全134件 (134件中 51-100件目)
銀座百店会が毎月発行するタウン誌「銀座百点」3月号の巻頭座談会に参加させていただきました。今月は銀座も含めて都内各地で「東京クリエイティブサロン」が開催されますが、それに絡めての座談会です。資生堂ファッションディレクター呉佳子さん、ファッションジャーナリスト宮田理江さんと共に「ファッションと銀座」についてお話しさせていただきました。銀座百店会に加盟しているカフェ、菓子店、レストランや小売店で無料配布されています。詳しくは次のサイトをご確認ください。https://www.hyakuten.or.jp/tenmei/tenmei.html
2023.03.01
前項では文化服装学院ファッション流通専攻過程(3年制)を卒業した元部下たちのことに触れましたが、今日は文化学園を大きな学校法人に育てた前理事長の大沼淳さんとのやりとりを。大沼淳さん(1928-2020年)東京ファッションデザイナー協議会議長をだった頃、繊研新聞社編集局長の松尾武幸さんからちょっと変わった忘年会に誘われました。松尾さんの業界仲間で映画鑑賞が趣味の人との親睦会にゲストとして来ないか、と。メンバーは西武百貨店渋谷店長だった水野誠一さん(のちに社長)、オンワード樫山専務の高田健治さん(のちに副社長)、店舗システム協会専務理事の高山れい子さん、文化学園秘書室長の相澤たまきさんと松尾さんの5人。同じ映画をそれぞれ映画館で観て後日集まり、その映画をサカナに会食する会、忘年会はそれぞれがゲストを同伴する特別企画でした。このとき文化学園大沼理事長と初めてじっくり話ができました。第二次大戦直後、マッカーサー司令官のGHQは日本の官僚システムを是正するため若手官僚を集めて地方合宿、そこで米国式の民主的な組織運営を叩きこんだそうですが、人事院の役人だった大沼さんもそれに強制的に参加させられ、組織マネジメントの教育を受けました。その後、当時労働争議で激しくもめていた文化学園の争議鎮静化に尽力、人事院を退職して文化学園の理事に就任したのが28歳、1960年には創業一族でもないのに理事長に。以来亡くなる前年の2019年まで59年間ずっと文化学園理事長でした。教育者と言うよりもむしろ経営者タイプ、だから文化学園の事業を大きく伸ばせたと思います。余談ですが、この交友録46で触れた文化出版局の久田尚子さんは「私も赤旗振って(学園職員の)デモに参加してたのよ」。人事院から来た大沼さんに向かって「バカヤロー」と叫んでいたそうです。中央の眼鏡かけたスーツ姿が若き大沼理事長忘年会の前後だったと思います。私は文部省管轄ではない官民協同の産業人育成機関をつくろうと奔走し始め、主宰していたファッションビジネス私塾「月曜会」を墨田区役所の職員が見学に来ました。この私塾に賛同してくれた墨田区によって繊研新聞の松尾さんが座長を務める墨田区ファッション人材育成戦略会議が発足、専門学校と競合しないプロ人材を育てるビジネススクールの議論が始まりました。どういう対象者に、誰が、何を、どう教えるかを議論、構想がまとまったところで松屋の社長だった山中さんに理事長をお願いしようとなり、山中さんも加わってさらに議論を深めました。墨田区で議論していた人材育成プランが通産省(現在の経済産業省)マターとなったところで、私は大沼理事長に人材育成機関の説明に行きました。前項で触れたように、この席で「教育は我々に任せてくれ」と言われ、マル秘の在校生の高校時代の成績一覧表を見せてもらいました。在校生の偏差値レベルがいかに高いかをわかって欲しかったからでしょう。優秀な若者がファッション専門学校に集まっていることは東京コレクションの学生アルバイトから感じていましたし、これまで専門学校がどれだけデザイナーを輩出してきたかは十分認識していました。しかし、企業に入った若手社員に実践教育でマネジメントを教える人材育成機関を業界の力で作りたいんです、と申し上げました。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐、合計50億円の財団法人としてIFIビジネススクールは誕生。IFIの夜間プログラムを始めたのが1994年9月でした。アパレルマーチャンダイジングのクラスは墨田区戦略会議メンバーだった岡田茂樹さん(ジュンコシマダ)、小売マーチャンダイジングは私が主任講師として週1回半年間の授業を回しました。そのうち夜間プログラムは月曜から木曜日まで4つのクラス全体を私が面倒をみる形になり、さらに全日制プログラムが1998年4月に始まり、私の負担はかなり増えました。ちょうどその頃、高校3年生の息子が「文化服装学院に行きたい」と言い出したので、大沼理事長に「文化には二次募集ってあるんですか」と質問しました。真面目に高校に行かない息子には高校から卒業見込書は発行されない、頼みは見込書不要の二次募集だったからです。大沼さんは「うちでいいの」とおっしゃるので、「将来やりたいことがあってどうしても文化なんです」と説明すると、「教務に言っておくから二次募集でなくすぐ応募するように」と言われました。IFIビジネススクール設立に奔走した私が息子を文化服装学院にお願いするんですから、決してファッション専門学校に敵対する立場ではないと理解してもらえたと思います。が、それでも大沼さんは教育は専門学校が担う、業界は産学交流、奨学金制度や就職受け入れなどでもっと学校を支援して欲しいというお考えでした。文化学園内に新たに「文化ファッション大学院大学」を作ったり、文化女子大学を男子学生も入学できる「文化学園大学」に改編したのも、ファッションにおける教育は専門学校マターであって業界マターではないというお考えだったからだと思います。もう一点、大沼さんにお願いしたことがあります。東京ファッションデザイナー協議会議長を退任するにあたり、文化出版局の久田尚子さんを後継議長にしたいのでご承認ください、と。議長退任の条件は後任を決めることでした。久田さんは私と違って組織の人間、上司である文化学園理事長の許可が必要でした。大沼さんの快諾を得て、私はやっと議長から解放されました。さらにもうひとつ、大沼さんには「高田賢三プログラムをデザイン科のカリキュラムに入れて欲しい」とお願いしたことがあります。高田賢三回顧展@文化学園服飾博物館文化服装学院からはたくさんのデザイナーが世に出ていますが、最初に世界的に有名になったOBは「花の9期生」の一人、高田賢三さんです。賢三さんは時々日本に長期滞在して全国各地を旅していると長年のパートナー鈴木三月さんから聞いていたので、賢三さんの目の黒いうちに賢三クリエーションを後輩たちに体感してもらったら、とカリキュラムを考えました。1)ジャーナリストや鈴木三月さんからレクチャー。2)賢三さんのデザイン、世界観を徹底的に調べる。3)アシスタントのつもりでコレクション企画、テーマを決める。4)企画マップ作成、デザイン画を描き、制作サンプルを決める。5)シーチングでサンプルを組み、パターンチェック。6)賢三さんに1回目プレゼン。(オンラインで講評もあり)7)アドバイスを受けて修正する箇所はパターン修正。8)生地調達、サンプル制作にかかる。9)サンプル完成したらプレゼン、最終講評をもらう。文化服装学院の学生たちによる賢三コレクション、賢三さんご本人あるいは所縁のジャーナリストや研究者のレクチャーとサンプルづくりを通してクリエーションを伝える構想でした。説明を終えると大沼さんは「この先は担当者と進めて」と窓口になってくださる方を紹介してくれました。が、残念ながら賢三さんも大沼理事長も相次いで亡くなり、結局この構想は実現しませんでした。文化学園の卒業生でもない私の願いをよく聞いてくださった恩義のある方、「僕は100歳まで生きるんだ」といつも背筋をピンと伸ばして仰っていたのを思い出します。
2023.02.27
世界で通用するプロのビジネス人材を育てる人材育成機関を日本にも作ろう、とIFIビジネススクール設立に奔走していた頃、特別に配慮しなければならなかったのが、多くのファッションデザイナーを輩出してきたファッション専門学校でした。 中でもリーダー格だった文化学園(文化服装学院や文化女子大学を有する学校法人)大沼淳理事長には、専門学校のライバル機関を作るつもりはなく、共存共栄できる存在と理解していただく必要がありました。IFI山中理事長はじめ理事の大手企業経営者と共に文化服装学院の見学に出かけたのも、おかしな軋轢を回避するためでした。私は大沼理事長から「業界が学校を作ろうなんて考えず、教育は私たちに任せてくれ。欧米のように企業はもっと学校を支援して欲しい」と言われ、「専門学校生の中には高校時代の偏差値が高く国立大学に入学できそうな学生も少なくないんだよ」と極秘扱いの高校成績が記載された学生一覧表を見せてもらったこともありました。官民協同の「大学院」のような人材育成機関は作って欲しくない、大沼さんのお気持ちはよくわかっていましたが、それでも専門学校とは競合しない形で官民一体となった人材育成機関を作る意味は大きい、と私たちは考えていました。だから、IFIビジネススクールはファッションデザイナー育成の部門は作らない、入学資格者は専門学校または一般大学を卒業している者に限定する、とみんなで決めました。さらに既存の専門学校に協力する姿勢を見せるためにも、私は文化服装学院の商品企画系3年生のクラス(曽根美知江先生)と流通系3年生のクラス(林泉先生)を外部講師として指導することになったのです。東京ファッションデザイナー協議会から松屋の東京生活研究所に移籍する前後、本業とは別にIFIビジネススクールの講義があり、さらに文化服装学院ではそれぞれのクラスを週1回担当するのですからかなりの負担でしたが、誤解されないためにもやらざるを得ませんでした。 その後2000年に私は2つの企業の重責を担うことになってしまい、IFIビジネススクールでも文化服装学院やほかの専門学校でも後進を育てる時間的余裕がなく、しばらく教育現場からは離れました。単発の特別講義ではなくレギュラー講師として教育現場に復帰したのは、官民投資ファンドの社長退任後、文化服装学院流通過程に初めてできた4年生(以前は3年生まで)のクラスでした。文化服装学院ファッション流通科の卒業ショー さて、今日の本題はビジネススクールや専門学校のことではありません。文化服装学院で教えた若者たちの中から、私の部下になった人たちの話です。 文化服装学院で2つのクラスを週1回教え始めた頃、流通専攻科の林泉先生から、「太田先生の下で働きたいという学生が二人いるの。せめて面接だけでもしてやってもらえないかしら」と頼まれました。採用する気もないのに面接するのは学生さんに失礼ですから、私は会社に戻って人事担当と相談し、もしも能力がありそうならば専門職採用する方向で面接することになりました。 私が講義でよくコムデギャルソンの話をしたからでしょう、二人の女子学生はバリバリのコムデギャルソンを着て面接にやってきました。一人はファッションセンスが良い、もう一人は論理的でマーケティングに向いている、二人を足して2で割ったらファッションコーディネイターとして使えるかもしれない。が、採用枠は一人のみ、絞れませんでした。 窓口だった流通専攻科の副担任に「残念ながら採用できない」と連絡、「クラスにはほかに一人優秀な子がいるでしょ。その子も面接したい」と伝えました。私の講義で、当時数寄屋橋にオープンしたばかりのギャップ日本一号店と改装直後の西武百貨店渋谷店の両方を自主的に視察し、その感想を要領よく発表した一人の女子学生(両方の店を自主的に視察したのはクラスでたった一人)のことが気になっていました。 ところが、副担任は「あの子はダメです。既にS社の内定が出ていますから」。S社はこれまで販売職でも大学生だけを採用、専門学校生を採用したことがない敷居の高い企業でした。その女子学生が応募したら販売職で内定、これまで縁のなかったS社とのパイプが初めてできたので先生たちは喜んでいました。 担任の林先生に頼まれて新卒採用の枠を設けた私としては、大勢の学生の中で特に気になっていた学生を面接してみたい、副担任に「ファッションコーディネイターとして育ててみたいので面接させてくれ」と頼みました。 そして、その女子学生は私の下で働きたいと言ってくれました。彼女に内定を出していたS社は私が転職直前にあれこれアドバイスしたことがあり、騒動を避けたいので「家庭の都合で就職しない」と内定辞退するよう勧めました。が、真面目な学生は正直に私に声をかけられたのでキャンセルしたいと伝え、S社は納得してくれたそうです。 IFIビジネススクール全日制1期生山本雅範と関口奈々と昨年末にこうして新卒の関口奈々は東京生活研究所とファッションコーディネイター契約を結びました。しかし彼女と私との間を取り持った副担任は先輩の先生方から厳重注意されました。学校と初めてパイプができそうだったS社の内定を学生の方からキャンセル、やってはいけないことだったようです。 関口は性格もセンスも良く、コーディネイターとして優秀でした。我々も彼女をIFIビジネススクール夜間コースに出して勉強させ、ニューヨーク視察にも連れて行き、いろんな経験をさせました。米国に戻った杉本明子さんの後任ファッションディレクター関本美弥子(私が大手アパレルから引き抜いた)も、のみ込みがはやい関口をしっかり指導しました。 それから数年後、関口は家庭の事情で退職(のちにファッション企業に強い広告代理店コスモコミュニケーションズに就職)しました。現在も同じ代理店で活躍しています。ファッションディレクター関本美弥子(右)と岡野涼子(左)2000年3月卒業シーズンのある夜、たまたま千駄ヶ谷界隈をタクシーで通行中に関口の内定辞退で迷惑をかけた文化服装学院の木本晴美先生から「歌舞伎町で謝恩会の二次会をやっています。時間あれば寄ってください」と電話がありました。二次会の会場に到着してすぐ、私のテーブルに1年間の講義で一番前の座席で熱心に話を聞いていた学生が現れたので、「キミはどこに就職するの?」と質問。学院OBが経営するB社と聞いて、「そっちを辞めてウチに来ないか」と誘いました。その場にいた木本先生は「やめてください。関口のときは大変だったんだから」と言われましたが、学生は入社1週間でB社に辞表を出しました。 文化を卒業して1ヶ月後、岡野涼子は関口奈々の後任として東京生活研究所ファッションコーディネイターに就任。ちょうど大きなリニューアルの構想を練り始めたタイミング、社員たちから上がってくる売り場プランは当たり前すぎて私には面白くありません。入社したばかりの岡野に「どんな売り場にすれば面白いと思う?」と質問すると、彼女の答えは「化粧品メーカーの美容部員に接することなく買い物できるセルフのコスメ売り場が百貨店にあってもいいのではないでしょうか。テスターをいっぱい置いて、時間を潰せたら若いお客様は楽しいと思います」でした。私は「それで進めてみろ」と。こうして学校を卒業したばかりの新米コーディネイターが発案した広いセルフコスメゾーンが松屋2階の目玉売り場として誕生しました。コーディネイターとして岡野も優秀でしたが、ダンナが関西方面に転勤するため研究所を退職、現在は関西の商業施設で仕事をしています。 大規模改装前(上)と改装後(下)の外観関口と岡野の恩師である木本先生からはのちにもう一人教え子を紹介してもらいました。文化を卒業してロンドンに渡り、帰国した高橋史佳です。彼女も松屋のコーディネイターとして活躍、出産を機に退職しました。余談ですが、ダンナは松屋の社員です。今日、その高橋から久しぶりにメールが届きました。今春お子さんが保育園に入るので自分は社会復帰、某百貨店とコーディネイター契約を結びましたとわざわざ知らせてきたのです。律儀な子です。実は、関口の前にも東京生活研究所は文化服装学院流通専攻科から新卒を採用しています。研究所ファッションディレクターで友人の杉本明子さんに頼まれ、私が教えていた学院3年生のクラスからセンスのいい子を紹介しました。渋谷陽子は卒業後東京生活研究所に採用され、杉本さんにコーディネイターの仕事をみっちり叩き込まれ、研究所卒業後は森ビルのテナントリーシングに携わっています。私の部下にはもう一人、文化服装学院流通専攻科出身者がいます。私の特別講義に刺激され、どうしても部下にしてくれとデザイナー協議会を訪ねてきた田中英樹です。協議会で新卒採用して東京コレクションの運営を経験、私が東京生活研究所長になった翌年には田中も移籍して研究所のメンズ部門ファッションコーディネイターに。数年後にはアパレル企業や学校でも指導するプロになりました。彼は私にとって文化服装出身の弟子第1号、いまは独立して独自の商品企画、ものづくりをしています。1985年ニューヨークから戻った直後、私は文化服装学院の小池千枝学院長に声をかけられ学院の「火曜会」という先生方の勉強会で講演、米国式実践教育をお話ししました。文化服装学院と私のご縁はこのときから始まり、気がつけばここで紹介した元部下以外にもアパレルメーカー時代に多くの若者を新卒採用しました。今日たまたま元部下高橋から社会復帰報告メールをもらい、文化出身の部下たちに恵まれたなあと振り返った次第です。<追記>1995年10月14日に私が文化服装学院の当時副担任だった木本晴美先生に送ったファックス、ご本人からコピーが送られてきました。返信はニューヨークの滞在ホテルのファックス番号までとお願いしているのでおそらく若手バイヤーの海外研修引率したときのものでしょう。木本先生、よく保管していましたね。
2023.02.18
大学2年生の冬に父の同業仲間を訪ねたとき、オフィス応接室に置いてあった見知らぬ新聞が「繊研新聞」でした。「何これ」と手に取って電話番号をひかえて翌日電話し、数日後に購読を開始しました。以来、繊研新聞とは長い付き合いが続いています。購読初期はわからない単語だらけ、記事に赤線をひいてはあとで調べ、興味ある記事は切り抜いてスクラップ、私には最良のテキストでした。大学生のファッション研究団体を立ち上げ、いろんな媒体の取材を受けるようになり、若者市場に関するマーケティングレポートを寄稿する中で繊研新聞の取材も何度か受けました。このブログの交友録20に登場する松尾武幸さん(当時は編集部デスク)が取材に連れてきたのが、直属部下の織田晃記者と営業部の古旗達夫さんでした。織田晃さん(故人)そして、大学卒業が迫ったタイミングで織田さんに呼び出され、「卒業したらうちに来ないか」と誘われました。が、私はどうしてもマーチャンダイジングを収得のためニューヨークに行きたかったのでお断りしました。その後渡米して1年経過、松尾さんが特約通信員に誘ってくれ、私はニューヨークのデザイナーコレクション評や業界動向を繊研新聞に書くようになりました。1983年3月、パリコレとはどんなものか一度見てみたいと思い、コレクション担当記者だった織田さんに招待状の追加申請をお願いしたら快く引き受けてくれました。宿泊は織田さんがあの頃パリ出張時に使っていた凱旋門にほど近い安ホテル、凱旋門からホテルまで歩道には派手な化粧のコールガールが並ぶなんとも薄気味悪いエリアでした。いまでは想像できない1ドル230円の円安時代、日本からの出張者は安ホテルで我慢するしかありませんでした。コレクション期間中チケットが複数枚届いたメゾンのショーは織田さんに同行、多くのコレクションを見せてもらいました。働く女性たちにとっての実用的な服が大半を占めるニューヨークと違い、パリコレは「誰がいつ着るの」と問いたくなる奇抜なデザインも多く、ショーの演出は楽しく、華やかさは明らかに違いました。連日最終時間のショーが終わると、織田さんにくっついて日本からの取材陣と合流して遅めのディナー。一般紙の記者、女性誌や専門誌の編集者、フリージャーナリストやパリ在住の関係者、ブランド広報の人たちとちょっとした打ち上げ宴会のようでした。朝から夜までほぼ1時間おきのショー取材、しかも大半の方はミラノに続いてパリコレですから相当きつかったでしょうが、それでも皆さんとても元気でした。織田さんのほかには服飾評論家の大内順子さん、毎日新聞の田中宏さん、集英社の愛甲照子さん、モードエモードの大塚陽子さん、ほかにパリ在住フリーのジャーナリストやカメラマンらがよくサントノーレ通りの中華料理店に集まっていました。残念ながら多くの方はすでに亡くなっていますが....。いまでもそうかもしれませんが、当時ファッションショーの招待状は同業者の間で奪い合いでした。宿泊しているホテルのコンシュルジュが間違ってショーの招待状を赤の他人に渡そうものならまず戻ってはきませんし、会場で指定された座席番号には先着した他社の記者が知らん顔して座っていることも日常茶飯事、自分の席に座るまで安心できません。(シャネル 2013年春夏パリコレ)新聞雑誌の正社員記者が初めてパリコレに来ると、それまでパリコレレポートを寄稿していたパリ駐在特派員や外部のフリーランスジャーナリストに招待状が届くものの「新参者」には届かないといったケースがよくありました。初めて取材に来た若手記者が確認のためにオートクチュール協会のオフィスを訪ねたら、協会側の登録媒体リストに自分の名前はなく、自社の欄には登録手続きをお願いした人の名前しかなかったという怖い話も。先輩ジャーナリストやパリ在住フリーランスの人たちに虐められ、初回のパリコレ取材で「もうパリコレには来たくない」と嘆く記者もいましたが、私は織田さんがちゃんと招待状を渡してくれ、織田さんにくっついて行動していたので初回パリコレでも惨めな思いを全くせずに済みました。あれは私にとって2回目のパリコレ、1985年3月のことでした。織田さんからマリ・クリスティーヌさんを紹介されました。女優や番組司会で活躍していたマリさんはいろんな国で生活した経験とその語学力を活かしてファッションレポートにも意欲を燃やし、85年秋冬パリコレ取材に来ていました。パリコレ取材は新人同然、先輩取材陣の洗礼を受けてちょっと悩んでいる様子。織田さんから「太田くん、面倒見てやってよ」と言われ、現地であれこれアドバイスすることになったのです。マリさんは先輩取材陣から冷たくされたのか、「いったい誰を信じたらいいのでしょう」とストレートな質問。私はニューヨークがホームグラウンド、パリコレは2回目で誰が信用できるなんて軽々に答えられません。「織田さんは裏のない人、彼の背中に隠れていればいいよ」と助言しました。彼女にはもう一点、「あくまでもタレントとして消費者目線でファッション情報を視聴者や読者に伝えることに徹してみてはどうかな。あなたがファッションの専門家を目指すとなれば、報道陣の中には警戒する人が出るかもしれない」。先輩の紹介だったのでじっくり相談に乗りましたが、その後しばらくして彼女はファッションの世界を諦めたのかショー会場で姿を見ることはなくなりました。後輩たちや若いデザイナーの面倒見も良かったが、織田さんは学生の頃から反骨精神の持ち主、ビッグネームのコレクションにも忖度なしで辛口批評を書き、時々ブランド広報やデザイナー本人と口論になることもありました。織田さんの記事に怒り心頭だったデザイナーに上司の松尾編集局長共々呼び付けられて胸ぐらを掴まれたこともあったそうです。反骨精神の記者から見れば、日本の主だったファッションデザイナーが組織したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)はひとつの権威団体、その事務局長に就任した弟分の私(織田さんほどではないけれど忖度抜きの私の記事に対するクレームが繊研新聞に来ることがたびたびありました)は「裏切り者」だったのかもしれません。CFD設立してからは何かにつけCFDや東京コレクションに批判的、私とは距離を置くようになりました。反骨のジャーナリストにとって、取材対象であるデザイナーを守る側に行ってしまった後輩が許せなかったのかもしれません。
2023.02.02
年末年始都心部の売り場にコロナ禍以前のような活気があった要因のひとつは台湾や香港などのインバウンドパワーがあげられます。まだ中国人観光客の姿は見かけることはありませんが、外国人の消費は売上に相当寄与しているはずです。先日アップルストアの消費税免税処置に対する追徴金が170億円と発表され、在日転売ヤー(あるいはその元締め)の存在の大きさに改めて驚かされました。アップルストアに限らずどの商業施設も従来より慎重に免税処置を受け入れていますから、普通に免税される外国人観光客と在日の転売ヤー合わせて一体どれくらいの外国人シェアなのかはわかりません。年末ラグジュアリー系ブランドがやっとコロナ禍前の2019年売上に戻ったのは、明らかに海外からのお客様と転売ヤーのお陰でしょう。今年は春節がちょっと早く、しかも中国政府の外遊緩和策でそろそろ中国人の来日も増えてきそうです。年末中国からの観光客抜きでも相当売り場に活気がありましたから、コロナ禍前のようには行かないとしても今年の春節は中国人も復活してそれなりにインバウンド消費があるかもしれません。私がクールジャパン政策に関わった2013年、来日外国人はおよそ1,000万人でした。それが6年後の2019年には3,000万人を突破、このまま伸びて行けば5,000万人突破も夢ではないと思っていました。美味いラーメンを日本で食べたいという理由だけで来日する富裕層外国人もいれば、アニメやコスプレの聖地巡礼、自国よりも品揃えが豊富で価格の安いブランド商品ショッピング目的、日本の伝統文化に触れてみたい外国人の来日も増えてきました。コロナウイルスさえなければ2022年には5,000万人に迫っていたのではないでしょうか。世界で最も外国人客を集めているのはフランス、その数はおよそ9,000万人。数年前フランスの政府関係者に聞いた話では、フランスの悩みはパリ一極集中、政府としてはフランスの地方都市にもっと賑わいを作りたいそうですが、他国には羨ましいダントツ人気。ヴィジットジャパンやクールジャパン政策がいくら奏功しても日本がフランス並みに外国人観光客を集めることはできないでしょうが、かなり上位にランクされるのは可能だと思います。日本は東京一極集中ではなく、結構地方にも分散していますから期待できます。コロナ禍直前の2019年、日本は世界で12位でした。普通に東京オリンピックが開かれていたらどうなっていたんでしょう、8位のタイに肩を並べていたかもしれません。各国ともコロナウイルス対策はどんどん緩い規制になってきました。コロナ感染者の数が減少しなくても、旅行者の行き来はこの3年間とは違うでしょう。そこに外国からの旅行者にはありがたい円安傾向、インバウンドが再び急増する環境は整いつつあります。接客のいらない転売ヤーより、つたない英語でもちゃんと接客して販売できる方が販売スタッフのやる気も違うはず。早くインバウンドが復活することを期待したですね。
2023.01.19
2014年1月シンガポールとマレーシアの視察。クールジャパン政策を推進するために設立された新組織の代表に就任して最初の海外出張でした。このときシンガポールのマリーナベイサンズカジノのスケールの大きさに圧倒されました。東京ドームのような巨大カジノ場(写真上)、このビル周辺にはカジノで勝利した観光客を相手にしているであろうラグジュアリーブランドの大型店がズラリ並ぶショッピングモール。当時日本でもインバウンド拡大のための「I R構想」が議論され、東京お台場、大阪、沖縄の3か所がカジノの候補地らしいと噂されていました。最近はコロナウイルスの影響でしょうか、とんと噂すら聞かなくなりましたが...。近未来、日本にもこんなスケールの大きな娯楽商業施設はできるのでしょうか。2年後このシンガポールでは「ジャパンフードタウン」開店(2016年7月、写真下)のお手伝いをしました。ラーメン屋、稲庭うどん店、居酒屋、寿司店、蕎麦屋、天ぷら屋、とんかつ店、鉄板焼きや鯖専門店など日本の食をまとめて海外に紹介しようとする事業家の情熱に多くの飲食店が共感しての出店でした。オープニング視察した台湾の百貨店から早速アポが入り、同じようなレストラン街を台北に作りたいので協力してもらえないかと言われました。マレーシアの首都クアラルンプールの宿泊ホテル部屋からのぞむ高層ツインタワー(写真上)はもの凄く迫力がありました。発展途上国のイメージは吹き飛び、ASEANに対する認識を変えないといけないとこのとき思いましたね。この地に全館クールジャパンの日系百貨店はできないものか、と議論を開始。2年後の2016年10月にはISETAN The Japan Storeがオープン。1階サカイ、アンダーカバー、ヨウジヤマモト、プレイ・コムデギャルソンなど日本を代表するファッションブランドから、伝統的な生活雑貨、スキンケア、カメラ、キャラクターグッズ、デパ地下まで、どこを切り取っても「かっこいい日本」でした。ドバイの商業施設開発会社幹部からは「このままドバイに持ってきてくれないか」と興奮気味にアプローチされました。2014年視察から退任する2018年までアジア各国には何度も足を運び、訪れるたびにどんどん進化する様と日本文化への関心に驚いたものです。いまはもっと日本の食、ファッションやアニメなどのコンテンツ分野が人気になっていることでしょう。コロナウイルスでなかなか海外に出られませんが、日本の生活文化がどのように広まっているのか、この目で見たいです。
2023.01.12
官民投資ファンドで仕事をしていたとき、毎年仕事始めは霞ヶ関の関係省庁への挨拶回りでした。本省から応援スタッフを数人出してくれている経済産業省に行くと、私よりも一足早く年始挨拶に来ている人とすれ違いました。日本ニット工業組合連合会(通称ニット工連)元理事長の樋口修一さん、理事長を退任されたあとも年始挨拶を続けていました。退任後もニット業界全体のため欠かさず挨拶、なかなかできることではありません。ジャパンベストニットセレクション展の表彰式数日前、その樋口さんから恒例の年末レターをいただきました。今年87歳、会社をやめ、組合メンバーでもなくなったのにいまも両国駅前のニット組合事務所に顔を出し、「大久保彦左衛門をやってます」とありました。数年前に体調崩されたようですが、文面からは事務局スタッフや後輩経営者たちに大きな声でアドバイスされている光景が目に浮かびました。私は若い頃から生意気で、どんなに偉い人でも大先輩でも、筋の違ったことをされたらはっきりと「あなたは間違ってる」と言ってきました。時には夜間ご自宅に激しい抗議文をファックス送信したことも。夜にファックス送信したら、翌朝オフィスにお越しになっていた長老の一人は東武百貨店の山中社長、そしてもう一人がニットの樋口理事長。お二人ともオフィスの会議室で私が出社してくるのをお待ちでした。山中さんには理事長をされていたIFIビジネススクールの基本方針に関して「あなたは実学を本気でやる気があるのか」と抗議したのを覚えていますが、樋口さんへの抗議は何だったのかはっきり覚えていません。業界長老に「ふざけるな」と送信したことだけは覚えていますが。当時、樋口さんからこんなことを頼まれました。群馬県太田市のニット製造業の若手経営者たちを指導してやってくれませんか、と。彼らにマーチャンダイジングを教えるのは苦ではありませんが、毎回太田市まで出かけて現地で指導するのはちょっと厳しい。そこで、「講師料はいりませんから毎回太田市から受講に来てくれませんか。都内の売り場を回ることも講義の一部に含まれているので」と引き受けました。ご自身の東京ニット組合でもないのに、地方産地の若手のためにわざわざ私に指導要請する面倒見の良さでした。太田ニット組合の皆さんには小野塚秋良さんのZUCCaのニットを店頭で買ってもらい、ドンピシャ同じゲージ、同じフィット感のニットを作って次回持ってきてください、そんな研修をやらせてもらいました。これが案外難しかったようで、皆さんそれなりに研究して同じニットを作ったつもりなのでしょうが、私から見たらニットは全てZUCCAaとは別物でした。勉強会の課題にさせてもらったZUCCaZUCCaのニットは複雑な先染めヤーンを使っているわけでも、数本のヤーンを絡めて編んでいるわけでも、製造が難しい超ハイゲージでもありません。一見すると分量、フィット感がタイトでありながら、着てみて決して窮屈ではない、一見ありふれた無地ニットです。それと同じものを簡単に作れそうで作れない、そこに太田市の組合員の感覚的課題がありました。私とは全く無関係の太田市のニットメーカーを丁寧に指導したのは、「地方でのものづくりの火を消してはならない」と奔走する樋口さんからの依頼だったからでした。CFDが若手デザイナーのコレクション発表をサポートする「東京コレクションANNEX」を開催していたとき、たまたま選出したミラノ在住デザイナーKenichi Ogawa(現在はアクセサリーデザイナーとして活躍)はかつて樋口さんの会社フロンティアヒグチで働いていました。「ケンちゃんが選ばれた」と樋口さんはわが子のように喜び、帰国したデザイナー本人と関係者をご自宅に招いておもてなし。私もその中にいました。このとき樋口さんはピアノを弾いてくれましたが、ピアノは還暦から始めた、と。還暦を機にピアノを始めるとは無茶な話と思いますが、ご本人は超マジ、何事にも真剣に取り組む人なんだなあと思いました。JFWプレミアムテキスタイル展繊維産地全体のモノづくり底上げのために奔走した、いわゆる「産地ボス」としてもう一人記憶に残っている方がいます。尾州産地の毛織物工業組合理事長だった岩仲毛織の岩田仲雄さんです。一宮市で会議があったとき、普通であれば理事長はど真ん中の席に座りますが、岩田さんは「若い人たちがリードしてくれたらいいんじゃ」とあえて隅っこの席に陣取っていました。こんな理事長、他の産地で見たことありません。その岩田さんから尾州産地の底上げのために特別なプログラムをやってみたいと相談がありました。組合員をランダムに数チームに分け、各チームに若手デザイナーを立てて一緒にものづくりをするという構想、頼まれた私は数人のデザイナーに協力要請をしました。このとき「各チームに超ベテランの職人さんを技術アドバイザーに指名してください」とお願いしました。デザイナーの一人が「タテ糸もヨコ糸も細いステンレスで織物できませんか」と尋ねたところ、毛織物メーカーの構成員は「そんなのは金物屋に行ってくれ」と返しました。そのときこのチームで一番のベテラン職人さんが「あなたはステンレスで何をしたいんだ。ステンレスの色?、それともツヤ?、あるいはハリなの?」とデザイナーに質問したのです。デザイナーが希望を説明すると、「それならステンレスでなくウールでやってみよう」となったそうです。この場面のことを私に話してくれた岩田理事長はとても嬉しそうに目を細めていました。岩田さんはよくこんなことをおっしゃっていました。できることならば、ゆっくり織って、じっくり寝かせて良い生地を作ってみたい。ハイスピードの新型織機は短時間で織れるから効率は良くなったものの、どうしても古いションヘル織機のような味や風合いはでない、と。手間ひまかけてガッチャン、ガッチャンとゆっくり織った生地の良さを何度も私は伺いました。古い織機でゆっくり織ると風合いが出ます余談ですが、尾州の大手メーカー中伝毛織のオフィス入口には動かなくなったションヘル織機が飾ってありますが、尾州の皆さんにとってションヘル織機は特別な思いがあるんですね。ちなみに、私のクローゼットにある30着ほどのスーツは全てションヘル織機で織った葛利毛織のウールです。岩田さんから何度も吹き込まれたからでしょうか、ションヘル織機ではないウールはもう着たくなくなりました。ニットの樋口さんや毛織物の岩田さん(故人)のように、日本のものづくりを活性化するために奔走してくれる熱いリーダーがいる繊維産地にはまだものづくりの火は残っているのではないでしょうか。時代が変わって経営者たちがその息子や孫世代に交代しようとも、産地全体のことを考えてくれるリーダーの存在は不可欠。繊維製品のメイドインジャパン、ずっと残したいですね。
2022.12.29
日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までの51ヶ月。株式取引に全く縁のなかった一般市民が電電公社民営化で売りに出されたNTT株に群がり、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収して世界を驚かせたのも、バブルの象徴的な出来事でした。過剰な経済拡大期のあとには当然大きな反動、バブルがはじけて資産下落や不良債権処理が一斉に始まりました。ファッション業界におけるバブル崩壊は日本経済のバブル崩壊よりも一足早く起こりました。1980年代前半デザイナーブランドを扱う百貨店、ファッションビル、セレクトショップが急増。大手から中堅アパレルメーカーまでがこぞって有力デザイナーブランドの下で働くアシスタントや装苑賞などコンテストで認められた学生を青田刈り、ブランドデビューさせるケースが増えました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した頃が青田刈りデビューのピーク、ファッション業界はバブルそのものでした。経験がほとんどない若手デザイナーに高額ギャラを約束、それなりの規模のファッションショーでデビューさせる。港区、渋谷区に立派なプレスルームと立派な直営店舗を開設。ブランド立ち上がりから素材の大半はオリジナル、先駆者たちが生地屋でありもの素材を調達してブランドを開始したことを考えると随分贅沢でした。しかし世の中そう甘くはありません。デビューして2年ほど経過すると、出費だけが増え、在庫が膨らみ、売上がついてこない企業側は焦り、デザイナーとの関係はギクシャク、ブランド閉鎖が始まりました。CFDが誕生すると、どういうわけかブランドの後始末相談に来る企業や若いデザイナーが増えました。彼らが持ってくる当初事業計画書を見ると、デビュー3年後には売上10億円程度でちゃんと利益が出るプラン。しかし実際には売上は計画の半分以下で在庫は7~8億円、しばらく黒字化が見えない「机上の空論」ばかりでした。このときつくづく思いました。日本にはファッション専門学校が才能あるデザイナーをたくさん輩出してきたけれど、デザインマネジメントやマーチャンダイジングできる人材がいない。日本にもファッションビジネスのプロを育てる教育機関を作らないといけない、この思いがIFIビジネススクール設立に向けて走り出した大きな理由でした。青田刈りで失敗した例はたくさんありますが、その中で個人的に最も印象深かったのは文化服装学院出身の石川ヨシオさんです。1981年の第50回装苑賞を受賞して注目された石川さんは大手アパレルのイトキンからブランドデビュー。ところが、デビューしてすぐプロジェクトは打ち切られました。文化服装学院の小池千枝学院長に石川さんの再デビューを頼まれたのが、新規デザイナーブランドで急成長した中堅アパレルN社でした。石川さんとの交渉がとんとん拍子で進んで契約寸前になって、N社の下で既にブランドデビューしていた文化服装学院の同級生デザイナーがオーナー社長に直談判、結局石川さんの再スタート計画は見送りになりました。このブランドの責任者になるはずだったN社幹部から頼まれて、私は石川さんと面会することに。このとき、出版されたばかりの旺文社「一生たち」(三宅一生さんの三宅デザイン事務所で働くアシスタント全員が仕事への思い、ものづくりの姿勢を綴った書籍)を石川さんに手渡し、こんな話をしました。野性のライオンは束縛されることなくどこへ行くのも自由だが、日々のエサは自分で獲得しなければならない。一方、動物園のライオンにはオリの外に出る自由はないが、エサは毎日提供される。どちらのライオンになりたいのか、この本を読んで自分の進む道を考え、次回答えを持ってきてください、と。当時CFDを訪ねてくる若手デザイナーや専門学校生は、行動の自由は欲しい、エサの提供も受けたい若者が少なくなかったので、私はテキストとして「一生たち」を渡していました。石川さんの思いを聞いて、私が業界人に出資をお願いして小さなデザイン会社を作り、あとは周囲を説得してアパレル販売事業を計画してください、となりました。1口100万円で業界仲間に呼びかけ、石川デザイン事務所は西麻布に誕生しました。中立でいなくてはならないCFDの私自身は出資できませんから、親交のある小売店、メディア、アパレル工場、繊維商社の幹部たちを説得して資本金を集めました。この交友録13に登場するリッキー佐々木氏からは「(アパレル会社は)俺にやらせてくれないか」と声をかけられました。旧知のビジネスマンからは「息子をこのプロジェクトで育ててくれるなら」とアパレル会社に出資する話もありました。が、石川さんがアパレル事業のパートナーとして連れてきたのは、日本橋堀留町の織物会社国洋の奥井新一社長(ファッションコーディネイター西山栄子さんのご主人)でした。クリエーションを発信するデザイン会社を母体に、商品化して販売する別会社を起こすのが私の構想でしたが、奥井さんは発足したばかりのデザイン会社を買い取ってアパレル販売会社と一本化する形を希望。石川デザイン事務所に出資してくださった方々には私から事情を説明、奥井さんへの株譲渡をお願いし、私がお手伝いする必要はなくなりました。それから1年後だったでしょうか、久しぶりに石川さんと奥井さんが訪ねてきました。「僕たちは別れることになりました」、私の目の前で両者は互いに目を合わせることなくブランド事業からの撤退を宣言したのです。やっぱりダメだったか、と思いました。デザイナーが代表になるデザイン会社と、ビジネスマンが代表になるアパレルメーカーとは利害もスタンスも違います。両社を一本化して経営権を出資者が握るとどうしても軋轢が生まれます。互いに我慢の限界を超えたのでしょう、石川ヨシオの事業化はまたしても実を結びませんでした。その後石川さんはパリに移り住み、帰国してからは専門学校で指導しているらしいと聞きました。才能のあるデザイナーでしたから、正直もったいないと思います。石川さんと学生時代にファッションコンテストを競い合ったデザイナー予備軍には才能ある人が多く、アパレルメーカーに次々とスカウトされましたが、そのほとんどはブランドビジネスとして成果を上げることなく表舞台から消えました。(成功事例の1つマイケルコース)欧米ではデザイナーとビジネスマンが団結して売上を伸ばしている例がいくつもあります。マイケルコースのようにマネジメント側が提示した「雑貨90%、服10% 」の商品構成比(それまでは服90% )をデザイナーが理解し、大きく成長してジミーチュウやヴェルサーチを傘下におさめた成功事例もあります。ダナキャランやラルフローレンのように株式上場を達成、創業時に共に苦労した仲間に利益還元した例もあります。経営側のデザインマネジメントとお互いが立場を尊重し合う構図、クリエーションとビジネスのいい関係が日本でも増えると良いんですが。
2022.12.18
長年有楽町国際フォーラムで開催されてきたジャパン・ベストニット・セレクション展(略称JBKS)、コロナウイルスの影響を受け昨年規模を縮小して竹芝の都立産業貿易センター展示室に移転、今年のJBKS 2022も昨年同様竹芝開催でした。出展者は減少、毎年優秀企業を表彰してきたAWARDもなくなりましたが、予想以上の賑わいでホッとしました。出展したニットメーカー各社の熱意でしょう、ものづくりしている方々の声を聞くのは楽しいです。JBKS 2022の案内状を送ってくれた山形県の「今間メリヤス」織田社長を最初に訪ねました。1980年代後半GAPが米国市場をリードしていた時代、GAPはどういうニット企画を進めていたか、それがいかに効率的でしかもサステナブル、模範的マーチャンダイジングであったかを説明してきました。次回以降の商品企画の参考にしてもらえたら。新潟県五泉の「高橋ニット」、ネット通販の売上が全体の4割になったと前社長の高橋さんから伺いました。IFIビジネススクール全日制出身の息子さんに社長職はバトンタッチ、その若社長と直営店舗とネット販売をうまく噛ませることがいかに重要か話しました。ものづくり側と消費者とが背中合わせのビジネスをもっと加速して欲しいですね。前職の部下たちが投資先の米国アパレルブランドに繋げた山形県の「米富繊維」。最近地元に直営店舗を開設、今日は社長自らショップで販売当番だそうで会場不在でした。直営店、ネット通販をうまくリンクさせて手の込んだオリジナル商品を強化、海外販路をさらに拡大して欲しい。ニット業界のリーダー、山形県の「佐藤繊維」佐藤社長は接客中だったので短い挨拶だけ。彼が文化服装学院に指導してもらったS先生から「自宅に遊びにきて」と私も誘われてる話で盛り上がりましたが、例年会場で伺っている次シーズンの重点MDは聞けませんでした。次回どこかでお会いするときに質問します。コロナウイルスが完全にストップし、JBKSが再び国際フォーラムのような大会場に戻り、AWARD審査も復活できたらなあと思います。日本のニット素晴らしいです。
2022.12.15
コロナウイルスの影響でここ2年間クリスマス商戦は厳しかったでしょうが、今年はコロナ前の活気が戻ってきたように感じます。街に人が溢れ、ブランドショップ入口は入場規制のためお客様の行列、中国人観光客はまだ戻ってきていませんが、日本在住の中国人バイヤー(主に中国への転売で儲けている人々)が走り回って大活躍、内外の主要ブランド売上はほぼコロナ以前でしょうね。
2022.12.11
1985年5月ゴールデンウイーク最終日に一時帰国した私は、通信員契約をしていた繊研新聞社のニューヨークセミナーで解説したり、終わったばかりのニューヨークコレクション(当時秋冬物は4月後半の2週間開催だった)の総括記事を書く一方、突然構想が持ち上がった東京ファッションデザイナー協議会設立の準備に追われていました。参加を呼びかけるデザイナーのリストアップ、会則や規約づくりなど、発起人デザイナーやその実務責任者と連日打ち合わせ、事務所探しは三宅デザイン事務所の小室知子さんとワイズの林五一さんが引き受けてくれました。7月8日、日比谷のプレスセンターで設立総会、記者会見、設立記念パーティーがあり、いよいよ東京コレクション自主開催に走り出しました。しかし、いい事務所物件がなかなか見つからず、小室さんの勧めでしばらく六本木にあった三宅デザイン事務所の別館スペースを借りて業務開始でした。このとき第1号アルバイトとして仮事務所でサポートしてくれたのが、玉川大学の学生だった欧子ちゃん、帽子デザイナー平田暁夫さんのお嬢さんでした。平田さんは1955年帽子デザイナーとして事業をスタート、日本ファッションエディターズクラブ賞を受賞した翌年パリに渡り、オートクチュールと共に発展してきたフランス流帽子づくりのワザを身につけたと聞いています。欧州滞在中に生まれたお子さんに「欧子」という名前をつけました。帰国後、縁あって皇太子妃美智子さま(現在の上皇后さま)の帽子も担当するようになり、上品な小さな帽子は女性誌グラビアなどで何度も取り上げられました。1994年4月25日、仲良しだった市倉浩二郎さんが急逝したとき、彼の先輩記者から「毎日新聞から一人出すのでファッション業界からも一人弔辞を読む人を出してくれ。あんたがやるのが一番良いんだが」と言われました。が、声を詰まらせることなく弔辞を読む自信のない私は、故人と親交のあった平田さんに弔辞をお願いしました。このとき奥様から「(心臓の病気だった)平田を殺す気」と𠮟られました。「あなたがおやりなさい」という意味だったのかもしれません。告別式の遺影に選んだ写真は、鳥居ユキさんのファッションショーで市倉さんが平田さんをエスコートしてモデルとしてステージにあがったときのもの、照れくさそうに笑う写真がその人柄をよく表していました。実際の写真は市倉さんの横に平田さんも写っていますから写真の説明もして「ここはぜひ平田先生にお願いしたいんです」と奥様を説得、平田さんは引き受けてくださいました。平田さんは心臓を患っていてたくさんお薬を服用されていると伺いました。私は強い薬の副作用の心配から、当時巷で流行し始めた有機栽培の根菜などを煮た「野菜スープ」を勧め、そのレシピコピー奥様にをお渡ししました。2カ月後、平田さんのトレードマークであった白い顎髭が段々黒くなってきた、と喜んでくださいました。確かに、それまで真っ白だった髭に少し黒いものが混じっていました。盟友の死から約1年後、私はそれまで務めたデザイナー協議会を退職、松屋のシンクタンク東京生活研究所に転職、あるパーティーで平田さんと三宅一生さんから「せっかく百貨店に入ったんだから暴れてください。面白いこと一緒にやりましょう」と激励されました。その直後でした。三宅さんのプリーツプリーズ春物展示会、会場には鮮やかな春色商品がズラリ、思わず私は「Spring has comeですね」、と。そして直感的にイベントを思いつき、「先日、面白いことをやれとおっしゃったですよね。展示会終わったらサンプルを平田先生のところに送ってくれませんか。コラボイベントやりましょう」と三宅さんに提案しました。オフィスに戻って今度は平田さんに電話を。「近日中に三宅さんのところからプリーツプリーズのサンプルが届くと思います。それをご覧になった瞬間の気分を帽子にしていただけませんか。テーマは"春が来た"、松屋一階のSOG(Space of Ginza。天井までオープンスペース)で面白いことしましょう」。こうして半年後AKIO HIRATA X PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEイベント開催。SOGの大きな壁面いっぱいに円形パイプを設置、カラフルなプリーツTシャツのハンガーをパイプに取り付けて観覧車のような展示を行い、フロアでは平田さんの帽子とプリーツ服を並べて販売、期待以上によく売れました。このとき大手アパレル大幹部が「こういうのって松屋らしくていいねえ。売れる、売れないじゃないんだよ。お客さんに楽しいこと、面白いことを提供するのが百貨店の使命。こういうのどんどんやってよ」と激励されました。普段は売上のことしか言わない大手企業の人にもわかってもらえてうれしかったです。コラボイベントのあと、ご協力いただいた平田さんと三宅さんにお礼をしなければと、専務営業本部長が銀座のイタリアンレストランで一席セットしたとき、奥様が席を立たれるたびに平田さんはワインを私に所望なさるのです。恐らくドクターからお酒を控えるよう助言あり、奥様からは禁止されていたのかもしれません。でも、奥様の目を盗んでいたずらっ子のような目でワイングラスを差し出す姿、とてもおかしかったです。お会いするたび、「今度飲もうよ」とよく声をかけてくださり、年末になると特別に蔵元から取り寄せた出来立てほやほや濁り酒の一升瓶を2本わざわざ持参してくださいました。これも「飲もうよ」のシグナルだったかもしれません。2011年東北大震災のあと、南青山スパイラルガーデンでnendo佐藤オオキさんが空間演出した「ヒラタノボウシ展」がありました。インスタレーションのための白い不織布帽子(=写真)を制作するのに手が足りない、どこか専門学校の学生さんに手伝いをお願いできないだろうかと相談され、私は指導していた目白デザイン専門学校の先生方に協力をお願いし、助っ人を動員しました。この展覧会は高く評価され、その年の毎日ファッション大賞に選ばれました。平田暁夫さんは2014年に亡くなりましたが、欧子ちゃん(本名は石田欧子)が「平田欧子」を襲名、父上の後を継いで帽子デザイナーとして活躍、二人のお子さんも若者向け帽子ブランドを手掛けています。2016年、南青山のギャラリーで欧子さんの小さな展覧会にお邪魔したら、そこに美智子皇后がいらっしゃいました。私たち一般人は進路の邪魔にならぬよう部屋の隅っこに立っていたら、どういうわけか皇后さまが私にも声をかけられました。どんな有名人から声をかけられてもあがったことはありませんが、このときだけは頭の中が真っ白になり、ご質問に対して何を答えたのかはっきり覚えていません。皇室の方々のために服や帽子をデザインするのってものすごく神経すり減らすのでは、とこのとき初めて思いました。オートクチュールのような帽子を身につける人は現代社会において多くはないでしょうが、誰かが継承しないとこれまで培われてきた伝統技術、職人技は消えてなくなります。フランス以上にフランスっぽい帽子を創作した平田さんのクリエーションとクラフトマンシップ、欧子さんやお孫さんがしっかり守ってさらに発展させて欲しいです。
2022.12.10
サッカーワールドカップ、日本は強豪ドイツ、スペインを予選リーグで撃破して大いに盛り上げてくれましたが、ベスト8の壁は厚く、クロアチアには敗れました。世界の壁、まだまだ厚くて高いんですね。「ドーハの悲劇」と言われるアジア予選最終ゲームで引き分けワールドカップに駒を進められなかったとき、正直日本はワールドカップにしばらく出場できないないんじゃないかと思いました。が、世界の強豪を2つも倒す日がこんなに早く来るとはちょっとびっくり。ベスト8進出は近未来きっと実現してくれると期待してしまいます。オマーンのホテルロビーマスカット市街マスカット市内の市場ワールドカップで盛り上がっている間、中東では世界経済にも影響ありそうな出来事がありました。国交を断絶していた開催国カタールをアラブ首長国連邦(UAE)の大統領が訪問、今後の関係改善などを協議したそうです。ここ3年半、湾岸エリアの6カ国、通称GCC(UAE、バーレーン、クウェート、カタール、オマーン、サウジアラビア)の関係にヒビが入り、カタールと近隣諸国とは断絶状態でした。恐らくイランとの関係(カタールはイランと親交あり)をめぐる考えの相違が原因でしょう。ワールドカップという名目があってサウジアラビアの皇太子もサウジ応援のためにカタール入りしたそうですから、GCCの断絶関係はこれから少し変わるのかもしれません。余計なことですが、この皇太子は強豪アルゼンチンに勝利したサウジの全選手にロールスロイスをプレゼントするとか。資源を持っている国はスケールがでかいです。ウインドーにはRamadanの文字があちこちに男性は白、女性は黒服このGCCがらみのビジネスで一度だけUAEのドバイとオマーンのマスカットを訪問したことがあります。とっても暑い夏、ちょうどRAMADAN(ラマダン。日の出から日没までの間は断食)の時期と重なりました。夕方太陽が沈むと同時にドバイの市民は街に繰り出し、一族郎党テーブルを囲んでもの凄い量の食事をしていました。断食は日中だけのこと、日が落ちると多くのレストランは満席でした。ドバイの滞在ホテルの回転ドアを出た瞬間に強い熱波を感じて驚き、オマーンでは庭に面したコテージのドアを開けたら足元に大勢のヤモリがいてビビりました。爬虫類苦手な私にはきつい出張でした。このときGCCの政府関係者から聞いた話。カタールとイランとの不思議なパイプ、インド洋に面したオマーンの地政学的メリットでした。仮にイランとの紛争でアラビア海が海上封鎖されても、オマーンに荷揚げして陸上輸送できるので完全封鎖から逃れることができる、と。私も含め多くの一般日本人にはそういう目線でアラビア海を見たことはないでしょうし、イランと湾岸諸国の複雑な関係、GCC内部でもイランとの距離感がバラバラということにもほとんど意識はないでしょう。ワールドカップを契機に、GCC諸国の関係が改善され、石油が増産されて物価上昇が緩和されるといいですね。ドバイのショッピングセンターは世界のトップブランドがズラリオマーンはインド洋に面しGCCにとっては重要な輸送拠点
2022.12.06
前述しましたが、今井啓子さんは高島屋を退職して米国留学後資生堂ウェルネス事業部に入りましたが、同社の子会社ザ・ギンザに異動することになって再びファッションの世界に戻りました。ザ・ギンザの立役者だった殖栗昭子さんが退職、ザ・ギンザはファッションビジネスに明るい女性幹部が必要だったのでしょう。殖栗昭子さんと私この殖栗さんの退職、少なからず私も関係していました。松屋再建のあと東武百貨店社長に就任した山中さんとの会話の中から飛び出した構想だったのです。山中さんに「顧問になってくれ」と言われて以来、たびたび会食やミーティングの場に駆り出された私は、依然男性社会の百貨店業界は女性幹部をもっと採用しなければ変化は起こらない、思い切って優秀な女性を役員クラスに登用すべきでは、と進言していました。「優秀な女性っていったいどこにいるんだ」と百貨店経営の神様はおっしゃるので、「身近にもいるじゃないですか。たとえば殖栗昭子さんなんてどうです、伊勢丹時代からよくご存知でしょ」と名前をあげました。数日後、殖栗さんから電話がありました。「あなた、山中さんに変なこと言ったでしょ。さっき山中さんから電話がかかってきて食事に誘われたわ。あなたも同席してちょうだい」、強い口調で命じられました。しかし、「知らない仲じゃないんだから、お二人でどうぞ」と断りました。かつて、三越から西武百貨店社長に転じた(のちに三越に復帰)坂倉芳明さん、東急百貨店三浦守さん、松屋山中さん、3人の密室宴席がありました。部屋を提供していたのは帝国ホテル犬丸一郎社長、某大手アパレルメーカー大幹部K氏が費用を負担、数名のアパレルメーカー経営者が差し入れの酒を持参する席だったそうです。これに付き合わされた「華」の一人が伊勢丹研究所出身の殖栗さん、山中さんとは入魂でした。だから私が二人の間に入って紹介する必要はありません、同席は遠慮しました。山中さんが東武百貨店社長に就任した直後、「殖栗くんはパリコレに出張中だが滞在先がわからないんだ。キミ、探して伝言してくれないか。東武の根回しは終わったと」、と電話がありました。二人の間で話は進んでいたのです。その数カ月後、殖栗さんは東武百貨店マーチャンダイジング部門担当の常務になりました。インポートブランドの集積では同業他社に先駆け圧倒的に強かった西武池袋本店ですが、当時人気急上昇中だったプラダやジルサンダーのショップは東武にオープン。殖栗ネットワークであることは言うまでもありません。パリコレ時に発表される人気ブランド上位20傑のうち東武は7つ導入、西武池袋の目の前でこれはあっぱれでした。初めて殖栗昭子さんと会ったのはニューヨークコレクション会場、ショーでたまに見かける「いつもクールな表情の滅多に笑わない姉御」、そんな印象でした。どういうわけか当時から私はひと回りほど年長の姉御たちに可愛がられる「おばんキラー」でした。生意気な意見を言っても叱られない、殖栗さんとも自然に交流が始まりました。 ニューヨークを引き上げ東京コレクションの運営を始めた私は、パリコレ初日木曜日コムデギャルソン、ヨウジヤマモトのコレクション終了後ミラノでまだ展示会まわりをしている彼女に電話を入れ、コレクションの感想などを報告しました。いつだったか「今晩、あなた空いてない」と電話がありました。来日中の英国セレクトショップのブラウンズロンドン女性経営者バーンスタインさん、コムデギャルソン川久保玲さんと今晩食事をするので英語を話す男性を加えたい、と急なご指名でした。毎回、突然こんな調子で電話をもらってはディナーを付き合いました。バーンスタインさんと川久保さんがお帰りになった後二人でグラッパを飲んでいたとき、何の話がきっかけだったかは忘れましたが、「ババア、うるせー」と私、「ババアとはなんだ」と姉御、「年長の女性はみんなババアだ」と言い返す私と、他人が聴いたらびっくりする場面になったこともありました。でも数日後ケロッと「今晩、付き合いなさいよ」と電話、決して悪い関係ではなかったと思います。ある大手アパレルメーカーの幹部に頼まれて今度は私が彼女を紹介する席をセットしたら、後日電話で「アパレルのおじさんたちは楽しくないわね。今後アパレルメーカーの人は紹介しないでちょうだい」とピシャリ。お互い正直に思ったことを言える仲でした。滅多に笑わない、人を褒めない、ストレートな言い方をするベテラン女性が商品政策の責任者として外部から入ってくる、百貨店の男性社員の中には面白くない人も少なくなかったでしょう。陰でコソコソ動く男性たちが気に障ったのか、時には会議で小型レコーダーをセットして「文句があるならここではっきり言いなさい。録音を山中社長に聴いてもらいますから」とやったそうです。こういう行動はかえって火に油を注ぐようなもの、次第に批判的な声が私にも聞こえてきました。正直、危ないぞと思いました。 そして、山中さんが病死された後は居心地が悪かったのでしょう、彼女は東武百貨店を退任してトッズジャパンに移りました。私は熱烈トッズ愛用者ですが、彼女がトッズにいた間は表参道の直営店に出かけたことがありません。なぜなら、私が同業他社の百貨店に転職して以降、蜜月関係は一気に冷えたのです。同業者になったのがよほど気に入らなかったのでしょう、パリコレ会場で遭遇しても完全にシカトされました。 結局疎遠になったまま彼女は亡くなり、二度と会食するチャンスはありませんでした。
2022.12.04
昨年に引き続き今年も松屋銀座は青森県ねぶたアーティストとコラボした「ねぶたクリスマス」です。こういう日本の伝統を取り入れながらもモダンな装飾、いいなあ。
2022.12.03
1995年春に百貨店のシンクタンク部門に転職。当時スカウトしてくれた社長から「人材育成を急いでくれないか」と頼まれました。若手バイヤーやアシスタントバイヤーを早く一人前のプロにしようと、バイヤーゼミ、アシスタントバイヤーゼミをさっそく開講。数年後は「MDゼミ」と名称変更して多くの若手社員にマーチャンダイジングの基本を伝えてきました。(財)ファッション産業人材育成機構のIFIビジネススクール開校時に自分が作ったマーチャンダイジングのカリキュラムをベースに。VPの留意点の説明で使用した写真のひとつ例年7月にスタート、クリスマス商戦に入る頃に講義は終わります。先日、本年度MDゼミがワンクール終わりました。年明けには試験、そのあと締めの最終講義を行いますが、一連のマーチャンダイジングの授業そのものは終了。市場環境、マーケティングに始まり、途中宿題をはさみながら敵情視察、顧客分類、商品分類、展開分類、定数定量管理、発注、販売計画立案、そして最後にVPの留意点を講義します。難しい宿題をこなし、熱心に受講してくれました。これまでのべ数百人の社員をゼミ形式で指導しました。近年コロナウイルスで中止していますが、10月には恒例の海外研修もありました。主にニューヨーク視察ですが、パリのボンマルシェ百貨店の創業祭イベントの視察や米国シアトルのノードストローム百貨店本店サービス視察の年も。朝から夕方まで現地の商業施設を歩きまわって肌で市場動向やMDの方向性を感じる海外研修、参加できた社員は恵まれています。こんなに人材育成に力を入れてくれる会社、経営者は多くありません。日本では「先輩の背中を見て学べ」と昔ながらの徒弟制度的人材育成が少なくありませんが、その先輩たちがフィーリングとヤマカンで自己流、しかも丁寧には教えてくれない、こんなOJTでは困ります。基本中の基本はしっかりロジカルに組織として伝承すべきでしょう。が、なかなかそれをやらない、やれない企業がほとんどではないでしょうか。ネット社会でリアル店舗の存在感は薄れていますが、地球上からすべての大型小売店が消えるわけではありません。小売店社員にはマーチャンダイジングの基本中の基本を身につけ、お客様の方を見て誠実に仕事をして欲しいですね。早くコロナ禍から脱却し、社員が再び海外視察に行ける日が来ることを願っています。なんたって米国小売業はお手本であり反面教師でもあり、とても勉強になりますから。何度も視察したバーグドルフグッドマン生活雑貨売り場
2022.12.03
高校3年の秋、にわか受験勉強でどうにか大学入試にパスした私は、大学に入ったら真面目に勉強しようと決意して上京しました。しかも昼間は大学で経営学を、夜間はオヤジが教鞭をとったことがある西新宿の紳士服専門学校、ダブルスクールでしっかり学ぶつもりでした。ところが、入学して数日授業に出たら明治大学和泉校舎は突然学校封鎖に。キャンパスを封鎖占拠する首謀者は上級生なのか、それとも外部の過激派なのかわかりませんが、校門には「当分の間休講」の告知、一般学生はキャンパスに入ることさえ許されませんでした。現在のようにスマホやメールはなく、いつ授業が再開されるのかさっぱりわかりません。たまに出かけては「まだロックアウトか」とあきらめて帰ってくる日々の繰り返し、なんとも空虚な時間を過ごしました。ロックアウトは1年間続き、学年末まで授業はなく、進級はレポート審査。講義を受けずとも単位がとれ、翌々年も完全ロックアウト、「授業料返せ」と言いたくなる状況でした。勉強するつもりで上京したのに学校に足を踏み入れることも許されない、やる気はなくなります。そこで学校の枠を超えて学生ファッション研究会設立、マーケティング調査をして原稿を書いたり、企業の広報担当と共に記者会見でデータ分析を発表、私の心は完全に大学から離れていきました。2年間のロックアウト、結局大学時代に講義を受けたトータル日数は60日くらい、大学数え歌にもある「何も勉強せず卒業して世に出て恥かく〇〇生」そのものです。その代わり独学でマーケティングを勉強、学生時代にたくさん原稿を書いてファッション流通業界に発信しました。学校には来ないでマスコミにはたびたび登場、卒業時には大学教務課の職員さんに嫌味を言われました。そんなわけで明治大学OBと言われるととても恥ずかしい、後輩学生に講義する場面では本当に申し訳ないと思ったものです。が、幸運にもファッション流通業界で活躍する大学OBの先輩方にはかわいがってもらいました。この交友録第1回目VAN創業者の石津謙介さんをはじめ、紳士服業界の重鎮だった中右茂三郎さんには「私の最後のかばん持ちになるかね」と誘ってもらい、ファッションコーディネイターのはしりだった髙島屋の今井啓子さんにも親切にしてもらいました。ここでは、今井啓子さんについて触れます。今井啓子さんとは、私が大学卒業してニューヨークに渡った直後ボストンで初めてお会いしました。明治大学卒業後今井さんは文化出版局に就職してファッション雑誌編集の仕事に携わり、そののちに早くから男女均等雇用に熱心だった高島屋に転職、正社員のファッションコーディネイターとして活躍しました。確か今井さんが課長職の頃だったでしょうか、ボストンの老舗百貨店ファイリーンに短期研修の機会を得ます。渡米したばかりの私はボストンに飛び、ハーバード大学の真ん前にあったホテルに長期滞在する今井さんを訪ねました。彼女の部屋で長く話し込み、深夜に今井さんが日本から持参したインスタントラーメンを作ってくれたのを覚えています。そのとき、「ハーバード大学に通っている学生たちは特別優秀という感じがしないのよ。私だってハーバードで勉強できるような気がする」、近い将来留学で戻って来たいとおっしゃる。流通業界でもうかなりキャリアを積んだのに留学構想、米国に戻ったときすぐ普通に生活できるよう現地銀行アカウントをそのままにして帰国されました。数年後高島屋を退職し、あの頃は新分野だった「ウェルネス」を学ぶために再渡米、ハーバードではなくその分野を学ぶためニューヨーク大学に留学。それなりの大人年齢なのに初心に帰って新分野を勉強するなんて私には到底真似のできないこと、凄いです。そして、ウェルネスの勉強を終えて帰国した今井さんは、資生堂の新しいウェルネス事業部に迎えられます。当時資生堂福原義春社長と今井さんのつながりもあったのでしょう。そのつながりとは、1977年資生堂が開催した「6人のパリ」というファッション業界に大きなインパクトを与えたファッションイベント。当時パリでデビューして間もなかったクロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、ジャン=シャルル・ド・カステルバジャックらフランスの若手デザイナー6人を招聘、日本各地で合同ショーを開きました。このとき資生堂の担当部署責任者が福原さん、デザイナーの人選や参加交渉を頼まれたのが今井さんと彼女の元同僚だった文化出版局パリ支局編集者たちでした。髙島屋が当時絶大な人気を誇っていたソニア・リキエルとの導入交渉で西武百貨店と激しく戦ったのも、ティエリー・ミュグレーと自社ブランド提携を結んだのも、早くからアズディン・アライアのインポートを始めたのも、文化出版局パリ支局の仲間から現地情報が今井さん周辺に届いていたからでしょう。こんなことがありました。天才イラストレーターだったアントニオ・ロペスとの面会直後(ロペスと今井さんのつながりも文化出版局ルートのはず)、今井さんとマンハッタン東59丁目を歩いていたら、ディズニーアニメ映画に登場する魔女のような風貌の赤毛女性がこちらに向かってきました。パリのソニア・リキエルご本人でした。すると今井さんは私の背中に隠れたのです。パリで提携交渉を進め、帰国したらすぐに上司の了解を取って連絡すると約束したものの社内コンセンサスに手間取ってすぐには連絡できず、結局西武百貨店が独占導入の契約を結びました。今井さんは「ソニアに合わせる顔がないの」と隠れたのです。ニューヨーク大学から戻って資生堂のウェルネス事業部で新しい仕事を始めた今井さんでしたが、資生堂ザ・ギンザを設立時から仕切ってきた殖栗昭子さんが退任したため、福原さんからザ・ギンザのケアを頼まれ、再びファッションの世界に復帰しました。ファッションショーなどで今井さんと顔を合わすたび、「在庫を整理するのでしばらく新しいことができないの。何やってるんだと思わないでね」と何度も言われました。ザ・ギンザはパリ、ミラノのトップデザイナーブランドをたくさん扱う高級セレクトショップ、ブランドのラインナップは素晴らしいけれど高価な商品だけにどうしても在高は増えます。体制が代わり、今井さんたちはまず方向転換の前に在庫の整理に追われ、数シーズンは我慢のときでした。「ザ・ギンザで何やってるんだ」と言われたくなかったのでしょうね。ようやく在庫の整理も終わり、これから攻めに転じるというタイミングで銀座7丁目本店の改装計画があり、「改装後のMD方向性を一緒に考えてくれない」と頼まれました。私は近隣のザ・ギンザ既存店をいくつかまわり、これからの時代どういう路線でいくべきなのかをレポートにまとめて今井さんに提出しました。それから数ヶ月後私は松屋銀座に転職。銀座中央通り松屋の斜め前にはデザイナーブランドを集めたザ・ギンザの支店がありました。近隣OLに受けそうな価格のこなれたインポートブランドを集めていましたから、松屋もファッションを軸に大きな改革をしてザ・ギンザ4丁目支店の顧客層にも来店してもらえるMDプランを考えよう、と婦人服バイヤーやファッションコーディネイターたちに呼びかけました。今井さんに頼まれてレポートした自分が今度はザ・ギンザ支店と張り合うようになるとは想像していませんでした。その後今井さんはザ・ギンザを退職、ユニバーサルデザイン協会の会長に就任してウェルネス分野での活動を再開しました。最後の仕事として華やかなデザイナーファッションの世界ではなく、地道なユニバーサルデザインの啓蒙を通じて社会貢献をしたかったのでしょう。いかにも学究肌で真面目な今井さんらしい選択ではなかったかと思います。こういう生き方は私には真似できませんが、大先輩にはただただ敬意しかありません。
2022.11.28
前項パリ在住フリーランスジャーナリストだった村上新子さんは自分が取材して書いた記事の掲載誌をよく送ってくれました。強く印象に残っているのは、元国際通貨基金専務理事で現欧州中央銀行総裁クリスティーヌ・ラガルド女史の単独インタビューと、高田賢三さん、島田順子さん、入江末男さんのパリ同窓会のような三者座談会、どちらも皆さんのお人柄がにじみ出て素敵な記事でした。 島田順子 おしゃれも生き方もチャーミングな秘密 (マガジンハウス刊)昨日は南青山で開催していたジュンコシマダ展示会にお邪魔しました。パリから一時帰国中の島田順子さん、数日前には新著を上梓したばかりでお忙しいのでしょう、残念ながら今回は会場でお会いできませんでした。新著の帯には「いくつになっても自分が好きなことを大切に」とありますが、80歳を過ぎても自然体のデザイナーのまんま、いまも活動拠点はパリというのが凄いです。 私が島田順子という存在を初めて知ったのは1983年3月のパリコレ時、素材や下着を製造販売していた京都のルシアン野村の野村直晴社長からのオファーを受け、順子さんはパリでデビューしたばかりでした。ルシアン野村でイッセイミヤケ子供服の経験があった岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業ルシアンプランニングのビジネス統括、アタッシュドプレスとして活躍していたフラッシュの小笠原洋子さんが広報とイメージ戦略、クリエイションはパリ島田順子さんの三権分立「トロイカ方式」(岡田さんが何度も口にしたセリフ)で事業は急成長しました。(80年代後半、東京コレクション特設テント前にて) 1980年代初頭、日本ではアパレルメーカーが外部のデザイナーと組んで個性的なファッションブランドを次々立ち上げ、 D C(デザイナー&キャラクター)ブランドが大きなブームとなりました。が、その大半はデビュー数年以内に企業とデザイナーの軋轢が表面化してブランド解散するなどの失敗続き。その中にあってジュンコシマダはボディコントレンドの波にも乗って売上はあっという間に百億円に手が届きそうな勢い、アパレル企業とデザイナーとの協業では数少ない成功事例でした。 ところが、順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が突然の病死、その先には契約更新時期が迫り、京都のルシアン本社、パリのアトリエ、東京の営業部隊との間に微妙な風が吹き始め、事業成長の功労者だった岡田さんはルシアングループを退職してしまいました。 あの頃東京コレクションのショー経費をめぐって開催日直前にルシアン側とパリのアトリエが対立、順子さんがキレそうになってパリ側で経費負担する代わりに会場で不思議なメッセージを配付しようかという話がありました。このとき東京コレクション運営責任者の私は順子さんに「観客には関係のないこと。ここはいつも通り普通にショーをやりましょうよ」とアドバイスしました。野村社長急逝、トロイカ方式が崩れ、数少ない協業成功事例だった企業出資のデザイナービジネスに暗雲が漂い始め、この関係は長くは続かないだろうなとこのとき感じました。 島田順子さんにとっては何でも相談できる岡田茂樹さんがしばらくしてジュンコシマダのゴルフウエアを提携制作していたダンロップスポーツ専務に就任、その関係で島田さんからさまざまな相談を受けていたのでしょう。岡田さんから「順ちゃんからこんな話があったけど、太田さんはどう思う」とよく相談されました。毎回相談というより、「決めた」という報告みたいなものでしたが、岡田さんは親身に順子さんをサポートしていました。結局、そのあとジュンコシマダ事業はルシアンプランニングから独立、順子さんから頼まれた岡田茂樹さんが再びジュンコシマダ事業を経営することになり、岡田さんの引退とともに名古屋のクロスプラスに引き継がれました。現在順子さんの事業を担当しているのが、私が主宰していた私塾「月曜会」の教え子というのも不思議なご縁です。 岡田さんがダンロップスポーツで側面から順子さんをサポートし始めた頃、サッカーのJリーグがスタートしました。ある日銀座の小さなカウンターバーで繊研新聞早川弘と飲んでいたら、見知らぬ初老の紳士が突然話に割り込んできました。日本サッカー協会幹部、女子サッカーリーグ専務理事を名乗る紳士、私たちがファッション業界と知って相談を持ちかけたのです。女子サッカーを盛り上げるため、東西オールスター戦のためにカッコいいユニフォームを選手たちに着せてやりたい、デザイナーを紹介してもらえませんか、と。 女性選手のデリケートな心理を理解し、サッカーを身近に感じるデザイナーでないとこの話は無理。そこで思いついたのが、パリ在住でサッカーが身近なはずの島田順子さんでした。東西両選抜チームのデザインをお願いし、制作自体はダンロップスポーツ岡田さんに打診することになりました。当時女子サッカーリーグはマイナーな存在、協会側にデザイン料や制作コストを払う余裕はありませんでしたが、順子さんと岡田さんの好意でこの話は実現しました。のちにワールドカップ女子大会優勝の立役者となる澤穂希さんがまだ年少さんの時代のことです。完成した順子さんデザインの特別ユニフォーム(グランドコート含めフルセット)を着た選手たちはロッカールームで「東西対抗に選ばないとこんなカッコいいユニフォームは着られない。来年も出場できるよう頑張らないと」と大喜び、両軍それぞれ特徴があってなかなかカッコよかったです。(2019年11月JUNKO SHIMADAイベントにて)東京コレクションを運営している頃も百貨店に転職してからも、順子さんとはパリでも東京でもよく会食やカラオケをご一緒しました。パリのご自宅に招かれ、ディナーをご馳走になったこともたびたび。私は長くファッションデザイナーの方々とお付き合いしてきましたが、考えてみれば自宅ディナーの機会は順子さん以外ほとんどありません。自然体の気さくな人ですから、ご自宅に呼ばれるたびパリ出張の緊張から解放されホッとしたものです。こんなこともありました。深夜パリのカラオケバーから出て順子さん運転の車に乗り込もうとしたら、順子さんがドアを開けた瞬間大きな声で「キャッ」、なんと車の中で浮浪者が寝ていたのでびっくりしました。カギのかかった車に潜入して浮浪者が寝ているとはなんともパリっぽいシーン、いまも鮮明に覚えています。数シーズン前、松屋銀座でジュンコシマダのイベントがあった際、集まったたくさんのお客様が順子さんと歓談する場面に遭遇しました。恐らくお客様の多くはボディコン時代からの長い熱烈ファンでしょうが、まるでアイドル歌手を囲むファンクラブのような熱い光景でした。順子さんは80歳を過ぎたいまも現役バリバリ、毎シーズンパリで新作発表してから東京に来て展示会を開いています。パリに渡った1960年代、現地で親交のあった高田賢三さんや三宅一生さんはすでに鬼籍されましたが、順子さんにはずっと現役デザイナーとしてファンを楽しませて欲しいです。(2023年春夏コレクション展示会にて)
2022.11.19
1994年3月下旬、故・鯨岡阿美子さんのご主人古波蔵保好さん(元毎日新聞論説委員)が85歳の誕生会を銀座ソニービルにあったマキシム・ド・パリで開催されました。沖縄生まれの古波蔵さんによれば、85歳の誕生日を迎える側が好きな人を呼んでご馳走するのが沖縄流だそうで、鯨岡阿美子賞創設で奔走した毎日新聞市倉浩二郎編集委員、鯨岡さんの会社アミコファッションズで毎シーズン講義していたスタイリスト原由美子さんと共に招待されました。その直前に開催された1994年秋冬物パリコレはルーブル博物館地下にファッションショーのシアターが完成した最初のシーズン、会場間移動は以前より便利になったので取材陣はかなり楽だったはずでした。しかし、誕生会に現れた市倉さんはどこか疲れた表情でした。そして4月初旬に始まった東京コレクション初日の夜、彼は体調不良でダウン、翌日には意識不明の重体、3週間後に入院先の府中病院で亡くなりました。古波蔵さんから「今度三人で沖縄にいらっしゃい」と誘われていたのに実現できませんでした。パリコレ出張から戻って特集記事を入稿というタイミングでの編集委員の意識不明、編集局もタイアップ記事を仕込んでいた事業局も大慌てに。そこで仲が良かったからという理由で私に協力要請がありましたが、パリコレに行っていない私にコレクション記事は書けませんし、タイアップ企画のデザイナー取材も中立な立場のデザイナー協議会議長としては受けられません。適任者が一人いました。市倉さんの仲間、パリ在住フリーランスのファッションジャーナリスト村上新子さんです。ちょうど帰国したところだったので、私から毎日新聞事業局長だった堤哲さん(のちに拙著「ファッションビジネスの魔力」発行に尽力してくれた人)に紹介、市倉さんが書くはずだった企画は村上さんが引き受けてくれました。(2013年12月、私の壮行会に来てくれた村上新子さんと)市倉さんが「パリでおもしろい女性を見つけたよ」、帰国中の村上さんを伴って飲み会に現れたのはその数年前のことです。数少ないファッション専門テレビ番組「ファッション通信」を制作するインファスの元パリ支局長、現在はフリーランスジャーナリストと紹介されました。年齢不詳、お酒は飲まないのに飲食の造詣深く、フランス語は極めて流暢、はっきりブランド名がわかるような服は着ない、人に媚びない姿勢の人でした。父親が元朝日新聞社記者、その血をひいてかジャーナリスト魂がある人でしたが、村上さんの出身校も卒業後の足取りも私生活も全く不明、謎の多い不思議な人でした。私がパリ出張すると必ずフレンチディナーを予約、ファッション業界動向のみならずパリ生活文化の最新情報を提供してくれる貴重な情報源でした。有名レストランから若いシェフが独立して開店したばかりのレストランや、人気急上昇の新しいレストラン、伝統的家庭料理のビストロなど、ニュース性のあるフレンチによく連れて行ってくれました。あれは1997年10月のパリコレ出張、「今日お連れした店は最近ニュースになったばかりなの。どうして話題になったのか当ててみて」と村上さんはおかしなことを言う。内装はごく普通のビストロ、創業は1912年と古く決して高級レストランではなさそう、こんなありきたりの店がどうしてニュースになるんだろう。想像つかないので「まさかダイアナ妃?」と答えたら、「その通りなの、よくわかったわね」でした。ダイアナ妃はこのごく普通のビストロがお気に入り、あの事故の晩も予約を入れていたそうです。が、ホテルの周りに多数のパパラッチ、お店に迷惑をかけるといけないので予約キャンセル、リッツホテル内レストランで食事され、その後事故死。その話が拡散されて「ブノワ」は一躍有名になったとか。大きなトレイに剥製のように動かない3種類の野鳥が運ばれ、その中から私はウズラを選び、飲まない村上さんの分までシャンパンを一人で一本あけたことを覚えています。のちにアランデュカスに買収されるまでブノアには頻繁に通いました。私のスマホのアドレス帳パリ欄にある飲食店のほとんどが村上さんに連れて行ってもらったお店、どれも美味しいけれど決してバカ高くはなくリーズナブル、そこに彼女の人柄を感じます。(ギャラリーラファイエットの屋外大規模ショー)東北大震災があった2011年秋、村上さんからメールが届きました。ギャラリーラファイエット百貨店が屋外に大きなランウェイを設置、750人の素人モデルを登場させた大規模な秋物ファッションイベントを開催した、と。「太田さんもこれくらいのことを仕掛けては」と村上さんからハッパかけられているようなメールと添付写真でした。このとき私は百貨店に復帰した直後だったので、パリの百貨店にできて東京にできないわけがないと思いました。その頃、長年のライバル三越銀座と初の共同プロモーション「銀座ファッションウイーク」を被災地のために企画、三越伊勢丹幹部とは「銀座通りで屋外ファッションショーをやれたらいいね」と話していたところでした。さっそく部下の販売促進課長に村上さんから届いたギャラリーラファイエットのイベント写真を持たせ警視庁に送りました。第一打は空振り、警視庁の担当部署には笑われました。東京都が主催する東京マラソンだって企画段階から最終的に認可するまで7年を要したんだぞ、と急な申請に対して警視庁担当官から叱られたとか。戻ってきた課長に言いました。「東京マラソン42.195キロが7年だろ、こっちはたった100メートルのランウェイなんだ、7年もかからない。もう一度交渉に行ってくれ」と部下の背中を押し、経済産業省クールジャパン推進室の課長に協力をお願いしました。さすがお役人、六法全書を抱えてわが部下を応援するため警視庁に同行、「六法全書には歩行者天国の禁止事項とは書いてない」と抵抗してくれました。しかし、それでも警視庁は首を縦に振らず、なかなか許可が出ません。最後の頼みは同課長から勧められた経済産業大臣への直訴でした。「補助金欲しいと言っているのではありません。節電のための自粛で元気がない銀座のため、疲弊する地方の繊維産地のためにも許可して欲しいんです」、私は大臣に訴えました。大臣が直々に警察トップを説得してくれ、歩行者天国の銀座中央通りで「ジャパンデニム」をタイトルに屋外ファッションショーを開催することが認められました。デニム生地で作ってもらったランウェイは100メートル、モデルには東北被災地のちびっ子、銀座泰明小学校の生徒、協力してくれた経済産業大臣ご本人、ブロードウェイ進出寸前だった女優の米倉涼子さんたちが登場してくれ「ギンザランウェイ」は数千人の観客を集めました。2012年3月、東北大震災から1年後のことです。(2012年3月ギンザランウェイ)その模様はテレビニュースや一般紙1面でも大きく取り上げられましたが、ファッション業界の出来事が全紙1面でしかも写真付きで大きく報道されたのはこのギンザランウェイが初めて。パリのギャラリーラファイエットのイベント写真が村上さんから届いていなかったら、おそらく私たちも警視庁の拒否に対して簡単に諦めていたでしょう。あの写真があったからこそ交渉できたのです。すでに村上さんは鬼籍、謎の多い不思議な人のまま私の前から消えました。屋外ファッションショーを見るたびハッパをかけてくれた彼女のことを思い出します。
2022.11.15
ありがたいことにこれまでたくさんの仕事仲間に恵まれ活動してきましたが、ファッション流通業界内で気がねすることなく何でも話せた大親友となると、ひとまわり年長の市倉浩二郎(毎日新聞社)とひとつ年長の早川弘(繊研新聞社)の二人です。でも、残念なことにイッチャン(市倉)52歳、ハヤチャン(早川)は57歳の若さで亡くなりました。二人は遠慮なく忠告してくれる私の良きアドバイザーでしたから、しばらく飛車角を抜かれたような喪失感がありました。高校3年生後半、急に受験勉強を始めたとき、受験生がよく読んでいた志望校別「赤本」を私も慌てて買いました。このとき、サッカーのことしか頭になかった体育系田舎者がガラでもないので買ってはいけないと思った赤本が「立教」「上智」「青山学院」。3校は私の個人的な印象では「かわいこちゃんが通う都会のお洒落な大学」、硬派の田舎者の男にはかなり遠い存在でした。が、イッチャンは上智、ハヤチャンは青山学院の卒業、お酒を飲みだしたら私以上に止まらない大酒飲みの二人ですから、学校イメージは私の中で完全に崩れました。(写真右が早川弘さん)早川弘(ハヤチャン)とはまだ私がニューヨークで繊研新聞社の通信員をしていた頃からの付き合い。彼は記者ではなく営業担当でしたが、年齢が近かったので会話に違和感なく、自然と交流が始まりました。帰国してCFDを始めると、ハヤチャンはいろんな情報を教えてくれ、何か調べものを依頼すると自社資料室でデータ収集して資料を渡してくれました。贔屓にしていた銀座の狭いカウンターバーではほぼ毎日一緒、彼が早く帰宅した日には世田谷区経堂の自宅に電話をかけて深夜銀座に呼び出したことも何度かありました。彼とはお互い出張スケジュールを合わせ、何度「うまいもん珍道中」をしたことか。京都出張のとき、ある繊維メーカーの新社屋落成パーティーで繊研新聞社の石川一成社長(=当時)にばったり遭遇。パーティーのあと誘われたらまずいとサッサと会場をあとにしてハヤチャンと合流、馴染みの四条河原町の豆腐料理店へ。が、ドアを開けるとなんとそこに石川社長がいるじゃないですか。石川社長が「早川くん、今日はなんだね?」と訊くと、彼はとっさに「有給です」。これには笑いました。本当は大阪支社での会議の帰り道、ちゃんと仕事をした帰り道だったのですが。香港での営業も担当していたハヤチャンと、香港ファッションウイークのゲストとして招聘された私は、彼の通訳をしてくれる日本生まれの在香港Teresa Ip(テレサ・イップ)さんの案内で連日食べ歩きました。出張最終日、帰国フライト前のランチ、コンラッドホテルの高級中華料理店でハトを食べたら、「口の中にハトのにおいが残ってるなあ。これを消しに京都に行こうぜ」と成田行きフライトをキャンセル、伊丹行きに変更してもらって京都まで豆腐を食べに行ったこともありました。(お別れの会、写真右がTeresa Ipさん)この出張時に香港島の西武百貨店で見つけたKRUG(クリュグ)のヴィンテージロゼをホテルの洗濯ビニール袋に大量の氷を入れて外出、ディナーから戻ってキンキンに冷えたシャンパンを二人であけました。これがいまもわが生涯ベストスリーシャンパンの1本。あまりに美味しかったので翌日再び香港西武に。日本の価格よりいくら安いとは言え最高級クラスの逸品、「二日続けて飲んだらバチが当たるね」とヴィンテージ白で我慢しました。初日がヴィンテージ白、翌日がロゼなら両方楽しめたでしょうが、計画性のない我々は順番を間違えました。香港ファッションウイークの取材に来ていた文化出版局の久田尚子さん(のちに私のあとのCFD議長)と彼女の部下と我々の4人でテレサさんおすすめの「鄧小平がお忍びでくる鮑専門店」に行ったら、びっくり仰天のお勘定だったということも。この種のびっく仰天はハヤチャンといると頻繁に起こりました。のちに私が社長として転職したデザイナーアパレルはデザイナー本人と繊研新聞ファッション担当記者が犬猿の仲、コレクションの批評をめぐってよく揉め、編集局長や社長まで登場するくらい最悪の関係でした。そこで、私からハヤチャンに関係修復の根回しを頼み、どうにか別の記者グループと接点ができ普通に記事が出るようになりました。ハヤチャンのおかげでした。シーズン立ち上がり日、都内店を回って夕方関西方面移動を計画していたら、「ちょうど明日俺も大阪支社で会議なんだよ」と連絡があり、京都で合流して前述の豆腐料理店に行くことに。その豆腐料理店で、翌日関西各店を回って福岡に行くと話したら「俺も行くよ。アラを食いに行こう」となりました。翌日、一緒に関西地区の売り場を回ってから新幹線に。途中私の秘書に電話を入れたら「変な男の人と一緒に売り場を見て回っているそうですね」、関西の店長から本社営業に報告がきていました。売り場でいちいち「こちらは繊研新聞の早川さん」と説明するのが面倒なので省略したら、彼は「変な人」にされていました。ハヤチャンとはよく飲みましたが、もちろんよく真面目に議論しました。次々日本上陸する海外SPA企業の可能性と問題点、これを迎える日本の大手アパレル企業の方向性、海外ブランドと日本ブランドのビジネス相違点、セレクトショップや駅ビルの将来性、百貨店の不動産業事業化、テキスタイル産業の未来、ファッションメディアと客観報道など、いろんなことを語り合い、時には意見対立して大きな声を張り上げたこともありました。2009年秋、小雨の寒い日でした。繊研新聞小笠原拓郎さんから電話をもらい、ハヤチャンの遺体が早朝マンション共用階段で新聞配達員に発見された、と。頻繁にジムに通い、年齢の割には筋肉マン、全く予期せぬ出来事、心臓発作だったのでしょう。翌日告別式の連絡を待っていたら、なんでも親族が上京してその日のうちに荼毘、告別式の類はいっさいなし、自宅遺品はすぐ廃棄処分業者が整理、私たち友人や会社同僚にはお別れのチャンスすら与えられませんでした。長い付き合いでハヤチャンが家族、兄弟の話を一度もしなかった理由がこのときよくわかりました。市倉の急逝には大泣きしました。しかし、早川のときは何が何だか事情が飲み込めず、通夜も告別式もなく、亡くなったという実感はなく、涙も出てきませんでした。健康そのものだった男がマンション階段で遺体で発見されるなんてどうしても受け入れられません。合掌
2022.11.05
あれは何の会議だったかよく覚えていませんが、通商産業省(現・経済産業省)大会議室の隣席ネームプレートには「伊勢丹 大川委員」と表記してありました。氏名五十音順に席がセットされているので「おおかわ」の次に「おおた」、私はCFD(東京ファッションデザイナー協議会)議長として参加していました。ところが、委員会で隣席に座るのはどうやら大川さんではなく代理の方、居心地が悪かったのか毎回むっつり無表情でほとんど発言されませんでした。何回目の委員会だったか会議終了後に初めて名刺交換、「今度お食事しませんか」と誘われました。名刺にはMD統括本部婦人MD統括部長 武藤信一、のちの伊勢丹社長との出会いはこんな感じでした。故武藤信一さんそれから数日後、祖師谷大蔵駅から10分ほど歩いた割烹店で待ち合わせ。武藤さんは小田急線沿線のお住まいだからこのあたりのお店をご存知だったのでしょう。伊勢丹研究所ファッションディレクター田邊慈子さん、松屋の東京生活研究所ディレクター杉本明子さん(伊勢丹ニューヨーク時代から田邊さんとは仲良し)も合流、4人での会食でした。このとき「CFDは百貨店各店からいろんな相談を受け、新人デザイナーの発掘と売り場での育成を百貨店やパルコに期待しているけれど、取引条件が"買取"となるとみんな後ずさりするし、"取引口座"の面倒な手続きで一向に話は前に進まない。これでは日本で次世代デザイナーが育たない」と常日頃感じていることをストレートにぶつけました。さらに、「新人若手デザイナーに大きな注文はいりません、取引口座開設が必要でない程度でいいんです。自主編集自主販売の次世代デザイナー売り場をファッションに強い伊勢丹本店に作ってくれませんか」と訴えました。武藤さんは直前まで伊勢丹系列の子会社でブランド営業を経験、本社に戻って婦人服部門のMD責任者に就任したばかりだったので感じることがあったのでしょう、「この話、預からせてよ」と言ってこの日は別れました。1カ月後、武藤さんから電話が入りました。「あの話、1階のど真ん中でやるよ。小柴社長の許可とったから」、声が弾んでいました。私は「1階なんて場所が良すぎてかえって危ない。坪効率悪いと社内で批判されますよ」と言ったら、「大丈夫。これまで売り場ではなかったスペース、1年間は前年対比出ないから」。こうして現在伊勢丹新宿店1階三角形のポップアップスペースにオープンした期間限定の次世代デザイナーセレクト売り場「解放区」は誕生しました。導入デザイナーには自分も売り場に立ってお客様の声を直接聞くよう命じる、二人で考えた導入条件でした。武藤さんから担当者として任命されて現れたのが藤巻幸夫さん、のちに伊勢丹を退職して参議院議員になって急逝したあのカリスマバイヤーでした。伝説の渋谷西武「カプセル」の三島彰さんと「解放区」武藤さんとの対談解放区オープン直後の武藤さんと小柴和正社長との会食で、私は1970年代ニューヨークのヘンリベンデルがインキュベーションストアとしてどのように運営していたか(毎週金曜日は誰にもドアを開放してサンプルを見てくれた)、そしてベンデルがファッション業界で果たした役割、その波及効果を説明、伊勢丹には次世代デザイナーに門戸を開き続けて欲しいとお願いしました。武藤さんは単に売り場を作るだけでなく、自主販売売り場の運営を大幅に改善、売り場スタッフが本社倉庫から商品を移動させる場合の上司の「認印」を省略、機動的な売り場体制を指揮しました。デザイナーからは完全買い取り、伊勢丹側がリスクを負う形で始まりましたが、恐らく剛腕責任者でなければできなかったプランでしょう。どなたが考えたのか、伊勢丹のキャッチコピーは「毎日が新しいファッションの伊勢丹」になり、会社四季報の伊勢丹ページ概要欄にはこのコピーと解放区のことが記載されました。解放区の売上自体は会社全体から見れば微々たるものでしょうが、会社四季報が取り上げるくらいインパクトのある試みでした。私は東京コレクションを取材してくれるメディア関係者に情報を流し、デザイナーの推薦や説得など側面から協力、武藤さんとは頻繁に意見交換する関係になりました。ちょうどその頃、IFIビジネススクール開校のために山中鏆理事長以下主要メンバーで米国ファッション大学を視察するツアーがありました。フィラデルフィア繊維工科大学(NASAの宇宙服なども研究している繊維工学からファッションデザインまで教える総合大学)からニューヨークに戻るチャーターバス車中、後部座席は当時まだ喫煙可だったので山中さんが喫煙のために私の隣に移動、「キミは伊勢丹の武藤くんを知ってるか?」、「悪い噂を聞かないか?」とおかしな質問をされました。武藤さんが伊勢丹の新卒採用試験を受けたときの面接官は山中専務、その後山中さんは松屋、東武百貨店に移られたので個別の記憶がなかったのでしょう。武藤さんのお陰で次世代デザイナーにチャンスが与えられたこと、解放区でどんな業務改革をしたのかなどを説明、「ファッションの話を肴に私と一晩ずっと飲みあかせる唯一の百貨店マンじゃないでしょうか」と付け加えたら、「そうか、わかった」と山中さんは元の座席に戻られました。帰国後、伊勢丹から人事異動の発表があり、武藤信一さんは取締役に就任。山中さんが陰で支援する小柴社長から役員人事の報告(もしくは相談)が事前にあったからバスでおかしな質問をされたのだとわかりました。流通記者の間では、小柴社長がたびたび百貨店経営の神様に相談に行っていると噂されていましたから、山中さんは第三者の意見を求めたのでしょう。解放区以降、1階ステージは様々なブランドのポップアップに。武藤さんとは伊勢丹関係者を交えて、あるいはデザイナーとそのスタッフを交えて、そして時々二人きりでサシ飲みをしてブランド情報など意見交換しました。イッセイミヤケからプリーツプリーズが発売されたとき、「三宅さんはフランスパンを売るような空気管で販売したいと言ってる。思い切って平場提案してみたら」とアドバイス、三宅デザイン事務所小室知子副社長を紹介しました。当時新宿店3階婦人服売り場にあった平場「スライス・オブ・ライフ」で販売を開始したらたった数本のハンガーラックで記録的な売上、瞬く間にプリーツプリーズは全国区ブランドになりました。エイネット津村耕佑さんのファイナルホームがデビューしたときも、「おもしろい考え方の服が出たよ」と言ったら、翌日武藤さんは展示会に飛んで行って「全部伊勢丹で抑えてきたから」と興奮していました。「知らない仲じゃないんだけど、川久保玲さんとの席を仲介してくれないか」と頼まれて、南青山のレストランで会食をセットしたこともありました。お互い人懐っこい部類の人間でなく普段はムスッとしていますが、CFD時代はなぜか気が合ってよく話をしました。私がディレクターとして運営担当していたIFIビジネススクール初の実験講座プレスクール小売編、最終演習のテーマは「解放区の次のプランを武藤さんに提案」としました。受講生たちはグループに分かれて新たなMD案を提案しましたが、武藤さんにことごとく却下され、手厳しくやり込められました。のちの伊勢丹社長から直々に批評されたことは受講生にはきっといい思い出になっているのではないでしょうか。祖師ヶ谷大蔵のお店以来頻繁に意見交換する仲間でしたが、私がCFDを退任して松屋に転籍したら「もう会わない」と宣告されてしまいました。就任パーティーには来てくれましたが、私の同業他社入りは嫌だったのでしょう、松屋移籍から冷えた関係になりました。武藤さんは三越との合併後に病気で亡くなってしまい、再びサシで会うチャンスがなかったのが心残りです。
2022.10.29
先月カッシーナ・イクスシー社長の森康洋さんから携帯番号変更の案内を受け取り、なんの疑問も感じずアドレス帳を書き換えました。そして数日前、WWDジャパンが森さんの社長退任記事、こういうことだったんですね。退任理由は「一身上の都合」、詳しくは分かりません。アクタス社長からカッシーナに移って10年余、コンランショップジャパンなども傘下におさめて事業を拡大した功績は大きいです。ご苦労様でした。 上の写真は数年前に建築学生ワークショップを主宰する建築家の平沼孝啓さん(右)と森康洋さん(左)と一緒に南青山のレストランで会食したときのもの。このとき、カッシーナ青山直営店を若手デザイナーのイベントに利用させて欲しいとお願いし、ビューティフルピープル熊切秀典さんを紹介。以下の写真は熊切さんとのコラボが実現した模様、コレクションでも使った小さな粒入り服と同じクッションが予想以上に売れたと森さんは喜んでいました。私が森さんと初めて会ったのは、彼がレナウン米国法人社長だった頃でした。松屋の若手社員を連れてニューヨーク研修する際、森さんには当時レナウンが提携関係にあったJ・クルーの直営店視察をお願いし、開店時間前に大型ショップを案内してもらっていました。私の部下だった松屋ファッションディレクター関本美弥子はニューヨーク州立ファッション工科大学卒業後米国レナウンに就職、森さんは関本の上司でもあり、少なからずご縁のある方です。あれは1999年だったでしょうか、私はレナウン副社長に就任したばかりの小野寺満芳さんから突然電話をもらいました。レナウンのメインバンク住友銀行からアパレル名門企業再建に送り込まれた剛腕経営者というふれ込みでした。「レナウン再建でご相談したいことがあります」と言われ、私は明治通り沿いのレナウン本社に出かけました。「会社整理するために銀行から送り込まれたとあなたは思っていらっしゃいませんか」、これが初対面の挨拶でした。住友銀行が常務クラス以上の人材を送り込んでマツダやアサヒビールを建て直したように、レナウンを再建して来いと頭取に命じられての出向と小野寺さんからは伺いましたが、失礼ながら私は会社を整理するために送り込まれた人物だと思っていました。そして1枚のメモ書きを渡されました。そこにはレナウンが販売している全ブランドの名前が書いてあり、「今後レナウンに不要と思うブランドに印をつけてください」。私は「全部」と申し上げました。ブランドの名前しか書いていないリストを手に無責任に答えられるはずありませんから、あえて「全部」と答えたのです。続けて、私は「明日からパリコレ出張、1週間ほどで帰国しますから、それまでにリストにある全ブランドの当初想定したターゲットと現状の顧客像をまとめてくれませんか」とお願いしました。せめてそれくらいの情報がなければ求められた答えは出せませんから。さらに、私は小野寺さんにこう申し上げました。「ニューヨークにレナウンらしくない面白い男がいるじゃないですか。どうしてああいう人材を海外に駐在させているんですか。あなたが本気で改革するのであれば、ニューヨーク駐在所長のような人材を本社に集めるべき。前回ニューヨーク出張で森さんに会ったとき、米国グリーンカードを取得し、会社はゴタゴタしているので辞めて米国で転職しようか悩んでいると彼から相談されましたよ」、と。パリコレ出張から戻って再び小野寺さんを訪ねたら、もう森さんはニューヨークから呼び戻され、本社で仕事をスタートしていました。このスピード感があるならレナウンは再建できるかもしれない、小野寺さんに協力を約束し度々会って友人のファッションディレクターやデザイナーを紹介しました。森さんは当時ニューヨークで人気急上昇中の新人デザイナーブランド、レベッカテイラーとの契約締結とその日本展開が担当業務、すぐに執行役員に指名されました。小野寺さんには「レナウンの売上を展開ブランド数で割ってください。平均値はかなり小さい、つまり小さい売上規模のブランドそれぞれに多くの人材が関わっている。これでは利益は出ません。多くのブランドを大胆にスクラップ、人材と資金を集中させるべきです」、さらに「(習志野の)大型パワーセンターを処分すべき。倉庫が大きいとどんどん在庫が膨らみ、いつの間にか在庫過多が平気になります。倉庫は小さければ小さいほど良い」とも言いました。小野寺さんも副社長着任直後に東西の大型パワーセンターの視察に出かけ、あまりの在庫の多さにびっくり仰天だったとおっしゃっていましたが、アパレルメーカーの破綻の始まりは過剰在庫に鈍感な体質、そして低いプロパー消化率に社員の多くが「売上取るためには仕方ない」と慣れきっていることだと思いますが、レナウンの在庫も半端なかったようです。さらに、柱になるブランドの発掘、育成は急務、そのためには外部の人材を活用して時代に合った魅力あるブランドを1つでも2つでも作ることだと薦め、いろんな人材を紹介しました。ところが、銀行から再建を託された小野寺さんは口が悪かった。あえて強烈な言葉を発することで社員を刺激したかったとも言えます。しかし、これが原因で会社は意外な方向に向かいます。アドバイスを求められる我々の前でも覇気のなさそうな男性社員のことを「こいつらバカなんだ」、「うちにはバカしかいない」、「若い女性の方が優秀なんだ」と強烈な言葉を連発、いまならパワハラ発言に当たるキツい言い方でした。発言の裏にある愛情は確かにあったと私は思うのですが、これに耐えられない社員と組合がグループの長老やOBたちに働きかけ、小野寺さんを銀行に戻す画策を仕掛けたようです。詳しい背景は分かりませんが、結局小野寺さんはレナウンを追われ、小野寺さんに希望の光を見ていた森さんはこの動きに失望、レナウンを退職してインテリア業界に転じました。もしもあのまま小野寺副社長が大改革の指揮を取り続け、森さんたちのようなファッションビジネスに不可欠な面白い人材が手足となって動き、我々が紹介した外部のプロ人材が活かされていたら、名門企業は別の道を歩んでいたかもしれません。カッシーナの経営で手腕を発揮した森さんを見ていると、こういう人材があのまま改革に従事していたらなあ、と思います。倒産してしまったレナウンは日本のファッションビジネスの真のリーダーでした。自社のノウハウを惜しげもなく同業他社に公開、優秀な人材もたくさん在籍しました。米国人気ブランドだったペリーエリス事業、米国のホンモノよりもレナウン製のライセンス商品の方がクオリティーが高かったし、それに関わった人材はほんとに優秀、米国サイドもペリー本人以下みんながリスペクトしていました。そんな企業があっけなく消滅するんですよね。1978年のVAN倒産時、創業者石津謙介さんはレナウン中興の祖である尾上清さんに相談に行きました。再生あるいは破産、どちらを選択するべきか悩んでいた石津さんの問いに対して、「石津くん、ファッションは虚業だよ。潔く散った方が良い」と破産をアドバイスされた、と石津さんご本人から伺いました。尾上さんが指揮した名門企業も儚くも完全に消滅してしまいました。虚業なんですかね、ファッションビジネスは....。
2022.10.14
そもそも私はマーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職しないでニューヨークに渡りました。ニューヨークでの取材活動も、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン夜間コースでバイヤー講座に参加したのも、バーニーズニューヨークのTOKYOブティック開設に協力したのも、すべてマーチャンダイジングの知見を得るためでした。 8年間いろんな仕事をしたことで米国式マーチャンダイジングを習得、そろそろ帰国しようかなと考えていたタイミングでデザイナー組織設立の話が飛び込んできました。自分がイエスと言えば、日本にもファッションデザイナーの組織ができ、短期集中型東京コレクションの自主運営が可能になるかもしれないと考え世話役を引き受けました。どのメディアや企業にも頼らず東京コレクションの自主運営が軌道に乗ったらマーチャンダイジングの仕事にと考えていましたが、なかなか退任できる状況にはなりませんでした。 しかし、CFD設立9年に盟友・市倉浩二郎の急逝で目が覚めました。今度はなにがなんでもCFDを辞めて念願の仕事をと決意、退任したい気持ちを伝えるために長文レポートをまとめ、CFD幹事団とアドバイザーや親しい友人たちに配りました。この退任決意レポートを配った友人の一人が当時松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターだった杉本明子さん、ニューヨーク時代からの友人です。このことが私の人生を大きく変えました。 右から杉本明子さん、石津祥介さん、私杉本さんはまだ海外留学生が少なかった1960年代後半、英会話習得のため米国西海岸に渡りました。現地の図書館でニューヨーク州立ファッション工科大学(通称FIT)の存在を知り、入学願書を取り寄せてニューヨークに引っ越し、FIT4年制コースを卒業。就職したのが旭化成の米国法人でした。 その後一旦帰国して旭化成本社に。頭を短く刈り上げ、ポルカドットに部分染めして帰国したそうですから、当時の旭化成の社員はさぞびっくりしたことでしょう。当時はかなり目立ったと思います。職場の上司だったのがこのブログ「交友録6」で触れた原口理恵さん(旭化成のあと伊勢丹研究所に迎えられたファッションディレクター)です。 しかし、男性社会の当時の日本、米国で教育を受けた杉本さんには窮屈だったのでしょうね、ストレスから胃潰瘍になり、結局ニューヨークに戻ったと聞いています。 私が杉本さんのことを初めて知ったのは、1980年代初頭に伊勢丹がニューヨーク駐在オフィスを開いた頃です。伊勢丹のバイヤーやコーディネイターを連れてニューヨークコレクション会場でよく見かけ、ブルーミングデールズなど売り場でもたびたび遭遇しました。月、火曜日は旭化成勤務、水、木、金曜日は伊勢丹の掛け持ちとパワフルに活躍、ニューヨークのキャリアウーマンのように颯爽と歩く姿は怖そうなお姉さんそのものでした。しかも噂では男性社員を叱り飛ばすことで有名だった伊勢丹研究所のKさんを説教して泣かしたそうですから、私は常に一定の距離を保っていました。 が、ある日伊勢丹一行を連れた杉本さんが狭い日本食レストランに現れました。先に食事していた私がカウンター席を立たないと杉本さんらは奥の席に進めませんから無視することもできず、ここで初めて名刺を渡して「今度ゆっくりお食事でも」とご挨拶。その数日後に「今度っていつですか?」と連絡がありました。会食したら意外や怖そうなお姉さんではありませんでした。以来、親交を深め、杉本さんやその友人らとの情報交換の会食が増えました。伊勢丹はトップデザイナーだったカルバンクラインとライセンス契約を結んでプライベートレーベルとして国内販売、その生産をオンワード樫山が担っていました。そのカルバンクライン社からクレーム、米国ではシルクで展開している商品をどうして日本ではポリエステルに置き換えているのか、と。伊勢丹のバイヤーとオンワード樫山の責任者は恐る恐るショールームを訪ねました。このとき人気絶頂のカルバン・クライン氏に数枚の生地サンプルを差し出し、「どれがシルクか当ててください」と言ったのが杉本さん。カルバンがシルクとして選んだ生地、実はポリエステル100%でした。「日本製ポリエステルのクオリティ-は高いのよ」と杉本さんに言われたカルバンは何も言えず、恐る恐る出かけたバイヤーたちは「杉本さんのお陰で助かった」。のちのオンワード樫山T副社長から聞いた話です。私が帰国したのち、杉本さんは旭化成、伊勢丹を辞め、東海岸メイン州の海岸線をのんびり旅行、途中休憩で立ち寄った小さな島には「FOR SALE」の表記、島ごと売りに出ていたので思い切って購入したそうです。ちょうどこの頃、ニューヨーク出張に出かける松屋の山中社長(=当時)を紹介したのは。日本に戻る前夜に山中社長が杉本さんのアパートを訪ね、松屋顧問に迎えたいと言った話はこのブログ「交友録16」に書きました。1990年山中さんは東武百貨店社長に就任、そして私たちと一緒にファッション産業人材育成機構(略称IFI)の設立に尽力しました。そのとき杉本さんから、家庭の事情で帰国することになった、と連絡がありました。米国での経験豊富な杉本さんにはIFIの指導者にもなってもらいたい、山中理事長と私は同じ思いでしたが、山中さんは社長就任したばかりの東武百貨店にも欲しいと言い出しました。 一方、杉本さん自身は山中社長時代に顧問契約した松屋で仕事がしたいと意見が分かれ、結局私が間に入って1991年最終的に松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターに就任しました。杉本さんが旭化成本社勤務の際に上司だった原口理恵さんが設立準備をした研究所、ご縁ですね。IFI設立後最初のファッションマーチャンダイジングのカリキュラムは、東京生活研究所杉本さん、彼女の友人で伊勢丹研究所ディレクターだった田辺慈子さんと私の3人が相談しながら作りました。そのカリキュラム、現在も私はマーチャンダイジングの基本を教える講義で使っています。杉本明子さんが東京生活研究所に入って3年後、私のCFD議長退任決意レポートは杉本さんから松屋の古屋勝彦社長(=当時)の手に渡ります。レポートを読んだ古屋社長からすぐ連絡が入り、二人きりで面談し、松屋入りを誘われました。もしも杉本さんが古屋社長に私のレポートを渡さなかったら、私は別のファッション流通業でマーチャンダイジングの仕事をやっていたかもしれません。 杉本さんは私を松屋に誘ったことで幾分気が楽になったのでしょう、妹さんが病死した後松屋のことは私に託して再びアメリカに戻りました。暑い季節はメイン州の一軒家、寒くなったらフロリダ州のマンション、なんとも優雅な暮らしをしています。(残念ながら、杉本さんの写真が手元にありません)
2022.10.11
8月急逝したオフクロの納骨を控え、郷里の実家から運んであった古いアルバムや大量の記念切手の整理を始めました。古い写真に混じってどういうわけか山中鏆さんの訃報記事の切り抜きが出てきました。23年前の新聞記事をご本人の命日に発見とは、あまりのタイミングにびっくりです。1994年4月に盟友イッチャン(毎日新聞編集委員の市倉浩二郎)が亡くなり、人生の短さを実感した私は「本当にやりたいことをやらずには死ねない」と、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)退任を決意、自分の仲間やCFD関係者に伝えました。IFI(ファッション産業人材育成機構)ビジネススクールの実験講座がちょうど始まるときだったのでIFI理事長の山中さん(このときは東武百貨店社長)にも決意を伝えたら、「どこに行くか決める前に相談に来い」、「量販店だけは絶対に許さんからな」、IFIのあった両国の寿司店でそう言われました。IFIで指導するファッションマーチャンダイジングをこの手でやりたい、希望通りやらせてくれる企業を見つける前に、まず後任CFD議長を探さなくてはなりません。引き受けてくれそうな人を探しましたが、デザイナー周辺事情を熟知している人でないと後継者に余計な苦労をさせてしまうことになる。ここはCFD顧問でもある文化出版局の久田尚子さんしかない。しかも翌年彼女は定年で区切りを迎えるドンピシャのタイミング、選択肢はほかにありませんでした。(左:久田尚子さん、右:コシノヒロコさん)「ノー」と言わせない場面をどう作るか。CFD顧問でもあるファッションプロデューサー大出一博さんに「一緒に頭下げてくれませんか」と攻略作戦の協力をお願いしました。大出さんのSUNデザイン研究所葉山合宿所に久田さんを呼び出してまずは宴会、酔っぱらった頃を見計らって土下座して頼む、これが作戦でした。相手は業界有数の酒豪、半端な酒量ではなかったけれど、二人でお願いしたら最後は「わかったわよ」とどうにか了解してくれました。本人の気持ちが変わらないうちにと、文化出版局の親組織である学校法人文化学園の大沼淳理事長を訪ね、「久田さんのCFD議長就任を認めてください」とお願いしました。その場で大沼さんの承認を得て、ようやく私はCFDと東京コレクションの運営から解放され、念願だったファッションマーチャンダイジングをやらせてくれる企業を探すことができたのです。久田さんとは初対面からいろいろ行き違いがありました。デザイナー組織を新たに作る話に半信半疑で帰国した私には面倒な手続きが待っていました。まず、直前に開催された読売新聞社主催東京プレタポルテコレクションのアドバイザーだった方々との面談が待っていました。帰国して真っ先に文化出版局の久田さんを訪ね、どういう経緯で新組織を作る話に発展したのかを説明しました。「本来私たちがやらなければならないことを(海外にいる)あなたがやるわけね」と皮肉っぽく言われたので、「久田さんがおやりになってはいかがですか。わざわざ僕がニューヨークから帰ってきてやらなくてはいけないことじゃないでしょう」と正直に思いを返しました。恐らくこのセリフで久田さんはカチンときたのでしょう、年少の若造(19年の差があります)が生意気なこと言うんじゃないわよとばかり表情が険しくなり、とても協力してもらえそうな空気ではありませんでした。次に久田さんとあるパーティーで会ったときは「あなたは(帰国を勧めた)三人組の犬よね」とさらに強烈なことを言われ、「ごく最近初めて会ったばかりなので三宅一生さんのことはよくわかりません。山本耀司さんとはサシで話をしたこともありません。仲良しと言われる関係ではありませんから」と反論しました。ほかにも身に覚えのないことをたっぷり言われ、どうして自分がデザイナー新組織設立のために奔走しなくてはならないんだろうと挫けそうになりました。こんなチグハグな会話はCFD設立まで連日続き、正式発足後CFD顧問になってもらってからもしばらくは理解し合えない関係のままでした。本来自分たちが担うべき仕事を海外在住の見知らぬ男にやらせたいとデザイナー諸氏は言う。でも現時点で編集者の仕事があるのでは自分は身動き取れない。しかも何ともクソ生意気な若造が目の前に、相当悔しかったのでしょうね。 CFD発足からおよそ1年後、久田さんは出勤途中にアポなしで事務局に立ち寄り、「これからはあなたを応援するから何でも言ってちょうだい」、と思いもよらぬ優しいことをわざわざ言いに来たのです。正直言って俄に信じられない、また何か仕掛けられたのかと戸惑いました。が、今度はセリフそのままでした。以来、久田さんは親身になってあれこれ私をサポートしてくれました。住み慣れた南青山のマンションから世田谷代田の一軒家に引っ越した直後、イッチャンと私は新居に招待され、大変ご馳走になりました。まるで小料理店のようなカウンターの中には料理人の久田さん、カウンター席には私たち、次から次へと手料理とお酒が供され、切れることのないおしゃべりが続き、ディナーが終わった時点でキッチンの洗い物は完了、実に見事なプロの段取りでした。仕事一途で家事なんてしない人だと想像していましたが、とんでもなく器用に家事をこなす人でした。このとき1部屋つぶしたウォークインクローゼットに案内され、「ねーねー、見てよ。これ、私の宝物なの。パリ支局勤務のときにお給料貯めて作った最初で最後のオートクチュール、全盛期のイヴ・サンローランよ」、嬉しそうにオートクチュール服を見せる久田さんはまるで小娘が恋を語るような表情、本当にファッションとデザイナーのことが大好きな編集者なんだと改めて思いました。私が10年、そして久田さんが10年CFDと自主運営の東京コレクションを守りましたが、ここで経済産業省が東京コレクション支援を打ち出し、状況は一変しました。私は久田さんと二人だけで会食、せっかく国が支援してくれると言うんだから提案を受け入れるべきだしCFD議長退任のグッドタイミング、引き際を間違えないでください」と言いました。お互い10年ずつ組織運営で苦労した者同士だからわかり合える、久田さんは議長退任を決めました。CFD設立20周年、前列中央が久田さん久田さんは愛知県常滑市の出身、私は伊勢湾を挟んだ三重県桑名市の出身、郷里は目と鼻の先です。晩年病で倒れリハビリ介護施設に移った久田さんは残念ながらこの施設で亡くなりましたが、そこはなんと私の自宅から徒歩数分の施設、何とも不思議なご縁です。久田邸でご馳走になったとき次から次へと出てくる手料理は常滑焼きのお皿で、贈ってくださる日本酒はいつも常滑の「白老」、郷土愛が強い人でもありました。私のオヤジみたいな松尾武幸さん(繊研新聞社取締役編集局長)の名古屋大学学生寮のルームメイトが偶然にも高校時代の恩師、左翼的思想を教え子たちに注入したインテリ先生だったと久田さんから伺いました。これも不思議なご縁。一緒に飲むたび酔っ払って大声で「バッキャーロウ」を連呼しながら私たちの肩や太腿を強く引っ叩く、元気過ぎて口の悪いおばちゃんでもありました。いま頃あの世でイッチャンやシゲルさんを引っ叩きながら大酒飲んでいるでしょうね。
2022.09.30
現在六本木ヒルズ森タワーがある場所はヒルズ再開発前までは一般住宅が建ち並ぶ居住地区、その一画の古い一軒家にファッションショー演出家の草分け的存在だったシゲルこと木村茂さんは住んでいました。毎年ゴールデンウイーク寸前にはシゲルお誕生会が開かれていました。1994年4月も恒例のお誕生会が予定されていました。そこに飛び込んだシゲルさんとも仲良しだった毎日新聞編集委員市倉浩二郎さんの訃報、シゲルさんから「キャンセルすべきよね」と電話が入りました。イッチャンは中止なんて望んでないから予定通り開催すべきと私は返し、シゲルお誕生会は決行されました。当日お酒が進むうち、私は酔っぱらってシゲルさんの頭を叩きながら「なんで市倉が死ななきゃいけないんだ」と泣き叫び、出席者をびっくりさせてしまったようです。その後どうやって帰宅したのかは覚えていませんが、読売新聞ファッション担当記者だった宮智泉さんがタクシーで送ってくださったことだけはうっすら覚えています。そして翌日、私は人生で最も酷い二日酔い、イッチャンのお通夜はその翌日だったので助かりました。木村茂さんの存在を知ったのは1985年東京ファッションデザイナー協議会設立時。当時デザイナーのファッションショー演出を担当しているプロデューサーたちに協議会設立の背景と今後の東京コレクション運営を説明して協力を求めて歩いたときでした。当時はまだ珍しい「おねえ言葉」のとてもおしゃれな方でした。協議会が正式に発足し、代々木体育館の団体バス駐車場に特設大型テントを建てることが決まった時点でショー演出関係の皆さんに集まってもらい、テント内に設置するランウェイの基本形を決める会議をセットしました。基本形のステージ幅と長さを決めないことには建築申請の図面が引けませんから、皆さんのご意見を集約しようと会議を招集したのです。しかし、その場である演出家から、「どんな覚悟であなたは協議会を引き受けたのか」と、米国から帰国以来これまで何度も答えてきたことを再び質問されました。事前に演出家の皆さんには協議会設立の経緯や目的を何度も説明してあり、質問された方にも個別に十分説明済み、どうして再びここで説明しなきゃいけないのと思った私は、「嫌になったらニューヨークに戻りますから」とぶっきらぼうに返しました。この態度が紛糾の原因でした。「そんな姿勢なら協力できない」と言い出す演出家まで現れ、ランウェイの基本形を決めるどころではなくなりました。そのとき助け舟を出してくれた一人がシゲルさんでした。「太田さんが決めたらいいのよ。私たちはそれをもとに演出を考えればいいんだから」、この一言でどうにか基本形の幅と長さは事務局サイドで決めることになりました。シゲルさんは学生時代からファッション業界に足を踏み入れ、ファッションブランドや小売店にクリエーションのサポートをしてきた不思議な人。日本大学の普通の学部(芸術ではない)を卒業して新宿高野にスタイリストとして就職、販促のためのファッションショーをたくさん手掛け、新宿2丁目の飲み屋街でファッションや芸能界の人脈を広げていったようです。私もイッチャンと共によく2丁目のバーに連れていってもらい、テレビでよく見かける歌手たちを紹介されました。AFP通信のインタビューでシゲルさんはこんな発言をしています。ディレクターの要件は、ファッションについて自分の中にブレないポリシーをもっていることだが、デザイナーの得手不得手をつかんで歩み寄ること、時代の背景にアジャストさせる努力が欠かせない。人と人が出会って、その付き合いの中で何かが分かり、何かを作っていくこと。それがアタシの仕事。シゲルさんが演出を担当するブランドには共通点がありました。代々木体育館駐車場に建てた特設テント脇には私たちが常駐する事務局用プレハブがありましたが、木村茂演出のブランドチームがテント入りするとまずデザイナーがちゃんと事務局に「お世話になります」と挨拶にきました。ショー終了後にはこれまたキチンと楽屋や客席の清掃を済ませ、「お世話になりました」と挨拶。シゲルさんが厳しいからでしょう、これが徹底していました。当時搬入の際にろくに挨拶しないメゾンもあれば、ショー終了後客席を綺麗に清掃せず搬出してしまうメゾンもあり、ろくに清掃しないで自分たちの打ち上げパーティーに行ってしまう最悪ケースもありました。協議会事務局はコレクション期間中だけ多くのアルバイト学生を採用しますが、彼らの目にも礼儀正しいブランド企業や演出チームのことはわかりますから、シゲルさん自身とそのサポートを受けるデザイナーたちはアルバイト学生の評価は高かったです。話は少しそれますが、アルバイト学生や事務局スタッフの間でこんな話もありました。ある若手デザイナー企業、リハーサルと本番の合間の遅いランチに彼らが目撃したのは、デザイナー本人だけが豪華なお弁当でメゾンのスタッフや楽屋フィッターさんには駅弁のような小さな弁当。トップデザイナーでさえこんなことはしないので、この若手デザイナーへの評価は一気に下がりました。こういう話、いまならSNSで拡散されていますよね。企業デザイナー歴の長かったセブレの大田記久さん(1988年度毎日ファッション大賞新人賞)やローズイズアローズの比嘉京子さん(1990年度新人賞)をまるで我が子のように、時には厳しく時には優しくシゲルさんは教えていましたが、ショーの演出以上にものづくりの姿勢やショーのお客様に観ていただく姿勢をうるさくアドバイスしていたのが印象的でした。演出家にはファッションの知見、音楽や空間演出のセンスが必要でしょうが、それ以前に人間としての礼儀も大切、そのことを演出するメゾンの関係者に指導して欲しいです。長くフリーランスで活躍していたシゲルさんの若手指導に着目したSUNデザイン研究所の大出一博さんは同業者のシゲルさんに声をかけ、自社に幹部として迎え入れました。人材育成が狙いだったと思います。シゲルさんは若手の演出家たちを引き連れて新宿2丁目によく現れ、自身の仕事の哲学や過去のユニークな経験を堅苦しくならないように伝えていました。2014年11月、シゲルさんは癌で亡くなりました。享年70歳、もう少し長生きして後進の指導をして欲しかった人です。
2022.09.24
昨年11月、元文化出版局編集者の市倉美登子さんが介護施設で亡くなりました。私の親友だったイッチャン、毎日新聞社編集委員市倉浩二郎さん(1994年に逝去。52歳)の奥様です。美登子さんが編集長をしていたこともある雑誌ミセスが廃刊になると聞いて、昨年春私はミセス最終号を介護施設に送りました。姪御さんによれば、私が送ったミセス4月号を見ているときはキリッとした編集者の目をされたそうです。(高田賢三さんと市倉美登子さん。2017年撮影) 市倉編集委員が関わった毎日ファッション大賞、今年も明日授賞式が行われます。初期の選考委員長だった鯨岡阿美子さんの名前を後世に残そうと、二人で鯨岡阿美子賞の新設に奔走したことを思い出します。授賞式で配布される図録、昨年まで介護施設の市倉夫人に届けてきましたが、今年はもう送れません。ちょっと寂しいな。 イッチャンは元社会部の硬派記者でした。ロッキード事件で田中角栄元総理大臣が逮捕され、後継者の三木武夫総理を引き摺り下ろそうと自民党各派が「三木おろし」を画策していたとき、彼はホテルの一室での密談を記事にしたそうです。そのことが大きな波紋となり、その直後にイッチャンは社会部から外されたと本人から聞きました。 市倉さんがファッションも担当する編集委員として私の前に現れたのはCFD発足から1年経過した1986年秋だったと思います。何のショーだったかは忘れましたが、文化服装学院遠藤記念館でのファッションショー終了後に名刺を交換、「今度一杯付き合ってください」と言われ、数日後に四ツ谷荒木町の大衆居酒屋で会いました。 このときどういうわけかイッチャンは自分が離婚経験者だと突然言い出したことを覚えています。初対面の私になぜそんなことを言い出したのかはわかりませんが、二人でかなりの酒量、酔っ払って気を許したのかもしれません。美登子夫人によれば、「イッチャンはあなたと本当に気が合ったのね。今晩は太田と飲むぞと出かけると決まってグデングデンに酔っ払って帰ってきたわ」。はい、私もイッチャンとの飲み会は毎回グデングデンでした。右から市倉浩二郎さん、久田尚子さん、私当時CFDがオフィスとして借りていた南青山の賃貸物件は、玄関と勝手口の2箇所ドアがありました。毎日新聞社編集委員として取材にくるとき、市倉さんは事前にアポを取って玄関チャイムを鳴らして入ってきました。しかし、友人イッチャンはいつも勝手口からノーチャイムで入ってきてオフィスの冷蔵庫を勝手にゴソゴソ、ときにはレアな日本酒を持って「おい、飲むか」、と。公と私をしっかり分けて接してくれた友でした。 1994年3月のパリコレ出張直前、市倉編集委員はいつものようにアポを取って取材に。このとき「今シーズンでパリコレは最後にする。パリコレ取材は誰かに任せて、俺はデザイナーの背後にいる技術者たちのドキュメントを書きたい。おまえ、手伝え」。彼はワイン、スコッチ、日本酒など醸造現場を取材し、お酒にはかなりの知見がありました。が、自分はお酒のプロではないからと遠慮して一冊の本も書かなかったんですが、やっとファッションデザイナーを支える技術者や機屋のことを本にするぞと言い出したのです。 パリコレから帰国して東京コレクションが開幕、初日最後のショーだったユキトリイの直前、私は通りかかったカフェで一服する市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見つけ、皆さんと雑談。このときの会話は健康維持のためのドリンク、でもイッチャンは「あんな不味いもの飲めるか」と無視でした。 みんなでユキトリイのショーに出かけ、その後別れました。ショー終了後、イッチャンは「気分が悪い」と鳥居さんの打ち上げパーティーをパスして帰宅、翌日救急搬送されました。その後3週間救急治療室で意識不明のまま、結局私たちの目の前で息を引き取りました。救急治療室の控室で「イッチャンがいつも言ってたわ。太田は本当にやりたいことが別にあるんだって」と美登子さんから言われ、「もしも旦那が亡くなったら、僕は辞表を出します」、そんな会話をしながら毎日快復を待ちました。人の死に目に立ち会ったのも、遺骨を拾ったのも、私には初めての経験、大親友の死に大泣きしました。そして、1冊の本を書く時間もなかった友人の急逝に、「人生は短い」と実感しました。やりたいことをやらずに死ねない、イッチャンの告別式直後に私はCFD議長退任を申し出ました。(ご自宅は昔のまま残っていました) イッチャンが亡くなって数ヶ月後、美登子夫人から電話をいただきました。シャンパンのモエエシャンドン創業250年祭で市倉さんが前年にフランスから持ち帰った籐の籠に入った記念マグナム、これは私が譲り受けるべき、と。後年モエエシャンドン関係者に聞いた話では、この記念マグナムは3人の日本人(他に有名なソムリエと洋酒メーカー経営者)に手渡された貴重なボトル、それを奥様からいただきました。 故人が大切にしていたシャンパンだから有効活用しなくてはバチが当たります。10年間CFD責任者としてお世話になった東京コレクションの施工業者幹部を集め、後継議長の久田尚子さんを紹介する宴席でこれを開けました。いくらマグナムでも10人で飲んだらあっという間になくなり、近所の高級スーパーでモエの上級ブランドであるドンペリのマグナムを調達しましたが、ドンペリよりもモエ記念ボトルははるかに美味しかった。いまもわが生涯一のスペシャルなシャンパンです。 (鍵屋の煮やっこ)イッチャンが救急搬送される前に食べた最後の晩餐、それはシンプルな「煮やっこ」でした。お酒の飲めない美登子さんをイッチャンが初めてデートに誘ったお店は、鶯谷の歴史ある居酒屋「鍵屋」、酒飲みには喜ばれるかもしれませんが、初めて女性を招待するようなお店ではありません。冷やっこ、煮やっこ、味噌田楽、豆の煮物くらいしかおつまみがない、男くさい殺風景な居酒屋なのです。二人には思い出深い鍵屋風シンプルな煮やっこ、これが最後に美登子夫人が作った手料理になってしまったそうです。虫の知らせなのでしょうか。いまごろあの世で夫人の作る煮やっこでイッチャンは一杯やってるでしょう。
2022.09.19
バーニーズニューヨーク2代目社長フレッド・プレスマン氏の長男ジーンに呼び出され、日本のデザイナーブランド買い付け協力を頼まれたのが1981年秋冬パリコレ直後でした。ミュグレーやモンタナのビッグショルダー逆三角形シルエットがこの頃のファッショントレンド、バーニーズのバイヤーはパリ、ミラノで買い付け予算を消化しきれず帰国しました。発注減ですからこのままでは秋冬シーズンの売上増は見込めない、早急に新たなリソースを見つけなければなりませんでした。 その前年、カンサイヤマモトのアニマル柄ニットがニューヨークの百貨店やセレクトショップで爆発的にヒットしたことも大きな要因でしょうが、「日本にはイッセイミヤケやカンサイヤマモト以外にも優れたデザイナーがいるのではないか」、ジーンはヨーロッパの発注不足分を日本で補えるかどうかを私に質問したのです。そして4月上旬、ジーン・プレスマン副社長とメンズ、ウイメンズのバイヤーと一緒に私は東京を訪れました。 このときいくつかファッションショーを視察できましたが、どの会社も展示会はショー後3週間ほど先の開催、すぐに発注できないことがわかって一旦ニューヨークに戻りました。ショーそのものも調整機関がないから5月後半まで約2ヶ月に渡って日程はバラバラ、これでは東京が世界とビジネスすることはできません。ショーの短期集中開催、ショーの翌日から発注ができる体制を早く作ることが日本の課題、と思いました。これが、1985年のCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立の伏線でもあります。 4月下旬再び来日したバーニーズ、でもスムーズに発注できたわけではありません。当時ほとんどのブランド企業はバーニーズニューヨークの存在を知りません。まずバーニーズがどういうポジションの小売店なのか、どこにお店があるのか、現在どういう欧米ブランドを扱っているのかを詳しく説明しないと発注にたどり着けません。 次にL/C決済(レター・オブ・クレジット)がいかにブランド側に安全なのかを説明しました。あの頃L/C決済のことも対米繊維製品輸出のクオータがあることもみなさんご存知なかったので。上代表記(欧米の展示会では下代表記)のどれくらいの掛け率で取引するかも交渉せねばならず、東京でのバイイングはものすごく時間がかかる、1日に4ブランド程度しか回れずストレスが溜まりました。(長く私の部屋に飾っていたYohji Yamamoto)いくつかのブランド企業を回ってワイズ(まだこの頃はヨウジヤマモトではなかった)の展示会に立ち寄りました。サンプルを見ていざ発注しようとしたところ、接客してくれた林五一専務は「パリの展示会でシャリバリに独占販売を約束したので今シーズンは注文を受けらない」。ワイズは3月にパリで受注会を開催し、バーニーズにとっては最大のライバルだったセレクトショップに1シーズンだけニューヨークエリアの独占販売権を渡したと言うのです。私たちはワイズの発注を諦めました。 翌82年春夏シーズン、再び東京に買い付けに来たバーニーズはワイズの展示会に。このとき海外向け商品は確か「ワイズ・ヨウジヤマモト」の表記になっていたと思います。そして別のハンガーラックには国内市場向けの「ワイズ」のサンプルがありました。ジーンとバイヤーは海外向け商品に加えて国内向けワイズも発注したいと言い出しました。 ところが、国内向けワイズは既にシャリバリに独占販売を約束したのでニューヨークの他店に売ることはできない、と林専務が言うのです。またかよ、当然ながらジーンやバイヤーは不機嫌になりました。シャリバリのおよそ3倍の買い付け予算を提示しても林さんは全く興味を示さない、私たちは国内向けワイズを諦めて引き上げました。 次の展示会場に行く道中、私はジーンにこう言いました。(店舗の規模から言って)大量発注したとは思えないシャリバリとの約束を守るなんて馬鹿げているけれど、見方を変えれば林さんは律儀で信用できる男じゃないか、味方につけると頼もしい、と。不機嫌だったジーンは「確かに」と納得でした。 米国ファッションビジネスでは、口約束は守らないのが当たり前、納品された商品の代金だって簡単には支払ってくれません。特に市場でのポジショニングが高い有力店ほどあれこれ理由をつけてなかなか払わない。独占販売の口約束を破棄する例はいくつもあります。悪く言えば「騙し合い」が普通の世界なんです。シャリバリとの独占販売を生真面目に守る林さんの姿勢、米国ユダヤ系ビジネスマンには想定外だったかもしれません。1985年4月読売新聞社主催の東京プレタポルテ・コレクション前夜祭の夜、会場(現在の都庁の場所に建てられた大型特設テント)すぐ近くの中華レストランで御三家デザイナーと食事をすることになりました。そのとき林さんも一緒でした。話は東京にもパリやニューヨークのようにデザイナー組織を作って東京コレクションを自主運営しようとなりましたが、林さんは黙ってみんなの意見を聞いていました。私もびっくりしましたが、同席した林さんもまさかこんな話が出るとは思いもしなかったでしょう。そして5月、新組織発足に向けて動き出したとき、林さんから電話をもらいました。「みんな仲が良いわけではないからね。そこは頭に入れておいた方がいいよ」、とそれまでニューヨークにいて日本の業界事情を知らない私にアドバイスしてくれました。 7月に発足した新組織CFD、そのオフィス探しを担当してくれた林五一さんと三宅デザイン事務所小室知子さんは、会社の業務そっちのけで物凄い数の物件をリサーチしてくれました。その献身的な姿勢に、シャリバリとの約束を守った人らしいなとしみじみ思いました。 林五一さんは小学校高学年から慶應義塾大学卒業までずっと山本耀司さんの同級生。慶應卒業後スカンジナビア航空に就職しましたが、成田空港開業を機に営業所が羽田から成田に移転と決まり、幼馴染の山本さんの誘いを受けて畑違いのファッションの世界に転職。転職当時は予想したほどに個性的な商品は売れず、山本さんのクリエーションとは別の売りやすい商品を「ワイズ・ドール」(確かこんなブランド名だったと聞いたことあります。私は見たことありませんが)として販売したそうです。幼馴染だから創業デザイナーに言えた施策、普通のビジネスパートナーなら喧嘩になっていたでしょうね。 こうしてワイズは徐々に国内市場で地盤を固め、1981年ついに海外セリングをスタート、当初ブランド名の「ワイズ」が「ワイズ・ヨウジヤマモト」になり、さらに現在の「ヨウジヤマモト」となり、「黒の衝撃」でコムデギャルソンと共に一躍世界的ブランドになりました。(ワイズフォーリビング)その後林さんはヨウジヤマモトとは距離をおいて「ワイズフォーリビング」を起し、現在もその経営をなさっています。
2022.09.15
故郷の高齢者介護施設でお世話になっていたオフクロがコロナウイルス感染で亡くなってから1カ月、先日実家やお墓のことで弟・太田秀之とスパイラルカフェで打ち合わせ。昔はよく近所の南青山の蕎麦屋で兄弟ランチをしたものです。オヤジが2001年に、妹が2018年、今夏母親と逝き、残るは兄弟二人だけになりました。紺屋の息子だったオヤジはインパール作戦から無事帰還すると百貨店勤務を経てテーラーを開業、ほかに毛芯メーカーや百貨店の納入業者、東京の紳士服アパレルメーカー顧問デザイナーを務めるなど事業を拡大、出入りの生地屋さんには息子を二人とも継がせると話していたそうです。私はオヤジが戦前に通っていた西新宿の日本洋服専門学校夜間コースに入れられダブルスクール、夏休みはパタンナーのプロに個人指導を受け、大学卒業後ロンドンのサビルロー修行を予定していたので英会話レッスン、とワンマンオヤジの構想通りでした。地元の大学に行く弟も同じ、無理やり大学の夜間コースに変更させられ、日中はうちの職人さんたちと共にオヤジの指導を受けて服づくり、普通の大学生のように遊び回る時間はなかったようです。ところが、私は家業継承のためにロンドンで修行ではなく、自分のやりたいマーチャンダイジングを習得するためニューヨーク行きを主張、長男ながら「分家」となってテーラーを継がないことに。オヤジの期待は弟に向けられます。しかも手術時の輸血が原因で肝炎、肝硬変、肝臓癌になったオヤジは無理ができず、弟の助けが必要でした。最晩年、弟のお陰で仕事を続けられ、長生きできたとオヤジは弟に大変感謝していました。1982年春、一時帰国した私を訪ねてオヤジが上京。高級テーラーの将来性をどう思う、と質問されました。弟を無理やり夜間大学に入れて家業を継がせ、いまさらこの質問はないでしょう、私はブチ切れました。それまで父親に「オヤジ」と言ったことが一度もなかった私は生まれて初めて、「オヤジ、今日からお前はうちの家長ではない。秀之のことは俺が秀之と相談して決める」と宣言しました。将来家業の継承で苦労をさせたくない、私はすぐ故郷に帰って弟に上京を勧め、オヤジには一代限りでテーラーを廃業するつもりで仕事を続けてくれ、と頼みました。弟はこのとき28歳、テーラー修行10年でした。(わが弟)弟は大学1年から紳士服づくりを実践で学び、パターンメーキングも習得しています。私がバーニーズニューヨークの買い付け出張で知り合った東京のブランド企業にお願いするか、あるいはファッション専門学校に入って勉強をやり直すか、いろんな進路を考えましたが、結局デザイナー企業C社のお世話になることに。C社を選んだ理由はとてもシンプル。他社がオーナーデザイナーのことを「先生」と呼び、我々外部の人間に対して「先生は外出なさっています」「先生はまだいらっしゃっておりません」と言いますが、C社だけは普通の企業のように「社長は外出しております」でした。ファッション業界は奇抜な服を扱っていても特殊な世界ではなく、午後出社しても「おはようございます」の業界ではありません。我々は一般生活の中で着る服をお客様に提供するビジネス、商品は個性的であっても職場はごく当たり前であって欲しいと考えてきました。だから、商品は奇抜でも会社は普通なC社にお願いしたのです。後年オーナーデザイナーから「理由はそれだけ?」と訊かれたことがありますが、その通りなのです。入社直後、オーナーデザイナーから「太田くんは完璧に縫えるので助かる」と言われたことがありますが、オヤジと職人たちにしごかれた高級テーラーのプロなのです、腕がいいのは当たり前でした。その生真面目な性格もあって生産工場では指導力を発揮、工場の人々に効率の良い縫い方、効率の良い生産システムを丁寧に教えてきたようです。大手商社マンが私に教えてくれました。「弟さんはプロ。縫製工場に行って作業しているスタッフを前から見る人はいますが、後ろからじっと眺めて工場長にラインの組み換えをアドバイスするのは弟さんしかしませんよ」と。生産ラインの修正、縫い方の指導をして1日当たりの生産性を上げ、その上で縫製工場と工賃交渉をしてきたようです。C社がメンズの新ブランドを立ちあげた直後、弟は会社のパターンとサンプルを実家に持ち込み、パタンナーとして一流だったオヤジに相談してパターン修正をしていました。二人は実家のテーラー用の大きな裁断台に生地を広げ、パターンの微調整と縫製仕様の修正をやっていましたが、このときのオヤジの幸せそうな表情は忘れられません。家業はすでに廃業していましたが、息子が所属する会社のより良きものづくりのために一緒に作業する喜びをオヤジは感じていたのでしょう。私にはマネのできない親孝行でした。一度東京駅の新幹線ホームで弟と遭遇したことがあります。三重県に行くというのでてっきり実家かと思ったら、「腕の良い縫製工場が松阪にあるのでこれから交渉に行くんや」。2年前に福島県のクオリティーに定評ある縫製工場と仕事を始めたばかり、なのに手仕事比率が高くもっとグレードの高い縫製工場を探し当て、交渉に出かけるという。さすがプロだと思いました。私もいろんな場面で「C社の太田さん」の話を聞きました。C社から巣立って行った若きデザイナーや商社の繊維部隊の人々から「弟さんからものづくりを教わりました」とよく言われます。同じ世界で働いているのでお互い兄弟のことを他者から聞く場面は少なくありませんが、弟の評判を聞くたび私は嬉しかったですね。子供の頃から私はぶきっちょ、弟はコツコツ型でした。テーラーの職場から多数の糸巻きが出ますが、それを使っておもちゃに仕上げるときに弟は上手くできるのに私は下手くそ、おもちゃにはなりませんでした。私がプラモデルを作れば必ず部品が数ピース余ってしまう、私以上に弟はオヤジの血をひいています。その弟が引退すると聞いて私はすぐにコンタクト、再建途上のブランド企業Y社の社長を助けてやってくれないかと頼みました。C社とよく比較されるデザイナー企業、一度経営破綻しましたが、若き社長が外部の資本家たちの支持を得て一生懸命再建、その様子を見て私は陰ながら応援してきました。「お前が手伝ったらきっと原価率は大幅に改善されるだろうから」と社長に紹介、Y社のお手伝いをすることになったのです。Y社で7年間どれだけ貢献できたのかは知りませんが、今春弟は「そろそろ引退するわ」、そして先月オフクロの急逝と同じタイミングでファッション業界から完全に手を引きました。弟の息子は私のススメでIFIビジネススクール全日制を卒業、インターンシップでチャンスをもらったデザイナーMさんの会社に就職しました。弟とは仕事の領域が違いますが、甥っ子が父親のように業界関係者から早く信頼されるよう期待しています。
2022.09.12
クールジャパンの関係で初めてマレーシアの首都クアラルンプールを訪問したのは2014年でした。ペトロナスツインタワーの真ん前のホテルに宿泊、この写真はホテルの部屋から撮影したものです。迫力ある高層ビルを見上げながら、すごいもの建てるんだなあ、と思いました。市内には日本のコンテンツが溢れ、日本食レストランも多く、中にはハラル対応のラーメンも。伊勢丹は4店舗も運営していたので、最も古い店舗を全館クールジャパンの館にしてみませんか、当時の三越伊勢丹大西洋社長に提案しました。これからASEANの時代が来る、そんな予感がありました。
2022.09.11
先週末、JFW(日本ファッションウイーク推進機構)が主催する2023年春夏東京コレクション(正式名称Rakuten Fashion Week Tokyo)が終了しました。東コレ開幕前日広島県での「建築学生ワークショップ2022宮島」から新幹線で東京に戻ったのが深夜0時、長時間板の間に座っての協議で足腰あちこちが痛いまま開幕を迎えました。正直、腰痛のままショー会場の固いベンチは辛かった。しかし、今シーズンは元気な新人デザイナーのコレクションにいくつも出会え、中堅デザイナーの個性的新作を満喫することもでき、例年以上に収穫は大きいシーズン、視察する側としてはハッピーでした。冠スポンサーのRakutenをはじめ多くの協賛企業のバックアップがあっての東コレ、事務局スタッフやショーの運営に関わった多くの関係者への感謝を忘れてはなりません。短期集中型の東コレは1985年11月に始まりました。前半の20年間40シーズンがCFD(東京ファッションデザイナー協議会)の主催、2005年10月から17年間がJFWの主催、この短期集中形式はすっかり定着しました。昨日、懐かしい写真が出てきました。国立代々木競技場の敷地に建てた東コレ特設テント前で撮影してもらったもの、どなたが撮影してくださったのかは不明です。恐らく1987年頃、当時のことをあれこれ思い出しました。1985年7月CFD設立、事務局を預かる私はオフィス探しと11月の東コレ会場探しを急がねばなりませんでした。8年間ニューヨーク暮らし、東京の不動産事情には明るくありません。そのとき助けてくださったのが発起人デザイナー企業のナンバー2の方々。オフィス探しは三宅デザイン事務所小室知子副社長とワイズ林五一専務、特設テントを建てる土地所有者の根回しはニコル甲賀正治専務が担当でした。CFDメンバーのデザイナーの多くは一般社会でも知名度の高い人、出入りする場面を目撃されやすい表通りの物件はNG。CFDに潤沢な資金があるわけではないので保証金の高い事務所物件はNG、住居用賃貸マンションでもできれば家賃を抑えたい。小室さんと林さんは港区や渋谷区の物件を斡旋する不動産屋を当たり、現地視察して良さそうな物件があれば私を電話で呼び出しました。二人が見て回ってくれた賃貸マンションは百以上、最終的に南青山5丁目のマンションに落ち着きました。11月の東京コレクションの会場探しも大変でした。CFD正式発足からコレクション開催時期まで4ヶ月足らず、すでに都内の主要な貸しホールは予約で埋まっており、大型特設テントを建てる以外に道はありません。候補地として最初に上がったのは北青山の絵画館前の広場、早速甲賀さんが明治神宮の関係者にコンタクトをとり、交渉ルートを確保しました。ところが、絵画館前の広場で施工から撤去まで3週間も特設テントを張るとなると土地使用料が半端ない金額、とてもCFDの資金では払えません。相場と私の手元から出せる上限とでは一桁違いました。せっかく甲賀さんにしっかり根回ししてもらったのに私の交渉力では前進できませんでした。途方にくれていたら、コムデギャルソン武田千賀子取締役から代々木体育館のある国立代々木競技場でかつてテントを建ててショーを開いたことがあると教えてもらい、私は体育館内の事務所に出かけました。面談に現れた体育会系短パン姿の男性が「ファッションショーですか。うちは体育の施設ですから」と断られそうになりました。が、自分たち新組織の設立趣旨や目的を丁寧に説明するうちに、話せばわかってもらえるかもしれないと期待を持ち、その日は帰りました。そして何度も通ううちにCFDの資金でもなんとかなる低料金で3週間借りられることに。文部省管轄の国有地だから安かったようです。次に特設テントと会場設営の施工業者を選ばねばなりません。デザイナー企業からの会費と会場使用量だけが収入、とにかく安く協力してくれる会社を探すしか方法はありません。大型テントで有名な会社やファッションショー用テントで実績ある会社は値段が高い、できればテントでは新興の小さな施工業者をと千葉県富里町の稲垣興業に相場の半値で発注できました。会場設営もファッションショーではあまり実績のなかったスポーツイベントや野外コンサートのシミズ舞台工芸に、これまた相場の半値でお願いしました。「将来必ずお返しできる日が来る、ついてきてください」図々しくもこれが殺し文句でした。大型テントを建てる場所が渋谷区役所前の広場、区役所への建築申請、保健所、消防署の届けなどは渋谷に本部があるパルコに協力をお願いしました。三宅デザイン事務所小室さんと旧知のパルコ大成正樹さんの協力がなければ、大型テントでの開催は無理だったと思います。私はそれまでファッションショーは座って観る側の人間、ショーの現場で何が必要でどんな届けをしなければならないのか無知。舞台美術担当者から「電源はどこから取りますか」と質問され、「コンセントに差し込むのではダメなの」と答えたら、「そのコンセントにどこから電気をひくつもりですか」と言われました。こんな事務局責任者、皆さんの支援がなければ発足4ヶ月後の東コレはとても開催できませんでした。いま振り返ってみれば、CFD発足と東コレ開催は奇跡的出来事でした。1985年3月パリコレ寸前、ニューヨークから東京経由でパリコレに行こうと思って一時帰国した私は三宅一生さんから連絡をもらい、会食に誘われました。西麻布にあった「さぶ」という割烹店でした。次にパリコレ会場特設テント前でバッタリ三宅さんと遭遇、ブリストルホテルのバーで一杯付き合うことに。そのとき読売新聞社創刊110周年記念「東京プレタポルテ・コレクション」のことを告げられ、私は4月中旬ノコノコと東京に出かけたのです。読売新聞社のイベントは日本で多くのファッションデザイナーが集まる初めてのコレクションでした。その前夜祭レセプションを引き上げ、新宿センチュリーハイアットホテル中華料理店でトップデザイナー3人と会食、突然日本にもデザイナー組織を作って自主運営の東京コレクションを開催すべきという話が持ち上がりました。ニューヨーク在住の私はアウェイ感覚、よそごとのようにこの話を聞いていました。このときまさか自分がその渦に巻き込まれるとは全く想像していませんでした。読売コレクションを半分で切り上げてニューヨークに戻り、ニューヨークコレクションをいつも通りに取材してセミナーのために再び帰国した私を待っていたのがCFD 設立準備でした。ちょうどこのとき三宅さんは海外旅行中、「うちの小室と話してください」と国際電話で指示され、三宅デザイン事務所を訪ねました。小室知子さん(自分の住まいを三宅デザイン事務所として会社登記した創業者)とは初対面、「正直言って、あなたがどういう方なのか私にはさっぱりわかりません」と言われ、一瞬私は言葉を失いました。(手前右から二人目が小室知子さん)でも、「三宅はよく変な人を連れてきます。なかなか面白い人が多いので人を見る目は信じています。だからあなたのことも信じてみます」、と。この日以来、小室さんは何度も私の危機を救ってくれた大恩人、この人に出会わなかったら私はさっさとニューヨークに戻っていたかもしれません。黎明期の東コレを陰で支えてくれた人と言っても過言ではありませんが、いろんな方のサポートがあって東コレは37年間も続いています。Rakuten Fashion Week Tokyoが終了した翌日、どういうわけか懐かしい写真が出てきたので東コレ出発点のことを書きました。
2022.09.06
クールジャパン機構時代、ちょっと風変わりな訪問者がオフィスを訪ねてきました。ベネチア建築ビエンナーレで会場エントランスに柱のないガラス建築をセットすることになっていた大阪在住の建築家平沼孝啓さん。ビエンナーレ首脳陣に評価されたものの大型ガラスの移送費用が半端なく、これを捻出する方法はないものかとの相談でした。クールジャパン機構は官民投資ファンド、いくら素晴らしいクリエーションでも投資した資金が将来回収できない事業には出資できません。これは投資の話ではなく何かの補助金を探す以外にないのではと助言し、サポートしてくれそうな役所を紹介しました。しかし補助金が足りず、結局この面白いプランはベネチアでは実現しませんでした。平沼さんは新国立競技場のデザインで話題となった世界的建築家ザハ・ハディッド女史が教鞭をとっていたAAスクール(英国建築協会附属建築学校)出身、近隣セントラルセントマーチンズ校のアレキサンダー・マックイーンたちと交流があり、彼らの卒業ファッションショーの舞台美術は平沼さんらAAスクールの学生が担当したことから、ファッションデザインにも関心が高い建築家です。その平沼さんが面倒を見ているNPO法人AAF(アートアンドアーキテクトフェスタ)が実にユニークな団体なのです。基本的には各種イベントを運営するのは大学生、大手代理店のサポートは一切ありません。若手建築家のコンペ「U-35」や安藤忠雄さんら有名建築家のレクチャーシリーズ、建築を学ぶ大学生や大学院生のコンペ「建築学生ワークショップ」、これらは全てAAFの学生たちが仕切っています。大手代理店でもここまでスムーズにイベントを仕切れるのかと毎回感心しますが、これを平沼さんら建築家や建築関連大学の先生たちが背後から支えています。「建築学生ワークショップ」では、先生たちが学生の中に入って一緒に作業したり、技術的アドバイスしたり、学生プレゼンには厳しい表現ながら温かい講評をされます。先生たちの熱血指導のほかにも、大手ゼネコンや地元施工会社の皆さんが技術アドバイザーとして学生の作業をサポート、作品づくりを手伝い、まさに実学そのものです。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺など「聖地」との交渉は平沼さんがマメに通い、その情熱の前に聖地の関係者はつい協力を約束するという構図です。今年も8月末「建築ワークショップ2022宮島」に参加してきました。平沼さんに声をかけられて4年前の伊勢神宮大会から私も参加し、出雲大社、東大寺、明治神宮と続いて今回は広島県宮島の厳島神社でした。例年全国から参加を申し込んだ建築を学ぶ学生が8グループに分かれ開催地に相応しいフォリーを建てますが、今回は申し込みが多かったのか10グループ、宮島の歴史や生活文化などを調査してフォリーのミニチュアをまず作り、7月の中間講評で審査されて修正を加え、現地合宿してフォリーを制作します。講評者は厳島神社界隈のフォリーを見て回り、次にプレゼン会場で各グループとの質疑応答、その後採点します。ワークショップ冒頭の講評者紹介で「美しいものにはワケがある」という視点で採点させていただきます、と宣言した私は10グループの中から4つを選び、最後に3グループ(全員3グループにのみ加点がルール)に点数を入れました。最後の最後まで悩んだグループは、建築の世界では珍しい材料と言える蝋燭を溶かしてバームクーヘンのような柱を何本も作ったフォリーでした。発想は面白い、材料は建築資材としてはレア、朱色の厳島神社に真っ白な蝋は目立ちますから「美しいものにはワケがある」に該当します。しかし、眩しい夏の太陽の熱で果たして自立できるのかどうか疑問を感じ、最終的に小さな建築として役割を果たせないと判断、私は加点対象から外しました。ところが、このグループのフォリーが最優秀賞に選ばれたのです。建築家や構造のプロの方々のお眼鏡に適ったということでしょう。私は建築分野の門外漢ですから、採点の視点が違っていたのかもしれません。(最優秀賞フォリー)でも、表彰式の後、挨拶に立った湯崎英彦広島県知事のコメントを聞いて驚きました。我々が各グループのプレゼンを受けている間に県知事は10箇所のフォリーを見て回ったそうですが、蝋燭フォリーは残念ながらすでに倒れていたとか。壊れたフォリーが最優秀賞だったので県知事もびっくりされた様子でした。ファッションコンテストに例えるなら、グランプリを獲得した服をモデルが着た瞬間生地が破れてしまった、あるいは袖がとれてしまったということでしょうか。デザイン画のコンテストなら最優秀賞でも良いでしょうが、実際に服を作って見せるファッションコンテストであれば、生地がすぐに敗れる、袖がすぐとれるようなら減点対象でしょう。この蝋燭フォリー、建築や構造の門外漢である私たちが「カッコいいね」と最高点数をつけるのはありかもしれませんが、門外漢の私が最後まで悩んだフォリーを建築専門家の先生たちが高く評価したのです。意外な気がします。東京大学の腰原幹雄さんや佐藤淳さんら毎回熱血指導してきた構造家のプロたちはどのように評価したのか、素朴にご意見を伺ってみたいと思って平沼さんにメールを送りました。構造家の先生たちが「いいんです」とおっしゃるなら、蝋燭フォリーを外した私の採点基準は間違い、来年の京都・仁和寺大会で(講評者に指名されるならば)考え方を変えねばなりません。(第2位)(第3位)学生さんはこれからプロを目指すのですから、現時点で発想や創造力を重視、作品の機能性、耐久性は度外視して採点してもいいのかもしれません。ファッションで言うなら、クリエーションが全てであって、学生のうちは素材、パターンメーキング、機能性はつべこべ言わないという採点もありなのかもしれませんね。感性、創造性を評価するのはとても難しい、過去5年間建築学生ワークショップに参加して毎回感じることです。そしてまた、平沼さんら建築家や大学の建築学科の教授たちの熱い指導(毎回厳しい講評をなさる構造家の佐藤淳さんは今年暑い中で早朝作業を手伝ってくたくたで発言が控えめでした)、施工会社の皆さんの献身的な協力を目の当たりにして、ファッションの世界でもこのような学校の枠を超えた業界全体がバックアップする実学ワークショップができないものかと思いました。こういう人材育成プログラムが実現できるなら、日本のファッションデザイン界は人材の宝庫になると確信しています。ちなみに、建築界のノーベル賞とも言われる「プリツカー賞」、日本人建築家の受賞は突出して多いんです。建築学生ワークショップから将来のプリツカー賞受賞者がでるかもしれません。
2022.09.06
韓国ファッションデザイナー組織の立ち上げとソウルコレクション開催に尽力した韓国ファッションプロデューサー李載淵さんのことを前項で書きましたが、李さんや韓国デザイナーの信任を得て新組織の責任者に就任したのは、当時東亜日報の生活文化担当記者をしていたジャーナリストでした。残念ながらお名前は思い出せません。団体運営にジャーナリストが果たして相応しいかどうかはわかりませんが、いろんな角度から物事を見てきたジャーナリストの経験は活かせるかもしれません。8月23日繊研新聞に東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)の7代目議長に就任した元繊研新聞記者久保雅裕さんのインタビュー記事が掲載されました。「世界に向けて、日本のファッションデザイナーの団体ここにありという組織にしていきたい」、ジャーナリスト出身の新議長の抱負、いいですね。CFD設立時参考にした米国ファッションデザイナー協議会(略称CFDA)は、ファッションウイークの運営をスポーツ業界に実績のある代理店IMGに託し、長い間ニューヨークファッションウイークに直接関わっていません。フランスオートクチュール協会がパリコレを仕切っているのとは対照的ですが、コレクション運営以外の活動で独自の存在感を見せています。最も有名なのはデザイナーたちに贈られるCFDA賞ですが、ほかにもデザイナー社会の意見をニューヨーク市当局に訴えたるなど様々な活動をしています。東京はCFD発足から20年間CFDが東京コレクションを直接運営してきましたが、2006年から産官協同でスタートした日本ファッションウイーク推進機構(略称JFW)に東コレは移管されました。CFDはニューヨークのCFDAのようにコレクション運営以外で独自の活動を模索し、唯一のファッションデザイナー組織として国際交流、特に近隣アジア諸国との交流を推進してはどうでしょう。そもそも1985年にCFDを設立したとき、活動目的の軸の1つとして国際交流を積極的に進める、と宣言しました。会員デザイナーの多くが参加するパリコレの主催者との密な連携を図りつつ、アジア各国デザイナーとの交流プログラムをいくつか進めました。パリコレ主催者オートクチュール協会代表だったジャック・ムクリエさんは親子ほど年の離れた協会運営のベテランでしたが、日本人デザイナーにもっと特設テント会場(当時チュイルリー公園やルーブル博物館中庭の大型テントは簡単には借りられなかった)を提供して欲しいと失礼を承知でストレートにお願いしたこともありました。 CFD時代私が一番苦労したのは、そのムクリエ代表から頼まれた「国際モードフェスティバル(略称FIMAT)」の東京開催でした。パリと東京は姉妹都市、我々はこれまで日本のデザイナーに門戸を開放してきた、東京で大規模なファッションイベントをやってくれないか、パリコレ会場で隣席のムクリエさんから突然言われました。(FIMATのポスター)フランス大統領選挙で現職フランソワ・ミッテラン再選は危うい、ジャック・シラク市長有利と騒がれていたタイミングでした。オートクチュール協会はミッテラン大統領とジャック・ラング文化大臣に非常に近い組織、もしも現職大統領が選挙で負けたらモードの世界は冷遇されるかもしれないという危機感がありました。シャンゼリゼで大ファッションイベントを手がけるパリ市長に接近する狙いもあったのでしょう。しかし、CFDはデザイナーだけで構成する小さな組織、大イベントの協賛金を集めるのは無理、フランスの政治に絡む話にできれば触れたくないというのが正直な気持ちでした。が、政治力のあるムクリエさんはパリ東京姉妹都市記念イベントとして東京都知事の賛同を取り付け、東京商工会議所と東京ファッション協会(共に東急グループ五島昇氏が会頭、協会長)の協力も得て、CFDにも協力して欲しいと正式要請がありました。パリコレでの日本人デザイナーの立場も考え、最終的に協力することになりました。主催者は東京都、東京商工会議所、東京ファッション協会、CFDの4団体、数ヶ月後に新築完成予定の東京ドームが会場でした。記者発表されるとパリからフランスの演出家チームが来日、責任者はシラク市長の選挙戦でイメージ作りをしている映像ディレクター。「俺たちはオートクチュール協会から指名されて来たのだ」と高圧的姿勢に日本側スタッフはイライラ、でも私から「あんたはクビだ」と演出家を解雇すれば国際問題になってしまいます。私はじっと耐えて先方が「これでは仕事できない」と放棄するまで待ちました。そして打ち合わせ最終日の深夜、最後の最後に先方からギブアップ発言、私は「ご縁がありませんでしたね。さようなら」、と返しました。フランスチーム帰国の翌日、オートクチュール協会ムクリエさんから連絡が入り、パリ協議のため2日間の弾丸出張に。私はムクリエさんに正直に申し上げました。日本の資金を使い、日本で開催、日本の観客に見せるファッションイベント、フランスから演出家を派遣するのであれば我々の指揮下に入ってもらう、それができないのであればフランスの演出家は起用しない。ムクリエさんはフランスの演出家を私の目の前で叱責、彼にチームプレイを約束させました。こうしてFIMAT開催の準備がスタート、フランス演出家チームのパリコレ映像撮影も始まったタイミングで今度は天皇陛下がお倒れになったのです。万が一FIMAT開催予定日前後にXデーが当たればコンサートやスポーツなど全てのイベントは中止せざるを得ないとの情報も入りました。このまま準備を進め、多額の制作費を投入してもしも中止になったら大損害は明白、前に進むか、止まるか、現場責任者の私は決断を迫られました。パリに進行状況と使用済み経費の確認をし、天皇陛下のご容態情報を集め、私は「現時点で出費はまだ少ない。中止しましょう」と主催4団体代表の坂倉芳明さん(三越社長)に進言しました。パリ東京姉妹都市イベントとして位置付けられ、東京都から多額の予算も出て、放送権を獲った日本テレビはスポンサー集めをしています、簡単に中止できるものではありません。坂倉さんは「一晩考えさせてくれ」、そして翌朝中止を決断されました。昭和天皇崩御から4ヶ月後の1989年5月、FIMATは東京ドームではなく日本武道館で規模を縮小して開催されました。東京ドーム開催中止によって発生した欠損は帳消しにすることはできませんでしたが、主催者代表の坂倉さん、実行委員長の福原義春さん(資生堂社長)らが我々の知らないところで動いてくださってことなきを得たと聞いています。開催実現までいろんなトラブルがありましたが、オートクチュール協会とCFDとのパイプは太くなりました。アジア各国との交流を推進しようと、CFDは各国デザイナーや団体代表者を集めて「アジアファッションフォーラム」も開催しました。また台湾、韓国、香港、シンガポールには足を運んでアジアの連帯を呼びかけ、デザイナー組織の必要性とファッションウイークでその国のデザイナーが創造的競争することの効果を説いて歩きました。この中で最も早く我々の呼びかけに動いたのが李さんのいる韓国でした(2019年の台北ファッションウイーク)年々規模が拡大している上海ファッションウイークは日本の若手ブランドも参加して軽視できない発信拠点になりましたが、近年個人的に注目しているもう一つの拠点は台北です。ファッションデザインの領域は台湾経済部(経済産業省に相当)から文化部(文化庁に相当)に監督官庁を移管、政府のテコ入れで新生台北ファッションウイークも始まりました。私は文化部の部長(大臣)や副部長(事務次官)に対して、日本政府がどのようにファッションウイークを支援し、どのような新人若手デザイナー育成プログラムを用意したかを説明、日本と台湾の文化交流も提案しています。米国CFDAがニューヨークファッションウイーク以外のプログラムで存在感を示しているように、個人的には日本のCFDがCFDAと同じようにコレクション運営以外で社会貢献してくれたら、と思います。CFD7代目議長の久保さんには国際交流の推進を期待したいです。
2022.09.06
異常な暑さが関係あるのかどうか、今夏は身内も含めて身近な人々の訃報が続き、沈みがちになります。いまから5年前の今日、韓国ファッション業界の発展に寄与したプロデューサー李載淵さん(リー会長と呼んでいました)の訃報が届きました。こんな人がいたのだと知ってもらいたいので、リー会長のことを書きます。東京ファッションデザイナー協議会(通称CFD)正式発足して数日後、突然韓国のファッションデザイナー団体の表敬訪問を受けました。発足記者会見でCFDの活動目標として「国際交流、特にアジアとの連帯」と発表したことですぐ動きがありました。数人の訪問者とCFD設立趣旨や国際交流の考え方などを話し、最後に高麗人参のお土産を手渡しするシーンを記念撮影して帰られました。その後、日本の業界メディアでこの団体とCFDが提携という記事、あの記念撮影の写真も掲載されました。面談では提携なんて話は全く出なかったし、まだ発足したばかりの組織ですからそこまで考える余裕はありませんでした。一方的提携報道にはまいりました。あくまでも私の推測ですが、当時韓国にはファッションデザイナー団体がいくつもあって(日本にも歴史のあるデザイナー団体やデザイン振興組織はいくつもありました)、日本で発足したファッションデザイナーの新組織が認める唯一の韓国デザイナー組織と韓国内向けに訴求したかったのでしょう。表敬訪問団が資料として置いていった分厚い会員デザイナー名簿の写真にある作品写真は韓国クラシックが大半、決してコンテンポラリーではありませんでした。こういうこともあるので、事務局を預かる者として国際交流には気を付けねばと肝に銘じました。(李載淵さん)それから3年後、韓国で制作会社とモデルエージェンシーを経営するリー会長がCFDオフィスを訪問。近くて遠い国同士の距離をファッションという文化活動でなんとか短くしたい、日本のデザイナーのショーをソウル開催する一方、韓国デザイナーを東京コレクションに参加させたい、できれば私にソウルでセミナーをしてほしいというお話でした。リー会長には3年前一方的に韓国のデザイナー団体にCFDと提携と発表されたことを説明、韓国との交流には慎重にならざるを得ないと正直に言いました。リー会長は日本とのファッション交流を進めたいので一度韓国に来てください、と言われました。1989年秋だったでしょうか、私は初めて韓国を訪問しました。このとき招聘されたセブレの大田記久デザイナー(1988年毎日ファッション大賞新人賞受賞)のショー、リハーサルで韓国モデルたちが恥ずかしがってなかなかブラを外さないところ演出家の木村茂さんが丁寧にその必要性を説き、モデルのリーダーが「いいわよ」とブラを脱ぎ捨て若手モデルたちもこれに続きました。大田記久さんのコレクションは韓国初のノーブラショーでした。いまでは笑い話、でも当時の韓国はまだかなり保守的でした。(ソウル訪問時デザイナー諸氏と面談、左は李信雨デザイナー)ソウル滞在中、私は繊維産業を統括する役所の役人、主要メディアの生活文化担当記者、業界団体リーダー、韓国の売り場でよく目にするブランドデザイナーらとたびたび懇談してCFDのこと、日本の市場環境などを話し、百貨店やアパレル企業など業界関係者にはセミナーを、ファッション専門学校の学生さんには講義をしました。半年後、韓国にCFDのようなデザイナー組織が誕生、さらにその半年後東京コレクションのようなソウルコレクションが初めて開催されました。ものすごいスピード感に私は驚きましたが、その背後にはリー会長の熱い思いと行動力があったのは言うまでもありません。そして、1990年韓国デザイナーの李信雨(イ・シンウ)さんが初めて東京コレクションに参加、翌91年毎日ファッション大賞新人賞を受賞しました。リー会長は軍人から男性モデルに転身した人でした。のちにモデルの育成とマネジメント会社モデルライン社を起業、ファッションイベントのプロデュースも始めました。韓国にCFDと同じようなファッションデザイナー組織とコレクション運営の母体を作りたい、韓国のモデルを東京コレクションの舞台に立たせたいという彼の夢はかないました。その後も金東順(キム・ドンスン。ブランド名ウルティモ)デザイナーを東京コレクションに参加させるなど、リー会長は日韓の文化交流に尽力しました。(キム・ドンスン2014年秋冬 ソウルコレクションにて)しかし、彼の父親は第二次大戦中に日本軍兵士に過酷なリンチをされたそうですから、心の底から親日的ではなかったかもしれません。それでも日本のデザイナーを度々韓国に迎えてファッションショーを開き、李信雨さんに続けて金東順さんを東京コレクションに派遣、多くの韓国モデルに東京コレクションで経験を積ませました。我々の話を真摯に受け止め、デザイナー組織とソウルコレクションを立ち上げ、現在東京コレクションを主催している日本ファッションウイーク推進機構の韓国における広報活動でも手助けしてもらいました。このブログシリーズの前半で書いた原口理恵基金「ミモザ賞」(日本のファッションを陰で支える人を表彰)をリー会長は受賞していますが、それは彼が誠心誠意日韓文化交流に力を注いだと選考委員の皆さんが評価したからです。韓国訪問時セミナーや講義を数本こなして最後のディナーを共にしたあと、リー会長は銀行の封筒に入れた分厚い日本円札束を講演料として私に渡そうとしました。「あなたのために来たのだから、これを受け取ったら友達ではなくなるよ」と封筒を突っ返したら、リー会長は歩道の真ん中で顔をくしゃくしゃにして大泣き、こっちまでもらい泣きしそうになりました。(大事にしているお守り)でも、彼がプレゼントしてくれた小さな手製のお守りだけは遠慮なく記念にいただきました。米粒に小さな漢字を描く韓国アーティストが作ってくれた長さ3センチの薄い象牙プレート上に極小漢字で書かれた漢詩、一体何と表記されているのか私にはわかりません。リー会長が「お財布に入れておいてください」というので、もう30年以上ずっとカードホルダーに入れて携帯しています。韓国からのお客様と会うたび、私はこの贈り物を自慢げに見せてきました。近年、日韓関係は最悪の状態。日本では韓流ドラマはいまも人気、韓国ミュージシャンは熱狂的ファンを日本で増やし、新大久保のコリアンタウンは賑わっています。しかしここ数年は政府首脳会議も開かれず、近くてかなり遠い国になりました。韓国のファッション事情も以前ほどには入ってきません。リー会長のような人がいろんなジャンルで現れ、韓国との距離を短縮してくれたらいいのにと思います。
2022.09.06
8月18日田園調布のカトリック教会で山縣憲一さんの葬儀があり、参列させていただきました。このブログを読んでくださっている三越OBから連絡があり、11日午後病院で亡くなったことを知りました。祭壇のご遺影を眺めながら、三越本社での最初の出会いからニューヨーク駐在時代、三越本社、そしてパロマピカソ、グッチ、ロロピアーナ時代のことをあれこれ思い出し、涙が出てきました。1週間前のオフクロの死に涙は出なかったのに。告別式のお知らせを読んで、45年間私は大きな勘違いをしていたことが判明しました。帰国以来ずっと「山懸憲一」と思って年賀状や手紙を送ってきましたが、本当は「山縣」でした。三越本社で紹介された半年後、三越の初代ニューヨーク駐在員との名刺交換は英語、考えたら日本語の名刺をもらったことがなく、勝手に「山懸」だと思い込んでいたようです。「太田、違うぞ」と言ってくれなかったので45年間気がつかず、葬儀当日に間違いがわかるとは皮肉なものです。葬儀で繊維商社香港支店で鳴らした弟さんがご遺族挨拶の中でもおっしゃっていましたが、山縣さんはいつも人に媚びることなくマイペース、自分が納得しないことには動きません。だから山縣さんのメールアドレスはmyway-charlie@だったとか。三越事件で世間を騒がせた岡田茂社長(当時)とその愛人だった「三越の女帝」竹久みちの要求に屈しなかった山縣さん、彼らに追放される寸前に社長の解任と特別背任罪逮捕があって間一髪助かりました。ニューヨークオフィスの買付商品を竹久の会社オリエント交易を通さなかったので目をつけられ、それが理由で帰国命令が出たときに繊研新聞ニューヨーク通信員でもある私に詳しく話してくれました。もちろん記事にはしませんが、三越はとんでもない状況になっているとこのとき知りました。名古屋三越の店次長だったときも、セミナーで出張した私と早めのディナーに合流、心配して「お店は大丈夫なの」と訊いたら、「今日は休みにしたよ。嫌いな役員が本社から来るからさ」。岡田天皇にも三越の女帝にも屈しなかった、上司にゴマスリできない性分を知っているから三越の部下や取引先ブランド企業にも慕われていました。帰国して三越本社のファッション部隊に配属され、国内のDCブランド導入に奔走した話は以前ブログで書きましたが、この頃のエピソードをもう一つ。ビギ、ニコルをはじめ多くのブランドを導入しはじめた山縣さんにとって最も交渉難航したのが某デザイナー企業でした。パリの有力メゾンで修行中だった若きデザイナーに当時ブランドと提携関係にあった三越のパリ駐在員は、三越のスタッフでもないのに「明日までにコレクションのスケッチを(大量に)描け」と命じるなど、極めて横柄な態度で接したそうです。将来自分のブランドを立ち上げたら絶対三越とは取引しない、若きデザイナーはそう決心するくらい駐在員は酷かったとか。山縣さんと交渉するこの企業の営業担当は山縣さんの人柄もあって三越との取引を進めたかったようですが、パリ修行時代に嫌な思いをしたデザイナーご本人の了解はなかなか得られません。東京ファッションデザイナー協議会発足直後、山縣さんは「太田から話してくれないか」。デザイナーの気持ちはよくわかりますし、もし私がその立場なら嫌な会社からの話は断るでしょう。しかし、アニキ分から頼まれた私はタイミングを見計らってお願いしました。「友人の山縣は三越らしくないいい男なんです、一度話だけでも聞いてやってくれませんか」、と。恐らくいきなりコレクションブランドというわけにはいかなかったのでしょうが、別ブランドで三越との取引は始まりました。その後三越仙台店長だった中村胤夫さん(のちの三越社長)が一生懸命後発ブランドの導入交渉をするなどして三越との関係は密になり、いつの間にか三越は国内で重要な取引先になりました。山縣さんと当時の営業担当や役員たちの信頼関係があったからこそ実現したことです。弟さんのご遺族挨拶でもう一つ謎が解けました。グッチジャパンに転職する経緯です。バーニーズジャパン初代社長の田代俊明さんが伊勢丹の小柴社長に辞表を提出した日、私は田代さんを荒木町の日本酒居酒屋に誘い、三越の山縣さんも交えて会食しました。このとき田代さんがグッチジャパン社長に就任することは決まっていたようですが、紹介した山縣さんを田代さんがグッチに連れていった思っていました。が、三越を退職してから次の職が決まっていなかった山縣さんにグッチから誘いがあった、どうやらこれが真相のようです。また、その後グッチ本社の社長の推薦があって山縣さんはロロピアーナ日本法人の社長に就任、ほかにもアメリカのいくつかのブランド企業から日本法人社長を打診されていました。長いものに巻かれない性格、ニューヨーク駐在の経験もあったので外資企業からは誘われない方がおかしいでしょうね。私がブランド企業の社長を退任する際に八雲茶寮で慰労会を開いてくれたのが山縣さん、バーニーズで田代さんの部下だった有賀昌男さん(エルメスジャポン社長)、デザイナーの皆川明さんと私の教え子たち、ありがたい業界仲間です。山縣さんとはニューヨークでも東京でも何度もご馳走になりましたが、葬儀でご遺影を眺めながらなぜか八雲茶寮の慰労会のことを思い出しました。いまはただご冥福をお祈りするのみ、山縣さん長い間ありがとうございました。
2022.09.06
前項で書いたペリーエリスのデザイナーだったマーク・ジェイコブスさんの来日は、WFF(ワールド・ファッションフェア)を主催する実行委員会からの要請を受け、私が直接交渉したものでした。実行委員会は京都、神戸、大阪の商工会議所、3都市、3府県、関西のファッション業界を統括するトータルファッション協会の幹部で構成されていました。今日はこのWFFに関する交流について書きます。今年もNHKスペシャルはインパール作戦。第二次大戦で最も無謀と言われた日本軍の作戦、戦死者3万人の多くはイギリス軍との戦闘ではなく撤退時の餓死と病死でした。私の父は奇跡的に帰還できましたが、戦友はたくさん亡くなりました。部隊は三重県久居と京都市の兵隊で構成され、戦後しばらく現地収容所で捕虜暮らし、このときミャンマー人が食糧などを提供してくれて助かり、戦後恩返しのつもりで京都大学のミャンマー人留学生を父たち元捕虜は支援していました。ワコールの創業者である塚本幸一さん(1920年〜1998年)もインパール作戦の生き残り、おそらく父たちの部隊と同じ命令系統の師団の所属だったと思います。帰還した塚本さんは畑で進駐軍に乱暴されている女性を目撃、日本の女性のために社会貢献しようとワコールを設立したと聞いています。塚本幸一さんが京都商工会議所ファッション部会委員長に就任した際、ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムで開催されていた20世紀初頭のコスチューム展「インベンティブ・クローズ1909〜1939」をそのまま招聘してはと三宅一生さんに勧められ、塚本さんらは1975年にこれを招聘、京都国立近代美術館で「現代衣服の源流展」として開催しました。大学生のファッション研究団体を主宰していた私はこの展覧会を見るため二度京都に足を運び、マドレーヌ・ヴィオネ、ポール・ポワレ、エリザ・スキャパレリ、ココ・シャネルの服を初めて見ました。ヴィオネの展示室にあったステッチの歪んだ古いドレス、遠くで見れば彫刻のように美しい、近くで見れば色褪せた布切れ、この誤差の間に意味があるのではと釘付けになり、男子一生の仕事としてファッションの世界で働いてみようと決めました。大袈裟に言えば私にとって「運命の服」でした。1983年京都商工会議所13代会頭になった塚本さんと初対面のとき、自分の進路を決めた運命の服は塚本さんが招聘した展覧会のヴィオネ、展覧会の緑色のポスターはいまもはっきり覚えています、と伝えました。若かった私の人生を変えたくらい服の展覧会にはファッションショーとは別のパワーがありましたから。ワコールが所有する南青山スパイラルビル上層階にあるゲストルーム、ここで大阪商工会議所会頭の佐治敬三さん(サントリー社長)と京都商工会議所会頭の塚本幸一さんと初めて会いました。両会頭の要件は、京都、神戸、大阪の商工会議所、市役所、府県が計画していたWFF’89の協力要請でした。会談の冒頭「ワシら、実は仲悪いんですわ」と佐治さんが切り出し、呼び出された私はこのストレートなものいいに戸惑いました。京阪神はそれぞれ歴史があり、対抗意識も強く、決して仲が良いわけではないと佐治さんは正直におっしゃる。「どうやらみんなが個別にあなたのところに相談に行っている。あなたが助けてくれたらWFFはうまく行く。面倒みてくれませんか」。佐治さんが「大阪がね」と発言するたびに塚本さんは「佐治さん、大阪やない、京阪神と言いなはれ」と忠告、なんともおかしな協力要請でした。京都ではオープニングイベントとして1800人が入場可能な大規模シンポジウムを企画。当初塚本さんの頭の中にはパリ、ミラノ、ニューヨークから有名デザイナーが参加する華やかなシンポジウムと、派手なパフォーマンスのオープニングパーティーがあったようです。華麗なファッションショー以上に地味な展覧会が観る人々に感動を与えることがある、それが言いたくて私は塚本さんが招聘した「現代衣服の源流展」がいかに自分の心に響いたかを説明し、プログラム編成は任せてもらいました。最終的にシンポジウム案は基調講演と討論会の二部構成。一部の基調講演は西武セゾングループ代表の堤清二さんにセゾングループ発展の軌跡をお願いしました。講演の中で堤さんが何度も「サイカ」と発言、終了後記者団が楽屋に来て「サイカ」はどういう漢字なのかと質問がありました。これからはますます「際化」が顕著になるというお話だったのを覚えています。二部、ものづくりとクリエーションを考えるデザイナーの討論会でした。ものづくりという点で突出しているイタリアからは3Gのビッグネームではなく当時伸び盛りのロメオ・ジリさんを、イタリアを目指してモノづくりで成長著しいスペインから若手成長株シビラ・ソロンドさんを、東洋のものづくりの拠点香港からはレイジェンス・ラムさん、そして香港のような繊維立国を目指すインドからアシャ・サラバイさん、開催国として日本は代表格の三宅一生さんが登壇する企画でした。この企画書を手渡したとき、三宅さん以外の名前をご存知ない塚本さんはご自身の考えと異なる企画にキョトン、でも説明したら納得してくれました。次にレセプション、「現代衣服の源流展」では同展覧会のプロデューサーであり元ヴォーグ名物編集長だったダイアナ・ヴリーランドさんの前に現れた大きな箱の中からお相撲さん二人が登場し、来日した彼女を喜ばせたと聞いています。が、今度は「利休」をコンセプトにしますと塚本さんには事前に伝えました。この年は千利休の映画が2本封切りされたので「利休」としました。準備のため会場となった京都宝ヶ池の国際会議場には東京コレクションの舞台美術を担当するシミズ舞台工芸のスタッフと共に何度も足を運んでさまざまな実験をしました。当日の夕暮れ、シンポジウムが終了する直前、国際会議場の池のまわりには映画撮影所などから借りてきた松明を燃やす台座100台に一斉点火、炎が水面にユラユラ舞う、なんとも古都らしい幻想的な光景でした。特別な照明、レーザー光線、音響の演出はいっさいありません。料理は全て和食(国際会議場オープン以来和食オンリーは初めて)のフィンガーフード、これならお皿も箸も不要、参加者間の会話は弾みます。ドリンクは透明なもののみ、ペリエ、白ワイン、冷酒だけを用意、ビールもウイスキーもあえて提供しません。ロングスカート姿のコンパニオン女性ではなく、サーブするのは白シャツ、黒パンツの男性ウエイターでした。このとき塚本さんから「利休の意味がよくわかりました。京都のメンツが立ちました、ありがとう」とものすごく感謝され、実行委員長のキング山田幸雄社長ら京都の企業幹部たちもかなり喜んでくれました。そもそも通商産業省が繊維ビジョンでうたったイベントのWFFとハコモノのFCC(ファッション・コミュニティーセンター)構想には反対だった私、結局WFFをお手伝いすることになりました。父同様インパール作戦から帰還した人というだけでどうしても特別な思いになり、現代衣服の源流展に感化された私としては塚本さんに恩返しをという思いもありました。が、東京に先行してWFFを開催した京阪神をサポートしたことで、東京の財界関係者からは恨まれました。WFFの準備のため毎月1、2度京都出張しましたが、塚本さんには祇園のあるバーによく連れて行ってもらいました。ここで何度も顔を合わせたのが京セラ創業者の稲盛和夫さん(塚本さんのあと京都商工会議所14代会頭に就任)でした。創業数百年企業がたくさん存在する京都にあって、塚本さん、稲盛さんの会社は新興企業の部類、伝統を重んじる京都財界では窮屈な場面もあったのでしょうね。新興勢力のお二人が古参経営者たちから隠れてストレス発散することができるアットホームなお店、塚本さんは滅多にできない経験をさせてくれました。現在の京都商工会議所会頭は17代目塚本能交さん、お世話になった塚本幸一さんのご子息、ワコールホールディング会長です。塚本会頭には父上が手がけたようなファッション分野での文化的啓蒙運動をしてほしいです。参照:https://www.kci.or.jp https://ja.wikipedia.org/wiki/塚本幸一
2022.09.06
ペリー・エリスが亡くなった翌年、CFDA(米国ファッションデザイナー協議会)はその年度に活躍した米国デザイナーに贈るCFDA賞に新人若手部門「ペリーエリス賞」を新たに設置しました。最初の受賞者はマーク・ジェイコブス、パーソンズを出たばかりのピカピカの新人でした。マーク・ジェイコブスをデザイナーとしてデビューさせたのはオンワード樫山の米国法人、その支援なしにこんなに早く有名にはなれなかったでしょう。翌1988年、マーク・ジェイコブスは25歳の若さでペリーエリスブランドのクリエイティブディレクターに就任します。私は就任直後にオフィスを訪ね、京都、大阪、神戸3都市が共同開催するWFF(ワールド・ファッション・フェア)のために来日し、ペリーエリスのファッションショーをやって欲しいと打診。大阪商工会議所会頭だった佐治敬三さん(サントリー社長)に頼まれ、私はロンドンとニューヨークのデザイナー招聘交渉を引き受けていましたから。(WFF'89レセプションにて)上の写真は1989年11月、WFF'89のために来日してくれたマーク・ジェイコブスと私、このときマークは26歳でした。パリからはソニア・リキエルとカール・ラガーフェルド、ミラノからはジャンフランコ・フェレとミッソーニと大御所デザイナーが参加でしたから、ロンドンから招聘したジャスパー・コンラン(30歳。英国育ちながらニューヨークのパーソンズ出身)とニューヨークのマーク・ジェイコブスは際立って若い次世代デザイナーでした。ホテルのロビーで目の前をソニア・リキエルが通りかかったときでした。マークは冗談まじりに「あの大きな鼻をかじってみたい」、と。ソニアはその立派な鷲鼻が特徴でしたが、マークはソニアご本人に鼻のことを言いそうな気配、私はマークから目が離せませんでした。現在のマークはまるで大学教授のようなインテリ風貌ですが、あの時は「悪戯坊主」そのものでした。1992年マークはペリーエリスで「グランジファッション」を打ち出して注目され、CFDA賞婦人服部門で最優勝賞(Designer of the Year)を贈られ、トップデザイナーの仲間入りを果たします。デザイナーとしての評価は上がりましたが、ペリーエリスの顧客層にグランジスタイルは賛同を得られなかったのでしょう、その後コレクションブランドとしてのペリーエリスは消滅しました。ペリー・エリスへの思い入れが強い私はブランド廃止を知って、「やっぱりあの悪戯坊主には無理だったんだ」と思いました。創業者が作り上げた世界観を守りつつ後継者が新しさを表現するのは容易はありませんが、マークが手がけたペリーエリスもビジネスとしては成功とは言えません。ところが、1997年ビッグニュースが飛び込んできました。フランスのルイヴィトンがクリエイティブディレクターに米国人のマーク・ジェイコブスを指名、これにはびっくり仰天でした。ルイヴィトンはマークを迎えて初めてプレタポルテの製造販売にも乗り出す、ペリーエリスのことがあったので率直に言って「無理じゃないか」と思いました。が、マークはフリーハンドでクリエーションができたからでしょうか才能全開、伝統あるバッグブランドに新しい息吹きを吹き込みました。新作プレタポルテのみならず、村上隆さんやスティーブン・スプラウスとのコラボは悪戯坊主だからこその柔軟な発想、本領発揮でした。ちょうどその頃、百貨店の研究所長だった私は銀座店の大改装を計画していました。マークを迎えてプレタポルテに着手し、バッグや靴のバリエーションも増えたルイヴィトン、ダイナミックにトータル展開するブランドとしてはベストと判断、日本でも最も品揃えのいい大型店の導入交渉を社長に提案しました。もしも大改装計画時点でマーク・ジェイコブスの就任とプレタポルテの発売がなかったら、私たちは別の選択をしていたかもしれません。マークのルイヴィトン就任はまさしく我々にはグッドタイミングでした。(松屋の壁面をフルに使ったルイヴィトンのプロモーション)銀座中央通りに大型のルイヴィトンがオープンしたあと、2001年マークはニューヨークのスティーブン・スプラウスとコラボしてグラフィティーロゴのバッグを発表、続く2002年には村上隆さんとの長期間コラボがスタート、ありがたいことにマークがリードする新生ルイヴィトンは大ヒット、我々の予想をはるかに上回る売上でした。2011年3月11日の東北大震災と原発事故の直後、私たちは全館チャリティーイベントを企画、3月20日に世界各国のお取引先やデザイナーの皆さんにオークションへの出品や特別商品の提供をお願いしました。パリコレが終わったばかりのマークはルイヴィトンのパリオフィスでこの連絡を受け取り、パリコレで発表したばかりの1点もの新作サンプルに自筆サインを入れて送ってくれました。さらに、ニューヨークに戻って今度はマークジェイコブスのバッグにも自筆サインを入れて送ってくれましたが、その連絡がニューヨークから入ったとき私の部下たちの目には光るものがありました。あのときの悪戯坊主は大化けして天使の如き存在になっていました。WFF'89の交渉人だった私がチャリティーオークションを依頼した企業の幹部とは知らずに送ってくれたのですが、不思議なご縁を感じます。(2012年秋冬マークジェイコブス)近年のマークは若手デザイナーを発掘、チャンスを与える業界メンターでもあります。昨年度「毎日ファッション大賞」を受賞したトモコイズミ(小泉智貴さん)の名を世界に知らしめたのもマークでした。ネットで小泉さんの仕事に注目したマークは場所を提供するからニューヨークでコレクション発表をやってみないか、と小泉さんに声をかけました。米国を代表するデザイナーが声をかけた日本の新人デザイナーとなれば当然メディア関係者は注目します。カラフルなラッフルを多用したトモコイズミは一躍高い評価を得、有名女優やアーチストから衣裳製作の依頼が急増、ブランド企業からはコラボの話が来るようになりました。すごい影響力、脱帽しかありませんね。(Wikipediaより抜粋)参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Marc_Jacobs
2022.09.06
1985年4月当時カルバン・クライン、ラルフ・ローレンと並ぶニューヨークファッション御三家デザイナーの一角だったペリー・エリスにアポを入れ、7番街パーソンズの校舎の向かい側にあったオフィスを訪ねました。今度帰国したらしばらくニューヨークには戻って来ないかもしれない、別れの挨拶のつもりでした。「最近、来てくれなくなったね」と言われたので、有名になったデザイナーにアポを入れるのがどれだけ大変なことかを説明したら、表情が曇り、その寂しそうな目はいまも忘れられません。このときが本当に最後の面談になろうとは想像してはいませんでした。私が帰国して1年後の1986年秋冬コレクション、モデルたちに抱えられてなんとかフィナーレに登場したペリー・エリスはそのまま病院に担ぎ込まれ、その直後帰らぬ人となりました。死因はエイズ。デビューからたった9年の短いデザイナー活動でしたが、米国ファッションのトレンドセッターとして華々しく活躍、デザイナー組織CFDA会長のままの逝去。デザイナー仲間はCFDA賞に新たに新人賞部門を設け、ペリーエリス賞と命名したくらいです。(広報用に使っていた顔写真)1977年、私が大学を卒業してニューヨークに渡った同じ5月、ペリー・エリスは大手アパレル企業マンハッタンインダストリー社の子会社のそのまた1部門「ポートフォリオ」というブランドでデビューしました。ニューヨークに来てまだ1カ月程度で英語も満足にしゃべれない私でしたが、デビューしたばかりのデザイナーに思い切ってインタビューを申し込みました。訪ねたオフィスは非常に狭く、差し出された椅子に座ろうとした瞬間私はデスクの上に置いてあったニット糸入りのビーカーを引っかけ床に落としてしまいました。のっけからビーカーを割るへま、英語もまだよくわからない、当然私はあがってしまってインタビューどころではありません。それを見かねて、ペリーはゆっくりと丁寧に私の質問に答えてくれ、あとで録音テープから原稿起こしするとき非常に楽でした。このビーカー破損の一件で印象に残ったのか、以来とてもフレンドリーに付き合ってくれ、シーズン追うごとに親密になりました。ポートフォリオはコレクションを発表するたび大きくメディアに取り上げられ、有力百貨店にはインショップ形式の売り場がどんどん増え、私が訪ねるたびにオフィス、ショールームは拡大、スタッフも急速に増えました。誰の目にもペリー・エリスはニューヨークコレクションの新星そのもの、ブランド名もペリーエリスに変更され、ポートフォリオはのちにセカンドラインとして再登場しました。ある日ペリーから相談があると呼ばれました。アメリカに本部があるファッション業界で活躍する女性たちの組織「ザ・ファッション・グループ」の日本支部(このブログの前半に書いた鯨岡阿美子さんらが設立)からゲストデザイナーとして東京のファッションショーに招聘されている、これを受けるべきかどうか、と。人気急上昇の新進デザイナー、すでに日本の6社から提携の誘いがきていましたから、「自分の目で相手先を調べるチャンスじゃないか。絶対に受けるべき」と訪日を勧めました。ちょうど同じタイミングで短期帰国する予定があったので、私は東京で会食する約束をしました。待ち合わせた銀座のレストランに行ったら、アシスタントたちが「ペリーは出かけているのでここに電話して呼び出してほしい」。メモ書きされた番号に電話したら、それは某大企業の社長宅でした。大手百貨店のアドバイザーもなさっていた奥様が個人的に自宅に招待、そこでディナーのつもりだったようです。奥様に会食の予定があることを説明、銀座まで彼を送ってもらうことになりました。30分ほど待っていると、ペリーを乗せた車が到着。奥様が車から降りてきて、「ディナーの先約は誰なのか見に来ました。あなただったのね」とやんわりイヤミを言われました。時々ニューヨークのファッションショーの客席でお見かけする奥様は私のことをうっすら覚えていました。正直、怖かったです。こうして遅れて始まったディナー、今後日本とはどういう形でビジネスするのが良いのか、ディナーそっちのけでペリーは意見を求めました。既にライセンス提携でブランド導入されている米国デザイナーの売り場を見てまわり、デザイナーのオリジナルコレクションとはクオリティーもデザインも異なる実態にペリーは困惑していました。「みんな実態を知っているのだろうか。よく我慢していられるね。僕は素材もデザインも変更しない会社と組みたい」、とはっきり言いました。特定百貨店のプライベートレーベルの話は一旦断り、素材もデザインも変更しないと約束する会社をライセンス提携のパートナーに選んで各都市で一番相応しい百貨店の売り場でインショップ展開する、あるいはオリジナル商品をそのまま輸入販売する代理店との契約か、どちらかしかないとアドバイスしました。このディナーで日本でのビジネスの基本方針を決めてペリーはニューヨークに戻り、百貨店数社からの提携申し込みを断りました。そして、私は大阪に本社がある専門商社八木通商をペリーに紹介し、二代目の八木雄三さん(のちの社長)にデザイナー本人がどういう取り組みを希望しているか、ほかのニューヨークブランドの日本展開の問題点を説明しました。このとき八木さんからまだ新人の部類のペリー・エリスの将来性を質問されたので、「近未来絶対大きく化けると信じています」、と回答。それを聞いて、八木さんは製造販売を担当するアパレル企業がまだ決まらない段階で契約書にサインしました。(ジェフリー・バンクス氏の著書表紙)サインしてから数カ月後、婦人服の製造を請け負うサブライセンシーは国内最大手アパレルだったレナウンに決まりました。最大手なのでものづくりの姿勢が心配でしたが、レナウンはペリーエリスのMDに自社のMDを同行させてヨーロッパで素材発注し、担当パタンナーをニューヨークのアトリエに長期滞在させてオリジナルパターンをグレーディング、オリジナルと全く同じ素材、同じデザインを市場に投入しました。当時米国ブランドのライセンス事業でそこまでオリジナルを忠実に再現した例はありません。ペリーのアシスタントが、「日本のペリーエリスの方が縫製丁寧で価値がある」と言うくらい、レナウンはペリーが望むライセンス事業を生真面目に進めました。また、マスターライセンシーの八木通商は急成長するペリーエリスの日本パートナーになったことで米国デザイナーたちの信頼を得、日本製素材の対米輸出事業を大きく伸ばし、ほかのライセンス提携交渉が楽になりました。加えて、ペリーエリスとリーバイスが提携した大型プロジェクト「ペリーエリス・アメリカ」にも大量に素材を供給、ペリー・エリス効果はかなり大きかったようです。ペリー・エリスで思い出すのは高田賢三さんのこと。デザイナーになる前ペリーは地方百貨店の婦人服バイヤーでしたが、会うたびに「アメリカのバイヤーはケンゾーの本当の良さを理解していない」と私に言いました。売れっ子デザイナーは同業デザイナーのことをめったに褒めませんが、ペリーは自分がいかにケンゾーを尊敬しているかを隠そうとはしませんでした。また、ニューヨークのライバルたちのことも批判しない、デザイナーとしてはレアな人でした。デビュー月から8年間私はニューヨークで取材活動をしていましたから、ペリー・エリスがシーズンを重ねるごとにどのように成長していったかを傍で見てきました。私の8年間は彗星のごとく現れ消えていった人気デザイナーと共にあったと言っても過言ではありません。とりわけ印象的な出来事は、戦後の米国ファッション史を語る上で欠かせない「コティ賞」の消滅です。あれは1978年、エディターの誰もが受賞を信じていたペリー・エリスがどういうわけか落選、その夜の残念パーティーでハグしながら「来年があるさ」と言って本人を慰めたことをよく覚えています。翌朝、新聞各社が一斉に騒ぎ出し、過去の不可解な結果にも言及、選考プロセスに対する批判が浴びせられました。もしもペリーが大方の予想通り受賞していたら、現在もコティ賞は米国デザイナーの仕事を顕彰する唯一の賞として続いていたかもしれませんが、コティ賞はあっけなく消滅、現在のCFDA賞が誕生しました。(お子さんタイラー誕生後に逝去)ペリーはゲイでした。ペリーが亡くなる半年前に弁護士だったパートナーは亡くなっていますが、ペリーが亡くなる寸前、ペリーと西海岸在住の女性との間に子供が生まれました。どうしてかはわかりません。数年前ネット検索していて、ペリーの遺児がバッグのデザイナーとして活躍していることを初めて知りました。タイラー・エリスさん、ペリーの面影があります。アカデミー賞授賞式などで女優たちが小さなバッグを手にしている写真が何枚か彼女のHPにアップされています。あのときのお子さんがこうしてデザインの世界で活躍している、嬉しいですね。(バッグデザイナーのタイラー・エリス)活動期間が極端に短いデザイナーなので、ペリー・エリスの存在を知っている日本人は少なくなりました。でも、全盛期のカルバン・クライン、ラルフ・ローレンと肩を並べる勢いのあるデザイナーでした。シャネルのデザイナーに就任したばかりのカール・ラガーフェルドは専門紙WWDの取材に対して、「アメリカで評価するのはペリー・エリスと(スエットの女王)ノーマ・カマリかな」と答えていました。ジャーナリストやバイヤーの皆さん、ぜひ図書館でペリー・エリスの仕事を調べてください。
2022.09.06
5年前から「建築学生ワークショップ」(学生NPO法人アートアンドアーキテクトフェスタ主催)のお手伝いをしています。伊勢神宮、出雲大社、東大寺、明治神宮と続いて今年は宮島の厳島神社開催、建築を学ぶ全国の大学生、大学院生がエントリー、無作為に編成されたチームに分かれ開催地の歴史や地理的背景、周辺の生活や文化を調べ、チームごとにデザインしたフォリー(装飾用の建物)を自分たちで建てるプログラムです。私が参加する以前は比叡山、高野山、琵琶湖の竹生島、明日香村でも開催されました。(建築学生ワークショップ2020 東大寺にて)チーム編成が決まると、開催地のリサーチをしてフォリーのコンセプト、デザインの方向性、敷地内のどの場所に、どんなフォリーを建てるのか、4、5人のチームで議論、フォリーの小型模型を作って中間審査、そこで建築家平沼孝啓さん(NPOの代表理事)や大学の先生たちの講評を受けます。各チームにはゼネコンや設計事務所の専門家アドバイザーが付いて協力、1ヶ月半後現地で1週間合宿して4メートルほどのフォリーを組み立てます。これを再び講評者が批評、毎回先生たちは辛口ながらも愛情溢れるコメントをします。専門家アドバイザー、仲間たちとチームとして共同作業することで、建築の仕事がチームの力で成り立っていることを参加学生は体感、これが一番の成果でしょう。こういう学校の枠を超えた実践教育、ファッションデザインの世界でもできたらいいのに、といつも思います。学校ごとではなくバラバラのチーム編成、産地あるいはメイン素材を決め(例えば尾州・ウールあるいは北陸・高密度ポリエステルなど)、チームごとにコンセプトを考え、協力企業から素材の提供を受け、自分たちで素材を加工、パターンを引いて数点のコレクションを作り、それをデザイナーやバイヤー、エディターらの講評を受ける。個人エントリーではなく、素材供給先、パタンナー、デザイナーが協調して作業することの重要性を実感してもらう。建築学生ワークショップのような実践プログラム、ファッションの世界でもできないでしょうか。実践的なデザイン教育で思い出すのは、ニューヨークParsons School of Design(通称パーソンズ。現Parsons The New School for Design)で長い間ファッションデザイン学部長をしていたフランク・リゾーさんが指揮した「クリティック」(批評家)と呼ばれる授業です。パーソンズはファッションの総合大学ではなくデザインの総合大学、インテリア、グラフィック、環境デザインなどの学部があってファッションデザイン学部はそのひとつ。(Parsons School of Designファッション学部)シニア(四年生)学生は7、8人のチームに分かれ、師事するデザイナーが決まります。例えば、ダナ・キャランさんに師事するチームであれば、まずダナキャランブランドの歴史、基本コンセプト、デザインの特徴、客層や売り場など細かく調べます。その上で、いま自分たちがダナキャランのアトリエで働いているアシスタントデザイナーとして、次のシーズンに向けて各自が新作をデザインします。この時点でダナあるいはチーフアシスタントの批評を受け、修正すべき箇所は描き直します。デザインが決まったら、立体裁断でパターンを作ります。ここでも批評、アドバイスを受け、考案したデザイン通りの服になるよう修正し、ダナキャランのアトリエから素材提供を受けます。こうして服を完成させたところで、最終的な批評を受けます。素材や後加工、縫製仕様などをチェックされ、「こんなに手の込んだ作り方をしていたら小売価格は相当高くなる。売れると思うの?」、「こんな少女っぽいレースをダナキャランは絶対に使わない。客層が違うでしょ」といったやりとりがあります。最後の卒業ファッションショーには、クリティックで指導した主なファッションデザイナー、アパレルやテキスタイルメーカー幹部、小売店トップら千人以上のV.I.Pが正装で参加しますが、この場で学生たちはクリティックで創作したコレクションをV.I.Pに見せ、各チームの最優秀学生がここで発表されます。クリティックが25チームあればファッションショーは25シーン、25人の最優秀学生の中から「Student of the Year」が決まります。このクリティックプログラムはデザイナー側と学生のお見合いの場でもあります。チームの中に良い学生がいれば、協力するブランド企業は卒業後自社への就職を勧めます。逆に言えば、優秀な学生を獲得するためブランド側は丁寧に学生と接し、素材の提供を惜しまず、パターンメーキングでも協力、密度の濃い産学協同の構図になるのです。(Frank Rissoさん)1994年ニューヨーク出張の折、リゾー学部長ら数名の先生たちと会食の約束がありました。パーソンズから徒歩数分ブロードウェイのステークハウスで待ち合わせたら、リゾーさんは1時間遅れてきました。クリティックで指導している有名デザイナーが翌日から長期バケーションの予定があって放課後も長時間学生を熱血指導、立ち合っていたリゾーさんは自分だけ退席できずディナーに遅れてきたのです。しかも、学生はこれから直すサンプルをバケーション先に送るよう師事するデザイナーに命じられた、とリゾーさんから聞きました。デザイナーや先生のこの熱の入れよう、まさしく産学協同です。リゾーさんはクリティックに協力してくれるデザイナーを自ら口説いてまわり、その指導方法を細かく伝え、学生を「お客さん」扱いしないよう厳しい指導を要請してきました。しかしリゾー学部長が引退すると、パーソンズの名物授業はやがて消滅、密度の濃いファッションデザインの実践教育は終わってしまいました。残念です。前述建築学生ワークショップは平沼孝啓さんが名所旧跡と場所の提供を交渉、現地の工務店や設計事務所、大手ゼネコンに協力要請をしてまわっているから継続し、数年先まで開催地が決まっていますが、こういう特別な実践教育は情熱あるリーダーがいないと成立しません。リゾーさんはよくこんなことを言っていました。「私は上手にデッサンしなさいと学生に言ったことはありません。1枚でもたくさん描くよう教えています」、と。1つの基本形を膨らませ少し角度を変えたデッサンをたくさん描くうちにコレクションの構成力、発想の広げ方が徐々に身につきます。ところが、日本人留学生はどういうわけか1点1点丁寧に描こうとするそうです。丁寧に描こうとして宿題提出が遅れるのは本末転倒、リゾーさんは「サボっていると判断します」とおっしゃっていました。普通に会話しているときは写真のような好々爺、でも一旦教育の話になると目の色が鋭くなり、熱い会話になりました。リゾーさんの片腕として当時パーソンズにはダナ・キャランたちから「ゴッドハンド」と評されたパタンメーキングの名手である並木ツヤ子先生がいましたが、並木先生もリゾーさんと全く同じ、教育の話になると突然鋭い目つきに変わりました。根っからの教育者がファッションデザイン学部を仕切っていた時代、ダナ・キャラン、マーク・ジェイコブス、アナ・スイ、トム・フォード、アイザック・ミズラヒ(恩師の並木先生をチーフパタンナーに据えたデザイナー)、ナルシソ・ロドリゲスなどパーソンズは多くのデザイナーを輩出しています。(出張時は私もParsonsで講義)リゾーさんのデザイナー育成方法を日本の専門学校の皆さんにも伝えようと、私は企画を担当していた「クエスト・ニュースタンダード・フォーラム」のゲストスピーカーにリゾーさんを招聘。ちょうどそのとき、ご近所の奥さんが高校3年生の娘さんの進路相談に訪ねてきました。デザイナー志望の娘にできれば最高の教育を受けさせたいとおっしゃるので、来日中のリゾーさんに引き合わせました。お嬢さんはパーソンズに留学、卒業後はラルフローレンのポロジーンズカンパニーなどでデザイナーを務め、米国人と結婚して日本には帰ってきません。在学中娘さんを訪ねた母親が、「宿題のあまりの多さにびっくりしました。徹夜しても完成しません」とおっしゃっていましたが、パーソンズ留学がご家族に幸せだったのかどうか....。(リゾーさん来日時に目白デザイン専門学校の校長ご夫妻と)
2022.09.06
経済産業省繊維課長の山本健介さんに「お手間はとらせません」と言われて協力することになった中小繊維事業者の自立支援審査、その申請書類の多さにはびっくりでした。民間審査官は揃って過去3年分の決算書一式と自立事業計画書に悪戦苦闘、細かい文字に目が痛くなるのを我慢しながらの審査でした。これまで産元商社やコンバーターの下請けをしてきた工場に、自ら販路開拓して海外、国内のアパレル企業に直接売り込む、あるいは直営店でエンドユーザーに販売する事業を計画しなさいというのですから、慣れない事業計画書を制作するのは大変、またこれを読んで採点する我々も大変でした。各審査官チームが約50社程度の案件を採点すると、今度は上位得点事業者の経営者全員を面接、本気で自立事業に挑戦しようとしているのかどうかを見極める作業がありました。中には、日本のものづくりを活性化するための補助金なのに、工賃の安い中国に工場を建設して低価格テキスタイルやニットを生産しようとする筋違いの計画もあれば、工場の改修工事に充てるための補助金申請だなという怪しいものもありました。最悪なのは、ラグジュアリーカーを購入する資金にするのではという輩も。審査官はみな「税金を無駄にしないぞ」と、まるで税務署の取り調べのような厳しいチェックでした。私のチームにも記憶に残る事業者が数社ありました。多くの事業者は単年度の申請でしたが、中には2年間継続事業に対する補助金要請をする経営者もいました。その一人が福井県坂井市の第一織物の吉岡隆治社長。これまでは主にヨットの帆に使う素材を内外に販売してきたテキスタイル会社が、ファッション用の素材として高密度ポリエステルをテコ入れし、海外トップブランドに売り込みたいという事業構想でした。極細ポリエステル糸を密度濃く織ると中綿のダウンは表面に出てきませんが、中国製の中途半端な高密度風ポリエステルは中のダウンが抜けます。店頭で「この素材は絶対抜けませんから」と説明しておきながら、後日お客様からダウンが抜けてきたとクレーム、百貨店の売り場マネージャーと一緒にアパレルメーカーの営業担当がお詫びに飛んでいったなんてことはよくありました。が、第一織物の高密度ポリエステルは高品質、ダウンが抜けてくることはありません。福井県の本社工場見学に行ったとき、吉岡社長から「我々の織物は味噌や醤油を作るのと同じ、手作りなんです。織機の写真は前から撮るのは結構ですが、背後からは企業秘密がバレるので撮影しないでください」と言われました。コンピューター制御の生産効率の良い織機を大量導入してはいますが、技術者が機械ひとつ一つに手を加えて生産効率よりも品質向上を優先している。これは尾州産地の中伝毛織やデニムのカイハラでも同じでしたが、優良メーカーは品質アップのため糸の送りを微妙にスローにしているのでしょう。第一織物の申請を採択して2年の支援が終わり、3年目も吉岡さんが審査部屋に現れました。ドアを開けた瞬間、正直言って「またこの人か」、吉岡さんも「またこの人が審査官か」だったでしょう。今度は高密度ナイロンを開発すると吉岡さんは説明し始めます。意気込みはわかりますが、3年も続けて同じ会社、当然ハードルは高くなります。しかし、試作品を手に取って驚きました。これならヨーロッパのラグジュアリーブランドがきっと使いたくなる代物、私たち審査官は再び合格としました。ダウンジャケットで世界的ブランドに成長したモンクレールとガッチリ組むことになった素材がこれでした。ヨーロッパの人気ブランドとのビジネスがスタート、第一織物の売上は海外80%、国内20%になりました。海外80%の中には広大な中国市場を攻める韓国アパレルブランドも含まれます。「韓国ブランドが使ってくれるのに、日本のアパレルさんは値段の話ばかり、(値段が高いので)一向に使ってくれません」、吉岡さんと見本市会場で顔を合わすたび愚痴られますが、経産省山本課長が自立支援事業で意図した製造業者が自ら海外に売り込んで成果を上げた代表的事例になりました。吉岡さんがヨーロッパに商談に行くたび、ブランド側は毎回価格の話をするそうです。近隣の北陸合繊メーカーの中には同じ織機を使って同じようなテキスタイルをもっと安く提供している会社もあります。ブランド側は第一織物の微妙な風合い、触感の違いを十分理解した上であえて知らん顔して価格の話をする、優秀なMDなら普通の交渉術です。こういう場合、これまで多くの日本企業や代理店はビッグブランドの値引き交渉に応えようと電卓をたたきましたが、吉岡さんは「だったら他社に行けばいい」と強気の交渉をしています。官民投資ファンドクールジャパン機構の社長時代、欧米輸出を計画している事業者に、「オマケしない姿勢を貫かなければクールジャパン事業とは言わない」と私は値引き交渉を突っぱねることが今後日本企業には重要なことと説いてまわりました。まさに第一織物はテキスタイル分野のクールジャパン事業者、おまけしない姿勢は立派です。2013年末クールジャパン機構発足直後、初代内閣府クールジャパン戦略担当大臣だった稲田朋美さんに就任ご挨拶に伺いました。この日稲田さんはソマルタ(廣川玉枝デザイナー)のセカンドスキン(編みタイツ)を着用でした。大臣は福井県選出衆議院議員、だから福井県鯖江市の吉田産業が製造する経編ニットのタイツを愛用しているものと思ったら、大臣はソマルタのことはご存知でもそれが福井県の工場が製造しているとはご存知ありませんでした。「それは鯖江の会社です」、と説明したら飛び上がらんばかりに大喜び。鯖江の眼鏡をかけて歩く広告塔をなさってますから。私は続けて「福井県には世界に通用する優れた繊維メーカーがほかにもありますよ」と、第一織物とモンクレールのこと、千駄ヶ谷にもショールームがあると申し上げました。数日後大臣から千駄ヶ谷のショールームに行きましたとメールが届き、写真が添付されていました。写真は、第一織物が独自に開発したオリジナル高密度ポリエステルのダウンジャケットを着た安倍総理と稲田大臣のツーショット。安倍総理が東北の被災地視察に出かける際、雨にも風にも強いこのダウンジャケット着用を稲田さんが勧めたそうです。もうひとり、経産省自立支援事業の面接で記憶に残る経営者がいます。愛媛県今治市の渡辺パイル社長だった渡邊利雄さんです。申請書の自社紹介欄に某ブランド企業との取引があると記載があり、「この会社のどのブランドと取引しているんですか」と訊ねたら、「そこまではわかりません」。コンバーターが中間に入っていたのか、それともどのブランドの生地作りなのか関心がなかったかのはわかりませんが、これからダイレクトに販路開拓しようと補助金申請する事業者にしてはちょっと情けない。「ブランドの名前くらいちゃんと調べなさいよ」と私は叱りました。テキスタイル自体は良かったので私たち審査官は合格としましたが。それから10年後、某都市銀行が今治でクールジャパンのセミナーをするというので、講師に呼ばれた私は渡邊社長に連絡しました。すると、私の話は聞きたいけれど、参加はしたくないとの返事、理由を聞いて驚きました。自立支援事業を進めていた当時、大手も含め金融機関の多くは不良債権処理で政府から資金援助してもらっていて、世に言う「貸し剥がし」がありました。当時渡辺パイルもこの銀行から冷たく返済を迫られ、資金繰りに大変苦労したそうです。あのタイミングで補助金が入らなかったら会社の存続はどうなっていたか。以来、この銀行のことが信じられず、いくら私が講師で今治に来ても参加しない、と。気持ちはわかります。セミナー後の会食では盛り上がりました。自立支援の補助金を得て、渡辺パイルは意欲的に商品開発を行い、気がつけばシャネルやシュプリームからも注文が入るようになりました。今治の工場にお邪魔したとき、パリの直営店で購入した自社テキスタイルを使ったシャネル全商品10点ほど見せてくれました。シャネルを10点も正規価格で買えばそれなりの金額、テキスタイル販売で得た収益は消えてなくなりますが、それでも渡邊さんはその後も買い続けていました。このとき、繊維産地が後継者問題で悩んでいる話になり、長女がロンドンのセントマーチン留学から、長男がニューヨーク修行から戻って二人とも家業を継ぐなんて「渡邊さんは恵まれているよ」と言ったら、非常に喜んでいました。それから約1年後、渡邊さんはあっけなく急逝しました。私が主宰する勉強会に長女の有紗さんが参加する話があり、渡邊さんから「娘をよろしくお願いします」と前日に電話をもらったばかりでした。訃報を受け取ったときは信じられませんでした。いまは次女まで渡辺パイルに加わり、お子さん三人が渡邊さんの遺志を継いで高品質パイルを作っています。国の自立支援で救われた地方の中小企業が世界のトップブランド相手にビジネスを拡大、遺児たちがものづくりを引き継いでいる。渡辺パイルを見ていると、あのときの補助金は確かに役に立っていると実感します。補助金が全部このように成果が上がればいいんですが。写真:テキスタイル見本市での第一織物ブース。 第一織物本社工場。 故渡邊利雄さん(左)と長女・有紗さん(右)。 三兄弟揃って初参加した展示会のブースにて。
2022.09.06
ニューヨーク・ファッションウイークの主催者がデザイナー組織CFDAから大手代理店IMGの手に渡り、メルセデスベンツがその冠スポンサーだった頃、IMGからCFD(東京ファッションデザイナー協議会)久田尚子議長にアプローチがありました。東京コレクションの代理店として協賛企業や冠スポンサー探しで協力したい、と。しかしCFD側の条件ハードルがあまりに高かったのでこのとき交渉は前進しませんでした。久田さんから直接聞いた話です。ちょうどその頃、経済産業省繊維課に宗像直子課長が就任、繊維アパレル業界を巻き込んで政府からも東京コレクションに補助金を出す方向で動き出します。宗像課長に協力要請された日本ファッション協会の馬場彰理事長は、TSI会長だった三宅正彦さん、ファッションプロデューサーの大出一博さんに相談、東京コレクションを業界全体で支援する日本ファッションウイーク推進機構が誕生しました。役所の一課長の情熱がこの体制を作り、東京コレクションは官民協力体制の下で存続することに。振り返ってみれば、1985年CFD設立から2005年JFW設立までの20年間、霞が関の官僚たちとは一定の距離を保ちながら細々とつながってきました。お堅い官僚たちとは全く異なる人種の集合体がCFD、東京コレクションの補助金申請をしたことがなく、役所は全く関係のない組織でしたが、デザイナー側の考えを委員のひとりとして伝え、様々な提案もしました。通商産業省(現・経済産業省)繊維ビジョンの中で提案されたイベントとしてのWFF(ワールド・ファッションフェア)と装置としてのFCC(ファッション・コミュニティーセンター)構想には否定的、むしろ人材育成の高等教育機関を作るべきと主張した私の意見に熱心に耳を傾けてくれたのは、のちにジェトロ理事長になる繊維製品課長だった林康夫さんでした。林さんはCFD事務局に足を運んでよく意見を聞いてくれましたが、業界団体幹部からは「通産省の課長が足を運ぶなんて異例だよ」と妬まれたくらい友好的な関係でした。また、林課長の上司である生活産業局長の岡松壮三郎さんもデザイナー側の声に耳を傾けてくれた幹部でした。後年通産省のナンバーツーとして日米構造協議でタフネゴシエイターとして活躍した人物、役所の監督下にある組織でもないのにデザイナー側の意見を聞いてくれたのは林さんの進言があったからでしょう。1995年CFD議長を退任して民間企業に転じた私は役所との接点がなくなり、たまにIFIビジネススクールの会議や会食で顔を合わす程度でした。ところが、ある大手企業の中堅幹部研修の講師に呼ばれた私は、同じく講師として来場した製造産業局繊維課の山本健介課長から「お手間はとらせません、協力してもらえませんか」と声をかけられました。山本さんは宗像さんの二代前の繊維課長です。日米繊維交渉で対米繊維輸出ができなくなった企業への支援金の残り150億円をやる気のある中小繊維事業者の自立支援補助金として役立てたい、その民間審査員になってくれという話でした。繊維産地の役に立てるならと引き受けましたが、送られてきた約50社の過去3年分の決算書、自立事業計画書を読んで採点して上位得点企業のトップを半時間ずつ面接、「お手間はとらせません」でなくかなり負担のかかる作業でした。しかし審査官として参加して、まだ知らない優れた技術を有する会社が日本にはくさんあることを学びました。この自立支援事業の補助金で産元商社や問屋の下請けから脱却し、ダイレクトに欧米トップブランドと取引する繊維事業者は増えました。私が審査を担当した工場の中にも、シャネル、ルイヴィトン、モンクレールなどにテキスタイルやニットを採用されたところがありますから、山本課長の構想は繊維業界を救いました。沖縄返還の交換条件として対米繊維輸出が犠牲になり、その日米繊維交渉で痛い目にあった製造業を支援する補助金は全国各地に相当額配分されたでしょうが、この最後の補助金が最も効果があったのではないかとさえ思います。近年欧米トップブランドが日本の高品質素材に注目していますが、その原点はこの自立支援プロジェクトでした。山本課長とはもうひとつの「お手間はとらせません」がありました。小泉内閣が従来の重厚長大産業ではない柔らかコンテンツ産業をどのように支援するか議論を始めたので、山本さんは私を内閣官房知的財産本部のコンテンツ産業戦略会議専門委員に推薦しました。私は海外出張中で推薦されたことを知りませんでした。委員は、漫画家、出版社、アニメ制作のテレビ局、映画会社、音楽事業者、料理学校の代表者、コンテンツ専門の大学教授、それにファッション関係、重厚長大産業界の人とは違いました。小泉政権から安倍、福田、麻生内閣まで議論が続き、これまで国が放置してきた産業は将来重要になる可能性が大きい、そのために国は何をすべきか、答申がまとまりました。のちにコンテンツ産業は「クールジャパン」と呼ばれますが、当時はまだクールジャパンの文字は公式文書にありませんでした。麻生内閣時の答申は政権交代後民主党政権に引き継がれ、自民党時代の委員は退任したので私もその後どのような議論があったのか、クールジャパン政策として議論されていたことさえ知りませんでした。再び自民党に政権が戻り、クールジャパン政策は国の重要戦略のひとつに位置付けられ、海外市場に打って出る民間企業を資金面でサポートするための組織(株式会社海外需要開拓支援機構)の新設が決まりました。どういうわけか松屋の秋田正紀社長に新会社社長に常務執行役員である私を当てたい、と。その使者だった商務情報政策局長富田健介さんは山本さんの同期入省でした。山本さんの「お手間はとらせません」はここでも負担のかかる大変な仕事につながっていました。もうひとり、ハートのある官僚として印象に残っている方は経済産業省クールジャパン推進室長(クールジャパン課長の前身)の渡辺哲也さんです。大震災のあとの自粛ムードの中、松屋と三越銀座店は銀座に元気を取り戻そうと合同イベント「銀座ファッションウイーク」を開催、さらに銀座歩行者天国でジャパンデニムをテーマに青空ファッションショーを企画しました。警視庁に許可申請するも却下されて困っているとき、一緒に交渉してくれたのが渡辺さんと課長補佐の高木美香さん(のちにコンテンツ産業課長)でした。東京都主催の東京マラソンだって構想から許可まで7年かかっている、数ヶ月後のファッションショーなんて簡単に許可できない、これが警視庁の見解でした。そこで、さすがは東大卒の官僚、六法全書を持って歩行者天国の項を開き、「ファッションショーをやってはいけないとは書いてない」とフォローしてくれました。でも、警視庁は「許可しない」。渡辺課長は経済産業大臣が参加する非公式ミーティングに呼んでくれ、私は直接大臣にホコ天ショーの協力とモデル出演を要請しました。大臣が動いてくれてくれたので、警視庁からは歩行者天国の時間帯ではなくホコ天交通規制解除後の開催ならと条件が出ました。しかし、3月の午後5時以降は薄暗く、モデル出演中の大臣の警備が難しいのではないでしょうかと返したら、警視庁は許可してくれました。ホコ天初のファッションショーは全テレビ局の夕方のニュース、全国紙翌日朝刊1面で大きく取り上げられましたが、これは渡辺さんらの協力があったから実現できました。官僚と聞くと忖度だらけのお堅い人々を想像する方は多いでしょうが、これまで接点があった数人の官僚たちはファッションの社会的役割に理解があり、ファッション業界を応援してくれました。そういうハートのある官僚もいた、ということを知って欲しいです。写真:(上)国の支援で新人発掘プロジェクトも開催 (下)自立支援で採択された繊維メーカーのブース
2022.09.06
2005年秋、日本ファッションウイーク推進機構(略称JFW)が主催する「東京コレクション」が経済産業省の支援でスタート、久田尚子さんからバトンタッチされたばかりの3代目東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)議長岡田茂樹さんは主催者JFW委員の一人でした。しかし、補助金の恩恵を受ける参加デザイナーの代弁者であるCFD議長が、補助金を政府から受け取る主催者側委員を兼務するのは利益相反行為に当たる可能性があると指摘があり、第2回コレクション開催中の2006年3月、JFW立ち上げには全く関与していなかった私が急遽呼び出されました。(三宅正彦JFW理事長)呼び出したのは、JFW馬場彰理事長から相談を受けていたSUNデザイン研究所の大出一博代表と、JFW実行委員長TSI会長の三宅正彦さんでした。岡田さんはCFD議長に専念するのでJFWコレクション担当委員(まだ社団法人ではないので役職名は理事でなく委員)を引き受けて欲しい、と頼まれました。初代CFD議長の私としては知らん顔できないと思って協力を約束、第3回JFW東京コレクションからサポートすることになりました。政府機関から補助金を受け取るには、主催団体は会計年度末つまり3月末までに関係業者に支払いを済ませ、すべての支払いの領収書を添付して政府機関に申請します。3月後半にその年の秋冬コレクションを開催し、会場費や照明音響、舞台美術、アルバイト要員の経費を急いで支払って領収書を集め、事務局は3月末までに申請書を提出せねばなりません。しかし、主催者であるJFWの銀行口座にはまとまった現預金がなく、事務局に代わって誰かが資金を提供しないと支払いは不可能。実行委員長の三宅さんは大手アパレルメーカー会長ですが、会長が個人的に引き受けている外部の事業経費を会社が立て替えるわけにはいきません。そこで三宅さんは個人で銀行から融資を受け、それを事務局に提供して関連業者に支払っていました。オーナー経営者だから銀行も安心して融資できますが、これがもし私ならば銀行融資は無理です。デザイナーが主役の東京コレクションのために大手アパレルメーカーの会長が実行委員長として金策のリスクを負ってまで全面支援している姿を見たら、1985年東京コレクションを立ち上げた自分が見て見ぬふりはできません。2006年10月のJFW東京コレクションから今日までずっとコレクション担当理事としてお手伝いし、気がつけばCFD時代の10年間よりも長くJFWに関わっています。TSIは東京スタイルとサンエーインターナショナルが合併した会社。三宅さんとはサンエー時代にビバユー(中野裕通デザイナー)、ノーベスパジオ(山藤昇デザイナー)がCFD会員だったので面識はありましたが、一緒に仕事をするのは初めてです。ドクターから忠告されていてもお酒はしっかり飲む、会食は1軒目で終わることはほとんどなく、年齢の割にはびっくりするくらいタフな方です。そして私の想像していた以上にデザイナーのクリエーションに理解がある経営者でもあります。JFW設立時、政府の支援は3年間と決まっていました。それ以降は民間の努力で自立するよう言われていましたから、広告代理店との交渉、冠スポンサーになってくれそうな企業との交渉、賛助会員になってくれそうな繊維ファッション事業者の勧誘などは三宅さんが実行委員長あるいは理事長として奔走しました。民間の資金でどうにか安定的に東京コレクションを継続開催できたのは、初代理事長の馬場彰さんと2代目三宅さんの尽力です。CFDを立ち上げたとき、組織の自主独立を掲げ、政府機関とは距離を置き、社団法人登録を目指さず、「みなし法人」のままあえて不安定な組織として運営しました。設立10年で久田尚子さんにCFDをバトンタッチするとき、米国ファッションデザイナー協議会(CFDA)を訪問、CFDA代表デザイナーのスタン・ハーマンさんと運営責任者ファン・モリスさんからその運営方法を教えてもらいました。当時デザイナーの親睦団体CFDAがニューヨークコレクションを運営する会社セブンズ・オン・シックス(のちにスポーツ専門大手代理店IMGに譲渡、ファン・モリスさんはIMG幹部に移籍)を傘下におさめ、自主独立を守りつつ収支バランスを保っていました。が、その数年後、米国CFDAでさえニューヨークコレクションの運営を大手代理店IMGに譲渡したのです、日本のCFDがずっと自主独立を保って東京コレクションを運営するのは難しい時代となりました。CFD設立21年目の2005年、政府支援もあってJFWが発足、東京コレクションはデザイナー組織の手から業界団体に渡りましたが、主に大手企業が協賛するJFWの側にデザイナーの仕事に対する理解、情熱があるオーナー経営者がいてくれたから良かったと思います。先日、JFW年度末理事会で事務局から報告がありました。コレクション報道は紙媒体からWEB媒体への比重が高くなり、コロナウイルスの影響でコレクション発表はフィジカルショーからデジタル映像配信に移行、その効果もあって前シーズン2022年秋冬コレクションの「広告換算数値」は100億円を軽く突破している、と。紙媒体とWEB媒体を合わせて、掲載記事と部数、アクセス数を広告に換算するとこれほど多額になるイベントに成長したということです。もしもCFD設立の1985年東京コレクション時に広告換算数値を調べていたら、WEB媒体はなく海外媒体も少なかったので恐らくこの50分の1程度だったでしょう。デザイナー組織の自主独立東京コレクションであれば、この数字は無理です。そしてまた、JFWの責任者がガチガチの経理マンのような大手企業経営者ではなく、デザイナーブランドの開発や導入にも実績ある人だったからこそ広告換算数値の高いイベントに成長したともいえるでしょう。国の補助金がなくなり、冠スポンサーはメルセデスベンツ、アマゾン、そして現在は3代目の楽天、この先のことはわかりません。三宅理事長にいつまでも頼ることはできませんが、その代わりが務まりそうな方がなかなか浮かばないのも実情です。
2022.09.06
廣内武さんがオンワード樫山の取締役だった1990年12月25日クリスマスの夜、廣内さんとその直属部下だった加藤嘉久さん、私の親友繊研新聞早川弘と銀座の電通通りを歩いていました。廣内さんらをクセのある某百貨店のMD担当役員に紹介する会食のあと、早川を加えて飲みなおすつもりでした。偶然向こうからオンワードの馬場彰社長と役員御一行が歩いてきて、馬場さんは「廣内くん、珍しい人と酒飲んでるねえ」。続けて「太田さん、今度は私とも付き合ってくれよ」、「いつでもお付き合いします」と私は答えました。すると「いまからどうかね」と言われ、馬場さんたちが先ほどまで飲んでいたお店に戻ることになりました。(馬場彰さん)お店に入るなり、「今日の繊研新聞はご覧になりましたか?」と切り出しました。当時アパレル業界リーディング企業のレナウン経営者の年末所感記事、ニュースの少ない年末であれば普通は1面トップ、でなければアパレル関連頁の3面トップ扱いでしょう。しかしその記事は3面肩の扱いでした。この扱いのことを私は馬場社長に話したのです。レナウンが英国アクアスキュータムを買収した年、すでにそのことは何度も記事になっています。年末の取材でニュースにできそうな次の構想や戦略話がなかったので繊研新聞の扱いは小さくなったのでしょう。買収後のアクアスキュータム戦略があれば、リーディングカンパニーゆえ1面トップに記事はきたでしょう。「なんで日本の企業は国際戦略という点でこんなにも動きがスローなんでしょう。オンワードも同じ。企業規模を考えればもっと世界に攻めなきゃおかしいでしょ」、さらに「二千億を超える売上ならば世界からもっとビジネスの引き合いがきてもいいはず、きてないでしょ」と言いました。馬場さんに同行していた役員たちは「うちの大社長に向かってこの若造は何を言うんだ」と怖い表情になり、「社長、お時間です」と発言を遮りました。すると馬場さんは「大事な話を聞いているんだ、黙ってろっ」と役員を制し、私に「話を続けて」と。CFDを預かる者が大手アパレルの社長に嫌われてもどってことないでしょうから、言いたいことは言っておこうと思ってさらにきつい話をしました。オンワード樫山は最大手アパレルの一角、でもその売上の多くは海外ブランドとのライセンスビジネスであり、自前のソフトウエア、オリジナルブランドの売上ではありません。ライセンスブランドでいくら売上を増やしても世界から見れば存在感のない企業です。だから私は続けて言いました。そろそろ本気で自前のブランドを仕立てて世界市場に攻めて行こうとは思いませんか。せっかくイタリアで腕のいい縫製工場ジボー社を買収したんですから、それを活用してオリジナル企画で世界に攻める。デザイナーはなにも日本人でなくてもいい、香港人でもドイツ人でもいいじゃないですか。とにかくオンワード樫山の自前ブランドで世界を攻めることを考えてください。結構失礼なもの言いでしたが、馬場さんは黙って聞いてくれました。そして翌日、その場にいた加藤嘉久さんが突然CFD事務所にやってきました。「今朝馬場社長に呼ばれ、昨日の話の続きを聞いて来いと言われました」。創業者樫山純三さんが縁故関係でもない38歳の新任取締役を大抜擢した社長さんだけのことはある、と思いました。加藤さんに、もう一度ライセンス提携ではなく自前のブランドを開発すること、そしてその中から世界に攻めるブランドを育てることが将来のオンワードにとっていかに重要かを説明、最初のコンテンツを描くデザイナーを紹介することになりました。翌年、生まれたオリジナルブランドが「組曲」、最初に原型となるデザイン画を描いた(組曲のデザイナーというわけではありません)のは私が人選したCFDメンバーの某デザイナーでした。そしてそのあと国内向け別ブランドの「23区」が発売され、さらに世界市場に攻めるブランドとしてニューヨークからデビューしたのが「ICB」でした。私はこれらのブランドに直接関わっていませんが、クリスマスの夜馬場さんに話したことは多少なりとも影響しているでしょう。38歳で社長に就任した馬場さんはそのリーダーシップでオンワード樫山の業績を大きく伸ばし、長く会社に君臨したことは業界人なら誰もが知っています。日本経済新聞最終面「私の履歴書」でも連載されているので、ここで私がその功績を書いても意味はありません。が、ひとつだけ日本ファッションウイーク推進機構の発足に関して触れておきます。小泉政権で内閣府知的財産本部にコンテンツ戦略会議が設置され、重厚長大ではない柔らかジャンルの経営者やアーチストが招集され、私も委員の末席に加えられて議論をしていました。そのタイミングで経済産業省製造産業局繊維課長に宗像直子さんが就任、2005年春先に私はワリカン会食に呼び出されました。コンテンツ戦略会議(のちにクールジャパン政策の起点となる)でどんな議論をしているのか、繊維行政では今後どんなことをすればいいかを質問され、私からは東京コレクションを政府含めてオールジャパンで支援できないものかと訊ねました。行動力のある宗像さんはすぐ日本ファッション協会理事長でもある馬場さんを訪ねました。政府も産業界も支援する東京コレクションに発展させ、世界に日本のファッションデザインを売り込みたいので協力して欲しい、と馬場さんに要請しました。私の代で10年、次の久田尚子議長で10年続きましたが、東京コレクションはそろそろ財政的にも改革すべきところに来ていました。(東コレより)宗像課長の協力要請に対して馬場さんのアクションは実に早かった。数日後、繊維アパレル産業界も支援体制を作って東京コレクションを協賛する形で日本ファッションウイーク推進機構の構想がまとまり、2005年10月東京コレクション開催に向け、理事長には馬場彰さん、実行委員長にはTSI会長の三宅正彦さんが就任しました。もしも宗像課長が話を持ちかけた相手が馬場さんでなければ、産業界からの回答はもっと遅くなり、現在の東京コレクションの形態は宗像課長時代には実現できなかったかもしれません。馬場さんの決断力と行動力のお陰です。
2022.09.06
あれは1989年の後半だったと思います。オンワード樫山の廣内武さんが突然CFDのオフィスを訪ねてきたのは。のちに社長に就任しますが、当時廣内さんはまだ取締役でした。あの頃私はいろんなセミナーで百貨店平場改革の必要性を訴えていたので、CFDの責任者がどうして百貨店の平場を改革すべきと唱えているのかを知りたい、これが訪問の理由でした。百貨店幹部も大手アパレル営業担当も「平場はメシの種」とよく言いました。百貨店の収益に貢献しているのは、当時もてはやされたDC(デザイナー&キャラクター)ブランドでもなければハイエンド外資ブランドでもなく、セーター売り場、コート売り場、ブラウス売り場など収益率の高い単品平場でした。だから皆さん「メシの種」、と言います。ところが、メシの種と言う割には売り場の作りも什器もハンガーもお金をかけていない、ブランドショップと比べたらかなり見劣りしました。メシの種ならば、まず売り場の作りも什器も改善して魅力的な売り場にすべきであり、商品自体もアップグレードすべきではないかと見ていました。東京コレクションに参加しているデザイナーだって積極的に平場の商品アップグレードに協力し、自らのショップだけでなく単品平場をもっとカッコ良くして百貨店全体のファッションフロアを改善することに力を貸してはどうだろう、と訴えていました。百貨店のファッションフロア全体に魅力がなくなれば、入店客数は減少していずれブランドショップの売上に影響が出る、デザイナービジネスにとってもこれはマイナス要因ですからデザイナーのクリエーションを単品平場に注入してはと提案していたのです。でも、単品平場はシーズンごとにどんどん消え、平場のコート売り場、ブラウス売り場もドレス売り場もまだ維持運営している百貨店はもうゼロに等しい。数店だけが辛うじてオリジナルのカシミヤセーターを展開しているのみ、平場はほぼ消滅してしまいました。収益の柱だった婦人服平場は消え、大手アパレルのナショナルブランド売り場も減り、百貨店全体の収益率は下がりました。もう単品平場が復活することはありませんね。廣内さんは、東京コレクションの主催者である私がデザイナーブランドとは遠いポジショニングの単品平場の改革を訴えていることが不思議だったのでしょう。その理由をわざわざ聞きにきてくれました。そんな大手アパレルの関係者は廣内さんだけでした。それ以来、大手アパレル企業とデザイナー側と居場所は異なりますが、廣内さんとはいろんな場面で意見交換する仲間になりました。廣内さんは入社以来経理畑、営業職でもMD職でもありません。馬場彰社長のリーダーシップで業績をグイグイ伸ばすオンワード樫山、しかし馬場さんの頭痛の種はなかなか黒字にならない海外事業。海外市場でのビジネス展開のみならず、ジュニア・ゴルティエなど海外ブランドの国内ビジネスも在庫が増え、抜本的にメスを入れる時期に来ていたようです。馬場さんは海外事業改革のため、経理に明るい廣内さんを海外事業本部長に抜擢したのです。海外担当に任命された廣内さんがまずしたことは英会話スクールに通って英語の特訓でした。少し上達したら海外の主要関係先を回ってヒアリング、最初に訪問したのはニューヨーク。伊勢丹のプライベートブランドとして導入されたカルバンクライン社を訪ね、カルバン・クライン本人に面会します。恐らくカルバン・クラインは提携先の新任担当が表敬訪問に来たくらいに思ったのでしょう、米国有数のトップデザイナーは少々不機嫌な表情で現れたようです。ここでSAY HELLOの普通の挨拶だったら、カルバンの不機嫌はそのままだったでしょう。しかし廣内さんは「あなたのデザイン哲学を聞きに来ました」、このセリフがデザイナーの心に響きました。カルバンは廣内さんのすぐ横の席に移り、自分のモノづくりを熱く説明し始めました。オンワード樫山に発掘されたジャンポール・ゴルティエは中本佳男さん亡き後相談事はダイレクトに廣内さんにしていましたが、ファッションやマーチャンダイジングには無縁の経理畑出身者がどうして名だたるデザイナーたちから信用されるようになったのか。カルバン・クラインとの初面談にその答えはあるように思います。この話を聞いた私はすでに会長職だった廣内さんに、「会長室で社内ゼミを始めて馬場くん(=写真)たちに海外ブランドやデザイナーとの付き合うコツを伝授すればいいのに」、と。結局実現しなかったようですが。1995年CFD議長を退任して松屋の東京生活研究所に移籍した私は、2001年の大規模リニューアル計画を推進、海外のオリジナルブランドが1つもなかった(当時はセカンドラインか日本生産のライセンス商品だけだった)松屋銀座店にルイヴィトン以下有力外資ブランドの大量導入案を古屋勝彦社長(=当時)に出しました。海外と交渉が順調に進む中、古屋社長から「誰がオンワード(お取引先の会の代表幹事企業)に説明するのか」と問われ、営業部隊の責任者に代わって私が廣内社長との交渉に出かけました。CFDオフィスでの面談以来友人関係でしたが、廣内さんと生々しい取引の話は一度もしたことがありません。が、社史に残るであろう大きなMD変更、海外ブランドも一気に導入する予定なのでどうしても既存の国内お取引先に影響が出ます。今度ばかりは生々しい交渉をせねばなりません。廣内さんに単刀直入に訊きました。「長々と交渉したくはないので、最低限これだけは守ってくれということがあれば先に教えて」、と。廣内さんと面と向かって取引の話をしたのはこれが最初で最後でした。友人として長く付き合う方法は、生々しい取引の話はサシでしないことだと思いますが、そのことを廣内さんも十分理解し、簡潔にオンワードの条件を出してくれました。日本アパレル・ファッション産業協会理事長になってからも、ファッションデザイナーとアパレル企業との取り組みをどうやって増やすか、日本のクリエーションをどう世界に売り出すかなどいろんな相談をしました。同協会でマーチャンダイジングゼミを、オンワード樫山のブランド責任者やMDにも同じくマーチャンダイジングを教えたこともあります。「結局、最後はクリエーションだよね」、廣内さんがよく口にしたセリフでしたが、大手アパレルの幹部にはクリエーションとの接点を増やして欲しいですね。写真:2014年アパ産協新年会にて、左が廣内会長、右が馬場昭典社長(=当時)
2022.09.06
1989年原宿クエスト館長の提案で始まったクエスト・ニュースタンダード・フォーラム、その第1回目はジャンポール・ゴルティエを発掘した中本佳男さんとジュンコシマダをあっと言う間に人気ブランドに育てた岡田茂樹さんをゲストに迎え、シブヤ西武の水野誠一店長と私がホスト役でした。すでに中本さん、水野さんのことは取り上げましたので、ここでは岡田さんとのエピソードをご紹介します。岡田さんは同志社大学卒業後1962年京都に本社がある野村(のちに社名変更してルシアン、現在はワコール傘下)に入社、韓国ソウル駐在員や子供服事業などを担当、社長の野村直晴さんがパリで契約してきた島田順子さんとのビジネスを担当するよう命じられ、ジュンコシマダの事業会社ルシアンプランニング専務取締役に就任しました。岡田茂樹さんのSNSよりご本人「クリエイションの島田、イメージ戦略の小笠原、マネジメントの岡田のトロイカ体制」、岡田さんから何度も聞いたセリフですが、パリ在住の島田さんをアタッシュドプレスのベテラン小笠原洋子さんと岡田さんが支え、49av Junko ShimadaとセカンドラインJunko Shimada part 2は世の中の「ボディコン」ブームのシンボリックなブランドとして認知されました。設立からたった7年ほどで両ブランド合わせて売上100億円寸前まで急成長、しかも手持ち運転資金がかなり少なくても事業を回せたのはマネジメント側の手腕あってのことでしょう。1980年代初頭、大手、中堅問わずアパレルメーカーがこぞってデザイナーと協業してブランドビジネスに着手、そのほとんどは売上が10億にも満たないうちに消滅しました。明らかにマネジメントの力不足だったと思います。そんな中にあって野村が手がけたジュンコシマダは稀有な成功事例。野村は若手デザイナー安部兼章さんの事業会社ルシアンザスペースも立ち上げましたが、こちらはジュンコシマダのようにはうまく行かず、スキーショップ大手のアルペンに譲渡しています。1987年ジュンコシマダ事業に突如転機が訪れます。島田順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が50代半ばで急逝、ブランドを取り巻く環境は徐々に変わり始めます。理解者を失い、野村との契約更新が迫り、その話し合いは難航、島田さんは将来を見据えて新しいビジネスモデルを模索します。そのとき岡田さんから「太田さん、この構想どう思う?」と新体制案について相談されました。岡田さんにはその後もビジネス転機のたびに同じ質問をされましたが、「どう思う?」はいつも相談ではなく、「こうしたいんや」の決意表明でした。しかし、このとき水面下で検討していた新構想が野村側に漏れてしまい、ジュンコシマダ事業はルシアンプランニングが契約更新してそのまま継続、島田さんに代わって外部と交渉した岡田さんは会社を離れました。のちにジュンコシマダのゴルフウエアを手がけていたダンロップスポーツが岡田さんを専務として迎え入れ、岡田さんはライセンス契約側の役員として島田順子さんのビジネスを再び支えることに。このときも「太田さん、どう思う?」でしたが、本人の決意は固まっていました。当時私が主宰していたファッションビジネス塾「月曜会」の大学四年生の受講者は、講義に来た岡田さんの話と人柄に魅かれてルシアンプランニングを新卒受験、内定が決まりました。が、就職したら肝心の岡田専務は退職したあと、受講者はがっかりでした。ちょうどその頃、私は墨田区役所と人材育成プログラムを進めていたので、岡田さんに「業界への恩返しと思って手伝ってよ」と墨田区ファッション産業人材育成戦略会議に誘いました。墨田区の構想は通商産業省に引き継がれてIFIビジネススクールが発足、1994年IFI初の実験講座で岡田さんがアパレルマーチャンダイジングのクラスを、私はリテールマーチャンダイジングのクラスをそれぞれ講座主任として担当しました。発足したものの連日議論ばかりで一向に講座が始まらない状況に、岡田さんと私は山中IFI理事長に実験講座の開講を直訴して始めたものでした。それから実験講座の3年後、岡田さんがオフィスに訪ねてきました。岡田さん抜きのジュンコシマダには一時の勢いがなく、島田さんは岡田さんに再びパートナーとして自分を支えて欲しいとオファーしていました。「太田さん、どう思う?」の質問に、私は反対しました。今度の話は岡田さん個人が事業資金を集める形、あまりにリスキーだったからです。が、岡田さんは最初から私の意見を聞くつもりで訪ねてきたわけではありません。結局岡田さんはジュンコシマダのビジネス運営会社ジュンコシマダインターナショナルの社長に就任、島田順子さん再出発のために奔走しました。この新会社で広報を担当したのは、IFI実験講座で私の教え子だった元三越の女性社員でした。岡田さんがジュンコシマダを再び指揮して7年後の2005年、大手企業にその運営を委ね、岡田さんはアパレル事業から手を引きました。ご本人の体調が万全でなかったことも要因の一つです。またも時間的な余裕ができた岡田さんに私はまたまたお願いを。経済産業省が中小繊維事業者の自立化を支援する補助金の面接官を頼まれていたので、時間的余裕のある岡田さんに、「あんたも手伝うべき」と仲間に誘いました。ボディコンブーム期の島田順子さん東コレ会場前で岡田さんはこの自立事業で審査員をしたあと、採択された中小企業の経営をハンズオン支援するアドバイザーとして活躍、山形県鶴岡市で生まれた「キビソ」(従来製造過程で捨ててきた蚕が作る繭の外側の固い部分を活用した繊維)などの普及に務めました。そして、2005年には久田尚子さんのあとを継いで第3代CFD議長に就任、その年に始まったJFW(日本ファッションウイーク推進機構)の東京コレクションを指揮しました。経済産業省の自立支援事業の審査員とアドバイザーを経験したこともあり、岡田議長は自立事業に採択された技術力ある繊維メーカーと東京コレクション参加デザイナーのマッチング展示会を設置、産地とデザイナー双方に刺激を与えました。面倒見の良い岡田さんらしいプロジェクトでした。CFD議長3代CFD議長就任直前、岡田さんを推挙する人々に私は猛反対しました。時々検査入院して体調が万全ではない岡田さんに激務はさせたくない、「もしも岡田さんに何かあったら奥様に顔向けできないじゃないですか」と反対しました。でも、周囲もご本人も私の心配をよそにCFD議長就任の話を進め、JFW東京コレクションがスタートしました。翌2006年、JFW三宅正彦実行委員長(のちのJFW理事長。当時TSI会長)からの協力要請もあって、JFWの立ち上げには全く関係がなかった私がJFW側の担当として東京コレクションをサポート、岡田さんにはCFD議長に専念してもらう形になったのです。以来私はずっとJFWコレクション担当理事として東京コレクション(現在はRakuten Fashion Week TOKYO)をお手伝いをしています。岡田さんのようなビジネスマンがマネジメントを引き受けていたら、80年代、90年代にアパレルメーカーが立ち上げたデザイナー系ファッションブランドはもう少し生き残ったのではないかと思います。設立3年ほどで解約解消するブランドをたくさん見てきた私には、デザイナーのクリエーションを受け止めてマネジメントできる人材を育てるのが急務と思えてなりません。
2022.09.06
電電公社が民営化され、表参道の原宿駅寄りにあった電電公社総裁公邸はNTT系不動産会社の NTT都市開発に譲渡されました。NTT都市開発はここに原宿クエストという商業施設を建設、1階には西武百貨店のプライベートブランドだったラルフローレン店、3階には収容人数350人ほどの多目的ホールがありました。当時西武百貨店渋谷店の店長だった水野誠一さんからアポが入り、原宿クエストの関係者がCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務所にいらっしゃいました。要件は、CFDが主催する東京コレクションの会場として使ってして欲しい、と。後日、東京コレクションの舞台美術と照明音響を委託していた事業者スタッフと共にファッションショーの会場として必要な設備や機能を説明、公式会場として利用できる状態にしてもらいました。東京コレクションの会場として利用するブランドは増え、アパレル関係の展示会や各種プレゼンに利用する企業、団体も増え、NTT都市開発の担当者たちに大変喜ばれました。日頃お世話になっているファッション流通業界に何か恩返しをしたいと原宿クエスト側から提案があり、春と秋に1回ずつ参加費無料の「クエスト・ニュースタンダード・フォーラム」を開催することになったのです。第1回目は1989年、原宿クエストを東京コレクションにつないでくれた水野誠一さんと私がホスト役、ジャンポール・ゴルティエさんを発掘した元オンワード樫山パリ駐在所長の中本佳男さん、島田順子さんとのブランドビジネスを軌道に乗せた岡田茂樹さんをゲストに迎え、ファッションビジネスの国際化と高感度マーケットの将来性を討論しました。その後も、東武百貨店社長に就任した山中鏆さんと西武百貨店社長に昇格した水野さんとの池袋競合百貨店の新社長対談や、前項で触れたシブヤ西武「カプセル」をプロデュースした三島彰さんと伊勢丹新宿本店「解放区」を立ち上げたばかりの武藤信一さん(のちの伊勢丹社長)とのインキュベーションストア対談など、ほかではなかなか聴けないセミナーを開催しました。水野誠一さんは店長として渋谷店活性化のため実験店舗「シード館」や雑貨の「ロフト」を立ち上げ、同じ西武セゾングループのパルコとは異なる情報発信を仕掛けましたが、時代の方向性を捉えるその嗅覚にはいつも感服、たくさんのことを教えてもらいました。当時あまり聞き慣れなかった「ガジェット」(分野によってそれぞれ意味は違いますが、この頃流通業では「かっこいいガラクタ」でしょうか)とは何か、同フォーラムでは解りやすく説明されたことを覚えています。水野さんはガジェットに絡めて東急ハンズとロフトの違いをこう説明してくれました。プロのイラストレーターやアートディレクターが仕事用に多色マーカーや色鉛筆を買い求めるなら東急ハンズ、対してロフトはプロ以外の消費者にカラフルなマーカー、色鉛筆をペン挿しに何本も入れてデスクのアクセサリーとして楽しんでもらえそうな提案をする。座るための椅子を売るのが東急ハンズならば、洋服ラックとしても使ってもらえそうなデザイン性のある椅子を探してくるのがロフト。大きめのタンブラーグラスであれば、ピッチャーやリビングの花瓶としても使っていただく。いろんな用途が考えられるガジェット商品を消費者に提案するのがロフトの役割、と。水野さんの意図を我々凡人は100%理解できたわけではありませんが、ロフトの戦略からなんとなく次の時代の消費はこういうことかなと受け止めました。1990年水野さんは若くして西武百貨店社長に就任しました。世界的ホテルチェーンのインターコンチネンタルを買収したので西武セゾングループの銀行借入金は大きく膨らみ、利息だけでも年間1千億円余という経営状態。日本全体がバブル景気のピーク状態にあった微妙なタイミングでの社長就任でした。そこへ医療機器事業部の架空取引事件、イトマン事件に絡む高額絵画の偽保証書問題が発覚、就任3年後には不祥事の責任をとって社長を退任。運悪くあまりに短かった社長期間、もうちょっと長ければ水野さん流の百貨店改革が見られたはずでした。社長就任前後に水野さんに苦言を呈したことがあります。第一次地酒・吟醸酒ブームを牽引した西武百貨店有楽町店地下の酒売り場「蔵」での出来事です。東京コレクションでお世話になっている関係者に日本酒度15度の超辛口の酒「三千盛」を2本ずつお歳暮として送ろうと蔵に行きました。が、棚には必要な本数がありません。年配の販売員さんに「三千盛20本欲しいんですが、在庫ありますか」と訊いたところ、無愛想な表情で「訊かなければわかりませんね」。私は買い物するとき滅多にきつい言い方はしませんが、このときだけは「だったら訊けよ」と言いました。有楽町店の蔵はフロア丸ごと冷蔵して吟醸酒の品質を守り、品揃えは圧巻、恐らく当時都内随一の日本酒売り場だったでしょう。しかし、品揃えの自信もあってかお客様へのサービス精神は感じられず、「訊かなければわかりませんね」と横柄な受け答えをする。西武本店のある豊島区に住む私はこの蔵での一件で西武百貨店ハウスカードにハサミを入れました。西武百貨店の品揃えは素晴らしいけれど接客サービスをもっと強化しないとお客様の心は離れて行きますよ、とストレートに申し上げました。社長として接客サービスをテコ入れし、「親切一番店」をキャッチコピーに掲げる東武百貨店にサービス面でも負けないお店にして欲しかったです。水野さんは西武百貨店を辞めたあと、1995年学習院初等科の同級生だった鳩山由紀夫さんに誘われて新党さきがけ参議院議員となりました。テレビニュースで政治家として画面に登場するたび、早く実業の世界に戻ってもう一度暴れて欲しいと思いました。なんといってもクリエーションのよき理解者であり且つ時代の先を読める貴重な人材ですから。写真:(上)水野誠一さんSNSからご本人、(下)開店当初の渋谷LOFT参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/水野誠一
2022.09.06
1985年4月、読売新聞社創刊110周年記念イベントとして現在東京都庁舎がある場所に2基の黒い大型テントが建てられ、日本の主だったデザイナーのコレクション発表が行われました。30を超えるブランド数、これほど多数のデザイナーが短期間に集結してコレクション発表するのは初めて、私はこのイベントを見るためニューヨークから1週間だけ帰国しました。どのコレクション会場でも気になる年配の男性がいました。紬のキモノ姿の方がいつもランウェイ最前列に座り、開演前は穏やかな表情の好々爺、ショーが始まると目線がキラリ鋭くなる不思議な人物、仲間に名前を聞いたら現代構造研究所の三島彰所長でした。会場で名刺交換する際、「現代構造研究所とはどういうお仕事をなさっているんですか」と質問したら、「一言では言えませんね」でした。1985年ゴールデンウイーク明け、ニューヨークコレクションの取材を終えて私は再び帰国。そこへ新しいデザイナー組織を設立する話が持ち上がり、結局そのあとニューヨークへは戻れませんでした。新組織CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の正式発足が7月8日、私は事務局長として運営を託され、私を補佐するアドバイザーに読売コレクションを陰で支えたファッションプロデューサー大出一博さん、文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、無印良品を立ち上げたクリエイティブディレクター小池一子さんの3人と、スタイリスト原由美子さん、そして三島彰さんを加えた5人にお願いすることになりました。(三島彰さん)CFD発足後アドバイザーの皆さんとはよく話をする機会がありました。三島さんは経済誌でジャーナリストとして活躍していましたが、出身の東京大学繋がりで西武百貨店の堤清二社長に声をかけられて転職。格式を重んじる三島家には江戸時代の士農工商みたいな古い考えがあり、「どうして三島家の人間が商人なんだ」と最初は家族から猛反対されたそうです。三島彰さんのお別れの会は千代田区三番町にある二松学舎大学で行われましたが、三島さんは江戸末期から大正時代まで活躍した漢学者で二松学舎の創立者三島中洲の子孫。学者一族としては日銭を扱う商人をよしとしなかったかもしれません。その風貌といい、執筆される記事といい、三島さんは学者肌でしたが、それは三島中洲がルーツだからでしょう。三島さんが書くコレクション批評は多くのファッションエディターたちとはちょっと異なり、アカデミックでありながら根底にはデザイナーのクリエーション讃歌、美しいアート作品を愛でる喜びのようなものを行間に感じさせ、決して批判的な目線ではありませんでした。全国の織物産地にもよく足を運んでいらっしゃったので、デザイナーにテキスタイルのことを詳しく訊ね、マッチングできそうな織物工場をデザイナーにアドバイスもされていました。1995年私の松屋入りパーティーで乾杯音頭をとってくださいました1970年代前半、三島さんは西武百貨店渋谷店に伝説の売り場「カプセル」を作り、当時デビューして間がない若手デザイナーの山本寛斎さんや菊池武夫さんなどを売り出した元西武百貨店婦人服部長です。自主編集自主販売のとんがったセレクトショップ、内装は当時新進気鋭のインテリアデザイナー倉俣史朗さんと聞いています。寛斎さんによれば、自作の服を着てディスコで踊っていたら突然「その服面白いね」と声をかけたのが三島さん、寛斎さんはすぐにカプセルの注文をもらいました。あの頃の寛斎さんは非常にエキセントリックなデザイン、こうしたデザイナーの強い個性を消費者に訴求する画期的ショップでした。戦後経済史に残る東急西武戦争、西武百貨店は1968年開店の渋谷店のみならず1973年には渋谷パルコを公園通りにオープン、東急の牙城である渋谷の街に食い込んで攻勢をかけます。渋谷パルコはデザイナーブランドのショップをずらり揃え、パルコ劇場でユニークなイベントを企画、強烈なイメージのポスターやテレビコマーシャルを連発、渋谷の人の流れは大きく変わりました。が、パルコより一足先にファッション文化を強く打ち出し、おしゃれな若者を渋谷に集めたのはシブヤ西武、その革新的売り場の象徴がカプセル。ここは作り手にも消費者にも夢を提供するファッション黎明期の発信拠点と言ってもいいでしょう。シブヤ西武にカプセルがオープンしたとき、管理部門は実際よりも売り場面積を少なめにカウント、ちょっとでも坪効率の数値が上がるよう三島チームをサポートしました。西武百貨店のイメージアップのためには必要、でもデビューしたばかりの若手デザイナーたちの斬新な服、そう簡単に売れるものではありません。売り場面積を過少カウントして人気に火が着くのを待ったのでしょう。当時の百貨店はいまよりもおおらかでしたね。1970年代日本の多くの百貨店は海外有名ブランドと提携してそれぞれプライベートブランドを立ち上げましたが、そのほとんどはライセンス契約、ブランド側からデザイン画や生地スワッチをもらって国内アパレルメーカーに製造委託、オリジナル商品の販売ではありませんでした。しかし、西武百貨店だけは違いました。パリのエルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミラノからはジョルジオアルマーニ、ジャンフランコフェレ、ミッソーニ、ウォルターアルビーニなど輸入オリジナル商品を販売、他の百貨店とは全く異なる豪華なマーチャンダイジングでした。CFD時代、西武百貨店常務の松本剛さんが教えてくれました。バイヤーとして初めてエルメスのパリ展示会に行ったら、ネクタイ1本の値段が初任給以上、値段を見て誰が買ってくれるんだろうと不安になり、震えながらオーダーシートに発注を書き込んだとか。半年後エルメスのオープン日に開店と同時に来店して買ってくれたお客様の顔、松本さんは「ずっと忘れられません」とおっしゃっていました。いまでこそどの百貨店でも海外ラグジュアリーブランドの高額オリジナル商品を販売していますが、1980年代前半まで多くの百貨店はライセンスビジネスがほとんど、オリジナル商品とはデザインもクオリティーもほど遠い別物を売っていました。そんな中でいくら値段が高くてもラグジュアリーブランドのオリジナルをズラリ並べて販売する西武百貨店(テッドラピドスやラルフローレンはライセンスでした)のチャレンジ精神は際立っていました。それは、値段が高くてもブランドがまだ無名でも新しいファッション商品の導入に果敢にチャレンジするカプセルから始まったのではと思います。他店よりも海外ブランドのオリジナル商品をダントツに多く扱い、LOFTやWAVE、SEEDなど新しい切り口を次々打ち出し、パルコ、無印良品など新業態を軌道に乗せた堤清二さんが西武セゾングループから外れると、グループの様相は大きく変わりました。気が付けばコンビニ最大手セブン&アイHDの手に渡り、渋谷の若者文化を牽引したパルコは大丸松坂屋のJフロントリテイリング傘下に。そして現在、セブン&アイHDがそごう西武の身売り交渉で苦労している、三島さんら西武セゾングループで活躍した人々はどんな思いなのでしょう。西武百貨店黄金期を知らない世代には、「西武セゾン=ファッションの担い手」だったなんて想像つかないでしょうね。ほんと、凄くクリエイティブなグループでした。
2022.09.06
私は繊研新聞の社員でニューヨークに派遣された特派員だったと思っている業界人が少なくありません。が、私は自分の意志でニューヨークに渡ってから現地で契約を交わした通信員、収入が安定した正社員ではありません。あくまでも同業他紙には記事を書かないフリーランスの立場、男子専科やファッション販売にも寄稿しますし、バーニーズニューヨークのコーディネーター、NAMSB見本市の日本担当ディレクター、メンズデザイナーの合同展示会デザイナーズ・コレクティブ顧問も引き受けました。繊研の松尾武幸さん(のちに編集局長)が私との面談希望者をある程度絞ってくれたおかげで、ニューヨークで会わなくてはならない日本からの出張業界人は一般企業の駐在員ほど多くはありませんでした。でも、「こんな人なら時間の無駄だった」と言いたくなる面談や会食は何度もありました。私との面談を繊研に申し込んでくれる読者たちは、会社に出張報告を出さねばならず、日頃の取材活動から得た情報を得るための指名でした。それでも良いんです、利用してもらえるなら喜んで情報を提供しました。が、ヒアリングされるものと思って出かけたら自社の自慢話を延々と聞かせる大手企業役員、こういう出張者にはまいりました。同席した駐在員が後日詫びの連絡をしてきたケースもあります。某百貨店幹部でしたが、これ以降この会社の出張者との面談は断りました。逆に最も記憶に残る出張者も百貨店マンでした。阪急百貨店紳士服部長の松田英三郎(ヒデサブロウ)さんは婦人服部長から紳士服に異動した直後のニューヨーク出張でした。「いまニューヨークで見ておくべき百貨店の紳士服売り場を教えてください」と言われたので、「いま百貨店で見るべき紳士服売り場はありません。しかし、小さなブティックにはヒントがあると思います。回ってみますか」と答えました。中心街から外れたダウンタウン8番街西18丁目にあったゲイピープルに人気のカムフラージュ、ブティックやレストランの開店が続くアッパーウエスト地区に数店舗を構えるシャリバリやニュートラッド感覚のフランクステラ、アッパーイースト地区レキシントン街のサンフランシスコなど、8店舗のブティック名と場所をメモ書きして渡しました。松田さんは「明日の晩飯も付き合ってもらえませんか。このリストの店を全部回って、どうして太田さんが勧めたのか、自分が感じたことを聞いて欲しい」。翌日も日本食レストランで待ち合わせ。しかし約束の時間から30分経過しても松田さんは店に現れません。たぶんタクシーが渋滞に巻き込まれていると我慢強く待っていたら、汗を拭き拭き45分遅れで到着。案の定渋滞に巻き込まれました。「8店舗のうち7つは見てきましたが、最後の1つは時間が足りませんでした」。普通の出張者なら2つ、3つショップを視察して出張レポートを書くでしょうが、松田さんは8分の7、なぜ私が視察を勧めたのか、自分なりのブティック所見を話し始めました。当時ニューヨーク出張に来る百貨店の紳士服部長たちは、ブルーミングデールズ、メイシーズ、バーニーズニューヨークなど大型店とブルックスブラザーズ、ポールスチュアートなどトラッド専門店を回るのが定番視察コース、革新的なデザイナーブランドを揃える小型セレクトショップや新しいトラッド感覚のブティックだけを回る人なんてほとんどいなかったでしょう。松田さんは私がリストアップした小さな店をまわり、しかも自分が感じたことが正しいか否かを確認する、こんな熱心な百貨店部長は初めてでした。帰国後しばらくして松田さんは京都四条河原町店の店長に。開店時間直後、向かい側の高島屋京都店の売り場を歩き、阪急百貨店が見えるカフェで休憩、そこでよく顔を合わせる高島屋ファッションコーディネーター福岡英子さんに「ニューヨークのオオタヒロユキさん」、と何度もニューヨーク出張時の思い出話をしていたそうです。元子役の俳優「太田博之」の名前と勘違いしたまま私のことを覚えていてくれました。松田さんはその後阪急百貨店の社長に就任。下馬評では別の役員が有力とされていましたが、指名されたのはあの松田さん、対抗馬も立派な方でした。社長人事が発表されたとき、売り場をよく歩く人が就任したので嬉しかったです。(阪急MENS)私が社長を務めたクールジャパン機構は2014年、阪急百貨店の中国プロジェクト寧波市の新規出店に多額の出資をしました。このときの代表取締役CEOは椙岡俊一さんでした。椙岡さんを社長に推挙したのが松田さん。椙岡さんのことをよく知る友人のアパレル経営者から「あの人は銀行、取引先とは会食をしたがらない。きっと気が合うと思うよ」と勧められ、二人だけで会って意気投合しました。松田さんが社長に引き上げた人と一緒に仕事をする、何かのご縁です。阪急寧波店はブランド交渉が難航したりコロナウイルスの影響を受けたりと開店は何度も延期になりましたが、2021年春にやっとオープンしました。コロナ禍で海外に出られない近郊富裕層の消費欲にも助けられ、全館では予算比200%と驚異的な数字を叩き出し、1年を終えました。(2021年春開業した阪急寧波店)華僑発祥の地、中小企業経営の富裕層が多く700万人も暮らす都市なのにこれといった百貨店がなく、立地条件としては絶好の場所。日本からの遣隋使、遣唐使がたどり着いた港町でもあり、日本とは歴史的つながりもある特別な都市です。ラグジュアリーブランドをしっかり導入し、日本の食文化や生活様式、アニメはじめコンテンツをガツンと紹介すれば必ず現地消費者は反応してくれる、私たちはそう信じて大型投資をしました。初年度の業績が素晴らしいからずっと続くとは限りませんが、このまま順調に営業すれば機構はそれなりのリターンを得られるはずです。クールジャパン機構発足前、まだ私が松屋常務執行役員だったとき、大阪本社の椙岡さんから電話が入りました。「今日の午後松屋の事務所にいますか」、と。それから数時間後、生産が限定的で入手困難だった日本酒「獺祭」をぶら下げて椙岡さんは銀座に現れました。とても気さくな人でしたね。
2022.09.05
私は繊研新聞の社員でニューヨークに派遣された特派員だったと思っている業界人が少なくありません。が、私は自分の意志でニューヨークに渡ってから現地で契約を交わした通信員、収入が安定した正社員ではありません。あくまでも同業他紙には記事を書かないフリーランスの立場、男子専科やファッション販売にも寄稿しますし、バーニーズニューヨークのコーディネーター、NAMSB見本市の日本担当ディレクター、メンズデザイナーの合同展示会デザイナーズ・コレクティブ顧問も引き受けました。繊研の松尾武幸さん(のちに編集局長)が私との面談希望者をある程度絞ってくれたおかげで、ニューヨークで会わなくてはならない日本からの出張業界人は一般企業の駐在員ほど多くはありませんでした。でも、「こんな人なら時間の無駄だった」と言いたくなる面談や会食は何度もありました。私との面談を繊研に申し込んでくれる読者たちは、会社に出張報告を出さねばならず、日頃の取材活動から得た情報を得るための指名でした。それでも良いんです、利用してもらえるなら喜んで情報を提供しました。が、ヒアリングされるものと思って出かけたら自社の自慢話を延々と聞かせる大手企業役員、こういう出張者にはまいりました。同席した駐在員が後日詫びの連絡をしてきたケースもあります。某百貨店幹部でしたが、これ以降この会社の出張者との面談は断りました。逆に最も記憶に残る出張者も百貨店マンでした。阪急百貨店紳士服部長の松田英三郎(ヒデサブロウ)さんは婦人服部長から紳士服に異動した直後のニューヨーク出張でした。「いまニューヨークで見ておくべき百貨店の紳士服売り場を教えてください」と言われたので、「いま百貨店で見るべき紳士服売り場はありません。しかし、小さなブティックにはヒントがあると思います。回ってみますか」と答えました。中心街から外れたダウンタウン8番街西18丁目にあったゲイピープルに人気のカムフラージュ、ブティックやレストランの開店が続くアッパーウエスト地区に数店舗を構えるシャリバリやニュートラッド感覚のフランクステラ、アッパーイースト地区レキシントン街のサンフランシスコなど、8店舗のブティック名と場所をメモ書きして渡しました。松田さんは「明日の晩飯も付き合ってもらえませんか。このリストの店を全部回って、どうして太田さんが勧めたのか、自分が感じたことを聞いて欲しい」。翌日も日本食レストランで待ち合わせ。しかし約束の時間から30分経過しても松田さんは店に現れません。たぶんタクシーが渋滞に巻き込まれていると我慢強く待っていたら、汗を拭き拭き45分遅れで到着。案の定渋滞に巻き込まれました。「8店舗のうち7つは見てきましたが、最後の1つは時間が足りませんでした」。普通の出張者なら2つ、3つショップを視察して出張レポートを書くでしょうが、松田さんは8分の7、なぜ私が視察を勧めたのか、自分なりのブティック所見を話し始めました。当時ニューヨーク出張に来る百貨店の紳士服部長たちは、ブルーミングデールズ、メイシーズ、バーニーズニューヨークなど大型店とブルックスブラザーズ、ポールスチュアートなどトラッド専門店を回るのが定番視察コース、革新的なデザイナーブランドを揃える小型セレクトショップや新しいトラッド感覚のブティックだけを回る人なんてほとんどいなかったでしょう。松田さんは私がリストアップした小さな店をまわり、しかも自分が感じたことが正しいか否かを確認する、こんな熱心な百貨店部長は初めてでした。帰国後しばらくして松田さんは京都四条河原町店の店長に。開店時間直後、向かい側の高島屋京都店の売り場を歩き、阪急百貨店が見えるカフェで休憩、そこでよく顔を合わせる高島屋ファッションコーディネーター福岡英子さんに「ニューヨークのオオタヒロユキさん」、と何度もニューヨーク出張時の思い出話をしていたそうです。元子役の俳優「太田博之」の名前と勘違いしたまま私のことを覚えていてくれました。松田さんはその後阪急百貨店の社長に就任。下馬評では別の役員が有力とされていましたが、指名されたのはあの松田さん、対抗馬も立派な方でした。社長人事が発表されたとき、売り場をよく歩く人が就任したので嬉しかったです。私が社長を務めたクールジャパン機構は2014年、阪急百貨店の中国プロジェクト寧波市の新規出店に多額の出資をしました。このときの代表取締役CEOは椙岡俊一さんでした。椙岡さんを社長に推挙したのが松田さん。椙岡さんのことをよく知る友人のアパレル経営者から「あの人は銀行、取引先とは会食をしたがらない。きっと気が合うと思うよ」と勧められ、二人だけで会って意気投合しました。松田さんが社長に引き上げた人と一緒に仕事をする、何かのご縁です。阪急寧波店はブランド交渉が難航したりコロナウイルスの影響を受けたりと開店は何度も延期になりましたが、2021年春にやっとオープンしました。コロナ禍で海外に出られない近郊富裕層の消費欲にも助けられ、全館では予算比200%と驚異的な数字を叩き出し、1年を終えました。華僑発祥の地、中小企業経営の富裕層が多く700万人も暮らす都市なのにこれといった百貨店がなく、立地条件としては絶好の場所。日本からの遣隋使、遣唐使がたどり着いた港町でもあり、日本とは歴史的つながりもある特別な都市です。ラグジュアリーブランドをしっかり導入し、日本の食文化や生活様式、アニメはじめコンテンツをガツンと紹介すれば必ず現地消費者は反応してくれる、私たちはそう信じて大型投資をしました。初年度の業績が素晴らしいからずっと続くとは限りませんが、このまま順調に営業すれば機構はそれなりのリターンを得られるはずです。クールジャパン機構発足前、まだ私が松屋常務執行役員だったとき、大阪本社の椙岡さんから電話が入りました。「今日の午後松屋の事務所にいますか」、と。それから数時間後、生産が限定的で入手困難だった日本酒「獺祭」をぶら下げて椙岡さんは銀座に現れました。とても気さくな人でしたね。写真:2021年春開業した阪急寧波店
2022.09.05
慶應義塾大学出身の男子専科編集長の志村敏さんは慶應OBの会員制サロン「ブルー・レッド& ブルー」に度々連れて行ってくれました。オープン時は銀座8丁目ヤマハホールの裏手、現在は銀座7丁目昭和通り沿いにあります。志村さんはもの静かに乱れることなくシーバスリーガルをグイグイ、その酒量は半端なかったです。だから、ニューヨークから短期帰国する時はいつもリカーショップで販売されているシーバス特大ガロン瓶をお土産にしました。私の講演を見つめる松尾さん旧制東京高校(東京大学教養学部に合体)最後の卒業年度だった松尾武幸さんも母校愛が強い人、東京高校OBが集まる銀座7丁目西五番街「スペリオ」によく連れて行ってくれました。このバーのテーブルの上には旧制東京高校の歴代卒業生名簿が置いてあり、大学欄が空白の人は全員東京大学進学者、東大以外の人だけ大学名が書いてありました。松尾武幸の欄は名古屋大学、「私は出来が悪かったから」と謙遜されますが、名大は旧制帝国大学のひとつで難易度は低くありません。名大での部活は映画研究会、終戦直後GHQが統治していた時代の大学映画研究会はほぼ左翼系学生でした。松尾さんは左翼系組織が作った繊研新聞社に就職しました。松尾さんの学生寮ルームメイトも左翼系、友人は愛知県の高校教師になり、彼に啓発された女子高生のひとりが文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、つまり私のあとCFD議長を引き継いでくれた人です。戦後の混乱期文化学園労働争議は有名、このとき久田さんは運動に参加しますが、その反骨精神の原点は松尾さんのルームメイトの恩師でした。この不思議な縁を久田さんが知るのは高校卒業して40年後のことです。志村さんも松尾さんも酒豪でした。シーバスリーガルのボトルを半分以上開けても静かな志村さんに対して、松尾さんはどれだけ飲んでもガハハッと笑顔の絶えない陽気なお酒でした。そこに相撲取り並みの底なし酒豪、繊研新聞営業部の古旗達夫さんが加わるともう飲み会はエンドレス、ニューヨークから日本に来るたび二人のハシゴ酒に付き合いました。CFD設立直後、六本木の仮事務所に来てくれた二人は「連れて行きたい店がある」と西麻布方向に歩き始めました。店に入ってカウンター席に座ると、松尾さんが小声で「太田くん、お金持ってる?」。誰が見たってここは高級寿司店、いつも連れて行ってくれる店とはちょっとクラスが違います。松尾さんは店を間違えたのです。「クレジットカード可みたいだから大丈夫でしょう」、私たちはそのまま食事を始めました。すると店主が「旦那さん、柳橋をよくご利用いただきました」、なんと松尾さんを覚えていました。日本橋堀留町の生地問屋幹部とよく利用していた柳橋の寿司屋、そこから暖簾分けした寿司職人が西麻布にオープンばかりの店でした。柳橋の近所に拠点があった革マル派はお歳暮を持って挨拶に来ていた、某有力百貨店オーナー社長がよく来ていたなどと店主と懐かしい会話が弾むうちに食事は終了。料金は特別サービスだったのでしょう、松尾さんのお財布の心配は取り越し苦労でした。寿司屋を出たらすぐ隣の店を指差しながら、「本当はここに行きたかった。ちょっとだけ寄って行こう」、お腹はいっぱいなのにすぐ隣の大衆居酒屋に入りました。おっちょこちょいで律儀な松尾さんらしいエピソードです。1978年からニューヨーク通信員としてたくさん記事を書きました。当初はまだファックスがなく、8番街西33丁目ニューヨーク郵便局まで行って速達を投函、もっと急ぐ場合は築地の印刷所で待機する速記者に国際電話を入れて原稿を読み上げ、固有名詞は間違いのないよう「アサヒのア」「イトウのイ」と伝えました。1981年頃でしょうか、ファックスの出現でコレクション記事はその日のうちに入稿するようになり、作品写真は時事通信ニューヨーク支局から電送してもらいました。ネット時代のいまはもっと早く記事を書かねばならないでしょうね。繊研新聞通信員として7年半で1本だけ「これは掲載できない」とボツにされた原稿があります。東京の婦人服工業組合(のちに日本アパレル・ファッション産業協会に吸収合併)が対米輸出を計画してニューヨークで開催したJFF(ジャパン・ファッション・ウイーク)合同展示会の総括記事、題して「J F Fは本当に成功だったのか」。温厚な松尾さんもこの記事を掲載すると大問題になると判断したのでしょう、私は国際電話でボツを告げられました。主要アパレルメーカーが参加、各社の経営幹部、商社繊維部門の責任者、業界メディアも多数会場に陣取り、JFF展への期待はかなり大きかったと思います。繊研新聞本社のベテラン同行記者もオールジャパンの大イベントをなんとか盛り上げようと連日ポジティブな記事を書きました。しかし、会場には期待したほどバイヤーの入場はなく、ほとんど注文は入りません。顔見知りの駐在員が会場で配られた繊研新聞の見出しを見せながら、「ここにはJFF大盛況って書いてあるけど、実際にお客さんはいないじゃない。こんな記事が載ると、どうしてお前たちは売れないんだと本社に怒鳴られる。困るんだよ」と愚痴。駐在員たちの気持ちも理解できます。展示会開催中は水を差すようなことは書けません。JFF展が終了した時点で私は総括記事を書きました。当時人気デザイナーのカルバンクライン日本製シルクスカートが上代250ドル前後、一方米国で無名の日本アパレルはポリエステル製なのに下代が500ドル。これでは勝負になりません。今後も対米輸出を進めたいのであれば根本的な仕切り直しが急務、今回はあまりにマーケティング不足という記事を書きました。記事の内容は理解できても婦人服組合の社長たちを刺激する記事はマズイ、ボツは大人の判断でした。繊研新聞での掲載が無理なら別のメディアに、私は業界誌ファッション販売の丸木伊参編集長に原稿を送りました。掲載後私の記事はやはり波紋を起こし、組合上層部から「仲間意識がない」とクレームが繊研に入りました。普通の上司なら烈火のごとく叱り飛ばす場面でしょうが、松尾さんはこの件を糾弾することはありませんでした。松尾さんの庇護のもとで直球記事を書いていたのはなにも私だけではありません。ファッション担当記者としてミラノ、パリコレを長年取材してきた織田晃さんは、私以上にクレームを生む書き手だったでしょう。あくびが出そうなショーには痛烈な批判、問題箇所が明白なコレクションには是正すべきポイントを指摘、時々ブランド側から怒りや泣きの電話が入っていたようです。松尾さんは「織田のデコスケが…」と言いながらも部下を庇い、本人の代わりに詫びに行く場面もありました。一般的ニュースの客観報道と違い、取材者の主観がどうしても入るコレクション報道、ボスがどこまで庇ってくれるかで現場のエディターが伸びるか伸びないかが決まります。志村さん、松尾さんは私には本当にありがたい編集長でした。写真:客観報道ではないコレクション取材は難しい。2014年春夏ニナリッチ
2022.09.05
前出の志村敏さんと同じ年のもう一人のオヤジは松尾武幸さんです。大学2年の冬、私は父の勧めで老舗テーラー山形屋の子会社、紳士服マスマーチャンダイジングのギンザヤマガタヤ取締役竹田勲さんを表敬訪問しました。当時竹田さんは米国ショッピングセンターの情報通であり、洋服店のチェーンオペレーションを指導していました。竹田さんとの出会いが、ロンドンのサビルロー修行をニューヨーク移住に進路変更し、私が家業のテーラーを継がなくなったきっかけです。ギンザヤマガタヤ応接室で竹田さんを待つ間、これまで見たこともない繊研新聞という新聞ファイルが目に留まりました。新聞タイトルの下に問い合わせ電話番号の表記、それをメモして翌日購読を申し込みました。ここから私と繊研新聞の長い付き合いが始まります。1974年正月明けのことです。その3ヶ月後学生ファッション研究団体F.I.U.を設立、大手繊維会社ユニチカからマーケティング調査の委託を受け、年に4回調査データから読み取った若者の生活価値観や消費行動の変化をユニチカ幹部と共に記者発表するようになります。大型コンピューターからアウトプットしてもらった数字の羅列、これと睨めっこしながら変化の兆候を読み取る、結構楽しい作業でした。私はメディアにデータを詳しく説明したりインタビューを受けたり、時にはマーケティングレポートを寄稿しました。購読し始めた繊研新聞はアパレル業界担当の松尾武幸デスク、織田晃ファッション担当記者、営業担当古旗達夫さんと交流が始まりました。渡米後サラリーも原稿料の類いも送金されない状態を見かねた男子専科志村敏編集長は、ニューヨーク特集号を制作するという名目でわざわざ様子を見に来てくれました。そして繊研新聞と通信員契約を結ぶようアドバイス、繊研とは東京で交渉してくれました。志村さんから話を聞いた松尾デスクは社内上層部の了解を取りつけ、そこから引き上げるまでの7年半私は繊研新聞特約通信員として現地デザイナーや市場変化などをレポート、年2回帰国してニューヨークセミナーを担当しました。セミナー開催は帰国の機会を与えてやろうという松尾さんの親心です。繊研新聞で記事を書き始めると今度は紳士服見本市NAMSB展を主催する全米紳士スポーツウエアバイヤー協会から日本担当マーケティングディレクターを委託され、米国商務省が提唱する「バイ・アメリカン運動」の推進を手伝うことに。私の役目は日本のバイヤーのNAMSB展視察者を増やし、視察者に米国市場の方向性をセミナーで伝え、対日輸出をアップすることでした。この関係で日本側の窓口になってくれたのが繊研営業部の古旗さんです。日本での米国視察者集めのほか、繊研も独自にニューヨーク視察ツアーを企画、そのツアコンまで自ら担当。ほかにも米国商務省が東京で仕掛けるイベントなどを古旗さんがあたかも事務局スタッフのように支援しました。おかげで米国商務省や大使館から繊研新聞への広告出稿は増え、私の通信員契約分以上の収益が繊研新聞社にもたらされました。年2回の繊研ニューヨークセミナー以外にも私の東京出張はシーズン追うごとにどんどん増え、気がつけば年5回も帰国するようになりました。その中にはNAMSB絡みもあればバーニーズニューヨークの買い付けもあり、帰国するたび松尾さんと古旗さんは歓待してくれました。午後5時に日本橋浜町の小料理屋に始まり、人形町の居酒屋などを回ってその後銀座へ、全部で5つの店をハシゴして帰宅したのは午前5時、いま思えばよく身体がもったなあという飲み会もありました。古旗さんが業界人のツアーを引率してニューヨークに到着したシーズン、松尾さんもパリからニューヨーク入り、連日深夜まで飲み歩きました。このとき松尾さんのホテルの部屋で1枚60文字の専用原稿用紙にものすごいスピードで記事を書く松尾さんにびっくりしました。それまでの私は読者が記事を読む場面を想像してしまい、どうしても慎重になって何度も書き直し、時間をかけて原稿を仕上げていました。まるで速記者のようなスピード、松尾さんに訊ねました。読者のことをいちいち気にしていたらスピードは落ちる。新聞記者には輪転機の締め切り時間があるので作家みたいにのんびり原稿を書いていられない。事実を素早く正確に読者に伝えるのが新聞記者の使命、と。それまで400字原稿用紙1枚書くのに1時間も費やしていた私でしたが、松尾さんの姿を見てからは1時間もあれば原稿用紙4枚は書けるようになりました。ブログやSNSで私と繋がっている多くの方から「太田さん、原稿を書くのがはやいですね」とよく言われますが、それは松尾さんから学んだからでしょう。学生時代、私は男子専科の志村編集長から「最初に結論を書き、起承転結をしっかり組み立てなさい」と雑誌の特集記事の書き方を教わりましたが、松尾さんからはニュース原稿を書くスピードも重要と学びました。(私の手前が松尾武幸さん)繊研新聞ニューヨーク通信員として業界で認知されると、ニューヨーク出張時に私に会いたいという申し出が編集部や営業部に来るようになり、直接私に国際電話してくる人も出始めました。それを全部受けていたら仕事になりません。そこで、松尾さんが選んだ人だけは面談あるいは会食するとルールを作ってくれたおかげで助かりました。松尾さんの一番の助けは、私の書いた記事に対するクレーム対応でした。直球勝負で正直にコレクション記事や見本市取材記事を書くと、米国ブランドと提携する日本企業やショーを開いたブランド企業、ときには大臣秘書官を名乗る人からも、「あいつを通信員から外してくれ」、「今後繊研には広告を出さない」とたびたびクレームが入りました。しかし、松尾さんを筆頭に繊研新聞社の幹部は「太田が書いた記事は間違っていますか」、「通信員から外すかどうかはうちが決めること」といつも突っぱねてくれました。帰国するたび、「太田くん、こんなクレームが◯◯社から来てたよ、ガハハッ」と大笑いしながら話してくれましたが、松尾さんがガードしてくれなければストレートなコレクション記事は掲載されなかったでしょう。1985年5月ニューヨークコレクション最終日翌日、繊研ニューヨークセミナーのために帰国した私に東京ファッションデザイナー協議会設立の話が持ち上がり、松尾さんには相談しました。このとき「業界の発展とキミがやりたいことが先だ、繊研の後任通信員のことは心配するな」と応援してくれました。そして同年7月デザイナー協議会が正式に発足すると、真っ先に仮オフィスに陣中見舞いに来てくれたのは松尾さんと古旗さんでした。2009年12月、競馬の有馬記念の朝、松尾編集局長にかわいがられた朝日新聞編集委員高橋牧子さんから「ご存知かもしれませんが、松尾さんの葬儀が今日あります」と電話が入りました。繊研を退職してかなり時間が経っていたので、ひょっとして連絡が私に届いてないのではと心配して高橋さんが教えてくれたのです。慌てて電車に飛び乗った私は天国に旅立つ恩人の導きと語呂合わせのつもりで「ドリームジャーニー」(夢の旅)の馬券をスマホで注文、なんと馬券は当たりました。きっとあの世でいつものガハハッ顔でいまも見守ってくれていると思います。
2022.09.05
私にはファッション業界に二人のオヤジがいます。大学卒業後ニューヨークに渡って取材活動を開始した当初、思いがけない出来事が起こり、私はどん底につき落とされました。このとき私を救ってくれた命の恩人がこの二人のオヤジです。一人目は志村敏さん、初めて学生時代にお会いしたときは男子専科編集長でした。Wikipediaによれば、小説家の宇野千代(1897年〜1996年)は1936年ファッション雑誌「スタイル」を創刊、表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫(1907年〜1973年)とともに編集を務めた、とあります。藤田に東郷、すごいアーチストが手伝っていたんですね。そして1950年スタイル社からメンズファッション雑誌「男子専科」が創刊されます。慶應義塾大学を卒業した志村さんは創刊直後の男子専科に就職、北原武夫から文章の書き方を徹底的に鍛えられました。(右:志村敏さん 1982年5月撮影)1954年メンズブランドVANを立ち上げた石津謙介さんは、老舗出版社の婦人画報社編集部で働く一人の若者と、男子専科編集部の志村さんに新しいメンズファッション雑誌を作らないかと声をかけます。当時メンズファッション分野ではテーラーが購読する技術解説中心の雑誌「洋装」とスタイル社の男子専科があっただけ、石津さんはもっとおしゃれなファッション誌を通じてVANの魅力を消費者に届けたかったのでしょう。しかし、紆余曲折あって新雑誌の創刊は発売寸前に中止、それぞれ会社を飛び出した二人の若者は路頭に迷います。そして、新しいメンズファッション誌は1954年婦人画報社から「婦人画報増刊 男の服飾」(のちのメンズクラブ)が発売されました。アメリカのアイビールックやライフスタイルを取り上げるこの新雑誌はVANを大人気ブランドに押し上げ、創刊10年後の東京オリンピックの頃には熱狂的ファンが急増、アイビールックの「みゆき族」は社会現象になりました。アイビールックにフォーカスするメンズクラブ、男子専科は別路線を歩むしかありません。男子専科に復帰し、のちに編集長になった志村さんは、台頭する国内メンズデザイナーや日本への導入が始まったヨーロッパブランドをフォーカス。西武百貨店で活躍した五十嵐九十九さん(三島由紀夫の楯の会ユニフォームをデザインしたことで有名)をはじめ、映画スターのコスチュームをつくるクリエイティブなカスタムテーラーにスポットを当て、アメトラ対ヨーロピアンの構図でした。1970年代に入ると男子専科はさらにデザイナーブランドへのシフトが鮮明に。メンズビギ(菊池武夫さん)のコレクションが誌面で注目を集めます。菊池さんは萩原健一主演のテレビ番組「傷だらけの天使」(1974年日本テレビで放送)の衣裳を担当して脚光を浴び、1978年メンズのパリコレに日本から初めて参加、メンズデザイナーズブランドは菊池さんに牽引されて市場で存在感を増していきます。男子専科が菊池武夫さんやメンズのパリコレを取り上げるようになる寸前の1974年でした。大学や専門学校の学生に呼びかけて学生ファッション研究団体F. I. U.を立ち上げた私は志村編集長と出会います。最初はお茶の水の喫茶店で数人の仲間と共にお話を伺いました。「キミたちは男子専科をどう思うかね」と聞かれたので、正直に「学生としては面白くない雑誌、だから買いません」と答えました。メンズクラブはアイビーリーグのキャンパスで撮影、トラッドのカジュアルウエアや若者ライフスタイルを特集するので学生には親近感があります。対照的に男子専科はカスタムテーラーや百貨店オーダーサロンのデザイナーが創作したテーラードの掲載が多く、学生の私たちにはピンときません。メンズビギなど新興デザイナーズブランドを男子専科が紹介し始めるのはもっと先のことですから。「買いません」と言った私に、志村編集長は「買わなくていいよ。送ってあげるから読んでみろ」。それ以降毎月男子専科の贈呈本が届きました。そして、私たちが取材して記事を書く連載企画を受け入れ、団体の代表者である私は原稿を書いては編集長に目一杯赤ペンを入れられる関係になりました。学生時代とニューヨーク時代の約10年間、私は男子専科に執筆しましたが、北原武夫仕込みの志村さんから原稿を褒められたことは一度もありません。1977年5月大学を卒業した私は希望通りニューヨークに渡りました。志村さんはわざわざ羽田空港(まだ成田空港は開港されていなかった)まで見送りに来てくれました。私の渡航ビザはジャーナリストに発給される4年間滞在が認められる「I」ビザ、ビザ申請時の保証人は別の業界専門メディアでした。この会社の記者たちも数人見送りに来てくれたので、志村さんは米国での生活は大丈夫だなと思ったそうです。ところが、渡米直後から「ニューヨーク発=太田伸之特派員」の記事は次々掲載されましたが、約束のサラリーや原稿料はいっさい送金されません。窓口だった編集デスクに国際電話を入れて催促しても何も変わらず、最後は電話口にも出てくれません。持参したお金は底をつき、男子専科の志村編集長に手紙を書きました。すると「太田くん、窮状はよくわかった。取り急ぎ送金する。仕事の話はあとだ」と激励の返信が届き、簡潔美文の手紙を読みながら涙が溢れました。ビザの保証人だった会社は非情な対応、一方何の約束もしていない男子専科は窮状を察して支援してくれる異例の対応。捨てる神あれば拾う神あり、でした。志村さんの手紙がなかったら、私はさっさとニューヨークに見切りをつけ帰国していたでしょう。それから2ヶ月後の1978年1月、志村さんは専属カメラマンを伴って真冬のニューヨークに来てくれました。ラルフローレン、カルバンクラインなど台頭する米国デザイナーブランドの周辺を中心にニューヨーク特集号を制作しよう、と。ちょうど日本ではニューヨークファッションへの関心が高まり始めた頃、特集号を出す絶妙のタイミングでしたが、丸ごと1冊私に担当させてまとまった原稿料を渡す配慮でもありました。さらに、ニューヨークから戻ったら問題のメディアの担当デスクと話し合って、もしも相手の対応が悪ければ別のメディアと契約交渉をしてみる、「ここは私に任せなさい」と言ってくれました。志村さん自身は20代で男子専科を飛び出し、新雑誌を創刊しようとしたものの失敗した苦い経験があり、日本を飛び出してハシゴを外された私にご自分の若い頃を重ねていたのでしょう。帰国後志村さんから連絡が入りました。「あまりに誠意がなさすぎるので関係を切った方がいい。その代わり繊研新聞の松尾さん(編集デスク、のちに取締役編集局長)と話したので、近々連絡が入るだろう」。こうして志村さんの仲介で私は繊研新聞社の特約ニューヨーク通信員となり、1985年に帰国するまでの7年余男子専科と繊研新聞の記事を書くことになったのです。男子専科の志村さん、繊研新聞の松尾さん、二人はちょうど私の二回り年長の同い年、二人とも我が子のように面倒を見てくれました。私がファッション業界でそれなりに活動できるようになったのは、二人のオヤジの存在があったからでした。写真:1950年の創刊号と1979年加藤和彦が表紙の6月号
2022.09.05
全134件 (134件中 51-100件目)