全4件 (4件中 1-4件目)
1
いつもありがとうございます。また今週も台風ですね。。。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。人にアドバイスなどする時、どうかすると自分の口からではない気がすることがあります。伝えた内容を翌日には忘れてしまうとかですね。どう伝えれば本人が前に進められるか、あまり考えなくとも、褒め言葉ではありませんが、本人が気づいていない短い一言でも前に進んでいくような感じです。】ほほほ、小さな足場や手がかりでも、切り立った崖を登っていけるものよの。手がかりを一つ見つけたゆえ、登り切ることもできるものじゃ。あとから思えば、誰かがそこに置いたとしか思えぬこともあろうな。無論、誰も置いてはおらぬ、もともとそこにあったのじゃ。そこに手がかりがあると、後ろからいくら囁いても、つかむのはその者、本人よの。いつも手がかりを探っておるゆえ、顕れた時に、気づくことができるのじゃ。手がかりは、使われるまでは、役割などは持たぬ。ただの岩のでっぱりじゃ。言葉もそうよの、たまたまそなたが、そこにおり、声をかけたに過ぎぬ。顕れては消える。役割も言葉も残らぬ。登った者の魂にだけ残るのじゃ。役割など、その場、その時に、求めに応じて顕れるものよの。仕事が終われば役割も消えるのじゃ。見え透いた言葉ではなく、生きた言葉をかけるられるのは、普段の稽古のたまものよの。幾度も繰り返し、魂と話をするゆえ、言葉が魂と呼応するのじゃ。呼応できぬ言葉、魂は素通りよの。役割も素通りじゃ。【ありがとうございます】
2017年10月29日
いつもありがとうございます。雨が続き、台風まで来ていますね。12月の気温の時もあり、台風もあり、気候は随分乱れているようです。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。現代は人間関係が多い分、ストレスも多いですね。夜寝静まった時、ようやく心が安まります。避難場所ではないですが、心が落ち着く時、場所は貴重ですね。ストレスは過ぎるといけませんし、全くなければ、天国のような感じでしょうか。睡眠している時、脳はその日の記憶を整理しているようですが、魂も落ち着いている時は、記憶、体験の整理をしているのかもしれません。】ほほほ、しがらみは多い世の中よの。相手が人であろうが、物であろうが、なにがしら期待をするであろう。満足を得られぬのであれば、ストレスもかさむものじゃ。【物や道具であれば捨ててしまうこともできますが、人ではそうはいきません。】道具とて大切に扱えば、情も残るであろう、そうなれば簡単には捨てられぬものよの。縁あって手元に来た物よの、冷たくあしらわれれば、物とていなくなる、そうは思わぬか?【まあ、情が残ることはよほど大切に使っていた時ですね、大切に扱っていても壊れる時は壊れますし、修理しようが無ければ、それまでの縁と諦めもしますし。】己は物ではないと叫びたいであろう、が、人も道具として使われるのが世の常よの。思いが乗る人間は思いを運ぶ車じゃ、運命とは道具、つまり役割じゃ。世の役に立つことを望み、期待に背を向けることには、ためらうものよの。己の思い通りにならぬことだけが、ストレスの原因ではないのじゃ。笑顔を向けられれば、ストレスなど吹き飛んでしまう、大切な相手からであれば尚更じゃ。夜、のんびり心を落ち着かせ、その日の笑顔に思いを馳せておれば、魂から暖かさを感じるものよの。暖かさは、身体も、魂も血のめぐりを良くするのじゃ。まあ、誰しも道具として生きるべきとは言わぬが、いうなれば、そなたは我らの道具よの。縁あって我らに近づき、役割を持ち、伝える仕事をしておる。葛藤は強い程、魂の奥底を見るのじゃ。そなたにとって葛藤は道具じゃ。刃物は一生かけて使い込み、手に馴染ませる。指を切る失敗ばかりであったであろう、それでも刃物を持つ手は切れぬものよの。見守る者が後ろにおるのは心強いものじゃ。道具をそのために使えば良いよの。そなたが笑顔を向ければよいのじゃ。【ありがとうございます】
2017年10月21日
いつもありがとうございます。また暫く雨模様ですね。雨は雨で気持ちを落ち着かせるにはいいものです。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。願いは、苦しみを解消したい願い、人を思う願い、人それぞれですね。一つの願いは別の何かを犠牲にするようなことですから、命さえ犠牲にすることも厭わずに叶えたいなら、大切な本質を取り違えているとなりますね。それでも、命は代替えになり得るのであれば、命を削りながら生きているのかもしれません。愛情の関係も、相手が幸せになるよう自分を犠牲に願掛けしている関係なのかもしれません。】ほほほ、思いやりを子や連れ合いに掛ければ、その者たちは幸せであろう。思いやりも空気のようなものよの、普段、ありがたみなど感じぬ。当たり前のように受け取り、当たり前のように相手がおると思えば、それだけで幸せじゃ。強く抱きしめれば息苦しくもなろう、身動きどころか、息もできぬ。幸せを願う思いやりが願掛けになれば、己も苦しみを受け取るようになる。己の思いは相手に届き、届いた思いは、己に反射するゆえ、相手の気持ちもわかるのじゃ。己も大切、相手も大切と申すものではない。思いを計りに掛けておるとは思わぬとも、いつも気持ちをおしはかるものじゃ。理解できぬ相手とともに暮らすことは、時に苦痛でもあろう。理解しようと力を入れれば、その願いは願掛けとなんら変わることはない。同じ向きに一緒に進めば、力など感じぬものよの。相手が向きを変えるのであれば、己も向きを変えればよいのじゃ。心、足並みをそろえておれば、心が響く故に、思いやりは湧き出すものじゃ。いつも心が響いておるものは、誰とは言わず思いやりを持つであろう。苦痛を願いに変える願掛けは、命を掛ける願いよの。その苦痛と願いは同等、ゆえに努力は命を犠牲にするということじゃ。ともに進むことに努力はいらぬ。力を抜けば思いやりは自然に顕れるよの。まあ、そうは申しても、思いやりを持つのは相手次第よの。ほほほ。【ありがとうございます】
2017年10月15日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。十年一昔。ある出来事をきっかけにして、何かに軸足を置けば、結果は十年も経てば見えてきますね。方向を転換するのも、そのまま進むのも、否応なく考える出来事が起こるものです。出来事と出来事を繋ぎ、十年間の因果がはっきりする。その時に、終わりよければ、全てよしということでしょうね。】ほほほ、例えて言えば、十年という区切りは、成人式を迎えるようなものよの。子の時代を決別し、これより大人の時代を迎える宣言をするのじゃ。きれいに決別すれば、もはや未練は残らぬ、延長はないということよの。そのように迎えた前と後では景色も変わるよの。関係が始まれば、出来事が出そろうまで、その関係を保ったままよの。出そろうまでが因果の一つの括りじゃ。揃った姿は、わずかな隙もないものよの、そこにきて因果は完成するのじゃ。つまり因果は決まり、かかわった出来事は全て、その時のためにあった気づくであろうな。そうして因果は消え、必然、一より始まるようになるのじゃ。出そろわぬまま、別の出来事に進めば、一には戻らぬ。因果は混ざり合い、終わりを見る楽しみに行き着かぬのは、寂しいものよの。子の精神のまま大人になれば、因果に歪みを残す。歪みが残れば、綺麗にそろいはせぬ、解いてやり直しじゃ。手間がかかるが、やり直せる精神であれば、もとより決別もできたであろう。無論、子が良くないと申しておるのではない、迎えるべき時は、心して迎えるものじゃ。迎える時とは、進路を選ぶ時よの。避けて通れば歪みを生むのものじゃ。今の世は、手間を避けたいばかりに、使い捨てるのも多い時代じゃ。捨てた因果は思ってもおらぬ別の場所に姿を変え現れる。時代の歪みに弾き飛ばされ、今の時代に舞い降りた魂は少なくはないよの。ほほほ、終わりよければ全てよし、とは区切りの間にあるこの時代に言えること。一つのこと、終わらなければ進めぬというであろう、終わらせることができるのは強みよの。【ありがとうございます】
2017年10月07日
全4件 (4件中 1-4件目)
1