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神秘学による、宇宙論が提出する進化論では、物質体は既に古い土星上で物質体としての性質を有し、太陽、月、地球進化を経て、さらに完成度を高めてきたという。この第二段階、すなわち古い太陽上でエーテル体が加えられ、従って今日エーテル体は進化という点で物質体より一段階低い状態にある。更に、古い月上でアストラル体が付与され、アストラル体は、月進化と現在までに完了した地球進化の一部しか経ていない。自我は地球上ではじめてつけ加えられたので、人間本性の四つの構成要素の中では「赤ん坊」の状態であるという。 動物の集合魂を貫いている叡智は、本来人間の物質体に刻印されているという。この叡智は、叡智に溢れた構成を持つ人間の個別の物質体へと移行したという。人間のエーテル体はまだ未完成の途上にあり、これからの地球進化のプロセスの中で、完成のために必要なものを全て取り入れるという。 動物の集合魂(アストラル界にある)→人間の物質体に刻印 地球が目標を達成した暁には、地球はアストラル状態へ、そして更に高次の状態へと移行し、その後、地球を引き継ぐ木星と呼ばれる惑星に変化し、その時、人間のエーテル体は、現在地球上で物質体が完成した性質を持つように、完成されているという。 その次にくる地球の受肉状態、通常未来の金星と呼ばれている状態においては、人間のアストラル体が完成に至るという。その時、アストラル体は今日の物質体の状態、そして次の惑星状態でのエーテル体の状態と同じ段階に至るという。 そして最後に、地球がヴァルカン(ウルカヌス)状態に到達する時には、自我が完成されているという。従って、実際、地球上では、人間の物質体のみが人間(完成体)と言えるものであり、地球の次の惑星状態では人間のエーテル体が人間であり、その時、エーテル体は地球が人間に与えることのできるもの、すなわち愛によって浸透されているという。 今日、人間の物質体が独自の特性として担っているものは、古い月に負うものだという。神秘学においては、古い月は叡智の宇宙と呼ばれ、当時の古い月上では少しずつ現在の人間の物質体に見出されるものが準備されていたという。 現在の物質体が月上で叡智に貫かれていたように、後の地球の木星状態に見出されるもの、すなわち完全に愛の要素に貫かれたエーテル体が、現在、愛の宇宙を通して準備されているという。今日、物質体の骨の一部に現れている叡智に驚嘆するように、木星人間はエーテル体に驚嘆するという。 なぜなら、人間のエーテル体は、現在の地球上の物質体が(月の)叡智に貫かれて形成されているように、いまの愛の力に貫かれているからだという。 これらのことを心に止めるなら、本来人間の物質体がようやく真の人間といえるものであり、本当の意味で人類の段階にあるという見方を認識できるという。 人間のエーテル体はいまだ人類の段階ではなく動物の段階であり、人間のアストラル体はまだ植物の段階であるという。 地球紀;肉(物質)体=人間段階、エーテル体=動物存在、アストラル体=植物存在 夜眠りにつき、アストラル体が離れるとき、物質体とエーテル体は夢のない眠りに沈むと、植物に終始見られる状態となるという。人間のアストラル体は、その意識状態に関しては植物の段階にあるという。自我に至っては、ようやく鉱物界の段階に達している状態であるという。 アストラル体=植物存在、自我=鉱物存在 自我-人間の意識状態は、全く鉱物界の段階そのものだという。この真実に従って、人間が理解可能なものを探ると、人間は鉱物界の物理的法則を理解でき、その法則に従って機械や工場、建築物等を建造できるわけなので、認識全ては鉱物界の物理法則に従って行われることになるという。 自我=意識存在=鉱物存在=鉱物界の物理法則 植物界の場合、当然、人間は生命そのものは知性をもってしては理解できないという。将来、人間が今日鉱物を理解するのと同じように植物を理解するときがくるという。そのときには、今日聖堂や家や機械類を鉱物界の法則に従って建造するように、植物という生命体でも作り出すことができるようになるという。しかし、現在、自我が貫かれているのは全て鉱物界の法則であるという。 科学は、いつか生命ある存在を実験室の中で製造するという理想が実現するのを期待しているが、これは、人類がある特定の道徳的進化の必要な段階に達しなければ叶えられないという。もし人類が現在既に、生命を創造できたとしたら困ったことになるだろう。低次元の欲求を満たす為に、生命は軽んじられるだろう。
2006年12月30日
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これまで強調してきたことは、物質界に生きている人間だけが個としての魂、つまり自我を有していて、周囲にいる動物たちは集合自我、集合魂を有していることで、集合自我はアストラル界に生きていて、そこでは完結した存在として見出されるということだった。 このように動物界と人間界は、霊的に観察してみると、集合魂ないし集合自我と個としての自我として互いに相対峙しているという。ただし、これを宇宙において、あたかも個々の存在間に全くの移行状態が存在しないかのように思い描いてはならないという。自然は飛躍しないという格言は、神秘学者には全くあてはまらないとはいえ、至る所に移行状態が見られるのは確かであるという。 つまり、動物界の集合魂と人間の個別的魂との間にも、移行状態が見出せるという。人間が地球紀に出現して直ぐに完全な個別的な魂を有し、この個別魂が地球上で同じやり方で何度も何度も受肉してゆく、というふうに思い描くとしたら、間違いだという。 むしろ、現代人は、太古の時代にもっていた集合魂から、まだ自分のものになっていない完成された個別的魂へと徐々に移行している状態であるという。今日の人間は、まだ物質体に個別的自我を完全に組み込んでいく途上にあるという。 現在の地球紀が多少なりとも完了するときになってはじめて、人間はこの完成された個別的魂を得るという。大多数の人々にとって、今日、自我は集合自我と個別的自我の中間状態にあるという。 過去へと遡れば遡るほど、人間の自我は一層、集合自我の度合いを増し、地球紀の初め、魂が初めて神的な世界からこの物質界に降ってきたとき、人間の魂はまだ集合自我であったという。複数の人間が一緒に1つの共通の魂、すなわち集合自我を有するグループに属していたという。 このことを一面として記憶に止めておくと、もう一つの面として、人間本性の構成要素、つまり、人間は本質として四つの構成要素、すなわち物質体、エーテル体、或いは生命体、アストラル体、自我を有し、この自我は、正確に観察すると、更に三つの部分、つまり感受魂、悟性魂或いは心情魂、意識魂という名で呼ばれる部分に分かれて現れるという。 感受魂と悟性魂ないし心情魂においてようやく独立した自我が微かに現れはじめ、意識魂に至ってようやく自己意識的な自我の最初の名乗りが得られるという。更に、人間の本質の第五の構成要素、つまり霊我ないしマナスと呼ばれるものも徐々に人間の中に入り込んできているように見えるという。 従って、今日の人間の場合、物質体、エーテル体ないし生命体、アストラル体、それからアストラル体と内的に結びつきアストラル体の中に組み込まれているようになっている感受魂、そして悟性魂と意識魂、さらに本来の自我-魂である意識魂の中に霊我ないしマナスが組み込まれているという。これで大凡、今日の人間を想定することができるという。 物質体、エーテル体(生命体)、アストラル体、感受魂、悟性魂、意識魂(自我-魂)、霊我(マナス)の7つの体。 さて、これら人間の構成要素のうち、最も仕上がり、完成されたものは、今日の人間が進化したように、最も仕上がった、最も完全に発達した構成要素は物質体であるという。ただし、「最も仕上がって、最も完全に発達している」ということと、「高次の性質を持つ」ということを混同してはならず、エーテル体とアストラル体は、その程度(レベル)において物質体よりも高次の性質を持っているが、未来においてやっと、その発達の完成に到達するという。 その性質において今日の物質体は人間のなかで最も完成された構成要素で、物質体を研究する人、しかも単に解剖学的に、もしくは物理学的にではなく、心情と心に染み渡るように研究する人は、物質体の中に組み込まれている巨大な叡智の前に驚嘆し、立ち尽くすという。 人間の物質体はその最小の部分のどれをとっても、完成された、叡智に満ちた構造を示していて、例えば、この物質体のうちで大腿骨のほんの一片、大腿骨の最上部をとってみても、一個の中身の詰まった固体などではなく、小さな梁が見事に組み合わされた、叡智に溢れた構造をもつという。 精緻な梁がいかに組み合わされているかを研究すると、最小の実質要素の消耗で最大限の力が出せるように、そしてこの大腿骨の柱二本で上体が支えられるように全てが構成されていることがわかるという。 最も完璧な工学技術をもってしても、このような叡智による、最小限の材料の消費で最大限の力を展開する橋や骨格のようなものを建造することはできないという。人間の知恵は人間の物質体を構築したこの叡智に遥かに及ばないという。 物質体全般の部分に対しても同様で、神経組織を備えた脳を観察すると、素晴らしい構造に気がつき、人間の心臓を観察すると(ただし、心臓は未完成途上にあり、将来更なる高度な完成に至るという)、心臓も素晴らしいものであることに気がつくという。 この物質体の完成度合と、欲求や衝動、熱情を伴ったアストラル体を比較してみると、アストラル体は、将来物質体よりも高次に位置するようになるとはいえ、今日のところまだ比較的低次の状態にあることがわかるという。 今日の人間が享楽への熱望として発達させている全てにおいて、アストラル体は物質体を何百とない攻撃に曝すという。人間が調達するアルコールやその他あらゆる享楽の中で欲望され満たされるもの、これらはすべて根本的に物質体の叡智に満ちたすばらしい構造に絶え間ない攻撃をしかける、正に心の毒というべきものであるという。アストラル体が、今日既に物質体が完成状態でもつものに行き着くには、これからの長い進化期間が必要なのであるという。
2006年12月29日
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真に秘密の修行と呼ばれるものを行うには、地球上の周囲の事象を見たとき、我々の魂の糧に感情を呼び起こすような、周囲の世界のイメージを想起することから始めなければならないという。最初に修行を志す弟子には、外界の自然で生じていることを単に外的な出来事として観るだけでなく、内的な体験として魂全体をもって、いかに地球の生成、固体化が苦痛を感じているかを共感することができるようなイメージ、概念が伝えられるという。 この苦痛の心象は、実際の霊的な事実を提示し、真の神秘学においては、像は空想的なものではなく、実際の霊的事実から読み取られたものであるという。いかなる哲学も、思弁も、最高度の明敏さも、このような像の謎を解くことはできず、はじめて高次の世界の事実を認識することによってのみ、理解に導かれるという。神秘学においては、あらゆる像は実際の霊的事実を表現しているという。 このように、神秘学における図像は体験から取ってきたものであるという。例えば、有名な卍の図形をあげると、様々な文献に、この図形に関する色々な機知に富む解釈を見出すが、神秘学にこの図形が取り入れられたのは、アストラル的な感覚器官と呼ぶものの模像に他ならないからだという。ある修行により、人間はアストラル的な感覚器官を養成することができ、この卍のなかの二本の線は、霊視者の霊眼に、炎の車輪か花のように見えたそのアストラル体の中での動きであるという。これらは蓮華とも呼ばれるという。 この車輪ないし蓮華(例えば、両眼の眉間辺りには二弁のもの、喉頭のあたりには十六弁のものが位置しているという)、アストラル界に発光現象として生じてくるこのようなアストラル的感覚器官を表す記号、図形が卍であるという。 つまり、卍とは、蓮華(チャクラ)の象徴図なのであるという。だから、お寺は、チャクラを開発する修行機関といえるわけであろう。 或いは、また別の記号、いわゆる五芒星(ペンタグラム)を考えると、前にも書いたように、五芒星は1つの真実で、これは、人間のエーテル体の中に見出せる流れ、力の流れの作用を描き出している図像であるという。 人間の場合この種の力の流れが左足から頭部の定位置まで上昇し、そこから右足へ、次いで左手へ、そこから身体を通り、心臓を通って右手へ、そして右手から再び左足に戻るという。その結果、人間の中に、頭、腕、両手、両脚、両足を通る五芒星を描くことができるという。これを単なる幾何学的な図形としてだけでなく、力の作用としてイメージしなければならないという。人間は、エーテル体の中に五芒星をもっていて、その力の作用は、正確に五芒星の線を辿っているという。各線は様々に捻じ曲がることもあるが、常に五芒星の形を保って、人体に書き込まれているという。五芒星はエーテル的な一つの真実で、それは人体の象徴ではなく、人体の事実(力学)であるという。 このように、神秘学においては、どの象徴も霊的世界の事実(力学的作用)の像であるという。このような事実が根底にある世界を示唆できてはじめて、その意味が認識されるという。従って、人間の最高度の知性と雖も、神秘学の記号の解釈に至ることはできないという。唯一[霊的世界の]体験から、神秘学の記号と象徴の意味を見出すことができ、この意味を認識することで、人間は「何かを始める」ことができるという。なので、人間が、まず霊視的な能力により見出されものを伝達され、語られ、それらを獲得することは、決して不必要なことではなく。そして、探求された事実により、再び人間はこれらの事実の原因へと回帰させられるという。 記号や象徴と同様、古い伝説や神話においても事情は同じで、伝説や神話は民衆文学からつくり出されたものではなく、全ての伝説や神話は、人間がまだある程度霊能力をもっていた時代の遺物であるという。ヨーロッパの伝説や神話において語られていることは、人間が以前に見た事実を記憶として保存しているものだという。これらの伝説、メルヘン、神話の中にある全ては、本来霊視的に見られたもので、本来の霊視的経験を見た姿そのままに語っているという。神話とは霊視的経験が見た通りに語られたものであるという。 そのことは、今日でも猶、神話で語られている出来事全般をアストラル界で追求することができるという。ヴォータン或いはオーディンによる行為は、実際に起きた事で、神秘学的な記号、象徴、封印の背後に、真実を探すことができるという。しかも、思弁による何らかの空想や想像をもって、これらの記号の解釈を企てようとすることが少なければ少ないほど良いという。 つまり、神秘学の事実感覚へ入っていけば、記号は人間により、考え出され、作り出されたものなどではなく、霊的世界における実際の出来事の模像ないし複製であり、そして、神話において出会う全ての物語は、まだ人間の大部分が霊視力を有していた頃に見たことの再現であるという。 なので、いまでも高度な霊能者ならば、これらをそっくりそのまま見ること聞くことができるという。
2006年12月29日
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地球の中心には植物の自我だけが存在するのではなく、まだその他に別の霊的存在がいるという。けれども、その存在たち皆にそのような個的な場所があるのかという問いは無意味で、それらの自我たちは混じり合い、非常に仲良く暮らしているという。このように個々の植物を観察すると、植物に物質体としての特性が認められるが、個々の存在としての意識が植物にあるとはいえないという。 植物は意識を持っていて、その意識は地球の意識と結びつき、地球の意識の一部であるという。我々人間が喜びと悲しみを張り巡らし、互いに浸透させあう意識をもっているように、植物の個々のアストラル体が地球のアストラル体に浸透し、植物の自我は地球の中心点を貫いているという。生きている植物は、動物の有機体組織の中で牛乳が占めるのと同じ位置を、この地球の有機体組織の中で占めているという。 植物が地球から芽吹き、緑に萌え、花咲く時も、牝牛が乳を与える時も、同種類のアストラル的な力が基礎になっているという。植物の花を摘み取っても、地球にとって何ら不快な感情はなく、地球はアストラル体を有し、アストラル体で感じとるという。植物を摘み取ると、植物は子牛が乳を吸う時に牝牛が感じるのと同じ感じを持ち、一種の快さを感じるという。 地面から生えているものを引き離しても、個々の植物ではない、地球は快さを感じるという。それに対し、植物の根を引き抜くと、地球(自我)にとって丁度動物の肉をもぎとるのと同じようなもので、地球は一種の痛みを感じるという。 集合自我についての抽象的な概念の中ではなく、空虚な抽象概念を感情と感受性へと変化させるように沈潜すると、人間は自然の出来事と共に生きることを学ぶという。このような自然観察は活き活きとした感受であるという。秋に野に行き、鎌で穀物を収穫する人を見る時、鎌が茎を通り、茎を切り取るのにぴったりと合わせて、畑の上に霊的な何かが風のように、快い感情が吹き渡っていくような予感を得るという。 霊視者が地球のアストラル体の糧に見るものは、このように描写されたことの霊的な根本的原因であるという。このことを見抜いている人にとって、穀物の収穫はどうでもよい出来事ではなく、丁度、人間の場合、何かある体験の際に、全く決まった種類のアストラル的形成物が立ちのぼってくるのが感じられ、見えるのと同じように、秋には畑の上を地球の快い感情のこのようなアストラル的表現が掠めていくのが見られるという。鍬が地面に畝を立て、植物の根に手を加える時には、事情は異なり、鍬での畝起こしは地球に苦痛を与え、この時、苦痛の感情が立ちのぼってくるのが見えるという。 状況によっては、牧場へ行って役に立たないからといって、あらゆる花々を摘み取ってしまうよりは、植物を根ごと地面から引き抜き、移植する方が良いのではないかという批判的意見は、道徳的な観点から考察すれば、正論にみえるが、この場合は全く異なった解釈が提示され、次の例を考えればわかるという。 確かに、状況によっては、白髪になり始めた人にとって、美的感覚から、生え始めた白髪を抜く方が良いと思えるが、やはり毛を引き抜くのは当人にとって苦痛であるわけで、花を摘むことは地球にとって心地よく、植物を根から掘り起こすと地球にとって苦痛であるという。つまり、毛を切ることと毛根から引き抜くことが異なるように、花を摘むことと根を掘り起こすことは全く別ものだという。 本来、生は苦痛を通して世に現れ、生まれてくる子供は、出産する母親に苦痛を生じさせるという。このことは、環境の中で認識するだけでなく、自然の中に感情移入させるような術を学ぶための一例であるという。 生とは実際、苦痛であり、苦悩なのであるという。 このことは鉱物界にもあてはまり、鉱物も自我をもち、鉱物の自我は高次の所にあり、神秘学が、アルーパ・デーヴァ(デヴァチャン)神界と呼んでいる、デーヴァ(デヴァチャン)神界の高位の部分にあるという。鉱物の集合自我は、物質界における人間の自我、低位デーヴァ(デヴァチャン)神界における植物の集合自我、アストラル界における動物の集合自我と同様、自身として完結した存在だという。 物質界においては、鉱物の物質体のみが存在するが、他の領域に鉱物にもアストラル体もエーテル体もあるという。霊視者は生きた連関を視ていて、採石場に行って、鉱夫たちの砕石を見ると、霊視者には丁度生体の肉に食い込む時のような感じが生じるのがわかるという。そして、鉱夫たちが働いている間中、アストラル的な流れが岩石界を貫いているという。 鉱物のアストラル体は、デーヴァ(デヴァチャン)神界の低位部分に見出され、鉱物の自我はデーヴァ(デヴァチャン)神界の高位部分に見出されるという。岩石の自我は苦痛と喜びを感じ、岩石を叩き落とすと、鉱物の集合自我は喜び、満足を感じるという。ちょっと信じられない感覚に聞こえるが、実際そうであるという。類推から考える人は、岩石を打ち砕くといえば、丁度生き物を傷つける時のように、岩石は痛いと感じるだろうと思うかもしれないが、岩石を砕けば砕くほど、鉱物の自我は満足を覚えるという。 では、「一体、鉱物の自我はどのようなときに苦痛を感ずるのか」と問うなら、鉱物の自我にとっての苦痛は、例えば、食塩を溶かしたコップ一杯の水を想定し、コップの中の水を冷やしていって塩が固い結晶となって分離されてくると、鉱物的な実質が再び固体化してくるが、このような場合、鉱物の自我は苦痛を感じるという。 鉱物の自我は、固体の分離の際に苦痛を感じるという。同様に、砕いた岩石を全部合わせてまた一個の岩石に戻す場合も、やはり苦痛が生じるという。鉱物の集合自我においては、鉱物が溶解する時はいつも喜びの感覚が生じ、逆に固体化する時には苦痛の感覚が生じるという。温めた水に塩を溶かすと満足感が生まれ、水を冷却して塩の結晶を析出させると、痛みの感覚が生まれるという。 このことを、大きな宇宙的関連の中でイメージするなら、地球の形成、鉱物の形成がこのようなプロセスと如何様に関連しているかがわかるという。地球の形成を遥かな昔までに遡り辿っていくと、地球の温度は益々上がり熱が高まっていき、そしてレムリア時代において、岩石が溶解している状態、現在は完全に固く結晶化してしまった鉱物が、丁度今日の溶鉱炉の中で鉄が液体化されているように流れ出している状態に行き着くという。 鉱物は皆このようなプロセス、つまり水を冷却するとコップの中に溶けていた塩が沈殿するようなプロセスを経てきたという。このように、地球上では全てが固体化し、集結してきたという。このような固体化は、液体状の地球の中へ集結した固い結晶が次第に沈殿化していく形で進行したという。このような固体化によって、地球は今日の肉体を持つ人類の棲家となり得たという。 この固体化は、ある特定の時期に頂点に達し、今日、この頂点の時期は過ぎているという。今日既に部分的には多かれ少なかれ溶解プロセスが生じているという。地球がその目的に達した時、そして人間がもはや地球から何も引き出すことができないほどに浄化され霊化された時には、地球自体もまた霊化されているという。その時には地球の鉱物的な含有物はすべて精妙にエーテル的になり、地球は物質化する前のアストラル的状態に移行するという。物理的な溶解過程はそこに到るための過渡的状態であるという。 この地球が、今日の進化段階で順次進化するための固い舞台基盤となるべき準備時期を考察してみると、絶え間ない地球の受難プロセスが存在したという。固体化を進めることで、地球は苦しみ、「苦痛に呻吟する」という。人間の生存は、地球の苦痛を通して獲得されたという。いわゆるアトランティス時代の初期まで、この地球の苦痛が増していくのが認められるという。 人間が次第に自らの浄化を行うようになった時から、地球も再び苦痛と受難から解放されるという。このプロセスは、まだそれほど進んでいないという。人間の足下にある固い地盤の大部分は、今日も猶、苦しんでいるという。霊視を地盤へ向けてみるなら、固体は地球存在の呻吟(苦悩)であることがわかるという。 このような事実を神秘学的な由来から探求し、宗教文献の中に再び見出す人には、宗教文献が霊的世界の深みからいかに書き上げられたかが開示されるという。その時、これらの宗教的古文献を尊重する感情が猶一層高まり、経験を通じて、外界の事物に目を向け、いかなる真実の基盤がパウロの言葉、つまり「全ての自然は、苦痛のなかに呻吟(苦悩)する養子を得ることを待ち焦がれている」の根底にあるかを、経験的に認識することができるという。 このパウロの言葉を翻訳すると、「地球生成の全ては、後に地球上の存在たち(人類)にとって『養子を得る』つまり霊化が遂行されるための、苦痛の下での生成、苦痛の下での固体への凝集である」という意味になるという。 人類が霊化を成し遂げるために、地球は、母体として苦痛を味わい、その基盤である固体を生み出したというのである。
2006年12月29日
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人間の周囲の自然の内部に、この動物の集合自我の顕現をどのようにして感じとるべきかを深く知ろうとするなら、周囲の全てが、霊的な秘密と霊的な諸存在の顕現であることを知らねばならないという。霊能力を身に着けていない人は、勿論、アストラル界での「散歩」をすることはできないという。アストラル界では、この地球上で物質的な人間-自我に出会うように、そこに住んでいる動物の集合自我と出会うという。 霊視をできない人でも、この集合自我がなす行為、作用を物質界で知覚することができるという。毎年、秋が近づくと、鳥たちが北東から南西の暖かい地方へ向かって飛翔し、夏が近づくと再び全く決まった進路を通って帰ってくるのが認められ、各々の鳥の属に対してその進路の1つ1つを高度と方角に従って比較してみると、この行為全ての中に、深い叡智が存在することを予感できるという。 この全体を導いているのが動物の集合自我であるという。様々な動物の属が、地球上で行う全ては、動物の集合自我の行為であり、作用であるという。動物の集合自我の行為を追求すると、本質的に、動物の集合自我は地球の周囲に広がっていて、地球の周囲で力となって展開していることがわかるという。地球は、多種多様な力、様々にうねり、直線や曲線、蛇行線をなして地球を取り巻く力に囲まれているという。 このような力をその作用、その顕現の中に見ることができるという。人間がこのような顕現を実感すると、霊視した場合に、動物の集合自我へと導くものが何なのかを予感することができるという。このように、動物界で生じている叡智に満ちた事に入っていくこと全てを学ぶことができるという。動物の属や種が行っていることは、動物の集合自我の行為の幾許かを垣間みせてくれるという。 植物界では事情は異なるが、植物界でも一連の自我が現れてくるという、この植物界に現れる自我は動物界のものよりもずっと少数だという。その数は限られていて、植物のグループ全体が1つの共通の自我に属していて、これを探すなら、動物界の集団自我よりも、もっと高次の世界に在るという。動物の集合自我がアストラル界にあって、地球を取り巻いて流れるアストラル的なものの中で生きているのに対し、植物の集合自我はデーヴァ(デヴァチャン)神界下部のルーパ部分と呼ばれている所に見出せるという。 そのデーヴァ神界で、これらの植物の集合自我は完結した個性として生きているという。丁度、物質界での人間のように、そこでは植物の集合-自我が逍遥しているという。物質体をもっていない他の存在たちと共に植物の集合-自我は低位デーヴァ(デヴァチャン)神界に住んでいるという。 どのようにして植物の集合自我を知覚する術が得られるかというと、知覚自体が霊視能力の発達と結びついていて、この発達は低次段階から次第に高次へと進んでいくという。そもそもこの能力を得るために最初に発達させるべきことは、物事に対する感情と感受性だという。実際の、真に霊視的な能力は常に第一に感情と感受性の養成に基づいていて、ただし、浅薄な利己的な感情ではなく、深く敬虔な感情だという。 植物を観照する時、植物がその根を地中に生育させ、茎を上方へ伸ばし、葉を上へ向けて広げ、次第に萼葉、花冠へと形を変え、その内部で実を結ぶというプロセスが思い浮かぶ。これを、人間と比較し、つまり、人間の頭部、頭を植物の花冠と、人間の足を植物の根と同じにみなすことはできないという。この比較は間違いで、神秘学の学院では、植物と人間を真に比較するには、人間の頭を植物の根になぞらえるような仕方で比較する必要があると教えられたという。 植物が根を地球の中心に向けているように、人間は頭を宇宙の方へ向けている。そして、植物がその花と実を控えめに太陽に向けているように、人間はその生殖器官を恥じらいつつ、植物が根を向けている方向、つまり下部へと向けているという。従って、神秘学では、「人間は逆立ちした植物である」と言われるという。植物は、逆立ちした人間のように見えるという。動物はこの両者の中間にいるものとして表記される。 通常植物と呼ばれるものの中には、単に植物の物質体とエーテル体があるのみだが、植物もアストラル体と自我をもっていて、以前に植物の集合-自我が低位デーヴァ(デヴァチャン)神界にあると言ったのは、一般的な定義に過ぎないからで、植物のアストラル体と自我がどこにあるのかを正確に示すなら、植物のアストラル体、この地球上にある全植物のアストラル体は、地球のアストラル体と同じものであるという。 つまり、植物は地球のアストラル体の中に浸されていて、地球を元にした場所によると、植物の自我は地球の中心にあることになるという。このような神秘学的な観点から、地球を1つの大いなる有機体として、アストラル体を有する生きた存在として捉えることができるという。そして、この地球上にある個々の植物はその一部であるという。 植物は個々に独立したものとしては物質体とエーテル体のみを養成し、個々の植物、つまりユリやチューリップ、その他の一本一本は意識をもたない。その代わり、地球が植物の意識、アストラル体、自我を担っているという。
2006年12月27日
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人間の周囲に生きている魂的、霊的なものに関しての理解に達したなら、周囲の自然がどのように見えるか、イメージしてみる。まず、理想的にとりかかるなら、物質界で周囲に生きている被造物の魂、つまり動物、植物、鉱物の魂は一体どういう状態なのか、物質的な感覚に出現するものの他に、この自然の三つの領域、事物の背後には何があるのか、と問うべきだという。 動物の領域を観察すると、霊的、魂的に、人間とは全く根本的に区別できるという。個々の人間が、自らの皮膚を境に閉じた内部に有するもの、このようなものは個々の動物の中にはないという。個々の動物はむしろ人間の各器官や各部分に比較されるという。 同じ形態を持つ動物は全て、つまりライオンの全て、トラ全て、全カスタマス、全ハエ、その他動物界において同じ形姿をもつものは全て、人間の一部分、例えば手の指等に比較することができるという。人間の十本の指を考えると、十本の指の一本ずつに夫々1つの自我をもつ魂が与えられているとは思えないだろう。 十本の指は全部、一個の人間に属しているわけで、人間には、一人一人に自我-魂が与えられていて、動物の場合、これを集合魂と呼ぶか群魂と呼ぶかは問題ではなく、同じ形姿を持った動物のグループの場合、個々の人間と同じ自我-魂が、基盤となっていると認める必要があるのだが、この動物グループの魂は、人間の自我-魂を探索すべき場所を探しても見つからず。人間の自我-魂が誕生と死の間にある場所は、物質界で、人間の自我-魂は物質界で生きているという。 動物の集合-自我の場合は、物質界ではなく、同じ形姿を有する個々の動物の集合自我の場合、個々の動物がいる場所(物質界)は問題にならず。ライオンが、アフリカにいようと動物園にいようと、全く同じであるという。個々の動物は同じ集合自我に属し、この集合自我はアストラル界にあるという。なので、同じ形姿を持つ動物のグループから自我を見出そうとすると、霊視的にアストラル界にまで赴く必要があるという。 アストラル界では、当の動物の集合-自我は、この物質界での人間の独立した個性に同じであるという。もし人間が十本の指を伸ばした時、仕切り壁を立て、壁の十個の穴から十本の指を突き出すと、壁の外側にいる人には十本の指しか見えない。この十本の指の自我を探そうとすれば、壁の後ろ側に行かねばならず、このように、個々のライオンには、全てのライオンの集合自我の一部を見る必要があるわけで、このような例えのように、アストラル界へ行くと、全てのライオン属の個性或いは個体を見出すことができるという。 丁度、この壁の後ろ側に人間の十本の指が属する個体が見出せるように、同じ事が、同じ形姿を持つ他の動物種にも当てはまるという。もしアストラル界を「散歩する」なら、アストラル界にはこれらの動物の集合自我が居住しているのがわかるという。そこでは、この物質界で一人一人の人間に出会うように、この動物の集合自我と出会うという。ただこれらの集合自我は、丁度十本の指を一本ずつ壁から突き出しているように、物質界へ、夫々分化した動物個体を差し伸ばしているという。 しかしながら、動物の集合-自我の本性、内的な特性と個々の人間の特性との間には、著しい相違があるという。この違いは、非常に逆説的にみえるが、現に存在しているという。つまり、これは1つの特異な事実であり、アストラル界での動物の集合自我の知力と叡智を、物質界での人間の知力、叡智と比較してみると、動物の集合自我の方が、根本的に賢いことがわかるという。 動物の集合自我がなすべきことは、最高度の自明性をもって行われるという。人間は、進化を遂げていく中でようやく、その自我を動物の集合自我がアストラル界で既にもつ叡智にまで高める必要があるという。勿論、この動物の集合自我には、人間がこの物質界で地球進化全体を通して養成してきたものが欠けているという。人間が養成したこの特殊な要素は、動物の集合自我には全く見出せないものだという。 これは、愛という要素、愛全て、血縁関係にある人間の血族的な愛という最も単純な形から、普遍的な人類愛の最高の理想の愛までを示すという。この要素は、他ならぬ地球進化の内にある人類によって養成されてきたものだという。感情、感覚、意志衝動は、動物の集合魂ももつという。愛を発展させること。これが正しくこの地球上での人間の使命だという。これが動物には欠けていて、動物の集合自我の基本要素は叡智であり、人間自我の基本要素は愛であるという。
2006年12月26日
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「武士の一分」が話題だという。私は藤沢周平の大ファンなので、映画やドラマはそれとなく大部分はみてきた。 映画やドラマを見る前に、原作を先に読んでしまうので、自分のイメージとあまりに異なると、失望してしまうことがよくあるが、NHKのドラマを除いて、藤沢周平原作の映画に関しては、なかなかよくできていたと思う。「たそがれ清兵衛」、「隠し剣、鬼の爪」は非常によかった。 さて、「武士の一分」の原作らしい「盲目剣こだま返し」を読んでしまった。 これが、たまらなく良い話で、風呂に浸りながら読んで、思わず涙してしまった! 江戸時代は、実際は、どうであったか、わからないが、「父子鷹」といい、それなりの日本人の美徳である潔さはあったのではないだろうか? でなければ、明治維新などという改革は、できなかっただろう。現代でいえば、廃藩置県はさしずめ、官僚総罷免の大改革だっただろう。とても、表の暖簾を差し替えただけで、内部癒着は、更に悪化している現代とでは、月とスッポンだろう。 上に行くほど、自らの我儘傲慢を通し、下を見下し、私利私欲のオンパレードとは、どうみても、褒められたもんじゃない、小説でいえば、悪党を地でいく恥曝しの嫌な奴である。 田沼意次よりも悪劣非道な輩が多すぎる。江戸時代よりも悪いのではないかと思う。 司馬遼太郎も書いているが、どうみても現代の役人の方が狡賢く薄汚いようにみえる。 現政権の旗頭が、税金で愛人囲みがバレて、一身上の都合で辞めたという。 それもリークしたのは財務省で、自分たちの予算を使いたいための策略だともいう。 私利私欲の輩が、国民そっちのけで、政治、行政ごっこをしている。 「お前らは一体アホか!」といいたい。こんな奴らが日本の指導者なんだから、日本など消えても誰も困らないだろうし、日本民族などは、もはや死んだも同然である。 日本人こそ、残したい民族だといった、アホな外国人に見せてやりたい!! あんたの眼は節穴どころか、盲目だったといってやりたい。 こんな日本人こそ、先に滅びるべき民族だと、私日本人は言いたい。 せめて、切腹でもしてみろ!といいたい。生き恥曝すなら、切腹しろ!こんなのが、学生を教えるんだから、大学なんか、腐った人間を育てる土壌そのものであろう。 挙句の果てには、私利私欲の都知事は、「新幹線が通ってなかった昔は、皆、やっていた」というような時代錯誤の自らもやっているかのような援護発言だから、全くお話にもならない。 この人たちは、進歩も自己練磨、自己鍛錬、自己修練という精神も持たないのだろう。 あなたたちは、一体、いつの時代を生きているのだ! 江戸時代や、昭和初期なんかではないのだぞ!! 平成という現代を生きているのだ!! 下半身全てが曝け出される情報化時代を生きているのだ! そのような過酷な時代の指導者の地位にあるのだよ!! もっと、指導者たる人格を練磨せねばならないだろう。 それが不可能ならば、せめて、江戸時代の美化された小説の如く生きてみろ!! 十戒を課すのではなく、十戒のように生きろ! 藤沢周平の小説のように生きてみろ! 現実の世界は、かくも堕落した悪賢い動物に塗れているとは…。 お役目大事として、死んだ気になって取り組んでみろ! 無責任大国ニッポンに、もはや明日などあるわけがないだろうよ!! とにかく、このような私利私欲人間は、他の日本人が穢れるから、日本人をも辞めてもらいたい! 少なくとも、藤沢周平の世界では切り捨て御免であろう! 日本国民の一分で切り捨ててやりたいぞ!! 安倍政権になってから、醜いことばかりである。醜い国ニッポン万歳!!
2006年12月25日
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これまでまとめてきた、幾つかの秘教学的記号や形象の意味、意義を単に知性だけではなく、感情や心情と親密になるようにしていくのがよいという。 神秘学においては、様々な形象や記号が使用されているが、このような記号や形象を解釈するのに、よく多大な機知と思弁が費やされるが、このような機知や思弁の多くが不適切であり、思弁や機知では、秘教学的記号や象徴の真の意味に近づく力を全くもっていないという。 神秘学者にとって、一般的な手引き書や著作で言及されるものが記号や象徴の意味では全くなく、通常ほとんど予測もしないようなところに、非常によく秘教的記号や象徴が見出せるという。やはり、民族に根ざす神話や物語の中に深い秘密の秘教的真理が隠されているという。このような神話や伝説を解釈する際に通常犯される過ちは、端的に言って、あまりに多大の機知や、思弁が費やされることにあるという。あまりにも分別的、理性的に深い意味が追求され過ぎているという。 このテーマを万遍なく汲み尽くすことはできず、あくまで警句的に扱うことができるだけだが、それでも、ここでまとめることを、秘教学的記号や象徴の高次の世界に対する関係、つまりアストラル界及びデーヴァ(デヴァチャン)神界ないし霊的世界に対する関係についてイメージを形成することが可能なように記述できるという。 日常の言語においても、何か高次のものを解釈するとき、非常によく特定の具象的な比喩が用いられる。例えば、認識や洞察に比喩を用いようとする時、「光」とか「認識の光」という言い方を用いる。このような言語の単純な表現の背後に、時折、何か途方もなく深いものが潜んでいるという。 このような表現を用いる人は、よくその起源を全く意識せずに、従って例えば光という比喩がどの様に認識や洞察と関係するのか、全く考えてもいないという。今日詩人が比喩を用いるように、このような表現を比喩とみなしているという。もし神秘学において、このような比喩的意味を考えるなら、全く道を誤ることになるという。事物はもっとより意味深いものであるという。 今日の言語において、象徴的、比喩的と言われるもの、或いはアレゴリーという表現で示されるもの。これらの多くは間違った道に導くもので、ある記号は恣意的にあるものを示すために選ばれたのだと、安易に考えられ過ぎているという。神秘学において、記号は決して恣意的に選ばれることはなく、神秘学において、ある記号が1つの事柄に用いられるときは、常に深い関連がそこに見出せるという。 けれども、神秘学の観点から見て、人間が自らの環境に対する位置づけについて、少し立ち入ってみれば、神秘学の記号や形象と高次の世界とのこれまでまとめられた霊的関連について真に明確にすることは不可能であるという。神秘学、或いは神秘学の基礎的な部分が、いつかより深い意味で、世にその使命を果たし、人間の生活と文化のあらゆる支脈が、神秘学の真理と衝動に貫かれるようになった時には、人間の感情、感覚生活全体、過度な排泄行為への位置づけ全体が本質的に変化しているという。 今日の人間が外界に対してどのように位置しているかを示そうとすれば、この数世紀以来、人間は益々一層、外界に対して非常に抽象的、合理的、唯物的な関係をつくりあげてきたという。今日野原を行く人は、春でも、夏でも、秋でも、大抵、眼前に出現するもの、感覚が受け取ることのできるもの、知性が感覚知覚から結合できるものを見ているという。例えば、その人に美的な天分があれば、何か詩的な感受性があれば、その知覚を感覚、感情で満たし、ある自然の出来事の場合に、悲しみや苦しみを、また別の場合には、高揚、喜び、楽しみを感ずるだろう。 けれども、今日の人間の場合、無味乾燥な感覚的知覚が詩的、芸術的な感情に転ずる場合でも、それは本来、神秘学によって理性や知性、頭脳だけではなく、魂と心に与えられる必要があるものの端緒にすぎないものに成り下がったという。神秘学の基礎事項が、物質界、アストラル界、デーヴァ(デヴァチャン)神界のあらゆる出来事の思索的な要約を与えてくれるだけでなく、魂に深く親和的になり、魂が前とは違った様に受け入れ、感じ、学ぼうとするようになる時、人生における重要な要因となるという。 とりわけ明確にすべきことは、神秘学を通じてまとめ、強調したことが現実に益々生じてくるということだという。神秘学がもつ真の奥義とは、人類が、感覚に現れてくる外界において表現される事物の背後に魂的、霊的なものが存在し、自らを開示する顔貌、身ぶり、表情を見てとるようになることだという。地球の外界で生じていること、つまり星々の運動の中にも、霊的、魂的なものの表現を見出すことを学んでいく必要があるという。 つまり、秘儀の奥義とは、エッシャーの騙し絵から生命体の輪郭を探すような訓練なのだろう。いまどき流行りの脳科学でいえば、イメージを形作るニューロン形成がよくなされるような訓練を行うことなのだろう。早く言えば、想像力の訓練でもある。 例えば、ある人の手の動きや眼差しの中に何か魂的なものが見出せるように、外界の自然や宇宙のなかに、魂的なものを見出すようになることが必要だという。このようにして人間は例えば晴れていく大気の中に、空気、水、土を真に浸透している霊的諸存在の内的なプロセスの外界への顕現を見出すことを学んでいくという。
2006年12月25日
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進化においては、最初に、激情、欲望、本能の世界に合流させることで、最もよく記述される存在、このような低次元の存在に対する反-次元が形成されるという。最初、この反次元はそのような低次元の存在だが、後に別のものになり、益々一層、この存在は自らを浄化していき、元は蛇によって象徴される低次の衝動から出発してきたものが、このプロセスが互いに向き合った二匹の蛇の中での反次元の融合によって象徴されているという。 人類は自らを浄化することで『宇宙の螺旋』と呼ばれるものへと上昇するという。浄化された蛇の体、この宇宙の螺旋は、深い意味をもっていて、1つの概念を得ることができるという。 神秘学によると、現代の天文学はコペルニクスの二つの法則に基づいていて、第三の法則は顧みられず放置されているという、第三法則は、太陽もまた動いているというもので、太陽は、前方へ捩れながら進んでいて、その結果、地球は太陽とともに複雑な曲線を描いて運動しているという。 同じ事が、地球の回りを運動している月にもあてはまり、これらの運動は、初歩の天文学で受け入れられているよりも遥かに複雑で、螺旋が天体のなかに示していることは、螺旋運動をする天体が、将来、人間と一致するような形態を表し、天体と人間が螺旋運動により一致するその時には、人間の生み出す力は浄化され、純化されるものとなるという。 人間が浄化された蛇の体として進化させるものは、その時、もはや下から上へ(人間から天体へ)ではなく、上から下へ(天体から人間へ)と作用するという。そのとき、人間のなかで変化した喉頭は、聖杯(グラール)と呼ばれる杯になるという。そして、この創造器官と結びつくもう1つの器官も同様に浄化されるという。 この器官は、宇宙の力の精髄(エキス)、大いなる宇宙の精髄となるという。精髄の中のこの宇宙霊は、聖杯にむきあう鳩の図像で描かれるという。ここで、鳩は、人間がいつか宇宙(コスモス)と一体化する時に、宇宙から働きかける霊化された授精作用の象徴だという。この出来事の想像力全体が、虹によって示されていて、虹は全てを包括する聖杯の封印となるという。 人間が螺旋運動として下から上へと上昇し進化し、聖杯をつくるとき、宇宙は螺旋運動として上から下へと下降した、精髄を、その聖杯に注ぐという。 この螺旋の象徴全体が、宇宙と人間の関係についての意味を、驚くべき方法で、他の封印の意味も含め、総括して伝えているという。従って、この象徴にも封印の周囲の縁に書かれた文字として、宇宙の秘密が現れているという。この宇宙の秘密は、人間が原初に根源の力から生まれてきたことを示しているという。 どんな人間も、振り返ってみると、意識の力から新しく生まれ、今日までに、霊的に成し遂げたプロセスを、原初の時代に経てきたという。薔薇十字会では、この霊的プロセスのことを(頭文字で)E.D.N=[ex deo nascimur](神から生まれた)と表記するという。E.D.Nを略すと、エデンになる。 開示の内部では、第二のものが加わり、2の数として顕現することを見てきた。すなわち、生のための死があり、生は死と共に開示される。人間は、この死の中で再び死を見出すために生きとし生けるもの全ての源泉の中で、この感覚の死を克服せねばならない。この生命の源泉は、全ての宇宙進化の中心点であるという。 というのも、我々人間は、新たなる生命の意識を獲得するためには死を見出す必要があるからだという。そして、この死の意味を救い主の秘密の中に見出すとき、死を克服できるという。「神から生まれた」のと同様、秘教的な叡智の意味で、「キリストにおいて死ぬ」という。I.C.M[im Christo morimur](キリストにおいて死ぬ)と表記できるという。 そして、開示される所ではどこでも、背後の第三の神聖に統一されるべき二元性が示されるので、人間は死を克服したとき、自らが、宇宙を貫く霊(鳩)と一体化するという。人間は復活し、再び霊のうちに生きるという。これをP.S.S.R=[per spiritum sanctum reviviscimus](聖霊により復活する)と表記するという。 この表記が、薔薇十字の表記だという。この表記は、宗教と科学が宥和する時代を照らすという。 P.S.S.R(E.D.N、I.C.M)=聖霊により復活する(神から生まれた、キリストにおいて死ぬ) 以上の通り、このような封印には、宇宙全体が描かれていて、しかも宇宙は魔術師や秘儀参入者によって、この封印の中に組み入れられたため、封印には強い力が内在しているという。いつも新たにこれらの封印に戻ってくることができ、封印は、瞑想を通して無限の叡智を開くことができ、改めて見出すことができるという。 このように封印は、宇宙の秘密から創られているので、人間の魂に強力な影響を及ぼし、今日上述したような、宇宙の聖なる神秘へと高めてくれるような事柄が述べられる部屋に、このような封印を掲げるなら、人には気づかれなくても、最高度に生命を活き活きと啓発する作用を及ぼすという。 しかし同時に、このような神聖な意味をもつので、逆に世俗化されることを嫌い、霊的なことが何も語られず、俗っぽい言葉が述べられる部屋に、このような封印が掛けてあると、やはり作用は及ぼすが、逆に肉体組織を病気にするような作用を行うという。このような場合、封印は消化を損なうという。霊的なものから生まれたものは、霊的なものに相応しく、世俗化されてはいけないという。このことを封印の象徴自身がその作用によって示しているという。霊的な事柄の記号は、霊的な事柄が生じ、健全な作用を得る所にこそ相応しいものだという。
2006年12月22日
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この地上では、各々自我を担っている物質的人間が見出され、アストラル界では、アストラル実質の中で、人間と同じような存在と出会うという。ただ、物質ではなくアストラル的な覆いの中で出会うという。つまり精妙な波動のなかの存在。人間はそこで、人間が人と話すように、動物の集合自我の彼らと話すことができるという。これが動物の集合魂の実体だという。 人間も以前の時代には集合魂を持っていたのだが、次第に今日の独立した個人の自我の存在へと進化してきたという。これらの集合魂は、元々はアストラル界にあり、そこから肉体の中に宿るために下降してきたという。今、アストラル界の中に人間の原初の集合魂を探してみると、人間の由来である四つの種類が見出せるという。 この四種を、今日の動物の属をなす集合魂と比較すると、四種類のうちの1つはライオン(獅子)と比較でき、もう1つは鷲と比較でき、三つ目は牛と、四つ目は自我が下降する前の太古の人間の姿と比較できるという。 更に人間のより高次の顕現のための集合魂、いわゆる子羊、救い主の徴(しるし)である神秘の子羊のイメージにより示される集合魂も存在するという。これらは、地球が存在する限り、これからも存在するという。これら五つの集合魂の分類は、全人間に共通する偉大な集合魂(子羊)を取り巻く人間の四つの集合魂(獅子、鷲、牛、太古人)として表され、ヨハネの黙示録の第二の図像として描き出されているという。 人間の進化を遥か彼方まで遡っていくと、何百万年もの歳月を考慮する必要があり、また別のものが現れてくるという。現在、人間は物質的に地球上にいるが、この地球上を動き回っていた存在が、まだ人間の魂を受容できなかった時代もあったという。その時、人間の魂はアストラル界にあり、そして、更に遡ると、この人間の魂が霊界、すなわちデヴァチャン神界にあった時代に至るという。 魂は、地球上で自らを浄化した暁には、未来において再び、この高次の段階に上昇するという。霊からアストラル的なものを経て物質的なものへ、そして再び霊へと循環する。これが人間の長い進化の道のりだという。これからのこの進化の道のりは、人間が土星及び他の惑星状態を経てきたこれまでの進化時間と比べると、短期間であり、これまで、人間は物質的な変化のみならず、霊的、アストラル的変化をも遂げてきたという。 このような物質以外の変化を追求するには、霊的世界にまで視野を上昇する必要があり、つまりより精妙な波動の世界への探求が必要で、そこでは、天球の音楽、この霊的世界で空間に漲り溢れている音が知覚されるようになるという。 そして、再び人間がこの霊的世界に慣れていき、物質波動よりも精妙な波動を検出できる霊的器官を獲得すると、この天球のハーモニーが人間に向かって響き渡るのを感じることができるという。これを、オカルト(神秘学)では、天使のラッパの響きと呼んでいるという。 従って、ヨハネの黙示録の第三の図像はラッパであり、霊的世界から啓示がやってくるが、その啓示を理解するには人間が尚一層進歩を遂げたときで、そのときはじめて姿を現すという。そのとき、進化の度合いに応じて、人間に七つの封印を施された書物が開示されるという。この封印が、いまここで考察しているものであるという。そして、これら封印の謎が解かれることになるという。 この象徴から、中央には書物、下部には人類が置かれ、そして四頭の馬は、上述の時代を経てきた人類進化の諸段階に他ならないという。 更にもっと高次の進化があり、人間は、更にもっと高次の世界に起源を持ち、そして再びこの高次の世界へと上昇していくという。その時、人間が今日とっているような形態はその世界の中へ消えていくという。今日、外界にあるもの、それは神秘学的に人間を構成している器官の由来の動物等の個々の文字だが、人間はその時、再び全て受け取り、つまり、外界を人体内に再び組み入れるという。そのとき、人間の形態は世界の形態と一致するという。 人間は、人間から現在の外界(自然)を分離してきたが、今度は、外界を融合し、人間として一体化する。 つまり、神的存在(人間、外界)である。これは、聖霊(父、子)=δx(1、△x)の変換と同じである。 神は自らに似せて人間をつくり、楽園に住まわせた。それが神的存在(人間、楽園)であり、人間は下降し、神的存在(人間、外界)となり、人間はどんどん外界を自ら分離することで、つまり、聖霊(父、子)=神的存在(人間、外界)=δx(1、△x)の変換であり、フラクタル構造を産んでいく。 人間は外界を分離することで、神的存在を下降し、展開してきたが、今度は、逆に外界を融合し、再び、神的存在へと上昇しうるのである。 ある種の神秘学の通俗的な記述では、「自分自身の内に神を探し求めよ」と教えたり語られたりしているが、神を見出そうとするなら、万有のうちに広がっている神の作品のなか、つまり外界に神を探し求めなければならないという。 宇宙のいかなるものも単なる物質ではなく、物質は粗雑な波動で、単に見かけ上にすぎないものであり、実際全て物質は霊的なものの現れ、神の活動の知らせであるという。つまり、物質は精妙なる神の波動(声)の受肉化したものであるという。 そして、人間は来るべき時代の推移において、自らの本性をいわば拡大していき、益々一層人間は世界と一体化し、人間の形態の代わりに宇宙(コスモス)の形態(人間存在を拡大したフラクタル構造)を置くことで、自らを提示することが可能になっていくという。このことは、岩、海、円柱(幾何学的形状)を備えた第四の封印に見出せるという。 今日、雲として世界を通り過ぎてゆくものが、人間の肉体を形成するための素材を提供するという。今日、太陽霊の下にある諸力が、更に限りなく高められ、霊的な諸力として形成したものが、未来において人間にもたらされるという。この太陽の力こそ、人間が将来獲得するもので、人間の頭部、それは植物の根に相当し、根を地球の中心に向けて沈めている植物とは反対に、人間は頭を太陽に向け、そして、人間は頭を太陽と合体させ、より高次の力を獲得するという。 このことが、ヨハネの黙示録の象徴図の岩と円柱の上の雲の体にある太陽の顔の中に見てとれるという。その時、人間は自らを創造する存在となるという。そして、完全な創造の象徴として、多彩な虹が人間を取り巻いているという。ヨハネ黙示録の中にも、このような類似の封印を見出せ、雲の中に書物があるという。黙示録では、秘儀参入者は、この書物を飲み下す必要があると語られ、これによって、人間が単に外的に叡智を受容できるだけでなく、今日食物で自らを満たすように、叡智で自らを満たし、自身が叡智を体現するようになる時が告げられているという。 それから、宇宙における大いなる変化が眼前に起こる時に近づくという。人間が太陽の力を引き寄せてしまうと、太陽が再び地球と一体化するという進化段階がはじまるという。人間は、太陽の力により太陽を生み出すという。なので[第五の封印の象徴は]太陽を生む女であるという。その時、人類は非常に道徳的、倫理的になっているので、低次の人間本性の中にある有害な力はすべて克服されているという。 これは、七つの頭と十本の角を持つ動物によって描かれるという。太陽の女の足下に、地球が用いることができず分離できなかったあらゆる有害な実質を含む月があり、今日、月が魔術的な力により地球上で行っていること全ては、その時に克服されるという。人間が太陽と一体になるとき、人間は月を克服した存在となるという。 続いて[第六の封印で]、このように高次の霊化にのぼりつめた人間がいかにミカエルの形姿に似ているかが表されているという。ミカエルは、この世の悪いものを龍の象徴(シンボル)の中につなぎとめる象徴だという。 ミカエルは龍退治の象徴であるという。 人類進化の初めと終わりが同じ変化の状態であることをまとめてきた。いま、この同じ状態が、流動する火の足を持ち口から剣を突き出した男の中に描かれていることがわかる。意味深い象徴学においては、宇宙の全存在が聖杯の象徴において明かされ、この第七の封印について概略的にまとめると以下になるという。 神秘学者は、この世界の空間が物質的世界にとって、単なる空虚の容器とは全く別ものであることを知っているという。空間は、全存在をいわば物質的に結晶化させ、出現させる源泉で、例えば、水で満たされた完全に透明なガラス製の立方体の器に、この水を貫いて冷却する流れが導かれ、様々な氷が形成されるのをイメージすると、空間の性質を理解できるという。世界創造の1つの表象、つまり空間は、このようなイメージから形成されるという。この空間の内部へと神的な創造の言葉が発せられ、ありとあらゆる事物が結晶化し生み出されたという。 つまり精妙な波動からなる空間に、ある受肉化(結晶化)させる振動(神の調和の波動)が与えられ、空間のなかに、物質が形成されるような感じである。超弦理論でいえば、弦が精妙な空間で、ディレクレ条件からなる膜、つまりD-ブレインが、神の調和の波動という感じだと思われる。 神的な創造の言葉が内部に発せられたこの空間を、神秘学者は水のように透明な立方体によって表すという。この空間の内部で様々な存在が発達していき、空間の最も近くにある存在に、立方体は三つの垂直方向、つまり、長さ、高さ、幅の三本の軸を付与する。このことを、立方体の三つの次元で示すことで、最もよく特徴づけることができるという。 さて、これらの、外の自然界にある三つの次元に反対の次元を加えることを考えてみると、これは例えば、1人の人物がある方向に進み、もう1人が彼に向かってきて両者がぶつかることを意味する。同様に、各空間次元にも、各々反-次元が存在するという。従って、立方体は全部で六本の線を持つことになるという。 これは超弦理論の6次元の空間に一致している。 これらの反次元の反対線は同時に人間存在の最高の構成要素の原初的萌芽を表しているという。空間から結晶化された物質体は、最も低次のもので、霊的で、最高のものは、その反対物で、反-次元によって示されるという。 霊的エネルギーは、現代物理学でいえば負のエネルギーと呼ばれる、宇宙のダークマターを意味するものと考えられる。
2006年12月21日
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神秘学を学んでいると、神秘学によって解き明かされた真実が、交響曲「ツァラトストラはかく語りき」をきくが如く、心の中、いや魂のなか、思考のなかに閃きをもたらす。 日常無意識のなかで生活していること全てが実は、神秘学の驚愕な真実そのものであることに気がつかされるのである。 言葉は悪いが、我々は、いわば、神々によって見張られている、自由に泳がされている存在、刑事ドラマによくある、白黒おぼつかない犯罪被疑者が、取り調べ後に、重要参考人として尾行されているようなものであるといえるだろう。 我々も含めて、宇宙はカルマの法則に沿って運行しているようだ。カルマの法則は、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むもので、つまりは、我々は、自らで善悪の要因を生じる活動そのものから、善悪の結果を将来に生じさせる自業自得の審判を行っているのである。 つまりは、自ら行うことで、自らを罰しているのである。 では、善と悪の結果とはどういったものかというと、善は、進化し、神々に近づく存在になることで、悪は進化から取り残され、置き去りにされ、停滞することを意味するといってよいだろう。 宇宙は絶えず進化し、地球と人間は、絶えず向上しなければならないという。 あまりに漠然とした説明で理解できないように思えるので、かいつまんでいうと、我々が、自ら思考し自由な人間存在、個人の自我をもった存在になれたのも、進化してきた証であるという。例えば、猿は、かつてアトランティス時代のときに、人類と同等な動物人間というべき存在だったのだが、進化することを怠り、現在の猿となったという。 つまり、人類は猿から進化したのではなく、人類と猿は、アトランティス時代の動物人間から、進化したのが人間で、堕落したのが猿であるというのである。だから、人類は、猿にならず、猿を超えてきたのである。 猿と人間の違いは、端的にいってモラルの有無であるという。猿は、いまでも動物のように、集団自我を持つが、人類は、集団自我から、個別的な自我に進化させたという。個別的な自我を発展させることができたのは、包括的な理性を持ち、種族に依らない自由を身につけたこと、つまりモラルを認識し得た点にあるという。 かつて、アトランティス時代の前期のとき、人類は、肌の色で、区別し、人種から血縁や同族を認識し、他族を差別していたという。他族間での交流や結婚は、赦されなかったという。 このアトランティス時代の特徴や特色の多くがいまの中国文化や、日本文化にみられる。実際、古代中国文化は、このアトランティス時代の多くの形骸化した継承であるという。 この古代中国に類似した日本の組織主義や権威主義、血族主義などは、アトランティス時代の悪しき伝統だといえるだろう。 残念ながら、この悪しきアトランティス文化は克服されなければならないという。時代に逆行しているからであるという。つまり、現代のこの中国文明や、日本文化は、将来、人類の大きな怪物として現れるのだろう。まるで、ゴジラのように! この中国と日本の大きな要因が、なにより物質文明そのものからきているからである。 人類の将来として、人種は混血し、なくなる宿命にある。どんな民族も国家体もなくなるのである。そもそも民族や国家に拘る理念のなかに、物質文明の錯誤が現れているからである。 これは、物質文明のなかで、嘘をついても、それが経済行為であれば、破壊行為にはならないことで、錯誤を発生させていることでもあるからである。嘘は物質的に、権威主義的に、血族間の優遇差別の下に隠せるからである。 しかし、宇宙全体からみれば、嘘は、雪崩のように、カルマの法則に沿って、錯誤を生じさせる。それは全宇宙の多大なる損失を生み出すからである。それはただ見えないから、隠されているからわからないにすぎない。これは実は、意識が停滞しているに過ぎないのである。 意識領域を狭めれば、その内部領域は明確になるが、逆に遠方は、見えなくなり、隠れてしまうのと同じである。つまりは死角領域を広げているにすぎない。逆にその内部の明快さを権威付けによって、見えない部分にも適応することによって、真実は闇に隠されてしまうのである。そして、錯誤は、嘘とともに雪崩の如く広がってしまう。 すると、その意識体は、もはや宇宙の進化に適応できなくなり、自分の内部しかみえずに、暗黒体となってしまうのである。この代表例が、太陽の黒点であるという。太陽の黒点は、アーリマンという錯誤の物質悪魔を生み出すという。 さてさて、悪魔はこのように、宇宙の進化から遅れた存在であり、誘惑体であるという。悪魔たちは、自ら進んで遅れているという。悪魔にとっては、何より、その方が楽であろうからである、悪魔にとれば、進化とは何より辛い道のりであるといえるからだろう。 宇宙のこのような観点からみれば、とくに同族国家の典型の、日本は滅んでよい存在といえるだろう。中国も同じである。物質文明国家は絶頂を向かえ、つまりバブルを迎え、崩壊し、霊的なものに救いをもとめ、自ら自立する一部を残して、多くが滅びるのである。 かつて、国家として誕生し、滅ばなかった国はない。民族も同様である。 将来の歴史書には、現時点の青写真としては、日本は小渕内閣を頂点とし、森-小泉内閣から下降に転じ、安倍内閣中に、中南米政権化し、同等に停滞し、その後、財政は破綻し、10年後には、ついには滅びるとなるだろう。中国、台湾、韓国の一部と融合し、東アジア文明圏となり、そして、その次に中国が分裂する時代がくるだろう。 表舞台の歴史は、惨憺たるものであるが、かえって、文化、とくに宗教文化は東アジア文化として融合し、とくに仏教はマニ教の新局面をみせて、新たな展開を見せるに違いない。そのとき、日本の神道の神仏融合思想が、西洋東洋融合文化として蘇えるだろう。 現代の貧しくとも真面目な修行僧は、東アジア文化の担い手となるだろう。かつて、東から西にもたらせられた霊の灯火が、再び、西から東に還ってくることになるだろう。 そして、その堕ちとして、今の日本の指導者は、いまのサルのような堕落した霊体に受肉するだろう。なぜなら、かれらは、自己保身や私服を肥やすことに精一杯だからである。 昔の人が、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」といったのは真実なのである。 舌というのは、魂の舌であり、咽頭につながる声帯のことなのである。つまりは、将来の人類を生み出す器官のことなのである。その舌を抜かれるのだから、もはや将来の進化した人類に受肉できない魂を意味するのである。 嘘をつく者、他を欺く者は、災いなり、あなたたちは神とともに歩むことができない。 血縁を捨てない者、古い血のつながりを絶てない者は、神と共に行くことができない。 あなたはあなたの道を選んだのである。 だから、現代の政治家、天下り官僚は、心して聞くがよい。嘆くなかれ、将来の種を蒔いたのは、あなたたちなのだ! あなたたちが、自分で選んだ道なのだ! サルになったからといって後悔するなかれ、それは自らが自主的に選んだ道なのだから。 そのような種を刈り取る時期はもう僅かしかない。もはや、食い改めても遅すぎるといわざるをえない。
2006年12月20日
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人間は、地球紀でのこの鉱物創造を超えて、自らを高め、いつか植物にも働きかけることが可能になると預言されている。鉱物的な振動だけではなく、植物的な振動をも引き起こすことが可能になるという。そうして人間は、植物を出現させ、その次の段階では、感受する存在を語ることにより出現させ、そして、進化の最高の段階では、人間は自らの喉頭によって自分に類似のもの(人間存在)を生み出すという。 今日、人間は魂の内容のみを言葉によって語ることができるが、最高の段階に進化したその時には自分自身をそっくりそのまま言い表すようになるという。そして、人間が未来において存在を語って出現させるように、人類の先駆者である神々は、今日存在する全てを語って作り出した器官を備えていたという。神々は全ての人間、全ての動物、そしてその他全てを語って生み出したという。これらは全て字義通りの意味で発せられた神々の言葉であるという。神秘学ではその霊的器官を「霊人」と呼んでいる。 これは聖書にある神はロゴス(言葉を生じる器官)であり、言葉により万物を創造したという意味である。 鉱物世界は、いわば粗野な波動の世界で、粗野な波動は、緻密な波動から生じる。鉱物創造とは、まだ粗野な波動しか扱えない叡智をいうのだろう。例えば、エネルギーにしても量子単位、つまり塊からでしか取り出せないのである。これは、量子力学でいう観測の問題で、元々の波動関数をそのまま取り出すのではなく、なんらかの観測可能な状態、つまり量子化して取り出すことしかできず、それでは有名なハイゼンベルグの不確定性関係が必然的に生じてしまうのである。 このエネルギーを量子化した後でしか取り出せないのは、この物質世界が時間に依存する性質からくる。そもそも物体の運動は、時間を超えては生じることができないもので、粗野な概念でこそ可能な意味をもつ。波動が細微になれば(質量はゼロを超え、更にマイナスになると)、時間は光速度になり、波動がマイナス域になると無限大になり、もはや物質世界を超えたものとなることが予想される。ここでいうマイナスの概念は、我々の世界を基準にするから生じる、ある意味時間の反転の概念である。もはや現代科学で論じる意味をもたない。 聖書の「初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった。言葉は神であった。」これは、思弁的な意味での哲学的な言葉ではなく、全く字義通りに行われた神の創造の太古の事実を、ヨハネが提示したものだという。 そして、その終わりにも言葉がある。言葉の具現が創造であり、人間が未来に置いて生み出すものは、現在言葉であるものが具現化したものであるという。しかし、その時には、もはや人間は今日のような物質的形態ではなく、人間が土星上でとっていたような形態、火の実質にまで進歩しているという。このように宇宙進化の始まりにおける創造的な力は宇宙進化の終わりにおける我々人間自身の創造する力と結びついているという。 言葉の受肉(言葉の発音、空気中の波動)=聖霊(父、子) これを量子場の理論で用いられる、波動関数の変換の数式のδx=1+△xで表すと、δx(1、△x)となり、 無限小で、δx=△xならば、聖霊(父、子)=δx(1、△x)=δx(1、δx(1、△x))=δx(1、δx(1、δx(1、△x)))=…と波動のフラクタル構造が現れてくる。言葉の受肉=空気中の波動という波動変換で、同等ならば、聖霊=子となり、つまり、聖霊(父、子)=聖霊(父、聖霊(父、子))=聖霊(父、聖霊(父、聖霊(父、子)))=…という言葉の波動のフラクタル構造が表れてくる。 今日の全てを宇宙の中に言葉で出現させた存在は、人間の偉大な模範であり見本であるという。この存在は、宇宙に土星、太陽、月、地球(地球は前期が火星、後期が水星)、木星、金星を出現させたという。この七つの星が暗示するのは、人間がどの程度まで進化できる存在なのかを表す記号であるという。 火の実質の中に、この惑星(地球)は最後に再び現れ、人間はこの火の実質の中で創造的に語ることができるようになるという。これが口から突き出ている火の剣の意味だという。全ては火のようになり、従って、両足も溶けた青銅(鉱物)になるという。このように見事に印象深く、進化の意味がこの記号(しるし)に表されているという。 今日の人間を動物と比較すると、その違いは「人間は個々人として、個々の動物が自らのうちにもたないものを、自らのうちにもっている」というべき自我を人間はもっている。人間は個人の魂(自我)を持ち、動物は集合魂(集合自我)を持つという。人間1人が1つの動物の属全体にあたるという。 例えば、全てのライオンは共通で1つの集合魂を持ち、この集合自我は、人間自我と全く同じで、ただ集合自我は物質界にまでは下降していないという。それ故、動物は鉱物の創造活動を行えない。鉱物世界のなかに沈潜し思考する自我の存在ではない。動物の自我はアストラル界に見出されるという。
2006年12月20日
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象徴や形象のうち、古今の神秘学者たちからも最も意味深長なものとして認められているのは、人間という存在であるという。人間は、今も昔も、常にミクロコスモス、小宇宙と呼ばれてきたという。人間を詳細に綿密に知るようになると、益々人間のなかに人間の外部の自然の中に広がっている全てのものが含まれていることが明らかになってくるという。 このことを理解するには、はじめは困難だけれども、これについて思索を深めれば、人間のうちには全自然からとった一種のエキス、精髄、あらゆる実質と力が見出せるという意味を理解できるという。植物をその本質という点に関して研究し、充分深く探求できれば、人間の有機体組織の中に、食傷された形であっても、同じ本質が含まれていることがわかるという。更に、外界の動物をみると、人間の有機体組織の中に、その本質に従って、取り込まれているものを指摘できるという。 このことを正しく理解するためには、勿論、宇宙の進化を神秘学的観点から考察することが必要で、例えば、神秘学者は、もし外部の自然の中にライオンが存在しないなら、人間は決して今日のような性質の心臓を持つことはなかったということを知っているという。 ライオンの特質が、人間のいまの心臓をつくったという。 まだライオンが存在しなかった時代へと遡ってみると、人間は最も古い存在で、ライオンがいないその当時にも人間はいたという。けれども、その時の人間は全く別様に形成された心臓を持っていたという。自然の中には、至る所に、勿論、必ず明白ではない関連があるという。かつて人間が遥か太古の時代に自らの心臓を今日の形態へと発達させた時、ライオンが生じたという。人間とライオンは同じ力を形成したという。 それは、あたかもライオンの本質を抽出し、神の如き巧みな技により、ライオンの本質から人間の心臓を形成したかのようであったという。神秘学者にとっては、人間の心臓にライオンのようなものがあることは真実であるという。このような動物の存在が、人体内の1つの有機体組織の中に置かれる時、その存在が外界で独立状態にある時とは全く別の作用を及ぼすことに注目しなければならないという。 逆に、もし、心臓のエッセンスを取り出すことができ、この心臓に相応した存在を作り出せ、その存在が有機体組織の諸力に規定されないとしたら、ライオンの存在になるという。勇敢さ、大胆さといった特性、或いは神秘学者が言うような人間の「王者らしい」特性の全てはライオンとの関係に由来しているという。そして、秘儀参入者であったプラトンは、王者のような魂を心臓の中に置いたという。(注;プラトンの「国家」では勇気はホメロスに従って心臓に置かれる) 人間と自然のこのような関係に対して、パラケルススは大変見事な以下のような比喩を用いたという。 彼は、「それはあたかも自然の中で1つ1つの存在が文字であるかのようで、人間はこれらの文字から組み立てられた言葉である。」と言ったという。 外には大いなる宇宙-マクロコスモス、人間のうちには小なる宇宙-ミクロコスモスがあるという。外界では全てが本来の実質として存在し、人間にあっては他器官と共に織り込まれているハーモニーによって規定されているという。そして、だからこそ人間の中に全宇宙の進化、我々人間の一部でもある全宇宙の進化を観照できるという。 人間の一部をなすこの宇宙との関連における人間進化像を、ヨハネの黙示録にある象徴の封印の中に見ることができるという。 最初の封印は、白い衣を纏った人物を示し、その両足は金属、青銅のようで、口からは炎の剣が突き出ているものであり、彼の右側は諸惑星(土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星)の記号で取り巻かれているもので、ヨハネ黙示録を知る人は、黙示録の中に、この像とかなり一致する記述が見られることを思い出すだろう。ヨハネは秘儀参入者であったという。つまり、この封印は、人類全体の理念を提示しているという。 人間の進化を遡っていくと、人間がまだ不完全な段階にある時代に到達し、例えば、そのときの人間は、今日両肩の上に乗せている頭部をまだもっていなかったという。当時の人間は現代からみれば、グロテスクにみえ、つまり、現代の頭部は段々と発達してきたもので、更にこれからも進化していくものであるという。 今日、人体にはいわば終結に達した器官があり、また、これから自らを作り変えていく別の器官もあるという。とくに、喉頭は力強い未来を有している器官で、心臓とも関連しているという。今日の人間の喉頭はようやくその進化の始まりにあって、将来、霊的なものに作り変えられ、霊的生殖器官となっていくという。今日の人間が喉頭を使って行うことを明らかにすれば、この神秘についてのイメージが得られるという。 例えば、我々人間が話すと、言葉が伝わり聞こえる。周囲が空気に満たされ、この空気中に一種の振動が生じることにより、言葉が相手の耳に伝達されるわけで、1つの単語、例えば「宇宙」という語を発音すると、空気の波が振動し、いわば言葉の受肉(物質化)というべきものだと神秘学は説く。 話す→言葉の発音→空気中の波動→言葉の受肉(物質化) つまり、言葉の受肉(言葉の発音、空気中の波動)で表される。 神秘学では今日、人間が作り出すものは、鉱物界における創造と呼ばれている。空気の運動は、鉱物的な運動で、喉頭を通じて、人間は環境に鉱物的に働きかけていると考えられるという。なぜなら、鉱物も波動から形成されるものだからである。
2006年12月19日
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5は悪の数だという。人間を考察すると、この意味がわかるという。人間は四元性へと、創造性の存在へと進化してきたが、地球上で彼に第五の要素、霊我が課題として現れるという。人間が単に4に止まっていたら、彼は常に上から、神々によって善へと統制される存在だったという。すなわち、決して独立した存在へと進化することはなかったという。 人間は地球上で第五の要素、霊我への萌芽を手に入れたことにより自由になったという。この霊我により、人間は悪をなす可能性を得、同時に独立性も手に入れたという。5において出現しない存在は、どんな悪をも行うことができないという(なぜなら、神々により制御されうるからである)。 そして、我々人間が悪と出会う至る所で、(実際、悪はそれ自身から有害な作用を及ぼすのだが)、五元性が関わり合っているという。これは外界の物質世界にも当てはまるという。人間はただ見ていないだけだという。しかも、今日の唯物主義的世界観は、世界を五元性から捉えることに関して無理解であるという。 例えば、5と出会うところでは、何らかの意味で成長の節目について語る正当性が出てくるという。医師がこの原理を採用して、病気の経過をこの原理に従って研究してみれば、大変実り多い結果が得られるという。つまり、病気がその発病から第五日迄にどのように進展するか、一日のなかであれば真夜中から五時間目に、更には第五週目にどうであるかを調べるとよいという。 というのも医師が最も効果的に介入できる時は、常に5という数字が支配している状態であるからだという。それ以前は自然の経過に任せる以外はあまり多くのことは期待できないという。しかし、5という数の法則に気づくなら、助ける処置ができるという。5という数の原理は事実の世界に流入しているからだという。この原理が害を与える、悪の原理と呼ばれるのも当然で、多くの領域で5という数が外的な出来事に関して大きな意味をもつことが示されるという。 このことは陰陽五行説の正当性を、証明することでもあろう。つまり、木、火、土、金、水と事物が成長し展開していくなかで、五番目の水のとき、陽に出るか陰に出るかで、今後の五行の展開を左右するといえるわけである。 これは、何も木ではじまるだけでなく、火から始まったら、五行で循環し次の火のときに、陽か陰かで、その次の展開が左右されるともいえる。 つまりは陰陽五行説には、自然のなかの循環、神秘の5の数の原理がそっくりそのまま表れているといえるだろう。善(陽)か悪(陰)かは五行次第なのである。 神秘学では、人間の生には七つの時期があるといわれる。第一の時期は生まれる前の時期、第二の時期は歯の生え替わる頃の約七歳まで、第三は性的成熟の約14歳まで、第四は凡そその7~8年後まで、第五はおよそ28~30歳頃と続いていくとされる。 ある人間がこの7年毎の成長段階において何を課題とし、丁度、第五の時期(30歳まで)に何に親しみ、何を遠ざけるのかを、熟知するようになれば、その人の人生全般において、残り後半期に実りの多い年齢として準備することができるようになること等が色々とわかってくるという。前半期に準備した年齢毎の成熟度に応じて、残りの人生全般に対して、善悪の収穫の作用が及ぶという。 人生前半の初めの時期では、この7歳毎の成長の法則に従って、教育を通して多くのことを行うことができるという。けれども、それから、人生の第五期に、後の人生全体にとって決定的な転換点がやってくるという。この人生の第五の転換点は、少なくとも人間がいわば完全なる確信をもって人生へと送り出される前に超える必要があるという。 今日主流の人間をあまりに早く人生(世間の荒波)に送り出してしまう原則(成人年齢が18歳)は、大変有害なものであるという。このような古い神秘学的原則に注意を向けることは、大きな意味があり、以前は、このことを熟知していた人々の命令により、人は親方(一人前)として認められる前に、いわゆる修業時代と遍歴時代を卒業しなければならなかったという。 孔子の説く論語の一節の「吾、三十にして立つ」という文は、この神秘的意味、人間の模範を示しているものといえる。ちなみに十五にして学志すとあるが、この神秘学的成長則からいえば、第三期過ぎの第四期初めの創造の4の数に当たるわけで、孔子が学を志すというのは、学において創造活動を行うと宣言したようなものであろう。そして、修業、遍歴時代を卒業し、三十にして、自ら自立した学問を打ち立てるのである。 5=悪の数、成長の節目、転換期を表す。 七は完全性の数であるという。これは人間を手がかりに明らかにすることができ、人間は被造物として四の数の中にいて、そして、善か悪の存在であるという意味で、五の数の中にいるという。人間が、現在その萌芽として自らのなかにもつもの(霊我、生命霊、霊人)全てを完成したなら、色の世界の虹においても、音の世界の音階においても、七という数が支配していることを意識できるという。生命のあらゆる領域に至る所で七という数を一種の完全性の数として示すことができるという。七の背後には迷信も御呪いもないという。例えば、完全な感性を身につけたなら、視聴覚以外の味覚や臭覚も7段階に大別できることが意識できるという。 再度一元性に注目すると、他の数の考察により、一元性の真の意味が正しい光の中に現れ、一元性の本質的なものは、不可分性であることがわかるという。実際、勿論、一を更に、例えば1/3や1/2という風に、物質的世界では分けることはできないが、思考の中で承認できる非常に意味深い重要な霊的な算術、つまり、霊的世界において2/3を除くと、1/3はあくまで一に属するものとして現れ続けるという。神から何かが開示され、その分全体として分割されても、残り全体はやはり神に属するものとして存在し続けるという。 これは、ピュタゴラス的な意味で「一を分割せよ。ただし、汝の思いの底で、残りが一のままで存在するように一を分割せよ」に相当するという。 本来、一を分割する真の意味は、例えば、小さな金の板を考えて見るとわかるという、金の板を通して世界は緑色に見え、金は、その上に白い光が当たると黄色い光線を反射する特性をもつという。白の中に含まれていた他の色は、対象の金の板の中に入り込み、通過するという。 例えば赤い対象は、赤い光を反射し、その他を自らのうちに取り入れるから赤いので、他を残しておくことなしに赤を白から取り出すことはできないという。この世界の金を通しての秘密の緑(生命の色)に触れ、観ずることがある方法で可能になるという。例えば、光がテーブルにかけられたテーブルクロスに当たり、赤くみえたなら、太陽光線に含まれている他の色は「吸収」されているという。例えば、緑色はテーブルクロスに吸収され反射されない性質をもつという。赤色と緑色を同時に意識の中に受容しようと努めるならば、再び一を回復するという。ピュタゴラス的な意味で一を分割すると、残りは、そのまま維持されるという。分割されたものを常に再び一と結びつけることを瞑想的に成就すると、人を高みへと進化させうる意味深い営みとなるという。このことは、秘教学院で通用するもので、以下のような数式で表せられる。 1=(2+x)-(1+x) これは、1をどのように分割するか、分けられた部分が再び1となるようにどのように提示するかを表している秘密の公式だという。神秘学者は、1の分割を、部分が常に再び1へと連結されるように考える必要があるという。 この式は、量子力学に出てくる完全形の次式に酷似している1=Σ|x ,t><x ,t|、或いはまた、1に収束する級数への展開式 1=1+ Σf(x)にも酷似している。更には、これを発展させると、Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4)というカオスで御馴染みのパイコネ変換式になる。以上をまとめると、1) 1=(2+x)-(1+x)2) 1=Σ|x ,t><x ,t|3) 1=1+Σf(x)4) Xn+1=aXn(1-Xn) (0≦X≦1)( 0≦a≦4)これら一群は、三位一体の表記 1(2+x、-1-x)、1Σ(|x ,t>、<x ,t|)、1(1、Σf(x))、Xn+1(aXn、-aXn^2))で既述できる。 最後に、第五週目、五日目、或いは五時間目においては、状況を大きく変えることができることに気づくことが大切であるという。そして、七週目、七日目、或いは七時間目には変化させたその結果が現れるという、或いは最終的に7の数で完了し結果が現れるので、その半分の3と1/2(3.5)においても、何らかの兆しが、現れるという。例えば、熱は、その病気の七日目に一定の性質を示し、或いは14日目にも、7の倍としての性質を示すという。 7=完全数、世界は7を指標として展開するという。 地球の進化で考えると、土=1、日=2、月=3、火=4、水=5、木=6、金=7となるので、丁度、5の悪の数のとき、つまりは水星紀のときに、これまでの進化状況を変えることができるわけで、実は、現在は正に水星紀直前の年代なのである。水星紀とは、水瓶座の時代、つまり再び霊性に目覚める時代と預言され、このとき、自らの行いをくいあらため ピュタゴラス的な意味で、「数を探求せよ」と言うことに、瞑想等の正しい方法でイメージできる人は、この数の象徴学から生命とこの世界を理解できるという。
2006年12月18日
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神秘学では、カルマの法則は普遍的な宇宙法則であるといわれている。 カルマの法則とは、簡潔にいえば、自分が他者に成したことが、自他逆になってかえってくることを言う。物理の法則でいえば、ニュートンが唱えた作用反作用の法則である。 例えば、他人を殺したら、今度は殺した相手に殺されるというものである。 神秘学では、これは真実で、この法則がなければ、魂の永続性が保証できないという。 この法則は運命を左右し、輪廻転生を超えて、普遍的に必然的に顕れるという。 なにしろ、宇宙はこの法則を満たすために、神界の上位に、アカシャ年代記というこの作用反作用の法則の鏡ともいえる神の記録媒体を存在させているという。 アカシャ年代記とは、人が起こした事象全てが記録される書籍といえるようなもので、それに応じて、過去の行為が鏡となって反射され、未来に送られるのである。 だから、過去で成した行為は、鏡のように左右対称のごとく入れ替わり、未来に作用するのである。 例えば、現在相手を殴ったら、相手から殴り返される運命を将来に必然的に生じさせるのである。 このカルマの法則のなかで、特に注意したいことは、虚言であるという。つまり、ウソをつくことである。 ウソは、物質世界には現れず、見えないから、罪悪感に乏しいだろうが、アストラル界という霊界の手前の欲界(精霊界)に実際に出現しているという。ウソは、欲界では、破壊を生み出すという。逆に真実を語ると、欲界に調和と愛をもたらすという。 なぜこのような事が生じるかというと、物質界で生じる事象と、この欲界で生じる人間の思考が、波動で共鳴するからだという。ウソをつくと波動を乱れさせ、真実だと波動を共鳴させるからだという。 真実は人類を進化させ、ウソは人類を退化させるという。 だから、ウソをつくことは人類への大罪なのである。 このような象徴にハートマークと、ハートマークを逆にした矢じりが挙げられる。 ハートマークは真実を示し、矢じりは破壊を意味する。 つまり、真実を話す人は人類を進化へと導き、ウソつきは人類を破壊へと導く。 だから、ウソつきは、殺人行為と同等だという。 現代の政治家は嘘吐きばかりなので、人類を破壊へと導いた責任は、政治家たちにあるといわねばならないだろう。タウンミーティングの一件は、大きく人類を後退させたといわざるをえない大罪である。当人たちは全く気づいていないだろうが、その報いは必ず輪廻転生を超えて、当人に顕れることになるだろう。真に馬鹿な人たちである。人の裁きは曖昧だが、神の裁きは厳格である。 あと、注意しておきたい行動に以下のようなものがある。 現世にて邪悪な傾向や情欲を発展させた人は来世で不健康な肉体をもって生まれるという。 逆に、現世における全ての存在への愛、共感の発達は、来世でいつまでも若い肉体を生み出すという。 現世にて、金銭をためたいという激しい営利心をもつ人は、来世で伝染病に罹り易い体質に生まれるという。 逆に、金銭を儲けようとせず、人類全体のために働きたいという客観的な努力は、来世にて伝染病に対する抵抗力を生み出すという。 そして、最も重要なことは、苦悩や苦痛に耐えることで、偉大な叡智が得られるということであるという。 その例として代表的なのは、現世での病気の苦痛や苦悩に耐えることで、来世で特別に美しい体に生まれるという。 これは「貝の病を通してはじめて真珠が形成される」という格言が残っている。 つまり、美は病気の成果であるという。 苦痛や苦悩から逃げようとする人に美や叡智は決して訪れないという。 さてさて、現代の馬鹿な政治家たちの来世は、醜悪なもので埋め尽くされることだろう。全く馬鹿で愚かな人たちとは、この人たちのことであろう。 豪華な政治家マンションを作るがいい、そこに住むがいい。その分、来世は醜きものになるだけなのである。未来の負債をせっせと拵えるがよい愚かで馬鹿な人たちよ!サメ脳以下の人たちよ!! 当人の最後の審判が過酷に苛烈に行われるだけなのである。 神々は、公正に平等に常にみているぞ!
2006年12月14日
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宇宙においては、このような退化(内展)の状態が前もって存在しなければ何も生じてくることはできないという。16世紀以来、理知が進化(外展)の状態となり、神秘的生命は退いて退化(内展)の状態となっていくという。 そして現代の今、この神秘的生命が再び現れて来るべき時代に到達したという。それはかつての神秘主義よりも、より教唆の富むものとして、理知的生命を含んだものとして現れる時代に入ったわけである。 このように、生命の至る所で進化と退化が顕現に交替して現れるという。 生命(進化、退化) なので、背後をみずに、事象そのものに止まる人は、ただ外面のみを見ているにすぎなく、全体を見ようとするなら、この両者の背後にある第三のものを更に付け加える必要があるという。 一体、この第三のものの正体とは、何なのか? それは神秘学により明らかにされる。 例えば、今ある人間が、外界の現象に向かって立ち、その現象について思索することを考えると、思索する人間がここに存在することになる。 パスカル、デカルトが説いた、「我思う、故に我あり」である。 それは外界が存在し、そしてそれをみる人間のなかに思考が生じることを意味する。そして、この思考は、以前、この世界には存在していなかったものだといえる。 例えば、薔薇に関して思考を形成する時、この新たなる思考は薔薇と関係を結ぶ瞬間に初めて生じるといえると神秘学は説く。思考する人間が存在し、思考対象の薔薇が存在すれば、今、人間の中に薔薇に関しての思考、薔薇の像が現出する時、全く新しいもの、まだこの世界に存在していなかったものが生じるといえるという。 新たなる思考の存在(思考する人間の存在、思考対象の存在) これは生命の他の領域でも同様で、ミケランジェロの創造行為をみると、ミケランジェロは、実際ほとんどモデルを使って製作したことはなかったが、彼が一群のモデルを集めたとし、ミケランジェロが存在し、モデルたちが存在したと考えてみると、ミケランジェロがこのモデルの一群から魂の中に得た像、この像は新しいものであり、完全に新たな創造行為となると考えられるという。 新たなるミケランジェロの創造行為(ミケランジェロの存在、一群のモデルの存在) この場合は進化及び退化とは何の関係もなく、これは受容のできる存在と譲与できる存在との交流から生まれた完全に新しいものといえるという。このような新たな創造は、常に存在と存在との交流を通して生まれるという。 新たなる存在(受容できる存在、譲与できる存在) 思考がいかに創造的で魂を気高くすることが可能で、後には肉体の形成にも働きかけることを思い出せば、ある存在が一度考えたこと、思考創造、表象創造は働き続け、作用を及ぼし続けるといえるという。それは新たな創造であると同時に始まりであり、しかも結果を導くという。 今日よい考えを持つなら、この考えは遠い将来実りを結び、その魂は霊的世界で独自の道を歩むという。 肉体は再び元素に帰り崩壊するが、思考を生み出した存在が崩壊しても、思考の作用は残り、思考は働き続けるという。 例えば、ミケランジェロの例を再考すると、彼の卓越した絵画は何百人もの人々を高揚させてきたと同時に、これらの絵画もいつかは塵となって崩れ、もはや彼の創作物を全く見ることができない世代も出てくるだろうが、ミケランジェロの絵画が外的な形態を取る前に、彼の魂のなかに生きていたもの、最初に新たな創造物として彼の魂の中にあったもの、これは生き続け、存続するという。 そして、未来の進化段階に出現し、新たなる形を得るという。この原則を掴むと、どうして今日、雲や星が出現してくるのかがわかるという。なぜなら、太古の昔に雲や星を思考していた存在がいたからなのだという。全ては思考・創造活動から生まれ、思考は新たな創造といえるという。思考から全てが生まれ、宇宙の偉大なものは神性の思考から出現したといえるという。 雲や星の出現(雲や星を思考していた存在、雲や星の一群のモデルという思考対象) ここに、第三のものを得るという。顕現性においては、事物は進化と退化の間を交替しているが、その背後に第三のもの、初めて思考の充溢を与えるもの、無から生じた完全に新たな創造たる創造が深く秘されているという。このように三つが互いに関係し、無からの創造があり、それから顕現して、時の中で経過していくとき、顕現における形、つまり進化と退化という形をとるという。 「宇宙は無から創造された」とある宗教的体系が説くことは以上のような意味であることが神秘学からわかるという。今日、この真実が嘲笑されるなら、嘲笑する人々が古文献の真の意味を理解していないからであり、顕現全てにおいては進化と退化の間を交替しているが、その根底には、無からの創造が秘されていて、この二元性と一致して三元性となるという。 つまり、三元性(三位一体)は、神聖なるものと顕現との結びつきであるという。 このように、3という数の意味がわかれば、ただ、論理的に理屈をこね回すのではなく、至る所で出会う二元性の背後に、三元性を探す必要があることがわかるという。2の背後に3を求める時、ピュタゴラス的な意味における正しい仕方で、数の象徴が考察できるという。全ての二元性の背後に、隠された第三のものを見出すことができるという。 3=神聖の数、二元性の背後にある神聖な第3のものを見出し、3と1で三位一体の構造を表す。三位一体は3と1であり、神の数であるという。 今度は4である。4は宇宙(コスモス)ないし創造の記号で、地球はいま第四の受肉状態であり、4が創造数と呼ばれるのは、この地球の状態を意味するという。この地球上で我々人間が出会う全て、人間の第四の原理、創造の原理が、地球の惑星進化の第四の状態にあることを前提にしているという。 いかなる創造も四元性の記号の下にあるという。神秘学において、「人間は今日鉱物界にある」と言われていて、今日人間は鉱物界だけを理解し、鉱物界だけしか支配できないという。人間は、鉱物を組み合わせて家を建てたり時計を作り上げたりできるが、それは、鉱物が鉱物的世界の法則に従っているからであり、例えば、人間は自らの思索から植物を形成することは不可能であることがわかる。(地球紀においては)人間は生命を思考により創造できないのである。 それができるためには、人間自身が植物界の存在になる必要があるという。現在の地球紀の進化後になってそうなるといわれているが、今日、人間は鉱物界における創造者であるという。この鉱物界には、3つの元素界と呼ばれる3つの領域(火、空気、水)が先行し、鉱物界(土)は第四の領域であるという。全体としては、七つの自然領域があるという。 人間は今日その第四の領域にいて、外へ向かう自らの意識(自我)を獲得したという。月では、人間はまだ第三の元素界、太陽では第二の、土星では第一の元素界で活動していたという。木星上で人間は植物界で活動するようになり、今日時計を作るのと同じように植物を創造することができるようになるという。 創造において可視的に現出したものは全て4という記号(シルシ)にあるという。肉眼では見ることのできない惑星も数多くあり、これら第一、第二、第三の元素界にある惑星(火、空気、水)は物質的な眼では見ることができないという。惑星が第四の領域、つまり鉱物界に入った時はじめて、その惑星を見ることができるという。それ故、4は宇宙(コスモス)ないし創造の数といわれるという。第四の状態に入ることではじめてその存在は眼に見えるようになり、外面的なものを見ることができるようになるという。
2006年12月14日
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自分がもし、神様だったと想像してみよう。 身勝手な人間たちが、我も我もと願い事を、要求してくる。60億人もの人類の数以上の願い事が一遍に押し寄せるのである。多くの願いが、利己主義から発しているだろう。他人より幸せになりたい類のものばかりだろう!戦争しておいて、平和を願う御都合主義の願いばかりだろう。60億人の一人一人のそのような願いをいちいち耳を傾けるだけでも、きっと憂鬱になるに違いない。そんな下らない願いばかり悲鳴のように聞く羽目になる。 神様は言うに違いない、 「一体、俺が何をしたっていうんだ!」 「もう、いい加減にしろや!」 「少しぐらい手前たちで解決してみろや、アホたれ!!」 「一体、何のために、神様に似せてお前たち人間をつくったのだろうか」 「自分たちで願いを叶えるためだろうが、そのために命を与えてあるのだろう」 と、もし自分が神様だったなら、怒り心頭で、たちまち、五月蝿い困ったハエのような人類たちを滅ぼすに違いないだろう。 なにしろ、勝手に宗教などというものをつくり、神を信じれば、なんでも叶うなどと、勝手解釈御都合主義の教祖たちは叫ぶのだから、神様だってたまったもんじゃない。一体全体、誰の了承を得て、そんな勝手なものをつくって、商売などしてるんだ!いい加減にしろ!!と怒るだろう。 信仰こそ救いである。神にとっては傍迷惑千番である! 勝手に信仰しておいて、自分の思い通りにいかなかったら神の名をも罵る! 「おいおい、お前たちが勝手に決めて信仰しておいて、いい加減にしろや!!」 カネなどで、神社や寺、神殿を幾ら作ろうが、神様にとっては、ただただ生命溢れる自然が失われるだけで、痛い思いをしているのに馬鹿な人間は気づいていない。 人間を生かすために、どれだけ他の生命が失われているか気づいていない。 どれだけ、たった一人の人間を生かすために、他の多くの生命が犠牲になっているかを、愚かな人間は知りもしない。 それにも関わらず、馬鹿で愚かな人間は、自分だけが幸せな生活を求める。 いい加減にしろよ! 尋常なる心の持ち主ならば、このような人間をみて、発狂してしまうだろう。 それでも、神様は怒ったりしないのである。 もしかしたら、神様などいないのかもしれない。 だとしたら、神様に願う奴らは、善い面の恥さらしだろう。 そのような欲深い人間が辱められるならば、神様にとって幸いだろう。 だから、神様は絶対に姿をお見せにならないだろう。 そのような愚かな信仰心だけの人間がいる限り。 人間たちだけで、解決するのを尊重するのである。 神に祈るな、自分の行動を恥じろ! 毎日、手前のことは手前でやっているのだろうか? 自立心をもちえているのだろうか? 神に祈る前に、自らの行いを反省しろ! 自らの行いを悔い改めないうちに祈るなかれ! 人間として恥じろ! 人間同士で解決しない限りは、神様が手を差し伸べることなどないだろう。 ただ悪魔により、欲の深さに応じて、罪と罰とが与えられるだけである。
2006年12月13日
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3という数は、それゆえ2と1、つまり開示とその背後にある神性に他ならないという。1は神の一元性の数、3は自らを開示する神性の数であるという。神秘学には、2は決して神性を表す数ではあり得ない、という原則があるという。そして、1と3は神的なものを表す数であるという。というのも、神的なものが自らを開示するとき、それは2において顕現し、その背後に1があるからだという。世界を二元性において見る人は、世界を顕現において見ているのであり、外界の諸現象においては二元性が存在すると言う人は正しいという。しかしながら、この二元性が全てであると言う人は、次の例から間違いであることがわかるという。 「2という数は顕現の数であって、完全性の数ではない」という神秘学の原則はよく犯されているという。「進化、発展は全て退化と進化の中で生じる」と言われているが、この真の意味は、上記の神秘学の原則にあるという。 では、この進化と退化の二元性とはどういう意味なのか、根、葉、茎、花、実というような、要するに植物が持つ部分を全て備え、完全に成長した植物を眺めて、これが1つの完全な植物体系とみなすときにこの二元性がわかる。次に小さな種子、植物が再び生えてくる種子を観察し、種を見ると、この小さな粒の中には既に植物全体が含まれていることがわかる。いわば種子という粒の中にその後の植物の成長状態が閉じこめられているわけで、種子は植物から生まれ、植物はその力の全てを種子の中に注ぎ込んだので閉じ込められているといえる。 だから神秘学では、この二つの過程、つまり、1つは、種子が解けていって植物全体へと展開する―「進化」と、もう1つは、植物が収縮しその形態がいわば種子の中に潜り込む―「退化」とが区別できるという。従って、沢山の器官を持つ存在が、これらの器官のいずれも見えなくなり小さな部分に萎縮してしまうように自らを形成するなら、これは退化と呼ばれ、この逆の分岐すること、自己展開することは進化と呼ばれるという。生命においては、至る所にこの二元性が交替し、それは常に顕現においてのみであり、この顕現は単に植物の場合のみならず、より高次の生命の領域においても事情は変わらないという。 この進化と退化は二元性において顕現し、その背後にその統一をなす神の1かあり、完全系となるわけである。 2は、背後に神の1を有し、もって3となし、それは三位一体として、以下のように表現しえる。 三位一体の3という神性数字(進化、退化) 例えばアウグスティヌスから中世を経てカルヴァンに至るヨーロッパの精神生活の発展を追求し、この時代の精神生活に視線を漂わせてみれば、アウグスティヌスの場合ですら、彼の著作、とりわけ「告白」のなかに、神秘的な関係を見出せるという。 更に時代を辿っていくと、スコトゥス・エウリゲナのような驚くべき現象を見出せ、彼はスコットランド出身の修道士で、そのためスコットランドのヨハネスと呼ばれ、カール禿頭王の宮殿で生活していたという。彼は不幸なことに教会で切りつけられ、伝説によれば、修道士仲間たちが彼を留め針で死に至るまで拷問したという。 勿論、これを言葉通りには受け取れないが、彼が拷問により殺されたことは事実だという。彼によって、「デ・デヴィジオーネ・ナトゥラエ」、いわゆる「自然の区分について」という、素晴らしい書物が著されたという。これは途方もない深みを示している書物だという。 更にドイツの坊さん横町では、この神秘学に親密な感情が民衆全体を捉え、この坊さん横町の神秘家たちは、単に精神性の頂点であったばかりではなく、民衆でもあり、畑や鍛治場で働いていた一般の人々も、このような時代の傾向として生きていたあの親密な感情に捉えられていたという。 更に1400年から1464年に生きたニコラウス・クザーヌスは、中世の末期まで時代を辿ることができ、至る所に、環境全体に広がっている神秘的な深い感情や、親密さが見いだされるという。この時代を、後のこれに替わる時代、つまり16世紀に始まり、現代にまでに至る時代と比較するなら、決定的な相違に気づくという。 その転換の出発点に、包括的な思考により精神生活の革新を引き起こしたコペルニクスが立っていて、彼は自らの思考を人類と一体化するほどに注ぎ込んだので、今日、この思考と別のこと(天動説)を信じている人は馬鹿者とみなされるほどで、それからガリレオ、彼はピサで教会のランプの揺れから振り子の法則を発見し、このように一歩一歩この時代のプロセスを辿っていくと、至る所に中世との厳しい対立が見出せるという。 神秘学的な感情は次第に衰えていき、その親密さが消滅していくという。そして知性、理知が次第に現れ出てきて、人間は益々利口に、分別的になっていくという。このように、全く正反対の性格を持つ二つの時代が前後して続くという。 この2つの時代の説明を、神秘学の法則から説くことができるという。アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代においては、神秘主義の進化と理知の退化という時期であり、その後、理知の進化と神秘主義の退化の時代に生きているといえるという。 アウグスティヌスからカルヴァンまでの時代(神秘主義の進化、理知の退化)、 コペルニクスからガリレオを通じて現代まで(神秘主義の退化、理知の進化) これは、アウグスティヌスから16世紀までは、神秘的生命の外的な展開の時代であり、外面的に顕現し、一方その当時、理知という別面も萌芽として存在したという。つまり、理知的生命の萌芽があったという。これは、種子のように霊的な地中に隠されていて16世紀以降少しずつ展開していき、理知的生命は、当時丁度、後の植物の形態が全て種子の中にあるように退化(内展)の状態にあったという。
2006年12月13日
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今回は、数の象徴学と呼ばれるもので、神秘学の記号や象徴に関して語る時に、数の中に表される形象について、簡単にシュタイナーの著作からまとめる。 前々回、宇宙における数の関係、各惑星が運行する速度に関してまとめたが、数の関係は宇宙空間を貫いて波打つ天球の波動の調和(ハーモニー)の中に表現され、それら数の関係は宇宙全体と宇宙の考察にとってある特定の意味を持っていることを、神秘学からまとめてきた。 今回は、数の象徴学から、その意味を軽くなぞり、例えば古代のピュタゴラスの秘教学院で教えられた、宇宙への洞察力が、数と数の性質からいかに意味づけられたかをまとめたい。偉大なピュタゴラスが、「数の性質について知ることは事物の奥深い本質へと導く、」と弟子たちに語ったことには、深い根拠があるという。ただ、1や3、7といった数そのものについて熟考すれば十分であると考えてはいけないという。 真の秘学の教えは、魔法や御呪いではなく、数に関する迷信でもなく、もっと奥深い事柄に基づいているという。数は瞑想とも呼ばれる魂への沈潜のための1つの拠り所を与えてくれるものであるという。 まず1という数、合一の数から始める。この1という数が、真実をどれほど真にイメージ化しているかは、他の数を後で考察する際に更に明らかになる。神秘学において、常に1という数により宇宙における「神の分離できない存在」が表されるという。1で神が表されるという。 1=神の合一、分離できない存在を表す。 神秘学では2は開示の数と呼ばれるという。2という数でいわば両足の下に何か基盤を得、一方、1という数の場合、まだ基盤のないまま手探りで探し回っている状態であるという。2は開示の数であると言う時、この世界で出会うもの、ある意味で隠されたものではなく世界へ現れ出たもの、これら全ては何らかの形で二元性の状態であるということに他ならないという。 2=開示の数、人間が両足の下に基盤を得、この物質世界に現れた状態を表す。 物理学の素粒子論でも、物質を構成する素粒子は、フェルミ粒子と呼ばれ、フェルミ統計という二元性の統計に従うのである。これは物理学者ディラックにより、相対論的量子力学として数式により記述された。この二元性のために、負のエネルギーという概念が生まれ、数学的な変換式により、陽電子として記述され、アンダーソンの霧箱実験で発見され、確証を得るのである。ちなみに、このような数学の変換式から生まれる粒子をマヨナラ粒子と呼ぶ。 神秘学は、自然の至る所に、2という数が広がっているのを見出すと説く。いかなるものも2という数に触れることなしには自らを開示することはできないという。光も決してそれ自身だけで一元的に自らを開示することはできない。 光子の生成消滅は対(双子)で行われることを、放射線物理学でも認めるところである。 光が開示される時、影あるいは闇もその傍になければならないという。つまり、二元性が存在せねばならないという。開示された光に満ちた世界というものは、もしそれに相応する影がないとしたら、決して存在することはできないという。これは全ての事象にあてはまり、善は、その影としての悪を持たないなら決して自らを開示することはできないという。善と悪の二元性は開示された世界の中では必然的なもので、このような二元性は無限に存在し、二元性は世界全体を満たしているという。ただ、それを正しい場所に探さなくてはならないという。 人間が生きていく中で考慮可能で重要な二元性は以下のようなことであるという。 前回、人間が今日の地球の住人となる前に経てきた様々な進化状態を書きまとめたが、土星紀と太陽紀では、人間はある種の不死性を保ち、自らの肉体を外から管理し、肉体の一部が崩れ落ちると新たな部分が再び付与された為、人間は死や消滅については何も感じることがなかったという。 人間の意識は当時、今日の意識とは異なり、おぼろげな夢うつつの意識で、この地球紀になってはじめて、人間は自己意識と結びついた意識を獲得したという。この地球ではじめて人間は自己自身について何かを知り、対象から自分を区別できる存在となったという。 つまり、我々は、地球の外的な環境、物的対象物をみることで、はじめて「わたし」という自我を認識したのである。それ以前は、いわば夢のような漠然とした色彩のみをみるような、幼児が色だけを塗り手繰る絵画の如き意識だけだったのである。 そのためには、単に外から肉体を管理するだけでなく、この肉体の中に、昼に入り、夜に出るように交互に入り込んで、自らの内で「自我」が語りかけるのを感じとらねばならなかったという。人間はその肉体に完全に入り込むことによってのみ、完全な意識を獲得できたという。そして、今や人間はこの肉体と運命を共有するようになった。 地球紀以前、まだ上方にいた時、人間はこのようなことはせず(聖書の記述のエデンの園のこと)、人間が、肉体に入り、この覚醒意識を獲得したことによってはじめて、死と関係を結ぶようになったという。肉体が崩壊する瞬間、運命共同体となった人間は自分の自我が停止するように感じるようになった。 それは自我と肉体を同一視してきたからだという。 少しずつ霊的な進化を経てようやく、人間は再び太古の不死性を取り戻したという。肉体は意識して不死性を獲得するための修行場として存在するようになったという。人間が死によって不死性を贖わないなら、生と死の二元性を認識しないなら、決して高次の段階で不死性を獲得することはできないという。 人間が死を知らなかった間、生と死の二元性は開示された世界に属することなので、まだこの世界は人間に開示されなかったという。この世界の至る所に生における二元性を指摘することができると、神秘学は説く。物理学におけるプラスとマイナスの電流、磁気における引力と反発力など、すべては二元性の中に現れているところのもので、2は現象の数、開示の数だという。 この世界は、開示の数2、つまり二元性によっているが、この世界の背後で神的なものが働くことなしには、いかなる開示も存在しないと、神秘学は説く。従って、いかなるこの世の二元性の背後にも一元性が隠されているという。
2006年12月12日
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太陽紀の人間の魂は肉体に対して「外的なもの」で、肉体はまだ死の法則に属さず、成長と死滅は今日の場合とは違う形で起こっていたという。肉体がある部分を失うと、新しく再生され、今日それは例えば空腹と食物の関係のように、かつての物質体の崩壊と再生から、この関係が生じたという。 長期にわたって魂が生き続ける一方で、肉体は変化していき、当時は、死もなかったという。このようにして地球が太陽状態のときから、人間の魂がある特定の肉体をまず形成し、更に別の様々な形に作り変えられていくようになったという。最初にある一定の形態の肉体が形成され、魂がこの形態を別の形に変化させ、更に別の形にというように、そして第四の形にという具合に続いていき、再び最初の状態に戻ったという。 人間はその間ずっと同じ意識を保持し、形態は変化を重ね、人間の魂が2つの状態を体験した後に、最初の形に戻った時、魂は新たに受肉したように感じたという。このような進化のプロセスは、地球紀のいまでも蝶において保持されているという。 蝶は、卵、幼虫、蛹、蝶という形で変態し、蝶は、古い太陽上での、空気状態の人間を表す象形文字、記号だという。太陽紀とは全く異なる環境に生きている今日の蝶は、勿論この太陽状態の衰退した形であるという。蝶は、人間が乗り越え進化してきたかつての空気状態(人間)の象徴だという。だから、蝶は、神秘学においては、空気-存在と呼ばれるという。同様に、蛇は土-存在、魚は水-存在と呼ばれるという。 例えば、よく童話に出てくる人魚は、正に月の蛇存在から太陽の魚存在へと進化してきた人類を現す象徴といえるだろう。 地球の最初の土星状態の時、人間は霊的-魂的存在であり、総じて皆同じ肉体を持ち、低次の段階で自らの不死を知り、その肉体を絶えず変化させていたという。このような状態は、地球紀現在も、ある存在の中に保持され、その共同生活は非常に独特で、これを集合魂とみなすと、ある意味で人間よりずっと高次の存在といえるものであるという。 このある存在とは、蜂のことだという。蜂とはいっても、蜂の巣全体を、個々の蜂自身とは異なる状態とみなす必要があり、蜂の巣(個々の蜂ではなく)は、1つの霊的な本性を持っているという。この蜂の巣の存在は、ある意味、かつての土星における低次の段階での人間の本性と一致し、人間は再び、地球が進化した金星状態において、高次の段階でこの本性に到達することになるという。 日本では、よく蜂の巣が縁起物として玄関に飾られるが、この秘教的意味から考えると、明らかになる。 個々の蜂の体自体は、古い土星段階に止まったのだが、蜂の巣の魂は通常の集合魂ではなく、それ自体特別な存在で、個々の蜂とは霊的に区別すべきで、蜂の個体は形態の中に、人間の肉体が土星で行ったようなことを保管したという。 蜂の巣の霊は、個々の人間の霊よりも高次のもので、今日すでに金星-意識を有しているという。蜂は自らが死すべき運命にあることを知らない霊人の象徴であるという。この惑星がまだ土星の火のような状態であった時にもっていた霊性に、地球が後に金星となって再び火のようになる時、高次の段階でもう一度到達するという。それゆえ、神秘学では蜂を熱-存在あるいは火-存在と呼ぶという。 人間は、蜂のように死を克服するといわれる。それは外見上、蜂が死してもなお蜂の巣を守ろうとすることに類似しているようである。 蜂が蜂の巣の為なら、死を死とも思わないことをいっているのであろう。 今日の人間は、この土星状態から自らの中に、熱、つまり血液の温度を受け継いだという。当時土星全体に分布していた、熱が土星から解き放たれ、今日の人間と動物の温血を形成したという。 蜂の巣の温度を調べてみれば、人間の血液とほぼ同じ温度であることがこのことから判明するという。つまり、蜂の巣全体が、人間の血液の温度に相応して、同じ進化段階に戻るように、温度を展開しているという。このようなわけで、神秘学者は蜂を熱から生まれたもの、熱-存在と呼ぶという。同様に、蝶を空気から生まれたもの、空気-存在と呼び、魚を水-存在とし、蛇を土-存在と呼ぶという。 蜂-熱(火)、蝶-空気(風)、魚-水、蛇-土 これらは4大元素霊をも意味する。 以上のような言及から、神秘学的象徴や記号が表現するものが、地球と人間の進化史と深く関わり合っていることがわかるという。
2006年12月11日
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神秘学により、古代アトランティス人をイメージすると、彼らはまだ霊視的意識を有し、このことは当時の生活環境、霧に満たされた大気と関連し、この環境では、事物は明確な輪郭の境界をもたず、色彩像、色彩の波が、入り乱れてうねるように浮かび上がってきて、それらを霊的に感知する魂の状態をもって、彼らに示されていたという。 自分に近づいてくる(物的な)対象物の代わりに、アトランティス人は1つの光の形態を知覚していたという。 青は愛、赤は熱情、怒りなどという具合に彼らは感知し、当時あらゆる人間の魂の力がこのような色彩で広がり、彼らを取り巻いていたという。もしこのような状態がずっと続いていたとしたら、人間は決して現在の肉体を獲得できなかったという。 空気が水から解放され、対象が益々明白に現れてきて、現在のような境界を形成するようになったとき、人間の魂が新たなイメージを受容すべき時期が到来したという。そしてこのイメージに従って、魂は自らの肉体を形成したという。 人間は、考えたり感じたりするものに従って、自らの肉体を形成するという。 善きイメージから善き肉体が形成されるので、古代ギリシア人は、健全な肉体は健全な精神から形作られるといったわけである。 このように、人間の魂は、アトランティスの水の風土から救い出されて、新たなポスト(後)アトランティスの空気の風土に移行したとき、肉体を今日の形に作り上げるために、人間の魂は、後に形成されるべき肉体に合った特定の長さ、幅、深さを備えるような1つの形態に囲まれる体験が必要であったという。 この形態が、聖書に記述されたノアの箱舟によって実際に人間に与えられたという。 神秘主義の気分がゴシック様式の大聖堂の形態から形成され、そのことから後世の顔貌が形成されたことを霊視者が確認できるように、古代アトランティス人の肉体は徐々に形成し直されたという。 これは当時の人々が、偉大な秘儀参入者(ノア;ノアとは1人の人物ではなく多数の魂の意である)の影響の下に、聖書がノアの箱舟を記述する寸法に従って建造された事物の中で、実際に生活していたことにより、後世の肉体が形成されたという。 つまり、ノアの箱舟の寸法が、肉体にそのまま現れ、肉体の寸法が、ノアの箱舟の寸法の証となる。 古代アトランティス時代の生活は、一種の水-海上生活であり、人々の大部分は水上の舟で生活し、次第に陸上での生活に慣れていったという。というのも、古代アトランティスは単に水を含んだ霧の大気に囲まれただけでなく、アトランティスの大部分は海に覆われていたからだという。人々は肉体を今日のようなものに作り上げることができるように、このような舟の内部で生活していたという。これがノアの箱舟の秘密であるという。 アトランティス人の魂(アストラル体)はまだ、肉体に馴染んでおらず、そのエーテル体は、肉体よりせり出ていたので、霊視ができたわけである。舟のなかで暮らし、肉体に馴染んでいくにつれ、肉体のなかに入り、現代人のように、次第に、明瞭な外界の認識を得ることができたが、代わりに霊視を失ってしまったわけである。 聖書から再び神秘学的な深い意味を読み取ることに通暁すれば、この古文献には、叡智と限りない崇高さの輝きが溢れていることがわかるという。人間の魂は、自らの皮膚(肉体)のなかに閉じ込められるイメージを得なければならなかったので、舟上で生活したという。このように秘儀参入者たちは、何千年にもわたって人間の育成に作用を及ぼし、宗教的古文献において出くわすものは、まさしく深く秘された真実から取り出されたものだという。 これは、古代エジプト時代に、ファラオ(秘儀参入者)の下に、人々がピラミッドやミイラをつくったのも、魂の肉体への受肉による輪廻転生の能力を開発する目的があったことを意味し、現代でも通用する真実であり、現代環境が、将来の人間をつくるので、人工物に囲まれ、閉鎖的な環境を送る魂は、その後の転生に失望、もしくは生への希望の能力を開発できないものとなることが容易に想像しえるわけである。 或いは、現代日本人の自殺願望は、前世での愛無き閉鎖的な環境に起因しているのかもしれない。現代の自然環境破壊問題は、将来の人類の滅亡にとっては非常に深刻な問題といえるだろう。 聖書の第一章に見いだせる別のイメージ、今世紀の蛇のイメージは、ローマの地下納骨堂では様々な魚の徴として見られるという。この魚は古来、常に繰り返し図像として、キリスト教的ないしキリスト自身を意味するものとされる。 これらの図像も霊的世界から与えられたものだという。この蛇と魚の象徴に次の真実が含まれているという。 神秘学では、地球は人間と同様に様々な受肉を経てきたといわれ、地球は地球となる前には土星、太陽、月で、人間の肉体は様々な惑星状態において既に存在していたのだが、自我は地球上ではじめて人間に受け入れられたとされている。 この地球がまだ最初の受肉状態、つまりまだ土星であったとき、当時はまだ岩石や表土のようなものは存在せず、人間の物質的肉体は存在してはいたが、非常に精妙なもので、それが徐々に濃密になって、ようやく現在の筋肉の形態となったという。 今日の周囲の物質を観察すると、固体、液体、気体といった異なった状態があり、神秘学では全ての固体状物質が「土」と呼ばれ、「水」と称して全ての液体状の物質、「空気」と称して全ての気体状、ガス状のものを理解し表している。「火」すなわち「熱」はこれらの状態より精妙で、この「火」が実際、土、水、空気と比較できるものであり、ただこの3つよりももっと精妙な状態であることを意味するという。 熱を感じとるところでは、空気よりももっと精妙なものが存在し、神秘学的な意味で、土、水、空気とみなすものは、土星上にはなかったという。これらの固定した有形の状態は、太陽、月、地球となってようやく成立したという。土星上で最も濃密な状態は、熱、或いは「火」で、この中に人間の体が生き、土星を取り巻く環(つまり土星状態は常に環をもつという)、この環は、元々は反射された火の鏡像、火の分泌だという。 土星から太陽へと移ると、火に空気が加わり、太陽上で最も濃密な状態は空気であったという。一種の空気太陽だったという。太陽上で人間は空気存在であり、その時にエーテル体が注入され、空気存在の他には何もなかったという。 これらの空気人間は空気のように「透過できる」存在なので、彼らを突き抜けていくことができ、この空気人間たちは、さながら現代の蜃気楼と比較することができるという。それほど彼らは軽くフワフワしていたという。無論、古い太陽上の空気は今日より濃密で、古い月上でようやく水の状態が生じ、この月上で生きるものは全て水の凝縮によって形成されたという。今日でも見ることのできるクラゲや軟体動物がこうした水-存在のイメージを与えてくれるという。当時の物質的肉体は全てこのような性質で、この種の肉体がアストラル体を自らの内に受容できたという。 進化は段々と先へと続いてきたという。このように物事は、つまり人間と地球は、いわば運命共同体のように関わり合っているという。人間は自らの惑星に属しているのである。 この惑星進化の意味を考察すると、土星上には物質(肉体)体の萌芽・原基がはじめて存在し、太陽でエーテル体が付加され、月ではアストラル体が付加されたが、月上では更に別のことも起こり、古い月が二つの天体、すなわち一種の精妙になった古い太陽と本来の古い月という2つに分離したという。当時、古い月上に止まっていた人間は、基本的に今日の人間よりずっと劣った存在で、その進化段階はずっと低次のものだったという。というのも、アストラル体はこの古い月上では荒れ狂う激情に溢れていたからで、ずっと後になって、地球と共に、自我が付加されてからようやくアストラル体の浄化が始まったという。 そのためには更なる進化が必要で、月が再び太陽と合体し、古い月と太陽という2つの天体が再び1つになる必要があったという。分離した太陽上に生きていた高次の存在たち(エロヒム)は、彼らの進化を続けるためには、月から離れる必要があったという。けれども今度は、この月上に残された存在、そこで更に固化してしまった存在を救済せねばならなくなり、それで太陽は再び月と一体化する必要が生じたという。 もし太陽と月とが再び1つにならずに、両者が別々に進化を続けていたとしたら、人間は決して今日のような形態を保つことができなかったという。古い月が独自の道を進んでいったとしたら、つまり、太陽との合一によって新たなる力を創造することができなかったとしたら、月が生み出す最高の存在は、恐らく今日の蛇のような存在だったという。 対して、太陽存在が、もし単独のままだったとすれば、最高のものとして魚の形態に到達することができたという。魚の形態は、人間よりずっと高度に進化した存在たちの外的な現れ(形態)だという。魚の集合魂は、実際今日でもとても高度なもので、外的な形態は魂とは全く異なったものだという。 魚の集合魂が、高次なのは、魚が他の動物を生かすための餌になる自己犠牲を厭わない点で証明されるという。魚がいなければ、他の動物は食事にありつくことができなかったといえるだろう。 古い月の存在たちを蛇よりも高める力は、太陽の存在たちからやってきて、この高次の存在たちの太陽状態の清澄さが魚の形態の中に表現されているという。それは古い太陽存在たちが獲得できる最高の物質的形態であるからだという。 このようなわけで太陽の力の全てを地球に受容した太陽の英雄、キリストは、魚の徴(シルシ)によって象徴されるという。このような深い直観が秘教的キリスト教の魚の形態の意味にあり、魚の形態は秘教的キリスト教にとって、太陽の力、キリストの力の外的な表徴だという。確かに魚は外的には不完全な存在だが、魚はそれほど深く物質の中に入り込んでいないので、利己主義に満たされることが少なくてすむという。 神秘学者にとって蛇の象徴は、古い月から進化した地球の象徴で、一方、魚は古い太陽の霊存在たちの象徴だという。固体的実質を備えた地球は、蛇の象徴にその最も深い存在、地球の固体存在を象徴化したという。水の実質として分離されたものは、魚の中に象徴として示され、神秘学者にとって魚は水から生まれたものとして考えられるという。 魚は高次の太陽霊の存在であり、水(液体)の象徴、対して蛇は古い月から進化した地球の象徴で、固体、いわゆる土の象徴なのである。 さて、それでは空気から生まれたもの、火から生まれたものとは何なのか。これは追求が困難な分野で、暗示的なことをまとめるだけしかできないという。 地球がまさに土星状態から太陽状態へと進化して移行した当時は、人間は一種の空気人間で、今日の意味での死というものを人間はまだ知らずに、人間は自らを変態させていたという。人間がどのようにして今日のような死についての意識に行き着いたのかは、地球の進化と関わっているという。 地球が土星状態から太陽状態へと進化していった時、人間の魂はまだ太陽を取り巻く気圏内で生きていたのだが、下方にも肉体として存在するものとも関わりを持っていたという。今日において、夜眠っている間、アストラル体は物質体から抜け出てはいても、物質体に属しているように、古い太陽と古い太陽上においても、アストラル体はそのような状態だったという。ただ、当時においては魂は決して物質(肉)体の中に入り込むことはなかったという。霊的な意識をもった1つの魂が特定の肉体に既に属してはいたが、外から肉体を管理していたという。 これはさながら、まるでパソコンを通して、ネットを操る現代人のようであろう。もし、ネットのなかに、我々の存在が入り込んだら、ネットは現在の地球状態を表すものになり、ネットの死と共に死ぬことになる。
2006年12月11日
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前回はノアの箱舟に言及し、この箱舟の高さ、幅、長さの比率の中に、人体の寸法の比が表現されていることを書いた。聖書という宗教的古文献のこの箱舟がどのような意味を持つかを洞察するためには、人間を救出するこの乗り物が人体の寸法を思わせる一定の寸法を取る意味を明らかにするのみでなく、ノアの物語に暗示されている実際の出来事が起こった時代へと沈潜することが必要であるという。 神秘学について幾らか理解した人が、外界の対象物を見る時はいつも人間の魂にとって特定の目的と意味をもつことを理解していたという。中世初期に成立し西部から中央ヨーロッパに向けて広がった全く独自のゴシック建築の教会と大聖堂をみると、ゴシック建築の教会が確固たる建築様式の理念を持つことがわかるという。 ゴシック建築は上に向かって先の尖った、2つの部分からなる独自のアーチが、全体に上方を切望する気分として溢れ、支柱が一定の形態をとること等の点で表される様式で、このようなゴシック大聖堂が、単なる外的な用途や必要性、あるいは装飾や芸術を表現し、意味すべき神の家をつくろうという憧れの類から生まれたものと主張するのは全く誤りで、全くの間違いであるという。ゴシック様式の基礎になっているのは、もっとずっと深いもので、世界に、ゴシック建築物の最初の理念を提示したのは、神秘学に精通した人々で、彼らはある程度の秘儀参入者だったという。 この人類の偉大な指導者たちは、このような建築物、建築様式を生じさせることに、特別な意図をもっていて、ゴシック様式、ゴシック式大聖堂と教会に足を踏み入れる人には、全く特定の魂の印象が呼び起こされるように創意を施したという。そびえ立つ支柱群を備え、高く湾曲したドームの中は、まるで一種の苑に踏み込んだような印象を受けるように、そこに止まることは、魂に対して、例えば普通の家屋やルネサンス式丸屋根やロマネスク様式の丸屋根を備えた建築物の中に入っていく時とは、全く異なった作用を及ぼすようにしたという。 このような形式から特定の作用が生じるので、通常の人間にはこのことが意識されずに、無意識のうちに行われるので、このような形式に囲まれている時、自分の魂に生じていることを人間はあまり理解しないので、その時、魂で生じることは、その周囲の状況に応じて非常に異なったものとなるという。 多くの人々は、現代の唯物主義は多くの唯物主義的著作が読まれることに由来すると思っているが、神秘学者はその影響がそれほどではなく、日頃、眼で見る方が遥かに重要であることを知っているという。目で見ることの影響は、多少なりとも無意識糧に進行する魂のプロセスに浸透するからだという。これは実際的な意味があり、いつか真に人間の魂を把握するとき、この実際的な作用が公共の生活において注目されるようになるという。 中世においては、通りを歩くとき、今日とは全く異なった魂への作用があったという。左右のどの玄関(正面)にも、その家を作り上げた人の銘が刻まれていたという。人々の周囲にあるどの対象物も皆、どの戸錠も、鍵も、その製作者の魂の自らの感情の体現から作り上げられていたという。 これら一人一人の製作者がいかにどの部分に対して喜びを感じていたか、いかにその中に自分の魂を注いでいたかをはっきり感じとれば、どんな物の中にも、作者の魂の一部が存在したことを感じ取れたという。従って、外界の形式(様式)の中に魂が宿る所では、それを見、観察する人にも、共感を呼び、その魂の力が漲ったという。 今日の都市と見比べ、今日の事物のうちにまだ魂は宿るかと問うなら、例えば、靴の店、刃物の店、肉屋の店、それにビアホール等のなかの、あるポスターの芸術が、どんな成果を生むか考えてみると、ゾッとするようなポスター芸術の多いのに気がつかされ、老いも若きも、オゾましい制作物、意識下の最悪の力を呼び起こす制作物の海の中を、まるで彷徨うような幻覚を生じることが考えられるという。 神秘学的な教育術は、目で見るものが人間の奥深く影響を及ぼすということに注意を喚起せずにはいられないという。なぜなら、このような堕落し退廃した社会環境、芸術(形式)は、人間をある一定の方向に導く力、時代を見定める力の流れを人間の魂の中に注ぎ込むことになり、結局、将来の人間の魂は、いま人間がどのような形式の世界に生きているかによることを知る必要があると説く。 中世の半ば頃、ライン河沿いにドイツ神秘主義と呼ばれ、注目すべき宗教的運動が発生し、法外な深まりと内面化が、キリスト教神秘主義の指導的精神たち、マイスター・エックハルト、タウラー、ズーゾー、ロイスブルーク他、「坊さん」と呼ばれた人物たちから発したという。13世紀、14世紀においては、「坊さん」という呼称は、今日とは異なり、まだ幾分尊敬の意味合いを持っていたという。当時ラインは、「ヨーロッパの偉大なる坊さん横町」と呼ばれていたという。 この人間心情の偉大な深まりと内面化、神的で、本質的な諸力との親密な一体化を求めるこの敬虔な感情こそが、尖塔迫持、支柱と円柱群を備えたゴシック大聖堂の中から、人間の魂のなかに引き出されてきたものだという。この聖堂がこれらの魂を引き出したという。ゴシック建築を見ることはそれほど強力に作用したという。人間が見るもの、人間の周囲からその魂に注ぎ込まれたもの、これが人間のなかで1つの力となり、この力に従って、人間は、次の受肉に至るまで、自分自身を形づくるという。 神秘学によると、建築様式は、ある時代に秘儀参入者たちの偉大な思考から生み出さたもので、彼らが建築様式を世界へ流入させ、建築物が建てられ、人間に作用したという。人間の魂は、この建築形式の中に生きる霊力を、自らの内に幾らか受け入れるという。 建築の形式、例えばゴシック様式を見ることによって魂が受容したものは、魂の気分の中に現れて、高みを見上げる情熱的な魂として表現されるという。数世紀前に人々はゴシック様式の中に生きるものを自らの内に受容し、そして今度は、このゴシック建築の形式の力を魂の中に受容した人々の数世紀後、つまり次の受肉を追求してみると、その人相や顔貌に、この内的な心情の顕現を示しているという。 このように人間の魂が顔を作り上げたという。このような事実から、このような芸術がなぜ用いられるのかがわかるという。人類の未来のずっと先まで、秘儀参入者たちは見ている(預言している)という。そのため彼らはある特定の時代に、外的な芸術形式、広くは外的な建築様式を形成するという。このように、人間の魂の中に、未来の人類の時代のための胚珠が蒔かれるという。 秘儀参入者の理念の提示 →建築物等の形式 →魂への受容 →内的な心情の顕現 →次の受肉での人相や顔貌形成 このようなことを正しく眼前に置いてみると、アトランティス時代末期に生じたこと、その没落が起こった時代に目を転じてみれば、この時代にはまだ今日のような空気がなく、空気の分布も水の分布も、現在とは全く異なったもので、濃い霧がアトランティス大陸を取り巻いていて、霧が雲に凝縮し、流れ落ちる雨となって大洪水が陸地に溢れたというように、このアトランティス大陸の沈没は、一瞬の出来事のように生じたのではなく、徐々に段階的に起こったことがわかるという。 アトランティス大陸の沈没は、短期間のうちに起こったのではなく、何千年も続く1つのプロセスであったという。 外界(環境)の生活状況の変化に伴って人間そのものも変わり、それ以前のアトランティス時代では、人々は一種の霊視により知覚していたが、末期において、雨が降り始めたとき、人々は次第次第に全く新しい生活の仕方、新たな見方、新しい種類の知覚に慣れる必要性が生じ、人間の肉体も変化を免れなかったという。 実際、アトランティスの人々は、今日の人間と驚くほどあまりに異なっていたという。けれども、このような変化は一度に起こったのではなく、少しずつ形成されてきたという。人間の魂の力が長期間に渡って人間の身体に働きかけ、まず人間は、建築様式を見、それが心情に作用し、更にまた、この心情が後世において、人間の顔相、顔貌に作用するようになるというプロセスにおいて進化してきたという。 アトランティス時代から後アトランティス時代(我々の時代)に移行する時期になって初めて、人間の魂は自らの形を変え、それに続いて肉体も作り変えられたという。
2006年12月08日
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前回は、霊視と霊聴で得られる神秘学の記号と象徴をまとめた。その続きからはじめる。 太陽であっても、宇宙においては動いているのである。だから権威化してはならないのである。権威化した宗教団体は、もはや自らが悪魔の教えを標榜するものと覚悟する必要があるだろう。波動が静止し固定化したら、物質となり、忽ち、それは滅びうる存在となり、死を迎えざるをえないのである。権威化は物質化といってもよい悪魔の成せる業であろう。 天体の音楽は、各惑星の速度の関係より構成されるという。 物理上の振動数の共鳴による音楽的調和が成立するとき、その調和は、例えばある弦の振動数は速く、他のある弦の振動数は遅く、異なって振動する様々な弦に基づいていて、一本一本の弦が振動する速度に従って、高い音や低い音が響き、このような様々な音の共鳴が音楽として鳴り、調和を生じさせているという。 つまり、このように物理的な弦の振動から、音楽的イメージ(波動のイメージ)を得るのと全く同じように、デヴァチャン神界の霊聴の段階にまで上昇した人は、天体の運動を天球の音楽として聴き取るという。 霊視の場合は、光の波動の数学的な認識といえるが、霊聴の場合は、惑星の軌道速度の波動の数学的な認識といえるだろう。つまり、霊視器官は、光の振動数を認識する器官で、霊聴器官は、惑星軌道の振動数を認識する器官であるといえる。 更に、諸惑星のそれぞれ異なる運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球のハーモニーの基調音が生じるという。この真実がピタゴラスの学院では、まさしく天球の音楽として語られ、それは霊的な耳で聞くことができるという。 以上の考察から、更にまた別の現象も暗示でき、例えば、薄い真鍮板に微細な粉末をできるだけ均等にまき散らし、ヴァイオリンの弓でこの板をこすると、音が聞こえるばかりでなく、粉末の粒子が一定の線上にきちんと並び、音に応じてあらゆる図形が形成されるという。音が作用して物質、素材が配置されるという。これが有名なクラドニの音響図形であるという。 このクラドニ図形で、人間の発する声(言葉)の母音を表現すると、例えば、「ア」の音は、円のフラクタル図形ができ、「ウ」の音は、正方形のフラクタル図形ができ、「ム」の音は、正三角形のフラクタル図形ができるという。恐らく、「ア」音は、均等に広がる自由な相互作用を、「ウ」音は、2体(点)相互作用を、「ム」音は、3体(点)相互作用を生じさせる共鳴現象だと思われる。 霊的な音が宇宙空間を貫いて響いたとき、音は互いに比例関係にある諸惑星を天球のハーモニーへと組織したという。宇宙空間に広がって見える存在を、この創造する神性の音が配列させたという。このような音が、宇宙空間の内部へと響きわたったことにより、物質が、1つの系へと、太陽系、惑星系へと形成されたという。 なので「天球の音楽」という表現も、人間の才気溢れる比喩などではなく、現にある事実であるという。 神秘学によると、遥かに遠い過去、地球は火で溶融したような状態で、今日の石や金属は、かつてはこの火で溶けた状態の地球に溶けこんで、いまでは、凡そ、そのような熱の中では、人間もその他の存在も生存できたはずはないと思われるだろうが、当時の人間の肉体は当時の諸条件に適合したものであり、当時の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できたものであったという。 この地球の火の時代に続いて、アトランティス時代と呼ぶ水の時代がやってきたという。アトランティス大陸は、今日のヨーロッパとアメリカの間の大西洋の中心に広がり、人類の先祖が住んでいたという。無論、彼らは今日の人間とは全く異なった状態にあり、彼らの視力は全く異なっていて、ある意味で霊視を行っていたという。アトランティス人の進化においては、この視力に様々な段階があり、アトランティス末期の最終段階は、遥かに高次の段階の一種の余韻のようなものであったという。 例えば、アトランティス人はいまのような外的な(物質的)対象を、アトランティス末期になってようやく見ることができるようになったという。それ以前、アトランティスには豊富な水を含んだ大量の霧が充満していたので、対象物は空間的に、ハッキリとした輪郭で分けられていなかったという。 このようなアトランティス進化の初期においては、知覚の仕方が全く異なり、古代アトランティス人がある物や存在に近づくとき、最初に見たのはある人物や対象の輪郭や骨格ではなく、外界とは何の関係もない、ある内的な魂の状態を再現するような色彩像が、彼らの内に浮かび上がったという。色彩像は、こちらに向かってくる存在が彼にとって有益なのか危険なのかを語るもので、例えば、こちらにやってくる者が他に対して抱いているのが復讐の感情であったなら、それに応じた色彩像が彼に示され、彼はそこから走り去り、野生の獣が近づいたら、彼は同様に識別し、そこから逃れることができたという。 アトランティス人は、自分の周囲の魂の状態をこの霊視の最終段階で知覚していたが、その状態から今日の視力が徐々に発達してきたという。それは、非常に霧のかかった日のことを考えてみればわかることで、対象はそういうとき、ぼやけていて、こんな日には、街灯も点のように浮かび上がっているだけにしか感じ取れないもので、それから段々と輪郭が判別できるようになってきたという。こうして徐々にアトランティス人は見ることを学んだという。人間が以前に見ていたものは、一種のアストラル的な色彩で、最初のうち、この色彩はまだ自由に漂っているように見え、それからいわば事物の上に置かれるように感知するようになったという(このような輪郭に捉われない色彩の表現は現代でも幼児の描く絵画に現れている)。 勿論、この別種の知覚は、当時の人間が今日とは全く違った様相をしていたことに結びついていて、例えば、アトランティス時代の末期には、人間の身体の額は遥かに後退していて、その上方にエーテル体が大きな球のように迫り出し、額の後ろ側の点、両眼の間を少し後退した辺りで、現在のように物質体とエーテル体はまだ一致せずにいたという。 それから物質体とエーテル体が収縮し、物質体とエーテル体の両者の点が一致したのは、人間進化において、重要な瞬間であり、今日では肉体の頭部はエーテル体の頭部にほぼピッタリと収まっているという。馬の場合は、いまだ一致していないという。 人間の場合、この頭部の変化のように、四肢も変化し、徐々に現在の肉体の形姿が形成されてきたという。アトランティス時代末期当時は、人間はある種の霊視力で自分の周囲の魂的状態を知覚し、周囲には、厚い霧の大気、水蒸気をたっぷり含んでずっしりと重い空気があり、太陽や星々、周囲のあらゆる対象物は、当時この豊富な水蒸気を含んだ空気の中ではよく見えなかったという。 虹は当時はまだなく、虹はまだ生じていなかったという。全ては厚く重い大量の霧に覆われていて、それ故に、伝説として、太古の世界が、霧の国として語られているという。徐々に、空気の中に厚く拡がっていた水が凝縮していき、聖書にある「かくて大洪水の水が地上に降り注いだ」という表現のように、厚い大量の霧が水へと凝縮し、降水、雨となって落下したという。水が空気から分離されたことにより、空気は透明になり、それに伴って、今日のような視力が形成されてきたという。人間は、自分の周囲の対象を見ることができるようになって初めて、自分自身を見ることができたという。 神秘学によると、人間の物質体は深い意味を持つ多くの規則性を示し、そのうちの1つは、高さ、幅、長さが、3:5:30の割合となる箱を拵える話で、この箱と同じ割合が人間の肉体にも見出せるという。換言すれば、これによって人間の肉体の規則的な構成の割合が示され、人間がアトランティスの洪水から出てきたその当時、人間の肉体は3:5:30という割合に従って形成されていたことを物語っているという。 このことは、聖書の記述で、「そこで神はノアに命じて、長さは三百エレ、幅は五十エレ、高さは三十エレの箱(舟)を作らせた」の意味であり、人体の調和の寸法比は、このノアの箱船の寸法比とぴったり適合しているという。 神秘学の記号や形象は、事物の本質そのものから取り出されたもので、従って、それらを通じていかにして霊界の関係をのぞき込むことができるかを示すものであるという。
2006年12月07日
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2006年12月07日
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神秘学の記号と形象を瞑想により体得すると、その真の意味、叡智を学びとることができるという。このように学びつつある人、高次の視力、霊視力を発達させつつある人にとって、例えば次のような修行が大きな意味をもつという。 それは、真っ暗な空間に身を置き、外からの光を完全に遮断して(夜の暗闇であっても、両目を閉じることでもよいという)、徐々に自分自身の内的な力によって、光の表象をイメージし突き進もうとする修行法だという。 人間がその表象を十分な強度をもって形成できるようになると、修行者は次第に明敏になり、そして光を見るようになるという、それは物質的な光ではなく、修行者自ら創造し、内的な力によって自らの内に生み出した力であるという。これは叡智に貫かれた光であり、この光の中で人間には創造する叡智が現れるという。これがアストラル光と呼ばれる光だという。 瞑想を通じて人間は内的な光を生み出すことができるようになり、この光は、人間がいつの日にか(物質的感覚器官の眼ではなく、もっと精妙な霊的感覚器官によって)見るものの前触れであるという。この霊的感覚器官(チャクラ)はエロヒムたちのような実際に存在する霊存在たちの衣装となるという。人間がこの修行を正しいやり方で行うと、これらの高次存在と関係を結ぶ手段となるという。実際、自らの経験から霊的世界について学ぶ人達は、このような修行を行なってきたという。 これを神秘学では、霊視の獲得と呼んでいる。現代科学で言うならば、一種の数学的な光の波動の観測器官といえるだろう。光の波動が量子化される前の前量子化状態(数学的にいえば生成演算子を課す前の調和振動子)を捉える観測装置を獲得することなのであろう。物質的な視力では、波動が固定されたつまりコヒーレントな固有振動数の物質体しか観測できないのである。 また更に、別の方法によって人間は、自らの内的な力により、空間が光に照らされ、叡智に取り巻かれるのを感じるような、いわゆる霊視のみならず、空間がいわば音を発し始めるという事態、いわゆる霊聴にまで到達することもできるという。 古代ピタゴラス哲学では、天球の音楽について語られていたが、この「天球」という言葉は、宇宙空間、つまり星々が運行する空間を意味するもので、人間がつくりあげたイメージなどではなく、詩的な比喩でもない、1つの真実であるという。人間が秘教の導師の指示に従って十分に修行を積むと、明澄な、光輝に満たされた空間、叡智の顕現である空間を内的に観るだけでなく、宇宙空間にみなぎる天球の音楽を聞き取ることを学ぶという。 空間が鳴り響き始めるこの時、人間は天上的な世界、デヴァチャン神界にあると言われるという。まさしく空間が鳴り響くようで、物質的な音ではないという、これは霊的な音、空気中で生きるのではなく、ずっと高次の精妙な実質、アカシャ実質の中に生きる音なのであるという。空間は絶え間なくこのような音楽に満たされ、そしてこの天球の中にある種の基調音があるという。 恐らく、弘法大師空海が説く曼荼羅図は、この霊聴による天球の音楽を意味するものではないだろうかと思う。仏像一体が、天体であり、なんらかの音を用いて表現すれば、曼荼羅図は、一種のシンフォニーを表現するのではないかと思うからである。顕教と比べ、密教には、霊視より霊聴を重んじる傾向が強くみえる。 神秘学では、地球が、土、日、月、地球(火、水)、木、金、ウルカヌスと進化していくと説く。では、今も空にある土星は、地球の最初の受肉状態であった土星とどういう関係にあるのか、と神秘学から考えると、「土星」という呼び名は、天体の進化の最初期を意味するものだという。人間でいう少年の意味であるという。ただし、ウラヌス(天王星)は後になって発見されたため神秘学でいうところの正しい名前を持っていないが(海王星、冥王星も同じ、神秘学では太陽系の一番外は土星で、土星より外は、太陽系にきた彗星の忘れ物の名残だという)。 だから、今日の土星は、地球がまだ土星の状態にあったときと同じ進化段階にあるという。土星の意味は地球に対していわば少年が老人に対するような関係にあります。老人がすぐ傍の少年から育ってきたのではないように(その老人はかつて少年だったわけで)、この地球も今日ある土星から進化してきたものではないわけで、今日空にある土星もまたいつか「地球」となってゆくという、現在は一種の青年期の段階にあるという。 他の天体の場合も同様で、太陽はかつての地球の進化段階に似た天体だが、ただそれがいわば更に高度に進化した状態だという。このように、人間社会に、老人の傍らに少年が共存しているように様々な年齢層が存在するように、天においても様々な惑星が様々な進化段階にあって並存しているという。 ある天体(土、太陽、月、火)は、現在第四の受肉状態にある地球が既に完了した進化段階に止まっているものであり、また他の天体(水、木、金)は、地球がこれからとることになる進化段階にあるという。これらの惑星は、お互い正確に一定の関係にあり、神秘学者はこうした関係を今日の天文学者が行うのとは別のやり方で表現するという。 諸惑星は一定の速度で太陽の回りを運動しているのは周知の事実だが、また神秘学的天文学者たちによって正確に探求されている別の惑星運動も行っているという。その探求によって明らかにされたのは、太陽はある霊的な中心点の回りを運動していて、従って諸惑星の軌道は、太陽の軌道を正中線とする螺旋を描くという。このような螺旋軌道が、地球上の生命体の螺旋軌道を描かせるという。DNAの螺旋構造もここからくるようである(現代科学では、DNAが螺旋構造をとることがわかっても、なぜ、螺旋構造なのか、そして螺旋軌道の意味自体を理解できないのである)。 太陽の惑星を司る秩序と調和の体系が、惑星の軌道を生じさせ、その結果を証として、螺旋構造としているのである。つまり、螺旋構造は、太陽霊のシンボルといえるだろう。この螺旋は、しばしば白い蛇の象徴や、生命の樹、メリクリウス(モーセ)の杖等で表されるところのものである。 各惑星がその軌道を運行する速度は、お互いに全く一定の調和した比例関係にあり、この音響としての比例関係が、霊聴者にとって、1つのシンフォニーを構成するように、聞こえるという。これがピタゴラス学徒によって天球の音楽とみなされていた真相であるという。 この共鳴、この音楽は、宇宙的な出来事の模像であり、ピタゴラスの学院で教授されたものは、人間が頭をひねって考案されたものではなく、古代の神秘学的天文学者、つまり占星術者たちは、「一見静止しているように見えるこの星天は実際は動いている。霊的な中心点の回りを、百年ごとに一度ほど前にずれていく速度で回転しているのだ、」といったという。これが天動説となって伝わったのである。真の天動説とは、霊的な天体の活動を意味したのである。 つまり、天体の音楽が、天動説の真の意味なのである。教会が唯物論に走り、権威化した為に、何時の間にか、地球(教会)が静止し、唯物的な軌道として、堕落した悪魔の教えとなったわけである。つまりは、堕落とは、自ら進化(活動)を止め、権威化したことを意味する。人間や地球は一時足りとも止まることなく歩み進まなければならない。
2006年12月06日
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神秘学で用いられる記号と象徴は、物質界の意味を表すものではなく、それ故物質を記述するものではないので、物質的に捉えると錯誤や曲解をもたらす。前々回から太古の医術をまとめてきたが、それらの深い意味を、神秘学で用いる記号と象徴で記述できるのである。 それは、神秘学の記号と象徴が、物質を記述するものではなく、物質から隠された秘密(オカルト)を記述するからである。 つまり、神秘学の記号と象徴は、アストラル界及び霊界と関連する秘密(オカルト)の記号と形象なのである。 世間に伝わるオカルト文字の多くは曲解や誤訳で、それは唯物的解釈により、物質として抽象化された悪癖のものであるという。 そのような代表として、五芒星(ペンタグラム)の真の意味をまとめる。 ヒポクラテス、パラケルススのような太古の医術では、人体を、4つのものから定義していたことは何度となく書いてきた。すなわち、肉(物質)体、エーテル体、アストラル体、自我である。 ヒポクラテスは、これら4つの体の混合具合で、クラーシスとデイスクラーシス(病)を、評価したわけである。 神秘学では、更に3つの体を加えた7つの体で、人間を定義するのである。これは7つのチャクラとも対応するものであろう。すなわち、 物質体、エーテル体、アストラル体、自我、そして霊我、生命霊、霊人 である。自我から先の霊我、生命霊、霊人の体(器官)は、ヨハネの黙示録により、人類が、地球以後の進化段階で、手に入れるべきものであるという。確かに、地球紀の現在の人類には、その萌芽として弱くかすかに存在するだけで、いわば種(たね)の状態にあるが、無いわけではない。 五芒星は、このなかのエーテル体の活動の流れを表すものであるという。つまり、通俗的には、気の流れといってよい。 エーテル体は、大抵の人が想像するような希薄な物質的身体、一種の微細な霧の塊というようなものではなく、エーテル体の特徴は、様々な流れが統一体として浸透して構成されるもので、力の流体のようなイメージであるという。エーテル体は実に物質体の建築家、形成者であり、氷が水から形成されるように、物質体はエーテル体から形成されるという。このエーテル体はあらゆる面に向かって、海のように流れに貫かれていて、それらのうちの主流が五つあり、両手両足を開いて立ってみれば、人間の身体は、ダビンチが描いたような絵のように表されるという。 前々回の太古の医術の解説で、エーテル体の流れ、プロセス、作用から、数学らしく記述してきたものが、神秘学の象徴体系に既にあるところのものなのである。 人間のなかのエーテル体は、星型に、反時計回りに巡る図で表現されるという。 人間のなかの5つの流れがエーテル体を貫き、いわば人間のエーテル体の骨格を形成していて、絶え間なくこれらの流れはエーテル体を通過し、人間が動いているときも変わりなく、どんな姿勢をとっていようと、常に1つの流れが、額の中心、眉間の一点から発して右足へ下り、そこから左手へ、更に右手へ、それから左足、そこから再び額へ戻る流れを形成しているという。 額の中心、眉間の一点から発して右足へ下る流れ 右足から左手へ上る流れ 左手から右手へ横切る流れ 右手から左足に下る流れ 左足から再び額へ戻る流れ 五芒星と呼ばれるものは、この5つのエーテル体の中の流れで、物質体のように内的に活動していることを意味しているという。 だから神秘学者(オカルティスト)が五芒星について、人間の図形として語るとき、解剖学者が骨格について語るのと同じで、エーテル体の流れを語っているのであり、この図形は、現にエーテル体の中に存在していて、1つの事実であるという。 だから陰陽師が、五芒星を描くとき、このエーテル体の流れから、人間の存在、つまりエーテル体の状態を吟味していたことがわかるだろう。映画陰陽師のシーンにもあったが、陰陽師が五芒星のエーテル体を描くことで、エーテル体人間を表現していた。 実際、物質体を失っても、エーテル体をもつ自縛霊、執着霊が存在するからである。 このような図形や記号を正しく用いる指針を少しずつ獲得すると、人間を次第に霊的世界の認識に導き、霊視力を獲得させる手段となるという。瞑想において五芒星をイメージし沈潜する人にはエーテル体内の流れの道筋が見いだされるという。 神秘学のこれらの記号や形象を、瞑想においてイメージするとき(ただ忍耐強く行う必要があるという)、ある秘められた真実に導かれるという。 では、人間はいかに、現在のような4つの体の存在、つまり物質的肉体、エーテル体、アストラル体、自我になったのかというと、それは地球の進化段階から説明されるという。これらの説明は聖書に記述されているという。 遥か昔、地球は土星紀と呼ばれる、いまでいう熱の状態だったという。そのとき、人類存在は、熱からなるいまの肉体の原基から成っていたという。いまでは、この肉体の原基の名残は、体温を意味し、血液のなかの熱分布であるという。 地球がその土星紀のとき、いまの地球の大気のように、土星の周囲は、エーテル体で覆われていたという。そして、次の太陽紀のときに、人類の体に組み入れられたという。地球が次の太陽紀のとき、次の月紀上で人類の体に組み入れられるアストラル体が周囲にあったという。 この地球の古い太陽(紀)は、今日の地球のような岩石、植物、動物から成り立っているのではなく、太陽上に存在していたのは2つの自然領域で、人間は、どうにか人間的な植物といったような存在で、この人間存在と共に、一種の鉱物存在があったという。 つまり、古い太陽紀は、人間的な植物と鉱物からなる2つの自然領域から成り立っていたという。 この古い太陽を現在の太陽と混同してはならず、古い太陽は厚く流動するアストラル的な外被に取り巻かれていたという。古い太陽はいわば、アストラル的な空気の覆いに囲まれていて、このアストラル外被は光輝いていたという。 この古い太陽の住人は、現在の人間たちよりも高次の存在たちで、これらの存在は光輝くアストラル体を持っていたという。聖書において非常に正確に光の霊、或いはエロヒムと呼ばれたこれらの存在は、そのアストラル本性を宇宙空間に放射していたという。 このアストラル体は、人間の本質の第3の構成要素で、喜びと悲しみ、歓喜と苦悩、衝動、熱望と激情といった人間の内的魂的な体験を有する全ての担い手であり、植物にはアストラル体がなく、従って人間や動物のような喜びや悲しみは感じないのである。 現在の人間は、地球が土星紀のときに、肉(物質)体の原基を手に入れ、次の太陽紀のとき、土星紀の周囲のエーテル体を組み入れ、次の月紀のときに、太陽紀の周囲のアストラル体を組み入れ、そして、次の地球紀のとき、自我を加え、現在の4体としたという。 土星紀→肉体の原基 太陽紀→エーテル体を加える 月紀→アストラル体を加える 地球紀→自我を加える そして、神秘学では、ヨハネの黙示録から、地球は、我々の地球紀の後、木星紀となり、木星紀の後、金星紀となり、金星紀のあと、ウルカヌス紀になると想定されている。よく、地球紀を前半と後半に分け、前半を火星紀、後半を水星紀とも呼ぶが、そのような呼び方だと、地球は、一週間の暦のように、土、日、月、火、水、木、金と進展するといえる。 これに併せて、人類も、肉体、エーテル体、アストラル体、自我と与えられてきて、今度は、霊我、生命霊、霊人と、地球の進化度合いに合わせて、手に入れていくといわれているのである。 そうすると、次の現代人の課題は、霊我を手に入れることであるという。人間の自我がアストラル体へと働きかけて、より一層知的、道徳的、霊的な関連において浄化すると、人間のアストラル体から霊我ないしマナスが生じるという。 遥かな未来、このようなことが完了されたときには、自らのアストラル体が「物質的に」輝きを発するという。植物が既に自らの内に新しい生命の萌芽を宿しているように、アストラル体も既に光の萌芽を宿していて、いつか人間が自らのアストラル体をもっともっと純化し、浄化しきった暁には、この萌芽が宇宙空間へと光を発することになるという。 そのとき、この地球は、別の惑星(木星)へと変容するという。今日の地球自体は暗いもので、地球はただ太陽の光を反射して明るく見えるだけにすぎないものだが、いつか地球自体が光輝くようになるという。そのときには、自らのアストラル体全体を変化させてしまっている人間によって光輝くという。全てのアストラル体の総計が光となって、宇宙空間に光を放つものと想定されている。 さながら、伝教大師最澄の説く一灯照隅、万灯照隅であろう。 さて、古来からの様々な宗教において、光は、叡智や、霊的な明澄さの意味で言及されていることの真の意味がここに見出されるという。 人間が自らのアストラル体に組み入れたものは、我々が善、聡明さと呼ぶもので、それを通して人間は自らのアストラル体を高貴にすることができるという。 例えば、まだ食人種の段階にあり、全ての激情に盲目的に従う未開人と、高度に進化した人間とを、何をもって区別できるかと問うなら、文明人は既に自らのアストラル体に働きかけてきたが、未開人はいまだそうしていないという点で区別できるという。 自らの激情や衝動を、これには従ってよく、別のにはいけないと自らに言い聞かせるほどに把握している人は、道徳的な概念や理念を形成しているといえ、つまりこれがアストラル体を変化させ高貴にするということであるという。つまり、自制心が、自我によるアストラル体の純化を可能にし、光輝くものにするという。 人間は受肉を重ねつつ自我からアストラル体に働きかけることにより、益々一層前述の光輝く存在へと自らを高めていくという。このことを「叡智の働きかけ」と呼び、アストラル体の中に叡智が増せば増すほどアストラル体は光輝を増すという。 あの太古の太陽上に住んだ存在、エロヒムたちは全き叡智に貫かれていて、我々人間の魂と肉体との関係は、丁度この光と叡智の関係に同じであるという。 つまり、光と叡智の関係は人類により考案され創出されたイメージではなく、1つの事実に基づいており、1つの真実であるという。 事実、光は、叡智の身体なのだという。エーテル体が肉体をつくりだすように、アストラル体の光が、叡智をつくりだすという。 このような真実が存在することを、宗教的な古文献が光について叡智の形象化として語っていることが、神秘学により理解できるようになるだろう。
2006年12月05日
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何処も彼処も生きることで精一杯の俗世間をみると、孔子が言った、衣食住足りて初めて礼節を知るといったことが、思い浮かぶ。 かつて日本は貧乏国家であった。宣教師のルイスフロイスが、日本は貧しいけれど、礼儀に篤い民族性をもつと語ったのは、現代を見る限り、もはや幻なのであろう。 昔より遙かに贅沢な暮らしをしながら、信念や理念を失った我が身だけが可愛い悪徳政治家、まるで票目当てなら、不義でもなんでもする守銭奴もしくは鬼畜のような人格の持ち主で、このような人間が、どうして美しい国などつくりえることができるのか、否、幼稚園児でも、理解できるだろう。 日本人のこころは急速に、汚れてきている。これだけは確かである。 TVをつければ、汚いこころの持ち主だらけで、いかに汚さを、表向き綺麗につくろうかで競っている。あまりに汚いので、画像だけは、ハイビジョンのように解像度を良くしようという魂胆なのだろう。 しかし、心底腐った性根の持ち主を、いくら人工物で誤魔化そうと、それは一時のものでしかない。前政権のヤラセと広告代理店の売国振りがそれを証明している。 バブル当時、広告代理店の連中だけには、なりたくないと思ったものである。表向きは派手だが、中身は卑しさ丸出しで下品そのものであったからである。いくらカネを稼ごうが、連中は、同じ国民を食い物にし、同胞をカネで売る卑怯者で鬼畜そのものの性根の持ち主といえるだろう。 ホリエモンやムラカミがその最たる化け物であろう。カルト宗教のアサハラとそっくりである。 時代は変われど、このような連中は、悪魔に心を奪われた獣でしかない。 彼らは、自分を振り返ることなどできないだろう。悪魔は鏡を怖がるからである。彼らが発するのは、弁解でしかない。なぜなら、自分は正しいとして、疑わないからである。 自分が常に正しいと思う人間こそ、汚れた心の最たる持ち主であろう。 なぜなら、自分のこころを磨こうとしないからである。掃除をしなければ、汚れてしまう。 人間は、自らの過ちを日々改めることで、一歩一歩、成長し、清いこころに近づくのである。 過ちを認められないこころは、闇である。闇で、こころを覆い続ければ、次第に、妖怪と化してくる。妖怪は、外見で取り繕うとする。他者を認めさせたいと、自分の価値観を押し付け、支配しようとする。 大声で叫ぼうとし、大衆に弁解しようとする。見苦しいことこの上ない。 せめて、敗軍の将、兵を語らずでありたいものである。 日本国民の願いはただ1つ、汚いこころの持ち主が、詭弁を語る姿など、もはや見たくもないということである。 もし、現代にルイスフロイスがいたとしたら、このような汚い日本人になるのだったら、あのとき、強引にでも、征服すべきだったと嘆くだろう。もはや、宗教自体が、汚れてしまったのであるから。 毎日毎日、時事を見るたび、悲観的にならざるを得ず、人間が嫌になる。 恥も糞もない。恥曝しの政治家たち。糞の方がいかにマシか?糞は、大地の肥やしとなるのである。悪徳政治家よ!せめて糞になってみろ!!
2006年12月04日
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ブラフマンとアートマンの意味-その1の続き 実際、人間の生体組織では、絶えず脱塩プロセスが作用し、塩形成プロセスを、その反対に変化させようとする傾向を有するという。そして我々が人間であること、とりわけ動物性を超える人間の思考は、本来、この脱塩プロセスに基づくもので、周辺的人間として(動物形成プロセスに類似の中心的人間ではなく)、塩形成プロセスに逆らうものであるという。 通常の土を形成する植物蛋白質の力に動物蛋白質性が対抗するように、人間は、塩形成に対して、脱塩を対抗させているという。そこで、植物薬では対処できない病を治療可能とするために、このような塩形成に対抗する脱塩プロセスに存在し、それは主として鉱物界のなかに捜し求められるべき諸力であるという。人間を植物薬のみで治療しようとすると、人間を単なる動物として見ることになってしまうという。人間が、地球の周囲で地球の鉱物化に対抗して行なわれているこの激しい闘いへの参加が期待できるとき、人間がこの激しい闘いに加わり、自我をこの激しい闘いに参加させる可能性へと導かれざるを得ないとき、人間は敬意を表され、宇宙から祝福されるという。 人間を石英で治療する度毎に、実は石英を分解させる人間の力、この固い鉱物的なものを克服する人間の力に訴えているという。そうすることにより、地上では全く生じていない、地上の外部で生じることに、非常に強力に参加できる状態に自我を移行させるという、そこでは、地上の固体全てを熱空間のなかで粉々にさせるほどの力が働いているという。 宇宙空間は実際、惑星プロセスのなかで固体となるもの、惑星プロセスのなかで丸く密集するもの全てを、粉砕する、粉々に打ち砕くという特性を持っているという。日常生活では人間は滅多にこのようなことは行わず、これは非常に稀であるという。これは現代科学でいう、プラズマ現象のことであろう。蛍光灯も一種のプラズマで、プラズマは光を発することで、エーテル体の意味もわかるだろう。 このように通常は宇宙空間だけが行うことを、最も多く行っているのが、数学者たちで、多くの図形考察の下での生活に慣れており、数学的な形式において多く思考することに慣れている人たちであるという。このような数学的思考は、鉱物を粉砕することに基づいているという。一方、数学にある種の反感がある人、むしろ塩プロセスを克服することなく、そこに甘んじる人たち、このような人たちは、内的に、鉱物打ち砕くような専門の機械技師というべき者になることはでき無い。これが数学的な性質の人々と数学的でない性質の人々との違いで、このように地球の鉱物化プロセスに対抗することは、非常に多くの治療プロセス理念の根底をなすという。 この脱塩プロセスもまた、古代の人類の攻撃-防御本能に端的に含まれていたことで、古代人は、自分の思考が弱くなったと気づいたら、何か鉱物を摂取することに頼り、そして、鉱物を粉砕し、この鉱物を内的に粉砕することで、古代人は再び、地球から遥かに隔てたところにある、地上を超えたものとの調和に至る能力を身につけたという。 このような事柄が正当であるのを、いわば手で掴めるほどはっきりわかるように、人間の外にある自然を追求することができ、観察によって、その良い検証が得られるという。この検証プロセスの追求には、ある植物、この点において非常に興味深い植物である、ベトゥラ・アルバや、シラカバを観察してみるとよいという。 シラカバは、自ら2重の仕方で通常の植物形成プロセスに抵抗しているという、シラカバは通常の植物形成プロセスには参画するものではないという。 つまり、シラカバの樹皮で生じているプロセスを、シラカバの葉、とりわけまだ褐色がかった綿毛の春の若葉のときに生じるプロセスと融合できれば、通常の植物形成プロセスが現われるという。このようにお互い分離した2つの植物形成プロセスを、融合した結果、シラカバの樹皮での作用が、シラカバの葉での作用と共にある場所で、作用するようになれば、普通の葉のような、花をつけた草本植物が不思議にも得られるという。 端的に、シラカバは、活き活きとした蛋白質形成のなかに現れるプロセスが、普通よりも余計に葉の側にもたらされることによって、この葉のなかに蛋白質形成プロセスがいわば集中され、かわりに樹皮のなかにはカリ塩形成のなかのプロセスが集中されることにより、成立するという。シラカバにはならずに葉のような状態に止まっている他植物においては、この両プロセスは融合していて、根のなかの、カリ塩形成プロセスのなかにあるものが、既に蛋白質形成プロセスに浸透されているという。 シラカバは、根が土から摂取したものを外の樹皮へと押し出し、普通、他の植物が土から摂取したものに、混合しているものを、葉のなかへと送り込みます、土から摂取したものを、まず樹皮へと突き離した後で根を形成するのです。このことにより、シラカバは、2つの方向に従って、人間の生体組織に様々に作用可能なように調整され得るという。 シラカバは樹皮を通じて、つまり適度なカリ塩を含む樹皮を通じては、特に人体を脱塩プロセスへと導くべきときに、例えば発疹の場合に、シラカバでは、樹皮の内へと下降し突き進むプロセスが、それとは逆の人間では上へと突き進み、治癒的に作用するように調整され、また、蛋白質を形成する力が集中する葉(特に若葉)を取り上げれば、シラカバから、とりわけ、人体の中心にまで至り中心人間に影響を及ぼすプロセスが得られ、これは痛風やリウマチの場合に、良薬として実証できるものが得られるという。 そして、このプロセスを更に高めるならば、シラカバ形成における鉱物のなかに入って行って、シラカバの木質部から植物炭を調合すると、人体内の外(界)面、つまり腸やそれに類する器官に対して、内的-外的とでもいうべき作用を、強化する治癒力が得られるという。 このように人間に作用を及ぼす植物の外的な形姿を洞察する術を学ぶことから、ベトゥラ・アルバを研究すると、実際、このシラカバというものを、人間の健康のために、人体プロセスのイメージのなかで変化させれば、植物形成プロセスを逆転させて、特にその木質部と樹皮に向かう力を、皮膚つまり人間の周辺部へのプロセスに同化させ、シラカバが外に送り出す作用は、人間の内部へと裏返す力となるという。シラカバの樹全体を、このように人間のなかへと、イメージし、このシラカバの樹のイメージのなかで、人間に対して治癒力を持つプロセスを追求できるように、そのイメージを裏返す(プロセスを逆にする)と治療薬が得られるという。 植物形成プロセス(シラカバの若葉の蛋白質集中形成、シラカバの樹皮のカリ塩形成) =人間の疾患治癒(通風、リウマチ治癒への中心人間形成、発疹等治癒への脱塩プロセス形成) 根形成を非常に受容する植物、つまり根の力を非常に強く発達させて、根形成力がカリ塩やナトリウム塩を沈殿させる程になっている植物を見ると、このような植物の葉のなかに根形成を引き止めるような傾向があれば、諸々の出血、更には諸々の結石形成、腎臓結石形成等の場合に、治癒的作用の傾向を見出すことができるという。出血の場合、内部の出血と腎臓結石形成等の周辺間にある病態に、このような方法で良く用いることのできる植物として、カプセルラ・ブルサ・パストリス、ナズナが挙げられるという。 例えば通常見られるトモシリソウ、コクレアリア・オフィシナリスのような植物を考えると、この植物の内部には、硫黄的な油が含まれていて、内部にこの硫黄の油を持つことによって、この植物は自らのうちで硫黄を通じ、蛋白質に直接作用するという。硫黄は、鉱物のなかで、蛋白質に対して、形成力を促進するように働くという。本来、蛋白質形成プロセスは、不活発になると、付随している硫黄プロセスにより、加速されるという。 これらの硫黄の油は、トモシリソウのような植物が、特定の生息地に生えることにより、全く特定の方法で自然に組み込まれ、自らのうちに器官機能的に形成したもので、トモシリソウは、このような生息地に生えることで、蛋白質プロセスが極度に不活発な働きの状態でしか作用しないように運命づけられ、この内部の硫黄の油によって、蛋白質プロセスの不活発性に対する均衡がもたらされるという。 トモシリソウの蛋白質形成プロセス(特定の生息地による不活発性、内部硫黄油による加速性) この硫黄プロセスにより加速された蛋白質プロセスは、植物の元々の本性による蛋白質プロセスの速さとは異なり、勿論、数多くの植物に、トモシリソウの場合と同様な速さの蛋白質形成プロセスを見出すことができるが、そのようなプロセスは、不活発原理と、加速された原理とが相互作用することにより生じたものではなく、トモシリソウの成長では、不活発原理と加速原理が間断なく共に作用していて、このようなトモシリソウの成長が、例えば壊血病のような疾病に良薬とすることができるという。なぜなら、壊血病の場合に生じているプロセスは、いま述べたプロセスに極めてよく類似するからだという。 このように個人的に修練して、人間の外の自然の出来事と、人間の内の人体に関わる出来事を共に考えることを身につければ、治療学において実際かなりの成果を期待でき、人間の外と内の極めて重要な親和性に到達するという。このことにおいて、他では決して獲得できない人間理解にも到達し、本来人間というものは、人間以外のものと、人間的なものの両側面からのみ完全理解できるもので、両方を一緒に研究する必要があるという。 人間理解(人間的なもの、人間以外)=治療学(ブラフマン、アートマン)
2006年12月03日
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