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前回までに、ヨハネの黙示録を、精神的な言語を、理解し、獲得するための秘儀参入法の概略をまとめた。まとめると以下のようになる。 1.アストラル体(こころ;念)の純化、浄化;7つの手紙 2.エーテル体(いのち;気)の開悟;イメージ思考=7つの封印 3.天空の音楽:インスピレーション思考=7つのラッパ 4.神々の存在=善の意志:インティション思考=棄てるべき7つの怒りの鉢 日常生活の間に、瞑想や精神集中などの行を行えば、上記したことは、基本的に、どの秘儀参入法でも、人間への影響関して、生じることであるという。 例えば、イメージ思考を「想」とすれば、よい想念を行うという言葉で、アストラル体の純化、浄化を、意味するものとなるだろう。神秘学では、このアストラル体の浄化、純化を、いわば処女と呼ぶ。つまり、精神世界(霊性)を受け入れる準備が整った意味であり、霊の受胎を待つことを意味する。何度もいうが、聖母マリアの処女受胎とは、このアストラル体の浄化、純化を意味し、肉体的なものではない(だから、最近流行のダビンチコードで述べられているものは、神秘学では、空理空論のものとなる)。 2において、霊が受胎することにより、エーテル体である、「いのち」が開悟することになる。このエーテル体が更に、霊化すると、マナス(霊我)と呼ばれる器官を形成するといわれている。神秘学でいえば、これを、「封印を解く」というわけだろう。 マナスの担い手、使い手は、その性質から、マニ、マヌと呼ばれた。マニ教の開祖で、唯物論的歴史で、知られている人物であるが、神秘学では、ノアのことをいうようだ。アトランティスの大洪水を回避し、次の進化を導く人類の指導者となった人物であるという。 更に、3の天空の音楽が聞けるようになると、インスピレーション思考から、ブッディ(生命霊)と呼ばれる器官が形成されるという。 そして、最後の4のインティション思考で、棄てるべき悪のものを、棄てたときに、人間は、霊人(アートマ)となり、霊(神々)の仲間となるといわれる。 上述した秘儀参入法の行は、基本的に同じ段階を通過するものだが、時代により、若干の差異があるという。それは、時代により人間の人体が変化してきたからでもあるという。 キリスト教以前には、これらの行は、思考力を訓練する方向に向けられ、キリスト教に近づくほど、行は感情の力を訓練するものになり、現代に近づくと、薔薇十字の行により、意志の文化、行が導入されたという。 太古の秘儀参入法では、霊的にはじめ知覚したものは、植物のイメージであったという。だから、古代神話の多くが、植物のイメージを伝説として残しているのだという。 古代人は、秘儀参入法を行うと、眠りにおち、はじめに植物の木のイメージを知覚したという。そして、天国には、認識の木と、生命の木の2本の木があるのを見たのだという。聖書に記述される、「アダムは眠りにおちた」とは、この太古の秘儀参入法を行って、創世記に書かれたようなことを、アダムが、霊的にみたことを意味しているという。 このように、古代の密議は、いわば、3日半、仮死状態におかれたという。それは、いまでは、まるで死んだかのごとく、墓場のような小部屋におかれたか、十字架にくくりつけられたのだという。勿論、古代では、人体の形成が、現代とはまるで異なるので、このような秘儀参入が可能であったという。 聖書には、キリストが、死んだラザロを蘇らせたと記述されるが、神秘学では、師キリスト=イエスが、弟子ラザロに、この古代の秘儀参入法を行い、霊的世界を、みることができるように、覚醒させたのだという。 そして、ラザロは、その霊(精神)世界の知見を元にして、新たに目覚めた自我をもつ意味の、ヨハネとなって、新約聖書を書いたのだといわれているのである。 精神世界からの指導者として、この世という物質世界に生まれるのではなく、物質世界に、生まれしものは、皆、いわば、精神的な負債を抱えているといってよいだろう。ギリシャ時代、いわば精神的指導者として生まれた前者を、ひとり生まれといい、精神的負債を負って生まれた後者を、ふたり生まれと呼んだという。ふたり生まれは、その精神的な負債を、いかに人生において償い、解消し、克服していかねばならないカルマという、宿命に負っているのである。そのカルマ解消法、いわば秘儀参入法が、ヨハネの書には書かれているのであるとされる。 勿論、なんらかの秘儀参入法を試みずとも、人間のなかには、高次の自我が、無意識に、体験を宿命として呼び込むので、カルマの解消は、体験と共に、苦痛や病気、老いにより、徐々に克服されていくだろうが、できれば、それらの痛い目に会う前に、自らが主体的に、意識的に、諦念できることが、叡智の獲得へと繋がるものであり、そこにいわば予言的能力を身に着けることにもなるだろう。 しかし、自我が益々弱まり(低次の自我に依存するその場の快楽志向性)、以前の痛い目や、死ぬほどの病気、柔軟でなく硬く閉ざした老いに出会ってから、自ら命を放棄したり、更にカルマの負債を負ってしまったり、開き直って唯物主義に、他を省みることなく、わが身だけを、快適に生きることは、いわば、霊的な自己破産の状態に陥ってしまったことになり、後の祭りであるだろう。 人間が、人生において、過去の苦や病、老を、強く思い出すのは、それを克服してきた能力を、高次の自我が、意識的に、呼び起こし、自信として、自我を呼び起こすものと思われる。苦や病や老いは、それを克服するためにあり、それによって、魂は一段と能力や力を開発し、精神世界に目覚めるのである。高次の自我には、魂を磨く徳目、理想が常に在り、それは必然的に、いわば物質的に行き詰らせるのである。 高次の自我は、苦や病や老を、魂を磨くための、いわば鑢、練磨材として、自らに課すのである。そして、もし、人生に行き詰るようであるならば、高次の自我自らが、神として現れることもあるだろう。これは、火事場のクソ力と呼ばれるものに類似している現象である。 我々は、輪廻転生をして、過去において、魂を磨いてきたし、いまも、そして未来にも磨くことになるのである。その磨き方が、ヨハネの黙示録に書かれている。もしこの魂の磨きをやめるのであるなら、人間として存在することは、もはや不可能になるだろう。 転がる石にはコケが生えないという西洋の諺はその意味であろう。 借金取りが、取りに来ない事を喜ぶなかれ、それは汝が、既に、人間という信頼の共同体をつくりえる立場を失ったことを意味するのだ! むしろ、借金取りが来ないことを嘆かねばならないだろう。 他者に人間として、認められないこと、もはや人間としての自覚のなさこそを悔いろ! これは現代の政治家や評論家に言いたいことである。 言いたいこと、やりたいことを言って、やっていれば良いだろう。現代では権威にすがるそのような人間を、誰も咎めもしないだろう。しかし、その存在こそ、錯誤であり、その発する言葉こそ、汝の悪しき災いをつくるものなり。 自ら悔い改めることを知らないものは、地獄におちるであろう。アーメン! 次回からは、神秘学でいわれているところの、秘儀参入者が実際にみたことを通して、ヨハネの黙示録に書かれていることを、書き連ねていきたい。
2006年02月28日
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前回は、秘儀参入法と呼ばれた太古の、いわゆる瞑想と精神集中法について、人体からまとめた。 昨今、エーテル体(いのち;気)の存在や、アストラル体(こころ;念)は、TV番組等で取り上げられるようになり、ようやく、かってあった霊性の時代が、再びやってくるような雰囲気がある。 例えば、プラセボという思い込みによる人体の治癒は、「病は気から」という格言を彷彿とさせるだろう。何度もブログのなかで、述べたが、神秘学によると、病気とは、人体の4つの体である、自我、アストラル体、エーテル体、肉体のいわゆる結合状態やバランスが崩れることで、起こるといわれているのである。 プラセボの治癒力とは、アストラル体(こころ;念)をいわば、自らのなかの高次の自我を信じて、浄化することによって、こころの喜びを感じ、必ず治癒すると信じ、いわゆるポジティブ思考になり、その影響が、エーテル体(いのち;気)までに浸透し、作用させることによって、肉体を回復させる現象と捉えることができる。 これに対して、気孔術の場合は、直接、エーテル体(いのち;気)に他から働きかけを行い、肉体の回復を、よい方向に持っていこうとするものである。しかし、これは、エーテル体の肉体からの自由度に負っているといえる。エーテル体が、体質により、肉体から離れ、独立し、自由になっていることが条件として挙げられるだろう。だから、エーテル体が肉体により依存的になっているような体質をもつ人には、あまり効果がないだろう。気孔術にかかりやすい人とかかりにく人がいるのはこの為であろう。 これは、よい精神的な生活を送ることで、アストラル体(こころ;念)の純化、浄化を導き、エーテル体を、肉体から、独立させるようにすることが可能であるといわれているが、それには、まず、なによりも、アストラル体の、純化、浄化が前提になるのである。アストラル体の純化、浄化とは、端的にいえば、人間のなかにある高次の自我の意志により、いわばイメージ思考の形式で、肉体を制御することである。端的にいえば、何事も意識的に行うことである。 自らのなかの高次の自我が、周囲に惑わされることなく、意識的に、自由意志をもって、私はこのことを行う。それは私にとって意味をもち、重要なことであり、私の存在を、神々の為に奉仕することである。という感じで、肉体を、意識的に、イメージ思考を行いながら行うことであるという。この周囲や感覚に惑わされないで、自らの意志で行うという、通念は、黙想や瞑想に通じるものといえるだろう。 このように、秘儀参入法は、まず、アストラル体(こころ;念)の浄化、純化と呼ばれる第一段階、肉体を通して行う人生の体験から、高次の自我が行う、道徳のイメージのようなものを創出し、それらを組織し、霊的な器官をつくりあげ、その霊的な器官を、エーテル体(いのち;気)に刻印する、開悟と呼ばれる第2段階を、瞑想や精神集中等により、通過しなければならないといわれる。 第2段階の開悟まで進むと、集合魂と呼ばれる、神秘学でいう民族霊を、霊界で、イメージとしてみるという。例えば、エゼキエルという秘儀参入者の場合、そのイメージは、4つの動物のような霊として表れたという。その4つの動物霊は、鷲、獅子、雄牛、原始の人間のような形として表れたという。 更にエーテル体での刻印の働きかけを行うと、イメージに加えて、天球の音楽が表れ、高次の霊的世界が、音として知覚されるという。更に、エーテル体が、高次に変化すると、それらのヴェールが取り払われ、宇宙の意志のようなものが、表れ、宇宙の進化の方向である、善の意志の為に、自らのなかで、進化を阻み、取り払う必要のあるものを、知覚するようになるという。 別の面から言えば、いわば、人生は、道徳を考えずに、無意識に生きるか、道徳を考え、意識的に生きるかで、高次の自我の捉え方が変わるといえよう。人生を無意識に生きる者は、その場その場で、苦や病や老を事象のうちに感じさせられ、その執着心を抱くが、人生を意識的に生きるものは、高次の自我の存在に気づき、自主的に行動しているので、苦や病や老を事象のうちに感じることはないだろう。勇気と感謝と自由と愛が残されるだろう。後者の場合、高次の自我と一致しているからである。 高次の自我は、自らの進化の為に、その主体を、人生の淵という気づきを与えるために、試練を負わせる。それでないと、魂はいつまでたっても磨かれないからである。魂とはアストラル体のことでもある。 秘儀参入は、このような高次の自我を見い出し、一致を見る行為なのだが、それは、はじめに、霊的(精神的)世界を、イメージの世界として知覚し、つぎに、より高次の霊的(精神的)世界を、天球の音楽、精神の言語でいえば、インスピレーションの世界として知覚し、最後に、霊的(精神的)世界そのものを、精神の言語でいえば、インティションの世界として知覚することだという。このインティションの世界は、人間の高次の自我である、善の力、善の原動力として、いわば、人間の良心と比較して捉えることができうるという。 だから、自らの自我がまるっきり善の存在で構成されていないと、100%ピュアな善で存在していないと、知覚できないので、人間は、その一歩手前までくると、自らのうちに、善を阻むもの、取り払う必要のある、悪として存在するものに出会うという。人間は、神々の存在に近づく、手前で、自らのなかの悪魔と出会うのであるとされる。 お釈迦さまも、菩提樹で、覚者、仏陀になる手前の、瞑想の最後で、悪魔に出くわしたのである。自らの、無理解からくる、この肉体故の悪魔の存在に、最後、打ち勝たなければならないといわれる。このときに、発揮されるのが、神的な愛の力であるという。 ヨハネの黙示録には、これらの秘儀参入法が、象徴的に、いわば、精神世界の言語として、イメージで述べられているという。 7つの教会への手紙では、物質界で行われ、働くものを語り、物質界で克服し、精神界で表現すべきものに関連するイメージが与えられるという。これには、秘儀参入法のアストラル体の浄化と、そのエーテル体への刻印として修行すべき徳目が述べられているといえる。 7つの封印は、秘儀参入法のエーテル体への刻印が成り、開悟し、霊的(精神的)世界がイメージとして現れたことが述べられているといえる。つまり、精神の言語である、イメージ思考が述べられているのである。 7つのラッパは、天球の音楽、つまり、精神の言語でいうインスピレーション思考が述べられている。 そして、7つの怒りの鉢のなかには、人間が、神々の存在となるには、棄てなければならない、神的な怒り、善に反する力の鉢を棄てる存在が述べられているという。神的な怒りの反対が、神的な愛であり、物質界のために、7つの怒りの鉢を棄てた者は、世界を前進させる神的な愛の真の姿を知覚するという。 この最高次の霊的(精神的)世界は、我々の世界とまだ関連しているために、到達可能だという。神秘学では、地球期の前半である火星期までは、まだ、到達可能な段階なのであるが、地球期の後半である、明けの明星といわれる水星期(本来は、金星といわれるが、黒魔術師から隠し、秘儀とするために、金星と水星を入れ替えたのである)までに、霊性を取り戻さないと、悪の道へ永遠に堕ちていかねばならないという。 霊性を取り戻せなかった人は、来るべき、万人の万人に対する戦いと呼ばれる、俗にいうハルマゲドンの戦いを、善人として生き残れないという。なぜなら、その後、666期では、至上最悪の悪魔ソラトが現れ、エゴを発する無理解で無知な自我の、いわば悪人を虜にし、食し、物質世界の虜にするという。 万人の万人に対する戦いの前に、善人にならないと、その人間は、永久に宇宙の進化から取り残され、ソラトの一味にならざるをえなくなるという。いわば、万人の万人に対する戦いは、善人と悪人を分ける神々の配慮であり、試練でもあるという。 万人の万人に対する戦い後、人間の姿は、明らかに善人と悪人に別れるという。なぜなら、そのとき、肉体はなくなり、エーテル体が、現代人のいわば肉体となるからだという。そのとき、人類全般が、霊視器官を身に着けるが、それにより、善と悪が、自ずと明らかとなるからである。魂が神々に近いものは、人間の姿となるが、神々の姿に似つかわしくないものは、霊的叡智を受けていない、以前の獣の姿となるからであるという。 未来の万人の万人に対する戦いを、いわば過去のアトランティス期で喩えるとすれば、アトランティスの大洪水という破局前であり、氷河期と呼ばれている直前であるという。 だから、水星期とよばれる現地球期の現代に、霊(精神)性を、人類は再び獲得しなければならないといわれている。水星期は、確か、水瓶座の時代からはじまると預言されている。ちなみに仏陀は、水星の人(神々)と神秘学では呼ばれているのである。 苦や病や老は、魂の成長に必要なのであり、それは高次の自我が、魂を磨く必要性から、起していることなのである。早く言えば、自業自得なのであって、他を罵るためではなく、在り難い出来事なのである。これを間違えて、他者のせいにするものほど、無知というばかりでなく、悪魔というべき行為であることがお分かりであろう。物欲や執着に囚われると、公私混同が激しくなり、苦や病や老を物欲、エゴで塗り固め、魂に汚濁が生じてくるといわねばならない。 悔い改めよ、天の国は近くにある! ヨハネの黙示録の解説はまだまだ続けることにしたい。
2006年02月27日
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神秘学によると、聖書のほとんどが、19世紀に唯物的に書き換えられていったために、あらゆる曲解や誤解、錯誤が生じたとされている。とくに最も、その弊害が著しいのが、ヨハネの黙示録だという。 現代人は、大半が、唯物思考に染まっているので、物質世界の生活に適した読み書きで判断し、それを唯一の感覚だと信じ、皆、その唯物的感覚だけをもっていると錯覚し、唯物的に推理し、論理を立て、証明しないと、真実を見い出せないという立場を盲信しているといえるだろう。 だから、神々が、論理的に証明されないかぎり、神々の存在をも信じられないでいるのである。 これは物質世界のみで暮らしている分には、当面、差し障りのないことであろうと開きなおっているともいえる。「触らぬ神に祟りなし」であろう。 しかし、歴史を真に学べば、太古の人々が、現代人とは、明らかに異なった意志や感情、目的をもって行動していたことが、わかるだろうし、少なくとも彼らが、神々の存在に対しては、全く現代人とは異なる立場をとっていたことがわかる。そして、現代人とは全く異なる感性、思想、行動を有していたことに気がつくだろうし、気がつかない方がどうかしているといえるだろう。 つまり、逆にいえば、我々は我々の立場に都合のよい歴史解釈をしているにすぎないのである。 昨日、TVで、様々な動物の視覚の番組をやっていたが、動物の一種たりとも、人間(現代人)と同じようには、物質世界を捉えていないのが、真実なのである。その番組で、お笑いタレントが以下のような、法則に近い、面白いコメントを述べていたが、まさしくその通りなのであろう。 生物は、自らが欲するような見え方をする これは人間もそうであり、現代人のように、物質世界で、快適さを求める生活が、現代人のような唯物的思考の立場をとらせ、人間に、仏教でいう分別知を与えているといえるのである。 このような物質世界に対する、分別知を駆使している限りにおいては、人間は物質世界の奴隷にはなれど、その奥にある物質世界をつくった、神々の精神世界など、理解できずに、聖書や仏典の真の意味を理解することなど、幻に秘されるのである。 だから、秘教は現代人には隠された真実とされるのである。 それは、また、その秘教を、人間の幼児性のエゴから、物質的世界の快適さや欲望に用いようとする衝動を、これらを有する人物を、黒魔術師とも呼ぶが、それをも回避し、そのような悪を救うために、秘されているともいえる。そして、仏典や聖書は、真に精神世界を秘儀者として理解しえるもののみの言葉で、書かれており、いわば、将来、人類の大半が、悪に堕ちたときに、白魔術師として、彼らの少数でもいいから救える活動を志すものに対して、書かれたものであることがわかるという。 文化とは、魂の精神性向上のことを指す。人間が万物の創造者である神々に名を連ねるために、獲得すべき、魂のなかの能力や力の徳目なのである。人間は、現代までに、この文化の継承の下り坂を歩んできたといわれる。端的にいえば、堕落してきたという。 現代人は、いわば至上最低の文化のなかに生きているといえる。それは、現代人のなかにある、物質世界のみに関心をもち、それを欲するいわば唯物的覚醒意識にある。しかし、同時に、自由意志と、過ちを犯しえる、神々から独立した自我性を、両極端に、持ち合わせることができる文化であるともいえる。人類が、いまだかって、このようなエゴの虜となったことはなかったのである。 現代人の誰もが個人の衝動から、悪をも行う行為を選択できるのである。還元すれば、神々に反する、破壊行為や他への殺傷行為も行える。ただし、それは物質世界のみで、赦される行為でもある。だから、現代人の精神性への課題は、この物質世界において、自らの自由意志により、自らの衝動が成した過ちに、気がつき、自らの自由意志を、愛の行為に取って代わらせることなのである。 我々は、深く物質性を欲したが故に、高度な精神性から、自由の身となり、悪をも行える、個人的自我の可能性を見い出し、お互いに物質世界で、葛藤し、他を傷つけ、破壊し、その間違いや他者の痛みを、自ら体験することによってのみ、自らが獲得した自由意志から、他への愛の力に代え、自らの自由意志を断念し、諦念することを学ぶのである。 人間が悪をも行えるように、神々が自由を与える配慮を行ったのは、その人類のなかから、悪をも救えるような強い自らの自由意志をもちうる、新しい宇宙の進化を担う、神々の一員である天使を生むためであるといえる。 悪をも救えるものでないと、本当の善ではないという思慮なのである。 そこに、かってのスパルタ教育といわれる、獅子の親はわが子を深き谷に落とし、這い上がるもののみを子とするという格言の意味が、彷彿ともたらせうるだろう? それは次のように解釈されうる。 神々は、神の子人間を、物質世界の狭間に落とし、這い上がるもののみを、人の子人間とする。これはまた、「可愛い子には旅をさせろ」という諺の意味ともとれるだろう。 それ故に、黙示録や聖書は、古代の秘儀参入者によって読み解かれ、神秘学として残されているだけであるという。現代人では、秘儀参入が困難な限りにおいて、読み解かれることはないだろう。 では、黙示録の神秘学的解釈を端的に書いていきたい。 神秘学によると、ヨハネの黙示録は、ある神聖な雰囲気に浸透された孤独な島、古代の密儀文化の地で書かれたという。黙示録の内容は、筆者が、霊となり受け取ったものなので、いわゆるイメージのような、本来、いまの言葉で表すことのできない、いわば精神の言語で捉えられたものであるという。 黙示録の内容は、人間が内的な魂の創造能力の発展を通して、秘儀参入を通して到達した、高次の意識状態に由来しているので、物質世界を表すもの、その感覚では捉えることができないものだという。だから、まず、秘儀参入法を、まがりなりにも知らないといけないだろう。 秘儀参入法は、このブログでも何度も書いてきたので、要点をまとめる。 1.人体は、自我(わたし;我)、アストラル体(こころ;念)、エーテル体(いのち;気)、肉体(からだ;肉)の4つからなる。 2.現代になるにつれ、人間の思考が、唯物的に偏り、物質世界に適応するために、自我とアストラル体が、エーテル体と肉体と密接に結合するようになってきた。端的にいえば、あまり眠らなくなってきた。 3.睡眠中は、自我とアストラル体は、エーテル体と肉体を離れ、精神世界に出て行く。代わりに、宇宙(高次)自我と、宇宙(高次)アストラル体が、人間が出て行ったエーテル体と肉体の面倒をみる。 4.睡眠中と、死の違いは、エーテル体が肉体を離れるかどうかである。エーテル体は別名(いのち)ともいわれるが、人体のいわば腺器官を統合し司るものであり、アストラル体は神経系を統合し司るものである。エーテル体から腺器官ができ、アストラル体から神経がつくられるとされる。 この間、これもTVで、「気孔」の番組をやっていたが、気孔とは、神秘学でいう、エーテル体のことである。エーテル体を、物理的に捉えようとしていたが、それは物質ではないので、土台無理な話である。神秘学でいわれているエーテル体の最も物質的な性質を帯びる部分は、光である。 ただし、電磁波と捉える光のみではない。いわば霊光というべきものなのである。端的にいえば、光輝くもの全てのなかにエーテル体の存在を見い出しえるという。 だから、物質を形作る設計図といった方が、的確な表現でもある。現代物理学でいうならば、物質粒子のフェルミオンに対する、相互作用の仮想粒子のボソンのことになるだろうし、フェルミオンを生じる場の作用全てが、エーテル体の調和振動子の作用ということになるだろう。 脱線し、長くなったので、次回に譲りたい。
2006年02月26日
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私は、民主党支援者でもないが、国家を動かす重要なポストに就きながら犯罪者をいわば匿った奴と、詐欺のようなガセネタに乗せられ、乗じられたいわばピエロのような奴と、どちらが、将来、国の為に良からぬことをするかといえば、明らかに前者であろうということは、常識に照らして、判断できることであろう。 その判断は簡単である、エゴがないかどうかである。国家の権威主義的な勢いに乗り、私利私欲に走った輩と、このままでは、国が明らかに疲弊し悪を処罰するために、若気の至りとはいえ、自ら告発の先頭に立つ勇気をもった、政治家とでは、その志において、明らかに異なる。 私服を肥やす地位を狙う皮算用者の愚か者と、悪を正そうとする熱意溢れる、行き過ぎの先走った行動では、明らかに後者の方が、明るい未来をつくりえるという確信に至りえるように思える。 しかも、後者は辞意を表明し、前者は、将来の汚点となることを隠して、居座り居直り続ける浅ましさの点で、後者が、精神的に堕落していることで、明らかであるだろう。武士の本懐ならば切腹ものであろう。 このような日本人の精神を堕落させるべき人物が国の中枢に就くことほど、国家権力を愚弄する行為はなきものに思える。一体、国と汝の立場とどちらが大切なのか?問いたいところであろう。 全く日本人は腐ってしまったといわざるを得ないだろう。ホントに、現在の指導者は、指導者としての自覚にあるのか?問いたい! あなたは本当に、人の上に立つ資質にあるのでしょうか?と かって、勝海舟は、高野長英が頼ってきたときに、自分は幕臣という立場なので、助けたい気持ちは山々であるが、立場や責任がそのようなことをするのは不義であるとして、高野を匿うことを拒んだ! そこには、悲痛の嘆きが感じられうる。泣いて馬蜀を切るが如くであろう。 一体全体、この国の精神誠意は何処にいってしまったのだろう。 高野長英のように死刑になるものでもなく、ただ立場が一時反省されるべきものに落とされるのみである。それこそ人生の過ちを正す絶好の学びの機会であろう。 息子を甘やかすほどにも、限度があろうし、息子自体も、それではせっかくの人生が真っ当できないであろう。一体全体、神様から何のために人生をやり直す機会を与えられているのであろうか? 神様を愚弄するのもいい加減にしてほしい! 第一、将来のある若者に示しがつかない、大人として立派な指導者として、模範手本が示せない。これでは益々、国や指導者を馬鹿にする若者が増え、非行に走るのは目にみえている。ホリエモンのような若者を生んで将来の日本があると思うのか? 自らに問うべきであろう。一体全体、このような長きに渡った伝統ある国家日本の屋台骨をいかに考えているのか?全くもって片腹痛し! こんな日本ならば、誰が愛国心なぞ持ち得るのだろうか?誰が一私人の利益なぞに仕えるものか?アホらしゅうて、人生こそ嫌になるぞ! 自殺者が増えるもの当たり前のことであろう。全くいい加減にしてほしい!! あの世で日本国の為に命を捧げた人たちが悔やんでいるぞ! 犯罪者を匿ったことをそっくりそのままギャグで誤魔化そうとするのは、助けてくださいと祈願しているような情けない人間の最低限のプライドを、失った守銭奴と同じである。かっての武士ならばそのような商人の軽さなど考慮もされなかった!切腹もないだろう。見苦しいことこの上ない、そんなに権力を振りかざしたいのか?私服を肥やしたいのか?と嘲り罵られる対象であろう。打ち首もんであるだろう。一体全体、日本人としての人間の誇りは何処にいったのだ!かって、お国の為に戦争を止めるために特攻で自らの命を捧げた日本人の精神の勇ましさをいかに思うのか?命乞いもいい加減にしろ!しかも地位が失われるだけで、人間として一般人として生活できるわけであるのだから、命まで失われるわけではないのだぞ!たとえ人生を誤魔化せたとしても、神様の目は誤魔化せないし、自らの良心は誤魔化せないだろう。人生の終わる前に悔い改めないと、本当に獣になるぞ!それでいいのか?宇宙全体の法則、モラルは、一私人の命より尊いものなのであろうぞ!
2006年02月24日
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神秘学では、現代人が物質世界を理解するのに、分別知から読み書きをつくったように、精神世界を理解するには、精神言語を理解することが必要になるという。精神言語を理解する方法は、秘儀参入法であると、何度も述べたが、現代人の場合は、年齢が重要になるという。 現代では年齢が秘儀参入の重要な鍵となることは、前にも書いたが、人体で言えば、それは35歳頃を過ぎたときから、エーテル体の一部が、肉体の束縛を離れ、自由になり、人間の精神的な内面であるアストラル体と結合しやすくなり、精神的な発展が望めるようになるからであるとされている。 アストラル体は心魂、エーテル体は気と表現されるが、魂のなかにまどろんでいる能力と力を開発することが、秘儀参入法の目的であり、それには精神的言語を理解し、精神世界と語り合うことが必要とされるのである。それには、35歳頃を過ぎてからは、精神的な内面を発展させる人生を送ることが是非とも、魂の発展には必要とされることに還元される。 では具体的にどういう精神生活を送ればいいかというと、例えば、35歳過ぎの37歳であったとすると、瞑想、集中、その他の心魂(アストラル体)のトレーニングを開始し、まず最初に、一つの思考内容に繰り返し瞑想的に沈潜することによって、自分の地上生活を振り返る能力を得て、自分の地上生活が一幅の画像のように、心魂のまえに繰り広げられるようにすることだという。 そして、過去の自分を時間のなかで、遠近的に振り返るようにすることだという。「いま私は37歳になったが、36歳、35歳には、これこれのことを体験した」というように、あたかも時間的な事柄を空間的に並んでいるようにみることだという。どんどん進んで誕生の時点までに至るように、自分の一幅の画像のなかをみていくのだという。 誕生から7歳の肉体成長期、7歳から14歳のエーテル体成長期、14歳から21歳までのアストラル体成長期、21歳から37歳までの自我形成期を、時間的-空間的な遠近法のなかで、一幅の画像としてみることができるように、瞑想、精神集中することだという。 そうして、時間-空間の遠近を、覚醒した空の境地から生まれる意識によってみると、霊的な視力が得られ、霊感が得られるという。 そしてそれらの7歳毎の体験は、その成長期である様々な霊感を与え、それらをとおして精神的な言語である理解力を得ることができるという。 肉体成長期には肉体の形成の体験を通して、肉体の言語の理解力が得られ、エーテル体成長期には、エーテル体形成の体験を通して、エーテル体の言語の理解力が得られ、アストラル体成長期にはアストラル体の言語の理解力、そして自我形成は、自我の精神的言語の理解力を獲得する。 高齢期になると、これらの瞑想、精神集中の年齢による、精神言語からなる人体の形成の理解力を、主にイメージ思考による霊的感覚器である霊感で形成することから、今度はイメージ思考、いわゆる空の境地から生まれる意識から、心魂が一段階発展し、そのインスピレーション思考を獲得するという。 霊感がイメージという体験を通しての、やや間接的な直観に対して、今度はよりはっきりした差異を見い出せるやや達観した、直接的なまさしく直観を感じるようになるという。それをイメージよりも創造的なインスピレーションと呼んでいるという。 これとは逆の、肉体の感覚器を伴う、物質的な知識、ソクラテスが無知と呼んだものが、俗に言う知識であり、英語ではインフォメーション、情報であり、それらがやや高度な脳で洗練され意味づけされたものが、インテリジェンスであり、仏教では分別知というが、それらは、人間においては、魂がみずから直接に、霊(叡智)を知覚するところまで発展しなかったので、脳といういわば回り道の霊的感覚器官を形成し、これが原罪の基になったが、同時にその脳には、悪魔が介入し、人間は、知識のなかに、錯誤を生み出す自由をも獲得したのでもある。 知識は取捨選択しなければいけないところが、回りくどく間接的だが、それゆえに間違いも起せる自由につながった。それゆえ、人間は脳を失うと、霊的活動、いわゆる思考力を失うのである。 しかし、この物質思考とは逆のイメージ思考には誤りはない。イメージしたものは良き悪しきに関わらずそれ自体で存在なのである。だから、キリストは、悪しきことをイメージしただけで、既に災いであるといったのである。イメージ思考は、いわば精神言語の幼児言葉といえるものかもしれない。 よいイメージ思考は霊我という霊的器官(マナス)を形作るといわれている。 更にこれが進み、魂の精神言語理解力が、インスピレーションまで進むと、創造的になり、よいイメージしかなくなる。よいイメージ思考を生むものがインスピレーション思考であるからである。 インスピレーション思考は、生命霊という霊的器官(ブッティ)を形作るといわれている。 人生では到達できない精神的言語の理解力は、インティションと呼ばれる。インティションはいわば、霊同士が以心伝心のように用いている、いわば高度な交信(情報伝達)である。 人間の心魂は、このインテイション言語を活用するまでには進化しておらず、そのために、間接的な霊的交信の器官である脳をつくるという回り道をして肉体を得て、生死のある自由な人生を送り、体験しながら、徐々に、精神言語を学び理解していく、間接的な回り道の進化方式を選択したのだという。 だが、とりあえず、人生においては、知識から良いものを選び、イメージとして発展させ、更に何回もの転生を行いインスピレーション思考の段階に進み、それも人生の体験を必要としない仏の一歩手前の菩薩までいきついて、最後の人生でそのインスピレーション思考を修めて、そして仏、覚醒者となり、はじめてインティション思考までいくつくわけだ! だから知識からインティションまでは遥かな道のりなのである。 わざわざ知識を与えたのも、人間の自由意志を育てる神々の配慮だという。それはより大きな善を育てるためには、必要なことなのであるという。 なぜならば、悪を救うことができる善こそがより大きな善であるからであるという。それには一旦、自由意志において、悪に堕ちないとわからないものであろう。そのために、人間には間違い得る知識が与えられたのだという。 インティション思考は、別名、神的言語ともいわれる。これは、良き進化を遂げた人間が、進化の最終段階で獲得する、精神人間、霊的人間(アートマ)を形作るといわれている。このとき、人間は直接に、天使である神々から命を授けられるという。そして、最下層の神の一員に加わるのであるといわれている。 しかし、途中で進化の道を自ら断念し堕落した者は、いわば、現代人でいう脳を奪われた生命として、獣の魂として、動物のように煩悩と欲望のなかに徘徊する悪霊のごときものになると、ヨハネの黙示録には書かれている。 そのときその獣の額には666という刻印がなされるという。その獣は、2つの角をもつ、神秘学でいえば、これは精神分裂病のようなもので、自分のなかで、良き魂と悪しき魂が葛藤したまま、戦いの場を、自我のなかに持ち込む二重人格性の生物という意味だという。 ロードオブリングという映画で、主人公に付きまとい指輪を奪う小悪魔のような存在が、これを髣髴とさせた!この小悪魔は常に自らのなかで格闘していた。 その悪霊たちは、アスラと呼ばれ、悪魔の親玉であるソラトという悪霊の奴隷となって働くといわれている。空前絶後の話だろうが、信じる信じないも汝の自由意志に委ねられる。
2006年02月23日
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今日の夢も、実に変なものだった!それは、タレントのガクトのような人物と、昔の自宅で一夜を明かした全くもって、変な夢だった。ガクトははっきりいって、大嫌いな人物である。私は基本的に偉そうな態度の人物は大嫌いな性質であるからして、その大嫌いな人物と、古いお化け屋敷のような家屋に、閉じ込められ状態で、いわば野宿のような状態で一夜を明かすとは全くもって自己不信ならぬ、自己夢不信に陥る夢だったぞ! まぁ、恐らく、人生もこのような嫌いな人といかに付き合うかで、人情の深みができ、奥行きが深まり、要するに、修行ということなんだろうかねぇ? 嫌いな人物といえば、自己プロフィールで、尊敬する人物は、決まって書く欄があり、若いときの面接のときに聞かれる常套質問だが、嫌いな人物というのは、あまり書く欄がないといえる。人間に好き嫌いがあるうちは、まだまだ修行が足りないということなんだろう。 私の場合は、尊敬する人物は、勝海舟安房守と西郷南洲吉之助(隆盛)の御二方を、大体の場面で応えている。逆に例えば、嫌いな歴史上の人物は、井伊直弼、田沼意次、東条英機、昭和歴代の総理大臣が挙げられる。戦後歴代の総理大臣のうちで、比較的よかったのは原敬、田中角栄ぐらいだと思う。後はあまりに器が小さい人物が間違ってトップになってしまった感じである。 嫌いな歴史上の人物をみると、共通点は皆、表向きは、お国のためといいながら、結局は私服を肥やしていた私利私欲の人物であり、だからこそ、偏狭な愛国主義に走るのが多いいようにみえる。 はっきりいって、愛国主義に走るのは、自らの器量の小ささを表していると思われる。愛国主義が、エゴと重なっているだけである。本人だけが気がついていないのである。そして、なまじっか権力志向で権力を振りかざすことをある意味、本音は快感にし、建前は正当化しているので、性質に負えない。 そして、このような私利私欲人物が政権をとると、利己主義から、権力を振り回すので、庶民は圧政により不満爆発で、闘争的で競争的で、次は必ず、反動が来て、乱世となるのである。そこを、外国からつけねらわれるのである。 田沼意次は、賄賂政治の典型で、物質主義経済価値観から、評価される場合もあるが、これは全くの間違いである。江戸時代の武士階級を、形骸化してしまったといえるだろう。つまり武士の商人化を生んでしまった。武士のモラルが下がったのである。だから、松平定信が出て、極端な質素倹約の改革をしなければ、武士階級は、全く形骸化していたといえるだろう。 せっかく、吉宗が享保の改革をして、徳川家を建て直したのに、その後、全くその武士階級を、堕落させてしまい、後世の武士階級を破壊した人物とされるだろう。もはや、松平定信が出ても、もはや武士階級は堕落し、贅沢を知ってしまい、その欲望は抑えられずに、とくに旗本の形骸化が深刻化し、幕末の武士の体たらくを生む要因となったように思われる。 幕末の幕府側の武士をみれば、皆、百姓あがりであることに気づくだろう。新撰組の近藤、土方、農民だし、勝海舟にしても、祖父時代に、旗本株を買った経緯からなったわけだ。つまり、幕府側の武士階級はほとんど形骸化していたのである。それは何より大老、老中が、将軍を意のままに操り、傀儡し出して、将軍を政事から外し、女遊び等に追いやるから、大奥がまず、闘争の場と化し、世継ぎに問題が出てくる。だから、老中が独立せずに、将軍をしっかり補佐しないとダメで、幕府はお終いなのである。実際、田沼のせいでそうなったといえると私は思う。 井伊直弼の場合は、更に深刻である。この頃になると、将軍は、単なる置物と化してくる。安政の大獄で、随分と日本人の有能な人物が、一人の器量の小さいエゴイストにより殺されたのである。それは幕末まで遺恨として残された。井伊直弼が、劣等意識から、徳川家に拘らずに、広く島津や徳川斉昭がおす慶喜を、重要な職にでも就かせていたら、幕府は崩壊していなかったかもしれない。少なくとも国内の紛争は免れたように思われる。 安政の大獄がなければ、対外国との紛争から、日本の植民地化も、戊辰戦争の前に、未然に解決できていたかもしれないのである。 次の東条英機は言わんが如くであろう。ともかくこのような小器量がトップに就くと、その後の日本は植民地もしくは諸外国の奴隷国のようになってしまい。庶民は圧政に苦しむところは歴史がそれを証明しているといえるだろう。
2006年02月23日
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十五世紀から、人類は、秘儀参入法を中断し、物質界のみに専念するようになったと、神秘学は説く。物質界の奥には精神界があるとされているので、これでは、製品の設計図を知らないように、本当に、物質界を知ったことにはならないという。 現代人は、物質のみに専念し、執着するので、物質界を所有し、共有財産である地球を所有し、破壊しようとする衝動を有するという。現代という大きな転換期は、我々に破壊のイメージと混沌のイメージを与えるという。 この混沌と、人間の情念の恐ろしい狂乱が、全てを陰鬱にし、全てを退廃させていくとされる。物質世界に専念するのみにおいては、ある種、宿命づけられた予定行動といえるだろう。 しかし、洞察力のある人は、隠れた精神的衝動があらゆるもののなかに開示され、精神的諸力が、人間を新しい精神性、進化に導こうとしていることに気がつくという。 古代では、精神世界を洞察できるようになるために、人間の能力を発展させる試みがいつもなされてきたという。それには様々な条件があり、例えば、エーテル体が、肉体と緊密に結びついていないことが挙げられるという。 古代には、更に、アストラル体と自我が、現代よりも、昼間でも、肉体とエーテル体とは独立していたので、古代の秘儀参入は、そのような独立状態を前提にするので、太古では、ほとんど誰でも秘儀に参入することができたという。具体的にいうと、原インド文化、原ペルシャ文化と神秘学でいわれるところの時代であるという。 ついで、エジプト-カルディア時代(紀元前7世紀以前)では、肉体とエーテル体から容易に抜け出る人々、自我とアストラル体の独立性が比較的に大きな人々を選び出して、秘儀に参入させる必要のある時代がやってきたという。 ギリシャ-ラテン時代では、しだいに、肉体とエーテル体から、自我とアストラル体が独立しなくなり、秘儀参入が困難となってきたという。誰もが秘儀参入に向けて努力することは、なんとか可能だったが、大いなる成果は、該当者の自我とアストラル体が独立しているかに依存し、「人間の体質」に依存するようになったという。 このようなギリシャ時代を、ギリシャ時代の哲学者たちは、憂鬱と失望のように感じたという。ソクラテスは、「無知の知」を唱え、秘儀参入が困難になったことを嘆いたのである。無知の知とは、霊性が失われ、精神界を見い出すことができない物質界に埋没した人間存在のことをいう。 ソクラテスの弟子プラトンの時代になって、もっと困難になり、秘儀参入の占星術師はわずかながら存在すれど、プラトンは、もはや、イデアとしてしか秘儀を認識できないことを説いた。そして幾何学を理解できないものは、自ら創設した秘境学院、いわゆる哲学堂の門を通るなかれと、門に掲示したのである。 プラトンの弟子アリストテレスの時代になると、もっと深刻で、もはや、占星術師は皆無になり、代わりに自然霊と交信することで、認識を得る錬金術師の時代となる。アリストテレスは、4大元素霊を説き、形態と質料を基にして、時代に合う、錬金術的な新たな瞑想による秘儀参入法を説いたのである。その名残りが論理学となり戯曲となったが、大部分のアリストテレスの精神世界の書は失われたという。 そして人々は物質性を志すことになり、自然を離れ、都市生活を志向し、秘儀は失われていき、誰もが都市市民に憧れ、闇の帝国のローマ時代となり、唯物的な法ができる。 法律が生まれた時点で、人間は精神世界の盲目者となった! 物質で測り立証することで、法律が生まれるからである。 しかしながら、秘儀参入は、秘教として、あらゆる宗教の密教として、部分的に、伝承という形で、潜伏し、15世紀まで続いたという。神秘学には、そのエッセンスが伝承の形として残り、しばしば、そのときの実際の秘儀参入により、成功したものの記憶が伝承として残っているのであるという。そのなかで有名なものが、14世紀当りに、ローゼンクロイツのつくった薔薇十字会というキリスト教の秘教学院だという。 なので、神秘学の多くは薔薇十字会が行った秘儀参入の知見に基づいているという。
2006年02月22日
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今日の夢は割りとはっきりと覚えていた。プロ野球の中日対巨人戦を見に行ったものだった。場所は名古屋らしきところで、名古屋ドームではなく、物凄く古い球場だった。両軍ベンチというよりは、両軍がなぜだか一つのベンチに入り乱れていた。 試合内容はわからなかったが、私は外野で、ホームランボールをラッキーにも2つゲットしたのだが、なぜだかそのボールは割れた卵のようになり、中身が金属でできていた。そしてそのホームランボールは更になぜだか、打った選手のサインが入ったサインボールであった。打った選手は、中日の選手なのだが、新人なのだか、名前が知らない、岡田という選手だった(阪神の岡田監督ではない)。 サインボールを変えてくれるお店があるというので、そのお店を探しにいくのだが、なかなかみつからず、いろんな人に道をききながら、途中でなぜだか、化け物に遭遇するような地獄の場所に迷いこむ寸前までいったが、運良くそこを引き返し、目的のサインボールを変えてくれる屋台のお店みたいなところに着いた。 しかし、そのサインボールを変えてくれる店は、今日は、一選手、それも岡田という自分の取り替えてほしいものと同じ選手しかなかったので、サインボールは変えないが、記念にケースを売ってあげるとかなんとかいったが、ケースなんかいらないので、その店をおさらばしてでたところで、目が覚めたのだった。 相変わらず訳の分からない夢だった!当たり前か。
2006年02月22日
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昨今は、なんだか、巷では、般若心経がブームであるらしい。般若心経については、それぞれの捉え方があるだろうから、私の思うものを、有体に要点だけを述べたい。このことはとあるブログでのやりとりでも再確認したことなのだが、私風に、神秘学で述べたい。 般若心経は、瞑想と精神集中に入る前の予備、準備の心得であると思う。 前回で、精神世界は物質世界から、いわば解脱し、訓練することで、感じることができるようになることをまとめた。般若心経はその入門書だと思われるのである。 そこには、空、無を感じろということが得々と述べられているように思われる。空、無とは、我々が、日常起きているときに感じる、感覚の物質世界の記憶の果てにあるものである。黙想とは、何も感じないことだと教えられるが、まさに、言葉によらない、いわゆる思考であろう。 言葉にはできないが、いわゆるイメージの思考であるといえるだろう。一時期前に、右脳思考というものが流行った。これはイメージ思考だとされた、対して、左脳思考は論理、言語であるとされたが、脳科学ではそのように結果的にしか理解できないが、以前に神秘学で話したように、人間の左半分は、物質的で、右半分が、エーテル体(いのち)的であるとされるので、右半分の右脳が、イメージ思考であるのは、エーテル体(いのち)が活動している証でもあるのである。 エーテル体(いのち)は、アストラル体(こころ)から制御されうるので、いわゆる肉体(物質)的思考の左脳の論理思考よりは、より精神的であることがわかるだろう。人間の場合、脳は、精神と物質を繋ぐ、いわば翻訳機の役目をするので、アストラル体(こころ)主体で翻訳するか、それとも、肉体主体で翻訳するかで、人間の意志(自我が司る)が決定する判断が正誤に関わってくる。 アストラル体(こころ)主体で判断すれば、より精神に近い領域から視点が得られ、設計図が物質をつくるように、未来思考になり、現代で言うポジティブ思考になるが、肉体主体で判断すれば、物質に近い領域の視点から、情報が物質的に限定的な立場からやむを得ず判断され、知識的で、分析的で、より静的で、現状維持の方向になり、結果に拘り、過去に執着する形になり、いわゆる現代でいうネガティブ思考となるだろう。 これは右脳思考が、しばしば限定された知識である言葉では表現できずに、左脳思考が、知識から言葉により常に論理的に表現されることで、示されるだろう。 だから、お経を読むときは、言葉ではなく、こころで感じないといけないといわれるのは、正にこのことを言っている。有体にいえば、イメージで、思考することだと思われる。空や無とは、常識から自由になれ、言葉とか、論理に捉われるな、自由に思考を巡らせということなのであろう。そのことを心眼というのだろう。 無や空を、感じることを心眼といい、そこに無限の、現状に囚われない自由な思考の可能性を見い出すのであろう。なぜなら、我々は、物質世界の明日を知りえない立場なのであるからである。今日の物質世界、知覚世界は、もはや時間と共に過ぎ去る運命である。そして記憶だけが残されるのである。記憶はイメージである。イメージ思考だけが残される。逆説的にいえば、過去は未来であり、つまり、イメージ思考だけが、未来をつくることができるのである。ここに人生を反省する意味がある。 悪いことを行えば、悪いイメージが残る。悪いとは、その場限りの思考であり、依存的であり、破壊的である。なぜなら、それは物質が存在して初めて成り立つ思考だからである。逆に、良いことを行えば、良いイメージが残る。良いイメージは創造的なので、永遠である。そしてそれは精神そのものであり、独立したものだから、死んで肉体という物質を失っても、永遠に残るものなのである。 よいものは、その創造者がいなくなっても残るものである。なぜなら、それは人のこころに永遠に生きるものだからである。 だからして、般若心経では、永遠と言葉によらない、空や無を説くのである。なんだからわからないから、自らイメージ力、こころだけを働かそうとするのである。ただし、そこに般若心経が、人間を進化に導く有り難い教本であるという感謝する意志がなければならない。お釈迦さまのお言葉ならば、有り難いものであり、嘘をいうようなマヤカシではないという信仰がなければならないだろう。 だから、般若心経に何が書かれていようと、そのこと自体は問題ではないだろう。いかに空と無を感じ得るかなのである。その態度を深めようとするのなら、何もお経でなくてもよいだろう、異性の肉体の本や恋愛の本でも可能ならばよいだろう。だが、それはいいすぎで、そのようなあまりに欲情を誘惑するようなものは、かえって幻想を精神性を欲望で歪め得るので、よくないだろう。あまりに動物的になってしまうだろう。また、学術書のような無味乾燥の専門用語の言葉で書かれていれば、物質的思考を誘発させるだろうから、これも論外であろう。 お経が最も適当なので、それで感じられなければ、他の本はもっと、感じられないだろう。なぜなら、お経は物質世界でなく精神世界を基に書かれているのであるのだから。だから、ある意味、お経が分からないのはその通りなのである。物質世界の言葉ではわかるはずがないだろうし、物質世界の言葉で解釈したら、虚偽を生み、ウソになるからである。 実は、聖書もお経のようなものなのである。精神世界を知らねば、わかるはずがない。聖書も物質世界の言葉である唯物論で歪められて解釈されている。これこそ、偶像崇拝の悪しきものである。イスラムのいうことは正しい。聖書を唯物的に解釈してはならない。それこそ偶像であろう。 聖書にも、お経と同じように、空や無で感じとらなければならない。いわゆる心眼である。ギリシャ時代、聖書は実際心眼でみられたという。心眼で見た結果がヘレニズム文化を生みだしたのである。芸術や美術は、皆、心眼で感じなければいけないものである。常に精神的意味を問わなければならないだろう。 天使や神々が描かれたのは、まさしく心眼でみたイメージ像なのである。 物質的な知識言葉や論理思考よりも、空や無をいかに感じたかである。 空や無のなかに、精神的な世界、躍動をいかに、こころというアストラル体に写し取ったかである。アストラル体のアストラルとは「星」のことである。実際、星はこのような精神像をもっていると神秘学ではいわれている。 東洋では、空や無を、霊や仏と呼んだ。 だから、般若心経は、霊や仏のことを描いているともいえる。 イメージ思考においては、物質世界も精神世界もない。ただ、そこに、それを思う私があるだけである。 ただ過ぎ去ったイメージを悔やみ、これからくるイメージを恐れるのはなぜであろうか? それは、イメージを完全に、永遠の命の真実として、認識し、捉えていないからであろう。 イメージはどのイメージも、「こころ」がつくりだす意味において変わりがない。すべては、「こころ」から生まれるものである。 だからこそ、「こころ」を真実にイメージで満たすことが肝要なのである。 さあ、がんばって、真実のイメージを生む「こころ」をつくりだそう。その「こころ」に真実の覚醒した「私」が宿るのである。
2006年02月21日
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神秘学では、物質世界の奥に、精神世界があるとしている。物質世界は、精神世界よりつくられたとする立場に立っている。それは、我々人間が、何らかの商品や製品をイメ-ジし、設計図を書き、材料を集め、モノを作るのと同じで、人工物は、人間によりつくられたように、この物質世界は、神々によってつくられているというわけなのである。 人間は眠っているときに、この精神世界に滞在するといわれている。ただし、人間の4つの身体のうち、自我とアストラル体(こころ)が、滞在するのであるという。眠っている間は、エーテル体(いのち)と肉体のみが横たわっている。そしてそれを制御しているのは、人間の代わりの宇宙の自我とアストラル体だという。 寝る子は育つという諺の意味はここにあると思う。 人間は、精神世界に滞在するが、自我とアストラル体のなかには、感覚器がないので、精神世界を知覚することはできないという。物質世界にいるときは、肉体に感覚器を有し、物質を捉え、それに対する分別知も、エーテル体が担う記憶により有しているから、物質世界を知覚できるわけなのである。 しかし、起きているときは、物質世界の知覚が優位なので、精神世界を知覚することはできない。このことを、古インド人は、マーヤ(幻想)と呼んだ。なぜなら、物質世界の知覚が、精神世界の知覚を邪魔するからである。 太古、月の時代といわれる、現代の地球期以前の状態では、物質世界は存在しなかったので、月期人間は、精神世界のみを知覚できたという。その知覚の仕方は、いわば、精神世界の形象(イメージ)をみるような感じであったという。プラトンがいったイデアのようなものであろう。そのように喩えしか用いえないのは、我々の言語は物質世界を表すことを目的としており、精神世界を表すのには適していないからであるという。 読み書きは、物質世界を表記するために発明されたという。 この月期のイメージに近い表現は、我々が眠っているときにみる夢が、それに近いものだという。ただし、月期の場合は、精神世界の行為とその形象(イメージ)がある法則をもって認識しえ得たという点で、大きく異なると言う。現代人がみる夢は、あまりに言語教育が行き届いた為に、その影響で、全く精神世界とは対応していない混沌とした矛盾の多いものであるという。 ちなみに、夢のない深い睡眠の場合は、月期の前の太陽期の太陽人間の知覚に近いというが、これも近いというだけで、実体はまるっきり違ったという。なぜならば、太陽人間には、太陽系で起こったことを全てその知覚で、知ることができたが、現代人は、もはや何の知覚もできない真っ暗闇の昏睡状態だからである。 神秘学では、これをドッペルゲンガー(境域守護者)の存在として定義している。なぜなら、現代人のような唯物思考をもって、この深い睡眠期を知覚しようならば、自我が四方八方に引き裂かれ、宇宙のなかに解消されたようになってしまうからである。つまり、もはや重力を感じられなくなり、限りなく、落ちていく衝動に陥るという。私という自我存在を見い出せなくなくなってしまうという。そのために、ドッペルゲンガーがそのように、夢のない睡眠中は、何も知覚できない状態に守護してくれているというのである。 現代人はこのように、あまりに肉体にある感覚器を伴う分別知に頼ってきたので、自ら体験するのではなく、普遍的知識とされるもの、専門知識に依存して、いわゆるその分野の権威主義者が証明したとするものを、暗記による記憶により、肉体とエーテル体を形作ってきたため、肉体とエーテル体が、古代人よりも、密接に深く入り込んでいるという。 そのため、ある意味、古代人よりもストレスを感じやすく、精神衰弱的であるといえる。太古人では、考えもつかない現代病の多くが、この肉体とエーテル体の密接な関係にあると考えられるのである。寄生虫やらウイルスに感染しやすく、アレルギーになりやすいのも、この物質世界に繊細過敏に反応している証ともいえるだろう。 古代人が瞑想と精神的集中に没頭したのにはわけがある。それはできるだけ、寝ている状態である、アストラル体(こころ)と自我を、エーテル体と肉体から離した状態に近いものをつくり、物質世界から離れ、精神世界を知覚し、アストラル体(こころ)と自我に、精神世界を知覚するための感覚器をつくりあげることにあった。精神世界の感覚器とは、霊眼と霊耳である。仏教では蓮華(チャクラ)と呼ぶ、現代でも比較的分かりやすくいえば、心眼のことである。 お釈迦さんも八正道のなかで、正しい瞑想と精神集中を唱えている。 我々現代人でも、人工物の機械が故障あるいは調子が悪いときは、その設計図までいかなくても、説明図をみて、人工物がどのように構築されているのかを知って、直すだろう。これは、本来は自分で直さなければいけないところを、専門家分業のために、代換して、専門家に任せ、お金と信用で解決しているわけである。 しかし、人工物でない、天然、自然の場合は、専門家は皆無である。我々は、原点に戻って、天然、自然をつくっているものを吟味する必要、洞察する必要がある。それを普遍的抽象的に求めるのが、科学であるが、これは、いわば、専門家に任せ、お金と信用で解決する方法で、生涯、依存心が残ることになる。金と信用がなければ、依存心から、不安に突き落とされるのである。 対して、自らが自らの独立した人生を築き、責任をもって事象や体験にあたるならば、天然、自然の背後に、自らが生じた体験故の洞察力が浮かびあがる。これこそ精神世界であるといえるのである。実際に、神秘学では、この精神世界の存在を神々の世界であるとしているのである。 ここに、依存心の代わりに独立心が生じ、物質のような一時の無常なものに、対する信頼の代わりに、自らの独立心、故の不変なる信仰心から、永遠なる神々への揺らぎない信仰が生じるのである。 これは自らの責任と義務が揺ぎ無い限りにおいて、変わらないものである。私が私である故に、その信仰心は揺るぎがないのである。 我思う故に我在りのごとく、我信じる故に神在りといえるのであろう。 信じるものは救われると、キリストがいったことは、この意味であろう。 安直な知識主義に陥り、現実の物質世界を知識として捉えるのではなく、物質世界の奥にある精神世界にまで、体験を昇華させるのである。 物質世界に囚われることなく、その奥を見つめることが、瞑想や精神集中に求められる。すると、それに伴い、言葉や分別知に捉われない、体験が生まれてくるという。読み書きでは知覚できない精神を知覚できるようになるという。それには、日ごろの肉体の感覚器官を使わないように、瞑想し集中することであるとされる。 知覚器官を、瞑想と集中によって内的に揺り動かし、自分のなかにある未組織のものを、組織化しなければならないという。 天使や霊魂は読み書きができない。 天然や自然の創造は、読み書きでなされるものではない。 だから、それらと交信するには、読み書きから離れなければならない。そのために、太古では、瞑想や精神集中が行われたのである。 神秘学では、これらを秘儀参入と呼んでいる。人類進化のどの時代にもこれらの努力は行われてきたが、我々の15世紀から現代に至る粗雑な唯物論の時代にだけ、これらは中断されている。 現代人は、自分の知りたいことすべてに、秘儀参入なしに到達したいと思われている。 そして、物質世界のみが自分に関係するという信仰を持つようになっている。 このような信仰は怠惰な依存心から生じるものである。カネを払い地位を与えるから、専門家に任せておけばよいという無責任性、権威主義性からきているといわざるをえないだろう。これは科学主義というな名の宗教主義といわなくて、なんというのだろう。 自ら努力して掴むことこそ、自らの故の真実といわねばならないだろう。 一体誰のための人生なのだ! 主である神にこそ仕えよ!汝の主とは、「わたし」という自我であり、それは自らがなすものである。他人任せにしてはならない。 物質は決して主ではない。汝の肉体の主が、「わたし」という自我であるように、物質の主は、それをつくった精神なのであり、神々なのである。 人間は神々の精神からなる、故に、「わたし」という自我が、理解できないことはない。ただ真実を求める努力と、他人任せにしている依存心や怠惰な安易な抽象的主知主義の無理解があるにすぎないのである。 自ら真実を求めるために、体験という人生があるのである。
2006年02月20日
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なんだか夢の覚えがよろしくないので、はっきしいって企画倒れに終わりそうです。毎日はやめて、そのうち思い出しものだけのを書きたく思いまする。 昨日は、かなり前の「知ってるつもり」という関口宏が司会をやっていた、番組の最終回スペシャルの、仏陀とキリストのビデオを、再度みた。何回もみると、改めて気がつかなかったところが気がついたりして、発見があるから面白い。 勿論、番組自体は、確かにお釈迦さまもキリストも、人間としてこの世に暮らしたことは、神秘学では確かなところなので、異論はないが、あまりに人間化しすぎていて、あまり構成自体は好きではないが、だからこそ、突っ込みどころ満載で、何度もみてしまうのでもある。 現代的視点というのは、現代的は見方が常に正しいとしているところが、どうにも鼻につくところなのである。とくに科学的といわれると、これは私の悪癖でもあるのだが、はっきりいって、「お前やったことあんのか?」と言いたくもなってしまう。 というのも、科学を真面目にやればやるほど、精神分裂病の如く神経衰弱に罹ざるをえないと思うからでもある。常に自分が正しいという前提において行っているのである。 まずは、科学が正しいことを証明してみなければならないだろうと思うのである。正しいと仮定して、結果がその仮定の上で、論理的に導き出せて、その現象を、実験によって証明するのが、科学的実証の推移であるが、これは、それを行っている科学者の立場が忘れられているのである。 例えば、実験で証明するとして、実験を行ったその張本人は、一体、自然現象のどの部分を構成するのかが問われる。量子力学が、実験により、普遍的に実証できないのは、観測を行う行為そのものが、観測対象に影響を及ぼしてしまうからである。これは、何も量子力学に限らず、観測対象から特定部分を抽出する作業は、実験者の立場、とくに思考によるのである。 一般的に、統計を用いて平均値を抽出するが、平均値が意味を持つのは、観測系とは全く独立した外部から、時間によらない全く純粋に客観的な立場から行うことが大前提にあるが、このようなことは、少なくとも宇宙空間を、その観測対象と共有している時点で、限りない近似でしかないのである。 第一、時間を止めることはできないし、エネルギーの流れを、なんらかの静止系の基準から算出することはできない。だから、ある意味、光速度不変の法則を成り立たせているともいえるのである。しかし、この光速度というのが非常に抽象的である。人間は光速度で生活しているわけではないからである。光速度でみれば、人間は全く静止している存在である。だから、代わりに時間が立場により、異なる存在となるのである。これはアインシュタインの特殊相対論をいっているのだが、誰も光速度を、直接的に観測したわけではないのである。光を媒介するものを間接的に測定しただけにすぎない。 何がいいたいのかというと、魚をみたことがないからといって、魚が存在しないとはいえないということなのである。実際、光速度をじかにみたことがないが、光速度を前提として、間接的に、時間のずれをみているわけだからである。 つまり、普遍性とは、常に変わり得るものである。日常は無常なのである。そういう意味で、科学的というよりは、仏教的といった方が、私は真実に近いと思う。わからないことは、はっきりとわからないというべきだと思う。知ったかぶりしたって、その知識はいずれ変わりゆくものなのだからね。
2006年02月20日
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今日の夢はまた忘れてしまった。昨日だったと思うが、早老病と衝動病ともいえる脳の番組をやっていたのをみた。現代科学では、脳の特質に原因や遺伝子に要因を求めていたが、それでは単なる説明にしかならないだろう。 そして、脳や遺伝子を元通りに回復させれば治るという論理にもっていくのだろう。しかし、それでは、何故にそのような病気が、与えられたのか、そして、その病気になることは、人間にとっていかなることなのかの答えを与えることができないのと、同様に、現在の正常だと思われている人間の普通の健康状態が、どういう進化のもとに構築されてきたかを問うこともまた、できないだろう。 人間は、現状生活に適合し、大多数派形成理念をもって正誤を判断しているが、その判断の土台こそ問わねばならない時期に来ているとも思う。 なぜならば、平気でウソをつき、他者を欺き、自らの利己主義に邁進している似非指導者が沢山この世に溢れているからでもあるだろう。 このような似非人間は、現状を肯定しているが、それがウソにより塗り固められているので、健康上は健全であっても、その実、精神が病んでいるといわざるをえないだろう。このような人間は、進化を自ら放棄せざるをえなく、ヨハネの黙示録によると、次に転生したときには、動物として世に現れるだろうといわれるものである。 なぜならば、人間の姿とは、霊(神々)より与えられた魂の進化の法則から、成っているのであり、ウソをつくことにより、自らがそれを返上し、拒んでいくということになるのだから。つまり、ウソつき人間は、人間の姿以前の状態に再び戻ってしまうのである。 ウソつきは、閻魔様に舌を抜かれてしまうというのは、このことなのである。舌とは、神秘学では、言葉を話す器官を意味する。霊から言葉の基は魂に下されるが、その魂が、空気の振動に変え、声にするところが、舌であるとされるのだ。つまり、舌は声帯のことを意味する。 だから、ウソつき人間は、人間としては生まれずに、人間の進化以前の動物に再び生まれ変わると、ヨハネの黙示録では述べられているのである。 だから現代の亡国の政治家よ!神の怖れを知らぬ愚か者よ覚悟するがいい!! 人間の進化は自由意志により、いわば、エレベーターの上がり下がりのように、自ら選択できる。ウソをつきたいものは、下降ボタンを押し続ければよいだろう。 さて、神秘学では、脳は魂の排泄物だとされるので、脳が死んでも、魂は生きている。脳死も死ではない。ただ肉体と魂が交信できていない状態である。では、なぜ思考できないかというと、魂が肉体と交信できるためには、脳が必要であり、魂が脳をつくることによって、魂は霊を受け入れることができるのである。これは、人間が両性具有の存在から性の分離のかわりに手に入れた人間性の秘密事なのであり、それゆえ、男女では、思考の相違が生じるのである。 両性に分離することで、人間は、生理のエネルギーを半分にすることができ、その半分を、脳をつくることに用いることができ、脳ができたので、そこに霊が、魂に受胎することができるようになったのである。 こんなことを書いても、恐らく神秘学を理解できないものにはチンプンカンプンであろう。現代科学では精神を脳に求めるが、脳から精神が生まれているのではなく、脳は精神を媒介しているにすぎないのであり、現代科学は証拠をもとめる概念抽象論なので、ただそこから生まれているようにみえているというわけなのである。 脳が損傷すると、魂に霊が交信できずに、いわば魂の制御力を失うことになるのである。神秘学では、魂をアストラル体、こころとも呼ぶし、霊を、自我、わたしの存在とも呼んで、厳密に、理解している。 だから、脳を損傷した人間は、自我が、アストラル体の制御力を失うので、アストラル体、こころが、不安定になり、いわば飛行機でいえばダッチロールのような状態といえ、霊学では、憑依体質の状態といえる。 脳に限らず、人体の器官はいまも、いわば、進化しているので、脳が物質的にみかけ上、損傷していても、病気と言う概念で捉えるには、理解しがたい器官だといえるだろう。行動をみて、そこに何らかの兆候を求め、現代科学は、精神的な疾患を分類してきたといえるだろう。しかし、結局は、魂をみないといけないのである。 前述した昨日の番組でやっていた衝動病のようなものは、神秘学でいわれているところの、月期の古代人間の精神状態の特徴によく似ていたし、逆に、早老病のようなものは、太陽期の古代人間の精神状態に、よく似ているように思えた。 どちらも、一面的な部分が過多に過剰によくあらわれているのである。 簡単にいえば、太陽期人間の特徴は、あまりに柔軟すぎて、いわば霊と魂が密接すぎて、自我がアストラル体であるこころに深く入りすぎて、魂が早く成長していってしまうようなもので、魂が、肉体に深く入り込まない状態をいうのだろう。浦島太郎のような、他者よりも、はやく時間がすぎていってしまうのだろう。 これに対して、月期人間の特徴は、あまりに硬化すぎて、霊が魂と疎遠で、わたしという自我が、こころのアストラル体に入りこめなくなり、こころは、わたしを求めているのだが、それが得られずに、近くにある何かの身近な衝動に反応してしまい、その奴隷に成り尽くしてしまうような感じにみえる。 神秘学では、人間は上述したこれらに、エーテル体を加え、4つの体から成るものとしているので、それらの進化状況や、それらの相互作用いわゆる相互関係から、人間の全体の存在も変わっていくとされているのである。 そして、人間は神になるために、日々の人生をこの地で行っているのであるとされている。現代は、叡智の月期の次の愛の地球期であるとされ、多くの愛を学び得ないものは、堕落して、次の木星期には、動物に成り下がると、ヨハネの黙示録には書かれている。 なぜなら、次の木星期は、現代の地球が、月期になされた数々の叡智からできているように(だから、人間は脳で叡智を感じ取れるのである)、次の木星は多くの愛より構成されるという。つまり、そのとき愛を感じとれないものは人間として存在できないのである(愛を感じえる器官をもてない)。 人間は、昔、太陽期に、いわば植物であり、月期に、動物であった。イブの生殖器が、イチジクの葉で表されるのは、人間の生殖器が、いわば、植物期であった人間の象徴の器官であることを表している。 だから、生殖器を隠すために、イチジクの葉を使ったものではない。隠すのであるなら、なぜ手を使わないのか?不思議であろう。つまり、人間の生殖器は、次の時代にはなくなる器官であるとされている。 人間が、性を分離したのは、生殖のためでなく、霊と交信するための脳を手に入れるためだったのである。それは何よりも月期に、進化のために、知性を手にいれることを欲したためであったという。 しかし、いまや知性はあまりに唯物的になり、平気で嘘をつけるような代物に変わってしまった。過ぎたるは及ばざるが如しで、そのような人間は、再び獣に生まれ変わるであろうと、預言者にも預言されている。 何よりそのような悪魔ルシフェルにしたがった人間の魂を炙り出すために、神々が意図したところのものなのだ! 他を貶め自己利益の為に、平気で嘘をつくことを犯したものの罪は重いだろう。
2006年02月19日
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全く腐った日本人というのは、この国の某お馬鹿総理というより他はない。恥を知れ!一体、いかなる責任の立場に就いていると自覚しているのかな!最高責任者なんだぞ!選挙演説で、ホリエモンはわが弟と言った時点で、終わりだろ!それを長々と、自己保身の為に、国を破滅させるとは、お前はいい加減、地獄に堕ちたらどうなのだ! 全くこの4年で、日本はかなり悪い方向、堕落した精神と化してしまった!本来ならば疑いがかかった時点で身をひくのが潔い大和魂であろう。身をひいて、身の潔白を示すのが古来からの日本人の生き方だろう。 それをノコノコと、弁解がましい空論を述べるなんて、全く、日本人のモラルはどうした!情けなさ過ぎる。このような人物が一国の指導者とは!?あぁ、日本人は終わりだ! もう日本人なんか滅んでしまえばいい。何が天照大神の子孫だ!! せめてもうマスコミは報道をやめろ! みていて、若者の害になることばかりだ!殺人事件が頻繁に起こっているし、国の指導者としての自覚はどうした!治安が良かった日本を返せ! もう面をみるだけでも、吐き気がする。 日本人の誇りを返せ!もうお前なんか日本人をやめてしまえ!! 嘘吐き野郎!地獄に堕ちろ!! いまだかってこのような史上最低の指導者をみたことがない。一体、あなたは人間なのですか? あなたのなかには、神様の存在があるのですか?本当にあなたをみていると、神様が信じられなくなります。神様を冒涜するのもいい加減にしてください。本当に怖いもの知らずとはあなたのことをいうのでしょう? この国の行く末が案じられる。一刻も早くお辞めください。これは最後の御願いです。
2006年02月17日
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神秘学によると、35歳から、人間はますます内面に引きこもるという。青年期の期待と憧れはなく、代わりに、自分自身の判断をもつようになるという。これはすなわち、公的生活における力と感じられるものである。 そして、エーテル体(いのち)は、肉体から退いていくので、エーテル体に依存する力と能力、記憶がいかに衰えるかも分かりはじめる。 そして、50歳頃から、物質原則も人間から退いていき、骨は弱くなり、組織が緩んできて、物質原則は、退いたエーテル体の原則と結びついていき、退いたエーテル体は内面活動と共にしているので、人間は益々、精神的になっていくという。 物質原則が、人間の外面、つまり周囲の物質環境から遠ざかり、骨、筋肉、血液、神経が行ったことが、独自の活動、つまり精神的内面活動と結びついたエーテル体の活動を発展させるようになっていくという。 内面的な精神活動を発展させるには、退いたエーテル体が、中心となるようなので、若い頃に、このエーテル体に、アストラル体(こころ)が青年期独特の喜びを、刻印しなかったならば、精神的内面活動は、空疎になり、老年期になっても、精神性を目覚めさせることなく、かっての幼稚のような子供さが、また再現してくるという。 例えば、リンカーンは、40歳にもなれば、人相に人格が現れなければならないというようなことをいったが、まさしく、40歳にもなって、子供のような幼児性をもつ人間は、この若い頃の青年期独特の喜びを、体験しなかったことによると考えられるだろう。 青年期に新鮮な力を得なかった人は、干からびていくという。 自分の力をまだ外に向けなければならない間は、その力を内に向けることはできないので、青年期での外に向かっての喜びが、老年期においては、内の精神性を発展させることに、かえってくるというわけなのである。 若いうちは苦労を買ってでもせよというのはこういうことなのでもある。 後半生になって、我々ははじめて、未来に向かって活動し、人間が高齢になってから自分の内面に形成するものが、未来の器官と身体を形作るという。内面に形成されたものは、その人の死後、宇宙にも寄与するという。その成果は、来世における我々の前半生において観察されるという。 キリストが、富を積むのなら、天に積みなさいといったのは、このことなのであろう。若いときの喜びは、未来永劫の精神を形作るものとなるのである。外に向かっての喜びとは、感謝であり、愛情の表現であり、何より生きていることの有り難さの感受性であろう。 成長の度合いに相応しい領域で正しく活動するために、身体的―心魂的器官が成熟するまで待たなくてはいけないとされる。 人間は諦念を修練する必要があるという。 収穫期を焦ってはならず。その準備を怠らないように注意しなければならないのだろう。 人間に対する地球の存在とは、そのような諦念の修練の場であろう。このために、地球には季節があり、人間と同じく生命が宿っているのである。 神秘学では、人間がこれまで進化してきたように、地球もまた進化してきたという。ただし、地球の進化は、人間の進化のように徐々に進むものではなく、休息状態(プララヤ)と、進化状態(マンヴァンタラ)に分けられるという。休息状態といっても、実際は進化が休止しているわけではなく、暗黙糧に、いわゆるカオスのようなかたちで混沌として進行しているという。 表向きに現れる循環が、進化状態(マンヴァンタラ)であり、裏向きに進んでいる循環が、休息状態(プララヤ)であるという感じだという。だから、いわゆる陽と陰のような循環があると考えてよいだろう。 遊星の進化は、このようなプララヤをはさんで、大規模な循環があり、これを「国」と呼んでいる。そしてその大規模の循環のなかに、中規模な循環があり、それを「周」の循環と呼び、その周の循環のなかに、また、小規模の「球」の循環があるとされる。 それらの循環は夫々7つあるので、大中小と7×7×7の合計343の循環状態があるとされる。 神秘学ではこれを、111とか、666、343、777という略した数字で表すのである。だから、ヨハネの黙示録で有名な悪魔の数の666は、大循環の国の循環が6番目で、中規模の周の循環が6番目で、小規模の球の循環が6番目の遊星の進化状態を表し、そのときに、悪魔が最大の力をもって現れることを意味しているのである。 ちなみに現代の地球状態は、国が、土、日、月の後の地球期の4番目で、周が、ヒュペルボレイオス期、ポラール期、レムリア期、アトランティス期の後の、ポストアトランティス期の5番目で、球が、古インド文化期、古ペルシャ文化期、古エジプト-カルディア文化期、ギりシャ-ラテン文化期の後の第5文化期の5番目で、455となる。 しかし、大規模循環である国の地球期は、次の木星期をむかえて、紀元二千年のいまでは晩成期に入っているとされる。人間でいえば、老年期である。人間が次の転生の準備期にあるように、いま地球期も、木星期の転生の準備に入りつつあるというわけなのである。 木星期は、エーテル体が、最下層になるとされているので、それまでに、人間は霊性を身につけ、エーテル体に、蓮華(チャクラ)を形成し、見霊器官を身につけ、霊我を開発しなければならないとされている。 とても信じられない話なら笑いとばして貰って結構なのだが、ともかくも物質性はここらへんでいい加減にして、精神性を求める段階にきていることは、地球環境をみればわかるだろう。自然破壊が進みすぎて、もはや人間はエコを考えないといけない時代ではあるだろう。 人間はエゴを捨て、エコに目覚めなければならないことは万人の一致するところといえるだろう。
2006年02月16日
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今日の夢は、非常に奇妙なものだった。昔流行ったCMの、外人と対話するものだった様な気がする。そのCMとは確か東芝のTVのCMで、「クイントリックス」とある外人が、芸人と連呼しあうものだった。なぜにあのような古いCMが出てきて、それも、得体の知れない外人と、「クイントリックス」という、恐らく、ブラウン管の光度の方式の名前かなんかだと思うのだが、そんな昔の訳の分からない言葉を言い合うとは、全く謎のなかの謎の夢だった。 考えられることは、家の近くに、昔、東芝の販売店があったのだが、その販売店が、子供ながらに非常に印象の深い店だった。あの時代に、電気店というと、いまでは、田舎に、六本木ヒルズがたつという位の華やかさを、子供ながらにして感じたもんである。なにしろ、マクドナルドができるという位で話題性十分な時代であったし、マクドナルド店は、当時、結構遠かったのだが、わざわざ、食べにいったほどである。 念のためにいっておくが、わが家は、正真正銘の都会であり、東京都23区である。その都会でさえも、当時は、今に比べて、遥かに田舎だった! いまや、その街の面影はほとんどない。店舗は入れ替わり、ここ4年に、かなりが消滅していった。タイムマシンかなんかで、過去から未来にきたら、それとは分からないくらいだろう。まぁ、夢のなかでは結構昔の家に出会ったりするから不思議でもある。夢の話はここまでにして…。 昨日は、いつものように、オーラの泉をみようと、夜遅くまで起きていたが、なんとオリンピックの中継で、やっていなかったようだ。もういい加減、オリンピックはよいのではないか?とも思う。 なんだか、あまりに商業化され、猫も杓子もオリンピックで、マスコミも五月蝿いので、そのくせ、メダルはとれずに、おシラケムード満載だろう! とにかく、最近はアホ馬鹿マスコミが癪に障るので、TVは極力みないことにしている。とくに亡国首相がうつると、不快感が伴うので、ニュース番組で出たら、消す次第である。いい加減にしろ!モザイクでも入れた方がいいと思う。国会中継はあまりに酷いし、知らぬ存ぜぬのオンパレードであまりに下らないので、はっきりいってやるだけ無駄だろう。 まぁ、CSがあるだけ、テレビはまだ生き残るのかもしれないが。デジタルになったら、画面を消せる選択キーでも入れて欲しいぞ!
2006年02月16日
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人類にとって大きな課題は、自由に振る舞えど、他者に嫌気を与えないということであるように思われる。つまり誰もが尊重できる自由を見い出すことなのである。この普遍的な自由は、かなりの難問であろう。自由とは決して押し付けであってはならないからでもある。 神秘学では、現人類の課題は、大きく2つあり、それは「自由」と「愛」であるという。 では、大人の成長を、神秘学で紐解いていきたい。 内面の土台から取り出せるものが多ければ多いほど、自分の力で成長しようとする青年たちを、我々は、よく後押しできるという。人間は23歳になって初めて、全てを内面の土台から取り出し、遍歴時代に入るとされる。 そこで初めて自我が生まれ、「自由な個人」として世界に立ち向かうという。 このときに、自我が芽生え、肉体、エーテル体、アストラル体と協力して、世界と直接交わり、内的な人生経験が、全く自由に作用するとされる。 それ以前に現実に立ち向かうと、自分のなかにある最も美しい素質が損なわれ、土台として携えてきた力を殺すことになり、もし、散文的な人生を送ると、若さに対して罪を犯すことになるという。 35歳位が「人生の半ば」とされる。神秘学では、あらゆる時期のうちで非常に重要な時とみている。なぜなら、21歳までに、自分の素質を、肉体、エーテル体、アストラル体から取り出し、28歳までに、周囲から提供されるものを取り出し、そして、35歳になって、自分の肉体、エーテル体、アストラル体に対して働きかけるようになり、まずはアストラル体をしっかりとさせるからであるという。アストラル体は、別名、「こころ」といわれるものである。 つまり、35歳になって人間は、こころをしっかりと、もとうとするのである。 神秘学では、35歳ごろに、はじめて自分の判断を確立させるべきだという。 そして、23歳から「遍歴する者」であった自由な個人が、35歳になり、こころをしっかりとしようとすることから、「忠告する者」になり、他の人々の模範になれるとされる。 35歳になると、経験が一種の知恵になりはじめるという。35歳以降は、物質的な生活においても、アストラル体(こころ)とエーテル体(いのち)が、世界から退いていくのが特徴だという。 35歳までに、アストラル体(こころ)は、血液と神経のなかで、活動し、成長し、堅固になり、強化され、人間はこの点で確実さを獲得するので、この時期を「血液系と神経系の形成期」と呼ぶこともできるという。 35歳ごろにその形成が終了するという。それ以降、エーテル体(いのち)は、肉体のなかでの活動を退き、人体は大きくなることを次第に停止していくという。その代わり、人間は頑丈になり、脂肪が堆積しはじめ、筋肉が固さを増すという。これらはエーテル体(いのち)が、肉体から退いた証であるという。 エーテル体(いのち)は肉体の束縛を離れ、自由になり、人間が内的に形成したものと組み合わさるという。そして、人間は賢明になるという。 古代人は、エーテル体(いのち)が、肉体から退くときに、その人の忠告は公的生活において、はじめて意味をもつことをよく知っていたという。 だから35歳頃になってはじめて、人間は賢明になり、公的生活に入ることができて、その人の才能が国家と社会にとって意味をもつとされたという。 ちなみに、被選挙権獲得が35歳あたりが望ましいというのは、この例からもわかるように、非常に妥当な意味をもつように思われる。そしてまた、選挙権獲得も、できれば、35歳頃辺りが妥当だと思う。しかし、現代人は、遥かに精神的に堕落しているので、もはや年齢が意味を持たないかもしれない(あのような分別のない政治家が大量にいるのをみれば…)。 要するに、肉体から、エーテル体(いのち)が退くことが重要なのであろう。いのちが、肉体という束縛を説き、自由な内面生活と交わうことが可能になることが、重要なのである。 見霊は、このエーテル体(いのち)に、感覚器をつくることで、認識できるとされる。これを、仏教では、蓮華(チャクラ)と呼んだとされる。だから、神々(霊)との交信方法である秘儀参入法は、35歳頃を過ぎないと、まずは不可能であるとされる。 それは上述したように、エーテル体(いのち)が、肉体の束縛を離れて自由になる必要があるからなのである。恐らく、あまりに執着心が強いと、いつまでも、肉体の束縛から、エーテル体(いのち)は自由になれないのであろう。いつまでも肉体を大きくすることや、肉体の感覚器に頼る生活を送っていると、肉体依存の生活に浸りきりになり、エーテル体(いのち)は、肉体の束縛に、奴隷の如く酷使されてしまうのであろう。 だから、人類の進化に必要なことは、このエーテル体(いのち)を、肉体の束縛から開放し、自由な存在にすることなのであろう。エーテル体(いのち)は、アストラル体(こころ)により、ある程度、制御されるという。アストラル体(こころ)は、割と柔軟で自由な存在なので、例えば、人間が睡眠中に、肉体の外に出て、霊界を旅しているとされる。 しかし、朝、肉体やエーテル体のなかに戻るときに、エーテル体にあうように、かえるので、霊界でのやりとりが、いわば消えてしまう。霊界の出来事が言葉にできないのは以上の如く、アストラル体が、エーテル体にあうように、かえてしまうからであるようだ。 だから、古代の秘儀参入法は、いかに睡眠中に、エーテル体を、肉体から解放させ、自由にし、霊界をみたことで、アストラル体に霊界認識器官の感覚器を保たせ、そっくりそのまま、エーテル体にそれを刻印することを、目的としたという。 しかし、これは、古代人が、現代人よりも、エーテル体が、割と肉体から解放され、自由になっていたからできることであったという。ギリシャ人は、現代人よりも、頭部において、エーテル体が、肉体から解放され、自由になっていたという。だから、頭部のエーテル体が自由に躍動するので、アストラル体が、天使の輪のような光を放ったのを、見霊者はみたのだという。 勿論、現代人では、肉体とエーテル体の密接度が堅いので、それだけ、物質世界に分別知を有し、執着心が生まれた結果なのでもあるが、上記の秘儀参入法は困難で、まず、エーテル体を、肉体から解放することが先決となるという。それには、仏教の説く、執着心や分別知を、まずは修行として取り除く必要がある。これにはなにより、アストラル体である、こころのなかにある自由な思考を発展させないといけないともいえる。 これを、アストラル体の浄化と呼んでいる。キリスト教では、聖マリアのアストラル体(こころ)である処女ソフィアを表す。聖マリアがイエスを受胎できたのは、このアストラル体が浄化されていたので、つまり聖マリアの魂が霊(神々)を受け入れる態勢ができていたから、処女受胎されたと聖書に記されているのである。 だから神秘学でいう処女とは、霊をうける魂(アストラル体)の浄化のことをいい。肉体の意味とは全く無関係なのである。聖書も唯物論で汚されているといわざるをえない。いまでは聖書は悪魔の言葉で穢れているといわざるをえないだろう。 ちなみにイエスを処女ソフィアに受胎させた霊は、聖霊と呼ばれるが、プレロマという6柱の神々であるとされる。その神々たちは父と呼ばれ、太陽霊のことである。人間に関わる神々はあと1柱いて、それはヤハウエ神と呼ばれる月霊である。太陽霊は、人類にユダヤ教とキリスト教を与え、月霊は、天使長を通して、イスラム教を与えたという。仏教は、当時水星の守り神で菩薩だったお釈迦さまを、太陽霊の代表で神の子のキリストが、地球に派遣したのだという。大分話題がそれてしまった。 そういうわけで、処女ソフィアの魂の浄化は、三位一体の原則には欠かせないものなのである。つまり神々との交信には、この三位一体の原則、つまり、エーテル体を、肉体から解放し、自由にし自立させることをいう。 エーテル体は別名「いのち」でもあるので、いのちが自立し自由になるとは、生死の宿命を超えるということでもある。つまり、永遠の「いのち」を手に入れることを言う。そのためには、「いのち」に影響をあたえうる「こころ」であるアストラル体の浄化がどうしても大前提として必要なのである。 この「こころ」のなかには、実は肉体を通して、悪魔が宿っているのである。だから、人間の「こころ」には、悪魔が棲みついているのである。これは肉体をもったものは全てこの悪魔の影響をうける宿命にある。お釈迦さまも、菩提樹の下で悟りを開くときに、遭遇したし、神の子キリストが、人の子としてこの世で暮らしたとき、悪魔に出会い、荒地に赴かされたことでもわかる。そのときの悪魔は大別して2種いた。ルシフェルとアーリマンである。 ルシフェルは、キリストに、自分がつくった地のこの世の美しさと素晴らしさを語り、誘惑しようとしたが、キリストは、地の世界の虚しさを、太陽の神々であるから熟知しており、斥けたが、ルシフェルはあきらめずに今度は、アーリマンという悪魔を呼びよせ、キリストを高い崖に連れていき、飛び降りてみろといった。いかに神の子でも、肉体のなかに入れば、重力の原則を受け入れなければならない。さぁ、飛び降りろ、俺たちが守ってやるといって、2種の悪魔は挑みかかったが、その2種の悪魔の性質は、元来正反対(ルシフェルは唯精神主義で、アーリマンは唯物主義)なので、その2種が強迫することにより、均衡が生まれてしまった! この均衡現象を、キリストは、地の世界で生きる人間たちの救いの(霊的)法則だと見出したのである。つまり、こころのバランス、モラルである。 そこで、アーリマンが、ルシフェルに、お前は引っ込んでいろ、俺一人でやると言い、そして、アーリマンは、今度は、キリストに、お前が神の力をもつのなら、石をパンにかえてみろといった。そこで、キリストは、人はパンのみに生きるにあらずといったのだった。 しかし、アーリマンは笑った。お前は、太陽からきたから、知らないかもしれないが、この地では、金銭のようなもので、食糧を買わなければ生きていけないのだ。人間は、ただ霊のみで生きていくことはできない。みてみろ、肉体の誘惑に負け、食糧に飢えている哀れな奴隷のような人間どもを、やつらは、まだまだ、神々の存在には程遠いのだ!この俺が、この力(物質力)で、自分の世界をつくるだけだ!お前は太陽に帰れ!というようなことをいったという。 しかし、キリストは、地の人々のために、ゴルゴダで十字架にかかり、太古の地球に残る太陽期のエーテル体(いのち)を結集し、いまもエーテル体のかたちで、地に残ると、キリスト教では語られている。 だから、処女ソフィアのごとく、魂を浄化せしめた人間が、見霊するときに、キリストの復活した姿を目の辺りにするというのである。だから、キリストの復活とは、現代の秘儀参入法により、いわゆる仏教のチャクラ(蓮華)を手に入れたものだけが、感じ取れ、実際見ることができることなのである。 キリストの弟子達は、キリスト自身から秘儀参入法を伝授されていたので、キリストが、イエスの肉体を失っても、その存在を感じ取れることができ、復活を目の当たりにしたのである。それにより新約聖書は書かれたのであるとされる。 どうも後半からは神秘学の秘儀世界に入ってしまった。 言うまでもないでしょうが、興味のない方は、飛ばしてください。次回は老年についてまとめたい。
2006年02月15日
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うぅ、また今日も夢を忘れてしまった。この修行不足ものめがぁあ!といわれそうでもある。昨日、巷はバレンタインデー(バンアレン帯と聞こえるぞ、なんのこっちゃ?)とかいう日で賑わっていたようだが、そんなもんで賑わえるならば、毎日なんらかの日にしたらいいだろうと思う。なんでも、OLの7割が、「カネがかかる」「面倒だ」という理由で、バレンタインデーをやめるべきだ!という統計がでたという話だが、一体、誰が号令かけてやめさせることができるのか不思議でもある。 バレンタインデー中止令なんかが会社でおこなわれるんだろうか?まぁ、そんなことは、本人の自由なんじゃないのか?日本人に、自由意志がない現われであると思う。おそらくみんなやってるからなんとかで、自分もやるんだろうが、嫌ならやんなきゃいいだろと思うわけである。 どこかこの国はおかしすぎる。だって、バレンタインデーって、日本のしきたりでもなんでもないんだからさぁね? ????? 挙句の果てには、今日テレビで亡国首相が、バレンタインのチョコを受け取らなかったとかなんとか、アホかぁああ、お前は!といいたいくらいである。国の指導者たちがこんなに幼稚園児、小学生並のオツムで、もう嫌ンなっちゃうよ、ホント! 核爆弾より、チョコ爆弾を首相官邸でもぶち込んでやりたい心境でもある。 最近、お馬鹿マスコミは、はっきりいって、どうでもいい統計ばかし取りすぎだと思うぞ!低脳丸出しである。 この際、私は提言したい。マイナス視聴率制度という奴を!アホマスコミはこのままいくと、どんどんアホを垂れ流し、常識があまりに低脳レベル化して、蔓延してしまい。自ら考える思考力や自由意志を、安易に剥奪しようとする、お馬鹿似非利己指導者により、法律がそのうちどんどんつくられてしまうので、あまりに低レベルな報道は、多主規制させるしかないと思う。 はっきりいって、お馬鹿首相の宣伝機関など必要ないといってよいだろう。私は3年前から、アホ馬鹿報道番組は、できるだけ見ないようにしているのだが、それでも、聞こえてくるから、嫌になってしまう。はっきりいって嫌悪感を催す。馬鹿さ加減に嫌気がさす。 だから、マイナス視聴率制を導入して、もっと自由な思想を尊重すべきである。自由というのは、他者に不快感を与えないことが大前提にある。あんな馬鹿首相の宣伝の何処が報道の自由なのか?聞きたい! もう嫌になってしまう今日この頃のアホマスコミぶりである。 セックス、スポーツ、スクリーンとGHQの日本人あほ馬鹿計画は、着々と浸透し成功をあげているといわざるをえない。これを別名、日本人ゴイム化、家畜化計画ともいうらしい。 そのくせ、オリンピックではメダルなし、映画といえば、いまだに黒澤を超えるものなし、セックスは低レベル化し、学者ともあるべき知識人が、ハレンチ事件で検挙に暇がないほどのアホ馬鹿さ、せめて、日本人に世界を股にかけるほどのプレイボーイやプレイガールも出ればマシだが、それも皆無だから、この国は、どうみても、滅ぶだろうね。 夏目漱石が、坊ちゃんという作品で語らせた通りであるから、明治期以来から、全く日本人は進歩していない証拠だろう。指導者がダメなんだから、元からして怪しいもんなんだろう。 あ~あ、今日は愚痴のオンパレードになっちまったい。 こんなニッポンで一生懸命生きてていいのかい? せめて、神さまでも信じなきゃ生きられないだろうよね。 アホ馬鹿マスコミよ、お前らはいつから権力者の犬に成り下がったんだ!。犬なら、犬らしく、せめて路地裏で生活してくれ!裏で守銭奴を続けろ!! 人間という誇りがないのならば、表にでるな。
2006年02月15日
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前回までに、神秘学の人間の成長のコーヒーブレイクとして、アトランティス人の特徴をまとめた。アトランティスの前のレムリア人の特徴もまとめたいところだが、元にもどして、人間の成長を以前に続けて書くことにしたい。 人間は前世から、いわば自我と、アストラル体のエッセンス、エーテル体のエッセンス、肉体のエッセンスをもって、この世に生まれてくるとされる。それはまるで、植物がその種子のなかに、これから地で芽生え、成長し、花を咲かせる生命力を有している印象をそっくり与えるものであろう。 実際人間もそのようないわば植物の種子で生まれてくるといってよいのだという。しかし、植物と異なるのは、自我とアストラル体は植物の場合、この世にはないという。エーテル体と物質体が、この世であるのみである。 自我を除いて、植物がこの世で展開する生命力は、いわば、人間の幼児期の肉体形成、子供期のエーテル体形成に相当するように思われる。植物が、同種の花を咲かせるように、種子から成長するように、人間は、前世のエッセンスから、子供期までに、それを展開させるのである。子供期にどのような植物でいう、花を咲かせるかが、その人間の性格を形作るといってよいだろう。 青年期になると、今度はアストラル体を発展させる時期となるという。人間が携えてくるアストラル的な特性を、アストラル母胎が包んでいて、アストラル的な特性は、まずアストラル母胎のなかで形成されるという。そして、性的に成熟するときに、人間ははじめて自由なアストラル体をもって世界に向かい、そのときに、判断、批判、概念が形成されるという。 それ以前の年齢で、判断や概念を形成するのは早すぎるという。それ以前に、信念をもつべきではなく、信念はアストラル体が生まれたときに初めて形成されるので、それ以前は、信念を持つ人を見上げて、自分が信じるべきものをその人から受け取るべきだという。 いうなれば、エーテル体と肉体のみの植物に、判断や批判や概念を求めることになり、植物に話しかける人間は笑われるのと同じであろう。植物のなかに、そのような、いうなれば自然法則を逸脱した動物的な植物が、ときどき見られるが、それは毒をもつ存在であるという。自然のなかの進化の法則はしっかりしたプロセスがあり、植物にはそのような権限はいまだ与えられていないという。植物のなかに動物になろうとするものがあれば、それは、邪道に走った、悪魔的なものであり、それ故に、いずれ滅び行く運命にあるという。 その器にないものがその地位につくと、災いを生み滅ぶ だからして、アストラル体が形成されない子供のうちに、信念を植えつけてはならないのである。それは植物が、宇宙の星を見て憧れ、花を咲かせるように、子供には、立派な大人の存在をもって、憧れの対象として、育てるのであるという。 植物自らが花を咲かせる前に、他から花を与えてはならない。 人間は性的に成熟して、人間が人間に向かい合う大事な時期となり、個人への愛が次第に目覚め、周囲への個人的関係に初めて目覚める。それ以前は、一般的な人間関係しかない。「自分自身の判断」と「周囲と自分自身との関係」が初めて現れる。 そのときに、アストラル体のなかに、前世から携えてきた土台が現れ、自由に展開できるという。高い理想、美しい人生の希望、人生の期待が、もたらされるという。自分が携えてきた素質を、次第に取り出していった人は、正しく成長するという。 理想は外にあるのではなく、私たちが理想をもっているという。 この時期に、努力を促す力が青年のなかで活動し、人生の希望と期待という力がニ十歳までにないと、後年にとって、最悪の事態となるという。 なぜなら、人生の希望と期待は、現実的な力であるからなのだという。 アストラル体、いわゆるこころを浄化させるのは、この人生への希望と期待から発し、努力を促す力なのであると思われる。 霊学では、アストラル体を、魂と呼んでいるが、人生の目的は、この魂の浄化にあるとされる。魂を洗う気のない者に魂を洗えないように、この時期の人生の希望と期待は、真事に大きな事と言わざるを得ない。このような大きな時期に、昨今のように、自殺願望をもつ若者が多いというのは、正に大人の教育の配慮が欠けている証拠でもあり、残念なことだといえる。 このような社会では、いずれ、魂の浄化の修行場としては適さないものとして、日本社会そのものが、この世から滅んでいくだろう。魂の浄化の目的は、霊(神々)を照らすことであり、霊と交信することにあるのだから。太古の日本人は、神道により、歴史を振り返ると、これを良く心得ていたことを感じさせる。だから成人式という人生への希望と期待を込める儀式が制定されているのである。 太古では成人式は、人生への希望と期待と、その理想の精神で、輝くものとされたのであろう。 人間は霊長類といわれる、霊の申し子、つまり神の子なのである。 それは、「我思う故に我在り」とある哲学者が言った言葉に深い意味がある。思考とは正しく霊(神々)の仕業であり、単なる魂存在では出来得ない芸当なのである。 つまり、「思考できる魂は、霊と受胎している。だから、人間という存在がここにある。」ということを表明していることなのである。 人生はまさにその思考ともいうべき自由な土台、舞台なのである。そこは自由なる思考、霊との交信で、本来、希望溢れるものなのである。 いくら稼いだとか、楽な暮らしをしたとか、贅沢をし着飾ったとか、そんなことは人間のやることではなく、人間のやることは、いかに精神を磨き、神々と交信したか、人間として理想を追求したか、神々の名のもとに、多くの人を助けたかが、問われるのであろう。 そしてなにより、人間として独立し、自由な思考を身に着けたかが問われる。神々と対等に理想について、語りあえたか?なのである。 現代では、それが錯誤と幻滅と、大人の無情観を植えつける説教になってしまっているし、その大人が平然とモラル破壊に勤しんでいるのだから始末に負えない。真事に世も末であろう。 恥知らずも極まると、恥を感じなくなるようであろう。 神々は死んでいない、人間の精神が死んでいるのである。 次回は、大人について神秘学から述べたい。
2006年02月14日
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今日の夢は職場の夢だったようだが、忘れてしまった! 毎回、忘れてしまうので、覚える気はあるのかと、ドつかれそうだが、夢を覚えることは、非常に意味があることなのであるからして、今日はこの意味を、この場をかりて釈明したい。 神秘学によると、夢の意識は、かって人間が有していたものなのであり、それは、地球の以前の状態である、いわゆる月期の当時の人間が有していたものであるという。この夢の意識は、太古のエジプト人、カルデイア人も、有していたが、それは年齢とともに獲得されるものだったという。人類は、この夢の意識、いわゆる見霊意識を、唯物的思考により、だんだんと徐々に失ってきたという。 だから、現代人は、夢をみても、それを意識として残すことができなくなってしまったのだという。それは何よりも、夢は言葉で表記できないもので、言葉というよりはイメージに近いもので、霊界は、言葉で表されない、より繊細で微妙なイメージのようなもので、それらを太古人は、自然の言語と表現したという。言葉といっても、現代のような定義つけられ、固定されたものではないという。 俗にヘブライ語が、母音を補って、言葉の意味をあてるように、太古人が表現した自然言語が子音で、その意味を解釈する人間が、母音であるような、自然と人間の共同作業で言葉を成すというようなものだったという。だから自然をみて、人間の感情を表現する詩のようなものが、はじめに文をつくる言語の基になったようだ。 詩人や文筆家が、月光の輝く、夜中によく作品をつくるのは、この夢の意識の名残りであるという。なので、とくに一流の詩人は、一種の見霊を行っているので、ある程度、未来予知ができるのである。 神秘学では、過去の歴史も明らかになっているが、これから人類が辿るべき、未来の進化の道も明らかになっている。それは、この月の意識を再び人類は取り戻すということなのである。人類は、これからも、益々唯物的になっていき、悪魔の僕となっていき、利己的、破壊的になる。多数が快楽的で、その場鎬の行き当たりばったりの享楽共栄主義になるだろう。しかしながら、このようななかにも、わずか少数の霊的な人類が、徐々に、現れてくるという。 それはまさに、泥の中に蓮の花を咲かせるもののように、少しづつゆっくりと現れてくるという。人間の進化は、アトランティスが100万年の長さを保ったなかでも、その歩みはゆっくりとしたものであったように、現代でも、それは気がつかないような感じのゆっくりとしたものだという。現代は、わずか数千年といわれているが、神秘学ではアトランティス期後、約1万年たつとされている。 だから大半は、いままでどおりの物質主義経済繁栄主義でいくだろうが、そのなかから、ポツン、ポツンと、見霊意識をもつものがあらわれてくる。ぶっちゃけ、見霊意識とは、相手が何を考えているのかを、見通すこころの知覚力のことである。これは、いわば空の雲をみるような感じで、オーラを雲のような感じでみるようなもんだという。空を見慣れたものは、天気を予想することができるように、人間のオーラをみたら、その人のこころを読むことができるわけである。 相手の外見(物質)の肉体に拘らずそれをみることができるので、鍛錬すれば、徐々に、肉体のない存在もみることができ、人間でないこころの機微もみれるようになってくる。何か「気」とでもいうべきエネルギー体の動きを感じることができるようになっていく。そうすれば、夢の中で、亡くなった人とも会うことができるようになる。それがあまりに日常的になってくると、もはや肉体を必要としなくなり、死とは無縁の存在となる。 肉体に囚われているということは、修行が足りないことであり、死を必要とする存在なのである。 馬鹿は死ななきゃ治らないという真の意味はここにある。 馬鹿につける薬はない。死ぬしかないからである。死んでみて、はじめて、肉体が幻覚であり、物質世界が、つくられたものだとわかるのであるという。ただし、肉体の死に拘っている間は、死んでも死に切れないという。それは、肉体の死を感じとれないからである。いわゆる執着心が残っていて、解脱できていないからである。 仏教ではこの点を非常に重要視している。 毎晩、我々は死者と出会っているのだが、あまりに物質界に慣れ親しんでしまっているので、それを意識化できないで、朦朧としているのである。どう表現していいかわからないのである。つまり、言葉では言い表すことができないのだ! 言葉で表すことができないことが真実であるといわなければならない。だから真実はいつも隠されるのである。真実は伝達不可能なので、自らが見霊意識を、誰にも頼らずに、見につけるために修行しないといけない。 だから、我々はこの世で肉体をもたされ、人生を送っているわけなのである。 夢を思い出せないとは、要するにまだまだ修行が足りなく、人生を生きなければならないということである。あ~あ!
2006年02月14日
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前回は、アトランティス人の第6亜人類のアッカード人までについて、まとめた。今回は最後のアトランティス人となった第7亜人類の蒙古人についてまとめたい。 この第7亜人類の蒙古人には、第4亜人類の原トゥラニア人の特徴を強く残していたという。原トゥラニア人は、抜群の記憶を用いて、自然のなかにある生命力を、利己的に支配しようしたために、破壊的になったことは、すでに述べた。 これに対して、蒙古人は、一番古いものが一番良いものであり、それにはどんな思考力も及ばないという確信を抱き、生命力を支配することは、第4亜人類の原トゥラニア人とは異なり、できなくなっていたのだが、代わりに、発達させた想念に、生命力のもつ自然的威力にも似た力を具えたという。 蒙古人は、原トゥラニア人のように、自然の生命力を、直接支配はできなかったが、生命に対する素朴な信仰を失っていなかったので、生命力は、蒙古人の神になったという。 そして、蒙古人は、この生命力を神として、この神の委託の下に、正しいと思うことを全て行ったという。このような態度は、近隣の諸民族からは、まるで秘密の力に取り憑かれているかのようにみえるほど、この力に盲目的に帰依したという。 アトランティス人の第5亜人類の原セム人になって、アトランティス人全般の抜群の記憶力と、ちょうどバランスする思考力が、身についたために、それが、自制力となって、いわば無我となり、ポストアトランティス時代の我々の根幹人類である、アーリア人の素質を生むようになったわけだ。 聖書では、ノア(マヌ)により、アーリア人のなかから、我々のポストアトランティス時代の文化をつくりあげるために、有能なものが選ばれたと、暗黙糧に、記載されているという。その後、ノアは、他のアトランティス人から、それら有能なアーリア人たちが、堕落しないように、隔離するために、隠遁生活をし、教育をほどこしたとされる。その伝説が、古インドの7人の聖仙として残っているという。 神秘学では、ノアは通称マヌと呼ばれており、このマヌはマナス(霊我)の担い手という意味で、黙示録が預言する、来るべき未来に、悪を救うための善の概念を創出するために、マニ教を打ち立てたという。その秘儀の教えは、古ペルシャ時代に、ゾロアスターに受け継がれ、ゾロアスター教と形をかえ、更には、エジプト時代になり、ヘルメス、モーセに伝承され、それぞれ、ミトラ教、ユダヤ教の原型となったという。 ついでに断っておくと、マニも、ゾロアスターも現代人のように1個人のいわゆる1人の人間と考えてはダメだという。太古では、同じ記憶を受け継ぐものは、同じ名前で呼ばれるので、いわば、現代人でも、○○シニアとか○○ジュニア、○○何世という呼び方があるように、いまでいう複数の人間を意味するという。だから、古代人は長生きなのでもあるという。 さて、アトランティス人の第6、第7亜人類だが、これらは、アトランティスの大洪水のあとも、生き残ったが、もはや進化の可能性はなく、いわば爛熟した人種になったという。 この爛熟した人種の子孫が、中国人だという。中国民族が高度な文化を発展させたのは、それがアトランティスの文化をそのまま受け継いだからだという。しかし、中国民族は、私という自我の目覚めに疎いという。それは中国文化が、自らを超え出ることができず、みずからの内にとどまり、作り出したものを変えず、限度を超えない特質をもつことに現れているという。それこそ、アトランティスの文化そのものの特徴だという。 つまり、古代中国文化はアトランティス文化を非常によく受け継いだが為に、それ以上、発展することができなくなったという。あまりに完成しすぎるとあとは衰退あるのみだという。 どうやら、前に進むためには、屈伸しないといけないように、「急がばまわれ」というのは本当のようである。
2006年02月13日
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今日の夢は忘れてしまった!どうも、昨日の夜から、腹が下痢気味で、調子が悪い。今日も、4、5回、トイレに駆け込んだ!ところで、先週から、トリノオリンピックが開幕したらしいが、私は残念ながら、興味はほとんどない。 興味がないながらも、プロジェクターの大画面で、みると、流石に迫力はある。迫力はあるが、競技自体に興味がないので、無理にみたいとも思わないし、日本選手の活躍がどうのこうのといわれるが、個人主義の時代に、スポーツに愛国心を求めても、なんだかなぁ、という感じがしないでもない。それよりも、マスコミがここぞとばかりハシャギまくるのがいただけないだけだ…。 オリンピックはあまり関心がないので、ここまでにして、このあいだのサッカー日本代表の不甲斐ない米国戦について、愚痴りたいぞ! 案の定、かなり一方的な試合だった。米国は以前と比べて、かなりよくなっていた。そのプレースタイルは、イングランドを彷彿とさせた。今度のドイツ大会は、米国とメキシコが台風の目になるような気がした! 日本は相変わらず、中盤で間延びした無駄パスをして、相手にかなり狙われていた。巻と長谷部が収穫だった。それにしても、サントスは相変わらず、一人孤立したプレーをしていた。左サイドはもっといきのいい若手を起用すべきなのではないか?小野はやはりボランチの方がよいようだ。小笠原は、控えがいいと思う。とりあえず、前半はシステムが全く定着していなかったので、あれでは、なんの意味もないと思う。 得点力のない日本にワントップなんて、自ら首を締めるようなもので、消極性丸出しであろう。素人意見かもしれないが、ワントップにするなら、まだスリートップの方が、マシな気がするし、みてみたい。攻めて攻めて攻めまくりのゲームをみてみたい。点取り合戦の試合の方が見ている方も面白いだろうし…。 どうせ、予選リーグ突破スレスレの実力なのだから、守備がどうこうのとかよりも、攻撃は最大の防御なりで、どんどん攻めてほしい。とにかく、印象に残る試合をしてほしいぞ!米国戦のような攻められまくりは勘弁してほしい。
2006年02月13日
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今回はアトランティス人の第5亜人類の原セム人について書き始めることにする。第4亜人類の原トゥラニア人は、莫大な生命の形態(イメージ)の記憶力を、利己的に用いた為に、それが巨大な破壊力となったことを、前回まで書いた。 この破壊力を抑制するために、人類は思考力を、第5亜人類の原セム人において生み出し、発展させることになったという。原セム人のなかで、論理的な思考が始まり、過去への単なる思い出を脱して、様々な体験内容を比較するようになり、判断力が培われたという。 そして、この判断力に従って、願望や欲望が統御され、計算や関連付けもはじまったという。第4亜人類の人々が自分たちの欲望を満足させることに精一杯だったとすれば、第5亜人類の人々は一歩進んで、内なる声に耳を傾け、利己的な要求を解消させないまでも、その欲望を制限する働きをしたのだという。 第5亜人類の原セム人は、行為の原動力を心の内部に移し、何を行い何をやめるべきかを自分で決めようとした。しかし、内部で獲得されたこの思考の力は次第に、外なる自然力を支配する力を弱めていったという。関連付けを行う思考の力では、鉱物界の力は支配できても、生命力を支配することはできないからであるという。 原セム人は、生命力に対する支配権を棄ててまでも、思考力を発達させたので、人類発展のための新たな芽が生まれ、この第5亜人類の原セム人のなかから、最も優秀な人々が選出され、アトランティス人の没落後も、生き延びて、いわゆる、「高貴な」という意味のアーリア人の萌芽を創り出したという。 第5根幹人類となったアーリア人は、原セム人から生まれ、その思考力とそれにともなう一切の完全な仕上げを課題としているとされる。 第6亜人類のアッカード人は、それまで以上に、思考力を育成したという。原セム人とは、包括的な意味で、思考能力を使用した点で、異なるという。発達した思考力は、個人の利己的な要求を統御はしたが、この利己的な要求は思考力によって消されはせずに、残ったのである。 第5亜人類の原セム人は、先ず思考力の命じる通りに、自分の個人的な生活を律し、単なる欲望や快楽の代わりに、賢明さを生じさせ、賢い人物が指導者として求められ、思考を一番納得させてくれるものが最も重要視されるようになり、思考力を通して、革新と変化への要求が現れ、優れた策略を思いついた者は誰でもそれを実行に移そうとしたという。こうして、人々の間に不安と動揺が生じはじめたという。 そして、第6亜人類のアッカード人になると、それが一層発展し、行き過ぎたものになり、遂には自分の勝手な着想を、一般的な規則にしようという要求を、人々は抱くなるようになり、秩序を考え出さなければならなくなったという。こうして法律と規則がアッカード人の下に生み出されたという。 アッカード人は、功利的な思考力で、何でも新しいものを求め、冒険と新建設へと人々を駆り立て、移住を好む冒険好きな民族になったという。特に、貿易によって、芽生えたばかりの思考力、判断力が益々促進されたという。 第7亜人類の蒙古人も同様に思考力を育成させたが、第4亜人類の原トゥラニア人のような特徴が強く残っていたという。この亜人類については次回にまとめたい。
2006年02月12日
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今日の夢は、なんだか野球学校にいって卒業した夢のようだった。野球学校なんて、日本では存在しない(キューバーはあるみたい?)のに、そこが夢のいいところという感じだ。その野球学校を卒業し、卒業証を、なぜか大沢親分から貰うというものだった。あとは忘れてしまった。 昨今、また、皇位継承問題が、再燃しているが、とてもじゃないが、唯物論者じゃ解決できない問題である。古代の秘儀に通じていないと、皇室を理解することはできないだろう。全く、無知が無知を呼ぶ議論で、物質主義的感覚で、解釈し、あまりに乱暴である。 現代の唯物論的教育を受けて、それに準じた唯物的思考や、経済主義的生活を行ってきた、いわゆる現世感覚主義者に、実は、超感覚的世界があるのだといっても、理解不能で、敵対視されるのがオチなので、そういう愚を冒さないで、いかに納得させるのかが、現天皇制の存続に繋がることだろうが、これはかなり難儀な話である。 だから、無駄な努力ばかりで、無知が無知を呼ぶために、タブーとされてきたのだろう。なにしろ、現代では、神は愚か、あの世の存在を信じるものなど気が触れた連中で、頭がおかしいとされえないからであり、現代科学が全てを解明しええていると錯覚している人々が多いからであろう。 私も若いときはそのような人間で、一応、物理学を修めてきたが、科学では、説明方法をみつけているだけで、真実そのものを体現しているわけではないことに注意しなければならないだろう。 では、神秘学で解釈できる、天皇制を簡単に書く。 ある番組で、文化研究の唯物論者が天皇制の3つの主な歴史の流れを述べていた。 1.太古では、女神信仰であった。 2.中国から男性父系制度が移植された。 3.近代になってキリスト教的男女平等主義が移植された。 これらは、あまりに、表面的にみた流れにすぎない。時代背景、それも精神的なものが考慮されていないし、人間自身がいまのようであったとは限らない。人間は日々進化しているし、なかには堕落しているものもいる。神秘学では、おおまかにいえば、進化とは、精神進化のことをいっていて、それは、魂が、霊をうけるに足る霊的素質(精神)を身に着けているかどうかのことを指している。 なにより、進化とは、霊を受け入れやすい人体を、いかに構築するかであり、その精神的な模範が、日本では天皇家に求められてきたと思われる。では、なぜ、女系がダメなのかを簡単にいうと、深い神秘に通じないと理解できないことなのだが、男性は精神的な意志を引き継ぎ、女性は精神的な形態(イメージ)を引き継ぐものとされている。それは男女分離のときの役割分担から発生したことであるという。 人間は本来、太陽(あの世)の子であり、地球(この世)の子ではない。女性は、生物学的に、男性よりも強く出来ている、これは女性の方が、精神的にあの世にいて、この世のいわゆる物質的ものに興味がいかないし、例えば、現代では、機械的なものや道具に精通し難い性質があることに気がつくだろう。 なので、女性のときに、人体に現れない、本来の精神的な意志薄弱性が、その女性の子、とくに男性のときに、意志薄弱性が、表面に出て、いわゆる、血友病などの血液疾患に表れる可能性が高くなるのである。精神的模範の天皇の血に、そのような穢れた血が入ることは断じて避けなければならないものであり、だから女系はダメなのである。 それに天皇の系統は代々祭祀なのであるから、霊能力者であり、秘儀参入者でないといけない。その才能を継承のときに、本来は、伝授されないといけないのである。だから、益々、精神的意志薄弱だと、形式化してしまうのである。 そして、上記の3つの歴史的な流れの背後には以下のようなものをあげることができる。 1.太古の女神信仰は、遥か太古のレムリアの記憶から来ている。レムリアは、南アジアに存在したとされる。レムリア中期に、人間は両性具有から、男女分離に至った。そして男女分離にいたり、生理作業を分業体制にすることで、霊を魂に宿すことを可能にした。そして脳がつくられたとされる。 そのときに、自然(神々)から精神的な知恵を継承し、記憶にまで高めたのが、女性とされるのである。女性のなかで善悪を判断し、道徳は女性からはじまった。だから、レムリア期の文化の名残りを引き継ぐ民族には、女神信仰が、社会の記憶として残っているのである。それらが、巫女として残り、恐らく、卑弥呼というのは、巫女の代表のようなものだったのだろう。 2.中国から男系父系制度の移植というのは、まさしく、太古アトランティス文明の名残りであろう。中国というのは、アトランティス後期人の末裔であり、非常に悟性が発達したために、血統血縁主義で、執着心も強く唯物論的であるとされるので、霊的に進化をするのにはもはや、精神的に硬直化しすぎ、主知主義的なので、これ以上の進化は望めない民族であるとされる。 この男系父系制度は、アトランティスの国王もしくは指導者個人の記憶を伝承する制度の名残りであろう。詳しくはアトランティス人の神秘学的解釈のブログを読んでほしい。 恐らく、徐福という秦の始皇帝の軍師が、当時の日本にきて、その制度を伝承したものと思われる。 3.近代になって、キリスト教的男女平等(対等)主義が浸透してきたとされる。男女平等主義を唱える者に、その本来の意味を理解しているものは皆無であろう。これは自由を唱える者に、その本来の意味を理解しているものが皆無なのと同等であろう。 男女平等主義や自由主義というのは、男女の全てを知り、自由の全てを知ってからこそ、主張すべき事柄であり、それを知らずして唱えるのは、自らのエゴの価値観を、他に押し付けるだけのエゴイストにすぎないのである。 つまり、何者かの権威を振りかざす権威主義者であることにかわりはない。原爆を背景に恫喝している恫喝外交、覇権主義のものと変わりない。 キリストが、男女平等の前に、何といったかを知らねばならない。 「汝の隣人を愛し、敵を愛せ」と言ったのである。 男女平等というのは権利を主張するのではなく、愛し合う義務を果たせということなのである。つまり、逆なのである。男は女を愛し、女は男を愛せということなのである。 自分の欲望の為に、人を愛してはならないと言ったのである。 相手の為に、相手を愛せというのである。自己犠牲の愛を説いたのである。 元々、魂に男女の差別はない、この世に暮らすために、男女の形をとっている。それはつまり男として女を愛し、女として男を愛せということなのである。そこに個人としての個性の愛が表現されるのである。 これは男女共にお互いを愛し合いなさいということなのである。だから、一夫一妻性が、もっとも長く、相手を自己犠牲の元に、愛し合い続けるのに、よい制度であろうということがわかるだろう。 そして、神々は、人類の繁栄を願っているので、お互いが、子孫を殖やすための自己犠牲の愛の行為ならば祝福するのである。決して、性を下等にみるものではない。お互いに愛しあう、相手を尊重し、自己犠牲の愛に生きるならば、それに霊が受胎するのであるということを、言っているのである。 それはまた、自己犠牲という個人主義をも表現することなのである。個人主義も、唯物論で解釈されているので、逆にとられているが、本来は、血の血縁関係を、棄てて、自己犠牲の愛に生きろということなのである。血縁が問題なのではなく、それに囚われない精神を尊重しなさいという意味なのである。 だから、とにかく、血縁関係がどうであれ、隣人であれ、敵であれ、お互いに愛し合いなさいという無償の愛を説いているのであろう。 だから、天皇制に男女平等という概念を持ち出すのは、まるっきり精神軽視の話であろう。太平洋戦争敗戦で、日本には半ば強制的にキリスト教が外面的に移植されたが、霊的にみると、敗戦したのは、実は米国側なのである。表面上、物質的に米国は潤ったが、それゆえに、精神的に堕落し、享楽、快楽主義に陥ったといわざるをえない。 当時の日本人には自己犠牲の精神が多くみられたが、それは前世で、多くが、キリスト教の感化を受けて、その為に死んでいった人生をおくった南ヨーロッパの魂が多く、転生していたというのである。何より、精神的な愛が多かったのは日本人の方である。これは指導者層をいっているのではなく、民間人のことをいっている。生き難しい社会のいわゆる下層階級の人々には、魂が、精神的に高度に進化しているものが多いという。 つまり、太平洋戦争は、同時に、米国にキリスト教を根付かせる役割を果たしたといえるのである。実際は、日本人は、当時より精神的にキリスト者だったので、戦争に負けたといえるだろう。 表面的なものよりも内面的なものが大切なのである。キリスト教を掲げるよりも、実践したものが真のキリスト者であるといわねばならない。 霊的に言えば、長く生きるよりも、より愛に目覚めて生きたかが問題なのである。人生の体験が、いかに愛の質に変わったかの問題なのである。 負けるが勝ちである。米国は日本の自己犠牲の精神に、真のキリスト者をみたに違いないのである。だから天皇制を存続させたのであろう。 いわば、天皇制は文化の教科書でもある。 私の説明じゃ物足りないだろうから、深く勉強するには、密教を知らないといけない。日本では、仏教の真言宗だし、西洋ではキリスト教神秘学である。インドのヴェーダ経典にもあるし、ギリシャ哲学でもとくに古代のものがいいだろう。神道は多くは形骸化しているものと思われる。とにかく、文献を読んで、繰り返し再考することから始まるようである。そのうちに、秘儀参入法といわれる現代版の道徳的実践法を学んでいくだろう。まずは、そのようなイメージ思考を身に着け、自分の行為がいかに未来に反映し、そこから自己反省を行うことからはじまるみたいだ! とにかく、教科書に載っていないものを、自ら思考することで、身に着けることが基本であろう。それこそ、自らに由る自由な思考なのである。
2006年02月12日
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今日の夢は、競馬の夢だった。とくに印象深いのは、中央地方混合の障害レースがあったことである。日本では、中央競馬と、地方競馬に分かれているのだが、平地レースは、近年になって、混合レースがやられることになった。しかし、障害レースは地方にないし、中央でもそんなに人気があるとはいえず、まぁ、平地の未勝利馬を、救うためにあるような感じでもある。 しかし、欧州では、障害レースの方が人気がある。英国のグランドナショナルだったかは、20何頭出走するうちに、完走が、若干数というのが、普通で、その厳しさが、人気のようである。 もともと、競馬は、障害からはじまったようである。貴族の馬術から、遊びで、目標を決め、そこまで、山超え谷超えて、いかに速く到達するかというのが、競馬になったというのを何処かで聞いた覚えがある。 競馬も欧州と日本では、馬場が異なる。欧州は、整地されていない、自然の形のところが競馬場になったという感じで、観戦し難いらしい。日本の場合は、整地が行き届いていて、円形トラック状になっている。砂や芝生に関しても、つくっているので、開催が進むと荒れてきて、人気馬が勝てず、馬券に穴を多発させることになる。 総じて、欧州の馬の方が頑丈のようである。それはやはり、自然のレースコースを走らせているからなのではないか?と思う。牧場巡りをしたとき、夜間放牧をやらせると、馬は格段と丈夫になると聞いたことがある。馬にとっても走ることは重労働なのだが、やはり自然を走らせるのと、人工的なコースを走らせるのとでは、何かが違ってくるように思われる。 恐らく、馬は自然の何かを敏感に感じて走っているような気がする。 これは欧州の調教法からもいえることで、欧州はとにかく、なんでも自然のなかで、馬を調教するのである。馬の調教法にしても、科学ではわからないことが沢山あるのだ! この間、クループ症候群というなんだか、食べ物みたいな病気を知ったが、これは喉が腫れ、気管が狭窄する病気らしい。そのために声がシワガレルらしいのだが、この病気は、馬でいう咽喉鳴りとよくいわれる馬の病気にそっくりのものであるようだ。馬の場合は、いろいろな状況で発症するらしいが、とくにストレスが大きいようだ。医学ではウイルスしか原因が掴めないので、ウイルスや細菌、あるいは遺伝性が原因とされている。 いままで、なんでもなかった馬が、急に咽喉鳴りになることがよくある。その多くが環境の変化が誘引のようである。馬はやはり自然の動物なので、家畜とは異なり、環境の変化に非常に敏感のようである。 これは恐らく、自然のなんらかの変化を敏感に感じているのではないかと思ってるのである。 人間社会も、便利で快適な人工物質に囲まれる都市生活になってきたが、それとともに、アレルギーのようなストレス性の病気が多発してくるのも、自然のなかにまだまだわからないものが潜んでいることがわかるだろう。 整えられた平地よりも、自然の起伏に富んだ障害があるコースの方が、身体を丈夫にすることは確かのようであろう。
2006年02月11日
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今日の夢は、サッカー日本代表の代わりに、シュート練習をしたものだった。なんでも、いまサッカー日本代表は、米国遠征している最中らしいのだが、シュート練習で一本も入らなかったらしい。あまりの不甲斐なさに、日本代表に代わって、自分がシュート練習している夢をみてしまったというとこだ! その夢では、約30mのところから、私が蹴ると3本目で、入ったのだった。なんだ、コツを掴めば簡単じゃんと優越感に浸ってるうちに、目が覚めた。サッカーの夢はよくみる。この間は、なぜかブラジル代表でプレーしている夢をみた。まぁ、夢だから、なんでもありというとこだろう。 それにしても、今年の日本代表はあまし期待できない。ジーコになってから、一番調子がよかったと思うのは、一昨年あたりの、ヨーロッパ遠征で、久保と玉田のツートップのときだったように思える。あのときは、とにかく久保の動きがよかった。あと玉田のスピードもあった。 とにかく、サッカーは強力なフォワードがいないとダメ! 過去のワールドカップでも、フォワードにスーパースターがいるチーム、もしくは点も取れるゲームメーカーがいるチームが、決勝にいっているのだ。ブラジルのロナウド、ロマーリオ、西ドイツのクリンスマン、フェラー、マテウス、アルゼンチンのマラドーナ、フランスのジダン、イタリアのロッシと。 それに比べ、ゲームメークがよくても、点のとれないフォワードがいるチームは決勝さえいけない。82年の黄金の中盤のブラジルが最もいい例で、プラティニのフランスもそうだった。とにかく、点をとれるフォワードがいないと、決勝進出はどうも無理っぽいぞ! 日本の場合、フォワードに関しては、三流の域を出ないだろう。ゲームメークにしても、一流半がいいとこだろう。中村の躍進がカギだが、中村はどちらかというと、自ら点を取るタイプではないし、マークされたら、不発に終わるケースが多い。 Jリーグをみても、外人選手ばかりがいまだに得点王になっているが、それも、1流の選手とはいえない。これはもう、帰化しかないだろう。しかし、今年はどうみても、間に合わないので、いいとこ、予選グループで、2勝できるかというとこだろう。 それでも、私なら、久保と松井をフォワードにする。松井はかなり可能性が高い。あとは次のワールドカップを睨んで平山あたりか?フォワードというのは、絶好調の期間が短い。ましてや、ゲームメークが他より劣る日本は、フォワードの負担がかなり大きいので、その都度、選手を入れ替えて目先を変えたほうがよいだろう。 ゲームメークでも、点を取れそうな選手は少ない。中村は確かに一番の可能性の高い選手だが、あと一歩という感じ。中田はもう歳で、体力的に辛いと思われる。小野もテクニックはあるのだが、どうもフォワードという点をとる強引さに欠けるし、ゴール前の人を騙すようなテクニックはあまりない。綺麗すぎる感じだろう。 どうも、あと2人は強力な点取り屋が必要だろう。いまのレベルではいずれにせよ、決勝トーナメントに行けるか行けないかあたりなので、とにかく明日の米国戦をみてみたい。
2006年02月10日
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前回は、アトランティス人の亜人類のルモアハルス人について、特徴をまとめた。今回は、トラヴァトリ人について、神秘学より、簡単に書きたい。 トラヴァトリ人になると、個人の価値を認めるようになったという。名誉欲が出てきたという。共通の思い出が、共同生活の支えとなり、自分の業績が、人々の記憶の中に生き続けることを望むようになったという。 そして、人間集団が、業績の共同の記憶に基づいて、特定の人物を指導者として、迎えたという。王者たるにふさわしい評価は、死後に至るまでも保持され、死者への追憶が、共同で体験され、宗教的な敬慕、祖先崇拝が、各種族の内部に生じたという。 ルモアハルス人の場合は、過去の業績は忘れられ、その都度ごとに、実績を示さねば、認められなかったが、トラヴァトリ人の場合は、過去の業績、経歴も、評価されるようになったという。 そうして、記憶力はどんどん強化促進されていったという。レムリア人の場合、記憶力は皆無であったのが、ルモアハルス人が、記憶から、言葉、言語をつくり、このように、トラヴァトリ人が、共同の記憶から、王者を選び出し、祖先崇拝の宗教化をはかることで、記憶力が促進され強化され、共同社会を結束させていったという。 この種の社会的共同生活は、アトランティス人第3亜人類のトルテケン人により、完成されたという。トルテケン人によって、血のつながりが濃くなり、国家という共同社会が、誕生したという。そして、この共同社会の支配、統治は、代々親から子へと世襲制により受け継がれたという。 世襲と同時に、業績等の共同の記憶も伝承というかたちで受け継がれたという。同族の人間はけっして祖先の功績を忘れてはならなかった。祖先の功績は子々孫々の代まで語り継がれたという。 この点で重要なのは、実際に親の天分を、子孫に伝授できたということであるという。父の能力がそのまま子に伝わったという。その教育の仕方は、理解力を促すというよりは、本能的な天分を高めるというやり方だったという。このような事情で、個人的な経験が、トルテケン人には、益々重要になったという。 このような個人的な経験は、当時の霊的進化の法則を、神々との交信から得ていた秘儀参入者からも支持され、しばしば共同社会の支配者である国王や指導者にも、秘儀が、修行の元に、伝授されたという。 しかし、この秘儀伝授が、かえって堕落と衰退の原因をつくったという。 記憶力の発達は、個人の強大な権力を可能にし、その権力を、利用して、勢力をふるおうとしたからである。 そして、権力が大きくなればなるほど、その権力を自分個人の利益のために利用しようとするものが現れ、名誉欲がむき出しの利己心に変わり、権力の濫用がはじまったという。 その恐ろしい自然破壊力は、次の第4亜人類の原トゥラニア人に現れたという。この原トゥラニア人は、生命力の支配に熟達すると、自分たちの利己的欲望や願望を満足させるために、この力を勝手きままに濫用し、その結果この力の働きが相互に相手を妨害し、破壊するようになったという。 このような破壊的な作用を防ぐために、人間の魂のより高次の力を育成することが要請され、思考力が生まれたという。 論理的な思考が、利己的な願望を押える働きをするのであるという。 そのような論理的思考は、次の亜人類の原セム人からはじまったという。 原セム人からの話は、また次回に譲る。
2006年02月09日
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今日の夢は忘れてしまった。昨日の寝る前は、例の如く、オーラの泉をみた。三谷幸喜だったが、結構、旬で期待したとおり、面白かった!喜劇って大変だと思う。お笑いって、飽きられやすいとこがあるからね。大衆っていうのは、結構シビアだから、かってのギャグなんか、いまはまるで笑えないとこがある。とにかく喜劇作家は、がんばって欲しいぞ! そのことはともかく、最近はどうも、笑えないというか、人間とは思えないえげつない事件が多いように思う。とにかく世も末な事件が目白押しである。 仏像を盗んだり、イスラムの預言者ムハンマドをパロったり、相も変わらず帝国主義の米国は、牛肉輸出に嘘八百で、一体、神様に対してどう思ってるのか?聞いてみたいところだ! 仏像を盗むなんて、昔の人は、祟りが怖くて、絶対できなかったことだろう。全くの罰当たりモンである。 あまりに科学が進みすぎて、人間としての自覚に乏しい為であろう。科学でわかっていることなど、氷山の一角であることを自覚すべきなのである。 私は基本的に無宗教の姿勢をとっている。なぜなら、似非が多いからである。だからといって、歴史ある三大宗教や神道を冒涜することは、決して赦されることではない。人間として、人間を超えた存在を敬うその行為が尊いものであると認識するからである。 第一、自分が行った行為が、100%後世にどのような影響を及ぼすかを、認識できない限りは、謙虚な態度こそが、根底に必要であらねばならないだろう。 自由、自由と振りかざすのは、ウソや虚偽、自らの欲望や、エゴや自分たちの利益を満たす為ではない。 仏像を盗むもの。預言者を愚弄するもの。キリスト教国でありながら、自国の利益に邁進するもの。 これらは皆、自ら驕り高ぶる愚か者であるといわざるをえないだろう。 自らの精神に問うべきだ! 自分が何をしているのか? 自らの神に対して不浄の行為ではないのか? 何より冷静さが要請されるだろう。 もし、神様がその行為をみていたとするなら、なんと申し開きするのだろう? 仏像を盗むもの。預言者を愚弄するもの。自国の利益のみを主張するもの。 に聞きたい。 お釈迦さまになんというのか? 預言者は神の使いであり、ムハンマドも、イエスも同じ神の使いなのに、イエスは、嘆き悲しみ、こういうであろう。「ムハンマドは私であり、神が使わした使者であり、キリストを神の子とするなら、ムハンマドも神の子なのであると、そのような神の子に泥を塗ることは、私も悲しむところである」と。 そして、米国のようなキリスト信者の国が、自国だけの利益に邁進し、隣人を愛し、敵を愛する精神に乏しいことをお嘆きになるだろう。 何のための信仰なのか? 自分の欲望を満たすための信仰ならば、やめるべきである。それこそ、悪魔の信仰に他ならないからである。 世界はいま、悪魔の掌中にあるといわざるをえない出来事ばかりである。
2006年02月09日
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前回は、アトランティス人が抜群の記憶力の持ち主で、その記憶力を駆使して、生命体を創造していたことを書いた。生命体とは、エーテル体のことである。つまり、「いのち」であり、気である。 気孔術、易経等のエーテル体操作術が、太古の中国に普及していたのは、実は中国人は、アトランティス人の後期の人種の末裔なのだという。 官僚システムも、中国の科挙制度からきているが、官僚の先例主義といい、中国の停滞的で安定を好む社会風土は、アトランティス人の気質からきていると容易に推測できるだろう。 アトランティス人の記憶力の源は、イメージ、想像力だったという。この記憶力は、いまで例えると、記憶そのものというよりも、動物の本能的な行動に近いものだという。それ故に、現代の記憶とは異なり、自然のなかのイメージそのものをその力とともに記録したようなものといえるという。 アトランティス人が、いわば、このような本能的ともいえる、記憶力を駆使できたのも、当時の地球の状態が、現代とはまるで異なり、空気は水蒸気に富み、いわば、水のなかで暮らすのと酷似していたからに他ならないという。 アトランティス人は、種子の発芽力という生命力を利用して、ホーバクラフトから飛行船のような乗り物を、つくって移動したという。 アトランティス人の住居は、樹木が組み合わされたもので、まるで人工的にはみえないという。それは、アトランティス人が、自然にある生命力を利用して構築したものなので、自然がつくったものと変わりがないようにみえるのだという。 自然は全ての共有物であるように、アトランティス人がつくったものも、共有物とされ、一切の所有概念はなかったという。 アトランティス人は、その前のレムリア人の生き残った小部分だけが、進化して起こったという。レムリア人は、地上からは消えてしまった土地、いまでいうアジアの南方に住んでいたとされる。レムリア人の多くが発育不全に陥り、いわゆる、いまの未開民族の中に、その後裔がいるという。 神秘学では、人類の進化を担った人類を、根幹諸人類という。レムリア人、アトランティス人、そしてアトランティス人の大半が堕落し、その中の小部分の人々のなかから、アーリア人が起こったが、そのアーリア人を、根幹諸人類と呼んでいる。 アトランティス人は、記憶力を発達させたが、アーリア人は思考力とそれに関係する諸力を発展させつつある。 また、根幹諸人類には、7つの亜人類がいるとされる。 アトランティス人の最初の亜人類は、ルモアハルス人と呼ばれ、レムリア人がまるで、記憶力がなかった本能的存在だったのに、記憶力を有するはじめの人類としたという。 言語の発達も、この記憶力から生まれたという。アトランティス初期に、言語は記憶力から形成されたという。ルモアハルス人の発する言葉は、自然の発する音と同じで、自然に対して、言葉が同じ作用を起こしたという。 ルモアハルス人の言葉には意味と力が備わっていたという。 いわゆるいまでいう呪文や言霊が、ルモアハルス人の実際の現実的な言葉を発する行為にみられたという。言葉には自然を操作する力があった。しかし、この力は、アトランティス後期へと、堕落するに従い、失われていったという。 またまた、長くなるので、次回に譲る。次回は、第2亜人類のトラヴァトリ人について、書くことからはじめたい。
2006年02月08日
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今日の夢は、昔の実家に泥棒が入った出来事のものだった。詳しくは忘れてしまったが、親が泥棒と格闘しているところで、目が覚めた。うぅ、なんか嫌な予感…。親が以前、家を建て替えたときに、泥棒に入られ、数百万盗られたことがあった。その泥棒は警察に捕まったらしいが、勿論、びた一文もお金は返ってこなかった。 それ以来、厳重な戸締りをしているので、大丈夫だと思うが、不安な夢であるし、正夢にならないことを願う次第である。なにしろ、昨今は治安がかなり悪化しているので、なんとかモラルを回復させてほしいもんである。なにしろ、政治家自体があのような嘘吐き恥さらし何でもアリの今の世だから、当然と言えば当然なんだろう。 あのような政治家たちを選んだ国民の責任で、治安が悪くなるのだろうしね。孔子もいったように、悪政は、虎よりも怖いというのは、現代を見れば明らかだろうさ。なにしろ、人間が虎化、獣化しているわけだから。獣ならば、外見でわかるが、人間だから始末に負えないだろう。 とにかく、昨今の政治家は、国民を馬鹿にし過ぎている。国民は馬鹿だ!とはっきりと言ったホリエモンは、検察は馬鹿にできないだろう。しかし、私は、そのような政治家に以下のようにいいたい。 百歩譲って、国民を馬鹿にするのはいいけれど、神様や天を馬鹿にすることはできないよ! 国民を馬鹿にしたツケは、神様や天が赦しては置かないぞ! いずれ、蒔いた種は刈り取らされる運命にあるのだよ! と、それこそが、救いなのである。他人を愚弄する者でも、宇宙からは阻害されることはない。そこにはただ改心あるのみなのである。改心させるには、宇宙から救いの大きな鉄槌が振り下ろされるだろう。 国民を愚弄する政治家にいい気になって、おべんちゃらや掛け声をかけるような野次馬マスコミも、その報いを受けるだろう。 ホリエモンの一件をみても、それが氷山の一角であることは明らかだろうし、それを反省をもしないこの国の政治家たち。一体そこに、社会的進歩が見られるのだろうか? 社会進歩はモラルの形成にあるのであろう。 それにもかかわらず、現代の似非策士たちは以下のように論評するという。「ほとんどの企業は、真面目にルールを遵守してビジネスをやっている。このようなことに過剰反応して、改革を止めてはならない。」「法律を破ったという一点で、彼は責められるべきであり、道学者的な倫理観で裁くのは危険である。」「社会主義に戻ってはならない。」 これでは、なんのための改革なのか、本末転倒だろう? 国民を馬鹿にしすぎて、自分の頭がおかしくなってしまったようだ! これは要するにイケイケドンドンの単調な特攻精神そのものである。特攻精神には、まだ、守るべき生命があったが、これでは単なる犬死以下であろう。 それよりなにより、社会主義の意味がわかっていない。社会主義を護送船団方式と捉え、官僚の汚職とといている単純単調な論理進行というより信仰である。 馬鹿をいうなといいたい。米国のニューディール政策が社会主義政策の典型であり、米国の社会モラル性、健全性は、全て社会主義政策にあるのだということを、少し勉強すればわかることである。けっして米国はこれを社会主義とはいわないだろうが、概念、理念を分類すれば、社会主義政策である。なにより、それに関わった連中たちが社会主義だといっている。 なにより米国人は、社会主義と共産主義の差異さえも認知できない知性なのである。だから、左でなければ右だという感覚で、自由主義を唱えるが、真の自由主義であるなら、他国に干渉するのは全くの矛盾したものであろう。これを帝国主義といわなくしてなんというのだろうか? 自由帝国主義とでもいうのだろうか? 中身がなければなんとでもいえるだろう。要するに、エゴイストであり、自分御都合主義なのである。米国は米国御都合主義なのであり、国内では依然として、社会権力至上主義であることにかわりはない。 米国が自由を唱えるとき、必ずその犠牲者が現れる。 真に自由であるためには、他者の自由を奪わない程度に、自由に理性を求め、社会的義務を果たし、社会的理念や通念を、モラルで彩らないといけないのである。 つまり、モラルなくして、自由はありえないのである。 人類の太古の歴史をみれば、モラルが女性から生まれ、女性は自然のなかに潜むイメージから、思慮深い生活を形成し、記憶をなして、道徳を生み出したのである。女性はその自然のなかに潜む道徳を身につけ、そこから善悪を判断した。そして共同生活を営み、社会をつくったのである。 いまでも女性が社交的なのはその名残りであろう。 だから、女性がモラルでよく教育されている社会は、安定的な社会なのである。日本では江戸期であり、まさしく太平の世だった。 江戸期などは、まさしく社会主義とでもいうべき、社会体系だっただろう。だから、社会主義というのは、本来、母性に近いものなのであり、自然の営みに近いものであるはずなのである。 男性は自由を好み、自然を支配しようとする傾向にあったが、このような太古の野蛮的な男性的性格は、女性により教育されていったという。 かって大和の国にも卑弥呼という女性がいた。日本の歴史はそれを物語っている。 いい加減、無知蒙昧で、無駄で敵対的闘争的な議論はやめてもらいたいように思える。なにしろ、神様が全て見ておられるのであるのだから。恥ずかしいことこの上ない。 昨今の皇室継承問題などの喧々諤々は、ついにここまで空論が達したかという感じで、いかに辛抱強い天照大神でも、愛想が尽きてしまうだろうよ。 一体、何の為の天皇なのだ? 権力闘争の道具なのか? わが身の可愛さに天皇まで持ち出す始末、エゴイストここに極まれり。いい加減にして、目を覚ましてほしい。人口減の国にこのような論争。真事にお粗末としかいいようがない。
2006年02月08日
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前回まで、神秘学で、人生を若い頃から振り返り、7歳から14歳までの、前世からのエッセンスから、エーテル体の形成についてまとめたが、次の14歳から21歳までの、アストラル体の形成を、まとめる前に、コーヒーブレイクとして、アトランティス人について、書きたい。 神秘学では、唯物論では捉えることのできない。いわば、精神世界の記録書ともいうべきものがある。現在の歴史書は、ほとんど全てが、物的証拠や記録によっていて、唯物論で構成されているので、それはいわば、時間的な賞味期限が存在するといえるだろう。 神秘学では、唯物論で捉えた歴史は、時間に依存するものであり、時間自体を超えることができないので、どんなに物的に証明されようとも、誤謬を免れない代物だという。 それに対して、精神世界は、時間を超えて、永遠のものであるので、魂自体がそれを示しているので、一見して、全く異なるようにみえることでも、真実において一致をするものとなるという。 なにより、真実はどこからみても一つなのであり、物的証拠では、時間に依存する時点で、変化を遂げ、一つのものとはならないからである。歴史は、絶えず変化しているという時点で、真実はそこにはないのである。 前置きはここまでにして、アトランティス人について簡単に書いていくことにする。 神秘学によると、アトランティス期というのは、我々の第5文化期のポストアトランティス期の前期にあたるといわれる。我々の文化期は、古インド文化期から、古ペルシャ文化期、カルディア-エジプト文化期、ギリシャ-ラテン文化期ときて、我々の第5文化期で、人間は最も物欲に目覚め、進化的に最低状態に陥るといわれている。進化は、絶え間ない魂の浄化、いわゆる精神の向上を目的としているので、我々の時代は、まさに、奈落の底に落ちた堕落の段階といえる。 人類は、ここから浮上するのだといわれる。だだし、1部の精神的に目覚めた人々のみだとされる。 そのことはどうあれ、アトランティス期というのは、我々のポストアトランティス期の前であり、遥か太古のレムリア期の次にあたる。 アトランティス大陸は、その伝承のように、アメリカとヨーロッパの間の大西洋にあったという。プラトンは、この大陸の最後に残ったポセイドンの島のことについて語っているという。 アトランティス人の特徴を一言でいうならば、抜群の記憶力の持ち主であるという。我々は、論理を用い、自然のなかから類似の関係をみつけ、法則として体系づけるが、アトランティス人は、全く論理には欠け、その代わり記憶力に優れていたという。 アトランティス人は、記憶力に優れていたので、現象が起こると、過去の記憶を辿り、なるべくそれに近い事例から、物事を判断したという。いまでいう官僚の先例主義のようなものである。このために、アトランティス時代は、同一文化で、約百万年も続いたという。その反面、社会は何分、先例主義なので、停滞気味で、いまのように変化力や、活性力に乏しかったという。 逆にいえば、現代のように論理主義で、些細で細かい点までに、記憶を行き届かせないために、大まかな部分だけで妥協し、同調し、法則を成り立たせて、一つの特異的な実験という時間的に依存した観測立場から、体系化できるので、物体のような粗い対象を、創作するのに都合がよい唯物思考が発達したといえる。時間に依存するものは、時間により破壊される宿命にあるだろう。 そのために、社会はめまぐるしく変化して、戦争のような生命の物質的やり取りも行われるようになった。現代は、アクティブでアグレッシブな時代だといえるのだろう。 このような、現代の悟性による、唯物的な法則体系化は、物質世界で創造を行うのに都合がよい思考なのである。 対して、生物や生命体を扱うのには、このような唯物的な法則は、あまりりというよりもほとんど役に立たない。なぜならば、生物や生命体は、一つ一つが全て異なる状況に、かつ複雑な関係に、置かれており、同一視できないからなのである。 大体、生物自体が、常に変化を続けており、物質のような固定されたものではないといえる。 なんらかの法則性や規則性をみつけられるほど、生命体は粗くはないといえるのであろう。個々別々にみていかないといけない。 そのためには、抜群の記憶力を要求されるという。なによりも法則性や規則性が、物質を創造的に扱うことに要請されるように、類似の体験の抜群の記憶力が、生命体を創造的に扱うことに要請されるのだろう。 アトランティス人は、現代人とは異なり、この抜群の記憶力をもっていたので、生命体を、創造できたという。主に、植物の生命力を用いて、現代人が物質生成を行うが如く、生命生成を行っていたという。 長くなったので次回に譲る。
2006年02月07日
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今日の夢は、昔の家にいて、外の景色をみているものだった。子供の頃の景色だったような気がする。どうも、昭和40~50年代の景色が、懐かしく思えることがよくある。周囲は、畑が多かったし、どことなく、田舎という雰囲気がまだ残っていた。 田舎が妙に懐かしい。 確かに、いまは何もかも綺麗で整頓されているが、なんか味気ない気がする。人も以前に比べて、かなり多くなっているが、店じまいしてしまった店舗も多い。 昔と比べると、ウルトラセブンのある話を思い出す。それは、全く同じ土地であるのに、何処となく住んでいる人が冷たいのである。何星人の策略だったかは、忘れたが、同じ街をつくり、そこに、主人公を巻き込むというような話だったように思われる。 ウルトラマンは子供のときによくみた。ウルトラマンが、怪獣と戦うワンパターンなつくりに比べて、ウルトラセブンはどことなくミステリー調で、不思議な世界を描いていたような気がして、話としては、セブンの方が、好きだった。子供のときは、セブンの話の方が怪しげで怖かったが、いま思えば、その怪しげさが懐かしさを思わせるのである。 昔の日本の風景はどことなく、怪しげで、いかにも妖怪がでてきそうなところがあったが、いまはほとんど皆無といってよいだろう。今の方が、安全な雰囲気なのに、犯罪が多いというのは、矛盾している気がする。 思うに昔の人に比べて、明らかに欲深くなっているような気がする。 人間が明らかに傲慢になっている気がする。 個人主義とはいうが、エゴイストになってはならないとつくづく思う今日この頃である。 現代人は、何か物的証拠を捉えて、人を非難するのが得意になった気もする。自分を偉く見せるために、他者を蹴落としているような感じだ! そして、常に、アピールしていないと、不安である器の小さい人が増えているような気がしてならない。 昔の人は、人がみていようとみていずとも、必ず、神様はみているので、悪いことはできないし、よいことは、よいこととして、他者に関係なく自主的に行っていたような気がするのだ! そのような精神が確実に失われていっている。 懐古主義ではないが、環境があまりに合理的になりすぎたために、人間の器が小さくなっていくようで、何か、環境という人工マシンの一部に、嵌まって行くような、マシン蟻地獄に堕ちていっているような気がする。 確かに、他をバッシングして、責任を覆いかぶせるのは容易であり、自らの欠点や、失敗を反省することは、困難なことであろう。 どんな事象も、独力で成立することはありえない。 世の中、白と黒とはっきりしていることなど何一つない。 格差は若者だけに広がっている現象であると、開き直るマスコミには、いい加減にしてくれと思う。 若者の間に格差が広がることがどれ位深刻化していることかを、そこには反省する気などない論調である。 日本の将来や明日を担う若者に、格差が広がっていくことこそ、残された人生があとわずかな老齢者よりも、問題といえるのではないだろうか? そこにはあきらかに差別の萌芽が予測しえるからである。 偏差値教育が、主知主義を生み、頭でっかちで、精神を学ぼうとしない金稼ぎや出世しか頭のない官僚や、ホリエモンのような狡猾な犯罪者を生んだといえなくはないのか? 現代人は、合理的な都市のメカニズムの1部となってしまうのだろうか?
2006年02月07日
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神秘学では、正しい養分は、食事に対する喜びを子供に与え、役立ち、誤った養分は、子供を病気にするという。 生まれてから7歳までは、物質的原則が作用するので、種族に属するものが特に現れるという。 栄養については、母乳と子供の間に、内的な関係があり、幼児期には、精神的な関係が存在し、母乳のなかには、物質的-化学的なもののみでなく、精神的に親和するものがあるという。 神秘学では、母乳を、母親のエーテル体から生まれたものとしている。 母親に育てられた子の方が、死亡率が少ないのは、このおかげであるという。 幼児期には、物質原則が作用するので、一種の性格が、種族に属したものとして形成され、その性格を通して、一つの家系に属し、家族の特徴が、子供の顔に刻印されるという。 7歳から14歳 この年齢の子供は、美と賢明さの教えの化身たる人物を必要とし、「手本に向けての努力」と、「権威」で、説明されるという。 両親の真似から、未知のものの模倣へと移りゆく時期なので、視野は、家族を越えていき、なにより、エーテル体が、種族を越えて広がるためには、子供の近くに、適切な人々がいるようにしなくてはダメだという。 道徳を説教するよりも、その模範をみせ、自然なかたちで模範に従うように、例えば、歴史の授業では、英知と強い性格の化身のような人物を、イメージ豊かに子供の眼前に示す必要があるという。 子供が、前世から持ち込んだエーテル体のエッセンスを、発展できるような人物が必要だという。教師は、一人一人、前世からもってきたものに、目を向けないといけないという。 良心、道徳、行動力などのあらゆるエーテル体の特性を獲得するために、身体器官を成長させることが肝要だという。 人間は、自分のエーテル体を自由に発展できるときにのみ、しっかりした性格をもつことができるという。 なにより、「ぼくは大きくなる」「わたしは成長する」という感情から、単に身体的な感覚ではなく、内的な感情になることが必要だという。 自然に対する純粋に精神的な喜びに関連するイメージを、内面に刻印しなければならないという。
2006年02月06日
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今日の夢は、やはり忘れてしまった! で、例のごとく寝る前のことを書くことにする。昨日は、「うるるん体験記」をみたのだが、インドネシアのアスマット族に、ホームステイする話だった。 まさに秘境の地という感じで、自然のなかで、太古と変わらない生活をしていた。アスマット族は、喜びを表現するときは、女性が、男性を棒かなんかで叩く習慣があるという。 その習慣が何処から来ているのか、想像もつかないが、あえて考えてみると、日本のプロ野球で、ホームランを打ったときの、ダイヤモンド一周して、回って帰ってきたときの、打った選手を叩くような、祝福に似てるともいえる。大リーグでは、ハイタッチの感覚に近いものかもしれん? しかし、これは、男同士の祝福なので、女が男を叩くときといったら、会話で、思わず急所をつかれて、恥ずかしいときとか、綾小路きみまろのネタのように、オババが、「あら~」といって叩くことぐらいしか思い浮かばない。しかし、オババは、よく、驚いたときに、「あら~」を連発すると、いっていたが、オババは、イスラム教なのではと思うぞ(あらーの神)! アスマット族は、悲しいときは、泥の中に入り、のたうちまわるという。泥の中に癒しがあるのだとう。泥のなかではないが、水のなかでなら、神秘学では説明がつく。ヨハネが、ヨルダン川で、洗礼をしたように、かって、太古の人間は、アトランティス時代に、湿気の多い空気、いわば水のなかで暮らしていたからである。 水の中に、神々の叡智、いまでいう精神的なものを認識したのである。これはインド人がガンジス川に浸かるのにもいえるだろう。 人間が、水を神聖なものとするのには、過去に水を通して、神々とつながっていた記憶が残っているからだという。 アスマット族の平和な暮らしぶりをみると、都会のような物質文明に暮らしている我々が、本当に進んでいるのかどうか?、懐疑的にならざるをえないだろう。
2006年02月06日
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神秘学では、自己のなかにある高次の自我が、人生を苦へと導くという。それは、苦こそが、神々の叡智へと、自己を導くからであるという。苦とは、不完全な自我を有する故の、必然であり、苦を克服することで、前世からのカルマが部分的に解消され、より完全な自我へと近づくからである。 これとは逆に、人生の喜びは、高次の自我の導きではないという。人生のなかの喜びは、神様の贈り物であり、人間は、人生に喜びがあることを、神々へ感謝しなければならないという。 「苦あれば楽あり」というが、高次の自我が、前世のカルマから、自己のやり残した課題をみつけ、人生のなかに苦をもたらし、苦を自ら体験努力し、その不足分を補い克服し、それによって、新しい叡智を身につけ、一段と、完全な自我に近づき、成長した自分を認識し、新しい神々の叡智を得、以前の未熟な自我と照らし合わせ、そこに喜びのような楽を感じ、神々に感謝するというようなことになる。 人間は苦難のなかに、神々の存在(叡智)を見い出す。 では、人生を幼年期から、神秘学で考えてみる。 幼年期 人間の誕生である肉体の誕生に際し、それまで母胎のなかにあった肉体が、生まれ出る。誕生するまで、胎内で保護されていたことによって、あらゆる器官が発達し、誕生するとき、母親の肉体的な覆いを突き離して、自分の肉体が初めて物質的な元素の作用にさらされる。 肉体の誕生後、エーテル体や、アストラル体は、まだ生まれていないという。それらはまだ、覆いとして、殻のように、幼児を包んでいるという。 エーテル的な覆いは7歳までの永久歯が生えるときまで人間を包んでいるという。エーテル体は、このときの7歳で生まれるという。アストラル体は、これよりのちの、性的に成熟する年齢で、はじめて生まれ、完全に外界にさらされるという。 最初の7年間は、前回述べた、前世で死んだときにもちこされた、肉体のエッセンスのみが自由に作用し、そのエッセンスが、肉体に物質的な形態を与え、物質的構造を導き入れるという。 身体器官は外界で成長するので、肉体の構造を最良の方法で発展させるものすべてを、幼児の周囲にもたらさないといけないという。 そのためには、出来上がった玩具などを与えるのではなく、子供が自ら活動的にファンタジーで、つくりだすようなものを与えるようにするとよいという、例えば、完成された人形ではなく、ナプキンを結んで、インクの染みで目と耳を作って、玩具として与えるのがよいという。 子供は、周囲にあるものを「模倣」し、その模倣が、内臓器官に形態を与える働きをするという。7歳で、脳は不完全とはいえ、ある方向性を受け取っているので、「模範」が必要だという。 子供を内的に活動させ、喜びと楽しみをもたらすものが周囲にあることが、大変重要だという。喜びと楽しみの模範が必要なのだろう。 幼児期が喜びに満ちていると、子供は健やかに育つという。
2006年02月05日
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今日の夢は、割とはっきりと覚えていた。そして、2本立てだった。1本目は、サッカー日本代表の補欠に選出され、練習をしている夢で、ケガ人が多く出て、テストマッチを、アルゼンチン代表と対戦する予定になり、出場予定の夢だったが、前日の練習をやって、バスで、試合会場に向かって、競技場について、ウォームアップをするところで、その夢は終わった。 2本目は、北方領土を、ジャーナリストとともに、舟かなんかで巡るもので、北方領土返還と叫び声をあげながら、デモっていると、ロシアの最新鋭の戦艦が出てきて、追いかけられるという夢だった。北方領土問題など、あまり考えたことがなかったので、なぜに、北方領土なんだ?と不思議満載の夢だったぞ。 どうも、前日に、釣り馬鹿日誌最新作と、スイングガールズのDVDをみたせいかもと思ったりした。釣り馬鹿日誌は、結構好きな映画で、寅さんなきあとは、浜ちゃんが国民的喜劇のヒーローではないかと、密かに思っている。そういえば、昨日スマステで、藤山寛美の特集をやっていたが、東京出身の私は、ほとんどみたことがない。はじめてみたときは、阪神の岡田監督じゃないか?と思ったりした程度なので、やっぱ、生粋の大阪芸人なんだろうと思う。 確かに、非常に面白く爆笑するのだが、若干、大阪と東京とでは、笑いが異なるように思われる。東京でも下町と山の手で若干笑いが異なるようだ。大阪は生の笑い、劇場の雰囲気がある。東京は、劇というより、映画の方がなんだか、メインのような気がする。東京の場合は、寅さんの影響が非常に強いように思えるのだ! そんなわけで、釣り馬鹿日誌は、内容とやかく、とにかく、浜ちゃんがみれればいいという感じだね。 スイングガールは、友人に奨められて、DVDをレンタした。はじめ、ちょっと間延びする感じだったが、途中から、バンドと共に、だんだんとよくなっていく感じである。恐らく、女子高生にジャズという、破天荒な取り合わせが、よかったのだろう。やっぱり、誰がやっても、ジャズっていいよねということを、思い出させてくれる映画だった。クラッシックみたいに、規則ばらずに、堅苦しくなく、自由で楽しむ気持ちが大切だと思わせるものだ。 音楽っていうくらいだから、音を楽しむという気持ちが大切なんだと思わせる。なんか原点にかえろうといっているような作品だった。 カタチとか、気にせずに、音楽を純粋に楽しもう!
2006年02月05日
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神秘学では、どの宗教書にもあるように、霊界=精神界は、階層構造になっているとされている。それを認識するには、いわゆる霊視や霊聴が必要とされることは、何度もいってきたところだ。霊視や霊聴のような霊的器官は、肉体の器官とは全く別の、神秘学でいう、エーテル体やアストラル体に、その器官を形成する必要があるとされる。 神秘学では人体を、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の4つからなるものとしているが、肉体は、物質世界だけで、意味をもつものだとしている。だから、精神界を直接認識するには、肉体はまったく何の意味もなさないことになる。肉体の他の人体に、その認識器官を形成してやらないといけないわけなのである。 そのことを、秘儀参入法と、神秘学では呼んでいる。 太古の時代、人間は、いまのように、肉体に密接に深く入りこんでいなかったので、例えば、ギリシャ人は、そのエーテル体が、現代人とは異なり、顔面の頭部から突き出ていたという。なので、しばしば、そのエーテル体は、肉体の束縛を受けずに、自由に活動し、エーテル体が揺れ動くとき、その内部のアストラル体が、反射して、まるで、よく絵画に描かれる天使の頭の輪のようにみえたという。 だから、太古の絵画の天使の輪は実際みえたように描いただけだという。 太古の人間は、肉体から、わりと離れて、独立し存在していたので、容易に、精神世界をみることができたのである。だから、秘儀参入法も少し、瞑想をすれば、誰でもでき、それらは教育により、一種のいまでいう成人の年齢に達したときに、実現したという。古代カルディア人は20歳で成人、50歳で聖人と呼ばれ父となったとされたという。 しかし、人間は、次第に、物質世界に憧れ、誘惑されるようになり、肉体のなかに深く浸透するようになっていき、教育もそれに変わるような、物質界を読み書きするものになってしまい、秘儀参入者が減っていき、秘儀参入法も変わっていったという。そして、ついには15世紀以降、そのような秘儀参入の試みは消滅してしまったという。 そして、現代は物質界のみが自分に関係するものだという錯覚に陥っている。そのために、人間は、物質界を動かす金銭や名誉という、いわば肉体の虜になっていくといえるだろう。 神秘学では、読み書きは物質界の必要性から、教育されたものだという。読み書きや、教科書の暗記をさせることが、物質世界のみが自分に関係するという感覚を植えつける元にさせるという。しかし、これは、人間があまりにも唯物的感覚に慣れ親しんでしまったので、いきなり、その教育を変えることは、かえって、混乱を生じさせるものとなるだろう。 それは、肉食人間を、いきなり菜食に移行させるものであり、植物を解体し、構築させる労力に欠けた怠惰な精神に、無理を強いることになり、かえって死人に鞭するようなもので、急激な変化は、人体の欠点を抉り、死に直面する危険性もあり、少しづつ徐々に改善していかなければならない問題である。 肉食から、菜食に移行するのに、ミルクが有効なように、読み書き中心の知識偏重教育から、精神性重視の自由な思想教育に、自然に、徐々に変えていくには、やはり、人間の人生全般と、人類の歴史や進化を深く知り、人生設計のような形でやっていかなければならないだろう。 神秘学では、4つの人体である肉体、エーテル体、アストラル体、自我それぞれが、人間の年齢に応じて、前世からいかに構築されるかを、伝承している。 現代人が、秘儀参入法を行うには、少なくとも人生半ばの35歳をすぎていないと不可能であるとされる。それは、人間の前半生が、前世から、人体を構築し、自らの周囲、外に向かって、それを発展させていくことが、課題であり、その課題が、ようやく35歳辺りで、うまく精神的に教育されたなら、開花するのに対し、人生の後半生は、自らの内にむかって、今度は、構築した人体を、精神的に、内面に再構築していくことが課題となるからであるという。 だから、少なくとも、35歳を過ぎてないと、精神的に内面に、人体を再構築する土台が育たないというわけである。これが人生半ばで、うまくいっていないと、人生の後半生は、精神的向上心に欠け、ほとんど意味なく、かっての昔であった子供時代のように、幼稚性の強い物質的な俗っぽい人間として、過ごすことになるという。 つまり、大人になっても精神的に幼稚性が抜けないのは、35歳までに、自ら精神的な教育を怠ったせいであるといえるだろう。 人間の人生の前半は、周囲から与えられるものから、物質的に、自らを構築し、後半は、その自らが構築した、物質的なものを土台とし、それを精神的に発展させていくことが求められるという。 だから、この物質的世界に暮らし、その背後に精神的世界を認識することが、そっくりそのまま人生の二重写しになっているというわけだ。 とどのつまり、日々の自己反省そのものが、将来の高次の自己をつくるというわけなのである。ただし、これは年齢が目安になる。 神秘学ではある年齢をすぎないと、自ら判断させてはいけないことを示している。それは、人体のアストラル体が、23歳でようやく完成したものとなるので、それ以前にそのような自ら判断することを強いると、未完成なまま、錯誤が生じやすく、後々の他の人体、主にエーテル体に悪い影響を与え、老齢になり、病気を生じるようになるという。 実は、若いうちに不幸にも死んでいった魂は、この意味において、後半生において、なんらかの精神的修行の障害が生じえる可能性が生じたものと思われる。なので、次の転生にその意味を継続させるためであろう? 神秘学では、例えば、事故や感染病に罹患の不慮の死も、自らの自我が、無意識に呼び寄せたものであるとされている。 なので、神秘学では、常に諦念が尊ばれる。 秘儀参入法も、つまるところ、基本は諦念であり、忍耐強く待つことが肝要だとされる。かって、東洋の秘儀参入法は、神々の降りる啓示の時と場所を、ひたすら待つ姿勢が問われ、西洋の秘儀参入法は、秘儀参入者の、修行のレベル、段階の待つ姿勢が問われたのには、そこに意味があるようである。 東洋の絵画は、風景画が多く、西洋の絵画が、人物画が多いのは、これらを反映しているようでもある。 このように、精神界=霊界を知るには、まず、体験が必要なことを挙げないといけないだろう。そしてその体験をイメージとしてこころに残すことが、秘儀参入法のまず始めの一歩であるとされる。 次回から、人生の前半を、神秘学的な精神的教育と、人体の対応、成長関係を書いていきたい。
2006年02月04日
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今日、昨日の夢は忘れてしまったので、書けなかった。昨日は、高校時代の友人と久しぶり会った。海外旅行が好きな奴で、来週からイギリス、ドイツにいくという。 私はとくに海外旅行はカネをかけてでもいきたいとは思わないクチなので、3年前に、帰国子女の友人に連れられて、米国のLAにいっただけである。それ以来、とくに海外旅行に行きたいとは思わないので、その海外旅行体験を、今日は何も書くことがないので書きたい。 米国の印象は、大きい、豊か、貧富の差が大きいの3点セットだった。LAは、とくに地域で全く違う。米国は確かに自由の国だが、貧富の差が大きくて、表向きは、差別は全くないが、習慣というか、階級制度みたいな慣習があるようなものだと思う。 LA市内はダウンタウンだろうが、人はほとんど歩いていない。ホームレース(黒人)が、佇んでいるだけである。車社会なのだろう。LAには、チャイナタウンほどではないが、日系社会があるので、日本食とかも充実していて、日本と味が違うということはない。ただ、アウトレットモールのファーストフフードプラザのようなとこで、テリヤキ丼みたいなものを頼んだが、滅茶苦茶甘くて、食えたもんではなかった。その代わり、ハンバーガーに関しては、流石本場なので、安くて量も多く、日本より美味かった。 日本よりほとんど物価は半分位なので、月10万位で生活はできるような感じ…。日本人が生活するには、日本人社会はそれほど大きくないので、仕事と語学が必要になるだろう。それに比べ、チャイナタウンは大きく、中国人が、中国社会がLAに移動した感じで、英語で、道で聞いたが、ほとんどの人が、英語がしゃべれなかった。このままいくと、LAは中国人とヒスパニック系で、溢れるのではないかと思われた。そのときは、白人は郊外か、ビバリーヒルズ、サンタモニカ海岸あたりのリゾート地、あとは、地方の田舎の白人の観光客しかみられなかった。
2006年02月04日
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前回、魂界ともいう、欲界について述べた。この欲界で、アストラル体を浄化させないと、通称、霊界といわれる精神界には、いけない。神秘学では、いけないというより、帰れないといった方が適切で、それは霊界に、人間の霊的本性、高次の自我があるからだという。 霊界の前に、欲界での、自殺者の苦しみを述べておく必要があるように思える。キリストが自殺を禁じたのには、自殺者はこの欲界を特別な仕方で、この領域の諸体験を耐えていかねばならないからである。 不自然な手段を用いて、肉体を棄てると、肉体に係わる全ての感情が、そのまま、自殺者の魂のなかに残されるという。自然死の場合は、肉体の衰弱とともに、肉体に結びついた諸感情も部分的に消滅していくが、自殺者の場合は、突然、穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった充たされない欲望と願望が、苦悩を更に生み出すという。 自殺者は、二重の苦悩のなかに、苦しみ悶えるというわけなのである。 自殺をするよりは、生きて、少しでもその欲望と願望を、自然に解消していくのがよいのだろう。 さて、霊界いわゆる精神界の話だが、これは一筋縄にはいかない。早い話、物質界とまるで反対の世界だと、捉えてもらった方が、楽だろう。つまり、物質界の感覚がまるでやくに立たないのである。 ソクラテスはだから、無知の知と、これを称した。いくら物質界の知識を集めようとも、霊界、いわゆる精神界のことは、知ることができないということが、本当の意味なのである。ソクラテスは秘儀参入者だったので、霊界について、よく知っていた。そこで、霊界のことについて、当時の著名人やら、学者やらと、意見を交わしたが、誰も、霊界のことを知らないので、ソクラテスは、自分以上に、霊界のことを知る者がいないと言ったわけである。 しかし、ソクラテスはあまりに霊界の秘密を語ったので、毒を飲むことになった。お釈迦様も、仏典では、豚肉かなんかにお腹を壊して死んだとあるが、仏教徒が、肉食をするわけがなく、あれは、あまりに霊界の秘密を語りすぎたので、死んだのだ(お釈迦さまの場合成仏涅槃だが)と、神秘学ではいわれている。 神秘学では、あまりに霊界の秘密を語ると、殺されるか、死ぬとされる。それは、霊界は、秘密だからこそ、真実なのだとされる。密教が真実であるという名残りはここにある。 なので、霊界のことは、いずれ、わかることでもあるし、語らない。人間は、アストラル体を浄化して、浄化されたアストラル体のエッセンスと、エーテル体のエッセンス、肉体の中心力点をもって、自我として、本来の精神界におもむくという。 精神界で、人間の自我は、地上の人生において体験し、獲得したもの全てを発展させるという。だから、偉大な素質をもって生まれてくる人や、すでに幼児期に優れた素質を秘めている人がいるのだという。その素質を、霊界から携えてくるのだという。それら素質と能力を、いわば、人生の設計図を描くかのように、霊界でつくりあげるという。 だから、人間は、生まれてくるときに、前世から、これからはじまる人生のなかに、多くを書き込むのだという。そのエッセンスのなかに、前世の経験と成果があるのだという。 その成果をもって、人間は新しい人生に歩み入り、両親から肉体を得る。過去の体験から果実をもたらす「存在の核」が、家族に引き寄せられ、家族は、その「存在の核」をもつ個人に、肉体的な特徴を与えるという。その特徴を通して、その個人がかって獲得した個性的な素質が発揮されるのだという。 遺伝された特徴は単なる道具として提供されただけであり、ピアノの名手がピアノという道具を必要とするように、個人は、新しい肉体をまとうときに、物質世界で自分を正しく表現できるために、肉体を正しい道具として獲得しないといけないという。そのために、肉体的な遺伝のみがあると錯覚しがちだという。 確かに肉体的遺伝はあるのだが、それは、自分に適した肉体という道具を与えうる両親を、転生のときに、いわば霊界から、選別し、その両親に引き寄せられたからなのであるという。 ある人が時間のなかで投げ捨てたものが、再び、その人の周りに集まって、その人は、その全てを再び得て、更なる人生において、自分の本性の浄化に寄与できるようにするという。 人生の失敗(欲望や衝動いわゆる執着心)は、何度も、この人生のいわば、やり直しで、克服していかないといけないのだというわけなのである。この世の自由意志から、それを自ら放棄することで、はじめて、自分の本性の浄化レベルが1ランク上がるというわけのようなのである。 だから、人生は四苦八苦なのである。 私たちは、この人生でも学校教育を受けなおす必要があり、教育を通して、得たものを後半生のために発展させる必要があるという。 前半生において肉体、エーテル体、アストラル体がどのように発展し、いかに人生の幸福と内実がその発展にかかっているかを知らないといけないだろう。 これは転生の法則といわれるものであるようだ。
2006年02月02日
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今日の夢は、あまりに昨日の夢の印象が強かったので、打ち消された感じで、忘れてしまった。で、例の如く、昨日の寝る前の話にしたいぞ。昨今、早寝早起きを実践しつつある私だが、水曜の夜は、トリビアならぬ、オーラの泉をみるために、夜更かししてしまうのであった。ビデオでとって見るという手もあるが、なぜだか、みてしまうのである。しかし、なんで夜遅くやるのか、もっと夜9時台あたりにしてほしい! オーラの泉は、芸能人のオーラやら前世やら守護霊やらを、自称島原の乱の天草四郎の生まれ変わりの美輪明広と、いまをときめくスピリチュアルカウンセラーの霊能力者江原啓之が、いわゆる霊魂鑑定するというものだ!トキオの国分太一が司会で、その上達ぶりも、視聴者代表という感じで、まあまあよさげな感じだろうか? 昨日は、奥田瑛二で、鑑定結果の守護霊が、奇妙なお坊さんで、そのお坊さんがとてつもなくかわりもんなのが、滅茶苦茶に笑えた。そういうお坊さんがいたら、現代にいたら、なんかインドあたりにいそうなのだが、なんか親近感が沸くだろうな。犬のディオゲネスみたいで! 現代人だけでなく、日本の歴史上の人物を、鑑定してくれないか?と思うのであるのだが? NHKの「そのとき、歴史は」の裏バージョンとして、東京ガスの、タイムスリップした織田信長のCMっぽく、鑑定やってほしいな! ねぇ、利休呼んでいいっ?って感じでね。タイムスリップの泉ってやってくれないかな?
2006年02月02日
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神秘学では、死後の世界はある程度明確に定義されている。それは、古代からの秘儀参入者の証言を元に、構成されてきたものだという。太古では、人間は、現在のように、肉体には受肉しておらず、神々と同じような、いわば精神体であり、その精神体から、神々から離れ、自由になり、地球の環境とともに、段々と徐々に、肉体に入っていったという。 だから、人間のこれまでの歴史を知り、宇宙の進化の法則を知れば、自ずと、死後の世界が認識されるのだという。歴史といっても、唯物的な記憶を辿りにつくられたものではなく、それはいまでも、宇宙にそっくりそのまま、人間の行為が、それをうけた被疑者側の立場として、宇宙に刻まれているという。 では、人間が死ぬと、何が起こるかをかいつまんで書いていくことにする。 人間は、かってそうだったように、物質的な死体の肉体を、地上に残していくという。神秘学では、人体は以下の4つで構成されているとするので、肉体がなくなっても、人間は存在し続ける。 1.肉体 2.エーテル体 3.アストラル体 4.自我 睡眠中は、人間は、肉体とエーテル体を、ベッドに残し、アストラル体と自我を外に出して活動しているとされる。物質的な肉体という化学的混合物を、常に腐敗から守り、その物質的な素材と力を内的な建築家として、供給し続けているのが、エーテル体であるとされる。 死ぬとこのエーテル体は肉体から抜け出てしまうので、肉体は腐敗していく死体として残り、しばらくの間、睡眠中のアストラル体と自我のように、共にエーテル体も、その2者と共にあるという。 つまり、睡眠と死の違いは、別名生命体といわれるエーテル体が、肉体のなかにあるかどうかなのである。睡眠中は、エーテル体は残っているが、死のときは、肉体から出て行くのである。よく死ぬ前に、一種の痙攣のようなものが起こるが、それはエーテル体が、肉体との結合部を揺さ振り落しているのだという。 この瞬間、地上での人生の記憶全てが稲妻のような早さで、大きな画像のように、人間の心魂(自我とアストラル体)のまえを過ぎ去っていくという。このときは、快と苦を感じずに、ただ、ドラマや映画をみるように、人生を振り返るという。神秘学では、これら人生の記憶は些細なことから全て、エーテル体に記録されているとされている。 そして、それを見終わると、エーテル体が、アストラル体と自我から離れ、宇宙のエーテルのなかに解消されていくという。しかし、エーテル体から、それまで体験した人生全体のエッセンスのようなものが残るという。そして、このエッセンスは、その後の歩み全体いわば転生にも、共に付き合うという。それと同時に、ひとつの力の点のような肉体のエッセンスも残るという。それは肉眼でみえるものでなく、力の中心点のようなものだという。 それはエーテル体と結びついていて、肉体に人間的形姿を与え、いわば、以後の転生の物質世界の翻訳のような役目をするという。つまり、この力の力点は、人間が物質的世界の現世をおくるとき、いわば物質世界力(言語)を翻訳するようなものだというのだろう。 エーテル体のエッセンスと、肉体の力の中心点を残し、死後の人間は、アストラル体と自我の存在となるという。アストラル体は、別名感受体と呼ばれ、こころの存在でもあるとされる。実は、このアストラル体が、人間が生前に、肉体を通して、体験したものを有していて、喜びや情欲、享楽や苦悩を感じているのだという。肉体はこのアストラル体の道具であり、肉体そのものが、快や苦を感じているのではないという。 快や苦は、アストラル体が、肉体という仲介を通して感じているのだという。 だから、肉体をなくした後も、このアストラル体に、苦や快の余韻が残っていると、その欲望を満たそうとしても、肉体という道具がないので、その欲望の矛先は、そっくりそのまま自分の方にむかってくるというわけなのである。 だから、お釈迦様は、執着心や欲望を無くせと説いたのである。 このアストラル体のその道具である肉体を捜す衝動や、欲望が、いわば、どこまでも水源を探して歩く、砂漠のなかの喉の渇きのようなものだという。 これらの衝動や欲望は、火のようなものとして記述されるところのものであるという。これは人間が死後必ず通過しなければいけない苦しみなのだという。この衝動や欲望を捨て去るまでに、いわば、アストラル体が、肉体との関連の未練を断ち切り、純化されるまで、欲界と呼ばれるところにとどまるという。 だからこの欲界をいかにはやく抜け出れるかで、その人のアストラル体の苦が取り除かれるわけでもある。つまり、現世において、肉体に依存した快楽嗜好や、肉体が提供するものに満足を覚えた人間は、肉体はすでになくなっているので、この欲界で、多くを失う羽目になるというわけなのである。 いわば肉体そのものを全てだと思っていた人は、全てを、まるで火に焼かれるように失うというのである。 だから、キリストは、天の国にいくには、金持ちは、らくだが針の穴を通るよりも困難だといったのである。 つまり、らくだは、食糧や財産等、肉体依存や肉体が提供するものを意味するものであり、それを運ぶものの象徴である。それらがまるで、針の穴を通るように、何もかもを捨て去って、もはやその存在がみえないように、スリム化しない限り、金持ちは通過できないと説いたのである。 金持ちはケチケチだから金持ちなのであり、このケチケチ心が、こころの水を汚し、溜まりに溜まって、澱んで、死んだのち、宇宙の浄化剤により、とことん、洗浄される。 ケチケチ心のない浄化こころはお湯にでも浸かる気分だろうが、ケチケチ心には、穢れているのにもかかわらず、それを自分の水だと思うので、まるでこころを奪うかのような錯覚に陥るわけなのである。 ケチケチはいわばエゴであり所有欲なのである。宇宙には所有欲などない。全ては神のものであり、神の部分であるから…。神様は与える存在であり、貰い奪うものではない。進化とは常に与えるものである。 人間は必ず死に、必ずこの欲界で、穢れたアストラル体を浄化しなければならないので、なるべく、現世で生きているうちが、アストラル体の穢れが間違いとして現象化するので、改善するのに、より容易であり、自由意志に委ねられる余地があるので、お釈迦様も、キリスト様も、現世を、芸術的、精神的な愛の実践活動をおくることを推奨したわけなのである。あの世では、このような自由はない。 いずれ大きな災いを被る宿命にあるのだから、より小さな災いのうちに、率先して立命すべきであろう。 宿命に打ち勝つ、運命の術とは、大病にならないうちに、小病のうちに済ましていくという賢者の心得なのであろう。 火の用心、マッチ一本火事の元、くわばら、くわばら 欲界を何とか克服して出て、次の精神界に向かう話は次回に譲りたい。
2006年02月01日
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今日の夢は、坊主になったものだった! 坊主といってもお坊さんの坊主ではない。髪が抜けていく坊主の方だ!! いわゆるスキンヘッドってやつだね。とくにハゲに恐怖は感じてないのだが、中途半端にハゲるのならば、全く生えない方が潔くもあるだろう。なんのこっちゃ? 人は何故ハゲになるかというと、太陽光がしっかりあたっていないからだという。それと、あまりに俗っぽい飼いならされた思考をすると、どうもハゲるらしい(ハゲがスケベというのはここからきているのかも?女性ホルモン説もあるが)。だから、野生動物が飼いならされて家畜になると、ハゲるのだという。やはり、思考の自由が頭にも必要なのだ! 自由な思考に、お天道様は、養分として毛を与え給う。 神秘学では、植物は、いわば、地球の髪の毛だという。太陽光がないと、植物は生えない。そういえば、カタカムナというカタカナの原型の文字を、研究していた楢崎皐月という物理屋さんが、カタカムナ文献のなかに、「ヨモ(四方)のタカミを結ぶトコロは、イヤシロチにて、ミソギに良し ヨモのヒクミを結ぶトコロは、ケカレチにて、ミソギに不良(ふさ)はず」という文面を、タカミとヒクミを基にした地形の凹凸と解釈して、凸面だけの土地を、イヤシロチとして、生命の地で、神社が多く、凹面だけの土地をケガレチとして、荒地で墓場が多いとこと解釈したという逸話が残っている。 神秘学までいかなくとも、風水をすればこの概念は明らかになる。風水というのは、太陽光の満ちる空間を、風と呼び、塩のない純粋な水を、水として、その循環思想を、いわば学問にしたもんなのである。神秘学までいくと、風の精と水の精になってしまうのでやめておく。 ともかくも、太陽光の満ちる風がよいところで、かつ、塩っけが全くない甘い水のとくに泉があるところは、風水では、青龍の地として、生命力が最も盛んなところとして、崇め奉っているのである。 太古日本では泉ならぬ滝があり、太陽光が満ち、いわば霊気盛んなところは最も生命力がみなぎる土地なのであるとしたわけなのだ! この間、清水寺の云われを調べていて、この寺がまさに、その青龍スポットとして建てられていることを知った。つまり、太古の日本人は、地球の呼吸と鼓動と生命をよくご存知のようである。 そのような生命力がみなぎる地には植物が繁茂している。実は植物が繁茂する御蔭で、塩っけが奪われ、甘い水になるのである。植物の根が塩を必要として、塩を吸い上げているのである。勿論、植物は、太陽光を必要とするので、よく茂るところは太陽光が充満している証でもある。 そのような生命みなぎる地は、地球の感覚器なのである。だから、太古人は、神社を立て、神様にお祈りしたのである。地球が敏感に感じる感覚器の地だからであるわけだ。そして、生命力を分けてもらったのである。そこから湧き出る生命力のみなぎった水を分けてもらった。禊が行われたのは、その名残りなのである。もともと、生命力を分けてもらうということなのである。 これに対して、塩の多いとくに海に近い地は、墓場が多いことがわかるだろう。塩分の多いところは、いわば生命のない地であり、死の土地なのである。そのかわり、食糧を貯めるのにはよい。塩につけると、腐らず保存食となるだろう。塩には殺菌作用があるというのは、生命力を奪うことなのである。 ここでいっている生命力というのは、実は生殖力というべきものなのだ! 生殖力を得るためには、青龍の地にいかねばならない。 逆に、より人生を活動的にし、冒険心に富むような死にむかうためには、塩の濃い海にいかねばならない。
2006年02月01日
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