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『芽むしり仔撃ち』大江健三郎(新潮文庫) 実に、約半世紀ぶりの再読であります。 半世紀も前に読んだ本なんて、何も覚えていなくたってそれは私の記憶力に問題があるとは思いませんが、この度は、なんとなーくいろんなシーンを覚えていたようで、何と言いますかー、えらいものであります。 わたくし、それに関して、経験則的に感じていることがあります。 それは、むかーしに読んだ本で、内容についてはほぼ忘れてしまっているのに、この本は自分はけっこう感動して読んだ、などの記憶だけが残っていることが、割とあるんですが。こういうのって、どうなんでしょうか。 例えば今回の大江作品でいえば、『万延元年のフットボール』なんて小説は、やはり半世紀ほど前に読んで内容はほぼ忘れているけれど、感動したという記憶は何となく残っている、と。……。 さて、『芽むしり仔撃ち』であります。 上記にあるように、断片的には内容を覚えているところがあるものの、初読時のトータルな読後感の記憶がないんですね。 かつて高校生だった頃の私は、この本を読んで、感動した、よかったと思ったのだろうか、と。 実はこの度読み終えて、わたくし、どうも一つ疑問が残ったのであります。 いえ、それは、作品そのものにというものではありません。 (作品そのものというなら、文章表現について触れねばならず、これについては、私もすばらしいとしか言いようはないと思います。少女との感情の交流の場面、雪の日の場面などの瑞々しい描写は、この筆者の天衣無縫の怖ろしいばかりの表現力を、力技で感じさせてくれます。) 本書の解説文の中に、この小説に対する作者の言葉として、「この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う」とあったり、それ以外にも大江氏がこの小説が好きだと言っている等のことを読んだりするのですが、困ったことに、この度再読してみても、なぜそうなのかが、どうもよくわかりません。(好き嫌いの話なんだから、というような単純なものではきっとないと思うわけですね。) とはいえ、筆者は日本の誇るノーベル文学賞受賞作家であります。先日亡くなられましたが、昭和、平成、(そして令和もですかね)の日本文学史上の「大巨人」であります。 よくわからないのはお前のせいだといわれると、私自身、当然のように納得してしまいます。 ということで、身の程知らずにも、何と言いますか、かなわぬまでもという感じで、私の思いを以下に書いてみますね。 いえ、私の考えたことは極めてシンプルです。 私たちは小説を読む時に、誰に(何に)感情移入して読むのか、という事です。 そして付け加えるなら、(いかにも素人っぽい読みかもしれませんが、)読後やはりカタルシスが欲しくないか、という事であります。 本書は、十代の青年が主人公の一人称小説です。最後まで、その視点から離れて描かれることはありません。 と、すれば、読者はやはり主人公に感情移入して読むのではないか、と。(もっとも、感情移入して読むことの正誤良し悪しは考えられねばならないでしょうが。) つまり、私は、主人公に襲い掛かる圧倒的に理不尽な暴力、そしてその結果としての屈辱感、無力感が、読んでいて我が事のようにつらかった、不快感を伴ったということであります。 そしてエンディングの絶望。 少し長いですが、そこを引用してみます。 しかし僕には凶暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえうわからなかった。僕は疲れ切り怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駈けこんだ。 どうですか。 ここに描かれているのは絶対的な絶望的状況ですよね。 とすれば、この先にあるのは、主人公の死以外にないんじゃないでしょうか。 上記にも書きましたが、圧倒的に理不尽な暴力にさらされ、恋人を失い弟を失い、友人たちからも離れられていった主人公の作品最後の状況がこれだとすれば、その主人公に寄り添うように読んでいった読者(わたくしですね)は、どこにカタルシスを覚えればいいのでしょうか。 大江氏の述べる「幸福な作品」「好きな小説」の意味がよくわからないとはそういう意味であります。 と、いうようなことを、先日、我が文学鑑賞のメンターに述べたんですね。 するとあっさり、「あんた、読み違えている」と否定されました。 そして、だいたいこんな風なことを教えてくれました。(ちょっと違うかもしれませんが、私はこんな風に理解しました。) なるほど、このラストシーンに描かれているのは、絶対的な絶望状況かもしれん。しかし、だから次には主人公の死とは、どこにも書かれていない。初期の大江がしばしばテーマにした監禁状況だが、そこからの脱出ができたのかできなかったのか、その寸前、別の言い方をすれば、主人公の置かれている絶対的絶望状況そのものの確認の時点で、筆者が筆をおいているところに注目すべきじゃないか。絶対的絶望状況、だから脱出できなかったと筆者は書かなかったのか、だけど脱出できたと筆者は書かなかったのか、大江が晩年に至るまでこの作品を好むといっているならば、たぶんその理由は、この辺りの読みにあるのではないか。 そして、ではなぜ、筆者は脱出の成功不成功を書かなかったのか。それは、こう言いかえることができるのではないか。 この絶望的状況こそあなたが生きている現実ではないのか。 少なくとも、初期の大江作品における現実認識はこのようであったと思う。その困難を困難の中で生きることが、今を生きるということだと考えていたのじゃないだろうか。 ……うーん、なるほどねー。 ……そー読むんかー。 これなら、筆者の本作についての好き嫌いの発言も、なるほど納得できますよねー。 いやー、えらいものです。 いえ、この度はいいことを教えていただきました。 吉田兼好がいったのはこういうことだったんですね。 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」と。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.10.22
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『街とその不確かな壁』村上春樹(新潮社) さて、村上春樹の不思議な新作長編であります。 不思議なというのは、作品一部(本作品の第一部のところですね)が2回目の書き直し発表、つまり最初の作品から合わせると3バージョンテクストになるという、そんな話だからです。 でもこういう形って、よくよく考えれば、日本文学の中には(外国文学についてはわたくし何も知りませんので)けっこうあるのかな、と。 例えば、短編小説が最初に書かれて、その後長編小説の中にそれが含まれていくってのは、村上氏自身の他作品にもありますし(『ノルウェイの森』なんか)、確か志賀直哉あたりにもそんなのなかったですかね。(『時任謙作』と『暗夜行路』) また短編小説をいろんな雑誌にとびとびに発表して、そのあと一冊の本にして長編小説にするというパターンもあって、その大御所は何といっても川端康成でしょうね。『山の音』とか『千羽鶴』とか。 でも今回の村上作はそれらとも少し違って、でもまあ、これも十分ありなんじゃないかなとは思いながら、ともかく、珍しい形の新作長編小説であります。 第一部が、上記にも触れました、その書き直し部分ですね。 「リメイク」って、言っていいような気もします。 相応しい例えになっているかどうかわからないのですが、例えば横溝正史『八つ墓村』なんて、もーいろんな方が金田一耕助をテレビや映画でなさっているじゃありませんか。 あれを小説として一人の作家がやっている感じですかね。 だから、というか、今回は、バージョンアップした感がありました。しっかり細かく作ってしっかり書き込んでいる感、ですかね。 実は、第一部は全体の七分の二くらいの分量です。(中心は第二部で全体の三分の二くらいの長さ。)だから、読了後の感覚から言えば、第一部はまずしっかり土俵を作ったという感じでありました。(私としては、「きみ」の消失後の「私」の慌てぶりに少しぎこちないものを感じもしましたが……。) そして、満を持してそこから「新作」部分の第二部に入ります。 長いです。重く、暗いです。(初期の村上作品に頻出していたユーモアが、近年の村上長編にほとんどないのは、展開上やむなしのようにも思いますし、もう少し何とかしてほしい感はあります。でも、何個所かだけ私は読んでいてにこっとしましたが。) で、読んでいる私は、少し考え込んでしまうんですね。 まず、二点。 一つ目は、もうざっくり言ってしまうと、これは過去のいろんな村上作品の焼き直しではないのか、設定や展開に、そして登場人物にも、ことごとく既視感があるように感じました。 そして二つ目ですが、近年の村上作にはどんどん幻想性が強くなっている気はしていましたが、本作に至って、なんか幻想性が爆走、というか暴走している気がしました。 そして読者である私は(少なくとも私にとっては)その非リアルの説得力についていけない所がいくつかありました。 それは、少しネガティブに言えば、白けてしまうという感覚であります。 そこでさらに私は、この二点をもとに考えてしまうんですね。 多くの村上ファンのように、私もデビュー作から、新作が出るたびに読んできましたが、そもそも村上作品は、「本当に」どこが魅力なんだろうか、と。 ……ストーリー(展開)、語られ方(文体)、テーマ(これはざっくり喪失、かな)、キャラクター(主人公)……。 どれもそれなりに魅力的ではありますね。 特に、これも多くの人がたぶんそうだったと思いますが、初期の村上作品というのはそのおしゃれな文体が、もー、何とも言えず読んでいて快感でしたねー。 ……うーん、かいかん……きもちいい……。 ほとんどエクスタシー状態……。 しかし、その文体もだんだん後衛に立ち位置を変えて来て、その代わりガチっと描写するような決して悪くない文体になってきました。(諧謔性は薄れましたが……。) と、いうように、わたくし、あれこれ考えたのですね。 で、私が、テレビの時代劇のように放送されるたびについ見てしまう、出版されるたびについ読んでしまう、本当の本当の原因(本文中の表現でいうならば「水面下深くにある、無意識の暗い領域」って、あ、これは無意識じゃないですかね。)は、……、どうでしょう、つまるところ、主人公のキャラクターの魅力なんじゃないか、と。 上記に私は「既視感」という言葉を使いました。 例えば本作の「子易」に、村上過去作品のいろんな登場人物の性格を、「きみ」(喫茶店の彼女もですか)にもやはり村上過去作品の様々なヒロインの姿を重ねてしまったのですが、そんなことを言えば、主人公の「ぼく・私」なんて、ずっと同じ性格設定な気がします。 でも、「ぼく・私」は、いいんですね。 このキャラだから、気持ちよく読めるんですね。 何を矛盾した訳の分からないことを言っているのだと、お怒り、またはお呆れの皆さま、どうもすみません。 再び本文中の表現でいうなら「現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていた」って、これも、ピントはずているかしら。 (ただ、真面目な話、そういう風に同じがいいと感じる作品というのは、文学性という言葉のもとでみた時、はたしてどうなんだろうかという気は、少ししますが。) しかし、少し寂しいことに、近年の村上作品は私にとって(私だけであれば、それはそれでいいことでありましょうが)、ストーリーの幻想性が突出、暴走して、私の中の感情共有が追いついていかず、展開がどこか他人事のように感じられ、そこを何とか主人公のキャラクターの魅力で繋ぎとめながら凌いでいる感じが増していくようで、……少しつらくあります。 私には、本作も、そのようでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.10.07
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