全240件 (240件中 151-200件目)
「田植えの終わった後の楽しみは、『やっこめ』じゃった」と父がいつものように語り始めた。やっこめとは、焼き米。米を、焙烙(ほうろく)で炒って作る。焙烙(ほうろく)は、素焼きの平たい土鍋で私の子どもの頃は、やっこめ以外にも豆を炒ったりするのにも使われていた。出来上ら、茶碗にやっこめを入れ、上から熱いお茶を注ぎ、塩を適量入れるのが一般的な食べ方。田植え用に使う、種もみを少し残しておいて作る、やっこめは、「種やっこめ」と言って、この季節の楽しみだったと父は言っていた。私は、子どもの頃、やっこめを食べた記憶がある。女たちが、一握りづつ持ち寄って作ったと言われる、昔の種やっこめ。それは、この時期の待ち遠しい味だったことだろう。そして、今ではだれも作らなくなり、その味は、50年以上前に消えてしまった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年5月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.05.26
コメント(0)
私の子どもの頃のトイレは、便所とよばれていた。家の外に建てられたもので汲み取り式だった。今のようにトイレットペーパーなどなく、代わりに新聞紙を切って使っていた。新聞紙を便所紙に切るのは、もっぱら私の仕事だった。新聞をを半分に切って、1面にする。それを半分に切る。またその半分に切って、また半分に切る。1面から8枚の便所紙が作られる。それを籠にいれて、便所の隅に置くのだった。便所は、粗末な板と、粗い土壁で出来ていて、もちろん鍵などついていない。ノックということも知らなかったので外から「入っとんか?」と声をかけるのが習慣となっていた。「わしの、子どもの頃は・・・」と父が言った。「便所には、エヘンの神様がおる。じゃあから、便所に入る時にやぁ、『エヘン』と咳払いをせにゃぁ、ならんのじゃ言われとった。」私の子どもの頃でさえも、早、半世紀以上がたった。それよりも何十年も前の話だ。今や、日本中の便所はトイレになった。鍵もついたので、エヘンの神様もいらないのかと思っていたら、「トイレの神様」という歌が流行っている。●写真は中国のトイレ。・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年4月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.04.26
コメント(0)
生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は不随だった。明るく口の達者な父は身体障害者の会の会長をやっていた。そのつながりだと思うが、30代後半の聾唖者(ろうあしゃ)のKさんもうちによく来ていた。陽気な彼は、身振り手振りで、いろいろしゃべる。難しいことは、土間に棒切れで字を書いての筆談。内容は、たぶん、愉快なことだったのだろう。声にならない声で、Kさんは笑った。父も陽気な彼の身振り手振りを大笑いしながら答え、同じく難しい言葉は、左手で土間に棒きれで字を書いた。父は選挙運動なども活発にやっていたので、政治の話をするなどして、Kさんは、父のいい友達だった。ある日、突然、Kさんの死を知った。聞けば、盲腸が手遅れになったとのこと。「戸板に乗せて運んだそうな・・・。」「かわいそうに・・・。痛かったろう・・・。」「ものさえ言えてたら助かったのになぁ・・・。」「かわいそうに、Kさんの嫁は・・・。」父と母は、代わる代わる、そう言いながら、涙を流してKさんの死を悔しがった。今なら、ファックスで知らせることもできる。Eメールで誰かに助けを求めることもできる。しかし半世紀以上前は、知らせ手だてもなく手遅れになった聾唖者たちが、どれほどいただろう。最近、手話を学習する人が増えた。私も英語を習うように、手話を習ってみたいと思いながら、もう10年以上たった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.03.26
コメント(0)
生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は不随だった。そのためか、どうかは知らないが、父は結婚をする事は、ないだろうと思っていたという。しかし父は結婚しようと決心した。わずかばかりの田んぼと母親との貧しい暮らしで、妻や子供を養えるのか・・・と父は考えたことだろう。しかし、その不安よりも、家族を持ちたい。自分も妻や子どもとの賑やかな暮らしをしたいというおもいの方が強かったのだろう。その強い思いが父に結婚を決意させた。8人きょうだいの末っ子として、大切に育てられ家事を母親や兄嫁にまかせ、好きな歌や踊りで陽気に暮らしていた母。何不自由のない、のびのびした暮らしから、姑のいる農家、しかも貧乏な農家に嫁ぐのには、そうとうな覚悟がいったことだろう。結婚してすぐ、母は気難しい姑に泣かされる日々が続いた。その姑が病気で長患いし、もともと貧しかった家計は、火の車となった。ふたりは、死ぬまで貧乏だった。しかし、ふたりは、死ぬまで幸福だったと私は確信している。ふたりでよく笑い、子どもを愛した。家の仕事も楽しそうにやっていた。貧乏ではあっても、愛する家族がいて共に生きる人がいた。最近、孤族という言葉をよく聞く。貧しくて結婚も出来ず、たったひとりぼっちで暮らす人の多いこと。男性は、「こんな安月給では、結婚できない」と諦め、女性は、「金銭的に安定した人がいないから結婚できない」と言う。父や母の結婚した戦後すぐと今は違う。それを分かってあえて思う。貧しくとも誰かと共に生きることはできないのだろうか。結婚し、家族が増えることの喜びを知ってほしい。父と母がそうであったように・・・。ひとりで生きるには、人生は長すぎる。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年2月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.02.26
コメント(2)
子どもの頃、村の子どもたちは、ウサギを飼っていた時期があった。父に家の軒下に小さなウサギの小屋を作ってもらって、私もウサギを数匹飼っていた。子ウサギは、1年もすると大きくなり、子どもを産むこともあった。数匹のネズミのような小さな産まれたてのウサギを親と一緒に育てた。餌は、大根の葉などを食べさせたが、足らないので私が草をとりに行った。学校から帰ると、真っ先に、籠を持ってウサギの餌となる草をとりに行く。ウサギが喜ぶと聞いていたのは、レンゲ、クローバなど。その他にも、マメ科のカズラの葉を採ってかえった。学校から帰ると遊びたいという誘惑に負けて、ウサギの餌を採りに行かない時もよくあった。そんな時は、父が大声で怒った。「ウサギの餌を採りに行け!」父は、ウサギを飢え死にさせるつもりか怒っているのだった。私は慌てて、籠をもち、草をとりに走った。雨が降りそうな時に遊んでいる時も怒られた。ウサギに雨に濡れた草を食べさせてはいけないというので、雨の降る前に草を刈り取っておかないといけないからだ。そんな思いをして1年間育てたウサギを、子ウサギを残して、村に来た商人に売った。彼は、私以外の子どもからもウサギを買っていた。売れたわずかなお金は、私のこづかいとなった。この日から、また子ウサギを育てる日が続く。こうして、数年、私はなんの疑いも抱かずに、ウサギを育てていた。あのウサギたちは、毛皮として売られていたのだろう、と今頃になって思う。 昭和30年代の前半、村には、ウサギの毛皮を身にまとった、人間などいなかった。みんな、着ものを縫い直して、ちゃんちゃんこや、綿入れにしたもの、何回も編みなおしたセーターで寒さをしのいでいた。■父の麦わら帽子■■ウサギネタ■■毛皮は必要ですか?■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2011年1月26日*左義長/父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2011.01.26
コメント(0)
♪いちれつらんぱん破裂して日露戦争始まった~。子どもの頃に、意味も知らずに歌っていた歌だ。私の祖父は、明治10年(1877年)生まれ。日露戦争が始まったのが明治37年(1904年)だから、祖父の27歳の頃だ。その、軍事訓練は鳥取砂丘で行われた。鳥取から、岡山へは、屋形船で帰った。 NHKのドラマ*坂の上の雲*を毎週見た。明治のはじめを生きた人たちを描いた司馬遼太郎の小説だ。父から聞いた祖父の日露戦争の話で、私には日露戦争を実際にあった戦争として、とらえることが出来る。日露戦争の時と思われるセピア色の写真がうちにある。その写真は、「坂の上の雲」に出てくる将校たちのようにかっこいいものではない。けれども、その写真は、祖父のたった一枚の写真である。■父の麦わら帽子■(1)一列談判破裂して ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2010年12月25日*「大きな森の小さな家」のクリスマスプレゼント *・・・・・・・・・・・・・・
2010.12.26
コメント(0)
11月6日(土)。■9月19日に亡くなった母の■の四十九日の法要に岡山まで行ってきた。誰にも知らせずに、寺で行われた法要は、6人という少ないものだった。寺の奥さんが、祭壇を飾ってくれた。それを見て、60代の従姉が言った。「まあ、すみません。よだたせまして・・・。」懐かしい言葉だった。 岡山では、「面倒」「難儀」などを「よだつ」と言う。母は、よく、おこわや赤飯、お寿司を作った。爪を伸ばしている子どもを見ると、他人の子どもでも、その爪を切った。よく、旅行に出かけた。何ごとも、よだつことなくこなした。よだつという言葉は使わなくなったが、妹が、母のその性格を受け継いでいる。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2010年11月25日*芋たこなんきん:「昭和恋々(れんれん)」 *・・・・・・・・・・・・・・
2010.11.26
コメント(0)
私が子どもの頃、祭がすむと父は、冬支度にはいります。薪用の木を山に採りに行くのです。持ち帰った木は、「カド」とよばれる家の前庭に置かれます。それを、父が暇を見つけては切るのです。几帳面な父は、同じ長さにするために、30センチくらいに切った木を用意します。それをあてて、ギコギコギコギコ・・・。そして、家の西側の軒下にそれを積み上げます。 来る日も、来る日も続けるのです。やがて、ピッタリとサイズの揃った薪が西側の軒いっぱいに、なります。すると父は満足そうに笑いながら言うのです。 「タキモン(薪)がこんなに、仰山あるのを見るのは、気持ちが豊かになるなぁ。」楽しそうに仕事をしていた父にひきかえ、先日、梅の木の枝を切りに実家に行った私と妹は、たった一本の木にフラフラ。10年くらい前までは、風呂は薪で焚いていました。西の軒下には、まだ、半分ほど父が作った薪が、整然と積まれていました。父と母が二人で作った味噌も、好い匂いがしていました。もう、無人になって5年以上たつのに、そこここに、父の残したものがあるのです。薪は無くても、父がいてくれたら、どんなに暖かい会話が出来たでしょう・・・。26日は、2002年2月26日に亡くなった父の命日です。■2003.10.26 ・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2010年10月24日*道普請/公園づくりの仲間になって下さい!*・・・・・・・・・・・・・・
2010.10.26
コメント(2)
母、A子は、大正11年1月15日、岡山県を流れる吉井川の下流の町、Oに生を受けた。戦後間もなく、父、H男と結婚し、吉井川の支流の村、Hに暮らした。父の母親の里が吉井川の上流、江見というのは、なにか不思議な、えにしを感じる。娘時代は、8人きょうだいの末っ子として、大切に育てられた母は、家事を母親や兄嫁にまかせ、好きな歌や踊りで陽気に暮らしたそうだ。嫁してからも、のど自慢大会に出たり、踊りに行ったり、コーラスグループに入ったりと変わることはなかった。その陽気で楽天的な性格が貧しかった暮らしをどれほど救ったか・・・。その母が亡くなったのは、私と妹がヨーロッパから帰って、3日後の9月19日の夜8時35分。その日の数時間前、私は、病院に入院している母を見舞ったところだった。親不孝な娘たちを最後まで見捨てずに待っていてくれたような死だった。川の流れに沿うように行き、暮らし、そして死んだ母。戒名はなく、葬儀は、家族葬でひっそりと、しかし賑やかに行われた。88歳だった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2010年9月7日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2010.09.26
コメント(0)
今から50年以上前の、私の小さい頃の夏休みの楽しみは、七夕、盆踊り。そして、8月23日の夜の地蔵盆だった。30軒ほどの小さな集落の中にある祠。日が暮れると、そこに、子どもたちが集まる。村の母親たちが総出で、音頭を取りながら、踊る。もちろん、子どもたちの踊る。小学校や寺でやるような大掛かりな盆踊りではなかったが、家からすぐの場所で顔見知りの人ばかりの中で、過ごす夜は、楽しかった。ひとしきり、踊ると「さあ、並んで・・・。」とうながされ、並ぶと、白い紙に白砂糖を一つまみ。甘いものと言えば、スイカかサトウキビくらいしか食べない当時の子どもにとって、白砂糖は、ショックな甘さ。とっておいて、砂糖水にしよう、と思い、眺めているうちに・・・。「チョットだけ・・・。」舐めたいという誘惑に負けて、ついつい舐めてしまう・・・。夏休みのはじまった頃は、いつまでも続くと思う長い長い休みに思えた。しかし、地蔵盆が終わる頃、この楽しい夏休みがもうすぐ終わるのかと、寂しい気持ちになってきた。■川で泳げるのも、■もうあと数日・・・。50年以上前の地蔵盆の頃には、心なしか風は涼しく感じた。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年8月23日*トリビアの井戸:七日盆の髪洗い/*・・・・・・・・・・・・・・
2010.08.26
コメント(0)
私が子どもの頃の川はいろいろな使われ方をした。畑からとって来たダイコンを洗うのも川だったし、汚れた衣服を洗濯するのも川だった。真夏になると、子どもたちは、■川で泳いだ■。小さな川だったが、豊かな食糧を供給してくれる場所でもあった。春の川原にはセリが、夏にはカワニナをとって食べた。カワニナとりは子どもが主役だったが、大人が主役になる漁もあった。それは、鰻モジ。竹で編んだ仕掛け、モジでウナギを捕る漁法だ。モジはモジリとかモンドリともよばれている。ウナギの他にカニも捕ったが、それは「ガニモジ」とよばれていた。モジは竹で筒を編み、筒の中に餌を置いて、ウナギをおびき寄せる。モジの入口は、広く、いったん、モジの中に入ると出られなようになっている。もちろん、このモジを作るのも大人だ。父の従兄の虎太は、竹細工職人だったので、「モジを仕掛けてくる」と言って、自分で作ったモジを持って、うちの前を通って川に行った。 虎太は、ウナギを捕れたのだろうか?今日、7月26日は、土用の丑の日で、ウナギのかば焼きを食べた。私の子どもの頃、土用の丑の日にウナギを食べるなんて知らなかった。ウナギのかば焼きという言葉も知らなかった。けれども、身近な川には、ウナギがいた。それは、今の土用の丑の日に必ずウナギを食べられることよりも、豊かなことなのかもしれない。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年7月21日*父の麦わら帽子:ドンブラコ、ドンブラコ・・・/天気のことわざ2*・・・・・・・・・・・・・・
2010.07.26
コメント(0)
銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。文字を持たないアイヌが、口伝えに伝説や神話を伝えたように右手の不自由だった父も、書くということはしないで、もっぱら、しゃべって、いろんなことを伝えた。そんな中に父の伯父、■健三郎の妻・タマノは、■二人目の子供が生まれる産後の肥立ちが悪く、死の床に着き、父親にも会えないまま死んでしまったことを父から何回も聞かされた。この話には、続きがある。タマノの残した子ども、父のいとこは、名前を友一(ともいち)と重次(しげじ)と言った。タマノの死後、父親が再婚し、二人には新しい母親が来た。しかし、二人が新しい母親になつかなかったのか、継母が可愛がらなかったのか、折り合いが悪かった。死んだ母親を恋しがり、そんな二人を継母はこころよく思わなかったのかも知れない。友一と重次は、家を出てよく、籐田(とうだ)とう所にある、親戚の家に行ったそうだ。ある日、兄の友一は弟を誘った。「シゲ、藤田(とうだ)に行こう。」二人は、歩き始めた。親戚の家は、子どもの足で歩いて何時間もかかる。そのうち、幼い重次が足が痛いと泣き始めた。「シゲ、もうちょっと、我慢せぇ」と友一は、言い聞かせたが、弟の重次は泣きやまない。なだめても、泣きやまない弟の重次に兄の友一は、こう言った。「なぁ、シゲ、あそこに、トロッコがある。あの中で座って休もうか。」家からもう、だいぶ歩いていた。この辺りには、柵原(やなはら)鉱山から出る鉱石を運ぶ片上鉄道があって、そのためにトロッコが置かれていたのだった。兄の友一は、トロッコに上がり、弟を引き上げた。泣いていた重次も喜んだ。それからしばらくして、疲れていた二人は、そのトロッコの中で眠ってしまった。やがて、暗くなっても帰ってこない幼い兄弟に村中、大騒ぎになった。村中、総出で探したが見つからなかった。翌日、何事もなかったかのように、兄弟が帰って来たと父は涙を流しながら何度も話してくれた。父から聞いた、この話を思い出したのは、台湾の深い緑の中、トロッコに乗った幼い兄弟たちのシーンがある映画■「トロッコ」■を見たからかも知れない。父のいとこにあたる、友一と重次は、二人とも若くして亡くなった。私の父と子どもの頃、一緒に遊んだこともある、友一と重次。母親の姿を知らない二人の幼い兄弟を想うたびに、胸がキリキリと痛む。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年6月23日*探偵!ナイトスクープ:にわか*・・・・・・・・・・・・・・
2010.06.26
コメント(0)
この時期、農家は忙しい。田植えが迫ってきているからだ。私が子どもの頃は、田植えも、田植えまでの準備もいっさい機械を使わなかった。田植えの前に、「田起こし」という、田んぼの土を砕く作業。そして、「代掻(しろか)き」、とよばれる田んぼの土を平らにならす作業がある。どちらも、牛を使う。田起こしには、「鋤(すき)」を引かせ、代掻きには、「牛んが」とよばれる、櫛を太くしたような農具をつけて行っていた。どの家にも、牛がいたからその牛を使った。しかし、うちには、牛がいなかった。■祖母が長患いして■その治療代として、牛を売ったのだった。父は、同じ村に住む、自分の弟に頼んで、うちの田んぼの田起こしと代掻きをしてもらった。そして大切な牛を貸してもらうのだからと、大百姓の叔父の家の田植えを家中みんなで手伝った。結(ゆい)という言葉がある。結とは労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくために共同作業をおこなうこと。もしくはそのための相互扶助組織のことをいう。私が子どもの頃、我が家の田植えは、結で成り立っていた。それは、あちこちに牛がいた時代だ。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年5月22日*竹の襲撃*・・・・・・・・・・・・・・
2010.05.26
コメント(0)
銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに・・・。そう歌いながら、文字を持たないアイヌは、口伝えに伝説や神話を残した。右手の不自由だった父も、書くということはしないで、もっぱら、しゃべって、いろんなことを伝えた。「ワシのお父(とう)は男ばかりの3人兄弟じゃった。お父(とう)には、弟がいて、名前は健三郎と言ったんじゃ」と父は話し始めた。父が生まれるずーっと前の明治も30年代か40年代の頃の話である。健三郎の妻・タマノは、二人目の子供が生まれると産後の肥立ちが悪く、寝付いてしまい、とうとう命が危ないというところまで衰弱してしまった。父の叔父、健三郎は「タマノが病気。すぐ来て欲しい」とタマノの実家にハガキを書いた。タマノの実家は、同じ岡山県内とはいえ、嫁ぎ先から、歩いて半日の、「あらがたに」というにあった。ハガキを受け取ったのは、タマノの父親だった。しかしタマノの父親は、文字を読むことが出来なかった。誰かに読んでもらおう・・・。タマノの父親は、そう思って、ハガキを懐に入れていた。そして、一週間ほどが過ぎていた。タマノの父親は、近所にもらい湯に行った。着物を脱ごうとして、はらりとハガキが落ちた。その場にいた人が、拾って読んで、ビックリして言った。「おじい、タマノが病気じゃあ。早よう、見舞いに、行かにゃあ!!」タマノの父親はビックリして、翌朝、すぐ、タマノの元へと出発した。しかし、駆けつけた時には、すでにタマノの死んでいて葬式も終わっていた。銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。あるときは、楽しく、あるときは、悲しく、父の話は続いた。父の父、私にとっての祖父は、明治10年生まれ。健三郎が若い頃、明治45年生まれの父は、まだ生まれていなかった。しかし、その場に居合わせたかのようにしゃべった。先日、娘たちと母の見舞いに行った時、ふと、タマノとその父親のことを思い出した。文字が読めたら・・・。生きている間にタマノに会えただろうにとタマノの父親の、無念を思った。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年4月日**・・・・・・・・・・・・・・
2010.04.26
コメント(2)
子どもの頃のうちの家の中はガランとしていた。あるのは、祖母が嫁入りに持ってきた、昔の小さな箪笥と母の嫁入り道具の箪笥、小さな鏡、針箱 親戚からもらったちゃぶ台。土間には、母の持ってきた小さな下駄箱。それが、ほぼ全ての家財道具だった。もうひとつあったのが、小さな座り机。艶やかな一枚板の机は、ふたつの引き出しがついていた。「この机は、お父(とう)が、ワシが小学校に入る時に、買(こう)てくれたもんじゃ」と父は言っていた。明治45年生まれの父が小学校に入学した当時、机を入学の祝いに買ってやる親はまだ少なかったろう。もちろん、大工に頼んだ別注だそうだ。この机は、勉強机として私に譲られた。しかし、勉強することが好きではなかった私は、宿題もそこそこに、外で遊んだ。しかしこの机は、うちのいろんな行事には欠かせないものだった。雛祭が近くなると、床の間にその机をあげ、その上に、雛祭になると小さな一対の雛人形を飾った。七夕になると裏の縁に出して、短冊を飾った竹、2本の前に置き、机の上にナスビの牛、キュウリの馬を飾った。うちでした祖母の葬式の時には、この机がお骨や線香を置いた。私が子どもの頃、すでに数十年の時を生きていた机。長男として生まれた父の入学を祖父が喜んで頼んだのだろうか。■右半身が不自由な子どもとして育った父■は、深い親の愛情をこの机に感じていたのだろう。その想いが私たちにも伝わったのか、私は今もこの机を大切にしている。今年は孫のちゅん太が小学校に入学する。彼は新しい机を買ってもらったと喜んでいた。出来ることなら、その机が彼の人生を豊かなものにする道具であってほしいと思う。父の机がそうであったように・・・。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2020年3月26日*行楽シーズン到来♪父の麦わら帽子:花ぞ昔の香ににほひける /*・・・・・・・・・・・・・・
2010.03.26
コメント(0)
子どもの頃には、冬の休みには、家族そろって、山に薪用の木を切り出しに行った。家のご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりするために、薪は必要品だった。荷車に、やかんやはんごうを積んで、父が引き、母が後ろから押した。荷車がやっと通れるほどの谷間の坂道を登って行く。溜池を3つ越えると目的地の山に着く。母は、荷車からはんごうややかんを下し、火を焚きつける。その間に私は、やかんを持って小さな泉に行き、水を汲んでくる。母は、はんごうに入った米を泉の水で研ぎ火にかける。それから皆で、近くにある木や枯れ枝を荷車に積む。父や母はナタやノコで、私たち子どもは、枯れ枝を拾って・・・。昼には、はんごうで炊いたご飯に持ってきた漬物、、ツケアミと呼ばれる、アミの塩漬を空き缶に入れ温めたものがおかずだ。昼時になると、父は木の枝で箸を作ってくれるのだった。焚き火を囲んで、木の香りのする箸で食べる炊き立てのごはんと、熱々のツケアミは、ごちそうだった。それは、大人にとっては、厳しいものだったのかもしれないが、私たち子どもにとっては、ピクニックか日帰り旅行のようなものだった。子どもの頃、家族旅行というものをしたことがないが、冬になると、小さな日帰り旅行をしていた。遊園地のような華やかさはないけれど、山で食べる昼ごはんや家族みんなで働いた満足感は、なにものにも代えがたい大切な思い出だ。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.02.26
コメント(0)
私の祖母は、私が6歳の時に死んだ。父や母から聞いた話では、手八丁口八丁のやり手だったそうだ。しかし、思い出の中の祖母は、奥の部屋の片隅にひっそりと寝ていた。そんな祖母にとって、部屋をウロウロする私は、格好のなぐさめだったのかよく、「来い、来い」と手招きした。けれども、幼い私は、薄暗い部屋よりも光あふれる、賑やかな戸外に心をひかれた。ある時、祖母は私に「これを孝雄(仮名)に渡してくれ」と白い紙を渡した。孝雄とは、父の8つ離れた弟で、同じ村に住んでいた。当時、薬は、真四角の白い小さな袋に包んで渡されていた。祖母は、薬を飲んだ後の紙に鉛筆で手紙を書いたのだ。当時の私にはカタカナだらけの文字は読めなかった。祖母は近所に住む叔父に何を書いたのだろう?私の家よりも豊かだった叔父に金の無心をしたのだろうか?食べたい物を買ってきてくれるように頼んだのだろうか?会いに来てほしいと頼んだのだろうか?しばらくして、「孝雄に渡してくれたか?」と聞く祖母に「うん・・・」と私は答えた。しかし私は叔父に祖母の手紙を渡さなかった。なにか、うちの家の悪口を書いていたら大人たちが困ると子供心に思ったのだ。その後、数回、祖母から手紙を託されたがその度に誰にも内緒で握りつぶした。昨年12月末に私は怪我をして入院をした私を6歳の孫が見舞ってくれた。私のベッドの上に乗って、無邪気に喜ぶ孫の顔を見て、ふと遠い昔を思い出した。あの時、祖母の手紙を叔父に渡した方が良かったのではないか・・・。50年以上前のことが、いまでも抜けないトゲのように私の心にささっている。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2010.01.26
コメント(0)
「ワシは、子どもの頃から、口が達者で『口上(こうじょう)でこ』ゆう、あだ名じゃった。」一昨年、故郷の祭に行く車の中で突然、父が言った。「えっ、『口上でこ』?初めて聞くわ、その話」と私と妹は声を揃えて言った。「口上」とは、~とざい、とーざい、・・・~ではじまる、歌舞伎などの口上。「でこ」とは、人形のこと。人形浄瑠璃の人形使いの事を、母などは、「でこ廻し」と言っていた。「立て板に水」のごとく、喋る父は、子どもの頃からだったんだなと、父と母、それに、妹と私は、笑った。その「口上でこ」が今度は、自慢をはじめた。「ワシは、竹箒を作るのが、上手じゃった。」父は、いつも、あっけらかんと、自慢する。あまりに無邪気に自慢をするので、聞く方も、それが楽しくなってくる。「そうそう、上手じゃった」父と一緒に、後部座席にいる母も会話に入ってくる。「いつじゃったか、○○ちゃん(妹)、が小さい時、子供用の小さい、竹箒を作ったな。」「そうそう、作ったな、子供用の竹箒・・・」と老夫婦が思い出にふける。父と母は同じ老人ホームに入っているが階が違う。妹は、その老人ホームから車で20分くらいの所に住んでいる。私は、妹の家から、電車で2時間ほど離れた所に住んでいる。離れ離れに、暮らす私たちにとって、故郷へ向かう車の中は、つかの間の懐かしい茶の間。父が生きていたら、またこんな会話を交わしながら正月を過ごすために行ったであろう、故郷。故郷が遠のいていく・・・。父が死んだ2002年2月26日から、私には故郷と呼べる地はなくなった。~故郷とは生地にあらず「家族」という花ことば持つ花咲くところ~ 俵 万智■2003.12.26●削除していたものを再度、アップします。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月19日*「オリヲン座からの招待状」に見る昭和*・・・・・・・・・・・・・・
2009.12.26
コメント(0)
私が8歳の頃まで家の風呂は壊れていた。夏は行水で済ませたが、冬は村中の家をもらい湯をしてあるいた。村の中でも、皆、毎日焚くというところは無かった。焚くと「今日は、うちに、風呂を焚くから、おいで」声をかけてくれたる人がいた。言われると「ほんなら、風呂をよばれに行こう」とホイホイと出かけた。風呂をよばれる・・・。風呂は、ごちそうと同じく、「よばれる」ものだった。 子ども心にも、遠慮はあったが、風呂を待つ間の大人の話を聞くのは、おもしろかった。ウラのクマさんは、村には珍しく、植木職人で、町の暮らし振りを伝えてくれた。「町には、便利なもんがある。」とクマさんは言った。「寝ている間に飯が炊ける道具がある。」「ほー、そうか!!」と父と母は、感嘆の声をあげたが、私は、信じられなかった。「寝ている間に、ご飯が炊けるなんて、考えられない」子どもの私は、心の中でつぶやいた。「クマさんは、女道楽で、女を泣かせてばかりいる」と母が父に言ってたの聞いたことがあったからだ。そんな、クマさんの言うことは、信じられない。ご飯を焚くには、米を研いで、クドに火を焚きつけて、始めチョロチョロ、中パッパと火加減を気にしながら、焚かなければいけない・・・。寝てる間に炊けるなんてありえない。そう思ったが口には、出さなかった。 風呂場は月明かりが頼りで暗かった。水道が無いので、少々風呂が熱くても、我慢した。ぬるくても、焚いてと言えなかった。小さな石鹸が置いてあったが、使うと悪いような気がしていつもタオルでゴシゴシと体を、こするだけだった。そのタオルも、一家に1本だったから、ヨレヨレだった。けれども、入っていると「湯かげんはどうじゃ?熱かったら、水を入れようか?」とか「もっと焚(た)こうか?」などと声がかかった。今では、自分の好きな温度で好きな時間に何回でも風呂に入れる。すきなだけ、お湯が使える。石鹸も、シャンプーも、リンスも、タオルも、バスタオルもある。考えると、なんと、贅沢なことか・・・。けれども、だれも湯加減を聞いてくれないのは、少し寂しい気がする。■2002.11.17 に書いたものに手を加えました。◎父の麦わら帽子◎◎◎◎◎◎◎12月19日、PCがやっと復活。約1ヵ月間、パソコンのない生活だった。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月16日*父の麦わら帽子:永訣の朝 *・・・・・・・・・・・・・・
2009.11.26
コメント(0)
よく耳にするけど一度としてみたことのないものたち、あります。[堪忍袋の緒]、[転ばぬ先の杖]、[左うちわ]、[舌鼓]、あります。「ないもの、あります」 クラフト・エヴィング商会・著2月1日に入院した父を見舞ったのが2月3日。見舞いの品が、チュウリップの花と、この「ないもの、あります」という本。実際には、存在しないが、よく聞く言葉を商品カタログのように紹介した本。軽妙な文とイラストでかいてある.[相槌]、[思う壷]、[目から落ちたうろこ]、[おかんむり]???、おもしろすぎる。この本で、父を笑わせよう。[一筋縄]、[大風呂敷]も笑うだろうな。きっと、元気になって、この本をネタに笑う日が来るだろう。そう思っていた。妹と一緒に病院に着くと、「起こしてくれ」と父。ベッドの上に起きたので、さっそく、私は、この本を取り出して、見せた。「おもしろいよ。[助け舟]に「[金字塔]・・・。それから、こんなんもあるよ。[冥土の土産]。」父は、弱々しく笑った。読むのは、ムリだなと持って帰った。その後、2日ほどは、新聞も読んだと言う。 この本から23日後に父は死んだ。「ないもの、あります」。父が元気だったら、きっと、喜んだろう本。父は、[語り草]になってしまった。■2002.10.26・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2009.10.26
コメント(0)
子どもの頃、秋になると父は、山へ「フシ」を採りに行った。ヌルデという、木に、コブのように、ぷっくらと膨らんだ、握りこぶしの半分くらいのものが付いている。それが、フシ。大人になってから、知ったが、このコブは、虫が作る。しかし子どもの頃は、実だと思っていた。当時、フシを売ることは、数少ない現金収入だった。そのフシのついた枝を採ってきて、そのコブの部分だけ、はずす。私たちも、手伝うのだけど、まあ、何ともいえない、良いにおい・・・。おまけに、フシを入れた袋の中から、赤紫のアケビが、出てくると、手伝う手が止まる。パックリと口を開けて、さあどうぞと言わんばかりの、熟れたアケビ。子どもたちは、その、ほのかな香りと、味のアケビを、むさぼるように食べる。なにが、美味しいたって、アケビほど、美味しいものはない。アケビって、秋の味覚の王者だ、私は今もそう思っている。その他にも、父の袋の中には、まつたけや、柿が入ってたり栗が入ってた・・・。 いや、父が山に行ったのは、アケビや柿や栗、マツタケを採りに行っただけだったのだろうか。フシは、違う季節に採りに行ったのだろうか?何に使っていたのだろうか?採ってきたフシは、どこまで売りに行っていたのだろうか?確かめる人もいない今も、アケビや栗を見かけると、フシの香りを、はっきりと思い出すのだ。 ■ヌルデとフシの写真■・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2009.09.26
コメント(0)
先日、片道4時間かけて、実家に草取りに行った。暑い中を草や竹、伸びすぎた梅の木の枝を切る。父母が家を出て5年余り。村の人が家の庭や畑の管理をしていてくれた。けれど、今年は、親戚から電話が入った。「両隣が草取りをやってくれてるけど、これからどうするつもり?」故郷に行く時は、いつも、歩けなくなった父のため、私と妹が車椅子を押した。家に上がると、座れなくなった父を抱くように座った。父を守らなければ・・・という気持ちがあった。でも、それは、違ったんだよね、お父ちゃん。お父ちゃんがいたから、村の人たちは、家の草をとっていてくれたんだよね。お父ちゃんが私たちを守ってくれたんだよね。歩くことも、座ることもままならないお父ちゃんが・・・。この先、どうなるんだろう、この家や畑は・・・。一昨年の夏は、この畑の草を抜いていた父・・・。父のいない夏は、暑さだけが厳しく、私は、親にはぐれた幼子のように、心細くなった。父が死んで1年半、26日は父の月命日。~蝉時雨 父のいた夏 いない夏~ はるな■2003.08.26●2003年8月26日に書いたものを削除していました。 再度、アップします。●明日、2009年8月27日は岡山の家に行きます。 8月2日にも行ったのですが、なんと小さな家だったんだろうというのが感想です。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2009.08.26
コメント(2)
生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は不随だった。そのためか、どうかは知らないが、父は結婚をする事は、ないだろうと思っていたという。 その父に結婚を思い切らせたのは、下駄だった。父の父が亡くなって、数年。弟は他家に養子に行き、父は、母親と二人暮らしだった。その父が友人の家に遊びに行った。その家の土間に並んだ、友人の男物の大きな下駄。その横に彼の妻のものだろう華やかな鼻緒の下駄。年老いた、友人の両親の地味な鼻緒の下駄。そして、小さな子どもの草履や下駄・・・。いろんな、下駄が賑やかに並んでいた。それにくらべ、父の家には、年老いた母親の地味な下駄と父の地下足袋。父は、思ったという。大きな下駄や小さな下駄、地味な下駄や華やかな下駄・・・。そんな、いろいろな下駄のある暮らしがしたいと・・・。それは、ささやかすぎるくらい、ささやかな思い・・・。けれども、それは幸せの原点かもしれない。母と妹、私の3人で過ごす26日は、昨年2月26日死んだ父の月命日。■2003.07.26●再度アップしました。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・・
2009.07.26
コメント(2)
春にはサイシンゴ(イタドリ)、夏にはカワニナ、秋にはアケビ、柿、椋など子どもの頃の私たちは、オヤツはすべて自分で野や山に行って調達していた。今の時期は、グミがあった。私が中学2年まで暮らした、岡山では、グミのことをグイビと言った。うちにも、グイビの木が植えてあり、この頃になると赤く色づく。しかし、赤くなるまで待てなかった。待っていると、きょうだいにとられる。だから、赤くなる少し手前のだいだい色になると採って食べた。もちろん、甘いはずもなく、ただ渋くて酸っぱいだけだった。隣村の電球などを売っている家が街道沿いにあった。その家には大きなグイビが鈴なりになっていた。しかも、誰もとらないのか、真っ赤に熟していた。私は不思議に思って父に言った。「**の家のグイビは、あんなに真っ赤になっているのは、なんで?」父は笑いながら言った。「あの家は、分限者(ぶげんしゃ=金持ち)じゃからグイビより美味いもんがあるんじゃ。」うちは貧乏だから、グイビを選んで食べるのではなく、グイビしかないのだ・・・父は言った。しかし、私たちは、豊かな自然の恵みに感謝していたし、父や母との暮らしになんの不足もなかった。先日、散歩の途中で、鈴なりになったグミの実を見つけ、ひとつ口に入れた。貧乏だったけれど心豊かだったあの頃を思いだした。・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・
2009.06.26
コメント(0)
今から20年以上前。母が骨折したという知らせに、まず、父の様子を見ようと妹と一緒に岡山の実家に行った。父は、いつもどうりにニコニコしながら、母の怪我をした様子を語った。「それより、昼飯じゃな」というと父は土間に続く小さな台所にたった。自分で作ったジャガイモの皮を剥きながら土間から私と妹に言った。「ダシじゃこが今、ないんじゃ。じゃあから、これを使おう、思うて。」そう言ってみせたのは、スルメだった。スルメのダシで炊いたジャガイモの味は、ビックリするほど美味しかった。美味しいと言って食べる私と妹を父は嬉しそうな顔をして見ていた。母の骨折は思ったよりも軽く、妹と私は、父の肉じゃがならぬ、スルメじゃがを食べるとすぐ帰路についた。まだ70代だった当時の父は、野菜はほとんど自分で作った。シイタケまで作っていた。保存方法も「芋穴」を使ったり土に埋めたり干したり・・・。ダシジャコがなくてもスルメを代用するという、柔軟な思いつきも持っていた。私はというと、スーパーと冷蔵庫に頼りっきりの生活を送っている。せめてと思って裏庭に植えた2本のゴーヤの苗は、元気に育っている。●教育の原点は、食べることを通して自己保存できる知恵を学ぶこと(フランスの思想家ルソーのことば)・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・
2009.05.26
コメント(0)
50年以上前の、この季節の子どもの楽しみは、サイシンゴを採りに行くことだった。「サイシンゴ」とは、イタドリのことだが、大人も子どもも、みんなサイシンゴと言っていた。学校から帰ると、ランドセルを放り出し、切った新聞紙の中に塩を一掴みいれ、友だちと家の前、100mくらいの山に行く。 山の裾には、あちこちからサイシンゴが芽を出していた。なるべく、若くて美味しそうなサイシンゴを競ってを採った。中が空洞になっているサイシンゴは、採る時、ポコンという美味しそうな音がした。皮を剥いて、持ってきた塩をつけて食べた。サイシンゴのすっぱさを少しでも緩和するために塩は、必要だった。美味しいのから採るのかといわれればそれは違う。当時の子どもたちは、今のように、おやつなどなかった。自分で手に入れるしか・・・。だからサイシンゴは、春の子どものおやつだったのだ。食べるのに飽きると、サイシンゴで水車を作った。サイシンゴを適当に切って、両脇に切れ目を入れ、真ん中に空洞に木の枝をいれ。水の中につけ、しばらくすると、切れ目が反り返る。そして、流れの中でクルクル廻った。サイシンゴは美味しいものではなかったが、見つける喜び、採る時の喜び、水車遊びの喜び、そして春が来た喜びの植物だ。近場で見つけることの出来なくなった今、私は小さな庭にサイシンゴを植えている。そのサイシンゴが今年も芽を出している。■サイシンゴ=イタドリ■イタドリ(虎杖、痛取 Fallopia japonica)とは、タデ科の多年生植物。別名スカンポ又はイタンポ(茎を折るとポコッと音が鳴り、食べると酸味があることから、スイバをスカンポと呼ぶ地方も多い)。茎は中空で多数の節があり、その構造はやや竹に似ている。三角状の葉を交互につけ、特に若いうちは葉に赤い斑紋が出る。若い茎は柔らかく、山菜として食べられる。茎や葉が分かれる前の、タケノコのような姿のものを折って採取し、皮をむいて使用する。生でも食べられ、かつては子供が道草途中に囓っていた。有機酸を多く含むため酸味がある。・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・
2009.04.26
コメント(0)
私の子どもの頃は、社会全体が貧しかった。中でもうちは、貧しくかった。けれども、父は明るく、話好きだったのでいろんな人がうちに来ていた。ある時、朝鮮の女性が来た。私より5歳上の男の子がいた彼女は、40代前半だったのだろうか。「あんた、どこの出身なら?」と父が日本人の人の出身地を聞くようにその女性に尋ねた。たどたどしい、日本語で彼女は応えていたが、小学生の低学年だった、私にはよく分からなかった。昼でも暗い土間には、家の中で、たったひとつの電灯が灯り、寒かったので、いっと缶とよばれる空き缶で、火を焚いて暖をとった。それが貧しいうちの最大のもてなしだった。社会全体が貧しく、中でも朝鮮の人々は、廃品回収業など限られた職業しかなく、日本名にしてひっそりと暮らしていた。会話の後、「あんたも苦労したんじゃなァ・・・」と父がねぎらうように、その女性に言った。コジマという日本名を名乗っていた、あの女性はその後、どうなったのだろうか?彼女の息子は今頃、どうしているのだろうか?WBCの日韓戦をテレビで見ながら、50年以上前のことを思い出した。・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月26日*父の麦わら帽子:目次*・・・・・・・・・・・・・
2009.03.26
コメント(0)
「お父(おとう)が死んだ時は・・・」と私が子どもの頃、父が言った。父の父、私の祖父は、父母が結婚する、随分前に死んでいた。「お父(おとう)が死んだ時は、わしは、辛(つろう)て、半年ぐらい立ち直れなんだ。でも、お母(かあ)が死んだ時は、あんたらがいてくれたから・・・。」父から聞いた言葉の数々の中で、印象に残っている言葉のひとつである。私が生まれたことが、ちょっとでも意味があるのだと思った。父の悲しみを和らげることの出来る存在・・・。私は、必要とされて、この世に生まれたのだと。2002年の2月26日は、父の命日だ。そして、明日、27日は、私の誕生日。私から娘に、娘から孫へ・・・。連綿とつながる命を私たちは、送り続けている。人が死ぬことは、命をおくること。だから、私の中で父は今も、生きているのだ。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2月26日*父の麦わら帽子:目次*UP・・・・・・・・・・・・・
2009.02.26
コメント(2)
娘がまだ小さい頃、夫婦で、よく海外旅行に行った。娘たちは、私の父と母があづかってくれた。娘たちを連れて、父は、親戚に行き、そこで言った。「孫が大きゅうなって、成人するまでは、ワシは、死なれん。娘夫婦が、海外で事故にでも遭ったら、この子らが孤児(みなしご)になる。せめて、成人するまでは、ワシは、生きにゃぁ、ならん。」と。父のいとこは、母親が早く死んで苦労したという。自分の孫をそんな、かわいそうな目には合わせたくない。父は、そう言ったという。父の死が近づいた頃、親戚の人から聞いた話だ。上の娘が、結婚したのが昨年の1月26日。そして、その1ヶ月後、の2月26日、孫娘の成長を確認したかのように、父は死んだ。「○○ちゃん、結婚したんよ。1月26日に・・・。わかる?」2月1日に入院して、しばらくして、どんどん、弱る父に私は言った。「・・・・。」父は、もう声も出ないほど弱っていたが、頷いた。お父ちゃん、あなたの、孫娘は、きれいな花嫁だったよ・・・。花嫁の妹の着物姿も、きれいだったよ・・・。結婚式に出て、スピーチをしたがった、父に冷たく断った自分を今、責めている。昨年、1月26日は、長女の結婚披露宴のあった日。そして、昨年2月26日に89歳で死んだ、父の月命日。母と妹と私で、静かに父をしのびます。■2003.01.26●削除してしまったので、もう一度アップします。・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★1月22日*読み書きそろばん、ぼけ、つっこみ/骨正月/仕舞う*UP・・・・・・・・・・・・・
2009.01.26
コメント(0)
2月1日に入院して15日ほどで、父は、食事を受け付けなくなった。点滴の針をさした足をさすりながら、涙がこぼれた。一週間前は、お粥食べたのに・・・。退院できると思ったのに・・・。年老いた、母を残して逝かないで・・・。お父ちゃんには、まだまだ聞きたい事がいっぱいあるのに・・・。私を残して逝かないで・・・。父は、ハア、ハア、ハア、ハアと呼吸をしていた。熱で、口が渇いてるだろうと思ったので、看護婦さんに「すみません、水を飲ませたいんですが・・・。」と言うと「肺炎ですから、水を飲ませると、どんなことになるか分りません。絶対、止めて下さい。」と言われた。私は、こっそり、コットンに水を含ませ、父の口に含ませた。2回、3回・・・。おいしそうに、水を飲む父を見て思った。「喉が渇いたまま死んでいくのは、つらいだろう。こうなったら、私の責任で、水を飲まそう。」2日後は、蜜柑を持って行った。皮を剥いて、蜜柑の袋に小さな穴をあけ、父の口に入れた。多分、蜜柑は食べられないだろうと思ってたら、力なく吸い出した。もう、やめにしとこうとすると、頭を持ち上げてきた。妹と泣きながら笑った。「ほんとに、食い意地がはってるんだから。この分やと、まだまだ生きるね。」自分にそう言い聞かせながら、病院へ行く度に蜜柑を含ませた。父の最期の食べ物は、蜜柑だった。私が食べさせた、蜜柑だった。 今日は12月26日に、89歳で死んだ父の月命日だ。蜜柑を食べながら、また涙がこぼれる。■2002.12.26 ・・・・・●これは、2002年12月26日に書いたものです。削除していたので、再度アップしておきます。・・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★12月26日*父の麦わら帽子:目次*UP・・・・・・・・・・・・・
2008.12.26
コメント(0)
雨が降っている。玄関の前に置いてある折鶴蘭の鉢が雨に濡れている。この折鶴蘭は、父の思い出につながる鉢だ。風邪をひいた父が病院へ入院したのは、2月1日。直ると思っていたのに、どんどん病状は、悪化した。2週間もすると、父は、なにも食べられなくなり、どんどん衰弱していった。点滴の注射針がささった細い足をさすりながら、私は、泣いた。涙は、とめどなくこぼれ落ち、病人に気づかれまいと、何度も洗面所に立った。その、洗面所にあったのが、折鶴蘭だった。私は、その一節をちぎって、紙に包み家に持ち帰った。この、折鶴蘭が根付けば、父も生き延びる、そう自分に言い聞かせながら・・・。80歳を過ぎてからでも、何回も入院した父。その度に回復し、前よりも元気になったではないか。そう、思おうとした。折鶴蘭は根付いたが、父は、2月26日、この世を去った。今日は、父の月命日。父の形見になった折鶴蘭は、夏の暑さにも負けず、しっかりと育っている。~花待たず種のみ蒔きて逝きし師よ~ はるなの父■2002.11.26●削除していたのを復活しました。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月26日*父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.11.26
コメント(0)
「菜園が人生だ。庭師が添い寝すれば野菜も喜ぶ。」 先日見た映画「画家と庭師とカンパーニュ」の中で庭師の言った言葉が印象に残っている。映画の中で、庭師は、衰弱して起きていられないほどだった。しかし、庭師は、庭に寝て、作業をしていた。父は80歳になった頃、大病をした。明日が手術という日に私は、岡山の家に行った。父は、痩せて、歩くこともままならないようなほど、衰弱していた。しかし、近くの畑に行くという。父は、杖をついて、私は、鍬をかついで、近くの畑に行った。そこで、父は、畑の土を鍬で返した。種を蒔くでもなく、収穫をするでもなく、畑の土を掘り返した。フラフラしながらの様子が、見ていられなくて、「私がするから・・・」と言って鍬を取り上げた。最後は、ちょっと貸してといって私から鍬を取り上げ、仕上げをした。「今、こうしておかんと、明日、手術をしたら、いつ出来るか分からんからな・・・。」父は、そう言って、満足そうに、鍬を入れた畑をながめた。父にとって、植物を育てることは、土を作ることだった。私は、偶然、柿の木の実生(みしょう・種子から発芽したばかりの植物のこと)を見つけた。そして、それを、そっと抜いて、家の前の畑に植えた。子どもの頃から、自分の家に柿の木がないのが、不満でしかたがなかったからだ。柿の木のある家は、私の理想だったのだ。翌日の手術は5時間もかかる大手術だった。無事に事なきを得た父を見舞って数ヵ月後、また岡山に行った。父は、柿の木の実生(みしょう)を、買って来た柿の苗にかえて育ててくれていた。「こっちの方が美味いからな」と父は笑いながら言った。誰も住まなくなった実家の庭には、今も柿の実がなっている。明日は、手術、その後、どうなるか分からない時も、父は庭を気にかけていた。父にとって、植物を育てることが人生だった。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月26日*父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.10.26
コメント(0)
子どもの頃、住んでいた村には、大きな*椋(むく)の木*があった。子どもが5~6人テを繋いでやっと、手が届く程太い幹の椋の木。夏には、涼しい木陰を作ってくれ、絶好の遊び場に。また、地蔵盆の時には、その木の下で盆踊りをやったりしたものだった。椋の木は、秋になると、青い実をつけた。指先ほどの小さな、熟れると黒い色の甘い椋の実。天高く、そびえる大木に男の子の中には、木に登ってとる子もいたが、私たちには、その甘い実が、なかなか手に入らなかった。そんな私たちにとって、台風は椋の実を食べるチャンスだった。台風の後、椋の木の下に行くと、落ちてる、落ちてる・・・。夢中で、拾い集める。まだ、熟れてない、実も拾い持って帰る。熟れたのは、ポイ、ポイ、と口の中。熟れてないのは、箱に入れて、糠(ぬか)をかけて「うます」。何日かすると、完熟して、甘くなる。子どもの頃、バナナもマンゴーも、パイナップルも見たことがなかった。しかし、秋になると甘く熟す小さな椋の実があった。まだ熟れていない実を甘くする方法を知っていた。少年に枇杷熟れ桑熟れ椋熟れてとどめにムベの熟れゐし昭和 大野展男**ムクノキ**(ニレ科 ムクノキ属) ムクノキは関東地方以西の温暖な地域に生育する落葉高木。南西諸島や台湾、東南アジアにも生育する。和名は良く茂る木の意味「茂くの木」であるという。成長速度は速く、急速に生長する。川沿いの水分状態がよい場所に生育し、巨木に育ったものが天然記念物などに指定されていることもある。しかし、幹の太さから連想されるほどの樹齢がないのではないかと思われる。神社の境内に生育していることも多い。●2002.10月1日の日記に加筆しました。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月26日*父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.09.26
コメント(0)
私の子どもの頃の生活は、どの家も貧しくて、おやつなど買うことが出来なかった。そのため、子ども達は自分で調達しなければならなかった。そんな、子どもの頃の夏のおやつに*カワニナ*があった。カワニナは、川に棲む小さな巻貝。子供たちは、アルミの弁当箱を持って川に入り横に並ぶ。そして、下を向いて川の中を歩きながら川上へと進む。みるみるうちに、弁当箱の中にはカワニナが溜まって行く。近くでは、洗濯をしている大人たちが、笑いながら見ていた。いっぱいになったら、それを家にもって帰って、塩茹でする。茹でられたカワニナをザルに打ち上げる。縫い針をもって、カワニナをほじくると、出てくる中身。塩味のついたカワニナは、次々と口の中に消えていくのだった。カワニナは、思い出の夏の味。川で泳ぐ、カワニナや魚をとって食べる、川原で花火をする、橋の上で夕涼みをする、川原の焼けた石に干ぴょうを干す、・・・。時には、芝居小屋にもなった川・・・・。私の子どもの頃、特に夏の生活は、川と共にあった。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月26日*父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.08.26
コメント(0)
子どもの頃、夏休みになると明けても暮れても川で泳いでいました。泳ぐというより、川で遊ぶ・・・。場所は、何箇所かあって、人数、子どもの年齢、持ち時間に合わせて選んでいました。お気に入りの一つは、山の真下に川が流れる、合歓の木のある淵。胸までの深さで、ゴツゴツした岩場が無く、のんびり泳げます。水の中で、魚を追いかけたり、ジャンケンや鬼ごっこ・・・。遊び疲れると、あお向けに川の中に漂います。目に映るのは、薄紅色の花と優しげな葉っぱ、花咲く合歓の木・・・。私の思い出の中で、合歓の木は、夏休みの川の中に咲く花です。●合歓の木(ねむのき)●<万葉名>ねぶマメ科の落葉高木。夏、小枝の先にうす紅色の花が咲きます。花が化粧用の刷毛のような姿に見えるのは実は、オシベ。うっそうと茂る葉がすべて夕方から閉じたれる。眠りの木の意から合歓の木。一つの花と見えるのは10~20の小花の集合。葉は線香に使うそうです。●■西日本の旅■2008年7月8日(火)~10日(木)の道中、山の中の道をうめる合歓の木。よく通る道路なのに、この季節は始めてだから気がつかなかったのか・・・。●2002.08.11に書いた日記に加筆しました。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月26日*父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.07.26
コメント(0)
「今日、ちゅん太、まだ、ウンチが出てないねん。」先日、娘は、そう言いながら、ちゅん太のおなかをさすった。「そういう時は、『へんなれ、ぽんなれ』言わなアカンねん」と私。とっくに忘れていた言葉が出てきた。「へんなれ、ぽんなれ・・・」。「へんなれ、、ぽんなれ??」娘が聞く。「おまじない。『屁になれ、ウンチ(ぽん)なれ』ってね。」「じゃあ、『へんなれ、ぽんなれ、へんなれ、ぽんなれ・・・』」と娘は言いながらおなかをさする。「へんなれ、ぽんなれ・・・」。私が、小さい頃、おなかが痛いというと、父がそう言いながら、さすってくれた。父もきっと小さい時、そう言われたんだろう。父の父もきっと、そう言われたんだろう・・・。翌日、カレーを作った。肉の匂いを消すために入れる、月桂樹の葉っぱは、父が育てたもの。死んで、1年半近くなるが、そこここに、父がいる・・・。■2003.06.26削除していた分を再度アップします。「へんなれ、ぽんなれ・・・」には、まだ続きがあると、コメントをいただきました。「へんなれ、ぽんなれ、おおばたけのこえなれ」というそうです。「屁になれ、ポン(大便の幼児語)になれ、大畑の肥になれ」という意味。私は、これは聞き始めでした。当時、生まれて2ヶ月だった、ちゅん太は、もう5歳。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月26日*雨の名前:空梅雨(からつゆ)/トリビアの井戸:タソガレの語源 /父の麦わら帽子:目次* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.06.26
コメント(0)
父が入院していた、病院の洗面所にあった折鶴蘭を一節、折って持ち帰った。父が直りますように、と祈りを込めて・・・。折鶴蘭は根づいたけれど、父は帰らない・・・。その折鶴蘭もずいぶん成長し、子苗ができた。もっと増やして、妹や娘たち、父を愛した人に贈ろう。そして、父よ、あなたが愛した孫娘にも子どもが産まれました。あなたの生まれかわりのような男の子です。父よ、あなたが生きていたら、あなたと同じ、春にうまれた小さな命をどんなにか、いとおしんだことでしょう・・・。壊れた時計のように、もう年を重ねることはない父。けれども、私の心の中で、時計は確かに動いています。昨年2月に死んだ父の誕生月は、5月。生きていれば、91歳。~ひと年を 返り見る日の 短かさや また見る花の 色も変らず~ 自然如■2003.05.262003年に書いたものを◎日本ちょっと昔話◎に転載したのですが、消えました。こちらで再度アップしておきます。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月25日*全てのものは繋がっている:里山*UP・・・・・・・・・・・・・
2008.05.26
コメント(0)
父から、手紙をもらった。今から30年以上前のこと。生まれつきか、生まれてすぐか、父の右半身は、不自由だった。今なら左手で、字を書くことも許される。けれども父の生きた時代は、右手で字を書かなければならなかった。その手が、たとえ不自由であっても・・・。手紙を書く必要に迫られると、父は、私たちに、口述筆記をさせた。そんなわけで、父は、めったに字を書かなかった。その父からもらった手紙は、エアメール。31年前の今ごろ、私は、ロンドンで働きながら、英語学校に通っていた。ちょうど、そんな時起こった「日本赤軍のテルアビブ乱射事件」。イギリスの新聞でもトップで「JAPAN RED ARMY」の文字が踊った。「そちらにいたら、日本人ということで、迫害されないか?それが、心配だから、帰った方がいいのではないか・・・。」娘のする事には、決して反対しない父だったが、この事件で、心配になったのだろう。そんなことを思い出したのは、明け方、ちらりと見た、テレビの「朝まで生テレビ」。そこには、重信命(めい)氏が出ていた。彼女は、「重信房子の娘」という運命を、生きてきた人。あの事件の時の、*重信房子*は、今の重信命(めい)氏の年齢か・・・。父から手紙をもらってから、30年以上たった今も、中東は、戦火の中にある・・・。~星の供花いつも咲きをりかなしみの 絶ゆることなきこの地球(テラ)のうへ~ 田宮 朋子 **重信房子**「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」/幻冬舎~「日本赤軍リーダー逮捕」平和呆けのわれの脳(なづき)にけふインプット~~重信房子奪回のテロなき冬を薔薇は一夜に花体解きたり~ 清水 正子 ■03.04.26・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月25日*「昭和恋々」:入学式 *UP・・・・・・・・・・・・・
2008.04.26
コメント(0)
2002年2月26日、死んだ父。故郷で納骨の儀と「お別れ会」をしてもらった。今、父は、故郷の小高い山の中腹に眠っている。3月22日、その墓に参った。お墓に行くと、うちの前に住んでいたおばあさんが、娘と墓参りが終わったところだった。このおばあさんは、嫁との折り合いが悪くなって、長女の家にいるという。気が強い人だったのに、久しぶりに会ったら、急に小さくなっていた。足元もおぼつかなくなっていた。「また、会おう。」と母に何度も涙声で繰り返した。父のお墓には、親戚が、供えてくれたのか、新しい花が供えられていた。お礼を言いに、親戚の家に。その途中にある、無人の私が生まれた家。思わず、息を飲むほど、みごとに、梅の花が満開・・・。そういえば、この梅の木は、父と母が出て行った後、5~6年前に植えたもの。梅の咲く季節に、この家に来た事がない・・・。人が移り変わって、人が死んでも、この梅の木は、変わることなく季節を告げていたのか・・・。黙って、いつも、こんなにきれいに咲いていたのか・・・。そう思うと、あついものが、こみ上げてきた。来年、また、お墓参りにこようと思う。この、梅の花に会いたいから・・・。人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける 紀 貫之(きのつらゆき)■03.03.26●「◎日本ちょっと昔話◎」の方に移していたのですが、あちらは、サイトが不安定で、消えたりします。(ノД`)こちらに再度、移し変え。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月25日*こって牛/ちゃんちゃんこ *UP・・・・・・・・・・・・・
2008.03.26
コメント(0)
子どもの頃、家が貧乏だった。「金持ちだったらいいのになぁ」と私は言った。「金持ちでも、どうやって儲けたかが問題じゃ」と父が言った。「金持ちだったら、どうやって儲けてもいい」と私は言った。家が貧乏で、給食費も教科書のお金もない生活。そんな惨めは暮らしは嫌だと思っていた。「駅前のパチンコ屋は、金持ちじゃあけど、人に恨まれとる。パチンコに負けた客が、腹いせに、あの家の墓石を倒しすんじゃ。人に恨まれるような金は、なんぼ儲けても、いけん。人の役にたつようなことで金儲けをせんといけん」と父が言った。父の意見に当時の私は、不満だった。今の世の中、お金のためなら、盗みや殺人を平気でする人がなんと多いことか。お金のためなら、平気で人をあざむき、ウソをつきく。かつては、「あの人は、金儲けは下手だけれど、立派な人だった」という評価があった。しかし、今の世の中、金儲けが下手な人は、ダメな人のような、扱いを受ける。どんなことをしてでも、お金さえあれば、勝ち組と言われる世の中だ。父は、一生懸命に働いたが、一生、金儲けとは無縁の人だった。しかし、幸せな人だった。■父の麦わら帽子■・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2月25日*恋する雑貨:瓶のキッチンツール立て *UP・・・・・・・・・・・・・
2008.02.26
コメント(4)
小学校の低学年の頃、冬になると野菜の品評会があった。子ども達が学校に野菜を持っていって、校庭にひいたムシロの上に並べ、皆で比較するものだった。品評会の日には、大人も子ども校庭に並んだ野菜を見てまわった。入賞すると、餅焼の網や火箸がもらえた。なによりも、入賞するということは、名誉なことだったのだろう。私のうちは、父がホウレン草が好きだったので、家の前の畑に沢山作っていた。それを毎年出していた。品評会の前の日の夕方、父は畑から一番、よく出来たホウレン草を一把、抜いた。きちんと揃えて、細縄でくくって、持ちやすいようにと輪を作ってくれた。当日、それを持って、学校に行った。学校までの道は、歩いて約30分。途中で手が冷たくなった。当時、私は手袋を持っていなかった。私以外にも、手袋を持っている人は、稀で、ポケットに手を入れて、学校に行っていた。あまりの冷たさにとうとう、私は泣き出した。一緒に行っていた、近所の年上の女の子が困って、焚き火を見つけてあたろうと言ってくれたので、私はやっと泣き止んだ。そんな思いをして持っていった、ホウレン草だったけれども、入賞しなかった。その品評会も3年生になるとなくなった。あれは、なんのためにやっていたのだろう。野菜を売ってお金を得るための学校の事業だったのだろうか。また、12月だったのか1月だったのか・・・。ただ、野菜の冷たさを、今も鮮明に憶えている。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★1月24日*私の「はじめてのおつかい!」/田打ち正月*UP・・・・・・・・・・・・・
2008.01.26
コメント(4)
うちにテレビがはじめて来たのは、昭和37年。私が中学2年生の冬だった。その日のことを私は、今も鮮やかに覚えている。この頃は、ほとんどの家にテレビがあったが、うちには、まだなかった。昭和37年の12月、父がにこにこしながら言った。「今度、うちにもテレビがくるぞ!」その年の夏、私達家族は、岡山から兵庫県龍野市に引っ越して、工場に家族で住み込んでいた。私たちは、工場の社長のテレビを遠慮がちに見ていたのだった。そんな私達子どもに、父と母は相談して、「月賦」でテレビを買ってくれたのだった。普及したといっても、父母の給料の何ヶ月分もしたテレビ・・・。引っ越す時に持ってきた家財道具は、ナベと釜。洗濯機もラジオも炊飯器もない暮らしだった。必要なものは沢山あった。けれども、父と母は、テレビを買ってくれた。工場の角に建てられた、粗末な部屋。それが私たちの家だった。そこに置かれたテレビは立派に見えた。今日より明日に希望が持てた時代のテレビは象徴的なものだった。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★12月26日**UP・・・・・・・・・・・・・
2007.12.26
コメント(2)
子どもの頃の仕事に、「まつごかき」があった。「まつご」は、松の枯葉という意味の古い言葉。まつごは、風呂の焚きつけに使うと、ぱちぱちとよく燃えた。そのまつごをとりに山に行くのが子どもの私の仕事だった。大きな籠を背中に背負って、手には、熊手を持って山に、入った。松の木の下に落ちている、まつご(松の枯葉)を、熊手で集めた。「あっ、マツミドリがある」と、いつも一緒に行っていた、近所のノブちゃんが言った。ノブちゃんの指差す木の上には、私たちの好きな、マツミドリがあった。「マツミドリ」とは、ヤドリギにの実。私たちは、マツミドリを見つけると、小さなマッチ棒大の実を採って食べるのだった。それは、ネバネバとして、まるでガムのようだった。「マツミドリ、美味しいね」とノブちゃんが言った。「ガムよりも美味しいね」といつか食べたことのあるガムを思いながら私も言った。去年、旅先でまつごが沢山池に浮かんでいるのを見た。ああ、昔だったら風呂焚きに持って帰るのに・・・。そう思いながら、とっさに、マツミドリの味を思い出した。今も昔も山は変わらず私たちに山の恵をくれる。ただ、今はそれを恵だと気づかなくなってしまった。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月26日*父の麦わら帽子:目次UP・・・・・・・・・・・・・
2007.11.26
コメント(0)
子どもの頃、マッタケ、アケビ、栗・・・と秋になると美味しいものがいっぱいとれた。サツマイモもそのひとつだった。父がサツマイモを作ってくれていたので、私たちは、秋になると、みんなで芋ほりをした。掘ったサツマイモは、芋穴に貯蔵した。私の家は深いひさしの麦わら屋根の典型的な農家のつくり。その南側の軒下に子どもの私たちが入ると胸まで来るくらいな深さの四角い穴があった。それが、芋穴だった。寒い冬の間、サツマイモは、この芋穴の中に貯蔵された。そして、少しずつ出しては、焼き芋やふかし芋に、また芋粥にして食べた。それは、たんにおやつというより、主食の代わりでもあった。こうして、サツマイモを芋穴にしまうと、その上に木の蓋をした。冬篭りのために餌を蓄えるリスのように、私たちは芋穴にサツマイモを運んだのだった。冷蔵庫などなかった頃の知恵のある暮らしを今、懐かしく、尊く思う。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月25日*トリビアの井戸:「胴上げ」/秋刀魚の歌 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.10.26
コメント(0)
田舎の道を年老いた男が歩いていた。1グラムもムダな贅肉はなかったが、ギスギスした感じはない。麦わら帽子、白い長袖の木綿のシャツ、作業用のズボン。どこにでもいる老農夫の姿の中に、特に目立つものは、そのあごにたくわえられた豊かな髭。麦わら帽子からはみだした、少し長めのくせのある髪。そんな、老農夫が、田舎の道を歩いていた。大型の車が老農夫の前を通り過ぎ、止まった。中から、4人の男が降りてきて、老農夫の前まで引き返して言った。「すみませんが写真を撮らせて下さい。」車から降りてきた人は写真家で、老農夫は父である。父は、快く承知して、写真のモデルになった。何日かして、父のもとに、お礼にとA4サイズの写真が10枚ほど届けられた。これまでの人生に満足し、今を楽しんでいるような、笑顔の写真がいろんな角度から撮られていた。さすがプロと言う私に父は、「モデルが、ええから・・・」と笑った。次に私が行った時は、10枚あった写真は2枚しか残ってなかった。「みんなが、ええ、写真じゃ、欲しい、欲しい言うからあげた。」怒る私に父は、笑いながら答えた。残った2枚のうちの1枚は、父の葬式の時の写真になった。葬儀屋が、こんないい写真はないと誉めた。僧侶も、「芸術家が撮った写真のようだ」と式の後、皆に言った。「芸術家が撮ったんだもん」と私は心の中で言った。「モデルがいいから・・・」と言いたげに、父は写真の中で笑っていた。今日は2月26日に死んだ父の月命日。~思い出のひとつのようで そのままにしておく 麦わら帽子のへこみ~ 俵 万智■2002.09.26●父の麦わら帽子は、◎日本ちょっと昔話◎に移してこちらは消していました。でも、それが消えてしまって・・・。(ノД`)もう一度、こちらに、アップしておきます。 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月26日*父の麦わら帽子:ひょうたん揺れて・・・。*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.09.26
コメント(4)
もうすぐ、夏休みも終わり。子どもの頃は、この季節になると、宿題が気になった。「夏休みの友」と絵日記、それに、自由課題として工作が宿題としてあったのだが私は、ほとんど手をつけない状態。この期におよんで、ジタバタしても、しょうがないと、宿題はやらないことに決めた。朝のうちに、ラジオ体操と水汲みや、家の手伝いを済ますと、昼ご飯。それが終わると夕方近くまで川で泳いでいた。だって、川で、泳ぐの楽しいもん。心のままに過ごす、満ち足りた毎日・・・。で、学校に行くと、先生に叱られた。何回、叱られても、懲りずに遊び呆けていた。とうとう、先生は、父に言いつけに来た。「お子さんに宿題をさせて下さい。」「先生」と父は言った。「うちの子は、勉強ができなくても、楽しそうにしてるんで、そのままにさせておいて下さい。」普通、そうまで言われると、「ああ、私が悪うございました。」と深く反省し勉強するものだが、私は、「やったー!」と思い、ますます、したい放題。ところがである。そんな私が今、毎日、日記をつけている。この日記って、ひょとして、あの頃、やり残した、宿題の続きなの?あの頃の、思い出がぼろぼろと、こぼれるので、私は日記にそれを書きとめているのです。■2002.08.06●父の麦わら帽子は、◎日本ちょっと昔話◎に移してこちらは消していました。でも、それが消えてしまって・・・。(ノД`)もう一度、こちらに、アップしておきます。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月26日*父の麦わら帽子:家族旅行*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.08.26
コメント(0)
子どもの頃、うちには、クーラーがなかった。クーラーは、おろか扇風機もなかった。あるのは、ただ、店でもらった団扇(うちわ)だけ。夏になると、夏ならではの暮らし方をしていた。まず、家中の障子という障子がすべて、取り外された。南向きの家は、南北に大きなはき出し口があり、風の通り道が出来た。麦わら屋根の深いひさしが強い太陽の日差しを家の中にいれないようにしてくれた。父が祖父と作ったという広い土間は、ひんやりとしていた。家の西側には、竹やぶがあって、季節になると筍が食べられ、竹細工の材料になるばかりか、強烈な西日から家全体を守ってくれた。外には、たらいを置いて行水用の日向水を作っておいた。夕方になると、スイカを冷やした水や行水の残りの水をカドとよばれる庭にまいた。欄干も手すりもない、土で出来た橋の上はどこよりも涼しいところだった。夜になると、橋の上で花火を楽しんだり蛍を追いかけたりした。夜になっても戸も障子も開け放したままだった。若者が橋の上にで吹く哀愁をおびた口笛が夜の闇に聞こえると私はなぜか悲しくなったが、蚊帳の中でいつの間にか眠った。あの頃、私は夏が大好きだった。50年前の夏・・・。あの頃、朝起きるとラジオ体操に行って、水汲みをし、川で泳いだ。家の前のキュウリやトマトや茄子・・・。父が切ってくれる、サトウキビの甘さ。昼寝の後のスイカ。行水、蚊帳、花火・・・。夏に一回はやった校庭映画会。カワニナをとることも川で洗濯することもカンピョウを剥くことも干すことも・・・。生きるためにやったことがすべての思い出が、今は大事な宝物になっている。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。やっと修復したと思ったら、過去のデータが無くなりました。。・゚(´□`)゚・。★7月26日*下駄の日/籐の乳母車を見た!/父の麦わら帽子 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.07.26
コメント(6)
蛍の飛び交う季節となった。子どもの頃、夕涼みをかねて、川のほとりに行った。川端には、闇の中、蛍が舞っていた。昼間、にぎやかに洗濯をする川が、蛍の舞う頃は、幻想的な場所となった。子ども達は、蛍を追いかけ、それを捕った。けれども、私は捕らなかった。蛍をとってはいけないと父に言われていたからだった。蛍は一生のほとんどを、水の中と暗い土の中で過ごす。成虫になって飛んでいられるのは1週間前後。そんな蛍をとるのは、かわいそうだと父は言った。一度だけ、捕まえて蚊帳の中に放したことがあった。けれど蚊帳の中で見る蛍は、闇の中で見るそれと違って、普通の虫のようで、私はがっかりした。以来、一度も蛍を捕りたいと思わなくなった。蛍の飛び交う季節となったが、私は10年以上、蛍を見ていない。子どもの頃見た川ベリの蛍の舞う風景は、本当だったのだろうかと思ったりする。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月26日*父の麦わら帽子:目次*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.06.26
コメント(23)
子どもの頃、家に、ごみ箱が無かった。そう言うと、みんな驚く。だって、捨てるもんが、無かったんだもん。すべて、リサイクル。いえ、リサイクルなんて、言葉も無かった。それほど、再利用することは、生活に密着していた。●新聞紙は、まず新聞として読む。その後、弁当を包むものになる。その、新聞紙は、台所や風呂の、焚きつけにする。●着物が、破れたりすると、その部分は、とって、布団の側に。やぶれた、部分も、置いておいて、ツギを当てるための材料に。ものすごく、細い部分は、ワラ草履の鼻緒に、編みこむ。●風呂の湯は洗濯に。●カンピョウ、漬物、梅干、米、麦、野菜・・・。食べ物は、自分の家で、作るのが、基本。たまに、買い物に行っても、買い物かご持参、紙袋(かんぶくろ)に入れてくれるので、これも、燃料に・・・。野菜くずは、畑に、入れます。●究極のリサイクルは、藁です。藁って、稲から米をとってしまったときに残るもの。いわば、ごみ。それを、ムシロ、縄、草履、カマス(ムシロで作った袋)、菰(こも)、野菜の寒さよけ、蓑、・・・・・。かぞえれば、限りが無いほど、使ってました。そういえば、昔話にも、ありましたね。「わらしべ長者」。藁はそれほど、大切なものでした。先日、里山で、料理をした時、鍋を洗う、タワシが無いと、皆が言ってました。私は、近くにあった、藁を、少しとって、適当に折り、それをタワシにして、洗いました。みんなが、手品を見るみたいな顔をしていましたが、昔、肥たご(肥用の桶)は、そうして、洗ってました。「アメリカでは、古い車がごみになっているそうな」と父が笑いながら言った。どの家にも、車などなかった。車どころか、うちには、自転車もなかったので、親戚が貸してくれていた。そんな、あの頃の暮らしは、そう悪くはない。 ●以前書いたものを加筆しました。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月25日*「ぼっけえきょうてえ」、岡山弁 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.05.26
コメント(4)
*春の小川*高野辰之作詞・岡野貞一作曲春の小川は さらさら行くよ岸のすみれや れんげの花に すがたやさしく 色うつくしく 咲いているねと ささやきながら 春の小川は、さらさら行くよえびやめだかや こぶなのむれに今日も一日 ひなたでおよぎ遊べ遊べと ささやきながら・・・・・・・・・・・・・・子どもの頃に住んでいた村は、周りを山に囲まれた小さな盆地だった。その、盆地の中央を川が流れていた。それとは別に小さな水路がいくつもあった。それらは田んぼの中や村を流れていた。田んぼの中に村はあったので、小川は、毎日、見たり渡ったりした。橋をかけなくても渡れるような小さな溝、横切る時は、飛び石と呼ばれる石を並べてその上を飛んだり、丸木橋がかかっていたり・・・。「本格的な橋がかかっていない小さな流れ」。これが、私の小川の概念。春になると岸には、スミレやレンゲやタンポポなどの花が岸辺を彩った。今や絶滅種になりかかっているメダカが泳いでいた。両手で手ぬぐいを持って水の底に沈める。メダカが上を泳いでき時、すっと手ぬぐいを上げる。メダカが捕れた。私たちは、競って捕っては逃がし、逃がしては、また捕えた。小川のまわりの石垣。小川にかかる、丸木橋、飛び石。岸辺の土を覆う緑の草と花々。水中を泳ぐ、小さな生命。そしてそれらを追いかける子ども達。今思うと涙が出るような美しい世界がそこにあった。そのありがたさが、失ってはじめて分かる。それは、家族も同じだ。●「春の小川」のモデルになった「小川」は、渋谷の代々木にかつてあった河骨川(こうぼねがわ)のことであるとされています。東京オリンピックの時、区画整理にてこの川は埋め立てられ、小田急線の走る住宅地となり、その場所には石碑が立てられてるそうです。今は想像もできないけれど、東京にも、小川が流れていたんですね。●この文章は、2005年04月18日のものに加筆しました。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月24日*桜花*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.04.26
コメント(2)
全240件 (240件中 151-200件目)