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『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) 実はわたくし、エクセルで読書ノートをつけているんですね。タイトル、作者名、読んだ日、その年の何冊目か、全体の何冊目か、そして一行だけの感想などを記しています。 この、「全体の何冊目か」というのは、この読書ノートをつけ始めてから何冊目の読書かということで、スタート地点は半世紀前くらいであります。 最初に書き始めた時は手書きだったのですが、何年かしてから、しこしこと半年くらいかけてエクセルデーターにしました。 するといろいろ便利になって、この本は今まで何回読んだかなどが、並び替えですぐにわかります。 それによりますと、この『三四郎』は、わたくし7回読んでいることがわかります。 しかし、このエクセルデーターの元になった読書ノートは、就職してからつけ始めましたから、おそらくその前の高校大学時代に最低2回は『三四郎』を読んでいると思え(初読は高校時代で、大学時代に今でも我が家の本棚にある新書版の漱石全集が刊行され始め、少なくとも始めの頃は一冊ずつ買いながら読んだはず……)、ということは、それも加えると今回の『三四郎』読書は、わたくし10度目となります。 この拙ブログでもすでに2回『三四郎』を取り上げていますが、エポックメイキングな読みになったのは9回目の読書の時の報告でありました。 それは、美禰子は、ちっとも三四郎を愛してなどいなかったという読みで、なかなか刺激的な読みでした。 しかし、といいますか何といいますか、今回の『三四郎』読書のテーマは、その揺り戻しの可能性を探る、と自分で勝手に決めて読み始めたのであります。 やっぱり美禰子も、少しは三四郎を愛していたんじゃないのかの思いは強く、その読みの可能性をもう一度探すというテーマであります。 さて、そんなテーマを勝手に持って読み始めたのですが、そんなテーマとは無関係に、やはり『三四郎』はとっても面白かったです。 筆者の無手勝流の文章のうまさについては、わたくしが今更言うまでもないですが、改めて惚れ惚れとしたり(菊人形から流れて来て二人だけになったシーンで、泥濘道を飛び越える美禰子が三四郎の両腕の中に落ちるところなんて、わたくし一人で秘かに快哉を挙げてしまうくらいに、めっちゃうまいやんけー!でした)、でも一方で、ここは漱石かなりノンシャランに書いているんじゃないかなどと思う場面があったりと、文章だけでもう満腹、という感じではありました。 しかし、忘れてはいけない我がテーマということで、頑張って最後まで読みました。すると「重要な」ポイントが、数か所出てきました。ざっくり以下に検討してみます。 まず一つ目は、二人の出会う端緒となる例の大学の池のシーンの美禰子の心理、そして作品後半部にある、その時の着物の衣装を画家に提案した美禰子の心理であります。ここの美禰子の心情に、三四郎への特別な感情が読み取れるかということですが、これはなかなか難しいことがわかります。 一つ目の池のシーンの美禰子の心情は、やはり三四郎をチャームしたものではなさそうですし(前回の私の『三四郎』のブログにその内容は書いてありますが)、その時の着物がモデルの着衣になっているというのも、作品終盤に、三四郎との出会いとモデルの着衣は、実は順序が逆だという(驚くべき)解答が書かれています。 二つ目のポイントは、世次郎が競馬ですったお金を美禰子から借りに行く三四郎のシーンですが、ここで美禰子が三四郎にこんな風に言っています。(競馬ですったのは三四郎だと思っている場面です。)「馬券で中るのは、人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の附いている人の心さえ中てみようとなさらない呑気な方だのに」 ここの「人の心」とは、具体的に誰のどんな心情のことを言っているのでしょうか。 この「人」は誰か、具体的に挙げるとしたらやはり美禰子(=私)以外には考えられないんじゃないかなと思います。 そして、美禰子の心の中に特別な存在として三四郎があるのなら、このセリフは美禰子の愛情告白となるでしょう。 しかし一方、美禰子の心の中に野々宮だけがあるのなら、ここはかなり残酷な意味合い、つまり私が好きなのは野々宮さんだけなのがあなたは分からないのか、という意味になってしまいませんか。 ……うーむ。これはこの二つの読みどちらも、場面に違和感がありますよね。 とすると、この言い回しは、特に具体的な「人」を想定しない、客観的な三四郎の性質を指摘した言葉なのかもしれません。ちょっと気になりますが、有力な証拠とはいえなさそうです。 という風に、私はちまちまとエビデンスを探っていったのですが、最終的に、この描写はどう読んでも美禰子の心の中に、三四郎に対するある一定の好意の感情があるだろうと私が読んだのは2か所でした。 というところで、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.04.18
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『首里の馬』高山羽根子(新潮文庫) わたくし、本文庫を古本屋で見つけまして、カバーの裏表紙の文章を読んでいましたらいろんな言葉が引っ掛かってきてそれで購入したのですが、まず冒頭に、「問読者」と書いて「といよみ」と読ませるものが主人公の仕事だとありました。 もちろんその後ろの簡単な説明文を読んだからでしょうが、私は村上春樹の小説にあった「夢読み」を連想しました。 実際は、本作の中で「問読者」は「夢読み」ほど幻想的な仕事ではないのですが、それが荒唐無稽で、かつやはりとても魅力的な作者の妄想めいたものから生まれていることは、甲乙つけがたいと感じました。 いま妄想めいたと書きましたが、現代文学の最前線の作品は、この妄想力が最も重要であるような気がします。 本作を読んでいて(特に中盤あたりまで)、これだけ妄想力を持った方が、これだけの文章力も同時に持ち合わせていてくれた結果がこの佳作なのだと思ったとき、私はその出会いの妙にほとんど感動しそうになりました。 前半から中盤までの、展開の上の特に三つの妄想的要素は、そんな、天馬空を駆けるような文学的独創性に満ちているように思いました。 具体的に言えば、まず主人公の二つの仕事(一つはボランティアですが)、沖縄の民俗学の資料館の資料整理係と、上記に触れた「問読者」のこれは正式な仕事、そしてもう一つは、台風の夜に主人公の家の庭に迷い込んだ宮古馬(沖縄種の馬)の三点セットであります。 この三つの妄想物が、様々な世界の果ての孤独と沖縄の歴史を、つまりは広がりと奥行きを十分に示しながら繋げられ語られていきます。 また、その文章についても、素朴と平易さを中心にした安定感ある淡々と筆致で、むしろそんな文体のほうがぐいぐいと展開を引っ張っていくように感じられました。(私はそんな文体を読んでいて、ちょっと安部公房の小説を連想したりもしました。) そして後半、そんな妄想的異物が読者に何を示そうとしているのか、というところになって俄然クローズアップされるのが、「孤独」という状況でありましょう。 孤独……、本作のほぼすべての登場人物の属性といってもいいこの状況は、一体なぜ生まれるのでしょうか。孤独と感じる主体の側から述べると、自らについて理解者がいないから、となるのでしょう。本作中にも理解できないものを恐れ排除する人間心理に触れています。 実は私は、本書はこの孤独状況に対する一つの解法が描かれていると読みました。 理解できない、また、してもらえないから孤独になるというのなら、理解しないをそのまま受け入れるのが解法だろう、と。 文中には主人公について、こんな風に書かれている個所があります。 「じゃあなんで、私がこの仕事に向いていると思えたのですか」 「……しいていえば、様子のおかしいことを、きちんとおかしいと判断しながら、それでもしっかり受け止めて恐れない人だと思えるからですかね。(下略) 私はここを読んでいて、これは本書の作者が実際に誰かに言われたセリフじゃないかと思いました。この「私」=主人公の持っているものは、ほとんどそのまま小説家に必要、というより小説家なら自然に持っている一種の性向あるいは価値観だと思うからです。 誰の文章だったか忘れてしまって申し訳ないのですが、昔こんな言い回しを読んだことがあります。 小説家になるには頭の良さは必須ではないが、頭の強さは必要だ。悪を悪のままに価値判断せず描くには強い頭が必要だ、と。 さて、本書に戻りますが、小説家ではない主人公は自らのこの「才能」をどう使っていったのか、それは、受け入れることでした。 ひたすら受け入れること、それが、本作の中に再三描かれています。一つだけ抜き出してみます。 この島の、できる限りの全部の情報が、いつか全世界の真実と接続するように。自分の手元にあるものは全世界の知のほんの一部かもしれないけれど、消すことなく残すというのが自分の使命だと、未名子はたぶん、信念のように考えている。これが悪事だというのなら、いくら非難を受けても、なんなら捕まっても全然かまわないという、確かな覚悟もあった。 この文は、本作の終盤あたりから抜粋しましたが、この後ろには、そんな自らに自信を持ち、誇らしく思っているという表現が続いています。 また、このひたすらアーカイブするだけの課題という発想は、理解しない=意味を問わないという意味において、これも本書の独創的なエピソードである「クイズ」と、表裏関係として、あるいは理解や意味の矮小化または相対化として取り上げられているようにも思えます。 と、そのように私はこの物語を読んだのですが、ひとつだけ少し、おや、と思った読後感があります。 それは、主人公の未名子という若い女性の身内の影がとても薄いことです。彼女が一人暮らしをしていることなどは説明されていながら、彼女が自らの人生の中で大きなハードルを飛び越えようとしているこの孤独の解法に、身内がほとんど影も光も落とさないというのは、わたくし、少し物足りなく思ったものです。 しかし、それはまた、次の筆者の作品内に秘められているのかもしれませんが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.04.04
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