がまさに嵯峨天皇の御代。初代斎宮は嵯峨天皇の皇女 有智子(うちこ)内親王だった。諸々の情報を踏まえて検討すると、810年には移動していた事になりそうだ。ならば、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態は、嵯峨天皇の兄、第51代平城天皇(へいぜいてんのう)(774年~824年)(在位:806年~809年)の病気かもしれない。809年、病気のため在位僅か3年で嵯峨天皇に譲位しているのだ。※ 表向きは病気。実は嵯峨帝との争いに敗れた?代が変わればかつては宮殿も遷都していた。懇意にする神社も変わったのかもしれない。1994年に世界遺産に登録された下鴨神社。その全域を被う「糺の森(ただすのもり)」のルーツですね。※ 下賀茂の神社の案内にはいっさい無いが・・。拝所拝所から先は入れないのでここから撮影。実は肝心の東本殿(向かって右)にある養蚕神社(こかいじんじゃ)が撮影できなかった。下の写真右奧に見える社がたぶんそう。秦氏は、土着の、「元糺(もとただす)の森」の氏神様の他に、秦氏の糧(かて)である蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが、その社である。それは感謝以外の何ものもでもなかったろう。フタバアオイ紋不思議な事に木嶋神社(このしまじんじゃ)の紋章、神紋(しんもん)はフタバアオイである。これは、賀茂神社(かもじんじゃ)の神紋(しんもん)と同じなのである。※ 下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。それがなぜか? は、解らないが、フタバアオイは神事に必要なものだったらしい。下は下鴨神社内のフタバアオイ。葵祭で用いられることから今はカモアオイ(賀茂葵)とも呼ばれる。森林に生育し、暗い林床に生えると言う性質から木嶋神社(このしまじんじゃ)の糺すの森にもあったのだと思われる。神紋(しんもん)は、どちらが先かと言えば、たぶん木嶋神社(このしまじんじゃ)のが先だろう。秦氏と賀茂家の関係がそこにも見える・・。静かな境内はまさに鎮守の森奧が神殿で、向かって左の方に「元糺(もとただす)の池」がある。鳥居の奧に見える柵の向こうに三柱鳥居がある。「元糺(もとただす)の池」、泉水からはかつては豊富な泉が湧き出ていたらしい。おそらく池に下がる石段があるので、そこは浄めの御手洗(みたらい)をする場所でもあったと思われる。※ 伊勢神宮の五十鈴川のような役割。近年の宅地開発で水源が切れてしまったのか?今は枯れて行った時は全く水がなかった。が、夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に効くと言う信仰があるらしい。そして、この神事も同じく下鴨神社で行われる御手洗祭(みたらしまつり)と同じなのである。「元糺(もとただす)の池」の中にある三柱鳥居(みはしらとりい)三柱鳥居(みはしらとりい)の下はおそらく泉の水源であった場所だ。つまりそここそが、木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)様が宿った依り代? なのかもしれない。三柱鳥居(みはしらとりい)不思議なのは囲むように建てられた三つの鳥居の輪である。京都三珍鳥居の一つだとか・・。現在のは1831年に再建されたものらしく、かつては木像であったそうだ。※ 葛飾北斎の北斎漫画「三才鳥居」の絵はここの鳥居の絵らしい。三井家が守護神とする向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)にも同じ石の鳥居がある。それは三井家から来たものらしいが、もとはここのをコピーしたものらしい。神社の鳥居は本来、神域への結界である。鳥居を三つ合わせて閉じれば中は完全なる神域。まさに神の御座か?が、立派な鳥居に惑わされて忘れていたが、このマジック3は他にもあった。2014年5月「伊勢神宮 2 (外宮)」の中で紹介している「パワーストーンの三ツ石(川原祓所)」である。リンク 伊勢神宮 2 (外宮)日本最大のパワースポット伊勢神宮の中でも、特にパワーの強い場所が3ツ石の置かれている川原祓所」(かわらはらいしょ)である。そこは神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀(しゅばつさいし)が行われる神聖な場所。そして、そのパワースポットの三ツ石(川原祓所)」の場所はかつて川の中にあったと言う。※ 伊勢神宮では明応7年(1498年)の地震とその津波による影響で川の流れが変わってしまった。禊ぎや祓い清めの儀式の場なのだから確かに水の中でこそ・・。ひょっとするとここも鳥居ができる前は三ツ石がポイントであった可能性が・・。実際、賀茂神社では三柱鳥居(みはしらとりい)は真似していない。糺すの池は造ったが・・。つまり、平安の頃はなかったと言う事だ。うずたかく積まれている石の下に「三つ石」があったりして・・結論を言えばそこは聖なる禊ぎ(みそぎ)の場所。身にたまる穢れをそぎ落とす場所と言う事だ。そう言えば秦氏は神宮の伊勢への遷宮にも資金を出していたらしい。三柱鳥居(みはしらとりい)、自分の中では結論が出た感じです。追記・・・神社の説明の中に三柱鳥居は景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていましたが、論外です。神社の中にはお稲荷様も祀られている。9月に行ければ松尾大社に行ってきます。そこも秦氏のルーツにかかわる所です。そしてまだやってませんでしたが、下鴨神社。写真は撮ってきています。いつかやります。「倭人と渡来人」とりあえず終わります。次回は軽い物を予定しています。間を開けて松尾大社予定しています。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)他リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂
2017年08月27日
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次をどこにするか? 「六道の辻」でも紹介しようかな・・と考えながら寝たら、とても恐ろしい夢を見た 寝て居る自分の胸に何かがこぼれ、そこにこぼれたエサ? をねらって胸の上でエサをついばむような騒動が起きていた。その後、静まってから胸を触ろうとしたら無い???背中から触っても腕はあるのに背中も胸も消えている。 ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ首から下がガランドウなのだ。何かに食われてしまった???私の特技は金縛りからの覚醒である。(声を出す技術があるのだ。)助けの声をあげて体を触ってもらうと現実に帰還。(夢から覚める。)体はちゃんとついていた。(#´ο`#) はぁ~でも、さらにゾッとしたのはこの後だ。 「六道の辻」は鳥辺野(とりべの)の入口にあたる。以前、京の三大葬送地について書いた事があるが、鳥辺野(とりべの)はその1つ。平安時代には庶民の葬送地。当時は風葬が一般的で、特に鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りがされていた。それが故に鳥の名が残った場なのだ。「六道の辻」は生者と死者の住む堺であり、冥界への入口と言われる由縁だ。が、今の今まで鳥辺野(とりべの)の事は忘れていた。それなのにあんな夢見るなんて・・悪夢は自分が鳥葬にあっていた記憶だとしたら恐ろしい事だ ..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ※ 2015年6月「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」 古の京の三大葬送地 でふれています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)そんな訳で今回の場所はその六道の辻(ろくどうのつじ)の話と冥界への入口とされた六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に決まったのです 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺常見(じょうけん)と断見(だんけん)六道輪廻(ろくどうりんね)六道の辻(ろくどうのつじ)京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)冥途(めいど)通いの井戸仮説六道まいりまず最初に、「六道の辻」とは、仏教から来ているもので、現実の辻道の事ではない。かつて六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)と六波羅密事(ろくはらみつじ)のあたりは、仏教の因縁により、「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼称された場所なのである。しかし、それは平安時代に遡る話。※ 今はそれぞれに寺領が小さくなっているので少し離れているが、かつて六波羅密事(ろくはらみつじ)と六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は門前が向かい合っていたと言う。なぜここが「六道の辻」なのか? 六道の辻の因縁はこの六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を中心に発展した話だからだ。常見(じょうけん)と断見(だんけん)人が死んだらどこに行くのか?実は仏教以前から、霊魂不滅(魂は転生)の立場をとる常見(じょうけん)と、霊魂消滅(人の魂、一代限り)の立場をとる断見(だんけん)と言う相反する2つの考え方があった。簡単に言えば、人間死んだら全てがリセットされる・・と言うのが断見(だんけん)の立場。これは釈迦が最も嫌った考えである。では釈迦は常見(じょうけん)派か? と言うと単純にそうだとは言えない。釈迦の説法にはここに釈迦流の「業と因果」と言う注釈が加えられるのだ。業(ごう)とは善因善果、悪因悪果の思想(因果応報)。よく自業自得(じごうじとく)と言う言葉を使うが、自分のした事(因縁)には必ず報いが来る・・と言う考え方。つまり業は因縁によって引き起こされる事象でもあるのだが、人はその業により苦しみに囚われる。六道輪廻(ろくどうりんね)輪廻(りんね)は、人の生前の業により、次のしかるべき世界へと転生。そしてそれは流れのように巡ると言う考え方。六道輪廻(ろくどうりんね)の、六道とは地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天の6つを指す。生前の業により、これらいずれかの世界に生まれ変わると言う考え方。しかし、実はこれもまた仏教以前からの常見(じょうけん)派の考え方で釈迦の本意ではない。魂ひっくるめて、あらゆる物は無常であり絶えず変化しているので今の延長に想定する未来があるわけでもない。つまり釈迦の教えでは人の霊魂がそのまま次の人に転生すると言う考え方はしていないし、六道のいずれかに行けるとも言ってはいないのだ。※ 仏教用語となっているが、輪廻転生(りんねてんしょう)は本来インド古来の死生観であり釈迦の教えではないと言う事を書いておきたいと思ったのです。六道の辻(ろくどうのつじ)「六道の辻」の説明では、亡くなった人が現世を離れて向かう(輪廻する)、六道の6つの辻として紹介されている。輪廻転生を旨(むね)として六道を示唆する事より、むしろ人の生前の行いを諭す(さとす)意味で六道輪廻(ろくどうりんね)の考え方は利用されたのかもしれない。通常は誰しも生まれ変われるものなら、天か人を望むからね。因みに六道の衆生から救済してくれるのが地蔵菩薩で、末法思想が盛んになった平安期から地蔵信仰も同時に増えたようだ。(平安初期は街も人もかなりすさんだ状況だったらしいから・・。)実はこのあたり、六波羅密事(ろくはらみつじ)他、地蔵信仰が盛んだったあとが多々見受けられた。この寺始め、六波羅密事にも古い地蔵様がたくさん集められている。六道の辻地蔵尊と言うのもある。おそらく、この界隈を宅地造成した時に集められたものなのだろう。鳥辺野(とりべの)水色の円が古来の鳥辺野のおよその場所。黄色の円が六道の辻紫の円が豊臣秀吉の墓所のある阿弥陀が峰。京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)平安時代、鴨川を越えた洛外、東は、人の住む場所ではなく、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)より先は遺体捨て場と言っても過言ではない一般庶民の風葬地であった。※ 冒頭に書いたが、鳥辺野の名前は鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りから来ているらしい。※ 一般庶民も火葬するようになるのは鎌倉時代から。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創と伝えられるよう古い寺である。この寺で最後のお別れの野辺の送りの法要を行った後、遺骸は鳥辺山の麓へと運ばれたそうだ。それ故に生者と死者の境目の場所であり、他界(冥界)への入り口とされ、そこが六道(地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天)の辻と呼ばれるようになったらしい。そして寺は親しみを込めていつしか「六道さん」の名で呼ばれるようになった。本殿前の三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)三界萬霊(さんがいばんれい)とは、3つの階層世界(欲界、色界、無色界)等しく供養する事。つまり上は六欲天から、下は八大地獄まで、どの世界に行った者にも等しく供養をすると言う事らしい。実は三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)あたりが「六道の辻」伝説の中心地とされている。そしてそれは鳥辺野の入口だかからだけではない理由がある。閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)この寺には冥界につながる井戸があると言うのだ。その井戸を入口に冥界の閻魔大王(えんまだいおう)の元に夜ごと通い、そこで閻魔庁の冥官をしていた人間がいる。(伝説)それが平安時代、嵯峨天皇(786年~842年)に仕え、文徳天皇(827年~858年)に仕えていた平安の官僚である小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)である。※ 百人一首の歌人、参議篁(さんぎたかむら)と同一。小野篁(おのの たかむら)像 江戸時代の作左から冥官(めいかん)、小野篁、獄卒(ごくそつ)。おそらく小野篁自身が裁定を下す閻魔となっている像。小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)父も参議であった為に必然的に宮中で仕える役人となっている。父と同様に漢詩や和歌などにも優れていた事から嵯峨天皇に気に入られたようだ。古今和歌集や小倉百人一首にもその歌は伝えられた歌人でもあり、文人として遣唐副使にも選ばれている。(行かなかったが・・。)身長188cmの巨漢で自由奔放、怖い物知らずのところがあったようだ。遣唐使の一件で朝廷を非難する歌を詠んで1度は官位剥奪され島流しに会うも再び呼び戻されて大成している。最後の役職と冠位は 参議、左大弁 従三位。江戸期1689年の仏師の作 閻魔・篁(たかむら)堂の格子の隙間から撮影。伝承では、彼は昼に人間界で働き、夜は冥界で働いていたとされた。そもそも冥界で裁きを行う閻魔(えんま)大王の話は明や唐 由来の話で我々も知るところの話ではあるが、あまり知られていないのが人間でも優秀な官吏は冥界に召喚され、冥界の管理官になると言う役が与えられたと言う話だ。小野篁(おのの たかむら)作とされる閻魔大王座像何よりこの閻魔大王は唐代末に道教思想が混ざりあった偽経(ぎきょう)の産物である。※ 偽経(ぎきょう)・・インド本来の仏典ではなく、後世、土着の信仰と融合されて造られた偽の経。小野篁(おのの たかむら)は846年以降、宮廷の最高機関である弁官(べんかん)として活躍、判事なども行っている。特にその時に判じた「善がい(ぜんがい)訴訟事件」などから「冥界の管理官」などの話が生まれたのではないか? と考えられる。彼の話は平安末期より「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語(こんじゃくものがたり)」、「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」などのより語られ、室町時代には定着していたらしい。それにしても六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)との関係は不明。冥途(めいど)通いの井戸小野篁(おのの たかむら)が、閻魔庁のある冥府に通う為に利用していた入口が井戸で、この寺の本堂裏庭に伝わる「冥途(めいど)通いの井戸」がそれである。写真下。右が井戸。左が小野篁(おのの たかむら)が念持仏としていた竹林大明神を祀る祠(ほこら)。基本予約しないと見られないそうで、こちらものぞき格子の隙間から撮影。小野篁(おのの たかむら)は行きにこの冥途(めいど)通いの井戸を利用。帰りは嵯峨野の福生寺の井戸から帰還していたとされる。(寺の看板より)※ 右京区の嵯峨野にも六道の辻があり、明治期までは福生寺もあったと言う。ところで、これはあくまで私の仮説であるが、先ほどの小野篁(おのの たかむら)の念持仏、竹林大明神であるが、実はこれが何なのか不明。もしかして? それは竹林の七賢(ちくりんのしちけん)から由来しているのではないか? 「竹林の七賢」は、中国の魏国時代の賢者達が、酒を交わしながら国や政治や諸々の事を談議する集まりの話。(宗の時代に逸話集として編纂された中の1つ)現在と違い、うかつな事を言えばすぐに首が飛ぶ時代のエピソードを時代を置き換えて説話にしたもの?そう考えると、ひょっとすると・・。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は人の寄らない場所。特に夜は誰も来ないだろう。(誰か宮中の者に存在を見られる心配もない。)そこで、小野篁(おのの たかむら)は気心の知れた仲間と時々そこに集まって、酒を飲みながら憂さ晴らし兼ねた談議の会を催していたのではないか? と推測する。以前、遣唐副使の件で失敗して官位剥奪を受けた事があるだけに本当は朝廷に対する不満は大きかったのでは? 左遷されてその地で亡くなり怨霊となった菅原道真公に比べれば、割り切りのいい漢(おとこ)だったようにも思うが・・。六道まいり寺では毎年盂蘭盆(うらぼん)(8月13日~16日)前の8月7日~10日4日間、「六道参り」が行われている。先祖の霊を祀る報恩供養であるが、槇(まき)の葉に乗って冥土より帰ってくる先祖の霊を「お迎え鐘」で迎えると言うものらしい。「お迎え鐘」の音は十萬億土の冥途まで響き渡ると言う。残念ながら「迎え鐘」は修理中であった。チャンスがあれば盂蘭盆(うらぼん)に行って見たいが・・。境内のおみくじ閻魔様鎌倉時代までは東寺の末寺としてあったようですが、南北朝時代以降、建仁寺の塔頭の1つになっています。六道珍皇寺おわります。※ 「京都五山禅寺」にて建仁寺の紹介をしています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師
2017年05月18日
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昨年暮れに高台寺を紹介した後に、同じく寧々様ゆかりの圓徳院(えんとくいん)を紹介する予定でしたが、今一つ写真が足り無い。次に関西に行った時に不足の写真を撮ってこよう・・・とずっと保留になっていた所です。2016年京都の秋と2017年春の写真合作になってしまいましたが、やっとこの春に実現。高台寺とその塔頭にあたる圓徳院やその界隈「ねねの道」や「石塀小路」をサクッと紹介します 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)ねね(高台院) 終焉の地 圓徳院(えんとくいん)北政所(きたのまんどころ)の称号ねねの道とねねの小径三面大黒天尊天圓徳院(えんとくいん)と庭高台院時代の寧々(ねね)様石塀小路(いしべいこうじ)2016年12月。2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となった。そして1606年、夫の菩提と実母の菩提を弔う為にに建立した寺が前に紹介した高台寺の創建でした。出家した寧々(ねね)様は高台院を建立するにあたり、1605年、伏見城(桃山城)の化粧御殿と桃山時代の代表作とも言える伏見城の前庭を山内に移築した。それが現在の圓徳院(えんとくいん)の場所でそれ故、圓徳院の北庭は伏見城からの石組でできている。以前も紹介したが、高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があり、高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も幕府が担って建設されている。徳川が排斥した豊臣の奥方なのに、関ヶ原以降も北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。秀吉の残したものはことごとく打ち壊されたにもかかわらず、別格の扱いがあり、伏見城は解体されても案外残された物はあるようだ。高台寺の秀吉と寧々の霊屋(おたまや)の所ですでに紹介した寧々(ねね)様の像。※ 実物の写真撮影が禁じられているので、上の写真はBS朝日で放送されたテレビから引っ張ってきました。北政所(きたのまんどころ)の称号寧々(ねね)→北政所→高台院湖月尼(1548年~1624年)1585年、夫秀吉が関白になった事により彼女自身も従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)の称号を許された。1588年(天正16年)には従一位を授かっている。彼女が序せられる以前は北政所と呼ばれる女性は多々いたようだが、以降北政所と言えば寧々オンリーなったようだ。因みに秀吉の母は大政所(おおまんどころ)と呼ばれたそうだ。圓徳院地図(以前紹介した高台院塔頭全景図の看板より一部切り取り書き加えました。)ねねの道より右側の山の上に高台寺の方丈などがある。(台所坂より登る)写真左に見切れているが石塀小路は下河原通まで続いている。実はもとはその一体全て圓徳院の敷地だったそうだ。(明治期に税務対策で売却された。)赤い→ 圓徳院 入口ピンクの→ 楽市ねねとねねの小径 入口ねねの道とねねの小径ねねの道 (北)八坂神社側から、(南)八坂の塔方面へ 左が高台寺※ 基本的にはここら一帯が高台寺内である。ねねの道より 高台寺に登る 台所坂その真向かいあたりに圓徳院敷地内「楽市ねね」、「美術館」、「三面大黒天」、「ねねの小径」入口圓徳院敷地内の詩仙堂と三面大黒天の堂があるが、お土産やカフェスペースにされている(美術館もこの上)ので常に観光客でゴチャゴチャねねの楽市とは・・・おみやげショップの集まりの事です昔は高台寺の門前町として祗園方面まで賑わいがあったらしいですが・・。ねねの小径とは・・・軒の連なったお土産ショップを通り抜ける路地の事でここより裏の石塀小路への抜け道となっています。石塀小路界隈が昔はすべて圓徳院の土地だったようです。三面大黒天尊天の堂堂は京都御苑よりの移築物らしいが、本尊の三面大黒天は福徳信仰の象徴として、豊臣秀吉が念持仏としたと伝承される珍しい尊像だそうだ。つまり秀吉の出世守の本尊?ねねの道より八坂の塔圓徳院(えんとくいん)と庭圓徳院入口圓徳院(えんとくいん)圓徳院とは、寧々(ねね)様の実兄、木下利房 公の法名である。木下利房 公は江戸幕府の元で賀陽郡と上房郡の2郡で2万5,000石を与えられ足守藩主と言う役を持っていたらしい。妹寧々(ねね)を後見していた木下利房 公は、寧々(ねね)亡き後、1627年に法名、圓徳院(えんとくいん)を得ている。そして1632年、ここを木下家の菩提寺として高台寺の三江紹益 和尚に開基を願い高台寺の塔頭の1つになったようだ。※ 農民出身と言われる秀吉ですが、妻である寧々(ねね)様は戦国武将杉原家の出自。良家のお嬢様であった。先ほど紹介したよう当初の住まいとなる建物は伏見城の化粧御殿を移築したものだったらしい。 同時に木下家の客殿も建立? (それが現在の方丈らしい。)木下利房 公は高台院である妹寧々(ねね)が1624年亡くなるとここを相続したようだ。高台院時代の寧々(ねね)様高台院となった寧々(ねね)様は1605年にここを建立して1624年亡くなるまでここで余生を送っていた事になる。が、のんびり余生を送っていたわけではなさそうだ。先ほど書いたとおり1588年に従一位を授かった寧々(ねね)様は秀吉存命の頃より朝廷との交渉役をしていたようで、公家の一員として高台院となってからも度々御所に献上品を送っていた事が記録から解っている。また、秀吉の菩提を弔う為に高台寺に日参する傍ら、北政所を慕う大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家、など多くの文化人がここを訪れて賑わっていたようだ。また高台寺の所で書いたとおり、徳川2代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)自身が、高台院が創建されてから度々寧々(ねね)様に会いにきていた事が知られている。豪傑で面倒見が良く、人望のある女性だった事はいろんな逸話から知られる所です。南庭 の書院書院造りの和室 松竹梅図襖 木下育慶 作南庭徳村宗悦 作 日本庭園の研究者、造園史家の森蘊(もりおさむ)博士(1905年~1988年) 指導国名勝指定の北庭 北書院から伏見城の化粧御殿と共に同時に移築した化粧御殿前庭は桃山時代の代表的な庭園で今に残されている。賢庭 作 小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式庭園。※ 小堀遠州については2016年12月2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)」の中「史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州」で書いています。もとは池の中に巨石の橋が渡されていたものだが、今は本当に枯山水になってしまっている。当時を残そうと少し荒れてしまっているのが残念な気がしました。夕刻で日陰になり見えにくくなってしまいましたしかも幅広で全景が撮れませんでした。石塀小路(いしべいこうじ)ねねの道からの石塀小路入口もとは圓徳院の敷地だった所だそうです。石畳が続くモダンな通りは大正時代初期のもの。明治時代に圓徳院が明治政府への税金を納める為に土地を切り崩して手放し、宅地になった場所だそうです。薄い黄色が高台寺濃い黄色の通が石塀小路レンガの塀は圓徳院の外壁。レンガは当時の輸入物。非常に珍しいものだったそうだ。お金もかってますね 下は「ねねの小径」入口で先ほどの「楽市ねね」に繋がっている。下の石畳は、昭和に入ってかららしい。なぜならその敷石は当時市電の敷石に使われていたものらしいのだ。当時から雰囲気はバツグンで文化人に人気の場所らしい。ノスタルジックな雰囲気に今は観光客。特に外国人が多い気がした。今はレストランや料亭などの看板が目立つが一般民家もある? 何れにせよ高級住宅地の感じ?あちこちに「静かにしてください。」の看板が目立った。下河原通りに抜ける細い路地は民家の屋根の下をくぐる。下河原通り入口は2箇所あるが、ちょっと解りにくい。高台寺と圓徳院 界隈 終わります。Back numberリンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)他秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
2017年05月11日
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大阪関連のBack numberも加えました。前回紹介しましたように、真田氏は本名、真田 信繁(さなだ のぶしげ)と、呼称、真田幸村(さなだ ゆきむら)と二つの名前が知られています。以下、真田 信繁(幸村)と表記させてもらいます。徳川に敵対した武将ながら、武将としての彼の活躍は素晴らしく、家康は彼を高く評価していたそうです。「大阪冬の陣」で大阪城を守備する出城の真田丸にさんざん負け越した後に真田 信繁(幸村)の腕を買って買収しようとして断られています。かつて関ヶ原の合戦後に「恩義を忘れ、私欲をむさぼり人と言えるか」と言ったように、彼は豊臣に対する恩義と忠誠を武士のプライドにかけて貫いたのです。大阪夏の陣では捨て身で命かけて大将、家康の首を取りに果敢に攻めてきた真田 信繁(幸村)。戦闘虚しく安居神社で討たれましたが、彼の首級を確認した家康は、「真田 信繁(幸村)の武勇にあやかれよ。」と居並ぶ武将に言うと、皆、彼の遺髪を取り合ったと言われています。(茶臼山山頂の看板より)大阪冬の陣、夏の陣ともに真田 信繁(幸村)の活躍は目覚ましく、特に赤いのぼり旗に赤い甲冑で統一された真田隊は、とにかく目立ったのでしょう。敵方まで「あっぱれ」と、感服。武士がリスペクトする武士だったと言えるのでしょう。※ 今回、随分盛りだくさんな内容になってしまいました。ちょうど今の季節なのです 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)安居神社(やすいじんじゃ)天王寺七坂と天王寺七名水天王寺名水と創建年の考察真田 信繁(幸村)の終焉の地武田家家臣から豊臣家家臣に大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地真田家六連銭(さなだけろくれんせん)安居神社境内に建立された真田 信繁(幸村)の像天王寺界隈(「七坂」、一部と★安居神社近辺)オレンジ・・天王寺七坂 下から 逢坂、天神坂、清水坂、愛染坂、、(口縄坂、源聖寺坂、真言坂)※ カッコ内は 地図に乗せていません。赤い星★・・安居神社安居神社は、谷町筋と松屋町筋の間。逢坂と天神坂に挟まれた場所に所在しています。松屋町筋には表参道の鳥居が建っている。表参道(西坂石段)拝殿実は安居神社には他にも2つ参拝ルートがある。逢坂側からの入口安居神社は上町台地(うえまちだいち)の西のきわに建っているので坂の途中にあたる。一番楽なアクセスは、逢坂は国道で道幅が広い坂。「天王寺」の駅から来て逢坂から入るのが一番楽。下るだけなので・・。(逢坂をはさんで手前が一心寺)「四天王寺前夕陽丘」の駅から天神坂ルートで来ると北坂石段を登ら無ければならない。天神坂(北坂石段の前から)安居天神から天神坂と名が付いたらしい。天王寺七坂と天王寺七名水安井の名水(天王寺七名水の1つ)このあたり名水の産地。上町台地からの綺麗な水が潤沢に湧き出る事からここで水を汲んで売りに行く・・と言う水売りの商売(水屋)もあったそうだ。天王寺七坂には天王寺七名水が存在していた。金龍の水、有栖の清水、増井の清水、安井の清水、玉手の水、亀井の水、逢坂の清水と7つの井戸があったらしく、それらは綺麗故に眼病などにも利用されたらしい。北坂石段北坂石段登った所から、奧が拝殿奧が北階段。左が西階段。つまりここは一際高台でとても眺めが良い場所。真田氏がここで討たれたと言う事は、攻められたのは神社裏の東側か逢坂からと言う事になる。安居神社の創建は不明。御祭神は少彦明神と菅原の道真公少彦明神とは少名彦命(すくなひこなのみこと)以前神田明神で紹介した事があるが、(えびす様)として商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様として祀られる神様である。天王寺名水と創建年の考察以前2015年8月「大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)」の所で「天神信仰の発端(御霊信仰)」について紹介しているのですが、御霊として菅原道真公が祀られると言う天神信仰は村上天皇(926年~967年)の治世942年に始まっています。彼はここの名水で病気を治癒したとして祀られるようになったとか・・。それ以前は少名彦命のみ一柱、が祀られているわけで、その信仰はいつからか?古事記に由来する少名彦命(すくなひこなのみこと)を祭る神社が近くにありました。愛染坂の所にある大江神社(おおえじんじゃ)も少名彦命を祭っていて、そこも創建は定かでないものの、聖徳太子が四天王寺の鎮守社として建立した伝承されている事から四天王寺の起源に近いと思われます。※ 四天王寺はいつからか? 四天王寺は、593年(推古天皇元年)に聖徳太子により創建されたとされている。ところで少名彦命(すくなひこなのみこと)は酒蔵の神様でもあるそうだ。酒は「百薬の長」と言うからね。それにこれら名水は眼病にも効いたらしいから医薬健康の神として祀られたのは納得。おそらく神社の創建は名水がらみで由来しているだろう。昔はこの名水を合酒の水としても利用されていたらしいし・・。推定は四天王寺創建以降、大江神社よりも後、7~8世紀以降かな?真田 信繁(幸村)の終焉の地場所は境内向かって右手。逢坂よりに石碑が建てられ、近年像が建立(2009年)されたらしい。真田松と真田氏の像と戦士跡の碑後ろには真田 信繁(幸村)が休息していたと言われる真田の松が生えている。当時の松は既に枯れ、現在のは昭和26年に社殿の復興と共に植樹されたもの。真田 信繁(幸村)は5月6日伊達正宗の兵と戦い、翌5月7日松平忠直と奮戦。退却してここで休息している時に松平忠直の家臣、鉄砲隊の西尾 宗次(にしお むねつぐ)に発見され討ち取られたそうだ。(享年49歳)越前松平家の記録には「相手が信繁と知らずに槍で戦って信繁を討ち取った。」と書き記されているそうだ。真田 信繁(さなだ のぶしげ)幸村(ゆきむら)(1567年~1615年)戦国時代に武田信玄の配下であった真田家は信州上田の出身。武田家家臣から豊臣家家臣に織田と徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、その後織田方に付くが、その信長も亡くなり、武田領をめぐる争いが勃発。秀吉が台頭すると父真田昌幸は豊臣方に付き大名扱いとなるものの、秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦(1600年10月)で徳川家康に惨敗。徳川方に付いていた長男 真田信之の取りなしで命は救われるが真田昌幸と真田 信繁(幸村)は和歌北の九度山に流される?1611年父は亡くなり、1612年に真田 信繁(幸村)は出家。一方、豊臣家と徳川家の関係がギクシャク。方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の件で家康は豊臣家討伐を決める。それが「大阪の陣」につながる。※ 「豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)」の所で方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の事書いています。豊臣家からの招集1614年豊臣家VS徳川幕府今や豊臣方は65万石の弱小。兵は30000前後しかいない。見方する大名もなく豊臣家はかつての家臣達に声をかけた。真田 信繁(幸村)は支度金、黄金200枚と銀30貫。徳川に勝った暁には50万石を約束され大阪城に向かい再び豊臣方に付いたと言うわけだ。大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地大阪冬の陣では籠城。防御の戦いであった。大阪冬の陣 配置図(1614年11月~12月)地図の中ほど、大阪城を囲む外堀の右下に真田丸は建てられ、そこで真田 信繁(幸村)は一手に兵を食い止めたと言う。真田 信繁(幸村)はこの戦いにおいて戦績を挙げた。(それまでは有名ではなかった。)家康は後に信濃10万石で真田 信繁(幸村)を買収してきたと言う。大阪夏の陣 配置図(1615年4月~5月)冬夏比べてもらえば一目。大阪城周りのお堀が減っている。もともと埋め立てOKしたものの、時間が稼げると思った豊臣方だが、徳川方はものすごい人数を動員して急いで埋めてしまったらしい。今度は籠城はできない。大将の首(徳川家康)を直接取るしか勝つ方法はないと真田 信繁(幸村)は果敢に攻めの戦いをした。だが兵の数に差がありすぎた。豊臣方55000人。徳川方は15万5000人。10万人も違う ちょっとここで上町台地の高低差が解る画像を紹介。どうしてこんな配置図になったかよく解ります。左三角が茶臼山。夏の陣では真田 信繁(幸村)陣どった。右三角が御勝山。(生野区勝山)徳川秀忠が陣取り戦勝の宴を催した元古墳は御勝山と呼ばれるようになった。☆星が冬の陣の時の真田丸の位置。大阪城を攻めるなら南側の台地からしか無いのである。さて、真田 信繁(幸村)と言えば赤である。冬の陣では赤い登り幡(幡指物)を立てた。それは敵味方の区別を付ける為の幡指物であるが、非常に目立ったと言う。夏の陣では真田隊は甲冑も赤で統一されたらしい。そして登り幡(幡指物)には真田家の家紋の1つ六文銭の図柄が入れられた。2015年「大坂の陣400年 丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち」のポスターから甲冑部だけ借りてきました。そもそも本物は現存していないので甲冑レプリカだそうです。真田家 六連銭(ろくれんせん)図柄の元は六文銭であるが、家紋としては六連銭(ろくれんせん)が正しいらしい。夏の陣ではこの家紋が使われたと言う。実は真田家には戦時の旗印として、「結び雁金」と「州浜」もあった。夏の陣での戦いで六連銭(ろくれんせん)が印象強くなってしまったようだ。※ 真田家の六連銭(ろくれんせん)と有名になったが、本家は信濃の海野氏(うんのうじ)らしい。そもそもこの六連銭(ろくれんせん)には意味がある。三途の河の渡し賃、六道銭(ろくどうせん)が由来となっている。つまり冥途(めいど)に入る時に使用する最後のお金である。※ お棺にお金を入れる風習はこの冥途のお金が由来である。真田 信繁(幸村)隊のほとんどは傭兵だったようだが、彼らの決死の覚悟の出陣がうかがえる。死して400年、尚も武勇が伝えられる真田 信繁(幸村)公のご冥福をお祈りします(( -.-人毎年5月安居神社では幸村祭が行われている。今年2017年の日時を見忘れたようですが、5月2日あたりだったような・・。尚、神社は開門時間があります。午前7時~午後4時。古戦場おわります。Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年05月01日
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2016年は振り返れば驚きの連続。イギリスのEU離脱に始まり、不動産王のトランプ氏の大統領当選。国際的なテロも連続して起こり多くの人が巻き添えをくった。また内戦続きで国に居られず大量の難民が欧州を目指した年でもある。国内では熊本の大地震や日本各地で大規模水害が続く悲劇。そして最後の最後に国民的アイドルSMAPの解散。つくづく今年は良い事がなかったと思う。できる事なら2016年は丸ごとリセットして無かった事にしたいと思う さて、年内に高台寺まではさっさと終わらせます。書くこと無いようで、結構書く事が多いのに驚きます。やっぱり京都はどこも深いです。2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)方丈(ほうじょう)枯山水(かれさんすい)秀吉と寧々の霊屋(おたまや)高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい)江戸期に数度の火災で仏殿、方丈などが焼失したそうだ。もし全部残っていたら壮観だった事だろう。創建時の建造物で現存しているのは前回紹介した開山堂と観月台。そして今回紹介する秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)に茶室(傘亭と時雨亭)などである。開山堂前からの方丈(ほうじょう)開山堂の苔むした庭園一部と奧が方丈作庭者の小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、二条城の二の丸庭園の作庭者でもある。※ 二の丸庭園の方は特別史跡名勝に指定されている。方丈内部は撮影禁止なので遠くから・・。創建時は伏見城からの移築だった方丈も火災で焼失。現在の方丈は勅使門と共に1912年に再建されたものだそうだ。方丈前庭の枯山水(かれさんすい)と勅使門(ちょくしもん)勅使門(ちょくしもん)枯山水(かれさんすい)発祥は平安頃か? 室町時代の禅寺で特に多く見られるようになったと言う水のない水の庭である。ひよっとすると枯山水の原型は歌合わせの州浜(すはま)から来ているのではないか? と思ったりして・・。方丈前庭では不思議な枯山水を見た。通常は枯山水と言えば石や白砂を使用して水面を表現するのが一般的。石、あるいは白砂を三角錐にしたものは山や島になり、平たく敷いた白砂は水面の波形を表現するのがポピュラーだ。ところがここのは全く違う。変わった四角形や円形の模様は何か特別な意味があるのか? 不思議な図形の意味を聞いた所、実はなんの事はない観覧時、特別プロジェクトで夜のライトアップをしていたそうだ。そこでプロジェクションマッピング(Projection Mapping)をする為に庭を造っていたらしい。それにしもナイスアイデアか? 面白い試みかもしれない。開山堂や霊屋、茶室 (傘亭と時雨亭)方面へのゲート霊屋(おたまや)表門 重用文化財臥龍池(がりょうち)を超えて山に登るとすぐ上に霊屋(おたまや)がある。ここは秀吉と奥方である北政所(寧々様)の霊廟である。本来は開山堂より臥龍廊(がりょうろう)と呼ばれる階段で霊屋までアクセスできるのだが一般開放されていないのだ。臥龍廊(がりょうろう)開山堂から山に登る階段が霊屋(おたまや)まで続いている。この屋根瓦が龍の背に似ている事から臥龍廊(がりょうろう)と名が付いたそうだ。木々が生い茂っていて外からの全景は無理でした。以前豊国神社の所で秀吉の本来の墓である豊国廟の事を書いたが、もし阿弥陀が峰に建てられていた豊国廟が現存していたらもっと贅沢にもっと豪華だったはずだ。桃山時代の霊廟は工芸技術がふんだんに使われて豪奢なのだ。屋根の裏や天井、柱の彫刻などものすごく凝っている。内部の方もそうだ。厨子も高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)と呼ばれる金彩のほどこされた漆(うるし)塗りでできている。秀吉と寧々の霊屋(おたまや)内部撮影禁止の為にパンフレットと、この間BS朝日で放送されたテレビから写真を持ってきました。基本入り口からのぞくだけなので、実際に見に行くよりもこの写真の方が大きく見えてます。BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から 秀吉の木像実際の秀吉のイメージより男前ではないか? と係の人と話していたのだが・・。これは北政所(寧々様)が発注した像らしいので多少イケメンに仕上げたのかもしれない。因みに近年元の色に化粧直しされたようで、それ以前は色がほぼ消えていたそうだ。内部の厨子の右には秀吉の木像が安置されている。同じく厨子の左には北政所(寧々)の木像が安置されている。基本ここは寧々様のお墓なので寧々様の像の下には丸々寧々様の遺骸が埋まっているそうだ。一方、秀吉の方は、基本、阿弥陀が峰の豊国廟に遺骸が納められていたので、ここには遺髪と喉仏(のどぼとけ)が納められていると信じられている。(住職達も確認していないらしい。)余談であるが、豊臣家が滅亡した1615年に徳川家康により、豊国神社は廃絶され、豊国大明神の神号も剥奪。阿弥陀が峰の社殿だけは寧々様の意向でかろうじて残されたらしいが、山腹の豊国廟の方は破壊されて跡形もなく消された。(明治になるまで秀吉の遺骨は行方不明であった。)BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から立て膝の姿が当時の女性の座りスタイル姿なのかな?BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から堂の内部は巨大な蒔絵の厨子。つまり仏壇のような物。秀吉と寧々様の像は夜は蒔絵の施された扉の奧に入る。高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)厨子の扉には秋草、松竹.須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。蒔絵とは漆が乾かないうちに金粉や銀粉、等をまき付けて定着させる技法である。桃山時代の漆工芸の粋が結集されたこの豪華蒔絵技術は、この寺の名をとって高台寺蒔絵と呼ばれたそうだ。寧々様はよほど蒔絵が好きだったのか? その他の調度品にも多く金彩の蒔絵の品が保存されている。因みにこうした豪華霊廟建設は、やがて日光東照宮の霊廟建設に繋がって行ったそうだ。高台寺のハガキから 須弥壇の階段にほどこされた高台寺蒔絵(一部)茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい) 重要文化財山側からの撮影。左が茶室 時雨亭(しぐれてい)。右が茶室 傘亭(かさてい)。利休の意匠のによるこの茶席は伏見城から移築したものだそうだ。茶室 傘亭(かさてい) 表側丸太造。茅葺(かやぶ)き屋根の傘亭は竹が放射状に組まれ、唐傘を開いたように見える事から傘亭と名がついたようだが、正式には安閑窟(あんかんくつ)と呼ばれているそうだ。利休好みの侘び(わび)や寂び(さび)の効いた茶室は、権力アピールの黄金の茶室に相対して心静かに茶の湯を楽しめる場所のようだ。秀吉は両極の茶室をうまく使い分けしていたのかもしれない。因みに黄金の茶室は組み立て式で可動できるので、あちこちに運ばれて茶会が開かれたようだ。秀吉のプロモーション用ツールだったのかも・・。BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」から本来内部はこんなに見えない。何しろ入り口にも入れないのだから・・。左の扇のある所に秀吉と寧々様が座り、客人が右。 ここでも時々お茶会が開かれるらしい。時雨亭(しぐれてい)時雨亭は高床式? 目線の高さが上がるので京都の街が見渡せたそうだ。昔は絶景だったのかも・・。傘亭とは現在土間廊下で繋がっているが伏見城では別々に建っていたものらしい。竹林茶室 傘亭(かさてい)と時雨亭(しぐれてい)を出て山を下るとすぐに竹林である。これだけあると間引きするのも大変だろう。高台寺おわり
2016年12月28日
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19日夜、、ドイツの首都ベルリン(Berlin)で大型輸送トラックがクリスマス市のアーケードに突っ込むと言う許しがたい信じられ無いテロが起きた ベルリンは欧州の諸都市の中でも人口が多い街。もしかしてクリスマス市が狙われる・・と言う噂はあって警戒はしていたようだが、まさかトラックでクリスマス市に突っ込むなんて誰も想定できなかったろう。想像通り、後から過激派組織ISが犯行声明を出した。さらに同志に向かって車両を使って群衆を攻撃するよう呼びかけているらしい。改めて思う。過激派組織の目的は何なのだろう。よく、ジハード(jihād)と言う言葉が使われるが、本当のジハードは奮闘とか、努力と言った意味で、ムスリム(イスラム教徒)の守る大切な行いをさしているそうだ。過激派達はそのジハードを「異教徒を滅ぼす為の奮闘」と、かってに置き換えているのか?敵対する、あるいは迫害する異教徒のいた大昔ならともかく、今はお互いの宗教を重んじて異教徒同士でも手をさしのべあって生きていこうと言う時代なのに・・・。彼らの目的は世界をイスラム色で塗りつぶしたい・・と言う理由だけでは無いはず。(彼らは正統なイスラム教徒とは全くの別物。)彼らの真のねらいは? 世界を恐怖に陥れたいと言うだけの、非常にたちの悪いただの愉快犯なのではないか?あるいは彼らのトップはゲーム感覚で世界を版にして遊んでいる? 共鳴する同志? と言うコマにテロを起こさせ世界が恐怖するのを楽しんでいる? ※ クリスマス市については、古いですが、2009年12月「ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市) 」で書いてますから参考に見てね。リンク ザルツブルク 5 (待降節とクリスマス市)リンク ザルツブルク 6 (聖ニコラウスとクリスマス市)リンク クリスマス市の名物グリューワイン2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)茶室 遺芳庵(いほうあん)家康と北政所の不思議な関係史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州八坂の塔の東北。東山霊山(ひがしやま りょうぜん)の山麓に鷲峰山 高台寺(じゅぶさん こうだいじ)がある。そこは最初、豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となって夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺であった。(この時点で高台院は曹洞宗)1624年に北政所が亡くなってから、北政所の兄(木下家定)により建仁寺の三江和尚を開山として迎え高台寺(正式には高台寿聖禅寺)と号したようだ。(建仁寺は臨済宗なので宗派替えとなった。)※ 豊臣秀吉(1537年~1598年)※ 北政所(寧々)(1548年~1624年)高台院塔頭全景図(看板を撮影)青屋根・・・・・・・・・方丈(ほうじょう)右上の紫屋根・・・霊屋(おたまや) 秀吉と北政所を祀る霊廟。方丈と霊屋の間・・開山堂 方丈手前の渡り廊下に観月台(かんげつだい)がある。地図の左側の石畳の道が「ねねの道」。その道より左手にねねの住まいである圓徳院がある。こんなに京都市内にもかかわらず、かなりの敷地でありしかも環境は素晴らしく良い。紅葉の名所としても有名で、竹林もある。桃山時代の作庭である庭園の素晴らしさはずば抜けている。さらに院内には茶室が何棟か建っており、テーマでいろいろ茶会が催されているらしいから調べてから行くのも良いだろう。(体験予約もできるらしい)入り口の正面は庫裏(くり)庫裏(くり)・・食堂や僧達の住居部茶室 遺芳庵(いほうあん)茶室、遺芳庵(いほうあん)は趣味人で京都の豪商であった灰屋紹益(はいやしょうえき)(1607年~1691年)と夫人の吉野太夫(よしのたゆう)との好みの茶席らしい。(1908年に紹益の旧邸跡から移築したもの)見える格子のついた丸窓は吉野窓。小さいながら高台寺を代表する茶席の一つだそうだ。見える建物が開山堂開山堂の周りは多くの石組で飾られた小堀遠州 作の桃山時代の庭園となっている。今回いろんな角度から庭園を紹介。偃月池(えんげつち)と亀島この庭が「鶴亀の庭」とも呼ばれる所以が池北側の亀島と南の岬の鶴島の存在だ。徳川家と北政所の不思議な関係実は高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があると言われている。資金だけではない、高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も担っている。(家康は配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命している。)例えば堂宇は北政所の母、朝日局の菩提寺であった康徳寺の堂を移築して仏殿としている。※ 朝日局(あさひのつぼね)は高台寺内の旭雲院に葬られたがそれは今は無いようだ。伏見城からは今は焼けてしまった方丈や利休の意匠による茶室(傘亭、時雨亭)が移築されているし庭園の石もそうである。また伏見城の化粧御殿は高台寺前に移築され、そこが北政所の住居(現在の圓徳院)とされた。豊臣家を滅ぼした事を考えると破格の待遇のような気がする。何しろ家康は秀吉が嫌いだったはず。利休切腹の件もあり恨みは深かったと推測。しかも、豊臣家が滅亡する1615年には、秀吉を祀る豊国神社を廃絶させ、阿弥陀ヶ峰に葬られていた秀吉の墓はめちゃくちゃにされているのに・・。家康の時代に入ってからも(関ヶ原以降)北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。だからこそ、高台寺(創建は時は高台院)は創建当時から立派なのである。ではその理由は何なのだろう?政治的配慮で家康が北政所に気をつかった? と言う説があるが・・。ひょっとすると、北政所を大事にしたかったのは徳川家康ではなく、息子 徳川秀忠(とくがわひでただ)ではなかったのか?徳川2代将軍となる徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)は実質的な人質の体で1590年に豊臣家に入っている。(彼は特に秀吉に気に入られ秀忠の名をもらっている。)つまり秀忠は11歳で秀吉の元に行き、子の無い北政所に実母のように面倒を見てもらい、秀吉にも気に入られて豊臣家で案外良い待遇を受けていたようなのだ。北政所が落髪して尼僧となったのが1603年。秀忠が将軍職を継いだのが1605年。そして高台院が創建されたのが1606年と考えるとまさに北政所の為にお金も骨も折ったのは徳川秀忠と言う事になる。実際、高台院が創建されてから秀忠は度々高台院を訪れて北政所に会っていたと言うのだからやっぱり? と言う気がする。鶴島がどれか解らなかったが、たぶんこの写真範囲にあるはず。観月台(かんげつだい) 重要文化財檜皮葺き(ひかわぶき)の唐破風造り。文字通り観月する為の建造物である。これは秀吉遺愛の台(うてな)だそうだ。それ故、これも伏見城からの移築物なのだろう。史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州開山堂の左右、西と東に池を持つ庭園は小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の桃山時代を代表する池泉回遊式庭園である。この寺の最大の見所はこの庭園と言える。石は伏見城から運ばれたようだ。それを小堀遠州(こぼりえんしゅう)が組み替えて優雅な庭園を造り上げている。どの角度から見ても絵になる庭園である。織田信長が天下統一を図り、秀吉が天下を統一した時代。信長の安土城と秀吉の桃山城(伏見城)双方から安土桃山文化と呼ばれる時代がある。乱世が落ち着いて余裕の出できた武将達が茶の湯に興じ、器や調度品、茶席の造作、作庭、ふすま絵など素晴らしいものが沢山生まれた。貴人達が好む華やかな文化を武将達も求め花開いたのである。つくづく平和が文化を創る・・と思う。余談であるが、日本の文化がどれもこれもすばらしいのは、平和な江戸の時代が長く続いたおかげである 話はそれたが、桃山時代と称される秀吉の時代は利休を筆頭に茶の湯の優雅な世界が構築された時代である。この庭の作庭士、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579年~1647年)もたくさんの肩書きを持っているが茶人である。大名、茶人、建築家、作庭家、書家。 彼は万能の総合演出家だったのだろう。西の偃月池(えんげつち) 開山堂正面側からこの撮影直後、目の前を突然カモが横切り偃月池(えんげつち)から臥龍池(がりょうち)に移動して行った開山堂(かいざんどう) 重要文化財入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂は創建時の建物で重要文化財であるが、これが前出、康徳寺の堂を移築したものかは不明。(寺の資料には書かれていなかった。)この堂の左が偃月池(えんげつち) で右が臥龍池(がりょうち)である。内部の撮影ができないし、内部は薄暗いので解りにくいが礼堂部中央の彩色天井に北政所の御所車の天井が使われ、前方の格子天井は秀吉の御座舟の天井が利用されているそうだ。現在は高台寺開山の三江和尚(三江紹益禅師)(1572年~1650年)を祀る塔堂になっている。東の臥龍池(がりょうち)高台寺つづくリンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2016年12月22日
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つい先頃(2016年10月)、長崎の出島に建物6棟が復元され一般公開が始まったらしい。是非行って見たい所である。実は先月紹介した「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外・・中世日本の交易」のところで、出島の話を書いている。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)その時に書き落とした事があったのでここで書いておきます。「出島は最初ポルトガルの為に造られ、後からオランダがとって代わった。」と言う話をしているのですがまずはその年代から・・。1634年、出島建設1636年~1639年 ポルトガルが出島を賃貸 (この頃オランダは平戸にいた)1641年~1859年 オランダが出島を賃貸 (この時点でポルトガルは日本から完全追放されている)最初に渡来したイエズス会師達は、布教で来た為に、日本人に熱心にポルトガル語を教えたそうです。ポルトガル人がいた100年弱の期間、長崎界隈にはポルトガル語を話せる通訳がかなり増えたと言います。おそらくそれは当時日本人が唯一話せた欧州の言語だったかもしれない。1639年にポルトガルの入国が禁止され、オランダが出島に入ってからも、相変わらずポルトガル語で取引が続いたそうです。理由は定かで無いが、オランダ人は商売で来日しているので、日本人にわざわざ言語を教える必要を感じなかったのだろう・・と推測されている。(ポルトガル語で十分取引できていたから?)オランダ風説書にオランダ語の原本が無い理由もそこかもしれない。オランダ人による欧州の情報(風説書)は、ポルトガル語で通訳され、日本語で書き記され、幕府に送られたと思われるからです。確かに出島にオランダ人がいた期間は長かったけど、彼らはそこから外には出られなかった。日本人と会話する事はほぼ無かったのだからどっちでも良かったのかもしれない。一方、イエズス会師達は、布教の策として、まず言語を覚えてもらう必要があった。聖書も読めるようにならなくてはいけない。日本人に対する熱心度はポルトガルの方が遙かに高かったと思われる。2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)清水寺縁起地主神清水の舞台とは?音羽の滝(御利益)前回危惧していた清水本堂の修復であるが、早速年明けから素屋根が建設され、春から本格的な工事が始まる事が決まったようです。(春には現在の姿は完全に消えると言う事です。)推測通り、オリンピックまでには修復を終えるとの事ですが、年間550万人が訪れると言う清水寺です。ドル箱の本堂と舞台が消えるのはちょっと痛手ですね 奧の院は美しく彩色された。おそらく本堂もこんな感じの色合いになるのだろう。本堂脇の山を下る階段。地主神社は写真右から階段清水寺縁起清水寺の創建は奈良時代末の778年(宝亀9年)、大和小島寺の延鎮上人(えんちんしょうにん)が夢告をうけて音羽の滝を訪ねあて、行叡居士(ぎょうえいこじ)に遭い、霊木を授けられて観音像を彫り滝上の草庵に祀ったのに始まる。・・と、清水寺発行のガイドブックには書かれています。そして798年(延暦17年)には征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758年~811年)が滝の清水と上人の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えに感銘を受け、仏殿を寄進建立、ご本尊となる十一面千手千眼観世音菩薩を安置。時の天皇、桓武天皇の勅願寺となったとされています。しかし、創建後に何度も火災で焼失。(地震もあったかもしれない。)ほぼ13世紀には景観ができていたらしいが何度も再建を繰り返し、大半の建造物は17世紀前後に再建されたものだそうです。清水の舞台でお馴染み本堂が1629年(寛永6年)に火災で焼失した時は徳川家光(1604年~1651年)により1633年(寛永10年)に再建されている。それが現在の本堂である。明治中期の大修理、昭和のオリンピック後に本堂が修理されている。以来50年ぶりの今回の修理は主に屋根の檜皮(ひわだ)のふき替えや壁の塗り替えが行われると言う。地主神社・・・・本堂裏手で清水寺を鎮護する鎮守者はもともとこの土地の地主神。写真は2011年の12月。今回(2016年11月)は混み合い過ぎて撮影ができなかったので・・。縁結びもかねているので参拝に行く人はかなり多いようです。地主神神社、仏閣を建立する時、日本では古来からその土地の神様を鎮護主として祀る風習がある。その土地の神様が本来であろうが、清水寺では大国主(おおくにぬし)が主祭神にまつられている。日本神話で、国土を治めていたとされる土着の神様(地神)が「国津神」で、その代表的なのが大国主(おおくにぬし)。また猿田彦命(さるたひこのかみ)も地主神としてよく祀られている。※ 大阪天満宮では猿田彦命が祀られていた。清水寺でも当初は清水寺内の神社として祀られていたようだが、明治の神仏分離令で独立したのかもしれない。因みに、清水寺の建立の時に祀られた地主神と共にその創建にかかわった坂上田村麻呂も祀られているそうだ。山を下った階段の先、錦雲渓(きんうんけい)に音羽の滝がある。見える行列は滝の水を飲むための列。下る階段の横に清水の舞台の足組が見える。舞台の裏板には墨で大きな銘がしるされている。清水の舞台とは?本堂のテラス(舞台)は錦雲渓(きんうんけい)に垂直にそそり立っている。その舞台はもともと御本尊の観音さまに芸能を奉納する場所。つまり舞を舞ったり音楽を奉納する為のスペースである。平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納され、現在も奉納されている。テラス(舞台)は410枚以上のヒノキ板を敷き詰め面積は約190平方m。舞台下は最長約12mの巨大な欅(けやき)の柱を並べた釘を一本も使わない「懸造り」という手法で組み上げられている。思い切った決断をする事の例えで「清水の舞台から飛び降りる。」と言う諺(ことわざ)があるが、それがこの舞台である。高さにして建物4階相当。確かに思い切った決断の例えであるが、実際昔は、飛び降りると所願成就。死んだとしても成仏できるとされ、身を投げる者が絶えなかったというから恐ろしい。その舞台の足下は今はこんな感じ音羽の滝(舞台からの音羽の滝)音羽山より流れ出た清水は錦雲渓(きんうんけい)に流れ落ちている。そもそも大和小島寺の延鎮上人(えんちんしょうにん)が夢告を受けて見つけたのがこの清水(せいすい)であり霊泉である。写真、三筋の水が落ちる屋根の少し上にある祠(ほこら)に当初、延鎮上人(えんちんしょうにん)手彫りの観音像が安置された? と推測する。それ故、山号は音羽山。寺名の「清水寺」は、音羽の滝の清水(せいすい)に由来していると言うわけだ。音羽の滝の御利益この霊泉は観音信仰と共に古来より無病息災、立身出世、財福、良縁、子授など人々の信仰を集めたそうだが、今は左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とそれぞれ御利益が割り振りされているらしい。いつからそんな割り振りされたのだろう?今は外国の人達もこの御利益を求めて? 大勢並んでいてかなりの待ち時間がいる。滝の後ろには不動明王や行叡居士像が並んでいるようだ。みんな水飲む事に気を取られて後ろを見ていないが、御利益を得るなら、お祈りしてから水を飲むと良いとされている。(のんびりしている時間は無いけど・・。)貴族の為だけの寺も多かった中、清水寺は庶民にも開かれた観音霊場として信仰され親しまれてきた寺なのである。「源氏物語」、「枕草子」、「今昔物語」、能や謡曲の「熊野(ゆや)」、「田村」、「盛久(もりひさ)」、数々の作品の中に登場。昔から崇信されていたと言う証拠だ。ところで、ご本尊の清水観音は本堂内部からのぞき見る事ができますが、当然写真撮影とかはできません。本堂も写真撮影禁止です。それで外側だけの紹介になっています。清水寺とりあえず終わり。
2016年11月24日
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BSでたまたま見かけた中国の大河ドラマ、「琅琊榜(ろうやぼう)」。最後の3編しか見られ無かったのだが、その衣装の美しさに目が惹かれた。本作は2015年、中国、台湾で空前のヒットとなった宮廷劇だそうだ。中国の華やかなりし頃の美しい登場人物と衣装。非常に興味が湧いた。今や経済的に余裕のある中国のドラマは結構お金を使って製作され人物も美形がよりすぐられているので見応えが十分。逆に今の中国とは最も遠い世界感であったが・・。時代設定は、どうも架空らしいがベースは南北朝時代をモデルとしているらしい。となると設定時代は隋が中国を統一する589年以前。中国の南北に幾つかの王朝が林立していた六朝(りくちょう)(222年~589年)時代が当てはまる。さて、私が気になったのは、実は着物よりも武具の方。特に国境を守る女性の統帥の甲冑と兜を見た時、「あれ? 古代ローマの軍人みたい・・。」と思ったのだ。どう見ても西欧風。兜の形も西欧の兜タイプ。しかも兜の頭頂部に、まるでローマの百人隊長が付けるような飾り物がヒラヒラ。幾ら架空でも多少史実にあった武具が制作されているはず。ならば中国の昔の武具は古代ローマの影響があったのか? と思ったわけだ。秦の始皇帝(BC259年~BC210)の陵(墓)から発掘された兵馬俑(へいばよう)のイメージが強かっただけに意外な気がしたのだが、六朝時代は古代ローマ帝国の時代にかかっているし、実際陸続きの中国だから日本と違って西欧の進んだ文化の影響を受けていたとしても不思議ではないか・・。ちょっと調べて見たいな・・と、中国の甲冑にも興味は湧いたが、撮りだめしている西欧の甲冑の方を先に紹介できれば・・と思っている。(解説の本が無いのが目下の問題) さて、今回は前回の茶わん坂を上り、清水寺に。清水寺、とっくに紹介していると思っていたけど・・。やっていなかったようです 2016年京都 2 (清水寺 1)西国三十三所 観音霊場 十六番札所 清水寺(きよみずでら)境内にあった看板に手を加えました。それにしてもこんなに広かったのですね。赤いのが仁王門(重文)黄色が西門(重文)藤色が本堂(国宝)黄緑が奧の院(重文)※ ほとんどの施設が重要文化財に指定。※ 今回写真上部(本堂の先)奧の院は改修工事の為に立ち入り禁止。(以前の写真で対処しています。)以前長谷寺の所で西国三十三所 観音霊場について触れましたが、清水寺も西国三十三所 観音霊場 十六番札所となっています。※西国三十三所 観音霊場については、2016年5月 「西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1~2」を見てね 創建は奈良時代末778年。開祖は延鎮上人(生没年不詳)。平安時代前期の法相宗の僧。(このあたり詳しくは次回)本尊は 清水型観音(十一面千手千眼観世音菩薩)。北法相宗の本山。正式名は 北法相宗 清水寺 ?古都京都の文化財として点在する17か所の寺社と城郭と共に1994年にユネスコ世界文化遺産に登録されている。寺のエントランスになる仁王門(におうもん)と右が西門(さいもん)仁王門(におうもん)(重要文化財)こう見えて応仁の乱後の15世紀末に再建された門(室町後期)入母屋(いりおもや)造り檜皮葺(ひわだぶき)。高さ14m。横幅10m。奥行き8.4m。撮影していないが、仁王門だけに両脇侍に仁王像が建っている。鎌倉時代の物で京都では最大の座高365cm。仁王門からの西門(さいもん)と三重の塔西門(さいもん)(重要文化財)こちらは江戸初期(1631年)に再建された三間一戸の八脚門で、切妻造り。檜皮葺(ひわだぶき)。西門(さいもん)が造られた理由が良く解らないようだが、こちら脇侍は鎌倉時代に造られた持国天と増長天。四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという浄土信仰から来ているのか?西門の階段脇に以前は無かったとぐろを巻く2匹の龍の像が建立されていた。この龍が外国人に人気のようで人がはけるまで待って撮影。いるのはほぼ外国人。行く度に人が増えている清水寺です。三重の塔(重要文化財)日本最大級の三重の塔らしい。847年創建。1632年再建。彩色復元した総丹塗。今回は再建時の寛永時代の姿に戻したようです。経堂の横に拝観チケット売り場が設置されていた。轟門でチケット確認して先に進むと回廊に出る。回廊の先に見えるのが本堂。本堂にあるテラスがいわゆる「清水の舞台」である。蔀戸(しとみど)は本来、寝殿造の外周建具に使用するもの。とは言え西本願寺にはあったので、やはり雨風しのぐのに必要なのだろう。特にここは風が吹いたら大変そう。人が多すぎて撮影できなかったので、下の写真は2011年の12月の写真です。下の写真は今回の物。本殿、清水の舞台を紹介するのに、本来は奧の院のテラスからの写真を紹介するところですが、今回は修復工事中で本殿より先に進めませんでした。(釈迦堂、阿弥陀堂、奧の院の拝観ができない。)よって今回舞台の客観的な写真が撮影できなかったので、古いけど2011年の12月と2011年の7月の写真を参考として利用します。所で、今回清水寺には紅葉を見に行ったつもりでしたが、全然まだまだ。紅葉は11月末くらいからのようです。(代替えの写真の紅葉は12月でした。)写真は2011年の12月。奧の院より先の山から撮影。緑の屋根は当時修復中だった朝倉堂(重文)。現在終わって屋根は取り払われています。もうすぐ本殿の修復も始まる事でしょう。そうしたらもしかしたら本殿も丹で赤く色付けされるかもしれませんね。清水の舞台の足もまさか赤に?少し派手になるけど山の緑に映えて案外素敵になるかも・・。写真は2011年の12月。子安の塔、方面からの撮影。正面36m、側面30m、高さ18m。寄棟造り、檜皮葺(ひわだぶき)。国宝の本堂です。写真は2011年の7月。本殿テラス音羽山と錦雲渓を見る。右手はるか彼方には京都の街が広がっている。この当時は人がほとんどいないのにビックリ。今は鈴なりに人がいて下を見るのも順番です。下は今回撮影。テラスからの錦雲渓と音羽の滝。(音羽の滝は次回です)本堂テラスからの現在の奧の院と阿弥陀堂。彩色されて美しくなっています。写真は2011年の7月。奧の院のテラスからの撮影。大抵の場合、本堂テラス、清水の舞台の撮影はここからである。(山に入るのは時間が必要)いかに山肌にせり出してテラスが造られているか・・がよく見える場所なのだが・・。今回の人達は残念な事にこの景色が全く見られ無いのである。(立ち入り禁止になっているから)現在、清水寺は平成の大改修を行って数年。まだまだ工事は続く、何しろ国宝や重文がたくさん集まっているからね。それに何よりあと国宝である本殿の工事が残っている。本堂と清水の舞台も数百年ぶりの大型改修になるらしい。つまりこの姿はもう少ししたら見られなくなってしまう事になる。それどころか本堂自体の拝観が中止になるのも必死。修復に何年かかるのか・・。とりあえず今のうちに見に行っておくべきかもしれませんよ 清水寺 つづく
2016年11月19日
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連休に行かれる方もいると思うので早めに続きを・・ 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 2大和国・長谷寺長谷寺詣 源氏物語 二本の杉(ふたもとのすぎ)小初瀬山中腹の断崖絶壁に打ち出した舞台は懸造り(かけづくり)or懸崖造り(けんがいづくり)と言うらしい。要するに土地の少ない日本で山間に寺が造られる事が増えた平安時代以降にこのような形が増えたようです。実は何度も火災により焼失しているそうで現在の本堂は1650年(慶安3年)三代将軍(徳川家光)により再建されたもの。(平成16年12月に国宝に指定)入母屋造りの正堂と礼堂からなる2堂を接続した双堂(ならびどう)形式の建築であり、外は懸造り(かけづくり)の舞台となっている。本堂内舞台「大悲閣」と外看板があげられていた。慈悲深い観音菩薩を祀る本堂を表した名前のようだ。写真左の方に人が居るところが大観音様のお顔を拝むところである。本堂から西側を臨む。下方に見えるのは開山堂嵐の坂写真は4月の中旬です。開山堂前の桜本長谷寺(もとはせでら)前回紹介したように、686年(朱鳥元年)天武天皇の勅願により、道明上人はここに最初に精舎を建立。本尊として「銅板法華説相図」(千仏多方宝仏塔)を鋳造して安置した場所。(現在は宗宝蔵にあるらしい)道幅がなく正面の全景が撮影できませんでした。下は堂の正面。五重の塔本堂の舞台から僅かに見えていた五重の塔は戦後(昭和29年)に初めて建立された五重の塔だそうだ。実はその前の空き地に三重の塔の礎石が残っている。慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)に豊臣秀頼(1593年~1615年)によって再建されていた三重の塔が1876年(明治9年)までそこに建っていたのだそうだ。立て看板には「祝融(しゅくゆう)の災いにかかって今は礎石だけになっている・・」と書かれている。祝融(しゅくゆう)??? つまりは火災により焼失したと言う事らしいが、なぜそんな言葉を使っているのか??石楠花(シャクナゲ) ツツジ科ツツジ属ちょうど今が見頃の美しいシャクナゲだが、なんと毒性があるらしい。弘法大師御堂(こうぼうだいしみえどう)この建物自体は1984年に建てられた真新しいものである。その弘法大師御堂(こうぼうだいしみえどう)の右横にある休憩所で御抹茶を戴く。景色をながめながらちょっと落ち着く。店の名前がまた禅語の「喫茶去(きっさこ)」からきている。直訳は「どうぞお茶でも召し上がれ」らしいが、その意味はもっと深く、貧富いとわず無心にもてなす心がこめられているそうだ。御抹茶は美味しい落雁(らくがん)付きで一服500円。(落雁はそれのみ土産として売られていました。)長谷寺詣 源氏物語 二本の杉(ふたもとのすぎ)現在の正道とは別に東の駐車場の方から本堂に登り付く山道が存在する。おそらくそこは平安時代からの参拝者が利用していた道らしい。道の途中に二本の杉(ふたもとのすぎ)と呼ばれるちょっとした名物の杉の木がある。二本(にほん)でなく二本(ふたもと)なのはその根元を見てもらえばわかる。実はこの根元のひっついた杉の木は平安の時代から存在しているらしい。なぜなら源氏物語第22帖 玉鬘(たまかずら)にこの木が登場してくるのである。玉鬘(たまかずら)は、第4帖 夕顔(ゆうがお)の遺児である。夕顔は六条御息所の嫉妬に合い呪い殺された女性である。が、それを知らないで不遇に育った玉鬘は上京するおり長谷寺に詣でかつての母の侍女で現、光源氏に使えている右近に再会。「ふたもとの杉のたちどを尋ねずはふる川野辺に君をみましや(右近)」玉鬘(たまかずら)の運命はこれから好転するのである。長谷寺は平安時代から女官に人気の寺だったようで紫式部だけでなく多くの女官が願掛けに来ていたのであろう。玉鬘(たまかずら)の運命を好転させた長谷寺の威力を源氏物語の中に書き記した紫式部。それを読んだ宮中の女性はさぞ心が踊った事だろう。当然だが彼女達は徒歩でなく、牛車で登ったのでしょうね。近鉄大阪線長谷寺駅おまけ 駅にあった案内図です。(若干書き込みました)駅から1km徒歩15分とありましたが、駅も長谷寺も山の中腹。1度谷に降りて街の中を通過して寺に向かうので寺を散々歩くいた後に帰りは結構きつかったです。(室生寺と2件はしごしていたせいか?)長谷寺 今が実に良いシーズンです。 おわり
2016年05月04日
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チベット仏教の高僧ダライ・ラマ(Dalai Lama)の名を知る人は多い事でしょう。しかし「ダライ・ラマ」が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身だったと知る人は少ないかもしれない。観世音菩薩とは、救いの声(音)を観じた時に、すみやかに救いの手をさしのべてくれる菩薩様の事です。日本に渡っている観音信仰の菩薩様はいろんな姿(種類)がおられますが、チベットではダライ・ラマの魂が繰り返しダライ・ラマを継承。現在のダライ・ラマ14世は4歳の時に生まれ変わりを認定され5歳で即位された方です。日本びいきでコンビニでの目撃情報もある気さくな人柄のようです。(中国に迫害されていますが)チベット仏教にブレは無し。素晴らしいですねさて、話はそれましたが、今回は日本の観音信仰の霊場からの紹介です。西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1西国三十三所 観音霊場大和国・長谷寺長谷寺式観音長谷寺へのゲート残念ながら仁王門が修復中でホロを被っていました西国三十三所 観音霊場大和国・長谷寺は「西国三十三所 観音霊場 八番札所」になっていますが、実はこの「西国三十三所」は長谷寺(はせでら)を開山した徳道上人が閻魔(えんま)大王からの要請で開かれた・・とされています。つまり長谷寺が本来最初の観音霊場なのですが、西国(和歌山、奈良、大阪、京都、兵庫、滋賀、岐阜)の巡礼路を考慮して札が付けられているようです。因みに、「西国三十三所」、「坂東三十三箇所」、「秩父三十四箇所」で日本百観音となるらしい。※ 「大和国・長谷寺」としているのは全国に幾つも長谷寺があるからです。特に関東圏の霊場「坂東三十三箇所」には鎌倉と厚木の二箇所に長谷寺があります。(鎌倉は大和と同じく徳道上人が開祖となっている。)大和国・長谷寺 境内地図地図の下の矢印↑が上の写真の位置。次の矢印↑が登廊の始まる仁王門です。オレンジで記した登廊(のぼりろう)は山の上の本堂まで続く屋根付きの長廊下で、この寺の特徴です。長谷寺の歴史は686年(朱鳥元年)天武天皇の為に「銅板法華説相図」を初瀬山の西に安置したのが縁起らしい。(本長谷寺の開山者は道明上人)そして727年(神亀4年)初瀬山の東に伽藍を造営して開山。衆生救済の為の十一面観音(重要文化財)を本尊に祀ったのが先に紹介した観音霊場の祖である徳道上人です。仏教に国家鎮護の役割が担われた奈良時代、観音信仰はあっという間に広まったそうです。登廊(のぼりろう) 仁王門の下から撮影登廊(のぼりろう)は鎌倉時代(1039年)春日大社の社司 中臣信清の子の病気平癒の為に寄進されたものだそうだ。399段(108間)上中下の三廊に別れていて中廊と下廊は明治期(1894年)に再建されたもの。下廊の脇は牡丹の畑となっている。4月16日~5月8日現在、牡丹祭り開催中。今年は開花が遅れていたもよう。中廊と上廊の間、蔵王堂から僅かに見えるのは鐘楼です。山深く木々が邪魔をしているので本堂を下から撮影するのは不可能でした。下が鐘楼です。鐘楼の所から上廊を下に見た所。まさに山を登っている感じですね。でも階段は浅いのでそんなに苦ではありませんでした。長谷寺名物の正午を知らせるホラ貝であるが、修行僧の日課らしい。また深夜8時の雄叫びも有名だそうだ。雨でもほぼ濡れずに本堂まで来れるのは嬉しいですね。本堂の伽藍は中央が土足で通り抜けできるようになっている。その理由が長谷寺のご本尊、十一面観音(重要文化財)を間近で拝む為である。長谷寺式観音実は長谷寺の観音様は身の丈10m18cmと巨大なのである。木造の十一面観音像としては国内最大級だそうだ。当初の像は仏師稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)が近江国高島より来た霊木を彫ったもの。733年(天平5年)行基(ぎょうき)により開眼された。しかし度重なる火災により現在の像は1538年(天文7年)大仏師運宗によりはぎ寄せ造りで再造されたものらしい。(特別展チラシより)右手に数珠と錫杖。左手に水瓶蓮華を持ち方形の盤石に立位。地蔵菩薩のごとく人間界に下りて衆生を救済する姿を示したこの錫杖を持つ菩薩を長谷寺式観音と呼ぶそうだ。(通常の十一面観音に錫杖は無い)本尊の写真撮影は禁止されている。それ故冊子から写真を拝借。実は現在特別拝観が行われている。(春の部は~6月30日まで)特別拝観では通常立ち入れない宝本堂の中に入り観音像の足に触れる事ができるのだ。ちょっとバチカンのペテロの足を思い出しました。皆に触られてツルツルに・・。そしてお土産付き。仏の智慧(ちえ)をあらわす五色の糸をより合わせた腕輪。観音像の足に近づく時にこれを見につけるよう言われました。これにより観音像と御縁が結ばれた・・と言う印になるそうです。長谷寺入山料500円+本尊大観音特別拝観料1000円で1500円の所、共通券を先に購入すとる1300円になります。尚、上のミサンガのような五色の腕輪は、それだけ買うと確か700円していました。土産付きで1300円はお得です さて本堂続きです。本堂の舞台は山にせり出している。これを見て京都の清水寺を思いだしたのだが、清水寺も西国三十三所 観音霊場 十六番札所であった。舞台から見える景色載せきれなかったのでつづく。
2016年05月01日
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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 2 (1の解答編)として紹介したものを書き換えました。ラストにBack numberを追加しました。室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)室生寺(むろうじ) の歴史興福寺(こうふくじ)の別当法相宗(ほっそうしゅう)如意山の宝珠女人高野(にょにんこうや)鎧坂からの金堂鎧坂から金堂も結構大変ですが、まだここは序章です。金堂から本堂、五重の塔と登り。それから奧の院までかなり体力が必要ですし、奧の院は危険度も増します。スニーカーで行く事を勧めます。場所は奈良の山奥。大阪からも時間的には遠くはありませんが駅からのバスのアクセスが非常に少なく不便です。土日や連休は寺を訪れる人の為に若干本数が増えていますが・・。山の中なのでタクシー代も結構高いです。前回紹介したのはAの橋からGの鎧坂を登った所までです。今回は金堂(黄色の丸)から先を紹介します。不便も含めて山の険しい石段でお年寄りには結構厳しい場所です。行けない人の為になるべく写真を詳しく載せる事にしました。国宝 金堂 建造は平安時代初期元は薬師堂だったと言われる。国宝指定の釈迦如来立像他、同じく国宝の11面観音立像は非常に細工が細やかで美しい。奈良、平安、鎌倉の時代に渡る国宝、重要文化財が安置されていて、ここは別料金で参拝できる。但し撮影は禁止。重文 弥勒堂 建造は鎌倉時代中期本尊、弥勒菩薩立像も重要文化財指定役行者(えんのぎょうじゃ)も祀られている。金堂からの弥勒堂弥勒堂では屋根の修復基金を求めています。ここはあちこち古びているので大口の寄付が欲しい所です。国宝 灌頂堂(本堂) 1308年建立(鎌倉時代)真言宗にとって重要な灌頂(かんじょう)を行う堂である。真言・天台密教の道場として日本の仏教に大きな役割を果たした寺である。寺の歴史は遡れば天平時代の770年~780年皇太子山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の為にこの霊山にて僧が祈願した事がきっかけらしい。その後興福寺の大僧徒 賢憬(けんけい)(714年~793年)が朝廷の命により開山。しかしその後を賢憬に法相を学んだ高弟 修円(しゅえん)(771年~835年)が五重の塔など寺の建立に携わっている。興福寺(こうふくじ)の別当つまりこの寺は奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教、南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)が縁起である。そして法相宗(ほっそうしゅう)の大本山が奈良の興福寺(こうふくじ)である。※ 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つ賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)もその在籍は興福寺であり当初この寺は興福寺の別当(興福寺の管轄の寺)であった。以降、真言・天台密教の道場としてこのあたりの山一帯は奈良仏教界の山林修行の霊地となったらしい。法相宗(ほっそうしゅう)西遊記でお馴染み玄奘であるが、彼はインドかたくさんの経を持ち帰る。そして彼は持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げたと言う。その玄奘の弟子が開祖した宗派で遣唐使によって日本に持ち込まれた。日本では8~9世紀に隆盛を極めている。賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)も広めた当事者である。また修円は興福寺に伝法院を設立するほどで空海や最澄とも親しかったと言う。国宝 五重の塔 高さ16.10m我が国最小の五重の塔である。寺の創設にかかわった修円(しゅえん)の時代に遡る事かせ天平末から平安初期の建立らしい。五重の塔の左脇から奧の院に進む階段がつながっているのだが・・。下の写真地蔵が並ぶ向こうの山が如意山と言う。如意山の宝珠寺には弘法大師(空海)が唐の師匠、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より授かったと言う如意宝珠が山に埋められた・・と言う伝承が残っている。如意宝珠は菩薩や如意輪観音が持っている珠で意のままにどんな願いも叶えてくれる? そんな宝珠が1946年(昭和21年)実際に発見されたと言う。現在、宝珠は元の石像納経に戻したと言われその姿形も場所も公開されていない。奧の院で僧の方に聞いたのだが、宝珠はこの地蔵の裏手の方あたりに埋められたと言う。盗難の問題があるのでそれが本当かどうか解らないが・・。奧の院に進む階段ここから本格的な山登りとなります。(このあたりはまだ楽です)七重ヶ岳山道なので登ったり下ったり・・。写真は後ろを振り返った所。パワーの満ちあふれた年輪の行った杉林です。杉は万葉の頃から霊力の宿る神聖な木とされてきました。このあたりシダ類の生息域で天然記念物に指定されていました。またまた階段です。今度は歩幅が短く登るのはともかく降りるのは怖かったです。傾斜角はかなり厳しく、しかも手すりが低いしつかまる程の安定も無い・・。ぶっちゃけておきますが、山道の脇は何気に僧や尼のお墓だらけです 一人だったら怖い山道です。段数は本に寄れば390段余り・・。ガタガタで足下悪く登りにくいのが難点です。何度か休み休みやっと奧の院が見えました。振り返った所階段を登り切って最初に見えた景色です。左が 重文 御影堂 鎌倉時代 (高野山御影道の形式だそうです)右が売店ここまで登った者にしか買えない可愛らしいお守りが売っている。スモールサイズの梅と桜のお守りである。ストラップに調度よいサイズです 奧の院如意山山頂です。反対のテラスからは里山の景色が眺められます。さて、正解は女人高野と別称のある室生寺(むろうじ)でした。女人高野(にょにんこうや)とは、紀州の高野山が女人禁制だった為に室生寺に参詣する婦人が増えた事によります。(1450年頃には参詣の記録が出でいる。)はっきり呼ばれるようになったのは興福寺からの独立後? からかもしれません。江戸時代1694年、五代将軍綱吉の時代、彼の庇護を受けていた真言僧護持院降光が興福寺からの室生寺の分離を要求。以降正式に女性にも開かれた真言密教の寺院となり、綱吉の生母、桂昌院の庇護があり、幕府より多額の石(こく)をもらい寺は興盛。尚、その後室生寺は1964年真言宗豊山派より独立して真言宗室生寺派の大本山となっています。ゴールデンウイークにはバスも増発。しかも長谷寺までの臨時便が寺の駐車場から出るようです。この日は平日。バスは日中の1時間に1本あればよい方。たまたま来たタクシーで長谷寺へ。山道なので走る走る。空いていたので6000円ちょいでしたが、通常8000円くらいかかるそうです。今頃はシャクナゲが開花して連休は見頃でしょう。Back numberリンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)
2016年04月25日
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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを改めて寺の紹介としてタイトルを変えました。2部構成で2回目が解答編でした。ラストにリンク先載せました。室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで門前町から室生寺(むろうじ)陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)鎧坂(よろいざか)「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを利用しています。4月15日。と、ある山奥までやってきました。このあたり、かつては林業で栄えた街だったそうです。バスを降りて向かう先は非常に古いお寺です。観光バスで来る人は見ても気付かないかもしれません。赤い欄干の橋を渡るとそこは寺の敷地です。左に見える山も全て寺の境内です。門前町はノスタルジックな趣です。上のお店は薬局で、下の薬は胃腸薬「陀羅尼助(だらにすけ)」だそうです。和薬の元祖とも言われる「陀羅尼助(だらにすけ)」は吉野で造られる漢方薬で、黄柏(オウバク)の木の皮をはいで、煎じ薬にしたものだそうですが、その起源は1300年前に遡るそうです。陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)修験道の開祖である行者の役小角(えん のおづぬ)が690年頃に起きた疫病から人々を救う為に大和国葛城の吉祥草寺の境内でキハダを煎じた(オウバクエキス)を作り飲ませたのが元祖らしい。食欲不振、腹部膨満感、消化不良、食べ過ぎ、飲み過ぎなどから整腸(便通を整える)まで幅広く利用できるので以来、黄柏(オウバク)エキス薬は山岳修験者の常備薬としても用いられたそうです。※ 他にゲンノショウコウなども入っているようです。修験者らは呪術の他、採薬、合薬術等の知識を持っていた。修行で山岳をを回る過程で薬草を見つけてくるだけでなく、植物の自生地から鉱脈まで見通していたと言います。その彼らの知識は宮廷官人の医薬として、また医師の養成および薬園等の管理をする典薬寮(てんやくりょう)との関わりも深かったようです。※ 732年(天平4年)には役小角の弟子で(韓国広足)が典薬寮のリーダー(典薬頭・てんやくず)に就任している。陀羅尼助と言う名前の由来は、僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み強い苦みで眠気を飛ばしていた事から? きているらしい 天然のヨモギを使用した草餅のお店です。五木寛之氏の百寺巡礼で紹介されたお店だそうです。ちょっと小ぶりで柔らかいお餅でした室生寺(むろうじ)に渡る最初の太鼓橋この界隈は寺に参詣した人達の食事処です。寺の表門ですが、都合により石柱の寺の名前を消してあります一般の参詣者はこの門からでなく川沿いに進んだ所に拝観入り口があります。拝観料は大人600円。金堂の国宝拝観は別途500円(お土産付き)。写真追加仁王門こちらも都合上石柱の大本山の下の名前を消してあります。写真追加この寺では境内5箇所にQRコードのガイドがあり、ダウロードできる箇所に関してはFree Wi-fiが利用できます。おトイレは仁王門前に一箇所。とても綺麗です。仁王門内側虚無僧スタイルの方が尺八を吹いていました。仁王門過ぎてから山に登る。室生寺(むろうじ)の名所の一つ「鎧坂(よろいざか)」です。幅の広い自然石の石積みの階段です。それが編み上げた鎧のようだ・・と言う事でこの名がついたそうです。行きはよいけど帰りが転ばないよう注意が必要です。両サイドはこの寺の名所の一つシャクナゲが植えられていますが、今年はまだでした5月の連休の頃には満開になる事でしよう。代わりにまだ遅咲きの桜が残っていて、その花吹雪は寺の職員も見とれるほどでした。金堂からの鎧坂方面風に揺られて舞う花びらが堂の中にもたくさん散っていました。この写真からはわかりにくいですが、拡大するとゴミのように白い斑点が写っているのがわかります。こちらは鎧坂を上から撮影したものです。寺の見取り図(一部)です看板を撮影したものですが光が反射して背景が写り込んでいた為に作画しています。次回解答編で、金堂や弥勒堂、五重の塔の紹介をしますが、実は五重の塔から先の奥の院までの距離がかなりあり、かつ険しい石段が続きます。(足の不自由な方や小さいお子さん連れは無理です。)たいてい紹介されているのは五重の塔の所までです。Back number室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや
2016年04月18日
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茶道の完成に至る重要な位置を占めている大徳寺です。改めて目次も追加し加筆もしています。写真も追加しました。「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の紹介の前に先に大徳寺の紹介を簡単に挟みます。大徳寺は茶人、千利休との関係から当時の戦国大名にとって重要な寺でした。大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)大徳寺と千利休と戦国大名禅僧の茶人に習った千利休大徳寺と戦国大名の係わり三門(金毛閣)と利休の切腹秀吉と利休の関係聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?開山、開堂は鎌倉末期1315年(正和4年)。開山禅師は大燈国師(だいとうこくし)宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師。臨済宗大徳寺派の大本山である。(広い寺域に、別院2ヵ寺。塔頭21を有している。)勅使門(ちょくしもん) 重要文化財前後唐破風、左右切妻、屋根檜皮茸の四脚門。大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん創建当初は、後醍醐、花園両天皇からの帰依を受けるも、足利幕府の時代は幕府との折り合い芳しくなく、これと言ったスポンサーもなく、在野(ざいや)の禅院となっていた。1467年~1477年に勃発した応仁の乱の時はすでに大徳寺もほとんど灰と化していたようだが、その再建を担った住持が誰もが知っている大徳寺47世(1474年)、一休宗純和尚である。トンチで有名な「一休さん」ですよ。※ 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)和尚 1394年2月1日(明徳5年1月1日)~1481年12月12日(文明13年11月21日)仏殿 重要文化財一休さんの人脈により堺の豪商から資金を調達。1479年には仏殿を再建。現在の仏殿は1665年に再度再建されたもの。茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)この一休和尚の元に参禅したのが「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)だそうです。※ 村田珠光(むらたしゅこう)(1422年or23年~1502年) もともと連歌をたしなむ茶人だった珠光が30歳になって禅僧になったのである。それにより高級な唐物道具を必要とする従来の茶のスタイルとは全く違う簡素ながら精神的な深みを追求する茶禅一味の精神を追求した茶道ができた。これが後に利休が言う「道は珠光」である。以降、大徳寺はもとより禅僧と茶人の深い関わりが寺に人を呼ぶ事になります。わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)そしてつづく大徳寺90世、大林宗套(だいりんそうとう)に参禅したのが茶人、武野紹鴎(たけのじょうおう)です。※ 武野紹鴎(たけのじょうおう) (1502年~1555年) もとは堺の豪商の肩書きを持つ茶人で、若い頃に連歌を習っていた事が、奇しくも茶道の新たな道の提案に繋がったようだ。わび・さびの原義は武野紹鴎の考案した茶室のサイズから由来する。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称したらしい。※ 千利休(1522年~1591年)は17歳の時に武野紹鴎に師事していたらしい。大徳寺と千利休と戦国大名「術は紹鴎、道は珠光より」 by千利休禅僧の茶人に習った千利休先輩茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)と村田珠光(むらたしゅこう)の茶湯の術と道を極め完成させたのが千利休である。※ 千利休(せんのりきゅう) 1522年(大永2年)~1591年4月21日(天正19年2月28日)彼もまた堺の商家出身。若い頃から茶の湯に親しみ、先に述べた師、武野紹鴎(たけのじょうおう)と共に茶の湯を改革。もともと堺の南宗寺に参禅していたようで、その本山が大徳寺なのであった。大徳寺と戦国大名の係わり千利休は大徳寺111世、春屋宗園(しゅんおくそうえん)や大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依。時を同じく古渓宗陳と豊臣秀吉の信望は厚くそこに大徳寺和尚と秀吉と千利休の密接な関係が生まれたようだ。もっとも秀吉より先に利休に関わっているのは親方である織田信長である。織田信長が堺を直轄地にした時より親交を持つ。1575年10月(天正3年)信長は堺の茶人17人を招き、妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)である。白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品にかこまれたこの茶会は「それぞれ一生の思い出となるありがたい茶会であった」と太田牛一は信長公記で語っている。※ 信長公記(しんちょうこうき)とは、信長旧臣の太田牛一が記していた織田信長の記録。茶の湯は戦国期に武士のみならず富裕な商人にまで波及。その中から茶人が排出されたわけだが、もともと公家の嗜みであった茶の湯。それを楽しむ事自体がステータスだったと言える。このように千利休と関係の深い大徳寺に戦国大名がこぞって寄進し塔頭を建立。大徳寺は潤ったのである。三門(金毛閣)と利休の切腹大徳寺 三門(金毛閣) 重要文化財千利休が秀吉により切腹させられる要因の一つになった三門or山門or金毛閣。もとは応仁の乱後に一休宗純の参徒、連歌師宗長などが一階を寄進。後に利休が2階増築分を寄進して金毛閣と名付けられた。山門・・龍宝山の門三門(三解脱門)・・空門、無相門、無作門「なぜ利休のまたの下を通らなければならないのか?」完成記念に楼上に等身大の利休像が設置された事が秀吉の怒りをかった発端と言われている。かくして茶人 千利休は1591年4月21日(天正19年2月28日)、聚楽第にて切腹させられるのである。その首はさらしものにされ、利休の木彫で踏みつぶされたと言われている。※ 切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)裏側の仏殿前から撮影。秀吉と利休の関係1582年(天正10年6月)、天王山の戦いにおいて秀吉が勝利すると利休はねぎらいの茶を天王山麓の「妙喜庵・・茶室(待庵)」でたてている。1587年天正15年には秀吉の主催した北野大茶湯で主管を勤め、聚楽第の作庭にも参加。一説には千利休も政治に携わるなど二人の密月は続いていたはずだった。それが突然の謹慎からの死罪宣告。しかも世に代表する茶人である。戦国大名らもこぞって恩赦に走り回ったが結局刑は執行されてしまった。秀吉との間にどんな確執が生まれたと言うのだろう?聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?以前聚楽第について少し触れてますが聚楽第は秀吉が政務と居城をかねて京都の町に築いた平城です。1586年(天正14年)2月に着工~翌1587年(天正15年)9月完成。作庭には利休があたり、茶室を造り、聚楽第内に利休の居もあったと言う。秀吉自身が彼を気に入り公儀以外の一切をまかせていた関係がくずれるのは、淀殿に鶴松が生まれた事(1589年 天正17年)からではないだろうか?鶴松は1591年(天正19年)8月に短い生涯を送っているのであるが、利休が切腹させられたのが天正19年2月。それは鶴松が病に倒れて秀吉が病気平癒の為に神社仏閣に加持祈祷を連発していた頃の事だ。もしかしたら利休は親ばかになってメチャクチャやっている秀吉に何か諫める事でも言ったのではないか? 鶴松は利休の切腹後に結局亡くなり、その年1591年(天正19年)12月に甥の豊臣秀次に家督を譲ると同時に聚楽第を手放している。利休の亡くなった聚楽第に居すのが嫌だったのではないか?1593年8月29日(文禄2年8月3日)淀殿が第二子、秀頼を出産すると秀吉は甥の秀次を追放(1595年7月)して切腹させた。そして翌月8月に聚楽第を徹底的に破壊している。竣工してたった8年で消えた幻の館、聚楽第。なぜか? それが疑問だったが、聚楽第自体が利休の作品だったのでは? と言う気がしてきた。利休の面影ある(存在を感じる)聚楽第が嫌で消し去るようにメチャクチャに破壊してしまったのではないか? この理論、当たらずとも遠からず・・と言う気がする。聚楽第に関する資料が無いのも秀吉が抹消したからなのではないか?当時の聚楽第と周辺の様子を伝える貴重な資料として桃山当時、描かれた六曲一隻(ろっきょくいっそう)の屏風。(作者不明)をウィキメディアから借りてきました。三井記念美術館所蔵 聚樂第屏風圖 部分のさらに部分拡大聚楽第の場所は御所より西、現在の堀川通りより西あたり。聚楽第の推定場所2018年01月、陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)を祀る晴明神社(せいめいじんじゃ)を紹介した事がある。晴明神社の二の鳥居をくぐった所にある晴明井は、かつての聚楽第で千利休も茶の湯に利用していた水と言われている。かつて聚楽第内にあった千利休の屋敷跡の碑リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)大徳寺唐門 撮影禁止の為に大徳寺の本から借りてきました。 国宝「桃山の三唐門」として前に紹介した京都の国宝三大唐門の一つで、聚楽第にあった門だと伝えられている。前の唐門は明智光秀の寄進した門であったらしい。それも本能寺の変の直後に白銀千両が届けられたと言う・・。次回、「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2015年06月13日
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リンク先名変更1576年(天正4年)2月、織田信長は安土城に転居した。(現在の滋賀県近江八幡市)つまり本拠とする安土城が完成したと言う事なのだが、信長はこの時に京都にも上洛の時に使用する屋敷の建設を思いついたようだ。(信長公記より)屋敷は調度、関白の二条晴良の屋敷跡の庭地を気に入り工事に当たらせた。余談であるが、この頃は大阪で石山本願寺の僧兵が挙兵し天王寺を奇襲。それに対処していた頃である。この頃信長が上洛時に宿所にしていたのは妙覚寺である。前回紹介したが、変の時に織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺である。上洛する時の為に京に屋敷を造るのは自然な事。信長もそれに習って屋敷を建てたのか? と思いきや、1577年(天正5年)7月より上洛時は二条の新邸に移ったものの、屋敷の完全なる完成を見るとあっさり皇室に献上してしまうのである。1579年(天正7年)11月(誠仁親王)に二条の新邸をあけ渡すと、信長は再び妙覚寺に居を移している。1580年(天正8年)2月。最初に上洛した時の宿所はやはり妙覚寺であったが、その5日後に本能寺に宿坊を変えている。日蓮法華の妙覚寺はもともと妙顕寺の僧であった日実が教義や後継問題の対立から離脱して開いた寺である。また、本能寺も同じく教義の解釈から妙顕寺に破却されて日隆が創建(1415年)した法華宗の寺であった事から、妙覚寺と本能寺は親しく繋がっていた可能性がある。二条の新邸建築以降は、上洛が重なる時は信忠に妙覚寺を譲り、信長は本能寺に宿坊したのではないか?と推察。本能寺に度々立ち寄るものの、本能寺の資料による本能寺への投宿は4回だけだそうだ。回数的に言えば妙覚寺のが圧倒的に多い。だからこそ4回目の本能寺投宿は府に落ちない・・ 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)法華宗の寺、妙顕寺、妙覚寺、本能寺本能寺の再建織田信長と本能寺と種子島と鉄砲現在の本能寺は法華宗本門流の大本山となっている。本能寺の「能」の字「䏻」はヒでなく去になっている。これは度重なる火事をきらって・・こちらを使用していると言われている。寺町通りから入ると右に宝物館があり、正面に本殿が見える。ビルの左側は本能寺会館である。本殿と言ってもここに信長が宿坊していたわけでは無いし、まして場所も全く関係ないのであまり感慨はない。ほとんどみんなが目指すのは、この右脇の奧に位置する信長廟である。信長廟前の拝殿河原町通りの路地から入ると信長廟の裏手にあたり、ビルが途切れたすぐ右が信長公の廟となっている。(実際はお墓ではなく供養塔であるが・・。)右の石柱は350年目の祈念碑である。信長公の供養塔1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)の一ヶ月後、3男、織田信孝が父の菩提を弔う為に建立。中には信長公の太刀を納めて供養としていると言う。なぜなら、本能寺で織田信長のお骨は発見されなかったからである。(これについては阿弥陀寺の回で・・。)本能寺の再建本能寺自体の再建は同年1582年(天正10年10月)速やかに始まり、秀吉からも山城の国鴨川村40石の朱印地を寄進されたと言う。また大納言からの支援の他、種子島からも浄財が運ばれたと言う。その後1592年に前回紹介した秀吉の都市改革で移転を余儀なくされ現在地に。割と新しい物に見えるが・・。信長公の供養塔の左隣が変の時に戦没した諸霊の供養塔森蘭丸、兄弟の名前ももちろん載っている。いつもなら慎重な信長が、この時、ただのお小姓衆を30人ほど連れて本能寺に宿坊していたそうた。まるでお小姓衆の慰安旅行に思えてしかたがない なぜ彼は油断したのだろう?織田信長と本能寺と種子島と鉄砲信長、本能寺への3度目の宿坊が、石山本願寺に勅使を贈る直前1580年(天正8年)2月である。目的は武器の調達だった可能性も・・。まもなく、石山本願寺は白旗を揚げて大阪を撤退する意志を固めてきている。織田信長と言えば、長篠の戦い=鉄砲である。長篠の戦い1575年(天正3年5月)では鉄砲を用いて武田軍に勝利した事で知られているが、本能寺もまた鉄砲と火薬を調達できる独自ルートを持っていたのである。本能寺の資料に寄れば1462年~1486年にかけての法華宗の布教は種子島まで到達していたそうだ。日典上人の殉教。続く日良上人の努力により種子島、島民全てを本門法華宗に改宗させていた。そして1543年種子島に鉄砲(火縄銃)と火薬が伝来すると本能寺の有力檀家である島主種子島氏が本能寺を通じて足利将軍や管領・細川晴元に献上。さらに「本能寺の変」後には、本能寺として秀吉にも火薬を送っている事が寺の文章に残っているそうだ。鉄砲の日本伝来と普及に関して、その信憑性に疑問もあるが、確かに本能寺には鉄砲と火薬を手に入れる独自の種子島ルートがあったのは事実のようだ。鉄砲の普及に関しては当然、堺の商人の活躍があったのではないかと思う。宣教師達は16世紀後半の堺をベニスのようだと称している。そして富裕で利便のよい堺を狙って武将たちがやってくる堺の商人が屈服したのが織田信長であり、信長、長篠の戦いの鉄砲は、堺の鉄砲鍛冶の造った日本製だったと言われている。(大阪城を築くのは秀吉ではなく信長だったのだ。)しかし火薬の材料の一つ硝石だけは輸入に頼らざる終えなくて明や琉球から輸入されていたそうだ。信長が必要としたのは種子島経由の火薬ルートなのかもしれない。天正10年頃妙顕寺、妙覚寺、本能寺は非常にご近所なのである。そして信長が布教を許し庇護したイエズス会の南蛮寺もまたすぐお隣さんである。ただ、小説「信長の柩」で出てきた南蛮寺と本能寺を結ぶ地下通路は現実には不可能と思われる。なぜなら両者の間には西洞院川(にしのとういんがわ)が存在していたからだ。ところで前にも紹介していると思いますが、1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)当時季節と暦(太陰太陽暦である宣明暦)にだいぶ差異が生じていたのでユリウス暦orグレゴリオ暦にすると実は本能寺の変は1582年6月21日になるそうです。信長の墓所つづくリンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年06月04日
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昨日取り寄せていた本がやっと届いた。にわかにベストセラーとなっていて、なかなか入手しにくくなっている「本能寺の変 431年目の真実」である。その著者は明智憲三郎 氏。明智光秀の子孫の方である。苗字により一目解る本能寺の変の謀反者。光秀の子孫である苦悩が著者にはあったそうだ。なぜ光秀は主君織田信長を裏切ったのか? 光秀の出自から迫り、今まで定説とされて信じられてきた内容の矛盾を多方面から集めた文献を上げ考察。真実に迫った書なのである。そこには今まで誰も気付かなかった史実が見えてきた。内容も理路整然とし、明確な解析。光秀論としては、今後の定説になるであろう画期的な一冊となっている。そもそもなぜ定説に問題があったのか?それは定説の元となった光秀論が秀吉の書かせた「惟任退治記」(大村由己)による所が大きいからだ。歴史を歪曲し、己を良くする為に人物像をゆがめ、史実をゆがめても隠したい事が秀吉にはあった。さらに秀吉亡き後に時を待って書き上げられた信長の元で仕えた太田牛一の日記「信長公記」。これは公式に出版されなかった為にこれをパクッて軍記物「甫庵信長記」を出版した小瀬甫庵なる人物が話を歪曲してしまった。読み物として脚色され歩調され、自身の論評まで加えられた本書はベストセラーになって世に広まっていたのだ。加えてこれらを元に光秀、野望説を説いたのが1958年高柳光寿の「明智光秀」だそうで、定説を決定づけてしまったらしい。尚、真実の太田牛一の「信長公記」(池田家本)が出版され世に出るのは何と近年1975年の事。岡山大学付属図書館池田家文庫に原本が保管されていたそうだ。現在、新人物文庫にて現代語訳の「信長公記(しんちょうこうき)」が出版されている。その内容は非常に細かく、本当に日記としてコツコツ書き留めていた事がうかがえる内容である。(そこから見えてくる真実はたくさんあるはずだ。但し、本能寺の変の時に彼はそこにいない。誰かから聞いた話が元になっている。)定説を考えずにこうした本から入り直すと誰も気付かなかった発見がまだあるかも・・。因みにルイス・フロイスの日本史も中公文庫で出版されています。さて、本能寺に入るわけであるが、知らない方の為に先づ紹介したいのは、現在の本能寺が本能寺の変の場所ではない。・・と言うことだ。だから「本能寺跡地」と「本能寺」と言う紹介になるのである。秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転寺町通り御土居(おどい)本能寺跡地現在の本能寺本能寺が焼け落ちたのが1582年(天正10年)。寺はその後再建に進む。しかし上棟式直前と突然に秀吉から移転命令が出た(1591年)と言う。なぜ? しかし実は寺の移動を余儀なくされたのは本能寺だけではなかったのだ。秀吉の改革は前回紹介したように後に徳川家康に消し去られているので解りにくくなっているのであるが、信長亡き後、天下を納めた秀吉は京の洛中の改造を始めていた。所謂洛中の仕分けである。内裏近くに自分の館、聚楽第を築くと周りには有力武将の館を集め町人には町人・・と身分による棲み分けを決めたようだ。1589年(天正17年)2年の歳月をかけて御所を一新すると1591年(天正19年)本格的に京都街の大改造事業を開始。20日間で2000軒の屋敷が撤去されたと言う。京都全体を戦場にした応仁の乱(1467年~1477年)で長らく荒廃していた京の街を改造するにはちょうど良かったのかもしれないが・・。寺などは引っ越しも容易では無かったはずだ。寺町通りその時に洛中の寺は北(鞍馬口通り)~南(五条通)に至る通り、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集められているのである。平安時代、東京極大路は御所にも近く、貴族の邸宅が集まっていたセレブ通りだった。が、そこに寺ばかり集まったので通りは「寺町通り」に変わった。(つまり寺町通りの起源は秀吉なのである)秀吉により集められた寺は約80ヵ寺を数えたと言う。その中には本能寺のすぐ上手にあった妙顕寺や妙覚寺も入っているし、織田家の菩提寺? であった阿弥陀寺もまた所領を減らされて洛中でも洛外に等しい場所に追いやられているのである。現代の地図に重ねた御土居(おどい)の位置と黄色のラインが寺町通り寺町通りのすぐ東に鴨川が流れている。この鴨川はよく氾濫し、当初寺が集められたのは敵の襲来を防ぐ目的と、川の氾濫を食い止める目的があったとも考えられている。オレンジが内裏その西隣のピンクが、聚楽第の場所である。レッドが再建された本能寺の場所。因みに向かいのグリーンは現在の京都市役所である。秀吉はまた、洛中と洛外を明確に分ける為に?あるいは敵からの防御の為に? 京の市中を囲むよう御土居(おどい)なる土塁と堀を建設している。※ 秀吉の治世が終わると水害に懲りた寺院は川の向こうの安全な場所に引っ越しした所もけっこうあるらしい。御土居(おどい)1591年(天正19年)豊臣秀吉が諸侯に命じて造らせた土塁と堀による障壁。そして堀の上には美観を兼ねて竹林が植えられていたと言う。※ この御土居の工事もまた洛中の住み替えの工事と平行して始まっている。江戸時代に家康により取り壊された為に現存するのは数カ所。たまたま撮影していた北野天満宮の裏庭の御土居(おどい)は今や貴重な史跡。左が土塁(その向こうが梅園)で、その外に堀が造られている。橋は近年かけられたもので、堀も近年整備されたものだろう。また御土居(おどい)における洛中と洛外を結ぶ出入り口は限られていたので、現在のような橋はここにはなかったはずだ。下は徳川時代初期の堀の図に多少手を加えました。全ての寺が洛中の寺町通りに集中していたわけではない。もとの位置から動かなかった大徳寺、北野天満宮。また、秀吉が許した本願寺(現在の西本願寺)はわざわざ洛中でも目立つ場所を与えられて移転してきているのである。オレンジの聚楽第は秀吉の時代にすでに無くなっているが地図に残した。参考までにパープルで円を描いた所は、当時の葬送地である。本能寺跡地本能寺の変・・1582年(天正10年6月2日)織田信長が天下統一を前にして無念にも明智光秀の謀反により亡くなった場所である。この付近本能寺の標識。前の道が蛸薬師通りであるから本能寺入り口がこのあたりだったのかも。とにかく行って驚くのはただの住宅街の中である。近年発掘調査をしたものの、今更住宅をどかす事もできないだろう。せっかく場所を特定したので地図で紹介しておきます。A・・現在の本能寺B・・本能寺跡地(下の赤い点が標識の場所) 織田信長が変の時に宿坊していた寺 西・・油小路通り 東・・西洞院通り 北・・三条通り 南・・蛸薬師通りC・・南蛮寺(イエズス会の京都の教会)跡地 信長が庇護していた教会D・・妙顕寺跡地E・・妙覚寺跡地 織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺オレンジが御池通りピンクが河原町通り。現在の本能寺京都市役所の正面、御池通りはさんで南側が本能寺の場所である。表玄関(寺町通り)裏口(河原町通り)ビルの狭間に入り口があるのだが、知っているならともかく初めてだと見つけにくい入り口である。御池通り側には本能寺会館があるが、寺の入り口は寺町通りか河原町通り側からのアクセスになるようだ。本能寺つづくリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉関連リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名高台寺は正室である北野政所寧々様が夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺です。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月30日
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追記しました文字制限でどうしても縮められず2部構成になってしまいました 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)秀吉の出世大坂の陣後の家康家康の復讐?妙法院門跡秀吉の出世1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)1582年(天正10年6月27日)(清洲会議)本能寺の変後、織田家から完全に権力をはぎ取ると権威として冠位を受ける為に朝廷に取り入った秀吉。その出世は早かった。1584年(天正12年11月)従三位、権大納言1585年(天正13年3月)正二位、内大臣宣下1585年(天正13年7月)従一位・関白宣下、内大臣如元(正親町天皇のより関白に任じられる。)1586年(天正14年9月)豊臣姓を下賜される。11月後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進、豊臣政権誕生である。※ 後陽成天皇の在位期間は秀吉の時代から徳川家康の時代にまたがっている。秀吉は関白職を公家から武家に移して世襲とし、諸大名や武家に官位を配りまくったそうだ。しかし、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城で薨去し、翌年後陽成天皇より「豊国乃大明神」の神号をもらい豊国社で祀られるも、1615年(慶長20年)の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると家康により秀吉の残したものはことごとく消されて行った。大坂の陣後の家康徳川家康は大坂の陣後から朝廷の人事にも介入。秀吉の重用していた後陽成天皇は退位させられ上皇にされ一線から外される。それも後任人事は望の皇子でなく、家康の希望する不仲の第3皇子の政仁親王への譲位である。それが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)であり、これにより「禁中並公家諸法度」の公布など家康の思うままの朝廷が誕生したのである。家康の復讐?秀吉により官位を受けていたとは言え、秀吉の行為には苦渋の思いをさせられていた家康が秀吉の栄華の後を消し去るのは想像に難くないことだ。1584年(天正12年)織田信雄(次男)、徳川家康vs秀吉の戦いの因縁もあるし・・。また、神格化されて、次の政権の足をひっぱられては困るので、政敵に利用されない為にも完全に秀吉生前の偉功を消し去る必要があったのでは? と、想像できる。かくして1615年(元和元年)豊国社は破却され、社殿は壊され本当に何も存在しなかったように草の原にされ、秀吉の遺品や豊国の神仏お宝類はすく裏にある妙法院の物となった。大仏がすでに壊れていた事は幸いしていたかもしれない。もし大仏が残っていたら破壊されていたかもしれない。その当の大仏は高さこそ6丈3尺(約19m)と東大寺を越えていたものの、材質は銅像でなく木彫の漆喰造り、事もあろうに開眼1595年(文禄4年)のその翌年1596年9月5日(文禄5年)に起きた慶長伏見地震で大仏殿は残ったものの大仏自体が倒壊していたのである。まさに幻の大仏殿跡地に豊国神社は再建されている。方広寺(ほうこうじ)梵鐘だけは今日に残っている。現在の方広寺(ほうこうじ)は豊国神社隣。上の写真の梵鐘裏手の方向に豊国神社社殿がある。梵鐘には「国家安泰」とあり、「家康」の名が分断されている・・と呪詛の解釈をしたとも言われている。妙法院門跡は最初、秀吉が両親の供養の為に行っていた僧千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所(妙法院庫裏)として歴史に出てきた寺院である。大坂の陣で豊臣家が滅亡すると同時に方広寺はほぼ解体状態。すると当時の妙法院住職は徳川にうまく乗ったようだ。夏の陣後、同年1615年(元和元年)に縮小された方広寺住職をなぜか妙法院門跡が兼務している。豊国社のお宝も妙法院門主の管轄下に入り、同時に新日吉社や秀吉が後白河院や清盛の栄華にあやかろうと肝いりで堂の修復や塀や門を直した蓮華王院(三十三間堂)もまた妙法院門主の管轄下に入っているのである。※ その時組み込まれた新日吉社と豊国社は現在独立しているが観光客収入の多い蓮華王院(三十三間堂)はまだ管轄下にあるようだ。僧千僧供養の僧の食事を準備した庫裏(くり)・・キッチンである。土間に大きな釜土があった。門跡と言うのは皇族や貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指すらしい。が、確かに妙法院は皇族と深い関わりのある寺なのである。下は明治天皇が来訪された時の碑と建物。部屋も公開されていたが、よく来ていたらしい。要するにお坊さん個人の邸宅のようなもの。御所を追われた公家が逃れて来た事や、文化人も多く集まったと言う。公家のサロン的な役割もあったのだろう。円山応挙や伊藤若冲らが出入りしていたと言う。とにかく襖絵(ふすまえ)が素晴らしかったです。本尊は普賢菩薩。写真は普賢堂。偶然立ち寄ったら一年に1度のご開帳「五月会(5月14日)」で中を観覧し、僧千僧供養の食を出した庫裏や書院やお庭が見学できました。無料でしたが中は撮影禁止。(残念)普賢堂では花びらに願いを書き込み、法要奉修していただきました なんてラッキーな日。何にしても豊臣家が滅して大もうけしたのが妙法院なのである。豊国神社奉納絵馬秀吉に因んで瓢箪(ひょうたん)と草履の2種あるようだ。瓢箪(ひょうたん)には開運絵馬草履には出世絵馬と仕事絵馬があったがどちらも仕事が順調に行く事を願う内容が多かったです 日本人は働き者ですね。豊国神社宝物館内部豊国神社が再興されても妙法院門跡はお宝は戻してくれないようである。たいしたものはほとんど無い。逆にかわいそうである。秀吉の歯・・とか珍品はあったが・・。それにしても一つだけ家康を褒めるとすれば、秀吉の墓は破壊しても柩には手を出さなかった事だ。秀吉の功績は明治に入り評価され冠位が上げられた? (格上げ人事?)1915年(大正14年)贈正一位。豊国神社おわりBack numberリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1他、秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月22日
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前回に引き続き、豊臣秀吉関連です。本当に偶然なのですが、今回京都の国宝「三大唐門」を巡っていました。別名「桃山の三唐門」。大徳寺、西本願寺、豊国神社の唐門がそうです。それらに共通していたのが豊臣秀吉です。大徳寺の唐門は秀吉の館の一つだった京都の聚楽第(じゅらくだい)にあったものを拝領した・・と大徳寺のパンフに書かれています。聚楽第は秀吉が居城として京都の町に築いた城ですが、甥の豊臣秀次に譲ったものの、彼を切腹させた後に徹底的に破壊した・・と言われる竣工してたった8年で消えた幻の館です。(現在の二条城より北の位置)西本願寺の唐門は、私感では最も見た目豪奢な門です。この唐門に関しては、京都の地に本願寺が移動してきた1591年(天正19年)に竣工されたもののようです。それにしてもウィキペディアには秀吉が大阪天満にあった本願寺を京都に呼んで創建させた・・と書かれていますが、本願寺発行の本の方に秀吉にかかわる記載がありませんでした。(・_・?) ハテ?そして今回紹介する豊国神社の唐門は、鳥井から正中、社殿の前にありました。豊国神社は明治に再建されたものですが、その唐門の出所は、遡れば秀吉が亡くなった時に居た伏見城の遺構だった? と言われています。それにしても天下統一を果たした豊臣秀吉ですが、これだけ京都の町に秀吉の残した遺構が多いにもかかわらず、織田信長よりも京での人気はかなり地味な感じがします。豊国神社(とよくにじんじゃ) 1「桃山の三唐門」について豊国神社別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)豊臣秀吉豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)豊国神社(とよくにじんじゃ)、通称「ほうこくさん」大和大路通り1880年(明治13年) 明治天皇のご沙汰に寄り別格宮弊社に列せられ、社殿は旧、方広寺大仏殿跡地に再建されたのが現在の豊国神社である。前回紹介した豊国廟は、それから遅れる事、1898年(明治31年)秀吉公300年祭に遭わせて再建されたもの。御祭神はなんと豊臣秀吉です 人間なのに?以前御霊信仰で祭られた神田明神の平清盛 公や、北野天満宮の菅原道真 公などスペシャルな場合はありましたが・・。朝廷が許可を出すと明神になれるようです。別格宮弊社(べっかくぐうへいしゃ)は明治維新以降に作られた神社の等級や格を仕分けた社格制度の中で生まれた部門で、「国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなったや兵士を祭神として祀る神社」。武将が多いようです 東照宮・・徳川家康 建勲神社・・織田信長 上杉神社・・上杉謙信 etc因みに靖国神社も別格宮弊社の扱いです。唐門のせいで一瞬寺にも見えてしまいます。豊臣秀吉(1537年(天文6年2月6日)~1598年(慶長3年8月18日))豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)1598年(慶長3年8月18日)太政大臣を辞職し、8月に伏見城で薨去(こうせい)。しばらく秀吉の死は隠されたそうです。そして翌年1599年(慶長4年)東山大仏(方広寺)の鬼門に位置する阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に八幡宮(はちまんぐう)を建立し、自身の墓所とするよう遺言していたと言われています。一節には秀吉の死を隠したまま、墓所の社殿の建設は始まり、太閤坦(たいこうだいら)に日本初の権現造り社殿が造営されたそうです。秀吉の指示した、八幡神(やはたのかみ)は当時、武家の守護神になる神様として信仰を集めていたようです。が、想定外? 後陽成天皇より「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与えられ、新八幡宮にはならなかったのです。社殿の前には先に紹介した国宝の唐門唐門(からもん)・・・唐破風(からはふ)と呼ばれる屋根の形状からそう呼ばれる。下の写真にラインをひいてみました この独特の形状が唐破風です。かつては彩色があったかもしれません。ここから先、一般の参拝で立ち入りはできませんでした。何か行事の支度をしていたのでその為でしょうか?当時30万坪(100万平方メートル)あった豊国社は徳川家康の時代になると跡形もなく壊され消滅し、人々から忘れさられたと言います。拝殿。奧が本殿宝物館の肖像画より関白時代の秀吉公御画? 作品は江戸時代のものらしい。美化しすぎ?晩年の秀吉公秀頼の8歳の手形入りの掛け軸である。これが最も実物に近い肖像画なのでは? これでも美化されてる?秀吉の枕「夢を喰らう」と言われる獏(ばく)は中国より伝わる伝説の動物。そもそも「夢を喰らう」ではなく、「悪夢を祓う」が本当らしく、邪気を払う事から晩年の秀吉が愛用していた枕らしい。寝具に用いると病や悪気を祓う事から秀吉が病気で苦しんでいた事がうかがえる。2部につづく 同時にのせます。リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)
2015年05月21日
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最近日本の神様とご縁があるようです 今回も日本の神様の紹介となりました。ブルージュとゲント、ハーグなど6月末までに終わらせたいのに困ったものです 神田明神 (薪能)と御霊信仰神田明神御霊信仰(ごりょうしんこう)神田明神の薪能(たきぎのう)神田祭能一昨日(14日)、神田明神の薪能に誘われました。平成15年より始まった神田明神薪能は今年で12回目だそうです。屋外舞台で夜のかがり火の中で舞われる能はこの上ない贅沢でした。ただ、演目中の写真撮影は禁止なので巫女さんの舞だけですが神田明神とともに紹介します。本郷通りからの表参道入り口はビルに囲まれ、裏参道はマンションの狭間に・・。都会の神社は狭いです 随神門現在の門は昭和天皇御即位50年記念事業として再建されたもの。門の左右には「門神」or「門守」である隨神像が配されているのだが、宮人の姿の随神は初めてかも・・。この日は本殿が舞台になる為にテントが貼られて宮が撮影できませんでした。神田明神神田大明神は徳川家康がここぞ・・と思う戦いの時に戦勝の祈祷を願い、勝利を得た事から特に徳川家縁起の神社として祀られています。元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営。以来江戸城下を鎮守する「江戸総鎮守」の社に・・。(現在も神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108カ所の町会の総氏神となっている。)祭神は3柱ですが、神社境内には摂末社(せつまつしゃ)が10社以上ある。いろいろなご縁で元の場所にいられなくなった神社が遷宮されてきているようです。祭り神は3柱一の宮・大己貴命(おおなむちのみこと)(だいこく様) ・・天平2年(730)ご鎮座。国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬二の宮・少名彦命(すくなひこなのみこと)(えびす様) ・・・商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様三の宮・平将門(たいらのまさかどのみこと) ・・延慶2年(1309)にご奉祀。除災厄除の神様。1~3の宮となっているが御祭神は3柱とも本殿の中入り口、左手にある手水舎。その右奧に大黒様と恵比寿様の像がある。大黒様とお百度石高さ6.6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一えびす様の像御霊信仰(ごりょうしんこう)有名なのは北野天満宮の菅原道真(すがわらのみちざね)公ですが、神田明神にも平将門(たいらのまさかど)が祀られています。祟る怨霊(おんりょう)を鎮めて御霊(ごりょう)とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を願う信仰が御霊信仰(ごりょうしんこう)です。平将門(たいらのまさかど)の首塚が同じ千代田区にある関係の因縁のようです。14世紀初頭に疫病が流行し、それが将門の祟りであるとされて供養が行われ神田明神では相殿神(あいどのしん)として三の宮に祀られた(1309年)ようです。平将門神に祈願すると勝負に勝つらしい 因みに御霊信仰(ごりょうしんこう)と言えば菅原道真(すがわらみちざね)公も有名です。道真公については「北野天満宮 梅花祭り」の中、北野天満宮と御霊信仰でも触れています。リンク 北野天満宮 梅花祭り神田明神の薪能(たきぎのう)薪能は、夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽です。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初。薪御能の発祥は神事や仏事における神聖な儀式が目的だったようです。本殿前の特設テント席は8000円~3500円全席有料。シテ方の金剛流は、古くは法隆寺に奉仕した猿楽座の坂戸座を源流とする能楽シテ方五流派の一つだそうです。舞においては、「舞金剛(まいこんごう)」能面や能装束に名品が多い事から「面金剛(おもてこんごう)」と呼ばれるそうです。(豊臣秀吉拝領の「雪の小面」や艶麗な「孫次郎」などを所蔵するそうです。)今年は明神能「幽玄の花」とタイトルされお題目は素謡は「神歌」・・・金剛流家元狂言は「佐渡狐」・・・和泉流(野村万作・野村萬斎)仕舞は「鵜之段」・・・金剛流家元能は「羽衣」・・・金剛流(遠藤勝寛)残念ながら演目中の撮影が禁止されていたので、最初の雅楽・巫女舞(神田明神雅楽部)のみ何とか撮影神田祭神田祭は江戸三大祭、山王祭、深川祭と並ぶ一つであり、また京都の祇園祭、大阪の天神祭に並ぶ日本の三大祭にも数えられる有名な祭りだそうです。江戸初期、神田祭といえば神事能が主体の祭礼。(現在は5月15日もとは9月15日だったらしい)本祭りと陰(かげ)祭りが隔年に行われるそうで今年は蔭祭の歳。(神幸祭と神輿宮入は本祭り)今年は地味なようですが、108カ所の町会の総氏神になっているので宮御輿の数もハンパないようです。「氏子御輿庫」には氏子中の神輿約50基や「鳳輦神輿奉安殿」には神社鳳輦・神輿2基保管されているなど他にも御輿の保存庫がある。能能は、観阿弥が猿楽(舞楽の部分?)を昇華させた幽玄美を追求した音楽舞台である。簡単に言えば日本版のミュージカルである。ただ、その性質は天と地ほどの差があるが・・。その静と動を極めた高尚で気高い動作と舞。シテの神がかる表現美は幽玄・・と言う言葉が最も似合う。幽玄は中世の文学・芸能の美的理念の一つで言葉に表せない趣の表現であるが、それをさらに昇華させて完成させたのが、息子である世阿弥。夢幻能は能の持つ優美さを最も的確に表現した言葉であろう。世阿弥の著した能楽の書、風姿花伝は父、観阿弥の元で学び、自身で追求し、昇華させて完成された奥義書の一つである。今に伝わる能は、観阿弥と世阿弥親子がい無ければ存在しなかったであろう高尚な芸術芸能である。しかし、歴史を見ると面白い。観阿弥と世阿弥親子の親戚筋である音阿弥の流れをくむ観世流よりも今春流の方にその奥義の多くが伝えられているそうだ。あまり勉強してこなかったけど学生の頃「能楽」を専攻してたのですだから観るのもそれ以来かも・・。神田明神おわり・・次回こそブルージュに
2014年05月15日
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今回は稲荷山の神蹟(しんせき)の参拝ルートを示す千本鳥居の紹介です。山の上まで続く鳥居は、実はいろんな形で存在しています。よくポスターなどで紹介される美しい朱塗りのトンネルは山の下方の、ほんの序の口部分の鳥居なのです。今回は何カ所か「登る鳥居」を合わせて紹介します 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)千本鳥居(せんぼんとりい)鳥居の朱(しゅ)と賢者の石秦氏稲荷山の神蹟(しんせき)参拝ルートA・・スタート B・・二股鳥居 C・・奧社奉拝所D・・熊鷹社 F・・三ノ峰(下社) 間ノ峰 (荷田社神蹟) G・・二ノ峰(中社) H・・一ノ峰(上社)I・・御釼社 j・・清滝 K・・御膳谷奉拝所ルート上のだいたいの神蹟(しんせき)のみ書き込みました。千本鳥居(せんぼんとりい)千本鳥居と呼ばれるが実際は信者より奉納された鳥居が隙間無く、1万基はあると言われている。(年々増えて最近では場所も不足?)神社では鳥居の奉献を持って信心の証とされる? とも聞きますが、そもそも鳥居を奉納する習慣は江戸時代以降に広がったものだそうです。伏見稲荷大社のサイトによれば、願い事が「通る」或いは「通った」時、「御礼」の意味から、鳥居を奉納する習慣ができた・・と書かれていました。とは言え、参道の鳥居は明治初期まではそんなに数は無かったそうです。お山の鳥居にはそれぞれ奉納者の名前が記載されていて、下山の時に確認できます。(裏側に書かれている。)たいていの場合は企業の名前ばかりで見ているとPR色が濃く、今は宣伝の為の看板代わりに奉納されているのでは? とさえ思います。実際、奉納場所により値段が変わってくる・・との事なのでよく名前が見える一等地は高いのでしょう。鳥居の値段表です 結構あちこちにこの看板がたっていました。商売繁盛で商売人に人気の神様ですが、稲荷様の方が商売がお上手・・と言う気がしてなりませんA・・スタート入り口は皆さんが写真撮影するのでいつまでたってもゴチャゴチャで・・。誰もいない写真なんて無理 入り口近辺の鳥居は大きい。(つまり値段が高い)二股の鳥居入り口おそらく奉納される鳥居が増えすぎて二股にしたのでは? と、考えられる千本鳥居。二股部分は割と小ぶりな鳥居。傾斜もたいしてなく、この辺はルンルンでみなさん写真撮影。今は鳥居が隙間無く埋まり、外の景色はほとんど見えない。朱塗りの独特な異空間は自然と畏敬の念が湧いてくる。きっと外国人でも感動の向こうにある神妙さを感じるはず。鳥居の朱(しゅ)と賢者の石朱色は、魔力に対抗する色らしい。古来、宮殿や神社仏閣に多く使用されてきた朱色は稲荷大神においては、力の豊穣を表す色として使われているそうだ。ところで朱の染料の原材料は辰砂(しんしゃ・cinnabar)だそうだ。辰砂(しんしゃ・cinnabar)・・水銀(丹・に)と硫黄の化合した硫化水銀含む鉱物で、古来より水銀精製の他、防腐剤として、また赤色(朱色)の染料としても利用されてきた貴重な鉱物です。朱肉の色素もこれにあたり、朱肉はかつて遺体の防腐剤にも利用されていた。また、水銀生成(錬丹術)では不老長寿の霊薬にもなり、欧州では中世錬金術士達がさわいだ「賢者の石」がこれとされている。余談ですが・・。古来水銀はその毒性を持って妙薬とされ山岳信仰の行者はこの水銀の鉱脈を求めて歩いていた・・と聞いた事があります。奧社奉拝所狐の顔をかたどった絵馬が売られている。鳥居がギッシリ並んでいるのでほとんど回りの景色は見えない。神蹟(しんせき)のお山海抜233mの稲荷山は西から東に3つの峰で構成され、かつては三ケ峰と呼ばれたそうだが、その各所に。神蹟(しんせき)がある。実は応仁の乱で焼失するまでは社や寺があった場所なのだそうだ。つまり神様がかつて座していた場所が神蹟(しんせき)として祀られているのである。それにしても峰を登る途中にも谷間にも無数に神蹟があり祀られている。それはあまりに多く驚くなんてものではない。怖くさえある。だが、神社が建立した石碑は7神蹟を表す標石だけ。実は、後に勝手に持ち込まれたものが数多く存在するらしい。荒神峰 田中社御神蹟(しんせき)のある場所。登る程に姿が変わり、鳥居のトンネルは完全に階段に変わっています荒神峰の田中社を過ぎると下社のある三ノ峰祭り神 宇迦之御霊大神(うかのみたまのおおかみ)荷田社のある間ノ峰伊勢大神の名で崇められているそうだ。中社のある二ノ峰祭り神 佐田彦大神(さたひこのおおかみ)上社のある一ノ峰祭り神 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)御釼社 清滝 方面に下る。こちらのコースは心臓破りの階段が3カ所以上ある難航ルート。御膳谷奉拝所秦氏(はたし)日本書紀によれば、応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されるのが山城に根付いた豪族の秦氏で、渡来系の大物氏族として迎えられた事がうかがえる。聖徳太子の側近として活躍した秦河勝(はたのかわかつ)は有名。伝承では、伏見稲荷は秦伊呂具(はたのいろぐ)の的にして射た餅が白鳥と化して飛び、舞い降りた山の峰に「稲」が生じた事からイナリという社名になったと言う。おそらく秦氏は農耕の技術を持って渡来した事がうかがえるが、秦氏のもたらした物はもっといろいろあったと思われる。今回は文字数一杯なのでこの辺で終わりにします。back numberリンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)同じく秦氏が創建した神社からリンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)その他リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰
2014年05月10日
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連休も終わってしまいました。連休が終わったらベルギーに戻る予定でしたが・・。あちこち出かけたのですが疲れて作業が遅々として進まず・・。でも、日本も捨てがたく、あと何本か紹介させてください m(_ _;;m先週、京都五山にある禅寺の一つ、東福寺と伏見稲荷に行って来ました。実は伏見稲荷は予定外。ランチを求めて歩いているうちに伏見稲荷にたどりついたので参詣し、なんとなく稲荷山の神社を一周回ってしまったのです。お稲荷様に招かれたのかもしれません。それにしても伏見稲荷は広大で、「疲れた」なんてものではなく、宮参りと言うよりはかなりハードな登山となりました。内容もチャチャっと終わらす予定でしたが、やはり写真がたくさん。全2回で行きます 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)白狐(びゃっこ)稲荷神(いなりしん)祭神五柱前回、伊勢の神宮は「日本各地にある神社、およそ8万社を包括する宗家(神社本庁)」と紹介しましたが・・。今回紹介する伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)も、全国約3万社以上あるといわれる稲荷神社の総本社なのです。つまり街のあちこちで見かけるお稲荷様の祠(ほこら)。それらは全てこの伏見稲荷大社から分社された出張所のようなものです 表参道二つ目の鳥居から・・。伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)京都市伏見区深草の稲荷山西麓に鎮座する稲荷神(いなりしん)を祀る稲荷神社で、全国の稲荷神社の総本社。稲荷山(海抜233m)含み麓の社も全て伏見稲荷大社の境内になる。(境内地27万坪稲荷山全ての宮を回る所用時間は2時間近く・・。)最初に宮ができたのは711年(和銅4年)。都が平城京に遷都した翌年である。この地に住み着いた渡来系氏族の秦伊呂具(伊呂巨)が建立したと伝えられている。楼門(ろうもん)二層の大門を楼門(ろうもん)と呼ぶ。入母屋造りで、1589年(天正17年)建造。楼門(ろうもん)の造営者は豊臣秀吉。母である大政所(おおまんどころ)の病気平癒を祈願して建立したものらしい。(伏見区自体の前身は戦国時代の武将豊臣秀吉が築いた伏見城の城下町だった所以で関係が深い?)左右のお狐様は右が宝珠(御霊)、左が鍵(米倉の鍵)をくわえている。白狐(びゃっこ)狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた動物ですが、稲荷神様の眷属として象徴ののように白狐(びゃっこ)が祀られています。彼らは神の神威を人に伝え、また人の願いを大神に伝える使いである事から神通力を持つ特別な存在。「ご眷属様」としてこちらもまた祀られているようです。つまり、白狐様にお願いして稲荷神にお願いを伝えてもらう・・と言う事のようです。稲荷神(いなりしん)朱い鳥居と、神使の白狐(びゃっこ)がシンボルとなって祀られている神社の神様です。全国各地に祀られた稲荷神(お稲荷様)は割と身近な神様ですね。稲荷神は稲の神様で、そこから穀物、農耕、商工業の神様となっているようですが、元々は渡来系氏族で、山城に根付いた秦氏の氏神様だそうです。渡来した秦氏は農耕技術のノウハウなどがあったからなのでしょうか?しかし平安末期から鎌倉初期にかけては秦氏の勢力も落ちていたので荒廃の一途。それが中世に商工業の守護神として庶民信仰に支えられる形で復活したようです。今では食物の神というより商売繁盛の神様としての方が有名になっています。因みに東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになったそうです。(日本は神様と仏様が複雑にからみあって信仰されてきているので難しいです)外拝殿(げはいでん)楼門と同時期に造営され、1840年(天保11年)に改築。平成26年1月に重要文化財に指定。楼門(ろうもん)、北廻廊、南廻廊を横に見たところ平成26年1月に重要文化財に指定。外拝殿(げはいでん)からの本殿応仁の乱(1468年(応仁2年))で焼け落ちた本殿は1499年(明応8年)に復興。五間社流造りと言う本殿は明治25年に国宝となり、その後昭和25年に重要文化財に改称。本殿祭神五柱(祀られている神様は5神)山麓に近い峰が下社のある三の峰、中社のある二の峰、上社がある一の峰。それぞれに異なる神様がまつられている・・と言う事です。下社・・・宇迦之御霊大神(うかのみたまのおおかみ)・・主祭神。穀物・農耕・商工業の神様。中社・・・佐田彦大神(さたひこのおおかみ)・・「猿太彦大神」。旅や交通安全の神様上社・・・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・・市場、食物の神様。田中社・・田中大神(たなかのおおかみ)四大神・・四大神(しのおおかみ)下、黄色い円内が麓の社殿。上、青い円内が三の峰、二の峰、一の峰のある稲荷山。稲荷山は奉納された千本鳥居が山の道を示している。(もはや千本どころの数ではないが・・)商売がうまい。絵馬もここでは鳥居の形。お持ち帰り用もあるのです。赤の好きな外国の方に人気?因みに稲荷山各社の絵馬も狐の形であったり・・とここと形が違うのです。いよいよ稲荷山に・・。玉山稲荷社五社相殿平成26年1月に重要文化財に指定。奧宮平成26年1月に重要文化財に指定。つづくリンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)
2014年05月07日
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大阪から伊勢までおよそ3時間くらい。阪神高速で、松原JCT(ジャンクション)から西名阪自動車道に入り天理IC(インターチェンジ)から名阪国道に入り、伊勢関JCT(ジャンクション)から伊勢自動車道に入り、伊勢IC(インターチェンジ)から伊勢二見鳥羽ラインを利用して伊勢入りです。(@´_`@) チカレタ伊勢神宮 2 (外宮)伊勢の神宮(外宮)・・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)伊勢への遷宮(せんぐう)と式年遷宮三種の神器(鏡・玉・剣)剣璽(けんじ)ご動座パワーストーンの三ツ石(川原祓所)内宮と外宮はかなり離れている。伊勢参拝の順は、通常、外宮を参拝してから内宮参拝するのが古来からの習わしだそうです。通常は祭祀に関しても「外宮先祭」で、豊受大神宮(外宮)→皇大神宮(内宮)の順序で行われると言いますが、神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)の時は内宮先祭らしい。宮を移す遷御(せんぎょ)は(内宮)→(外宮)供物などを奉献する奉幣(ほうへい)は(外宮)→(内宮)の順となるそうだ。伊勢の神宮(外宮)・・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)地図A・・正宮(しょうぐう)B・・別宮・・多賀宮(たかのみや)C・・三ツ石(みついし)D・・表参道火除橋(おもてさんどうひよけばし)E・・火除橋(ひよけばし)伊勢の神宮(外宮)・・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)主神は米はじめ五穀の豊穣といった衣食住の守り神である「豊受大御神 (とようけのおおみかみ)」。天照大神の御膳を司る御饌都神(みけつかみ)として伊勢に迎えられたそうだ。第21代雄略(ゆうりゃく)天皇治世22年(推定 西暦479年)に、神託を受けて丹波国(天橋立付近)より伊勢に移されたと伝えられている。雄略(ゆうりゃく)天皇の時代は、まだヤマト朝廷が完全に確立していた時ではなく、有力氏族が連合していただけ。(倭国には王がまだたくさんいた時代)その中にあって有力皇族や豪族を征伐してヤマト王権の強化を図り後になるヤマト朝廷誕生の貢献者的な存在らしい。因みに雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いていると言う。表参道火除橋(おもてさんどうひよけばし)参拝前に手や口を清める手水舎(てみずしゃ)昔は川があり、おそらくそこ(勢田川)で清められていたと思われる。(内宮には五十鈴川がある。)手前が正宮の古殿地(こでんち)まだ前の建物が残っている。正宮の古殿地(こでんち)は封鎖中。この左あたりに三ツ石がある。(説明は最後に)新しく造営された正宮新しい正宮外宮はフラットな土地にあるので撮影しやすい。(撮影は鳥居の前まで)唯一神明造りは檜木(ひのき)の素木を用いて高床式の穀倉から発展したものだそうです。伊勢への遷宮(せんぐう)と式年遷宮神宮の祭りは、第10代崇神(すじん)天皇の時代までは歴代天皇の近くに祀られていた。(皇居内)第11代垂仁(すいにん)天皇26年(BC4年頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)が現在の伊勢を見つけて遷宮したようだ。つまり伊勢の内宮誕生は今から2000年前の事である。そして外宮、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の方は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇治世22年(推定 西暦479年)なのでおくれる事約500年。今から1500年前の事である。神宮では、原則として20年ごとに、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の2つの正宮の正殿、他、14の別宮の全ての社殿の造り替えと遷宮。宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎と橋が建て替えられる。(神宮式年遷宮)そもそも神体を移す遷宮(せんぐう)の制定は、飛鳥時代の天武天皇(685年)に遡るそうだ。最初の遷宮を行ったのは持統天皇4年(690年)戦国の時代には120年以上に及ぶ中断、延期もあったと言うが、現在までおよそ1300年間行われている。第61回式年遷宮・・・1993年(平成5年)第62回式年遷宮・・・2013年(平成25年)今年、2014年(平成26年)3月には、今上天皇皇后が参拝し「剣璽(けんじ)ご動座」の儀が行われた。8年前から始まった今回の式年遷宮全体の経費は約550億円と公表されている。三種の神器(鏡・玉・剣)日本の歴代天皇が継承する三種の宝物と同じ。神鏡(しんきょう)・・・八咫鏡(やたのかがみ)勾玉(まがたま)・・・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)神剣(しんけん)・・・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣・くさなぎのつるぎ)剣璽(けんじ)ご動座第二次世界大戦以前は、天皇が一泊以上の旅行のため皇居(宮城)を離れる時、三種の神器の二つである神剣と勾玉は共に移動させていたそうだ。(侍従が携行)現在は天皇の即位後の神宮参拝時と式年遷宮後の参拝に限られている。神器の鏡はなぜ移動しないのか?八咫鏡は伊勢神宮と皇居と2つあるから?別宮の多賀宮(たかのみや)豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒魂(あらみたま)を祀る宮。内宮の外宮、荒祭宮(あらまつりのみや)と全く同じ造りのはず・・。多賀宮(たかのみや)は檜尾山(ひのきおやま)の頂にある。本来は高いところにあったので高宮(たかのみや)だったようだが、縁起かついで多賀宮(たかのみや)?石段はかなりあるので足の不自由な人には無理。山を下ってくると池の向こうに正宮。この写真の池の右の方にパワーストーンなるものがある。この池は今は勾玉池(まがたまいけ)につながっているだけであるが、昔は河川だった名残のようである。パワーストーンの三ツ石(川原祓所)伊勢神宮自体が、日本最大のパワースポットと言われているらしいが、その中でも特に凄いのがこの変わった並びの3つの石である。表参道火除け橋から入ると、(外宮)正宮(古殿地)前にしめ縄で囲まれた石が・・。後から知ったが有名なパワースポット。パワーをもらおうと皆が手をかざしていたので私も・・。驚いた。もの凄く熱い。(地熱でもあるのか? と思うくらい。)熱いと言ったのはその場では私ともう一人だけ。他の人には何も感じなかったと言うのでまた驚いた。パワーストーンの三ツ石と言うが、実は正式名称は「川原祓所」(かわらはらいしょ)と言うそうだ。伊勢神宮の式年遷宮の際に神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀(しゅばつさいし)が行われる場所らしい。(現在も遷宮の川原大祓はこの場所で行われているそうだ。)修祓祭祀(しゅばつさいし)は、神官が大幣(おおぬさ)を振って祓い清める儀式。もともと神宮内には宮川の支流が流れていたらしい。それが明応7年(1498年)の地震とその津波による影響で流れが変わったといわれ、川の無くなった「川原祓所」(かわらはらいしょ)になってしまったようだが、本当に何かが下から湧いてきている・・と言うのを感じる霊験(れいげん)な場所でした。( ̄人 ̄)地図Eの火除け橋(ひよけばし)伊勢の神宮おわり
2014年05月01日
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ブルージュのダイフェル(Dijver)の予定であらかたは編集が出来ていたのですが、実は予定外に大阪に来てしまいました 連休中は予定変更してちょっと国内を紹介 さっそく伊勢神宮ですが、簡単に載せる予定が文字数オーバーではじかれたので内宮と外宮の2回で紹介 (;^_^A伊勢神宮 1 (内宮)神嘗祭(かんなめさい)・大神嘗祭(おおかんなめさい)・式年遷宮(しきねんせんぐう)伊勢神宮(Ise Jingū ・ Ise Grand Shrine)伊勢の神宮(内宮)・・皇大神宮(こうたいじんぐう)荒祭宮(あらまつりのみや)和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)神嘗祭(かんなめさい)・大神嘗祭(おおかんなめさい)・式年遷宮(しきねんせんぐう)毎年行われる宮中祭祀の一つに神嘗祭(かんなめさい)と言うのがあります。その年の初穂を天照大御神(あまてらすおおみかみ)に奉納する祭りで、秋の季語にもなるこの祭りの時は、神宮祭祀にあたって装束・祭器具が一新されるそうです。大神嘗祭(おおかんなめさい)では、装束・祭器具に加えて、宮も新設され、ご神体に引っ越しをしていただく儀が行われます。これが20年に一度行われる神宮最大の重儀、遷宮祭(せんぐうさい)であり、式年遷宮(しきねんせんぐう)と呼ばれる祭祀です。(昨年秋に、正宮がお披露目されました。)伊勢市の地図から伊勢の神宮の位置と川の関係を紹介A・・伊勢の神宮(内宮)・・皇大神宮(こうたいじんぐう)B・・伊勢の神宮(外宮)・・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)D・・地図で河口付近で五十鈴川(右)と勢田川(左)が合流して伊勢湾に注いでいる。地図を見ると、五十鈴川(右)の上流に内宮があり、勢田川(左)上流の位置に外宮があるのがわかる。実は外宮に流れていた勢田川は昔流れを変えて今は位置がずれてしまっている。神宮と川の関係は確かにあるのです (内宮)・・皇大神宮(こうたいじんぐう)地図五十鈴川を渡り、五十鈴川で体を清めて正宮を参拝。赤丸の星をつけた方が昨年遷宮された新しい宮の位置。伊勢神宮(Ise Jingū ・ Ise Grand Shrine)日本各地にある神社、およそ8万社を包括する宗家、神社本庁と言うのが、三重県伊勢市にある「神宮」、通称「伊勢の神宮」だそうです。他と区別する意味で「伊勢神宮」と呼ばれているそうですが、広義には三重県内の4市2郡に存在する別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を含めて「神宮」と総称。主祭神は2柱。それ故、伊勢神宮には2つの正宮がある。皇大神宮(こうたいじんぐう)と呼ばれる内宮(ないくう)に1柱。豊受大神宮(とようけだいじんぐう)と呼ばれる外宮(げくう)に1柱で、2つの神宮が存在している。簡単に言えば日本の氏神様(うじがみさま)をまつるのが内宮。衣食住の神様を祀るのが外宮なのだそうだ。内宮・・皇大神宮(こうたいじんぐう)・・・主神は太陽を神格化した「天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)(天照大御神)」外宮・・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)・・・主神は衣食住の守り神である「豊受大御神 (とようけのおおみかみ)」伊勢の神宮(内宮)・・皇大神宮(こうたいじんぐう)内宮(ないくう)・・皇大神宮(こうたいじんぐう)の第一鳥居第一鳥居の中央は神様の通り道。真ん中をはずして右側通行で参詣。鳥居をくぐる時は1拝をして通過するのがマナー。五十鈴川に架かるのが宇治橋(全長101.8m)宇治橋も式年遷宮で建て替えられる建造物の一つ。2つの鳥居は正宮の旧正殿棟持柱(むなもちばしら)がリサイクルされている。そして次の20年後にこの鳥居は新しくなり、その時柱は伊勢街道の入口(関の追分と桑名七里の渡口)の鳥居として再びリサイクルされているそうだ。リサイクル・・と言うよりは神様からのお下がりをありがたく頂く・・と言う考えなのだろう 以前使われていた古い橋の橋脚。宇治橋は、神域と俗界を分ける境界だと言うが、本当の神域は4つめの鳥居の向こう側のようだ。宇治橋の橋脚五十鈴川は神路山(かみじやま)を源流とし、支流、島路川(しまじがわ)と合流、内宮の西端を流れている。3つ目の鳥居この鳥居の向こうに五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし)がある。全部の宮や神域を紹介しきれないので雰囲気のあるところだけ・・。風日祈宮の橋から五丈殿方面内宮の正宮内宮の正宮は小高い山の上にあるのたが、撮影が許されるのは石段下まで。基本お賽銭は必要無い。お参りの作法は2拝2拍手1拝宮は唯一神明造り。正宮も外宮も同じらしいので、別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)の写真を紹介。荒祭宮(あらまつりのみや)正宮に次ぎ尊いとされる別宮。荒祭宮(あらまつりのみや)は「荒魂(あらみたま)を祭る宮」。ここは、内宮の正宮と同じ天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っている。正宮が和魂(にきみたま)を祀っているのに対しこちらは天照大御神の荒魂(あらみたま)を祀る宮なのだそうだ。和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)神の霊魂が2つの側面をもっている・・と言う神道における概念だそうだ。天変地異を引き起こしたり人々に災いをもたらす荒ぶる神の所行と雨や日光の恵みを与えてくれる穏やかで優しい神の所行。同一の神でありながら相反する側面がある事からそれぞれ別に祀られる事があるそうです。荒祭宮 側面。荒祭宮の旧宮の後(古殿地)には祠(ほこら)が置かれている。内宮は、特に皇大神宮(こうたいじんぐう)と呼ばれるだけあり、皇室の氏神である天照大御神が祀られている為に特別な権威があったようだ。次回、別宮はなるべく早く紹介します。
2014年04月29日
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まだ時々来る大きな余震のせいで、「また電車が止まる?」と思うとなかなか思い切った遠出ができない日々です。ディズニーランドはオープンしましたが「あそこから家まで歩くのは絶対無理だな・・」と、やはり思うのです3月11日の震災時には帰れない帰宅難民であふれかえった東京です。通勤1時間以上の方だととうてい歩いて帰れる範囲ではないので、どこかにお泊まりした方も多かったと思います。しかし、地震後都バスが市民を拾って走っていたと聞きました。実際友人が電車を下ろされたけど、都バスに救われて最寄りまで帰れた・・と言っていました。万が一の時にも止まる事なく運行させるシステムになっていたのでしょうか?これからはバスの路線も念頭において出かけると良いかもしれませんねさて、大阪から戻って風邪をひいてしまいました。余震のようにうだうだと風邪がながびいていますが、前回の解答。「銀閣」に対して今回は「金閣」の紹介だけします。金閣、銀閣間は市バスが走っているので、ついでにまわってしまいました。鹿苑寺 舎利殿・金閣金閣寺も銀閣寺も室町時代の建築物で、ともに貴族の屋敷から禅寺に転じたものです。京都市北区北山にある三代将軍、足利義満の造営した鹿苑寺の金閣1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録鏡湖池、左の島は葦原島もとは鎌倉時代の藤原氏の流れを汲む公家、藤原北家閑院流の一門の西園寺家の所領だった所だそうです。北山殿から鹿苑寺1397年足利義満が河内国の領地と交換に土地を譲り受け。増改築して山荘北山殿が建設。その北山殿は義満没後に禅寺となり、義満の法号「鹿苑院殿」に因んで名を鹿苑寺と付けたそうです。この舎利殿は義満が北山殿造営にあたり、趣向を凝らしたもの一層は白木の寝殿作り二層、三層は内外共に金箔貼り二層は武家造り三層は禅宗寺院風後側から撮影鏡湖池は鹿苑寺の中心に位置し、葦原島をはじめとする大小の島と銘のある奇岩名石が配置されています。周囲の山々を借景にしたこの庭園は室町期の代表的な傑作だそうです。1897年(明治30年)舎利殿は「特別保護建造物」に指定1929年(昭和4年)国宝に指定1925年(大正14年)庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(現在の文化財保護法)により史跡・名勝(後に特別史跡・特別名勝)に指定火災、消失、放火三島由紀夫の作品「金閣寺」を知る人はこの建物が再建されたものである事を知っていると思いますが、国宝であったこの建物は1950年(昭和25年)7月に寺の見習い僧によって放火されているのです。現在の金閣は国や京都府の支援、地元経済界などからの浄財により再建されたものです。1950年(昭和25年)7月、国宝金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等を焼失1952年(昭和27年)~1955年(昭和30年)10月に再建。創建当時の姿に復元加えて言うなら、三島由紀夫の金閣寺は、あくまで彼の小説として美しく装飾されたストーリーであり、実際の加害者の感情とはかなり異なるだろう・・と言う事です。放火の目的は今風の世間を驚かせたい、目立ちたい、体制に頭に来た・・。と言うようなただのバカ者心理だったように思います。鹿苑寺見取り図(順路を赤のラインで書いてみました)境内4万坪のうち2万8千坪が特別史跡および特別名勝指定地西に衣笠山、北にはなだらかな山並を借景とした回遊式・船遊式庭園として造営されています。順番が後先になりましたが、この建物が入り口の事務所となる建物です。庫裡(くり)、伽藍(がらん)、庫院(こいん)大きな寺院では独立した建物となっている台所も兼ねた僧侶の居住区や事務所となる所ですが、ここでは事務所とその後方に庫裡(くり)が置かれでいます。唐門方丈(ほうじょう)現在は寺院の住職が生活する建物であり本堂をさしていますが、もとは1丈四方の面積を指す言葉で、四畳半程度の部屋の広さから発祥し、簡単に建設しては解体できるので、僧侶や隠遁者用の個室として使われたようです。上の方丈の前庭「陸舟の松」と後ろが書院舟の形をしたこの松は鹿苑寺の名物らしい禅の伝播もともと大乗仏教の一派でボーディダルマ(達磨大師)が中国に伝えたと言われる中国禅は唐から宋の時代にかけて発展したそうです。日本に禅宗が伝播したのは鎌倉時代に入ってからで、遣唐使の派遣以来途絶えていた中国との交易が再開してからだそうです。日本に入った禅宗は室町時代に幕府の庇護を受けての発展。一方中国禅の方は明の時代に入ると衰退したと言います。日本では鎌倉時代に中国の宋で学んだ2人により伝えられた2派が知られています。栄西の臨済宗(りんざいしゅう)道元の曹洞宗(そうとうしゅう)曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられたと言います。実際この鹿苑寺は臨済宗相国寺派です。おしゃれなお札風の入場チケット(左が金閣、右が銀閣)サイズの違いは参拝料金の違いかな? 京都・奈良 寺 の Back number鹿苑寺 舎利殿・金閣慈照寺(じしょうじ)観音殿・銀閣リンク 慈照寺(じしょうじ)観音殿・銀閣リンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)リンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 2リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ 広隆寺リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎 木嶋神社リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 北野天満宮 梅花祭りリンク 北野天満宮の骨董市(梅花祭り)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 伊勢神宮 1 (内宮)リンク 伊勢神宮 2 (外宮)
2011年04月18日
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