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前作の面白さに、パート2は、まだかまだかと、ずーっとうるさかったうちのだんなとともに、早速、観にいきました。そして、パート1と、同様面白かったです。戦闘シーンは、ばりばりに豪快で、むちゃくちゃ見ごたえありです。 前回は、平の兵士の戦闘シーンでの、無表情が気になったのですが、今回は、そういう普通の兵士たちの描写がとても増えていて、戦争が、王様や将軍だけでやっているものではないこと、ふつうの兵士たちの感情や都合、人物描写がよく描かれていたと、思います。ただ、そういう兵士視点での描写が増えた分、曹操の人間描写がぶれてしまっていたような気がします。わかりにくいです。とりあえず、ストーリー上は悪役ですが、人間的には、いい面も悪い面も持ち合わせているはず。そういう描写はあっていいとは思うのですが、戦場でのミスからその場でいきなり二人の部下の首をばっさり切り落とした次のシーンで、自分の兵士たちに、情けのある人物にみせる描写とか、曹操の人物がわからなくなってきます。 三国志の主役って、劉備だと思うんだけど、今回の作品では、劉備の描写は少ないです。そのかわりに、パート1て゜は、周愉、そして、パート2では、曹操の描写が多かった気がします。それで、見終わってみると、曹操が意外と好きになってたりして。白髪交じりの頭がきっちり結い上げてあったり、それが、戦闘シーンで、ばっさり切られてびっくりしてたり、ぞっこんに惚れてる小喬がやってきて、どきどきしたてり、おもわず戦争を忘れてしっぽりお茶飲んでたりするしねぇ。 ちっょとお間抜けなオジサンぶりも、楽しかったりする。最後には、中国のほとんどをその勢力圏内におさめる実力派のおじさん。結構悪くないのかもしれない。 それから、このお話のポイントは、孔明が馬の出産に立ち会うシーンがあることです。そして、ラストシーンでは、その子馬を小喬から譲り受けます。「その馬は、戦場にはださないでほしい」という、小喬の言葉に、「わかりました。私が出産に立ち会った馬なのですから。」と、孔明が答えます。 破壊の戦場を描きながら、その中に、生産、や愛が描かれています。一つの命を生み出し、育てる大変さ、が描かれています。男の人も出産に立会い、子育てに参加していくことで、命の大切さを体感することで、戦争がなくなっていくのでないのかと、思います。 また、孫権の妹の尚香が敵陣に兵士の扮装でもぐりこんでいますが、設定的に無理がある気がします。ちっょと苦しいのではないでしょうか。その状況下で、敵の曹操軍の一兵士と友情が芽生えます。なんで?しかも、戦場で再会し、彼に会いに行こうとする。まずいんじゃない。てか、普通、あの設定では、会わないようにすると、思うのですけどね。 その兵士に友情を感じながら、実際には、その彼の所属する曹操軍を負かすための敵情視察をしているわけです。彼女の中でそのことに対しての心理的葛藤はないのでしょうか。 戦争という大儀と、個人と個人の関係とが、全く別のものとして彼女の意識の中ではあったのでしょうか。それが実はつながった一つのものであることを実感することになるのが、ラストのシーン。兵士が尚香の目の前で、孫権軍の兵士の矢に射抜かれて、戦死するシーンであるのでしょうか。 戦争は、王様や将軍など偉い人たちの都合で行われているものであり、普通の兵士たちは、あくまで、命令されて動いているに過ぎないもの。商香は、自国のために働きながらも、個人的な敵軍への憎しみはないようでした。 国と個人は別物。でも実はそうじゃない。そういうことが、わかる一瞬のシーンだったのかもしれません。 レッドクリフ Part 2 未来への最終決戦―@映画生活
2009年04月21日
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おもしろかったです。会社のおやすみなので、一緒に見に行ったダンナも続きがぜひ見たいといってました。ダンナは最初中国の歴史物ときいて、「途中で寝ちゃうかも」と言ってたのですが、予定外に面白かったようです。 中国の歴史物は、なにしろ名前も地名もみーんな漢字なので、見ていても誰が誰やらわからなくなってきて、混乱してしまうのですが、今回はいろいろと説明を加えてあって、かなり分かりやすくなっていました。それと、日本人が二人(金城武、中村獅童)出ていたので、それも、人物を見分ける上で助かりました。 でも、諸葛孔明のような大人物の役を日本人がやっちっゃていいのかな。しかもこんなイケメンの孔明先生なんて。 こういうお話はほとんど男の人ばかりなのですが、今回は、かなりいろいろと女性の役が目立たせてあって、魅力的でした。孫権軍の司令官周瑜の奥さんの小喬はとても美人で女の目から見ても好感の持てる人。二人のラブシーンがとても素敵だった。 しかも、曹操が彼女を手に入れたいがために、戦争がおきちゃうという、まさに傾国の美女です。そして、劉備と同盟を結び孫権の妹は、巴御前のような女傑。一緒に戦場に出て戦う男の顔負けの勇気のある女性です。でも、見た目はかわいいのですよね。 『赤壁の戦い』といえば、中国史上でも、有名なお話。そして、20年くらい前にも、テレビアニメ化されていて、いかにも少年漫画ばりのキャラデザインもすごければ、孔明先生が、ものすごい色のアイラインで、眉と目の間の色がすごかったのが、なんといっても印象的で、その世界では、知る人ぞ知る、有名なアニメがあって、思い出深いです。 でも、今回の映画はかなり気合を入れて作ったので、一回では、話が赤壁の戦いに到達しなくて、二部構成。赤壁の戦いが見られるのは、第二部になるようです。 でも、一部でも、水上戦になる前の、地上での騎馬戦がなかなかどうしておもしろかったです。昔の戦争にもいろいろと戦略やハウツーがあるようで、今回の戦闘は、八卦の陣。亀の甲羅をイメージしたような、戦略が見事で、おもしろかったです。 盾をつかった戦闘で、見方の兵士にあまり被害がでない戦略はお見事。 ただ、戦闘シーンでの一般の兵士たちが、あまりにも無表情で、それがとても違和感があって、見ていて腑に落ちないというか、不可解というか。兵士をきっちり訓練して、マスゲームのように、太鼓の音で指示通りに兵士を動かすことで成功する戦略ではあるのですけど、いくらいわれたとおりに動く戦争といえども、兵士にだって、感情はあるだろうし、どきどきしてたり、はらはらしてたり、よーし、たたかうぞーっと、いきごんでいたり、怖い顔してたり、いろいろそれなりに、感情が顔に出ていてもいいと思うのです。戦いに出る有名どころの武将や、将軍は、元気一杯もりもりに戦っていて、見所もあり、それぞれの人物が活躍できる見せ場はあって、面白かったのですが、それにしても、その時にアップで映し出される兵士たちが、なぜここまで無表情なのでしょう。 中国もまた、マスゲームの国。マスゲームをしていると、あんなに無表情になっていくのでしょうか。仕事でやっているだけのその他大勢の兵士たちの顔が無表情であることに、映画を作る段階で監督は疑問や違和感を感じなかったのでしょうか。 全体にとてもいい映画だったのに、その部分だけが、なにやらとても不気味でした。日本の映画だと、こういう一般の兵隊サンたちも、それなりにも感情のある顔ででていたような気がするのですけどね。 さあ、これから敵が来るぞ、始まるぞという時で、ほんとに無表情なんだもの。 それと、戦争映画だから、仕方ないけど、槍で敵をぐさぐさ刺すシーンがいっぱいあるんですよね。普通に感情のある私にはその場面はちょっとね。視線ずらしました。 ま、それを気にしなければ、とっても面白くていい映画だったと、思います。 レッドクリフ Part I@映画生活
2008年11月14日
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こんな冒険物語の主人公になるくらいだから、ヒロインのライラはなかなか気の強い物怖じしない女の子だと思います。物語の中でいろんな目にあってるのに、泣くこともないし、だれかに助けてということもない。そして、彼女のライバル役のコールター夫人を演じているのが、ニコール・キッドマン。さすがの存在感でヒロインはこの二人両方なのかと思えるくらい。ファンタジーものは意外とその特性ゆえかあまり有名じゃない俳優が演じていることが多いんだけれど、この映画ではなかなか有名どころの俳優さんが使われていて、特にニコール・キッドマンのコールター夫人はいいです。個性が強くて存在感があるけれど、でも、この物語独特の世界観を壊してないし。そして、ヒロイン、ライラもまた、こどもでありながら、ニコール・キッドマンと競演していてもぜんぜん負けていない存在感があるキャラの濃い女優さんです。 そして、二人の気の強い女性二人を中心にして、脇を固める男性陣やよろい熊はみんな強くてそして、やさしいです。 最近のファンタジーブームで、ファンタジー映画が多く作られるようなったのはうれしいんだけれど、『ロード・オブ・ザ・リング』や、『ハリーポッター』シリーズを除くと期待を裏切られる作品が多い中で、久しぶりにいい出来のファンタジー映画を見ることが出来ました。 これは、シリーズものの、一作目なので、これ以降二作目、三作目で話に深みが出てきて、わくわく感がもう少し味わえるようになるといいです。小さな少女のライラが大きくて強そうな鎧熊を仲間にして、従えるところがかっこよくて気持ち良いです。そんでもってこの鎧熊。かわいい。 正しい道を知ることの出来る黄金の羅針盤。物語の中では、世界に一つしかないけれど、もしこんなコンパスを持つことが出来たら、人生を迷うことなく生きていけるかもしれないし。一人にひとつづつ世界中のみんながもてたら、楽で人生も生きやすくなって、世界も平和になるかもしれないし、いいのになあとか、思います。 でも、この羅針盤はよく見ると結構使い方がむずかしい。物語の中では、ライラは使い方を覚えてからは、それほど迷うことなく使いこなしているけれど、いざやってみると意外とむずかしくて、もしこの羅針盤を手に入れても私にはあんまり使いこなせそうにないです。『ライラの羅針盤』の公式サイトに行くと、「アレシオメーター」を使うことが出来ます。アルシオメーターというのは、映画の中にでてくるライらのもっている黄金の羅針盤の英語名のようです。また、ライラのすむ世界では人の魂は動物の姿になってその人と一緒に行動してくれる生涯決して放れることのない親友のような存在なのですが、そのダイモンがわかる、ダイモン占いもあって、20の質問に答えると自分のダイモンが分かります。ちなみに、私はトラでした。どちらもパソコンならではの映画がらみのちょっと面白い占いです。 ライラの冒険 黄金の羅針盤@映画生活
2008年03月15日
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ハンニバルのシリーズでは、最初に書かれた作品らしいのだが、映画化ではシリーズ三作目。以前他の役者で作られたのだが、アンソニー・ホプキンスの当たり役になったことで、もう一度作られたようだ。 前二作『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』に比べると、あまり残虐な画面は出てこないし、犯罪をおかす犯人にも恋人があらわれたりして、救いのある優しめのストーリー作りになっている。それでももちろんハードだと思うけど。主人公グレアムがハンニバルと対決し、その後難事件解決のアドバイスを受けるために収監されているハンニバルに何度となく会いに行って相談するあたりは、『羊たちの沈黙』と同じ展開。原作はこちらの方が先に作られているのだが、映画は『羊たちの沈黙』のあとなので、レクターが拘留されている独房のつくりとか、それを管理しているドクターチルトンとか、ほぼ同じセットや役者がつかわれているし、ラストにクラリスが登場するフリがでてきたりして、ちょっとおもしろい。 ストーリーのテーマはやはり、前作と同じように残酷な連続殺人をする犯人が実は幼少期に祖母によって虐待されていて、その心の傷によって殺人を行っていくというもの。ただ、実際にころされた被害者の場面を映し出すシーンがすくなく、人殺しをしたレクターが自分の客にその被害者の肉を食べさせるなどの想像するとこわいけど、はっきりそのスプラッターな場面がなくて、前作よりやさしいつくり。 その分刑事グレアムの活躍ぶりが見事で、なかなかおもしろかった。 ただ、物語として残酷さが薄い分、読者や観客にテーマを訴えるには、弱かったのかもしれない。それゆえに書かれ直された『羊たちの沈黙』でも、作者は児童虐待が連続殺人犯を生み出していることを訴えているのだが、どの程度つたわったのだろう。 ただ、近年のアメリカにおける児童虐待防止法の厳しさはいろいろと聞いてみると、相当にすごいものがあって、やはりアメリカでは児童虐待が連続殺人鬼を生み出すことが認識され始めて、そのための対策として相当強化されるようになってきているのだと、これらの作品でわかったしだいです。でも、あの法律はちょっと親にはハードすぎるかもしれない。実際の状況など、アメリカで子育てした人たちの話をきいていると、私はちょっとアメリカで子育てしたくないなあと思います。厳しすぎるもの。実際のところ、児童虐待はなくなってきているのでしょうか。 児童虐待だけでなく、いろんな意味でアメリカが落ち着いてくれるといいなあと思います。ハードな国なんだもん。レッド・ドラゴン@映画生活
2008年02月20日
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ファンタジーとしては、つめが甘いと思うんですけど。 シネコンのおかげで映画界も活気を取り戻してきましたが、しかーし、シネコンというのは、ちょっと見に行きそびれるとすぐやらなくなったり、遅い時間になっちゃったりするので、安心できません。 今回も仕方なく、早い時間やってる映画という制約から、結局これにした。しかし、やっぱりなにやら出来具合はいまいち。 毎回この監督は「この謎は映画を見ないとわかんないよ」と言うようなつくりで客寄せするんだけど、毎回いざ見てみると結局なーんだという落ちなんですよね。しかも『サイン』とか、『ヴィレッジ』とおなじで、クリーターのつくりがダサい。白々しい。ネタバレにがっかりすることがわかっていながら、つい見ちゃうのは、やっぱり宣伝がうまいからなんでしょうか。 『ヴィレッジ』もきっと謎がわかるとなーんだとがっかりすることが予想できてたけど、見に行って、期待通りがっかりでした。十分予想できうる謎解きですからね。こんなパターンいままでにもいくらでもあるじゃん。という結末。そして、いまいちなクリーター。テーマは悪くなかったんだけどね。 今回の話も、物語の基本となる、伝承説話が中国(私は中国だと思ったんだけど、ほかのブログによると、韓国らしいです。よくわからないなあこのあたり)のものという設定なんだけど、これは、ネイティブアメリカンの伝承にしたほうがしっくりくると思うんですけどね。だって、舞台はアメリカだし、イーグルとか、いのししのような怪物とか、サルみたいな怪物とか。アメリカの土地の伝承の方がぴんときます。 世界的な規模の話にしたかったんでしょうけどね。 ライターはインド人(この人がシャマラン監督らしい。ほんとにインド人か不安…監督なのにこんないい役とってずるくない?)だし、伝承は(中国または韓国)のもの。今世界が注目するアジアの二大大国ですから。そのあたり言わんとするところがあるのでしょう。 それにしても、中庭にプールのあるマンション。すごく素敵。こんなところに住んでみたい。でも、うるさそうですね。ハワイのホテルみたい。しかもその中庭の中に草っ原や、森らしきものまであるしね。ストーリーはライターに彼の未来を予言として伝えるだけなので、別に彼女が伝えなくても、ライターはその本を書いて、後世に影響を及ぼせるのではないのか。ストーリーが命がけでここまできた必然が感じられなかった。 ライターが一番重要な役どころというのは、やはり映画はシナリオで決まるということでしょうか。私もそうおもうよ。それからヒーラー。ですね。映画は感動も大事。それから、ギルド。つまり製作スタッフですかね。人手も大事だわ。シンボリスト。きっかけ作りやネタ作りも必要でしょう。あるいは、映画評論家。シンボリストは映画評論家と、パズル解きと、その息子の三人にわかれて、分業されていたように見えます。でも、映画評論家さんは、最後に殺されてたみたいだから、いつも、えらそうに映画にけちつけられて、はらたってるそのお返しでしょうか。しかも、最後まで誰にも気づかれてないし。そして、ガーディアン。映画を興行してくれる大切な役どころでしょう。 というつまんないことを書いてるのも、この映画がいまいちだったから。 宣伝だけはいいんだけどね。いつも。 ところで、この監督の作品は小さな日常の狭い空間を通して世界を描くというパターンがすきらしいのだが、どうも、その空間から、世界を映し出すことに成功しているように見えない。こういう手法はありだろうとは思うのだが、この監督の場合は、世界を映し出すというより、世界を狭い小さな空間に押しこめているような箱庭的に世界をつくりだしている、そんな作品作りに見える。今回の『レディインザウォーター』がまさに箱庭。なにしろ、ひとつのマンションの中にプールという水の世界と草っ原、そして、森まである。世界を救うメッセージを伝える水の精ストーリー、世界を救う思想を書き残すことになるライター、そしてガーディアン、彼女を救うためだけに存在するヒーラー、ギルド、世界を救うというわりに、これらの人たちはみんなストーリーを救うためだけの存在であるために、物語に深みがない。世界観は美しいのに、もったいない。映画中でも、テレビの映像にイラン戦争(だったかしら)を映し出すことで世界とリンクしているようにしている狙いはわかるのだが、あえて、切り捨てたほうがよかったかもしれない。 そういったシャマラン監督独特の作風を考えてみると、これからは、箱庭的世界を重視して、逆に世界を一切無視し、作品中には表現せずに、箱庭のような狭く小さい空間の中に彼の考える独特の世界を徹底的に描き出すほうが逆に成功するのではないのだろうか。世界を描き出すことをやめ、彼独自の世界に埋没し、鑑賞者をその世界に引き込み、埋没させることで、逆に彼の描こうとする世界と、今現実にある世界の問題点を映し出すことができるのではないだろうか。 次回もっと徹底的に彼の世界を作り出し、見るものを取り込んで、抜け出せないほど圧倒的な世界観をスクリーンの上に描き出してくれることを期待したい。 公式ページ です。シャマランは、もう見ないようにしようかなあ。せめて、シナリオをプロと共同で書けば、もう少しよくなるのではないでしょうか。 外国映画、洋画映画の感想 ☆ファンタジー映画☆
2006年10月11日
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武器商人といえば、映画では、悪役のはずなのに、この映画では、武器商人が主役です。ねたばれありありですからね。武器商人である主人公ユーリーの仕事ッぷりは見事なのものです。いくら主役でも、悪者なんだから、と思いつつ、コミカルで面白いシナリオにみているこちらはついつい主人公に味方して、気持ちも同調してみてしまう。インターポールのバレンタインに追われているユーリーが捕まりそうになると、はらはらし、うまく逃げ切るとやったーとつい応援してしまう。 しかし、ラストでいよいよ捕まってしまったユーリーが上からの圧力で釈放される。ここにいたって武器商人なんて所詮大きな力に使われる子飼いに過ぎない。と監督は語る。 戦争は儲かる。武器を売りさばくことはそれ以外のどんな商売より利ざやがいい。戦争より儲かる商売ができない限り、地球上から戦争がなくなることはないのだ。毎度何度も書いていることだけれど、戦争に頼らずになりたたせることのできる経済システムを作り出さない限り、世界から戦争がなくなることもない。その呪縛は国家すら、解きほぐすことができずにあえいでいるのだから。平和を訴え、国連軍を作りながら、その裏で武器商売をする現実を、じゃあいったいどうすればいいんだろうかと、映画を見終わった時、考えてみてほしい。 映画の冒頭でユーリーが言う、「地球上のすべての人間一人に一丁の銃を売るんだ」という言葉は、実はそれくらいになるまで世界の先進主要国はどこもみんな、平和と国連を言いながら、影で武器を売りさばいて儲け続けていることを、指摘しているわけだ。 ロシア人でありながらアメリカに亡命したユーリーは武器商人となる。タイミングよく、ソ連崩壊のチャンスに自身のロシア語とロシア国内の人脈を使ってかつてのソ連軍の武器をいち早く買い付けることに成功する。ここにいたって、なぜ彼が、ロシア人という設定だったのか納得なのだが。アメリカに住むロシア人とはなんとも皮肉なそして、絶妙な設定だ。 かくて、金持ちになった彼は雲の上の存在だと思っていた憧れの美女を妻にする。 美しい妻のために命がけで仕事をする男。 彼の現実に気づかないフリをして、画家や、女優を目指して自己実現に忙しい妻。 女の自己実現が男の命がけの仕事の上にあるという皮肉さは、なんともはや。 自分の人生を生きようとしながら、所詮夫の手のひらで踊っているに過ぎない女。 妻のために命がけで働き、あるいは妻の望みで武器商売をやめても見る。その夫もまた、国家という大きな力の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。 それは、正義を目指して自分の仕事に忠実に生きるインターポールのバレンタインもまた同じだ。 みんな自分の人生を必死に生きようとしながら、他者に踊らされているに過ぎない。それでも、必死に生きているんだ。 夫の仕事の真実を知って、「やめてほしい」と願う妻が、かつてモデルとして、夫の行く戦場のあらゆるとこに貼られていた彼女のポスターは、彼女もまた、戦争の上がりでその収入を得ていたという皮肉なのだろうか。 戦争の皮肉も、個人の人生の真実の皮肉も、いろんな意味合いで描かれていて、見終わってうーんとうなりつつ、納得する映画です。 そして、普通の人が普通に見て解りやすい。 ニコラス・ケイジ。相変わらず渋い。 ロード・オブ・ウォー@映画生活
2006年09月23日
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優位性と劣等感が交錯する恋。 ベトナムがまだ、ベトナム戦争に突入するはるか前。まだ、フランスの植民地だった時代の物語だ。 まだまだ、のどかでのんびりしていて、そして、汚い。そういうベトナムの風景をたっぷりと堪能することが出来る。アジアはどこも汚い。ホンコンもクーロンも素敵にきたなかったし、サイパンだろーとグアムだろーと、シンガポールだろうと、フィリピンだろーと、魅惑の東南アジアリゾートは、美しいのは豪華ホテルとビーチだけで、空港から移動するとき車外にみえる街中の景色は現代でも、しっかりちゃんと汚い。それは、貧乏なわけじゃなくて、きれいにしようという感覚がないだけの話で、街も家もスペシャルに美しく、整然と整えているヨーロッパといえども、中世まではやっぱり同じように汚くて、ペストに始まる伝染病の蔓延にほとほと懲りた結果のきれいさなのだけど。 だから、アジアの国が汚いのは必ずしも貧乏なせいだけじゃなくて、きれいにしようと思えばちょっとくらい貧乏でも、やり方次第だと思うんだけど、どうも、感覚としてそういうのないんですよね。アジアの国って言うのは。それでもなぜかヨーロッパのようなひどい伝染病がないので未だにそんな風。もっもと最近はインフルエンザだ、サーズだと、騒いでいるので少しは変わっていくのでしょうか。 そういうわけで、画面にでてくるごちゃごちゃーっとした、ベトナムの風景に貧しいんだなとのせられてはいけないんだけど、そんな風景の中に白人の美少女が登場して、なぜに?と思う。 ヒロインの男物の帽子がなんともコケテッシュで、自分の見せ方をよく心得てるなあと思わず関心してしまうのだけど、よく見れば色っぽい靴はすれ切れていて、少しづつ少女の事情が見えてくる。異性に興味ばりばりのお年頃で、しかも好奇心は強いし、これだけの極貧の状況にもかかわらず、フランス人らしく、自信満々なので、あっという間に男がひっかかってくる。 中国人の男の方は、金持ちだし、男前だし、なかなかどうしてと思うんだけど、本人にすれば、仕事はないし、いい年して、父親の言いなりの人生を送っている自分のふがいなさと苛立ちを抱えた彼には、白人でありながら現地のベトナム人の乗り合いバスに悠然と乗っている自意識過剰のフランス娘が魅力的に映ったとしても不思議じゃない。 既に三十代後半なんだから、ちゃんと自分の仕事を持っていれば、こんな小娘鼻にも引っ掛けないというか、目にも留まらなかったと思うんだけど、コンプレックスバリバリの彼には、白人なのに乗り合いバスなんかに乗ってて、それでも毅然としてる彼女はみょーに心にひっかかったらしい。自分にないものを持ってるように見えたんでしょうねえ。 当然程なくして、二人は肉体関係に突入しちゃって、体から始まったはずの関係はどんどん心の中にまで食い込んできて、彼の方は父親の決めた婚約者がいるって言うのに、ヒロインにずぶずぶとのめりこんでいってどうにもならなくなってくる。 十代のみそらで、中国人の愛人なんか作り始めた娘を見て、さすがの母親もコリャいかんということで、本国フランスに帰すことにする。ヒロインの強さがあれば、本気で男と結ばれたいと思えば、こんなのは突っぱねたりできないことはなかっただろうと思うのだけれど、母親の言うなりにフランスに帰る気になるのは、彼女の方はそれほど男にほれ込んでいるわけでもなく、しかも若さゆえの残酷な部分もあって、目の前で自分にほれ込んでどんどんおかしくなっていく男をみながら、結婚後も愛人関係を続ける気も、母親に逆らって、男との関係をつづける気もないみたいである。 二人の恋が周囲から反対されまくるのはまあ、無理もなかろうと言うのは見てれば当然ナンだけど、そして、恋には障害がつき物では有りますが、この恋の場合それがまた、スペシャルです。 白人と中国人、金持ちと貧乏人、そして、年の差。現代社会であれば、たいしたことなさそうだけど、なんせ、植民地下のベトナムですからね。 フランス人にすれば現地の人間なんてとんでもない。というか、白人と東洋人という組み合わせはやっぱり許されないんでしょうねえ。 本来植民地にいる白人てのは金持ちなわけで、基本的には、金持ちの白人と貧乏な現地人という構図。ところが貧乏な白人と金持ちの東洋人。どちらも、優越感と劣等感、を併せ持っていて、足して二で割ればフィフティになるんだからいいジャンというわけにはいかないようで、それぞれの優位な部分と劣等感とが交差して、二人の恋が成立しない見事に絶妙なシチュエーションが出来上がっていて、なかなかどうして、面白くしてくれているんですね。しかも、これが、作家の頭の中で考えた設定じゃなくて、実話、作家マルグリット・デュラスの少女時代の話だって事で更に訴える迫力が倍増しようってものです。 恋愛がお互いのマイナスの部分を取り込むことで成り立つのなら、お互いの優位の部分がその恋を壊すものなのだろうか。 彼が根性無しだったからというより金持ちな中国人だったから、なりたたなかったのか。あるいはフランス人として、その誇りゆえにベトナムの地で東洋人の妻として、あるいは愛人としてありつづける気など毛頭なかったのか。 彼女の強さはその後の作品群や、この後の続編からも、うかがい知ることが出来そうだ。日本で言うと、作家の宇野千代とそっくりですねえ。なんのしがらみにも捕まることなく、自分の思うままに生きる女性作家たちだけれど、おのれの本心だけはどうにも捕まえることも把握することもできず、自分で自分の望むものがなんなのか、わかりえないまま先に進んでしまった結果、自分がついうっかりなくしてしまったものに、後々になって気づくハメになるというのも皮肉な話だなあと思うわけです。恋はやっぱりなかなか思うようにいかないものです。それはどんなに自由な魂をもってしても。 外国映画、洋画恋愛映画この記事を評価するブログルポ投稿中の記事★ 映画『愛人/ラマン』★ 『もののけ姫』★ 『地球幼年期の終わり』★ 映画原作の小説『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年07月09日
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この映画、今話題のジョニデプが主演なのに都内では四箇所しかやってない。いつもの劇場では無理なので、はるばる渋谷まで見に行きました。内容見たら…、いやもう確かにそこらのシネコンじゃ流せないな。無理ないわ。 そしてすごーく混んでました。なにしろ上映館少ないので、どうしても一極集中になるらしい。私は30分前に入ったけど、それでも、既に後ろ半分の席は埋まっていました。そして、帰りにはイマドキめずらしく、整理券そして、行列でしたからね。 しかーし、私、途中で寝てしまいました。映画はよかったのですよ。それでも、五時半起きと、映画が11時からというナイスなタイミングには勝てず。見終わった時、えっとーこの映画は結局どういう話だったんだということになったのも途中で寝ていたせいもあるかも。ネタバレしてますからね。 いやそれにしても、テレビだったら ぴー が入りそうなわいせつな単語がでまくり!もっと過激な映像がでるかと思ったけどそうでもなかった。でも、セリフがね。すごいのよ。汗汗汗なんだわ。 放蕩の末に改心してキリスト教を受け入れて、安らかに最期をむかえる話 いやージョニデプがそんなに単純なはずないですね。 映画の中で最初と最後にロチェスター伯爵(ジョン・ウィルモット)の独白がある。 「私を好きにならないでくれ。」 この言葉が何度となく繰り返される。 この言葉がもつ意味は、はたして、 「私を嫌ってくれ。」 なのか、あるいは 「好きになって欲しい。」 なのか。 ううむ。どっちか。 それでつまり結局、ジョンは寂しくて寂しくて、心の空白を埋めるすべをどうにももてない。ま、男ってみんなこんな風に甘ったれだけどさ。 金持ちの奥さんを持たざるを得なかったということは、つまり、彼自身の資産はたいしてないのか。作中奥さんの母親はでてくるけれど、彼の両親は出てこない。ジョンは幼いうちに両親を亡くした貧乏貴族なのか 親の愛を充分に受けずに育った子供というのは、異性との性交渉に走りやすいのだそうだ。たぶん、愛情不足という心の空白を埋めるために。 そしてジョンもまた、異性との、さらに同姓とまで、はてしなく性交渉の日々をくりかえす。 優れた才能を持ち国王をはじめとする数々の人に愛されながら、彼の心は寂しくて寂しくて、どうしようもないのだろうか。正しく彼を愛する妻の愛すら彼の心には届かない。 昔読んだ女性作家のエッセイにあったのですが、人間というものには、「シシジー」と「愛情乞食」(いやこの表現ちょっとあんまりですね)という二種類のタイプがいるんだそうだ。 「シシジー」というのはわりと一人でいるのが平気で、というよりも感度が高いから、人が発する生命的なパワーというか、エネルギーなるものを敏感に感じ取ってしまうために、多くの人とかかわったり、長時間接していることに苦痛を感じてしまうタイプの人間なのである。だから、ある程度一人で過ごす時間がないと精神的にもたない。詩人のキーツが多分このタイプなんだろうと思う。 それで、「愛情乞食」というのは、感度が悪い。たくさんの人と長時間かかわっても、どんなに愛情を示されても、上手く相手のパワーを感じ取れない。だから寂しくてしょうがない。いつもいつも友達や恋人を求めてかかわっていないと精神的にもたないのだ。 つまり、ジョンは「愛情乞食」タイプ。たくさんの恋人との逢瀬を交わしながら、どうにもこうにも寂しくてしょうがない。あんまり苦しいから本人もいろいろやってみるのだが、やっぱりどうにもこうにも心の空白は埋まらない。普通の人たちならどちらかの気質をもちつつ、適当にごまかしながら生きているものなのですけれど。 さて、そんなある日、彼は演技のド下手な女優エリザベス・バリーを見つける。自分の技量でなんとかこの女優を仕込んで売れるようにしようと画策する。ところがこの女優さん、下手なくせにやたらプライドが高い。「たとえ、仕込んでもらっても、ジョンのおかげだなんて世間に言われたくない。」と威勢のいいこと。「私は女優になりたいの、名声と栄誉を自分の手で勝ち取りたいの」と大見得を切ってくれる。 しかし、この女優さん、大見得切るだけあって根性はぴか一。ジョンのしごきに耐えて、見事大女優になって見せるそして、自分の欲しい物を手に入れて大満足なわけで、自分に満足してるんだから、他人に自分の寂しさを埋めてもらおうなんて発想は全然ない。当然自分の恩人兼愛人であるジョンといえども、飽きたらさっさと「さよなら」というわけで、いやその強いこと。 ジヨンはそのスペシャルな美貌と才能で、本人の努力無しの状態で他人からの愛情も、詩人としての成功も簡単に手にいれちゃったのだから、まして、達成感なんかない。下手くそだったエリザベスが血のにじむような努力で手に入れた栄光と達成感をジョンは得られない。 心の満足は自分自身の努力によって見つけ、そして手にいれるものなんだ。そうして初めて、達成感や、心の空白や寂しさを埋めることが出来るのであって、どんなに他人に求めても、えられるものではない。他人がくれるものではないのだということを、ジョンは自らが育て、鍛え、愛したエリザベスからやっと学び取ることが出来たのでしょうか。 いや、このあたり山岸涼子の『アラベスク』思い出しちゃいまして。主人公ノンナのライバルの天才バレリーナ(名前わすれたよ)がさっさとバレェを止めちゃって女優になっちゃうのよね。簡単に手に入れたものにはありがたみがないってことか。 それから。テレビを見ていたら、中村うさぎと見城美恵子の対談やってまして。中村ウサギは買い物依存症からはじまりホストへのめりこみ、さらにはデリヘル嬢にまでなってその経験を作品にしている話題の人ですが、「ああ、この人もリバティーンなんだな。自分では自分がなんでこんなことしてるのか、わからないんだろうな」と思って見てました。きっちりと自分を確立して、なんの迷いもなく正しく人生を生きている見城美恵子には、中村ウサギの心の裏はわからないんだろうな。 ところで作品中かなり肝心なところなんだけど、梅毒になった後のジョンが国王の会議で演説するシーン。ちょっとうっかりうわの空で見ていたら、ジョンがどんな演説したのか、聴きそびれちゃって、うーん、やっぱりこの映画の真意を読み取りそびれてるに違いない。これはもうDVDになったらもう一度見るしかありません。ああ、馬鹿だ。
2006年04月21日
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