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『懐中時計』小沼丹(講談社文芸文庫) 講談社文芸文庫には、なかなかなんと言いますか興味深いというかビミョウというか、そんな感じのする小説作品がいっぱいありますね。 そもそも純文学系の文庫と言えば新潮文庫と、まー、物知らずの私が思っていただけかもしれませんが、とにかくそんな風にかつて思っていました。 しかしそれも、今となっては、本当に「今は昔」という感じで、新聞公告の新潮文庫の今月の新刊などを見ても、(もちろん嗜好に大いにバイアスのかかった)私としては、心惹かれる文庫新刊が、あまりありません。うーん、少し寂しい。 ところで、講談社文庫というのも、もうかなり昔からあるんでしょうね。 ただ感覚的にはやはり、新潮文庫や角川文庫に出遅れたというイメージで、私の中には純文学系中心の文庫という感じはありませんでした。 そんな講談社が出したさらに後発の文芸文庫は、これはまがうことなく純文学系の文庫でありました。しかも、純文学系文庫本の「本家」的な岩波文庫(緑帯)とも、微妙にラインナップが異なっていました。 詳しいことは知りませんが、版権の関係もきっとあるのでしょうね。 しかし私のような素人目で見ていると、文芸文庫の諸作品は、「古典」というにはちょっと違うだろうが、でも昭和期の純文学小説の名品たち、という感じであります。 ただ、ただ、わたくしとしましては一点、惜しいかな、なかなかにこの文庫、お値段がお高い。それで、本屋さんに行っても講談社文芸文庫の棚はざっと見渡しはしますが、なかなか購入するに至ることがありません。 だから(といいますか、なんと言いますか)、例の古本屋さんで最廉価で売ってあったりしますと、筆者や作品についての好みや知識にかかわらず、まー、とりあえず買っておくか的に購入した講談社文芸文庫が、えらいもので、家に十数冊あります。 しかしまた、これもある意味えらいもので、そんな風に読書意欲薄く買った本は、やはりあまり読んでません。 実は今回の報告書籍もそんな一冊でした。 そもそも筆者の小沼丹という人のことを、まるで知りません。プロレタリア文学か何かの人じゃないかしらん、みたいな誤ったイメージを持っていたように思います。 それをこの度取り敢えず一冊短編集を読み終えて、私は自らの無知蒙昧さに愕然と致しました。 そんなことはわかったつもりでいましたが、世の中には私の知らない素晴らしい日本文学作家が、まだまだきっと星の数ほどもいることを納得しました。 ということで、小沼丹の短編集です。 講談社文芸文庫のいいのは、解説が充実しているというところでもあります。 それで私は、筆者が、井伏鱒二系の方だということを知りました。そして、なーるほど、と納得しました。 井伏の弟子と言えば、圧倒的にまず太宰治の方向に行ってしまうのですが、作風で言えば、井伏鱒二の保守本流はこの小沼丹でしょう。 まさに井伏流「関節外し」小説の魅力であります。 「関節外し」と今書きましたが、井伏作品は、それを高く評価するにしてもその評価の説明が実に難しくあります。 それはまるで詩歌のように、表現されてあるものをそのまま丸呑みして鑑賞するしかないような作品ですが、この小沼作品も、間違いなくその作風を引き継いでいます。 例えば、こんな部分はどうでしょう。 理由は知らないが、上田友男は前から懐中時計を使っていた。時間を見るにも、ちらりと腕時計を覗くのと違って、徐にポケットから取出すと何となく一呼吸置く感じがある。だから、上田友男が懐中時計を取出したりすると、それは見る人に彼が悠揚迫らぬ人物であると錯覚させるのに充分である。 本書の解説の一部を秋山駿が書いています。 小説には、批評と「仲の悪い」小説があって、そんな小説は、「いくら掬っても、細部が網から逃げてしまう小説のことだ」とあって、続いてこう書かれています。 簡単に考えれば、いくらか批評の言葉が怠慢だったのである。ことに日本の戦後の文学批評は、社会的あるいは思想的に意味のある細部を追い掛けるのに急で、小沼さんの魅力を解明するふうには、心を砕いてこなかったのである。 本書には11の短編小説が収録されていますが、そのほとんどが、秋山駿が書いている通り、読めば誰にでも感じられる魅力を十分にたたえていながら、それを言葉にして説明するにはとても難しい、言葉がするりするりと抜け落ちていくような珠玉作たちです。 むしろ、その感じを伝えるには、取り敢えず「類例」を列挙するのがいいのかもしれません。 それは、まず、井伏鱒二の短編群。 あるいは、内田百閒の作品たち。 さらにもう一つ加えるなら、つげ義春の漫画を加えさせてほしいと私は思います。 11ある収録作は、3つの作品群に分けることができそうですが、私の素朴な読後感で、それぞれのグループで一番いいと思ったものを最後に挙げてみます。 「大寺さん」グループでは、やはり冒頭の『黒と白の猫』。 サスペンスグループ3作の中では、『断崖』が一番よかったです。 そして、「大寺さん」後の作品グループでは、『自動車旅行』かなあ、『影絵』も捨てがたくありますが。 ということで、思いがけない収穫の講談社文芸文庫の読書でした。 上記に記したように、まだ未読の、筆者や作品についてほとんど知識のない同文庫本が家に数十冊あります。 さて、次はどれを手に取りましょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.11.27
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『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』川村湊(光文社新書) 以前、よく似た感じのタイトルの本を読みました。あの時の本は、芥川賞だったと思います。(芥川賞の時は、なぜ取れなかったか、という本だったと思いますが。) ちょっと、ミーハーっぽい本でした。 今回もよく似たタイトルなので、図書館で手にした時は、これも、いわばまー、村上春樹御利益頂戴の本かなと思ったのですが、筆者の川村湊という人は、私はさほど読んでいませんが、割ときちんとした文芸評論家であるという印象を持っていたもので、まー、借りて読んでみました。 いえ、なかなか面白かったですね。 前書きに、毎年10月初めになると村上春樹のノーベル文学賞受賞なるかの大騒ぎが起こるが、できたら本書が売り切れる(そして増刷する)までは、受賞して欲しくないとあって、思わず笑ってしまいました。 しかし、中身は、そもそものノーベル文学賞とはどのようなものなのかについて、かなり詳しく書き込まれており(これも前書きに、村上春樹のノーベル賞受賞だけの話題では一冊の本にならないと正直に書いてあります)、この度私は大いに蒙を啓かれました。 開巻しばらく読んでいくと、「それは、ノーベル文学賞が必ずしも世界最高の優れた小説や詩などの”文学作品”を書いた人間に与えられるものではないということだ。」とあります。 その前後の説明を読むと、これもまー、考えれば当たり前といえば当たり前の話しながら、その年に現存する世界一の文学者は誰かなんて、言えるものではありませんよね。 じゃ、どうして受賞者を決めるのかというと、「ローテーション」であります。 言語別、国別、民族別、大陸別、地域別のローテーションを、かなり厳密に考慮して選考しているのであります。 (今回の本はノーベル文学賞だけの話ですが、考えればその他のノーベル賞だって、その年に生きている世界一の物理学者とか化学者なんてものが考えられない以上、きっと同じようなものなんでしょうね。) 私はこの度、そんなことをほとんど初めて理解したのですが、それは私が(人並み外れて)愚かであるからだとしても、ちょっと考えれば、そんなかなりいい加減な賞を、なぜ文学者が欲しがるのか、それについても筆者は指摘しています。 それは、受賞者と非受賞者との間に途方もなく大きな格差や差異を生み出すからだと書かれてあります。そしてそれは決して小さくないノーベル賞の罪である、と。 しかし一方で、その選択はおおむね妥当なものであり、意義も意味もある受賞と考えられると、両面からの分析があります。 (カフカ・ジョイス・プル―ストという、20世紀最大の文学者はそろって受賞してはいないというコメント付きで。) で、さて、村上春樹の受賞の可能性であります。 でも現時点で何も分からない以上、なかなか断定的なことは書きにくいだろうとは想像できます。 (本書には、ボブ・ディランの受賞はないだろうと書かれてあります。外れました。もちろんボブ・ディランの受賞決定以前です。) そこで筆者はナーバスにナーバスに、しかし「断定的」に、村上春樹の受賞はない、と書いています。 えー、と、いわばこの部分が、本書の「サビ」みたいなものですから、ひょっとしたら私がここでそれを勝手に報告するのは良くないことなのかもしれませんが、まー、その核心の理由はすでに上記に書いてしまっています。 ローテーション、です。 あと、ちょっとだけ、ローテーションの補足説明をして、ざっくり終わっておきますね。 幾つか書かれてある分析の中で、私が結構面白かったのは、二つです。 一つは、カズオ・イシグロのこと。 本書の出版は2016年で、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞は2017年であります。だから、もしイシグロが取ればという文脈の中で筆者は、イシグロは日系英国人だが彼が取ってしまうと、村上の受賞は次のローテーション、多分「村上春樹がとても待ちきれないような先」になるだろうとあります。……うーん。 二つ目は、「ローテーション」といっても、単純に日本人間のローテーション、つまり川端が取って何年かして大江が取って、そして次のローテーション、となるとはとても思えない、とあります。 つまり地域のローテーションです。 中国・韓国さらには東南アジアなど東アジア言語圏のローテーションという視点で考えると、(筆者の予想では)次のこの言語圏での受賞者は韓国人ではないか、なぜなら、次も日本人が受賞して、日本人3人韓国人0人になるとは思い難い、とあります。……うーん、うーん。 と、いうことで、なかなかスリリングに面白い本でした。 ついでに、三島由紀夫の自殺原因の一つに、「師」とする川端康成がノーベル文学賞を受賞したことがある(次のローテーションまでとても待てない)とされていますが、筆者は、川端がいなくても三島の受賞は多分なかったと書いています。この辺の記述も面白かったです。 ついでのついでに、ノーベル文学賞受賞者で後日自殺した人は、二人いるそうです。 一人は、川端康成。そして、もう一人は……。 まー、この作家も、少し考えれば思いつきますが(日本でもわりと読まれるアメリカ人作家)、私が面白いと思ったのはむしろ、たった二人しかいないのかということで、これは人間性と文学性の相関に、関係するのかしないのか、少し興味を持ちました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.11.14
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