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最初のモンゴルの侵入の波の時は、西欧の中央へのフン族の侵入によって移動がひきおこされ、ゴート、ブルグンド、ヴアンダル、フランク、アングロ・サクソンその他のゲルマン民族が、三七八年からだいたい四五〇年ごろまでに、ローマ帝国領内に入りました。クローヴイス(五二年没)の後裔(こうえい)たちによる、ガリアにおけるフランク王国の統一、ユステイニアヌス帝(五六五年没)による、北アフリカ、イタリア、スペインの一部に対するローマ帝国統治の再建の試み、このふたつが、蛮族進出の第一の大波がひいたあとで現れた、つかの間の、文明化された(あるいはフランク人の場合は半ば文明化された)統治による安定期を成しています。
2023年06月23日
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モンゴルの襲来が仏教世界とキリスト教世界におよぼした影響を比べてみると、違いがあります。地中海とバルト海の沿岸諸民族は、長いあいだたがいに侵略しあってきたので、侵入してきた遊牧民族のおそるべき殺戮(さつりく)に対抗するだけの備えができていました。東洋のわれわれにとっては大きな災厄となったモンゴルとの戦いですが、西欧は、一時は逆境に立たされたが、利益をえたともいえます。西欧の今日の強大をもたらした、その団結の力がはじめて発揮されたのは、このときでした。モンゴルの襲来は、トルコの遊牧民の群れを蹴散らし、サラセン、オスマン両帝国を誕生させましたが、フランク諸族には、共通の敵をまえにして統一する槻会をあたえたのです。エルサレムの壁、ダニューブの川岸をまえにして、キリスト教騎士団の精鋭が馬をならべて立ち、以来、ローマ法王だけの力では.とうてい植えつけることのできなかった、キリスト教世界という観念が、抜きがたいものとして根をおろすにいたったのです。コンスタンチノープルの陥落は、イタリア・ルネサンスの主因の一つです。
2023年06月22日
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この時期には、西欧は一貫して守勢に立たされていました。守勢とは言っても、軍事的な面であり知的、感情的には多少、優位にありました。西欧の思想は、欲望を動物的本能としてとらえ、それを制御するのが理性であるとしています。つまり知、情、意の知と意を強調するのが西欧文明です。その文明の萌芽はこのころに発生したのです。それ故ヒンズー文明と比較すると、特に目立つのは、他のあらゆる人間関係に対する政治の優越性です。これは最初、古典ギリシャが強く主張したのですが、今、西欧の「暗黒時代」にいたって、好戦的な蛮族や、悪戦苦闘するキリスト教徒によって再び確認されたのです。この期間の西欧政治史の錯綜した諸事件は、三度にわたる蛮族(モンゴル)の侵入の波で分けるのが便利です。その間に二度の短い安定期が入りますが。
2023年06月21日
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紅海を挟んで、東アフリカのエチオピアとヌビア、西アフリカのガーナにそれぞれ地方国家が興り、文明の華やかな装いを誇りました。エチオピアとヌビアは、ローマとコンスタンティノープルから異端の宣告を受けたモノフィジート派のキリスト教を受け入れました。ガーナは土着の信仰のままでした。六〇〇年以後、文明世界の北と南の全域に、文明化した生活が広大な範囲に浸透し、各地に、まったく異なつた別々の文明の諸要素から成る混合物や結合物を数多く生みました。文明の成果に本来そなわった魅力が、伸張のおもな動因ですが、たんなる通商のみならず略奪や貢ぎ物の形でも、文明世界からの物品が大量に流れ込んだために、各地の族長や王や首領その他の君主は、彼らが支配する民衆を文明の誘惑にさらすことになります。そして、紀元六〇〇年以降には、旧世界の各地の文明社会は多量の文物を輸出することができるようになります。なぜならば、西欧の歴史学では「暗黒の中世」と呼ばれてきたこの時代に、各地の文明社会内で、経済的、技術的な力が著しい発展を遂げたからです。
2023年06月20日
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インドの、この時代の社会・経済生活に関する資料は乏しく、どのような政治的単位に分割されていたのかさえよくわかっていません。全般的に言って高い水準の活動がつづけられていたことはまちがいはありません。そしてベンガル地方だとか、カシミールのヒマラヤ山脈の渓谷部の辺境などには、インド的社会が広がっていきました。これらの地方では、ジャングルと沼沢地、丘陵と森林が、耕作された田園に変わっていったのです。したがって、インダス流域の国境地方をイスラムに取られはしたものの、全体としてのインド社会は膨脹をつづけました。このような成功も、イスラムの脅威に対するインドの反応の極めて否定的な側面を持つものだったという事実は消せません。感受性が固く殻を閉ざしてしまい、明確に疑問の余地なくインド的なものだけに集中して、国外からの刺戟を拒否したのです。その結果、前のグプタ時代に発展した活発にして稔(みの)り豊かな活動の成果を、放棄したり軽視したりすることになったのです。
2023年06月19日
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ヒンズー文明の知的な側面、特に数学などは、グブタ時代にあれほど輝かしい未来を約束されて出発したのに、寺院中心の文化の中では何の役にもたたないために、まったく忘れ去られてしまいました。カーリダーサの詩のような宮廷詩に代わるものは、作者不詳の聖歌で、その中には神と信者の間の恋を、活き活きしたひじょうに官能的な言葉で讃えるものもありました。聖歌合唱や舞踏は、無数の踊り手や歌い手や見物の群衆の中に極度の昂奮を生じさせたのです。何百万人もの人々が、日々の出来事の背後にひそむ聖なる存在との霊的交わりを、感覚的に体験し得るのは、このような儀式を通じてなのだと気付いたのです。ヒンズー教はこうして一般民衆の感情の世界のうちに深く根をおろし、それがイスラムの――そして後にはキリスト教の――伝道師の説教に対する防壁となったのです。
2023年06月16日
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タントラの信奉者は、タントラ教は聖性への近道であり、聖(ひじり)や苦行者だけが獲得できると一般民衆の考えている超自然的な力を、呪文を唱えて達成できるので、普通の人でも苦行の苦痛や困難なしに、苦行僧の目的とするところへ到達できると教えられます。これはうまい話で大いに俗受けし、従来の苦行の形式は蝕まれてしまいました。タントラ教は、小人数のグループが呪術を行うこともありましたが、主として個人でする形式の勤行でした。公の面では、寺院によって華麗な祭りを伴いながら、ヒンズー教のあれこれの神を祭る礼拝式が、依然として、むしろいっそう念入りにつづけられていたと言えるかもしれません。グブタ朝時代には、宮廷が作家や芸術家の保護者であり受容者でしたが、グプタ帝国による平和が崩れた後には、これと比較できるような宮廷はどこにも生まれませんでした。そこで各地の寺院が最高の位置に立ったのですがこの移行によって、ヒンズー文明の世俗的、知的な側面は大きな打撃を受けました。
2023年06月15日
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シャンカラ(七八八-八五〇年ごろ)の作った哲学体系は以後のヒンズー教にとって規範となりました。シャンカラは、伝統的な祭儀の最も粗野なものでも人々を促して、あらゆる感覚的経験の背後に存する絶対者の認識へと到達させると主張しました。良きヒンズー教徒として彼は、イスラム教徒の礼拝は、マホメットほどに真理を深く見通すことができない人たちのためにだけ価値があるとさえ論じました。これによって学者は、ヒンズー教の祭儀を偶像崇拝と見るイスラム教徒の非難に反駁できました。すなわち、これらの祭儀の正しい意味は、単純素朴な人々が、純粋で超越的な神学的一元論に向かって進む手助けとなるものだ、というのです。神学的論争の分野では、このように巧妙な方法でイスラム教徒に反撃しましたが現実の日常生活のレベルでは、インド人の感情は外国人への反感で硬化しました。唐末や末代の支那人のように、外国種らしいものはすべて排除し、自国生まれと思われるものはなんでも保護し承認するようになります。その過程で、これまでインド人の生活の中で秘められていたもの、私的なものの多くがはじめて文字によって記録されました。特に、タントラ教と総称されるきわめて多種多様な勤行が、日の当たる場所に出され、大幅に再編されました。
2023年06月14日
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イスラムは中央アジアで、支那との小競り合いは何度かあり、タラス河の戦(七五一年)によってはるか辺境のわずかばかりのオアシス地域がイスラムの戦士たちに奪われました。この敗戦の数年後、今度は唐の中心部で大混乱がおこり唐朝が失墜し、マーニー教を奉ずるウイグルが、イスラム教徒と支那世界の中間の地域を占めて、うまい具合に緩衝の役をはたしました。インドにはこのような緩衝地帯はありませんでした。イスラム教徒は七一五年までに、インド北西部のシンド地方を征服し、その直後インド洋の航路の支配権も握ったのです。そこで、少なくとも原理上はヒンズー教を忌むべき邪教と見なしていたマホメットの信徒たちは、インドを、東南アジアの以前の文化的従属国から切り離しました。インドは特有のカースト制度のため、政治的、軍事的な力はひどく弱いものであることは避けられないからヒンズー教徒はイスラム教徒を武力で追い返すことはできませんでした。そこで彼らの反応は平和的であり、イスラム教徒が目の敵にしたヒンズー教の伝統をなんとか守っていこうとするだけでした。一方、わずかばかりのインド人哲学者は、ウパニシャドの知的遺産を体系化する仕事に着手しました。
2023年06月13日
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白藤江(はくとうこう)の戦いは、陳朝ベトナム軍と元軍との戦いです。第1次元越戦争(1258年)および第2次元越戦争(1258年)の二度の遠征に失敗したクビライは、1287年に第3次元越戦争を行いました。クビライの息子の一人鎮南王トガン(脱驩)を総司令官として9万の兵力に加えて何百にもなる戦船と、張文虎将軍率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えました。1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍したトガンは昇龍を占領したが、住民は焦土作戦を実行して、抵抗しました。元軍は、守勢となり危機的な形勢に立たされました。トガンは、兵を萬劫に引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することにしました。仁宗と陳国峻は元軍を全滅させ機会と決断しました。陳国峻は白藤江の潮位の上下を調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配しました。1288年4月初め、元軍ウマルの船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上しました。戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退します。追撃する元軍が伏兵のいる地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。元軍の船団は慌てて退却しましたが、ちょうど潮が引きはじめた時刻で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没しました。さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させました。生き残った兵士は川岸へと逃げたが、伏兵による奇襲攻撃を受け元軍の水兵は全滅し、ウマルは生け捕りにされました。トガンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰りました。
2023年06月12日
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長かった支那の支配を打ち破って独立をかちとったゴー=ダニンによってゴー王朝(939~967)が建てられました。しかし中央集権体制は容易に確立できず、リー朝(1010~1225)にやっと永続的政権が生まれ、中央集権化が進みタンロン(現在のハノイ)が首都に定められました。リー朝は宮殿や寺院をつくり、紅河(こうが)のデルタに位置して、交通の便がよく景色も美しい都です。洪水を防ぐため堅固な堤防を築き、これは今日フックサ堤防の名で残っています。しかし北からは支那の宋朝による侵略が再開され、そのつどベトナムの将軍リー=トウォン=キエツトらが撃退しました。宋朝はやむなくベトナムの独立を認めざるをえませんでした。宋軍を破ったリー朝の軍は、南のチャンパも討ってこれを併合しました。しかし、13世紀はじめ、宮廷内の政権争いで政治が乱れ、農民蜂起があいついだためリー朝は衰えました。そのあとに成立したのがチャン朝(1225~1413)で、仏教と儒教がさかんで、科挙制による官僚制度の確立をはじめ、ルー=バン=フウの『大越史記』(ベトナム最初のまとまった史書)の編述や、漢字をもとに考案されたベトナム独特のチュノムという文字も生まれ、民族文化の発展がみられました。かくして民族的なまとまりが強化されつつあったとき、モンゴル帝国の侵略軍とぶつかりました。
2023年06月09日
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東南アジアにおいても同じ時期に、やはり一連の民族や国々が、文明的と言い得るだけの生活水準に達しました。安南(現在のヴェトナム北部)は以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、雲南がこれにつづきました。チベットは、支那とインドの中間に位するという地理的な立場を利用して、双方からさまざまな要素を取り入れました。すなわち宗教はインドから取り、その他もろもろの文化は支那から取り入れたのですが、地方的特性は貫きつづけました。例えば、土着の「策教(ほんきょう)」の祭儀と仏教の要素を混ぜあわせて、ラマ教を作り上げたのです。ヒマラヤの南側では、ベンガルとカシミールが、インド文化の重要な周辺地域です。この二地方にはいずれも、強力な地方国家が出現し、インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、ガンジス、インダス両河の流域地方を統一して新しい大帝国を建設することはできませんでした。
2023年06月08日
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西アジアをみると、やはり十一世紀ごろが大きな転換期になっています。九世紀後半よりイスラム勢力が、一極中心時代から、多極化時代へはいり、さらに発展したことです。しかし、トルコ族が、イスラム教の感化をうけて、しだいに力をつけ、怒とうのいきおいで西と南へ膨張しはじめるというもう一つ注目すべきことがあります。十世紀末以降、トルコ人のつくった王朝が、西アジアやインドにあいついで出現しています。トルコ人が、西へ南へ膨張していったことにより、トルコは逆にイスラム化されてイスラム勢力のいっそうの発展をうながしたのです。一〇世紀末以後、西アジア、アフガニスタン、インドなどに、トルコ人のうちたてたイスラムの王朝が、ぞくぞくあらわれてきているのです。そのなかでもとくに重要なのは、オスマン・トルコとムガル帝国です。オスマン・トルコは長年にわたって、バルカン半島、ならびに地中海沿岸の半分以上を占領して、西欧に大きな圧力をくわえていました。
2023年06月07日
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十一世紀が西欧史の転換期であり、十一~十二世紀が西欧文明の形成期です。ロシア文明も、ほぼこれとおなじころに誕生しています。ロシアは、862年にノルマン人のリューリクが交易都市ノヴゴロドの公(クニャージ)となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間でいくつかの国家が形成され始めました。この地域は、リューリクの属する部族ルスの名前にちなんでルーシと呼ばれるようになりますが、この地域名が、のちに「ロシア」という国名と結びつけなります。また、988年にはウラジーミル1世がビザンティン教会からキリスト教を受け入れ、ビザンティン文化とスラヴ文化の統合を開始しました。当時ロシアの中心となっていたキエフ王国の国王(ウラジミル)が、一〇八八年に、キリスト教とシリル文字をロシアに導入し、ここから東ローマ帝国の伝統をひきつぐ、ロシア文明が生まれてくるのです。シリル文字というのは、バルカン半島に住むスラヴ人が、ギリシャ文字を改良したもので、ロシア人などにぴったりした文字です(ロシア人もスラヴ民族です)。ロシアと西欧の中間にあるポーランドなども、おなじく一〇世紀末が大きな転期になっています。
2023年06月06日
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宋代の支那では、生まれの貧しさは、出世のための越えがたい障害にはなりません。聡明な青年なら、きわめて貧しい家の出でも、ときとして高位の役人となれました。ときには、村全体が団結して、有望な候補を、その勉強期間援助するようなこともしました。もし成功すれば、村は高位の役人の保護をうけることになるから、このくらいの犠牲を払う価値があったのです。これによって、最終的に支那は、重要な社会的流動性をもつことになりました。官職は、地位と富をもたらしたのです。しかし、最も富裕な家の子弟ですら、高い社会的地位と親伝来の財産を推持するためには、官僚制度の高い地位を獲得しなければならなりません。試験による官吏採用は、役人の権威に服さなければならない者たちに、その権威の合理性を認めさせることになったのです。つまり命令を下す者が、自分個人の力でそのような権利を身につけたからです。
2023年06月05日
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支那の安定に役立った仏教以外のもうひとつの因子は、才能ある個人を帝国の官僚として補充するための科挙と呼ばれる試験体系でした。これが、宋代に君子として政府に仕えるための正道だったのです。受験者たちは、筆記試験で儒教の古典に詳しいことを証明しなければなりません。最も成績優秀だった者たちは、官吏雇用の候補者となり、政府の最高の地位に昇進できることが期待できたのです。試験の準備には何年にもわたる勉強が必要であり、当然のことながら、試験に受かったほとんどすべての者たちは、古典によって養われた、共通のものの見方と価値体系を共有することになりました。その結果、支那帝国の官吏たちは、きわめて均質の集団となり、この補充方法が官吏の高水準の能力を保障したのです。
2023年06月01日
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格義仏教は、魏晋時代に漢訳経典に基づいて広まり、儒教の経典解釈学の手法に倣って、仏法を中国古典の概念に当てはめて理解するものです。魏・晋の時代には老子や荘子の「無」が万象の根源であり道の根本であるという、無為自然の道を体得するのが聖人であるとの思想が発展し、前漢・後漢の時代の支那は儒学全盛でした。しかし、後漢の滅亡とともに儒学の権威は衰退しました。儒教の思想家は仏典にも興味を抱き、「般若経」や「維摩経」の空思想を老荘思想に類似したものとして受け入れ、ここに外来仏教の教義が支那に受容される精神的土壌が育成されました。北朝(=異民族)は北魏の文成帝(452年即位)、南朝(=漢民族)は梁の武帝(502年即位)は、ともに仏教を奨励し、インド僧の達磨、真諦は武帝により支那に招かれました。達磨は禅を伝え、慧可(487-593)が引き継いで、支那独自の宗派・禅宗として永く栄えます。真諦(499-469)は唯識派の論書を含め多くの経典を翻訳しました。魏・晋では知識人が道教や儒教の思想を借りて解釈する格義仏教と呼ばれる仏教哲学が開花しました。しかし、後に新たな訳経や解釈法が登場して格義仏教は衰退しました。
2023年05月30日
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仏教は支那の文化に多大の貢献をはたしました。儒者たちは、類推と象徴的解釈によって古い原典の中に新しい意味を読み込む方法を仏教から学んだのです。彼らがこうして儒教の正典とされている古典的著作の中に発見した新しい意味には、形而上学的問題や宇宙論に関するものが多くありました。一方、道家たちも仏教と争いましたが、その争いに勝つため彼らは相手の仏教から、その教義の多くの要素、さらには僧院の機構や教育の組織なども模倣し採り入れました。支那の画家が描写的、物語的な技法を用いるようになったことも、仏教の影響のひとつの表れです。この技法は、元来仏教美術から受け継いだもので、いつしか世俗的あるいは儒教的な主題を描くのにも使われはじめたのです。仏教は、公には敗退したのですが、文化の面で大きな遺産を残したのです。
2023年05月29日
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支那の経済的な発展にとって、七五五年以後における中央の権力の衰退も、あまり深刻な障害になりませんでした。特に南では、何百万という農民の労働によって、水田が川べりから丘のうえの方に徐々に広げられ、やがて見渡す限り、手入れの行きとどいた豊かな水田となりました。そして多量の米が産出され、職人、地主、官吏などでふくれ上った都市の人口を支えました。しかし儒教の教義は商人を社会の寄生者としていたので、商業は外国人――とくにウイグル人とアラブ人――の手に委ねられていました。このため、外国貿易も国内の各地方間の通商も相当の成長を示したにもかかわらず、都会の各階級に属する人々は、土地所有貴族の優越性に挑戦することはなかったのです。仏教は、各地の仏教寺院が信者からの寄進によって大量に手に入れた土地を没収したいという皇帝の欲望と、儒者たちの仏教に対する敵意から、八四五年以後には大がかりな弾圧を受けるようになりました。異国の宗教である仏教は、儒者たちが正しい生の基本として説く義務の遵守や責務の遂行を、無視するように教えたからです。九世紀の弾圧の後、支那の仏教は比較的低い身分の人々の間にのみ生きつづけました。
2023年05月26日
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儒教の精密なそして哲学的に高度に発達した新解釈は「新儒教」とよばれます。新儒教が完成するのは、もうすこしあとの宋代ことですが、この学派のもとは、一〇〇〇年よりも以前に遡ることができます。初期の宋の支配者たちの政策は、純粋に支那的であると感じたものはなんでも庇護し、異国的と思われるものすべてを意識的に排除するものでした。これが新儒教の、官僚社会における勝利を不動のものにしたのです。士大夫による社会の支配もこの文化政策と共に進行しました。伝統的儒教の再構築と道教・仏教の排除という、このふたつの要因は両々あいまって、その大義名分を重んずる道学的な主張は厳格主義的な面をもち支那の歴史に著しく単妄性格を与えました。これは日本文明とも異なりますが、特に西アジアとヨーロッパの嵐のような発展と比較すると、さらにこの感が強まります。
2023年05月25日
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イスラム教徒および蛮族の圧力に対する支那、インド、西欧の反応を比較すると、西欧におきた変化は支那、インドの二者よりもはるかに根源的なものでした。支那は文明の基本的な点ではなんら乱されることなく、一時的な仏教の全盛期の後、豊かに再興され古代の儒教の伝統に戻りました。インドはかなり深い影響を受けましたが土着の宗教の中に引きこもるという反応を示しました。これに対して西欧は、蛮族に反撃する構えを見せ、そのために最も基礎的な緒制度を変更して、種々の技術を改革したのです。その変化や改革は未来における目ざましい発展を内に秘めるものではありましただが、当時は、どんな基準で測っても、西欧文明はイスラム、支那、インドの水準をはるかに下回っており、西欧は事実上未開の闇に沈み、ただギリシャ・ローマの学問、文学、芸術のすり切れた糸だけが細々とつづいているだけでした。こういう分野における新しい活動は紀元一〇〇〇年を過ぎてからようやくはじまるのです。
2023年05月24日
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隋王朝による支那の再統一(五八九年)後まもなく、短期間の内戦を経て、唐王朝(六一八-九〇七年)が支配権を握りました。そして唐の次にはやや長い空位期間の後、宋(九六〇―一二七九年)がつづきましたが、実際には、支那の政治の典型的な王朝の図式に合致しない面が多いのです。六〇〇年から一〇〇〇年までの四世紀を取ってみても、強力な中央政府の力は七五五年までしかつづかず、それ以後は、帝権が衰え、地方軍閥すなわち節度使が力を得て、支那が、中央アジアのウイグルを長とする強力なモンゴル・トルコの連合体に従属するという時代がつづくのです。八四〇年のウイグルの滅亡も、たんに主人が他の蛮族に代わっただけで、彼らは唐朝の最後の数十年間は、北支那を直接に支配しました。宋朝もこれら蛮族の支配者を支那の北東部諸省から追い払うことはできませんでした。
2023年05月23日
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アジアでは何世紀も前に支那人が開発した、綿密な人手を要する耕作法により、多大の労苦を伴いながら耕地がゆっくりと拡がっていきました。農民は、溝を掘り、土手を築き、無数の小川から水を揚げ、それを田畠に引きましたが、技術的な改革はなく、人力が膨大に費やされました。支那人が揚子江流域地方を、南に向かって少しずつ上質の耕地に変えていたころ、支那的生活の中心地の北東外縁部に位した日本も、苦労しながら国土の耕地を支那の水準にまで引き上げ、極東の農耕文明が及ぶ地域を朝鮮を含め大きく拡げました。同時代のウイグルと同様に、朝鮮と日本は、あくまでも固有の言語を保持し、支那で支配的な地位にある宗教とは別の宗教を取り入れるという手段によって対抗し、みずからの独自の文化を保ったのです。だから朝鮮は仏教を国教と定め、支那が八四五年に仏教を禁止したのちも、強く仏教に固執したのです。一方、日本は支那から距離的に離れていたため、支那の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険をあまり感じませんでした。
2023年05月22日
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グレゴリー改革は、精神の刷新をもたらしました。その影響について、堀米庸三は『西欧精神の探求』において「グレゴリー改革は……さまざまな学問興隆のきっかけをあたえました。批判的精神のおこりはここにあったといってよいのです……こういった学問の興隆はやがて西欧の諸大学の興隆をひきおこします。……アラビアをとおしての学芸の導入が、グレゴリー改革終了後、せきを切ったようにおこってくるのです。」と述べています。グレゴリー改革により、キリスト教徒の学者たちが真理にあこがれて、熱心に学問をもとめた(古代ギリシアとイスラムの学問を吸収した)西欧の進歩の原動力となったのです。宗教改革をなしとげた西欧の人びとは、精神的にも経済的にも発展の意気が充満し、おくれていた文明もようやく発展の時代へはいりました。しかし、西欧よりすすんでいるアジア諸国を追いぬいていくには、まだこれから数世紀の時間が必要でした。これからのち数百年のあいだ、世界はいぜんとしてアジアを中心にしてうごいています。
2023年05月19日
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西欧では、十一世紀後半から十二世紀初めにかけて、「グレゴリー改革」とよばれるキリスト教の刷新がおこなわれました。長年、世俗の権力(ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)がローマ法王を決定する習慣があり、これが堕落の源となっていました。ローマ法王庁が世俗の力によって支配されているので、各地の教会も、世俗の権力に左右されることになります。この欠陥をなおそうと、キリスト教徒のおこなった改革が、グレゴリー改革です。堀米庸三は『西欧精神の探求』で、改革について、次のように述べています。「この改革は、ローマ教会を中心とした教会の改革ではありますが、この時代の社会のしくみからして、教会の改革は必然的に、俗世間とその支配者たちにも、影響をおよばすことになります。純然たる宗教的・精神的なものをこえて、政治的なもの、社会的なものなど、ありとあらゆる影響がこの改革からでてくるのです」。当時の西欧で教会は絶大な権力をもち、社会生活もすべてキリスト教を中心にうごいていました。そのため、教会の腐敗は、たちまち社会の堕落につながります。そこでグレゴリー改革派の人びとは、この不正をなおそうと立ちあがり、ついに勝利を勝ちとったのです。
2023年05月18日
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馬のたすきのつぎに発展の基礎になったのは、ペルシアからつたわってきた水車の利用です。馬の利用で小麦の生産量が増大すると、麦を粉にする(パンをつくるために)能率のよい製粉方法として水車が利用されました。水車を利用するようになると、その製作と修理を通じて、器機工作への関心がたかまり技術の発展するきっかけとなりました。西欧の発展の一つの要田は、技術へのふかい関心、そしてそこからくる技術の発達にあったのです。こうして農業生産がすすむと、「農村」がいたるところにあらわれ、この農村が生まれたことによって、都市へ発展していく要因がつくられました。水車工やその他の職人や商人があつまって、小さな都市(人口が数千人以下)をつくりはじめ、一二世紀から西欧では小都市時代をむかえます。ここでようやく都市の時代、すなわち文明の時代へはいるのです。
2023年05月17日
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西欧の土はしめり気が多く重いので、たがやすのが困難で、一〇世紀までは、牧畜が生産の主流で、農業はひどくたちおくれていました。農業よりも牧畜に依存していたため、中世の前半には、西欧に都市はまだ存在していませんでした。しかし、一〇〇〇年ごろに(アジアから教わって)「馬がすきをひくのに、馬の肩にかけるのではなく、馬の胸に十文字にたすきをかけると、ずっと能率がよい」ということをはじめて知り以後、馬が能率よくすきをひいて土をたがやすようになりました。この技術でようやく農耕が牧畜より重要な産業になって、生産性が大幅に向上しました。ゲルマンは早くからキリスト教の感化をうけ、ローマ帝国をほろぼしたのちは、その文化遺産を継承し、ふたたび西ローマ帝国を復興することを夢みていました。今世紀末に、今日のフランスを中心に、ドイツにまたがるひろい領土を支配したフランク王国のチャールズ大帝は、これを西ローマ帝国の復興だと称していました。しかし、フランク王国は、はやくも八四三年に分裂してしまいます。それから約一世紀のちに、オットー一世が、今日のドイツとイタリアにまたがる領土をもつ国家を建設したとき、これを神聖ローマ帝国と名づけました。
2023年05月16日
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世界史の流れをながめると、一〇世紀末がユーラシアの各地域における、大きな転換期となっています。この時期に形成された多くの文明が、その後の世界史に大きな影響をおよぼしているのです。たとえば、西欧文明、ロシア文明、(この時期に)再生したイスラム文明、(世界最初の)支那の市民社会文明(宋時代)、また日本文明などが、この時期に形成された文明です。このなかで、近代にもっとも重要であった西欧文明についてのべましょう。西欧文明といえは、ギリシア・ローマ文明を思いうかべるかもしれません。しかし、支那文明と日本文明が異なるように、ギリシア・ローマ文明と西欧文明は異なります。ギリシアは、西欧といってもアジアに近いのですし、ローマ帝国も、その目はもっばら地中海にむけられ、ヨーロッパ大陸の内部へはほとんど浸透しませんでした。一○世紀になるまで、西欧にはめぼしい文明はそだたなかったのです。
2023年05月15日
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極東と西洋における交易と商業は、社会のほとんどすべての階層に影響を与えました。農民も、都市生活者も、地主も、自分たちの使う道具その他を、小商人、職人、小売人から買うことができたのです。つまり、極東と西洋の市場は、土地に拘束された他のアジアの共同体社会におけるよりも、ずっと深く社会の組織に喰いこんだのです。したがって、手工業は、他の地域と比べて、もっと大衆的な次元の嗜好や、低廉な市場を対象として生産を行いました。中世全体を通じ、支配権がさまざまに重複しあって、主権を争いあいました。ローマの教皇、帝国の継嗣、シャルルマーニュの後継者などは、それぞれ全キリスト教圏に対する普遍的主権を主張しました。唐の太宗李世民、藤原道長など極東と西洋の国々の君主、封建諸侯、あらゆる規模の地方的地主などや、また同時に都市および辺境の氏族や自由村落までが、お互いに権威、権利、義務の免除、支配権などを求めて争ったのです。
2023年05月12日
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インドでも、中東でも、極東や西欧のような入り組んだ自然の水路の網の目は存在しませんでした。日本の刻みの多い海岸線、支那の運河と川は、西欧と同じくらい水上輸送にとって都合のよい条件でした。しかし、支那の社会構造はあまりにも官吏と大地主に牛耳られていたので、海運や通商が自由に発展しませんでした。日本は、平家が海に関心を示し貿易に力を入れていましたが、やがて勇壮な戦国の時代を経過したのち、十七世紀のはじめに支那と同じように、あらゆる海上の事業を禁止しました。この間、西欧は進取の気象に富んだ商人階級が、官僚の敵意に邪魔されずに、地理的好条件にめぐまれながら、海上輸送の技術の可能性にいどみました。不順で潮流のむずかしい海域を安全に航海するためには、造船、航海術の改良が必要でした。ヴァイキングの時代には、櫂(かい)で方向をとるよりもずっと能率的な船尾方向舵が作られ、航海上画期的な改良がなされました。それ以後、西欧は海運が隆盛になるにつれて、のちアダム.スミスが『諸国民の富』において記述することになった経済的分化のありとあらゆる恩恵を受けたのです。
2023年05月11日
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極東(日本や支那)と、西欧の商業の特色は、大衆用の未加工商品が大きな重要性を持っていたことです。大量消費用の物資、毛織物、穀物、餅、鉄などが、地域間の交易で扱われるようになりました。金持ちのための賛沢品や高級品は、商業の流れのごく一部をなすにすぎませんでした。当時、長距離交易は輸送費があまりに高かったので、嵩(かさ)に比例して価格の高い品物に限られていました。しかし日本や支那、西欧では、海岸線が内陸に入りこみ、長いゆるやかな潮流があって、各地方のほとんどの地点まで輸送が可能だったので、人々は、低価格の品物でも、遠くの市場に運ぶことができたのです。海上輸送は、陸上輸送よりはるかに安価でした。陸上輸送は、安全に通行できる道もなく、人間や動物の背に荷を負わせ、列をなして旅行するよりほかはありませんでした。
2023年05月10日
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西欧での森林の開墾、新しい村の建設、古い耕地のまわりの新耕地の拡大などは、十世紀ごろから十四世紀のなかばまで、急速に進行しました。その後、黒死病が荒れ狂い(一三四七-五一年)、市場、小作料、租税などにも変化がおこりましたが、農業の拡大は止まってしまいました。そのころには、西欧の耕地化しやすかった土地のほとんどは、犂(すき)で耕されてしまっており、それ以上農業が進歩するためには、新しい作物や、溝掘りや排水工事やその他の改善が必要でした。都市の生活も似たような曲折を経ました。十一世紀と十四世紀の間に、急速度の上昇が行われましたが、以後成長は鈍化するか、ないしは完全に停止しました。ただしドイツのバルト海岸側や、中・北イタリアのような特殊ないくつかの地域では、ドイツヤフランクの騎士団の創設した、新しいバルト海およびレヴアント地方の「帝国」が精力的に商業を発展させて、十五世紀以後は重要な都市の発達の支えとなっていました。それ以後になると、大きな経済上の改善は、むしろ中央ドイツや低地諸国などに集中しました。それらの地方では、鉱山や鯡(にしん)漁業が、規模を増大しつつあった資本主義的企業に特別な刺戟を与えたのです。
2023年05月09日
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日本の文化史における急激な転換や変化は、西欧の体験におとらず激烈で、またそれが急激にやってくるという点ではその上を行っていたと言えます。しかし、両者間には類似点だけでなく、ちがいもありました。西欧の変化は、自分自身の中に生まれた矛盾や機会に反応して行われたのですが、日本の大きな変化は外部の変化した環境に対応しておこったものでした。大洋が開かれて通商ができるようになると、それまでは文明世界から遠く離れて孤立した極限の地が、あらゆる種類の外国からの海路の影響に対し、戦略上門戸を開くことになります。西欧と日本の歴史が、近年になって安定を示したのも、このような海洋貿易の開始に伴う地理的転換が大いにものを言ったのです。また、このふたつの文明には、深い根を持った矛盾があり、内部的に緊張と対決が結果的に存在したことも、歴史的現象を説明する助けとなります。
2023年05月08日
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外への地理的拡大と相まって、西欧の内部でも生活のあらゆる層で大きな統合が行われ、目ざましい成功をかち得ましたが、それでも西欧流の制度や文化パターンを、永続的な鋳型の中に固まらせるまでにはいたりませんでした。西欧文明その最もきわ立った特色は異常なほど激しく変化することです。休むことを知らない西欧世界は、例えば中世時代にはじめて「古典的」な可能性を持った生活スタイルを努力して創り出したかと思うと、大きな災厄に見舞われて、その特定の社会、文化の秩序が棄て去られてしまうので。しかし、災厄の時期が過ぎてから、「古典的」な可能性をもつた新たな型が出現しますが、結局はこれもまた同じ運命をたどります。このように、自然に変転がくりかえされる文明は、世界でも日本と西欧だけでした。
2023年04月28日
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十字軍とは、11世紀から13世紀にかけて、キリスト教徒がイスラム教徒に対して行った聖地回復のための軍事遠征のことです。十字軍は、教皇や君主の呼びかけに応じて、西欧から南と東に向かいましった。それらの方角は、イスラームとビザンティンの社会が隣接しており、後進的な蛮族より、ヨーロッパの文明化のためには役にたつものを持っていました。従来はビザンティン領だった土地は、ノルマン人が南イタリアとシチリアを占領しことにより(一〇五九-九一年)、ローマ教皇とフランク人(キリスト教圏の人間)の領地となりました。スペインとポルトガルのキリスト教徒の前進も、じりじりと進行してイスラム人を巻きもどし、ジブラルタル海峡のヨーロッパ側におけるモロ人の最後の拠点であるグラナダを、ついに一四九二年、陥れました。十字軍のめざましい侵略は、聖地イエルサレムや、エーゲ海や、北アフリカ、エジプトなどにもおこなわれ、西欧にとって最初の海外帝国が作られましたが、永続性はありませんでした。しかし、それら諸帝国は何世紀もの間浮沈をくりかえし、ついに一七九七年ナポレオン・ボナパルトがヴェネツィア共和国を滅ぼしたのを最後に、完全になくなってしまったのです。
2023年04月27日
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東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、エルベ川を東に越えて帯状の地帯を征服、植民しました。船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、エストニアを占領した人たちもいましたが、ロシアの内部に侵入してこれを平定しようという試みは失敗に帰しました(一二四一-四四年)。ポーランドとハンガリーは、ドイツ騎士の装備を模倣し、ドイツ人(およびユダヤ人)の都市生活者を導入して根本的な手工業、商業をおこすことで、ドイツの圧力に抵抗しました。もちろん、そのおかげで、それらキリスト教圏の前哨地点は、従前よりもはるかにしっかりと、西欧社会に組みこまれました。
2023年04月26日
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一〇〇〇年までに、西欧は、日本の武士階級に似た騎士を持つにいたりました。これら騎士たちの装備や訓練も武士と同様に、世界のかなりの軍事兵力に勝っていました。撥土板(はつどばん)つきの犂を使った荘園の農業が、社会全体を充分経済的に支えることができました。さらに都合がよかったのは、森林を切り開けば耕地が簡単にひろげられたことで、しかも森林はすぐ手近にありました。そして最後に、精力的で企業心に富む都市生活者や、古代から精密な神学理論を継承してきた教会が、経済、文化生活を組織化し、進歩させる体制が出来あがっていました。西欧のこの新たな姿勢を最も劇的に証明したのは、キリスト教圏の境界線が、あらゆる方向に向かって地理的に拡大したことでした。スカンディナヴイアと西ケルトの辺境地帯が西欧の社会構成体の中にうまく収まるまでには、何世紀もかかりました。しかし、ノルウェイとアイスランドの改宗が行われ(一〇〇〇年)、同時にアングロ・ノルマンの騎士たちがウェルズおよびアイルランドに侵入した(一一七一年)結果、帰趨(きすう)は明らかになりました。
2023年04月25日
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世界史上最も劇的でめざましい変化だったイスラームの自己変容と拡大は、一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。それについでおこった変化は、未来に対してはそれよりさらに重要な意味を持っていました。それは、文明世界の両端のふたつの新文明、すなわち西欧と日本の文化の興隆です。日本は支那と、西欧はビザンティウムと、という風に、どちらも、既存の、高度に発達した隣接の複合文明社会との関係が密接でした。また、日本も西欧も、きわだって軍事中心の傾向を示し、またそれが、文明社会の民族の間ではどこにも見られないようなあり方で、社会の全階層にゆきわたっていました。このため、近隣の文明開化の社会に対しても一種の毅然たる態度が生まれ、したがって西欧も日本も、そのような隣人たちから、良いと思ったものをなんでも取り入れて、しかも自分たちの誇りの気持や文化的個性をなくさないでいられました。その結果、彼らは類例のないほど柔軟な進歩成長の能力を持つようになり、一五〇〇年ごろまでに、西欧も日本も、多くの点で世界のどの文明と比べてもひけをとらぬ文化水準や文明のスタイルに到達しました。
2023年04月24日
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平安時代末期の保元の乱や平治の乱といった朝廷の内部抗争などに端を発する貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立しましたが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていったのですが、源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は挙兵とはなりませんでした。しかし、鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝が病死し、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺されて源氏将軍が断絶。実朝が暗殺された1219年以降は北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、その2年後に承久の乱が勃発しました。
2023年04月21日
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奥州藤原氏は、特産品の金や馬で栄えてきた一族です。源平の争いの間も、じっと静観し、力を温存してきました。第3代奥州藤原家当主、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は冷静沈着、剛の者と言われ、頼朝が恐れていた男でもあります。秀衡は義経一行を熱く迎えました。義経が平泉に逃げ込んだことで、頼朝はうかつに手を出せなくなってしまいました。しかし、悲劇はすぐに起こります。秀衡は当時、推定60後半で当時としては長寿の部類に入るのかもしれませんが、静かに息を引き取ってしまうのです。秀衡の死後、第4代の藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に押されてしまいます。「義経を差し出せば、奥州藤原氏には手を出さず、領土も安堵する」。その頼朝の言葉にまんまと乗せられた泰衡は、義経を攻め自害させました。秀衡、義経がいない藤原家には、もはや頼朝が恐れる者はいません。頼朝に攻め込まれ、前九年・後三年の合戦後から約100年続いた名門奥州藤原家は、滅亡への道を進んだのです。後白河法皇が亡くなり、頼朝は征夷大将軍に任じられます。全国を統一した源頼朝は、鎌倉に幕府を開き、日本史上初の武家政権を誕生させたのです。幕府とは征夷大将軍を長とする武家政権のことです。
2023年04月20日
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後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の兵をあげたのです。挙兵後すぐに以仁王は平氏に負けて亡くなってしまいます。ところが、これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、それに呼応して、各地の源氏武士、平氏に不満を持つ奈良の僧兵、そして大きな集団として、木曽(きそ)の源義仲の軍が一斉に兵を起こしたのです。頼朝は富士川付近(静岡県と山梨県を流れ太平洋にそそぐ川)に布陣します。そこで平氏の軍と対峙(たいじ)しますが平氏の軍は、夜中に何かの物音で驚いた水鳥が一斉に飛び立つと、一目散に逃げていってしまいました。源氏の夜襲だと思ったのです。この平氏の情けない姿を見て、源氏の士気は大いに上がりました。源氏の旗揚げに清盛は怒って、奈良の僧兵たちへの見せしめに、東大寺と大仏を燃やしてしまいました。その悪行が祟ったのか、清盛は重い病気になって亡くなってしまいます。清盛が亡き後、都で平氏を追い払った源義仲が、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働き、後白河法皇の怒りに触れたのです。後白河法皇は頼朝に義仲を討つように命じます。頼朝は義経に義仲を打たせます。頼朝は、武士の賞罰の権限を独占しようとしますが、後白河法皇は、頼朝に先んじて義経を検非違使に任命します。後白河法皇の策があたったのか、頼朝と義経は争うようになります。しかし、勢力としては圧倒的に頼朝が上です。義経は再起を図るために軍の立て直しをしようとします。義経一行は、頼朝の追っ手を逃れるために、京都から奥州を目指しました。身元がばれれば即座に捕えられる危険な逃走劇です。そのため義経一行は、山伏に姿を変え、険しい道を進みながら奥州平泉の藤原氏の館にたどり着きます。
2023年04月19日
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平治の乱で源氏が敗北した際、源頼朝は敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、当然処刑されるはずでした。しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、情けをかけてほしいと平清盛に懇願した清盛の母・池禅尼(いけのぜんに)により、頼朝の命は救われます。命を救われた頼朝は静岡県伊豆に追放され、そこで静かに暮らすことになります。牛若丸(源義経)は平治の乱の際、生まれたばかりの赤子でした。それ故、行く末は出家し、僧になるとの条件で命を救われました。牛若丸は京の鞍馬寺(くらまでら)に預けられ修行の身となりました。しかし、牛若丸は活発な男の子で山中で一人武芸の稽古を行いました。ある時、一人の山伏(やまぶし・山の中で修行をする者)が牛若丸と出会います。その山伏は、牛若丸を源氏の遺児と知って近づきました。山伏は牛若丸を奥州藤原氏へ連れていきます。そこから源氏の運命は大きく変わることになるのです。奥州藤原氏としても、強大化する平氏は恐ろしい存在でした。そこに源氏の遺児、牛若丸が現れたのは幸いでした。いざと言う時は全国各地に散っている源氏を、牛若丸の名の下に集めることができます。平治の乱以降、各地に散らばってしまった源氏武士たちは源氏再興の時を待っていました。彼らに一筋の光を与えたのが源頼朝と牛若丸兄弟の存命でした。いずれ来る源氏再興の機会、そしてそれに呼応して源氏頭領の頼朝と牛若丸が立ち上がれば必ず勝てる。そう信じていた彼らに、とうとうその機会は訪れます。
2023年04月18日
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今様(いまよう)は、日本の歌曲の一形式です。今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、流行しました。庶民はもとより貴族にまで愛され、宮中の宴会でも歌われました。後白河上皇も今様を好まれ、しばしば白拍子などを御所によばれて歌わせました。上皇はそれまでの今様の詞を集められて『梁塵秘抄』と名付けられ、その『口伝集(くでんしゅう)』も嘉応元年三月に完成しました。今様とは「現代風、現代的」という意味であり、当時の「現代流行歌」という意味の名前です。歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5の七五調四句で構成するのが特徴で、様々な歌詞が生み出されました。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書に残されています。また、法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっており、後白河上皇自ら民間の流行歌謡である今様を学んで『梁塵秘抄』を編んだことは、この時代の貴族と庶民の文化との深い関わりをよく示しています。今様の他に古代の歌謡から発達した催馬楽(さいばら)や和漢の名句を吟じる朗詠も流行し、田楽や猿楽などの芸能も、庶民だけでなく貴族の間にも流行し、祇園祭などの御霊絵や大寺院の法会などで演じられました。
2023年04月17日
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鎌倉時代に資本主義があったかどうかは議論の余地がありますが、鎌倉時代には、重商主義という考え方がありました。重商主義とは、国家の富を増やすために、貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政策です。また、土地や物品の所有権が重視されるようになり、商人の存在が大きくなりました。これまで商人は一つの勢力とはならなかったのですが、御家人に金銭を貸し付けるなどの商業が本格化するにしたがって、その存在が大きくなったのです。貨幣経済の中に支那の貨幣である宋銭が入ってくると為替の問題が出てきました。また、頼母子講(たのもしこう)のようにお金で儲ける商人も出てきました。これは資本主義のはじまりといっていいでしょう。このころ稲の品種改良が盛んに行われ、新しい肥料がつくられました。それも産業の発達に拍車をかけたのです。貿易も盛んになり、日元貿易、日宋貿易が盛んになりました。寺社が船をもち、外国から造営の資金や用材を得るようなこともはじまりました。対外的な関係が経済にも及ぶようになったのです。これが商業の時代、室町時代へ移行する大きな動きとなっていくのです。
2023年04月14日
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奈良・京都の文化圏から遠く離れた鎌倉に幕府を置くことにより、新たに武士や庶民の文化が花開きました。問注所をつくつたことで土地争いが減少し、相続には分割制度が採用されて所領は細分化されました。それによって土地から上がる収益が少なくなりましたが、代わりに貿易や物資の交換がはじまりました。これが貨幣経済を発展させました。貨幣経済が日本に浸透しはじめたのは鎌倉時代中期からです。土地もお金で売買するようになりました。その負の部分も出てきました。貨幣経済の発達によって、逆に没落する人たちが多くなってきたのです。永仁五(一二九七)年に幕府が永仁の徳政令を出しました。これは御家人に所領の売買や質入れを禁じ、売却・質流れした所領は元の領主が所有するなどを命じたもので、土地を売ってしまって税金が払えなくなった御家人たちを救済するための策でした。
2023年04月13日
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鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ちました。平氏は朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配しようとしましたが、鎌倉幕府は、京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、幕府と主従関係を結んだ御家人を守護・地頭として地方に送り込んで治安を維持する形をとりました。しかし朝廷が送った国司や郡司はそのままだったため、二重支配の構造になったのです。土地をすべて召し上げてまったく新しい武家政権をつくるのではなく、地方を武家中心に守り、争いを防ぐことを考えたのです。その一つとして、土地争いや財産争いなどを収めるための問注所(もんちゅうじょ)と呼ばれる訴訟受付機関をつくりました。土地の支配権をめぐる争いが当事者同士の武力闘争に発展しないよう、武士の騒乱に幕府が仲介する制度を立ち上げたのです。これが鎌倉幕府の新しい統治の原則となりました。これまでは、所領の問題を天皇や将軍が直接裁断すると負けたほうは恨みをもち、それが主従関係の解消につながるようなこともあり、それを回避するため訴訟の解決を図る一方で、公家や天皇にまで影響が及ばないような仕組みをつくつたのです。無用な混乱を招かないというのが頼朝の方針でした。武の力を背景にしながらも土地所有を法的に安定させる方法を選んだのです。この時代に文化芸術が盛んになるのも、そうした幕府の方針によって社会が安定したためです。
2023年04月12日
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鎌倉時代の特徴として、公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』などが書かれていますし、『吾妻(あづま)鏡』という鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴史書も出てきます。しかし、これらは鎌倉という関東の新たな勢力の歴史を書きとめたもので、六国史のような天皇を中心とした宮廷の歴史を書いたものとは異なります。そこでは天皇の存在は無視されています。権威としての天皇の存在は依然として強いのですが、そこに幕府が介入するようになったのです。そのきっかけをつくったのが後鳥羽上皇の起こした承久の変でした。この事件以降、皇位継承問題に幕府が介入し、実質的に支配するようになりました。これは皇室の力を失わせる結果になりました。ただ、先の話をすれば、ここから大覚寺統、持明院統という二つの皇統の争いが生じ、鎌倉幕府の終焉を早める結果になっていきます。地頭となった武士は、荘園の年貢を取り立てる権限をもち、土地の支配をめぐって荘園主と争うようになり、しだいに管理者になって農民に田畑を耕作させました。貞永元(一二三二)年、北条泰時のとき、武家社会のおきてや裁判の基準をまとめた御成敗式目(貞永式目)が制定され、武士の間に定着しました。
2023年04月11日
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義経は壇ノ浦の戦いの後、都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を守護や地頭として各地に置くことを認めさせたのです。義経は平泉に逃げ、奥州藤原氏の保護を求めましたが、逆に討たれ、さらに平泉も頼朝によって滅ぼされました。建久三(一一九二)年、頼朝は征夷大将軍に指名され、鎌倉を都にして鎌倉幕府を築き、これ以後、明治に至るまで武家政治が続くことになります。鎌倉ではまずその寺社の造営などに、平泉の文化を引き継ごうとしました。頼朝は奈良の大仏殿の復興に力を入れ、建久六(一一九五)年の供養の際には数万の兵を率いて上洛しています。この恩義により、東大寺、興福寺の僧兵は,承久の変のとき、後鳥羽上皇の召集に従いませんでした。頼朝の死後、幕府は十三大の合議制に移りました。これは政治の実権を将軍が一手に握るのではなく、幕府の有力者十三大の合議によって決定するというものでした。しかし、頼朝の妻、北条政子の父、時政が実権を握り、その後の政治を鎌倉で執り行いました。これを執権政治といいます。後鳥羽上皇は承久三(一二二一)年に幕府を討とうとしましたが、敗れ隠岐(おき)の島に流されました。朝廷はその後、幕府の監視下に置かれます。京に六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所が置かれたのです。
2023年04月10日
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仁安(にんあん)二(一一六七)年、平清盛が太政大臣となり、平氏政権を打ち立てました。藤原氏にとってかわった政権でしたが、福原遷都など無謀な動きをして、没落を早めました。初めは朝廷のボディガードだった平氏が、自分たちよりも力を持ちすぎる。それは朝廷にとっては恐怖でした。後白河法皇が力をつけすぎた平氏の力を恐れたのです。後白河法皇から反感を買っただけではなく、平氏としては源氏の遺児、頼朝と牛若丸(のちの源義経)を生かしてしまった重大なミスを犯したことが、滅亡の道へ進むことになりました。治承四(二八〇)年に起った治承の乱では、南都の宗教勢力の鎮圧にあたった平重衡(しげひら)が民家に火を放ったところ風にあおられて燃え広がり、東大寺の大仏や興福寺が焼失しました。この奈良の焼き討ちは人々の反感を買いました。国家鎮護の象徴である大仏を破壊するなどということは、朝廷や奈良の人々だけでなく、全国民の憤激を招き、反平氏の動きを強めました。源頼朝が平氏討伐を呼びかけると、各地の源氏が平氏打倒の兵を挙げたのです。瀬戸内海に逃げた平氏は、源義経の軍勢によって壇ノ浦の戦いに敗れ、寿永四(一一人五)年、一族は安徳天皇とともに海に沈みました。
2023年04月07日
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保元の乱での天皇側の源義朝は上皇側の源為義(義朝の父)の助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、処刑されます。さらに同じ天皇側であった平清盛ばかりが厚くもてなされ、義朝の不信感は高まって行きます。義朝は、清盛とその後ろ盾となる貴族に戦をしかけました。平治の乱は、完全に源氏と平氏との戦いです。平氏の完勝で結果、平氏は朝廷からも一目置かれる存在になりました。そして、平清盛は太政大臣(だじょうだいじん)に任命されます。武士として、初めての太政大臣の誕生です。ここから平氏は貴族のように華々しく栄えていきます。蹴鞠(けまり)など貴族の遊びに興じ、「平氏でなければ人ではない」との言葉が飛び交いました。平清盛は娘の徳子を天皇の妻にし、孫を天皇にすることに成功しました。第81代安徳天皇です。藤原氏と同じような、清盛の振舞い方です。他には、当時の中国にあった大国「宋(そう)」と国交貿易を行うなど平氏の勢いは増す一方でした。しかし、平氏の世は長く続きませんた。おごりが生まれるところに、滅びの足音は必ず忍び寄ります。
2023年04月06日
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