全3件 (3件中 1-3件目)
1
いつもありがとうございます。もう梅雨が明けたところもあるようですね。私の住む地方では、もう少し先でしょうか。プレアデス【よろしくお願いします。旧原人は、環境に適応して、頑強になったにも関わらず、消えていった種も多いですね。つまり環境適応は必ずしも残っていく条件ではないとなります。集合意識的な多様性は、種の能力を拡大していくのでしょうけれど、現代人が残っていくとすれば、適応や多様性ではないとすれば、その逆、つぶしの効かない特異性。共生が大切と言いますが、人は生命体の中でも共生できない特異な生物ではないのでしょうか。】環境と言えば、弱肉強食、淘汰の世界のイメージですね。弱い個体は、生き残れない、それが常識と思われていますね。勿論、そんなに単純ではありませんが。人は、自分の能力を少なく見積もっています。本当はできるのに、できる気がしない、といつもそう考えている人がいます。枠からでないようにしよう、それが安全だから、という内心の理由です。枠に入っていない考えの人を、ジャマモノ扱いにすることも多いですね。そのような感情と思考が、濃淡のある集合意識を形作っていきます。つまり、仲間意識ですね。人は群れなくても、生き延びていけるのです。環境に適応しなくてもいい、環境は一方的な相手ではないのです。何のこと?、と思われるかもしれません。環境は固定されている世界ではありません。いつも、空間の次元も揺れ動いています。微細な色彩を持ち、ほんの僅かな刺激で、がらっと変わってしまうこともあります。いつも同じ相手と思えば、変化に気づかないでしょう。そんな相手と付き合うには、しっかり気持ちをくむことですね。思いは空間も動かします。微細な思いであれば、微細な次元を動かします。マザーと言われる地球は、空間と次元の振動から生命を産み出します。マザーに命を産み出させるために大切な相手、それが地球人です。おおげさではなく、振動は創造の力なのですから、振動なき世界では創造はないです。空間に思いを伝える、響き合う、人の関係もそうでしょう?。あれもしたい、これもしたい、と、たくさん願いば願うほど、環境の微細な場所に、意識を向けることになります。思いの一つひとつの粒を細かくする。解像度を上げていく、そんな感じです。適応して、まったりしてしまえば、思いも凍ってしまいます。温度を上げる、一つ二つの思いではなく、千、二千ではどうでしょうか。個人でそんなに思えないとしても、集団では遙かにそれを凌駕してしまうでしょう。そうして生き残ってきたのが、現代のあなたたち地球人です。ですが、個人で千の願いをいつも持っていれば、一人でも共生している環境と同じとは思いませんか?。【ありがとうございます。】
2018年06月30日
いつもありがとうございます。梅雨も本格的に突入ですね。蒸し暑いです。。。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。人の魂は、幾つもの魂の切片の集合になっているとも言われますね。魂のカルマは遺伝子に特徴が顕れ、遺伝子の鏡として経験となる。切片は多くの人が共有しており、一つの切片のカルマが解消されれば、他の人のカルマも解消される。切片同士ネットのように繋がっていれば、それも可能でしょう。ですが、遺伝子に起因するのであれば、切片を共有する人の遺伝子も同時に変わっていくとなりますが、それは聞きませんね。そう考えるとカルマは本当はないのかもしれません。】ほほほ、遺伝子を共にすると言えば、民族、家族であろう。家族は共に過ごし、思い出も一緒に残していくものよの。思い出の品々、写真、そのどれもが、思い出す道具じゃ。品々を眺める時、目の前に思い出が膨らんでいくことであろう。忘れておる遠い経験も、品々、場所、匂いなどの印により蘇るよの。長く過ごせば、それだけ印が増えていく。傷ついた心というが、傷ばかりが印ではない。印を手がかりに己とは何か、どのような存在であるのか知る。鏡のようなものよの。その者の代名詞じゃ。そなたたちは、前世、今世と気にするが、カルマなど普段考えぬであろう。良くない出来事があれば、カルマの所為などという。身に降りかかったことを、他人の所為にする、その心がカルマなどと言うのじゃ。カルマは前世の宿題と申すが、前世の事柄など前世に任せておけばよい。期日を越えた宿題は受け取れぬな。次から次に宿題は現れ、残していくほど、学び直す機会は減るのじゃ。学び直す機会を得るため、転生するわけではないよの。カルマの種を消し、機会を増やそうとしても、そのような相談には誰も乗らぬ。魂に時間などない、引き継がれるカルマなどないのじゃ。故に、何事も今世限りの経験というのじゃ。刹那というもの、瞬時のことよの、魂にとっては今世とて刹那じゃ。時間の切片と申してもよい、が、量などで計れるものではない。切片がぽつぽつとあるのであれば、一粒づつに目を凝らすであろうが、たくさん集まれば、全体はくっきり見えても、粒は見えぬな。その違いじゃ。前世、今世、来世の経験が魂に集まれば、印も増えるであろう。前世、来世が見える者は、魂にある印を通して景色を見る。見ようと思えば、誰でも見えるものでもあるな。それには過去のカルマなどと言わぬことじゃ。カルマは品々、粒そのものじゃ。【ありがとうございます。】
2018年06月19日
いつもありがとうございます。コノハナサクヤ姫【宜しくお願いします。人の寿命はせいぜい100年ですね。まあ、プレアデスのように1000年生きれば、それなりに経験も増えていくのでしょうけれど、寿命がないあなたたちの経験は、それこそ無限でしょうね。人は何代も転生しても、経験としては、意味はないようにも思えます。】ほほほ、経験を積めば積むほど、心は豊かになる、というものではないであろう。逆に意識は凝り固まり、いつも、皆に、意固地になることも増えていくものじゃ。その事に片寄るということよの。あったことを都合よく帳消しにして無くすことはできぬ相談じゃ。帳消しでなく、拘りを捨てればよい。それなら心の持ちようでできるであろう。木々を剪定するようなものよの、次の季節にまた大きく育てるのじゃ。生死は、生と死、二つでそろいじゃ。何かが起これば、別の何かが起こるものよの。経験するとは、二つを起こそうとすることに他ならぬ。その経験が、別の何かを引き寄せると知り、やったこともない行動を起こせば、新しい経験が寄ってくるものじゃ。剪定し、大きく育つというのは、対の出来事じゃ。剪定を間違え、切ってはならぬ所を切れば、育ちはせぬな。対は何か、何も学んでおらぬ者は、幾度でも、同じことを繰り返し、失敗するのじゃ。100年の生死であれば、100年の中での出来事は、全て対の出来事よの。あれこれのこと、時間切れ、未経験であったというのは、ないのじゃ。100年の間に対の経験をし尽くしたということよの。寿命の限りに、生きれば良いだけのことじゃ。嘆いておる暇があれば、つべこべ言わずに、できることを始めれば良い。その経験は、100年どころか、1000年の経験に匹敵することもあろう。10回の転生に釣り合う経験も、一度の生でもできるのじゃ。【ありがとうございます。】
2018年06月09日
全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()

