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似非宗教団体の阿呆教祖が巷を賑わしている。どうしてあのような馬鹿に引っ掛るのか理解できないが、信者は、どこかに弱い心、依存心があったのだろう。 似非宗教を見破るのは簡単である。現世御利益主義かどうかである。贅沢な家に住み、お金持ちであるならば、100%マガイモノであろう。宗教者というのは、貧乏で、生きるか死ぬかの人生を送らなければ、生きる意味がない。生死の境に身を置くことができるから、宗教者なのである。 それに預言者というものは、未来をすでに知っている者なのだから、生計を立てる必要など本来ないのである。だから金を稼ぐ必要などないのである。 なにより、本当に神仏を信じているならば、神仏を畏れなくてはおかしい。他者に説教どころではない。まず、自分の修行の至らなさこそ第一なんである。似非宗教など、神仏の信仰心が皆無な証拠であろう。 現在世にある新興宗教のほとんどは、似非である。第一、布教しようという浅ましさ、エゴや、利己心を思い知ったほうがよい。全くの罰当たりなのであるから。このような知的レベルでは、いつまでたっても、科学的思考を最高のものとせざるをえないだろうし、より闘争的競争的に世界はまわっていかざるをえないのだろう。 少なくとも、科学的思考があれば、似非宗教にひっかかることはないだろうからである。しかし、科学的思考は、これらの似非の判別や防御でしかないのもまた事実である。対処療法であり、根本治療ではない。 知るものは語らず と老子にあるが、本当に知っている者は、他者に表だって布教などしないものなのである。それこそが、密教の意味なのである。 政治家、経済家、皆、自己宣伝や評判ばかりよくて、偽者だらけのニッポンである。嫌われても、大事なことはしっかりやること。それが未来につながっていくわけだろう。
2006年07月31日
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自由と平等の武装解除の新日本国をつくったマッカーサーが、引退するときに、言った言葉が、このタイトルだという。 老兵は死なず、ただ去り行くのみ 私は、敗戦のそのときは知らねど、日本は負けるべくして負け、実際、日本は負けてよかったという大人たちの本音のようなものを何度か聞いてきて、やはり、日本は必然的に負けたのだという実感をもった。 同じ敗戦を味わったドイツと比べて、わが国はいかにも精神的幼稚性を保持し続けているといえる。それはいまでも戦後の既得権益を保持しようと息巻いている政治家たち財界人たちがいるからだろう。 大体、同じ人間であり、同胞を、なかば強制的に戦地へと向かわせ、特攻隊と美化して、実際は死刑と同じような命令を、いかなる権力があろうと、行使する指導者など、いくら統治の機会が与えられようとも、この世に平和をもたらすことなどできはしないだろう。 しかも、自分たちは最後まで責任をとろうとはしないで、生き恥を曝していたのだから。 同じ敗戦国ドイツとは、その責任のとり方において、いかにも幼稚で、現実認識に疎い国民性を露呈している。東京裁判をいまでも国際的に不法だと愚痴っているその愚かさは、若者に伝染し、ニートを生み出しているように思えてならない。北のわが国に対する愚痴と同じであろう。 生きることは辛いものである。なぜなら、日々理不尽な事に遭遇するからである。敗戦を通して人間は成長できる。徳川家康は何度も負けた。その度に愚痴をいっていたら、成長がないだろう。 歴史に愚痴をいうことはできても、歴史を変えることはできない。なぜならば、歴史そのものが人類への教訓だからである。 一体、この世で行われた裁判で、正統なものはありえるのだろうか? 人間が平等の名の下に、一体、同胞を裁き得るのだろうか? どんな裁判であろうと、人間が人間を裁くことなどできないのではないか? 裁判が行われるのは、人類の未来のためである。 人類の未来のために、罪人として犠牲になる心構えを問うためにあるといえる。 武士道という倫理があった国が、このような体たらくなのだから、もはや、日本は死んだといえるだろう。戦後日本は一度死に、マッカーサーにより再構築されたのである。そのときから、昭和天皇は、表看板となり、米国の中枢が、日本の中枢となり、裏から操ったのである。 米国依りは今にはじまったことではない。あまりに小泉が馬鹿で阿呆だから、それが見え見栄になっただけである。 御馬鹿指導者は、日本日本と愛国心を煽るが、その実、単なるエゴや利己心、権力者に君臨したいだけの幼稚性でしかないように見受けられる。 日本人は精神年齢が幼いと、マッカーサーが言ったが、それはいまでも変わらないのだろう。 靖国神社に参拝したからといって、愛国心があるなどと誰が決めたのだろうか?昭和天皇は、不本意だというメモがみつかったらしいが、そんなことよりも、現天皇も参拝していないのではないか? 何より馬鹿で阿呆な小泉は、ただ愛国パフォーマンスでやっているだけで、そこに信仰心など皆無なのである。天皇が何を言おうが、自分のエゴと利己心と我儘でやるだけであるから、そんなことはどうでもいいのが、馬鹿奴の本音だろう。 とにかくも、日本は滅び行く国家であることにはかわりがないだろう。未来の人類、国家から自由になる人類としては、これは望むべき展開ともいえるだろうが、もう少し、マトモな政治家が出てきてもいい頃であるだろう。
2006年07月29日
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神秘学によると、遥か昔、人類がこの地に誕生したときは、両性具有であったという。しかし、姿は女性的で、男性的なものは、叡智(霊性)であったという。太古の神々の像が女性的であるのは、この両性具有の表現だという。日本の神の天照大神も女神の姿だが、本当は両性具有なのであろう。 一般的に、男性は(霊的)形態、女性は素材を与えるものだとされている。だから、子は父親から姿形、母親から素質を伝授されるといわれてきた。昔から逞しい父親、賢い母親を選ぶのは、その言い伝えの習わしなのだろう。 両性具有は、動物では普通にみられるケースもある、例えば、めだかやグッピーなどは温度により性差が変わり、ミミズなどは役割で変わることで、イメージできるだろう。動物のなかにはこの世の働きや環境などで、 性差を変えることができる。なぜならば、肉体とエーテル体の結びつきが、緩いからであるという。トカゲの尻尾がすぐに生えるのは、このエーテル体が、肉体とあまり結びついていないせいだという。つまり、一言でいえば、鈍感なのであるという。 これらと比べ、人間は、エーテル体と肉体の結びつきが堅く、あまりに環境に繊細で、感覚的なので、例えば、失った手が生えてくることはないだろう。しかし、人間の場合は、次の転生で、エーテル体は補完的に働くという。つまり、前世で、手を失ったものは、来世で、強固な手をつくりあげるという。それはエーテル体が、肉体の設計図であり、そうさせるのだという。 だからして、大体、前世で男(女)であったら、来世では女性(男)に生まれるという。なぜなら、エーテル体が全く反対であるからだという。男性は、女性的(受動的)なエーテル体をもち、女性は、男性的(能動的)なエーテル体をもつという。あくまで、肉体の性別を基準にしているので、エーテル体の性差は、紛らわしいが、要は肉体とは正反対であるという意味である。そういう意味で、現代の男性脳、女性脳というのは、この観点からも説明できる。 両性具有のときの人類は、神々(霊)の叡智を感じたときに、自ら受精したという。神々の叡智とは、神秘学的にいえば、火なので、両性具有の人類が火を感じたときに、ひとりでに受精したという。このようなひとりで生まれた子を、火の子と呼んだ。「火の子、ひとり生まれ」とは、ギリシア時代、神の子という意味をもった。実際、精子は、火を担うという。 しかし、次第に人類は地に興味を抱き、地で活動するにつれ、天の叡智(火)を徐々に失っていき、地で活動する者(建築家)と天から叡智を受ける者(祭司者)の二手に分かれるようになっていったという。 両性具有が、男性的な性質と女性的な性質に分かれ、生殖行為も分業的に、つまり、ふたりに分かれていったという。ここに、ふたり生まれの子が生まれる。ギリシア時代、「ふたり生まれ」とは、人の子という意味である。それは、もはや神々の叡智を失った人類を意味し、共同でないと生殖が出来ない位に、人類が堕落したという意味でもある。これを聖書では、原罪としている。 この男女の秘密は、聖書の記述では、カインとアベルの章にある。エロヒム(神々)は、エヴァ(両性具有)をつくった。エロヒム(神々)のうちの一柱から、エヴァは叡智を感じ、「ひとり生まれ」で生まれた神(火)の子が、カインである。やがて、エロヒムのうちの主神エホヴァは、自らの分身アダムをつくり、エヴァは、アダムを知って、ふたり生まれの人の子、アベルを産む。 カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となる。この意味は、土とは鉱物や土地の意で、カインは、地から創造を行う建築者になり、羊とは、神々の命の僕の意で、アベルは祭司者となったという。そして、カインも、アベルも神々に供犠をするが、カインのものは、人工物なので、神には受け取られなかったが、アベルは、神の命によく従ったので神に受け取られ、アベルは、カインに殺され、命を天に召されてしまう。その後、アダムとエヴァは、セトを産む。 ちなみに、カインの捧げ物は、ほとんどが土でできていた、人工物だったので、神は受け取れなかったのだ。対して、アベルは、自ら育てた子羊を捧げたので、神は喜んで受け取ったのである。その後、カインに殺され、アベル自身も、神に召された。 これは、カインの子孫は、地で活動をしながら、将来、神に召される捧げ物を、自らでつくりあげなければならないということの伏線になっている。これが、プロメテウスの神話の由来でもある。 そうして、人類には、カインつまり、火の子の末裔と、セトの末裔に分かれることとなる。カインの末裔は、エジプトのピラミッドや、ソロモンの神殿をつくった、ヒラムアビブなどを生じ、現代では形骸化しているがフリーメーソン(石工)の母体となったという。対して、アベル-セトの末裔は、祭司となり、ソロモンを生じたという。 カインの末裔は、火の子といわれ、主に、建築者や芸術、科学者を生み、アベル-セトの末裔は、人の子といわれ、祭司者を生んだ。火の子は、神の直観力はないが、地から工作するのに能力を発揮した。これは魂に、男性的な受動性を生み、エーテル体にその特徴を刻印し、肉体は男性のものを表出していき、対して、人の子は、祭司的な、神の直観力に従った能力を発揮したため、女性的な能動性を生み、エーテル体にその特徴を刻印し、肉体は女性的なものとなっていったという。祭司、例えば、巫女が、女性的なのは、この霊的直観力のせいであるという。 科学者、芸術家が男性的で、巫女や霊媒師が女性的なのは、エーテル体のこの特質のせいだといえる。アベル-セトの祭司系は、その霊的直観力を失わないために、他民族(とくにカインの末裔)と交わるのを禁じたという。 動物の環境による急激な性差の対応が、人間では、何千万年もの時間をかけて行われてきたわけだ。 神の子の象徴が男性的だとすると、人の子の象徴は女性的というべきだろう。人類が二分化し、地に支配的になり、次第に男性的になるにつれ、古代からの女性的な霊性は、失われていったという。魔女狩りとは、その象徴的な地での出来事であるだろう。 現代は、女性的な霊性を失い、地全てが男性的で、支配的になってしまったが、再び、いま求められるのはこの男性的な地のなかでの女性的な霊性の、直観力の回帰、再起なのであろう。 かって、男性的な神の子と、女性的な人の子を、この地によって融合したのは、キリスト=イエスであるという。キリストは、ヨハネの洗礼により、30歳で「ひとり生まれ(火の子)」で生まれ、その母体のイエスの肉体は、人の子のソロモンの系図から出ているのである。 神の子(キリスト)ひとり生まれ(ヨハネの洗礼)=人の子(イエス)ふたり生まれ(マリア) という図式がなりたつという。 それは、男性のなかに、女性的なもの、つまり聖母マリアを生み、そして、女性のなかに、男性的なもの、つまりキリストを生む、そのために、神の子と人の子が融合したのだという。 かって両性具有だった人類に、男性の叡智(カイン)と女性の叡智(アベル)が偏り生じた、カイン(唯物思考)はアベル(霊性思考)を殺してしまった。 だが、再び、その統合がなされ、人類は両性具有に返り、自らが子を生むようになっていくという。男のなかに女があり、女のなかに男がある。それが融合すれば自ら子を生むものとなるという。つまり、宇宙の真の生殖とは、ひとり生まれなのであるという。 ちなみに、モーセの十戒のモラルの規則は、男女に分かれてから生じたという。男女差がなくなり、人類が両性具有となると、このモラルの規則は無意味になるという。 男女が特定の相手(妻、夫)以外と交わるのを不倫というのは、夫婦が(社会上)両性具有体という意味からきているのかもしれない。キリスト教では、神の名の下において両性具有体となったのだから、それはまさに不倫といわざるをえないことだろう。 そうすると、結婚とは、人類が将来両性具有体をつくりあげるための教則課程なのかもしれない。 不倫を文化と言った教養薄弱児がいたが、文化とは、霊的な秩序、文明とは、それが外に現れるものと考えれば、どうみても、不倫は、退廃した文明の象徴といわざるをえないだろう。 文化と文明の違い位は見極めてほしい!
2006年07月25日
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神秘学では、魂は、父の領域、子の領域、聖霊の領域の3つの領域に大別できるという。キリスト教では、これらを三位一体、宇宙の創造の原則と解釈している。 父、子、聖霊は、夫々、人間の精神(魂)のなかの、意識を超えた部分、無意識、意識を表しているという。人間の精神は、父、子、聖霊の活動の反映であるわけだ。 我々は、日頃、意識の部分しか認識できていない。つまり聖霊の領域である。聖霊の領域を、この世の物質的世界でいえば、人と人とのつながりであり、公共的なパブリックの法に当たる面であろう。人と人とをくっつけるのが聖霊の役目であろう。愛のキューピット役、昔からある矢をもった赤ちゃんのような天使のイメージが魂の聖霊の領域といえる。 この物質的世界は、素粒子からなっている。素粒子とは現在では、標準模型でいわれる基本粒子クォークとレプトンと呼ばれる粒子のことを意味している。 クォーク、レプトンとも6種類あるが、この物質世界の4つの力、重力、電磁気力、核力の強い力と弱い力を考えると、2種が類似した性質をもち、1つの対をなして、クォークとレプトンは、3階層を成すような構造をもつとされる。 ちなみに、3階層というのは、有名な小林-益川行列から判明していることである。 我々を含む物質的世界の部分は、この素粒子がある一定の配合配位状態をとることによりつくられる。これら物質的部分を構成する粒子をフェルミオンと呼んでいる。 対して、物質世界の4つの力、重力、電磁力、核力の強い力、弱い力を構成する素粒子を、ボゾンと呼び、夫々、重力子、光子、グルーオン、ウィークボゾンという仮想(エネルギー体)粒子で数学的に表し区別している。 これらの素粒子は、つまり、聖霊の流域に属するわけである。 聖霊によって法(物理法則)が成り、素粒子がつくられる。その世界で、我々の魂は、他と出会い、恋をし、愛を捧げたり、反発したり、戦ったり、憎んだり、怨んだりする。それはまるで、聖霊と悪魔が、人間を代理として戦うかのように、行われ、演じられる舞台であろう。 つまり聖霊が演出家であり、悪魔が野次馬観客で、人間が俳優なのであろう。 では、子(ロゴス)の領域というのは、どうなのだろう。子(ロゴス)とは、素粒子を生み出す設計図のようなものであろう。超弦理論の超弦のようでもある。超弦理論までくると、物理学はもはや現象論のような物質ではなく、形而上学、哲学のものになる。プラトンのイデアに近いものとなる。 聖霊の舞台が、アリストテレスの学問、つまり悲劇という演劇の舞台演出であったように、魂の子の領域は、プラトンの学問、すなわち幾何学的な純粋数学論、それがイデアなのである。 超弦はもはや、この物質世界ではなく、その設計図といった方がよいだろう。だから霊的なものである。だから、超弦はロゴスなのである。 ロゴスとは、神が発する言語を意味する。だから、超弦は神の言葉なのだろう。太古の言語、ヘブライ語等が、どこか音符のようでもあり、弦が張ったような文字なのは、ここからくるのかもしれない。 そして、太古の言語は、宇宙の天体の動きからつくられたのだが、実際、タウ文字といわれる天体をかたどった太古の文字は、どこか素粒子の状態を表すものを記述しているようにみえる。 タウ文字は、恐らく、人間の魂の無意識の領域である、子のロゴスを表すものなのだろう。なぜなら、神秘学によると、人間の無意識な部分は、実は天体の配置に関連しているというからだ。 子の領域は、人間のあくまでプライベートな面であり、個別、個性的なものを意味する。人間がこれを、年齢や生年月日、星座等で占ったりするのは、どこか無意識的に自覚している節があるような感じもする。神秘学的にいえば、カルマの領域でもある。カルマの理解は、超弦の理解と似たように非常に難解である。 さて、父の領域とは、人間の意識ではもはや捉えることができない超えたものであり、神々の領域、神秘学ではデヴァ界とも呼ばれる。 死んだ人間でもそこに辿りつくのはごく一部であるといわれ、デヴァ界にいくには、何度も輪廻転生して、この世(物質界)の欲望、執着心を拭い去らないと行き着けないという。 魂でいえば、聖霊の領域で、悪魔を祓い、調和を保つことを、霊我(マナス)という。次に子の領域にいくのが、生命霊(ブッディ)、そして、父の領域が、生命人間(アートマ)という。 この父の領域で、超弦の設計図がつくられ、子の領域で超弦が生まれ、聖霊の領域で素粒子ができると考えることができる。 現在の宇宙の素粒子が、3階層(小林-益川行列)なのは、地球が、土星紀、太陽紀、月紀と進化してきた証拠であると考えられる。なぜならば、神秘学によると、現在の素粒子は、以前の宇宙の状態を素粒子というエキスにして再構築されたからだという。 超弦理論には、Tデュアリティーという、無限に遠方にいくほど、微量微小になるという対称性があるが、この神秘学の秘術を、最も端的に表しているように思える。 このTデュアリティーの話は、仏陀と孫悟空の、「孫悟空が仏陀の手の上から出られなかった」というやり取りの話を彷彿とさせる。 この話は、元々、プロメテウスのギリシア伝説に由来しているようである。機会があれば、プロメテウスの神話を語ろうと思う。 いまあるマクロ(偉大な)なものが、次のミクロ(霊=創造)をつくりあげる。 これが父の原則であるようだ! それは、父が、子の為に、未知の領域を開拓し、エキスとして子に注ぐがごとく。 父は、子をつくる。 この父の原則は、ソクラテスを彷彿とさせる。そう、それは「無知の知」の領域である。 ソクラテスは、無知の知を唱えた! 神秘学でいえば、無知の知とは、人間が、(無意識も含めて)意識できない世界があるということなのである。意識を超えた宇宙の部分、それは父の領域である。だから、ソクラテスは、歴史上、哲学の父と呼ばれた! だから、地球紀の次の木星紀になると、我々の地球宇宙のエキスが、第4の素粒子階層となり、恐らく4階層になるだろう。 これを踏まえ、機会があれば、4つの力(重力、電磁力、核力の強い力、弱い力)を霊的に考察してみたい。実は、この壮大な構図は、ダビンチの最後の晩餐の絵であり、それこそが、仏教の曼荼羅でもあるのだ! ダビンチの最後の晩餐は空海の曼荼羅と同じなのである。 現代で言えば、素粒子の標準模型になるだろう。 ダビンチも空海も、共に秘儀参入者であったことがわかる。そして現代風に言えば、秘密結社の会員なのでもある。ちなみに断っておくが私は秘密結社会員でもなければ、なんらかの宗教者でもない。単なる一介の秘教研究家である。
2006年07月22日
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日本社会の人口の少子化が問題とされている。こんなことは何年も先からわかっていたことだ!わかっていたのに、いまだ手を打てないでいる。政治家が馬鹿だからである。 素人同然の、まるで政治を真剣に学んだことのない人物が政治家になる。こんなことは当たり前のなかの至極当たり前のことである。 病気に罹って、素人同然の医者にかかるような馬鹿な患者が、いまの日本国民である。 自らヤブ医者にかかっておいて、病気が治らないと不平をいうようなものだろう。 素人同然の政治家を選んだ責任は一体誰にあるのか?いま、自らに問うがいい! ヤブ医者は処置法がわからないので、必死に病気を隠すだろう。患者は、寿命が徐々に縮んでいくだろう。ただ、ここ数十年、日本の周囲が安定的だったため、戦争がなかったため、死に至らなかった病、ラッキーにもそれが致死的な病でなかっただけである。 ヤブ政治家ができることは、破壊しかない。なぜなら、政治の真髄を知らないから、矢鱈滅多に、切り刻むことしか知らない。破壊を改革だと信じ込んでいる狂信者そのものである。 これなら、まだ改善すべき悪、ヤブと評価の定まったという意味で、ヒットラーの方がわかりやすいだろう。 素人が出来るほど、政治は甘くはない。なぜなら、政治とは、一人の生命を救う医学の何十億もの生命を預かるものであるからである。その責任は、果てしなく重いものだ! このような事態は、遥か昔から預言されてきたことなのである。我々の時代の終末には、既に万人による万人の戦いが予測されている。 我々の時代は、民主制というよりも、血なまぐさい貴族制の方向に向かうとすでに予測されている。個人が、益々、人間集団に対して力をふるうようになるという。馬鹿で愚かな個人がまずます権力を獲得し、人々を経済戦争、搾取戦争、金融、産業戦争に導き、暴挙を行うという。 このような危機的状況が、人類の精神に鉄槌を降さないと、一部の人類が覚醒できないからだという。 人間のなかの利己心をなくすには、このような血のような戦いが必要なのであるという。 なぜなら、我々のこの時代が最も利己主義が高まる人類史であり、この時代に、この利己主義を人類から克服しなければ、宇宙が更に進化できないからであるという。 国家、人種、血統、身分、宗派、全てこれらの事柄は、人間の利己主義から発するのだから。 これら全ての発端の利己主義を克服し、それから自由になるために、人類はぎりぎりの破局を体験し、わずかなものがそれを乗り越えるしかないという。そして、乗り越えた者が、救済者となって他を救う手筈になっているという。 人類は、このような危機的状況、正に人類破局を、いままでに2度経験しているという。 そして、3度目がどうなるかは、この破局の規模にかかっている。 現代人は、太古の人類よりも遥かに賢いと思っているが、人類は、太古の人類よりもますます馬鹿で愚かになっているという。その証拠に、一度、核戦争を起したら、人類の大部分が滅び、また、起さなくても、経済戦争で同胞を奴隷化していることでもわかるだろう。 少子化の問題は、現代政治の大きな問題のうちの些細な問題でしかないのに、それすら解決できていないというのは、どうみても、政治家が素人同然のことをしているとしか言えないだろう。 しかし、ヤブ政治家を責めることはできない。我々はただ苦しめられるだけであるからである。我々ができることは苦しみに耐えることしかできない。 もっとも、ヤブ政治家は、もはや、この世ならず、あの世でも生きることができないだろうから、彼らは蔑み哀れむ対象であり、悪魔の駒でしかない。彼らは憎むべき対象ですらないのである。むしろ、人間として憎むべき対象であってくれた方が、まだマシかもしれないが…。 馬鹿で無知な素人政治家をみて、せいぜい馬鹿にし、笑うことしかできないのがいまの国民の精一杯の抵抗だろう。
2006年07月21日
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先日、日本の色に関しての番組をBSでみた。日本人は、自然にある色をそのまま色の記憶として用いてきたという。聖徳太子の冠位十二階制度などは、その代表的なものとして挙げられてきた。日本では紫色が、高貴な色とされている。これは元々、五行説を基にしているというが、神秘学と通じるところがある。 青みががった紫、藍色は、日本に限らず、西洋の神秘主義でも、高貴な色とされてきたのである。なぜなら、神秘学では、紫(藍)は、献身、慈しみの色であるからだという。実際、人格(魂)に敬虔、献身、慈しみ、犠牲の愛の才能が身につくと、オーラに紫が出るという。オーラとは、魂の色というべきものだ。色とは、科学的には、光を反射する金属(鉱物)の概念からくるが、神秘学では、金属(鉱物)は宇宙の神々の振る舞いからくるので、色も当然、神々に由来するが、実際、色は神々の存在そのものであるという。 神秘学では、色は、光に適度に闇が混じって、水(液体)から生まれるという。虹が雨の降った後に出るのは、そのせいだという。虹は、妖精が、踊っているそのものであるという。金属(鉱物)は、神秘学では、土と呼ばれるが、土は、水が宇宙からくるあらゆる力を受け取り、結晶となって、生まれたものだという。水銀は、いまだ水(液体)のままだが、それは進化から遅れ取り残されたせいで、水銀は、金属(鉱物)のなかで、落第したものだという。 人間が、自然のなかに、色をみて感動するのは、色から自然そのものをイメージするというよりは、色が自然という形で現れている、つまり、色(神々)が形態(衣装)を身にまとっていると、太古で体験した魂のその記憶の憧れの象徴なのであろう。日本人は素直に衣服にそれをそっくり導入したにすぎないのだろう。 色をみて、人間が感情を動かされるのは、色のなかに感情を動かす精神が宿る(神々が宿る)というのである。冠位十二階制度は、それを階層化した、いわば天の模写ともいえる。そのようなことができたのも、太古の日本人は、神々を色としてみていたからであろう。五行の木、火、土、金、水から(仁・礼・信・義・智)の青・赤・黄・白・黒の色をあてたようだ。五行説は、元々、木星、火星、土星、金星、水星からきているから、陰陽と組み合わさって、陰陽五行説が基本であるようだ。陰陽とは、本来、月と太陽のことを表すのである。現在では、天王星、海王星、冥王星が観測確認されているが、神秘学では、これらは、本来、太陽が司る太陽系ではないという。だから土星が、太陽系の一番外側なのであるという。 神秘学では、五行説は、元々、人種をつくるものだったという。ここから木星人(青人)、火星人(赤人)、土星人(黄色人)、金星人(白人)、水星人(黒人)が生まれたという。人種は、太陽の光と月の霊光の関係と、その他惑星の関係から、地球に及ぼす地域差(環境状態)の相違だという。木星の影響が強い、地球上の地域があるというのだ。そこで魂が生まれ、生活を行えば、木星人独特の肉体を帯びてくるというのである。だから、天体の配置が、人種をつくると、太古からいわれてきたのである。 五行説は、気孔に基づいている。気とは、神秘学ではエーテル体のことであり、エーテル体は、光からなるものなので、色彩をもつ。エーテル体は、人間に、地球の前進化段階の古太陽紀に与えられた。そのとき、人間は、現在のような鉱物からなる(物質的)肉体はなかった。ファントムといわれる霊的肉体をエーテル体から構築していたという。そのエーテル体は、宇宙と一体化していて、いわば、人間は神々(太陽)と一体化し、楽園にいたのである。古太陽が過ぎ、やがて古月紀にも、鉱物はなく、全てが水(液体)のようだったという。だから、人間は魚類のように、水のなかで漂う存在だったという。この古月紀に、人間が霊的に体験したことが、水から土になり物質化した地球紀のはじめに、魚となって実際に繰り返されたという。 (霊的)生命は、(物的)形態となって顕れる。 五行説の五ぼう星の象徴は、この気(エーテル体)の流れを意味している。気の流れ、光の流れである。エーテル体の流れ方で、色は異なり、人種も異なって生まれるということなのだろう。とどのつまり、太陽と月の光の関係とその他惑星の地球に及ぼす引力との関係というべきものだろう。五行説はエーテル体の流れ、天体間の光の循環論でもあるが、肉体となると、黄道十二宮との関係がそれに加わる。冠位十二階にしたのは、光(神々)を受けるに足る肉体。つまり将来の人間の聖杯(理想の精神を宿す理想の肉体)をつくることを目指したものであろう。 五行説にはない紫色というのは、恐らく、秘儀参入者の色としたものだと思われる。秘儀参入者とは、人類の進化を慮り、未来に愛と平和を担う人種(聖杯)を誕生させるという目的を意図した者たちである。だから、大和(平和と愛)の魂が唱えられたのであろう。恐らく、聖徳太子は、秘儀参入者だったと考えられる。
2006年07月18日
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神秘学では、太古より、魂の説明を、宇宙を大海に喩えることで、説いてきた。 大海は宇宙であり、神々であり、その大海から器を用いて水をすくうと、その器が、個人の肉体を意味し、すくわれた水が、個人の魂であるといわれてきた。器の肉体がなくなると、水は宇宙という大海に戻っていく。そのとき、個人の魂は、自分という認識をなくすのである。なぜなら、器という宇宙という大海を隔てるものを失うからである。 肉体は、魂をうつす鏡であり、鏡に、うつった人間がいないように、肉体のなかに、人間の本性があるのではなく、それは錯覚なのである。確かに、鏡は、自分をうつす存在であり、自覚を生じるものであるが、そこに本質があるのではない。 我々は、光そのものを直接みているのではなく、なんらかに反射された光を間接的にみている。光は、反射されるとき、反射と逆の方向に、真実のものが隠されるのである。我々の肉体で行われることは、光に反射されたものを、感覚器から集めて、脳で整理して、解析し、物質として、意識的な精神を用いて、色づけすることである。 このプロセスを見る限り、物質が全てではなく、感覚で捉え、意識していることが全てではないことがわかるだろう。 みえるものが全てではない。みえないもので代表的なものは音であろう。 だから、我々は、物質をみることで、その背後の隠されたものを失っていることになる。音を聞くことによって、無音の静寂さを失っているのである。 物質からなる世界の背後に、無意識な世界が横たわっているのである。 これをより神秘学的に言い換えるならば、次のようになるだろう。 物理的世界の背後に(無意識な)精神的世界がある。 神秘学では、現在の地球は、4つの状態を通過し、進化してきたといわれている。古土星状態、古太陽状態、古月状態、そして現在の地球状態である。 古土星状態は、いまでいう、本来物理的な存在ではないが、あえて表現すると、熱や火の状態と類似のものであったという。そのとき、熱や火を生み出すものは、精神的な世界の表現でいえば、「自己犠牲」であるという。人間の精神が、「自己犠牲」に熱いもの、火のようなものを感じるのは、この由来、つまり古土星紀の魂の記憶からきているという。 では、何が自己犠牲を行っているかというと、トローネ(座天使)が、ケルビーム(智天使)に対して自らを捧げ行っているのだという。だから、いまでも、火や熱の背後に、このような天使、神々の隠された精神世界があるのだという。 宗教での儀式において、祭壇で、火や熱に祈祷するのは、この伝統が受け継がれたことだといえるだろう。つまり、トローネがケルビームに、自らを捧げ、供犠を行って、宇宙に熱や火を生じていることに感謝しなければいけないと説いているのである。 物理的なエネルギーも、この火、熱から生じるのである。 この古土星紀に、時間が生じたという。古土星紀以前に時間はなく、なので、古土星紀以前を認識することはできないという。時間は、このトローネの自己犠牲から、生まれたという。時間は、時間霊(時代霊)、またはアルカイ(権天使)により司られているという。 だから、古土星紀に、トローネの自己犠牲により、熱や火が生まれ、その煙が、アルカイを生んだという。エジプト時代、アルカイは、トートという時間神に模された。ちなみに、熱力学の現代版の物性を記述する統計力学では、熱(温度)の逆数を、時間で定義する。この背景にビッグバン理論がある。 この古土星紀にも、いまの人間の原型のような存在があり、それは熱(火)からなる肉体(非物質なもの)であったという。いまでいえば、現代人の体温であるという。そして、地球の環境のなかでは、火の精霊がその末裔であるという。 次の古太陽紀になると、精神的な熱(火)に、空気(2次元空間;熱い、冷たい)が加わったという。この空気の背後では、キュリオテテス(主天使)の、譲与の徳があるという。譲与の徳とは、与える精神であり、創造の精神であるという。 トローネの自己犠牲の熱、火をみて、キュリオテテスは、与える精神を発揮するのだという。そこから空気が生じるという。与える行為には、必ず受け取る行為が後に続く。与えるのが先で、受け取るのが後である。既に時間が誕生しているので、ここにアルカイが関与するという。キュリオテテスの与える精神(空気)は、アルカイ(時間)を通じて、アルヒアンゲロイ(大天使)に受け取られるという。 そして、アルヒアンゲロイは、受け取ったものをそのまま返すのだという。だから、与える精神(空気)をそっくりそのまま、キュリオテテスに返すので、空間(熱、火を含んだもの)が反射され、光が生じるという。だから、光は、トローネ、ケルビーム、アルカイ、キュリオテテス、アルヒアンゲロイの創作物なのである。 この古太陽紀の人類には、熱(火)からなる肉体(いまでいう体温分布図)に、エーテル体(気)が加わったという。このときのエーテル体は、現代人でいえば、原始的な分泌腺にあたる。生体化学物質を分泌する腺である。地球環境でいえば、風(空気)の精霊である。風は、古太陽紀の霊の末裔であるという。
2006年07月12日
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太古からギリシア時代、更には中世まで、人間には肉体のほかに、魂をもっているものとされてきた。魂のなかの意識的なもの、人間が認識可能な部分を精神と呼んできたようだ。この精神は、いまでは言語において記述できるが、本来、魂の意識的な部分なので、人間の認識が、発展しない限り、言語によっては記述できないものであった。 現代人は、本来の魂の無意識的な部分を省いて、認識を発展させたきたので、我々現代人は、精神として言語を記述できるようになったが、これはギリシア哲学によることが大きいようだ。ギリシア哲学とは、魂のなかの意識的部分を、言語化し、精神として表現するための、悟性、理性を発展させる役目を担ったといえる。なので、ギリシア哲学は、魂の器となる肉体美を、魂の形態美として捉えた。ギリシア哲学は、そのため肉体美を発展させるために、肉体美から、運動美をもとめた。 なので、現代人は、魂の意識的な部分を、運動を通して、精神として記述できるようにしてきたといえる。それが、魂のなかの悟性、理性魂といわれる部分である。魂のなかには他に無意識な部分があり、意識では確認できない、認識を超える部分がある。ギリシア時代は、このギリシア哲学により、肉体美から魂の悟性、理性を発展させるような、悟性、理性の認識をもたらすものであったといえる。 「健全な肉体には健全な精神が宿る」とは、肉体美を追求することで、魂は悟性、理性の認識を獲得できるということの言い換えなのである。 この悟性、理性の認識は、人間を意識的に物質の世界へと進出させたのである。そして、物質世界を感覚的にみることによって、感覚の言語を生じさせ、人類は言語を用いて、物質世界を創造することに辿り着いた。なので、現代人が用いる言葉は、いわば悟性の言葉、悟性認識の言語、物質世界の創造の言語であり、無機質な単語といわざるをえないだろう。 魂の意識的な言語、それが科学の辿り着く極限だと思われる。 生命は、魂の無意識な部分であり、心の言語と呼ぶべきものでみるべきなので、以上の悟性の言語では、表現できないものであると考えられる。 心の言語とは、感情、意志から創造されるものであり、魂の無意識下、意識を超えた超意識の部分に生まれるものであろう。 神秘学では、上記の悟性の言語を、魂の聖霊の領域と呼んでいるようで、物質として記述できるものであり、だから、それを用いて、共通の概念を打ちたてることができる。しかし、心の言語である無意識下は、魂の子の領域であり、魂の趣向(カルマ)によるもので、個人的なものであると考えられる。そのため、記述できないものである。感情が、十人十色で、決して他者とは同じものでなく、個人的なものであることがわかるだろう。怒る、笑う、泣くといっても、人夫々であるだろう。 この魂の無意識下の営みは、感情として現れるが、その由来は個人的なものであり、外からはみえないものである。大海で例えるならば、海面が意識であり、海底が無意識となるだろう。 いわば、心の言語とは、この海底を探る潜水艇であるだろう。 大海が魂なので、この潜水艇は、魂のなかを探るものであるだろう。魂を探るには、様々な体験を積んで、魂自らが、魂自らの断面をみる必要があるようだ! 魂は、肉体を通して、その断面を知るようである。肉体は魂の鏡であるようだ! 肉体を失うと、魂は自らを認識することはできないが、魂が無くなっているわけではない。魂は躍動しているが、その躍動を捉える肉体がないので、魂が躍動していることに気がついていないだけのことである。 魂の躍動のいわば観測装置である肉体は、悟性認識の言語として存在するが、心の言語は、この肉体を超えて、観測装置からイメージされる法則のようなものであろう。 カオス力学でいえば、肉体がポアンカレ切断面であり、ローレンツアトラクターが魂の躍動を軌跡として記述する、いわば心の言語なのであろう。それはカオスがそのままのかたちで記述できないように、記述不可能なものなのである。ただ、状態の遷移だけがイメ-ジとして捉えられるだけなのである。
2006年07月12日
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W杯も決勝に近づく最中に、お隣の国、北朝鮮が、まるで騒音ババアのように、ミサイルを打ち鳴らしている。W杯はイタリア優勝で幕を下ろしたが、北の問題はまだ続いている。 一体、あのような騒音国家と条約を結んだ阿呆はどこのどいつなのか? 拉致、麻薬、偽札作りと、個人ならば犯罪者として処罰されるはずの国家が、いかなる国際的な権限があって、軍事練習などを行えるのか不思議でもある。馬鹿も休み休み言え! あのような暴力犯罪息子を野放しにしていた保護国中国やロシアの国際的信用も疑問視せざるをえない。常任理事を取り消す必要があるのではないか? 平和のための安全なのだから。 北の問題は、議論の余地なしである。議論すればするほど、無意味にならざるをえない。 人間としてやってはいけないこと。悪いことは悪いのである。そこに理由など必要ではない。 馬鹿な総理が馬鹿な国と取引きしたから、こんなことになるのだろう。ただそれだけである。 自分で蒔いた種なのだから、その解決は、馬鹿総理にやらせろ! イラクよりも北の方が問題なのに、石油に目が眩み金儲けに走るために、イラクに拘ったブッシュも同じに馬鹿なので、馬鹿ブッシュも同じ責任があるだろう。 全く世の中は絶望状況ですな! この5年、世界は、馬鹿小泉と馬鹿ブッシュに踊らされた無駄な時代だったといわざるをえないだろう。歴史上の最も消したい汚点として人類史上に残されるだろう。 人類史上最も馬鹿な統治者は、小泉とブッシュであるという歴史問題が出来そうだ! 人間らしい感情、平等な判断、公正な意志を欠けている指導者が、その地位にいることこそ絶望を表している。
2006年07月11日
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かの孔子は、過ちを改めようとしないのが、本当の過ちだといったという。全くその通りだと思う。現代の世にこのような人間がいかに多くあるか数えてみればわかる。過ちのニュースのオンパレードだろう。 もし、タイムマシーンがあったとして、過去の過ちを正そうとして、過去に戻ったとしても、その本人は、自分の未来の結末を絶対に信用しようとしないだろうから、無駄骨に終わる可能性が高いものと思われる。 巷を賑わせたホリエモンや、村上ファンドのムラカミに、その過ちを正そうと、タイムマシーンを使って、過ちを犯す寸前の当時に戻って、助言したとしても、当時の本人たちは、未来からきた人間に聞く耳などかさないだろうし、かえって、返り打ちにしてしまうのが関の山で、絶対に、信じないように思える。 このことは、米大統領のブッシュのイラク戦争にも、いえるだろう。なぜなら、いまだに、過ちだと認めようともしないからである。今話題の某日銀総裁などもこのようなボンクラ頭と同じものにみえる。 かの国の父ワシントンは、自分の過ちを自ら認めたことが代名詞にもなった。 是とは逆に、決して自分の非を認めようとしない愚者は愚者のなかでも最も始末に悪い。 このような精神の持ち主は、動物、獣といってよいだろう。動物はまだ、集団で人間より優れた魂が、手足のように操っているので、これらの輩よりはまだマシかもしれない。 これらの連中といったら、動物のその手足以下の存在で、きっと背後で悪魔が操っているに違いないだろうからである。 人間は日々過ちを正していくことで、進歩していけるともいえるだろう。過ちをみつけることが自分を成長させることでもあるだろう。 これとは逆に、過ちを野放しにしている人物に明日があるだろうか? 恐らく、過去の過ちを過ちとも認めないままその葛藤に未来永劫悩まされ続けるに違いないだろう。悪魔はその過ちの隙、恐怖に付け込んで魂を支配していくだろう。過ちは悪に利用され格好の餌食にされるのである。悪魔が脅かしの手口に使う常套手段をみるがいい! 魂にこのような闇をつくると、死んでも、なおさら苦しむだろう。死んだのち、魂は人生の総括を求められるから、何倍にもなって、その苦しみは襲い来るだろう。 つまり、過ちを正す機会をを失うと一生、いや未来永劫、苦しみを生じる由縁となるだろう。 正すのはいまである。いま正さなければ、いつ正すことができるのか? 将来、また、その過ちは何倍にもなって巡り来るだろう。 いま過ちを言ってくれるものが、将来の自分の発展を約束してくれていると思うべきなのである。 それは、もし、その人が、将来の自分をみて、警告してくれているかもしれないからである。 少なくとも、いま誤った自分を捨て、新たな自分をつくる機会でもある。
2006年07月04日
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私は真言宗派でもなければ仏教徒でもないので、護摩行の真の意味はわからない。このようなろくでもない奴が、仏教、しかも真言を説くなどはおこがましい身の程知らずだと思われるかもしれないが、ある神秘学的側面から密教研究家として説いてみたい。神秘学では、密教は、秘儀参入法に深く関わりがあり、参入法そのものであるともいえるという。神秘学では、我々の住むこの地球は、人間の魂と同じく過去生を生きてきた生命体だと捉えていて、古土星紀、古太陽紀、古月紀、そして地球紀と進化してきたという。現在の地球紀の前半を、火星紀、後半を水星紀としている。更にこれから、木星紀、金星紀、ウルカヌス星紀と進化していく予定になっているという。これを端的に表せば、土、日(太陽)、月、火、水、木、金(ただしウルカヌスは成り上がりの状態のようだ、将棋の成金はここからきているのか?)と、1週間の曜日になることがわかるだろう。これらのことがどこからわかるのかといえば、アカシャ年代記という、宇宙全ての出来事が記載されている、精神からなる繊細で微細なイメージ像のものを、秘儀参入法で読み解くことだという。精神からなる繊細で微細なものは、仏陀が言った微細身(心)なのかもしれない。ともかくも、そのような微細身もどきのものが、天空に音符や、音階のように描かれていて、それを聞いたときに、心に感じ、映じるイメージが、アカシャ年代記のようであるという。アカシャ年代記によると、宇宙の進化は古いものの上に新しいものが構築されていくように、変成をとげていくという。なので、古土星紀が、現代の地球の背後にも、隠されているという。古土星紀の面影は、いまでは、もっぱら精神的な存在で、現存する存在で捉えるとしたら、「熱」のようなものだという。古土星紀以前は、宇宙には時間は存在せず、空間もなかったという。古土星紀に時間が生まれたという。時間がどのように生まれたかは、魂のなかの悟性では捉えられない。魂のなかの能力の一つである悟性は論理、理性をつくりあげたが、それでは、鉱物(物質)創造を行えても、生命存在を熟知することや、神々の存在を意識できないという。魂のなかの悟性能力の他に、感情、意志能力が不可欠であるからだという。だから、人間は、魂のなかの才能を高めるために、精神的に向上し、発展させなければいけないのだという。「古代の秘儀学院では、魂のなかの悟性を育てるために、錬金術師として修行し、魂のなかの感情を育てるために、医師として修行し、魂のなかの意志を育てるために、魔術師として修行したという。そして、魂のそれら3つの能力に調整をもたらせるために、キリストのような救世主を思い浮かべたという。」古代の秘教学院や神殿での秘儀参入法が、密教となっていったという。宇宙の神々をみるためには、人間自らもそれと感応する存在にならないといけないわけである。その初歩が、この地球の遥か以前の状態である、古土星紀を感じることであるという。土星紀を感じるには、秘儀参入法でいわれる、恐怖の存在を感じないといけないという。この恐怖感は、例えば、我々の地球の物質世界でいう肉体を、自分自身だと捉えれば、その肉体を失う恐怖であり、自分という存在が、宇宙のなかに消えてしまう虚無感だという。感覚や感じることを、自分の存在のなかから捨て去らないといけないという。まるで、仏教の禅のようでもあるだろう。そのような大いなる虚無感、恐怖感のなかに、自分独りが置かれ、宇宙に解消されていく状態を、自らの意志で克服していかないといけないのだという。魂のなかにこの2つの傾向がないと、古土星紀に達する超感覚的な精神の目でみる精神の力は身につかないという。古土星紀をみれるこの精神からなる超感覚が身につくと、古土星紀のなかに、意志の霊トローネの存在を見い出せるという。意志の霊は、みなぎる勇気の精神の力の存在として、具体的に個別的に捉えられるという。逆説的にいえば、意志の霊トローネが見えないものは、みなぎる勇気という精神を持ち合わせていないといえるかもしれない。古土星紀のこれら意志の霊トローネ存在は、古土星紀には時間が存在していないために、至る所に見い出されるが、時間の不在のその瞬間に、意志の霊トローネ以外の別のものを見い出すという。それが叡智の霊ケルビームであるという。超感覚、魂の精神的な目でみると、古土星紀のトローネとケルビームの存在がみれ、トローネが、自らの存在をケルビームに捧げ、犠牲になるのをみるという。トローネがケルビームに自らの存在を捧げることから、時間が生まれたという。時間が存在しなかった古土星紀に、ケルビームへのトローネのこのような犠牲の行為が、時間の存在を生んだのだという。このとき、時間からなる人格の霊アルカイが生まれるという。これが、熱の精神的な背景の真のイメージであり、古土星紀を構成する熱の要素であるトローネの供犠であるという。いわば、熱はトローネの供犠の煙のようなものであり、時間を発生させるものであるという。そういえば、熱力学では、時間を熱(温度)の逆数で定義しているが、悟性が発展し論理となった統計物理学は、間接的に、これを証明しているともいえるだろう。このように、熱の背後には、トローネの供犠があり、現代でも、火の背後の熱には、このようなトローネの供犠があり、神秘学では、火のような精神的なものを、まとめて「火」と呼ぶので、火の背後には、トローネの供犠があるのである。長々と書いてきたが、火の精神的な背後には、このようなトローネの供犠があるので、火を炊いて、真言を唱える行は、このトローネの供犠に感謝し、同時に、その行為をみるための、超感覚の精神をみにつけようとするものであることがわかる。
2006年07月04日
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