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りうりうさんのところでもコメントしたのだけれど、新聞報道も市報も素人さんにはよくわからないので、直接市役所に問い合わせをしてみることにした。(私はこういうときは、メールを利用することにしている。言った、言わないが記録に残るので。しかも、関係部署にCCされると聞いているので)。質問をメールで送ったのが21日。翌22日には役所の担当官から返信が届いた。26日には、教育委員会の担当官からも電話が入った。これって、評価すべき反応だと思う。一昨年、公園事業がらみで、行政とずいぶんやりとりをしたことがある。そのとき私が訴え続けたのは、「市民は行政を責めているのではない。共に考えるために、情報を発信し続けてほしい、一緒に事に当たってゆくために、痛いことも話し合える場を望んでいるのだ」ということだった。それは、行政にも、市民にも「成熟」を求めることでもある。Big Brother行政は、民の快適な生活を保証するために、民を従順な羊状態にしておいた方が都合がいい。民も、それに身をゆだねて安心できる方が心地よい。本当にそうだろうか?同じ社会を構成する者として、私は社会に対して責任を持ちたい。発言する権利を持ちたい。自分に出来る形で社会を形作る一本の木でありたい。森の中の木々が、それぞれ多様であるように。その多様さが、森の彩りを定めるように。市の対応は、まだまだ。「え、そんなところをつっこむの?言質取られたくないなぁ。」という気持ちが見え隠れもする。それでも、こうやって市民からの質問に丁寧に答えようとしてくれる姿勢を評価したい。行政に成長を求めると同時に、あたえられた事をそのまま鵜呑みにするのでなく、自分の目で物を見、自分の頭で考え、自分の耳で聞き、自分の言葉で話しかけられるよう、自分自身も市民として成長していきたいと思う。
2005.09.30
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雑踏のおくで、木犀の香りがした。肺の底まで息を吸い込んだ。自分の中の「回路」がかちりと動き出すような気がする。
2005.09.29
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授業公開。昨年中は、撮影に協力していたこともあってばたばたしていたが、今回は我が子らに集中。2年生も3年生も、算数は少人数制授業になっている。3クラスを4クラスに分けて、同じ単元を、同じように(同じTaching Planで)教えているようだ。心なしか、人数の少ない分子どもたちが先生のことをよく見ているような気がする。2年生はパソコン初体験。あれは、教室のパソコン配置が悪い。パソコンに向かうと、先生に背を向けることになる。楽しそうなおもちゃを前に、子どもたちの集中力は続かない。さらにその間を保護者が縫って歩き回るので、「先生はいったいどこ?」3年生は理科の実験。たしか、1学期は算数で、量りの授業でペットボトル水量計を作っていたな。こんどは、電気の実験。電極板に電線を結びつける作業で、???が続出。保護者の出番となりました(結構保護者も???だったりして)。これ、先生が一人でやったら大変だ。こんなとき、授業のサポーターがいてもいいな、と思いますね。そうしたら、正しいつなぎ方が出来るまでの子どもたちの試行錯誤を見守ることが出来る。一斉に、だと、時間内に授業を進めるために「正解への近道」が大事になってしまい、正解までの紆余曲折は歓迎されないだろうと思うので。実験なんて、失敗してナンボ、悩んでナンボ、だと思うんだけどなぁ。3年生の「国際理解」の授業で外国の話しをすることになり、インドのサリーを披露。子どもたちに試しに着させたら、布が長すぎて、ミイラみたいにぐるぐるになっちゃいました。
2005.09.28
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一念発起、押し入れを片付けることにした。いつか使うだろうと思って取っておいた布、毛糸、妹の服、押し入れケース5個を処分した。(ウェディングドレスなんてのも出てきた。聞く時間のとれないCDがぞろぞろ。)さあ、これで子どもの部屋にあふれたモノもキレイに片付く!・・・・ はずだったのに ・・・・・・・どうして元々入っていたモノまで入らなくなっちゃうんだぁ?ちっとも片付いたように見えないのはなぜなんだぁ?ぜったい、どこかで何かが増殖しているに違いない。あるいは座敷童のいたずらか?おかしい、絶対におかしいぞっ。
2005.09.27
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眠れなかった・・・今日、子どもクラブの活動で、校外へ行くことになっている。バスを貸し切って総勢100人で川遊びだ。だから台風が気になったが、昨日はきれいな夕日が見えた。夢の中で、朝日が昇り、虹が空に架かるのを見た。西に虹が出るのって、雨の前兆だなぁ・・・と思いながら目が覚める。陽が昇っているなら、午後からよしんば雨が降ろうとも、午前中だけ強行して、早めに撤収してこよう、バス会社と交渉しようなんて考えて目が覚める。布団の上で運動会しているムスコに蹴られながら、何度も目が覚めた。ようやく安心できたのは、屋根をたたく雨音に気がついたときだった。
2005.09.24
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なんだか、読み返して自己嫌悪がひどくなりそうな内容だったので、削除。どうせ書くなら、'自分的に'精神衛生にいいものを。明日に向かってプラスになることを。
2005.09.23
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現在執筆中。
2005.09.22
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秘密日記だけ書いたらどうなるのかと思っていたけれど、本文、タイトルが無かったら、エラーになっちゃいましたとさ。書き込み率100%は、私にはできまへん。
2005.09.18
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今日は、おやじ達有志企画のキックベースボール大会が開催された。Pがバックアップする事になっているので、出場はしないが応援に行ってきた。うーん、どこかでみかけた顔が多いなぁ・・・、と思いつつも、おやじ、おふくろ、卒業生、先生方が熱心にボールを蹴り上げている顔は、楽しそうであり、(なれぬ運動で)辛そうであり。こんなイベントがあって、子どもたちが応援に来て、あ、ホームランのおじさんだぁ、と子どもたちの印象に残ったり、あの先生、やるじゃん、と普段学校と疎遠なおやじ達の印象に残ったり。同じチームとなったおやじ達のその後の盛り上がりは・・・私の知るところではありませんが。こういう企画もいいなぁと思ったのでした。元々この企画はここ10年ぐらいずっとP主催行事であり、翌年の大会委員長も今年の大会のうちに決めちゃおう!というノリだったものを、だんだん傍流に回されて、今年はついにP主催行事ではなく、有志+Pの共催行事みたいになったのでした(Pが支援するのは運営費と保険とお手伝いの派遣ぐらい)。もちろんこの扱いには別の意図があって、Pの負担は軽減させたいが、同時に、「やりたい」と思っている人にはチャンスをあげたい、ということで始まった行事見直しの一環なわけですが、実際にはどうなのかなぁ?これまで、Pの責任で運営者・現場担当者をあて、大会委員長はお飾りな風潮があり、だからこそ普段なかなか忙しいおやじ達が、「じゃ、来年はおいらが」と引き受けて続いてきた行事。今年度からは、自分たちで手配を行い、会計報告を行い、案内状を印刷し、出席者の集計をし、が全部自分たちの肩にのしかかってきたのだから、負担感は推して知るべし。おやじも学校へという目的を考えると、この行事、これからも続けた方がいいんじゃないの?そのためにはもっと踏み込んだ支援が必要かも、という思いと、「やりたいからがんばれる」をもっと活用したい思い(民活ね)とが交錯しております。んん、活用というよりは、応援したい思いです。はぁ~。
2005.09.17
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またもやりうりうさんの日記で、なぞなぞ、頓智に挑む子どもたちの風景が出ていたが、まったっく、その論旨とは無関係にこの夏の出来事を思い出した。あんまり、おもしろかったから、書き留めておこう。夏休み前、3年生のムスメが学校で、<30ccの器と、50ccの器を使って 70ccの水をバケツに入れるにはどうしたらいいか>という問題が出て、自分はすぐに答えが出た!って喜んで報告してきた。そうなると、俄然対抗意識が出てくるのが2年生のムスコ。さて、一生懸命考えるが、どうしても答えが思いつかない。つい答えを教えたがるムスメを制して、1ヶ月。折に触れ、「30ccのコップとね・・・」なんておしゃべりしていたのですが、そのうちすっかり忘れてました。と、夏休みも半ばになって突然、「あ!わかったぁ!」(な、なにごとだぁ?)ずーっとキミの頭の中で暖めていたんだね、それがようやく孵ったんだね。キミってすごいゾ (^_^)v。
2005.09.16
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中学校の時、この本に出会ったのが運の尽きだったかなぁ。どうしてこの本に出会ったのかも忘れちゃったけれど、光瀬 龍にはまり、SFにはまり、宇宙にはまり、仏教・ヒンズー教にはまり・・・。光瀬龍からは離れても、結局はこんなところにいるわけで。なのに、なぜか虫の方にはご縁がなかった。今だったらロン先生も読むだろうなぁ。なぜか突然この本のタイトルを思い出したので、ちょっとセンチメンタルしてみました。
2005.09.15
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りうりうさんのページで、大学における就職支援ツアーで、男女相部屋を申し込んできた、私としては「マジ?」っていうニュースがきっかけで、就職に望むときにツインとは、という道徳的論議が、やがて就職支援ツアーの是非を問い、大学の価値を問う論議にまでなだれ込んでいる。参考:9/14 「大学考」~何のために大学へ行くのか~ほか、 9/13 「大学生」は おとな or こども?9/12大学は【サービス】を受けるところなのか9/8 ○○大学、東京就職活動ツアー 世代隔離の問題や、大人ってなんだろう?な論議も交えて、ああ、みんな真剣にこの問題に向かい合っているのだなぁと思う(正解がないだろうと思うからなおのこと)。りうりうさんのところにコメントを入れていたが、「でもね、私はこう思う」の一点張りになりそうな気がして(あちらのコメント群全体がそうだというのではなく、私自身が、自己主張だけで、相手と対話しようとしていないってことに気がついたので)、自分のところで個人的見解を述べさせていただいて、とりあえず今回はこれ以上繰り返すのをやめておこうと思っている。【ツインで】これは、論外。TPOを考えなさい。【大学のサービス提供は是か】大学の使命は、一に、教育的使命として、学問の機会を与える場を提供すること。二に、社会的使命として、社会の要求に見合うだけの資質を持った人間を送り出すことだと思っている。この二つを成立させるために、大学が様々な経営活動を行っているのもまた真実である。経営活動と、使命とは、時には相反することもある。大学が自立する経営体なのであれば、「存続する」こともまた使命である。経営活動を怠って、就学生に対して学問の機会を奪う(倒産する)ことは、極力避けなければならない。使命とは相容れないサービスも、需要があれば・・・となるのは、やむを得ない現実であろう。公立大学については、課せられる社会的使命が私学のそれとは異なっていると思うので、経営活動についても一律に「やむを得ない仕儀」とはいえないと思っているが、これを汲んで話しをすると混乱するので、ここでは除外したい。さておき、大学がの本業が【学府】であったとして、本業存続のために、生き残り作戦と称して付加価値のあるサービスを提供する、その経営行為を非であると言うことは私には出来ない。どんなサービスも、需要がなくては成立しない。快適な施設を作り、学生の課外活動を支援し、学生の卒業後の面倒を見る。大学が学生の庇護者となっている様を選ぶのは、庇護される学生自身と大学に庇護をゆだねる保護者である。同じサービスが与えられる環境下にあっても、完全に庇護に甘んじる人もいれば、庇護など必要としない人もいるだろう。庇護を必要としない人にとっては、サービスなんて言うものに付加価値がないのである。もし、庇護は不要であるという需要ばかりであったなら、無駄なサービスの供給などだれもしようとは思わない。だから、大学の義務教育化の責任は、私たちの側にある。大学の質を変えてゆく力も、私たちの側にある。【就活ツアーは有意義なものであるか】結婚式場巡りツアー・・・都市圏にいて、自分たちの足で式場を比べて回ることだって出来るのに、サービスたっぷりのツアーで式場巡りをする社会人のいかに多いことか。式場やホテルの思惑が先であることはわかってるが、自分たちの初めてのお買い物(の一つ)でしょ?歩いて、悩んで、もう一度歩き直して、ツアーでのリップサービスだけじゃなくて自分たちの目で確かめたことを大事にしなさいよ!って他人事ながら思う。でも、取りあえずカタログ集めて、そこからがスタートと思う気持ちもわからなくない。私たちだって、ネットであれこれ比較して(最近は宿泊だって、家電だって、車だって、簡単に価格やサービス比較できたりしますものね)、それから悩みますでしょ? 就活ツアーとどこが違うの?たとえば結婚=結婚式を示すわけではないように、○○ツアー、○○セミナーに参加することを選んだ人たちが、その後をどうやっていくか、の方が大事だと思う。ツアーへの参加=人間失格みたいな紋切り型(ちょっと極端な表現でゴメン)でその人とその人の未来を判断することは出来ないと思う。就活ツアーの中身を知らない私としては、想像で式場巡りツアーと就職支援ツアー(あるいは、就職セミナー)を比較することは出来ない。だから、それを否定できない。ただ、これを大学が学生に対する教育活動(または学生支援活動)の一環として行っているのだとしたら、それって、【教育機関】としては過保護じゃない?民間業者がこうしたツアーを組むことも、それを大学で募集することも、それに乗っかる人がいることも、その人々の判断だからご自由にどうぞ、なんだが。【大人と子ども】私は、社会人してから、一般入試を経て四年制に入ったちょっと変わり者の部類に入る。社会科学系学部であったので、「たった一つの答え」はどこにもないのが当たり前だった。だから、若い同輩達も、海外からきた同輩達も、他の社会人学生も、教授も、講師も・・・みんな同じ土俵の上で話しをすることが出来た。私が大学で得たのは、知識でも卒業資格でもなく、「自ら学びとること、考えることをやめないことが価値のあることだとする【自ら働きかける価値観】」だと思っている( ~ ふたたび社会人に戻ってその後、妻となり、母となり、役員をやり、地域に関わりを持ち・・・もこの線路上にある(たぶん)~)。同じ時期大学にいた多くの学生達、本業はさておき、本当にいろんな事で忙しそうだった。クラブ活動に熱を上げる者、奉仕活動に勤しむ者、アルバイトに精を出す。彼らに「学業」という課題は課せられていなかったかのようにも見える(大学で、他人のノートだけを参考に試験を受けるなんて、私にはもったいなくて出来ませんでしたぁ)。けれど、それが許される場でもあったのだ。「自分で考え、自分で選び、自分で責任を取ること」をが奨励されていた大学だから、その時間の過ごし方を了承するスポンサーがいれば、それで十分だったのである。今から考えると、ニートの集まりみたいなところだなぁ。で、親子間での責任の応分負担。親の金でモラトリアムさせていただいていることに感謝が必要、という意見がある。(この一文だけを取り上げちゃいけないのですが)全く同感。しかし、それを認めているのは親自身。親の責任を棚上げにして感謝を一方的に要求するのはちょっと納得できない。親の金で遊んだ分の【不義理のつけ】は、自分の人生で支払えばいい、それは親子間の合意の問題ってことではないだろうか?モラトリアムとは、支払い免除でなく、支払い猶予なのだから。大学は義務教育ではない。進学は自己責任における選択(大卒資格がないと社会でやっていけないという論議は流れから離れてゆくので、取りあえずパス)。庇護者の金で大学へ通っている間は、支払いを猶予されている大人。庇護者からすればあくまでも子。親の責任として、なんのために教育を受けさせるのか、と自問自答しなくてはいけないだろう。また、子の責任として、この支払いをいかにして行うか(実として社会に還元するのか、負として己自身で贖うのか)を考えてほしい。【大学の責任】時代は変わり、皆が大学に行くようになる。大学が教育機関から教育サービス産業に変容する。その責任が私たち自身にあることは先に述べたとおりであるが、その過程で、大学は必要な使命を果たせなくなってきているのではないかという不安が頭をよぎる。大学自体が教育サービス産業化し、「卒業資格」発行元みたいになってきているのではないか?その資格は、十分な教育的裏付けを伴っていないのではないだろうか?もはや、社会の要請に応えるだけの有資格者を送り出すことが出来なくなっているのではないだろうか?同時にそれは、同じ大学で真摯に学ぶ学生への教育の提供という使命をも怠ることにはならないか?本末転倒の、重大な背任行為である。教育機関であることと教育産業であることを両立させることは出来ないのではないだろうか。すると、後は、国、自治体、企業などが「自らの目的のために、適切な資格を有した卒業生を輩出させる」として設立する国公立、企業立などの大学で、経営を大学の任ではなくすケースのみが、合目的的な「教育機関」として残ってゆくのではないかと思われる。(だから、国策として国公立大学を民営化するのって、効果があるの?と思っている)。【教育格差】多くの大学が「経営」のためにサービス産業化してゆく中で避けて通れない問題。その流れを変えることが出来るのは、消費者である私たち(雇用者も含めて)自身。大学卒業のお札になんの価値も見いだされなくなくなるとき、サービス産業はその方向を変えざるを得ない。それが資本経済。でも、そこに至るまでにはとても長い時間がかかるだろう。もし、この国が、教育機関の存在意義を「国家の指導者層を養成すること」と考えるなら、エリート化、教育格差は避けられないことだと思う。指導者層と、支持者層。優秀で従順な国民を育てたいと願うなら、それは義務教育で最低ラインを確保する(だから、愛国の名の下の教育統制が怖いんですけど)。私はその流れを「怖い」を思う。トップダウンによる社会の安定=統制の流れなのだとしたら、私はそれを望まない。どんなに紆余曲折があろうとも、どんなに遠い道であろうとも、出会い、別れ、反発し、融合するその過程で一人一人が成熟できる可能性に賭けたい。教育格差は「あってはならないもの」ではない。が、学問に対する機会の格差は「なければいい」と思う。より多くの人が、自分以外のことに目を向ける機会があれば、やがて一人一人が成熟してゆくときが出来るのではないかと思うから。実は、なんのために勉強するの?といわれたとき、「社会の役に立つため」と言ってしまうことが怖い。学問は、自分自身のためにするもの。教育は誰かのためにうけるもの。学問の成果が誰かの役に立つことは副産物であって、純粋に「楽門」であることは許されないのだろうか?だから、学問と教育を一緒に論じてはいけないのではないだろうか?とも思う。副産物が少なくなって、「誰かのため」に教育を受ける人も少なくなって、経済が左下がりで、自分勝手で、不安と混乱がはびこる国。それでも、思考停止状態よりはいいかもしれない。滅びゆくもまた善き国として。【コミュニティスクール】ここまできて、社会にとって目的のある教育機関としてのコミュニティスクールについて注目したくなってきた。だが、ちょっと勉強不足。明日は自分たちに関わることでもあるのでしっかり目を向けてゆこう。
2005.09.14
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今日は、地元の○○まつりの会合。近隣4小学校のPが、子ども相手のイベントを担当するので、その打合せ。各校会長、副会長など担当者が集まり、そこは知った顔同士、毎年恒例の行事でもあるので、話し合いは気軽に進みます。1000人近く集まる子どもたちに対するイベントをたった1回の打合せでこなしちゃおうというんですが、まあ、種目は前年に倣えですから。このお祭り、純然と地域振興を目的としているけれど、それが商店街の振興ではなく、自治会などとも離れているところがおもしろい。10年前この地区に整備された公園に「里親」として関わる人たちが、この公園を地元の人たちにもっと愛してほしい、と始めた催し。公園整備に携わった行政も絡んでの大がかりなものとなっています(まつりのお金は行政持ち)。まつりのお金は行政もちだけど、運営に携わる人たちは、純粋に「お祭りを盛り上げる」ことが楽しい面々なのでしょう、出身自治会などもバラバラの所帯でありながら、結構和気藹々と進んでいるように見えます。私たちにとっても、近隣小学校Pが共同作業をするいい機会になっています。ホント、感謝です。
2005.09.12
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久々に、昭和記念公園まで行ってきました。子どもたちは3時間も飽きることなく虹のハンモックにとりついていました。確か、前回(何年前だ?)来たときには、怖がって網に乗せたとたん凍り付いていたはず。いつのまにか、ここなら出来る、これなら出来るっていう、恐怖と克服を繰り返しながら、天辺まで登って、飛び降りて。で、ムスコは靴下2足、見事に穴を開けました。橡の実が明るい音を立てて降ってきます。直撃受けたら痛いだろうなぁ。
2005.09.11
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午後からパソコンクラブ。今日はセキュリティの話しを中心とした座学。うーん、3年4年の子どもたちに1時間の座学はきつい。まず集中力が持ちません。私はパソコンは単なる道具だと思っているが、子どもたちには道具を使って何かを作る楽しさが伝わる程度で十分かな?って気がしてきた。何かをしたい → パソコンを使うが筋道じゃないかな。でも、その「何か」がわからないからパソコンの可能性だけを伝える。専門家でない私たちが子どもたちに対して伝えられるのはそのぐらいだと。
2005.09.10
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台風名残で荒れる中、役員会。内容は、追って書きましょ。んでもって、2年ボウズの保護者会。「子どもは早く寝ましょう」に耳が痛いぃぃぃぃぃぃ。ちょっと、作ってみました。こんなことする暇があるなら、次回委員会の議案書書けよって?(試験前になると、本が読みたくなる、お絵かきがしたくなる・・・)
2005.09.07
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昨年、大騒ぎした挙げ句に開放にこぎ着けた公園について、「考える会」。昨年、それまで開放されていた市の中央にある広場(たき火も出来た)が、農業政策の一環とかで、半分ぐらい使用できなくなることになった。猛反対の嵐に、大賛成の嵐で、議会騒ぎにまでなった。私は、「この広場は「自由に遊ぶ(広場には遊具もない)」を体験できる貴重な場所だった。そんな貴重な場所を市の都合で取り上げるのならば、代替地として同じように自由に遊ぶことの保証される場所を保証してほしいと訴えた。」そのほかにも、もっといろんな意見が交わされて、本当に多くの人がこの問題に関心を持ってくださった。結局、時限つきながら、遊具を置かない、火を使うことが出来る、管理のための制限が少ない、地域住民や利用者が話し合って管理の方法を決めてゆくことが出来る、そんな公園が出来た。もちろんこの結果を歓迎する人もあれば、両極端で不本意な人もいた(つまり、以前の公園を守れなかったと思う人と、代替公園なんてものも不要と思う人と)が、その是非をここで問おうとは思っていない。いずれにしろ、使い方を検討する会が組織され、行政、地元自治会代表、近隣住民、利用団体が集まり、利用の条件などを検討した。利用団体が「もっと自由に」という思いを抱えながら臨むのは当然だが、地元の方達が「子どもたちが楽しめるもので、近隣に多大な迷惑のかかることでなければ、多少うるさくても、多少危なっかしくても、ゆっくりそれを見守っていけばいい。自分たちの地区の子どもたちが遊べる場所でもあるのだから」として、出来るだけ管理条項を少なくして、様子を見てゆこうと言ってくださったのは本当にありがたい。で、公園開設から1年が経ち、利用状況の報告などを行政から受けることになって今日の会合である。利用の程度は、「並」。市の端、交通の便のあまり良くないところ(地元の皆様ごめんなさい)にあるので、遠来の利用者は限られている。その分、地元の子どもたちの日常の中に根付いてゆきそうな気配。私が夢見ているのは、○○○プレーパークのように電車ででかけていって「自由さ」を楽しむ公園でなく、子どもたちが自分の足で行ける「豊かな遊びの場」があちこちに出来ること。だから、この傾向(遠来の利用者が少ない)を歓迎している。犬の問題、ゴミの問題、散らかしの問題、もちろん問題はあるけれど、だからといって規制を増やすことはせず、ゆっくり解決してゆこうということで、皆が合意した。あとは、この公園が、そこを利用する人たちの手で育てられ、育っていってくれるといいなと思っている。子どもも大人もそこで成長する、そして「それ自身」が成長する場所、いいなぁ。
2005.09.06
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迷惑メール事件で、せっかくの防災訓練レポがお釈迦になってしまい、傷心の、やけくその夜を過ごしたのが昨日のこと。でも、エイクマンさんの「レポ待ってます」の声に励まされて、エディターに向かうことにした。さて、防災訓練レポのはじめは、うちの地区の状況のご説明から。うちの地区は、古くからの住民、と比較的新しくこの地に来て地区の活動に積極的に関わる人と、新しくこの地に来ているが地区活動にはほとんど関わりを持たない人達がいる。総合防災訓練は、市全体で一斉に実施されるが、地区毎に各地区の「災対連」が運営の中心となっている。災対連には、自治会・町内会など地域団体からもアテ職が出ているが、それ以外の構成については、私は把握していない。訓練は、いくつかの町内会・自治会が集まって、近くの広場で行われた。呼びかけは広報車、回覧板、市の広報などを通じて行われる。毎年、地元の小中学生にも案内が配付されるが、今年は【今年は特に、小学生(高学年)、中学生を対象とした内容で実施します】のご案内だった。が、しかし、防災訓練現場には中学生の姿はほとんど見えない。小学生の数だって、数えるほどだ。その小学生もほとんどが低学年だったりする。その低学年にくっついている保護者がいて、あとはもう少し上の世代の方々が参加者のほとんどを占めている。★ これで、子ども向け内容で・・・という案内が全く功を奏していない事がわかる。同時に、保護者の危機管理意識がいかに低いかも明らかである。★さて、今まで私は、防災訓練というのは「参加者」のために行われるものだという意識しかなかった。しかし、今回の訓練を見ているうちに、これは「管理者(行政など防災時に中心的な役割を果たすべき人たち)」のために行われているのだと言うことがわかってきた。私たちのように無知かつ自己中心的な参加者が被災時には被災民となることを考えると、こういう集団を前にしたときどんな問題が起きるのか、どんな解決方法が考えられるのかを、机上ではなく検証することは、所詮訓練ではあるが、多少なりと管理者に経験値を積ませるいい機会なのだと、ようやく思い至ったのである。訓練は、参加者の救急や消火技術の向上よりも、管理者の対策技術の向上にこそ大きな価値があるのだ。そういう観点から、今回の訓練の「ここ、へんじゃない?」を思い出すままにあげて、所詮机上の甘い考えではあるがコメントしてみる(思い出せるかな?)。1.交通整理集合時間に各自治会の幟の下に集まり、自治会単位で各コーナー(消火、救急、トリアージなど)を巡って体験してゆく段取りらしい。しかし、訓練に遅れてきた参加者の中には自分の自治会がわからない、とか、現在何が進行しているのかわからない(どこへ行けばいいのかわからない)というケースが続出。たとえば会場入り口付近に、案内係をおいて、途中参加の人にゆくべきところを指示する等の対応が出来ないだろうか?いざ有事の場合にでも、「どこへ行け、何をしろ」を指示してくれる窓口があったら、人の流れが滞ることが少ないのではないだろうか?窓口で、○○町の、××です。って連絡をしておけば、生存確認にも役立つかも。2.船頭は誰?災対連といいながら、かれらとて専門家ではない。地区には地区の「顔役(悪い意味じゃないですよん)」がいて、指揮に当たる災対連の方々よりも顔が売れていたりすることも少なくない。さて、いざバケツリレーを始めようとしたら、列の先頭の方で指揮をしている係と、列の最後尾あたりにいる「顔役」とでは、やろうとしていること(たとえばバケツリレーの方法)が食い違っていることがある。さて、そうなると、どうするんだぁ?に挟まれた一般参加者は右を見て、左を見て、両手にバケツをぶら下げたまま途方に暮れるのである(スミマセン、多少オーバーに書いています)。私はPに関わるようになってやっと地域の「顔」がわかるようになってきた。ということは、多くのふつーの人は、地域の顔を知らないということが考えられる。同時に、災害時に指揮を執るべき役割の人が、いつでも作業服を着てヘルメットをかぶっていられるということでもない。組織だった訓練を受けることのない、また、地域の顔を見知ることも少ない一般参加者(=烏合の衆)は、いったい誰の指揮に従ったらいいのだろう?その場で自然発生的に命令系統が立ち上がることもあるだろう。それはそれでいい。だが、組織的に命令系統を活用したいと思うのなら、その指揮的役職にある人は「どんなときでも腕章を着けている」のような目印を明らかにしておいて、そのことだけを住民に周知し、腕章を着けた人の指示に従うべしという訓練?だけをしておけばいいのではないだろうか?全員が声を出して、知恵を出し合うことが必要なときもあるだろうし、ときには、号令一価が必要なこともあるだろう。号令一価が必要とされるときに、うまく号令が行き渡る工夫はしどころだと思う。3.お話を聞いてもらう工夫訓練は終了しました。講師の講評や、関係官庁の挨拶を受けましょう・・・。おいおい、聴衆の「お話を聞く態度」は、小学生のそれ以前です(授業参観中の保護者の態度の悪い例の方を思い浮かべていただくと・・・)。しかし・・・ちょっと待って。列後方に並んでいる私からは、話をしている人の姿が全く見えない。それは、当然。何しろ、彼らは私たちとおなじ平面に立っているのだから。大勢の人に一斉に話しかけたいときには、是非高いところから声を掛けてほしい。聞き手の前に話し手の姿を現してほしい。朝礼台がない・・・なんて言わずに、是非後ろの水道の上でもいい、机の上でもいい、高いところに上がってください。そうすれば、聞き取りにくいスピーカーの音にも耳を傾けることが出来る。相手の表情を読むことが出来る。そうすれば、聞き手の意識を集めることにだって多少の効果はあるだろう。4.子どもと大人訓練の内容は決してPR文のように小中学生対象に工夫されているものではなかったと思われる(例年とおなじ程度だった)。けれど、子どもたちは参加した。一生懸命担架をつくり、一生懸命バケツリレーをした。しかし、である。実際の現場で子どもたちの力をこのように借りることがあるのだろうか?「保育班」みたいなものが出来て、力を借りることの出来ない子どもたちの面倒をまとめてみます、とする方がよっぽどいいのではないかと思う。そして、高学年になれば、高学年なりの手助けを出来るようになる、中学生になれば、さらに別の手助けが出来るようになる。子どもたちに、大人とおなじ働きをしてほしいと要求する必要はない。年齢に応じた、彼らにふさわしい活動があるはず。それを検証することが、今回の訓練で狙うべき事ではなかったか?★ また、雨が強くなってきた。防災訓練に対する意見?は凡そ以上のようなものだった。しかし、こう考えると防災訓練じゃなく、Pの活動についても同じことがいえるな。 ★さて、ここで思い至ったのが、学校、またはPの果たす役割。冒頭で述べたように、災害弱者を抱える保護者(=一番、防災意識を持ってほしい住民の一つ)の参加意識は驚くほどに低い。もし、彼らに対して防災訓練を経験してほしいと思ったら、(地域には、そうした強制力はないので)これは、学校を拠点にするしかないんじゃないだろうか?学校が、児童相手の訓練で手一杯というのなら、Pはその役を果たすことができるのではないだろうか?子どもたちに出来ること、大人達に出来ること、その連携。そうしたことを大人も子どもも一緒に考え、工夫してゆく、そんな企画が出来ないだろうか?と心底思わされた一日だった。さて、コピペ出来るかな?
2005.09.05
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防災訓練の話しを書いていた。考え、考えながらの長文も完成間近だった。送信前に、ついウィンドウを閉じてしまった。そして、なんにも残っていなかった。
2005.09.04
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ずいぶん前のことになるが、とある川でこんな事があった。この川は、両岸ともすっかり護岸されており、河原に当たる部分がない。川というよりは、幅8m程度の排水路みたいなものである。川の両側は遊歩道になっている。遊歩道の向こうは1車線の道路で、さらに向こうに人家が並んでいる。その川へ向かって、子どもたちが泥玉を投げ込み始めた。高学年であれば、ひょっとしたら向こう岸へ届くかも、という川幅である。私は、投げ込んでいるのが泥玉であるため、「対岸を人が歩いているときは、絶対に、どこに向かっても(川の中に向かっても)泥を投げないこと。歩いている人が不安な思いをするから。」とだけ注意した。このとき、私の中には、川に泥投げをすることの是非を子どもたちに説明することが出来なかったのである。通常の大きな川であれば、石を投げ込もうと、泥を投げ込もうと支障はない(だろう)。じゃあ、問題は川の大きさなのだろうか?向こう側に泥が着弾することは、通行上も危険?だし好ましくないだろうけれど、じゃあ、川の中めがけていれば問題ないのだろうか?次の時には子どもたちは泥じゃなくて、石を投げるかもしれない、通行人を気にせず、川の向こう岸に着弾することを楽しいと思うかもしれない。そうなれば、明らかに「危険行為」だ。泥玉なので、川の中に放り込んでも環境的に問題はない?でも、もっと多くの子どもたちが同じように泥投げをしたら、川はどうなっちゃうんだろう?ってことは、河川の浚渫の問題なわけ?人が通るところで石ころを投げちゃいけない。危ないからね。うん、わかる。人が通らないところなら、そして、泥なら、危なくないから大丈夫?鯉がかわいそう・・・それをいうかなぁ?それって、本当の理由?どろんこに触れる、ボールじゃないモノを投げる、水におちて跳ね上がる土色に水しぶき、崩れてゆく土塊の姿、そんな経験、大事なんじゃないだろうか?そんなことを考えていて、結局、子どもたちに「ダメ」と簡単に台詞を吐くことが出来なくなってしまった。これって、ダメなの?どうしてダメなの?その答えを自分では用意できなくて、この悩みを子どもたちと共有できたらいいのに、と心から思っていた。私は、今でもこのときの彼らの行為に対して、明確な態度がとれない。大人が「ダメだよ」というのは簡単だ。でも、子どもに「ダメ」を共有してもらうこと、これはとても難しい。安全という名の管理、管理という名の禁止。それは、子どもたちの中から出てきたものでも、子どもたちと共に作られたものでもない。子どもたちにとっては他者的な(与えられた、時には押しつけられた)ものなんじゃないか?子どもが社会規範を己のものとしてゆくには、社会の方に、子どもたちの中から出てくる、どうして?なんで?を受け止めて一緒に考えてゆく時間のゆとりが必要なんじゃないだろうか?
2005.09.02
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9月の子どもクラブ活動の企画。当初は、自転車で40~50分ぐらいのところにある親水公園に現地集合にしちゃえばいいかな?と考えていたが、保護者もなく集まる子どもたちの現地集合がどこまでアテになるか、人手が足りないのに、点呼取って、交通安全管理して・・・なんて手間暇を考えていたら、現地集合よりも、よっぽどバスを仕立てて言っちゃう方がラクだという結論に落ち着いた。やれやれ。私たちは、「ケガと弁当は自分持ち」であることを、しつこいぐらい頻繁に保護者に伝えている。行政から委託を受けている事業ではあるが、参加者個々人は「自分の責任において活動に参加することを選択している」のだから、自分で取るべき責任を行政や他者に押しつけないこと、を参加の前提にしているのだ。だから、活動の中で、「痛そうだからやりたくない」「怖いからやらない」という子どもがいたら、それでもいい。学校と決定的に違うのはココにあるかもしれない。学校だと、全員参加することが重要だろうけれど、「参加しない」のも参加の形なのである。私たちは、他者に迷惑がかからない限りにおいて「いちぬけた」をよしとする。だって、遊びなんだからね。もちろん、「いちぬけた」っていう子どもが「あ、でもおもしろそうだなぁ」って戻ってきてくれるような活動であるように苦心惨憺しているのではあるが。-----------------------------------------------------学校長が、先日の水爆弾の折(最初はポイント制で、ちゃんとルールがあったが、いつのまにか「無礼講!」「勝敗関係なし!」とした)、「こんなこと、学校じゃ出来ないモンなぁ」と仰っていた。それを私は、学校長からの「お褒めの言葉」だと思っている。
2005.09.02
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新学期が始まった。Pの事について、余裕のあるうちに整理しておこうと思っていたのに、宿題時間切れである(ふぅ)。今日は、早々にPTA室のほこりを払い、学校長、副校長以下教職員に挨拶し(って、昨日も一昨日も、その前の日も会ってるじゃん?)、家庭教育学級実行委員会に顔を出した。引き取り訓練で保護者が集まっているので、これを幸いと、用のある人を片っ端から捕まえて、連絡だの調整だのに走り回る(自分の子どもの引き取りは後回し)。で、防災訓練である。9/1は、恒例で引き取り訓練となっている。地震発生を想定し、こどもたちを保護者が引き取りに来る。ちゃんと担任がお互いの顔をチェックして引き渡し。私は、こんな時は、子どもの手前、家にたどり着くまで(少なくとも校門をでるまで)が訓練だよ、というポーズを取りたいので、お遊び気分抜きで校門をでることにしている。子どもたちが校庭でタラタラしようモノなら「訓練中!」と一喝して問答無用で下校する(その結果、実は人と会う約束を一件忘れてしまった。ごめんなさいの大呆けなんですが)。ここのところ地震が多いせいか、9/1だからか、震災関連の書籍や報道、特集がとても目につく。東京に住んでいて、いつかはと覚悟しながら、一方で、自分たちだけはとおもっている。きっと、多くの人たちがそう思っているだろう。避難訓練も、あまり真剣に受け取られてはいないかも?昨年のことになるが、学校で消火器がひっくり返って消火剤が噴出され、その結果防火シャッターがおりるという事態が発生した。休み時間ではあったが、幸いにけが人などはなく、子どもたちがパニックになるといったこともなかった(私も、おなじ時間に学校にいたので、非常ベルが鳴り響いて、「状況確認中」なんて放送がはいって・・・どうなるんだ?と思いましたが、先生方の対応は落ち着いてました。ひと安心。でも、非常ベルを聞いて、即避難と思わなかった自分は危ない。まあ、すぐに職員室には向かいましたが)。で、その後学校長らと話しをしていて、火災などの時は当然シャッターが下りるのだけれど、実際にそれを目のあたりにして、避難・誘導について考え直すいい機会になったね、と。たとえば、階段室に子どもが取り残されたとき、どうやって子どもの不安を取り除くか、とか、避難中に目の前でシャッターが閉じたらどうやって別の避難路を確保するとか、そういうイメージが少し具体化したのだとおもう。「模擬体験」にも意味があるのだな、と思った次第。そして、模擬体験の中身の検証は重要だなとも。9/4には、地域で防災訓練が行われる。今回は、「小(高学年)中学生をターゲットとした防災訓練」なのだそうである。ちょっと期待している。 * * * * * できれば、学校を使った宿泊体験をしてみたいと思っている。こんな言い方では本当に震災を体験された方には非礼で、申し訳がないのだが、学校の体育館などに、雑魚寝して、自分たちで水くみして、あれこれ工夫して、あるいは困って・・・そんな体験を一度でもしておくと、子どもたちが、「なにもない」ところから「何かを始める」ことができると思ってくれるかもしれない。そんな期待をしている。こどもたちには、楽しい体験と受け止められてしまうかもしれない、でも、経験したこととしていないことの間には大きな違いがあると思う。・・・現実と疑似体験の間には、もっと大きな違いがあるのだと思うけれど。問題は、こんなことに賛同してくれる人がいるかどうか、なんだよね。
2005.09.01
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