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バイオダイナミック農法というのは、シュタイナーが説いた有機農法のことである。私は、神秘学をシュタイナーの書物から独学しているのだが、シュタイナーは、植物に関しては、妖精の働きを前提に解説している。 妖精とは、土の精グノーム(コロボックルで有名)、水の精ウンディーネ、空気(風)の精シルフ、火の精サラマンダーのことである。 太古の人々は、ぼんやりとだが霊視ができたので、この妖精たちを、いまでいう夢のようなイメージで見ることができたという。だから、植物の背景で、妖精たちが働いていることを感じていたという。 だから、植物を育てるには、妖精の性質を知る必要があるというわけなのである。こんなことを言うと阿呆扱いされるので、一つ例をあげるとする。 木材を、新月時に伐採すると、満月時に伐採するよりは、木目の密度が高く、細かく密着して、長持ちするというものである。実際に、顕微鏡で、伐採後乾燥したもののその比較を行うと、満月時伐採は、澱粉等が残っていて木材が劣化しやすいのに対して、新月時伐採のは、澱粉等が抜けていて、木目が細かく密度が濃いのが確認されたという。月と木の生長にはなんらかの因果関係があることが観察で確認されるのである。 神秘学では、植物の生長は、グノームという土の妖精(古くは根の妖精といわれた)の御蔭であるとされているので、月の影響のこの違いの説明は、グノームの大地から、植物を上方に生やす役割に帰することができる。グノームは、月に対して、神経過敏症と思われる位に月を見守り、月の影響をうけるという。グノームは、月光が嫌いで、満月時には、霊的な鎧のようなものを被るのに対して、新月時には、自ら蛍のような霊光を放ち、色彩多様で、活動的であるという。 つまり、新月時の木材伐採が長持ちするのは、このグノームの活動が陽であることからくると思われるのである。 このようなことは多くのアニミズムにみられることで、わが国の古神道の理念にも、土地神や木霊の信仰がみられる。それは、このグノームという土の精の信仰ではないかと思われる。グノームは、人間よりも遥かに賢く、宇宙の全てを地球のなかを泳ぎまわることで、把握しているという。 恐らく、シュタイナーはこのような神秘学の知識から、バイオダイナミック農法を考案したのではないかと思われる。シュタイナーの農業の書籍は、迂闊にも、いまのところ読んでいなかったので、読んでみて、賢者の石との関係を炙り出したい。
2006年08月29日
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悪魔が何を目論んでいるかは、有る程度、神秘学から明らかになっている。 神秘学によると、悪魔は、大別して2種存在し、ルシファー(デーモン)とアーリマン(サタン)であるという。いずれも、地球の進化期に、宇宙の進化プログラムから脱落し、取り残された霊的存在だという。人類のなかにも、この地球進化期に、堕落し進化から逸脱すれば、悪魔の存在となる。その存在はアスラと名付けられている。アスラは堕落した人類の代表的な666の存在でもある。 悪魔や犯罪者に共通する性格は、真剣に物事を捉える姿勢に欠ける点だという。真剣に物事を捉える姿勢こそ、真実を追究する態度であり、それは自分に対して自然と厳しい態度につながり、自らを責任とし、それを克服することで、進化の力が得られるのである。自らの責任を負えるものは、自らの度量を把握しており、ときを待ち準備に勤しむ。したがって、早産そのものが、人生を真剣に捉えない余韻を生むものであり、そこから自己責任を回避し、他の責任に転嫁し、自己を放縦し、堕落を生む要因となる。 その地位に相応しくないものがその地位に就くというのがもっとも悪である。なぜなら、その任の責任を負えないからである。 この態度は、現代日本の至る所に見受けられる。とくに現代の政治家に著しい傾向である。親がつくったものに甘んじている態度こそが悪なのである。それはただ自己を甘やかすだけで、自らの魂を堕落させ、その実、悪魔の寄生を促しているのである。 自ら蒔いた種は必ず刈り取る時期がくる。 悪魔を呼び込めば呼び込むほど、それはまるで借金取りを呼び寄せるがごとき、地獄を生むであろう。死んだときに、自らの堕落した部分全てを鬼、悪霊により請求される。「俺のお陰で楽しんだのだろう。俺が貸した快楽の欲求分を返せ、俺を楽しませろ、俺に奉仕しろ!」と鬼はせびるだろう。そのような悪霊は、至る所に沢山いるのだ! そのような奈落の底に陥らないために悪魔の正体を知る必要がある。 ルシファーという悪魔は、かって(紀元前3000年代だという)、古代中国に受肉したという。恐らく中華思想の自分達こそ世界の中心で、皇帝であるというエゴイスト的な概念はここからくるのであろう。その余韻は形は変えていても、いまだに存在している。この文明は、アトランティス時代の悪しきものを受け継いでいるという。実はこの利己主義的精神がアトランティスの大洪水を生み、人類は滅亡の危機に遭遇した。皇帝を意味する龍というのは、悪魔ルシファーに起因している。悪人が好んで竜を身につけるのは、この伝統の名残りに沿ったものと思われる。 ルシファーは、確かに強大な力を有するが、それは新しいものではない。もはや古いものである。たとえ、そのとき善であっても、いまでは悪なのである。人間のなかにあるこのような現実無視の古代回帰の思想、イデオロギー、自分こそが正統だとする概念は、ルシファーという悪魔の影響なのである。 堕落した天使はいう。「俺は間違っていない、なぜなら、俺こそ正統で、他が間違っているのだからだ!」何処かで聞いたようなセリフである。このような言葉を用いる人物の魂には、ルシファーが宿っていることが考えられる。 ルシファーという悪魔は、アーリマンというもう1つの悪魔を呼びよせる。アーリマンこそ、世紀末に受肉する存在だと預言されてきた獣の要因を生む存在である。ヨハネの黙示録でいう666の獣を生む存在である。ノストラダムスの1999の予言詩は、このアーリマンの受肉を預言したものだと思われる。 紀元3000年期の終わりに(21世紀初頭)、空から恐怖の大王(アーリマン)が降りてくる それは、アンチゴルゴダ(アンチキリスト)の大王(ルシファー)を蘇えらせ、かっての火星のように、唯物的で、物質的快楽で、人類を一時的に統治するだろう。 神秘学では、火星は一時、進化から後退し、悪霊の住み着く場となり、退廃的な地獄のような状態に陥ったという。地球で、仏陀となった存在、お釈迦様が、火星にいって、地球のキリストのように、十字架刑に架かったので、火星は霊的に回復したといわれている。占星術で火星が戦の神とされるのは、ここに由来があるという。また、21世紀はじめまでは、地球の前半期で、火星紀といわれるが、戦争が頻繁した闘争の時代でもある。ちなみに地球紀の後半は水星紀といわれ、霊性回復の時代だという。 また、神秘学でいう、キリストの十字架刑は、アーリマンの野望を阻止するために、行われたのだという。もし、紀元元年に、ゴルゴダの秘儀といわれるキリストの十字架刑がなければ、人間は霊界とのつながりをなくし、この世での秘儀参入法を見い出せず、666年から、唯物論に染まり、永遠にこの世に閉じ込められた囚人のごとき、悪魔の家畜同然の存在となったという。悪魔アーリマンの手下のアスラに堕落した存在と化したという。 神秘学によると、アーリマンは、666年に、ゴンディシャプールに、当時の哲学者を集め、学院を設立したという。そこで教えられたことは、最高度の叡智に属するもので、生と死の秘密と、遺伝と精神医学と予防医学に関するものと、波動による律動学に関するものだという。そのために、当時の学院一帯から、アジア、ヨーロッパへとアーリマンのその教えの支配構想が広がりつつあったという。 アーリマンのその支配構想を阻止する為に、ムハンマドのイスラム教が、地に、天使ガブリエルによりもたらされたという。アーリマンの人類にとって早産のその教えは、イスラム教の戒律により、弱められて伝播し、それが自然科学を生じさせたという。自然科学は、当時プラトン主義から発するストア学に対する反ストア学から生じたという。だから、現代科学は、アーリマンのゴンディシャプールの教えとイスラム教の戦いの余韻の名残りでもある。極端に偶像崇拝を廃したイスラム教の真意がそこに読み取れる。いかなる神的な力を秘めた偶像、つまり科学技術を創造してはならないとするのである。 テロリストたちが唱えるペルシャの栄光の回帰思想は、このアーリマンのゴンディシャプ-ルの再興を願う悪魔思想であって、真のイスラム教ではない。イスラム教に撃退され、歴史上消えてしまったので、アーリマンが逆手にとって、イスラム教だとして、利用しているにすぎない。何より真のムハンマドの教えを理解するなら、何が真で偽であるか、そのことが判別できるだろう。 現代のテロリストが掲げる聖戦という概念は、真のイスラム教ではなく、このアーリマンのゴンディシャプールの唯物教ともいえる機械的科学概念のことなのであろう。真のイスラム教の聖戦とは、アーリマンの学院の教えと戦うことであり、唯物的で快楽嗜好な科学技術を破棄するということなのである。現代でいえば、他の生命を奪う動物実験や、人体実験、遺伝子実験や、胎児、クロ-ン実験や幹細胞制御、核兵器や軍事開発を破棄するということに当たるだろう。悪魔は、科学技術を用いることで、カモフラージュし、思想闘争に誤魔化しているのである。宗教が忌むべきものは、早熟な科学技術の獲得にあるのであり、偶像崇拝禁止にある。人間は神的な力を獲得してはいけないのである。その意に反し、人類はアーリマンの意中にある。 アーリマンの教えを簡単に言えば、次のようなものである。 「人間の個体性は、集団において上層から統合されるべく末端細胞として振舞うに過ぎない。人間が発揮できる能力は肉体をとおして子孫に引き渡されていく遺伝子の振る舞いの範囲においてであり、個を消滅させ、冷徹な思考によって物理の法則に介入するならば、人間は知性をもって物質的世界を操作できる驚くべき素質を持っている。」 これこそ、科学技術の根幹をなす教えであろう。しかし、この教えは矛盾している。上層を統合するべき人物が誰であり、個を消失させ、知性をもって物質的世界を操作できる人間は、その誰かである上層から統合されるべき末端細胞として振舞うことを超えずに、その発揮できる能力は、遺伝子の振る舞える範囲を超えずにいられるものだろうかという点である。 ここにこそ、悪魔アーリマンの罠があるといわざるをえない。アーリマンはまるで金貸しのように、人間に近づき、次のように言うだろう「このカネで、社会から離反し独立しろよ。そうすれば、お前は神から自由になれる。でないと、お前は一生、神の奴隷だぞ! お前には限りない力がある。神をも超える力がある。それをいま、お前に与えてやる。俺が約束するのだから間違いはない。ほら、このカネを受け取れ!」 そして、アーリマンは、人間がさも自主的に神から離反したものだとさせ、神から離れ自由になった人間を虜にして、神になり代わり、貸したカネの元に、統合した上層に君臨するのである。神になり代わり、人間を手下、僕として奴隷化したいだけなのである。アーリマン曰く、「俺は人間を幸せに統治したいだけなのだ! 俺を選んだのはお前たちだ! 文句があるなら、選んだお前に罪があり、自分を罵り給え! 一体、お前にいくら貸したと思っているんだ。ふざけるな!!」 何処かのヤクザの開き直りのセリフと同じだ! だから、イスラム教はキリスト教と争うのではなく、唯物的科学と争うべきで、生命や倫理を重要視しない、機械的で、唯物的な科学技術を破棄させることが真の聖戦のことなのである。つまり、アーリマンの黒魔術を阻止する白魔術を生むことがイスラム教の目的だといえるだろう。テロの問題は、人類が、いかに自主的に科学技術を放棄するかにかかっているといえる。 いずれ人類は、高度な技術を手に入れることができる。それなら、大人しく待っているのが賢者の態度といえるだろう。何もそれを早く手に入れたからといって、良いことなどないのだから、かえって悪いことばかりである。人類は、科学技術を放棄するのではなく、それを適切に利用できる賢明さを身につけるべきなのである。 鳴くまで待とうホトトギスの心意気だろう。戦国時代、最後に笑ったものは家康であることを肝に銘じるべきである。
2006年08月25日
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どうも、世の中が騒々しくなってきた。天候は不順で、凶悪事件が多発し、戦争はいつまでたっても終焉しないどころか、各国の指導者たちが堕落している。ひょっとすると、太古に預言された悪魔が、受肉したのかもしれない。その預言によると、なんでも、西洋のある人物に受肉する手筈となっている。唯物思考に染まった現代人は馬鹿らしいと思うだろうが、まさに唯物思考が広まったこの現代こそ、悪魔が受肉しやすい状況で、悪魔はそのために長い時間をかけ、準備をしてきたのである。今回は悪魔について書こうと思う。 神秘学では、犯罪者がこの世に存在する原因は、霊的な早産にあるという。精神的に未成熟な者に、強大なパワーをもたせると、宇宙に強大な破壊と破滅をもたらしてしまう。例えば、子供に拳銃を与えたり、独裁者に核兵器を与えたりすれば、他者を殺傷し、他国を侵略し、破壊や破滅をもたらすことは一目瞭然であろう。 それゆえ、強大な力というのは、それを所持する者に、それを創造的に使えるだけの叡智、習熟度、適切な精神的成熟度、つまり進化度が必要とされるのである。犯罪者というのは、自ら制御できない力を、誤利用し、破壊や破滅をもたらした者といえるだろう。 悪とは、適切で無い時期や場所に、未来のものを持ち込むことであり、時と場所を誤った善(強大な力)であるといえる。 日本では、鉄砲が、戦国時代に到来したために、過酷な戦争が到来した。武田家はこのために、信長に滅ぼされる。また、核兵器、生物兵器が開発されていなかったら、戦争も小規模なものになっていただろう。実はこのロケット技術や生物兵器の科学技術等は、当時ナチスの科学者、その多くは黒魔術的なものからもたらされたものなのである。核抑止力などというが、所詮、利己主義者が、他を恐喝する道具に使っているにすぎない。恐喝という手段こそ、人類が進化から遅れ、獣化している証であろう。そこに、かって進化を忘れ、天使の地位から堕落し、人類とともにある悪魔の存在が、人類に寄生するために、暗躍している。 悪魔とは、自らのエゴのために、宇宙の進化から逸脱し、自由の身となった霊体の存在のことである。悪魔は存在を、唯物論によって、隠しているが、それは人類を欺くための、錯誤に都合がよいからである。悪魔は決して正体を現さない。悪魔は、黒魔術師を探している。神秘学では、強力な力を秘める叡智を、自らのために誤利用する者、いわゆる利己主義者を、黒魔術師と呼んでいる。 実は、黒魔術師は、自らの存在自体を理解していない。利己主義者が自分だと思っている自己防衛的な自分は、真の自分ではなく、消えていく存在の自分なのである。それは束の間の自分であり、無常な自分、そこに少なくとも永遠のものは見い出しえない。それゆえ、自己防御的、自己保身的になればなるほど、恐怖感を伴う。宇宙が進化すればするほど、その自分は消えていく存在だからである。堕落した自分が消えたくない為に、代わりに他を消そうとし、巨大な力を手に入れようと画策する。しかし、独りで、川の流れを変えることができないように、大きな流れを変えることはできない。ただ八つ当たりや破壊だけしかできない。未熟な、錯誤した、怠惰な自分に振り回されるだけなのである。 このような悪人が悪賢くなると、独りで悪事ができないために、悪人を引き寄せ、悪党となる。しかし、長くは続かず、悪人が偽りの自分を持っているために、しばしば仲間割れとなる。偽りが偽りを呼び、自分が自分を蝕んでいくのである。そして終いには消滅する。かわらない自分なぞこの世には存在しない。変わらない自分を信じることこそ偽りなので、それを守ろうとするから、悪が生まれる。そもそも、真の自分とは変わり行く、無常なものであり、だからこそ、自分としての常なる記憶だけが後に残されるのである。無常のなかに、変わらない常なるものがある。無常に移り変わるからこそ、変わらない永遠の記憶が浮かび上がってくるのである。 多様性のなかに統一性がもたらされ、差異があるから融合が意味をもち、醜いものから美しいものが生まれるのである。 自らの変化のなかに、変わらない自らがある。それを見い出す力こそが、真の自己となる。 生命体は、絶えず宇宙とともに、進化していかなければならない。生命体として生きるには、絶えず変わり行く自分のなかに、真の自分を創造し、発見していかなければならない。これは非常に苦痛を伴う作業だが、だからこそ、価値がある。自分という借り物から、自分を構築していかなければならない。自分という借り物は、死んだときに返却しなければならない。このような自分発見の旅こそ、精神的な進化を生じさせるもので、高次の霊的な力を、自然に平和糧に身につけさせるプロセスなのである。 黒魔術師は、悪魔に自分を売っている者ともいえる。神に身を売っても、それが強靭で、最高度で、高次なものでなければ、買ってはくれないが、悪魔に身を売ることは、低次なばかりか、容易であり、悪魔は、自らの欲求が過度なため、満たすことに野心満々であり、それを求めてさえもいる。勇気をもって、悪魔から離れることがまず肝要である。
2006年08月25日
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前回に続き、霊界への山登り(超時間意識)を書こう思ったが、その間、色々なブログをみるうちに、後回しにしたくなった。賢者の石にちょっと拘ってみたい。賢者の石については、グルジェフという19世紀の人物、今風にいえば、神秘主義者、昔風にいえば、魔術師が、面白い記述をしている。 グルジェフのその思想を、とあるグルジェフ研究家のブログを参照し、まとめると、以下のようになる。 人間の肉体(物質体)を、頭部、胸部、腹部及び四肢の三部分にわける。この分け方は神秘学では御馴染みである。グルジェフはそこに5つの機能を見い出し、それぞれ、思考センター、動作センター、感情センター、本能センター、性センターというような名称をつけ、人間を、いわば力学的な理論として、体系付け、捉えている。そして、その各働きを、現代で言う、情報科学的に捉え、3つの食物である、頭部に対する入力の「印象」、胸部に対する入力の「空気」、そして、腹部に対する入力の「食物」の摂取から、解説している。 グルジェフは、人間を情報力学体として定義づけたといえる。さしずめ、人間を一種のコンピューターのような知的情報認識体としたのである。 そのブログで、錬金術の賢者の石に関する重要な書き込みは以下のようなものである。 「我々の食物になるようなものは「768」という物質、水は「384」という物質。空気は「192」という物質。「96」は火のような呼吸することのできない気体。そして「48」は印象という物質なんです。さらに「24」も「12」も「6」も科学では定義することができない物質です。そしてこれらが物質であるということは物質性のあらゆる特性を持っているということなんです。」 グルジェフは、宇宙のあらゆる物質は波動からなり、その波動は、7つの基本波動から構成されるとした。その典型的な例がドレミファソラシドの音階である。もともと、音階は、この7つの基本波動からなるという。この音階原則に従って、素粒子を分類したジョエル・ステルンナイメールという物理学者もいる。 神秘学では、実はこの音階自体が、低次から高次の物質を生じる進化のための錬金術を、暗号的に秘密糧に込めたものであるという。同じくトランプや日常の風習にも色々と秘密糧に込めたのであるという。秘密糧に込めるので、オカルト(隠される)という。 上述の物質の数字は、恐らく波長数か振動数の暗号を示すものではないだろうか?と思う。その数字は、768からはじまり1/2づつ減り、最終的に6になるが、神秘学でいう数字のイメージから、恐らく1というのが、宇宙全体の振動数で、宇宙全体に到達し、全体を揺らす数だと思われ、2が、光と闇に分かれる振動数、そして、3が、三位一体の神の創造数、4が3が顕現した創造数、5は悪魔の数、6が完全の数と想像される。それらは、ドレミファソラシドの音階をイメージさせ、倍音となって階層性を意味するものになっているのだろう。 768というと、かなり純度の低い物質で構成されるものだと思われる。ここで水、空気、火という言葉があるが、これはアリストテレスの4大元素の土、水、空気(風)、火のことだと考えられる。768は、土である、つまり固体であり、我々は固体を腹部から食物として摂取し、液体つまり、水に加工される。食物は固体の音階ドとして人体内に吸収され、次の水の「384」、つまり液体に加工され、音階レになる。そして、水のレから、空気の「192」、つまり気体に加工され、音階ミとなる。人体内の腹部でのこの過程をまとめると以下である。 腹部;土ド(768)→水レ(384)→空気ミ(192) これらは腹部の消化器官から血液に流れる。すると今度は、胸部の呼吸活動から、肺で、血液は空気(入力)ド(192)と遭遇する。すると、胸部において、空気ミ(192)は、空気ド(192)と共鳴し、火ファ(96)に進化する。空気ドも空気ミに伴い、火レ(96)にかわる。これをまとめると、 胸部;空気ミ(192)→火ファ(96)、更には、空気ド(192)→火レ(96) 胸部で、新鮮な空気を呼吸により合成された血液は、頭部にまわる。頭部では、思考を行うことによりイメージが形成され、血液に、印象(入力)が与えられ、火ファ(96)が印象ド(48)と出会う。その際に、血液は印象ドをうけて、火ファ(96)、火レ(96)は、印象ソ(48)と、印象ミ(48)に至る。このとき頭部では、印象ド、ミ、ソ(48)が共存している。、 頭部;印象ド(48)、火レ(96)→印象ミ(48)、火ファ(96)→印象ソ(48) 今度は頭部の血液が、胸部におりてきて、印象ソ(48)が、火ラ(24)になり、更に腹部で、火ラ(24)は水シ(12)になる。 以上を食物(入力)別に変化プロセスをまとめると、食物;土ド(768)→水レ(384)→空気ミ(192)→火ファ(96)→印象ソ(48)→火ラ(24)→水シ(12)空気;空気ド(192)→火レ(96)→印象ミ(48)印象;印象ド(48)である。ここまででは、賢者の石は現れてこない。この記号でいう、賢者の石とは、水シ(12)の次のド(6)のことであろう。 賢者の石を人体内で合成するには、人間の3つの段階しかない肉体を超え、第4部分を創造しなければならない。 頭部の上に更に、上部の肉体的なものを構築しなければならない。神秘学では、これを魂の意味でマナスと呼び、肉体の意味でファントムという。ファントムは、エーテル体に類似したものであるようだ。しかし、水シから、ド(6)を生むには、マナスの上の食物であり、ファントムをつくる入力が必要なのである。ここである言葉が思い浮かぶ。人はパンのみに生きるにあらず。 古代の食物とは、イメージであり、印象を超えた存在であるマナスを形成するものであり、それはマナと呼ばれた。賢者の石を生むには、マナが必要なのである。マナは、かっては民族霊により記憶のなかに魂に与えられたものだが、現代人が肉体に堅く結合するにつれ、唯物思考に染まるにつれ、いまは失ってしまったものである。現代人は物質的食物のパンで生きていると錯覚しているが、実は、それは人体内の入力の刺激の代替物でしかないのである。 ここにキリストが言った言葉が意味をもつ。 私はパンであり、私のパンを食べずして永遠の命を得ることはできない。 賢者の石を得るには、キリストの教えであるパンを食さないといけないのである。それには、まず、肉体を離れ、キリストのパンを食する身体(エーテル体)を形成しなければならない。それが古代からの秘儀参入法であり、瞑想であり、ヨーガなのである。 キリストの教えとは、白い賢者の石のことである。賢者の石とは聖杯が2つあったように、白いものと赤いものの2つあり、白いものが、キリストの教えを意味するのだろう。これはしばしばエリクサーと呼ばれる霊薬のことであろう。つまり、ここの記号でいう、白い賢者の石ド(6)であろう。このキリストの教えをうけて、水シ(12)は救われて、赤い賢者の石であるド(6)となるのであろう。 そしてこれら物質を表す記号は、人間の意識を表しているようである。このグルジェフの記号が、プラトンのイデアである幾何学的図形と関連しているようで面白い。プラトンの幾何学的図形と意識の表現は、ヌース(叡智)理論として、昨今、マニアックに研究されている。 最後にプラトンの図形を、あるブログからの説明から拝借して載せておくので、賢者の石のイメージを是非構成してもらいたい。 プラトンは、幾何学的な事実としては、五つの正多面体のみが存在すると考えました。宇宙(十二面体)を構成するものは、火(四面体)、土(立方体)、空気(八面体)と水(二十面体)であり、そしてこれらの物体は必ず平面を有しており、その平面はすべて二種類の「三角形」で作られている。
2006年08月24日
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些細な靖国参拝問題にかまけて、真の外交問題が起こっている。ロシア(当時ソ連)との領土問題である。ロシアとの北方領土問題の根底は、靖国参拝問題にあるといってもよいだろう。ロシアの参戦が太平洋戦争を一変させた。 米国は、ドイツの二の舞にならないように、早期に太平洋戦争を終結させる必要性を生じた。米国の軍産複合体は、日本に爆撃を落とすことで産業を活性化させてきたが、ロシアが参戦することにより、米国有利の世界地図をつくるために、現実的領土問題を考える必要性が生じたのである。 本土決戦しか選択肢をもたなかった滅亡一辺倒の当時の日本が、沖縄のようになるのは、米国側では、時間の問題だっただろうが、ロシアが参戦することにより、ある意味、これは結果論だが、日本は、第2の沖縄にならずにすんだとはいえる。 米国は、一気に日本を植民地とする作戦を考案するのである。原爆の投入と、日本に全面降伏を認めさせることである。 当時の日本の作戦司令部は、はっきりいって機能や呈をなしていなかったといえる。ロシア(当時ソ連)の参戦まで、戦争を長引かせることは、誰の目にも、日本の破滅を意味したといえるからである。もともと、米国と戦う時点で、無謀とはいえたが、エネルギーの供給ラインや軍備維持に対して、有効な戦略をたてられなかった当時の政府に多大なる過失があったともいえるだろう。 結果論でしかないが、当時の世界を把握していた外交官がいれば、対米戦は本筋ではなく、あくまで、対ロ-ソ連で、現在の欧州統合のように、アジア結束の道を探るべきだったのである。そういう意味では、ドイツ(ナチス)との同盟が非常に痛い分岐点だったといえる。 ともかくも、ロシア(ソ連)のスターリンにうまくやられたといえる。日本にまで、口出しされるのは叶わない米国は、とにかく早期に日米戦争を終結させるために、日本に敗戦を認めさせ、ロシアが出てくる前に、東京裁判という強引な敗戦を事実化させる必要があったわけである。 ここに、最強殺人兵器の原爆の投入と東京裁判のA級戦犯が事実化していったといえる。 この米国のやり口は、イラク戦争(フセインの処遇)をみればいまでも変わらないのに気がつかされるだろう。 日本人は理性をもって冷静に考えるべきである。しばしば熱情に犯され、情緒的になって行動してしまうのが日本の欠点である。日本には理性的で冷静な指導者が求められる。 対米戦を早期に終結できずに、ロシア参戦まで長びかせた当時の軍部には、A級戦犯としての戦争責任、また、情勢を見誤った責任、アジアの一員として、悲劇を生んだ指導者として責任もあるだろう。指導者というのは重い責任を負うものなのである。それは当たり前のことである。その覚悟がなく、どうも情緒的で、冷静さを欠く議論が目立つのが昨今の政治家である。 靖国参拝や憲法問題なんかよりも北方領土問題、北朝鮮問題の方がどうみても外交上重要な問題であろう。北方領土問題や北朝鮮問題が解決できないで、米国が犯す紛争にノコノコでていって、一体何ができるといえるのだろうか? イラク戦争だって終結できなかっただろう。一体自衛隊を何だと思っているのか? 憲法改正すればするほど、悪くなるのは目にみえている。いっそのこと、民間や外人部隊を雇った方がいい。日本の領土とは全く関係がないばかりか、米国のいいなり、犬ととられるだけなのだから。 日米協定があるのに、竹島問題や北朝鮮、北方領土問題に、米国が日本の為に何かしてくれたのだろうか? 冷静になって考えてみるがいい。利用するだけ利用して知らん振りというのが現実なのである。日本の指導者がナイーブ(お人よし)すぎる。人がいいだけでは、政治家失格である。これも馬鹿2世、3世が夢をみてやるから、夢ばかりは威勢がいいが、国民は悲劇におとされるだけである。マスコミウケがいいのは、政治家をやめてタレントに転向すべきだろう。ますます政治が空洞化し、他国の植民地化へと邁進するだけだ。
2006年08月20日
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「人はなぜ山を登るのか?」という問いが一世を風靡したことがあった。とある登山家が答えた「そこに山があるからさ」が一躍有名になった記憶が残っている。 山登りといえば、空間を上からみることによって、二次元的にみえていた世界が、垂直面的奥行きが広がることにより、三次元的に把握できる体験を与えてくれるものであるといえる。そのとき、人は通常の意識を超えたような心境に至るだろう。 木をみるのではなく、はじめて森をみる心境に至るだろう。また、山登りの過程1つ1つもその心境を生じるプロセスとして効果的であろう。空間の克服は、山登りにあるといえる。広く空間を把握するには、山登りが、必要に思われる。 古代の秘儀参入法にも、雲をも超え聳え立つ山に登り、地を見下ろした後に、今度は、地下深く、何もみえない洞窟のなかに、下っていくことにより、通常の意識を超える体験を下に修行を行った伝説があるという(この修行法はピラミッドの謎のブログで随分前に書いた)。 なぜ、このような修行が、太古の人々に有効だったのかというと、太古の人々には、時間概念があまり浸透していないで、空間概念の方が強かったためだと思われる。紀元前1千年前の太古の人々は、主に季節の感覚しかなかったという。そのために、季節ごとに行われる祭りを基準に、いまでいう時間感覚を代用したのだという。 季節に準じた自然の移り変わりを生活基準にしたので、月ごとの大まかな感覚しかなかったようだ。というよりは、天体の配置や自然の微妙なニュアンスから、生活を育んだといえるだろう。山登りや洞窟体験は、その日常の空間意識を変えうる最も刺激的な体験といえるだろう。 神秘学によると、時間をこの地にもたらしたのはキリストだという。紀元元年がその証だともいう。空間的概念から、時間的概念の転換をはかったのだという。時間を把握するようになって、自我は、民族的な、集合自我から、個々の自我にかわっていったという。 物理学的にいえば、ニュートンの絶対空間から、アインシュタインの個々の観測系の相対空間への転換ともいえる。ニュートンの空間は、絶対時間があって、誰もに同等に時間は過去から未来に流れるものであり、アインシュタインの空間は、各空間の光の速度により、時間の流れる速さが変わるのである。 だから、生物的意識で考えれば、ニュートンの空間は、誰もが一律、時間を同等に感じるので、いわば時間の差異がないから、時間を意識しないものといえるだろう。それに、ニュートン物理は、初速度が同じならば、皆、一律に運動を行う代物だから、まるで機械の世界のように、正確に世界が刻まれるので、差異が芽生える余地がなく、生物的な意識すら生じないだろう。 つまり、ニュートンの世界では、予言は確実に起こるし、偶然性など生じない。皆一律に同等に起こる。なんと味気ない世界だろう。実際、このようなニュートンの世界に近い太古の人々の世界は、同じことの繰り返しであったという。毎年毎年、祭りを盛大に民族的に行う集団的意識しかなかったのだから、新しい意識の入る余地がなかったという。 そこに新しい意識の余地をこの地にもたらしたのが、秘儀参入法により、意識を変革した秘儀参入者だったという。ピタゴラスの三平方の定理はそのことからもたらされたという。 現代に近づくにつれ、自我は個人のものになり、空間と時間は個別的になってきた。その差異を、アインシュタインの空間では、光速度で表したのである。人間の空間意識や時間意識をまとめて、光速度認識に飛躍させたといえるだろう。 意識の差を光の速度とみなしたのは、アインシュタインの洞察力の重要な点だといえるが、量子力学にあらわれる確率という偶然性を、説明できない。 過去から現在に進展してきたモデルを使って、現在から未来を予測するには、限界がある。予言が当たらないのは限界があるからだ!その限界は、唯物的思考にあるといわざるをえないだろう。時間を超えて、更には時間を司る光速度も超えなければいけないからだ!
2006年08月19日
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終戦記念日に、改めて、戦争について考えてみた。題材は、日本とドイツ(ナチス)である。日本とドイツの戦前と敗戦後の違いをみれば、戦争を誘発したのが何であり、連合国が、これらの国が、再び戦争をしないように、どの点に留意して武装解除したかをみればわかる。 戦前と敗戦後において、最も異なるのは、民族的な宗教(思想)の有無である。 日本において、戦後タブーとなったのは、神道である。対して、ドイツ(ナチス)では、キリスト教神秘主義なのである。こういうことを書くと、誤解を招くので、ただし書きをしたいのだが、これらは真の神道、キリスト教のことではない。本来の宗教とは、この世にあるものではないからであり、戦時に民族を鼓舞するための、偽者の神道や、キリスト教は、宗教の形式を真似ているだけで、古いものが形骸化しただけのものなのである。 理由もなく、真似、統制化するというのが実は、良くないのである。 戦中の日本は天皇を神格化して、他宗教を排し、国民を神道一色にした。靖国神社というのは、その母体神社だといえるだろう。ナチスの場合は、イエズズ会に倣ってSS部隊を創設したという。ヒトラーは、神秘主義に深く傾倒し、黒魔術的な面を利用しようとした。そのために、ルドルフシュタイナーは、迫害を受け、何度も殺されかけている。 それゆえ、戦後、連合国は、国家神道を解体し、天皇は「人間宣言」を行う羽目となるのである。GHQは国家神道を抹殺するために、教育全般から、宗教色(思想色)を無くす政策を前面に出し、米国色のキリスト教プロテスタントと融合した、天皇の象徴をつくりだしたのである。 日本古来の思想風土をうまく利用したといえるだろう。 かって、聖徳太子も、神道と仏教を和合して、神仏信仰の風土をつくりあげた。徳川家康は、それに朱子学を合わせ、自らを東照宮として神格化したのである。そのために、外来のキリスト教を極度に廃絶した。 このように考えてくると、日本の戦中には、民族的な宗教である国家神道の存在が大きいといわざるをえない。国家神道の成立は、黒船ペリーの開国、不平等条約に屈した幕府への攘夷論からはじまる。攘夷論の基調は国学にある。当時、蘭学が盛んだったが、海外の進んだ武器や兵学の前に、国学は衰える一方で、孝明天皇の外国嫌いと、井伊直弼の安政の大獄で、国学者が巻き返し、天皇と攘夷論が一体となり、公武一体の尊王攘夷思想となる。 幕府は当初、外国を打つ予定だったが、幕府が親外国になるにつれ、日本国内に不満が溜まり、幕府は軟弱だとして、代りに官軍側が、尊王攘夷論として、倒幕に向うのである。官軍側が、倒幕して、尊王攘夷となり、明治天皇が君主となり、ドイツ前身のブロシアやロシア皇帝を真似て、此処に国家神道の母体が成立するのである。 つまりは、外国憎しで、民族が一思想に染まり、民族主義に宗教が変わると、選民思想が芽生えてきて、闘争で生き残った者が、自らの野望、欲望と利己心から、対外排斥に向う。単一思想に取り付かれると過信に走り、思想を堅持するために、権威主義と結びつき、恐怖心理が働き、極度の思想的潔癖主義となり、異質性を嫌うようになる。ここに、外国打つべしだとして、好戦に傾倒していくのである。 これを回避するのは、政教分離は勿論、民族と思想を結び付けてはいけない点と、宗教の自由、信仰の自由を優先し、他者に信仰を強要しない点が肝要である。 だから、断じていうが、国家が宗教に介入してはならない。民族として、思想統一してはならないのである。自由というのがどういうものか? 公人にとっての自由が成り立つのか? 公人とは、職責に忠実であるべきであり、再吟味してみなければならないだろう。 とくに一思想に拘り、相手の思想や、異質性の思想に耳を傾けない文化人等は、それがとくに権威主義のような人間は、非常に問題であるだろう。 思想というのは、相手の理解の為にあるのであり、自らの知識や自らの偉大さをひけらかすためにあるのではないことを留意すべきである。 思想とは両刃の剣なのである。 戦争を二度としたくなければ、政教分離を貫くべきであり、一国民ではなく、民族全体、果ては人類全体の幸福を考えるべきなのである。それも将来にむかっての現在の人類に対してであって、過去のことではない。 最後に、戦争論になると、戦争責任を問うが、それを問うならば、現在でも、戦争に間違いはないとする思想そのものに問うべきだろう。戦争に間違いがあるのではなく、戦争自体が間違いなのであり、そこから学ぶことが必要なのである。 過去の戦争を正当化するエゴや、自己防衛する忍耐力のなさに戦争責任はある。 戦争から学ぼうとしない者に戦争責任は常に存在し、再びやってくるだろう。
2006年08月15日
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全く心底馬鹿な総理とは、このことである。この5年間全てを破壊しつくし、まだなお、5年間自らのエゴのために、日本に寄生しようとするのだから、日本国民はたまったもんではないだろう。中国政府も韓国政府も内心、高笑いが止まらないだろうと思う。北朝鮮の独裁者は、笑い転げて死んでしまうくらい笑いが止まらないのではないだろうか? 日本破滅政策は完成に近づいているといえる。中国も韓国も、お馬鹿総理が自分たちのシナリオ通りに運んでくれるのだから、これこそ戦いやすくわかりやすい阿呆はいないだろう。国家の指導者が、相手に手の内を読まれたら失格である。 表向き、彼らは国民のために、非難しているが、内心は、自分たちの内政の不届きを誤魔化せ、なお、日本に借りができるのだから、一石二鳥であるといえるだろう。 御馬鹿総理のやってきた国益の消失は、中国や韓国の立場に立ってみれば一目瞭然である。自分たちの内政の非を外交に転化でき、援助金を巻き上げ、更に、日本の内政問題に介入できるわけであるのだから。私がもし、中国、韓国の指導者であったなら、自国防衛のために、隣国の内政に干渉するのは、先の大戦の事実もあり妥当なことだろう。 人の怨みとは、それぐらい重く消えないものなのである。 日本の堕落とともに、両国の躍進は、目覚ましいといえる。この5年間を振り返れば、日本がいかに国際的信用を失ってきたかがわかる。アジアとしての盟主、その地位はいまや、中国に奪われたも同然である。戦後、米国は、アジアの事は、表玄関として、日本の立場を優先してきた。日本は、その地位から、米国にアジアの盟主たる立場を印象づけてきた。 日本を通らずしてアジアを行く無かれ! としてきたのが、いまや、日本に犬小屋を用意するだけで、犬を飼うかのごとく、何かアジアに用があれば、「ほら、ポチ、牛肉を食え、バックミュージックはエルビスだぞ! ちょっと遊んでろ」といって、犬にエサをやって、追っ払い、アジアや国際舞台に出かけていって、そ知らぬ顔して、帰ってきて、「ご主人様が帰ってくるまで、言いつけを守っておいたか? 偉いぞ、ご主人様の言いつけをしっかり守れ!!」というような感じなのだから、始末に追えない。 もはや、アジアは、日本はスルーして、中国、ロシアとのポツダム宣言受諾当時に、逆戻りである。ただし、中国の政権は蒋介石の国民党ではない点だけが違うが…。 日本の技術力はとうに中国にわたってしまっている。それを食い止めるどころの日本政府が、対話といいながら、相手に席を拒否されているのだから、どうにも収集がつかない。日本は面子などの幼児性に拘っているが、そんなものは国際社会からすれば、建前であり、本質ではない。日本の技術がどんどん盗まれ、やめろともいえないのだから。 会議が必要なのはどちらなのか、どちらが困っているのか考えればわかることだ!日本経済の方が悲鳴をあげているのに気がつかない御馬鹿は何処の誰だろうか? 日本は肉を切っているようで、その実、骨を断たれているのだ! 謝まされている回数を数えてみるがいい! パフォーマンスで、生きていられるのは道化師だけである。道化師が24時間生きられないし、売れなきゃダメで、売れても単発で終わりである。 「日本は消えてなくなる国だ!」と中国の高官が言ったらしいが、現実味を帯びてきたといえる。なにしろ、民族の象徴である天皇さえも、お馬鹿総理の介入で、死に体の呈である。 もっとしっかりした指導者を選ばないと、海千山千の老獪な指導者にいいようにあしらわれるだけだろう。馬鹿な国民が馬鹿な総理を選んだのだから、思った通りの成り行きとはいえる。米中韓は、日本を生贄にして喜んでいるのだろう。 苦労知らずや実力のない血筋だけのボンクラがなるから相手にされないのである。国際舞台は弱肉強食。誰がなっても同じというのは、それだけの価値しかないということであり、総理大臣になることだけしかない中身空っぽの証拠である。一体全体、世の中でその地位に就いてしまって終わりなんてあるわけがない。それがはじまりなのであり、そこから試練の連続なのである。 60年前のことと、今現在とどっちが大切なのか? 日本人は、無宗教といいながら、いつまでも、戦後のままの精神なのは、宗教以外の何処から来るのか不思議である。これでは進歩がないといわざるをえないだろう。 いつまでたっても、幼児性を拭いえずに、戦後の問題を60年もひきずっている日本人は、同じ日本人とはいえ、なんだか虚しく感じる今日この頃である。 マッカーサーの亡霊にいまだにやられているのだから。マッカーサーは言うだろう「日本人の精神は60年たっても変わらない幼稚なものだ。現総理がそれを証明している」と。
2006年08月15日
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終戦記念日(本来、敗戦記念日というべきだが)がせまるなか、日本サッカー代表監督オシムの「敗戦は、最高の教師である。負けることを最も学んだ国は日本である」という言葉が目に入った。そこで負けることの意味を考えてみたいと思い、あれこれ、ネットサーフィンをしていたら、以下の記事に目が止まった。http://www.joho-kyoto.or.jp/~lions/benron01/t01-06.html つまり、負けることの効用性を説いたもので、良い意味で、平和という主目的を大前提として、枝葉末節的な個人の我儘を抑制していくことの重要性を表現したものと受け取られる。 昔ながらの日本のこの精神と比べ、昨今の、日本の現象をみると、高齢化社会のせいか、社会全体の進歩がみられず、かえって閉塞感が益し、減退しているのではないのか?と思わせる事件ばかりが起こる。 一昔前ならば、ある一定の社会的な立場に立つと、「後進の育成に力を入れ、自らは退いて後輩に道を譲る」という発言が社会的重要人物のなかで、普通にみられた。節度というものがあった。日本社会にとって、晩節を汚すことのない隠居制度は、その実社会活力源になっていたのである。 現代では、実力本位のスポーツ界で、わずかにみられるだけで、日本人は、昔より真の仕事ができなくなったともいえる。時間は待ってはくれない。社会は常に前に進んでいるのである。 いつまでも、靖国問題に関わっている余裕など本来はないのである。 靖国問題にかまけているせいで、それより大きな太平洋戦争の総括、日本人の思想、宗教心、現代エネルギー問題、経済戦争、核兵器問題について、全く日本の立場は不明確で、無知蒙昧に近い。つまり、日本人の教養の無さが露呈してきているといえるだろう。 靖国参拝しては、周囲の国に叱られ、意地になってそれを繰り返す。戦中も通用しないことがわかっていて、突撃した日本兵、確かに勇ましくはあるが、単純そのものといえるだろう。浪速節が通用するのは、小説やフィクションという非現実であることを考えるべきである。 現実はただただ悲劇だけである。これを美化というのだろう。自らの行為に酔っているピエロを演じているだけなのである。 マッカーサーが、日本人は精神年齢が幼いといったことが、いまでも通用しているかのようである。 一体あの戦争は何だったのだろうか? あの戦争の意見を色々なブログに探すうちに以下のようなものをみつけた。 確実に迫り来る自分たちの死に、それなりの意義が欲しいと願う青年たちの激論は、艦内で殴り合いの喧嘩にまで発展し、それを収拾したのは、哨戒長臼淵大尉の次のような言葉だったという。 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」 果たして、いまの日本人は目覚めて進歩しているのだろうか? 進歩というのはどういうことか? 反省し、改めるということだと思う。誤りを認め、改善することの積み重ねだと思う。 時代の価値観は移り変わっていく。価値観の変化のなかに、普遍的意味をもとめるには、哲学性と宗教性が重要になってくる。日本人はこれを整理できないでいる。 靖国問題は、実は日本人の無宗教性にあるといえる。日本人は本来、無宗教ではない。なぜなら、神社や寺、亡くなった故人を奉り参る行為は、科学からでは説明できないからである。こういう感情的、情緒的問題は、宗教や哲学、それを培った信念を持ち出さないと、説明できない。 科学的に論理的に無宗教であるなら、そのような行為に意味をもたせることはなく、その行為の意味をいちいち立証してから行うべきであろう。 人間は、無宗教で生きることはできない。つまり、人間はすでに何らかの信仰心を持っているのであり、それを基準にして生きているのである。それは宗教というような大げさなものではなく、親の教えであったり、自らの尊敬する教師の教えであったり、自分でみつけた信念であったりするのである。ただ、それをいかに説明し、表明するかにあるだろう。 だから、特定の宗教など信じる必要はないが、自らの信念は明らかにしなければならない。だから、哲学や思想のような教養が必要とされるのである。 私は、靖国神社に科学的に英霊が奉られていることなど信じられないので、参拝とは思わない。たとえ昭和天皇が、当時、神的な権威的な人格存在だったとして、その者が、参拝していない理由として、A級戦犯にあるというメモがあったのだから、神道という宗教的意味からも、参拝に値しないだろう。 何のためにやっているのか不思議である。平和のためというのなら、真事に不可思議な行為といわざるをえない。ただし、自己正当化の事実つくりという面でなら説明できる。しかし、これは偽造工作と同じで、無いところにウソをつくるようなものだろう。こんな偽装をしているようでは、いつまでも真の仕事なぞできはしない。 昔と同じように、突撃ではなく、自殺という形で、尊い命が、無駄に捨てられていくだけである。我々は、過去に生きるのではなくて、いまを生きているのである。そのことに目覚めるべきである。いまこのときにも、経済戦争に敗れ、死んでいく人がいるのである。その人たちは、奉られたりはしない。 いまの政治家がやっていることは、過去の敗者に同情した姿勢をみせて、現代の社会的弱者、敗者を切り捨てているだけなのである。自分たちは贅沢しておいて、庶民に過度な税金をかける。これが現代版の経済のA級戦犯でなくて、何であろうか?
2006年08月13日
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つまり、春分は、吐いた地球の空気が、天である宇宙と出会う平衡状態の境界の意味で、秋分は、吸い込んだ宇宙の空気が、地球に出会った平衡状態の境界の意味と捉えることができる。両方ともに釣合いの静の状態といえる。 その丁度真ん中が、吐くことをやめて、吸い込むことに転じる動の中心点の意となる。つまり、呼吸をすること。意志をもって、再び吸い込むことが、生命の生命たる由縁の素であることに気がつかされる。また、これは地から天に送り出された魂が、再び、生物の意志により呼吸して、吸い込むことで、天から地に魂が呼び戻される要因を生む重要な点であるといえる。 以上をまとめると以下である。 西洋-キリスト教 東洋的大地の呼吸の概念 魂の概念 12月冬至-クリスマス 吸から呼に転じる(動) 生命(生と死)の誕生 ;地に生まれる 3月春分-復活祭 呼(静) 天での生(再生);地から天へと発展 6月夏至-ヨハネ祭 呼から吸に転じる(動) 天と地の結婚;天にカルマを生じる 9月秋分-ミカエルの日 吸(静) 母体に宿る(受胎);天から地へと収縮 彼岸やお盆の、此岸(しがん)から、彼岸に渡ることの目的は、つまりこの世から解脱して悟りの境地に至るには、西洋でいうところのヨハネ祭が重要で、天(精神)界と地(物質)界の結婚が重要であるわけで、東洋では、お盆として、死んでいった魂と、今生きている魂との結界を意味するのであろう。7月7日の七夕の織姫と彦星の出会いも、この天と地の出会いを意味しているものと思える。 丁度このとき、空気(精霊)を吐き出してしまった地球には、闇ばかりが跋扈するので、闇を光で照らそうという意味で、お盆のような光を灯したり、精霊を呼び戻したり、空気の流れをよくすることや、闇(悪魔)を退散させ、罪深い人を清めたりして、生命の根本たる呼吸を、善き意志により整える秘儀の伝承が、文化の習慣や風習となって土着したものと思われる。 太古では、真の受胎は、精神と肉体の結びつき(融合)を意味し、本来は、同じものをコピーするような生殖を行っていた(両性具有の存在)という。つまり、地球と宇宙の空気の流れとともに、人間は存在し、つまり精霊とともに流れていたといえる。それが、しだいに、地に止まる傾向になるにつれ(両性に分かれ)、現在でいう闇の意識が、昼の意識へと移り変わり、生殖も分業となり、多様化を生じる傾向になってきたという。 この闇の意識から、昼の意識への変化は、このヨハネ祭に、精霊の流れをスムーズにし、天と地を結界したことに依存しているといえるのだろう。古くは、先祖の記憶の伝承が、民族霊(集団魂)として行われたのが、民族から家に分かれ、儀礼化し、徐々に個別化し、個人の血縁のものへの行事と変わってきたようだ。 これを神秘学では、上位の父-言葉(子)-聖霊の三位一体の原則から、下位の御霊-血-水の関係へと転じたといっているという。血とは、神秘学でいうアストラル体のことで、水は、カマ(欲望)のことだという。水は、魂の下位の部分を表し、利己的な部分であるという。この下位の部分をいかに浄化させるかに人類の進歩はあるという。 恐らく、お盆(聖杯の意?)に、御霊-血-水を清めることにより、秋には、西洋でいう天使長ミカエル、聖霊を迎えられるような、心の闇を拭っておかなければならないということなのだろう。仏教でいう執着心も同時に拭っておかなければ、秋に善が悪に勝つことができないばかりか、冬至に、新たなる生命の誕生が行えないというものなのだろう。 神秘学で考えると、お盆は生命にとって真事に重要な行事なのである。年に一度は親しい人と集まって思い出を語らい、記憶の伝承へとつなげることが、過去から明日をつくることになるのかもしれない。
2006年08月07日
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お盆(彼岸)とは何だろうかと、あるホームページを探ってみて、以下のようなお彼岸の由来解説に巡りあたった。http://www.miyagawa.com/syuha/2101-1.htmlこれら色々と調べると以下のようなことが抜粋できる。 彼岸(ひがん)とは雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。また、この期間に行われる仏事(彼岸会)のこと。彼岸会は『到彼岸』の意味とされる。すなわち現在、我々が住んでいるこの迷妄の世界は此岸(しがん)であり、仏菩薩の悟りの世界である彼岸に渡ることを目的とするのが彼岸会の仏教的な意味です。●此岸から彼岸へ、すなわち悟りの世界へと入るための六波羅密とは 1.布施 財施(財を施すこと)・法施(真理を教えること)・無畏怖(恐怖を取り除き安心を与えること)の三種 2.持戒 戒律を守ること 3.忍辱 にんにく・苦しさに絶えること 4.精進 常に仏道を修するための努力をすること 5.禅定 心を安定させること 6.智慧 真理を見抜く力を身につけること 以上六つの徳目のことです。 お盆は各地方、宗派によって様々なしきたりや習慣があります。全国的にみれば8月13日から4日間行われるところが多く、陰暦の日取りをそのまま受け継ぐ七日盆の場合は、お盆は七夕の日が盆の始まりであるとされ、7月7日の七夕の日に墓掃除や墓場に行くと道の草を取ったり、仏壇の道具類を磨き清めることも行うようです。【迎え火】現在では門口の中で苧殻(麻の茎)を焚いて迎え火とするところが多いようです。この場合の火種も寺院や墓場の火であるところが多いようです。【送り火】16日には送り火で祖霊をあの世に送ります。この時、先祖の霊があの世へ無事に着くようにとの願いをこめて、門前で苧殻を焚きます。京都の夜を美しく彩る大文字焼はこの送り火の名残であるとされます。【精霊流し】家の中には精霊棚をもうけて祖霊を迎える。精霊棚とは真菰筵(まこもむしろ)の上に先祖の位はいを安置し、水や線香、供物を供えたもので地方によってはナスやキュウリに苧殻(おがら)を突き立てて、牛や馬にみたてたものを供えるところもあり、この牛や馬に乗って先祖の霊が帰ってくるとされます。(精霊棚は仏壇がある場合、特別に設ける必要はありません)●精霊棚の供物は蓮の葉に包んだり、わらで編んだ入れ物に包んで海や川に流し、このことを精霊流しといいます。打ち上げ花火は元来、精霊送りの行事であったとされています。以上のように色々と抜粋したのは、これらを神秘学から、考えてみたいからである。以前に、「キリスト教解釈による地球は生きている」というブログを書いたが、それを再考してみたい(以下にもう一度掲載する。)地球は生きている-キリスト教解釈による [ 神秘体験空間 ] 地球を水の循環による生命体と捉えると、宇宙との地球の関係が、地球上の生命体に反映していることに気がつかされる。死海にはなぜ生物が棲まないのかも、わかるだろう。塩分により、感覚器官と生殖器官が形成困難となっているからである。 神秘学は、キリスト教の密教からきているので、キリスト教の行事に、宇宙との地球の関係が、表現されている。神秘学では、それを地球の呼吸と表現している。 この地球の呼吸は、植物の繁殖のなかに働く力(易経)に注目すれば、イメージできる。易経は、この生命力を記号に略したものである。春に大地から植物を萌え出させる力、秋に植物をふたたび大地のなかに引き込む力、緑の植物を枯れさせる力の、この植物の生長力のことである。 冬至は、十二月下旬である。この時期の地球は、いわば、人間が空気を吸い込み、空気を自分のなかに摂取するときのような状態にあるという。地球の呼吸は、(地球の)一方の部分が吸っているときは、その反対側は吐いていることをイメージする。 キリスト教では、この地球の呼吸(の基点)を、宇宙の心魂を吸い込む時期とし、クリスマス、つまりキリストの誕生日においている。キリストは、地球が、宇宙から心魂を吸い込んだときに、地球という地において、誕生した救世主だからである。 かって紀元前の古代人は、現代人の昼の活動(覚醒)期がわずかで、ほとんどが、月光による活動(現代人の睡眠)期だったので、日光を、月に反射された月光として、捉え、月光と星々の関係から、宇宙の関係を捉えたという。そして、そのころの秘儀参入者だけが、秘儀参入において、月の開示から、きたるべき太陽の開示に、精神的な人類の活動が移行することを知っていたという。 月から太陽への移行に必要なものが、地球に入り込まなければならない。 これが、いわゆる地球という生命体の、宇宙による受胎であると認識したのだという。そして、それが、ゴルゴダの秘儀の真相だという。太陽からの使者が、地球に誕生する時期、太陽の光を身籠った時期が、クリスマスという冬至なのだという。 春分は、三月末である。このときは、地球は息を吐いている。身籠った太陽の光、宇宙の心魂が、徐々に、地球の外へと表出される。その地球に受胎した太陽の光は地球を照らし、地球から霊的宇宙空間へと浸透すると、宇宙からくる、父なる太陽の光と出合う。地球から発する太陽の光と、宇宙からくる太陽の光が、照応するのが春分であるという。それは、キリストの復活のとき、いわゆる復活祭であるという。 復活祭のこのような理由で、月光ではなく、受胎した太陽の光に関連させる意味で、復活祭は、春分後の満月のあとの日(太陽)曜となっているという。キリストが地に下るまでは、月光を元に、祭を、月光と星々の空間的配位から、定めていたので、復活祭は、春分ののちの満月とされていたという。それが、キリストが下ったことにより、空間から、時間的な、季節の循環における、土、日、月、火、水、木、金の日曜日に移り変わったという(月の暦から日の暦への移動)。ちなみに、この7週の経過は、神秘学でいうエーテル体(いのち)のリズムの(アストラル体への融合作用への)推移を表す。 つまり、祭の期日設定を、月から太陽に移行したことで、行事が、空間的なものから、時間的なものに定められたのである。これは、人間の生活において、いままでの宇宙空間の月光の推移からくる精神的生活から、直接な、太陽光による時間的経過を元にしたものにし、人間の精神性の宇宙空間からの独立を意味したという。 地球の呼吸が更に進み、息を吐き出していくと、6月に、第3の状態となるという。地球は全く心魂を吐き出し、心魂は、太陽の力、星々の力に浸り、結びつく。人間は、宇宙的に生きるために、地球を離れて、この時期に、宇宙のなかにある太陽の力、星々の力と結びつかないといけない。人間は、地球から吐き出される心魂の息に乗り、太陽の力と、星々の力と結びつき、それを、地上の植物、生物のなかに反射させないといけないのだという。それらは、実に多様な色彩で、大地から芽ばえ、生長し、芸術の如く、宇宙に向かって、地から表出される。この期が夏至の祭だとする。ヨハネの祭である。 宇宙の力と地球の力の結合、霊界と物質界の結びつき、ここから、ジューンブライド(6月の結婚)がきたものと思われる。天と地の結婚期なのであろう。 やがて、秋、9月末期には、吐き出した力が、再び戻りはじめる。夏に、地球の呼吸は、宇宙へと心魂を吐き続け、全て吐き出してしまうと、そこに、地に闇が生まれるという。この闇に、アーリマンという唯物的な悪魔が棲息するという。地は、太陽光を吐き出してしまったので、地には、精神的なものがなくなり、物質的な闇だけが跋扈することになる。 人間が、再び、地球に戻るには、アーリマンという悪魔と戦い、勝たないと戻れないという。その不安で恐怖な人間の心魂に、ミカエルという天使が、精神界から助けに現れるという。地球が、再び吐き出した息を吸い、人間が地球に戻るときに、ミカエルが来て、アーリマンという龍の悪魔と戦うという。これが、ミカエルの日であるという。 これらをまとめると以下になる。 12月冬至-クリスマス 3月春分-復活祭 6月夏至-ヨハネ祭 9月秋分-ミカエルの日 これらをみると、人間の生活(生命)は、ほぼ、3ヶ月ごとに、地球の呼吸(生命)に因っているのであり、そこには、エーテル体(生命体:いのち)のリズムが、表現されている。3ヶ月といえば、大体、エーテル体のリズムの3倍である(恐らく、太陽、月、地球の3体の関係からくるのであろう?)。エーテル体は、アストラル体(こころ)に関係している。神秘学では、心魂は、自我が、アストラル体を制御する部分を指すようで、その心魂のなかの悟性魂が、エーテル体制御に関わる部分だとされる。 残念ながら、現代人では、その悟性魂が未発達なので、エーテル体を、心魂が、意識的に、自由に、制御できないようである。将来、人類が発展し、この悟性魂を、ブッテイ(生命霊)に発展させえたならば、制御できるようになるという。その一段階前に、人類は、自我を元に、アストラル内の感受魂を、マナス(霊我)にむかって発展させねばならないという。 感受魂を発展させるには、エーテル体をみる感覚器(蓮華:チャクラ)を、エーテル体内に開発しないといけないという。そのまず、手始めが、人間が、この地球という生命体の呼吸を感じることであるらしい。神秘学による人生の目的や輪廻転生の目的は次回に譲りたい。以上は、前に述べたものに加筆を加えたものである。このことから、お盆とは、ヨハネ祭の東洋版のように思える。というか、ヨハネ祭の原型は、太古アトランティス期に、もともと東洋(アジア)にあった風習が、ギリシア経由で、西洋に伝播したと神秘学ではいわれている。 現代では暦が、天体の活動とは独立し、民衆がより自由な生活を志向した結果、行事を実施する月日が、太古とは大分異なるが、本来のヨハネ祭は、春分と秋分の丁度中日であったと考えられる。なにしろ、「日」とは、ギリシア語でデウスの意なので、神秘学では、月日は、神々(天体)から決まるものとされていたというから、真に定義するなら、天体の運行に沿って、昼(日)と夜(月)が同じ長さの日が春分、秋分であり、それは、地球が呼吸していると考えて、丁度、宇宙の空気を吐いた分と吸い込んだ分が同等になる、人間でいういわば肺の状態とでもいえるだろう。 つまり、春分は、吐いた地球の空気が、天である宇宙と出会う平衡状態の境界の意味で、秋分は、吸い込んだ宇宙の空気が、地球に出会った平衡状態の境界の意味と捉えることができる。両方ともに釣合いの静の状態といえる。
2006年08月07日
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かって、賢者の石の探求が、カリオストロ伯爵によりなされ、カリオストロは、人間の寿命を5527歳までに延ばすことに成功したという。勿論、肉体をもった形では不可能だという。人間の肉体は7年毎に全て新しいものに入れ替わるが、しだいに老衰し、崩壊していくからだという。 しかし、肉体を新しいものにする際に、自らの意志から良いものを選択することにより、物質的な肉体から、非物質的な肉体をつくることができるようになるという。太古では、この肉体をファントムと呼んだらしい。ファントムに物質(鉱物)を肉付けしたのが現在の肉体だという。だから、ファントムはいわば、肉体の設計図、神秘学でいうエーテル体に近いものだという。 つまり、人間が、死期を迎えたとき、肉体から、エーテル体が一気に離れるが、これを生きているうちに、徐々に行うようにすれば、短い寿命を、長く伸ばすことができるのだという。早い話、肉体という死を意識しないこと。死を死とも思わない位、死について理解し、そこから自由になれれば、エーテル体、つまりファントムを生きた状態のままで、ほぼ永遠に保存できるというのである。 これは、いわば、レコードの溝の波動の音声記録から、CDの光の波動の音声記録の原理の発展に類似しているようにみえる。 実際のその波動の記録1つ1つを担うのは、素粒子であり、その生命体としての集合体は、どうやら、幹細胞であるようだ。 幹細胞は再生医療で注目されている素材であるが、その保存がきわめて困難な代物で、骨髄から生まれることが判っているが、その原理は、実際はよくわかっていない。骨髄は、血液の素を形成するので、神秘学を加味すると、血だと推測される。血といっても太古でいう血の意味であり、神秘学でいえば、アストラル体のことである。 だから、幹細胞は、アストラル体から形成されるのだろう。アストラル体は、簡単にいえば、心のことであり、精神状態である。昨今、発ガン性の幹細胞が発見されたらしいが、神秘学でいわれる、正負の反映、つまり精神状態により、幹細胞が、素粒子の対称性のように、両極に分離されて形成されるのかもしれない。 昔からいうように、「病は気から」というのは真実のようである。 だから、精神状態、こころを安定状態においていれば、幹細胞も比較的にいつまでも安定状態におかれるのだろうが、とくに、死への不安、恐怖があると、心や精神状態は不安定になり、幹細胞は、必要に応じて、自己防御するために、血液に分化し、免疫細胞へと発展してしまうので、その消耗が激しくなり、それが過渡になると、発ガン性の幹細胞がつくりだされてしまうというメカニズムが想定されてくる。 だから、ソクラテスが追求した哲学の、「死を死とも感じない生き方」は、永遠の命を掴むにたる極意であることがわかる。心の平安を説く仏教もこれに同じである。 実は、死だけではなく、、男女の営みに関することは、全て、人類から永遠の命を失う素になるのだという。なぜなら、異性と融合することで、子をなしてしまうからであるという。子をつくるのは、幹細胞から分化を生じせしめることであり、幹細胞のエネルギーを消耗させることだからである。 だから、永遠の命を求める宗教者は妻帯禁止なのであるという。また、男性中心の真実は、男性が、女性との戦いに勝って、高度な受胎である、自ら独りでの霊的受胎を行うためであるという。 これらの秘密を知る宗教者は、とくに秘教者は、結婚しないというか、できないわけである。だから、キリストは結婚なぞするはずがないのであり、実際、人類の寿命をあげ、人類を生存させるために、自らのアストラル体から、このエーテル体でなる光の幹細胞を未来永劫に構築したのだという。それが聖書でいう白い衣服なのである。 つまり、キリストのこの幹細胞をまとわないものは、永遠の命を得ることができないというのである。 神秘学によると、これらの知識は、アトランティス時代に、人類はすでに獲得していたのだという。アトランティス時代には、人類に子供は存在せずに、自らをコピーするように受胎したという。いまでいうクローン人間である。しかし、アトランティス時代に、タイタン族が、この受胎をあまりに進めすぎて、神々に対して戦いを仕掛けたので、神々は、人類から、これらの知識を取り上げてしまい、人類は、これらの叡智を失ってしまったのだという。 そして、人類は、いま両極端の男女のなかで戦っている。人類は多様性のなか子供を生み、生命を引き継ぐ人生を送って、カルマを生じさせている。 このような観点から考えると、昨今の子供を殺してしまう親というのは、かってのタイタン族のように、自我の自己保存能、つまりエゴが進みすぎた結末だと予測できてしまう。 このようなエゴイストが増えないように、タイミングよく、キリストがこの地にきて、多様性から統一を行ったのである。 つまり、愛をもって、戦いから和解に転じたのである。 社会的には一夫一妻制を成立させた!この意味は大きい!! だから、現在では、男女のなかに霊的和解が可能なので、それがなって、将来、人類は再び両性具有となるのであろう。 そして、セックスレスの夫婦が増え、お互いに寿命が延びれば、実は霊的に人類は進化しているという良い傾向なのかもしれない。先進国のような退屈な暮らしよりも、後進国で悲劇的で生死の境を体験する方が、新たにこの世に生まれる子供の魂には学びが大きいだろうし…。子供が欲しければ、恵まれない子供を養子にしたらいいのだ!マザーテレサは子供は産まなかったが、多くの人類を育てたからマザーと呼ばれるのだろうし…。 神々の深慮は、いかに深いか畏れ知る!! それがどうもハッピーエンドらしいのだが、なんとなく下半身は寂しいのは、やはり獣本能のエゴイストのなせる業か、悪魔よ立ち去れ~っ!
2006年08月03日
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神秘学によると、人間はかって両性具有で、肉体を地に対応させるにつれて、男女に分かれたという。そして、人間のなかの、霊的な部分の、能動的な霊性、つまり祭司的な部分が女性となり、受動的な霊性、つまり神殿建築的な部分が男性となり、2つに分かれることにより、身体的(肉体的)な部分も分かれ、人間は両極端な2つの部分に分かれ、生殖活動も分業となったという。 これを聖書では、カインとアベルの物語で記していることは、前に述べた。カインが男性の代表であり、アベルが女性の代表だという。カインは、地を耕す者、アベルは、羊を飼う者というのは、それぞれ、神殿建築者、祭司者という意味である。 神殿建築者というのは、本来は、鉱物から創造する者という意味で、科学、学問、芸術の叡智を成す者という意味なのである。祭司者というのも、本来は、宗教の叡智を成す者という意味なのである。つまり、古代では、宗教、学問、科学、芸術は一体だったという意味でもある。 両者は、それぞれ、神に供物をしたが、カインのものは人工物で、科学的なものだったので、受け取られずに、アベルのは、宗教的なもの(自己犠牲)だったので、神の言うことをよく守ったので、神に受け取られ、のちに、カインはアベルを殺してしまう。 科学、芸術、宗教と一体だった叡智が、分かれて、科学と宗教になり、お互いが戦い、科学が、宗教を打ち破るという意味でもある。現在ある宗教は宗教ではないのか?といわれそうだが、神秘学の意味においては宗教ではない。宗教であったならば、神に受け取られた時点で、この世に存在しないものとなり、物的で存在するのではなく、霊的にあるから、語ることができないものなのだ。 この世で語られ、教えられた時点で、霊的な宗教たる意味をなくす。この世は、霊的なものが、死んで存在しているからである。 だから、いまある三大宗教も皆、お互いに戦い合っている段階では、いわば宗教の糞みたいなもんである。糞といえども、糞から、生命が類推できるから、ギリシア哲学では、これを光の陰(カゲ)と呼んだし、エジプト文化では、ミイラとも呼んだという。本来、ミイラの意味は、生命体の排泄物という意味なのである。だから、人間の汗や小便、糞は、エジプトではミイラなのである。 エジプト人にいわせれば、科学は、ミイラ学とでもいうべきものかもしれない。生命あるもの(霊)は、死んだもの(鉱物)として認識されるようになった。これが、カインによりアベルが殺されたという真の意味なのだという。 カインは死んだもの(鉱物)から、創造をなし、神(火)を受け入れるべき、神殿(聖杯)をつくろうとしてきた。それがピラミッドで、三角形を意味し、人が神に向かってつくりあげるもの(神殿)を象徴し、逆三角形は神から下ったものを象徴し、火を意味する。その2つの三角形をあわせた六ぼう星は、聖杯の象徴なのである。 聖杯のなかに、男と女の戦いが象徴としてあった。肉体的な男が先に女的な霊性を手に入れるか、それとも、肉体的な女が先に男的な霊性を手に入れるか、そのどちらかであるという戦いである。 霊的に男は受動的なので、自然の周囲(鉱物)の叡智を手に入れ、肉体的に能動的なので、建築的創造活動を行ったが、それは生命を産むものではなく、非生命体に止まるものである。対して、霊的に女は能動的なので、霊的な創造活動の意志は強いが、肉体的に受動的なので、祭司的創造活動、文化活動を行う傾向にあるが、男性的な鉱物的(現実的)創造性がなく、空想上に止まるものである。 単純にいえば、男は自らで子が欲しければ、鉱物によりその代償物をつくることはできるが、生命ではなく人工物(ロボット)である、女は自ら子が欲しければ、男の肉体(精子)を必要としなければならないことを意味する。男は男であるが故に、女性を手に入れるために女と戦い(葛藤し)。女は女であるが故に、男性を手に入れるために男と戦(葛藤)わなければならない。 そして、男性が、霊的な女性(神の叡智)を手に入れれば、ひとりで、生殖を可能にし、子を宿すことができ、対して、女性が、霊的な男性(神殿建設)を手に入れれば、同様に、かっての両性具有であったように、ひとりで生殖を可能にし、子を宿すことができる。 男は、後者を恐れたから、女子禁制(男子のみ)の叡智の会合をつくったという。そして、神殿つくりから、女性を排除したのである。カインはアベルを殺した。しかし、どうやら、現状をみるにおいて、女性が、神殿建設を手に入れる方が、早いような気もするが…。女性の社会進出が進み、女性科学者が増えてきたからで、女性が、自らの肉体にバイオテクノロジーを使い、出産を可能にする日が近いかもしれない。 しかし、いずれにせよ、生命の謎を解かなくてはならないだろう。 生命とは、まさに植物の種のように、古きマクロ的形態(木)を全て、ミクロなエキス(種)として新たに構築し、そこから発芽を生み出すような神技である。まずはじめに霊的現象が必要だろう。端的にいって、現在のバイオテクノロジーでは、生命を創造することができない。このことは、聖書では、生命の樹と叡智(知恵、知性)の樹で喩えられている。 エヴァは、神により生命の樹からは、実をとって食べてよいが、叡智の樹からは、食べてはいけないとされた。それは生命の樹は神の命令のことを意味し、生命の樹から食べている間は、神の命に従い天の存在で、地のもの(肉体)を宿す(身篭る)ことはなかったからである。しかし、蛇(悪魔)にそそのかされ(地に誘惑され)、知恵の実を食べ、カインを身篭り、産んだ。これが原罪であるが、それは神の命(霊)が無い限り、単独では生殖困難という意味でもある。 地に堕ちたエヴァのために、神は、アダムをつくり、エヴァはアダムにより身篭り、アベルを産んだ。そして、カインとアベルは敵対関係になり、男と女は敵対関係になった。生命は、神から与えられ、人間はつくることはできない。人間は生命の樹を自らつくらなければならない。 生命の樹をつくるのに、男性は低俗な肉体的な生殖(女性の誘惑に溺れやすい)から自由になりきれていない面がある。しかし、男性へのその唯一の希望は、声変わりであるという。 それは両性具有であったとき、現在下部にある生殖器は、上部の声帯と密接な関係を有していたので、その名残りが、男性が思春期になるときの声変わりに現れているという。だから、男性が、女性の霊性(神々の叡智)を手に入れたとき、声帯が、生殖器になるという伝説があるという。 生命を誕生させる叡智、美、力は、神々から人間には与えられなかったので、自らつくるしかない。聖杯の性の秘儀とは、生命を自らひとりで作り出すことにある。賢者の石は、モラルのことであり、人間がモラルをもって創造活動を行うならば、自ら生命力を生むことが可能となるという。そして、生命樹とは、十字架のことなのである。十字架とは、植物界と動物界、そして人間界を表す象徴なのである。
2006年08月03日
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国家の指導者の地位にありながら、参拝の意味をわかっていない馬鹿モノが多いので、改めて参拝の意味を考えてみたい。参拝とは、神に参じ、拝するという意味であろう。国家に災いがあるとき、民族の指導者は参拝して、神々の怒りを鎮めるか、神々の叡智を戴き、治めてきた。とくにわが日本国は、天皇を民族の祭司家として、神を崇め奉ってきた神道の古い伝統文化の国家である。 昔の日本であれば、昨今の天変地異の多さは、指導者の無責任さや自らの驕り、利己心として認識され、指導者自らの生命の犠牲を元に、神々に赦しを得る為にのみ、修験道者のように参拝したであろう。なにしろ参拝というのは、日本列島を創造した神々に拝謁する行為なのだから、非常に厳粛で国家の一大行事であり、ふざけた気持ちや御利益主義でやるのなら、百害あって一利無しといいたい。 恐らく、神をも信じないエゴイストだからこそ、参拝自体を私物化し、自己保身や自己権性欲や名誉欲の道具として扱うことができるのだろう。これでは、参拝自体が、神々のお怒りに触れてしまい、参拝すればするほど、天変地異が起こるだろう。 神を信じるかどうかはその人の心の問題だが、神を信じない者は参拝するべきではない。 参拝は心の問題というのは、確かにその通りだが、であるならば、心を神が宿る位に明鏡止水にし、万事に自らの生命を捧げる心構えがなければ、参拝の意味はないだろう。参拝後の行為が問われるところである。 参拝しても、利己心を捨てずに、変わらなければ、参拝する意味もなければ、神々の怒りにも触れよう。まして、参拝を道具に自己保身や権力強化をするのは、自らのエゴを放縦する理屈をつくっているにすぎない。巧妙な詐欺犯罪と同じである。 詐欺は国民や人を騙せるが、神々は騙せないぞ! 唯物論もここまでくると、人類破滅へまっしぐらの観がある。実際、日本人の出生率は減っていくだろう。霊を物で殺したからである。唯物論がよくないからといって、唯霊論がいいわけではない。神の御威光をたてに、自らの欲望に邁進するのは、更に悪いだろう。人間にはわからないことが沢山ある。認識できないことが沢山ある。だから人間よりも上位の存在を思い、自らが謙虚となることが肝要なのである。 神々に拝謁するには、まず、自らのなかの傲慢さ、自負心、利己心等を拭い去らなければいけない。参拝の作法とは、身体でそのことを実感させるものなのである。参拝後も至って参拝前と変わらないのは、参拝を無意味だといっているようなものだ。だから、そのような神社は必要ないとなるだろう。 神社や参拝の風習は、人間のなかの利己心を抑えるためにあるといえるだろう。日頃から利己心を拭い去る努力をしているのなら、参拝する必要はない。現に、日本の風習、文化は、日頃の生活から自然に行うように体系づけられているからである。挨拶はその最たるものである。相手の神と自らの神が、挨拶という行為を通して自然に顕れるようになるのが真の挨拶であろう。挨拶を強要するのは、かえって悪である。 こういった形式本位の風習が形骸化し、悪となり、本来の善の意味を失い、死んでいくのである。 分枝論論議や、亡くなった天皇のメモまで持ち出されるようでは、墓場で宴会をやるようなもんで、日本民族などこの世から消えてなくなるのは時間の問題だろう。 わが国の馬鹿な指導者が、神聖な血を汚し、神社を汚して、無くしていくのだろう。 権力者は国民から税金をとって贅沢三昧、戦時中は、国民を戦場に送っといて知らん振り、いつの時代も変わらない。ただ演技だけが罷り通っているだけだ! こんな国家に愛国心が沸くほうがおかしいだろう。
2006年08月02日
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アルケミストという小説がある。その小説の主人公の、夢を旅する少年は、あるとき、錬金術師(アルケミスト)に悩みをうちあける。 「僕の心は、傷つくのを恐れています」。 そのような少年に、錬金術師は以下のような名言を贈っていた。 「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ」。このセリフは、錬金術師が、人生の意味を語っているように私には思える。 生きるのが辛いのは、心が傷つくからである。心が傷つかずして、真に生きることはできないだろう。むしろ、傷ついた心を、夢を追い自ら癒しながら人生を克服し進む能力、これこそが真の錬金術といえるだろう。 なぜなら、傷ついた心を癒す能力が、人生のなかの一瞬一瞬の神との出会いであり、自らの癒しを通して、神の存在を認識できる人生の瞬間だからである。 現代人は、あまりに唯物的思考を過信しているので、錬金術を空想化誇大化して、曲解している。確かに、現代科学から、錬金術を説明することもできる。錬金術師は、アルケミストといわれるが、これは、アルケー(根源の意)とマイスター(導師)からできているのではないかと思っている。根源は、唯物論的にいえば、素粒子のことであるから、素粒子から導いて金をつくりあげるという意味で、錬金術師(アルケミスト)という風に、唯物的に解釈もできる。 錬金術には、エリクサーと呼ばれる不老不死の霊薬と賢者の石が必要だという。これは推測だが、賢者の石は、炭素からなるダイヤモンドの構造のことだと思う、なぜなら、ダイヤモンドは非常に安定なので、永遠の構造と思われるからである。また、之はバックミンスターフラーにより解明されたフラーレン構造C60が、人体の抗酸化作用と関連があり、非常に興味深い。ともかくも、賢者の石とは、唯物論的には、非常に安定な構造の配位を表す総称のようなものだろう。 太古では、賢者の石は、植物の光合成の人間版で、クリスタルとも呼ばれたようである。実際、脳からクリスタル様のものが血液中に流れているといわれている。クリスタルの成分、つまり珪素が結晶化する前段階で、人体により液状の段階で食い止められているという。珪素と炭素は、共に4つの手をもち同じ構造をつくりやすい。ともかくも、いわば人間は炭素の固まりであるわけだ。無機化学と有機化学の違いといえば、炭素構造の違いといえるだろう。植物は光合成を行い、(二酸化)炭素から、酸素をつくる。人間は呼吸により、この逆の酸素から、炭素を火でもやして、(二酸化)炭素を合成する。 だから、呼吸とは、この炭素の合成プロセスを、エネルギーで波動化したものだと思われ、言葉とは、それを音声化したものだと考えられる。 物質をつくる素粒子は、波動からなる空間を固定して閉じ込め、エネルギーの固まりにしたものにすぎないと考えるのが、現代の唯物論的科学であり、これを量子化という。 量子論で、金という金属をつくることは理論の上では容易と思われるかもしれないが、実際は、金の原子核をつくるには、原子核の安定の魔法数との兼ね合いもあり相当困難を伴うだろう。神秘学では錬金術で得られる叡智をもってすれば、金の合成など容易いことだといわれてきた。真の錬金術は金合成が目的ではなく、叡智の獲得が主目的で、あくまでその副産物が、金の合成だという。 私の直観として、金の原子核の合成には、魔方陣が関わっているような気がする。 では、エリクサーとは何だろうか? 神秘学では、人間は植物の逆であるといわれている。かって人間と植物が一体だったときは逆の関係だったからだという。人間と植物が人間の呼吸において共生関係にあるのがその証で、人間の腫瘍は、植物の腫瘍である宿り木で治癒できるとするドルイドの神話伝説は、ここからきている。 植物は、鉱物と異なり、生命を宿している。鉱物体と生命体の違いは、いうまでもなく、その構造であるし、生命体は移り変わるが、鉱物体はある一定の形を堅持する傾向にあるだろう。 唯物的科学論では、生命体を理解することはできない。だから、エリクサーを何らかの物質として考えることは無理であろう。 実際、エリクサーは霊薬という、霊が名前についているように、物質ではないと考えるしかないだろう。そこで、アルケー(根源)を唯物論ではなしに、哲学的に考えてみるべきである。 そうすると、万物の根源(アルケー)は水であるといった有名なタレスの言葉が思い出されるだろう。 太古、水とは、液体のことをいった。水銀は水とは関係ないが、日本語では、水(液体)銀と呼んでいることからイメージできるだろう。だから、万物(物質の全て)は固体を意味し、固体は液体からなるという意味になる。唯物論でいえば、固体は、液体が結晶化したものであるという風に解釈できるが、そんな当たり前のことを、わざわざタレスが言ったのでは無いことは明白である。 水(液体)とは何であろう。ちなみに固体を太古では、土と呼んだ。そして、気体を風、または空気、エネルギーを火と呼んだ。 だから、アリストテレスは、これら水、土、風、火を4大元素霊といったのである。 そのなかの水と土の関係を、タレスは、万物は、水からなるといったわけである。 土、つまり固体は、現在の地球になって、地球が宇宙から冷やされてできたという。液体がエネルギーを失い、安定状態になれば、結晶化し固体になることは唯物論で明らかである。 しかし、タレスがいったことはそれだけではない。水は、火を拒んだ風(空気)からなり、だから、火は上昇し、水は下降するのだという。つまり、エネルギーは、不安定になりやすく、液体は、安定になりやすい。エネルギーは無常で、液体は常である。エネルギーは異なった形態をとりやすく、液体は同じ形態をとどめようとする。 つまり、そこに生と死がある。 だから、エリクサーとは、火から水を生むもの。生から死をとるもの。生命を吹き込む呼吸のことであることがわかる。 賢者の石がハードウェアだとすると、エリクサーが、ソフトウェアだといえる。 賢者の石が安定な状態だとすると、エリクサーが不安定な状態を生むもの。 賢者の石が、拡大していくものだとすると、エリクサーは収縮していくもの。 賢者の石が言葉だとすると、エリクサーは言葉を発しようとする意志であり、伝達内容のもの。 賢者の石が遺伝だとすると、エリクサーはカルマだろう。 賢者の石が唯物論だとすると、エリクサーは唯霊論だろう。 ここに矛盾が表出される。生命のなかに生と死の矛盾が宿っている。 生が能動で、死が受動である。死を能動にすれば、それは再生を意味する。 エリクサーが生命の息吹を与えるもので、賢者の石がそれを受けるものであることがわかる。 エリクサーが霊的に能動性を意味し、賢者の石が、霊的に受動性を意味する。 つまり、エリクサーは、女性的な霊体であり、賢者の石が、男性的な霊体である。 女性的な霊体は、聖書をこの世にもたらした。対して男性的な霊体は、ピラミッドや神殿をもたらした。 二つが融合すると聖杯となるという。聖杯は、逆三角形と三角形をあわせた六ぼう星がその象徴である。 錬金術師は、聖杯(堂)騎士団だったのである。
2006年08月01日
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