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『河馬に噛まれる』大江健三郎(文春文庫) 作品を読みながらこう考えた。(すみません。『草枕』のしょうもないマネですー。) 近代日本文学における「私小説」が、偏っていびつになった原因は田山花袋の『蒲団』にあることは、初歩的な理解事項。 圧倒的な西洋文学の影響を受けていた明治黎明期の日本文学において、現実社会をそのままに描くという主にフランスの「自然主義」が、田山花袋の中で「現実社会」ではなく「自分」になってしまったせいだ、と。 しかし、これは花袋の誤解というよりは、花袋の「ずぼら」のせいでありますよね。 現実社会そしてそこに生きる人間を描く、それも徹底的に描くというのなら、なるほど、自分をモデルにするのは最も有効で簡便な方法であります。 そして花袋は花袋なりに、そうでなきゃウソになると考えたのでしょうが、それはわからないでもないですね。 でも西洋人的粘りのない花袋は、ウソにせず自分じゃない人間を書くという西洋人作家のフンバリがなかったんでしょうね。また周りの連中がそれに同調したというのも(だってその後花袋式「自然主義=私小説」が文壇の主流になりましたから)、島国的で根性のない日本のような気がします、わたくし。 そして描かれた小説のあれもこれもが、作家が主人公の小説なものだから、「私小説」の大きな欠点といわれる物語性の欠如が生まれはびこって(場合によっては居直って)しまったんですよねー。 つまり、冒険もロマンも何にもない(あっても少しだけの)、おもんない小説の集まりが純文学である、と。 さて、ここで大江健三郎が出てきます。 わたくし、この度本書を読んで、なぜ大江はこんな「私小説」めいた結構の小説ばかり書くのだと思っていた問いに対して、一つの自分なりの結論を得ました。 いえ、そんなことはすでに多くの指摘があるのかもしれません。しかし、自分としては初めて納得に近いものを感じたので、ここに報告してみます。つまり、 大江健三郎の小説の才能は、卓越した物語づくりにある、と。 なんだ、そんな当たり前のことかとお思いになった貴兄、がっかりさせてすみません。 そう思えば、私も以前何かの本で、大江が、亡くなった開高健について、もちろんたくさんの評価もしながら、あの方は物語づくりの才能はあまりなかった、お話をすればあれほど面白い方だのに、というようなことを書いていたのを思い出しました。 大江はおそらく、自らの中からこんこんと湧き出る物語に、自信があったに違いありません。しかし、一方でこの吹き出してくるような物語たちを、どのように制御していけばいいのかについて、ずっと長く多岐にわたり深刻に考え続けたその結果が、あの大江健三郎独特の「私小説」めいた物語構造であったのだ、と。 それは、現実に小説家として生きている私の話ですよと、小説の中で散々語ることで、迸り出てくる虚構の物語のリアリティを確保したということであります。 しかしそんなことをすればどうなるのでしょうか。 我々小心者の市民が一番に考えるのは、そんなことをして現実の人間関係が崩壊してしまわないのかという事でありましょう。本書の中にもこんな一節があります。 あなたは私たちのことを、あることないこと次つぎに書かれました。それでいて自分については、大切なことをひとつ、書かないまま通してきたことがあるじゃないか、それを率直に書いたらどうですかあ、と呼びかけているのです。 何というか、少しあきれるのは、こんな内容も小説として(ぬけぬけと)書いているという事でありましょう。(そういえば、筒井康隆も小説の中で、小説家として生きて書くことは一つの地獄であると書いていました。) 大江健三郎は、そんな「私小説」の極北の姿を、自分、家族(娘の一人称で、父である自分=大江の生活を描く小説すらありました)、そして一族の歴史や故郷の歴史にまで及んで「あることないこと」を書き続けます。 そんな「地獄」(筒井流の言い方)を作家はどのように考えているのか、本文にまたこんな一節がありました。 鳴り物いりで生き恥をさらしつづけるのもな、作家の任務だぜ! この一文を読んだとき、私はひょっとしたらこれかと思いました。そして、頭に浮かんだのは、こんなことです。 この破れかぶれは、太宰治に通じているのではないか、と。 太宰は自らをしばしば年老いた辻音楽師に例えました。 また『斜陽』では「МC=マイ・コメディアン」という表現で、小説作品世界に対する意気込みと親愛を示しました。 太宰に通じるということは、とりもなおさず文豪に通じているということで、それはいわゆる文学に生活すべてを奉仕するという姿勢ではないでしょうか。 さてなるほど、そんな作者の今回のテーマが「連合赤軍」であります。 『洪水はわが魂に及び』で見事に描き切ったと思われていた「連合赤軍」は、大江の中で、またこのようにフィクショナルにあふれ出ました。 しかし考えてみれば、日常を装いながら極北の非日常が思いのままに描けそうな題材として、それはいかにも大江小説の構造にふさわしそうです。(それを大江は見落とさない。) やはり本書の連作短編や中編小説は、実に緻密に計算された空想世界でありました。 ただ、現実と虚構が混然一体となって、また筆者独特の文体とも相まって火球のようにイメージやストーリーが飛び回るものだから、その読解は、読者としては時に煩わしく難解で、読み手にハイレベルな読解力を求めてくるものであります。 その特徴を仮に2点にまとめます。 まず、評論文的な論理性(現実)の中に、荒唐無稽な挿話(虚構)が挟み込まれ描かれること。 そして、その論理性が、実はグロテスクな虚構のイメージによって担保されているということ、でありましょうか。 そんなこの筆者独自の難解さを作品は持っています。 しかし作品が求めて来るものに対して、一歩ずつ誠実に読み進めていくことができれば、それは達成感といってもよい素晴らしい読後感を、我々は手に入れることができると思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.04.22
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『模範卿』リービ英雄(集英社文庫) なかなかの問題作と、わたくし、思いました。 あれこれ考えたのですが、(まー、下手の考えではありますがー)本書に私がなじめないポイントをざっくり言うと以下のようになります。(いきなりなじめないから入るのは、そこ以外はかなり「なじめた」からであります。) 極端に個性的な半生を送った主人公の、自らの過去の語りを、我々はどの程度リアリティを持って受け入れることができるのか、という……。 さほどに、筆者の特に幼少年期の環境は、特徴的であります。 ただ、そう感じるのは、「島国日本」で呆けたような人生を今まで送ってきたわたくしゆえのことでないのか、くらいの「客観性」は、いちおー、持っております。 例えば少し前に読みました『悪童日記』の筆者アゴタ・クリストフが体験した生涯の「言語の変遷」も、はなはだしいものがあります。(「言語の変遷」と今私が書いたのは、使用する言語が何度も(強制的に)変更させられるという意味です。ついでに、「変遷」するものは「所属(させられる)国家」でもあります。) つまり日本にいるからそんな人生を「特殊」と感じてしまうのですが、ヨーロッパあたりに行けば、少なくない人間にとってザラにある成長期の言語環境であるということも、なんとなく理解はしています。 本書のテーマの一つはそんな、いわゆる「越境文学」のなかでも、特に、読んでいてほとんど母語が崩壊している主人公が、自らの言語体験を辿る中からアイデンティティを模索していくという話であります。 この作家の「不幸」(あるいはこれはほぼ「幸運」と同義語ですが)は、その半生が、人間の成長期の言語獲得というフィールドにおいて、かなり異様であったにもかかわらず、その言語を第一の必要能力とする職業についてしまったことでありましょう。 そう思ってしまうほどに、主人公の苦悩はひりひりと深いです。(上記に「幸運」と書いたのは、一般論として文学は、やはり苦悩から生まれるものだからであります。) さて、もう少し具体的に考えてみます。 これも私の個人的な印象批評ですが、本書の文体はどうも読みにくいと感じました。滑らかに進んでいかない。 どうしてなのかと考え付いたのは、この本文にはエクスキューズがとても多いのじゃないかということです。それは、とにかく正確に書こうとしているのではないか、と。 じゃ、なぜそうなのか。 んー……、かなり乱暴に(かつ先入観と共に)いえば、母語じゃないからでしょうかね。 というより、上記にも少し触れましたが、筆者は、英語・日本語・多種の中国語(台湾の言葉・大陸の様々な地域の言葉など)を内面に輻輳して持つことで、思考と言語のかなり深いつながりの部分において自覚的に混乱、あるいは崩壊しているということを、様々な場面で描いています。 (それを作中に、多和田葉子の表現と注して「かかとを失くす」と書かれており、うーん、これは筆者と多和田とどちらを誉めればいいのか、なかなかすごい表現だなあと思いました。) ただ、読んでいて少ししっくりこないのは、上記に挙げた言語のうち、英語と多種の中国語の内面の混乱については再三描かれておりながら、実際この作品を書いた日本語(筆者にとっての日本語の意味)については、十分に深く描けているとは思えませんでした。 (「ゴーイング・ネイティブ」という作品の中に、パールバックはなぜ中国語で書かなかったのかという問いかけがあって、ぎりぎりまで迫りながら、やはり説得力豊かに自らの日本語を振り返るまでは描かれていないと思いました。あわせて、「ゴーイング・ネイティブ」という短編は、本書全体の謎解きのような興味深い作品でもあります。) さて、上記に私は、筆者の言語苦悩を本書のテーマの一つと書きました。 本書には、もう一つテーマがあると思います。 それは、「私小説」(「私小説」で書くことの意味)でありましょう。 それについては、じかに筆者が短くこのように触れています。 アメリカの少年として体験した風景の上をすれすれに飛びながら、大人のアメリカ人たちと違ってそのことを誰にも打ち明けない。むしろそのことにもとづいて「私小説」を書く、その中で回想は単なる回想なのか、それとももう一つの意味に結晶されるのか、試されるのだ、と思いをめぐらしているうちに、JAL機がなめらかに台湾の土に着陸した。 筆者はさりげなく「私小説」の意味を、自らの体験を別の意味に結晶させることと書いています。 実は本書の「私小説」としての意匠は、かなり破格なものです。 一人称の名前は筆者自身で、ほかの小説家の名前や作品の引用、また過去の自作品の引用(小説ではないものまで)などが出てきます。 これは、長い私小説の伝統を持つ日本文学の中でも、かなり異例と思います。(近い所を考えると、大江健三郎あたり、いや、かなり違いますか。) これは結局のところ何なんでしょうか。 私が個人的に、現代文学全体に共通するテーマの一つと考えているものになぞりますと、寿命を迎えつつある小説の写実主義的表現に変わるものの模索、かな思います。 そんなわけで、本作は、わたくし、なかなかの「問題作」と、冒頭で触れさせていただいた次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.04.10
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