全2件 (2件中 1-2件目)
1
『透明な夜の香り』千早茜(集英社文庫) この方の本も、わたくし初めて読みました。実にいろんな方がいろんな小説をお書きなんだなあと、つくづく思います。 この筆者は、2022年に直木賞を受賞なさっているんですね。 本作は、その2年前の作品で、渡辺淳一文学賞というのを受賞なさっています。といっても、「渡辺淳一文学賞」というのがどのような賞なのか、わたくし寡聞にして存じ上げませんので、ちらちらとネットで調べてみました。すると、ウィキにこんな風に書いてました。 「純文学・大衆文学の枠を超えた、人間心理に深く迫る豊潤な物語性をもつ小説作品が顕彰される」 なるほど。と思いつつ、でもやっぱりよくわからないなりに、ポイントは「豊潤な物語性」の部分だなと直感しました。(まー、誰でもそうわかりますかね。) という予習をして本書に臨みましたが、まず気になったのは、こんな部分でした。(けっこう全編を通してこんな個所がありましたので、その幾つか、短い引用でわかる個所だけ。) ……蔓薔薇の根元が濡れ、土の匂いがたちのぼっている。水を得た赤い薔薇はますます鮮やかさを増したような気がした。(文庫本13頁・以下同) 携帯の画面をひらき、さっきスーパーで撮った写真を眺める。ピントはずれていたが、連絡先の番号はかろうじて読めた。(13) (庭仕事をしている年配男性の描写) よく着込まれたつなぎの作業服にゴム長靴。(37) 「じゃあ、四時によろしくな。美人な未亡人だから楽しみに」(52) ……いつもの微笑みとは違う、捉えどころのない表情だった。諦めるような、可笑しむような。(106) いかがでしょうか。 もちろんプロの作家ですから、明らかな誤用というのではないとは思います。しかし例えば「水を得た」というのは、「水を得た魚」という慣用句の前半だけを勝手に切り取った表現ではないでしょうか。たまたま書きたいことがそうなった、とはいえんでしょう、やはり。 同様に、いわゆる一般的な表現としては、ピントは、ずれるんじゃなく外れるのだし、「着込まれた」は一般的にはたくさん重ね着をしたという意味でしょうし(こんな場合は普通は「着古した」ですかね)、「美人な」って、そりゃ、言えないこともないでしょうが、いくらセリフでも「美しい」とか「美人の」までじゃないでしょうか。「可笑しむ」というのも、うーん、いかがでしょう。 と、まあ、なんか「小姑みたい」なごちゃごちゃと細かくうるさい指摘になってしまったとすれば(まー、やはりそうかもしれませんが、)、わたくしの反省すべきイヤな性格でありましょうか。申し訳ない。 という感じで、ほぼ全編、気にしながら読んだのではありますが、しかし、そればかりの感想ではありません。なるほどよく頑張っているなあ、上手に書いてあるなあ、独創的だなあと思ったところもたくさんありました。 これも例えば、独創的ということでいえば、本作の圧倒的な独創性は、嗅覚を描写の中心に置いた物語であるということでしょう。 実は、これはそもそもがかなり困難な挑戦であるように私は思います。 嗅覚、それも超人的にナーバスな嗅覚感覚を文字化することは、ちょっと想像すればわかりますが、これはきわめて難しい、と。 筆者は、まずこれに挑戦しているんですね。それだけでもとても高い独創性だと思います。 わたくし、本書をその辺に注目しつつ読んでいたんですね。 すると、あ、そういうことかと思った事柄があります。それは、筆者が、作品の嗅覚の世界を(主人公小川朔の超人的な嗅覚の世界を)、エレガンス・トーンでまとめようとしていることです。 そもそも舞台が古い洋館であったり、ハーブの話題などが散見されたりしているそれですね。 では、なぜエレガンスを選ぶのか。 それはたぶん、超人的な嗅覚の紡ぎだすものが、わざわざ表ざたにするには差しさわりの多い、人間生理の中の隠された部分(多くはエロティックなものかグロテスクなもの)にまともに触れてしまうせいだと思います。 実際、前半に描かれるいくつかのエピソードはそのようなものであり、それを解いていく推理小説仕立ての物語として読んでいくと、そのエロティックまたはグロテスクな「動機」にやや不自然さがあるようにも思いました。 だから、とまで断定するつもりはありませんが、本作の後半の中心テーマは、推理小説仕立てのものから離れていったように思いました。 では、後半何が中心テーマになったのか。 それは、超能力(異能力)者の苦悩、とでもいうべきものでしょうか。 超能力者として人間社会に生きる生き辛さが掘り下げられていくように感じました。 例えばそれは、自らの圧倒的な力と社会モラルの関係、存在自体が否応なしに社会に与える嫌悪感や邪悪な感覚などが中心でしょうか。 かつて筒井康隆が七瀬シリーズで、超能力者が国家や社会から迫害され抹殺されようとするというテーマを描いていましたが、同種のものが、視点を変えながら本作にもあると思います。 本作の終盤、あれこれとそんなテーマが詰め込まれ、しかしその落としどころは、私は、本作では描かれていないと感じました。 と、思ってページを閉じたら、本作には続編があるというではないですか。 さもありなん、とも思いつつ、また、困難な嗅覚描写に再び挑戦する作者の気概と、他人事ながら、表現者の業のようなものを感じました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.03.22
コメント(0)
『カメオ』松永K三蔵(講談社) この作家の講演会に、ひと月ほど間をあけて、二回続けて行ったいったことがあります。 ひょっとしたら、そんな講演活動も積極的になさっているのかもしれませんね、 マスコミなどによく取り上げられているこの著者のお写真は、何といいますか、ちょっとぶすっとした感じで写っているのが多いような気がするのですが、講演会でのお話しぶりはとても気さくな感じでありました。 ご自身でも講演でおっしゃっていましたが、もっと笑った写真にすべきだったと。というのは、この筆者の、何といいますか、「売り」の言葉のようなものが、「オモロイ純文運動」という活動であるのに、ということですね。 この「オモロイ純文運動」という言い回しに、わたしはちょっと興味を持ったんですね。多分芥川賞を受賞なさってメディアで結構見聞きする頃からおっしゃっていたと思います。 拙ブログでもたまに触れていますが、笑いの純文学に、わたくし少し飢えていたんですね。だから、まず一度目この筆者の講演会に行きました。 ところが、「オモロイ純文」という言い回しはけっこうなされていながら、どんな作品がそうであるのかの具体例をあまり出していただけなかったんですね。 実はそれをしっかり聞きたいと思って、続いて二つ目の講演会にも行きました。でも、やはり具体例を出していただけなかった。 お話しなさっていたのは、菊池寛の短編小説でした。ほぼこれだけだったと思います。そして、この小説のストーリーを紹介しながら説明をなさっていたのですが、それがいわゆる「オモロイ純文」なのか、どうも、私にはしっくりいきませんでした。 ひょっとしたら、わたくしと筆者の「オモロイ」「面白い」の理解が、かなり異なっているのかもしれません。 講演会で筆者もおっしゃっていましたが、「面白い」とは、価値基準を表すものとしては、幅が広すぎるように私も思います。 例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』は面白いよ、は当然アリだとしても、ドストエフスキーの『罪と罰』は面白いよ、もやはりアリでしょう。(『罪と罰』が面白いとはこの筆者も講演でおっしゃっていましたが。) しかしこの二つの「面白い」価値基準語は、具体的に見ていくと評価の仕方がかなり違っているように思います。 そして、私が「オモロイ純文運動」について、詳しく具体例を挙げて知りたかったのは、前者の「面白い・オモロイ」(漱石の「猫」側)であります。 (詳しくは延べませんが、本当は「オモロイ」は、「面白い」等よりもはるかに前者側の価値基準語だと思います。) ということで、わたくしにとってこの二回の講演は、内容的には肩透かし感がありました。(全体のお話としてはざっくばらんな感じで語られて、それなりに「面白く」はありましたが。) で、次に私は、これは著作を読まねばなるまいと思ったんですね。 で、図書館で調べますと、芥川賞受賞作はすごい数の予約が付いていました。 もちろん買えばいいのでしょうが、えー、読んでもいないのにこんなことを言うのはよくないですが、山登りっぽいお話、なのかな、と。しかし、山岳小説というのは、ごく個人的な好悪として、苦手っぽいかな、と思ったんですね。で、買うのもなんですし、と……すみません。 とにかく『バリ山行』の恐ろしい数の予約の末尾に私も一人分加えさせていただいた後で、冒頭の小説の方を見ますと、おや、少ない数の予約しかありません。で、こちらを申し込んだら、結構すぐに順番がきました。 この事も二回の講演会のどちらかで筆者が触れていましたが、この『カメオ』という小説は、群像新人文学賞優秀作を受賞なさっていますが、この「優秀作」というのは、群像新人文学賞そのものではないんですね、あえて言えば佳作みたいなものだと。(この回の新人文学賞受賞作は、石沢麻依『貝に続く場所にて』で、この作品は同時に芥川賞も受賞しています。) なるほど。 佳作だからという見方はしていないつもりですが、ちょっとスキマの多い作品だなあという感じがしました。その理由の一つ目は、登場人物の出し入れが、展開的な都合のよさだけで進んでいて、特に人間の「亀夫」の退場は唐突すぎないかと思いました。 それと同様なのかもしれないですが、何とも言い難いのが、やはりエンディングのあり方でしょうか。 個人的な好みで、私が本作にやや後味の悪いものを感じたのは、私の好みのモラル感の欠如というだけではなく、展開にも手前勝手な都合のよさ(主人公が自分でも何種類かの未来予想をしていて、その中の一番良い展開に終わるという都合のよさ)を感じました。 とはいえ、例えば本書の帯には「誠実さと善意、ペーソスに満ちた令和の犬文学」と書かれていますが、誠実・善意・ペーソスというのは(私はエンディングにモラル感の欠如を思いましたが)、わたくしも感じたところです。 その思いが大きかったのは、主人公と犬のカメオの何とも微妙な感情の交流であります。 このいわく言い難い親近感と距離感は、本作特有のかなりオリジナリティの高いものだと思いました。 読みながら私も気づいたのですが、この作品は太宰治の「畜犬談」へのオマージュではないか、と。太宰は、犬嫌いから親愛へと彼らしい極端な振り切り方を描きましたが、本作はその幅を小さくして、そして最後まで微妙な犬との距離感を描いています。 これも、私の好みなのかもしれませんが、「犬文学」としては清々しさを感じました。 ただ、この筆者のいう「オモロイ」とは、こういったものなのかな、これをオモロイとお考えなのかな(なるほどと理解はしますが)という思いは、ちょっと残りました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.03.07
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()
![]()
