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他に気を取られている内に、こちらの記事をアップするのを忘れていた。まあ、ただの映画の感想なので、いつでも構わないのだが…(笑)。【ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド】… 満足度★★★☆クエンティン・タランティーノが監督し、ブラッド・ピットとレオナルド・ディカプリオが共演した超話題作。何の予備知識も無いまま鑑賞したが、1969年に起きたシャロン・テート事件が物語の下敷きになっているようだ。そうした背景がありつつも、個人的にはいつものタランティーノ作品といった感じで、特に大きな変化は無かった(失礼…)。それでも、ピットとディカプリオの個性を見事に活かしたキャラクター設定と、その期待を遥かに超えて魅力的な2人の演技は必見。当時のハリウッド界隈の雰囲気を堪能させてくれるという点でも、充分に楽しめるクオリティに仕上がっている。寧ろ、それらを観るための映画と言っても良いかも知れない(笑)。【グランド・ブダペスト・ホテル】… 満足度★★★ヨーロッパ随一の高級ホテルを舞台に、宿泊客達の悲喜こもごもを描いた映画だと思っていたら、全く違った(笑)。コメディとサスペンス、ユーモアと悪趣味とが絶妙にブレンドされたストーリーに、独特の映像世界からは監督の鋭い感性が感じられる。どちらかと言えば地味な作風に対して、やけに豪華な俳優陣も見ものだ。【1秒先の彼女】… 満足度★★★人よりワンテンポ早い女性と、ワンテンポ遅い男性が織りなすラブコメディ。序盤は女性目線で物語が進んで行き、「ワンテンポ早い」という設定にあまり意味は無いように感じてしまうのだが、男性目線で展開される中盤以降は「なるほど!」と感心させられる伏線回収が行われ、ラストの感動に繋がる。正直、内容的にはありがちだし、腑に落ちない点も幾つかあるのだが、そうしたマイナス要素を帳消しにしてくれるユーモアと優しさに溢れた作品。台湾の美しい景色も見所だ。
2023.11.28
先日、非常に興味深い映画(の紹介動画)を見付けてしまった。原節子が主演する【東京の女性】だ。1939年(昭和14年)公開というから、先々月に観た【鴛鴦歌合戦】と同年になる。【鴛鴦歌合戦】では男性を相手にはっきり意見を言う女性達が印象的だったが、【東京の女性】でも戦前・戦中の日本とは思えない主体的な女性像が描かれていて驚いた。特に、妹・水代のキャラクターは、現代劇と見紛うほど自由奔放でコケティッシュだ。戦後直ぐ『サザエさん』(1946年4月連載開始)のように快活な女性キャラクターが登場したのも、実は戦前から既にこうした下地があったからなのかも知れない。それにしても、原節子はいつ見ても美しい…(笑)。
2023.09.28
最近は、現実世界で気が滅入る出来事が多いせいか、映画は軽い気持ちで観られるものを選ぶ傾向にある(笑)。今回の2本は狙った通りの内容で良かった。【オリエント急行殺人事件】… 満足度★★★僕が好きな俳優の1人、ケネス・ブラナーが監督と主演を務めたサスペンス映画。シャーロック・ホームズと並ぶ名探偵、エルキュール・ポアロを題材にした作品だ。アガサ・クリスティの原作小説は読んだ事がなく、海外のTVドラマ版もうろ覚えなため比較はできないが、豪華なキャストに息を呑む映像美、ブラナーならではの拘りの数々は全てパーフェクト。ぜひ劇場の大きなスクリーンで鑑賞したかった、と思わせる素晴らしさだ。映画館で観ていたら★4つにしたかも知れない。ただ、全ての登場人物にスポットを当てるには些か時間(114分)が短く、テンポの良さも却って内容を整理・推理する余裕を観客から奪っているように感じられたのは残念。それでいて、事件の真相は早いタイミングで何となく分かってしまうので、終盤はやや尻すぼみな印象を受けた。このクオリティなら、もう少し過去のエピソードに触れて、叙情性を高めても良かったのでは…。【バグダッド・カフェ】… 満足度★★★★日本でも非常に人気の高い、ミニシアター系を代表する有名作品。僕も若い頃から知っていたが、何故かこれまで観ずに過ごして来た。理由は分からない…(笑)。序盤からカメラワークや色調が独特で、実験的というか不思議な感覚の作品という印象を受けた。主人公ジャスミンの素性を始め、全体的にあまり多くを語らず、ストーリーはかなり大雑把だ。そのため色々と腑に落ちない点はあるのだが、そんな事を考えるのは野暮とばかりに、本作は登場人物達のキャラクターと場面しか映さない。現実(リアリティ)に囚われていると意味が分からず、ブレンダのように腹ばかり立てる羽目になるだろう(笑)。そう、【バグダッド・カフェ】は一種の幻想(ファンタジー)なのだ。主題歌『Calling You』が「昨日よりマシな何処か」と歌うように、彼らがいるのは現実には辿り着けない御伽噺の世界のように感じる。だからこそ観客も、このカフェにいる間は安心して現実を忘れ、彼らが織りなすちょっと可笑しくて幸福なファンタジーに身を委ねる事ができるのだろう。店に集う人達が、白人も黒人も老若男女に関係無く幸せそうに笑う姿を眺めながら、そう思った。と同時に、永遠に辿り着けない場所だからこそ、本作には何とも言えない物悲しさが漂っている。そのバランスがとにかく素晴らしい。ハッピーエンドにも拘わらず、急にそこを去る者が現れたり、敢えて答えを曖昧にして終わるラストの余韻も味わい深く、本作を忘れ難いものにしている。
2023.09.20
とりあえず生きてさえいれば、後は何とかなるさ。
2023.08.19
少し前の話題になるが、駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバ氏が、優先席を利用する様子をTwitterに投稿し、大きな議論を巻き起こしたようだ。昨年の星組【ディミトリ】以降、暫くジョージアとは縁が無いだろうと思っていたが、あった(笑)。先ず、結論から言うと「この手の議論に正解は出ない」というのが僕の意見だ。例えば、席を譲って欲しくても言えない高齢者もいれば、譲られても遠慮して座らない高齢者、「年寄り扱いされた」と不満を漏らす高齢者など、その人達の性格やその時々の状況によって答えは違って来るからだ。また、この問題を「個人のマナー(=道徳観)」として捉えるか、「社会のルール(=倫理観)」として捉えるかでもニュアンスは違って来るだろう。本来、優先席であろうとなかろうと、互いに席を譲り合える事が日本人の美徳であるはずだ。しかし、社会に閉塞感が漂い、精神的に余裕を失くした今の日本では、そうした「善意」や「思いやり」の行為が、「義務」や「責任」という形でしか語れなくなってしまっている。コロナ禍による「同調圧力」と「自粛ムード」が、その傾向をより一層強めた。個人的には、その事が一番の問題ではないかと思う。空いている優先席にレジャバ氏が座ったのは、彼が自発的に席を譲れるマナーを持った人だからだろう。しかし、日本人の全員、ジョージア人の全員が同じように行動する(できる)訳ではない。その事実を理解した上で、レジャバ氏にはこれからも日本の行く末を見守ってもらいたい。という訳で、ジョージアを舞台にした作品を含めて、最近観た映画の感想。【そして人生はつづく】…満足度★★★☆1990年に起きたイラン北西部ルードバール地震では、約4万人が死亡、約50万人が家を失った。本作は、アッバス・キアロスタミ監督による「ジグザグ道3部作」の2作目に当たり、前作【友だちのうちはどこ?】の舞台になった村が被災したため、出演者の安否を訪ねるロードムービー。(監督役を始め、出演者は地元の人達ばかりである)一応はフィクションであるが、震災から半年後に撮影を行っているため、破壊された街や出演者達の話は事実に基づいており、ドキュメンタリーの要素も強い。(途中、老人が台本のネタバレをしてしまった場面もNGにせず、そのまま使っている)それでも、国民性なのかあまり悲愴感は無く、皆が現実を受け入れて淡々と生きている姿は、逆に観ている僕達に希望を与えてくれる。日本映画のように、作為的な感動を演出しない姿勢も好印象。そして人生はつづく…。【鴛鴦歌合戦】…満足度★★★☆昭和14年(1939年)に製作されたオペレッタ時代劇映画。80年以上前の作品ながら、江戸時代とジャズの組み合わせが斬新で面白い。現代人の感覚からすると、もっと深刻な状況になりそうな気もするのだが、誰もが非常に呑気で、陽気なメロディに乗せてテンポ良く物語が進んで行く。クライマックスでの立ち回りも格好良く、思わず心の中で「よッ、千恵蔵!」と掛け声を上げてしまった(笑)。そんな軽いノリの中に、「貧乏でも、大切なのはお金より真心」や「武士としての心構え」など、当時の道徳観が顔を覗かせるのは興味深い。どことなく【男はつらいよ】の寅さんを彷彿とさせる、古き良き昭和といった雰囲気の良作。【ダンサー そして私たちは踊った】…満足度★★★★舞台は、ジョージアの国立舞踏団。幼馴染みのマリと伝統舞踏の鍛練に励む青年メラブは、指導者から常に「男らしく強く」を求められていた。そんなある日、新たに入団した青年イラクリとメラブは急速に距離を縮めて行く…。ジョージア映画というと【とうもろこしの島】など年長者の目線で描かれた戦争関連の作品しか観た事がなかったが、本作は現在のジョージアを若い世代の視点で描いており、決して豊かではない経済状況や世代間の価値観の違い、そして同性愛への偏見など、これまで知らなかったジョージアの社会的な側面に触れる良い機会となった。そんな本作を通して感じたのは「伝統」と「革新」。母国の伝統文化に敬意を払いつつ、同時にそこから解放されたいと踠(もが)く若者の葛藤をバランス良く描いている。今年50歳になる僕としては、どちらの気持ちも理解できるため、とても複雑な気持ちになった。クライマックスからラストへの展開にはやや安直さを感じたものの、異国の青春映画としては申し分無く素晴らしい。何故か、主人公の部屋に宮崎駿監督の映画【千と千尋の神隠し】のポスターが貼ってあったのも、日本人としてジョージアにより親近感が増した。補足的に、保守的なキリスト教国ジョージアでは、今でも同性愛への偏見や反発が強いらしい。2019年に本作が公開された当初、国内では極右集団が上映阻止を求めてトビリシなどの劇場を取り囲む抗議行動が起き、ジョージア正教会も上映に反対したという。旧ソ連時代に育った上の世代ほど、ロシアに影響された考え方を持っているようだ。そうした危険が伴う中で撮影、上映された本作の意義について、メラブ役で主演したレヴァン・ゲルバヒアニはこう語る。「この映画に参加する事で、何かを変えられるかも知れないし、社会にメッセージを残せるかも知れないと思った。そうでもしなければ変化を起こす手段も無いし、何かを言う力も無く、誰も耳を傾けてくれない。このプロジェクトは僕に発言する機会や力を与えてくれた」冒頭に紹介したレジャバ氏の問題提起も、こうした意図があったのかも知れない。少なくとも、日本人に考える切っ掛けを与えてくれた事は間違いないだろう。どちらの問題も、対立や論破ではなく、対話と融和による解決を期待したい。 レヴァン・ゲルバヒアニのインタビュー記事はこちら →【朝日新聞デジタル GLOBE+】
2023.07.26
【アスファルト】… 満足度★★★★薄曇りの空、さびれた集合住宅、どこか寂しげな眼差しの人達。偶然に出会った彼らが不器用ながらも交流する中で、互いに心の隙間を埋める特別な存在へと変わって行く…。フランス郊外の団地に暮らす、年齢も境遇もバラバラな男女が織り成す群像劇。特に何か素敵な事が起こる訳ではない。感情を剥き出しにして想いを伝える事もない。しかし、だからこそ、そっと寄り添いたくなる愛おしさがこの作品にはある。最近観たフランス映画【誰かの幸せ】も良かったが、そこにジム・ジャームッシュ監督を思わせるシュールさとオフビート感を加えた本作は、更にその上を行く秀作。時折聞こえる不気味な音は、彼らの心に吹き込むすきま風を象徴しているように感じた。【ベトナムを懐(おも)う】… 満足度★★★妻の死をきっかけに、故郷ベトナムを離れ息子が暮らすニューヨークへ移り住んだ老人トゥー。しかし、英語も喋れず、アメリカ育ちの孫娘タムとは価値観の違いから打ち解けられない彼は、老人ホームへ入れられてしまっていた。そんなある日、トゥーが施設を抜け出してアパートへ戻って来た事から…。序盤は、祖父と孫娘の世代間ギャップを描いたコメディかと思ったが、終盤になると「ベトナム人の歴史とアイデンティティを次世代に伝えたい」という監督の想いが見えて来た。ただ、(意図的なのかも知れないが…)その肝心の部分が説明不足で、特にトゥーと息子グエンの関係性が全く描かれていないため、ベトナム戦争やボートピープルに詳しくない僕には幾つか腑に落ちない点が残った。それでも、美しいベトナムの田園風景とトゥーの半生、3世代それぞれの想いはしっかりと描かれているので、疑問点はあれど感情移入はし易いと思う。ラストに流れる主題歌も秀逸。歴史や文化の伝承という問題は日本人も他人事ではないだけに、色々と考えさせられる作品だ。蛇足ながら、【草原に黄色い花を見つける】に主演していた子役2人が、本作でも共演していた。ベトナムでは有名な子役らしい。また、老害扱いされる高齢者の知られざる過去を描いた作品として【幸せなひとりぼっち】を思い出した。
2023.05.03
今年は宝塚を観る機会に恵まれない反動か、意識的に映画を観るようにしている。(雪組公演は2回分のチケットを確保したが、宙組【カジノ・ロワイヤル】は無理そうだ)今回は特に何の繋がりも無い2作品。【恋するモテない小説家】… 満足度★★★偽名を使って書いた小説が世界的ベストセラーとなり、映画化までされる事になって戸惑う小説家が、たまたま知り合った女性に頼まれて小説を批判する記事を本名で書いたところ…。極度にあがり症の小説家が恋をした事から巻き起こるラブコメディ。劇中で主人公も示唆しているように、本作はかなり古典的で典型的な内容ではあるが、主演と監督を兼任したクリストファー・ゴーラムの感性が光り、アイデア次第でまだまだこれだけ面白い映画が撮れる好例のような作品になっている。スナック菓子の感覚で、気軽に映画を楽しみたい時にお薦め。【ムーンライト】… 満足度★★★☆内気な性格と家庭環境のせいでいつも虐げられる側、マイノリティの側で生きて来た黒人少年が、父親代わりの麻薬ディーラーや唯一の親友に支えられ、強くなるまでを描いた人間ドラマ。そして再会の夜、彼はずっと胸に秘めていた想いを言葉にする…。敢えて多くを語らない寡黙な作品で、細かい部分の解釈は観る側に委ねられている。そのため、(僕も含めて)文化の違う日本人が全てを理解するのは難しいのかも知れない。それでも、年齢ごとの主人公を演じる俳優3人の演技が素晴らしく、繊細な心情を同じ眼差しで語っている。マイノリティの厳しい現実を描きながら、どこか夢物語のような美しさを感じさせる映像も見所。月明かりのように、波音のように、優しく静かに心に沁み込む秀作だ。
2023.03.10
何故かは知らないが、山田洋次監督の代表作【男はつらいよ】がフランスで大盛況らしい。パリの日本文化会館では『Un an avec Tora san(寅さんと一緒の1年)』と銘打って、2021年11月から【男はつらいよ】全50作品を一年間連続で上映して来たのだが、これが口コミで大評判となり再上映まで検討されているのだとか。イベントの担当者(フランス人)は、「コロナ禍や何でもハラスメントの風潮で、社会に閉塞感が漂う今だからこそ、寅さんのような笑いと人情が必要だったのかも知れません」と語っている。今後は、寅さんを訪ねて来日するフランス人が増えるかも…(笑)。【誰かの幸せ】… 満足度★★★☆もし、身近な人が急に才能を認められて大成功したら…?誰の心にも少しはあるだろう嫉妬や対抗心を、いかにもフランス人らしい感性で誇張して描いてみせたコメディ映画。今ある環境に自分なりの幸せを見出せる主人公レアと、どうしても他人との比較(優劣)に走ってしまう恋人マルクと親友カリーヌの対比が面白い。序盤はマルクとカリーヌの言動に不快感すら覚えるが、レアの態度を見ていると彼らには彼らなりの信頼関係がしっかりとある事が分かるし、そのバランスがレアの成功によって崩れてしまう人生のほろ苦さは上手く描けていると思う。(マルクの選択がその事を象徴している)やや出来すぎた感はあるものの、それぞれが自分の居場所を見付けるラストも好印象で、個人的には好きなタイプの映画だ。最初と最後で、レアのデザートの好みが変わっているのも示唆的で興味深い。冒頭の会話シーンだけでも観る価値あり。【クーリエ:最高機密の運び屋】… 満足度★★★東西冷戦下、英国のごく平凡なセールスマンが、ソ連からの機密情報を運ぶ仕事を依頼される…。人類が最も核戦争に近付いた瞬間と言われるキューバ危機の裏で本当にあった、2人の男を巡る使命と絆の物語。メジャー作品とあってか、内容は非常に分かり易く共感もし易いのだが、逆にアクや癖がほとんど無いため、個人的には少し物足りなさも感じた。とは言え、ベネディクト・カンバーバッチを始めとした俳優陣の演技は文句無しに素晴らしく、一見の価値ある良作。映画と直接は関係無いが、キューバ危機と絡めて現在のウクライナ情勢を語っている動画。 欧米がウクライナの後ろ盾になっている以上、対ロシアの構図はあの時と変わらない。
2023.02.16
今回は「若い世代の間に立ち塞がる、親世代から続く宗教や階級の壁」を描いたアジア作品を2本。後で調べたら、どちらも女性監督だった。【あなたの名前を呼べたなら】… 満足度★★★19歳で未亡人となり、生まれた農村を出て大都会で住み込みのメイドをする女性と、雇い主である御曹司との淡く切ない恋愛物語。インド映画というとボリウッドのような派手さを想像してしまうが、本作は非常に質朴で控えめな作品となっている。内容的にも、大きな感動は無い。しかし、その分、カースト制度を始めとするインドの因習が、現代もなお人々の生き方に大きく影響している現実を、登場人物達の会話からしっかりと感じる事ができる。個人的には、2人の恋愛よりも、こうした社会的な側面に重点が置かれているように感じた。決してハッピーエンドとは言えないが、若い世代の選択に希望を見出せる佳作。【タレンタイム 優しい歌】… 満足度★★★★舞台はマレーシア。高校で開催される学芸コンテスト、『タレンタイム』に出場する生徒達の恋と友情を巡る物語。序盤は登場人物に関する説明がほとんど無いため、話の流れがよく分からないのだが、徐々に彼らの人間関係や家庭の事情が明らかになり、ラストの感動へと繋がって行く。表面的には10代の瑞々しい青春を描きつつ、親世代の会話ではマレーシアが抱える複雑な民族問題や宗教問題を垣間見せる手法も巧みだ。(イスラム教徒のマレー系、ヒンドゥー教徒のインド系、そして中国系の学生が同じ高校に通う)それらが全て集約された中で行われるタレンタイム当日の場面では、思わず泣いてしまった。劇中で歌われる曲【I Go】と【Angel】も文句無しに素晴らしい。蛇足ながら、家族の団欒風景がどことなく昭和の日本っぽいなと思っていたら、監督の祖母は日本人らしく、監督も【男はつらいよ】が好きだったとか。
2023.01.24
後れ馳せながら、明けましておめでとうございます。今年もこんな調子ですので、宜しくお願いします(笑)。年明け早々に東京の星組公演が中止になり、やはりこの茶番劇を終わらせない限りタカラジェンヌ達の自由は戻って来ないのだと再確認した。微力ながら、その日まで声を上げ続けようと思う。正月3日間は定休日だったので、久し振りに真面目に(?)映画を鑑賞した。連休で集中力が散漫だったのか、どれも今一つの印象だった…。【TENET テネット】… 満足度★★★アイデアや映像は素晴らしいのだが、少々理屈が過ぎるのか、単調なストーリーの中で逆にそれらが小手先に感じられてしまい、あまり感情移入できなかった。一応、考察サイトを幾つか読んでみたものの、もう一度観たいと思わせる内容ではなかった。これなら、僕は【ターミネーター 1&2】で良い(笑)。【スーパーノヴァ】… 満足度★★風景と音楽は美しいが、同性愛に抵抗を感じない者にとっては、特に目新しさも何も無い凡作。【好きにならずにいられない】… 満足度★★★デブで禿げでオタクで恋愛経験ゼロの内向的な男(43歳)が、母親の勧めで出掛けたダンス教室で1人の女性と出会う…。と書くと、ハッピーエンドの恋愛映画に思えるが、必ずしも主人公が報われる物語ではない。(相手の女性があれで救われたかどうかも疑問だ)それでも彼が最後に見せる小さな笑顔が、「人生とは何か」「優しさとは何か」を静かに語り掛けて来る良心的な作品。後半の展開がやや唐突なのと、全体的に予定調和な印象が否めないのが惜しい。
2023.01.04
軽い気持ちで楽しめる映画をと思い選んだのだが、どちらも「たとえ不器用でも言葉で想いを伝える事の大切さ」を描いた秀作だった。相手の気持ちを想いやる優しさについて、改めて考えさせられた。因みに、ファミレスで食べたいものに迷った時、僕はとりあえず店員を呼んで注文せざるを得ない状況に自分を追い込み、その時の直感で選びます(笑)。【ぶあいそうな手紙】…満足度★★★☆ブラジル南部の街ポルトアレグレ。息子に同居を勧められても頑なに住み慣れた部屋を離れようとしない独居老人エルネストの元に、ある日故郷のウルグアイから1通の手紙が届く。視力が衰えて文字の読み書きができなくなっていたエルネストは、偶然に知り合った若い女性ビアに手紙の代読と代筆を頼む事になるが…。「手紙」が物語の中心にあるだけあって、とにかく言葉の持つ力や美しさに拘った作品という印象を受けた。頑固な老人と不良娘という異色の組み合わせながら、揉め事や口論はほとんど無く、性善説を前提に知的で詩的な心の交流が描かれている。(それでいて、貧困や差別というブラジルの現実もさりげなく描いている所が上手い)僕が好きな「翻訳できない世界の言葉」が手紙の中に出て来たり、隣人とのユーモア溢れる掛け合いなど、ふと笑みがこぼれてしまうエピソードが満載で、最初から最後まで楽しめた。大きな感動こそ無いが、ブエノスアイレス(スペイン語で「良い風」の意味)の如く、鑑賞後は爽やかで前向きな気持ちになれる秀作だ。(終盤になるにつれ、エルネストの眼が悪いようには思えない描写が増えるのはご愛嬌か…笑)【恋妻家宮本】…満足度★★★★優柔不断で頼りない中年教師が、ある日妻の箇所だけ書き込まれた離婚届を見付けてしまい…。熟年離婚の危機に加え、教え子の家庭問題にも巻き込まれ右往左往する男を巡るコメディ映画。笑える作品が観たくて軽い気持ちで選んだが、予想以上に感動的でちょっと泣いてしまった。正解を求めるあまり何も言葉が出て来ず周りから呆れられる男が、勇気を出して訥々と語る言葉が胸を打つ。脚本から演出に至るまで絶妙に計算し尽されており、そこに多少のわざとらしさは感じるものの、やはり阿部寛の演技は素晴らしく笑いと感動を同時に提供してくれる。吉田拓郎の主題歌『今日までそして明日から』も完璧。そして、宝塚ファンになったせいなのか、妻役の天海祐希が可愛くて仕方が無い(笑)。今更ながら惚れてしまった。庶民的な彼女の可愛さに絆(ほだ)されて☆1つおまけ。蛇足ながら、劇中で語られる「戦争みたいに正しさと正しさはぶつかるけど、優しさと優しさならぶつからない。今私達がこだわるべきなのは正しさじゃなく、優しさなんじゃないでしょうか?」という台詞は、今この時代にこそ必要な言葉のように感じた。僕達は、正解や正義を求め過ぎるあまり、優しさを見失ってしまっているのかも知れない…。
2022.11.22
かなり久し振りに映画の話題。【風が吹くまま】は9月に鑑賞していたのだが、それ以降は何も観ていなかった。【風が吹くまま】… 満足度★★★クルド人の独特な葬儀の風習を取材するため、小さな村を訪れたTVクルー達。しかし、危篤だと聞いていた老婆は2週間経っても亡くならず、彼らは暇をもて余す事に…。「他人が死ぬのを待つ」という特殊な状況の中で、主人公が案内役の少年や村人達との交流を通して人生の意味を問い直す佳作。同じ風景や描写を繰り返す事で、村人の変わらぬ日常と、その中で徐々に逸(はや)って行く主人公の気持ちを同時に感じさせた手法は上手い。ただ、その一方で、他のTVクルー達を画面に登場させなかったり、カメラを鏡に見立てて髭を剃るなど作為的な描写もあり、(ここは評価が分かれる所だろうが)個人的には気が散る要素となった。ラストシーンで主人公の心情がもう少し分かりやすければ良かったのだが…。【リザとキツネと恋する死者たち】…満足度★★★★舞台は1970年代のブタペスト。日本文化に憧れる冴えない看護師のリザと、彼女にだけ見えるトミー谷という日本人歌手の亡霊。運命の出会いを求めて彼女が恋をしようとする度、目の前で次々と男達が死んで行く…。主人公のリザを始め、登場人物が変わり者ばかりなので誰にも感情移入できないのだが、ハンガリー人の笑いの感性とトミー谷が歌う歌謡曲のノリが最高で、ついつい笑ってしまう。欧州ならではのちょっと悪趣味なユーモアに抵抗が無ければ、絶妙に微妙なハンガリー流の日本解釈を含め、ナンセンスな笑いを楽しめるのではないだろうか。亡霊のトミー谷が劇中で歌う1曲『ダンスダンス☆ハバグッタイム 』。日本人歌手という設定なので、歌詞は全て日本語。基本的にこのノリで次々と事件が起きる(笑)。予告編
2022.11.03
「★」繋がり(という訳ではないが…笑)、さかなクンの判りやすい説明と香音の可愛さに釣られて、ほぼ毎週観ているEテレの番組【ギョギョッとサカナ★スター】。そのさかなクンの半生を描いた映画が制作されたらしいのだが、何故か主演は女優ののん。いきなり性別を超えて来た(笑)。更に、登場人物は何故か皆キャラが立ちまくっていて、全く話が見えて来ない(笑)。不良グループの造形も昭和っぽいし、ギャグも昭和っぽいし、【ビー・バップ・ハイスクール】で育った世代としては、イケメンばかりの【HiGH&LOW】よりこっちの方が落ち着くかも…(笑)。(そう言えば、僕の世代は「ヤンキー」じゃなくて「ツッパリ」って言ってたな)
2022.09.07
僕は「作品の良し悪しは、脚本と演出でほぼ決まる」という考えだが、今回観た【ラスト・ディール】と【草原の実験】は正にそれを証明する対照的な作品だった。どちらも脚本としては遜色ない出来なのだが、前者は演出が素直過ぎて次の展開が読めてしまい、最後まで物語の世界に没入できなかった。一方の後者は、脚本自体は単純ながら演出がとにかく巧みで、台詞が無くて意味の分からない描写でも、次の展開で「なるほど、そういう事か」と気付かされるなど、最初から最後まで集中力が途切れる事なく観られた。分かり易いが故に単調で想像力を欠いた前者と、何も語らない事で想像力と衝撃を与えた後者。鑑賞後に「映画を観た」「これぞ映画だ」と感じられるのは、間違いなく後者だろう。演出一つで作品の印象が大きく変わる事を、改めて感じさせてくれる良い機会となった。それにしても、このタイミングで【草原の実験】を観た事が、何かの悪い予兆ではない事を心から祈っている。【ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像】… 満足度★★☆最初は、冴えない画商の祖父と思春期の孫が絵画を通して交流を深める物語かと思ったが、そこに娘(母親)が加わると実は「世代間」特に「Z世代」を描いた作品だと気付く。祖父はそもそも商才が無く、おまけに典型的な老害だし、娘(母親)も日々の生活費に追われて頭も心も疲れ切っている。どちらもいわゆる社会の負け組で、残念な大人として描かれているのだが、孫の機転のおかげで何となく丸く収まり、最後は彼に希望を委ねるという展開になっている。(タイトルの「ラスト・ディール(最後の賭け)」とは、そういう意味だろう)良心的な映画だとは思うが、演出まで良心的過ぎたのか次の展開が読めてしまい、全体的に物足りなさを感じた。大事なクライマックスも、あの状況で孫と社長が取った行動はどちらも演出としては最悪で、せっかくの緊迫感を台無しにしてしまっている。芸術の価値が常に金額に換算されて語られる事も、個人的には居心地の悪さを感じた。【草原の実験】… 満足度★★★★ロシア映画だが、舞台は旧ソ連時代のカザフスタン。見渡す限りの青空と草原の中に建つ、貧しい一軒家に暮らす父娘を巡る物語。大好きな映画【とうもろこしの島】も寡黙な作品だったが、本作は全編を通して台詞が一切無く、全てを観る側の解釈に委ねる実験的な作品となっている。登場人物に関する情報も、ほぼ皆無に等しい。物語は後半に進むにつれて難解さを増し、突然のラストを迎えるため、一度の鑑賞で全てを理解できる人はいないだろう。ラストを暗示する描写は幾つもあるのだが、現実離れしたカザフスタンの風景と少女の美しさは、そうした不穏な空気ですら、お伽噺を彩るための1ページのような印象に変えてしまう。彼女に恋する2人の青年もどこか子供っぽく純情で、嫌な予感をつい忘れそうになる。そんな少女が、自立と希望の先に見た光景…。(あのタイミングで少女の自立を描いたのは、あまりに完璧で見事と言う他ない)言葉による説明が何一つ無いため、確かに疑問の残る点も多いが、そこは監督の意図だろうし、それらを差し引いても間違いなく必見の映画である。鑑賞後に「セミパラチンスク」や「チャガン湖」について調べてみると、この作品が単なるフィクションではない事が分かるだろう。(ただし、調べるにはそれなりの覚悟が必要だ) 【草原の実験】予告編
2022.08.24
宝塚では宙組を中心に幾つか発表があり、世間では大きなニュースがあったが、とりあえず最近観た映画の感想を。例の事件に関しては、ひろゆきが自身の録画動画で語っていた見解とほぼ同じなので、これ以上ここで書きたい事は無い。(それ以外の発言についてはチェックしていないので、賛否の判断はできない)【ライトハウス】…満足度★☆1890年代、ニューイングランドの孤島に灯台守としてやって来た、2人の男を巡る話。内容的にはギリシャ神話を題材にしているように見えるが、正直なところ意味はよく分からない。それより何より、とにかく不穏で不吉で不浄で不快なシーンの連続のため、正常な感覚の人間として絶対にこの映画を好きにはなれない。当然、他人に薦めたいとも思わない。にも拘わらず、主演2人の演技を含めて映画としての完成度はもの凄く高く、満点を付けても良い程のクオリティであり、映画ファンとしては「観る価値がある」と言わざるを得ないのが、本作の厄介なところである(笑)。【幕末太陽傳】…満足度★★★☆『居残り佐平次』や『三枚起請』といった古典落語を下敷きに、品川の遊郭に生きる人間模様を軽妙に描いた娯楽エンターテイメント作品。主人公の佐平次が、見た目とは裏腹に機転は利くし口は達者だし手先も器用だしと、とにかく何でも出来てしまう男のため、ちょっと都合が良さ過ぎる嫌いもあるが、落語由来の大衆コメディと考えれば、これくらいの軽さとテンポが丁度良いのかも知れない。因みに、元々この映画のラストシーンは、佐平次は海沿いの道ではなく墓場のセットが組まれているスタジオを飛び出し、更にはスタジオの扉を開けて現代(1957年)の街並みを走り去って行く、というものだったらしい。敗戦から12年後に公開された作品だが、「黒船の襲来」と「GHQによる占領」を重ねて観ると、死に体ながら器用に立ち回っては次々と問題を解決し、「地獄も極楽もあるもんけぇ、俺はまだまだ生きるんでい!」と啖呵を切って走って行く佐平次の姿は、当時の日本人の気持ちを代弁しているようで興味深い。この幻のラストシーンだったら、★4つでも良かった。
2022.07.16
最近、『Amazonプライムビデオ』では【パラサイト 半地下の家族】や【ジョーカー】などの話題作が続々とプライム対象になっているのだが、「あまり人間の心の闇を見たくない」という心理からなのか、どうも食指が動かない。(まあ、観ていないので、実際にどんな内容なのか全く知らないのだが…笑)代わりに観た韓国映画【殺人の追憶】が良かったので、その流れで【パラサイト】を観ようかとも思ったのだが、間もなくプライム対象期間が終わるという事で、【ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー】と【セッション】を先に鑑賞する事にした。【殺人の追憶】…満足度★★★☆1986年に韓国の農村で実際に起きた連続殺人事件を題材にした作品。そうした予備知識も無いまま鑑賞したせいか、捜査のずさんさは勿論、警察を始めとする当時の韓国民の猥雑さに呆れるばかりで、サスペンスでありながら時々コメディにさえ思えてしまう程だが、それでも最後まで観客を惹き付ける描写の生々しさと俳優陣の上手さは「さすが韓流」と言えるクオリティだ。「真犯人の手掛かりが掴めるかも知れない…」というラストで、少女が言う台詞も印象深い。【ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー】…満足度★★★小説『ライ麦畑でつかまえて』の著者、J.D.サリンジャーの半生を描いた作品。どこまで史実に沿っているかは不明だが、彼が「書く事は"祈り"だ」という境地に至るまでの課程をかなり丁寧に描いている、という印象を受けた。小説家の物語だけあって、言葉の選び方も巧い。ただ、これは僕の落ち度だが、僕は『ライ麦畑でつかまえて』ばかりかサリンジャーの小説を何一つ読んだ事がないため、この映画で批評されている彼の文体や、戦争体験が作品に与えた影響などを正確につかまえ切れなかった事が悔やまれる。小説を読んでからの方が、更に余韻が深まったかも知れない…。【セッション】…満足度★★★スパルタを通り越してもはや拷問とも言えるような指導を行う音楽教師と、彼に認められようと執念を燃やす生徒との狂気に満ちた日々を描いた、デイミアン・チャゼル監督作品。正直、教師であるフレッチャーの指導方法には不快しか感じないが、そんな彼に向かって「俺に演奏させろ」と怒鳴り返す主人公のアンドリューもまた、実は狂気の人なのだと気付かされる。そんな2人だからこそ成立する驚愕のクライマックス…。以前、何かで読んだが、チャゼル監督は元々【ラ・ラ・ランド】を映画化したかったらしい。しかし、スポンサー会社から色好い返事を貰えなかったため、先ず世間に自分の才能を認めさせてやろうと、低予算で撮った作品がこの【セッション】だったという。つまり、本作で主人公が見せる執念は、監督の映画に対する執念そのものなのだ。逆に言えば、ただそれだけの目的でこれ程の映画を作ってしまう所に、デイミアン・チャゼルの底知れぬ才能がはっきりと表れている。だから、冷静に観れば大して中身も無く(笑)、疑問点や矛盾点も少なくないのだが、それらを咀嚼する暇も与えず畳み掛けて来る鬼気迫るシーンの連続に、ただただ圧倒される怪作となっている。個人的には、主人公が教師とバーで再会する場面でラストは何となく予測できたし、決して後味の良い作品ではないという事でこの点数にした。(もし、本作を先に観ていたら、【ラ・ラ・ランド】は観なかったかも知れない)
2022.05.25
僕のブログを読んでいる人は大半が宝塚ファンだと思うが、中には宝塚には全く興味が無い映画ファンもいるのだろうか…。その人達からすれば「宝塚はどうでも良いから、もっと映画を観ろよ」となるのかも知れないが、そこは悪しからず。まあ、深読みしたくなる作品がそうそう現れる訳ではないし、そうなると感想も在り来たりになり勝ちなので、あまり期待しないように(笑)。また、この冬はアニメ『鬼滅の刃』『王様ランキング』『平家物語』『ジョジョの奇妙な冒険』、ドラマ『ミステリという勿れ』とテレビを観る時間が増えて、あまり映画まで気が回らない。そんな中、今回は年明けから観た3本。【草原に黄色い花を見つける】…満足度★★★☆1980年代後半のベトナムの貧しい農村を舞台に、少年の淡い初恋の行方と苦い思い出とを、温かい眼差しでノスタルジックに描き出した快作。子供時代に誰もが感じた経験があるだろう心の機微が、鮮やかにスクリーンに映し出されている。子供達のやり取りの中に、さりげなく大人の事情を垣間見せる手腕も上手く、地味ながら見応えのある作品に仕上がっている。日本の原風景に通じるベトナムの田園風景も好印象。【コーヒー&シガレッツ】…満足度★★★★★噛み合わない会話と、そこに流れる微妙な空気…。そんな、間が持てない人達を繋ぐ最高のアイテム、コーヒー&シガレッツ。ジム・ジャームッシュ監督が多彩なゲストを迎えて贈る、ささやかだが最高に贅沢な人生のカフェブレイク。喫茶店のマスターとしては、満点を付けない訳にはいかない(笑)。【コロンバス】満足度★★★モダニズム建築の街として知られるインディアナ州コロンバスを舞台に、高名な建築学者を父に持つ男ジンと、精神的に不安定な母のために自分の夢を諦めようとしている少女ケイシーとの心の交流を描いた佳作。建築美をメインに据えているだけあって、カメラの構図は流石の上手さだ。とは言え、描かれるべきは飽くまでも人間。序盤で、建築について説明するケイシーに対して、ジンが「知識ではなく君が何に感動したかを教えて欲しい」という場面は秀逸で期待が高まったが、それ以降は凡庸な描写が続くため、尻すぼみな印象は否めない。良い作品だけに、建築物と同様に、2人の心情をもう少し緻密に構築して欲しかった。
2022.02.03
普段は定休日の火曜日に映画を観るのだが、仕込みを終えて帰って来ると倦怠感に襲われて観る気が失せる事も少なくないので、最近は目先を変えて月曜日の夜に観る事にしている。次の日が休みだと思うと多少は気持ちも軽くなり、前向きに映画を観ようという姿勢になる(笑)。今週は月曜日だけでなく火曜日にも鑑賞したので、ジャンルが違うものを2本。どちらの作品も狙いは悪くないのだが、今一つ説得力に欠けるため中途半端な印象を受けた。(まあ、ジャームッシュ監督は寧ろそこを狙ったような気もするが…笑)感想に比べて、余談がかなり長くなってしまったので悪しからず。【9人の翻訳家 囚われたベストセラー】… 満足度★★★映画【ダ・ヴィンチ・コード】で有名なダン・ブラウンの小説『インフェルノ』の出版時に、「違法流出防止のため各国の翻訳家を秘密の地下室に隔離し翻訳させた」という実話をヒントに描かれた密室ミステリー劇。思わせぶりな描写で観る側の好奇心と緊張感を煽る割には、肩透かしに終わる展開が目立つため、実際に謎解きが始まる頃には気持ちが醒めてしまった。真犯人にあまり感情移入できなかったのも、評価が下がった要因。【デッド・ドント・ダイ】… 満足度★★★僕はホラー映画を(怖いから…笑)基本的には観ないのだが、今回はジム・ジャームッシュ監督がゾンビ映画を撮ったという事で食指を動かされた。当然グロテスクな描写はありつつも、全体的には人を食ったような緩さがあり、ホラーというよりコメディに近い。生前に好きだった物を求めて彷徨うゾンビ達の姿が、どことなく生きている人間と同じに感じたのは、ジャームッシュ監督ならではの皮肉だろうか。ここからは余談になるが、最近読み始めた戸谷洋志の著書『ハンス・ヨナス 未来への責任』に興味深い事が書いてあった。『唯物論的一元論において、原則的に生命は存在しないし、存在するべきでもない。その世界においてもっとも正統なあり方は「死体」である。そこでは生命は死体としてのみ存在しうるのである。(中略)それが、ヨナスの考える、西洋における生命観の歴史の帰結なのである。』これだけだと、何の事か意味が分からないと思うので、もう少し詳しく説明しよう。原始の時代、人間はこの世に存在するもの全てに生命があると考えていた。空も大地も風も、あらゆるものが生きており、この世界に生きていないものは存在しない、と考えられていた。そして、当然ながら、人間もこの自然の一部であり、自然と同じ原理のもとで存在していた。ドイツの哲学者ハンス・ヨナス(1903~1993年)は、こうした太古の世界観を「生命論的一元論」と呼ぶ。しかし、この生命論的一元論はある矛盾を抱えていた。それは「存在=生命」と考える世界観では、「死」を説明できないという事である。全ての存在に生命があるなら、死体も死体なりの仕方で生きていなければならなくなる。この矛盾を克服すべく人間が生み出した世界観が、死後も存在し続ける「魂」の領域と、死によって滅び行く「肉体」の領域という二元論だった。肉体は、そこに魂が一時的に宿る事で生命として存在しているだけであり、それ自体が生命である訳ではない。この二元論は「人間と自然」「精神と肉体」とを分断し、その後の西洋の歴史を決定的に規定する事になった。とは言え、二元論が生命を巡る最終的な答えになった、という意味ではない。何故なら、この相反する二つの原理が、どうして一つに結び付きこの世界に存在しているのか、両者は果たしてどのような関係にあるのか、という疑問が残るからである。ヨナスは、この二つの原理を統合しようとする世界観を「唯物論的一元論」と呼ぶ。唯物論的一元論とは、端的にはこの世界から魂を消去した世界観であり、生命を死の一部として説明する事に他ならない。ヨナスによれば、この世界観を最も先鋭化させた学問が、生物学である。生物学において試みられるのは、生命を、その身体を構成している微小な物体へと還元し、その組成によって解明する事である。生物は器官へと分解され、器官はたんぱく質へ、たんぱく質は炭素原子へと分解される。しかし、炭素原子そのものは生きておらず、単なる物質に過ぎない。そうである以上、身体を理解する事、生命を理解する事は、飽くまでも生命を死んだ物質の集塊として説明する事を意味する。このように、現代科学がどれだけ脳や筋肉、血液や器官の仕組みを解明しようと、それは飽くまでも物質としての機能の話であり、何故それが「生命」としてこの世界に存在し、「私」として今を生きているかは説明できない。現代科学の知見に立てば、人間は未だに「物質(=死体)」の域を出ておらず、その意味で僕達は正に「生ける屍(ゾンビ)」なのだ。そう考えると、昨今やけにゾンビ映画が流行っているのも、その根底には「物質」から「生命」へと本能的に回帰しようとする西洋の生命観が影響しているのかも知れない、とさえ思えて来る。ジム・ジャームッシュ監督がそこを描こうとしたのだとしたら、やはり彼は天才だ。劇中に登場するゾンビ達が生前の記憶に従って動いているというのも、決して荒唐無稽なアイデアではない。現在の脳科学の研究では、人間が日常的に行っている意思決定のほとんど(8~9割)は、意識ではなく無意識の部分で行われる事が分かっている。例えば、指を曲げる時、僕達が「指を曲げよう」と考えるよりも先に、脳は指を曲げる指令を筋肉に伝えている。正確には、脳が指令を発してから約0.1秒後に「指を曲げよう」という意識が生まれ、約0.3秒後に実際に指が動く。この0.2秒のタイムラグのせいで、人間は「自分で考えて動かした」と錯覚しているに過ぎない。信じ難い事だが、僕達の意識は、脳の指令に対して後追いで理由を付けているだけなのだ。僕達が「指を曲げよう」と意識するから脳が指令を出すのではなく、脳が指を曲げる指令を出すから僕達に「指を曲げよう」という意識が生まれる。これを「受動意識仮説」と呼ぶ。また、人間の感情や思考、行動には、脳内で分泌されるドーパミンやオキシトシンといった神経伝達物質の働きが大きく作用している事が分かって来ている。こうした研究結果が真実ならば、僕達にはそもそも自由意思など無い事になる。僕達が意識しようとしまいと、脳は指を曲げるだろうからだ。人間は、実際はただ脳が出す指令に従って動いているだけなのに、一人で勝手に「私は(自分の意思で)生きている」と思い込んでいる、間抜けな生き物になってしまうのだ。それは、ジャームッシュ監督が描いたゾンビ達と何も変わらないだろう。あぁ、そうか…。だから【デッド・ドント・ダイ】は、ホラーでもありコメディでもあるのか(笑)。この問題の答えが知りたければ、こちらの書籍を。『ハンス・ヨナス 未来への責任 やがて来たる子どもたちのための倫理学』 [戸谷洋志]
2021.11.18
『キャッツ』『オペラ座の怪人』『ジーザス・クライスト・スーパースター』など名作ミュージカルの生みの親であり、大の猫好きでも知られる英国の作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバー。彼は、2019年に公開された映画版『キャッツ』を観た時、あまりの酷さにショックを受け、70数年生きて来て初めて犬を買いに行ったらしい(笑)。「あの映画が生んだ唯一の良い結果は、私がハバニーズの子犬を手に入れられた事だ」とか。巨匠にそこまで言わせる作品なら観てみたい気もするが、それが原因で猫嫌いになっても困るので止めておこう(笑)。今回は、それとは全く関係の無い作品を2本。ジャンルも敢えて違うものを選んだ。【ベイビー・ドライバー】… 満足度★☆「天才的なドライビング・テクニック」と「耳鳴りを止めるために、いつもイヤホンで音楽を聴いている」という発想自体は悪くない。しかし、そのアイデアが活かされているのは前半だけで、後半はありきたりなB級アクション映画へと一気に失速してしまう。あまりに先が読めてしまうので、途中で何度も早送りしたくなった程だ。脚本の浅薄さに加え、主人公を含めた登場人物達が揃いも揃って幼稚(馬鹿?)なのも致命的。(こんな組織で、よく今まで逮捕されなかったものだ…笑)表題通り「ベイビー(お子ちゃま)」な作品だった。【三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実】…満足度★★★☆1969年5月13日、東京駒場キャンパスの900番教室で行われた、三島由紀夫と東大全共闘とによる討論会の模様を収めたドキュメンタリー映画。いつ暴動が起きても不思議ではない緊迫した雰囲気の中で始まったこの討論会の本質が、関係者の証言や、内田樹ら文化人の解説を交えながら、少しずつ紐解かれて行く。「1人vs1000人」「右翼vs左翼」「保守vs革新」「戦前vs戦後」…。本来なら相容れるはずのない三島と全共闘の学生達が、討論を通して時に奇妙な共鳴を見せる様は実に興味深い。それは、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』にある「もし好機会ありてその殺すものと殺さるる者とをして数日の間同処に置き、互いに隠すところなくしてその実の心情を吐かしむることあらば、いかなる讐敵にても必ず相和するのみならず、あるいは無二の朋友たることもあるべし」という一節を彷彿とさせる光景だった。そこにあるものは、紛れもなく「言葉」である。太平洋戦争を経験し、敗戦によって日本人としてのアイデンティティを否定された三島由紀夫が学生達に託そうとしたものは、やはり日本の将来だったろうと思う。それは、三島の「他のものは一切信じないとしても、諸君の熱情だけは信じます」という言葉に全て集約されている。ここで言う熱情とは、「自分達で国や社会を変えて行こう」という想いに他ならない。そうであれば、この作品で真に問うべきは「学生達がその後の日本をどう生きて来たか?」(過去)「その上で彼らの目に今の日本がどう映っているのか?」(現在)「これからの日本を生きる若い世代に何を伝えたいか?」(未来)という、彼らの「熱情の行方」であるはずだ。にも拘らず、監督が「敗北」の一言で彼らの青春を片付けようとしたのには落胆した。「三島由紀夫が信じると言った貴方の熱情は、今どこに在るのか?」と訊くべきだったろう。歴史的にも貴重なフィルムだけに全編を通して観たかったし、せっかく映画化したのだから長尺になってでも徹底的に語り尽くして欲しかった所だ。そうした不満もあって、この評点に。
2021.11.03
一度観ると決めたものを、他人の一言で観ないというのは庵野秀明にも岡田斗司夫にも失礼なので、遅ればせながら【シン・エヴァンゲリオン劇場版】をAmazonプライムで鑑賞した。岡田が「アマプラで観たら凄くなかった」と言っていたため多少の不安もあったが、実際に観たらそんな事はなかった。シリーズの最後を飾るに相応しい見事な作品だと思う。(劇場であれば、もっと感動の波に飲まれていたかも知れない)元々『新世紀エヴァンゲリオン』に何の思い入れも無い僕がこの作品について書くのは最初で最後になると思うので、ネタバレも含みつつ感想を書いてみたい。(飽くまでも感想であり、考察ではない)【ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序、破、Q】3作品の感想はこちら →『最後に届けられるのは「福音(Evangelion)」か、それとも…?』【シン・エヴァンゲリオン劇場版】… 満足度★★★★何の思い入れも無いまま過去3作品を鑑賞したのが7年も前である事に加え、世界観が壮大かつ専門用語がやたら多いため、内容に関しては「よく分からない…」というのが正直なところ(笑)。考察しようにも解説しようにも、その知識が自分の中に何一つ無いのだ。本当にただ「鑑賞した」というに過ぎない。しかし、にも拘わらず、庵野秀明監督が「描きたかったもの」「伝えたかった事」は不思議と感覚的に理解できた。それが、この満足度に繋がったのだと思う。本作は、岡田斗司夫が言うように、庵野監督を始めスタッフやファン等、これまで『新世紀エヴァンゲリオン』と共に生きて来た全ての人々に向けた「卒業式」なのだろう。悪い言い方をすれば、「過去の呪縛からの解放」だ。庵野秀明が生み出した『新世紀エヴァンゲリオン』は、簡単に言ってしまえば「妻の死から立ち直れない父親」と「精神的に自立できない息子」との確執を描いたアニメだ。(本作のクライマックスでも、戦闘シーンではなく両者の対話が描かれている)しかし、そんな作品が多くの人々に衝撃を与え、テレビ放送から25年以上経った今でも大きな話題となる社会現象にまで発展した。それは、皮肉にも監督自身やファンの心を縛り付ける鎖となってしまう。今回、その呪縛から解放されるため、全ての『エヴァンゲリオン』と決別するために庵野監督が選んだラストがあれだったのだろう。これは僕の推察だが、庵野秀明がシリーズを完結させるに当たりあのラストにしたのは、自身が声優として携わった宮崎駿監督の映画【風立ちぬ】が影響しているのではないかと思う。それは、どちらの作品もラストシーンから感じたものが「自己肯定」だったからだ。菜穂子の言う「生きて」と、マリの言う「さあ、行こう」が僕の中で重なって聞こえたのだ。僕は「(どんなに辛くても)現実を受け止める事でしか、人生は前に進めない」と考えている。だからこそ、主人公の碇シンジが最後に「エヴァンゲリオンの存在しない世界」を望むのも、彼の隣にいる女性が綾波レイでもアスカ・ラングレーでもなく、新キャラクターの真希波マリであるのも、もの凄く腑に落ちるのだ。どれだけ『エヴァンゲリオン』が素晴らしくとも、それは飽くまでアニメであり現実ではない。ファンの気持ちがどうあれ、監督は最後にアニメではなく現実を選んだのだ。(或いは、『エヴァンゲリオン』を閉じた世界ではなく、開いた世界として終わらせた)庵野秀明に会う機会など一生無いだろうが、もし彼に言葉を掛けるなら、僕はこう言うだろう。「あなたの選択は、間違っていない」アニメだけでなくCGや実写も交え、本作は映像的にも非常に興味深い作品だった。【ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破】の評価が「★3.5」だったので、今回はシリーズ最高傑作という称賛も込めて「★4つ」にした。ありがとう!!
2021.09.21
岡田斗司夫が「『風立ちぬ』は心中もの」と解説していたように、二郎は零戦を開発した後に死ぬつもりだったのだろうと思う。彼は、自分の造る飛行機で大勢の人が死ぬ事を自覚していたし、菜穂子の死期も早める事になるだろうと感じていた。それでも夢を諦めたくなかった、彼女と離れたくなかった。上司の黒川が言う通り、確かにそれは二郎のエゴだ。しかし、仮に二郎が戦争に反対し、零戦の開発を拒否したとしても、結局は誰かが造った飛行機によって多くの人命が失われるという現実は変えられない。そして、当時の医学では、いずれ菜穂子も失う事になるだろう。何もしなければ、自分はただそれを虚しく眺めている事しかできなくなるのだ。ならば、いっそ地獄に堕ちる覚悟で夢に生きよう、恋に生きようと考えたのではないか。菜穂子を駅へ迎えに行った時点で、二郎は死ぬ覚悟を決めていたのだ。「一緒に暮らそう」は「一緒に死のう」も含意している。補足になるが、結核とは大正から昭和初期にかけて猛威を振るい、「亡国病」と恐れられた伝染病である。結核による死亡率は、1918年に日本で最悪の値となる257(人口10万人当たり)を記録した後は緩やかに低下するものの、戦時にまた増加し1944年に235となる。現在、コロナウィルスによる死亡率は日本の人口10万人当たり13なので、二郎達が生きた時代に結核がどれ程の脅威だったか想像できるだろう。(現代の感覚で言えば、毎年20万~30万人の日本人がコロナウィルスで亡くなる計算になる)そんな疫病を患い、自分も感染する恐れがあるにも拘わらず、二郎は菜穂子と「一緒に暮らそう」と言う。それは「死んでも構わない」という二郎の覚悟の言葉である。当然、菜穂子もその覚悟に気付いていた。だから、黒川家で挙げた結婚式の夜に、彼女は自分から「来て」と二郎を寝床に誘ったのだ。恐らく、サナトリウムを抜け出して来た時点で、菜穂子も死を覚悟していたに違いない。二郎が菜穂子の前で煙草を吸うのも、これから死のうという2人にはもう何も隠すものが無いからだろう。(それでも、ちゃんと「煙草吸いたい」と断りを入れる所に、二郎の優しさがある)しかし、二郎が零戦を完成させると同時に、菜穂子は彼の前から姿を消す。やはり、彼に「生きて」欲しかったのだろうと思う。生きていれば、きっとまた風が吹くから…。本作における「風」を岡田斗司夫は「逆境」と解釈したが、僕は単純に「運命」だと感じた。「運命を告げる風」と言い換えても良い。たとえ、それが幸運であろうと不運であろうと、風が吹いた時、人は自らの運命と真正面から向き合い、全力で立ち向かわなければならない。それが「生きる」という事なのではないか。「風立ちぬ、いざ生きめやも」とは、そういう意味なのではないだろうか…。と、ここでふと、ある疑問が頭に浮かんだ。「二郎が宮崎駿の投影だとしたら、菜穂子は果たして誰なのだろうか…?」僕は、それは「ナウシカ」ではないかと思う。宮崎駿には、こんなエピソードがある。彼は1979年に『ルパン三世 カリオストロの城』で長編アニメ監督デビューするが、それが興行的に大失敗し、それから5年間も彼はアニメ業界で完全に干されるという憂き目に遭っている。そんな不遇の時代に、鈴木敏夫(後のスタジオジブリ社長)の勧めもあって宮崎が書き始めた漫画が『風の谷のナウシカ』だった。それが1984年にアニメ映画化され大ヒットを記録した事で、彼は映画監督として復帰できたばかりでなく、やがて日本アニメ界を代表する存在にまでなる。もし、『風立ちぬ』の二郎が監督自身の投影だとしたら、失意の二郎を立ち直らせた菜穂子は、失意の宮崎を救ったナウシカという事にならないだろうか。(そうなると、「漫画を書け」と言った鈴木敏夫はカストルプという事になるのか…)『風立ちぬ』とは、引退を決意した宮崎駿が、最後にナウシカとの思い出を辿ろうとした映画なのかも知れない。そのナウシカが、ラストシーンで彼に「生きて」と言ったのだとしたら、それは常に自分の作品と心中する覚悟で向き合って来た監督が、初めて自己肯定をした瞬間なのではないかと思う。だから、彼は「自分の映画で初めて泣いた」のだ。如何だったろうか。岡田斗司夫とは色々と違うが、それなりに面白い解釈になったのではないかと思う。しかし、違うとは言え、岡田の解説が無ければここまでの深読みはできなかったろうし、そもそも改めて『風立ちぬ』を観たいという気にすらならなかっただろう事を考えれば、やはり彼には感謝しなければならない。オタキングは伊達じゃないのだ(笑)。
2021.09.02
岡田斗司夫の解説に釣られて、宮崎駿の映画『風立ちぬ』を再鑑賞した。最初はもっと彼の解説に引っ張られるかと思っていたが、実際に鑑賞してみると色々と違う印象を受けたので、いつもの「深読み」という形で個人的な解釈を語ってみたいと思う。6年前に観た時の感想はこちら →【ものぐさ映画評(part21)】以前にも書いたが、『風立ちぬ』は戦争を下敷きに描かれた青春恋愛映画である。もっと正確に言うなら、「主人公の堀越二郎が夢を追い、恋をした時代にたまたま戦争があった」という程度の意味合いしかない。例えば、世界中がコロナ禍に揺れる2021年、日本国民が賛成しようと反対しようと無関心でいようと、結果として東京五輪は開催された。この事実は、歴史的に見れば80年前に起きた太平洋戦争と何ら違いはないのである。(あの当時も、日米開戦に反対した者は何人もいた)東京五輪にどのような態度を示そうと、「開催された」という事実に対しては2021年を生きた全ての日本人が、将来的に等しく責任を負う事になる。しかし、その時に国民一人ひとりが語れるのは「私が生きた時代にコロナ禍があり、東京五輪があり、私はその時々に自分が良かれと思う行動をとった」という体験談、つまり「その時代を自分がどう生きたか」という事だけなのだ。宮崎駿は、この作品を通して過去の戦争の是非を問おうとしているのではない。飽くまでも、理想の飛行機造りに邁進した二郎の半生に、自身の半生を重ね合わせて描いた、宮崎駿の超私的な「夢」と「恋」の物語である。実際、二郎は世事に疎い若者として描かれている。そんな二郎に対して、カプローニは「飛行機は美しい夢であり、戦争の道具でも金儲けの手立てでもない」と言う。つまり、「飛行機を何に使うかは第三者の手前勝手であり、我々はただ純粋に理想の飛行機を追い求めれば良い」と語るのだ。また、カストルプは「全て忘れろ(そして、飛行機を造れ)」と二郎を促す。二郎が零戦を開発しようとしまいと日本は戦争を始めるし、零戦がどれだけ優秀であろうとなかろうと、最終的に日本は戦争に負ける。そんな大局を、二郎ごときが悩んだ所でどうにかできる問題ではない。ならば、友人の本庄が言うように「与えられたチャンスを無駄にすべきではない」のだ。このように、二郎を取り巻く登場人物達は、誰もが当時の情勢を説明しつつも、次の瞬間には「(余計な事は考えず)飛行機造りに集中しろ」と二郎に語り掛けている。これは、『風立ちぬ』を戦争とは切り離して観て欲しいという、宮崎駿の希望が反映された結果だろう。彼らの言葉に導かれるように、二郎は零戦の開発に取り組むのだが、その原動力となるのが菜穂子との恋愛である。本庄は「仕事に専念するために結婚するなんて矛盾だ」と言うが、二郎には矛盾していないのだ。寧ろ、菜穂子がいないと仕事が捗(はかど)らない。それを示すように、試作機が大破してやる気を失っていた二郎は、軽井沢で再会した菜穂子との交流を通して、飛行機への情熱を再び取り戻して行く。その点で、岡田斗司夫の「二郎と菜穂子の2人で零戦を生んだ」という解釈は完璧に正しい。それどころか、二郎の握った掌を通して、菜穂子の生命が零戦に乗り移ったとも言える。結果的に、そうして造り上げた夢の飛行機は、菜穂子だけでなく多くの若者の生命まで奪う事になるのだが、そんな二郎に菜穂子は「生きて」と言うのだ…。
2021.09.01
今回も全くジャンルが違うにも拘わらず、「相互理解」「対話」という同じテーマを持つ作品を期せずして選んでしまった。このコロナ禍で観ると、劇中で人々の取る行動が現実と重なる部分があり興味深かった。そして、今週の『しいたけ占い』にはこんな言葉が…。『天秤座の人は「どうせ言っても理解してもらえないだろう」というバリアを強く張ってしまう傾向があるので、今週は「協力」をテーマに勇気を出して「理解されたい」という気持ちを何%でも良いから持って下さい』こちらも、今回観た2本の映画の内容と重なる占い結果で驚いた。また、何か見えない力に導かれたような気分だ。確かに、僕は「他人に理解されたい」「他人に受け入れられたい」という感情を既に放棄して生きている人間だが、朝夏まなとがそう言うなら少しは心を開いてみようか。(まあ様じゃないなら、心を開かないぞ…笑)【グリーンブック】…満足度★★★★人種差別が色濃く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に、黒人ピアニストとイタリア系白人男性の交流を描いた映画。本作で描かれる差別は、スパイク・リー監督の【ブラック・クランズマン】のような、はっきりとした嫌悪感や敵意ではない。それより、もっと曖昧で漠然とした「何となく」という空気感(=世間の風潮)だ。例えば、冒頭で黒人の作業員2人が使ったコップを、主人公のトニー・ヴァレロンガがごみ箱に捨てるシーンがある。だからと言って、彼には黒人に対する嫌悪感がある訳ではない。ただ、親戚連中の差別的な発言に、何となく同調しただけである。(だから、飲み物を出した妻を責める事もしなければ、彼女の同意であっさり運転手の仕事を引き受けもする)しかも彼らは、黒人達に気付かれないように、わざわざイタリア語で陰口を叩いている。こうした悪意の無い同調意識や、他人を見下したり馬鹿にする事で優越感や安心感を得ようとする心理は、日本人でも身に覚えがあるはずだ。また、黒人のドン・シャーリーが同じトイレやレストランを使う事を「前例が無い」「慣例だから」といった表現で断る白人達の態度も、ドンに対する侮蔑というより「事なかれ主義」に近い。誰も敵意がある訳ではないが、自分が当事者になるのは嫌なので歩み寄ろうとしない。こうした消極的な姿勢も、差別や偏見が無くならない要因の一つだろう。一方で、ドンもまた他人に歩み寄る勇気が持てず、深い孤独感を抱える人間である。確かに、彼がカーネギーホールの玉座で掲げる理想は気高く尊敬に値するが、それは厳しい現実を生きる黒人達の気持ちに寄り添ったものではないため、白人はおろか黒人の心にも届かない。(家族と疎遠になったのも、恐らくそれが原因だろう)挙句に、トニーから「俺はあんたより黒人だ」と言われてしまう始末だ。そんな寄る辺ないドンに向かってトニーが言う「寂しい時は、自分から先に手を打たなきゃ」という台詞は、「互いに理解し合うためには、先ず自分が変わらなければいけない」という観客へのメッセージに聞こえた。ピーター・ファレリー監督は、この作品を単なる人種差別問題ではなく、もっと身近でパーソナルな、人間一人ひとりの相互理解の問題として描こうとしたのではないかと思う。たとえ世界や歴史を変える事はできなくても、(ドンとトニーのように)自分が変わる事で変えられる身の回りの景色があるはずだ、と。その意味で、本作における真の立役者は、最初から最後まで黒人(=他者)に対する態度が変わらなかったトニーの妻・ドロレスと言えるだろう。ラストシーンで、彼女の一言に対して見せるドンの表情が全てを物語っている。素敵な女性だ。小道具の使い方や場面による対比のさせ方、ユーモアのセンスなど非常に完成度の高い作品。余談ながら、劇中で話題になる黒人歌手のリトル・リチャードも、黒人とゲイに対する差別が激しい時代に自ら同性愛者である事を公表し、派手な化粧をして歌ったマイノリティの音楽家だった。【メッセージ】…満足度★★★突如現れた宇宙人の目的を探るため、言語学者のルイーズは軍主導の下で調査に参加する…。SF映画ながら、対話と協調を主とした珍しくアナログな作品。科学に疎いせいか幾つか疑問な点はあるものの、監督のメッセージはしっかりと伝わって来た。結局、相手がエイリアンであろうとウィルスであろうと、大切なのは「それに対して人間がどう行動するか?」だという事を教えてくれる。
2021.07.30
これまで「喋り方が好きじゃない」という超個人的な理由で敬遠して来た(失礼…)、アニメ評論家のオタキングこと岡田斗司夫。YouTubeで彼のアニメ解説を改めて聞いて、その造詣の深さに舌を巻いた。単にアニメに詳しいというだけでなく、その知識は多岐にわたっており、もはやオタクと言うより学者や博士に近い。全ての動画をチェックした訳ではないが、僕が観た限り彼の考察・解説はほぼ信頼して良い。少なくとも、耳を傾けるに値する内容である事は断言できる。(後々になって解釈や評価を変えている場合があるので、直ぐ鵜呑みにするのではなく、ある程度の客観性を持って話を聞く必要がある)特に、愛すべき偏屈爺・宮崎駿の作品と、彼の半生、その人間性を理解するには、これほど最適な教材は無い。「1000個のアイデアを出し、その内の100個を絵コンテにし、実際に映画で使うのは3つだけ」という喩えは、宮崎駿というクリエイターの本質(=狂気)を見事に言い当てている。そして、岡田斗司夫の解説を聞けば、僕が以前に書いた「作り手の目線に立って映画を観る」「作品にクリエイターの視点を加える」と、作品の印象がまるで違って来る事が実感できるはずだ。 まあ、彼は業界関係者なので、一般人の僕達がそこまで深く洞察する事はさすがに無理だが、彼の動画を通してその手法を少しでも学べるのではないか。公開当時から問題視された映画【風立ちぬ】の喫煙シーンをここまで深く読み解き、きちんと解説できる才能を見ても、岡田斗司夫が信頼できる評論家である事を示している。(僕自身はこのシーンを「綺麗事ではない美しさがある」と感じていたので、その理由を納得できる解説を聞けて嬉しかった)クリエイター達の葛藤。「逆襲のシャア」とは、富野由悠季監督の映画【機動戦士ガンダム 逆襲のシャア】(1988年)。
2021.07.10
誰も興味は無いかも知れないが、僕が映画を観る時に意識している事を、今回は書いてみたい。これから映画をたくさん観ようと思っている若い人達に、何かの参考になれば嬉しい。(ならなかったら、申し訳ない…笑)作品を読み解く上で僕が最も意識しているのは、「監督の視点に立って鑑賞する」という事だ。映画を撮る以上、そこには何かしら「表現したいもの」「伝えたい事」があるはずだ。そのために監督はその場面を撮り、役者にその台詞を言わせ、その表情をさせる。つまり、全ての場面には必ず意味があるという事だ。だから、観客にとっては意味不明でも、監督にとっては辻褄が合っている。合っているからこそ、その描写があり、台詞があり、そう編集されているのだ、と考える。では、何故そんな表現をしているのか…。それによって、何を表現しようとしているのか…。そうやって作り手の視点に立って映画を鑑賞すると、それまで見えなかった作品の主題や監督の意図が見えて来る。それを見極めた上で作品を評価する事が、僕にとっての「映画を観る」という行為である。と同時に、この鑑賞法は自分の先入観や固定観念を捨てる訓練にもなる。人間は本能的に自分を正当化しようとする生き物だ。だから、どうしても自分の価値観に従って物事を推察、判断してしまう。そうする事で、安易に納得しようとしてしまう。しかし、真実は常に人間の思惑とは全く関係の無いところにある。映画を観ていて内容を理解・納得できない時は、自分の価値観や常識で物事を見ている証拠だ。そこを脱却しなければ、真実にも本質にも辿り着く事はできない。大切なのは「自分が正しいかどうか?」ではなく、「真実は何か?」である。真実の前では、自分の価値観や常識など、却って邪魔になる事を覚えておいた方が良い。と、最後は何だかシャーロック・ホームズの台詞みたいになってしまったが(笑)、ここからは最近観た映画の感想を。この前置きを書いた後に観た【ボーダー 二つの世界】は、正に先入観や固定観念に捉われていると理解も共感もできない作品だった。あなたの感性を試してみるのに、丁度良いのでは…?【運び屋】…満足度★★★内容的には、非常に安っぽい懐メロドラマでしかない。しかし、ツボを押さえた脚本と、クリント・イーストウッドだからこそ出せる芝居の説得力が、この作品を観るに値するクオリティまで引き上げている。後は、観る側の好みの問題だろう。【ヘイル、シーザー!】…満足度★★★テレビの台頭や共産主義、役者のゴシップなど、1950年代の映画界をコミカルに描きつつ、「それでも映画は素晴らしい!」と高らかに宣言する、コーエン兄弟監督による映画讃歌。特筆すべき点は無いものの、上手く練られた脚本と俳優陣の個性が楽しめる良作だ。 【ボーダー 二つの世界】…満足度★★★★設定から脚本に至るまで、全てが想像の上を行く内容に面食らってしまった。主人公を敢えてグロテスクに描く事で、観る者の感性により深く直接的に訴えかけて来る秀作。自分の内に湧き上がって来る誤魔化しようのない感情に、何度もたじろがされた。人間の常識や価値観が、真実の前では何の頼りにもならない事を痛感させられた。これまでの自分が、如何に無意識の内に偏ったボーダー(境界線)を引きながら世界を見ていたか、という証拠だろう。(こちらの違和感が、全て相手にとっては普通であるという状況の描き方が、実に巧みだ)その上で、改めて「生命とは?」「性とは?」「自分らしさとは?」「幸福とは?」といった問いを観る側に考えさせる本作は、究極のジェンダー映画と言えるかも知れない。個人的には、ティーナが関わる事件の顛末がもう少し丁寧に描かれていれば、より感情移入できたように思う。
2021.06.22
以前から観たいと思っていた映画【ノクターナル・アニマルズ】を、ようやく鑑賞。感想を書こうと思ったのだが、それにはどうしても詳細や結末に触れる必要があり、更に作品の解釈も観る人によって様々であろう事を考慮して、今回は最初から解説を書く事にした。ところが…、7~8割ほど書き進んだ所で、不意にタイトルとラストシーンに隠された監督の意図に気付き、ほとんどを削除して新たに書き直す羽目になった。その結果、物語の解説ではなくなったものの、逆により深く作品の本質に迫る内容となったのではないかと思う。因みに、物語に対する個人的な解釈については、書いたら監督の思う壺になりそうで癪なので、永遠にこの胸の内にしまっておく(笑)。【ノクターナル・アニマルズ】…満足度★★★★アートギャラリーのオーナーを務め、夫と共に経済的には恵まれながらも、心は満たされない生活を送るスーザン。ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワードから、彼が書いた小説『ノクターナル・アニマルズ(夜の獣達)』が届く。それは、まだ残る彼女への愛なのか、それとも復讐なのか…。まるでアート作品を鑑賞するように、何処をどう切り取るか、何処にどう焦点を当てるか、観る側の感性や価値観によって様々に解釈できる、複雑さと耽美さとを兼ね備えたミステリー作品。しかし、何より評価すべきは、『ノクターナル・アニマルズ』という題名を通して「映画を観ている人達」を「小説を読むスーザン」と同じ目線に誘い込む、その巧みな手法だろう。本作は、どの場面も敢えて明言を避けるように撮られ、全てが観る側の解釈に委ねられている。というか、そうせざるを得ないように仕組まれている。恐らく、それがトム・フォード監督の狙いなのだろう。物語の主人公が飽くまでもスーザンである事に鑑みても、この作品の主題は「エドワードのした事が愛か復讐か?」ではなく、「彼の小説からスーザンが何を感じたか?」そして「彼の行為をスーザンがどう受け止めたか?」にある。(その証拠に、現在のエドワードは一度も画面に登場しない)しかし、小説を読むスーザンの心情が劇中で語られる事はほとんど無いため、観客は必ず「こうに違いない」「こうあって欲しい」と、自分の性格や価値観、願望などをスーザンに投影しながら作品を観る(読む)事になる。だから、観客が「これは復讐だ」と感じればスーザンは彼の行為を復讐だと受け止めるし、観客が「これは愛だ」と解釈すれば彼女はそこに愛を見出す。つまり、『ノクターナル・アニマルズ』を読むスーザンとは『ノクターナル・アニマルズ』を観ている観客一人ひとりの映し鏡であり、観客は知らぬ間に彼女と同じ目線に置かれているのだ。と同時に、この目線は、芸術における「クリエイター(表現者)」と「鑑賞者(批評家)」との関係性をも示唆している。観客と同じく、スーザンが作品を批評する側の職業にいるのはそのためだ。そうして作品を鑑賞し、批評する時に心の奥底で蠢く感情こそ、その人の「ノクターナル・アニマルズ(=本性・本質)」に他ならない。作品について語る事は、自分の内面、人間性を多かれ少なかれ人前に晒す行為である。それでも語らずにおれないのが、人間の心理というものだろう。この映画に答えを求めようとする観客の心理は、エドワードとの再会に期待するスーザンの心理と重なるように描かれている。それを前提に改めて映画を読み解くと、ラストシーンの意味合いはまるで違ったものになる。レストランで待つスーザンが観客(=あなた)自身だとしたら、小説を書いたエドワードは果たして誰に当たるのか。それに気付ければ、その人物が最後に残したメッセージも自ずと見えて来るだろう。「あなたが深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いているのだ」(ニーチェ)
2021.05.08
月組の話題は花組公演の観劇時に纏めて書くとして、今回は最近観た映画の感想。特に関連性も無く、以前から気になっていた作品を2本。【バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)】…満足度★★★★過去の栄光(の幻影)に取り憑かれていた俳優が、葛藤の末に仮面を外して自由となり、心の平穏と家族の絆を取り戻す物語。「認められる(評価される)事」と「愛される事」とは全く別物である事を、特殊映像と社会風刺を交えながら描いた意欲作だ。何より主演のマイケル・キートンを始め、エドワード・ノートンやエマ・ストーン等の演技が素晴らしい。映画である以上は全てが芝居なのたが、そこに劇中劇や幻覚が入り込む事で「虚構」と「現実」の境い目が曖昧となり、作品に一層の奥行きを加えている。と書くと絶賛しているようだが、その一方で「単調なストーリーを小手先の演出と役者陣の演技力で誤魔化しているだけ」と言えなくもないのが、この作品のもどかしい所だ。個人的には好意的に受け止められたので、E・ストーンの可愛さに☆1つおまけしてこの点数に。【ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド (彼らは生きていた)】…満足度★★★★☆第一次世界大戦(1914年~1918年)に参加した退役軍人達のインタビュー600時間と、100時間に及ぶフィルム映像を精査し着色化して作られた英国のドキュメンタリー映画。タイトルはローレンス・ビニョンの詩『戦没者のために』の一節「残された我々が年をとっても、彼らは年をとらない("They shall grow not old, as we that are left grow old")からの引用。序盤は白黒の映像にインタビューが重なる変哲のないシーンが続くが、それがカラー映像になった途端に、とても100年以上前とは思えない生々しさと臨場感が伝わって来るのが凄い。祖国のためにと志願した若者達が地獄のような経験をする様子を、まるで自分がカメラのファインダー越しに覗いているかの如く錯覚する。そこに映っているのは役者でもなければ、エキストラでもない、普通の人達である。印象的なのは、彼らが戦争体験を歴史的意義やイデオロギーではなく、飽くまでも個人の実感として語っている事だ。僕は、母方の祖父が太平洋戦争に従軍した時の体験を綴った手記を読ませてもらった事があるが、そこで感じられたのは戦場の過酷さよりも、寧ろその時代を一兵卒として懸命に生きた祖父の青春の記憶だった。(彼は17歳で海軍に志願し、出兵している)その手記を読んで以来、僕は「戦争それ自体」と「そこで戦った人達の人生」とを同列に扱ってはいけないと考えるようになった。父方の祖父が第一次世界大戦経験者だという製作監督のピーター・ジャクソンも、恐らく僕と同じ姿勢で退役軍人達の言葉と向き合ったのだろう。実際、彼はインタビューで「これは第一次世界大戦の物語でも歴史的な物語でもなく、完全に正確でさえないかも知れないが、戦った男達の記憶であり、彼らは兵士である事がどのようなものであったかについての印象を与えているだけだ」或いは「(兵士達は)カラーで戦争を目撃しており、確実に白黒ではなかった。私は時間の霧を越えて彼らを現代の世界に引き込み(中略)、人間性をもう一度取り戻したかった」と語っており、その想いは見事に作品として結実している。ありのままを映しているが故に、目を背けたくなる凄惨な場面も確かに多いが、現実の戦争を知る上では勇気をもって観るべき価値のある映画だ。
2021.04.07
軽い気持ちで始めた「ものぐさ映画評」も、いつの間にか50回目を迎えた。このタイトル以外でも感想を書いているせいか、「本当にそんなに観たのかな…?」という妙な疑問も感じない訳ではないが(笑)、第1回が2012年9月である事を考えれば、それ位かなとも思う。まあ、最近は量より質を重視しているので、今後もペースは気にせず続けて行きたい。【仁義なき戦い】のシリーズ全5作を一気に観た昨年とは異なり、今年の正月はスマホの設定に追われていた関係もあって、映画鑑賞は1本だけに留まった。その後も何故か映画とは縁遠い生活が続き、今月に入ってようやく今年2本目を鑑賞。【T2 トレインスポッティング】… 満足度★★★★★最高に最低で、最高に最悪。でも、最高に愛おしい奴等が帰って来た。前作の衝撃をリアルタイムで体感していない人達に本作がどのように映るかは不明だが、彼らと一緒に20年を生きて来た僕にとっては、正に同窓会のような作品。まるで本当の旧友達と再会したかのような、興奮とノスタルジーがある。(まあ、それは決して心暖まるエピソードではないのだが…笑)スパッドの思わぬ文才から、前作の始まりへと繋がる描き方も秀逸。これぞトレインスポッティング、これぞダニー・ボイルと言える傑作が、また一つ生まれた。【私はあなたのニグロではない】…満足度★★★☆黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンの未完成原稿を基に、彼の目に映った米国の黒人差別問題を描いたドキュメンタリー映画。入れ替わり流れる過去と現在の映像は、50年以上経った今でも問題が何一つ解決していない事を思い知らされる。米国を外側から変革しようとした3人の公民権運動家(マルコムX、マーティン・ルーサー・キング牧師、メドガー・エバース)と比べ、白人に自省と精神的な成長を求め、米国を内面から変革しようとしたボールドウィンは、より深く差別の本質に迫っていると言えるだろう。しかし、それだけに、(原稿が未完成であった事を含め)彼の言葉からマルコムXやキング牧師のような強烈なメッセージが感じ取れず、結果的に映画としても些か散漫な印象を与えた事は残念。
2021.03.10
前回、「コロナ禍に観る映画は、どれも外れが無い」と書いた途端、いきなり外れを引いた(笑)。しかも、割と期待して観た作品だけに落胆も大きく、評価は低めに。(世間での評判はかなり高いようだが…)そして、改めて実感したのは、僕はやはり飽くまでも「脚本ありき」の人間なのだという事。たとえ「ビートルズ × ダニー・ボイル」でも、退屈なものは退屈なのだ、と。ただ、終盤のドタバタ感やうやむや感は、「これが宝塚の舞台なら、意外と嵌まるかもな…」と感じたのも事実で、今後は宝塚の脚本はその辺りも考慮して評価すべきかも知れない、と思った。作品に求められるものが、両者では明らかに違うのだ。それに対して、先日観たドキュメンタリー映画【サイドマン】は素晴らしかった。単に3人のミュージシャンの功績を称えるだけでなく、ブルースの歴史をきちんと紹介しつつ、その想いを未来に繋げようとする意志が感じられた。やはり、物語には「運命」や「覚悟」が必要だ。もう1本は、気分をがらりと変えて、男臭くスタイリッシュな作品をと思い選んだ。期待したほどスタイリッシュではなかったが、こういう雰囲気の作品は嫌いではない。【イエスタデイ】…満足度★★この世界中で、ビートルズを知る人間が自分しかいなくなってしまったら…。そんな、ファンにとっては空恐ろしい「もしも…」を描いた、ダニー・ボイル監督の最新作。しかし、彼の作品にしては随分と凡庸な印象を受ける。脚本は幼稚だし、お得意のどんでん返しも今回は取って付けたような感じで面白味が無い。何より、ビートルズに対する敬愛と、彼らの歌を世界に届けようという気概が、主人公からまるで感じられなかった事が、ファンとしては一番の不満点だ。そもそも、主人公が学園祭で歌ったのがオアシスの【Wonderwall】であり、ヒロインにとっても思い出の曲であるならば、世代的に見てもビートルズではなく寧ろオアシスを演奏した方が自然だったのではないか、という気がする。(オアシスのファンでもある僕としては、それでも全然構わなかったのだが…笑)どさくさに紛れて最後は何となくハッピーエンドみたいになっているが、結局は安っぽい恋愛映画にビートルズ(とエド・シーラン)が利用されただけの凡作。(ダニー・ボイルの実力を考えれば、「駄作」と呼んでも構わないレベルだ)【サイドマン : スターを輝かせた男たち】…満足度★★★★ブルース界の2大巨星であるマディ・ウォーターズ、そしてハウリン・ウルフの全盛期を支えた3人のミュージシャンの足跡を辿るドキュメンタリー映画。彼らの生涯を通して垣間見えるのは、やはり黒人差別の歴史だろう。ブルースの起源が米国南部のプランテーションで働く貧しい黒人達の労働歌である事、それが差別とは無縁だった英国で受け入れられ、その後ローリング・ストーンズらの手で米国へ逆輸入された事など、興味深いエピソードが幾つも出て来る。そして、卓越したテクニックを持ちながらも、常に偉大なシンガーの陰に隠れ、長らく正当な評価を受けて来なかったサイドマンの宿命と、それでも変わらぬ彼らのブルースへの愛。本物の物語が、ここにはある。【ピート・スモールズは死んだ!】…満足度★★★内容はよく分からない(笑)。「借金のカタに愛犬を誘拐された主人公が、金を得るために旧友の仕事を手伝う」というものながら、次から次へと現れるアクの強い男達に気を取られている内に、話から置いて行かれる。ラストに明かされる真相も、何だか狐につままれたような感じで、爽快感はほとんど無い。しかし、内容的には当落線上でも、この手の作風はかなり好きだし、主人公から脇役まで配役がとにかく嵌まっているので、それだけで最後まで観れてしまう。更に、そこに大好きなスティーヴ・ブシェミが加わったとなれば、もう何も言う事は無い(笑)。因みに、僕はまだ観ていないが、こちらのノルウェー映画のタイトルも【イエスタデイ】。同じビートルズを題材にしつつ、タイトルまで同じという珍しい作品。(こちらの方が先に公開されているので、D・ボイルが我を通したのかも知れない…笑)
2020.09.17
花組【はいからさんが通る】に続き、雪組【炎のボレロ】も公演延期が発表され、観劇再開の機会がまた遠のいてしまった。(花組は18日に、そして雪組は翌週25日に観劇する予定だった)タカラジェンヌ達の安全にも関わる事なので、こればかりは劇団の裁量に任せるしかない。そんな中で、宙組の2公演が無事に千秋楽を迎えられた事は、喜ばしい限りだ。【FLYING SAPA -フライング サパ-】も【壮麗帝】も定休日の火曜日にライブ配信があったものの、僕のパソコンは通信速度にやや難があるため、今回は見送らせてもらった。(ライブ配信だと、途中で止まっても巻き戻せない…)因みに、僕はコロナ感染に関しては「気を付ける事はできても、防ぐ事はできない」という態度を貫いている。人と人とが接触して生活している以上、感染の可能性は必ず存在するし、先日の吉村大阪府知事の「うがい薬」発言からも分かるように、世界は未だに何の正解も解決策も見出せずにいる。そんな状況下で、誰が感染した、感染させたと騒いだ所で、果たしてどんな意味があるのか。素人にどんな答えが出せると言うのか。宝塚歌劇団においても、何百人もいる関係者の中に感染者が出たからと言って、特に驚くべき事ではない。それは、どこにでも誰にでも起こりうる事だからだ。寧ろ、自分の体調不良をきちんと報告したジェンヌ達、それを受けて自主的に検査を行った劇団を褒めるべきだろう。僕がコロナ禍において心掛けている事はただ一つ。「誰も疑わない、誰も責めない」これだけだ。さて、宝塚を観劇できない代わりという訳ではないだろうが、このコロナ禍の最中に観る映画は、どれも見応えのある良作ばかりだ。勿論、ある程度は選定しながら観てはいるものの、これだけ外れが無いのは珍しい。今回の【幸せなひとりぼっち】も、観る者の心を揺さぶる見事な作品だった。僕などは、主人公の老人に感情移入し過ぎて、最後は泣いてしまった程だ(笑)。前回の【さよなら、人類】と同じスウェーデン映画だが、こちらは誰にでも安心して薦められる感動作だ。(と言うか、この映画の素晴らしさを理解できない人間とは、口も利きたくない…笑)【幸せなひとりぼっち】…満足度★★★★☆いつも不機嫌で、隣人達とも全く打ち解けようとしない偏屈者の独居老人オーヴェ。愛する妻ソーニャに先立たれ、40年以上勤めた会社までクビになった彼は、とうとう寂しさに耐え切れなくなり、自殺を決意する…。最初は、何一つ共感できる部分の無い主人公だが、その半生が少しずつ明らかになる中で、彼の不機嫌の正体が「父親譲りの実直な性格」に「最愛の妻を亡くした悲しみ」が絡み付き、心がささくれ立ったものなのだという事が分かって来る。そして何より、今も変わらぬ妻への溢れる愛と、忘れたくない大切な思い出の数々。その描き方が、とにかく上手い。オーヴェは確かに偏屈ではあるが、決して他人の気持ちが分からない人間ではないし、その言葉や態度にも嘘が無いので、いつしか自然と感情移入し、気付けば最後は泣いていた。(映画を観て涙が止まらなかったのは、何年振りだろう)しかも、単に泣けるだけでなく、笑えるシーンや台詞も随所にあり、死や不幸を描いてはいても決して辛気臭くなる事はない。寧ろ、鑑賞後は爽やかで前向きな気持ちになれる。僕は常々「誰の人生にも、語るべき知られざる物語がある」と思いながら生きている人間だが、本作は正にそれを絵に描いたような内容だった。また、介護福祉や移民問題、バリアフリーやLGBTなど、現代社会が向き合う課題が実にさり気なく描き込まれている事も、特筆すべき点だろう。「名作」と呼ぶほど大袈裟ではないが、紛れもなく「傑作」と呼べる感動作。
2020.08.19
今回は、期せずして「ブラック・ユーモアに溢れるヨーロッパ映画」を2本続けて観た。内容が内容だけに好みは分かれると思うが、【さよなら、人類】はぜひ鑑賞してみて欲しい。世界広しと言えど、ここまでのものは滅多にお目に掛かれない、究極の珍味だ(笑)。【さよなら、人類】…満足度★★★★面白グッズを売り歩く冴えないセールスマンの2人が、行く先々で出会う奇妙な人達…。と書くのは簡単だが、内容があまりにシュール過ぎて、理解するのも解説するのも難しい。固定カメラ、1シーン1カットの撮影で計39シーンを並べた本作は、「映画は動く絵画」の思想を実践したものらしい。それだけに、頭で考えるより、感性に直接訴え掛けて来る作品となっている。合わない人にはこの上なく退屈な100分となるが、好きな人にとっては、何度も観たくなる激しい中毒性がある。自分がどちら側の人間か、興味がある人はどうぞお試しあれ。(勿論、面白くなくても責任は負わない…笑)それにしても、この内容でヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得してしまうのだから、ヨーロッパ人の懐の深さには底知れぬものを感じる。【スターリンの葬送狂騒曲】…満足度★★☆スターリン時代のソ連が舞台だが、イギリスとフランスによる合作映画なので、台詞は全て英語。更に、出て来る人間が、揃いも揃ってクズ野郎ばかり(笑)。「よくぞここまで…」という位、かの国の指導層を笑い者にしたブラック・コメディ映画。どの程度まで史実に基づいているかは知らないが、独裁者スターリンの死によって巻き起こる醜い権力闘争は、決して他人事とは思えない怖さを孕んでいる。そして、あれだけ残忍な粛清を行なったにも拘らず、スターリンに対する人民の支持がやけに高い事も不気味だ。近年行われた世論調査でも、「今日スターリンが生きていたら彼に投票する」と答えた人が35%を越えたというし、そうした傾向に対する西側諸国の不安がこの映画を生んだのかも知れない。作品の出来そのものは悪くないものの、権力闘争の傍らで無残に殺されて行く人々の姿が哀れ過ぎて後味が悪いので、この評価。
2020.07.15
火曜日は、Amazonの『プライム・ビデオ』で何となく気になって観た映画【とうもろこしの島】があまりに素晴らしく、その姉妹的な作品とも言える【みかんの丘】を、久し振りに1日に2本続けて鑑賞した。どちらも、ジョージア(旧名グルジア)とアブハジア自治共和国の間に起きた紛争を描いた作品だが、前者がどこまでも「沈黙」であるのに対し、後者は「対話」と全く逆のアプローチが取られている。それでも、ラストシーンからは共に「祈り」のようなものが伝わって来たのが印象的だった。僕は何も知らずに【とうもろこしの島】から鑑賞したが、内容的に分かり易い【みかんの丘】から先に観る事をお勧めする。(【とうもろこしの島】は、予備知識も無く観た上に、老人が一言も喋らないため、冒頭の15分位まで彼が何をしているのか全く分からなかった…笑)【みかんの丘】…満足度★★★☆ソビエト連邦から独立して間もないジョージア内で、さらにそのジョージアから独立しようとした「アブハジア地域の自治独立紛争」を題材にした作品。紛争の勃発と共に、多くの村人がエストニアへ帰国する中、みかんを収穫する老人2人だけは村に残り、作業を続けていた。そんなある日、彼らは戦闘で負傷した敵同士の兵士2人を助け、自宅で看病する事になる…。小さな村が舞台ではあるが、そこに集う登場人物達は人種も宗教もバラバラだ。(この辺りの関係性は非常に複雑で、日本人には分かり難い部分もある)物語も、家主が大きな権限を持つというコーカサス地方の古いしきたりの上に成立している。その中で、最初は互いを罵倒し合っていた兵士2人が、少しずつ交流を深めて行く。確かに、主義主張や利害が対立し合う者同士が理解し合い、尊重し合うのは容易な事ではない。しかし、そうした立場を離れ、1人の人間として向き合った時、人は誰も皆同じではないのか。この作品は、互いを知り受け入れる事の大切さ(と難しさ)を、「対話」を通して教えてくれる。内容的には、やや都合の良い部分も見受けられるが、戦争の愚かさと虚しさを描くと共に、人が人として生きる事の意味を考えさせられる力作だ。【とうもろこしの島】…満足度★★★★☆ジョージアとアブハジアの間を流れるエングリ川。春の雪解けと共にコーカサス山脈から肥沃な土壌を運んで来るこの川の中州に、今年も1人の老人が孫娘を連れ、とうもろこしの苗を育てるために訪れた。彼らは特に何を語る訳でもなく、黙々と作業を進めて行く。そんな2人の傍らを、時折り、何の前触れも無く通り過ぎる戦争の影…。台詞はほとんど無く、説明も解説も無い。戦争を題材にはしているものの、表立ってその是非を問いかける事もない。物語の主眼は、飽くまでも「中州でのとうもろこし栽培」にある。監督は、そうやって老人と少女を文明社会から切り離し、より原始的な環境に置く事で、大自然の営みの中では人間の存在がいかに小さく、そして戦争がいかに不毛な行為に映るかを、静かに描いてみせているように感じた。やがて、秋の訪れと共に、彼らがそこに生きていた痕跡を、まるで何事も無かったかのように消し去って行くエングリ川の流れ。その光景は、ただただ無常であり、どこまでも無情である。そして季節は巡り、春になれば、川はまた新たな中州を作るのだ。余談だが、冒頭で老人が土から掘り出し、その後いつも胸ポケットに入れているものの意味は、翌年に中州を最初に訪れる男性の行為から察する事ができる。助けられた敵兵の青年が、言葉が通じない中で、自発的に老人の作業の手伝いをする姿を見ても、「これが戦争でなかったら…」と思わずにはいられない。そうした描写の一つひとつから様々な事が想像され、深い余韻を残す作品だ。好みも評価も別れる内容だとは思うが、個人的には自身の死生観とも重なり、生涯を通して忘れ得ぬ1本となった。【みかんの丘】と【とうもろこしの島】の予告編
2020.07.04
ラジオで聞くまですっかり忘れていたが、今日6月18日はポール・マッカートニーの78歳の誕生日だった。一昨日、無性にビートルズの映画が観たくなったのは、彼に呼ばれたのだろうか(笑)。先週観た【市民ケーン】もそうだが、最近は満足度の高い作品が多くて嬉しい。【市民ケーン】…満足度★★★★★オーソン・ウェルズの監督デビュー作にして傑作。「バラのつぼみ」という言葉を残して亡くなった新聞王ケーンの生涯を、関係者の証言を基に回想形式で描く。ただそれだけの内容ながら、脚本から構成、演出に至るまで、ほぼ完璧に近い。何より、1941年の公開から80年を経ても尚、画面から伝わって来る熱量が全く失われていない事に驚嘆する。それは、取りも直さず、若干25歳にして監督・脚本・主演を務めたウェルズの才覚に拠る所が大きいだろう。古典でありながら決して古臭くならず、野心的かつ革新的で、何故この作品が名作と謳われるのかが手に取るように分かるクオリティの高さを誇っている。【ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK】…満足度★★★★☆1963年に始まった15ヶ国90都市166公演に及ぶツアーから、最後のコンサートとなる′66年8月29日のキャンドルスティック・パーク公演まで、ビートルズの4人がアイドルの絶頂期からアーティストへと変容して行く姿を、貴重な映像や写真と共に描いたドキュメンタリー映画。どれだけ画質が悪くても、そこに動き歌うビートルズがいるだけで、ファンとしては大満足なのだが、この作品の意義は単に音楽的な熱狂を伝えるだけでなく、当時の世相の中でバンドを捉えた所にある。関係者による証言は、実に興味深い。特に印象的だったのは、米国の人種差別に対して、メンバー4人がはっきりと「NO」を口にしたというエピソードだ。この事が、後々ジョンの「キリスト発言」が(英国では全く問題視されなかったのに対して)米国内で大問題になる発端になったと考えると、現在まで続く米国の人種差別が如何に根深いものであるかを窺い知る事ができるのではないか。(最近もNHKの制作した動画が物議を醸したが、米国の人種差別や銃規制は、日本人が単純な善悪で割り切って語れるような問題ではない)確かに、ビートルズは世界中を熱狂の渦に巻き込んだ。しかし、誰も経験した事がないスピードとスケールで肥大化して行くそのムーブメントは、まだ20代前半だった4人の若者に背負い切れるものではなかった。やがて、メンバー自身がその渦の中で身動きが取れなくり、窒息しそうになって行く様子を、映画は分かりやすく描いている。それにしても、これだけ多忙な中で、次々と名曲を生み出して行った彼らの才能には舌を巻く。ビートルズ自体は決してハッピーエンドではなかったが、彼らの生み出した曲は解散から50年を経た今でも人々を魅了し、愛され続けている。そんな不世出な4人の才能と魅力を、ビートルズを知らない人達がこの映画から少しでも感じ取ってくれたら、ファンとしては嬉しい限りだ。満足度に関しては満点でも良いのだが、彼らの素晴らしさは1時間48分ではとても伝え切れないという意味で、敢えて☆1つマイナスに…(笑)。おまけ『音楽家が語るビートルズの凄さ』
2020.06.18
【ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ】の解説を書き上げてから暫く経ったある日、ふと気付いた。「もしかすると、デイミアン・チャゼル監督は【ラ・ラ・ランド】で、【ワンス ー】と同じ手法を使ったのではないか…?」【ワンス ー】では、ヌードルスが単に裏切られたとする「表ストーリー」と、ヌードルスも実は裏切っていたと見る「裏ストーリー」とでは、物語の印象が大きく変わった。これと同様に、【ラ・ラ・ランド】でも、ミアがセブを裏切って他の男性と結婚したと見る場合と、セブがミアを突き放す形で別れたと見る場合とでは、ラストの印象が随分と違う。そして、どちらも敢えて真相を隠すような演出がなされている。つまり、もしかするとチャゼル監督は【ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ】のトリックに気付いて、それを自身の映画に応用したのではないかという事だ。そう考えると、彼が「2人は絶対に結ばれない」というラストに拘った理由も、敢えて真相を分かり難くして色々な解釈が生まれるようにした事も、すんなりと納得できる。【ラ・ラ・ランド】が数々のオマージュで彩られた作品である事に鑑みても、そこにセルジオ・レオーネ監督が含まれていても不思議はないように思うのだが、どうだろうか。と、ここでもう1人、【ワンス ー】のトリックを見抜いたのではないかと思われる映画監督を紹介しておこう。それは【トレインスポッティング】や【スラムドッグ $ ミリオネア】、最近だと【イエスタデイ】で有名なダニー・ボイル監督だ。彼が手掛けた初の長編作品である【シャロウ・グレイブ】は、観てもらえば明らかだが、完全に【ワンス ー】を下敷きに描いてある。主人公がアレックスで、親友がデヴィッドというのも、如何にもといった感じではないか。そのデヴィッドが、冒頭シーンで語る台詞も意味深だ。「信頼と友情 この二つは生きる上で欠かせない もし友達が信頼できなくなったらどうする? これは誰にでも起こりうる物語だ」そして、あのラストシーン。最後に笑うのは誰か…。ルームメイトの女性ジュリエットも絡み、3人の関係が徐々に壊れていく様が不気味で怖い。【ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ】との類似点はさておき、観て損は無いサイコ・サスペンスだ。【シャロウ・グレイブ】…満足度★★★☆せっかくなので、最近観た映画の感想も。【パターソン】で主演していたアダム・ドライバー繋がりで選んだのだが、別の意味でタイムリーな作品になってしまった。【ブラック・クランズマン】…満足度★★★黒人の刑事が、白人至上主義者の団体『KKK(クー・クルックス・クラン)』に潜入捜査する…。そんな冗談のような実話を元に、スパイク・リー監督が米国の暗部を描いた話題作。人種差別を扱ってはいるものの、エンターテインメントの要素が強く、単純に娯楽映画としても充分に楽しめる。ただ、物語の序盤で、主人公が何を意図してKKK支部に電話したのかが釈然とせず、その後も成り行きで捜査が進み事件が起きるので、鑑賞後に心に残るものは意外と少ない。また、ホワイト・パワーとブラック・パワーを同等に扱った点は評価できるものの、全体的には挑発的だったり一方的な部分も多く、この作品が問題提起の仕方として果たして「正解」と言えるかどうかは怪しい所だ。(ラストの場面で、何故あそこにフィリップがいるのかも、日本人には解釈し辛いものがある…)こんな時代だからこそ、もう少し繊細な描写が欲しかった。
2020.06.03
回転寿司では、必ずコーンの軍艦巻きを2皿食べます。そんな僕ですが、今後も宜しくお願い致します(笑)。今回は特に何も無いので、さっそく映画の感想を。【ブランカとギター弾き】…満足度★★★☆フィリピンのスラム街で、物乞いや盗みをして暮らす孤児の少女ブランカは、ある日テレビで里親のニュースを見て、自分もお金を貯めて母親を買おうと思い付く。盲目のギター弾きピーターと出会い、街の広場で歌い始めたブランカは、レストランで歌う仕事を得るが…。フィクションでありながらドキュメンタリーのようなリアル感、そして現実的でありながら何処かお伽話のようなファンタジー感が同居した、不思議な感覚に捉われる作品だ。気になって調べてみると、主役の女の子以外は監督が現地で探してキャスティングした市井の人達らしい。だからだろう、画面に彼らの日常が息づき、芝居はしていても嘘っぽくない。また、スラム街に暮らす子供達を、決して同情的に描かなかった日本人監督、長谷井宏紀の姿勢にも好感が持てた。展開は至ってシンプルで、やや予定調和な印象も受けるが、内容以上に多くの事を語りかけて来る意欲作だ。【パターソン】…満足度★★★★口下手で地味な男、独創的なセンスの妻、一家言ありそうな顔の飼い犬。米国の田舎町パターソンを舞台に、何の変哲もない単調な毎日の中で紡がれる愛の詩。平凡な日常のどこに目を向けるか、それをどう切り取るかで、人生はこんなにも愛おしく感じられる事を、鬼才ジム・ジャームッシュ監督が誰よりも地味な男を手本に描いてみせた秀作。最初は、美しくも風変わりな趣味の妻に対して何も反論できない主人公が、彼女の居ない所で、詩作や他人との会話にストレス発散を求めている映画なのかと思ってしまった。それ位、彼は常に妻のペースに振り回され、気持ちが追い付いていないように映る。(特に、料理まで奇抜なのは、男としては怖いものがある…笑)観ていて、何だか不安な気持ちになった。しかし、妻は本気で主人公の事を愛しているし、彼もまた同じなのだと、やがて気付く。ただ、その想いの伝え方や、表現の仕方が違うだけなのだ。それに気付くと、作品の印象ががらりと変わった。そして、主人公が日常の中に彼なりの幸せを見出し、それを妻への愛と一緒に詩へと織り込んでいく姿を羨ましいと感じた。(と同時に、2人の仲を疑った自分が、随分と愛を信じられない人間になっていた事を反省…笑)
2020.05.19
さて、とうとう最後の謎である「ごみ収集車」の場面について語ろう。これに関しては、「自殺説」「暗殺説」「逃亡説」と意見が分かれており、それぞれに解釈が可能ではあるが、僕は「組織による暗殺」だと見ている。先ず、「逃亡説」は最も可能性が低い。もし逃亡するなら、既に実行に移しているだろうからだ。わざわざヌードルスを探し出し、「殺してくれ」などと頼む理由がない。また、「自殺説」も今一つ説得力に欠ける。あの時、マックスは明らかにヌードルスを追って外に出て来ている。にも拘らず、そんな突発的に車に飛び込んだりするだろうか…。では、何を根拠に、僕は「暗殺説」を選んだのか。ここで思い出して欲しいのが、ファット・モーの店で見ていたニュース番組の言葉だ。「最後の証人であるベイリー長官は、屋敷から一歩も出て来ない」そう、マックスは暗殺を恐れ、ずっと屋敷に籠(こも)っていたのだ。だからこそ、ヌードルスを屋敷に呼び寄せる必要があった。しかし、どうだ。彼は、今まさにヌードルスを追って、屋敷の外へ出て来たではないか。それも、たった1人で。そして動き出すごみ収集車…。もう説明の必要は無いだろう。では、何故マックスはヌードルスを追って、屋敷の外へ出て来たのか…。それは、やはりヌードルスに対する特別な想いがあったからではないだろうか、と思う。恐らく、マックスは本気で友情を感じていたに違いない。息子にまで、ヌードルスの本名(デヴィッド)を名付けている程だ。友情の証である懐中時計も、彼は捨てずに持っていた。そう考えると、35年前にマックスがヌードルスを銀行襲撃に連れて行かなかった理由にも、別の解釈が生まれる。つまり、「マックスは本当はヌードルスを助けるために、彼を裏切り者に仕立てたのではないか?」という解釈だ。一緒に行けば、ヌードルスは間違いなく組織に殺される。目の前で親友が殺される姿は見たくない。かと言って、組織の命令には逆らえない…。ならば、ヌードルスが裏切ったという形で置いて行く事で、少しでも逃げる時間稼ぎをしてやろうとしたのではないか。ヌードルスならきっと逃げ切ってくれるはずだ、と。そんな解釈も可能になるのだ。しかし、35年振りに再会したかつての仲間は、全く取り合ってくれないどころか、自分の名前さえも呼んでくれない。裏切りの真相を暴露したにも拘らず、それでも彼はまだ自分を「親友だった」と言う。マックスの中に強い罪悪感なり、懐古の情が生まれても不思議は無い。屋敷を出て行くヌードルスに対し、せめて最後はベイリー長官としてではなく、マックスとして話をしたかったのではないか。だから、暗殺される危険がある事も忘れて、思わずヌードルスを追いかけて来てしまった。そして滑った…。結局、最後の最後まで過去を引き摺って生きていたのは、ヌードルスではなく、実はマックスの方だったという事なのだろう。そんなマックスの背中を、ヌードルスはどんな想いで見送ったのか…。(結果的に、彼は4人の仲間全員の死を見届ける事になった)いずれにせよ、35年前マックスに出し抜かれて奪われた現金を、遂にヌードルスは取り戻した。目の前でマックスが死に、もう自分を追って来る者は誰もいない。彼は、過去の因縁にようやくケリをつけたのだ。この後、モーの部屋へ戻り、ベッドに横になりながら、ヌードルスは一体どんな表情を浮かべたのだろうか…?それが、もし35年前の夜と同じ、あの笑顔だったとしたら…?ヌードルスに対するイメージは、根底から覆(くつがえ)るのではないか。ラストカットでヌードルスの手前にある薄いベールは、「この物語を表面的に観ているだけでは、ヌードルスの本当の素顔は見えて来ない」という、レオーネ監督からのメッセージなのだろう。そう、【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】は、ヌードルスとマックスの騙し合いであるだけでなく、監督と観客の騙し合いでもあるのだ。この映画の巧みな所は、約4時間に渡って「ヌードルスの友情と恋の物語」を描きつつ、そこに多分に「マックスの視点」を紛れ込ませてある点にある。マックスは、ヌードルスの事を「友情に厚い男」「自分に騙された負け犬」だと思っていた。それこそが彼の誤算であり敗因ともなるのだが、そうやってマックスが騙されたのと同じ目線で、観客も騙されるように心理誘導されているのだ。また、裏ストーリーへの入口となる物語の「ほつれ」が、唯一キャロルとの車中での会話だけしかない、という点も大きい。あの場面で何らかの違和感を抱けなければ、観客は「ヌードルス=友情」「マックス=金」というイメージから抜け出せぬまま、永久に同じ物語の中を堂々巡りする事になるのだ…。さて、如何だったろうか。これが、僕の読み解いた【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】の全容だ。本作を「ノスタルジックな友情と恋の叙事詩」だと見ていた向きには、およそ受け入れ難い解釈ではあろうが、しかしどれだけ突拍子が無かろうと、寧ろこれまでのどの解釈より辻褄は合っていると思う。更に、ヌードルスとマックスに対する印象が、「表」と「裏」とでは完全に逆転する事も、理解してもらえたのではないか。そんな複雑かつ難解な本作を、小池修一郎は素直に「友情と恋の物語」として描いた。しかし、それでも消えなかったサスペンスの香りが、僕を原作映画へと誘(いざな)ったのだろうと思う。まあ、そのおかげで、久し振りに頭をフル回転させてくれる好敵手と巡り会えたのだから、この幸運に感謝したい。ありがとう!!因みに、映画の評価は以下の通り。内容的には満点ながら、やはり4時間はちょっと長過ぎるという事で…(笑)。【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】… 満足度★★★★☆
2020.03.29
マックスからの手紙により、35年振りに街へ戻って来たヌードルス。ここで印象的なのは、彼の目だ。確かに、身なりこそ良くないが、彼の目は死んでいない。ファット・モーの店に入る際も、公衆電話から客を帰すように指示を出しているし、そこに笑顔や怯えの表情は一切見られない。常に警戒心を解かず、冷静に状況を見極めようとしている。そして、あのロッカーに隠した共同基金の話になった時、彼はこう言った。「35年ずっとそれを考えていた」これは、人生を諦め、思い出の中に逃げ込んで生きる男の言葉ではない。ヌードルスは、間違いなく現在進行形で生きている男である。だからこそ、真相を確かめるため、35年振りに故郷へ戻って来た…。もっと言えば、その前の場面、阿片窟を出てモーの店へ鍵を取りに行った時も、彼は実に手際よく追っ手のギャングを撃ち殺している。「縄を解いてくれ」と頼むモーに対しても、「お前が殺したと疑われるとマズい」と的確な判断をするなど、全く冷静さを失っていない。去り際に、モーの頬をポンポンと叩いて励ます余裕まである。これが、仲間を死に追いやった罪悪感に苛(さいな)まれ、組織に怯えて逃げ出そうとする男の態度だろうか。寧ろ、首尾よく事を進めている、といった様子ではないか。この導入部を観ただけでも、ネット上に流布する「ヌードルスは負け犬」のイメージが、かなり怪しい事が分かる。では、何故、そうした情報が見落とされる事になったのか。それは、取りも直さず、その後に描かれる少年時代のエピソードの数々に、観客が心を奪われてしまうからに他ならない。スクリーンに映し出される少年達の友情が眩しければ眩しい程、初恋の記憶が甘酸っぱければ甘酸っぱい程、観る者はそこに永遠の輝きや純粋さを求めてしまう。ヌードルスにとって、この掛け替えのない日々の思い出だけは嘘ではない…、と勝手に思い込んでしまう。それが、観客の目を欺くためにレオーネ監督が仕組んだ、巧妙なトリックだとも気付かずに…。更に、ここでもう一つ見落としてはならない重要な事がある。それは、この少年時代の思い出が、ヌードルスだけのものではなく、同時にマックスのものでもあるという事実だ。特に、7年間を刑務所で孤独に過ごしたヌードルスに比べ、ずっと仲間達と苦楽を共にして来たマックスの方が、実は仲間に対する思い入れは深いのではないか、という気がする。その証拠に、35年振りとなるあの再会シーンを見ていると、過去に縛られて生きているのは、ヌードルスよりも寧ろマックスのように映るのだ。仲間を裏切った罪悪感を抱えて生きて来たのは、実はマックスの方なのではないか。そんな印象すら受ける。そうでなければ、今更ながらにヌードルスを探し出したりなどしないだろう。では、マックスがヌードルスを呼び出した理由は何なのか。屋敷での2人のやり取りを追ってみよう。部屋に通されたヌードルスに向かって、マックスは「俺を殺せ」と言う。過去の裏切りの真相を暴露し、「復讐させてやる」と言う。恐らく、マックスは自身の破滅に際し、ヌードルスに殺される事で、罪滅ぼしをしたかったのではないかと思う。(ただ、その一方で、ヌードルスを再び犯人に仕立て上げ、道連れにしようとした可能性もある)過去の真相を暴露し、ヌードルスを挑発するマックス。そうやってヌードルスを逆上させる事で、彼に拳銃の引き金を引かせようとしたのだろう。35年前のあの夜と同じ駆け引きだ。しかし、ヌードルスはそれには応じない。それはそうだろう。「殺させたい男」と「殺したくない男」。お互いの目的が、今回は真逆なのだ。しかも、マックスは知る由も無いが、「35年前に仲間を裏切った」という点に関してはヌードルスも同罪であり、その事でマックスを責めたり恨む理由が、ヌードルスには全く無いのだ。まして、罪悪感などあろうはずもない事は、改めて言うまでもないだろう。「ヌードルスは、俺の事を親友だと思っているに違いない」これこそ、35年前もそして今夜も、マックスが犯した最大の誤算である。そして、マックスのこの思い込みに引き摺られ、観客も「ヌードルス=友情」という固定観念を植え付けられてしまう事になる。しかし、ヌードルスから見た裏ストーリーは全く違う。元々、マックス達とは縁を切りたいと思っていた。デボラを失ったのも、完全に自業自得だ。そうなると、あの裏切り計画で彼が奪われたものは、ロッカーの現金だけという事になる。そして、35年目にして、ヌードルスはそれを前金という名目でマックスから取り戻した。過去の真相も突き止めた。もう、これ以上マックスに用は無い。(自分が手を下すまでもなく、どうせマックスは自滅する)後は、何事も無くこの場をやり過ごし、部屋を出て行くだけだ。そういう結論にならないだろうか?何故なら、誰も(マックスも観客でさえ)、自分が過去に仕掛けた「裏切りの事実」に気付いていないのだから…。平行線を辿る、2人の駆け引き。泣き落としのつもりか、最後は思い出の懐中時計まで見せるマックスだが、それでもヌードルスは歩み寄ろうとしない。いや、確かに、この時ばかりはヌードルスも昔を懐かしみ、優しげな表情を浮かべるのだが、飽くまでも相手を「ベイリー長官」と呼び、他人行儀のままだ。そして、こう言う。「ベイリー長官、俺の昔話はもっと単純だ。 友達がいた、親友だった。 命を救おうと密告したのに、奴は殺された。 自ら望んで。 良い友情だった。 ただ、2人とも不運だった」一聴すると、これはヌードルスの本音のようにも聞こえるが、勿論そうではない。飽くまでも、マックスの描いたシナリオをなぞっているに過ぎない。そうやって「友情に厚い男」「惨めな負け犬」という相手の持つイメージをそのまま演じる事で、ヌードルスはどこまでもマックスを突き放すのだ。こうなると、マックスにはもうなす術が無い。全ての手札を切ったマックスに対し、ヌードルスは何一つ手札を見せていないのだから。勝敗は明らかだ。しかも、裏切りの真実を打ち明けたにも拘らず、ヌードルスはまだ自分を「親友」だと言う。「生涯の努力が無駄にならないように」そう告げて、部屋を出て行くヌードルス。この時、マックスの胸に去来するものは何だったか…。これを踏まえた上で、あの「ごみ収集車」の場面へと視点を移そう。
2020.03.28
【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】を読み解く上で重要なのは、この作品が「二重構造」になっているのを見抜く事だ。「表ストーリー」と「裏ストーリー」と言い換えても良いだろう。ただ、その両方がぴったりと張り付き、境目がほとんど無いため見落としてしまうのだ。では、その裏ストーリーへの入口は、一体どこにあるのか…。それは、ヌードルスがキャロルと車内で交わす会話シーンにある。実は、宝塚版を観た時から、「警察に密告して欲しい」というキャロルの言葉には、妙な違和感を覚えていた。マックスを助けたいだけなら、誰にも相談せず、自分で電話すれば良いのではないか…。寧ろ、それが最も確実で、自然な心理だろう。しかも、原作映画でのヌードルスとキャロルは、互いに毛嫌いし合う犬猿の仲だ。何故、わざわざ嫌いな男にそんな事を頼む必要があるのか。宝塚版ならまだ納得できた部分も、映画版のキャロルは明らかに怪しい。そして、ふと思った。僕が感じたこの違和感を、ヌードルスも感じなかったか…?しかし、その後の展開から見ても分かるように、それは絶対にあり得ない。もし、この時ヌードルスが何かを勘繰っていれば、ロッカーの現金が無くなっているのを見て、あそこまで茫然自失したりはしないだろう。と、その時「マックスと離れたくないなら、一緒に刑務所に入って」というキャロルの言葉から、もう一つ別の可能性がある事に気が付いた。そして、それこそ正に「裏ストーリー」とも呼べる【ONCE ー】の新たな扉を開く鍵となった。前回も書いたように、ヌードルスとマックスは常に同じ事を同じレベルで考えている。禁酒法時代の終焉と共に、マックスは「ヌードルス達を裏切ろう」と考えるようになっていた。では、もし、ヌードルスもまた同様に「仲間達と縁を切りたい」と考えるようになっていたとしたら…。デボラとの関係は、最悪の形で終わってしまった。マックスは「連邦準備銀行を襲撃する」と、無謀な事を言い出している。これ以上、過去の人間関係に引き摺られて危険な橋を渡り、ドミニクのように滑って人生を棒に振りたくない。そう考えていたとしたら…。しかし、どうやって彼らと縁を切る…?ロッカーに隠した共同基金はどうなる…?そこへ不意に舞い込んだのが、キャロルからの「警察への密告」相談である。この時、ヌードルスは考えなかったか。「もし、これで俺だけ捕まらなかったら…?」3人が逮捕されている間に、自分はロッカーの現金を独り占めし、逃亡できるのではないか。そう、本来はマックスが「ヌードルス達を裏切るための計画」として考えた警察への密告を、ヌードルスはヌードルスで「マックス達を裏切る計画」に利用できると思い付いた可能性があるのだ。だから、あの時、彼はキャロルの話に何も答えなかった…。(それでなくとも、人生で最も多感な時期を刑務所で過ごしたヌードルスにとって、マックスの暴走のために再び服役する事など絶対に嫌だったろう)「ヌードルスは親友を助けるために警察に密告した」と思っている人達にとっては、俄かに信じ難い発想ではあろうが、充分に辻褄の合う可能性である。それに「親友を助ける」という大義名分は、そもそもマックスが描いたシナリオの話だ。ヌードルスがその通りに考えて行動した、という証拠はどこにも無い。観客は、ただ物語の成り行きだけで、「ヌードルスは友情に厚い男」だと思ってしまっているのである。では、あの時、実際にあの部屋の中で何が起きていたのか…。襲撃事件の夜へと話を進めよう。皆から離れ、1人で部屋に入り、ドアに鍵をかけるヌードルス。電話をかける際、彼は躊躇(ためら)いの仕草を見せるが、勿論これは警察に仲間を売る(=実際は助ける)事への迷いなどではない。自分の計画(=本当に裏切る)が、上手くいくかどうかの躊躇いである。失敗すれば、自分も警察に捕まるだけでなく、裏切り者だとバレる危険性まである。そうなれば、本当に一巻の終わりだ。電話をかけた以上は、絶対に銀行襲撃に参加してはいけない。(しかし、キャロルから「マックスはあなたを臆病者だと笑っているわ」と言われている手前、自分の口から「行きたくない」とは言えない)そうした不安があったのだろう。しかし、結果的に、ヌードルスのこの不安は杞憂に終わる。何故なら、襲撃に参加して欲しくないのは、マックスの側も同じだったからである。ヌードルスを裏切り者に仕立て上げるためには、絶対に一緒には連れて行けない。何とかして、彼を置いて行く必要があった。もう、お分かりだろう。あの時、あの部屋で進行していた「裏切り計画」は1つではなく、実は「2つ」。ヌードルスとマックスは、期せずして同じ事を企んでいたのである。銀行襲撃に「行きたくない男」と「行かせたくない男」の駆け引き。奇妙な構図だが、これこそセルジオ・レオーネ監督が仕組んだ最大のトリックに他ならない。しかし、2人の思惑が全く同じであるため、観客はそのトリックに気付かないのだ。そして、ヌードルスの「狂ってる」という言葉に激怒した(芝居をした)マックスが背後から殴り掛かり、彼を気絶させる。ヌードルスは、この言葉にマックスが怒り狂う様子をフロリダの海岸で目撃しており、そう言って彼を挑発し、仲違いする事で、襲撃に行かない口実を作ろうとしていたのだろう。当然、それはマックスの側も同じだった。(彼も、病院で口論になった時と同じように、ヌードルスを「お荷物」だと言って挑発している)ここからも分かるように、【ONCE ー】は決して単純な「友情と恋」の物語などではない。ギャングの世界で繰り広げられる、男と男の静かなる「決闘」の物語でもある。マカロニ・ウエスタンの名手と謳われたレオーネ監督だからこそ辿り着けた、究極の表現スタイルと言えるだろう。その後、ヌードルスは事件現場で3人の死体を見る事になる。彼らが刑務所に入っている間に、イブとどこかへ高飛びするつもりでいたヌードルス。ところが、彼らがまとめて死んでくれた事で、計画は予想以上の好結果に終わる。大金を独り占めできる上に、仲間達の復讐に怯えて暮らす心配も無くなったのだ。一石二鳥ではないか。阿片窟でこれまでの緊張が解け、自然に溢れ出たのがあの満面の笑みだったのではないか。その時の彼の喜びがどれ程のものだったかは、想像に難くない。しかし、翌日開けたロッカーの中に、現金は入っていなかった…。放心しながら、独り街を去るヌードルス。次回は、この「裏ストーリー」から見た、35年後のヌードルスとマックスについて語ってみたい。
2020.03.27
一般的に、映画を観た人達の中には「ヌードルス=友情と恋」「マックス=金と権力」というイメージがあるのではないかと思う。そして、ヌードルスよりもマックスの方が賢い、と。それはやはり、あの「警察への密告」と、その後の2人の「人生の落差」に起因するのだろう。マックスは裏切りによって全てを手に入れ、逆にヌードルスは全てを失った。そして、ヌードルスには少年時代の懐かしい思い出と、一生消えない罪悪感だけが残った、と…。しかし、果たして本当にそうだろうか。僕が映画を通して観た限り、そうした印象は受けなかった。僕の目に映ったヌードルスとマックスは、謂わばコインの表と裏。彼らは、常に同じ事を同じレベルで考えている。そして、その時々でどちらの面が上を向くかだけの違いでしかない。確かに、少年時代のヌードルスとマックスは仲が良さそうに見える。しかし、同時に彼らは、出会った頃からずっと「相手を出し抜こう」「相手より優位に立とう」と張り合っており、その様子はさながらライバル同士とも言える。「金」に対する考え方も、2人は最初から全く違う。それが窺えるのは、5人で駅のロッカーへ現金を隠しに行く場面だ。ここでのヌードルスは、マックスの提案に対して明らかに不満そうな表情を見せている。そして、少し間を置いて「賛成だ」と言うのだが、この時の笑顔もどこかわざとらしいのだ。つまり、ヌードルスは好きな時に好きに使えない「共同基金(=共有財産)」という発想に、そもそも納得していなかった節がある。そればかりではない。もし仮に、この時の笑顔があのラストの笑顔と繋がるように描いてあるのだとすれば、この段階で既に彼が何かを企(たくら)んでいた可能性さえ生まれる。マックスが「ロッカーを開ける時は5人一緒だ」と言った時、ヌードルスはこう思わなかったか。「じゃあ、誰かが居なくなった時、その残った金は山分け(或いは総取り)しても良いんだな?」つまり、ヌードルスは最初から「友情」よりも「金」を選ぶつもりだった可能性があるのだ。更に、7年後にヌードルスが出所してからは、彼らの関係はどんどん反りが合わなくなって行く。その様子は、まるで互いの腹を探り合っているかのようだ。この性格の違いを決定づけたのは、やはり7年間という刑務所生活だろう。ヌードルスは、海辺のレストランの場面で、デボラにこう語っている。「服役中、『滑った…』と言って死んでいったドミニクの事が、頭から離れなかった」と。(マックス達の事は、一言も触れられていない)これは、「滑る」つまり「ヘマ(失敗)をする」事がギャングの世界では「死」に繋がる事を、ヌードルスが身を持って体感した事を意味する。それに対し、服役を免れ、仲間達と共にギャングの世界で実績を上げて来たマックスには、そうした慎重さは感じられない。この7年間の差が、2人の生き方にかなり影響している事は、疑いようが無い事実である。慎重派のヌードルスと、上昇志向のマックス。この真逆な性格の2人が、次第に距離を置くようになったのは、当然の事と言えるだろう。加えて、キャロルの存在が、更に2人の関係を拗らせる。そんな両者を、辛うじて繋ぎ止めていたであろう友情の糸。それが極限まで引っ張られ、プツンと切れた瞬間こそ、あの銀行襲撃計画だったに違いない。そして、そのどちらの切れ端にも掴まる事ができなかったパッツィーとコックアイは、裏社会の深い闇へと滑り落ちて行く事になる…。さて、次回はいよいよ物語の核心に迫る、あの銀行襲撃事件について語ってみたい。
2020.03.26
雪組の東京公演も千秋楽を迎え、いよいよ映画【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】の解説をする時が来た。あれから1ヶ月以上もあったので、ゆっくりと考えながら書く時間が持てた。おかげで、全問正解とまではいかなくとも、かなり正確に読み解けているのではないかと思う。小池修一郎がこの真相に辿り着いているかどうかは不明だが、少なくとも宝塚ファンにとっては驚愕の展開になるだろう(笑)。僕が宝塚版を観て抱いた疑念というのは、ラストシーンでヌードルスがマックスに向かって言う「諦めるなよ」という台詞に端を発する。25年振りに再会した親友へ、最後にかける言葉としては、あまりに素っ気ないのではないか…。そう感じたのだ。生きていた事を今まで隠していたとは言え、マックスは最後の最後に心の拠り所としてヌードルスに救いを求めている。にも拘らず、ヌードルスは彼の気持ちに寄り添う素振りを見せない。だから、「もしかすると、この言葉はダブルミーニングなのではないか?」と思ったのだ。昨年末の『観劇まとめ』の中で、僕はこう書いた。「頑張れ」という言葉が、逆に相手を傷付けてしまう場合もある。つまり「諦めるなよ」という言葉には、「頑張れ」という表の意味と、「お前は終わりだ」という裏の意味があるのではないか、と思ったのだ。そうしてマックスを突き放す事で、ヌードルスは彼を自殺に追い込んだ…。そう考えた時、僕の中に一つの疑念が湧いて来た。もしかすると【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】とは、実は「友情物語」に見せかけた「復讐劇」なのではないか…?確かに、ヌードルスは金もデボラもマックスに奪われている。いや、その後の人生まで奪われたと言っても良いだろう。真相を知って、彼を恨んだとしても不思議は無い。復讐の動機は、充分にある。だから、原作映画がどうなっているのか気になったのだ。あの場面で2人が何を語っているのか、ヌードルスは去り際に何と声をかけているのか…。すると、どうだろう。映画では、「復讐」という言葉が、はっきり出て来るではないか。ただしそれは、ヌードルスからではなく、マックスの口から「復讐させてやる」という表現で。明らかに、宝塚版とは色合いが違う。一方のヌードルスはというと、常に相手を「ベイリーさん」と呼び、他人に思い出話を聞かせるような口調で話している。マックスが挑発したり、懐中時計で感傷に訴えても、ヌードルスは目の前にいる男を、決してマックスと認めようとしない。宝塚版では歩み寄っている部分も、映画では完全に平行線だ。そして、去り際の言葉がこれ。「生涯の努力が無駄にならないように」宝塚版の「諦めるなよ」に比べ、より他人行儀な印象ではあるが、こちらもどちらにも受け取れる言い回しではある。果たして、ヌードルスはどんなつもりで、この言葉をマックスに言ったのか…。この後のごみ収集車の場面と共に、気になる一言だ。気になったと言えば、もう一つ。「前金」として受け取った鞄の行方だ。宝塚版ではヌードルスはこれを返しているが、映画では手ぶらで来ている。場面を遡って探してみても、受け取って以降は一度も登場しない。つまり、(僕の見落としが無い限り)ヌードルスはあの大金を自分のものにしている、という事だ。そして、最後に見せるあの謎めいたヌードルスの笑顔である。あの表情が意味するものは何なのか…。何の意味も無く、ごみ収集車のシーンから繋いであるとも思えない。僕の中で、疑念と違和感が広がっていった。これが、僕が原作映画を最初から観てみようと思った切っ掛けである。では、次回からは、いよいよ作品の本質に迫って行こう。先ずは、ヌードルスとマックスの性格について考察する。
2020.03.25
予告編を観て以来、ずっと気になっていた映画【彼らは生きていた】。今日発売の【週刊新潮】の映画評で、93点という高得点を獲得しており、更に期待が高まった。こうしたドキュメンタリー映画が、日本でも制作される日を待っている。【ジョジョ・ラビット】の予告編
2020.01.23
月組公演【I AM FROM AUSTRIA】の話題に触れると前後して、以前から観たいと思っていた映画がAmazonの『プライム・ビデオ』にあがっていたので、さっそく鑑賞した。ちょうど「自らのアイデンティティ」に関する作品だった事もあり、興味深く観させてもらった。【サーミの血】…満足度★★★1930年代、スウェーデンで実際に行われていた差別と偏見の記憶。「あなた達の脳は、文明に適応できない」その恥辱と劣等感から抜け出すため、故郷と家族を捨てた少数民族サーミ人の少女エレ・マリャ。確かに、エレ・マリャの置かれた境遇には、同情を通り越して怒りすら覚える。しかし、同時に、彼女の行動原理は何処にでもいる10代の少女と何ら違わず、大人の僕からすれば驚くほど幼く、無謀に映るのも事実。更に、エレ・マリャのスウェーデン人に対する強い憧れは、自らのルーツに対する嫌悪感にも繋がり、妹ニェンナとの仲も引き裂く事に。自らサーミ人を父親に持つアマンダ・シェーネル監督が、インタビューでこんな事を語っている。「自分もサーミ人なのに、サーミを嫌う者がいます。 つまり、アイデンティティを変えた者と、 留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです。 両者は互いに話をしません」姉妹の関係は、そのままサーミ人同士にある複雑な実情を表してもいるのだ。逃れようとしても、常に付きまとうサーミの血。自らのルーツを否定してまで憧れたスウェーデン人の生活は、果たしてエレ・マリャを幸せにしたのか…。ラストシーンで、彼女の胸に去来する感情が何なのか、今ひとつ汲み取れなかったのが残念。(それは、僕に虐げられた歴史が無いからかも知れない…)予告編からして、既に衝撃的…。
2020.01.15
フロイド博士を、知恵を受け継ぐ者と認めたモノリス。ところが、ここでモノリスにとって予定外の出来事が起こる。フロイド博士が、木星探査船ディスカバリー号に乗らなかったのだ。代わりに乗船したのは、ボーマン船長を始めとした5名。彼らは(本当の目的を知らされていないのだから、仕方無いのだが…)雑談をしたり、似顔絵を描いたりと、随分と気の抜けた連中に映る。当然、モノリスは疑念を抱く。「果たして、彼らは木星へ連れて行くに値する、知恵を持った人間なのか…?」モノリスはHALを介してボーマン達の知能をテストするが、その結果はモノリスが満足するものではなかった。彼らは自ら答えを出す事も、解決策を示す事もできない、ただの追随者(フォロワー)でしかない。そう判断したモノリスは、5人を排除する事に決める。仮に、ここで船員が全滅しても問題は無い。何しろ、最初の接触から400万年もの間、モノリスは人類が宇宙空間までやって来るのを見守っていたのだ。この先、また何十年か経った所で、大した違いはない。モノリスにとって最も重要なのは、先にも述べた通り、知恵を受け継ぐ人間の確保なのだ。ウィキペディアには「モノリス探査の任務を隠しつつ、乗組員と協力しなければいけないという矛盾に耐え切れず、HALは異常を来した…」と書いてあるが、これはどう考えても無理がある。何故なら、モノリスの件は木星到着後に搭乗員全員に開示される事になっていたからだ。その事は、HAL自身もフロイド博士から命令を受けて知っていた。つまり、木星に到着するまで知る必要の無い情報を、HALがボーマン達に黙っていたとして、何の矛盾も無いのだ。このように、HALが暴走行為に出たのも、全てモノリスの企てだと考えれば辻褄が合う。(HALが故障を指摘した箇所が、「電波」を受信するアンテナというのも、モノリスの関与を示唆している)HALの赤いランプは、モノリスの目だと考えて良い。モノリスはHALを使って船員達を観察し、テストしていたのだ。しかし、モノリスの予想に反し、ボーマン船長は自らの知恵と勇気でHALとの戦いに勝利する。この時のボーマンの姿は、400万年前に敵対する群れから水場を奪い返したあの猿人と重なる。これにより、彼はモノリスから「知恵を持った人間」として認められ、木星探査の真の目的を告げられるのだ。(フロイド博士からのメッセージ映像を流したのも、モノリスの意思だろう)モノリスに導かれ、ボーマンはある部屋に連れて行かれる。現在、ノルウェー領のスヴァールバル諸島には、世界中の農作物種を冷凍保存するための「世界種子貯蔵庫」が設置されているが、ボーマンが来た部屋もきっと同じ目的(=種の保存)のためにあったのだろうと思う。だからこそ、モノリスとしては、より知能の高い人間を選ぶ必要があった。この部屋で、ボーマンは残りの人生を過ごす事になる。ただし、部屋の中に流れている時間が、地球上の1分1秒と同じだとは到底考えられない。カメラが切り替わった途端にボーマン船長がいきなり老けるのも、地球とはまるで違う時間が流れている事を示唆しているのではないか。やがて、ベッドに横たわる年老いたボーマンの前に、再びモノリスが現れる。この時、木星に着いてから何年経っているのか、地球の現生人類はどうなっているのか、繁栄しているのか、絶滅の危機に瀕しているのか、それは全く分からない。ラジオ番組の中で、トータス松本は「核戦争」の可能性について言及していたが、僕もその仮説に賛同する。それこそ、モノリスが人類種を保存しておこうと考えた理由だろう。そして、遂にその時が来たのだ。(最初の感想でも言及したが、テーブル上のグラスが落ちて割れたのが、現生人類が危機的状況に陥ったサインだと、僕は考えている)今回の考察の冒頭で、この映画のキーワードに「触れる」を挙げた。劇中では直接描かれていないが、ベッドの上で手を伸ばしている事から、恐らくボーマンはこの時もモノリスに触れたのだろうと思う。それによって、彼はスターチャイルドへと進化を遂げた。この辺りも、僕がモノリスを道具ではなく、一つの意思を持った生命体だと考える理由だ。仮に、モノリスが道具だとして、「果たして人間をスターチャイルドに進化させられるだけの能力があるのか?」、更にその能力があったとして「そこまで高度なものを作り出せる知的生命体が、そもそも道具などという副次的な物を作る必要があるのか?」という疑問がある。つまり、「道具」という発想自体が既に人間レベルではないか、という事だ。ほぼ万能と言っても良い存在者が、道具を作るだけ無駄な作業のように僕には感じるが…。何れにせよ、こうしてスターチャイルドとなったボーマンは、再び地球へと返される。その後、どうなるかは分からない。果たして、新たな人類はどんな歴史を歩むのか…。スターチャイルドは、人類を正しい歴史へと導けるのか…。モノリスは、今度もただ黙って人類を観察するのだろう。人間が動物を観察するように…。あのラストからは、そんな印象を受けた。いかがだったろうか。人間の視点から見ると、不可解で脅威的なものにしか映らないモノリスの存在やHALの行動も、モノリスの視点から見れば全て理屈で説明できる事が分かってもらえたのではないかと思う。
2020.01.06
せっかく映画の話題が続いているので、書くと言ってから何ヶ月も放置したままになっていた映画【2001年 宇宙の旅】の解説を済ませてしまおうと思う。(映画の感想はこちら →【ものぐさ映画評(part46)】)以前書いた映画【ラ・ラ・ランド】の解説が好評だったのか不評だったのかは全く不明だが(笑)、僕と同じ視点で映画を観ている人は滅多にいないだろうという事を前提に、今回もまた性懲りも無く独断と偏見で解説している。因みに、小説版は読んでいない。読む必要は無いと考えている。スタンリー・キューブリック監督が描いたものを理解しようとする時、他の情報は却って邪魔になるからだ。また、謎の一枚岩「モノリス」に関しては、一般的には地球外知的生命体の「道具」と定義されているようだが、僕個人はこれ自体が「生命体」であると捉えている。それは、ラジオ番組の中でトータス松本が「キューブリック監督は、モノリスを『神』的な存在として登場させた」と語っていたからだ。神を可視化しようと試行錯誤した結果、敢えてあのような無機的な形にしたと言う。僕もこの発想に倣う。さて、この作品のキーワードは「観察」「触れる」そして「選ばれた人間」である。選ばれた人間とは、「知恵」「知性」を持つ人間を指す。それは、誰でも手にできる能力ではない。漫画【サラリーマン金太郎】の中に、こんな台詞がある。学校で教える勉強はすでに世の中に在るものだそれを学び知る事は基礎でしかない人間の知恵とはその先にある世の中にないものを考え出し創り出す事にある或いは、こんな台詞もある。知識なんて大した事ありませんよ(中略)知識より大事なものは知恵ですわそして知識は答えを出さないけど知恵は答えそのものですここで言う「知恵」とは、現状を打破し、自ら運命を切り開く突破力の事だ。それは「知識」とは明確に区別される。例えば、パソコンやスマホを上手に使いこなすのは「知識」だが、そのメカニズムを一から考え出し、形にするのは「知恵」だ。その事を示す箇所が、400万年前に猿人達がモノリスと遭遇する場面で描かれている。ここで重要なのは、何匹もの猿人がモノリスに触れている中で、骨を道具として使う事に気付いた猿人は1匹であるという事実だ。それは、この「最初の1匹」こそが他の猿人達とは違う「知恵」を持った存在であり、彼らの中から「知恵を持つ存在が現れた」という事を意味している。(それ以外の猿人は、彼の「追随者(フォロワー)」でしかない)そして、その知恵は、良くも悪くも人類を新たな次元へと押し上げ、400万年後ついに人間は宇宙空間へと進出する。「思考(=考える)」とは「答えを出す」作業である。当然、その答えは「正解」である事が求められる。そして、常に正しい答えを導き出せる者、集団や組織を正しい方向に導く事ができる者を、人々は「指導者(リーダー)」と呼ぶ。その意味で、月面基地に招かれたフロイド博士は、充分にリーダーの資格を持つ人間である。このフロイド博士とモノリスの接触が、物語を展開させる鍵だ。ウィキペディアでは「モノリスが400万年振りに太陽光を浴びて、信号を発した」とあるが、これは完全に誤解である。超次元の存在であるモノリスが、そのような自然現象に左右されて動くとは到底考えられない。飽くまでも、人間がモノリスに「触れる」事が重要なのだ。しかも、ただ触れるのではない。400万年前、骨を道具に変えたあの猿人と同じ知恵(知性)を受け継ぐ人間が触れなければならない。その人間こそがフロイド博士であり、彼がモノリスに触れた時に何らかの情報確認が行われ、モノリスはフロイド博士を「選ばれた人間」として認識したのだ。(モノリスが掘り出されてからフロイド博士が訪れるまでには何日か経っているはずだし、その間に既に太陽光が当たり、作業員なり研究員なりが触れているはずだ)そして、次への段階として、モノリスは木星へ向けて信号を発する。ここまで読めば、大抵の人が気付くだろう。モノリスが、ある明確な意図を持って行動している事に。それは、知恵(知性)を兼ね備えた人間を木星へと導く事である。その人間に、フロイド博士が選ばれたのだ。後半へ続く。
2020.01.05
明けましておめでとうございます今年も宜しくお願い致します観に行けないと諦めていた雪組公演【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】だが、公式HPをチェックしたタイミングが良かったのか、1月28日(火)のチケットを奇跡的に手に入れる事ができた。作品は勿論、舞咲りんの最後の公演を観られる事にも感謝したい。因みに、先入観を持ちたくないので、敢えて原作映画は観ていない。さて、米国のギャングを知る前に、日本のヤクザを知らなければという事で、年末年始を利用し、かねてより予告していた映画【仁義なき戦い】をまとめて鑑賞した。同シリーズは、第二次世界大戦後の広島県で実際に発生した「広島抗争」の当事者の一人である美能幸三の手記が基になっている。つまり、脚色こそあれ、基本的にはノンフィクションなのだ。その迫力を、映像で見事に再現してみせたスタッフと俳優陣の情熱、執念が素晴らしい。(ただ、残忍な暴力シーンに抵抗を感じる人は、決して少なくないだろうと思う)人間関係が複雑な上に、シリーズを通して同じ俳優が別の役で出て来るので、正直よく分からない部分もあるのだが、それでも最後まで観たくなる傑作シリーズだ。【仁義なき戦い】…満足度★★★★血で血を洗う抗争、裏切りに次ぐ裏切り。目まぐるしく変わる状況に、複雑な人間関係は更に複雑さを増す。何が正解か、どこがゴールかも分からぬまま、それでもヤクザでしか生きられない男達の群像劇。圧倒的な暴力の中に、人間の滑稽さや悲哀まで描き込んだ、脚本の笠原和夫。「実録」ならではの緊迫感と生々しさを、乱暴ながらも大胆なカメラワークで表現してみせた、監督の深作欣二。そして、広島ヤクザの生き様を迫真の演技で体現した、菅原文太を始めとする役者陣。それぞれが正に三位一体の塊となって観る者を圧倒する、ヤクザ映画の金字塔だ。【仁義なき戦い 広島死闘編】…満足度★★★☆血生臭いヤクザ映画だった第1作目に対し、今作は主人公・山中正治(北大路欣也)の生き様と純愛に焦点が当てられ、シリーズ5作の中では異色の内容と言える。スピンオフ的な作品なので、第1作の正当な続編は【代理戦争】になる。繊細な北大路の役作りと対照的に、外道極まりない千葉真一の怪演も見もの。【仁義なき戦い 代理戦争】…満足度★★★☆菅原文太が演じる主人公・広能昌三が組長となり、若い衆を纏める立場になったせいか、それまでの青春群像劇は影を潜め、大人の駆け引きという色合いが強くなった。広能の背中には、ヤクザの貫禄と共に哀愁が漂う。【仁義なき戦い 頂上作戦】…満足度★★★★上層部では大人達が謀略を巡らし、末端では血の気の多い若者達が暴力で立身を図ろうとする。結局は、自己保身と権力争いの繰り返し…。まるで人間社会の縮図を見ているようで、「ヤクザ」も「カタギ」も基本的には何も違わない事に気付かされる。悲哀よりも、人間の滑稽さや虚しさが滲み出る第4作目。【仁義なき戦い 完結編】…満足度★★★☆ヤクザが、政治結社を名乗る。警察や市民を巻き込み、ヤクザ社会も様変わりする。同時に、組織の中では世代交代が進み、新たな火種が生まれる。結局、広能昌三(菅原文太)は何を成したのだろうか…。彼の生き様を通して、そんな複雑な気持ちにさせられる完結編。
2020.01.02
久し振りに、感想を書き難い映画を観てしまい、悪戦苦闘していた(笑)。表面的には、夫の裏切りとも取れる言動に動揺する妻を描いた作品なのだが、妻の性格や2人の関係性を見ていると、実はもっと深い所に監督の意図があるような気がして、それをどう解釈して感想に落とし込むかで悩んでいたのだ。妻の目線で描かれながらも、監督が女性に向ける視線は決して同情的ではない。寧ろ、冷ややかですらある。その描き方に、これまでにない感性を感じたのだ。気になって調べてみると、この作品を撮ったアンドリュー・ヘイ監督は、ゲイであるとの事。それが、男女関係に対する、彼独特の価値観を生んでいるのかも知れない。熟年夫婦を演じたトム・コートネイ(夫役)とシャーロット・ランプリング(妻役)の演技も素晴らしく、本来なら★4つ以上付けても良い位の作品だが、離婚経験者としてはどうにも後味が悪いラストなのでこの評価に(笑)。【さざなみ】…満足度★★★結婚45周年パーティを6日後に控えた熟年夫婦の元へ届いた、1通の手紙。その内容が、穏やかだった2人の関係にさざ波を立てる…。ミステリーでもサスペンスでもないのに、画面を通して伝わって来る空気は「悲哀」ではなく、常に「不穏」。心がざわつき、息苦しくなるような緊張感だ。その理由は、本作品で監督が描こうとしているものが、夫婦の愛情や絆ではなく、妻の「女としての自尊心」だからだろう。(だからこそ、彼女は夫に対して「愛情」ではなく「不満」という言葉を使う)一体、2人で過ごして来た45年間とは何だったのか。自分達は、夫婦としてきちんと心を通わせて来たのか。たった1通の手紙を切っ掛けに、「45年間、家庭を守り夫を支えて来た」という妻の自尊心が揺らぎ、軋(きし)み、やがて崩れて行く。その様が不穏なのだ。しかし、彼女を本当に打ち砕くものは、実は夫の言動ではない。45年間の絆を確かめ合えるもの、証明できるものが、今の自分達には何も残っていない事に、彼女自身が気付いてしまう事だ。残っているのは、ただ年老いたこの身体だけ…。そして、屋根裏で見付けたある物を通して、妻は「女」として覆(くつがえ)しようのない敗北感を味わう事になる。個人的にはもう少し繊細な描写が欲しかった所だが、観る者の心を確実に波立たせる超凡な作品である事は間違いない。彼らのその後を案じずにはいられない終わり方も秀逸だ。この作品で暴かれるものは「男の幼稚さ」か、それとも「女の愚かさ」か…。夫婦では一緒に観ない方が良いだろう(笑)。
2019.10.28
10年以上も前からずっと観たいと思っていた映画【かもめ食堂】を遂に観た。大阪に来てからはTSUTAYAを利用する機会も全く無かったし、Amazonの『プライムビデオ』でもなかなか無料対象にならなかったので(笑)、これまで先送りにしていたのだ。今回、ようやく観る機会に恵まれたが、やはり良い映画だった。その前に鑑賞した【壬生義士伝】の感想も一緒に。今回は偶然、「背負う男」の生き様と「背負わない女」の生き方という対照的な作品になった。【壬生義士伝】…満足度★★★☆剣の腕は一流ながら、仲間達も呆れるほど金途に熱心な東北訛りの新選組隊士、中村貫一郎。「守銭奴」と笑われた男の生き様が、約50年を経て巡り会った2人の男達によって語られて行く。中井貴一の素晴らしい演技と相まって、主人公の「家族に対する想い」や「武士としての忠義」は痛いほど伝わって来る。貫一郎の事が気に入らない仲間の隊士・斉藤一(佐藤浩市)や、竹馬の友・大野次郎右衛門(三宅裕司)との対比のさせ方も見事で、物語に深い余韻を残す。しかし、蛇足に思えるシーンも少なくなく、作品全体としては散漫な印象を受けた。もっと、家族との絆に的を絞って描いても良かったのではないか。【かもめ食堂】…満足度★★★★☆実際に喫茶店を経営している身としては、誰も客が入って来ない冒頭のシーンには背筋がヒヤッとしたが(笑)、ゆったりと流れる日常の風景や彼らの交流を見ている内に、自然とそうした不安も消えて行った。何がどうという訳ではないのだが、この物語を包み込む不思議な空気感に癒されるのだ。恐らく、それこそがこの作品最大の魅力であり、効能だろう。小林聡美、片桐はいり、もたいまさこのキャスティングも絶妙で、まるで万能薬のように観る者の心を解きほぐしてくれるヒーリング映画。
2019.09.27
せっかく(?)宝塚の観劇予定が無いのだから、今月は積極的に映画を観ようと思っていたのだが、蓋を開けてみたら2本しか観られなかった。【ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬】…満足度★★★本当は優秀なはずなのに、何故かいつも自らドジを踏んでは状況を悪化させるイギリス諜報員、ジョニー・イングリッシュの活躍(?)を描くコメディ映画の第2弾。【Mr.ビーン】で有名なローワン・アトキンソンが主演しており、役柄が変わろうとも安定した下らなさで笑いを提供してくれる。【Mr.ビーン】が好きな人なら、理屈抜きに楽しめるはずだ。個人的には、アメリカナイズされて退屈になった【007】シリーズに対して、こちらはしっかりと「英国人気質」を受け継いでおり、好感が持てた。もしかすると、この「ジョニー・イングリッシュ」は、今のジェームス・ボンドに対するアンチテーゼ(対立命題)として生まれたキャラクターなのかも知れない。【LION/ライオン 25年目のただいま】…満足度★★フィクションをいかに現実っぽく見せるかが映画の醍醐味であるはずなのに、この作品は実話を元にしているにも拘らず、どうにも安っぽいフィクションに見えてしまう。物語を表面的に追うばかりで、人間の心の機微にまで踏み込めていないせいだろう。素材が良いだけに、この描き方は勿体ない。
2019.05.29
5年後、別々の人生を歩んでいた2人は、予期せぬ形で再会する。そこでセブは、自分のピアノ演奏でミアに夢を見せる。それはミアが叶えられなかった夢であり、セブが叶えてやれなかった夢でもある。ここで思い出して欲しいのが、最初の感想にも書いた「ハリウッドは人々に夢を見せる街だ」という事だ。ミアと出会うまでのセブは理想ばかり高く、独り善がりの演奏しかできない若者だった。自分が夢を見るばかりで、人々に夢を見せる事ができずにいた。その彼が、自分の演奏でミアに夢を見せたという事は、彼が夢を見せる側の人間、つまり「ハリウッドの住人」になった事を示している。そして、その夢の中で、ミアはセブの本当の気持ちに気付いてしまう。「きっと、彼は今でも私の事を愛してくれている」と。そうでなければ、あんなに素敵な夢は見せられないだろう。そして、彼女は迷う。自分の選択(=他の男性との結婚)は、果たして正しかったのか…。こんな風に2人して成功できるなら、あの時別れる必要なんて無かったのではないか…。彼女が動揺するのも無理はない。何しろ、彼女自身は「自分はフラれた」と思っていたのだから。これだけ通信手段が発達した現代社会にあって、お互いが全く連絡を取り合わなかったのも、これで説明が付くだろう。(ただし、スマホやパソコンがほとんど画面に登場しないのは、チャゼル監督が本作に「古き良きハリウッド映画に対するノスタルジー」を描き込もうとしたからでもある)「貴方は、本当にこれで良かったの…?」戸惑いながら振り向く彼女に、セブは少し寂しそうに、けれど優しく微笑みながら頷く。「これで良かったんだ」と。そう、彼も分かっているのだ、現実がそんなに甘くはない事を。「あの時、こうしていれば…」というのは、後になってから言える言葉であり、その時はそうするしかなかった。未熟な自分達は、あそこで別れるしかなかった…。けれど、あの恋があったからこそ、2人は成長できた。互いに夢を叶える事ができた。だから、これで良かったんだ、と。僕の好きな漫画【バーテンダー】の中に、こんな台詞がある。「お客様はプロとアマチュアの違いが分かりますか? プロになるということは 現実の中で何かを捨てるということ たとえばかつて抱いた夢 理想 憧れ… 必要なのは捨てる辛さ痛みに耐え 現実に学ぶということ そこからプロの本当の成長が始まる だからこそムダに捨てない 活かすために捨てる」たとえ自分が望まぬ形だったとは言え、一度は仮初めの成功を手に入れたセブには、その事が身に染みて分かっていたはずだ。夢を売る仕事は、自分が夢を見ていては成り立たない。だから、あの時ミアを突き放した。彼女が本気で夢を追うには、自分との恋愛は足枷(あしかせ)にしかならない、と。しかし、だからと言って、セブがミアへの愛を失った訳ではなかった。きっと彼は、彼女が女優として成功するにしろ、夢を諦めるにしろ、いつでも戻って来られるように、もしもの時を考えてその場所を空けていたのではないか。或いは、ミアの気持ちに応えてやらなかった事に対する贖罪の気持ちもあったかも知れない。(こういう時、たいていは男の方がセンチメンタルな発想をするものだ…笑)何れにせよ、別々に選んだ道の先でお互いが成功した事で、「もしも」が起こる事は無くなる。それでも、彼に後悔は無い。彼女が頑張っている姿を見ていたからこそ、自分もそれに負けまいと頑張って来られた。別れた過去を無駄にしないために…。だから、これで良かったんだ。君と出会い、恋をしたから、僕は今ここに居られる。そんな想いが、セブの最後のあの表情になって表れたのではないかと思う。ここは「メイド・イン・ハリウッド」だからこそ深みが増すラストシーンだと言える。更に、「セブがミアに捨てられた」と思いながら観るのと、「セブがミアのために身を引いた」と思って観た時とでは、その表情の見え方が違って映るのも、この作品の凄い所だ。チャゼル監督は、そこまで計算した上で、セブ役のライアン・ゴズリングにあの表情をさせたのだろう。そこにも、若き才能を感じた。以上が、僕の観た【ラ・ラ・ランド】の全容だが、どうだっただろうか。まあ、異論・反論はそれぞれにあるだろうが、僕がこの映画のどこに感動し、何を評価してあの点数を付けたのか、その理由は理解してもらえたと思う。さて、次回は「この映画を宝塚で上演するとしたら…」について書いてみたいと思う。完全に余談だと思って読んで欲しい(笑)。
2019.05.15
最初の感想にも書いたが、この映画における「歌」と「ダンス」は、主人公達の「夢」や「恋」を彩るための演出として用いられている。だから、2人の夢と恋に陰りが見え始めると同時に、そうしたミュージカルの要素も鳴りを潜(ひそ)めてしまう。その歌が再び蘇るのが、ミアがセブに促されて受ける最後のオーディションの場面だ。ここでの歌は、しかしミュージカルと呼ぶには余りにか弱く、頼りない。それは、挫折したミアがもう一度夢に向かって歩き出す時の、不安や躊躇いを表現しているからに他ならない。この辺りからも、【ラ・ラ・ランド】におけるミュージカルの位置付けが見えて来るのではないかと思う。そして、この映画における「巨大な飛行石」とも呼べるのが、オーディション後にミアとセブがベンチに座って語り合う場面だ。ここでの2人の会話を、どう受け取っただろうか。離れ離れになる恋人同士が、お互いの気持ちを確かめ合っている…?答えは「NO」だ。ここは、紛れもなく「別れ」の場面である。「でも、2人は互いに『愛してる』と言っているじゃないか!?」と思われるだろう。しかし、「愛してる」という言葉が、常に「愛してる」という気持ちだけを表現しているとは限らない。セブと話している時の、ミアの表情に注目して欲しい。彼女は気付いたのだ、彼の言葉が別れを告げている、と…。「あとは様子を見よう」という言葉は、2人の恋にこの先が無い、つまり「さよなら」を意味している。(少なくとも、彼女にはそう聞こえた)だから、自分の背中を押してくれたセブに対して、「ありがとう」と「さよなら」の気持ちを込めて、ミアは最後に「ずっと愛してるわ」と答えたのだ。「別れ」の場面で、敢えて「愛してる」という台詞を言わせる。或いは、「さよなら」という言葉を使わずに「恋の終わり」を演出する。これぞ正に「ハリウッド流」であり、チャゼル監督の非凡な感性が発揮された場面だと言える。そんな監督の意図に、こちらも正に「オスカー級」の演技で応えみせた、エマ・ストーンの表現力も鳥肌ものだ。このシーンは、何気ないやり取りに思えて、実は脚本と芝居とが見事に結晶した最高の場面である事を強調しておきたい。この演出で、この映画に対する僕の評価(★★★★☆)もほぼ決まった。これに続く2人のやり取りも、短いながらはっきりと別れを象徴している。セブ「この景色」ミア「よくない」セブ「最悪だ」ミア「ええ、昼間は初めてよ」グリフィス天文台は、2人が初めてキスを交わし、恋が始まった思い出の場所だ。にも拘わらず、彼らはそれを「よくない」「最悪だ」と言う。これは2人の恋がそこで一旦終わり、お互いの気持ちがフラットになった事を表している。「昼間」という表現も、彼らが幼い夢から醒めて、冷静に現実を見られるようになった隠喩だ。(2人の恋が「夜」から始まった事とも対比させてある) →→ (景色の映し方も、恋の始まりと終わりを表現している)だから「ミアが裏切って」とか「現実的な判断をして」他の男性と結婚したという解釈は、全くの的外れなのだ。(そもそも、あの場面で別れを切り出したのはセブの方だ)2人は、既にあの場面で大人の判断をして別れている。そして、大人になったからこそ、2人は互いに夢を叶える事ができた…。前回も述べた通り、この作品のテーマは「ミュージカル」でもなければ「恋愛」でもない。徹頭徹尾「ハリウッド」だ。それを踏まえた上でこの場面を解釈しないと、ラストの展開も正しく読み解く事はできない。とは言え、普通に観ていて、あそこが別れの場面だと気付く人は滅多にいないだろう。(僕も「この景色ー」のくだりが無ければ見過ごしていた所だ)チャゼル監督としても、寧ろ気付かれない事を前提に、あの場面を撮ったように感じる。恐らく、その方が観客の驚きも大きくなり、ラストの展開に様々な解釈が生まれて面白いと考えたのだろう。その大胆かつ挑戦的な発想も、個人的には気に入った。次回はいよいよ、その2人が再会する場面について書いて行きたい。
2019.05.13
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