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日ハムリーグ制覇やディープインパクト凱旋門挑戦の陰で、周囲では全く噂にもならなかった総理大臣選びに際し、総理大臣という職が、もはや芸能ネタの価値にすらならない、あまりに阿呆らしいお粗末感を催した昨今なので、「歴代総理の通信簿」という書と、ついでに、目に止まった「世界の日本人ジョーク集」という書を購入し、読んでみた。 はじめのその書によると、なんでも、総理大臣という職業は、伊藤博文のために出来たものだという。西欧列強の植民地政策のなかで、国際社会へのアピール、曲がりなりにも外見的体裁的にも対抗するために、近代国家としての呈をなすために、旧来の太政大臣という内政の長のポストに据えるには、下級武士出身の伊藤では、名目が立たないというのがその理由でもあり、日本という国家が、いわゆる、庶民に開かれた、いまでいう民主化した表札代えというべきものだというわけである。 いわゆる関白太政大臣が総理大臣にかわったというわけである。関白太政大臣は、日本史では代々平氏あるいは末裔の藤原氏の役職だったわけだが、血統的に、名目上、由らなかったのは、足利義満、豊臣秀吉、徳川家斉の3氏というわけのようだ。総理大臣という名目にかわってから、戸籍上、日本人であればなれるわけだから、いわば一種の民主化といってよいだろう。 太政大臣と似た、日本史のいわゆる将軍職の征夷大将軍は、代々源氏の役職だったわけだが、その将軍職を大政奉還により、廃されることになったわけで、武士といういわば事実上独立した階級が、名目上廃される王政復古となるわけでもある。 武士階級が、国家改革のために、自らの職を投げ打ち、いわゆる廃業というかたちとなり、当然、内乱となったのだが、どうにか鎮撫され、明治維新はなったわけである。いまでいえば、財政支出拡大の責任を負って、官僚全体が自ら辞職するようなものである。徳川幕府(政府)は、一地方政府になり、当時の武家の多くが、農民や教育者になったようである。 極東の島国で、とりあえず、中世を廃した新政体が生まれたのは驚嘆といえる。中世の政治からの脱却は、憲法からはじまるといえるだろう。憲法とは、君主の制限事項にあるが、日本の天皇制を考えて、英国流ではなく、プロシア型の憲法を模範としたという。大統領制というのも、王的統治権限を、民主的に創出したもので、血によらない王政復古といえなくもない。 人間の精神の基本の文武両道が、唯物化により、あまりに権力闘争的になり、精神的な不調和に陥り、文官統治の代表の王と、武官統治の代表の軍に分かれたものと考えることができるからである。 私は、文とは血の集積であり、武とは血の解体だと思うのだが、この両輪がバランスよく機能して意味をもつものと思われる。 当時の列強の植民地主義が何処からきたのかといえば、神秘学によれば、唯物論にあるといえる。土地を物質的に所有することで、産業を興し、国家を唯物化し、その勢力を権力化し集中させて、統治を行うわけである。これは神秘学では、カリユガ(暗黒の時代)として預言されていたことであるが、人類の進化の上では仕方がない教育事項ともいえる。 人間は国家というものを物質化して、その下に、物質を失うという悲痛な経験、そして最後には命を失う大きな痛手に遭ってみなければわからないということでもあるだろう。19~20世紀というのは、そのような暗黒の時代そのものといえるだろう。 日本人というのは、これを忠実に体現してきた民族ともいえる。 さて、「歴代総理の通信簿」を読むと、明治時代に外務省お雇い外人だったヘンリーデニソンがいった言葉の「日本人はミリタリー(軍人)としての勇気はあるが、シヴィル(文官)としての勇気がない」が、実感されてくる。 それは「世界の日本人のジョーク集」を読むことによって、いわば確信されてくる。 その多くは、日本人の馬鹿正直な特質と、異質性や豹変ぶりを、笑うようなものである。日本人を外からみると、機械的で、個性のない、感情のない存在と捉えられているようである。恐らく、これは、自己表現の下手さに起因するものだと思われる。 確かに、日本文化は、特殊だといえるが、多かれ少なかれ、どの国家、民族にも、そのような面がある。日本人がとくに、誤解されやすいのは、どこか相手が勝手に理解してくれるものと思い、その努力に欠けているところがあるといえる。 それは以下のジョークに端的に現れているところだと思う。 ○日本人を怒らせる方法 各国の政治家が集まって「どうしたら日本を怒らせることができるか」について話し合った。 中国の政治家が言った。「わが国は潜水艦で日本の領海を侵犯した。それでも日本は潜水艦を攻撃してこなかった」 韓国の政治家が言った。「わが国は竹島を占領した。それでも日本は攻撃してこない」 ロシアの政治家が言った。「わが国はもう長きにわたって北方の島々を占拠している。それでも日本は攻撃してこない」 それらの話を黙って聞いていた北朝鮮の政治家が、笑いながら言った。「そんなこと簡単ですよ。我々が核兵器を日本に使いましょう。そうすれば、さすがの日本も怒るでしょう」 すると、アメリカの政治家が首を横に振りながらこう言った。「無駄だね。それ、もうやったもの」 という、日本人の不可解さを笑ったものだが、これと同時に、日本人のユーモアのなさが、いかにも、文民としての勇気のなさに直結しているように感じられる。「総理の通信簿」では、吉田茂が、高採点になっていたが、吉田茂は、よく気の利いたジョークを言ったらしい。ジョークというのは、相手の気持ちがわからなければ、侮辱とも受けとられ、あるいは場を白けさせる要因ともなり、勇気がいるものだと思われるからで、なにより、心にゆとりがなければ、相手を笑わせることはできないだろう。 ジョークは、相手に、自分の意向をそれとなく伝える最も洗練された手法だと思われるからでもある。勿論、ジョークばかり飛ばして、何の実力もなければ、ただのお笑い道化師である。だから、絶妙なときに、タイミングというのが最も肝要であるし、日頃の人柄も反映するだろう。 日本人に関するジョークをみると、日本人が、他から真似て、洗練化し、伝達する加工的手法に優れている面が浮かぶ。それは日本人の良い面でもあるが、融通の利かない視野の狭い面でもある。だから、日本人は、ユーモアとジョークに欠けるというと、日本人はせっせと、真面目にジョークとユーモアを研究するような、またまた可笑しな存在と受け取られそうでもある。 アメリカンジョークの典型なブッシュから、日本はユーモアを学び、今度は輸出する番かもしれない。小泉が、唯一誇る功績があったとしたら、ブッシュからユーモアを輸入したことかもしれない。「ブッシュ大統領、あなたのユーモアを輸入したので、貿易黒字は解消されてます」とでもいったらいいだろうね? 「これ以上、日本国民をも含めて、世界中を笑い殺しさせないでください。」と更につけ加えれば、効果的かもしれない。
2006年09月29日
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現内閣の総括をしておく。しかし現内閣はまるで陳腐なTVドラマの集大成であり、虚の下に成り立っており、実質は、米国依りの官僚が行っているから、総括以前の問題だといえるだろう。恐らく、国民に媚を売らなければ、現総理大臣は、現職につけなかっただろう。指導者として、国民に媚を売るのは、指導者の責務を放棄していることに他ならない。教師が生徒に媚を売れば、教師たる意味をなさないのと同じだろう。民主主義とは、国民の我儘や利己心を尊重することではない。国民を、自由と愛に目覚めさせること、人類の意識を向上させることである。指導者自らが、国民のために意を砕いて努力する姿勢、態度がなければならない。 退任が見えた昨今においても、「国旗・国歌で起立・斉唱強制、都教委通達は違憲」との判決に対し、現総理は、三権分立の精神を知らないのか、「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」と述べ、疑問を投げかけたという。もう慣れっこになったとはいえ、総理大臣の資質、及び責務を、疑いかねない発言である。恐らく、評論家や芸能人と同じような感覚で発言している意識なのだろう。法律以前の問題にしているのは何処の誰で、法律化させるまでに放置したのは何処の誰か? 司法、裁判においては、法律を吟味しているのであり、法律以前の問題こそ、政治や内閣が責任を負うことだろう。法律において、国旗・国歌で起立・斉唱を強制することが、違憲であるとしているのであり、国旗・国歌で起立・斉唱しなかった者の精神を問題にしているのではないのである。もし、それを問うならば、自主的に、国家に忠誠を誓うような精神を育成できなかった政治、内閣こそ、その責任は重いといわざるを得ないだろう。なんのことはない、総理大臣という責務の自覚がないから、その責任を他に転嫁し、批判している堕落した精神の持ち主であることを、自ら露呈しているといわざるをえない。恥ずかしい発言そのものであろう。国家に忠誠を誓えないのは、現政府に信頼がもてないからである。このような不真面目発言の総理を誰が信用できるのだろうか? 私は、そのような精神の持ち主に聞いてみたい、「あなたの自由と愛の概念は、独裁者に敬礼することとかわりがないのですね?ではその違いを述べてくださいと。」 国民に、このような堕落した精神を、みせつけた害悪は計り知れないといわざるをえないだろう。一言で言って、全く不真面目な態度そのものである。このような堕落した精神の持ち主が上層部に就くと、賢者は、馬鹿らしくて、野に下り、隠遁した生活を送らざるをえないだろう。 はっきりいって、ここ5年間、日本人の精神は堕落しているように思えてならない。自分だけ幸せになればよいという利己主義的な風潮が蔓延し、会社や国家のためといい、トップの欲呆けのために、平気で人を切り、著しく雇用関係は悪化し、若者は路頭に迷い、社会は不安定性に満ち溢れ、その危機感から、使い物にならない近年の古ぼけた風習、原理原則を、我儘な子供のように振りかざしている人々が多くなった。日本人の精神には、もっと助け合いの精神、一人ではなくて、皆で、幸せになる努力があったはずなのである。 一人だけが幸せにあることは、最も神々が嫌うところのものであるだろう。なぜ、その幸せを分け与えてあげないのか?とたちまち、疑問を投げかけるだろう。それは覚者となった仏陀に、その教えを広めなさいと説いたブラフマンの如き、菩薩的な態度こそが本来の人間のとるべき道であるとお示しになるだろう。 他者の不幸をもとに、自らの幸せを貪るものは、地獄に堕ちるだろう。 たとえ、愛国心が、崇高なものだとしても、このような総理大臣が指導者に就いている国を愛する気持ちなど、誰がもてるのだろうか、真っ平御免である。このような国家を愛さない権利こそ、真の自由として尊重されるものだろう。このような虚偽の愛国心は、かってのヒトラー政権に敬礼したドイツ国民の精神に酷似するものだからであり、それはまた、この国の大政翼賛会と同じでもある。 その精神とは逆の「私が不徳であるから、国民が敬礼してくれないのだろう。全くもって申し訳ないことです。国民が安心して敬礼をしていただけるよう一層の尽力に勤めるつもりです。」と国民に懺悔するのが、指導者足る謙譲の資質であろう。それを逆に、国民を罵る神経こそ、どこか不純のものに思われてならない。勘違い総理大臣とは、困ったものである。元々その資質に欠いたものがコネで地位に就くから社会不安が増すのである。これは当たり前の原則でもあろう。
2006年09月22日
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神秘学によると、宇宙の創造の法則は、三位一体だという。父と子と聖霊の三位一体のことをいう。このイメージは光の球を考えることで解き明かすことができる。 光の球の中心、つまり光源が父であり、球の表面が子であり、中心から表面の領域が、聖霊である。光は、中心の光源から無限遠に向かって消え去るのではなく、有限なある限界にまで達すると、再び、中心の光源に跳ね返ってくるような、メビウスの輪や、クラインの壷のようないわば4次元時空構造をとるという。アインシュタインはこれを光円錐により特殊相対論として記述することに成功した。 これらは量的にも質的にも三位一体の構造をもち、光源において、ある特性を有したとしたら、光源から離れるに従い減ってはいくが、無限に減るのではなく、光の球の表面では、その性質と反対になって、光源へと返っていく性質を有するという。例えば、光源で電荷がプラスの状態であるなら、光の表面ではねかえって、マイナスの電荷になって光源にかえってくるようなものだという。 この性質は、超弦理論のTデュアリティというべきものを表しているのである。この性質はまた、QCDで略して表記される量子色力学の、原子核の漸近的自由性をも意味しているようにみえる。クォークは、この漸近的自由性により、原子核に閉じ込められた状態で、安定性を有すると考えられているのである。 話が脱線してしまったが、自然の原則はリズムにあり、そのリズム、波動の原則は、三位一体の法則で表されるのであるという。それは父と呼ばれる中心と、子と呼ばれる表面と、聖霊と呼ばれる、中心と表面の間の空間からなる、光の球形のイメージなのである。この光球をイメージすると、光球の表面において、秩序と調和が保たれているのがわかるだろう。球の表面において、秩序と調和を感覚的に捉えることができ、我々人間は、地球という球の表面において、生活を送っている現実に気づかされることだろう。地球が球形なのは、この三位一体の原則が成り立っている証拠でもあるだろう。 この原則を人体に当てはめてみると、光球が、エーテル体と呼ばれるものであることがわかるだろう。魂はエーテル体を媒介して肉体と結合しているので、魂も光球とイメージできる。だから、肉体の場合は、父と子の関係が、魂の鏡のように、逆になったものと考えることができる。物質的肉体を主にして考えると、人間が外界と接する境界面、つまり皮膚的な部分が、父となり、人体の中心である、心臓が、子であり、人体内が聖霊であると捉えることができる。 前回は、心臓を中心とした、人体の下部と上部のエーテル体の相互作用について、簡単な具体例を出して、現代では精神病として知られる、精神衰弱とヒステリーについて述べた。それらが、人体の機能的な面からみた不調和にあることを大まかに述べ、例として結核を挙げた。そこから続ける。 上部の、下部プロセス制御が、困難な場合に、咳や、喉の痛み、四肢の痛みが生じる。つまり、それは、外的な侵入を、受け入れがたい状態に、人体があることを告知し、咳等の生体防御を行っている徴候なのである。つまり、呼吸により、消化プロセスを制御できないときは、人体は、外的侵入を受け易い状況にあり、その防御のために、咳等が生じる。 咳等以外には、痩せるということが、生体防御のその徴候であることも考えられる。例えば、盗汗は、本来、目覚めた状態で行われるべき活動が行われないために、睡眠中に代替して行われた一種の生体防御でもあるという。魂、霊的な活動は、本来、無意識的な基盤をなすものだが、その意識的な組織的活動といえるものは、分泌プロセス、分解プロセスとして現れるという。 病気の諸症状の間にも、相互作用があり、その諸症状間に、適切な条件を加え、反応を助けたり、起こしてやると、病気の全体の進行具合を調整でき、治癒に導くことができる。古代の医師は、このことを単に、病気を取り除くだけでなく、病気を引き起こすこともできなければならないと説いたという。 例えば、上部で咳、または喉の痛みが、起きたりしたら、下部の消化プロセスは便秘状態にあるので、一つの防御プロセスとして、下痢の一種に移行する必要が生じるという。 神秘学的な医学とは次のように簡潔づけることができる。 最初に心臓の活動を把握し、人間の上部と下部の対応を理解し、神経衰弱やヒステリーのような機能的、エーテル的なもののなかに、病気の発生をみて、それが、器官的、物質的なものに現れているかどうかを吟味する。こうして、相関しあっている病気の諸所の症状の外観を探索することを通して、病気の発症と経過、場合によっては病状を強めたり、弱めたりして、ある方向に導き、時期が到来すれば、プロセス全体を再び健全化することができる。 このような処置法にとっての最大の障壁は、現在の唯物論的な社会情勢や事情にあり、最も強力な障壁を築いているのは、唯物論的な知識教育をうけた患者自身であるといえる。患者は、何はさておき、苦痛を取り除いてほしいと要求するからである。しかし、直接、それを取り除いてしまうと、なんらかの生体防御的働きで、小康状態になっている病気自体を、悪化させてしまう場合も容易にありうるのであり、勿論のこと、病気の悪化も考慮しなければならないが、再び健康を取り戻すことができる状態まで、人体内の調整作用を待つ必要がある。けれども、患者の大多数は、辛抱強く待つことに耐えられないだろう。 治療というもの全体に正しい価値を与えようとするなら、医師は予後をも完全に掌握すべきものであり、この予後こそ、健康な人間と病気の人間の正しい観察の結果を左右するものである。こういう認識こそ、公然と目指すべきものだが、病気を、真にその支流の末端まで追求することを適切であるとみなさず、単に何かを取り除いたことで多かれ少なかれ満足しているのは、いつも患者や社会状況であるのみならず、医師であることが、よくあるという。 ともかくも、古代の医学は、簡潔に次のようにまとめることができる。 人間の生体組織のなかで、心臓の位置づけを正しく追求し、人体の上部と下部のプロセスを類似のものとみなしたときの、この上下間の僅かな差異性に着目すると、このエーテル体の二元性に辿り着くことができる。この二元性を配慮して、人体の下部活動、つまり消化の際に、もたらされる物質の効力を、ホメオパシー(同種療法)を行うことによって、調節することができる。つまり、下部に摂取される物質の集合性、関連性を、ホメオパシー的な極少量の希釈により、制御し、二元性の法則のもとに、下部プロセスから、上部プロセスに作用を与えることができる。これが可能なのは、エーテル体を構築している、いわば光の性質が、唯物論で想定されるような、無限遠で、消え去るものではなく、有限なある限界まで達すると光源にはね返ってくる、波動的性質に負っているからであって、自然のなかには、ただリズミカルな経過があるのみであり、無限の彼方に通じる経過がないことを表明するものであるからである。 宇宙の全てがつながっているように、我々の存在は、一種のリズムとして、宇宙全体にコダマするのである。我々は宇宙全体の光の球のなかの光の球なのである。
2006年09月21日
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前回は、神秘学による、ヒポクラテスの医学の真の理解を簡潔に述べた。その続きを書きたいのだが、その前に、ヒポクラテスの有名な言葉と誓いを神秘学で説きたい。 「人生は短く、技芸は長い。」という言葉がある、これは、物質的肉体をもつ人生の期間は、短いが、魂の能力を開発する期間は長いという意味にとれる。ヒポクラテスは、けっして病を人生の一時的な通過点のものとして考えたのではなく、魂を鍛える杖のようなもの、もしくは魂の能力を開発する機会として、長期的展望をもって捉えたのである。その根本は、なにより、魂の問題として扱ったのである。 また、ヒポクラテスの誓いの冒頭にある「アポロン、アスクレピオス」については、アポロンはキリストの象徴の太陽神であり、アスクレピオスは、アポロンの子であり、イエスの存在といえるだろう。現代では、あまりに唯物化し容易に解釈されているので、陳腐であるといえる。 イエスという名は、「神を通して治療する者」という意味であることは前に述べた。 男神は、聖杯の主、聖杯に注がれるパンを表し、女神は、聖杯を表す。つまりは、「太陽系を統べるキリスト原理である調和と秩序をもたらす術により、我は癒しをもたらす」という誓いと解することができる。太古の秘儀参入者は、皆、この冒頭の誓いを秘儀参入前に宣誓したという。秘密結社フリーメソンにはその名残りがみられるという。元々、フリーメソンは自由な石工の意味で、自由意志により聖杯をつくるという意味と解釈されるので、その誓いそのものといえるだろうが、いまは唯物論により、堕落してしまったことはいうまでもない。勿論、ヒポクラテスの誓いも、聖書同様に、唯物化し堕落してしまった。 権威主義者が解釈するものは、その心がそのまま宿ってしまうので、誤解を生むものになるわけである。文字通り解釈するには、まずは、神のごとき素直な心に立ち返って、権威を捨て去らなければならない。権威というのは、人間の未熟な自我の利己心、エゴからくるからである。エゴから物事を捉えるならば、どのようなものもそのエゴ性を生じるものとなる。 要するに、心魂を基に、人を癒すというのが基本にある。なぜなら、宇宙に秩序と調和をもたらしえるもの、これを神秘学ではキリスト原理と呼んでいるが、それは心魂の存在そのものを意味する。宇宙に心魂があり、星に心魂があり、そして地球に心魂があり、人に心魂が芽生えるということなのである。心魂と心魂が通じ合うのが、愛であり、そこに調和と秩序が表れるのである。キリスト原理とは、心魂を基にした概念であるといえるだろう。だから、唯物論はその反対にある。 だから、キリスト原理でいえば、心臓は人体内の上部呼吸律動器官系と下部消化新陳代謝器官系に、調和と秩序を与える統合の感覚器官となる。これが唯物論では、自動ポンプと言うべきものに成り下がってしまうのである。これは、死体を唯物論から解釈する解剖学的知識から派生するからである。 前置きが長くなったが、前回の続きを述べる。 前回は、太古の医学では、エーテル体を考えることで、病気の兆候を認識していたことを書いたが、人体の中心を心臓と考え、上部、もしくは下部器官のエーテル体の不規則性が、神経衰弱と、ヒステリーをもたらすことを書いた。 これが、下部の新陳代謝系の独立性により、ヒステリーの徴候として現れるのではなく、いきなり、物質的な機能として現れ、上部に反作用し、伝染して、特殊な現象として起こり、普通は神経衰弱になるべきものが、結核の素因として現れることがあるという。 結核は、結核菌により伝播するというのは、その結果であり、原因ではないという。これは、例えば、部屋にハエが集まるのは、ハエが原因ではなく、部屋の汚さや生ゴミの放置に要因があるのと同じであるという。つまりは、人体内に、結核菌を呼び込むような、いわゆる農業でいえば、土壌の問題に例えることができるようなものが真の原因があるという。 話が脱線するが、悪霊を呼び寄せるのは悪霊のせいではなく、悪霊を招きよせる本人の心魂と精神の問題であるわけだ。心魂と精神に、充分な調和と秩序がないために、悪霊を招き寄せるのである。これは物質的肉体があってもなくても同じである。なまじ、物質的肉体という目に見える存在があるから、誤解しているようなものである。 だから、結核患者は、お互いの内的な親和性により、感染してしまうわけである。神秘学では、これを霊媒体質と呼ぶが、霊媒体質には、自由意志がないので、克服すべきものとしている。 結核患者のように、咳の徴候は、一種の人体の生体防御であり、上部の呼吸律動器官が、下部の消化新陳代謝器官のプロセス制御が、困難な場合に、咳や、喉の痛み、四肢の痛みが生じ、外的な侵入を受け入れがたい状態に、人体があることを告知し、上記の咳等のいわゆる生体防御を行っていると考えることができるという。 またまた、下らないことを述べて長々となってしまったので、次回に続ける。
2006年09月20日
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神秘学によると、ヒポクラテスの医学は、古代医学の終末の医学だったという。ヒポクラテスにおいて、古代の医学は死んでしまったという。ヒポクラテスの医学は、体液病理学とでもいうべきもので、現代でいえば、分泌物やホルモンの話にみえるだろうが、実際は、そうではなかったという。 ヒポクラテスが指摘したのは、正常な生体組織においては、体液がある一定の比率を保っていなければならないというもので、その適正な混合をクラーシス、不適正な混合をディスクラーシスと呼んだと言う。ディスクラーシスが英語のディジーズ(病)になったものと思われる。 ヒポクラテスは、人体の生体組織を4つの構成要素、土、水、空気、火からなり、それらの4要素が、黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液として特徴づけられ、それらが適正に混合されたものから、人間の生体組織は機能しなければならないと考えたのだという。 ヒポクラテスを真に理解したければ、神秘学を知らないといけないのだが、後世の者は、唯物論に走ってしまったので、このことの真の理解が遠ざけられ、19世紀には、ついに唯物論の集大成である、原子論的な医学が誕生し、ウィルヒョウの「細胞病理学」が出版され、細胞の変化から、病気を理解しようとする原子論的な唯物論的理論を基にした観察がはじまったという。そこから現代の西洋の科学を中心とした、解剖学を基礎とした医学に至ったという。 確かに、西洋科学的な唯物論は理解しやすい長所があるが、生命は科学的に理解できるほど単純ではないと神秘学は説くのである。近年の細胞死のアポトーシスという概念も、ヒポクラテスが古代に既に述べていたところでもある。現代でもこれを核の断片化として唯物的に理解しているが、それでは細胞という生命の死とはなんなのか?、生命の死とはいかなる状態か? 、脳死とは死なのか?、形態を用いて定義はできても理解できないものとなっている。 神秘学で、上述したヒポクラテスの理論の意味を考えると、次のように明らかになる。土、水、空気、火とは、アリストテレスが説いた4大元素霊のことで、それぞれ、土から物質的肉体の黒胆汁、水からエーテル体の黄胆汁、空気からアストラル体の粘液、火から自我の血液の意味があきらかになる。つまり、人体は、物質的肉体、エーテル体、アストラル体、自我の4つからなり、それらが適正な比率で結合しているなら正常のクラーシスで、不適正ならば病のディスクラーシスとなるという意味になるのである。 19世紀の唯物論化に向かう歴史のなかで、パラケルススは実際、秘儀参入者だったので、世の中がそのように進むことを熟知していたにも関わらず、霊視力を有していたので、エーテル体を、アルケウスとして想定したという。アルケウスは、物質的肉体の重力に対抗する光の上昇力を意味したという。そして、人間と他の動物の骨格的負荷具合(重力に負った構成力とそうでない構成力)を比較し、アルケウスの相違を説いたという。人間が常に立位で行動できるのは、アルケウス(エーテル体)の違い、つまり天に向かって上昇する光の力の御蔭であるようなことをいったらしい。 そして、生命力の源をアルケウス(エーテル体)に求めたのである。 唯物論では生命力を語ることはできない。なぜなら、自分の指を切るのと、紙を切るのと同じであるからである。指と紙を切るのでは何処が異なるのか、痛いと感じるのはなぜなのか? 唯物論では語ることができない。 パラケルススならば、そこにアルケウスがあるかないかの違いだということができる。つまり、死とは、そこから、アルケウスが結合せずに、離れた状態だと明快に答えることができるのである。物質を生命足るにさせるアルケウスがないとき、それは死であると明快に答えられる。 ヒポクラテスの説いた病の説明は、とくにエーテル体である黄胆汁と物質的肉体である黒胆汁の混合具合(結合状態)から明らかとなるという。 エーテル体の上昇力と、物質的肉体の下降(負荷)力を、人間のなかの両極性として捉えるのである。 人間の本質において、上の両極性を考えると、心臓は、自動的機械のようなポンプではなく、下腹部の栄養摂取と消化によって液状になった栄養素と、上部の呼吸により取り入れられた気体状栄養素との間の、お互いが相反する相互作用からなる、滞留装置であり、そこから人間の上部活動と下部活動を知覚し、感受する感覚器官なのであるという。 ここに、心臓を通して、水のエーテル体と、空気のアストラル体が混合しているといえる。心臓は、エーテル体とアストラル体の適度な比率を保つ感覚器官だといえる。 例えば、上部(呼吸)の咳は、下部(消化)の下痢に相当するという。 では、不適正な混合ディスクラーシスはいかに生じるのか? 人間の下部の消化作用と、上部の呼吸作用は、心臓により均衡を保っているが、あまりに摂取された栄養分の作用力が大きいと、外界で起こっている法則性が優位になり(主に重力)、人体内の呼吸作用では制御できないものが現れてくる。このような経過は、まずエーテル体に現れ、このような下部の消化作用は新陳代謝プロセスと呼ばれ、人体内から多大な独立性を有するものになると、上部では克服できずに、下部の消化プロセスは不規則なものとなり、このことが頂点に達すると、ヒステリーとなるという。 このヒステリーとは逆に、上部の呼吸作用が、あまりに過度に組織を酷使しすぎると、不規則な相互作用が起こり、心臓に、下部へと伝達される前に、上部の呼吸プロセスが終わってしまい、いわば器官が知性的になりすぎ、神経衰弱が現れるという。 以上をまとめると、下部の新陳代謝プロセスが不規則だと、ヒステリーになり、上部の呼吸(律動)プロセスが不規則だと神経衰弱となるという。 これをエーテル体(気でもいい)の流れのイメージで捉えればわかりやすいだろう。エーテル体は波動によりオーラを有するので、早い話、オーラがあれば生命体であることわかる。霊視力がある人は、オーラの色により、人体の状態を読み取れるわけである。 また、上部の呼吸プロセスを光の流れによる天の浮遊力とし、下部の消化プロセスを重力の負荷による地への拘束力とするならば、丁度、それが心臓において均衡を保ち、レオナルドダビンチの描いた有名な人体図が現れるのである。 グルジェフの万物が波動から成っているという説と錬金術を加味して考察するとなおのこと興味深い認識が得られるものと思われる。長くなったので次回に譲りたい。
2006年09月19日
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十中八九、次期総理は、安倍が確実視されている。なぜであろうか、答えは明快である。米国の意向だからである。安倍は、米国の売国ともいうべき政治家の岸の末裔である。永久戦犯を取引きに逃れたのは、いまや誰もが知るところだろう。このような日本の事情は、戦国時代と非常に酷似しているといえる。 自称信長を演じている現総理は、米国の意向による日本植民地化を進行させた。日本の富は米国に吸収されたが、いまや日本の富もなくなりつつある、もはや日本から米国は崩れていくだろう。 かって、信長はイエズス会の意向のもとに、天皇を排斥しようとしたようだ。信長は恐らく、イエズス会を利用して、アジア統一、いやアジアの王を目論んだのだろう。それは秀吉に、朝鮮出兵を漏らしていることでもわかる。足利義昭が父とまで言った信長を裏切ったのは、それなりの理由があったのである。義昭はそれと覚り、諸国大名に信長を討てと親書を出すのである。 明智光秀は、天皇、日本の文化に忠義するために、あえて謀反を起したのだろう。その証拠に、信長の首をとってからは、何も考えていない行動をとっている。信長の家臣たちは、薄々それをわかってはいたが、誰が鬼に鈴をつけるのかでためらっていたといえる。でなければ信長が討たれてからの秀吉の大返しはいくらなんでも運がよすぎるし、恐らくは、家康も一枚かんでいるはずだ。それは明智光秀の家康接待の失敗にあり、信長の家康暗殺未遂にあったものと思われる。つまり、わざと腐った魚を出して、家康にそれとなく知らせたのであろう。信長は当然のごとく、怒り狂うわけである。そして、光秀の領地を没収し、四国攻めに向かわせる。 こういう仮定の推論からいえば、明智光秀は、戦国時代の楠木正成であったといえる。その後の秀吉にしろ、家康にしろ、徹底的なバテレン追放令を出すのは、イエズス会排斥にあるといえる。 戦国時代のイエズス会の役割は、いまの米国の資本主義そのものに酷似している。 米国資本帝国主義の連中は、日本にそのような人員を戦後から配していたといえる。その資本帝国主義の総本山は、恐らく石油資本のロックフェラーだろう。ロックフェラーは悪魔に魂を売りし者といえる。ヒトラーが米国の友人と呼んだのは、恐らくロックフェラーのことだろう。ロックフェラーとロスチャイルドのつながりが不明確だが、共に戦争を機に莫大な儲けを得たという点で一致している。人の命を金に変えても悪びれない非人道的な力の源である。それを悪魔と呼びたい。そのよう闇史はおいておいて、こと、日本の独立に焦点を絞って考えてみる。 これらは確かに推測の域を出ないが、日本の独立性を遵守する基本から考えれば、米国の意向ばかりが通用する現政府の現実を、少なくとも理性をもって考えてみる必要はあるだろう。 日本の独立性は、沖縄と北方領土返還にあると思われるが、戦後60年たってもいまだ、その現実にはほど遠い。沖縄は名義だけは返還されたが、実質上は占領地そのものという実体がある。北方領土に関してみれば、完全なロシアの領土と化している。勘ぐって考えてみれば、米国と当時ソ連の間で、取引きがあったと思っても不思議ではない。米国は自分の意向を通すときは、必ず、ソ連(ロシア)が襲ってくるというブラッフを盾に、現在では北と中国だが、日本政府をゆすり続けているからである。 自分たちの意向を通すには、原爆だって落とすような非人道的な連中だといえる。人類史上原子爆弾を用いて大量虐殺を行ったのは、米国のみである。そのような反省もないばかりか、その正当性を主張するのは、太平洋戦争を正当化し、東京裁判を正当化し、靖国参拝を正当化する人たちと、どこが異なるのだろうか? このような悪魔の力を背景としたブラッフが、21世紀まで通用していいものだろうか? 人間性を改めて考えてみるべきであろう。 もし、米国が真の友人とするならば、そのような脅しをする前に、俺が守ってやるから、安心してくれというか、もしくは、代わりに、ソ連(ロシア)や中国に文句を言ってもよさそうではないだろうか? 日米安保という対等条約まで結んでいるのだから。これが対等条約だというのなら、日本の内政、特に貿易に関する民間のことに少なくとも文句をいく権利などないだろう。ましてや、日本の常任理事国入りに土壇場になって反対したのは米国なのである。 ともかくも、いちいち、日本の内政に干渉してくる米国は、どうみても、日本を独立国というよりは、従属国や植民地として舐めているとしか思えない。しかも、昨今は、総理大臣まで、米国の意向を通そうとするのでは、なんの独立自治権があるといえるのだろう。やっているのは日本人でも、中身は、竹中のような米国のハゲタカ投資家の堕落した魂そのものなのであるからだ! せっせと金が稼げなくなると逃げ出す始末だ!! これが真の日本人といえるのだろうか? 3人のうち、最も、光秀に近いのが麻生だといえる。共にどうせ短命で終わるのだから、麻生にやらせてみて、日本の変化をみてみたい。 米国は思うようにやるがいい。自分の首を自分で絞めているだけなのだから。 現在も地球の大気に存在している、キリストがみて、以下のごとく言うことだろう。 「おぉ、父よ! このひとたちは、自分が何をしているかご存知ないのだ!! 憐れな人たちよ! 悪魔から救いたまえ!! アーメン」
2006年09月19日
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「結婚できない男」は、毎週火曜夜10時にやっているドラマだが、独身野郎の聖域として、これまで、愉しいひとときを送らせてもらっていたが、とうとう、明日に最終回を迎えてしまうようだ! 私は、ドラマはあまり見ない主義なのだが、このドラマは、久しぶりにハマってしまったのである。 私がハマったドラマは意外に少ない。思えば、探偵物語、101回目のプロポーズ、王様のレストラン、古畑任三郎といったところだ! それも、多くはリアルタイムではなく、レンタビデオになってから、まとめ見して見たものばかりだ! なぜだか、「24」はみていない。というのも話題の「24」は早くからその存在を知っていたが、世間が一気に加速して話題を通り越してしまったので、乗り遅れた感があり、今更、見る気がおこらない。まるで、結婚できない男ならぬ、24みれない男になってしまった!! ハマルまでいかない小ハマ程度では、ごく最近では、「功名が辻」と「トリック」ぐらいなので、結婚できない男は、わがドラマランキングではナンバーワンかツーぐらいなんでR(あ~る)。 もともとコメディが好きな私の、完全にドツボにハマってしまったといえるドラマだと思う。 「結婚できない男」は、ドラマ紹介CMから、非常に可笑しかったので、これは絶対見逃さないぞという、ドラマみない私でも、気合いが入ってしまい、第1回目から見続けているのでR。 主人公がどことなく、和風なミスタービーンを思わせる。勿論、ミスタービーンよりはハチャメチャではないが、なんとなく仕草や雰囲気が似ているような気がする。主人公の桑野信介のキャラ以外にも、小粒だが色々と愉しいキャラが出てくる。親の遺産で遊び呆けるプレイボーイ金田、可愛い顔して、毒のあることを言う主人公の隣人、メンインブラッグの犬型宇宙人を思わせるケンという名の犬、いまどきの若いお笑いイケメン芸人のような部下、どうみてもオバハンだろうが恋愛を夢見る女医と、まだまだ盛り沢山なのだが、有頂天ホテル並のキャラちゃんこ鍋といったところである。 そいえば、ELTの♪じょ~じょじょじょ~♪ではじまる主題歌も、なんだか、間抜けチックでよいのだ! この勢いで、かっての山口百恵の赤いシリーズみたいに、阿部寛の結婚できないシリーズとして、是非連続ドラマ化してくれたら面白いと思うのだがいかがだろうか? 赤いシリーズというよりか、ウルトラマンに近いシリーズ雰囲気ではある。最終回は明日だが、なぜか、「帰ってきた結婚できない男」をはやくみたい!! 結婚できない男は、実は、中年のウルトラマンなのかもしれない。
2006年09月18日
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神秘学では、人体を、自我、アストラル(星の意味)体、エーテル(アイテールの光の意味)体、物質的肉体の4つからなるとしている。端的にいえば、人間を夜空に輝く1つの星の輝き、発光体としているのである。自我は、発光を点じるところ、つまり火をつける部分で、アストラル体は、火を伝播するもので、魂と呼んでいる。魂を火の玉と呼ぶのはこの自我とアストラル体を意味しているようだ。 エーテル体は、アストラル体の火の伝播をうけて、肉体の物質体、これは影と呼ばれるが、この影の部分を、火の伝播から融合し、発光体とするような関係にあるらしい。素粒子論でいえば、自我が、素粒子の生成消滅の命令を出し、アストラル体が、素粒子の場を形成し、エーテル体が、ボソンの場となり、物質的肉体がフェルミオンの場となるような標準模型が思い浮かぶだろう。 人間は光と闇からなる一種の星なのである。 人間を精神と人体に分けると、人体は、闇的な物質的肉体部分と、光的なエーテル部分、これは気孔の気とも理解されているが、その2つのものから構成されると考えられる。例えば、これをパソコンで考えると、パソコンを使うユーザーの目的は自我で、パソコンを操作する方法はアストラル体、そして、パソコンのソフト部分が、エーテル体で、ハード部分が物質的肉体に値するといえるだろう。 なので、病気といっても、物質的肉体部分そのものだけをみていても、根本的な治療には至れないのである。上述した4つの体の状態を理解しなければいけないからである。物質的な部分は、その上位の自我、アストラル体、エーテル体の間の障害の二次的なものであるわけで、障害といっても、その3つの結合状態が、変化していることであるから、本当は障害ではなく、いわゆる魂の偏向、偏り気質のことを意味する。この魂の偏りをカルマと呼んでいる。 我々は、この世で体験することにより、カルマを償い、魂の偏りをなくすのであるから、なんらかの障害として現れる病気のなかに、カルマがあり、障害としてこの世に現れる病気を、自ら克服することにより、カルマを清算することができる。 残念ながら、現代は、あまりに物質主義的志向のために、魂が深く、物質的肉体のなかに入ってしまい。闇のなかに光が囚われている状態といえるだろう。宇宙の闇を形成するのは、悪魔であるが、我々は深く物質的快楽に魅了され、物質的肉体そのものが人体だという錯覚に陥っているといえるだろう。だから、癌種を新生物として理解してしまうという。 では、神秘学で、炎症と、潰瘍生成、及ぶ腫瘍形成について、いわれていることを書いてみる。 人体において炎症が生じるのは、エーテル体が、特定の方向に活動が導かれ、炎症部位において不活性化されているからだという。エーテル体とは、物質的人体には、腺器官として表れるので、炎症部位において、細胞間の分泌物のサイトカイン等が見られるのは最もなことだと思われる。だから、ある方向に向かって不活発になったエーテル体の作用を、正常な配置に引き戻して、エーテル体全体が、健全な意味で作用するように行うことが、その治療として必要となってくる。 潰瘍形成、腫瘍形成の場合は、物質的肉体の形成プロセスが、エーテル体の活動に敵対し、その部分において、エーテル体の不活性化を生じる場合に起こるという。だから、炎症も潰瘍形成、腫瘍形成も、エーテル体の不活性化に起因するが、その原因は両極端で、炎症が、エーテル体自らの流れにあり、潰瘍、腫瘍形成は、物質的肉体の抵抗によるという。 これらを悪魔を用いて表すと、炎症が、ルシファー的な魂の偏向で、腫瘍形成が、アーリマン的な物質的肉体への嗜好にあるといえる。これら悪魔的な病に対して、エーテル体を正常な活動に戻すために必要とされる知識は、植物に関する生命的な知識であるという。とくに、上述した炎症や腫瘍形成に対して有効な材料は、ヤドリギという寄生植物であるという。 なぜ、ヤドリギかというと、ヤドリギは、他の植物をいわば土として生育するので、他の植物よりは、生命の成長の時期が、ずれているからであるという。他の生物は、四季とともに生長するが、ヤドリギは、その成長の法則からずれた植物だからであるという。つまり、宇宙の進展とともに、生物体は、順次に、直線的な組織化のイメージで、生長していくが、ヤドリギのような冬だけの植物は、この直線的な組織化、発展化から免れていて、いわば自由な存在になっているという。この性質が、不健全なエーテル体の活動を刺激する可能性を与えるという。ヤドリギに限らす、冬季だけに生育する植物は、このような可能性を見い出せるという。 ただし、その植物の薬剤としての加工技術の知識は、現在ほとんど残っていないので、これらから蓄積していく他はないというのである。
2006年09月16日
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あまりにキリストのことを書くと、キリスト教徒と勘違いされるので、はっきりといっておくが、私はキリスト教徒ではなく、特定の宗派ももたない。カトリックは権威主義的だと思われるし、イエズス会も日本の歴史をみれば、あまり好きにはなれず、ましてや十字軍などは、どうみても軍隊なのに、なぜに救世軍などと誉めそやされているのか幼き頃から不思議でもあった。イスラムと争う福音主義は語るに足らず、プロテスタントは堕落そのものと思われるし、むしろ新しいものほど胡散臭い。 個人的な問題はおいておいて、今回は、キリスト原理について神秘学から書いてみたい。キリスト原理とは、調和や秩序をもたらすもののことをいう。前回等でしばしば述べてきた、魂の聖霊領域にある、思考、感情、意志の3つの能力に、調和や秩序をもたらす魂のより深い領域の、ロゴス領域に値するといえるだろう。 キリスト原理は、太陽系の運行を司る調和や秩序の音域のことを指すようだ。音楽が、人の心を癒すのは、このキリスト原理にあるという。そもそも、音楽は、アポロンにより地球にもたらされたものだという。 アポロンは太陽神のことだが、キリスト原理を意味するようだ。キリストは、イエスとともに、人類が地球上でアトランティス時代を送っているときに、悪霊の棲みつく惑星を巡り、善である調和と秩序の種を植えたという。その行為が、木星にゼウス、火星にアレス、水星にヘルメス、金星にアフロディテ、土星にクロノスという神霊を誕生させたという。 これらの神霊が統一され太陽神アポロンとなったという。 このイメージは、混沌とした無秩序なカオス、まるで龍のような宇宙の状態に、調和と秩序をもたらす龍の教育、調教者の存在としてうつったという。 それは、人間の魂のなかで、悪魔に誘惑され統御不能になり、混沌として荒れ狂う、思想、感情、意志が混じった龍のような心魂に、秩序と調和をもたらす白い龍として顕れるようだという。 キリスト原理は、イエスとして、人間の心魂に黒い龍(悪魔)を寄せ付けないために、龍の姿を受けとらなければいけなかったという。人間のなかの荒れ狂う、混沌とした思想、感情、意志の心魂に教育、調教をもたらすために、イエスはキリストとともに、悪霊の棲む惑星に、善の種、愛の種を植え付け、アポロンの下に統一したという。 龍を飼いならす神話、龍に打ち勝つ聖者の伝説、神話はあらゆる民族にみられる。日本のには、ヤマタノオロチの退治がある。 それはまるで、天使が星の杖を振りながら、善の種、愛の種を植え付けて宇宙を巡るようなイメージを与える。 そして、アポロンは地球にアスクレビオスを誕生させたという。また、アポロンは、ミューズ(ムーサ)たちの神で、歌と音楽の神だったという。余談だが、ムーサとは、日本語の武者のことではないかと思う。恐らく武士の祖先は、歌、それも弦楽器の使い手だったと思われる。ムーサとは、文芸の神で、文武両道を尊ぶ武士の意味もここからくるものと思われる。文芸とは、歌、音楽で、それは魂のなかに、調和と秩序をもたらしえる使者という意味なのだろう。 刀の原型は、楽器の弦なのではないかと思う。神秘学では、自我を両刃の剣で表し、アストラル体は、エーテル体の余分な構築や過渡的な繰り返しの増長、無駄を省く役割をするといわれるので、その役割は、まるで刀のようである。つまり、雑音を統御して、綺麗な音色を奏でる弦のようでもある。身体を楽器だとすると、刀は身体を切る(なでる)もので、弦というイメージと結びつくからである。 武士が不祥事を起すと切腹するが、そのとき、首を切る介錯をするが、神秘学からいえば、頭部、胸部、腹部の3つの身体の連動から、人体はなるので、その3つの部分を切断するというのは、人体を楽器とみなした場合、混沌とした雑音体を裂くという意味で、切腹というのは、理に叶っているからである。 つまり、刀は、唯物化した霊的楽器の弦なのではないかと思われる。 武という字は、弌を止めると書くが、弌は鋭い刃物を表すので、つまり、武の真の意味は、鉾を収めるという感じなのだろう。戦うことをやめるのが真の武士なのである。日本的にいえば、左遷された菅原道真こそが真の武士といえるのだろう。なにより、大和魂とは、この白い龍、調和と秩序の魂のことをいうのではないだろうか? そういえば、幕末の剣の達人、男谷精一郎は、剣の極意を、「人を切るのではなく、心を切る」というようなことを言ったと記憶している。 神秘学によると、イエスという名の意味は「神をとおして治療する者」という意味だという。 その言葉は本来、イェホシュア、イェシュア、イェシュ、イェススというらしい。この文字から浮かぶのが、前回の4つのヘブライ神聖文字である、JH-VH、JH-WH、YC-VH、YH-WHのような気がする。これらは、イエスが、4段階のキリスト原理に貫かれたことを意味するという。 宇宙のなかに混沌をもたらす悪魔、ルシファーとアーリマン的な2大悪霊党とでもいうべきものに対して、秩序と調和をもたらす天空の音楽の使者キリスト、それは、実際、人間に、4つの段階の調和と秩序をもたらしたという。 1つ目は、感覚の営みの調和と秩序であり、これがもたらされないと、人間は適度な感覚をもちえずに、好き嫌いの激しい、反感と共感の両極端の感覚をもったという。ある色には極端な快感を覚え、ある色には激しく憎悪し苦しむというような、反感と共感のなかで、我を失う存在となったという。これらの傾向は、いまでも、人種、民族主義者や、極端な過激派にみられるところである。 2つ目は、生命器官の調和と秩序であり、これがもたらされないと、人間の生命器官が、強欲の器官か、吐き気の器官にすぎなくなっていたという。ある食べ物には激しい欲望をもって突進し、別のある食べ物には、恐ろしい嘔吐感がこみあげてくるものになったという。生命器官の他に、呼吸器官、循環器官に、調和と秩序がもたらされたという。 3つ目は、思考、感情、意志の調和と秩序であり、これらが、分離し、独立すると、心魂に混沌とした龍が顕れる。この龍を退治するのが、上述したロゴスの領域のキリスト原理であり、白い龍なのである。太古、白い龍は、泉の西の地の裂け目から上る蒸気を意味したという。ギリシア時代はそこに神殿を建てたという。その神殿で、上る蒸気をみて、巫女は神アポロンの言葉、ロゴスを神託したという。この名残りが、風水の青龍にあたる。 そして、4つ目は、自我の調和と秩序であるという。これは地において、キリスト=イエスが十字架刑により死んで、ゴルゴダの秘教として、霊的に復活を遂げたことで、もたらされるという。これがもたらされないと、黒い龍が再び現れて、魂は混沌とし、悪の人種アスラとなるという。 これらのキリスト原理に魂が貫かれないと、「王様の耳は驢馬の耳」で有名なミダス王のように、人体に異常な兆候が顕れるとギリシア時代ではいわれていたという。調和と秩序のある人体形成が顕れないのである。このミダスという言葉は、もしや日本語の「乱す」の語源なんではないか?とも思ってしまう。 これら4つのキリスト原理は、黄道十二宮、7つの惑星、太陽と月と地球の関係、十字架で表されるという。 そして、これらの言葉が、上記のイェホシュア、イェシュア、イェシュ、イェススであるのだろう、前回では、ここから、4つの塩基と、アストラル体とエーテル体の関係を正四面体と64の数秘で、大まかに解説したつもりである。十字架の十字は、天においてはエホバ=ヤーウェ=アドナイとイエス=キリストの交差であり、地においては、ペテロ=ヤコブとキリスト=ヨハネの交差で表されるようである。その詳細の解明はいまのところ不明である。
2006年09月14日
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ある物凄いブログに遭遇してしまった。それは現代のピュタゴラスともいうべき人のものだろうと思う。恐らく、前世がピュタゴラス学派に所属していた人だと勝手に解釈してしまった。以下のブログがそれである。 http://homepage1.nifty.com/metatron/index.htm 近々閉鎖するとあるので、急いで御覧あれ! このブログをみていて、気がついたことを以下に書くことにする。 それは、生命は64の数の原則からなるだろうと予測されるのである。 64は、2の6乗であり、4の3乗であり、8の2乗であるのだが、2の6乗により、易の陰陽のパターンとなっており、4の3乗により、DNAの4種のヌクレオチドACGTによる蛋白質のもとになるアミノ酸の3連子の遺伝暗号コドンを作成し、8の2乗により、チェスの盤面のマス目の数をなすのである。 易の陰陽とは、気であるエーテル体の流れを表しているとされるもので、それはつまり2の6乗の2進法を使って、7乗(段階)で元に戻るとすれば、ドレミファソラシドの音階律で表現できる。だから、気であるエーテル体は、2進法を6つのオンオフ状態で表す図によって表現でき、それは、プラトンの図形である、正四面体で表現できるのである。 正四面体とは、いうまでもなく、ピラミッドの形なのである。ピラミッドは聖杯の象徴なのである。聖杯の象徴図は目にみえる正四面体と、目にみえない(霊的な)正四面体(上下逆)で表されるのである。横からみると、六ぼう星となる。六ぼう星は、アストラル体の象徴でもある。 つまり、聖杯はアストラル体により形を整え作られ、2つの各正四面体は、エーテル体により構築されることを意味しているようである。これらの正四面体を作る点と線からなる辺が、エーテル体の気の状態だと捉えることができるのである。 で、64は4の3乗でもあるので、これを正四面体を使って表現すると、正四面体の各頂点もしくは面を、DNAの4種のヌクレオチドACGTで表すと、特定の面において、アミノ酸の3連子の遺伝暗号コドンを表現することができ、特定の(点)面における対称性の変換(点あるいは面の入れ替え)により、3つの仮想の正四面体から、4の3乗を用い64を表現することができる。 そのブログによると山田久延彦氏は、その4つの塩基を、JH-VH、JH-WH、YC-VH、YH-WHのヘブライ神聖文字に当てはめ、ヘブライ22文字に対応させ、あわせて、20のアミノ酸、及びその合成信号と合成停止信号の22だと仮定しているという。 この22は生命の木の10のセフィロト(点のようなもので叡智を表す)の間をつなぐ路(パス)の数である。太古この10のセフィロトを、神秘学ではモーセの十戒と呼んでいるのである。 モーセの十戒は、この64の全状態数から22だけを選択する法則のことをいっているのであろう。それを解明すれば、3つの正四面体の相関関係、つまり三位一体の創造原則があからさまになるのであろう。 神秘学ではそのことは、神殿伝説として、残されている。そこには、モーセの十戒は、アークの聖櫃に入れられ、三角形のもとに隠されていると伝承されているのである。その意味は、恐らく、モーセの十戒は人間が善になるべき守る道徳のことをいい。アークの聖櫃とは、神々からいただいた自我を、悪魔から守り、制御することで、三角形とは、肉体、エーテル体、アストラル体を表すものと思われる。 人間が神々から自我を授けられ、肉体へと宿っていくときに、雄鶏が鳴いたと伝承されている。そして、再び、人間が霊性に目覚め、肉体を去るときに、再び雄鶏が鳴くと伝承されているのである。この雄鶏が鳴くのは、恐らく、64の状態数を乗り越えた音階数の共鳴音楽、つまり天空の音楽を聴くということをイメージしているように思われる。 ちなみに、日本の神輿は、このアークの箱を唯物化したものであるようだ。古来の神道に、神殿伝説が残されていた証でもあるだろう。アークという名も元はオーク(樫)の意味だろう。なぜなら、オークはドルイド教で、ドルイド僧が、樫の館に集まって密議(秘儀参入)を行ったことに由来しているものと考えられるからである。ドルイド教は、キリスト教の原型となった。 ここにきて、バックミンスターフラーが正四面体こそが、宇宙座標にもっとも適した図形だと言った意味がわかる。フラーは現代の正六面体(=正方形)で座標をつくるのではなくて、正四面体で座標をつくるべきだと言った。正六面体では、静止状態しか表現できず、正四面体こそが、動的なダイナミクスを表現できる座標であると理由つけた意味が明らかとなった。 恐らく、3つの正四面体が運動(変換)して、点や面をつくり、その辺が、エーテル体として表れ、それが大きな正四面体を表すのだろう。正四面体を一方の側面からみると、そこに十字架が現れることに気がつかされる。十字架がみえる側面に垂直に軸を取ると、回転対称性の軸が現れる。このような軸は、7本あるのである。 点と面心のものが4本で、線心と線心のものが3本である。 この回転軸を、ドレミファソラシドの音階に当て、ドレミが線-線の回転対称軸で、ファソラシが、点-面心の回転対称軸を表すものだと考えることができる。 ここから、恐らくは賢者の石の発見に結びついてゆくものと思われる。正四面体の幾何学的運動力学から、錬金術が生まれたのだろう。この正四面体を基盤として、プラトンの他の図形と、アルキメデスの図形まで進むと、元素の周期律表が現れるという。 恐らくは、この正四面体は、素粒子の生成消滅の構造を幾何的に表すものなのかもしれない。 最後に64は8の2乗であるが、それを用いたチェスゲームのなかに、錬金術師は、巧妙にその技を隠したものと思われる。その謎は、恐らくはマス目とナイト、キング等の駒の関係にあるのかもしれない。神々と悪魔が、チェスの駒(人間?)を、盤面(生命数)に沿って動かしながら戦っているというパロディなのだろう。
2006年09月13日
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宇宙人といっても、一風変わった人につける仇名のことではない。今回は、地球人以外の未確認知的生物体のことを、神秘学より考えてみることにする。宇宙物理学者のカールセーガンが、監修した映画「コンタクト」のなかで、主人公に語らせている言葉がある。 「宇宙がこんなに広いのに、地球人だけなんて勿体ない」こんな風な言葉だったと記憶しているが、宇宙に関する知的生命体探索の科学者の、その活動の指針は、地球人だけが知的生命体であるには、宇宙は限りなく広い、確率からいえば、地球に似たような星があっても不思議はなく、おそらく、地球人と同じような生命体が存在するだろうというものなのである。科学者は、確率的に、実際に、その存在を認めているのである。 宇宙人の話は別としても、なぜ、人類は、自然破壊が進んだとはいえ、最も生存環境に適した地球を、放棄してまで、月や火星に進出するような仮説を前提に、NASAが予算を獲得したいエゴがあるにしても、米国の1つの国家プロジェクトとして活動しているのか、不思議であるといえるだろう。まぁ、最近は、他国侵略路線に変えつつあるが。 これらのことは、神秘学から考えれば、一目瞭然だが、あまりに衝撃を与える話なので、無視されること請け合いであろう。宇宙人、勿論、知的生命体は、我々が存在するごとく、存在する。ただ、目に見えるような形態、つまり物質体を有しているのは、地球に棲む生物だけなのである。我々、人類も、肉体といういわば地球で活動するための宇宙服、つまり殻のようなものから抜け出せば、宇宙人の仲間であるといえる。このことは、宇宙の進化形態に属することなのである。勿論、地球以外の惑星体にも、我々の魂に似た活動を行う知的生物体が、霊体として存在するという。そうでなければ、なんらかの星の活動を説明できないという。 太古人は、皆、占星術者として、これらのことを知っていたので、例えば、火星は戦い好きな連中が棲む星として、戦争の星、闘争の星、議論の星と呼んでいたのである。それが、名残りとなって、現代の占星術になっている。つまり、占星術の惑星の特徴は、その惑星に棲む霊体の特徴なのである。勿論、その霊体たちの一部は、地球にも転生してきている。だから、古代遺跡は、何らかの星から転生してきたことを物語る構造になっているはずで、実際そうなのである。日本の某有名占い師が、土星人、火星人と勝手に呼称しているのは、やり方が稚拙だが、あながち、全くのウソではない。 仏陀は、水星人と呼ばれるし、キリストは太陽の使者、つまり太陽人だと初期キリスト教でははっきりと理解されていたのである。太古では、これらのことを、一般常識ともいえるくらい明らかだったのだが、実は隠蔽したい勢力も宇宙には存在し、現代では、謎とされたのである。次のことを言ったら、気がふれたとかアホだとか馬鹿にされるだろうが、たま出版の某社長と、同じに見られたら堪らないが、一応、言っておく。 隠蔽した勢力とは、これらの惑星に棲む悪霊たちであり、総じて悪魔と呼ばれた連中である。 実は、これらの知識は人類の進化や宇宙の進化に関わるものなので、これらの知識を与えるかで、我々人間が、議論するように、天使(太古の宇宙人の呼び方)のなかでも議論があるという。公開賛成派が、人間が呼ぶ右翼的な思想の原型となり、公開反対派が、左翼思想の原型となったという。だから、本来の左翼、右翼の意味は、フランス議会のジャコバン党に由来する呼び方ではなく、天使の翼(思考)から来ている呼び名なのである。 いま、私がここで公開しているように、恐らく、天使のなかでも公開してよい段階となったのか、右翼が左翼を上回ったのだろうと思われる。 宇宙人論がここまできて、なぜ米国が月や火星探査を目論見、また地球を監視する偵察衛星を頻繁に打ち上げるのかの回答がないと思われるが、実は、左翼の天使たち、多くは悪霊であるが、その悪魔が、人類の主に指導者たちにとりついて、人類の進化を停滞させたいが故なのである。悪魔たちにとってすれば、自分達の活動勢力を広げたいのは山々なのであろう。悪魔は宇宙の進化から取り残されんがために、仲間の輪を広げたいのでもあろう。 実際、近代の暗黒の時代カリユガと呼ばれる近代史を辿れば、そのことは明らかになるだろう。とくに米国や偽イスラム教をアジテートするテロリストにその極限の兆候が見受けられるだろう。彼らが唱え、微笑むなかに、悪魔の形相が浮かび上がる。悪魔にとりつかれた指導者を、TVに映せば映すほど、悪魔の微笑みは、快楽として伝染していくであろう。真に恐ろしいことである。私は、日本の某指導者がTVに映ったときは、必ずチャンネルを変えないと吐き気がする。これはヒトラーや独裁者に通じる危険な微笑なのである。 何も、物質的な寄生虫やウイルスだけが伝染するのではなく、イメージ、総じて脳の食物といわれる知的な情報体、とくに単純なスローガン等も伝染するから、注意が必要なのである。そういう意味では、現在のTVは恐ろしいほど害悪に満ちているといえるだろう。エゴからなる自己宣伝の広告は、悪霊の悪しき典型例といえるだろう。犯罪者は、自己の正当性を主張するが、それこそ、自己のなかの社会性の欠如ならびに人間の倫理の欠乏を露呈しているのである。犯罪自体が、その証拠でもある。確かに日々起こる凶悪事件の何割かは、現在の報道に問題があるといわざるをえないだろう。このように社会には害悪な誘惑が多々あるが、それに乗った本人の責任と自覚、健全な思想の有無の問題なのである。 確かに真の自由は認めなければならない、それは、悪霊が、容易に、その自由を手玉にとって、規制や制限を加えるからである。だから、規制や制限ではなくて、健全な思考や、健全な認識を身につければいいのである。そのような報道に遭遇したら、チャンネルを変えるか、冷静に対応し、理性において適切な対応をとればよいだろう。少なくとも感情的になっては思う壺である。悪霊は自分と同じ考えや共感を広めるために、感情を煽ってくるのである。悪霊に使い捨てにされるのは誰なのか考えるべきである。だからとにかく、主体的に生きることが肝要であろう。 しかし、いくら仲間や勢力を広げたとて、宇宙の大きな進化に逆らえることはできずに、取り残され、消えてしまう存在となるだろう。それらの自己矛盾を、とくに、現在の米国はジレンマとして抱えているといえるだろう。第一、仮想敵国をつくってまで、愛国心を扇動し、敵がいないと活動できないなんてものこそ、人間的な基本徳性として、どこか欠落していると自覚すべきである。テロリストは確かに赦しがたき存在だが、その挑発に乗って反テロリスト行為を行えば、悪霊のマッチポンプの完成となるだろう。理性の目をもってみれば、我々一人一人がテロリストを生み出したのであり、悪霊によるその挑発行為を招いたのである。我々一人一人が、他に依存することなく、自らの日々の生活の責任として自覚すれば、このような悲惨な出来事を招くことはないのである。日々一人一人の自覚、健全な思想の問題なのである。 一方の頬を打たれたら、一方の頬を差し出しなさい(左翼思想に傾いたならば、右翼思想に向かいなさい)。 神秘学では、右向きは進化の方向を表し、左向きは退化の方向を表すが、これは勿論、物質的な人間社会の左翼、右翼とは関係がない。現存する右翼思想は、反左翼でしかないのである。これは唯物論、つまり左翼化した右翼思想のせいである。つまり、両方ともに、悪魔アーリマンの翼(退化の翼)なのである。 近代史をみれば、アーリマンのゴンディシャブールの学院から、イスラム教の抵抗を受け、唯物論が生まれ、キリスト教に浸透し、唯物論的宗教思想が生まれ、それは西洋において科学主義として名を変え、現代において、社会科学論として、資本主義や共産主義、社会主義を生み出し、左翼と右翼に分け、人類を闘争へと埋没させたのである。勿論、現存する宗教も唯物化され、生と死を理解することのできないものとなっている。いまや、地球はアーリマンの帝国そのものといわざるをえない。衛星により人々は獣のように管理され、各国の利己的な指導者により、感情を急き立てられ、闘争へと邁進し、戦い傷つけ合って、その傷に塩を塗るがごとく、敵をつくり、憎悪を剥き出しにし、人々は戦地へと向かわされている。地球上は、まるで殺人ゲームの場と化している。さながら、ローマ帝国の闘技場である。 暗黒のローマの時代、最も、霊的知識に暗闇がもたらされたとき、太陽の子キリストが、地にもたらされた。 打たれるべき頬がなぜ二つあるのか、神々が頬を2つ与えたのは救いであり、なぜ頬が打たれるのか、天使は、両翼をもって羽ばたくといわねばならないが、アーリマンの唯物的な翼を持つのではなく、キリストの霊の真の翼を持つべきなのである。それは、なぜ進化から遅れる悪ができるのか?と、その悪を救う為にはいかに行動すべきであるか?に関することなのである。その問いは、全宇宙的であるばかりか、この地球上でも、更には人間社会でも基本的な命題なのである。悪を憎むのではなく、いかに理解し、赦しあえるかに、人類の進化はかかっているといえるだろう。これが、本当の太陽系の学問、つまり聖杯思想であり、帝王学なのである。 人類には、学ぶべき2つの学問があり、それは黄金伝説と神殿伝説として伝わっているのである。 ウィアーノットアローン。我々はけっして一人ではないのである。宇宙は皆で支え合って生きている。他の悪を通して、自らの悪の芽を断つことが肝要なのである。
2006年09月13日
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神秘学によると、悪魔アーリマンが憑依した最も邪悪な人間には、人間とは思えない冷酷さや非人情さが現れてくるという。そして、その顔つきは、獣のようなものに変わってくるというのである。前回で、人間の自我は、3つの宇宙力をうけていると書いたが、この顔つきの獣化の要因は、その3つの宇宙力である鷲のような思考、獅子のような感情、雄牛のような意志が、バランスを失い、分裂し、そのうちのどれかが際立って目立ってくることに、依っているのではないかと思われる。 そういえば、現日本の総理やブッシュはライオン似で、独裁者ヒトラー、スターリンは鷲似、チャーチル、毛沢東は雄牛似のような感じがする。 これは、鷲が強いと思考過多で、権力指向の強い暴力的人間の性格を表現し、獅子が強いと感情過多で、依存症的あるいは狂信的な人間の性格となり、雄牛が強いと意志過多で、冷たく無感動な知的人間の性格を表現するという。上記の人間の性格を上手く現してはいないだろうか。まるで動物占いのようでもあるが、神秘学では、人間の魂は、動物の全てが集まったバランスよい平均型といわれるので、なんらかの動物顔は、魂のその偏向的傾向を表すものといえるだろう。 これに似たような話は、グルジェフの人間のタイプ分類というのがあり、タイプ1は、いまいった思考だけが突出した人間で、鷲といえ、タイプ2は、感情の突出した獅子のような人間、タイプ3は、意志の突出した人間で雄牛のような人間といえるだろう。人間のなかの自我は、魂の反映なのであるが、魂の能力により、これらの思考、感情、意志が、自我にもたらされてくるという。もっと魂の能力を詳しくいえば、魂は、父、子、聖霊の3つの意識能力別に分けられるという。上述した思考、感情、意志の3つの魂の表現能力は、聖霊領域のことを意味するようである。これを一般的には、意識下の精神と呼んでいる。 聖霊領域より深い魂の領域は、子(ロゴス)の領域であり、恐らく、これが意識下の3つの思考、感情、意志の調整役、統合役、つまりバランスをもたらすところで、グルジェフの分類では、タイプ4にあたるものだと思われる。神秘学では、これをマナス(霊我)と呼んでいるようである。子の領域をロゴスと呼ぶのは、宇宙魂と人間個人の魂の自我の交信を司る、言語的な領域なのだからではないだろうか。この魂の領域を、一般的には、無意識下の精神と呼んでいる。 太古の秘教学院では、意識下の精神である、魂の表現能力の、3つの思考、感情、意志を高めるために、それぞれ、占星術師、医師、錬金術師別に養成したという。この秘教学院は映画ハリポタの魔術学院のネタになったようだ。そして、どれにも所属しない第4番目の統合調整領域、つまりロゴス領域は、学院では謎とされていたようだが、恐らく、救世主養成部門というべきものだったのだろう。 さて、悪魔のうち最大邪悪のソラトは、意識下の精神を欲望により揺さぶり、その間の魂の調整能力を失わさせ、いわゆる魂のロゴス領域を遮断するように、刺激してくるものと思われるのである。つまり、魂のロゴス領域を麻痺させ、情報壟断を図り、魂を分離させ、粉々にし、宇宙の塵のなかに解消してしまおうと画策するウイルスのような情報体、いわゆる霊体であることがわかる。 この魂のロゴス領域の調整能力を失うと、意識下の精神に偏りが目立ち、顔面に、獣に似たその特徴を現す人間となるのであろう。これを黙示録では、666の獣の刻印と呼んでいる。つまりソラトに憑依され、ロゴスを失った獣人間アスラの魂のことを表すのだろう。顔をみれば、その人の魂の意識状態(能力)が分かるのである。神秘学では、肉体は魂の鏡といわれているので、この顔相は、魂そのものの能力を表しているといえる。 日本でも、龍や天狗や狐、狸といった獣は、その魂の偏りを表しているのだろう。狐や狸に化かされるとは、その人間が顔に表す魂の能力を意味しているのだろう。つまりこれらは、ロゴスのバランスを失い、何らかの獣的に偏向する魂の病的な状態を表すのだろう。龍や天狗は鷲、狐は獅子、狸は雄牛のような性格を現したものだと思われる。そういえば、龍や天狗は、権力指向の強い暴力的人間の性格を表現するのに用いられ、龍の刺青は、暴力的な人間に多く、権力志向の性格に対して、「あいつは天狗になっている!」とよく用いられ、狐は狡猾などこか狂信的で、呪詛的な人間の象徴として用いられるし、狸は、どこかトボけた、無感動な性格として用いられる。これらの多くは偏向した魂の象徴であり、妖怪、つまり悪霊なので、どこか魂にバランスの悪さをもたらすものだと思われる。 人間は、体験により喜怒哀楽の表情を変えるが、それは魂も同時に体験を共有していることを示しているといってよいのだろう。つまり、この世を体験した肉体が、魂の鏡としてそれを映すことで、魂は、自らを調整していく能力の機会に恵まれるのではないかということである。この世の体験こそが、魂が自らをコントロールしえる能力を身につける糧であるというわけなのである。だから、この世は、魂という乗り物の教習所なんではないかということである。霊界に出る前の、魂に安全な交通ルールを守るための教習所なのではないかということである。 魂の最奥の父の領域は、謎である。グルジェフではタイプ5と呼ばれる。この魂の最奥領域は、宇宙魂との境界領域なのであろう。もはや想像すらつかない。一般的には超意識下の精神と呼ばれる。神秘学でいう、デヴァ下位神界なのだろう。
2006年09月08日
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悪魔の存在の中で最も邪悪とされるのが、ソラトだという。神秘学では、この名は、400+200+60+6=666の太古の暗号法から、明らかになるという。太古では、数字をアルファベットで記していたが、400はT(タウ)、200はR(レシュ)、6はW(ヴァウ)、60はS(サメク)を表すという。TRWSの子音体に、母音を補い、右側から発音することで、「ソラト」となるという。 ソラトは、悪魔アーリマンのなかでも最も邪悪な悪霊だという。本人は、人類に悪いことをしていると全く思っていないばかりか、人類を教育し指導しているとさえ思いきってしまっているので、罪悪感など毛頭もないという。まるで独裁者である。歴史上の人類の独裁者の全てが、このソラトの憑依を受けていたともいわれる。 ソラト、いわゆる邪悪なアーリマンは、地球を太陽系、及び宇宙体系から切り離し、自らの砦とするために、人類を誘惑し、堕落させ、獣化し、奴隷化しようと目論んでいるという。ヤクザの手口とそっくり同じものといえるだろう。ソラトが地球にもたらした最も邪悪なものは、666年の周期で行われ、いままで、333年(666/2)と666年と1332年(666×2)にあったという。 333年には、キリスト教カトリックにおいて、アリウス派とアタナシオス派の論争が起こり、アタナシオス派が勝つが、それが元で、カトリックはローマ帝国のように権威化し、キリスト教は堕落の道を辿っていったという。とくに、初期キリスト教において重要な教えである、キリストが太陽霊の使者であるという見解を見失ってしまったという。 ソラトはキリストと敵対する太陽悪魔なので、キリストの存在を太陽とは別のものと人類に思い込ませるように画策したようだ。 666年には、ゴンデイシャプールにおいて、当時の哲学者を集め、学院を開き、人類には、時期尚早な太陽の叡智を3つ授けたという。1つは、遺伝による優生学、2つめは、精神による予防医学、3つめは波動による律動学だといわれている。これらの世界中への伝播は、ムハンマドのイスラムの教えにより阻止されたが、キリスト教カトリックの堕落した教えの権威化により呼応して、唯物観として広まっていき、ロジャーベーコンを介して、西洋において、唯物的科学として誕生したという。 現在のクローン実験や、性転換手術、臓器移植等や、出産前を含む遺伝子診断等のヒトの倫理に関わる科学技術は、このソラトの学院の流れを受け継いでいるようにみえる。 1332年には、聖堂騎士団の撲滅を行ったという。聖堂騎士団は、テンプル騎士団として有名だが、人類に聖杯の教えをもたらすものであったが、ソラトの人類を太陽という霊性に向けさせないように、地球に閉じ込める企みのために、巧妙に、唯物論により滅ぼされたという。このために、人類は、カリユガと呼ばれる暗黒の唯物的な時代を送るようになったという。第一次、第二次の世界大戦中、アーリマン的な悪霊たちは世界の指導者に憑依しては、その欲望を満たしたという。 そして、1998年(666×3)だが、この年を、色々ネット検索で調べてみて、面白いことに気がついた。日本では、1998年を境目として、急激に自殺数が増加するのである。以下のページを参照のこと。http://yoshim.web.infoseek.co.jp/zanjitsu_051106.html 自殺の原因の主なものは、デフレ対策からリストラを行い、雇用環境が急激に変化したことが考えられる。この年を賑わせたのは、カレー毒物混入保険金殺人であり、「毒」という言葉がその年を表す字になった。中学生の人殺し事件も目立っており、「キレる」という現象が巷にみられるようになった。世界では、米英はイラクを空爆しており、911を暗示させるものがある。それに伴い国連では人権宣言が行われている。 このように、1998年は色々なことが起こっているのだが、日本での自殺に関する歴史上、主要なものを考えてみると、金融ビッグバンが挙げられる。金融ビッグバンにより、いままで安定的な銀行が、不安定になり淘汰される時代が到来したのである。金融自由化という名目の基に、行われたのであるが、これにより、中小の日本企業が貸し渋りに遭い、倒産を余儀なくされるケースが続発し、銀行は合併統合の素地をつくり、モノとして売り買いされる商品の地位に堕落し、投機の対象となる。恐らく、この背景には、ソラトの社会唯物化思想が隠れているように思われる。 ビッグバンという名の宇宙論自体が、唯物論的科学の宇宙論の産物なのである。自由化という名目により、人類は競争を余儀なく激化させ、市場は、ソラトが目論んだように、一部の資本家により機械的なマシンのように統合されていくのである。世界的大資本家のなかに憑依していたといえるだろう。俗にハゲタカファンドといわれたのは、このソラトの目論見を見破った誰かがつけたのだろう。日本でも、このときの国の指導者連中は、無残な死を迎えている。恐らく悪霊にトリツカレタ報いなのかもしれない。恐らく、死んでも成仏できていないだろう。 霊を商売にする悪徳商売や、悪党悪霊にトリツカレテイルと脅すような連中も悪霊にとりつかれているのであるから注意が必要だ!。新興宗教はとくに危険で、黒魔術の聖地というか地獄地といってもよいだろう。霊媒は厳禁であり、まずは自分の主体的な意見が求められる。霊にとりつかれるといっても、ただ肉体がないだけで、他人の意見に左右されやすい人も、これと同じなのである。自分のことは、自分で考え、判断することが重要なのである。 1998年のことの、神秘学からの解釈は以下のようなものであるという。1999年に天体がグランドクロスを迎えるにあたって、従来の人間の自我の代表である、宇宙の三つの霊的な力(鷲の力、獅子の力、牡牛の力)が分裂独立的になってくるというのである。この自我の根源の3つの力の配位により、個人の人格が分裂する傾向になるという。この3つの力はそれぞれ、思考(鷲)、感情(獅子)、意志(雄牛)を表し、それぞれ分裂し、独立する傾向になり、これらをバランスよく、再統合しないで、何の努力もしなければ、権力指向の強い暴力的人間、依存症的あるいは狂信的な人間、冷たく無感動な知的人間のどれかになってしまうことになるという。これが、キレるという魂のバランスを失う原因であると考えられるという。 1999年のグランドクロスの準備、つまり、精神の統一、魂のバランス感覚が、1998年に求められていたことだといえるという。1998年のこれらのソラトの挑戦を克服した者は、1999年に十字架として、世界人類にその統一性を広める役目を果たすといわれていたわけである。これはキリストがゴルゴダの地で行った自己犠牲の愛の宇宙的な集大成であることがわかる。 日本の多くの自殺者や、ソラトに魂を受け渡した者は、いまでも、霊界において、ソラトの僕として、地獄のような苦しみを味わっているのだろう。 ソラトの研究は、まだまだ続けたいと思う。
2006年09月07日
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