仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.05.16
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カテゴリ: 宮城
週末の河北新報に、18歳選挙権の実施に関連して、宮城県教委が県立高校内の取材を規制する通達を出したこと、そしてそれを問題視する論調の記事が出ていた。

変だなとまずは感じた。次いで今日(16日)には各紙が報道。昼や夜のNHKTVでは、県教育長のインタビューも含めて全国ニュースとして流れて、驚いた。と同時に、納得できた部分もある。

私の場合、何を変だと思い、何を納得したのかというと、規制の是非そのものではなくて、メディアの姿勢だ。

まず、河北新報の最初の報道(5月15日が最初だと思われる)は、要点はこうだ。

○ 県教委は、生徒に対する校内のメディア取材の規制を求める文書を、10日に県立高校あて送付していた
○ 通知では、メディアの取材に対して個人の思想信条や政治課題への賛否などを回答することが生徒にとって過剰な負担となると指摘
○ また、学校が特定の生徒を紹介することで、(生徒が)回答せざるを得ない状況を作ることは不適切
○ 生徒が校外で政治活動や取材受けることは問題ないとしている
○ 識者の声「生徒が政治について発言できる機会を奪うのは問題。教員に規制を迫る内容で、現場の萎縮に。」

おかしいと思うのは、生徒の発言を封じる趣旨の通達と記事は言い切っており、「校内では一切メディアに対し回答をしてはならない」=「(校長は)生徒に校内でメディア向けの回答をさせてはならない。すなわち取材させるな。」という趣旨の通達をしたと言いたげだ。

しかし、常識的に考えて、一切の学校内の取材をダメという通知は考えられない。この謎は、16日の朝日や読売の記事(いずれも宮城県内だけだろう)で何となく解け、NHKニュースで納得できた。すなわち、両紙の見出しのように、県教委が不適切としたのは「取材対象の生徒を学校が紹介すること」なのだ。

NHKで報道しているように、ある報道機関が若者の投票意識を調査するために生徒を紹介するよう学校に求めたのだそうだ。県教委に相談して、仲介は不適切だが、生徒を公募する形なら対応適当、としたものだ。仲介を不適切とする理由は、その生徒が学校の代表となることになり過剰な負担になる、というもの。

県教委の判断には理由があると思われるし、学校内の取材を一切禁止という趣旨でもない。趣旨は、生徒を学校が仲介することを不適切としたもののようだ。

どうやら、取材対象者を生徒の仲介を学校に頼んだ「報道機関」が、仲介を断られて、意趣返しとばかりに「取材規制だ」と報道したということのようだ。そもそも、取材対象者を学校にあっせんさせること(詳細はわからないが極めて安易の印象受ける)が、客観的で公正な報道をする(と信じたい)メディアのすることかとも感じる。生徒を選ぶならメディア側が、学校側の選択によらず自己責任で選ぶだけの話だろう。その点こそ責められるべきでないか。しかし、最初の報道ではこのことはあえて隠して、虚勢を張っているようにも感じられる。

なお、県教委の判断の是非はどうだろう。上に理由があると記したが、実際に考えてみる。先生が、「○○新聞からこんな取材の申し入れがあったから、○○君対応してやってくれないか」と言うとする。その生徒はやる気満々になるかもしれないが、他の生徒や保護者はどう思うだろうか。また、意見の多様性や公平性の担保はだれがどう確保するのか。やっぱり、教育現場の配慮としては、学校側が仲介するのは困難だろう。公募の形も一法だし、教育活動の全体を取材する中で、マスコミが生徒にインタビューする(多様性を客観的に報道するかどうかはマスコミの信用に依拠だが)、などもやり方として考えられるだろう。

読売新聞とNHKでは、東北大学の准教授が「取材を受けるかどうかは校長が判断すべきことなのに教委が過剰に介入」「学校にマスコミ来ると萎縮するという判断はわからなくはないが、取材拒否は生徒が表現の機会を失ってしまう。取材を受けるかどうか含めて学校や生徒に委ねるべき」というような趣旨のコメント。正論ではあるが、これも県教委は取材を広汎に規制する趣旨であることを前提にしているようで、多少ズレている。また、規制を極小化すべきという価値判断は、表現の自由や民主主義の実現を踏まえれば当然ではあるのだが、未成年者に対する一定のパターナリズムも必要だ。

戦争責任や国旗国歌など、教員の教える自由や生徒の知る権利などをタテにして野放図で無責任な「教育」活動が一部に存在したことを思い出す。選挙権が18歳に引き下げられて、成年制度の再検討の機運もあった。だが、高校生がいまだ未成熟であることは事実だろう。確固たる自己を確立して、すべて自己責任で対応すべし(できる)という人間像を観念するのは、虚構だ。どうしても、流されるとか、暴走するとか、いう面はある。介入や統制ではなく、適切な教育的配慮は常に必要だ。

従って、重要なことは、生徒や(未成年である以上)保護者の考えも受け止めながら、学校内での政治教育のあり方や取材に対応する仕方などの調和点を探っていくことだ。東北大学の准教授がいうように、学校の判断、つまり学校毎に異なってももちろん良いと思う。

マスコミが取材活動をなるべく自由にすべきことは、現代社会において高次の価値である。萎縮をもたらすような不必要に広汎な規制や、一律的な規制は、すべきでない。それはまず認めなければならない。しかし、それは、マスコミ自身の自由を通じて究極的に国民市民の表現の自由を確保するためだ。決して、マスコミ自身の「取材の段取りのやりやすさ」を保障するのではないだろう。

ただし、問題は学校現場のとらえ方にもある。学校長の判断と言われても、新しい事態に直面して何らかの他律的な規準を求める本音もあって、それに県教委が配慮したという実情もあるだろう。学校側では、「校内の取材は一切だめ」と理解している可能性もある。文書にどう書いているのかわからないが、報道では、「校外で生徒の意思で取材を受けるのは構わない」という趣旨の記載はあるようだから、生徒の自主的な意思であっても、「校内」では一律にダメだというように理解されるような内容なのだろうか。(もっとも学校管理者として行きすぎた取材は当然断るべきだが。)





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最終更新日  2016.05.17 00:53:35
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