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これまで書いてきた神秘学による太古の医術のなかで、古代インド哲学で呼ばれるブラフマンとアートマンの意味を説くことができる。古代インド哲学は、太古のヴェーダ哲学を、その名残としてバガヴァッドギーダーの記述として残しているという。 神秘学では、ヴェーダ哲学で、上述のブラフマンとアートマンの意味が説かれているという。 すなわち、ブラフマンとは、人体内の宇宙であり、アートマンは人間の外にある宇宙のことである。これまで記述してきた、錬金術的というか、占星術的な医術では、そっくりそのまま、人体内と、人間の外、つまり自然のプロセスを表すことになる。 ヴァーダ哲学(ブラフマン、アートマン)=医術(錬金術、占星術)=人間観察(人体内、自然) 太古の医術では、ヒポクラテス、パラケルススの医術のように、内外の人間観察のなかから、生理プロセスを見出し、治療プロセスを見出すような事柄を扱うわけで、 人間観察(人体内、自然)=太古の医術(治療プロセス、生理プロセス) と三位一体の表現で記述できる。 この三位一体の式からわかるように、太古人は、自然を通じて、病理として、自らのなかに異常を見た瞬間、即座に治療プロセスが示唆できるように、高度に養成され、自然治癒力を有していたという。 この太古人が本能により到達していた自然治癒力が、現代人から失われたのは、ある意味、進化なのだが、現代人が再びこの自然治癒力に行き着くには、非常に稀だが、本能から主知主義を経て霊感力へ向かう方向で、いわば神通力を取り戻す必要があるという。 現代人は、唯物志向に走ったために、個人的な自我を手に入れたが、今度は、個人的な自我から、他を思うような、いわば思いやりを巡らし、知識を知性として活用するのではなく、思いやりとして愛に表現し、イメージ化し、イメージを更に不特定多数に通用するようにクリアに、霊感力にするのである。だから、霊感力には愛がなければ意味がなく、愛が深まることにより、周囲の宇宙の力を伴って、神通力となるという感じだと思われる。 人間観察(人体内、自然)=太古の医術(治療プロセス、病理プロセス)の 1つ具体例として、例えば糖尿病を、神秘学から考えると、糖尿病患者がその異常な病態のなかに示し、問題となるのは弱い自我であり、そのため、糖形成において当然生じてくるプロセス全体を克服できない要因を生じるという。 表面的に捉えると、糖が流出するから、強すぎる自我の存在のせいと考えがちだが、そうではなく、糖尿病は弱すぎる自我のせいであるという。なぜなら、発達すべき自我が、適当な方法で、糖により生体組織を組織化する要件を果たすように、器官的プロセスに強力に参加できていないからであるという。最終的に糖尿病促進の作用全ては、弱い自我と関係しているという。 甘すぎる食事と同時にアルコールを飲むと、糖尿病発病の微かな兆しを体験することになり、この兆しは、勿論、消滅することもあるが、自我が弱められていると、本来生じるプロセスを自我が克服できずに、この兆しを示すプロセスが喚起されるという。糖尿病において大きな役割を果たしているのは、弱い自我故の遺伝性の素因というような概念であるという。 この遺伝性の素因が弱い自我に作用を及ぼし、弱い自我を自ら克服しようとしない自我が、逆に遺伝的素因の負担をし易くするという。これは、逆にいえば、遺伝的素因は、弱い自我に起因するともいえる。例えば、人間が皆、遺伝的素因を負い易いとすると、人間は全員この弱い自我故の遺伝的素因を負わされてしまうことになるが、人間が皆、実際、この遺伝的な素因を負わされているわけではないということは結局、遺伝的な素因を、あまり負わされていない人たちは、良く機能する自我を持っているということに還元できる。 糖尿病の場合、かなり心理的な原因が多少とも存在し、興奮しやすい人が経験する興奮が、糖尿病の発生とかなり関係しているという。それは、自我が元々弱いために、生体組織の周辺部で活動し、脳を通じて強固な主知主義を発達させるように制限してしまうからで、この弱くなった自我は、生体組織の内部深く、つまり、本来の蛋白質加工が行なわれる場所、つまり植物蛋白質を動物蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいくことができずに、自我の活動がその場所まで及ばないためだという。 そしてその代わりに、自我が届かないこのような領域である、いわば消化、血液調製、呼吸の、中間的な組織化プロセスが生じているこの場所では、アストラル体の活動が、最も活発なので、それだけ一層、アストラル体の活動が活発になり、この中間的な組織化プロセスは、自我の活気のなさによって放任されるという。 そして、この放任された中間的な組織化プロセスは、人間全体と関わらずに中心的人間と関連する、あらゆる我儘なプロセスを発達させ始めるので、正に糖尿病になりやすい素質は、自我が人体内のプロセスから閉め出されている場合に生じるといえる。 この人体内の、内的な分泌プロセスはまた、心情形成、感情形成と密接に関係し、自我が脳を通じて、その主要な活動を求めるのに対し、分泌活動、つまり振動し、循環する活動は全て、自我により管理されずに放置され、このことは、人間が、感情の影響から作用する心理的影響に対する支配を失うことと関係するという。 周囲で何か興奮を生じさせるようなことが生じる場合、平静でいられるのは、知性を腸のなかにまで送り込むことができるからであり、知性が単に頭脳のなかだけに止まるのではなく、真に人間全体まで行き渡りその全体の知性を用いることができることから、平静でいられるという。 あれこれと思案すると、そのような状態はできず、一面的、主知主義的に、頭脳から活動するなら、人体内は独自の運動を始めようとし、そのことが素で全く興奮しやすい素因となり、その結果、この興奮が、自身の器官的プロセスをも知的に喚起することになるという、本当は別のこと、まずは全体の知性に浸透され、まずは理知によって和らげられてから人間の内部に作用すべきものであるという。 このような糖尿病の事柄においては、自我の無力が生じているわけで、自我の強化を探るには、人間の自我に、最初に作用を及ぼす最も地球外的なもの、つまり地球に対して最も周辺的なものと親和性を持つプロセスを理解する必要があるという。そして、適切な地球外的なものに参加できる領域へと、自我の移動を可能にさせることが必要であるという。 地上では、自我が、人体内の中心的生体機構において働くように地球外から誘導されるようなプロセスと、同じプロセスが至る所に存在し、この地球外のものが、鉱物的な地球や、植物に覆われた地球にも、エーテル的な油を形成する切欠を与えるという。 自我の強化には、人間の自我が眼のなかで働くのと同じように、自我が、顔前に押し出された湾のなか(眼の窪みの構造)で実際に外界と直接関係するように、自我とエーテル油形成プロセスを関係づける必要があり、細かい霧状にした油を拵えて、油浴で、人を治療する試みが有効であるという。 どのような霧状にして油浴に用いるか、何回位行う必要があるのか等を試してみるのが望ましく、この油浴が糖尿病を克服する1つの道であるという。人間の外にある自然のなかのプロセスを見抜き、この外のプロセスと人体内のプロセスとを共に考えることが、人間と人間以外のものの生理学、同時に治療法でもあるという。 本来人間は環境と親和性を持つので、この親和性を用いて、人間を癒すことができるのである。例えば、再び、地球の植物相を観察すると、植物は地面から上へと向かい、植物のなかの諸力が花のなかで霧散し、実のなかで再び集積する様子をイメージできる、つまり地球の植物存在全体を観察すれば、このエーテル的なプロセスの何千もの不思議なヴァリエーションが存在することがわかり、例えば、常に種のなかに突き進むプロセスが、葉の形成において止められることにより、葉が草状に厚くなり、閉鎖する前になお、ある種の力が止められることにより、種の外皮が厚くなるというイメージが実感できるだろう。 このように植物では、内部のエーテル的プロセスが押し止められることにより、ヴァリエーションが生じて存在する。 植物は、根、茎及び葉、花及び実の3つの部分に三分節すると、それぞれ、根の形成で止められれば、根が主の植物となり、茎及び葉形成で止められれば、茎及び葉形成が主の植物となり、花及び実形成で止められれば、花及び実が主の植物となるという。 植物の茎及び葉(根、花及び実) この植物形成プロセスを、例えば地球の物質的作用の面から、或いはそれと対抗する光の作用という面からの一面のみから見ると間違いを犯す素になるという。実際植物は、自らのなかに物質体とエーテル体(光)を秘していて、地球外のものが地上のものにいわば衝突する、植物の上部において、この物質体と、エーテル体全体のなかに上昇する植物形成プロセスが、宇宙的-アストラル的なものと関わり、そのとき、ここで、植物は動物形成プロセスに向かって成長しているが、動物形成プロセスには到達しない存在そのものとなっているという。 地球の内部は、植物形成プロセスに浸透され、植物が成長し向かっていく大気圏では、動物形成プロセスに浸透され、植物は大気圏の動物形成プロセスに向かって成長するのだが、この動物形成プロセスは未解決で、植物には到達できないプロセスなのである。この動物形成プロセスは、花を咲かせている植物界の上方で織りなされるプロセスで、これは地球全体に対して円環の性質を持つという。 このような動物形成プロセス全体が、至る所で動物の個性を作り出す中心、つまり動物霊の自我に集められ、この動物形成プロセスが、動物の体内に移されているという。いわば、動物は、植物の上で生じているプロセスを分断させ、この分断されたプロセスを自らの内部に移し、そして動物が植物に勝る器官は、本来は周辺的に外から植物に向けられている外のプロセスを、動物が自らのために使用し、その作用効力としてある一点の動物の自我から中心的に展開するものに他ならないという。 この動物形成プロセスは、人間のなかにもあるが、ただし、人間では物質的生体機構の内側に置かれ、消化、血液形成、呼吸間で生じる全てに向かって置かれているという。この場合、その人間形成プロセスは、今日の動物形成プロセスに最もよく似ていて、物質的に、動物形成プロセスの内側にあり、植物形成プロセスの生命傾向と、親和性をもつので、正しく植物界における生命傾向として有効なものを用いて、この内的人間に対処することを、期待できるという。 端的に人間は動物に優るものを持っていて、人間は、動物が、植物とアストラル体との間で行なっているような相互プロセスを遂行するだけではなく、鉱物と、アストラルを超えるもの、つまりアストラル体よりも更に周辺にあるものとの間で、相互プロセスを遂行することにも基づいているので、現在の地球進化の人間にとって特徴的なことは、正に人間が鉱物形成プロセスを共同で行なうことにあるという。 丁度、動物形成プロセスにおいて蛋白質の変成が行なわれるように、蛋白質形成プロセスの動物的変成よりももっと周辺的な傾向を有するプロセス、いわば、天と鉱物界との間で生じているプロセスが行なわれているという、これは元来科学には全く顧慮されていないプロセスで、このプロセスを表現しようとすれば、脱塩プロセスと呼ぶことができるという。
2006年11月30日
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国民不在の政治が、いよいよ、顕わになってきたという現在の政局であろう。馬鹿で愚かな自己保身だけの政治家たちが、いよいよ、地獄送りの正念場となってきたようだ!怨みつらみが悪霊を呼び寄せ、悪霊たちは、我をもと、相手を叩きのめす。 所詮、いかにあがこうが、いままで、我が者顔で、国民その他を欺いてきたツケの清算である。いよいよ、天罰の裁きがはじまる予感がする。米国ではブッシュ政権、イギリスではブレア政権、それは、政治バブルを浮かれ愉しんできた、いわば、経済でいえば借金まみれの自己破産宣告なのであろう。 政治家としての資質なしの政治破産宣告なのである。 私利私欲知事も話題になっている。人間として醜さ百倍である。いかに権力の上に胡坐をかいてきたかの悪徳の見本市といってよいだろう。 日本人はバブルに浮かれ、成金趣味、猟官運動と、なんと日本人は醜くなったものだろう! 愛国心を語る前に、自分の姿を鏡に写すがいい。総理大臣として、いかに国家に命を捧げてきたのか?、知事として県民にいかに命を捧げてきたのか? そんな日本人なぞ、この世にいないに等しい! 税金を己の為にいくら使ったかの浪費汚職家ばかりなのだから。 私服着服と、利己主義に邁進し、国民、市民を小馬鹿にし、自己保身にばかりに気を配ってきた輩ばかりで、自己宣伝に、マスコミ、広告代理店を使うタレントさながらのふざけた精神の持ち主でしかないのだろう。まるで、詐欺師そのものである。 神を畏れず、馬鹿にし、仏を笑い、無神論者の新興宗教の教祖とつるむ愚か者たちに最後の審判が下るだろう。 それでも日本国民は無垢で親切だから、騙されたままでいるだろうが、天はそのように甘くはない。日本国民の裁きは甘いが、天の裁きは苦い。 悪徳政治家は悔いるだろう、せめて、国民の裁きが苦くあればと! 国民の裁きが、苦くあれば、天の厳格で苛烈な裁きが、そのように苦く感じなかったと! 国民の裁きが甘いからこそ、天の裁きは一層深刻に苦く感じられると!! おお、罪深き日本の政治家たちよ! 悔い改めるには、あまりに遅すぎた!! いまこそ思い知るがいい、国民のあまりに甘い裁きを! 甘いが故に、過酷な裁きと恐怖を迎えるだろう。 前もって過酷であればと嘆くなかれ! 多くの自殺者の叫びを聞け、多くの国民の苦しみを聞け! そして、地獄に堕ちていけ!! ヨハネの黙示録のごとく、火に焼かれて消えていけ!!! もはや、日本の政治家を日本の国民は軽蔑の眼差しでしか見ない! 笑いものの対象でもない!!! 笑えないギャグこそ、虚しいものはない。 これからの日本国民のいじめの対象、矛先は日本の政治家である。 日本の政治家なんて、馬鹿らしくて誰が信じられるか? 日本の政治家の発言は、一言「手前がかわいいだけだろ?」で片付けられるからである。 だから、社会に迷惑かけずに、自ら馬鹿にしたニートのように手前独りの世界で暮らしな!
2006年11月29日
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思いッきし手前味噌で悪いのだが、土日は、競馬三昧のまだまだ覚りにはほど遠い、未熟な中年の私なのだが、1口馬主というのをやっていて、わが出資馬のアロンダイトが、なんとG1を勝ってしまったのでR。 前々日から、職場で嫌なこと不幸の連続だったので、密かに、今週は、まさか、神様が、この馬を勝たせてくれる前兆なのかと思い、不幸にもめげずにとにかく明るく積極的に振る舞ったのである。忍耐!、忍耐!!の連続だった。 しかし、利益を求めて、行うのは、愚の骨頂なので、取らぬ狸の皮算用はできるだけ避けた! たとえ、アロンダイトが、不甲斐ない成績に終わろうとも、人として忍耐に尽くそうと一応、心に決め振る舞ったのでR。普段の私だったら、キレていたように思われる。私は、それなりに忍耐のある方だと一応自負はしている、人を騙す位の非人情であるなら、騙された方が人情であると愚かにも信仰しているのである。それだけの覚悟はしていたつもりであった! それが伝わったのかどうかは神のみぞ知るところだが、アロンダイトがゴール板を一着で通過したときは、まさかというか、歓喜一杯であった! 口取りに向かうなか、同じ出資者と喜びを分かち合ったことはいうまでもない。どこか、狐につままれた心境であった!出資者とこの喜びを分かち合う瞬間は、1口馬主の醍醐味といってよい。それは正に、幸福感を全てで分かち合う瞬間だからだ! やはり、幸福は皆で分かち合うべきものなのだ! 競馬の世界では、確かに敗者の上に、勝者が築かれている。敗者の前で、喜ぶのは、よくないだろう。この点は反省の余地を残すものだろう。 しかし、この馬と共に歩んだ出資者の心意気が皆共通のものを持つ点で、ある程度、単なる1レースのみの付き合いの周囲の人には理解され、許されるのではないかと思う。それでも他の馬主さんには申し訳ないが…、なにしろデビュー戦は散々で、ビリに近い二桁着順の馬が、どうみても、当初、出資して失敗したと思ったものだからだ。 いうなれば、最たる負け組の馬だったのである。 負け組の馬が、舞台が芝からダートに変わり3戦目で、少しいいところみせた。その後4戦目で、後藤騎手に手綱が変わり、一気に、素質が開花した。 人間に相性があるように、馬と人にも相性があることはいうまでもない。恐らく、後藤騎手に巡り遭わなければ、このアロンダイトのその後の5連勝という金字塔もなかっただろう。 相性というのは、非常に重要ないわば人生の調味料といえる。 アロンダイトも後藤騎手から学び、後藤騎手もアロンダイトから何かを学んだように思われるからである。 競馬の世界には、人馬一体でなければ、G1レースを勝てないという格言がある。私は、これは真実だと思う。相性がよくなければ、お互いに信頼し、自らを犠牲にし合えないからである。 信じるものは救われる。 私も、密かに、前々日からの不幸を、幸福をもたらす予感と信じていた。しかし、同時に、まさか、そんなという気持ちもあり、その気持ちを諌めていてもいた。 不幸と幸は、糾える縄の如し ゴールの瞬間、不幸が幸につながるものという霊感を感じた! そして、口取りのとき、それが確信に変わった。なぜなら、同じ出資者のなかに、なぜか、このところ、自分は非常にツイていると言っていた人がいたからである。 そのような神々の全ての配慮の元に、アロンダイトがジャパンカップダートというダート日本一の国際レースを勝利したのである! 厩務員と調教師が涙ながらに握手していた光景をみて、馬の調教の大変さが身に染みて実感できた。G1という頂点でこそ、それは流せる神聖な涙なのである。 何もかもが走馬灯のように、喜びに変わった瞬間である。 私は、密かに、神々に感謝した! サッカー選手のビスマルクがゴールを決めて、お祈りするポーズを真似て密かに行った。 次の朝、早速スポーツ紙を買い漁ったのだが、一番人気で2着のシーキングザダイヤの有名ジョッキー武豊騎手のコメントが気にかかった。 逃げ馬が内を開けて、その内をアロンダイトが突いて出たのが、敗因というようなコメントだったが、これには、物凄いショックを受けた! なぜ、ショックを受けたかというと、内を開けた騎手の立場を思いやっていない発言だからである。勝負である以上、騎手なら、内を開けたくはないのは当然だろう。ましてやG1なのである。武豊騎手はいつも人気馬に乗っているから、この逃げ馬の騎手の気持ちに鈍感になっているのではないかと思ったのである。少々天狗になっている感がみられた! これは確かにわがアロンダイトを自己贔屓にみている点もあるだろうが、それなら、同じ逃げ馬に乗って内を開けないようなレースをした実績から言ってほしいと思う、少なくとも、自分がこの逃げ馬の騎手ならば、多少、下手に映ったとしても、このようなことをいわれたら、いつか、みていろと思うはずである。 確かに、武豊騎手の騎乗には隙のない天才性を感じさせるが、私が尊敬するデットーリ騎手は、流石に、一流騎手が必要なことに、敗因したときのコメントといっている。武豊騎手は、確かに一流であるが、超一流を目指して欲しいと思う。このコメントは負けず嫌いの上り坂の若い騎手には、通用するが、岡部騎手なき後、日本を背負う騎手には、無駄な発言だと思う。 馬主ならば、心底、誰もが武豊騎手に乗って欲しいと思っているわけなのだから、武豊騎手は、馬主におべっかする必要はないのである。馬に乗せるのではなく、馬が乗せる存在なのだから、ダメなときは、馬がダメだとはっきり言った方がいいだろう。 競り合いで負ける馬は、いかに展開で勝とうが、所詮実力ではないのである。だから、ディープインパクトのような馬こそ、似つかわしいのである。武豊騎手にはプライドをもった発言をしてほしいように思った。技術ではデットーリ騎手と同等なので、後は社交性のエレガントさを身につけるときであろう。 私といえば、あまりに善い事がおきたせいで、その後、更に不幸の連続が襲いつつある日々である。幸福というのは、ある意味、怖いものでR。
2006年11月27日
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正しい宇宙理解からの医術-その1からの続き 人間を自然と関係づける、これらの本能的な自然治療法の最後の名残を、取り去ってしまったのは一体誰なのかと問うなら、それを奪い去ったのは、学校教育であり、その最後の名残まで奪い去ったのは、大学教育であるという。これらの学校教育とそれに関連する事項は、根本的に、人間と自然全体との共生を妨げる性質を持っていて、一方では、巧緻な知性偏重へと、他方では、巧緻なセクシュアリティへと、どちらか一方へと一面的に漂っていき、太古の人類においてはまだ中心にあったものが、現代の人類においてはもっぱら、異性のこの両極(雌雄)に分離しているという。 真の科学の本質的な営みにより、再び健康になれるかどうかは、実際正しい宇宙理解を再発見することにかかっていると神秘学は説く。現在残念ながら病んだ科学の営みによる研究を、正しい宇宙理解に基づいて、再び、再認識し、健康になった科学の営みをもって再研究される必要があるという。
2006年11月22日
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前々からの神秘学上の医学的知識をまとめてきて、今日の医学的常識、一般認識からは、非常に難解で、理解し難いことの多くを、神秘学は含んでいることがわかるだろう。これらの知識がどのような経緯で、手に入れられたかをいうと、更に、唯物論者は、唯物論者だからこそ、即刻、否定的な意見や批判を、更には否定的な見解を述べるだろう。 しかし、何事も、早急に判断しようとするのは人間の最も愚かな行為で、我々人間は、常に判断を間違う存在であり、賢者足ろうとするなら、神々が判断を下すのを、根気よく待ち続けるべきなのである。 実は、老子の出典にもあるように、愚者が笑うことこそ真実で、唯物論者が、とても信じられないと笑うことこそ、実は、この世界が、唯物論では表現できない、真の意味を表しているといえるのである。 このような叡智は、実は神々との対話より授けられたのである。神秘学とは、神に授けられ秘密にされた叡智のことなのである。聖書にもあるように、我々は、神々に似せられてつくられたので、我々のなかに、神々の叡智は、既に宿っているのである。神々との契約である十戒は、我々のなかに眠っており、アークの箱は、我々の人体そのものなのである。 我々は意識を発展させることで、神々の叡智を自ら受け取ることができるのである。神々は、その仕掛けを、人間の人体に与えたのである。我々が十戒を実践すれば、神々の叡智が自然と宿るように人体は作られているのである。我々が見たこともない神々を信じることができるのは、その証といえる。見たこともない神々に善の志向や、絶対的創造性のイメージを浮かべるのは、その証である。その反対に、悪を感じることもできる。性善説も性悪説も、善が何で、悪が何であるかが分からない限り意味を持たない。 性善説も性悪説も、我々人間が、善と悪を生まれつき認識できるという意味において成り立つものであり、善と悪が、神々と神々でない悪魔の存在からきていることに、誰も疑いすらもたないのがその証拠であろう。もし、神々と悪魔の存在がなければ、この世の善と悪が存在するのかどうか疑わしい。今日の唯物的な人間主義の科学が否定しようとも、少なくとも、人体のなかには、宇宙の進化を善、退化を悪とした認識機構が備わっているのである。 例えば、人間が病に罹るとは、神々のその仕掛けから、人体が外れつつあるいわば警告であり、その病を道徳により克服することで、神々の方向へと再び進路を戻し、暗黙糧に魂が叡智を受け取っているのである。我々は、このように、無意識的に神々の叡智を受け取っているが、自らの意識を変えることにより、神々の叡智を意識的に受け取ることができ、魂の中に記憶として残すことができる。そのような意味で、病に罹るというのは、自らの意識を変えるよい機会でもあるともいえる。無意識を意識化できるからであり、自主的な病の克服法は、そのまま、神々の叡智を自らの魂に授けるからである。 このように意識的に、無意識下の神々の叡智、つまり、いわば人体の調整能力を受け取れる者を秘儀参入者と呼んだという。神秘学は、これら秘儀参入者から口伝と、教育により受け継がれた教えの集大成といってよいという。最高の秘儀参入者は、ソクラテスが言ったように、神々と対話ができ、神々が記したという、アカシャ史記を読み取れるという。 勿論、神秘学は、他の宗教経典と同じく、いわば伝習なので、伝えられた内容を、そっくりそのまま信じるのは危険であり、盲信は偽善であり、悪である。だから、神秘学は、自らの修行法であり、一人一人が、日々の道徳の実践のもとに、秘儀参入者とならねばならない。 神秘学は神がモーセに十戒を与えたように、人間に与えたもので、いわば聖杯の見本であり、人間は、自らで十戒を実践し、一人一人が聖杯をつくりあげなければならない存在なのである。人生は、聖杯の製作の工程なのである。中世の聖杯騎士団等は、このような秘儀の教えを守り継承する者たちなのであった。日本では陰陽師や密教僧に該当する。それら、歴史的な秘儀の側面はいずれ、書きまとめるとして、古代の医術を、更に続けてまとめる。 古代の医術師パラケルススが、自然を通して治療することを心掛けたのは、宇宙の進化を通じて治療することでもあり、例え、形式上、人為的に是正したといっても、宇宙の進化に沿わなければ、意味がないということでもある。つまり、古代の医術では、治療することで、宇宙の進化をも洞察できる意味と、無意識下の叡智を、意識下に置くことをも意味したのである。なので、パラケルススは錬金術師でもあった。錬金術とは有体にいえば、宇宙において、最も価値のないものを、最も価値のあるものに変える術である。つまり、進化の道筋にのせることである。 これと同じようにイエスという言葉も、神々を通じて治癒を行うという意味をもつ。つまり、治療行為が、本人のためになるのかどうかが古代の医術では問題とされたのである。本人のためとは、本人の自由な意志であり、選択である。いかに患者に当面良い治療法を施したとしても、本人の意志が尊重されなければ、それを制御できずに、結局また、悪を生じる偽善となり、悪なのである。当面は良くとも、後々、それは偽りとして現れる。嘘をつくことと同じで、何度も嘘をつくことになり、その都度、魂は矛盾に苦しむものとなる。 古代では、医術は大抵霊能者が行ったので、患者の将来の人生において、治療がいかなる意味をもつかをも見通せたのであり、このことは、聖書にあるイエスの治療行為でも、イエスが、患者本人の意志をまず尊重してから、治療を行っていたことでわかるだろう。神々でも、人間の意志を尊重しているのだから、尚更だろう。ある意味、本人の意志さえ、治療に向いて堅固であれば、どんな悪でも取り付く島もないといえるだろう。全知全能の神だって本人の意志を無視できないのであるから、悪霊は勿論のことである。多くは、当面の痛みや苦悩、死を感じる恐怖を取り拭いたいがため、自主性を放棄し、かえって悪の虜になっているのだろう。 神秘学によると、このように病気は、自らの意志の薄弱さ、つまり自我の弱さからくるので、自我の強化がなされれば、自然と治癒するものといえる。人生はある意味、自我強化プランともいえる。キリストはそのような人間の自我強化プランを、洗礼から十字架に架かる迄の3年間密度の濃いものとして示した。 現代人には理解しがたいような、このような意志の強化による自然治癒力は、例えば鳥のツグミでも、自然治癒力を無意識下に本能的に理解していると神秘学は説くのである。 ツグミは完璧に禁欲的な鳥ではないので、ときどきオニグモを食べるという。オニグモを食べると、ツグミは必ず不快感を覚え、そのときヒヨスが近くにあると、すぐにヒヨスに近づいて、ヒヨスを食べ、治療薬とするという。ヒヨスはツグミのオニグモの毒消し治療薬だという。 近くにヒヨスがなければ、オニグモを食べたツグミは轢きつけを起こし、激しい痙攣と震えのうちに死んでしまうので、ツグミは自身の持つ治療本能を通じて自身を守っているという。これは、意志強化の自然治癒力として、いわば非常にわかりやすいプロセスである。かつては人間にも、このような自然治癒本能があって、いわゆるプラセボはこの名残であると思われる(この間、インカ帝国の話をTV番組でやっていたが、その近くのペルーの住人は、本来ジャガイモの芽は、毒だが、粘土と一緒に食べることで、解毒していた)。 太古の人間が、このツグミの行為に似た治療本能を発達させ、ヒポクラテス医学のなかに集約されるものを、既にその治療本能として幾らかもっていたという。 このことは、ツグミや多くの同種の他の鳥たちの叡智を少し研究してみるとある程度予想できるという。オニグモは、その四肢形成全体と模様形成も、地球外のプロセスに紡ぎ込まれ、由来し、いわば、オニグモは、自らのなかに多くの惑星的生活をもっているという。オニグモは自らのうちに地球外的、惑星的生活を所有しているという。 鳥(ツグミ)はこの惑星的体験の共体験から取り残され、鳥はこの惑星的体験を自らの生体組織の内部へと移行させたので、鳥がオニグモを食べると、鳥の生体内でこの惑星力が感じ取られるようになり、なおも、形態化の傾向をもつこの惑星力は、鳥に浸透しようとし、鳥はこの力と闘う羽目になり、鳥は、オニグモを食べた瞬間に、内的な欲求をもって、地球外の惑星生活の模像となるという。 鳥の生体内のこの惑星力に対抗するために、鳥はその対抗力を補助できる植物(ヒヨス)を体内に取り入れる必要があるという。この植物は、地面から生えることにより、惑星的な影響の下に完全に加工を行うのではなく、その1部を毒として残すことによって、惑星力に対立するものであり、つまり地上力に類似した植物であるという。 このような植物のところへ鳥は赴き、助けを求め、ツグミのなかでオニグモの毒が作用すると、その瞬間直ぐに、このオニグモの毒の作用を通じて、ツグミの抵抗する本能、つまり防御本能が喚起されようになるという。いわば、攻撃本能から即座に防御本能へと移行するという、この現象全体は、ハエが目にとまろうとしたときに、目を閉じたり、単純な反射運動で手を動かすような行いが、非常に具象的に形成され展開しているのに類似するという。 ツグミの自然治癒力(オニグモの天の毒作用、ヒヨスの地の毒作用) 動物界、更には植物界における、このようなプロセスの観察は極めて重要で、この自然プロセスを通じて、知性や理性が、単に頭蓋内部(脳)に止まっていると信じることから解放され、すなわち、知性や理性は宇宙の至る所を飛び回っていることがわかるという。 なぜなら、このような鳥類の攻撃本能及び防御本能のなかで作用するプロセスは、全く理知的な行動に基づいていて、このプロセスに作用しているのは、外の理性と外の知性であり、人間は、この外の知性と外の理性に参加する能力を持っているにすぎないという。 我々人間はその自然のプロセスに参加できるが、我々がそれを所有しているわけではないという。我々人間が自ら知性や理性をもっているというのは無意味で、それは間違いで、我々はそれに参加しているだけなのであるという。 つまりは、人間は脳で思考しているのではなく、脳で、思考に参加しているだけなのである。神秘学では、思考は、宇宙の至る所に、プロセスとして存在しており、ただ脳はそのプロセスに参加し、その表像といわれる、いわば思考の結果としての出力結果を、イメージとして打ち出しているにすぎないという。だから、いわゆる閃きというのは、脳が自ら考え出したものではなく、ただ思考プロセスに参加した結果を得たにすぎないのである。つまり、所有というよりは、理性及び知性の自然プロセスに参加し、それを脳で観測、いわば認識したといったほうがよい。恐らく、古代人は、このような現象に神々をみたと表現したのだろう。 鳥は、体内のある特定器官のために、個別に攻撃本能や防御本能を身に付けるような仕方では参加せずに、その肺組織を通じて存在するものを、頭部組織を通じて間接的に理解する人間よりも、より直接的に、肺組織を通じてそのまま、ヒヨスキアミンに対する防御本能を喚起するという。 鳥は、人間のように頭の理解という回り道をせずに、そっくりそのまま適切な自然選択を行うのである。人間は、頭への理解という回り道がある分、選択の自由があり、自主的意志が発揮する機会が得られるのである。 鳥は、周辺部(器官)というよりは、鳥という存在本性の根本で思考(に参加)し、我々人間は、思考(に参加する能力)を、肺と律動組織から抜き出したという。人間は、鳥のように全体として、種中心的には思考せず、つまり、人間は、もはや鳥が思考するように宇宙と結びついて、肺や心臓などで思考する存在ではないという。このような思考法を再び修得すべきだと、神秘学は説く。
2006年11月22日
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前回は、外からの脾臓マッサージを簡潔にまとめたが、内的な脾臓マッサージも可能で、それは、例えば、表象プロセスに伴われる毒状態に起因する内的器官活動が強い人の場合(具体的にいえば理屈ばかり言って、働かない人、理論闘争を好む文化人のような人たち、理論闘争を好むのは、器官に毒状態がある証拠でもある)、主な食事(例えば夜食)以外にも間食を入れて、主な食事の時にはできるだけ少なく食べて、何度も食べ、食事の間隔が短くなるように食事時間を配分すればよいという。 このように食事活動を配分することが内的な脾臓マッサージとなり、本質的に、脾臓の働きに影響を及ぼすことができるという。 ただ、これにも当然、短所があり、今日の慌ただしい時代にあっては、大多数の人々は常に外的な消耗活動に追われ、脾臓機能は、そのような外的消耗活動により極めて強く影響されているので、人間は、動物とは異なり、外的活動による妨害を受けないように、横になって消化を行い、健康を維持することが困難な状態にあるという。 動物たちが脾臓の働きをいたわっているのは事実で、それに比べ、人間は、外的な神経症的な慌ただしい活動にあり、脾臓の働きをほとんどいたわっていないので、その結果、文化人等は、全般に、脾臓の働きが次第に大変異常なものになっていく。なので、脾臓マッサージのような手段で、脾臓機能の負担を軽減することが特に意味のあることになるという。 このような脾臓マッサージに注目すれば、無意識を媒介する器官と、意識を媒介する器官との間の関係について、マッサージが、特に作用を及ぼすのは人間のリズミカルな活動の調節で、状況によっては強力な治癒作用ももつことがわかるという。 マッサージは主として人間におけるリズミカルな活動の調節に作用するという。 しかし、マッサージの成果を上げるなら、人間の生体組織をよく知る必要があり、例えば、人体の腕と脚が大変異なっていることに着目すれば、人間の腕は、重力に組み込まれることを免れ、自由に動き、この人間の腕でのアストラル体は、人間の脚よりも物質体との結びつきが弱く、逆に、人間の脚でのアストラル体は、非常に密接に物質体と結びついていることがわかるという。 腕におけるアストラル体は皮膚を通じて、外から内へと作用するほうが多く、アストラル体は腕と脚とを包み込み、外から内へと作用し、いわば包み込む作用をしている。脚と足では、アストラル体を貫いて意志が、内から外へと極めて強く遠心的に、強く放射しつつ作用しているという。 アストラル体の結びつきが違うので、足と脚をマッサージする場合と、腕と手をマッサージする場合では根本的に全く異なり、腕をマッサージすると、そのマッサージはアストラル的なものを外から内へと引き入れ、腕は、通常よりもむしろ意志の道具となり、腸と血管との間で生じる新陳代謝を調節するような作用が引き起こされるという。 すなわち、腕と手をマッサージすると、血液形成に関する多くの作用が生じるという。 対して、足と脚をマッサージすると、(脳の活動の)表象に応じて、物質的なものが変換する割合が増し、排泄-分泌プロセスと関連する新陳代謝、つまり排泄-分泌プロセスに関連する新陳代謝を調節する作用が起こされるという。 腕のマッサージでは、腕から発して内部の構築的な新陳代謝領域の方へとつながり、脚のマッサージでは解体する領域への作用へとつながっていくように、マッサージの作用の継続のなかに、人体組織がいかに複雑なものであるかを見て取ることができるという。 マッサージ(腕、脚)=新陳代謝調整(構築、解体) 事態を神秘学的理念にのっとって探究すれば、事実、人体のどんな箇所も、その他の箇所との関わりを持っていて、マッサージというのは正に、生体組織と、この内的な相互作用を適切な方法で見通すことに基づいていることがわかるという。 下腹部をマッサージすることは、呼吸活動にも良い成果をもたらすことができ、しかも、心臓の下あたりを直接マッサージする場合、上(心臓の下)から下(臍の下)へといくほど呼吸への影響は強くなり、更に下へ進むと、今度は咽喉の器官への影響が強まるという。 つまり丁度、人体の位置と作用は逆になっていて、胴体のマッサージにおいては、下へと進むほど、上に向かって位置している器官が影響を受け、これに対して、例えば腕のマッサージは常に、胴体の上部を同時にマッサージすることによって促進されるという。 実際、下部人間と上部人間の相互作用、生体組織内の離れた位置にある器官の密接な関係と、各部分全般の相互作用、このような相互作用が、例えば偏頭痛のような場合にとりわけ顕著に現われてくることがわかるという。 偏頭痛というのは、本来は人体の他の位置、つまり下腹部(下部人間)にあるべき消化活動が、頭のなかに(上部人間)移行されたものであるという。従って、例えば月経のような、下部の生体組織を非常に強く用いるプロセスによって、偏頭痛も相応に生じてくることがわかるという。 このように本来、頭部に組み込まれていない消化活動が起こることによって、頭部の神経に、通常の生活では免除されている負担がかけられると考える必要があり、頭部では全くの規則的な消化活動、つまり表象摂取活動だけが生じているということによって、頭部神経は負担を免れ、知覚神経に作り替えられているという。 今特徴を述べたような無秩序(リズミカルでない)な活動が頭部で生じると、この特徴は頭部神経から取り去られ、内的に感じやすく敏感になり、内部組織が本来感受すべきではないものを、一種の消化プロセスとして感じ取ることが原因となって、偏頭痛の場合の痛みが生じてくる。 周囲、つまり外界を知覚する代わりに、突然自分の頭の内部を知覚するように強いられた人がどの様に感じるか、容易に想像できるだろう。これは二日酔いの人にも生じる状態である。 偏頭痛の場合の最良薬は、安静にしてよく眠ることだが、偏頭痛に通常、よく用いられる逆症療法の薬を使用すると、この敏感になっている神経器官を麻痺させるので、すなわちその活動を低下させてしまうことになるが、仕事等の日常生活を優先し、自分を幾分害する方がマシと考えた場合、ただ単に社会的に人生に参加するだけでも、微妙な生体組織の素質に背かざるを得ないわけである。 これは社会的生活を送るためには、全く当然のことであり、人間の社会的立場を通じて生じる害を受け入れて、場合によっては更に生じてくる、その後遺症を完治させる方向性も考える必要が生じる。
2006年11月21日
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いまでは、パラケルスス、ヒポクラテスに代表される古代の医術は、人間を、人間の外の自然と、人間の内の人体の間の存在として捉え、それを天と地により表現した。漢方医学は、易学によりこれを陰陽に捉え直したといえる。ちなみに、わが国の陽明学者の安岡正篤は、このことを陰陽相対理論として記述している。 人間(自然、人体内)=人間(天、地) =人間(陰、陽)=陰陽相対理論 わが国では、安倍晴明で有名な陰陽師は、古代医術の流れを汲んだ者だろう。陰陽師の活躍した時期は、ヨーロッパでは、聖杯(テンプル)騎士団が結成された時期なのである。歴史的な流れとしては、この時期は、人間に治癒的な叡智が与えられ、約300年後に、ヨーロッパでは、教会闘争のなか、聖杯騎士団が滅び、わが日本では、平安時代が終わり、武士の独立の鎌倉時代を超え、南北朝の戦乱となるのである。つまり、日本の陰陽師は、欧州でいえば、騎士団なのであろう。欧州はキリスト教の使者になるが、日本では神道の使者なのである。どちらもオカルト(秘教)団という意味において通じ合うのである。騎士団が堕落して、ローマ兵になり、陰陽師が堕落して、武士になったといえる。 歴史(人間治癒、人間闘争)=歴史(騎士団、ローマ兵)=歴史(陰陽師、武士) さて、神秘学では、このような陰陽、つまり、人間の外と内のリズム司る重要な人体の器官があり、それが脾臓であるという。 人体における脾臓の機能は、霊的な傾向性を持っていて、脾臓を切除しても、そのかわりにエーテル的脾臓が容易に発生する代替可能な器官であるという。けれども脾臓は下腹部の他器官ほど、新陳代謝自体にはあまり関係してないが、新陳代謝の調整には非常に関わっている。 脾臓(霊化された全般、物質的な新陳代謝) 脾臓は、粗雑な物質的な新陳代謝と、人体内で霊化され、魂化されたかたちで生じる全般との間に、調和を作り出す使命を持つものであるという。つまり、脾臓は、根本的に言って、他の全器官と同様、高度に無意識的な器官であり、栄養摂取のリズムに極めて敏感に反応していて。いつも絶えず食べてばかりいる人と、食事の合間に適当に時間をとる人とでは、全く異なる脾臓活動を自らに引き起こし、とりわけ、つまみ食いばかりする子供に、そわそわした脾臓活動を見ることができる。 つまみ食いばかりしていると、非常に落ち着きがない脾臓活動が起こってくる。 栄養摂取がない場合の、睡眠後しばらくの脾臓のある休止状態を観察することで、上記の関係がわかるという。ただし、脾臓は脾臓なりの方法で、ある種の休止状態に入り、脾臓は、霊化された人間の栄養摂取のリズム調整のための知覚器官であるという。リズミカルでない栄養摂取の有害な影響を和らげるために、その反作用として展開すべきことを、脾臓は無意識下のなかで行う。このため脾臓の働きは、本来の新陳代謝よりは、リズミカルなプロセスの方へと導かれ、よりリズミカルなプロセスに関与し、栄養摂取と呼吸リズムとの間に生じる必要のあるリズムに関与するという。 呼吸のリズムと、格別、リズムという性質をもたない栄養摂取との間に、もう1つ中間のリズムが挿入され、これを仲介するのが脾臓であるという。呼吸リズムを通じて、人間は厳密な宇宙リズムのなかで生きることができるが、不規則な栄養摂取を通して、人間は絶えずこの厳密な宇宙リズムを侵害するので、脾臓が両者の仲介者となるという。 脾臓(呼吸リズム、栄養摂取)=脾臓(宇宙リズム、栄養摂取) このような事実は、脾臓動脈がほとんど直接大動脈とつながっていることや、門脈へと進んで肝臓と直接関連する脾臓静脈が、生体組織全体に組み込まれることによって、栄養摂取への仲介をしていることでもわかるという。 脾臓(大動脈、脾臓静脈-門脈-肝臓) ここでは、なかば呼吸という外的なリズムとなかば外的な非リズムというべき新陳代謝というリズムが共にリズムとして組織され、互いに調整されているのです。リズム人間と新陳代謝人間との間に挿入されているのが、脾臓の働きで、正しくない脾臓活動の作用と関連する多くの病的徴候は、この脾臓により仲介される呼吸組織と新陳代謝組織との関係、または血液循環組織と新陳代謝組織との関係についての知識に基づくことによって、調整する必要があるという。 脾臓(呼吸組織、新陳代謝組織)=脾臓(血液循環組織、新陳代謝組織) このような調整を行うには、脾臓マッサージがよいという。 脾臓のあたりを弱くマッサージすると、人間の本能活動に対して均衡をとるように作用するという。 脾臓のあたりを、そっとマッサージすると、人間は、良い本能を獲得し、例えば、当人に合った食物を容易に発見できて、当人の生体のなかで役立っているものと、そうでないものに対して健全な関係を築くように調整できるという。しかし、この脾臓付近のマッサージはすぐに限界に突き当たり、マッサージを強くやりすぎると、今度は本能の活動を、完全に弱めてしまうので、あまり強くやりすぎないような、ゼロ点とでもいうべき、平衡点を見出すことが必要で、そっと慎重にマッサージし、範囲をあまり広くしすぎてはいけないという。 脾臓のあたりをマッサージすると、実際、脾臓の辺りに、普段はその辺りには無いものが送り込まれ、いわば、マッサージされている当人の意識が、マッサージ付近に投影される。 このような意識の転移と、このように意識を流れさせることを基本にして、人体内の脾臓によりというよりも、脾臓の機能(エーテル体)により媒介される無意識な理知、理性の働きと、人体の意識的な機能との間の強い相互作用を通じて、生体組織における物質プロセスや、高次の意識プロセス、とりわけ表象プロセスに伴われるかたちで生じる、生体組織には毒の作用となるもの(それは、生体組織の表象活動を通じて、絶え間なく自らを毒している状態、これらは本来、無意識の意志状態によって絶えず宥和されているのだが)、この無意識の意志状態の中心の脾臓を、マッサージして影響を与えることにより、脾臓を意識で満たすと、高次の意識から発する強い有毒の作用に対抗する働きかけができるという。
2006年11月18日
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脾臓のマッサージについて、まとめ書くつもりでいるが、ついつい、別の話題に夢中になってしまうので、今回も書かずに、次回に持ち越したい。このところ、神秘学の医学的な面にドップリ浸かり気味だが、医学を学んでいると、やはり、なにより教育の大切さが感じられてくるのである。 最良の医薬は、なにより適切な人間教育である。 と神秘学も説いている。適切な人間教育を行うには、何より、人間という存在を深く理解し、多面的にみていかねばならないし、更には、人間以外の存在をも、理解できるように、視野を広げていかなければならない。 そういう意味では、人間が知っていることは、宇宙の大きさに比べれば、ほとんど知らないかのごとくで、或いは全く無知といっていいような、程度、割合なのである。だから、そんなちっぽけな知識を振りかざし、他を批判し、自分を正当化することほど、愚かな行為で、本来は、自分がいかに無理解で、無知な存在なのかを認識する方が遥かに賢い態度であることがわかる。 ソクラテスがいったように、無知の知こそが、人間の最も理解すべき徳目なのであろう。 いかに人間が無知な存在か、偉そうに語る発言の、大部分が、いかに自分の無理解からくるものであるのかを本当は理解すべきなのである。自分は正しいという正当性の半分が、宇宙の広さからいえば、ほとんど不当なものなのである。 だから、少なくとも、知に対して謙遜、謙譲の態度をとるべきであり、自分が何でも知っているかのような、権威者的態度は、本来慎むべきであろう。神のような全知全能の立場であって、はじめて、そのような態度がとれるからである。 我々は何も知らないのに、何かを知っているような態度を何故とるのだろうか? 何かを知っているかのような態度は、自分のなかのどこからくるのだろうか? 一体、自分の日々の生活体験から、何を知って、何を知らないのか、自分の生活の全ても忘れて、現在知らないのにも関わらず、恐らく、我々は、何も知らないからこそ、知っているかのように、語ることができるのだろう。 我々は、何も知らないから、知っているかのように語るのである。 我々の眼にみえる世界は、宇宙のほんの表面でしかなく、我々の宇宙をほとんど知らないし、昨今の科学といっても、人類の歴史からみれば、ここほんの僅か200年であり、宇宙の歴史からすれば、神々からの歴史からすれば、わずか数秒なのである。実際、科学のない時代の方が長かったのであり、それは、未開の人類の生活と、都会の人類の生活のどちらが、真の幸せなのか、どちらが人間としてしっかりした生活を送っているのか等に、顕れているように思う。 科学的な物質生活が人類にもたらしたものを深く反省する時期でもあるだろう。核兵器に脅かされながら核抑止論に基づいて軍備する国家生活が健全なのか、毎日、経済という戦場で、表面的な競争原理に基づいて、企業戦士として闘う日々が健全なのか、真剣に考える時期である。自分の事は棚に上げておいて、他者を愚弄し、批判に明け暮れる政治家や文化人、それとは対照的に、汚職や嘘、虚偽、工作、あらゆる悪徳を行いながら、その罪意識もない精神が病んだ権力者たち。 毎日、一方で殺人や自殺事件が紙面を賑わし、他方で、スポーツという、生活の余興、エンターテイメント、贅沢でしかないことに、誰々が数億円稼いだ等の、一般生活者とは無関係な話題に議論奮闘で、早い話、単純に、一方の数億円を、恵まれない他方に分け与えればよいのではないか、それを複雑にしているのが、現代社会で、その複雑さがないのが未開社会なのではないだろうかと思ってしまう不思議さ。 とにかく、世の中、変だ!。何度もいうが、我々がみえるのは表面でしかない、その表面から、全てを判断しようとするから、複雑さが顕れ、変なことになる。 さてさて、また無駄話が続いてしまったが、ここで無駄話を始める自分の愚かさに気がついて、話を元に戻したい。 スウェデンボルグの話から、人間界は、精霊界の善霊と悪霊よりなると、以前に書いたが、これは神秘学でいえば、人間の魂のことであり、アストラル体を指すのであろう。つまり、アストラル体は、善霊と悪霊の精霊界からなり、以下のように表される。 アストラル体(善霊、悪霊) アストラル体は、心なので、心には神と悪魔が住むというのは本当のことなのである。このアストラル体のバランスを取るのが、その上にある自我である。自我は、高次の自我と、低次の自我からなるので、 自我(高次、低次) となる。高次の自我は、アストラル体に善霊を導こうとするので、独立心を生じ、悪霊の依存心、その反対の支配心を廃しようとする。つまり、霊的な憑依を廃し、独立自尊をもたらすといえる。 ここから、スウェデンボルグがよく言う、病は悪霊によるという意味がわかるだろう。 自我がなければ、自分という調整された、調和と秩序をもたらしえ、自己同一化するような存在がないまま、野放図となって、アストラル体は、あらゆる霊の憑依をうけ、エーテル体は、冗長性をもって、矢鱈滅多に発展し、肉体は、その産物を、奇妙で突出したかたちで、野に放つようになるのである。 だから、自我という人間存在の構図と、照らし合わせると、痛みを感じるわけである。当初の理想の設計図と、現実の建物があまりに違うので、ジレンマに陥って、自らを発展させ、自らの力で進化する能力を失ってしまった状況を表すわけである。 スウェデンボルグは、病は悪霊の憑依のせいだといっているが、実は私は、最初、そんな馬鹿なと思っていたのだが、だんだんと神秘学から解き明かすことができて、なるほどと思った次第なのである。 我々は、悪霊を、善霊で封じ込めて制御していかねばならない。でないと悪霊に直ぐに憑依され、その欲望の道具となり、無知なのに関わらず、知ったこととしてたちまち語り出す。 そんな悪霊が語りだしたら、意識して、善霊により締め出す必要がある。本当に、自分は知っているのだろうか。自分には、本当にそれを知ったこととして語る資格があるのだろうか? 自分は本当は、何も知らないのではないのだろうか? これこそが、実は、真の科学的態度なのではないだろうか? まずは、無知の知は、自分のなかの悪霊への無理解を探すことからはじまるだろう。
2006年11月17日
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現代社会は、一言で退廃社会といえるだろう。それは見せかけだけの中身がないからである。だから、広告代理店のような見せ掛け騙しの業界が潤い、文化や文明は次第に堕落していくだけである。そして、人類は、益々獣のようになっていく。 さて、教育基本法という、訳の分からないものが改正されているようである。連日、自殺者が紙面を賑わせ、いじめや、履修問題等、一体、法律改正が何の役に立つのか、見せ掛けだけが進んでいき、相も変わらず中身空っぽで、小泉改革と同じで、その胡散臭さ以来、この国は、一種の病気に罹り、慢性化し、一体、政治家本来の外交問題や、汚職、ヤラセ問題、これらの解決はどうなったのだろう。 人間の存在を前提にし、人間の真の理解が得られない限り、教育など、できるはずもないだろう。ただ、そこには、見せ掛けだけの美辞麗句、例えば、「愛国心をもった美しい人間の育成」といったようなただ一般的な言い方だけが存在するにすぎない。 こんな美辞麗句をいくら並べようが、それは、全く当然すぎて、結局のところ、何も始まらないし、何も始める気にもならないのである。誰もが、美しいものを好んだからといって、一体、何が始まるといいたいのだろうか? それは見せ掛けであり、偽りであって、偽善そのものである。それなら、誰もが幸せを志向しているのに、現状は不幸ばかりなのと同じで何も変わらない偽善がただ横行し、悪徳商人とその一味が、ただ地獄へと真っ先に突き進んでいくだけである。 国民は悪霊予備軍の悪徳商人に巻き込まれないように注意して生きなければならないだろう。 美辞麗句のスローガンを掲げても、結局のところ、現状認識すらできず、そこに理想などなく、単なる現実逃避の逃げそのもので、無意味そのものなのである。やることは、ただ平謝りの儀礼に終始するばかり。それなら、いっそのこと、国会議員は、美しい懺悔の仕方でも自らから教育すべきではないのか?とも思われる。少なくとも、前総理は、国民に土下座でもすべきだろう。 つまりは、いくら美辞麗句を掲げようと、その手続きにおいて、不徳で、非道であり、方法、手段において、マヤカシ、悪徳であれば、何もしない方が害がないだけマシといえるだろう。 教育を語りながら、無知蒙昧を盲信のごとく披露しているにすぎない。 さしずめ、いまの自民党は愛国信仰党にでも改名した方がよいだろう。 さて、あまりにおぞましい現実は無残で耐え難いので、とにかく、次の世代、根本にかえって、幼児教育からはじめたい。 神秘学によると、幼児教育は、模倣と手本にあるという。幼児とは、7歳までの子を指し、歯の生え変わる時期までに、身体の諸器官を、特定の形態まで発達させなければならない時期であるという。 この時期に正しい物質的な環境が用意されないと、器官の形態は歪んだものとなってしまうという。 幼児は、物質環境の中の出来事を模倣することで、自らの器官を自主的に特定の形態までに発達させるという。 だから、幼児に正しい働きかけができるのは、道徳的なお説教や理屈にかなった説明などではなくて、周囲の大人が、幼児の眼の前で行う行為そのものなのであるという。 だから、幼児の前では、大人は、賢明な振る舞いや行動に徹しなければ、いつの間にやら、幼児に模倣され、例えば、幼児の奇妙な振る舞いに、大人自らの奇妙な振る舞いを自覚することなるわけである。子供に真似されて、気がつく親が結構多いと聞く。この幼児のモノマネ行為に気がつかない親は、親の資格なしといえるだろう。 とにかく、この期間に幼児が学ぶことは、後に、もしその子が世界中を旅行したとしても、その世界旅行の経験を優に上回る分量であるという。 幼児が周囲に正しい色や光の環境をみるなら、健全な視覚を発達させるという。幼児が、周囲に道徳的なものをみるとき、脳と呼吸、循環系のなかに、健全な道徳感覚のための身体的基礎がつくりあげられるという。 もし、幼児が、馬鹿げた行動しか周囲にみることがなかったなら、その頭脳に、愚かな行為の種を蒔くという。 幼児へのおもちゃは、なるべく、幼児に生命のイメージを想像させるものがよいという。既成の完成品はよくないという。自らが参加して、生命活動を形成できるような玩具がよいという。 幼児にとって大切なのは色であるという。幼児は、自らのなかに色の感覚を育て、周囲の色とは、反対の色を内部に育てるという。だから、興奮しやすい幼児には、赤や橙色で周囲を囲み、内部にその反対色の青色を育てさせるとよく、不活発な幼児には、青や青緑を周囲に配し、内部に活発な赤色を育てさせるのがよいという。 幼児期は、肉体の完成が重要なので、正しい食事を与えることが肝要だという。肉体は、欲望を育てることで、健康を促進するので、幼児の健全な欲求や欲望や喜びを求める心に対して、親切に応じようとする態度が必要であるという。 幼児の身体諸器官を形成する力は、環境に対する、環境における喜びであるという。愛情に包まれて、健全な手本を模倣することができるとき、幼児は、正しい世界にいるといえる。幼児に模倣させられないような事柄を環境に生じさせないように、できる限りの努力を払う必要があるという。 「そんなことをしてはいけないよ」と幼児にいわなければならないようなことを、我々自身が、幼児の前でしてはならないという。 このように幼児教育には、自らの振る舞いや環境の整備に細心の注意が必要なので、幼児教育者は、幼児教育を通して、物事の生じる感や呼吸、想像力を育てることができるのである。幼児は、周囲から手本を模倣し、吸収するが、教育者は、幼児を通して、自らを学ぶのである。 幼児は、言葉をリズムで、聴きながら学ぶほうがよいという。また、音楽のリズムに従って踊りの動作をすることは器官形成を促す大きな力になるという。 このように幼児教育をみていくと、国民と指導者の立場が明快になる。指導者は、国民の善き手本にならなければ、国は進歩しないことを意味するだろう。つまり、国民は、新時代の幼児であり、指導者は先見の明をもって、幼児の教育者足らんとせねばならないのである。 よく国民以上の指導者は輩出されないというが、それは堕落を正当化する詭弁にすぎない。その発言は無責任そのものを意味している。そのような発言を発することは、その責任ある立場を放棄する何者でもなく、すぐに辞意すべきである。 国家が進化するには、善き指導者こそ、第一なのである。そのような善き指導者を求める態度が、国家を理想化させる真の愛国心に他ならないだろう。 自分を選んだ国民が悪いというような無責任さそのものが、堕落発現の何者でもないだろう。その地位を希求したのは、一体何処の誰なのか、その意志薄弱さこそ問うべきであろう。
2006年11月16日
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神秘学によると、何度も述べてきたが、人間は4つの体をもつとされる。我々が普通に意識している肉体、我々の記憶や人格を形成するエーテル体、我々の感覚であるアストラル体、そして、我々を、私という個人、一個の人間として意識する自我である。 つまり、肉体、エーテル体、アストラル体、自我である。 いまの自我が、普通、昼間に我々が覚醒しているような意識で存在しなかったとき、かつては、動物のように、集合自我として、民族霊の自我として、いわば、睡眠中の夢に似たまどろみの意識で存在し、地球を観察していたのである。 そのときは、我々は、民族霊のいわば手足のように、地球の周囲の環境を、主に色彩で捉え、内面で、夢のように意識していたのである。動物は現在このような集団自我なので、群れにおいて、内部意識を共有し、行動するのである。 人間が、このような集団の自我から、個人の自我に至ったのは、自我を、神々の指導のもとに、いわばその自我の制御行為を真似て、長い歴史のなかで、何が自我のために良くて、何が悪いかの選択を絶えず改善し、良心を芽生えさせ、生育させてきたからである。このことは神々がなぜ人類を滅ぼさなかったのかの理由でもある。少なくとも、人類全滅の危機は2度あったという。その度に、良心を発育させる可能性の芽ある民族のみ、神々の選択を受け、後世に残されたのである(スウェデンボルグにいわせれば、それが最後の審判というものである。つまり、良心の発達の可能性のない種は、刈り取られ、焼かれ、地獄にいくわけである)。 自我のなかにはに良いものを認識する主体を高次の自我、自我に悪いものを認識する主体を低次の自我と呼ぶ。 これまで、人類は、低次の自我により、アストラル体、エーテル体、肉体を変化させてきた。 低次の自我から、アストラル体を開発した部分を、感覚魂。 低次の自我から、エーテル体を開発した部分を、悟性魂。 低次の自我から、肉体を開発した部分を、意識魂。 つまり、我々は、これから、低次の自我だけでなく、高次の自我から、これらの感覚魂、悟性魂、意識魂を改善していかなければならないのである。 それが、人類の真の教育に他ならない。 高次の自我から、アストラル体、つまり感覚魂を改善することを、マナス(霊我)と呼ぶ。これが改善、開発されると、霊視が獲得されるという。 次に、高次の自我から、エーテル体、つまり悟性魂を改善することを、ブッディ(生命霊)と呼ぶ。これが改善、開発されると、霊聴が獲得されるという。 最後に、高次の自我から、肉体、つまり意識魂を改善することを、アートマ(霊人間)と呼ぶ。これが改善、開発されると、人間は、第4位階の天使の存在になるという。人類の上の階層にまでには、第3位階の天使群がいるとされる。これらの天使群を神々と呼んでいるのである。 端的にいえば、良心とは、輪廻転生のなかで、自我がこれら生命体に働きかけてきた成果であるという。なので、良心を失った自我は、闇の地獄へと自ら堕ちていくしかないのである。それが宇宙の進化体系の必然なのである。 良心とは、スウェデンボルグの地獄について書いたように、端的にいって 他人を支配するのが嫌い、自主性を重んじ、つまり自分のことは自分で行う責務を果たす。 他人の嘆きを見て悲しむ、つまり、困っていたら、自分のできる範囲で手助けする。 自分が喜ぶことよりも、他者の気持ちを察することに重きをおく、つまり思いやりをもつ。 他人を欺くことのないように、自分の欲望を抑制する。 というようなもの、つまり、モーセの十戒にあたることを、日々実践することに他ならないわけなのである。 我々は、皆、自分のことばかりみているが、本当は、自分を度外視して、全体をみることが大切なのである。 とくに、昨今の政情をみると、教育改革などという馬鹿げた提案がなされているが、そもそも、教育される必要のあるのは、政治家当人たちなのである。政治家のなかで、上記の良心をもったものは、ほとんど皆無といわざるをえないだろう。 このような現状であれば、何をやっても、砂上の楼閣にならざるをえないのである。 まずは、政治家のなかに最低限度、公約を守ったものがいるかどうかが、教育改革の前に必要な政治改革の第一歩であり。公約を守れなかった政治家は、牢獄に自らはいって、精神を鍛えなおす必要があるといえるだろう。少なくとも、国民を欺いておいて、多大な賃金をせしめているのであるから、これは当然のことだろう。 このようなことをなさない政治家がいる限り、この世は地獄とならざるをえず。悪徳政治家は、死んだ後に、自ら地獄へと旅立つことは、確かである。 最後の審判を馬鹿にするものは、神を信仰していないものであろう。これは現代の宗教家にもいえることで、神を信仰する者ならば、平等なる人間の上に立とうとするなぞ、神を冒涜する最たる行為といわざるをえないだろう。 神を信仰している振りをして、人類を権威主義の下に統治したパウロやルターは、ボルグにいわせると、地獄にいったという。天国に近いといわれた、これら偉人でさえ、地獄にいっているのである。悔い改めるのに越したことはないが、もはや、現代の政治家は、その無知さ故に、あまりに遅すぎたともいえる。いますぐ、裁判を受け、牢獄にいき、悔い改めても、遅いが、やらないよりは僅かな望みが残されるのだから、悔い改めるべきなのだ! でないと、真に地獄にいくことになる、地獄の恐ろしさを舐めるなかれ! 自らのうち(土壌)に地獄の種が蒔かれたことを自覚すべきである。国民の審判を待っていては、あまりに遅すぎるのだ!! 他に悪の種を蒔くことより、自らの悪の種を摘み取れ! 教育を他に施そうとする前に、自らがその模範となれ!良心をみせなさい!!
2006年11月15日
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また、歯槽膿漏つまり歯茎の化膿も上述から明らかで、歯槽膿漏が起こる場合は、生体組織全体の素質が歯の周辺に局所的に現われているだけで、この当人は、恐らく糖尿病の候補者ともなるという。なので、糖尿病として出現するものは、上部人間のなかに止まっている限りは、本来治療し安いもので、この歯槽膿漏のうちに治療すべきであるという。 このように下部人間が上部人間に波及すると、不都合な貧弱化か肥大が下部人間か上部人間に生じ、炎症状態への傾向がまず上部人間に現われると、ある病態が現われ、炎症状態への傾向が下部人間に現われると、その病態の逆の、対極をなす病態が現われる。 このように、人間の成長力を有すエーテル体全体が、幼年期には後の年代とは異なった作用を行い。幼年期にはエーテル体が物質体の機能のなかに入り込む必要があり、エーテル体はいわば直接のその作用点となる器官を持つ必要があり、とりわけ胎児の生においては不可欠で、単に形態が形成されるのみならず、同時にその彫塑力が行使される必要があり、そのような力は従って、例えば胸腺のような、そしてある程度までは甲状腺といった器官を不可欠にするという。これらの器官は幼児期の年代に最大の課題を果たし、その後退化させられ、物質体の力にあまりに強く捉えられるようになると、退化しつつ変成していくという。 幼年期には生体組織化において強い化学的現象が生じることが不可欠で、その後、この化学作用は熱作用に交替されていくという。ある意味、人間は、その生涯を通じてスペクトルにより象徴され、前半期がスペクトルの化学的な部分(青、紫)、それから中間期がスペクトルの光部分(緑、黄)、更に後半期がスペクトルの熱部分(赤)によって象徴されるという。人間は、本来このようなスペクトルの方向性のもとに生体の組織化を成し遂げていくという。 人間の中間期(光部分(緑、黄))〔前半期(化学的部分(青、紫))、後半期(熱部分(赤))〕 人間は幼年期に化学的作用の活動に頼ることが多く、その後、光作用の活動へ、更に熱作用の活動へと移行していくという。エーテル体が物質体での化学的現象を促進可能にする諸器官、これらは甲状腺、胸腺、副腎のような腺で、ある意味、化学的現象が結びついているが故に、人間の肉色は、これらの器官の活動、すなわち、背後にあるエーテル的な活動と密接に関わるという。例えば、副腎機能のなかには、人間を青白くしたり、血色良くするなどといった働きがあり、副腎が退化すると、皮膚の色合いに現われ、副腎の退化によるいわゆるアジソン病に罹ると人間は褐色になるが、それはこのような関連からわかるという。 これらは全て生体組織のある化学的現象を示唆し、とりわけ胎児において重要で、他方、光作用は、十四歳以上の生活にとって問題となり、更に、成人になると熱生活にとって重要な活動が盛んに現われてくるようになるという。 つまり、幼年期の生活、特に胎児の生活は、一種の過剰な塩プロセスを示し、中位の、幼年期のあとに来る生活は、一種の水銀プロセスを、比較的年齢が進んでからの生活は、一種の硫黄あるいは燐プロセスを示し、調整される必要があるという。 水銀プロセス(塩プロセス、硫黄あるいは燐プロセス) =光作用(化学作用、熱作用)
2006年11月14日
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エーテル体のプロセスや作用を考えると、人体内の内面のエーテル体が、外見的に物質体として現れるので、外面(物質)的な諸徴候から、互いの補完関係により、内面的な結びつきを描き出すことが可能になる。勿論、そのエーテル体が、場合によっては人間の意識下で強力に作用し、生体組織に自らを記述する前に、いわば預言的に一種の衝動として客観化するように、実際、精神に現われることもある。 すると、その人は、なんらかの物質に表れない、自由になったエーテル体に対して、その上体から離れていこうとする現象を、青い斑点のようなもので壁に記述するような衝動を感じるという。その際、本人は、絵画の技法に関してはほとんど学んでいないにも関わらず、芸術家になる使命を感じるような人物になるという。 つまり、この人物が同時に、絶えず出現する下腹部疾患を抑制可能なほど十分に強靭で頑健であるなら(外見は頑健である必要はない)、このような下腹部疾患を体内に取り込む代わりに、壁に絵画等を描こうと客観化するという。 表現主義の絵画になかに、このような独特な活動の産物を見ることができ、表現主義の絵画にみられる多くの、赤や黄色の色彩のなかに、その絵描きの下腹部に関係する容態を捜すとよいという。また、その絵画の青紫色の系統色から、その絵描きの上体や肺、或いは肺の活動と共に頭部に向かいリズミカルに上部に作用するエーテル体の容態に基づいて、詩句を形成しようする衝動がみられるという。 このようにエーテル体をみると、人間の行為全般と、内的にいわば精神として組織化されるものの間に、不思議な一致を見出し、ある人が、内面のエーテル的な(下腹部の)身体機能を、外界の絵画等として現出するので、その表現法から、我々は、ある種の洞察力ともいうべき神通力を身につけることができるという。 なぜなら、実際、人間が外界でなす魂的な活動の現象全体は、その人の神経組織にのみ関わるのではなく、魂の活動は人間全体に関わり、その人間の全体像といえるからであるという。だから、神秘学によると、一般的に信仰されている人間の行為全てが脳によるものという考えは間違いである。 魂の活動(内部エーテル体、外部表現) 子供のときに、その人間が元々いかなる性質なのか、いかに後の年代に向かうのか、ということを神通力で直観することができ、例えば、ある人が、子供のときの障害を、後の年代の発育不良に引き継ぐように運命づけられたとしても、当人のエーテル体を身体の上部に影響させないような抑制力があれば、そのために当人はぎごちなく、重々しい歩き方になるということが、幼年期に端的に示され、このことをイメージでき、直観できたなら、ある子供が比較的軽やかに歩くのか、それとも重々しく歩くのかという歩き方から、この子供がいかに成長するのかについて、神通力で思い浮かべることができるという。同様な数多くの現象が、人間の歩行の身振りや仕草全体からわかり、人体内の相互作用が運動に現出されたものであるという。 例えば、昨今の幼児の注意欠陥・多動性障害は、この内的な魂の活動、内部エーテル体の過剰な現出にあるといえる。それは正常ならば、物質体を掴むことができ、発育に用いられるエーテル体が、その物質に作用する基点が見出せずに、その代わり過剰に表現せずにいられない衝動に現れるといえる。 幼児のときのエーテル体を、イメージし、直観力、しいては霊感力、さらには神通力(預言力)を身につければ、当人の将来のために、何が重要なのかの教育をはじめて行うことができる。本来、教師は、このような神通力をもつ者でないと、教育は破壊的調教に堕落するという。 このような事柄が極めて有効になる条件があり、20代初めの若者であれば、このような神通力を自然に身につけるべき大きな機会があり、30代に達すと、このような才能は失われてしまうという。もはや容易ではないが、このような神通力を獲得するには、自己教育を行い、極めて強力に自己修練する必要があるという。 このように人間の性質のなかの第一義的な原因から、流行性の疾病も見るべきで、その流行性疾患は、次のような人間の特質に見出されるという。 例えば、呼吸リズムのなかの、最も粗雑なリズムとして現れる頭部-胸部リズムに、支障をきたし易い傾向を持つ人の場合、ある大気現象、ある地球外の現象の影響を非常に被りやすいという素質が見られるという。 はじめから呼吸組織に関して健全に調整されるような人の場合は、上記の大気、天体の影響に対して抵抗が生じるという。全体において、調和と秩序の原理、いわば平衡状態が働いているので、例えば、そのうちのある特質を選択すると、その他の選択肢は、選んだ特質をもった段階において、妨害的に介入する可能性が生じるという。 これはつまり、生まれもった特質が、誕生日(昔で言う数え歳の母胎のなか)のある天体の配置に影響を受けるわけで、ここから四柱推命や占星術、バイオリズムが、その名残として世間でいわれるものとなるが、そのような占いは、占い師の発言に強制力をもった時点で、無意味となる。なぜなら、人間は自主的に行為することで、進化するのであり、他に強要された段階で、退化するからである。 さて、例えば、ある冬に、火星、木星、土星という外惑星を通じての太陽の作用の影響が強い場合(主に太陽の霊流力)は、火星、木星、土星が太陽から遠く離れ、太陽自身の作用が有効に働いている場合とは全く異なった作用を行い、このような冬のとき、その素質がある人の場合、胸と頭の間を経過し、呼吸活動のなかに最も粗雑な表現が見られるリズム活動に対して、強い影響が及ぼされるという。 このリズムを規則正しくする傾向は、例えば、太陽自身の作用が強い健全な状況から生まれてきた人や、内部に関して頑健な人の場合、宇宙の星位によって本質的に強められ、外見的には非常に細身の可能性があるという。 このような人の場合、非常に規則正しい呼吸リズムが見られ、更にそれに応じて頭部-胸部リズム全般が規則正しく調整され、このような内的に安定したリズムは、外からの作用によって容易に乱されることはないという。 けれども、このリズムが既に不規則に経過する人の場合、上述した大気、天体の影響が極めて強力に作用するという。なぜなら、この乱されたリズムが既に、更に乱される傾向を持っていて、天の星位がとりわけ作用を及ぼすような地球上の場所に、このような素質を持つ人が現れると全般的に、例えばいわゆるインフルエンザおよび流感の候補者になるという。インフルエンザや流感のための特殊な原因基盤を知ろうとするなら、このような背景を知らないといけないという。 人間の律動的な活動は全て、個々のリズムがいずれもそれ自体で統一的に形成されているにも関わらず、絶えず持続するリズムは呼吸のなかに、最も粗雑な表現を獲得し、更には眠りと目覚めのリズムに影響されるリズムもあり、これらのリズム全てが一緒になって、人間の律動組織全体のなかに更に1つの統一性を形成しているという。いわば、人体はリズムのフラクタルからなる。 そして、例えば、上部のリズム、つまり頭部-胸部リズムが弱くなることによって、下部のリズムが相対的に強く働くことが起こり、上部のリズムが弱くなる場合、つまり正しい状態から逸脱する場合、このリズムは下部のリズムによって、更により不規則にさせられる傾向を持ち、そして、その場合、脾臓活動と更にその他の活動から発する下部のリズムがあまりに強く上へと作用しすぎると、あらゆる併発症状を伴い、上部の消化プロセスの肥大が引き起こされ、病的になりやすい素質が作り出されるという。そして、ある種の下等生物の生存条件にとりわけ適した領域が作り出され、上部機構のなかに、炎症的で麻痺を生む現象が侵入し、しかもこの上部機構のなかに器官の奇形化、器官の新形成の発端、要するに、ジフテリアの病像が得られるという。これは、上から下へと起こるチフスの突破とは逆に、下から上への突破とでもいうべきもので、本質的に、上述したことにより生じるという。 律動組織のリズム(上部のリズム、下部のリズム) 下部が弱いと、下部に下等生物限局生育領域ができ、チフスの病像 上部が弱いと、上部に下等生物限局生育領域ができ、ジフテリアの病像 勿論、人間の年齢を考慮に入れる必要があり、幼年期は、上部人間と下部人間の完全な共同作用、つまり媒介する律動的活動は、後の年代とは全く異なるものでなくてはならず、幼年期においては例えば、下部人間に対して、後の年代におけるよりずっと強く上部人間の作用が及ぼされる必要があるという。 実際、子供は大人よりもずっと「思考」を行っているが、ただ、子供の思考は意識されておらず、生体組織のなかに入り込んでいって、生体組織の発達、形式のなかに現われるという。 とりわけ最初の年代には、体の形成力に思考活動が用いられる度合いが非常に高く、自らのために形成力を多用する必要がなくなると、体は形成力を押し止め、形成力は記憶のための基礎力となるという。従って記憶は、生体組織が形成力を用いることが少なくなってからはじめて現われてくるという。なぜなら、器官的に記憶の基礎となる力は、成長力、形成力が作り替えられたものであり、最初の年代(幼児期)において生体組織の彫塑化のために特に多く用いられるからであるという。 これは、記憶の形成が、幼児期すぐに現れるのではなく、しばらくして、とくに、身体の運動が形成されてから後に、運動形成の代替として、いわば最たるその表現として、脳の神経ネットワークとして現れることが、現代の研究からも明らかになっている。 根本的に、霊的に出現するものは、以前、霊が物質素材に引き込まれていたときには物質的に作用していたものが、以前のそのもののように霊化されたものにすぎないのです。 霊的なもの=物質的なもの、これはアインシュタインのE=MC^2の式と同様で、物質的なものは霊的なものに還元されるのである。 恐らく、記憶のネットワーク回路に関しても、このアインシュタインの方程式に類似した式が、現れるだろう。つまり、運動のエネルギー=回路形成数×エーテル体^2以上のようなものだろう。 だから、子供においては、(上部リズム形成が強いので)、下腹部で生じることに対して強い抵抗力が必要であることが納得できる。下腹部にはとりわけ、天的なもの、つまり地球外的なものが現われ、地球外に、他の惑星に対する太陽の位置により生じる特殊な星位があって、この星位の反映が人間の下腹部に成立するように作用しているという。 その結果、いわば上部人間と下部人間との間の律動的活動にある安定が得られている大人の場合には、ほとんど意味を持たないが、子供の場合は、宇宙からこの下腹部に自らを反映させようとするものに対して、強い抵抗力が生じる必要があり、つまり特に宇宙的な星位によって、子供の下腹部が非常に強く刺激されると、子供の上部人間は極めて強く抵抗せざるを得ずに、子供の上部人間においては本来そのように強く用いられるべきでない力が、このように不自然に用いられることにより、流行性脳脊髄膜炎を起こすという。直観の背後にこのようなことも獲得できれば、頚筋の強張りに至るまで、髄膜炎の全体像を描くことができるという。子供においては、このような上部人間の緊張が生じることにより、上部器官、つまり脊髄膜や脳膜に炎症の症状が生じるという。
2006年11月14日
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スウェデンボルグは中世の霊能者だったようだが、彼の書物にはかなり明快に霊界について記載されている。とくに霊界2には、霊界の構図がわかりやすく記述されている。 霊界は、天国と霊界、更に地獄界の三界があり、それらはそれぞれ更に三層に分かれ、全部で9層に分かれているという。 天国(上,中,下)、霊界(上,中,下)、地獄(上,中,下) これらは霊界の太陽から、直接霊流と間接霊流をうけて霊体(生命体)に、エネルギーというべき活動力を与えているという。 直接霊流(天国、霊界、地獄);直接霊流は、万物への愛の発露のようである。 間接霊流⇒天国⇒霊界⇒地獄;間接霊流は、叡智への目覚めの発露のようである。 そして、人間界は、霊界と地獄界からなる精霊界(霊界と地獄界に振り分ける最後の審判の審査準備期間)を通して、いわゆる精霊界の幻想として存在するという。そして、人間は、人間界での人生の行いにより、死んだ(肉体を捨てた)後に、精霊界にて、最後の審判をうけ、自ら進んで、霊界、あるいは地獄界にいくという。霊界にいって、更に、天国にいくべき霊的人格修行を続け、それに相応しい人(霊)だけが天国にいけるという。 スウェデンボルグは、これらを日本訳で、「天の理」からくるものとしているが、日本では、ある教団を思わせて、この訳はよくないと思われる。 そこでスウェデンボルグが語る霊界を神秘学で考察し補足するとある程度鮮明になる。 天の理は、三位一体の創造原理で表すと以下になる。 天界(天国、霊界)、精霊界(霊界、地獄界)、 中天国(上、下)、中霊界(上、下)、中地獄(上、下)となり、 天界(中天国(上、下)、中霊界(上、下))、 精霊界(中霊界(上、下)、中地獄(上、下)) というような三位一体の光球体のフラクタル構造になるものと思われるのである。例えば、天国も光球体で、中心は上天国で、表面が下天国、そして、その間が中天国という感じだろうか。 また、霊界の太陽からの直接霊流は、愛の発露で、生命体の力の源のようで、間接霊流は、叡智の顕現のようだから、天国が最も高く、下にいくほど、暗くなるという。 さて、ここからもわかるように、人間界=精霊界(霊界、地獄界)なので、人間の霊的部分は、霊界の善霊と、地獄界の悪霊からなる精霊の化身であるといえる。 早い話、人間のなかには、善霊と悪霊が共存しているといえるのである。人生のなかで、この悪霊の影響をどれだけ善霊部分で抑えていくようなノウハウを身につけることが肝要といえる。 そのためには、悪霊の性質を知る必要があるといえる。 悪霊の基本的性質は、自己主義で、自己愛に富む傾向にあり、悪が存在しないと思っているという。なぜならば、悪霊は、自らが行うことを悪だとは思わず、善だと思っているからだという。これは、犯罪者が、犯罪を悪だと認識していないのと同じであるという。 つまり、善霊は、悪を把握しているのに対し、悪霊は、何が悪なのか知らない点にあるといえるだろう。だから、客観的にみて、地獄にいても、悪霊たちは、自分がいるところが全く地獄だとは思っていないという。ただ、地獄が住み易いから自主的に地獄にいるわけなのである。 是は例えば、本人は、当初は天国に行きたいと思っていても、例えば、天国では、いかなる不義密通は赦されず、売春宿等は存在しないことがわかれば、自主的に地獄に行くものが出てくるわけである。なにより、天国というところは、自主的な自己犠牲、滅私奉公の場なので、怠惰で、我儘、無責任さから、他を支配するような人格の持ち主は、それだけで、天国は住み辛いものになり、地獄行きとなるだろう。 早い話、現世のモラルさえも、自主的に克服できていない者は、死んだらなお更、自主的に地獄行きになるわけである。 スウェデンボルグが、具体的に語る地獄向きの性格は以下のようなものである。 他人を支配するのが好き 他人の嘆きを見て喜ぶ 自分が喜べればよい 他人を欺き自分の欲望を遂げる 等々、天の理(三位一体の創造原理)、つまり規則を自分勝手に都合のよいものに変えてしまう人格の持ち主は、地獄に自らいくというわけである。
2006年11月11日
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前回は、歯形成プロセスから、物質体と主にエーテル体の霊的なものとの三位一体の相互作用から、重力と光の関係、そして、精神的な自主性が、何より根本的に重要なことを端的に書いた。 神秘学よりマッサージについても書きたいのだが、とりあえず、前回の話を続けたい。 神秘学を考察していくと、病理学的現象の真の根源への探求の為には、現代の唯物的な表面論を、改善する必要がある。近代から始まった唯物論は、真の根源から目を逸らし、表面で生じる事柄のみに注視する傾向をもち、それが益々盛んになってきた。例えば今日の、感染学、病理学の大部分において、病気の類型に関して、細菌、ウイルス等の種類から病気が問われ、その病態が教えられている。 このような下等生物の寄生に関しては、寄生される人体の状態や条件等の要因を追及することはほとんどなく、この特殊な形態が指摘されて、病気の形式とこの特殊なバクテリア形態との関係が明示されれば、それで病因を追及できたものとしているのである。勿論、免疫学があるというだろうが、それも感染された後、いかなる条件の下に、抗原が発生するかの言及はほとんどなく、異物認識の類を出るものではないといってよいだろう。それも非常に唯物論のみに終始しているのである。せいぜい、回路としてのネットワーク理論に至るだけで、この傾向は、唯物的脳理論においても、心が脳にあるというような、大きな間違いを犯しているのである。 脳科学者は一体全体、高性能なコンピュータができたなら、心が生まれるとでもいうのだろうか? クローン技術だって、わずが数%の成功であり、その背後に多くの生命が犠牲にされ、そのわずか数%の成功率も、生存率に関しては、ほとんどゼロに近い現状なのである。元々、牛の家畜数を増やす技術だったのが、効率のあまりの悪さから、頓挫したものを金儲けの道具にしたにすぎないのである。 生命体と単なる物質体の間には、超えられない境界線が存在しているのである。 さて、よく考えてみれば、病気のプロセスにおいて、身体のある部分に多数の細菌が出現したなら、たとえいかなる異物でも人体組織に病状を引き起こすように、この細菌が病状を引き起こし、ありとあらゆる炎症が生じてくるのは至極当たり前で、全てをこの細菌の働きに帰すのなら、結局この細菌にしか注意を払わなくなり、病気の真の原因からは注意が逸れていくだろう。 生体組織において、下等生物がその生育に適した土壌を発見するのには、常に、それに適した土壌が、本来の第一義的な原因によって既に作り出されているからなのであり、この第一義的な原因にこそ注意を向ける必要がある。これは農作物が育つ土壌環境と同じであろう。生物体の基本である植物をみればわかる。 地面から宇宙に向かって成長している地球の植物全体は、単に地面から宇宙空間に向かって成長するだけでなく、対極的な2つの力により引っ張られ、成長の至る処で、地球から植物内部へと作用する力と全く同様に、植物の成長の一部となる宇宙からの力が作用しているという。地球から植物のなかに作用する力と、地球外の宇宙から植物へと作用を及ぼす力との間には、絶え間ない相互作用が成立しているという。 もし宇宙から作用を及ぼす力が完全に現われ、宇宙の力が完全に植物を捉えるとしたら、諸惑星がこの宇宙の力を後退させ、完全に植物を保護するように配慮しないなら、植物は、茎から花や種子へと成長する際、常に動物になる傾向を持つようになり、動物化の傾向が存在する。植物では、このように宇宙から作用するものに対抗して、他方で地球の方から、植物存在を抑え、植物存在の内部で鉱物化させようとする傾向が作用するという。 植物(地球から作用する鉱物化傾向、宇宙から作用する動物化傾向) さて、神秘学では人体に不可欠な重要なことがわかっているという、それは人体内で、最終的に心臓の働きに集約されるもの全ては、肺の内的な新陳代謝に最終的に集約され組織化されるものからは、隔てられていなければならないというものである。これら心臓と肺の二つの集約的活動は、両者の間にいわばエーテル的な横隔膜、或いはアストラル的な横隔膜がある状態以外では、互いに作用してはならず、この二つの活動は互いに隔てられている必要がある。 エーテル的或いはアストラル的横隔膜(肺、心臓) このような横隔膜は、外からの呼吸のリズムの要因でもあり、これが、上部人間と下部人間を相互に調律する存在で、人間における律動的活動であり、呼吸のリズムのなかに外的、物理的に現われているリズミカルな震動、この物理的な震動が、エーテル活動、アストラル活動にまで継続され、肺のなかへと集約される上部人間の地の力と、心臓のなかに現われ、宇宙において周辺から地球の中心へと作用するように下から上へと作用する下部人間の天の力とを、お互いに引き離しておくものであるという。 横隔膜による呼吸のリズム(肺の上部人間の地の力、心臓の下部人間の天の力) このリズムがきちんと作用しないと、この物質的には存在しないリズム同士の衝突によって成立するこの横隔膜も乱れ、植物における強すぎる地の作用に類似したものが出現する可能性があり、塩化する地の作用が植物にとって強くなりすぎると、植物が鉱物的になるように、物質的な植物が地から成長するように、肺に組み込まれ、肺から成長するいわばエーテル植物ともいうべきものが、肺の硬化の誘因となるという。 植物プロセス(鉱物的硬化プロセス、動物的軟化プロセス) 逆に動物化の傾向が強くなりすぎると、生体組織の上部に、本来、そこにあるべきではない領域が作り出され、この領域においてのエーテル領域に諸器官が埋め込まれ、生体組織において促進されてはならないもの、つまり小さな植物性動物(細菌)の生存にとって好都合になる領域が形成される。 このような生体領域は本来、生体組織全体に広がるように作用すべきもので、特別に封鎖された領域として生じてはならず、小さな封鎖領域として機能すれば、小さな植物性動物、上部人間を病気にするものが、後から検出でき、この小さな植物性動物の生存条件のための環境となるという。 植物の成長で生じることは、地球外のなかで、動物と人間自身の生活に関しても生じ、人間と動物には外から、地球外の宇宙から力がやってきて、内部から来る力に対抗する力が影響を及ぼし、地球内部から来る力が、人間にとって上部人間の器官に限局されるのに対し、外部から流れ込んでくる力は、人間においては下腹部に属する器官に限局される。 人体内の限局領域(地球内部から来る上部器官への力、宇宙から来る下部器官への力) 上記の二つの活動の間に、隔壁が作り出される必要があり、この正常な分離の制御は人間の脾臓の働きによってなされ、ここに、人体のリズム機能を見る。このリズムは、呼吸のリズムとはまた別で、呼吸のリズムは小さく振動して人間の全生涯を通じて継続し、上部の病気、或いは人間上部にのみ関わる病気が生じないように、秩序正しくなければならないという。 実際、消化は上下に広がっていくので、下部に起因する病気が人間の上部にも生じてしまうので、これは本来区別される必要があり、地球からの上から下への作用と、天の空間からの下から上への作用との間に、隔壁がなければならないという。実際、上部人間からくる力を、下部人間の力に対抗して、送り出し、両者の間に、どの個人にとっても調整されたリズム、目覚めと眠りとの正しい関係に現われる調整されたリズムが生じる必要があるという。 脾臓の働きによる隔壁(地球からの上から下への作用、天からの下から上への作用) =個人の調整されたリズム(目覚め、眠り) 目覚める度毎にこのリズムはある特定の振れかたをし、眠るたびに、このリズムはまた別の振れかたをするという。目覚め-眠りと目覚め-眠りというリズムのなかに、もっと小さなリズムの波頭が生じ、別のリズムのプロセス、端的にいって、目覚めた状態のときでも上部においては目覚めているが、下部人間においては眠っているというようなことにより引き起こされ、そういう別のリズムのプロセスが組み合わされて、上部人間と下部人間の間には、絶え間ないリズミカルな活動が現れ、これらが、目覚めと眠りの交替によってより大きなリズムに捉えられているという。 これは目覚めと眠りの波動のフラクタル構造を形成しているという感じだろう。 フラクタル構造(目覚め(目覚め、眠り)、眠り(目覚め、眠り)) これが繰り返し続いていくのである。つまり、覚醒時にも、意識と無意識があり、睡眠時にも、夢を見る状態と、夢を見ない状態のレム睡眠とノンレム睡眠があることでわかるだろう。 さて、この種のリズムのなかで上部人間と下部人間との間にあるこの境界が破られる事態になると、大抵の場合、上部から下腹部に向かって人間の上部の活動が侵入し、エーテル的な突破が起こるという。人間の上体でのみエーテル的に活動すべきものが、下腹部に侵入するという。このエーテル的活動が下腹部に起こることにより、そこに存在すべきではない、本来は人間全体に広がるべき領域が、下腹部に作り出されてしまうという。 このような突破の帰結として、下腹部に一種の中毒、重い下痢が起こり、下腹部の活動は秩序正しく行なわれなくなるという。更に、ここに新たな領域として作り出されたものは、多くの場合、動物性植物の性質を持つ下等生物にとってのよい環境になるという。だから、上からの突破を通じて、人間のなかには、腸チフスが引き起こされるという。 このように神秘学から考えると、第一義的なものと、二次的なものとを明確に区別することができ、そのような疾病の根源的な原因と、多数の腸内動物相、或いは腸内細菌叢が、とりわけ小腸のなかに出現することによる炎症とを区別する必要があることがわかる。 細菌を含めて物質的に小腸のなかに出現するもの、これらの植物的な-動物、或いは動物的な-植物の下等生物の活動として出現するもの全ては、人間の生体組織の上部の活動が下部の活動へと突破して侵入するという出来事に対する反応であるという。寄生等の下等生物は、結果として生じている現象であるという。 以上に注目すれば、腸チフスの病像も容易に形成でき、この病気がカタル性の肺の症状、更には意識障害とも結びつくことが非常に多いことがわかるという。肺におけるカタル性の症状というのは、下部人間に生じていることが、上部人間から奪われてしまうということに起因し、上から下への突破が起こると、下部人間に生じることは、もはや上部には含まれなくなるという。同様に、上部人間において意識を伝達する器官も、下部人間へと、その活動を伝達する器官の突破が生じてしまうと、もはや正常に作用することができないという。 話は変わるが、ウイルス進化説というのも、二次的な後追い仮説で、結果論であり、人類の覚醒と睡眠、つまり、意識と無意識のリズムを後から検証したものでしかないだろう。ある意味、結果論的に上記の三位一体の創造原則を物的に検証しているともいえよう。 長年に渡り言い伝えられてきたことこそ黄金伝説というべき金言なのであろう。人類の進化のプロセスは、ヨハネの黙示録に既に記述されているのである。ただ、それを理解できるかどうかなのである。つまりは、意識の問題なのである。理解するにつれ意識が高まり、それが進化につながる。DNAよりも、ヨハネの黙示録こそ進化の記録書といえるだろう。
2006年11月10日
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マッサージに関する療法についてもまとめたいのだが、とりあえずは、前回の話の流れをこのまま続ける。前回は歯形成プロセスから、人体内のエーテル体の活動の目安を得る方法を端的に示した。三位一体を表す関文字表記では、以下のように書ける。ちなみに、聖霊(父、子)という感じの関文字で表記する。 エーテル体プロセス〔フッ素形成(成長)プロセス、歯形成(分解硬化)プロセス〕これが、以下の錬金術に対応し、更にその特徴的な病気に対応する。 錬金術プロセス〔燐(硫黄)プロセス、塩プロセス〕 =病プロセス〔炎症プロセス、腫瘍形成プロセス及び硬化プロセス〕 では神秘学からの具体的な主にエーテル的プロセスの考察を続ける。 歯の治療が可能な範囲で、歯形成プロセスにおける分解プロセスを克服するために、エスクリンとクロロフィルを用いる等行って、精妙な成長プロセスであるエーテル体の、鉱物化に向かう成長プロセスを洞察することは、人体組織の成長力全般が、いかに人間の精神へと向かう高次の進化に負っているか、そして、それを歯形成プロセス一般によって購っていることがわかる。 人体の成長(高次の進化、歯形成プロセス) これは系統発生上でもいえることで、動物の歯形成プロセスに比べて、人間の歯形成プロセスは、退化プロセスとなるという。退化した分が、エーテル体の高次の進化分に帰されている。しかも人間は、この退化プロセスという特長を、頭部機構の至る処に見られるプロセスと共有している。人間は、人体を鉱物化させることで、エーテル体という成長ある柔軟性を獲得しているのである。頭部においては、このエーテル体を駆使して、脳において思考を行っているわけなのである。 思考を行った分は、歯形成プロセス、及び頭蓋骨形成プロセスの退化として贖われる。だから、人間と比べ、動物の骨格は重力に従って進化しているのである。人間はサルから進化したのではなくて、サルはサル、人間は人間なのである。現代科学の遺伝子解析では、人間のゲノムは、サルやハエとほとんど変わらないというが、それなら、統計的にサルやハエと人間は殆ど、行動学的に変わらない動物になってしまうだろう。他の動物との相違を探る目的の結末がほとんど同類であっては、本末転倒で、僅かに異なるその遺伝子領域に、その相違を求めるとしたなら、人間とサルの思考の相違を物証的にも僅かな部分に求めることになり、物量的に土台酷な話であるし、例えば、湖と海や川の相違を、それを構成しているほんの数滴の水分子の相違に求めるようなものであろう。 そうではなく、ホログラフィ、つまりエーテルで考えれば、太陽光を源として、外界のエーテルから、肉体を刻印し、その刻印の反作用としての、自我のなかにある霊光により、次の瞬間の肉体である干渉縞を形成し、その手続き、いわゆるエーテルプロセスにおいて人間が存在していると考えるとその意味がわかる。例えば、遺伝子をそのような干渉縞と考えれば、少しは辻褄があうだろう。動物だろうが人間だろうがその映像の記録媒体、例えばDVDは、容量の違いだけでほとんど変わりはないからである。つまり、遺伝子はフイルムにすぎないわけである。記録媒体を変えたからといって被写体が変わるはずがないからである。ますます、アーチファクトとして光源から隠されるだけである。つまり、ある意味、動物と同じで、物質的部分だけが進んでいくのみなのである。 とどのつまり、遺伝子治療や臓器移植等の再生医療は、人間を益々動物化していくだけであろう。動物として生きながらえることを選ぶか、それとも、人間として死を迎えるか、それは個人(自我)の自由に委ねられるところであろうが。 人間は重力に沿い硬いものを判別し、そこから光により柔らかいものをエーテル体として抽出して、成長を遂げている。人体は重力から鉱物化(分解)プロセスを担い、光から生命化(成長)プロセスを担っている。動物は、主に重力のみに負うので、歯及び骨(分解)形成プロセスが進化していく。それが人骨と動物骨の形態の相違に現れるのである。 以上、一見して歯形成プロセスとは、関係のないようにみえる食養生に関しても実は、上述の事柄は深く関連しているという。この食養生の問題は、医学上の意味に限らず、社会的な意味ももつが故に重要で、食養生の様式における意味あいの議論は可能だが、その様式で推奨される条件が、当人を非社会的な存在に招き、社会的な意味と医学的な意味が当人になかで衝突してしまうという。栄養摂取に関して、特別なものを摂取するように指示されるほど、世間の影響全般に関して、それだけ一層非社会的な存在になるという。 「最後の晩餐」の意味は、キリストが弟子たち皆に特別なものを与えたことにあるのではなく、皆に同じものを与えたことにあるという。飲食においては人間として共にできるということに、大きな社会的意味があり、人間の健全な社会性を妨げる結果に関しては、慎重に扱う必要がある。 人間は放置しておくと、可能な限りの食欲と(その反動の)食欲不振を生じさせて、節制がなくなり無秩序になってしまう。だから、人間は本来耐えられないことを耐えるように学ぶように、食欲不振を克服するなら、当人の食欲不振の元凶(食べたくないもの)を、当人から引き離しておくことにより、当人の生体機構が獲得する(霊的)能力は多くなるという。 破壊された器官の、エーテル体を見れば、新鮮な器官の回復は、耐えられないものを正しく克服することのなかにあり、つまり、器官形成力は他ならぬ食欲不振を克服することのなかにあるという。(逆に)ある時点から食欲の虜になることによって、今度は器官の役には立たずに、器官を肥大させ、器官を退化させてしまい、つまり、生体組織を害したため、自ら引き離したもの(食物)に対して屈服しすぎると、(今度は)生体機構を害することになる。けれども、当人に相応しくないと思われることに、当人を徐々に慣らしていくことを行うと、このことによって常に生体機構は強くされるという。 この点に関しても現代科学は、無関心にも、無知なまま、全て覆い隠してしまい、生存をめぐる闘い及び淘汰といった外的な原理、ダーウィンの進化説で満足し、実際、競争の原理は全く表面的なもので、間違いであるという。ルクスはこれを更に人体の器官の闘いに転用したが、それは非常に表面的なことで外面しかみていないという。 現代ではこの構図は、発現遺伝子対抑制遺伝子の闘いに移されているが、根本において、表面的で無意味である。 人間の器官、系統発生の系列上にある器官一般を強めることは、常に精神的な反感(食欲不振)を克服することによりなされる。器官形成は、反感(食欲不振)の克服の結果もたらされ、他方、既に存在する器官成長は、食欲への共感によりもたらされるという。だから食欲はある一点を超えてはならず、食事の共感と反感は、単に舌の上、或いは眼のなかにあるのみでなく、生体組織全体に共感と反感が鳴り響いているという。 どの器官もそれ自身の共感と反感を有し、ある器官は、その器官を構築したある種の状態に対して反感を持つ。つまり、その器官は、完成されたときの反感により、構築される。これは、外界がまず作用し、人体の内面がそれに抵抗し、反感の枠のなかで自らを発散することより、生体機構の完成が更に進められると系統発生学的に考えられる。 生体組織の領域で外面的な生存競争に最も良く耐える人は、内的な反感を克服して、その代わりに器官形成能力を最も多く持つことになる。つまり、無理解から反感は生まれ、反感は無知の領域として、自己を形成するが、その自己は、自らの無知さ故の反感を、忍耐により克服することで、徐々に理解を得て、共感へと転じることで、自ら成長し、進化する。 ここにも、三位一体の創造の原理が見出せる。外界の作用に対する反感が父の原理、その父への理解からの共感が子の原理、そして、反感を共感に転じ、子が父に成長する進化が、聖霊の原理であるだろう。三位一体の創造原理で進化するのである。 以上を元に考察すると、薬剤配量の上でも拠り所が得られ、器官形成プロセス自体のなかに、共感と反感の間を絶え間なく揺れ動くものを見て取れ、器官発生は本質的に、共感と反感の形成と同時に共感-反感間の相互活動に関わっていることがわかるという。 器官発生(共感、反感)=共感-反感間の相互作用 生体組織での、このような共感と反感の関係は、低いポテンシャル量、つまり物質自体として適用するものと、高いポテンシャル希釈度、つまり非常に薄い濃度で使用するものとの関係と同等であり、高いポテンシャル希釈度は低いポテンシャルとは逆に作用し、このことは組織化力全体と関係するという。 組織力全体(高いポテンシャル希釈度、低いポテンシャル希釈度) 最初の生命周期(幼少期)での生体組織におけるある作用は、後の生命周期(老年期)では逆の作用となり、そのとき、生体組織において、作用がずれる場合が生じ、これが基になって、一方で、精神分裂病を、他方で、魂のある範囲が(他の部分から)絶縁されるということが生じ、この魂の絶縁は後の年齢になって、生体機構を捉える必要のないときに誤って捉えてしまうもの(器官の破壊)を生じるという。 いわゆる精神病と呼ばれるものを霊的-魂的な方法で治療せずに、器官の不調をみつけることからはじめて適切に処理することができる。逆に、いわゆる肉体の病気の場合の方が、精神病と呼ばれる病よりも遥かに、心魂的なものに注目することでより多くの手掛かりが得られるという。 観察を通じて、生体組織のどこに欠陥があるのかを探り出すために、心魂上の所見を研究する必要がある。古代人たちはこの点に関して、術語上において既に配慮し、ヒポコンデリー病像を、純粋に唯物論的にも聞こえる呼び名の、「下腹部の骨張り」とか「下腹部の軟骨状態」といった意味の言葉である、「ヒポコンデリー」(心気症、憂鬱症)という文字に結びつけたのは、意味があり、古代人は、このような表面的な病的徴候の要因を内面的に下腹部の器官の疾患に探求したという。 再び食養生の話に戻ると例えば、自分にとって、ある食品を避け、別の食品をもっと摂取する必要を考え、ある食餌療法が自分には必要だと考えられるのだが、自主的に自分で試し、自分で探し辿り着くことにより、ある食餌療法に至るのか、単に医師に指示されてのものなのかでは、いささかの違いがあり、医師の指示に従った食餌療法は、最初のうちこそ効果を示すが、有害な部分もあり、その食餌療法をしなかった場合よりは、高齢になってから痴呆化しやすく、老人性痴呆になりやすいものとなるという、他方、食餌療法に積極的に自主的に協力することは、老齢に至るまで、勿論他要因も加わってくるが、精神的に活発性を維持し続けるようになるという。このようなことは、唯物論的な思考の前では、皆、同じようにみえるだろう。 つまり、このような能動性と非能動性の働きは、あらゆる暗示療法の際に、障害として現れ、特に自らの判断を放棄して、他者が指図することに依存するのみならず、自らの意志の導きを他者の判断に委ねることさえしてしまうので、催眠と暗示に立脚する治療法は、本人の自由な意志を妨げないような場合以外は、できるだけ使用しないようにすべきであるという。 老人性痴呆症は、若いときに自ら行動せずに、指図され、判断を他者に委ねた意志薄弱さの元凶が、老年になって表れた結果ともいえる。 現代において老人性痴呆症が多発している背景には、支配的な見解に汚染されて、今日ありとあらゆる催眠的傾向、暗示的傾向が教育学にも取り入れられ、サブミナル効果というような広告宣伝媒体まで、表出する現代社会のなか、そのものにあるともいえる。こういう傾向が教育学のなかに取り入れられるというのは全く恐るべきことであるだろう。
2006年11月09日
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はっきりいっておくと、自殺は、宇宙の三位一体の創造原理を裏切る最たる行為であるといえる。 自殺が、なぜに宇宙の犯罪行為なのかは、スウェーデンボルグの霊界の記述の書物を読めば、恐らく理解できるだろう。 現世の死は、ただ肉体を失うだけでしかない。しかし、この肉体に外界に対する感覚器があるので、肉体を失った途端に、外界に対する認識力を失うのである。 我々(正確にいえば魂の自我だが)は、日常の覚醒意識を、肉体から外界の感覚器を通して得ているので、肉体を失うことは、日常の覚醒意識を同時に失うことでもある。日常の覚醒意識は、ホログラフィック宇宙論(或いは超弦理論でもいいが)により、光、つまり太陽と、その肉体を通した反射光、つまり霊光のいわゆる干渉縞なので、肉体を失うと、同時にこの肉体の陰でもある干渉縞がなくなるのである。しかし、人生の日々で刻印してきた干渉縞の蓄積を記憶としてエーテル体に保管しているので、全てがなくなるわけではなく、ぼんやりと失っていく感じであるだろう。 この模範実験は以下のページにあるCDにおける虹のスペクトル形成実験が好例である。 http://www2.hamajima.co.jp/~tenjin/labo/cdbow.htm この光円錐は人体を表す、いわば特殊相対論の観測系と同じ光円錐である。この光円錐実験のように自我と太陽は光速度一定の関係、つまり虹の形成で結ばれるのだろう。このことは、聖書の記述にもあり、それは、ノアが大洪水の後にみたのが、虹であるという記載のことにあたる。つまり、人類が肉体をもったとき、はじめて、虹をみることができたのである。なぜなら、虹を7色の境界を明瞭に宿した色としてみるためには、上記の覚醒意識が必要だからである。 つまり、人類は、ノアの大洪水以前には、このような覚醒意識をもたなかったのである。ノアは、人類にはじめて物質的肉体を与え、この肉体が真のノアの箱舟なのである。 だから、肉体を失うと、人類は、覚醒意識を失うのである。ただし、例外がある、人生において、肉体に依らない霊的な感覚器官を獲得した、いわゆる秘儀参入者は、肉体を失っても、肉体による感覚器を使わないので、霊的感覚器官から、既に覚醒しているので、死んでも意識がぼやけることはないのである。神秘学では、これをエーテル体の感覚器と称し、そのような感覚器を霊我と呼んでいる。仏教では、蓮華(チャクラ)で、これを獲得することを開悟という。 霊的感覚器官を身につけていない一般人が死ぬと、たちまち覚醒意識を失うのである。早くいえば、夜の睡眠状態と同じ意識になるといえる。だから、常に意識は朦朧として、いわば夢の状態のまま、死んでもその生活を続けることになるわけなのである。自殺してしまうと、多くは、自殺というのは、自我が最弱状態になり、いわば悪霊にとり憑かれた状態のまま、肉体を捨てる状態を意味するので、意識が朦朧としたまま、肉体の覚醒感覚のないまま、あの世にいくことになるので、生きているか死んでいるかの自分の判断に思い悩み続ける自問自答の状態を永遠に続けてしまうのである。例えるなら、悪夢を永遠に見続ける存在となるわけである。そこから逃れたいために、また何度も死のうと試みる。 「俺は確かに自分で死んだはずのに、なぜ、俺を考えるこの存在はあるのだ。この俺は一体自分なのか?どうやって調べればいいのか?」という自問自答を自ら永遠に続け、自分自身を何度も殺そうとするのである。 スウェーデンボルグにいわせると、自殺を引き起こす素の誘引は、悪霊なので、そのような自殺者の周囲には、悪霊がいて、悪霊の全て皆が皆、自殺を自ら試み続けているのである。いわば分子生物学でいうなら、モノクローナルな自殺志願者が増幅されるのである。永遠と、自分の殻に閉じこもり、自ら自分の首を絞める行為を続ける集団と化すのである。だから、そこは必然的に地獄となるのである。 更に、そこに他に対する怨念があると、他者を認識できるような覚醒意識はもはや無いので、自分にそのまま返ってくるので、怨念が自らの刃となってくる。 悪霊たちは、独りで悪を起こすことができないので、奪うための仲間やカモを探すのである。悪霊たちは、何かを奪わずにはおられず、それが果てしない欲望の糧となっている。善を悪に転じないと気がすまない性質の持ち主で、悪霊たちがこの世を生きていたときの現世における道徳に反するいかなる行為も、悪の素因となるだろう。悪霊たちはお互い奪いあって自ら墓穴を掘って地獄深くに転落しあっていくだろう。 現世において悪を自ら行ったものは、その魂のなかに、地獄への種が植え付けられたと覚悟するべきである。犯罪者は刑務所に入らずとも、既に魂のなかに悪の種を植え付けた罰を、死んだ後、知るだろう。 だから、罪深き者は、悔い改め、他者に寛容でなければならないのである。最大犯罪である自殺をしてはならない。勿論、いかなる殺人も自殺に同じである。まずは、自らを赦すこと。自殺者は、表面上は他者に原因を言及しているが、実は、自らのなかにその元凶があるのである。自らを赦さない厳格な自己があるのである。そこを悪霊に憑かれてしまうのである。 悪霊になったら最後である、なぜなら、悪霊は自らを悪霊だとは思っていないからである。悪霊は自らをそれに相応しいものかどうか吟味するような思想や覚醒意識を有しておらず、道徳観念など、思いもつかないのである。悪霊は、皆自分は正しく、神のような存在だと思っているのある。だから、他者から何かを奪い、欲求を満たすことしか頭にない。 悪霊というと、汚らわしいイメージがあるが、もし悪霊=金持ちとすれば、悪霊がいかに性質に負えない存在かがわかるだろう。金持ちは、現世において、最も他者から奪い、自らの欲求を満たす点で、実は悪霊と同質の魂をもっているからである。これは、なんらかの権威者にも同じである。権威者が、自らの権勢や力を誇示し、他者から自由を奪い、奴隷の如く服従させるのは、悪霊の仕業と実は同じである。また教会主義者や唯物論者、更には新興宗教の教祖もこれに同じである。宗教者はとくに最も地獄に近いところにいることを自覚すべきである。教条において他者を強制し、思想を強奪するからである。 まずは、他者を赦しなさい。そして、自らを赦しなさい。まずは他に奉仕してみなさい。肉体をもつ、有り難さや、感謝を、神に祈ってみなさい。そして、心を楽に平穏にしなさい。 何かを攻めることをやめ、ただ、神にひたすら祈り愚になりなさい。そして、理性のなかに神性を取り戻しなさい。神性とは理解である。他者を理解し赦すことです。何者も何事も要求しないことです。あるがままの自分をみつめる。ただ是有るのみ!
2006年11月08日
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前回は、人体のエーテル体とアストラル体をみることで、自我の弱さから、炎症、腫瘍形成、糖尿病等が誘発されることを端的に述べた。そして、次のような関数というか関文字で、プロセス(エーテル体、アストラル体)のように示した。これは、前回に示した通り、以下の意味であり、いわばエーテル体とアストラル体の関係を表す文字表記である。 プロセス(エーテル体、アストラル体)=エーテル体+アストラル体 ヒポクラテス、パラケルススのように、人体の4つの体の関係を、このような表記で表すならば以下のようになるだろう。 第1プロセス(肉体、エーテル体)、 第2プロセス(エーテル体、アストラル体)、 第3プロセス(アストラル体、自我) ヒポクラテスは、この3つのプロセスの関係の均衡から、クラーシスとディスクラーシスを判断したといえる。また、これらの3つのプロセスは、三位一体の創造原理(プロセス)ともいえる。ちなみに、日本的表現形式に変えるならば、第一道(体、命)、第二道(命、魂)、第三道(魂、自)という感じだろうか。 この構図でみると、炎症は主に第2プロセス、腫瘍形成は主に第1プロセス、糖尿病は主に第3プロセスが主因になっているといえるだろう。日本的にいえば、炎症は、主に命と魂の不全関係で、腫瘍形成は、主に体と命の不全関係で、糖尿病は、主に魂と自の不全関係にあるといえるだろう。ちなみに自我の活動は、糞に現れ、アストラル体の活動は、尿に現れ、エーテル体の活動は、汗に現れるので、炎症が、尿と、汗の不純に表れ、腫瘍が、肉体そのものと汗の不純に表れ、糖尿病が、尿と糞の不純に現れるのは、一種その判断の目安となるだろう。大まかにいって活動力のある自我は、丸っこい糞を出し、あまり動かない自我は、液状の糞を出すという。糞をみれば、その人が怠惰なのかどうかがわかるというわけである。 一向にタイトル通りの歯の話に展開しないので、話を元に戻し、では、これらの描像の元に、続けて、より具体的に考察していきたい。 歯は唯物論では、咀嚼器官と見られているが、実は歯は2重の性質をもち、歯を化学的に調べると、骨組織と関連することがわかり、発達史的には、皮膚組織から発していることがわかり、つまり歯を骨組織と皮膚組織の2重の存在としてみることができるという。動物の歯列と人間の歯列を比較すると、そこに、重力の負荷とそれを克服する光によるエーテル体の作用が見出されるという。 このエーテル体の作用から考察すると、歯は咀嚼器官ではなく、本質的な吸収器官であり、歯は第1に外へ向かって機械的に作用するが、第2に歯は、内に向かう精妙な霊化された(エーテル体の)吸収作用に関連するという。歯は実際、何を吸収しているのかというと、フッ素を吸収しているという。 神秘学によると歯はフッ素吸収器官で、人間は非常に微量のフッ素を生体内に必要とし、フッ素がないと、人間は利口になりすぎるという。人間は利口になると自らを破壊するようなほど利口になり、つまり人間という存在であるには、適度に必要な愚かさが必要で、この愚かさとして作用するフッ素作用により利口さを和らげる必要があるという。 だから早くに歯が悪くなること、いわゆるフッ素作用の損失、これはフッ素を吸収する歯の作用が過度に用いられ過ぎていることを暗示し、あまりに暗愚になるのを、つまりフッ素を取り込みすぎないように、いわば自分の歯を壊すという。人はあまりに愚かにならないために、歯を損失するという。 このような歯形成プロセスを理解するには、その内的プロセスを理解しないと、その外的プロセスである歯の損失等が理解できない。その内的プロセスを理解するのに好材料なものが、妊婦の分娩後の歯の損失である。更にまた歯の損失と人間の痔疾への傾向との関係も考慮すると、人体内の鉱物化現象を理解できるという。 歯形成プロセスの末端部の歯の被膜、エナメル(ほうろう)質では、栄養摂取プロセスが生じずに、内的組織化が行われず、非器官的な性質をもつので、解体プロセスが優位に現出する。このことから、人体内の解体プロセスの進み具合が洞察でき、この解体プロセスの傾向をいかに遅らせるかが、人体の健康の命題となる。 歯形成プロセスにおいて、フッ素が歯の表面物質と結びついて一種の安定した平衡状態に至る、いわばフッ素の静止状態のフッ素形成プロセスは、歯の損失、退化等の解体プロセスとは対極を成す。幼児期の歯形成プロセスは、このことを端的に示している。 これを関文字で表記すれば、歯形成プロセス(フッ素形成プロセス、解体プロセス)であろう。 幼児期の歯の形成プロセスにおいて、歯の損失や退化のその分解プロセスを遅らせるような予防的措置としては、手足を俊敏に器用に動かすことが要請され、例えば、棒針編み、鉤針編みしたり、巧みに両脚を器用に動かすように、走るようにできるだけ早く指導し、いわゆるタゲリ走り(千鳥足)で走らせるなど、一方の足をいつももう一方の足に付けるように走るように指導することが重要であるという。 歯形成プロセスにおいて、歯の破壊、退化である分解プロセスの対極にあるフッ素形成プロセスに働きかけ、例えば手足を器用に動かすことで、その反対の対極にある、歯の破壊、退化に予防的働きかけることができるのは、このフッ素形成プロセスが、人体内の栄養摂取プロセスの延長にあり、血管を通じて、人体の周辺にフッ素が蓄積されることにある。フッ素は、人間の周囲の至る所にあり、植物のなかにも、このフッ素形成プロセスはあり、人間は、このフッ素を極微量摂取し、用い、組織周辺的に蓄積し、歯形成プロセスにおいて、末端の歯のもはや非器官的部位で、非栄養組織体のエナメル質に血管を通じて輸送する。 この歯形成プロセスの終端部では、人体のエーテル体は、物質体との結びつきが緩く、割りと自由な活動を行い、これと反対側の下腹部では、エーテル体は、物質体、器官体と密に結びついているために、エーテル体全体としては、下腹部での活動に大きく影響をうける傾向にある。 下腹部でのエーテル体の活動が、妊娠時のように、物質的組織から離れて緩められると、即座に反対の(対)極にある、歯の機構に重大な変化、つまり歯の損失や退化を引き起こし、これと同様に、痔疾も、物質体とエーテル体が、離れて、独自の機能を歩むことに関連し、このように人体の下腹部で生じる独立的なエーテル体の活動は他方で、人間全体の活動としては、そのエーテル体を人体のなかに再び引き入れようとするので、その反対の作用、つまり破壊する作用に結びつけられる。つまりは、器官的な活動を高めると、それが健全に出れば、妊娠の場合で、病的に出ると、病気の場合となり、この健全な活動を高め、正常な活動を強めるには、他方において、そのより反作用的な集約的活動として、もっぱら歯の退化や、破壊を行うように作用するわけである。 この人体下部での負の遺産ともいえるエーテル体の上部での破壊的活動、つまり歯形成プロセスにおける分解プロセスを予防するには、それとは対極にあるフッ素形成プロセスを、上記の幼児期に対して述べたように器用な運動により促進すればよい。一般的に、手足を駆使した器用な運動は、フッ素形成プロセスを促進し、同時にそれは、自ら何かを始める素質のようなものを、魂のなかに形成することでもある。 このフッ素形成プロセスを代替的に何か薬剤的な治療で行うには、ただし、比較的若い時期だが、トチノキの樹皮から採った液の水性エキス、いわゆるエスクリンエキスを試すとよく、非常に薄く希釈したエスクリンを内服させると、歯の保護、歯を長くもたせるよう調整的に働きかけることができるという。 エスクリンエキスが、なぜ、歯形成プロセスにおけるフッ素形成プロセスを代替できるのかは、エスクリンの中の作用素にあり、この作用素は、エスクリンが作用した物質に化学作用を起こさせるように働き、なんらかの物質の化学特性からくる作用を、エスクリンを媒介することで、その反作用を起こしキャンセルできる。例えば、円錐スペクトルを、エスクリン溶液に通すと、スペクトルから化学作用が消去される。このような化学作用の消去は、水性のエキス溶液を非常に薄く希釈して生体組織内に取り入れる場合にも見出せる。 つまり、このような化学作用の克服、いわゆる鉱物化を目指すことは、人体の歯形成プロセスと同じである。ただし、化学作用が消去されても、外面的に生じることは、人体内の組織化する力には、まだ浸透されている。これと同様な作用を起こすのは、クロロフィルを、下腹部に外的に刷り込み、葉緑素をエーテル化することである。 結局のところ、神秘学から、トチノキの樹皮液のエスクリンやクロロフィルのなかには、歯を構築する、歯形成プロセスが実際にあるという。外のマクロコスモスのなかに常在するものは、体内においては、組織化する意味を持つという。つまり、人間形成プロセス(マクロコスモスでの常在、人体内での組織化)というわけなのであろう。このようななんらかの薬剤を非常に希釈して用いるホメオパシー原理が人体治療に有効であることを説明できる、宇宙論を以下に紹介したい。 ここで、ボームという物理学者のホログラフィーによるホログラフィック宇宙論を、取り上げると、ホメオパシー原理による治療法を説明できる。ホログラフィーとは物体にレーザー光を当ててその反射光と元のレーザー波との間で出来る干渉縞をフィルムに記録することで、そのフィルムに再びレーザー光を当てると元の立体像が見えるという現象のことで、フィルムだけ見ていたのでは何が映っているかわからない、このフィルムを半分に切っても復元像はどこも欠けずに、更に半分にしても同じであるという。次第に像はボヤけてくるが 像自体が欠ける事は無い。これはフラクタル構造を表し、実は宇宙自体がこのようなフラクタルの階層構造になっていて目に見える宇宙を明在系 その裏に隠れている複素数の世界とも言うべき、または干渉縞の世界とも言うべき暗在系(ダークマター)という隠された秩序があると考えるのである。 このホログラフィック宇宙論は仏教でも説かれるところであり、更には、超弦理論でも説かれるところなのである。つまり、我々の存在とは、一方のレーザー光と、それの反射光との間で出来る干渉縞であり、この干渉縞自体が、我々の存在なのである。これを神秘学で解き明かすと、元のレーザー光が、太陽によるもので、太陽光の反射光が、我々のなか、つまり自我から形作るいわゆる霊光である。だから、人間は、外から太陽光が刻印した影と、内側から、太陽光の反射光である霊光が表出する陰とで出来る干渉縞からなるというわけなのである。つまり、太陽光を陽、霊光を陰とすれば、人間存在(太陽光、霊光)となるだろう。 つまりは、太陽と自我からなる霊光との干渉縞の存在が、自我の段階に応じてフラクタル構造、つまり階層構造を形成するというわけなのである。これは超弦理論による宇宙論を説明するときに、用いられるD-ブレインによるM(膜)理論に酷似しているものでもある。端的にいえば、D-ブレインという膜のようなある切断(条件)面的な干渉縞の存在から、万物の存在の基本量子が形成されるような感じである。超弦理論は、実は非常に宗教的な理論なのである。最近の脳科学理論も、プリブラムが唱えた脳ホログラフィー理論により説明できる。神秘学では、脳のホログラフィーを形成する光源は、霊と魂の関係に他ならないのである。つまりは、科学はようやく、宗教を理解するに足る道具に達したといえる。 そしてホメオパシー原理は、宇宙は、干渉縞の階層になっているので、極微の階層の干渉縞から光を作用させ、光を減弱していって反射光を高め、反射光の干渉縞から、元の作用を発生させる原理ともいえる。干渉縞(太陽光、霊光)=水銀プロセス(塩プロセス、燐(硫黄)プロセス)というべきものであるだろう。
2006年11月08日
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前回は、眼が人体のエーテル体による炎症プロセスの正常化からでき、耳が人体のアストラル体による腫瘍形成プロセスの正常化からできることを、端的に述べた。これらを簡略化して、プロセス(エーテル、アストラル)という関数のように表記し、方程式化すると以下になるだろう。 プロセス(エーテル、アストラル)= 炎症プロセス+腫瘍形成プロセス = 視力+聴力 = 自我形成 =脱塩プロセス このエーテル、アストラルからなる関数は、いわば伝達プロセス(言語、言葉)としても考察できる。 古代人は、エーテル体という生命体を考えることで、自然から言語を見て、自らの魂であるアストラル体から言葉として聞き、自然治癒力というプロセスを、いわば自然治癒プロセス(自然観察、病態治療)としての関数の形で、もっていたのである。だから、自然のなかに異常をみたら、言葉により治癒したのである。これが、自然のなかに神をみ、祈りような、信仰プロセス(神、祈り)の関数を生み出したのであろう。その名残がアニミズムとなったのだろう。 ともかくも、病の原因は、真っ先に自我の弱さにあるといえる。宗教の修行も、この自我強化にあるといえる。宗教的な自我強化の関数はさしずめ、自我強化プロセス(霊視、霊聴)となるであろう。これはつまり、数学を考えるような脱塩プロセスにあたるわけであろう。それは数学思考プロセス(幾何学、代数学)となるだろう。 幾何学的なエーテルプロセスを、代数学で捉えるには、フェルマーの定理のようなものが出てくるわけである。 さて、話を戻して、動物のなかの自然治癒プロセスを考察してみる。例えば、ツグミという鳥は、オニグモを食べると、その解毒のために、ヒヨスを食べるという。つまり、ツグミの自然治癒プロセス(オニグモ、ヒヨス)という関数ができる。ツグミのなかには、このような自然治癒プロセスを生まれつき所有しているのであるという。 神秘学によると、鳥の場合は、自我はなく、鳥の各種の全体に集合魂の統合体としての自我があるので、このような既得的な治癒力を、いわば生命体の習性として、有しているのである。これに対して、人間は、各個人が自我をもっているので、その自我の按配が各個人の、いわば自由に委ねられた形を取るわけなのであるという。 自我の弱さを端的に露呈する病気が糖尿病だという。糖尿病は、植物蛋白質を動物蛋白質へと変成させる器官までに、自我があまりに弱くて、浸透できないために、代わりに、人体を調整する消化、血液調製、呼吸の中間的な組織化プロセスが放任されてしまい、我儘な活動を生じさせ、中間的な組織化プロセスは胸部の心情形成、感情形成と密接に関係し、自我は脳のみに通じて主要な活動を制限してしまい、分泌活動、つまり振動し、循環する活動は全て、自我により管理されないままに止まり、このことが、感情の影響から作用する心理的影響に対する支配を失うことと関係し、主知主義的に、頭脳から活動し、人間の内部は独自の運動を始め、その人間は全く興奮しやすい状態になるという。 糖尿病患者には、脱塩プロセスが必要で、鉱物を自ら砕くようないわゆる天の力が求められるのである。糖が分解されずに人体に残るのは、つまり自我の弱さをそのまま露呈しているわけなのである。 このように神秘学では、炎症と腫瘍形成、糖尿病も自我の弱さからくるものとされているが、その治療となる自我強化、いわゆる脱塩プロセスを端的に書いてゆくことにする。 前回にも書いたように、蟻酸とローズマリーを非常に希釈した液による入浴や、内服がよいとされている。これはホメオパシーの原理により、徐々に薄めて用いる必要がある。他には、色々な植物による自我強化、更には根本の魂的な活動からまた、数学的な思考を行うのも、脱塩プロセスを誘発させるものと考えられる。 その他には、光療法や色彩療法が挙げられるという。もっと簡便な方法は、いわゆるマッサージだという。今流行りのインドの民間療法のアイユルベーダが、このマッサージ法を彷彿とさせる。マッサージに際しては、人体内のエーテル体と、アストラル体の作用を常に考える必要があるという。とくに、人体内の脾臓は、最も霊的な器官で、その物質的肉体に対応する器官である脾臓を取り除いたとしても、その機能は、充分に維持されるという。脾臓という器官は、霊的に意味があるというのである。 脾臓は、腸による消化プロセスとして不規則な新陳代謝プロセスに、いわばリズムを与える器官で、人間の無意識下のリズミカルなプロセスの調整役だという。 脾臓に関するマッサージ法は次回に譲りたい。
2006年11月07日
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宇宙をエーテル体のプロセスで表し、3つに区分することで、生命のプロセスが示せ、フェルマーの定理が出てくることを前回、端的に説明した。三平方の定理は、3次元空間の三位一体の原則を示しており、正四面体が球に内接し、1つの球は、12個の球に覆い尽くされる条件から明らかとなるだろう。 プラトンは正四面体を四大元素霊の火にあて、x²+y²=z² から(2m)²+(m²-1)²=(m²+1)²;mは任意の自然数というプラトンの公式を表した。ピュタゴラスは、ちなみに、この式を4で割ったものを公式とした。ちなみに神秘学では、4は神(宇宙)の創造数と呼ばれる。我々は第4世代の人類であり、第4世界の鉱物世界にいて、鉱物の創造を行うという意味でもある。 ピュタゴラスが数学を宇宙の創造活動とみなし、プラトンが、自らの秘教学院の門前に、「幾何学を理解できない者通るべからず」という表札を掲げたのも、神秘学では、数学を思案する数学者は、実は、最も、人間らしい思考活動を行っている者で、数学を思考することは、人体のなかで、天と鉱物界のなかでのプロセスを代替しているといえるという。つまり、鉱物を人体内で打ち砕いて細かく壊すことから、数学的思考が生まれるという。鉱物は宇宙の力(光)と地球の力(重力)から生成されるので、人体内の鉱物化に対抗し、人体内の光で、天の力と同様に地の鉱物化に対抗し、鉱物を打ち砕いて壊す力を得ることを、意味するという。 このような数学的な天の作用を、人体内の鉱物化する塩プロセスに対抗し、脱塩プロセスという。 古代人は、このような数学的な思考力を失うと、鉱物を摂取し、(それを)粉砕し、この鉱物を内的に粉砕することで、地球から遥かに隔てたところにある地上を超えた天との調和に至る能力を身につけたという。 エーテルプロセスからなるものを咀嚼し、分解するものは、アストラル体のなかの自我の作用であるという。 人間は、人体内で器官から、植物タンパク質を再構成し、動物タンパク質を変成し、植物蛋白質形成プロセスと動物蛋白質形成プロセスを平衡させ、人体内のエーテル体とアストラル体の恒常性を司っているが、上記の脱塩プロセスにおいて、塩プロセスとして人体内で物質化し、動物性のアストラル体となるものから、自我により克服しているという。 物質的な、動物性の塩形成プロセスのアストラル体を克服するのは、植物形成プロセスと、自我による脱塩プロセスであることがわかる。エーテル的な3つの作用を認識するものは、アストラル体で、エーテル体とアストラル体との平衡を保つのが、自我であり、とくに数学的思考により、プラトンの公式、ピュタゴラスの公式、フェルマーの定理等のその認識を得ることが出来るわけなのである。 数学的な思考は、人間において、動物性を克服させる作業であるという。だから、プラトンは門前に理を書いたのであり、ピュタゴラスは、数学を神の創造の掟として、天空の音楽に擬えたのである。 話を元に戻すと、これまではエーテル体の作用により、人体のとくに機能を端的に述べてきた、そして、エーテル体において、不活性なプロセスは、炎症と腫瘍形成の病的な結果を招き、主に自我の弱さからくるアストラル的障害によるものが、炎症で、主に、自我の弱さからくる物質的障害によるものが腫瘍形成であることを述べた。 今度は、エーテル体の不活性化を別にした自我の側面から考えてみる。 エーテル体は、幼児期にはまだ全く無意識に自我に支配されていて、長じてからはこの支配はなくなるという。大人になってからも、強力なファンタジーを内包するような人の場合、エーテル体に対する自我の強い影響も残存しているが、一般的に、分別的で、知性偏重主義の人の場合、自我は物質体に対して強い影響力を持っていても、エーテル体に対する影響力は弱いという。つまり、現代人は、エーテル体支配に対する自我がますます弱くなり、炎症や腫瘍形成の傾向が益々高くなっているわけなのである。 自我がエーテル体及び肉体に対する制御の基点というべきファントムというものを人体内に持っていて、これは肉体に対しては異物であり、自我が抜け出る睡眠中に自然に崩壊するように働くという。このファントムを、自我は、視覚を通してエーテル的に形成したものと、上記の実際に自我から形成した基点の実際の実存ファントムとの2つをもつという。眼が見えない人は、視覚を通してのエーテル的なファントムをもたず、近視の人は、実際の自我形成のファントムと非常に近接し、遠視の人は、これと反対に、非常に異なった外にエーテル的に広がったファントムを持つという。 自我が弱いと、視覚から形成されるファントムが、極端に強化されて形成されてしまうという。つまり、実際の実存ファントムとの錯誤があまりに大きくなり、現存よりもファントムが大きなものと自覚されてしまい。エーテル体をある方向へと偏らせ、全体のバランスを崩し、不活性化し、そこに炎症状態を生じさせる素になるというのである。 このようなエーテル体の錯誤ファントム形成による炎症は、蟻酸、あるいはローズマリーを非常に薄く希釈し、入浴させることにより、実存ファントムを通して、実存ファントムの自我認識を通して、錯誤を補い、自我を強化させることで改善できるという。この蟻酸希釈入浴による実存ファントム強化による炎症緩和は、とくに肥満の人には効果的だという。 神秘学によると、人間の長い進化の歴史のなかで、眼を形成するために、人体で生じる必須のことは、絶えず正常な領域へ引き込まれ、発現には至らない炎症プロセスだという。炎症プロセスの作用と同じプロセスが、抑えられ、遅くされ、寄せ集められたものが、眼の形成プロセスだという。だから眼を見ることにより、その人物が炎症傾向をもつかどうか、といった印象が得られ、眼から、炎症傾向を見て取れるという。実際、人間の視覚は、エーテル体の観察と密接に関わり、エーテル体の知覚に関しては、瞑想による本来の霊視による内的プロセスと、このような視覚による外からの教化プロセスも存在するという。自然のプロセスを正しい方法で見るように努力すれば、このような事柄に関する直観力を判断力から養成できるという。 本来の霊視器官は、内部から養成する必要がありが、このような判断力は外的な世界を手掛かりに養成され、外的世界からアプローチを行って判断力を養成すると、この判断力が、通常の瞑想における内密なプロセス、内から外へと進行するプロセスに対応することになるという。 さて、眼と同様に、今度は、耳に対しては、眼の外側と反対に、耳は、人体の内側にエーテル的に形成されるという。視覚と比べて、聴覚は、直観力に関わり、自我の肉体に対する制御の内部の基点というべき、実存ファントムがあり、その更に内側に、眼と同様に、耳の聴覚によるエーテル的なファントムが形成されるという。つまり、人体の外側に視覚によるエーテル体と物質的ファントムがあり、人体の内側に聴覚によるエーテル体と物質的ファントムがあるという。 眼が炎症プロセスの正常化を表すように、耳は、腫瘍形成プロセスの正常化を表すという。だから、耳が正常に形成されない人は、絶えず、人体が腫瘍形成される傾向に帯びるという。つまり、自我があまりにも弱く、聴覚により内側のエーテル的ファントムを、あまりに強化してしまうと、エーテル体全体が不活性化し、外側では、崩壊性の炎症だったが、今度は内側なので、反対の増殖性となり、人体の内側に増殖性のエーテル体を生み、実存ファントムとは、あまりに異なる錯誤のファントムを生み出してしまうという。 このような弱い自我が、なんとかして狭いながらも自らを維持するように充分強ければ、魂的な帰結として、ヒポコンデリー(心気症)となり、肉体的な帰結として、便秘、或いはそれに親近性のある現象となるという。つまり、内側の自我による実存ファントムが弱く、聴力によるエーテル的内部ファントムが強く形成されると、自我は分裂気味となり、人体のなかに統一性が失われ、腫瘍形成傾向を招くという。ここで、人体が適度なヒポコンデリー(心気症)や、便秘等にならないと、悪性腫瘍ができるという。 耳は人体に適度な腫瘍形成を正常化させるものであるという。炎症プロセスにはある種の速さが定められ、このプロセスに間違った速さが与えられたら、人間の病的な炎症プロセスとなり、同様に、腫瘍形成プロセス、増殖プロセスも、正しい速さで進行するとき、自然のなかで意味を持ち、このプロセスに間違った速さを与えると、筋腫形成、癌腫形成、肉腫形成が出現するという。 視覚による外側のエーテル体のファントムに比べ、聴覚による内側のエーテル体のファントムは、正確にいうと、実はエーテル体ではなく、アストラル体だという。視覚は光によるもので、聴覚は空気によるものだからである。光は、熱により空気が空間を奪われて発生するので、これは現代物理の光量子理論と同様だが、光も空気も波動の媒質という意味において、同じであるが、どちらかというと、光は視覚により、位置を特定され、空気は聴力により、振幅という運動量を特定される傾向にあるといえるだろう。 だから、人間の外の光のエーテル体に対して、人間の内では、その裏側となり、空気のアストラル体となる。だから、内側のエーテル体は、アストラル体になる。簡単にいえば、外側の炎症が、裏返しに内面化され、いわば袋状にされたのが、腫瘍形成となるわけなのである。どちらにしろ、自我が弱く、適切な働きをしていないことを意味する。 これは、カオス工学のパイコネ変換を、胎生学に適応することで、表される。パイコネ変換とは、パイの生地を2倍に伸ばして、折り畳むような変換を意味する。複雑系の大部分が、このパイコネ変換により、表される。これを胎生学に適応すると、皮膚が体表に広がるにつれ、至る所で、内側に陥入し、その延長で、裏返しに内張りするようになるというもので、ここに、パイコネ変換がみられるのである。例えば、顔の頬から、反転によって唇を経て、体内器官に向かうという具合になっているわけである。 つまり、自我は、視覚により外のエーテル体を作用させ、聴覚により内のアストラル体を作用させているわけでもある。視覚は、なんらかの波動関数のパイコネ変換により聴覚になり、外の炎症が、パイコネ変換により、内の腫瘍形成になるというわけなのである。外の分散力というべき波動が、丸められて、反転し、内の中心力に変わるというイメージなのだろう。これにより、外では、減少するものが、内では、増加するものに転じるわけである。 これは、エーテル体が、霊視できなくても、ある程度、外的に視覚により補え、アストラル体が、霊聴できなくても、内的に聴覚により補えることを意味するのである。 もし、外的な炎症を、充分に希釈した蟻酸やローズマリーの入浴で、とくに肥満の人を治癒できるとしたら、内的な腫瘍形成を、充分に希釈した蟻酸やローズマリーの内服で、今度は、肥満でない痩せた人に特に効果的で、自我の弱体化を克服し、治癒できるという。 自我はいわば生体機能の人間性の境界の作用点の集合であり、物質的空間占有を、時間的空間共有にかえるものといえる。それは、物質的な場のフェルミ粒子から相互作用の場のボーズ粒子への超対称性変換のようでもある。フェルミ粒子は、空間に有無の2つの状態しかないが、ボース粒子は、空間に沢山の状態が取れるのである。 自我は、視覚により本来炎症のエーテル体の正常化と、聴覚により本来腫瘍形成のアストラル体の正常化の調整を行っているのである。
2006年11月06日
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どうも必修科目選択問題の解決が大甘採決される見込みのようである。昔からいわれる、「子供を甘やかすと、最後にはその子供に泣かされる羽目になる」という諺を知らないらしい。そもそも、自由な社会では、選択の責任は、本人にあるといわざるをえないだろうし、成人に達していない場合は、保護者にも同等の責任があるといえるだろう。 大学にいくために、高校教育が疎かで、偏ったものになるのが、良いのだろうか? 大学4年間では、その影響は目に映らないかもしれないが、それは社会常識やバランスある人格形成という隠れた面で、後々に現れるだろう。 とりあえず雨が降らないからといって、傘を捨てるのと同じであろう。 これでは、表面上は大学に入るためという体裁で、高校の教育そのものを、実は嘗めているのである。だから、若者のなかに、潜在的に学科への差別的な偏った価値観を植えつけてしまうだろう。どのような学科でも、同等の真理に到達する上で貴重なものなのである。若者の段階では、より広く学んでおくことが是非とも肝要であるだろう。でないと、もし、大学で専攻した専門分野に進んだとしても、その専門分野を妄信し、自分が社会といかに関わるべきかの視点を失ってしまうことになりかねないのである。自分の専門分野と一定の距離を置くことができなくなるだろう。 一番の悪い点は、教育は与えてもらうものというような態度を身につけてしまうところである。教育は与えてもらうのではなく、自ら行うものである。学校は、勉強する態度を身につける場でなければおかしい。勉強できる環境にいる有り難さこそ実感すべきものである。戦時中は、学徒動員されていたのである。社会科を学べばわかることだろう。 国家の教育方針を変える前に、逆に、家庭では、選択の自由を、どういう教育の上におこなってきたのか、保護者も含めて、高校教育に対するリポートを提出していただきたいものである。大学に行くことが全てではない。高校の科目も卒業できずして、大学にいくことほど危ういものはないだろう。そのような教育を行うから、大学生にもなって、一般常識が身についていない者が増加するのである。昨今では、とくに世間的に一流大学といわれる学生に犯罪が多いのはどういうわけなのか?自ら、問うべきである。 とくに大学のような世間とは隔絶された社会では、極度の狭い価値観が罷り通り、そこに、社会から一種独特の知識の権威機関としてみなされてしまうので、専門馬鹿という、常識知らずや、どちらかというと人間というよりも、専門マシンというような人格の持ち主が多くなってしまうのである。 高校は高校教育のためにあり、若者の基本の人格形成をつくる教育が求められることはいうまでもないだろう。 実はこの問題は、高校だけのものではなく、大学にも、特に入試に問題があるといわざるをえない。大学は、高校の教育課程を卒業したと認定される人格の持ち主がいくところだから、大学入試に、その試験がないのが不思議でもある。大学受験の科目を増やすべきだろうし、少なくとも、一流と呼ばれる大学ならば、そうするべきである。どうも、一流私立大学の科目が少ないのは親馬鹿が馬鹿息子を裏口入学させるためなのではないかと勘繰ってしまう。 広く学んでおけば、専門分野に進んだときに、多くの分野の関連性が洞察できるのである。日本史も世界史も地理も、政治も、経済も全てが、普遍的な原理で統一されるようなイメージがみえてくるのである。その人の1つの人生哲学としての学問が生まれてくるだろう。PhDの意味は、哲学博士なのであろうから。哲学という言葉は「叡智を愛する」ことからきているのであるから。 好き嫌いをいわずに、満遍なく食するべきであろう。 精神的に未熟な者が、たとえ外見的に知識で装っても非常に見苦しいものである。偏った土台の上に家を建てるなら、それは将来、その家に生活を蓄積すればするほど、大崩を生じる事故となるだろう。 実は大人になって勉強すると、若いうちにやっとけばよかったと思うことが頻繁にあるものなのである。そうなってしまったら、後悔先に立たずであろう。
2006年11月02日
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神秘学により、宇宙をエーテル的なプロセスで捉えると、2つの対極的なエーテル体の作用である、燐(硫黄)プロセスと塩プロセス、そして、その均衡である水銀プロセスで、宇宙の存在を理論的にくまなく捉えることができる。 例えば、数学的に、このエーテルプロセスから以下のようなラグランジアンを構築し、ファインマンの経路積分を、表現すべき生命体に含まれるプロセスに沿って行えばよいだろう。 L(ラグランジアン)=燐(硫黄)プロセス+塩プロセス=水銀プロセス ∫Lδ(エーテルプロセス) のような感じだろう。 これは場の理論では標準とされる数学的手続きなのであるが、場を点からなるものとみなす条件において、数学手続き上、無限大という赤外発散項(∞/0)と紫外発散項(∞/∞)が現れてくる。赤外発散項は、粒子を広がりのない点とみなすことから生じ、紫外発散項は、相互作用の到達距離が無限遠方に達することに起因する。これを回避する繰り込み理論は、あらかじめ発散が収束するように、無限大の項を作為的に入れておくことを意味する。つまり、∞-∞にして、有限の値を取るように配慮するのである。 この繰り込み理論の手法は、上記の2つの対極的エーテル体の構造に非常によく類似している。 その際の数学的手続きで、特異点に近づく漸近的な計算プロセスは、まるで、ホメオパシーの希釈法をも思わせるのである。ホメオパシーでは、ゼロ点に近づきはするが、ゼロ点には決して達せずに、近づけば近づくほど、逆に反対の作用が返ってくるのである。 このことは、無限大-無限大の繰り込みの手法そっくりなのである。 つまりは、赤外発散の特異点と、紫外発散の特異点から、あらゆる宇宙の作用が生じると考えれば辻褄を合わせることができるわけなのである。 これを三位一体の光球モデルを用いて考察すると、赤外発散の特異点は、球の表面から中心へと向かう作用から、球の中心にあると思われるもので、ブラックホールのような感じで、紫外発散の特異点は、その逆の中心から表面に向かう作用から、球の表面の至るところにある反射点のようなもので、ホワイトホールのようなものとみなせるイメージが構築できる。 完全な球の場合は、図形の中心と作用の中心点が一致するが、やや崩れた球体だと、図形の中心と作用の中心点は、若干のズレが生じるだろう。つまり、そのズレた作用の中心点が、その生命体の形成中心点だと恐らくみなすことができるだろう。 この三位一体の球体を、上述したエーテルラグランジアンの式から割り出すと、 ∫(燐(硫黄)プロセス)+∫(塩プロセス)=∫(水銀プロセス) の方程式が出てくるのだろう。 これは球体を意味するから、以下のような、フェルマーの最終定理で表現できうるだろう。 x^n + y^n = z^n フェルマーは、3 以上の自然数 n について、上記の方程式となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがないといったわけなのだが、3次元空間の世界では、nが3以上の球は考えられず、nが2のとき、はじめて、このような球の作用が、三平方の定理として現れることがわかる。 つまりは、フェルマーは自然のエーテル的作用から、この定理に、nが3以上のときの、変数の組(x, y, z)の自然数が存在しないことが予測というか、預言できたものと思われる。自然とは、波動の重ね合わせから成るので、nが3以上のときに、その節が見い出せないという理由なのだろう。そもそも、nが3以上だと、この世の世界ではないものとなるだろう。 つまりは、数学的に2つの特異点のどちらかにいきついてしまうということなのだろう。 エーテル体の作用を考えると、フェルマーの定理らしきものが現れるのは興味深い。 このような波動のリズムから、自然の現象を考察すると、太古人が、自然に身につけていた治癒力が現れてくるのである。動物は、この自然の治癒力を本能的に熟知していて、病気と薬と、エーテル的プロセスから、2つの特異点をうまく繰り込んでキャンセルさせているのである。 かつて本能にあった自然治癒力は、数学的に繰り込み理論で表現できるものなのだ。
2006年11月01日
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