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いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。習慣など気づかずに動いていることは多いものです。社会に何か成すことまで大きくなくとも、最善な形を取るように、自身の意識の外から動かされていると思うこともあります。他の存在の意思でなく、ハイヤーセルフや未来の自身の魂からのアクセスであれば、その意思に従うことは、うまくいく、となりますね。内側の声がいつも正しいとは限りませんから、正しい理解をいつも持っていることが選り分ける方法ですね。そうすると正しい理解とは何かとなりますね。】ほほほ、人の言葉は多かれ少なかれ、真偽が入り混ざっておるものよの。伝えたいのは、正しいこととは限らぬ。ようは真偽の加減じゃ。嘘も方便というように、世渡りには真だけでは通用せぬことも多いであろう。が、真の事だけを通してきた者は、真偽を選り分けてきたゆえに、真偽に敏感よの。料理で言えば、僅かな隠し味を味わい、知り尽くした食通のようなものじゃ。繊細さは、真似できぬ。つまり、それぞれが違う、腕の確かな者は、違いをたくさん持ち、作り上げようとする一点を知るとなろうな。繊細さは、隠れておるものではない、本来、隠し味ではないのじゃ。食通には、その味はハッキリと感じるであろう、料理人であれば、無論よの。違いを読み取る努力などいらぬ、向こうが勝手に浮き上がってくるものじゃ。素性が分かる、それが理解ということじゃ。欺きたい者は、見抜かれぬような言葉を使い、生き残るものよの。が、正しくないと理解されたとたん、消えるのじゃ。正しい理解をしたいのであれば、違いを知ること、それだけじゃ。【違いがわかるのがセンスなのでしょうね。身体にしろ、心にしろ、差分があるから変化になる、変化を見抜くということですね。】雑味が残った料理は旨味を打ち消すように、嘘も言葉を濁すものじゃ。濁った言葉に正しさは透き通らぬ、見抜けぬのであれば、まだまだ精進が足らぬ。魂より浮き上がってくるものを感じぬのであれば、持ち合わせてはおらぬということよの。精進とは努力ではない、己自身の心を淘汰するように、生きるだけじゃ。物事を感じる違いを、心の中の違いを浮き立たせ知ろうとすれば良い。知ろうとすることをやめてしまえば、それに慣れてしまうであろう、ほほほ、習慣から見直すことよの。【ありがとうございます】
2017年07月29日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。夏になると山や海での遭難が後を絶たないですね。自然に触れあうには夏はいい季節ですが、自然を甘くみているのでしょうかね。豪雨などみれば、人の作った環境など端っこに小さく作った箱庭のようなものですね。環境破壊と言いますが、わずかなバランスの揺れにも人はついていくことができない。環境に適応すると言っても、遺伝子の変化には何世代もかかるわけで、生き残るほうが不思議とも思えます。】ほほほ、ほんの小さな火のもとでも、やけどをするであろう、たとえ小さくとも自然は自然じゃ。甘く見るも見ぬもない、相手を理解せず近づけば、傷つけられることもある、しごく当然じゃ。人が自由に動けるように、自然は黙って見守ってはおらぬであろう。貸し借りもなければ、誠意などは無論、事情など皆無じゃ。奔放に動く自然に踏みつぶされぬよう、足をよけてかいくぐっておるのが人よの。夏は気温も上がり、人もいっぱい汗もかくであろう。身体はついていこうと必死じゃ。命の謳歌と言えば聞こえがよいが、心臓が激しく鼓動するようなものよの、上昇についていこうと普段は激しく動かぬ命を動かすのじゃ。意識で言えば、次元上昇、地球の意識はいつも上がったり下がったり定まらぬ。それでも否応も無く跳ね上がる、それが夏の季節じゃ。【アセンションの言葉が随分前にはやりましたね。確かに人の意識は大きく変わったようには思いますが、真実を見抜く人は見抜くし、そうでない人はいつまでもそのままですね。】人とは違う自然は、人にとって穏やかな安心できる世界では無いよの。広い自然にところどころ開いた洞窟のような穴が人の住む場所じゃ。その穴が侵食されれば、素の自然に晒される。その結果はいうまもであるまい。人の意識など年中同じじゃ。夏も冬も変わることなく、ただ物事に感情が揺れ動くだけよの。危険が迫るとは、状況が変化するということよの、変化についていこうとするのが、意識の上昇じゃ。かつて何度もこの星の意識は限度を超え、揺れ動いたものよの。その度に、動きすぎて星は眠ってしまったのじゃ。眠りから覚めたこの星の意識は、もっと上がっていくよの、激しくなるということじゃ。星が眠りに入れば人も眠り、目覚めば人も目覚める。昼と夜の繰り返しに合わせ、人の意識も繰り返し、自然に合わせてきたものよの。朝が来ても眠っておれば、仕事には間に合わぬ、目覚めぬ者は、寝言をいつまでも言っておればよいのじゃ。起きておる故、機敏に動ける、人はそうして何度も生き延びてきたのじゃ。【ありがとうございます】
2017年07月22日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。状況に際し、後悔なく判断し、行動したいわけですが、そうならないことも多いです。無理して進めることは歪みも大きくなり、どこかで崩壊もするのでしょうね。てこ入れし進めることは、ある意味無理をしているわけで、成功の裏に失敗を抱えているとなりますが、それを努力というのかもしれません。日本の今の状況はそれのような気もします。】ほほほ、伸ばせぬ布を広げようとすれば、破れてしまうのものよの。折りたたまれておるのであれば、広げればよい。人の心もそのようなもの、伸び縮みするといえ、無理はできぬよの。むりやり広げ、ほつれたところを補修すれば、そこだけは強くもなろう。ところどころ補強されても全部が強いとは言えぬ。いくども同じ経験をすれば、弱い部分も見えてもこよう。同じ失敗は繰り返さぬように、学ぶのよの。その学びもまた強さじゃ。無理をすれば、心に穴が開き、禍根を残す。人は経験と同様、覚えておるものじゃ。心と魂の姿を変え、その形がいつまでも続く記憶の印となるのじゃ。正しい思いは魂を通し、我らに通ずる。人の心は、丸見えよの、後悔の先は、自らを守る心よの。なぜ禍根が残るのか、皆のために動くのであれば、残らぬであろう。守れなかったという思い、その後悔は、我らを通じ皆に届く。届けば、その者、皆の魂もまた姿を変えていく、互いに鍵が合い、通じる心が開くのじゃ。理屈では人は動かぬ、が、理屈がある故、納得もするであろう。納得はいいわけに過ぎぬこともあろう、正しいとは限らぬのじゃ。正しいこととそうではないことの狭間に生きる限り、間違いは誰にもあろう。間違いを繰り返せば、いつかは正しいことに至るとも限らぬ。間違いと気づくゆえ、後悔もあろう、正しい道に進むには、そこに立ってからよの。気づくか気づかぬか、その違いは天と地の違いほどじゃ。気づく心の柔らかさがある故、広げられる、見込みがあるのじゃ。立ったと魂に感じることがあれば、進み始めたということよの。ほほほ。【ありがとうございます】
2017年07月16日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。今の社会は、感情、感覚の赴くまま、本音と嘘の入り交じった言動しかしない、相手の顔も見ない、見えないから、相手は鏡などというのは当然、魂の繋がりなどないような現実です。想念が蠢く幽界そのものが、現実のバーチャル化であり、軽い世界には程遠いようには思えます。】ほほほ、心を返さぬ相手はむなしいものよの。いつしか人と繋がることも少なくなったゆえ、代わりを探そうとする。物に思いを向ければ、返ってくる思いは己の思いだけじゃ。己の思いに満足しておるに過ぎぬよの。【嘘が平気でまかり通り、本物はどうかすると避けられたりもしますね。値段さえ高くすれば本物と思われるというような。】女性の化粧の下が偽物とは限らぬであろう。気であろうが、心であろうが、整えるのは気持ちが良いであろう?そのような心と心が通い合えば、互いに気分は良いものよの。整えるとは無論、嘘を隠すということではない。内側から素直に、思いが流れ出すということじゃ、化粧のききめ、そのものであろう。化粧に心が映るとも言えような。男であれば、身だしなみよの。身だしなみ、作法、我らは乱れを好まぬ。【身だしなみも、まあ周囲が不快とならなければ何でもいいようには思います。あなた方にはそれではいけないのでしょうけれど。】作法にも一つひとつ順番があろう、飛ばせば途中で補うこととなる。代わりを補い続ければ、元の姿より離れていくばかりじゃ。人と人の手も、言葉も、仮の触れ合いなどないであろう。全て、現実じゃ。目も耳も使い、表情も感情も、触れ合いの一部じゃ。それを省くゆえ、本心は曲がって伝わるのじゃ。世の中が、思いだけの幽界に似ていくのは、そのような事情じゃ。代わりになる物ばかりに囲まれておれば、心はやがて区別をつけぬようになり。その世界の外では生きられぬ心となる。地に足をつけ、現実より目を反らさぬのは、理にかなった生き方よの。思いの心と、触れ合いの間にある差は、上流と下流、力が流れる仕組みじゃ。そなたたちは現実に生きるゆえ、軽い世界にも思いは向けられるのじゃ。思いを軽くし、現実と差をつけるほど、思いは勢いよく流れるのじゃ。軽くするも、今の重さに耐えるのも、心しだいよの。【ありがとうございます】
2017年07月15日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。愛されれば相手に愛情が返り、いじめられたりすれば、報いが相手に返るような、因果応報の返す力の強弱は、皆同じではないように思います。行為の強弱は、応報の強弱になるのが普通ですね。】ほほほ、皆、心の世界があろう、思いは心から顕れるものよの。思いは周囲に満たされ、周囲の心もしだいに打ち解けていくものよの。心の世界と言えば、子供の心のように夢に近い世界じゃ。夢に住む子を、現実の世界から手探りで育てようとするゆえ、育児は大変よの。夢と現実を行きつ戻りつするゆえ、因果が生まれる。子は夢に長く暮らし、親の思いの因を十分に成長させ、己の育つ力に変えるのじゃ。子の思いは夢を通して親に届くのじゃ。夢に投げ入れられた思いは、親子、共にする。ゆえに因果を返す力は生まれた時が一番強いということよの。親と子、人と人、夢を語りあい、思いを満たすところが建物よの。思いが満ち、時がくれば夢は現実に変わるであろう。因果の総量は、建物に集まる夢の量よの。因果の基点となるのが、その者の住む家なのじゃ。ほほほ、部屋をかたづければ、因果もすっきりするじゃ。【加齢し、夢を見なくなれば、終わりでしょうかね。因果もそこで途切れる感じもします。】夢みる多感な時期の子は、想像もたくましいものよの。あらゆる見聞きしたこと、物語を夢にたくわえ、心の栄養として成長するのじゃ。新鮮な夢を見たいゆえ、人は見知らぬことを求めるのじゃ。経験は夢を認めぬことではないよの、枯れた泉に水を満たすようなことが本来の姿じゃ。経験とは、つまり結果じゃ。経験しようという思いの素が無くなれば、積み重ねることはできぬ。いつもいうが、歳は無関係じゃ。たくわえがなくならぬようにすればよいこと。たくわえを吐き出すだけでは意味はないよの。見せてもらうだけの夢を追い求めれば、やがてわき出す力を失い枯れていくのじゃ。己の物語は創造するものよの。生まれた時の夢の量を減らすばかりではない、増幅もできるのじゃ。【ありがとうございます】
2017年07月08日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。危険の予知能力は、古代では権力に必須だったと聞きます。卑弥呼など日食を予言できなかったから座を降ろされたとも言われますね。普通に身に迫る危険は誰でもたいてい感じますが、絶滅するような危険は、権力者でないと無理かもしれません。感じられるから権力者なのでしょうけれど、感じることは、多くの人の意識にアクセスできるということですよね。それが卑弥呼の統率力のように思えます。】ほほほ、大勢の目は、人の心をとりこにするようなものよの。見られ、心を見透かされもし、踊るような気持ちにもなるものじゃ。心が向くゆえ、相手に目は向く、目は心のままに、露わになろう。目と目が合い心が通うよの、言霊のように目は心の言葉となるのじゃ。見上げた先に太陽があろう。舞台のように、いつも皆の注目のまとじゃ。太陽は向けた思いをそのまま返す、ゆえに畏怖と感謝を太陽に感じるのじゃ。太陽に心を向け、いくらかの話をし、人の心を見たのが卑弥呼よの。人の心の揺らめきは、太陽の揺らめきに顕れる。太陽は隠れ、向ける人の目は消え、卑弥呼は舞台より下がったのじゃ。卑弥呼は命を生む源と、心を通い合わせた存在よの。太陽は目に映るとも、その奥に、心だけにしか映らぬ源はあるのじゃ。筋書き通りには事は運ばぬ、とは言え、筋書きの先まで読んだのも卑弥呼よの。伝えること、伝えぬこと、卑弥呼は全てを伝えたわけではない。時に伝えることは苦しみでもあろう、人の心は畏怖と感謝だけではない。卑弥呼も、ただただ普通の人間だったのじゃ。今ではすっかり我らの仲間よの、ほほほ、そなたもこれから卑弥呼と話しをする機会もあろう。その時は、何も身構えることはない、普通に心を合わせれば良いのじゃ。【ありがとうございます】
2017年07月01日
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