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『燃えよ剣・上下』司馬遼太郎(新潮文庫) この本も、「本読み」の先輩に薦められました。 「司馬遼太郎は、空海と土方の話が面白かったかなー。」と。 『空海の風景』は、私も読んで面白かった記憶がありました。ただ、ちょっと難しかったという印象もありました。 そこで、この度の本もそんな話かなー、と思いながら読み始めたのですが、……うーん、全然違う。 ……まー、当り前ですわねー。 ちょっと考えただけで、空海の話と土方歳三の話が同じ種類の面白さのはずはないことは明白で、しかし悲しいかな、わたくし頭の作りがかなりアバウトなもので、実際に読んでみるまで分かりませんでした。 もちろん本書には『空海の風景』とは別の面白さがあったわけで、それはそれでサクサクと読み進めたのですが、でも前半部(主に上巻ですね)は、ちょっとわたくし読むのがイヤでした。 それはなぜかというと、例えばこんなところですね。 いつのまに持ったか、歳三は左拳で鉄扇を逆ににぎって、敵の白刃を受けた。 そのときはすでに、歳三の右手浅くにぎった和泉守兼定が風のように旋回して、男の右面に吸いこみ、骨を割り、右眼窩の上まで裂き、眼球が飛び出、あごが沈んだ。そのままの姿勢で、男は、顔面を地上にたたきつけて倒れた。即死である。 こんなリアリティあふれる殺人の場面が、やたらと出てくるんですね、前半部は。私はこんなのが苦手なんですね。 まー、確かに、新選組の話を読むということは、こんな場面を幾度となく読むということですよね、殺人者集団の話なんですから。(空海の話とは、そりゃ全然違いますわねー。) しかし作者も、歳三あるいは新選組が人を殺しまくることについては、こんな風に書いてもいます。 新選組は京都であまりにも多くの人を斬りすぎた。殺人嗜好者のような、一種の不気味さがある。 実は私は、本書を読みながら並行して、この小説執筆前後に司馬遼太郎が本書についてどんなことを書いていたのかという文章もちらちらと読んだんですね。するとやはり、こんな表現が結構ありました。(『司馬遼太郎が考えたこと』2巻と10巻・新潮文庫) 新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。 暗殺だけは、きらいだ。 当たり前の話ではありますが、筆者は人殺しを全面的に否定しています。ただ、上記の二つ目の文のすぐ後ろには、こんな表現もあります。 このましくないが、暗殺者も、その凶手に斃れた死骸も、ともにわれわれの歴史的遺産である。 なるほどねー。そういうことかー。この説明は、何だかとても納得してしまいますね。 ともあれ、本書はそんな殺人者集団の一番の組織者・土方歳三を描きます。 私は、上記に説明したように、前半部は読みづらかったのですが、途中あたりからはかなり引き込まれていきました。 それはやはり、土方歳三に魅力があるからですね。 いえ、もう少し厳密に言えば、土方歳三という実在人物に対する筆者の解釈あるいは造形にこそ魅力がある、つまり、司馬遼太郎が作った土方歳三(実在人物とは異なる土方歳三)が魅力的なのだ、ということです。 では、そんな司馬遼太郎的土方歳三の魅力とは何なのでしょうか。 それは、読んでいると結構わかりやすいです。 なぜなら歳三の魅力の話ばかりが、全編に描かれていますから。(つまり司馬的歳三の魅力を引き出すエピソードだけを、筆者は取り上げて小説にしているということですね。) さて以下に三つ、まー、実際のところ、司馬文学にも土方歳三にも膨大なファン並びに研究者がいますから、今さらオマエの素人考えなど聞くには及ばないという声がしつつ、今回の読書報告のまとめとして考えてみました。 箇条書きにするとこんな感じです。 1.武士に対する理想主義 2.「戦い」についての優れた能力 3.滅びの美学 こう三つ挙げるだけで、なんかもう、説明終わりという感じですね。とっても、分かりやすい。 さらにこの三つをシンプルにもっと縮めると、「理想・能力・美学」となります。 なるほどこの3点は、本作のような一種の「エンターティメント」小説の、人気のための「キーワード」なのかもしれませんね。 まず一つ目に挙げた「武士に対する理想主義」というのは、これも全編に散らばって書かれている「節を守る」という考え方ですね。 とにかく幕府を守る。事に及んで(新選組ですから、まー、ほぼ「殺し」ですね)、国家観とか時流とか世界観とかは全く問わない。 そしてそのために、単純・純粋そして行動的即物的であることが最重要であると、いろんなエピソードで示されています。(上記の指摘と同様、この方向性に合わない歴史的な挿話は描かれません。) 三つ目の「滅びの美学」についても、あまりいうことはないように思います。 土方歳三は、理想主義や単純性の発露とも絡んで時代の政治性とほぼ没交渉な人格に描かれており、作品終盤には「男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ」と語っています。 さて、順番を逆にした二つ目の項目ですが、これについて、筆者がこんな文章を書いているのを見つけました。これは、『燃えよ剣』の連載予告の短文です。(『司馬遼太郎が考えたこと2』) (略)組織を強化するためには友人といえども冷酷に殺し、組織だけが正義であると信じきったこの剽悍無類の天才が近藤のそばにいなかったなら、おそらく新選組は存在しなかったろう。 その点、歳三は戦国時代の勇者ではなく、現代の英雄とよばれるにふさわしい。歳三のような人物は、どの職場にもいるのではないか。(後略) 私がオヤッと思ったのは、後ろの二文ですね。書かれていることの意味が、あまりよくわかりませんでした。 歳三は、どの職場にもいるような人物ではないだろう、と。 しかしまた私は、このようにも考えました。 筆者は、最初、歳三の人物像をそのようなものとして捉えていた、と。 なるほど、上巻の終盤ですが、歳三はこんな科白をしゃべります。 「(略)武州多摩の生まれの喧嘩師歳三が、大名旗本のがらなもんか。おれのやりたいのは、仕事だ。(略)おれァ、職人だよ。(略)」 ところが、下巻の最後にはこんな説明があります。 戦いというものに、芸術家に似た欲望をこの男はもっている。 (略) 歳三は、無償である。 芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている。 (略) 血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。 ……いかがでしょう。 私が思うのは、この人物像の変転を、筆者は作品を始める時すでに考えていたのか、それとも執筆が進んでいくにつれて、新しい方向性として確認されていったのか、どちらだろうということです。 もちろん人間の行うほとんどの行動は、繰り返すほどに突き詰めていくほどに、美意識と言えるものに収束していくのかもしれません。 また、土方歳三という一種の「典型」の人物を描くためには、「職人」から「芸術家」への転身は、最もふさわしい「落し所」なのかもしれません。 やはり筆者は、この「落し所」を始めからある程度予測して書き出したのかなとも思います。 でも大量殺人者と芸術家ですからねぇ。 それなりの小説としての説得力を持たせるには、なかなか難しそうであります。 もしそうならば、筆者は、いかにしてこの二者を結びつけるかが、この小説のオレの腕の見せ所だなと、ちょっと腕撫して書いていかれたかも知れませんね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.03.19
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『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子(河出文庫) 正面から老人問題を捉えた小説であります。芥川賞を受賞しました。その時筆者は63歳でありました。 というあたりを事前の予備知識として本書を読みました。 読み終わって、ふーむ、分かるような、というか、納得できるような、よくできないような気がしました。いえ、決して難しい話ではなく、作品はコミカルに軽やかな展開で進んでいくのですがー。 何となくよく納得できないと感じたあたりを、以下に少しずつ考えてみたいと思います。 冒頭に私は「正面から老人問題を捉えた」と書きましたが、「老人文学」というのは現在、どの程度成立・成熟しているのでありましょうか。 5年ほど前に、本ブログで黒井千次の小説を取り上げた時に、私は「今老人文学は『揺籃期』にある」ということを書きましたが、あれから老人文学は、進歩あるいは成熟したのでしょうか。よくわかりません。 そもそも、「青春文学」という言葉があるほどに「老人文学」というのは、現在成り立っているものなんでしょうかね。 例えば、日本は高齢化と言われ、困ったものだ、このままにはしておけない、と漠然と思われているのは、まー、はっきり言うとお金の話ですよね。年寄りが長生きをして増えていくことで、医療費が国の財政を逼迫させるという。公的年金の問題も、それに加わっていますかね。 しかしまー、そんな公の話は(もちろん大切ではありますが)、取りあえず今回はお上に任せておいて、個人としての「老人問題」というものを考えてみようと思います。 年老いて年老いて、そしてさらに年老いた時の、不安の原因は何なのか、ですね。 それは、孤独、肉体の不如意、そして死の恐怖、あたりではないでしょうか。 わたくし、この3つをじーとにらんでみましたが、実際最も根源にある不安は、取りあえず「死の恐怖」かな、と。 でも、ここばかりに絡めとられますと、多分にっちもさっちも行かなくなる、と。 昔から言いますわね、太陽と死はじっと見つめてはいけない、と。(死を見つめる「分野」は、多分宗教関係なんではないでしょうかね。) という風に「死」をペンディングしてしまいますと、「肉体の不如意」もさほど問題にならなくなってきませんか。だってその先のボスである「死」を棚上げしてしまったのですから。(いえ、実際はこのテーマはそう簡単にペンディングできるものではないことは、分かっておりますがー。) ということで、残るのは「孤独」だけだ、と。 そして多分、本書のテーマもそのようになっています。 しかし、「老い」と「孤独」の関係というのは、どういったものでありましょうか。本文にこんな表現があります。 いつのまにか、干し柿とバスタオルの間からこぼれていた弱い光が消え、あたりは淡い暮色に包まれ始めた。この時分になると桃子さんはいつもの見慣れた、それでいて手ごわい寂しさに襲われる。 またこんな風にも書いてあります。 ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる。いったい昨日とどう状況が変化したというのか、と桃子さんは自問する。即座に、何にもどごもかわってねのす、どごもかごもまったぐと言っていいほど同じなのす、と返ってくる。それなのに心というやつはどうなっているのか、風向きがすっかり変わってしまって桃子さんはしおたれる。いったい何をきっかけにそうなるのか、だいたいコドクというが正体は何なのか、はっきりこれこれの理由でこういう感情が湧き出てきてなどと説明がつかない。 この小説はそんな作品なんですね。(さらには、孤独と自由の問題が係わってきます。) 二つ目の引用に、ちらちらと東北弁があらわれていますが、そんな方言の多用が、抽象的な思念に絡みついて独特のイメージを紡ぎ出します。 (これについては、わたくしは関西人で、あまりよくわからないのですが、読んでいるだけで宮沢賢治と井上ひさしが表現に重なって現れ、そこにとても分厚い構造のイメージを形作るようで、これはいわゆる「先達」の助けですかね。) この理屈っぽいところが、本作の目玉の部分なのでしょうが、しかし、そんな抽象を生み出すもととなった主人公の具体的な人生や人間関係に触れた部分が、なんと言いますか、そのとたんに瘦せ細った表現になっています。 これは私の読み損ないでしょうか、主人公の語る過去、そしてそこでの何人かの人物との交流などの描かれ方が、本作は弱くはないでしょうか。 展開に無理がある、とは言わないまでも、描かれ方があまりに薄味で、例えば、故郷を棄てた場面は「東京オリンピックのファンファーレ」としか書かれてなく、娘との関係は「いつごろからか疎遠」で、最愛の夫の死ですら「一日寝込むでもなく心筋梗塞であっけなくこの世を去」るという描写です。 こういうあたりはもう少し踏ん張るべきではなかったのでしょうか。 もう少し書き込んでほしいと感じたのが、実は冒頭に書いた「納得」云々という意味で、そこに私は、戸惑いと共に、少々残念さを覚えました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.03.06
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